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悟りを目指している方

1ラピ。:2013/07/16(火) 21:50:18
悟りの状態は目指して至れるものではありません。
なぜなら、悟りを目的とすること自体、
悟りを遠ざけてしまうからです。

でも日々、頑張っている方の書き込み、お待ちしています。

534ラピ。:2014/02/22(土) 09:07:01
☆TK師

ほんと、そうですね。

私は「集中」という激流を渡り、
集中を超えましたから。

集中して実践していた時は
激流真っ只中でした。

激流中は「集中」を実践しており、
集中ができていた時はまだ至っておりませんでした。

集中を超えたとき、(=彼岸に渡った時)
確実にわかります。

彼岸では「集中」はありません。

集中終了です。
集中し尽くし、その状態を超えた状態です。

535TK:2014/02/22(土) 09:24:44
重要な事はあのクズと呼ばれた方がいい者たちがやっているインチキセミナーじゃない。

金で買えるものじゃない。

昔からスポ根ドラマとかアニメとかあったが、あれを地でやれば手に入るものだ。

金やテクニックで手に入れられるようなものでは無くて、重要な事は、
地道な努力、根性、忍耐、こう言ったスポ根ドラマで題材とされているものの積み重ねによって、
メンタルにある種の変革が起こってくる、気の遠くなるほどのそれの積み重ねで、
それでようやく手に入れられるものがフローあるいはゾーンと呼ばれるメンタル状態だ。

インチキ、クズ、ガラクタ巷にうようよいるこのような者たちはうんざりだ、
この大バカ者たち。

インチキして金儲けして、
そんなことまでして金は手に入れなければならないものなのかね。

その者たちの心は歪んでいる、
このような歪んだ者の元で悟りやゾーンやフローが手に入れられたら、
金持ちのボンボンが金に物言わせて悟りを買えるのと同じことだ。

末法の世の予言されているニセ者多数、うようよ、まるで金にたかるうじ虫。

537TK:2014/02/23(日) 09:16:32
内容がある者には外側もあり実体もあり、
故に傷つき破損し時には腐敗して苦悩が発生する。

内容が無い者には外側も無く実体も無く、
故に傷つく事も破損する事も腐敗する事も無く、
よって悟った者にはこのようにすべからく内容が無いので苦悩が発生することが無い。

考える変な脳の作用により妄想が起こる、
思いや考える変な脳の作用から苦悩が発生する。

悟った者は思いや考える変な脳の作用を滅して安らぎの内に安住する。

538TK:2014/02/23(日) 10:38:53
私は今まで生きて多くの人に出会ってきたが、
この中の誰かに師事したとしても私は今の所まで至れたとは思えない。

生きて接した中の誰一人として、
私を今の所まで導いてくれる者になど私は出会えなかった。

あらかじめのツールが与えられている私にとっては、
誰も頼りすがらず一人で歩む、ここが私にとっての勝敗のポイントだった。

ここまで導いてくれる人になど一生のうちで出会えない事の方が当たり前だ。

では、私と出会えた者はそれをチャンスに活かせたかと言うと、
私の話など傾倒して聞きたがる者が皆無では無かったが、
一緒にいたエセの方により関心を示す者が見受けられたし、
接した中でラピ。さんが私を利用しての初の成就者と言えば大体想像がつくことだろう。

このように世の中の多数はニセ者をあえて選ぶ特色がある。

選ぶ方が本物とニセ物と並ぶとニセを選ぶ、
このような世の中になったのは教える方だけの責任では無く、
学ぶ方の側の素養の劣化が大きい。

つまり、無報酬の本物より金取るニセ者が選ばれる、
さらに恐らく格安なニセ物より高額なニセ物が選ばれるのではないだろうか、
教えるニセ者が学ぶ方の劣化に合わせて多数出てきただけの話しだから、
ひっかける方も引っかかる方もどちらもどちらで、
この二者はお互いが釣り合ってこれはこれでとても絶妙なバランスのうちにある。

人類が本物を必要とするのは、
もっと時代が差し迫った緊迫した状態にまでならなければそれは起きない事だろう。

その時には、
緊急時に呼びさまされる本能的な感覚の発現によりそれは起きるのであると私は予測する。

さて、今の時代に我々は多くの者にとって必要はない、
むしろ必要とされるのは気分だけ酔わせてくれるニせ者の方だからだ。

我々は反対に酔いを醒ますから、
その意味では多くの者にとって不快因子を提供する不必要な存在だ。

我々は我々本人の快適性だけを考えている事で良いのだと思う。

これが前実験段階で得た私なりに下した結論だった。

539ラピ。:2014/02/23(日) 12:38:13
☆TK師

ほんとそうですね。

この境地を本当に真剣に求めている人は
ほとんどいないかもしれません。

なぜならその道のりはとても険しく
ある意味、命がけの道だから。

そんな道、好んで行く人は少ないでしょうね。

普通に生きていて
自分の気持ちを紛らわせることができるものがたくさんある
この世の中。

たまにやってくる何とも言えない感覚も
ほかのことで紛らわせることができる。

外からやってくる一瞬の喜びに心奪われ
その束の間の喜びを求めるために
そこにいることを選んでしまう人が多いのでしょうね。

偽の覚者はその一瞬の喜びを与えるでしょう。
「理解」という束の間のものを使いながら。

そして偽の覚者に「理解」された人はその喜びにすがってしまい
「理解」の次元を選択することとなる。

偽の覚者もまた、「理解」の次元でしかないから
それを超えた次元に
人を導くことはできないでしょうね。

偽の覚者もそれに従う人たちも
その次元にいるので
はっきりいってみんな同じです。

本物は「理解」の次元にはいない。

私は束の間の喜びは嫌だった。
私をごまかせるものはなかった。

束の間の喜びでは私をごまかすことはできなかった。

だから、私には本物の言葉が必要でした。

私みたいな人がもしかしたら
どこかにいるかもしれない。

ほとんどいないだろうけど
私みたいな人がもしかしたら
他にもいるかもですね。


>悟った者は思いや考える変な脳の作用を滅して安らぎの内に安住する。

まさしくそのとおりです。

思い、エゴ、意図 などなど
いろんな表現ができますが
この境地にいる人はそれらが消滅しています。

よって、これらに影響されることがなく
何も起こりえない。

常に安らいでおります。

ただし、この境地にたどり着くには
激流が必要です。

命がけの険しい道です。

師も私もその道を通ってきました。

はい!@(*・ω・*)ポッ


ちなみに今、幸せに生きている人には
これらの話は必要ありません。

どうぞ、ずっと幸せに生きてください。

541monica:2014/02/25(火) 10:45:54
ラピ。さま TK師匠さま
いつも沢山の教えを ありがとうございます
お二人の教えは、私がこれまで出会った
人、本よりも当然に真実、完璧です
内容が深すぎて理解できないことも多いのですが、
本物の言葉だと感じています。

前は悟りに憧れていましたが、今はどうでもよくなりました
人として正しい生き方をしていたいと思っています
御二人のお教え通り、
『自分の理想を頑張って生きる』
もっと頑張り 生きてゆきます
ありがとうございました。

543ラピ。:2014/02/25(火) 22:10:07
☆monicaさん

お久しぶりですね。
お元気そうでよかったです!

monicaさんの清き道を これからも応援しています。

@(*・ω・*)ポッ

544TK:2014/02/26(水) 18:09:57 ID:A7cDsQcs0
monicaさん

>前は悟りに憧れていましたが、今はどうでもよくなりました
>人として正しい生き方をしていたいと思っています
>御二人のお教え通り、
>『自分の理想を頑張って生きる』
>もっと頑張り 生きてゆきます
>ありがとうございました。

良いですね。

私は悟り以前の生き方も、かなり好きでしたよ。

全力で青春してますって感じでしたから。

今はそもそも生き方が無いので、何とも言いようがありません。

545TK:2014/02/28(金) 17:54:16 ID:3fYLBQOY0
ここでは人間としての幸せの追及の仕方を説いている。

ここで酔っ払いの地獄行きと呼ばれる者は、およそ次のような者の事を言う。

スピ系(精神世界)や、
なんちゃって禅にかぶれている者は地獄行き確定の酔っ払い達とここでは呼ばれている。

実はそれらはそのままでは使い物にはならないもので、
今なりのかなりのカスタマイズが必要なものと思われる。

ただ、そのカスタマイズをするとどれをとっても、
楽しくへヘラ笑いながらできるような代物ではなくなってしまうのが現実だ。

私にとっては日常生活や座禅一つとっても、
常住に辿りつけるまでは一切気を緩める事など困難な、
発狂すれすれの決死の覚悟で臨んでいた。

今の「なんちゃって禅」にしろ、あれはニセものだ、死ぬまで酔っぱらって、
寿命が来たらその先はそのバカ達は地獄に行く。

釈迦の経典に何度も何度も「激流」と言う言葉が出てくるのに、
それを足て蹴飛ばしてはへヘラ笑っているのがこのバカな者たちだ。

釈迦がウソなど言うと思かね、
「激流」など全く無くそこに至るまでは「緩流」だなどと、
今のバカどもは頭がフレている。

ここで私は「激流」など説かない、
その前段の実践こそが人間の幸せを全うするためには重要だからだ。

「激流」とは脱人間の類の実践法だからだ。

なんちゃつて禅などのおめでたい者たちは、
いつまでもそこで楽しんでいれば良い。

547ラピ。:2014/03/02(日) 06:56:21 ID:kKhMDmys0
みなさまおはようございます!!
@(*・ω・*)ポッ


>ここで私は「激流」など説かない、
>その前段の実践こそが人間の幸せを全うするためには重要だからだ。


そうですね。

私もこの掲示板にいろいろ書き込んで思いましたが
まずは人としての理想を全うしなければ
次の扉は現れないようです。

548yukiotoko:2014/03/11(火) 12:55:44 ID:uWlE76M60
TK様、ラピ様、はじめまして。

皆様の経験談や、お二方のアドバイスを読ませていただき、実践が伴わない私が何を考えてみたところで、妄想が膨らむ分かえって悪いとは存じますが、過去に私が経験した状態について、診断をしていただけたらと思い、投稿させていただきました。

15年位前のことです。私は仕事やアルバイトをことごとくクビになり、日雇い生活をしていました。力がなく重いものを持つ仕事ができないので、仕事は限られています。アルバイト誌を毎号発売日に買って、電話で楽な仕事を奪い合う、荒んだ日々でした。その上仕事中足に怪我をして、何もできない日も何日か続きました。友達もほとんどいません。無力感、孤独感、挫折感や不安感でいっぱいの、絶望的な心理状況で、酒とダンスミュージックに溺れていました。(今でも酒には溺れています。)

貧乏でとにかく働きたいのに、何もできない。自分とは何なのかと考え、自分を見つめながら、ただアパートの周りを歩いたり、絵を書いたりしているなかで、徐々に自分を受け入れることができるようになりました。自分なりに自分の内面を深く掘り下げた結果、自分はダメでよいと、開き直ったのではないかと思います。

上記との時間的な前後関係が定かではないのですが、そうしているうちに、物事が全てあるがままの鮮やかな状態で受け止められるようになってきました。散歩をしながら、周囲の環境との一体感を感じていました。万物に命を感じていました。感覚が研ぎ澄まされ、景色が交響曲のようでした。それはまるで、それ以前の感覚がすべて偽物で、自分はそれまでずっと眠り続けていたのではと思えるほどの、衝撃的な体験でした。自分はそのとき悟ったのではないかと思いました。

自然が泣いていると感じ、自然破壊ばかりしている世の中や、それに携わっている人間
(の行為)を憎むようになりました。自分が正しく、世の中が狂っていると信じ、自分の価値観を世間に共有できないかと、絵を書いていました。自然とは共鳴できていても、人や社会とは隔絶していたため、安心感と孤独感が表裏一体でした。

この状態が数ヶ月続いた後、異なる価値観に出会い、当時の自己を否定することで、正しいと信じてきた価値観は断末魔とともに崩壊し、喪失感に包まれた虚しい日々がしばらく続きました。それ以降その自称悟りの状態を取り戻したいと願っても叶わず、いまだに心のどこかで引きずっているようにも思えます。

この体験は、独りよがりな感情を増幅させたものなので、仮に何らかの悟りの一種だったとしても、TK様やラピ様が言われている悟りとは、全くの別物とは存じますが、生きていく上で、悟りを目指していく上で、これをどのように捉えたらよいか、アドバイス頂けませんでしょうか。

どうぞよろしくお願いします。

549TK:2014/03/11(火) 19:31:13 ID:yK6FyyZ.0
yukiotokoさん

似たような一過性至高体験例を前にも他の人が話していました。

その方も、その後は苦悩の内に舞い戻ったわけです。

次のサイトの人もそのような内容を取り上げているようです。

http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-96.html

私に言わせれば一過性である以上、大して価値は無かったと言わざる得ないですね。

どこか、ラピ。さんの経験した至福感的な魔境と似ている部分があるように思います。

>物事が全てあるがままの鮮やかな状態で受け止められるようになってきました。

受け止めた段階でそれをあるがままとは言いません。

>散歩をしながら、周囲の環境との一体感を感じていました。

一体感と言う表現の根底には自分が存在していますので、
これも究極状態と異なるように思います。

>万物に命を感じていました。感覚が研ぎ澄まされ、景色が交響曲のようでした。

この状態には自他の別があるように思うのです。

>それ以降その自称悟りの状態を取り戻したいと願っても叶わず、
いまだに心のどこかで引きずっているようにも思えます。

一過性至福体験をした人は、ある意味不幸ですね。

私やラピ。さんは釈迦の教えの通り「激流」を自力で突き進み、
「彼岸(常住)」にたどり着いたのです。

これは至福体験と呼べるようなものではありません。

何も体験していないと言うのが一番ふさわしい表現です。

我々の所は求めたり目指したりしたら永遠にたどり着けない所にいますので、
今のあなたのベクトルではいつまでたっても苦悩の世界のそのままです。

>それ以降その自称悟りの状態を取り戻したいと願っても叶わず

既に無限のループにはまっています。

>悟りを目指していく上で

ラピ。さんの至福体験の魔境同様に、忘れる事ですね。

550ラピ。:2014/03/11(火) 22:18:23 ID:ycRPYkoE0
☆yukiotokoさん

初めまして。ようこそいらっしゃいました。

そうですね、yukiotokoさんの経験は
私のかつての神秘体験と似ていますかね。

私は神秘体験を2回しています。

ひとつは自分が金色の光に包まれる体験。
一気にまぶしい光が私を包みました。
何が起こったのかと思いました。

もうひとつはすべてがつながった感覚を得た体験です。
すごかったですね、これも感動しました。
一気にすべてにつながり、
すばらしい、すがすがしい感覚を得ました。

しかし、この体験は今の私の境地では体験できません。
なぜなら体験する「対象」が消滅しているからです。


>散歩をしながら、周囲の環境との一体感を感じていました。

対象があるからこその一体感ですね。
その対象が消滅しているのが釈迦の「悟り」と言われるものです。


>仮に何らかの悟りの一種だったとしても、TK様やラピ様が言われている悟りとは、
>全くの別物とは存じますが

そうですね。
至福感や一体感を感じている時点で違います。

悟りとは感じるものではないです。

感じられるということは感じる「もの」が存在している
ということになりますから。

私は常に実践していましたので
かつてはその神秘体験すらも手放して実践をしていました。

でも最後のいわゆる「魔境」という状態になった時は
(最後のほうでそれに引っかかっていました)
斜め上から降り注ぐ幸せ感に浸っていました。

この幸せ感は自分が意図すれば得られる幸福感でした。

しかし、その幸福感にふと違和感を感じました。

「意図しなければこの幸福感はない。
常に意図を働かせていなくてはならない。
この意図しなければならない幸福感って本物なのだろうか?」

そもそも、自分の外からやってくる幸福感は偽物です。
それにすがってしまうとそこで終わってしまいます。

だから最終的にはそれすらも手放しました。

最終実践に集中したので手放さざるを得なかったとも言えるかな。

自分のするべき実践に集中していたら
過去の経験なんて思い出す暇がないのです。

至福体験を思い出す暇がない。

私はその至福体験を忘れて
実践に集中しました。

そして今の境地に至りました。


あと、至福感はその「反対のもの」があるからこそ味わえる感覚です。
だから絶対的なものではありませんし、
それが永遠に続くことはありません。

上昇すれば必ず下降するのです。

上昇も下降も消滅するのが悟りの状態です。


師も書かれていますが悟りの境地では
「何も体験していません」

体験する「もの」がないから。
対象が消滅しているから、です。

この境地は言葉に表しきれませんが
(表しようがない)
例えを使って表現すればそのようになります。

「何もしていません。何もありません。」

551TK:2014/03/11(火) 22:28:19 ID:yK6FyyZ.0
あるがままはただ、あるがままである。

それは受け止められる事も無ければ、捉えられる事もないからである。

それをあるがままという。

受け止められたら、捉えられたら、
もうそれは既に受け止められたものであり捉えられたものであり、
あるがままでは無い。

一体感を感じたら、
それは一体感を感じられたものでありそれは既にあるがままでは無い。

あるがままとは一体感とは全く異なるものである。

あるがままとは、ただあるがままのことである。

あるがままとは研ぎ澄まされた感覚で感じられるものでは無い、
研ぎ澄まされた感覚で感じられたものはただ感覚で感じられたものであり、
それはあるがままでは無い。

私は全体でも部分でも一体でも分離でも無い、これは即ちあるがままである。

大自然を感受している者がいる、その者は大自然に執着し捉われ空っぽでは無い。

大自然などそのようなものはどこにもない、これが即ちあるがままである。

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html

552yukiotoko:2014/03/11(火) 23:58:46 ID:uWlE76M60
TK師様
ご回答ありがとうございました。

私の場合、一過性の至高体験を通して得たものは、自分は他の人たちとは違って、何か特別な存在だという、思い上がりのように思います。

またいつまでも心の底で当時を引きずるあまり、現実に対する認識や態度が疎かになっているのかもしれません。こうして思い出そうとしているだけで、あの時のことを夢見て、憧れてしまいます。ご指摘いただきました永遠のループを感じます。

これは現実生活にとっては百害こそあれ一利もない、悪い夢です。未だ酒に溺れているのも、この現実逃避グセによるものが一因ではないかと思います。

酒でストレスを解消せざるを得ないような人間は、やはり悟りからは程遠いというものでしょうか?

根拠のないプライドを捨て、真面目に生きてけたらと思います。
それからあるがままという言葉は、今後使うのを控えます。

553yukiotoko:2014/03/12(水) 00:01:00 ID:uWlE76M60
ラピ。様

貴重な神秘体験のお話、また悟りについてのお話、ありがとうございました。
ラピ。様が体験されたことに比べたら、私のものなど足元にも及ばないものであったと知ることができました。対象からの影響を受けて一喜一憂し、不安すら感じていました。

自分は悪い夢を見ていただけだと真に自覚し、現実を見つめる勇気を持ちたいです。

554TK:2014/03/12(水) 18:09:38 ID:0MpOjs8.0
yukiotokoさん

>これは現実生活にとっては百害こそあれ一利もない、
>悪い夢です。未だ酒に溺れているのも、
>この現実逃避グセによるものが一因ではないかと思います。

魔境とは言え、
現状とは区別される至福体験をした場合はそのようになる可能性は強いと思います。

>酒でストレスを解消せざるを得ないような人間は、
>やはり悟りからは程遠いというものでしょうか?

あなたは精神世界に関する関心を一端は一切捨てるべきです。

地に足つけて、善に基づく行為によって理想を実現していく事です。

この世界では、肉体を使った行為で善を実現していかなければならないのです。

それをしてから、
必要な人はようやく真っ当な精神世界の道が開ける人もいたりするものです。

あなたの場合、今のままでは精神世界は現実逃避としてしか作用しません。

555yukiotoko:2014/03/13(木) 00:13:44 ID:uWlE76M60
TK師様

肉体を使った行為による善の実践には、祈りも、脳を使うという意味では含まれますでしょうか?

それから折角紹介していただいたリンク先なのですが、私には難解で、さっぱり理解できませんでした。

もう少し分かりやすいものがありましたら宜しくお願い致します。

556TK:2014/03/13(木) 04:25:20 ID:0MpOjs8.0
>肉体を使った行為による善の実践には、祈りも、
>脳を使うという意味では含まれますでしょうか?

祈り?

あなたは何かの信者ですか。

祈れば御利益でもあるとか、もう既に、あなたそれ精神世界ですよ。

そういう非科学的なおかしな迷信、信じないような生き方するんですよ。

557和井恵:2014/03/13(木) 08:36:11 ID:izvcnxLQ0
>551

とても素晴らしい内容ですね。
精神世界を語る多くの人たちが勘違いしている処は、まさにこれだと思います。
このような教え(説明)を、もっと多くの人たちが知り、
正知することを願って、わたしのブログでもシェアさせて頂きます。

558yukiotoko:2014/03/13(木) 16:09:54 ID:eSQdJcLA0
TK師様 *

以前投稿されていたヤッズ氏のブログや、ヤッズ氏のブログで紹介されている「高度自給自足時代の夜明け」というブログで、これまで知られていなかった史実や、陰謀論の裏が公開されておりますが、私自身も、FACEBOOK等ネットで真実を広めることで、世の中を良い方向に変えていくための一助となれたらと思っております。 *

以前山林や公園でごみ拾いをしたり、公衆トイレを掃除していたときがあり、これらをしているときには、体を使って善行をしているという実感が持てましたが、ネットでの頭脳を使った真実の情報拡散は、善行と言えますでしょうか?

宜しくお願いいたします。

559TK:2014/03/13(木) 18:32:35 ID:lDEj49Y.0
>557

どうぞ、ご自由になさって下さい。

「あるがまま(そのまま手つかず)」は解脱した者の事をそのまま表している言葉ですから、
今までもこの言葉だけ取ってきて勘違いで使い回している人は多く目にしています。

560TK:2014/03/13(木) 18:54:02 ID:lDEj49Y.0
yukiotokoさん

>以前山林や公園でごみ拾いをしたり、公衆トイレを掃除していたときがあり、
>これらをしているときには、体を使って善行をしているという実感が持てましたが、
>ネットでの頭脳を使った真実の情報拡散は、善行と言えますでしょうか?

方向性的には間違いではありません。

しかし、
ネットはネット以外の環境と比較して思い通りになりやすいアストラル的な特性もありますから、
その分得るものは少ないと思います。

すなわち、ネット上とはせっかく物質としてこの世界に生を受けている特性を、
活かしにくい要素もあるのです。

如是語経
> このように聞いて、ある比丘は世尊に次のように申し上げた。
> 「尊き師よ、諸天神にとってよい境涯へ往く、と言われるのは、一体いかなることでしょうか。
>また、尊き師よ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるのはいかなることなのでしょうか。
>さらに、尊き師よ、諸天神にとって、きちんと安定した、と言われるのは、どのようなことでしょうか」
>
> 「比丘たちよ、人間の状態こそが、諸天神にとって善い境涯へ行く、と言われるものである。
>また、人間となって、
>真理の体現者が説いた教えと僧団の規定とに信仰を得るならば、これが、
>比丘たちよ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるものである。

561yukiotoko:2014/03/15(土) 09:45:24 ID:uWlE76M60
TK師様

具体的に方向性をお示し頂きありがとうございます。

自分なりに善行に励んでみます。

またご指導宜しくお願い致します。

562TK:2014/03/15(土) 12:03:26 ID:ARaxpy0I0
yukiotokoさん

人のために思いっきり生きることの楽しさを、実感できるレベルまで高めて下さい。

そのベクトルがさらに煮詰まったところのものが我々の居る所、すなわち悟りです。

光明とは探したり見つけようとしたり、追い求めたりしたら絶対に、
それらをやめない限り遠ざかるのみです。

そのようなベクトルを持つのが悟りのなので、
ちなみに私が何かを見つけようと探求に入って見つけたのは悟りではありません、
それとは反対に位置するものです。

私が見つけたのは「悪魔」です。

見つけようとして運よく見つけられるものは「悪魔」だけなんです。

光明とは目で見えるものでは無く、感覚で感じられるものでは無く、
何も無い事を言うのです。

心得ていて下さい。

つまり、あなたには我々と比べて、
すべからくありあまるほどの充実した内容があると言う意味ですが、
我々にはあなたから見てみすぼらしいほどに何もない、これを無所有と言いますね。

563:2014/04/25(金) 08:12:30 ID:2mIclaQ20
「解脱した者」だって?
それは、一体誰だね?

それから真理はノンベクトルだよ。

まだ生きているんじゃないのかね?
本当に死ねよ。

564ラピ。:2014/04/25(金) 12:46:07 ID:mGBpN5Hc0
ムさん

>真理はノンベクトル

この意味が分かりませんので
教えていただけますか?


ちなみに私が普段、表現するときは「例え」を使っています。
言葉で表すのには限界がありますので。


>「解脱した者」だって?
>それは、一体誰だね?

ムさんがもしそうであるのなら
この答えはお分かりでしょう、聞くまでもなく。

一体誰ですか?

565TK:2014/04/25(金) 21:09:49 ID:JbarQA5M0
>>真理はノンベクトル
>
>この意味が分かりませんので
>教えていただけますか?

関心を止めた点は的を得ているが、
真理と言う言葉を持ち出すところで相手の次元を見抜けていなければならない。

真理とはその正体が妄想だからだ。

566ラピ。:2014/04/25(金) 21:15:45 ID:mGBpN5Hc0
TK師

もちろんわかっています。

その方の次元の話を聞きたかったのですよ。

567TK:2014/04/25(金) 21:38:06 ID:JbarQA5M0
>その方の次元の話を聞きたかったのですよ。

こちらもお遊びでしたから。

それではごゆっくり。

568どてかぼちゃ:2014/04/28(月) 13:20:46 ID:dzVxZkLo0
はじめまして。
初めての書き込みで凄く緊張しております。

現在、日々実践を行っておりますが、
どうしたら良いのか、どう実践していくのか、
どうにもこうにも行き詰っております。
TK師様、ラピ。様、よろしければ以下、
御回答を頂ければありがたく存じます。

1.身体が続かないのです。
理想とする生活をすると限界まで挑戦とやるのですが、
結果的にその反動で身体が動かなくなり、
結局休まざるを得ない状況に陥ります。
その度に「なんて自分はダメなんだ、根性がないな」と自分を責めてしまいます。
ただ、最近は、身体が悲鳴を上げてダメな時には大人しく休み、
また回復したら理想とする生活になるよう実践するという諦めない気持ちは出てきています。
1人なら徹底的に限界の限界まで動いて死んでも構わないとは思うのですが、
最悪死んだ場合や病気等になりにたった一人の家族に迷惑がかかっては
人の道に反するとも思ってしまいます。
こういう場合はどのように考え実践をして行ったらよろしいのでしょうか?

・とにかく虚しいのです。
これを思っているうちはまだまだ実践しきれていないのかもしれません。
夢中で動いている時は感情は特に湧いてこないのですが、
フッとした時に胃の辺りからグワッと「虚しさ」が湧いてくるのです。
これは物心ついた頃からずっと消えずにあったように感じます。
記憶を辿れば、小学校2年生ぐらいからその思いがあったと思います。
それ以前には、自分の記憶では思い当りません。
過去には沢山の不幸と言われることがありました。
人に話せば「ドラマみたいだね」と言われるような話です。
でも、今は特に不幸がある訳ではありません。
世間から見たら「幸せな方だよね」と言われる状況ではあると思います。
もちろんその幸せを感じていない訳でもなく、現在の幸せには感謝をしております。
過去の不幸には一つ一つに精神的限界までなりつつも現実的にアプローチをしてやってきました。
その胃の辺りから湧いてくる虚しさを無視し続けることも可能は可能かもしれません。
それでもいつもいつも気が付けば横たわっていて消えることはありません。
ただ、過去に苦しすぎて破壊されて腐ってしまっているだけなのかもしれませんが、
未だに何かあると昔ほどではないにしろ、まだまだやはり傷つくのです。
このような場合には、どのように考え対処して行ったらよろしいのでしょうか?

ゴールデンウィークの最中、TK師様もラピ。様も
ご自身のことでお忙しいだろうと思われますが、
御回答を頂ければ幸いでございます。
長文お読み頂きましてありがとうございました。

569TK:2014/04/28(月) 19:01:23 ID:NQJeMW4E0
どてかぼちゃさん

>最悪死んだ場合や病気等になりにたった一人の家族に迷惑がかかっては
>人の道に反するとも思ってしまいます。
>こういう場合はどのように考え実践をして行ったらよろしいのでしょうか?

休みながらやるのではだめなんですか?

これは人に聞くより、自分自身の問題だと思います。

例えは釈迦は一国の王子の立場でありながら、
国や妻子を捨てて出家し命がけの苦行も敢行したのですし。

何を優先するかの問題ですが、私は危険を冒した一人です。

釈迦にとっても私にとっても、それしか選択肢はなかったと言うところです。

あなたが取り組んでいるものが、命をかけるほどのものなのかどうかです。

どちらにしようか迷うゆとりがあるようですから、
あなたにとってそれは命をかけるほどの煮詰まり方をした重さのものではないという事で考えるのが妥当です。

今取り組まれている事に命をかけずとも、もっとその命、
人のために他に使い道があるという事です。

570どてかぼちゃ:2014/04/28(月) 20:00:41 ID:dzVxZkLo0
TK師様

ご回答ありがたく存じます。
十分過ぎるほどの回答です。
どうも私は実践に関して勘違いをしていたようです。
命をかけるほどの実践…、今の私には情けないことに思い当たりません。
だから虚しさを感じ続けているのではないかとTK師様のお言葉で気づきました。
出直してきます。
諦めたくはありません。
また相談させて頂くことがあるかもしれません。
その際にはよろしくお願い致します。
今まで、こういう回答には出会ったことがありません。
ただただ感謝です。

571ラピ。:2014/04/29(火) 07:58:59 ID:OBxNIUCk0
どてかぼちゃさん

書き込み、ありがとうございます。

実践をがんばられているようですね。

理想とする生活を限界まですると身体が動かなくなり、
休まざるを得ない状況に陥るとのことですが
どてかぼちゃさんにとっての理想の日々は
かなり無理をするものとなるのでしょうか?

その理想とする生活について
もう一度考えてみるのはいかがでしょう?

自分の理想とする日々を実現させるための実践です。

例えばなんでも元気に頑張ることが理想の日々であるのなら
体調管理も実践の一つですね。


虚しさについてですが私の場合、
「自分を捨てて」という方針で実践していたのもあり
そういう感覚を感じる前に実践をしていました。
(感じる暇がないという感じです)

ちなみにその虚しさの正体は「エゴ」の声です。

ただし、無視しようとすればするほど気になると思うので
「無視して実践」と言う感じです。

表面上、その虚しさが実践を妨げているように見えるかもしれませんが
さらに実践をして虚しさを感じる暇がない、という感じですかね。

私の場合、第1の実践では「嫌だ」という思いを捨て続けるものであり、
(「嫌だ」もエゴの声です)
第2の実践は「恐怖心」との戦いでした。

572TK:2014/04/29(火) 10:26:47 ID:OvlB1z3.0
どてかぼちゃさん

>どうも私は実践に関して勘違いをしていたようです。
>命をかけるほどの実践…、今の私には情けないことに思い当たりません。

良い点に気がつきましたね。

人から見て大したことがないように見える事でもその人からしたら、
命をかけるに値するものがあり、それは人それぞれで違います。

それが何なのか、自分で見つけるより手はありません。

しかし、見つける手がかりは誰もが持っています。

自らの中の善悪の基準です。

悟った我々にはそれがありませんが、しかし、
それが我々の所までたどり着くための手掛かりなのです。

自らの中の善と言う基準をもとに理想を構築し、精一杯生きる事です。

釈迦を例に出しましたが、釈迦も最初は善を求めて29歳で出家をした、
そこがスタートラインという事です。

大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)5・27

>スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。

釈迦はその後に師も二人変え、さらにその次の段階で命がけの苦行の実践なのです。

あなたの場合はまだまだ煮詰まるための過程を得ていない、そのように感じますよ。

573どてかぼちゃ:2014/04/29(火) 13:46:18 ID:dzVxZkLo0
ラピ。様

ご回答ありがたく存じます。

行っていた実践は、普通の方から見れば大したことはなくて、
日々大抵の方々が当たり前に行っていることであります。
しかしながら私は体力がないゆえに「えっ?その程度でバテるの?」
と言われるようなそんな状況で、それが昔からの劣等感でありました。
それを克服すべく、これでもかこれでもか!と我慢大会かのように
自分の体質と体力を顧みず、無理に無理を重ねておりました。
その結果、身体がとうとう思うように動かなくなり、関節や筋肉は痛み、
当たり前のことを当たり前にやることすら出来なくなって、
それで失礼を承知でご相談させて頂いた次第です。

しかし、昨日のTK師様からのお言葉に、
>「休みながらやるのではだめなんですか?」
で、ハッと我に返り、私はバカか…と気づきました。
体調を管理しながらやらねば本末転倒じゃないかと。

「虚しさ」については、これもTK師様のお言葉で気づきましたが、
「命がけ?」というか「全身全霊?」というか、
そうやって生きてこなかったからだと思います。
彼岸に行かれたお二方からすれば、
彼岸に到らねば本当に生きることにはならない
とおっしゃられるかもしれませんが、
昨晩、今頃の年齢になって「生きる!生きてる!」を
とても生々しく実感している次第です。

TK師様のお言葉を頂いてから、再考しております。
しかし、ひたすら善のために命がけで実践していたら
虚しいとかなんて言ってる暇はないですね、本当に。

ご相談させて頂いて良かったです。
深く感謝致します。

574どてかぼちゃ:2014/04/29(火) 14:03:49 ID:dzVxZkLo0
TK師様

再度お言葉を頂けたことに深く感謝致します。

昨晩のお言葉を頂いた後から必死に夢中で「命がけ」について
考えておりました。
それを考えるようになって、生まれて初めて「生きる!生きてる!」と思えたのです。
情けない話ですが、本当です。
それを考えていれば、あれだけ肉体が疲れ果てていたのにも関わらず
活力が湧いてきて、今日も元気に動き回れているのには本当にビックリです。
「あれ?私、こんなに動けたっけ?」と凄く不思議です。

>人から見て大したことがないように見える事でもその人からしたら、
>命をかけるに値するものがあり、それは人それぞれで違います。
>それが何なのか、自分で見つけるより手はありません。
本日頂いた上記のお言葉により、また新たに勇気を頂きました。
「自分で見つける!」なんと素晴らしいことなのでしょう。
とにかく今は「全てに真剣に命がけ」でやることが楽しくて仕方がありません。
今まで行っていた実践をもっともっと展開していき、
もっと大きな善のために実践し続けていこうと思います。
ただし、必要があれば休養を取り、取る休養も真剣に命がけ?でリラックスします。
そしてそれを淡々と続けているうちに、本当にもう形振り構わず命がけ!でやる!!
ということが見つかるのではと考えております。
家族が邪魔になる訳はありません。
そうやって万一死んだらそれはそれで本望と思えるようになりました。
私の唯一になった家族、その家族が私をスピ系精神世界系から抜け出させてくれました。
最期のとどめはこちらの掲示板でした。
それにも深く感謝致します。

また、行き詰り教えを乞いたい場合は書き込みをさせて頂きたいと考えております。
お二方が回答するに値すると思われた場合には、ご回答を頂ければありがたく存じます。
お言葉を頂けた場合にも出来得る限り書き込みを出来ればと考えております。
本当にありがとうございました。
(本当にありがとうございましたという言葉が軽いぐらいに深く感謝しております)

575どてかぼちゃ:2014/04/29(火) 16:37:17 ID:dzVxZkLo0
TK師様

度々恐れ入ります。
補足させて下さいませ。

おっしゃる通り、私はまだまだ煮詰まる過程を得ていないと思います。
ご指摘ありがとうございます。
スタートライン以前の問題ではありましたが、
スタートラインに立てるように、実践を続けて行こうと思っております。
とにかくなんだかわかりませんが「諦めたくない」と思うのです。

凄い緊張でしたが、ここに書き込んで良かったです。
この掲示板があること、お二方にネット上であれ教えを乞えたことに感謝致します。

576魔王:2014/05/29(木) 08:45:53 ID:001mTVu60
43 :TK:2013/08/13(火) 10:39:11
あーみんさん

>あなたのOSHOをはじめ、スピ系の知識や書籍を捨てなければならない。
これも次の大波が来るだろうから、その時に真実に変わるために今のあなたに話しているのだ。

>それまでは、あなたがスピ系で酔っぱらう事で幸せになれると信じるのならそれを続けてみると良い。
しかし、スピ系で寄せては返す楽と苦の繰り返しが止まりはしない。
だから、それが本当かどうかあなたが実際にやってみればいいんだ。
今のあなたは本気にはなれない。



それはそれで、もっともなんだが。

577魔王:2014/05/29(木) 08:49:59 ID:001mTVu60
47 :TK:2013/08/17(土) 00:57:21
実践マンさん
>自分の中から湧き上がる自分の遭遇する現象に対してのネガティブ(否定的)な思いが悪魔の声です。

>それを意志の力で感謝と肯定に変える、この意志の力が対する神の力です。

>感謝や喜ぶの実践の真の目的は、常識的にはとても喜んだり感謝できないと思われるような状況の時、
この時に意識的に喜びや感謝をするのです。




独特やな・・・・・。

578ザイ:2014/06/03(火) 22:32:51 ID:.3QHwG7U0
風邪ひいてるのに無理してだいたい読んでみた。
TK師は口が悪いですなぁ。でも非常にわかりやすい。


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