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連投規制で書けなくなった人あつまれー ★10
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前スレ
連投規制で書けなくなった人あつまれー ★9
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12252/1414916254/
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全鯖移動らしい。
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>>172
だいぶ復帰してきた。
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連投規制だ。
ホームズも女性関係いっさいないからね。
それが逆に女性に人気。
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最近なんか知らんが長い文章が書けん。というか長い会話文が書けんというか。このすれでもなんかかねえとと強迫観念化するんだが、でもやっぱりかけねえと。
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>>178
書きたい時書けばいいだなや。
以下ひとりごと。
フラッシュバックを長引かせているだけ人生が真面目に減って行くなと思う数ヶ月であった。
薬増えてから疼痛減ってフラバのほうに意識が行くだけかな。
太腿が痩せて脂肪が余るという悪循環的痩せ方してきてるから、
食べやすいもの作って食べねばならねば。
ここ数年年末年始はいつもなんか具合悪くなるんだけどな。
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>>177
けっこうワトスン君は惚れたはれたをやっている気がしなくもない。
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>>177
ワトソンが女性になってる洋ドラあるぞ
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チャーリーズ・エンジェルのアジア人がワトソンやってた
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ちょっとそれ見てみたいかも。
エンジェルの中ではあの人好きだったなー。
(姉に見せられた)
(最近?の映画のやつ)
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運動不足と栄養不足を多少解消するために夜ご飯ファミレス行ってこようかな。
なんか最近音がダメ度が上がり切っていて、ファミレス長居できなくて疲れるようになったけども。
喫茶店もチェーンのところは長居できない。
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ttp://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/102960/
こんな感じ
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最近のホームズものはワトソンが狂言回しであるということが忘れられてる気がする
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言われて最近はバディものになってると言えるのかな、と思った。
ジェレミー・ブレットのをまた見たいなと思っている。
BSを見るには(CSでもいいのかもだけど)一番近道はなんだろうな。
素直にWOWOW入るのがいいのかな。
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ほぅわー、地震多いなあ。
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急に無理しないでお弁当買って帰ってくるくらいでいい気がしてきた。
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ありものを食した。
冷蔵庫をすぐ閉めなければという強迫観念をどければ中身がまだあるってわかるのね。
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うどんもカップラーメンもパンも冷凍したご飯も鶏肉もあるのに食べられない。
でもやりはじめてしまえばできないこともない。
ご飯の写真とか壁に貼っておけば良いのかな。
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私の日記になっとる(笑)
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私にとって、知覚は世界を支えるものだった。
知覚が私を補強することはなく、遠く、曖昧で、整理のつかない混沌とした「私」を知覚は生む。生みつづける。
世界を問うことができるほどに、自明性を持っている人。
きっと私はそうではない。
尋ねることができたのは6歳になった次の月まで。
あとはもうなにも、自分でできるようにはコントロールのできない世界で、
命令だけを正しいと思って
たとえ正しくないと思っても、それにこだわることが誰にとっても迷惑と知って。
ただ読まれるように生きてきた。
私の言葉はなかった。
神様も世界も目覚めも別の世界も
眠りも、死も
私を救わないことを私は知っている。
終わりを願うことはない。
終わらせるのは自分だから。
そしてその権限は今のところ時間に預けてあるのだから。
楽に死ねると思うな。
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死に意味を持たせる死に方などしてたまるか。
ピリオドの打ち方ですべてが変わってしまう。
死は死でしかなく、断絶であり、結などではないにも関わらず、
読まれるのは死からの逆算の物語。
それに意味はない。
そのような読み方に意味はない。
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それはその人が生きて与えることのできたもののなかのたった一つだけを刻みつけて、失われたということだけを深く刻んでいく。
恐怖ゆえに死んだとして。
それを必然と思うことで失われることがある。
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私にとっては、自殺は間違いではないが、私がすることにおいては失敗でしかない。
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納得などできない。、
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ねむる。
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起きた。
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雑談スレの流れになんかなごんだ。
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年末はさすがに静かじゃの。
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あけおめ。
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さて
今日は小笠原さんが言う「ヒステリーの言説における他者の座にあるS1は「不能の父」だ」って奴を見ていこう
これはだな、まあ小笠原さんが答え言ってるんだが、主人の言説がオイディプスだってことなんだな
ではオイディプスがどうやって成立するのか見ていけばよい
乳児はまず母との二人きりの関係の中で育つ
乳児はまず「自分は何を欲望しているのか」ではなく「母は何を欲望しているのか」を考える
母が欲望しているのがわかれば、それが自分にあれば母は自分を欲望する
ここで王道の精神分析ならペニスというイメージが出てくるわけだな
「母が欲望しているのはペニスである。であれば自分にペニスがあれば母は自分を欲望する」
このペニスは実際のペニスでなくていい、xと変数で書いてもいいぐらいのものだ、日本語なら「何か」でいい
ただ後述のラカン理論と辻褄を合わせるためにペニスとしただけ、先に言っとくと−φな、小文字のファルスだからペニスとほぼ同義
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女児ならそこで「何か」はペニスじゃなかったりするだろう
ここでフロイトは陰核手淫とか思いついたわけだが、確かに乳児期は男女とも自分の性器をいじることがあるし一概にどうとは言えんが、
フロイトがそれを観察したのは4歳児とかで、そののちのクライン理論の部分欲動とかを考えるとこの時期の母子二人きりの関係は乳児期のもの、
つまり生後1−2年のものだから、科学的な実証とは言えない、生後1−2年の乳児が性器いじりするのなんて見られない
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というわけでここでは「母が欲望しているもの」「自分がそれに同一化すれば母は自分を欲望してくれるもの」は「何か」にしとく
それがペニスだってのは伝統的な精神分析理論へのちょっとした気遣いみたいなもん、ぐらいでよい
先人の分析家たちがいじりまわしてきた理論との接続のためにそうしている記号にすぎないと
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で、乳児なんてエスパーとかじゃないわけだから、「母が欲望している何か」なんてわかるわけないんだな
だから「何か」と同一化しても失敗しまくる
それこそこれは自閉症者が大人になっても他人とコミュニケーションがうまくいかないことと同じ
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またうまくいっても、それは自分が欲望したことではないわけだから、自分の欲望(この時期なら部分欲動、前性器的リビドー)が満足するわけでもない
小学生ぐらいになると「親が望む理想の子ども像」に気付いて、自分がそれに近づこうと努力しても、自分の欲望が満たされないのと同じ
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言い換えれば、乳児のこの「母は何を欲望しているのか」「母が欲望している何かになれば自分を欲望してくれる」というのは、最初から失敗するのが目に見えてる戦略なわけだ
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最初から失敗するのが決まってる戦略だから、ラカンはそれをマイナスのつけた小文字のファルス、−φとしたわけだな
自分の欲望が満たされないのに自分の欲望が満たされるものと勘違いしてやる戦略だから、彼らのその戦略は、自らを「不安で危険でおそろしい世界」に導く
自分で自分の首しめてるわけだ、人間って生き物は乳児の時から
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で、こういった−φという、「勘違いした戦略」によって導かれた「不安で危険でおそろしい世界」から、子供は逃れようとする
そもそも自分が間違った戦略を取ったからなわけだが乳児にそんな思考能力はない
大人になってもないのが人間という生き物だが
だから、「勘違いした戦略」による結果を是正するために、新たな戦略を取る
第二次世界大戦終戦間近のドイツみたいなものだ、間違った戦略によって導かれた望まぬ結果を自転車操業的に是正しようとして深みにはまった
日本も同じようなものだな
まそれはおいといて
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乳児の取る「新たな戦略」「間違った戦略によって導かれた望まぬ結果を自転車操業的に是正しようとしてはまる深み」とは、父と大文字のファルスΦだ
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乳児は、「間違った戦略によって導かれた望まぬ結果」から逃れようとする
そこにおいて、乳児は「父」を発見する
これはぶっちゃけ「父」でなくていい
的確に表現するなら「第三者」である
乳児は「第三者」の「欲望するものは何か」を考えることによって、そこの世界から脱出できたと思う
そりゃそうだ、別の人間の「欲望する何か」は、これまで自分が同一化しようとしていた「何か」とは別物なわけだから、
違う「何か」になろうとするわけで、であれば「こんなに不安で危険でおそろしい世界」から逃れるだろう、と考えるわけだ
こうやって、乳児は象徴界に参入する
以下はわたしの推論だが、この時期をラカンは生後15ヶ月までとしたわけだが、この時期に乳児は脳の言語的領野を活動させるのだと思う
たまたま脳の活動しはじめる時期と、乳児が頭の中で描いていた物語のある局面が、発達過程的に重なっているから、「父の登場」が「象徴界の参入」になる、と
この「たまたま時期的に重なること」を逸したのが発達障害だとわたしは考えている
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>たまたま脳の活動しはじめる時期
たまたま脳のある領野が活動しはじめる時期、だな
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で、ここで登場したΦとは「ペニスを持つ人間の象徴的な証」だったりするわけだ
わたしは簡単に「男という登録」と言うが、象徴界への参入なので「登録」と書く
Φ=男という登録、でよい
女の場合はここで男という登録はなされない
だからと言って女という登録もされないが
時期が遅れるんだな、女の場合
つまり脳の言語的領野が活動しはじめる時期と、「性別の登録」がずれてしまっているわけだ
そういった意味で女性はなべて発達障害だとも言える
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女が「女という登録」をされるのは、もう少しあとなんだな
では女はΦが得られない、となるわけだが、女児でも「第三者」たる「父」は登場している
しかし、それは男児のようにΦ「男という登録」をしてくれる「父」ではない
そこでの父は、母子の二人きりの性的関係である−φから救い出してくれる「第三者」にすぎない
性的関係である−φから救い出す存在なのだから、女児にとっての「第三者」「父」とは不能者となる
そういうことかな、と
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むしろ、男児の方が、「父−Φ」という特殊な幻想の関係を築くことによって、「父は不能者ではなく、原父のようにすべての女性と性行為していた存在だ」となる
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bb帰省でおみくじが引けない不満……
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酒を飲みすぎて目がさえて眠れない不満……
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惜しいな。コンマ4
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6じゃないか。
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5時だから寝てみる。
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眠れずあちこちかゆいので起きて導入剤プラスして飲み、祖母がくれた黒飴舐めてみたらのど飴だった……
甘いのど飴……よくある……か……
昨日もたいして寝ていないのに、今日もか。
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あれ、眠くなってきたかな。
かじって飲んだからあんまいけないのね。
酔ってはいるのか、ワーッと叫びたくなる苛々や焦燥感が出て足蹴り出したくなってじっと眠れない。
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また寝てみる。
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違う違う違う、とかなにが違うのかわからないが(あと喉から声を出さずに唸っている)口走ったしているので、たぶん
のあとを忘れたからねむるだな。
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せっかく新年なのになどと口走って、今度は「これとじ「どこにいっち
こわいわよ、とちつえつむた。
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かゆうまおはよう。
やばい人の書き込みがなんか上にあった。
ねむい。
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どのかきこよ。
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>>228
いや自分の書き込みのことです……
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自分のカキコを後で読み返してみて、痛々しく感じることは多々あるよなあ……
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記憶が善の根拠という本を上げてたんだが、そこのamazonレビューでこんなんがあったお。
ミニハンはどう思うかね。
この世界には実体や本質は存在せず、すべては「無常」であり、「自我」さえも本当は存在せず(=「無我」)、「因果律」も幻想であると考える仏教は、倫理や善/悪をどのように捉えるのか? アリストテレスの『ニコマコス倫理学』であれば、人間という実体の可能態/現実態として善を捉えるのだが、「無常」の立場からはそれはできない。著者の立場はアリストテレスの対極にあるが、しかし西洋哲学を専攻する評者の目からすると、意外にも、カント、キルケゴール、ラカンなど西洋近代の思考に近いように感じられた。著者は、それ自体が「無根拠で」矛盾したものである「自己という存在様式」から出発する。著者によれば、「他者に課せられている自己、矛盾と困難に満ちた自己という存在様式を引き受ける」のが善であり、それを拒否するのが悪である。ここで「他者に課せられている」という点が重要で、私は自分が望んでこの世に生まれてきたのではなく、親たちが勝手に作ったものであり、また乳児期より、言語や規範を親や共同体から叩き込まれ、「自己」という存在そのものが最初から他者によって言語化・構造化されている。これは、ラカンの「大文字の他者」「象徴界」「鏡像としての小文字の私」などを思い浮かべると、よく分かる考え方であり、奇妙なものではない。「嘘をつく」ことが悪であるのは、言語化・構造化されている「自己」という存在様式を破壊するからであり、これはカントの「定言命法」と非常に近い。
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ミニハン的には「善」とかどうよ。
「全ては許されている!(キリッ」的なあれには批判的なんじゃねえのか。
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御坊のブログ(本人が書いた物を編集したものらしいが)
ttp://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/523255a085e20ad6f0dee1683db43634
「ありのまま」批判。
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連投規制だ。
なにわっこ娘だった。
それはそうと、オウム真理教のことは全然知らないが、
いちおう、原始仏典を根拠にした前世来世を肯定する宗教だったらしい。
まあ、中村元が原始仏典を翻訳した影響でできた新興宗教というのが正しいのだろうな。
でも、普通なら、宙に浮かねえか。宙に浮いてる時点で、だます気確実だな。
やっぱ、有罪だな、オウムも大川隆法も。
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>>231
「自己」という存在そのものが最初から他者によって言語化・構造化されている。
これは、ラカンの「大文字の他者」「象徴界」「鏡像としての小文字の私」などを思い浮かべると、よく分かる考え方であり、
このへんそうだよねと思った
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>>234
中村元も輪廻ってえのは生死すら空であるってことを凡夫に説明するための方便って書いてるのになあ
だから前世来世とかは方便
チベット仏教とかアウト
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>「自己」という存在そのものが最初から他者によって言語化・構造化されている。
ここは微妙
無意識の構造としての言語は、むしろ「自己」という存在が仮象であることを示すためにある
非無意識の言語ならこの文章でよいが
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自己は他者であるというalienationという理屈と、無意識の構造としての言語をごっちゃにしてるな、そいつは
他者によって定立される自己という存在は、無意識の構造としての言語(隠喩や換喩)によって解体されうる、とするのがラカン理論
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これもあれだ、大文字の他者ってえのは、小笠原さんの理論だと、象徴界に空いた穴がイコール大文字の他者なんだが、
一般的なラカン解釈は、象徴界の穴が空いてない部分イコール大文字の他者になる
だから話がまったく逆になったりする
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象徴界に空いた穴だから、定立された自己をぶち壊すのが大文字の他者だったりする、小笠原理論だと
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で現代精神医学心理療法は自己の定立を手放しで「善」としているから、わたしは「悪魔に取り憑かれて死んでくれ」と言うわけだ
「善」なんてのも言葉にすぎん
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別に誰が何を善としてもいんじゃね
人それぞれで
わたしが心理療法の逆のことを善と言うもよし、心理士が心理療法がなすことを善とするのもよし
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垢かえた
rarara000な
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五年前か、結構前からあるな。
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ミニハンの言うのでalienationってのはいまいちよく理解できないな。
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自己って存在も空である
なのに人は自己は空じゃないと思うわけだ
それがalienation
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ブレイキング・バッドはしみじみパート2までだな
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>>244
つい垢か
ネトゲのキャンペーン応募用に作った
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説明を試みてみるか
たとえば、わたしがいつも言う具体例、ホステスの例を考えよう
ホステスは店で源氏名で呼ばれている自己があるわけだな
客たちに愛される自己
ところが化粧を落としてアパートでジャージで足の爪を切ってる「私」を、客たちは愛さないだろう
源氏名で呼ばれる「私」は、客や店などという他者の関係の中にあるものだ
だから自己とは他者であるというのがalienationだと言ったわけだな
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なるほど、「あなたの気持ちは(痛いほど)分かる」とか「気持ちが通じ合えてる」とか言うあれか。
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>>250
はミニハンの昔のカキコヺ参考にした。
98 :名無しさん:2014/08/31(日) 13:58:26
まあこうやって自分が考えていることを他人が考えていることにするのが、男女問わず大体の人間に共通する(もちろん例外はいる、自閉症とか)狂気なわけだ
これがalienationって奴
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カキコを、だわ。機種依存文字が出た。
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>>250
うん
そういうのって「自己」があってするものだと思われているが、
そういった心理によって自己が定立する、という発想
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ちなみに、南直哉の「善の根拠」は、
自己の他に他者を想定できて初めて善悪が生まれるとしている、
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>>254
>>231とまったく違った話になってるのがおもしろいが原本を読み直す気にもならない
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>>237
ここら辺昨日は頭に入らなかった。
今日はワインオンリーだからかな。
私はさー
「自分は何かに作られた」という意識自体を持ちにくいんだ。
反語的には持つこともあるだろうけれど。
逆に言えば反語的じゃない意味で自分が自分を作ったと言うことも、できない。
私にとっては世界も自分もバラバラで不定形なものなんだよな。
ただこの自覚もいつ生まれたものかわからない。
子どもの頃は自分を人間だと信じてもらえない人間だと思っていたので喜怒哀楽はもう少し素直だっただろうし、他者に教えられた世界観を真実だとしか思っていなかった。
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だから言葉さえも、信奉するような重みを置くこと、言葉ならばそれが可能であるような幻想世界を信じられないのかもしれない。
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喋り言葉での演技が達者ではなかったからだとも言える。
脳みその問題を抱えてる人間の緊張がイコール何かを処理することができない(フリーズ)、したくないとかの意識すらなくなるほど、とは誰も思わないからね。
しかしなぜ「喋り言葉での演技」と思ったんだろう。
書き言葉ならば少しはましだったが、小学校ですでに先生という存在は信用していなかったし、書かされる感想文をまともに書けたことはないので、書き言葉ですら、
友人との手紙のなかではまだマシだった程度で、観念的と観察されるほどには直接的な言葉の論理を持ってはいなかった。
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そういう意味で私の言葉が反語を突き詰めて行くことでしか出来ていないという意味では、私の言葉も作られたものだと言えようね、ただ誰かの一定の意志などこの世には存在しない。
意志よりもなにかを「続行」するために意志しないことのほうがはるかに存在を持続しやすい。
言葉の美しさなど歴史でしかないのに、美文調の小説を懐かしむために努力を買う。
よくこなれた言葉や中身のない風体をしている言葉を文学と言う人はとりあえずいなさそうでしょう。
私は私の世界を自分にさえも規定されることができない。
そしてそれに憧れることもできないししたことがない。
するとしたならばそれは、楽になりたい時なのだろうね私の場合は。
惜しんでいる暇もない。
特別さを誰かに与えるたびに、それは信仰になり、安心になり、鋳型になる。
でもそれは同好の士を探す向きには活用できる装いなのだと思う。
ああ、つまりこの世への失望を語る言葉を、持つ人は、まだ人間を探せる人なのかなと、そのような偏見を持っているのだろうか。
彼らがそのように生きることで「希望」と「希望」でもいいし「絶望」と「絶望」でもいいのだけれど、型が一致して幸いになるのが「社会」ならば、その態度は間違ってはいない。
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私は詩人だねって、最近友人に書かれて、そのように言われることがいくらかあったことを思い出す。
私は詩誌も詩の棚も「人の言葉」すぎて自分の形があわなくて、あまりたくさん読むことができない。
子ども時代に流行った詩はポエムと呼ばれるものだった。つまりは80年代的な「乙女ちっく」なやつ。
だから私は(友人は本を読む人なので精確に捉えて言ってくれているのがわかるのだが)詩人だと言われることは相手からの距離の表明だと思っていた。
(つまり手紙などの前置きに、詳しいことはよく分かりませんが、と書くような感じでスルーされているような気分)
詩のような言葉を紡ぐことは言うなれば片言の言葉なのだけれど、そのようなものを愛するがゆえに気障な表現をすることができるだけの幸福さを有した人間としての私。
という断絶、クレバスをいつも他者との間に持っていた。
直裁に喋らなくなってからあまりそのように見られることもなくなったが。
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外国人がカタコトを喋っていると子ども扱いされる。
その人が母国語ではどんなにとうとうと話すことができるとしても。
国の言葉をカタコトでもわざわざ勉強して話してくれる人を、たいがいの国の人は幼児の喋り言葉に似ているという感覚で反応して軽く見ることで相手のキャラクターや関係性を作ってしまう。
(通訳などがいる場ではまた違うけれど)
眠くなってきてしまったな。
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言葉のなかに閉じ込められるという感覚ならば少しわかる気がする。
喋り言葉に似つかわしくない「書かれた言葉」で話すがゆえに私の言葉はどこかしら浮き上がり、演技や嘘っぽい、あるいは宗教的な(聖書の言葉のように)怪しさを持つことになる。
宮崎駿の「風立ちぬ」の主役が子ども時代に話していた言葉は書き言葉なんだよね。
よく知りはしないけど、上流の家庭の子どもはそのように話さなければならなかったというような話を含む批評を読んだのかな。
今読みかけで家においてある小説で古本が好きな少女が出てくるのだが、彼女が話そうとする瞬間に頭の中の語彙が多すぎて、けれどそれは現代の話し言葉とは限らないために、するすると話をすることができずに無口で囁くように話すのだが。
眠くなってきた。
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人間なんて乱丁や落丁だらけの本で、表紙も裏表紙も傷んでとうにどこかへ紛失している。
読んだところでなにが書いてあるかなんて他人には意味もないことだ。
それを書きつけた者、あるいはその人を継時的によく知る人で、その人のことを知ろうとした人がいない限りは、それはただの焚き火のための燃料としての紙としての意味しかない。
私にとっての奇跡は、言祝ぐことができるとしても私以外の人に取り特別なものでもなにもない。
眠い。
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言葉だからこそそこに人は「私」あるいはその言葉に似た言葉を話していた人の思い出という「私」を読むことができる。
それはその書かれた誰かが物語であるからではない。
読まれれば起動するプログラムのように誰かのなかにその著者が生きることはできない。
それを生きるとは私は言わない。
書かれたものの価値と読まれるものの価値は別々のところにある。
眠い。
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読まれる楽しさを楽しみに、自分ではない自分が生起して行くことを夢としたならば、
もしそのカラクリで齟齬を来たさない人であったのならば、
アイドルにもなれる。
だめだ寝るなー。
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解体しなきゃだめなんだ。
求めても貶してもその価値をつけるだけの話で。
こんな傷では病気にもなれない、という螢の歌が頭に浮かんだが、
ただそれは「こんな傷」が「病気」になれないものだからといって、「こんな」傷なのかどうかは別の話だ。
病気にならなければならないために傷がなにではならないと規定されることはおかしな話だ。
他人の受けたどんな傷を受けていなくても、身体に傷害や傷跡が残らなくても、それが病気と言われることがどうしてもなくても、
病気と認められるような苦しみを人生の中から探してくることと、自分の人生を自分を視点として整理して再度、認められなかった苦しみを主張することとは別のことだ。
自分の人生や成果に答えを探してはだめだ。
そのように刈り込んだ「私」が実感を支えてくれる物語の時代はとうにすぎてしまったのだから。
答えもまた過ぎてゆく。
それは自然のことで、価値を測る目安などではない。
病気は認められるためにあるものではない。
認められることは治療手段でしかない。
それもそもそも「治療」を望むことを続けることで起こることにその人がまだ余地を望むのならである。
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誰かとあなたは探すという姿勢だけが同じだったのだろうか。
その対象も同じだったのだろうか。
全く同じとはならなかっただろう。
眠い。
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好奇心という言葉さえ、もうほとんど、良い意味を失ってしまったんだろうか。
定義さえ取り払えば、
厳密なさがしものをしている人間は山ほどいる。
そのことを他人と分かち合うかどうかは別として。
そしておそらくなにかや誰かを、それだと思うことができた人も山ほどいる。
かき分けてもかき分けても。
でもこの言葉のようにはそれは外から見分けがついたりはしない。
なぜなら自分の持つものを持たない人への失望も、自分の持たないものを持つものへの失望も、相手がそれをどう思っているかを待つことはない。
たやすく失望するのが生命の勢いのよいものの特権だとしても。
同じ問いをする者は少なかろう。
たやすくそれは思春期の引きずりやモラトリアムと呼ばれるだろう。
近くにいる同年齢の他人たちがサナギから出てしまえば、
その圧力は少しだけ緩くなる。
その時にも問うことはたやすいだろうか。
眠い。
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(ほぼ独り言です。眠い。)
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>>259
一応おがさわらさんの文脈での信仰とは別。
ファン心理かな。
自我理想と理想自我がわかればどっちかのことなんだろうけど。
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自分をとりあえず「私」とすることで生き延びようとした私の判断はまだマシだったのだろうか。
今の時代の若い人が置かれた世界の「私」という言葉に仕組まれた爆弾の複雑さから比べれば。
幼いことが付加価値として尊ばれることが、生の断絶が断絶であるという理由だけで(それはエネルギーがあるからだ)、短すぎる急勾配の物語として死から逆照射される論理が、思索する人に結実として結ばれる隘路は、これだけは誰かが作ったものなのだと私は言おう。
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頭が使えなくなってきたので(普段からだけど)寝よう。
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alienationの説明の続き
>>203-213の説明にもalienationはある
まず一つ目が、「母親の欲望する何かに同一化する」こと
もう一つが、「母とは別の第三者(父)が登場し、それが言語領野の活動開始とたまたま時期を同じにする」こと
前者がいわば「特殊alienation」後者が「一般alienation」だ
イメージ的なalienationと象徴的なalienation
alienationが異状だと気付くには、両者からこぼれ落ちてなくてはならない
母との二者関係からこぼれ落ちた私と、オイディプスからこぼれ落ちた私
かたっぽだけだと人間はもうかたっぽの様態で「こぼれ落ちない」ようにするからな
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マグナ向けにいうなら、おそらくマグナが理解しているのが特殊alienation=イマジネールなalienationで、
マグナがファザコンとか言ってるのが一般alienation=象徴的なalienation
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