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TK師との会話

334TK:2014/02/04(火) 19:15:54
これ、本当にすごいですね。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


悟る前のラピ。さんの文を読んで、
悟ってなくても悟ったと言う想いこみだけでこれだけ紛らわしいものが書けるのです。

我々が見ればこんなガセ、
私の書込み削除しまくったあの人物と全く同じ完全100パーセント酔っ払いだと分かりますが、
残念ながら一般の方々には例のサイト同様見分けがつくはずがあまりせん。

しかも、言っている本人も自分が至った覚者だと信じているのです。

これ、何を勘違いしいるのかも私には手に取るように分かります、
私の前ではみんな丸裸ですね、
この人には「無」と言う対象となる意識がしっかりとあって、
それが至った状態だと思い込んでいるのです。

>今この瞬間に溶け込んでると

これがこの「溶け込んでいる」と言う表現の根拠なのです。

これは至った我々とは全く別物です。

本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

このように、至った覚者の状態などを書いた物を読むと、
自分もそれと同じだと勝手に錯覚して思い込んで、
酔っぱらいのエセの覚者が一丁出来上がりとなるわけです。

簡単に人間と言うのは誤認が起きますから、
至った覚者の状態を書いてあるものなどできるだけ読まない事です。

エセに従う信者たちもいい加減に目を覚ましたらいいのにと思うのですが。

私はこの者たちとそれにつき従う者たちを、
風車が怪物に見えるドンキホーテと従者のサンチョと呼ぶのです。

至ってしまえば楽々ですが、至る前の人たちにとっては、
このようなトンでも勘違いの人たちが沢山いるので、
手探りで断崖絶壁を歩いているようなものです。

恐ろしや恐ろしや。

はやく、公的な認定制度が出来ることを切に望みます。

剣禅一致、すなわち技術の修得とメンタルの修得、この二つが一致して、
本当のその者の能力の尺度なのです。

現代の科学は、技術の修得の部分しか解明できてない劣ったものですから、
早くもう一つの方にメスを入れることが出来なければ、
「フロー(ゾーン)」と言う現象も解明できないし、この先社会はもっと悪い方に行きます。

現代の状態は、これみんな劣った科学がもたらした醜態というものですよ。

情けない。

335ラピ。:2014/02/04(火) 21:19:22
みなさま、こんばんは!

TK師、いつもありがとございます!


>これ、本当にすごいですね。

訳すると
「これ、本当に妄想すごいですね。」
になりますかね。


>>今この瞬間に溶け込んでると

今の私たちの状態ではあり得ない状況ですねぇ。



>始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ほんとそうなんです。

師の言葉を早くからちゃんと聞いていたら
間違っていたことが早くわかっていたかもしれませんが
初めのころは大まじめにそうであると信じていたのです。

だからちゃんと話を聞けていませんでした。

でもどうにか
自分の信じていたものを捨てることができてよかったです。


私の昔のブログに賛同できる方は
スピ系による被害を受けています。

私の昔のブログは偽の情報です。

昔の記事を削除してしまってもいいのですが
参考になると思い今は残しています。

かつての私の記事のような話が
全く参考にならないということの
参考になると思っています。

それに、昔のラピ。と今のラピ。の違いが
記事を比べたらわかると思います。

えらい違いです。次元が違いますから。(笑)

でも、将来 記事を削除するかもしれませんが
そうでないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

336TK:2014/02/04(火) 22:26:02
>本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

無想と想に非ずは全くの別物ですからこれが悟りだなどと、
この界隈はかなり滑稽な状態です。

それにつき従う信者の群れ、あれもかなり悲しい。

私は独学ですが、何でまあ信者と言う人たちは、そろいもそろってエセの後を追う、
ああも悲しい定めにいるのでしょう。

あの人たちから見ると、こちらがエセに見えているでしょうから、
現実とはそんなものですよ。

337TK:2014/02/07(金) 18:24:23
袋小路に追い込まれた者には私は激流の門を開くだろう。

私は人と寄り添う事を求めているような者に、
ここで寄り添う相手になるつもりはない。

理由は簡単だ、精神世界のテーマで寄り添う相手になるなど、真っ平御免だからだ。

同士をもとめるなら、精神世界以外のテーマでの同士を求めるべきだ。

酔っ払いの烏合の衆というのが、それだからだ。

これが世の中一番最悪のごちゃ混ぜグループ。

私は理想で生きる事を説くが、それは精神世界以外で実行するという事だ。

これをやらずして精神(内面)世界をテーマにたむろする人間など真っ平御免だ。

だから、当たり障りのない適当な理由を付けて、
はいさようならをしたケースは今までもあったかもしれない。

人のぬくもりを求める者もいるだろう、しかし、それは精神世界以外で求める事だ。

人が仲良く寄り添って、そういう理想の実現は精神世界に求めるものでは無い。

それを卒業した者が、次の段階として精神世界の「孤立」に入る。

私など理想時代は、まず、
寝る時以外は家になど居る事はほとんど無く
常に誰かと活動をしていて一人で居る事はほとんどなかった。

その後の、激流の実践時代は、理想時代とは打って変わって孤立に入った。

だから、この界隈狂ってるんだ、
精神(内面)世界を寄合のテーマに傷を舐めてくれる友を求めたり、
その者は精神世界では無くて違う所でそれをやってくれ。

精神世界は、理想の実践段階とは打って変わって、
世からの孤立が本質的なスタンスだ。

スッタニパータ
> そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、
>完全な戒律を受けた。それからまもなく、
>このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、
>怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、
>無上の清らかな行いの究極
>──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが
>──を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。
>なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。



私はこのような中途半端な要素を少しでも感じた者に対しては、
まともに取り合わずに、
当たり障りのない適当な理由を付けてはいさようならとする事だろう。

心当たりの者がいたら、自らの内面を良く見てみろ、私の前では丸裸だ。

激流段階の者にとっては、
現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
他者を自分の実践対象として存分に利用し、
なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私やラピ。さんはその実践の成就者という事になる。

激流段階の者にとって、在家環境で日常生活のまま、孤立の立場の実践が可能なのだ。

338ラピ。:2014/02/07(金) 23:05:11
TK師、いつもありがとうございます。

>激流段階の者にとっては、
>現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
>他者を自分の実践対象として存分に利用し、
>なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
>このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私も似たような感じです。

例え家族がいても
私の実践の妨げにはなりませんでした。

妨げにしませんでした。

それが私のポリシーでした。

そして日常はちゃんと過ごしていました。


この掲示板に
もし、私自身の実践をそのまま書き込むなら
かなり厳しい内容になります。

実はここに私が書き込んだ内容はまだまだ甘いものです。

私がこれまでに書いた内容で逃げるくらいなら
まだまだですね。


私は自分が決めたことは決して曲げず
我が道を歩く人でした。

至る前、周りの人に
私の本性はばれていなかったかな、どうだろ。
本性の気配を感じても
たんなる気のせい、くらいに思われただけの程度かもしれません。

実践は自分自身のことであって
周りの人には関係なかったから
別に周りの人に厳しさを表現する必要はなかった。

自分に厳しくさえいればよかったから。

でもそうだったからこそ、表現していないつもりでも
微妙に気配は感じられたかもしれませんが。


至ってから かつての自分を思いだすと、
ほんと笑えるくらい真剣に
エゴ丸出しでエゴがとても強かった。

でもこんな自分でよかった。

こんな自分だからこそ しつこくあきらめることなく
自分の決めたことをやり遂げることができた。

みなさんはしっかり「自分」を生きて
「自分」を成長させてください。

まずはそこからのようです。

そこをしっかりやらないと扉は現れない。

@(*・ω・*)ポッ

339TK:2014/02/08(土) 09:35:18
理想(物質)段階の実践と激流(内面)段階の実践では大きく異なる部分がある。

理想段階の実践では、同じ利他でも人への執着が根幹となる。

他者を大事にしたいとか、他者をいたわりたいとか、他者を守りたいとか、
このように、そのベースにあるのは人への執着となる。

これとは打って変わって、激流段階の実践では、
人に対する依存そのものを一切断ち切る実践段階に入る。

よって、釈迦の時代は先に進むために独り離れる実践が出てきたものであろう。

激流段階は妄想を駆使した実践となる。

美女を見たら汚らしいものだと思えとか、つまり、
このような妄想を駆使した特性が故に在家の人がいる環境でも、
人がいてもいない事に出来たりが可能となる。

例えば依存心を断ち切る実践の一つとしてラピ。さんの実践した下からとか、
激流の場合の利他とは、人を人と思わないのがベストと言える。

世俗感情は一切禁止だ。

一例としては全ては神である、この妄想を駆使する事で人への執着を断ち切る。

もともと我々の段階までくれば、
人が大勢いても誰もいない(何も無い無所有処)としか言いようが無いのだから、
人を人と認めない全てが神であると言う妄想も我々の所に至るための有効なプロセスと言える。


ヨーガ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC

>バクティ・ヨーガ (Bhakti yoga)
>
>神への純粋な信愛を培い、グルがいる場合はグルを、
>その他の普遍的な愛の対象がある場合はその対象を、
>超意識(宇宙的な意識)の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。
> 古典文学『マハーバーラタ』(Maha Bharata)にある有名なクルクシェートラの戦いで、
>クリシュナが勇者アルジュナに説いたとされる
>『バガヴァッド・ギーター』(The Bhagavad Gita=神の詩)は、
>バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの本質を謳っているため、
>ヴィシュヌ(ナラヤン)の転生として実在したとされるクリシュナが開祖とも言える。
>また、近代の大覚者ラーマクリシュナとシヴァーナンダ、
>現代のサッティヤーナンダは、
>現代においてはこのバクティ・ヨーガこそ最も必要であると説いている。

(中略)

>新興宗教の中には、インド人の信頼できるグルの指導を受けずに、
>このヨーガを取り入れている団体が多いが、
>自らのエゴが消滅できていないことを理解できない団体運営者によって独自の解釈がされており、
>大変危険である。
>間違った「自称グル」(大抵そのグルのグルが誰であるか、
>公表できない)を師と仰ぐと、一生を棒に振ることにもなりかねないため、
>事前に十分調査をし、常に一般常識に照らし合わせることが重要とされる。


私が何度も繰り返しているが、
この実践法を初め激流段階の実践法はどれをとってもニセ者にこの指導をされたら、
妄想を駆使する部分が災いとして作用し、
単に頭がボケたことを平安と勘違いして「貴重な一生を無駄に生きる事が確定してしまう」ので、
くれぐも、ニセ者覚者には要注意すること。

このような危険と背中合わせの実践法を、
手当たり次第のごちゃ混ぜの精神世界知識の収集により、
まともな教相判釈もせずに取り扱えるものでは無いのだから、
自分が大事なら、ニセ者をニセ者と見ぬことだ。

(続きます)

340TK:2014/02/08(土) 09:35:54
(続きです)

その一番の見抜き方は、
この者に付き従ってもいつまでも自らの中に「激流」が発生せず「緩流」しかおきない、
この状態の場合はその師はニセ者であると判断し速やかにはなれよ。

酔っ払いとして一生を棒に振る事になる。


さらに、これは物質としての実践、つまり、
「人への執着を拠り所とした理想段階の実践」を限界までやりぬいた者が進む道であり、
つまり、理想段階をやり抜いている者以外、ご法度という事だ。

私などは、激流の実践段階において、教会やキリスト教の集会に顔を出してみたが、
そこにはとても優しく親切で良い人たちしかいなかった。

ここに魅力を感じるかどうかだ、
人の温もりを欲している段階の者はここに引っかかる、
その者はこのような所に出入りしてはならない、
宗教色抜きにした理想段階の実践をもっとやらなければならない、実は私は、
それを精一杯やってこれ以上先に進めなくなったことによりここに参加したわけで、
その優しくて親切な人たちの集まりには、欠片も魅力を感じることは無かった、
このような者はもはや激流に進むしか手が無いのだ、
これが激流に進んで良い段階か悪い段階か否かの判定法だが、
私はこのような所には寄り道せず一人歩む事を選択した。

その時の私にはそのような親切で優しい人たちの集まりには、
全く欠片も魅力を感じなかった。

それをやり尽くしてこのようになった者以外は、
激流に踏み込んではならないものと心得ておけ。

人の温もりを求めて喜んでいる者たちに、
宗教や精神世界そのものがご法度なのだ、よく心得ておけ。

所がこの界隈、右見ても左見ても、
ニセ者とそれにつき従う酔っ払い集団しかいないのだ。

この界隈の狂った者と言うのは、世界を何とかするのだとか、
このように世界に執着するのは良いとして、不快な事にも全てに感謝せよとか、
そのための仲間とか、理想段階、激流段階ごちゃまぜの完全に狂っている。

このごちゃ混ぜの人たちは残念ながら、一生を無駄に終える人たちなのです。

同じ仏教は仏教でも正反対の実践が入り込むのですから、
仏教以外のどんな教えであっても、ただしい教相判釈は必要不可欠でありごちゃ混ぜは地獄行きです。

あなたは何でもかんでも手当たり次第取り入れてごちゃ混ぜをやっていませんか。

残念ながら公的資格制度はありませんが、エセでは無く、正しい師の元で学びましょう。

私はこのような話をする時には、今までに遭遇した現実の人物を題材に話をしています。

手当たり次第のごちゃ混ぜのエセ覚者がいたのです。

教相判釈に価値を認めていないようでした、と言うより、その者に出来るはずなどない。

だからこそ、その者から段階的な教相判釈の内容が飛び出すことは無い。

その捉え方は科学的な常識に照らしても欠点大ありですが。

まともな実践者に応じた段階的な教相判釈もなしに、何でもかんでも手あたりしだい精神世界知識を取り入れて、
それで害が無い訳が無いのです。

341TK:2014/02/09(日) 13:17:37
私には経典知識は大して無い。

理由は簡単だ、経典学者(釈迦の語録研究家)になど成るつもりは無いからだ。

そもそも当たり前だが、
本家本元の釈迦は経典学者(釈迦の語録研究家)を育てたくて教えを説いたわけではない。

親の心子知らずと言って、思い違いをしている者もいるのかもしれない、
それを本末転倒と言う。

釈迦は100万の自分の言葉を暗記してくれる者より、
僅かの言葉を利用して至った者を輩出する事が本質だったはずだ。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」


私は私に足りないその何かわからないものを何とかしたかった、
だから膨大も無い釈迦の経典の中の極々一部だけしか利用しなかった。

あえて絞り合いに絞って、そうしたのだが、私にとってはそれで充分だった。

それでも、それがあると無いでは全く違っていた。

おかげでラピ。さんのように横道にそれることなく何倍も短期間で成就に至れた。

それよりも、100万の経典の文句を勉強して一つの解脱も得られない者の方が、
可哀そうだな。

これは自慢にはならない。

私は極々僅かな釈迦の言葉を手掛かりに至れた。

至った私にラピ。さんに、
釈迦の残した膨大も無い経典の中の極々一部で充分用が足りた。

1を聞けば10を悟ると言う。

100万を聞いても未だ1も悟れない者もいる。

才能のある無しは仕方がないとして、
至れない者にとって100万の経典文字の教えより1つの生の教えという事だ、これは真実だ。

もしラピ。さんが100万の経典を手に入れたとしても至れなかったかもしれない、
しかし、1つの生の教えは100万の経典を超える。

私を1つの生の教えとして利用できる者は、ラピ。さん同様に幸運と言えるのかもしれない。

正直経典だけではたとえ100万の経典を並べたとしても難しいだろうな。

私には武器として悪魔を見抜ける眼があったんだ。

342TK:2014/02/11(火) 14:07:43
まず、釈迦は最高を表す言葉として、
「無」と言う言葉は使わないだろうと思います。

「非」あるいは「滅」です。


無我 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

>無我(むが、パーリ:anattā、サンスクリット:अनात्मन् anātman)は、
>仏教用語で、「我」に対する否定を表し、
>文字通りには「我ならざるもの」という意味である。
>「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。
>一方で、あらゆるものを非我(我ではない)とすると、
>どこにも我を見出すことはなく、
>必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので、
>非我と無我は同じことを指しており、
>非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる。


Wikipediaもかなりでたらめな説明です。

「非我」と「無我」と言う言葉がありますが、
これをごちゃ混ぜに同じ言葉として使い回している人がいます。

分かりもしないのに、無知なら無知ででたらめ言うより、
私知識があまり無いものでわかりませんの方が良いですね。

よくラピ。さんが我が有りませんと言いますが、改めて言えばこれが「無我」、
しかし、実はこれは釈迦の最高の境地ニルヴァーナではありません。

釈迦の最高の境地を表す言葉は「非我」なのです。

あるいは、「滅」でもいい。

どちらも、直接それを表す言葉では無く、
そこへのアプローチも含む間接的にそれを表す言葉だという事です。

非我と言うのは、
「ニルヴァーナは我ならざるもの」でも「ニルヴァーナは我ではない」でもありません。

これはでたらめ解釈です、嘘八百の大外れです。

Wikipediaというものはこのようなでたらめはっちょう、
結局信頼の出来ないもので、
この情報は参考以上に値するものにはなりえない価値のものです。

非我というのはニルヴァーナそのものを表す言葉ではありません。

確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。


ダンマパダ279
>「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
>ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


確かにそれは理論的には我が無い状態と言えそうですが、言えません。

我が無いと表現した段階でそれは、
我が無い「状態がある」と言っている事と同じになりますから。

それは、我で有るとも非ずともいかなる言葉に表す事も出来ない、これが真実です。

それは我に非ずでしたとか、それは無我でしたとか、
でたらめをさも正しい事のようにしてばら撒くのはやめてほしいですね。


ダンマパダ218
>ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、
>意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、
>(流れを上る者)とよばれる。


「ことばで説き得ないもの」これは実に良い表現、
だから資格が無い人が話したらウソがばら撒かれることになる、
さしずめWikipediaはその典型的な見本という事です。

(続きます)

343TK:2014/02/11(火) 14:08:18
(続きです)

昔はある資格以上のものが結集を執り行った、当たり前ですね。

究極とは分からないものなのです。

分からないものに対して我が有るとか無いとか非ずとか、どちらも外れです、
分からないものはただ分からない、それだけです。

全ては我ならざるものである、すなわちそれは無我である。 ×

全ては我ならざるものである、その先は分かりません。 〇

これは一見するととてもナンセンスな表現なのですが、なぜなら、
分からないものが釈迦の究極の発見なのかと、これが無限ループの一つですから、
ここに引っかかると釈迦のように七転八倒することになります。

ボディー達磨は無限ループを交わす手段で「不立文字」と言う言い回しを使いましたね。

不立文字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97

>不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の教義を表す言葉で、
>文字や言葉による教義の伝達のほかに、
>体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。


何かを見つけようと言うベクトルではいつまでたっても辿り着くことが出来ません。

ですから、
探究者は見つけようとするベクトルを捨てなければ決して辿り着く事はありません。

なお、「非我」と言う言葉が存在する以上ここから明らかになる事は、
恐らく釈迦は最初にニルヴァーナを発見した時は「我」があったという事です。

右往左往していたのですから当たり前ですが、
「我」の推進力を利用して涅槃入りしたと思われます。

そこから、「非我」と言う言葉が生まれたはずです。

例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

釈迦はさらに、
ニルヴァーナを発見した後に滅想受定がそれよりも劣るものとして釈迦に発見された。

さらにそれよりも劣るものとして「無我」(常住)におちついた。

順序から行けばこのようになるものと思われますね。

これは、実は私のプロセスと同じですから、私も釈迦をテキストとした関係で、
意図せずにこのプロセスを辿りました。

ですから、「非」あるいは「滅」と「無」は別物ですから、
混同して使い回す事の無いようにして下さい。

例えばニルヴァーナとは異なりますが、滅想、非想、無想の順ですね。

無は表現した段階で「無い状態がある」と表現している言葉ですから、
釈迦の世界では最高より下の次元を表す言葉として使われていると思います。

つまり、最高の境地は状態を表す言葉で表す事は出来ない、
同時に至るまでのプロセスも表すような間接的表現として「非」あるいは「滅」と言う言葉で表されるのが適切です。

波梨経
>「スナカッタよ、無想有情の創造説がある。
> 彼らは、無想定を修めて、無想に陥っている。
> 無に囚われるため、徐々に、徳が尽きてしまう。」
>
> 「徳が尽きた者は、無想天から落ちて行き、
> 天より苦しみが多い、人間界に生まれ変わる。
> 彼らは、苦しみを覚え、出家して無を思い出す。」


間違った解釈をさも本当ですみたいにやられている人は、
多くの人たちからニルヴァーナへのアプローチを閉ざしてしまう行為に繋がります。

話は変わりますが、私も久々に風邪をひいたようです。

土曜日、頭痛、喉痛し、日曜日 症状同じく 
月曜日 頭痛軽減し午前中で頭痛終了、午後カラオケしてたら何と声が出ない。
火曜日完璧声出ない、鼻が詰まる、痰が出る。

私は子供の頃から、病気の時も普通に動く習慣があるのです。

たまに風邪も良いですね、メンタルのメンテに活用できる、
体は病気になっても心は病気にはならないってね。

表面に苦痛を表す事無く人にそれを悟られることなくです。

しかし、声が出ないのは仕方ないですね。

風邪は楽しい。

習慣とは恐ろしいもの、染みついている。

344ラピ。:2014/02/11(火) 22:13:28
みなさま、こんばんは!

TK師、
よくなりますように。

声は出るようになりましたか?

はい、そうですよね。
やはり、至る前の習慣って至っても残っていますよね。


私も今の自分の状態をうまく言葉では表せず、
言葉になりません。
言葉に表そうとするならやはり「否定形」を使えば
なんとなく表せると思います。

「私がありません」
と言う「私」も消滅している、という感じです。


>確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
>最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。

はい。
言葉に表そうと思っても表せません。
何の言葉でも表せない。

いったい、なんなんだ、これは?

という状態です。


師匠が紹介されていたWikipediaにこう書かれていますね。

>「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではないと観察し、
>これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

この文、適切に表せていませんね。
「あらゆるものが我ではない」と観察できるということは
あらゆるものが存在していますから
「あらゆるものが我ではない」と観察する時点で
違いますね。

あと、智慧によって理解することはできません。
そもそも理解することではないからです。

この文はもっともらしく書かれていますが
これらを鵜呑みにしてしまうとちょっと違う方向に行ってしまいそうですね。



>例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
>この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

はい。「非在」ですね。

師匠、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

345TK:2014/04/26(土) 09:07:47 ID:drNPBZVQ0
私はラピ。さんに出会ってしばらくは精神世界の人的だったと思う。

しかし、その前は精神世界の人的ではなかったし今もまたそのようになりつつある。

メンタルを出来上がらせたおかげで、
人と比べて劣等感を感じなければならないレベルの能力ではなくなった。

大まかに言えば「瞬間」というものを確実にものに出来たと言う点だ。

瞬間的な対応、瞬間的な反応、瞬間的な察し、あるがままの情報。

メンタルを改造した、そこから私の人生はまた新たなスタートを切っている。

もちろん精神世界などという、そのような辛気臭そうな気持ち悪そうなものは、
はいさようならのカラッとした人生だ。

釈迦もイエスもそのようなものはもう一切私には用が無い。

そのようなものを必要とした私にとっては幼児期に当たるような時代も過去にはあった。

精神世界など、
そんなつまらないものにいつまでもしがみついているちんけでバカな者達。

悟りに至るための実践は、カルマの先取りをする仕組みには出来ているが、
それでも悟ったからと言っても果たさなければならないカルマは残る。

阿羅漢となったアングリマーラやモッガラーナもカルマを背負っていたし、
私の想起できた前世と今の環境を照らしてみてもそれは分かる。


目連 - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3

>舎利弗は「世尊第一の神通の弟子であるのに、
>なぜ神通を以って避けられずや」と問うと、
>「我が宿業極めて重く、我れ神の字に於いて尚憶ふと能わず、
>況(いわん)や通を発せんをや、我れ極めて疼痛を患う。
>来たって汝に辞して般涅槃を取る」といった。


悟って物事を処理できる能力は上がっても、
それがストレートに自らの境遇に反映してこない部分がある、
まるで環境の方が必死に変わるまいと頑張って抵抗しているようだ、
だからこそ人生は面白い。

まるでアングリマーラのようだ。

その部分は、メンタルのメンテ素材としてフィードバックし利用できるわけだが、
かと言って以前に味わった種類の苦悩がそこで発生することは無い。

そのような苦悩を発生する原理の生き方はしていないからだ。


央掘摩経より
>アングリマーラは、独り静かに精進をして、
> 梵行の究極の目的である、阿羅漢に到達した。
> 彼は、もはや、生まれ変わらないことを知った。
>
>ある日のこと、彼が、托鉢に回っていると、
> 昔の彼を知る人が、彼に石を投げ付けて来た。
> 彼の頭は血が流れて、彼の衣は裂けてしまった。
>
>それを見た、仏陀は、彼に、このように言った。
>
> 「アングリマーラよ、忍辱せよ、忍耐せよ。
> 以前、汝が為した罪が、今、返ったのである。
> 地獄で味わう苦悩を、現世で味わった過ぎない。」


さて、私は精神世界的な内容からは再び離脱する。

人生というものは自らの能力で切り開いていくと言うのが私の理論だ、
精神世界系の辛気臭い話はうざくて、そういう連中をかまうのも真っ平ごめんだ。

世の中の落ちこぼれの者たちはどうぞどうぞそのまま落ちこぼれていて下さい、
嫌になるまで、どうぞご自由に、
落ちこぼれる事の自由の権利はあなたたちに与えられた特権的自由だ。

そもそも精神世界のその「精神」と言う中核が無いこちらにしてみれば、
精神世界?何妄想こいているんだの世界です、
そのような与太話に私がお付き合いするつもりはありません。

落ちこぼれる事の自由を私はあなたたちに認める、
自由の女神がいてよかったですね。

精神世界、気持ち悪い。

一人の人物を輩出できたのは確かだが、
やがてそのうち私同様に変わっていくのかもしれない。

346ラピ。:2014/04/26(土) 11:56:55 ID:DaF3LKxc0
みなさまこんにちは!

TK師、書き込みありがとうございます。

おかげさまで私は至ることができ
大変穏やかに過ごしています。

本当にTK師のおかげです。

私は日常、表面上はいろいろな表現をしているように見えるかもしれませんが
何も起こっておりません。

だから苦悩しようがない。

いわゆる苦悩のシステムが消滅した、ということです。


これからのラピ。ですが はい、変わっていくでしょう。

変わるものがなく、変わっていくように見えるだけですが。

だから、これからラピ。が表現していく時に
それまでのラピ。を知っている方は違和感を感じるかもしれませんね。


思い出すのですが
私が初めて師にメールをしたとき
精神世界の人間である私への返事は大変そっけなかったです。(笑)

懐かしいです。

結局、自分が経験したから言うのですが
精神世界論にいては至れません。

精神世界の話なんて
まったく邪魔になるだけ。

頭でっかちでわかったふりをして生きていくのも自由ですが
それどまりになってしまう。

頭でっかちで満足してその気になっている人をたくさん見かけます。
(それで幸せだというのなら、それも自由ですが)

そうなるくらいなら精神世界論は必要ないと私もそう感じております。

あきらめなければ道は必ず開けます。

私がそうであったように。

347TK:2014/04/27(日) 09:52:38 ID:drNPBZVQ0
大企業のような大組織になればなるほどに、
どこまで行っても上が居て下が居ての世界だ。

特定の人物からほとんど誤解のような理由から、
一方的に敵外視されそれをあかるさまな態度に現わされ、
それが業務の支障の一つになっているような事もある。

自分が誰しもに誇れるレベルの能力差を身に付けたところで、
それでも目に見える評価をしない上の立場の者の存在。

突然自分の前に業務遂行の障害となって立ちはだかる人物が出現したりもする。

アングリマーラやモッガラーナのように、悟っても、人から敵意の目を向けられる、
これが自らの宿したカルマというものだ。

確かにやられるだけの事を過去に自分もやったのだから、
その意味では甘んじてやりすごすべきものだ。

それでもスローペースではあるが環境は確実に変わっているし、
変わらざる得ない状況と言えるものだろう。

敵意を向けるものに敵意で返さない、
立ちはだかる障害と思われるものも甘んじてやりすごす、
時に孤立に追いやられたりもしたがその時は独り居を楽しむ。

それでも、悟っていれば堂々として居れるし、
人に誇れる能力差もありエネルギーにも満ちている。

私は悟っていなかったらこのような環境で、
カルマと苦悩の堂々巡りの泥沼のような日々を繰り返していたことだろう。

やはり、悟りは快適だ。

実は、これらは悟る前の実践段階で現れる種類の障害では無い、
これは悟った後に現れる種類の障害だ。

だからこそ、ここから先は身に付けた能力差で臨み解決していく必要がある。

まるでドラマの主人公のようだ。

楽しいものだ。

根底にあるものは「ゆとり」だ。

傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。

大いに結構、腕の見せ所というものだ。

だからこそ人生は面白いゲームだ。

348ラピ。:2014/04/27(日) 22:36:41 ID:KL1N1kb.0
私も至った後、とても快適に過ごしております。

悟る前は何かが私を邪魔しているようで
何をしてもそれを感じており
何をするのにもそれに打ち勝つ意志が必要だった。

言い方を変えれば、がんばることが必要だった。
「嫌だなぁ」と言う声を無視し続ける必要があった。
行動の前に「意志」が必要だった。

しかしそれが消滅したおかげで
邪魔するものがなくなりすごく楽です。

いわゆる「ありのまま」という状態です。

ただし、このありのまま
「私はありのままだ」という意味ではありません。

「私はありのままだ」と言うそれが消滅した状態です。


悟る前までは私は「私らしさ」というこだわりがあまりにも強かったため
あるパターンにはまっていました。

我(=エゴ)が強かったため(ほんと、ほんと強かったです)
なんでも自分の中で意志を通しすぎるところがありました。
(でも、そのおかげで実践をとことんできたのですが)

そしてそれによる出来事の影響下にばっちりおりました。

でもその頃はそれが当たり前だと思っていて、なにも見えておりませんでした。
はい、見えていませんでした。

しかし今は「見るものがなくて 見えてしまう」ので
今までのことがどういうことだったのかわかってしまうのです。

悟ってもそれまでのパターンが残っているので
悟る前のパターンで出来事が起こり
それによってそのパターンがどういうものなのかが見えてしまいます。

空っぽですからパターンがありのままに見えてしまうんですね。
からくりが見えてしまうのです。

カルマの名残があることはある意味、とてもありがたいことです。

名残がないならないで、それでもいいのですけどね。
どっちにしろ問題はありません。

こんなふうに過ごせるなんて 激流突入時には想像もできなかった。
(ちなみに正しく言えば想像する暇もなかったのですが)

なんだかおもしろいですね。

349魔王:2014/05/29(木) 08:24:57 ID:001mTVu60
>では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。



TKはなかなかの癖があるタイプとみた。

350魔王:2014/05/29(木) 08:26:27 ID:001mTVu60
>根底にあるものは「ゆとり」だ。
傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。
大いに結構、腕の見せ所というものだ。
だからこそ人生は面白いゲームだ。



神の遊戯的風貌のある人だなあ。

351:2014/06/01(日) 15:51:45 ID:2OB2rbPY0
悟りは、言葉であらわせない。
「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。
では、われわれは悟れないかというとそうではない。
言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。
それです。

352嵐山:2014/06/01(日) 17:37:26 ID:njdwPOGQ0
いえいえ 悟りとは 梵我一如 である

353ラピ。:2014/06/01(日) 22:35:54 ID:o9R.myHw0
某さん

書き込みありがとうございます。

なるほどです。

>「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。

そうですね。そしてその真実といわれるものすらない状態がさとりです。

>言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。

のそのさらなるものがない状態がさとりです。

354ラピ。:2014/06/01(日) 22:37:27 ID:o9R.myHw0
嵐山さん

魔王さんのお友達ですか?

「梵我一如」って言葉、
私にとっては聞きなれない言葉です。

355嵐山:2014/06/02(月) 00:22:09 ID:njdwPOGQ0
ブラフマン とか アートマンとか 聞いた事ないですか?

356ラピ。:2014/06/02(月) 07:45:40 ID:srMrMveM0
嵐山さん

梵我一如、ブラフマン、アートマン
これらの言葉、検索してしまうレベルです。

「梵我一如」検索してもよくわからなかった、、、、。

もともと言葉にできないことですから
そういう言葉を知らなくても今に至れたのかな。

357嵐山:2014/06/02(月) 08:22:46 ID:njdwPOGQ0
ヒンドゥ的考え方で インドの三大天の一人 ブラフマー って神様がおります

この神様宇宙を想像した神様らしいのですが この神さまと同じものが

あらゆる物体に宿っている それがアートマンです

ブラフマー=アートマン これがヒンドゥの悟りらしいのですが

ちなみに ブラフマーは仏教の梵天様の事です

仏教でいう悟りは違いますのであしからず

358嵐山:2014/06/02(月) 08:33:31 ID:njdwPOGQ0
悟りについて で 書き込めばよかったですね
あちらに 移動します

359ラピ。:2014/06/02(月) 12:40:20 ID:TYoEs5Ls0
嵐山さん

>>357

わかりやすく教えていただきありがとうございます。

なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。

>>358

ありがとございます。
そちらでもよろしくです!
@(*・ω・*)ポッ

360riri:2014/06/02(月) 19:55:53 ID:33MxHT3s0
何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

>梵我一如
私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>真実といわれるものすらない状態。言葉を発しない、言葉の元となる想念さえも
>ない沈黙のそのさらなるものがない状態。
とありましたが、これを読んで私のイメージに浮かんだのは死人でした・・
少なくとも、この現実社会で生きているリアルな人間に繋がるイメージは持てませんでした

思うのですが、私達一般人にとって、言葉で伝えるということはとても大切なことだと思います。
それがあるから人類は古代から現在まで発展することができたのではないでしょうか。
どう言葉にすればいいか分からないことや理解していない人に対してどうすれば分かりやすく
伝えることができるんだろうといったことは、一般人が一般社会の中で生きていくために避けては
通れないことだと思うんです。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

361嵐山:2014/06/02(月) 20:17:40 ID:njdwPOGQ0
仏教的に言うと「仏性があるか」 と書けばよいのでしょうか?

362ラピ。:2014/06/02(月) 21:52:13 ID:fhZcLxbQ0
>>360 riri さん

>何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

ようこそいらっしゃいました。
ちなみにごくごく一般人は、さとりなんて興味持ちませんよ。

現実の私の周りにさとりに興味を持つ人はほとんどいません。
普通に生活しています。

>>梵我一如
>私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
>私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>感じなのかもしれないなと・・

そう想像している時点で実は離れてしまっています。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
>ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

riri さんが「わかる」というとき
それは「想像できる」ということです。

梵我一如がわかりやすいとのことですが
それがわかった、というのはriri さんの理解の範囲内でのことです。

でももし、自分の想像以上の世界があるとき
それを想像できたり
わかったりすることができるでしょうか?

想像できる時点で想像内のものになりますので。
想像以上のことは想像できないはずです。

私がriri さんにさとりの定義を伝えてriri さんが納得したのなら
その納得したさとりはもうさとりではありません。

さとりは納得したりわかったりするものではないからです。

私がriri さんにどんなに伝えても
(今までもこの掲示板で何度も、そしてこの最近も伝えているんですが、、、。)
riri さんは勝手に自分で解釈してしまうでしょう。

「わからない」ことがさとりへの道です。
「わかった」といった時点でそうではなくなってしまう。

この答えもたぶん、riri さんは納得しないでしょうね。

riri さんは何を求めているのでしょうか?
悟ることを求めているのですか?
それとも知識として求めているか、興味本位?

riri さんが私の言葉から死人を想像したように
今のriri さんにはさとりの境地はあっていません。

まずは精一杯生きることをお勧めします。
死ぬことではなく生きることです。(これも例えの言葉ですよ)

さとる必要なんてないんです。

まずはしっかりと自分を生きた人が
そうせざる得ない状態になって初めて
さとりの道が開かれます。

わたしがそうであったように。

363ラピ。:2014/06/02(月) 21:56:30 ID:fhZcLxbQ0
>>361

嵐山さん

私は仏教はちょっとわかります。

TK師にいろいろ教えていただいたから。

「激流」って言葉知っていますか?
(私はTK師から聞くまで知らなかった、、、)
まさしく私はその言葉のとおり
激流を渡って彼岸にわたりました。

この「激流を渡って彼岸にわたる」という言葉
釈迦はうまく表現してるなぁなんて思います。

>「仏性があるか」

なんもないんです。
ほんとうになんも。

364riri:2014/06/02(月) 22:01:41 ID:33MxHT3s0
ラピさん、ご回答ありがとうございました。

365riri:2014/06/02(月) 22:50:58 ID:33MxHT3s0
質問させてください。

ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

366ラピ。:2014/06/03(火) 00:09:53 ID:ZDDtW07.0
ririさん

ご質問ありがとございます。
@(*・ω・*)ポッ

>ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
>増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

さとれば苦悩から解放されます。
とても楽に生きていけます。
そういう人が増える、ということですね。

>たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

まず、さとりは理解できないものです。
たださとってしまえばそれがどんな状態かわかります。

だからさとればいい。

ではどうしたらさとれるか。

ここです。

さとりの道は決して楽なものではありません。

釈迦の言う「激流」がさとる前に必要なのは私も経験しています。

激流とは言葉のとおり激流で
一瞬でも気を抜いたら流されてしまう。


>変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
>現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
>思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

誰でも簡単に普通にさとれる時がくるか?ということですかね。

それはないでしょうね。

さとりそのものが簡単ではないからです。

さとりはどんなことも極めて、さらにそれを超えることとも言えるかもしれません。
なんでも極めるためには努力が必要ですよね。

そしてその努力すらも越えることです。

さとりが何かによってもたらされることはありません。

「もたらされる」ということ自体が
さとりから離れてしまっているからです。

だから「自分」が実践するしかないです、どんな時も。

367嵐山:2014/06/03(火) 12:04:34 ID:njdwPOGQ0
ラピさん 彼岸などに渡れませんよ 激流など妄想です
仏がなければ仏教ではありません

368ラピ。:2014/06/03(火) 12:35:12 ID:4w9Dm3860
>>367 嵐山さん

彼岸も激流も例えの言葉であり、
もちろん彼岸なんてありません。

しかし激流は別の表現ができます。

私にとっては「葛藤」というものでした。

私が決めたこと実践するに当たって
その実践を「したくないな」と思うことがあったとき
その「したくない」思いも無視して実践する。

ここでかなり葛藤が生まれます。

「したくないよ〜」と言う自分に
「いや、やれ!」と命令して実践し続けるんです。

嫌がる自分を無視して実践し続けたら
なんと実践そのものが消えてしまいました。

嫌になるもの、そのものが消滅してしまったのでした。

なんじゃこりゃ?です。

>仏がなければ仏教ではありません

そうなんですね。
嵐山さんの言う仏ってなんですか?

369嵐山:2014/06/03(火) 19:15:04 ID:njdwPOGQ0
涅槃を彼岸と取り違えてないでしょうか?
ラピ様の中では 色即是色なのでしょう 色というのは物質世界の事なのです
物質世界 六識では認識出来ない事もございます それが理解できるようになりましたら
仏様のお話をしましょう

370ラピ。:2014/06/03(火) 19:16:27 ID:4w9Dm3860
>>273 あやふやさん

>低俗高尚さまざまに心に起こる願望を
>行動に移しあらわし続ける生き方というのは
>悟りに何か役立ちますか?

あっちこっちをさまよって思いのままに行動するよりは
何か目標などを持ったほうがいいと思います。

そのあやふやさんの生き方は
スピリチュアル系から得たものですか?


>最近は自分が何を求めているのか全然わからないが
>ちょっと病気をしちゃったので病気に対処して動いてるだけのことが多い
>最近ようやく体を動かしやすくなってきたので今日は数時間歩けたのでとてもうれしい

少しずつ、よくなってきてよかったですね。

371ラピ。:2014/06/03(火) 19:22:06 ID:4w9Dm3860
>>嵐山さん

私はそういう話はわかりません。

ちなみに「嵐山さんの言う仏ってなんですか?」という私の言葉は
私にそれを教えてほしい、という意味ではないんです。

372ラピ。:2014/06/03(火) 19:53:42 ID:4w9Dm3860
>>369 嵐山さん

言葉が足りませんでした。

私がわからないところは
>ラピ様の中では 色即是色なのでしょう 色というのは物質世界の事なのです
です。

そうなのかな。

彼岸と涅槃の違いはわかります。

373あやふや:2014/07/01(火) 06:35:12 ID:ZDoFNhv60
このスレに書き込んどいて忘れていました
すいません
>>370
> >>273 あやふやさん
> あっちこっちをさまよって思いのままに行動するよりは
> 何か目標などを持ったほうがいいと思います。

そのとおりのようですね
結構自分にがっかりしました
>
> そのあやふやさんの生き方は
> スピリチュアル系から得たものですか?

少しこのスレをよんだところ
スピリチュアル系からというか
自分が現実でしたいことを精神的なものと
混ぜごぜにしていたかなと思います

> 少しずつ、よくなってきてよかったですね。
ありがとう
病気のおかげで何もかも変わってしまったようです
結構ありがたいです


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