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ウィトゲンシュタイン『哲学探究』読書会
117
:
久保共生
:2024/04/04(木) 00:45:09
>>116
野口さんは、なんらかのものXについて、それが「Aである∧Aでない」という命題が量子力学では真になりうると仰っていましたが、それは量子論理でも真にはならないでしょう。
矛盾律を認めないのはさすがにヤバいですよ。
そもそも僕は、量子力学によって数学の公理系に根本的な見直しが必要になったなどという話はこれまで聞いたことがないのですが、そんなことはあるのでしょうか?(多分ないと思います。)
尤も、量子論理などを持ち出さなくても、新しい数学のために公理がアップデートされることは普通にあります。
例えば、非ユークリッド幾何では、ユークリッド幾何の5つ目の公理(平行線に関する公理)を満たさないものとして扱ったりします。
けれども、このような話と、89節の話とはかなりズレていると思います。
以下のように考えるのはどうでしょうか?
公理とは有意味な言語の使用のために、当然満たしておかなければならない規則として提示されたものですが、それゆえにその証明は不可能です。
けれども我々はそれが正しい、あるいは間違いと判断するからこそ、それを公理として採用したり、しなかったりするわけです。
では、その妥当性を決定するための指針とは一体何なのか。
思うに、これこそが「論理」と呼ぶべきものであり、ムラタさんが仰るように、
>もっと手前にある、語られる以前にあるもの
ということになるのではないでしょうか。
公理自体は、様々な語りの様式の中でアップデートされうるとしても、そのアップデートは決して恣意的に行われるのではなく、何かしらの妥当性に基づいて行われるわけです。
ここにこそ、論理についての考察が、「あらゆる事物の本質」の探究に通ずると考える理由があるのだと思います。
端的にまとめれば、「論理とは公理に妥当性を与えるための指針」、といったところでしょうか。
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