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2019.4.29『意志と表象としての世界』
1
:
火雨
:2019/03/08(金) 20:11:08
ショーペンハウアーの主著である『意志と表象としての世界』について紹介、考察していきます。
今回使うのは中央公論社の『世界の名著45ショーペンハウアー』(西尾幹二:責任編集)に入ってる版です。
ほぼ同じものが現在は中公クラシックス版(全3巻)で出ていますので、そちらを参照しても大丈夫です。
ただ、内容量が膨大であり、全編分を進みきることができないかもしれません(その時は続きを後日やる予定です)。
全4章(巻)のうち、第1章はカントの解説が多くてかなり読むのがしんどいので、第2章から読むのをオススメします。
41
:
火雨
:2019/05/30(木) 18:40:38
ショーペンハウアーが芸術で慰められてたのは事実だと思います。この世の表象よりも「あの世」的なものに重きを置いてるのも慰みの1つかもしれません。彼にとって慰みとは、非現実への撤退になってるように思います。
(多くのニヒリストにこの嗜好性が見られます。僕のイメージでは川端康成など。)
ショーペンハウアーのこの世にいない者かのような佇まいは、ニーチェには我慢できなかったと思いますよ。
なぜ自殺しなかったかといえば理由は1つだと思います。
すでに「あの世」にいたからではないかと。
42
:
則天去私
:2019/05/31(金) 06:49:16
ミットライトは消極的な愛で、気遣いに通じる側面があり、連帯を基礎付けるそうです。ニーチェは個人主義を基礎付けるところがああるらしく、両者を上手く合体させると、個人主義的連帯思想が出てくるような気がします。
43
:
火雨
:2019/05/31(金) 11:55:42
連帯の問題は、以前同好会でカミュを発表した時にいろいろ考えたのですが、「病める」人にとってはミットライトも個人主義も可能性としてはなり得るとおもいますが、「健全な」人にはそんなのどちらも必要じゃないと思うんですよね。
ミットライトだけのコミュニティとか、個人主義の群れ、みたいなのはタコツボみたいなもんで、「病」であることに変わりがないような気がします。
これは完全に僕の主観ですが、ミットライトと個人主義の融合みたいなのも幻想だと思いますね。
二項対立からは離れた脱構築の必要があると思います。
44
:
則天去私
:2019/06/03(月) 20:56:53
ウィトゲンシュタインが自殺のことを頻繁に考えたのは、ひとつには家庭環境や第一次大戦のこともあるのでしょうが、他方では、ショーペンハウアーの影響もあるように思います。
45
:
則天去私
:2019/06/03(月) 20:57:42
ウィトゲンシュタインが自殺のことを頻繁に考えたのは、ひとつには家庭環境や第一次大戦のこともあるのでしょうが、他方では、ショーペンハウアーの影響もあるように思います。
46
:
ウラサキ
:2019/06/03(月) 21:27:23
いや、自殺って、先天的なモノがあるんだよ。
ウィトも兄二人が自殺してるけど、彼らが皆ショーペンハウエル読んだとは考えづらい。
47
:
ウラサキ
:2019/06/03(月) 21:28:08
いや、自殺って、先天的なモノがあるんだよ。
ウィトも兄二人が自殺してるけど、彼らが皆ショーペンハウエル読んだとは考えづらい。
48
:
則天去私
:2019/06/04(火) 18:32:01
火雨さんの発言を拾ってみると、「病める魂」と「健全な心」は、同一個人に同居するのか、2種類のタイプの人間がいるのかよくわからないところがあります。僕自身の解釈では連続体で、境界線ははっきりしないと思います。
49
:
火雨
:2019/06/05(水) 13:32:03
自殺については僕もウラサキさんのいう通りだと思います。大人になってから自殺衝動が出る作家の多くが幼い頃から予め苦渋を味わう心情を抱きがちなのは多いです(ヘルマンヘッセ、三島由紀夫などが思い浮かびます)。
「病」と「健全」さは同一個人に同居すると思います。もちろんしない人もいるでしょうが。。
ただし、個人主義とミットライト主義は同一個人にはないと思います。なぜならその2つはこの文脈だと生活(行動)様式であるため同時に発現はしないと思います。
同一個人の中には「病」と「健全」さがある一方、それが出現するのは個人主義かミットライト主義か、他の何か、のどれか一つだと思います。
もちろん躁鬱病みたいにある時期は個人主義、ある時期はミットライト主義、みたいな現れ方はあるとは思いますが、それは同時に発現してるわけではないです。
則天去私さんの言う連続体とは、個人の中では連続体、と言う意味でしょうか?それとも誰かと誰かを比べた時にはっきり分けられない、と言う意味でしょうか?
50
:
則天去私
:2019/06/05(水) 18:29:27
例えば僕は発達障害なのですが、誰かと誰かを比べたときに、健常者と障害者が連続していて、どこまでが健常者で、どこまでが障害者なのか、境界線がとても曖昧なのだそうで、そんなイメージです。
51
:
則天去私
:2019/06/08(土) 18:42:05
ブーバーは、『我と汝』の中で、かなりブッダを意識しているので、仏教の影響は大きいと思う。ショーペンハウアーは、インド哲学のどこに影響を受けているかわからないが、もし仏教の影響を受けていたら、ブーバーと共通するものがあるかもしれない。
52
:
火雨
:2019/06/10(月) 12:22:52
境界線があいまい、スペクトラムというやつですよね。
「病」と「健全」さのバランスはスペクトラムになり得ると思います。
ショーペンハウアーだったら意志にあたるものだと思います。
意志にはスペクトラム性があると思います。逆に表象には少ないと思います。
ただ、発達障害で言うスペクトラムは、表象なのにスペクトラムと呼んでますよね。そこは僕もあまり整理できてませんが、結構大切な問題があるようには思います。。
「発達障害」という語には表象だけでなく、人の気質(つまり意志)を含んだニュアンスがあるってことなのかもしれません。
53
:
横山
:2019/06/10(月) 17:42:55
>>52
もしかすると、
表象以前の方のスペクトラムは、対象とその隣接とが区別されず、対象の値がとられ得ないという意味での断絶のなさで、
発達障害の方のスペクトラムは、個々の対象がそれぞれ区分されそれぞれ値を振り分けられた上で、対象の値が連続的であるという意味での断絶のなさ、みたいな感じではないでしょうか。
思い付きで、無関係でとんちんかんかもしれない横やりを入れてしまいました。失礼しました
54
:
火雨
:2019/06/10(月) 17:51:38
横山さん
仰っている「値がとられ得ない」スペクトラムはベクトル的で、「値が振り分けられた」スペクトラムはスカラー的といった感じでしょうか?
僕の頭の中では、マーブルカラーのグラデーションみたいな世界観が前者、明暗のみのグラデーションみたいなのが後者というイメージを浮かべてます。
55
:
火雨
:2019/06/10(月) 18:20:06
ベクトル的スペクトラムとスカラー的スペクトラムが意志と表象だとは、はっきり言えないかもしれませんが、これは、そもそも値(数値)やスカラーとは何なのか?という問題を孕みそうです。
僕が思うに、数値とは視覚で捉える因果関係のことなのではないでしょうか?本当は「動き」がそれにあたるとは思いますが、言葉を使うと動きを表現できないので、代わりに数値を使っているんじゃないかと思うんですよね。だから数値は空間の連続性を表現できるんじゃないですかね?
なので、発達障害のスペクトラムがもしスカラー的スペクトラムなのだとしたら、「視覚では見えないスペクトラムを視覚的にするとこうですよ」という意味になるのかなあ、と感じますが……僕の方が支離滅裂かもしれません。
(そうなるとマーブルカラーのスペクトラムは視覚的じゃないのか?となるのでまた問題がありますが、恐らくですが、それは視覚的ではないのだと思います…)
56
:
横山
:2019/06/10(月) 18:32:48
>>55
こんがらがってしまいました。
何となく、前者はカオスで、後者は数的連続性なのかなと思ったのですが、やっぱり的外れだったかもしれません
57
:
火雨
:2019/06/10(月) 19:35:34
横山さん
そうですね笑
また考え直します。
58
:
則天去私
:2019/06/12(水) 18:41:38
ベクトル的スペクトラムとスカラー的スペクトラムというのがよくわかりません。
59
:
則天去私
:2019/06/15(土) 20:11:59
仮にショーペンハウアーはミットライト主義、ニーチェは個人主義と単純化するとすると、ショーペンハウアー好きの人とニーチェ好きの人とは、相容れないことに、なってしまわないでしょうか?
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