したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

管理者日記

1メビウス@管理者:2010/11/16(火) 00:26:38
管理者のブログorツイッター代わりのスレです。

232メビウス@管理者:2013/02/01(金) 21:44:27
インド哲学は自分の見解がほとんどないのでメニューから消してWikipeidiaにリンク。
このサイトを始めたときから比べるとWikipeiaもかなり充実してきたので、必要ないページは消していく。

233メビウス@管理者:2013/02/01(金) 21:57:04
しかし地方に転居したんで図書館の蔵書数がへぼくて使い物にならないのが辛い。

234メビウス@管理者:2013/02/02(土) 13:34:41
実在論批判は現象的意識の非論理性とイコールなんだけど、同じページにまとめるか迷う。

実在論は二元論なので心的因果という別の問題もあるからやはり別のページにすべきかも。

235メビウス@管理者:2013/02/02(土) 13:38:20
実在論って要するにプラトン主義なんだよね。
中世普遍論争における普遍実在論と全く同型。
この点も詳しく書いてみたい。

236メビウス@管理者:2013/02/02(土) 23:24:17
ウィトゲンシュタイン全集も高いなあ。
別に金に困ってるわけではないけど、ベルクソンにバークリーにスピノザに大森荘蔵に……

少しずつ買っていこう。

237メビウス@管理者:2013/02/03(日) 23:38:46
デイヴィッド・ヒュームのページを加筆。
かなり穿った解釈かもしれないけど。

238メビウス@管理者:2013/02/04(月) 23:13:36
ヒュームの全集も高いな。
都会に住んでた時は近くに大きな図書館があったから、本なんて全てタダで読めた。
タダで読んで良い本だと思ったやつだけamazonで購入というパターン。

つくづく地方は不便だな。

239メビウス@管理者:2013/02/10(日) 13:56:02
上野修『スピノザの世界』を参考に、スピノザのページを大幅に修正。
孫引きで恐縮だけどw
スピノザの『エチカ』は簡潔な文体なのはいいけど、理論展開にとてもついていけなくて
すぐ投げ出してしまったw
実際、上野氏も解釈に苦しんでいる部分が多いように思った。

しかし上野氏のおかげでスピノザがヒュームの無主体論と紙一重だとわかった。
スピノザの難解さはその辺にあるのだろうと思う。

240メビウス@管理者:2013/02/10(日) 13:58:13
先日、ヒュームのページを書き直したんだけど、自分でも全く満足していない。
ヒュームが知覚の二つの原則を矛盾だとしたことは、もっと深く探求すべきかも。

241メビウス@管理者:2013/02/16(土) 22:24:26
また大森荘蔵のページを加筆修正。

ところで、「創発」は物理主義の立場から主張されたと思ってたけど、この私の理解は正確
ではなかったようだ。
河村次郎の『自我と生命』に、創発とは物理主義的な還元主義に対抗して生まれた概念……
とか書いてある。ティム・クレインの本にも類似のことが書いてあったけれど、意味が明快で
なかったのでスルーしたけど、複数の学者がいうんなら間違いはないだろう。

つまりクオリアが生じる原因についての仮説は三つあり、
1、創発
2、汎経験説(原意識の組み合わせ)
3、還元主義
還元主義に対して創発説が主張され、その創発説に対して汎経験説が主張されている
ということだと思う。

該当ページと関連ページを大幅に書き直さないとな。

242メビウス@管理者:2013/02/17(日) 23:11:02
還元・創発・汎経験説のページを作って、創発説の由来を書いた。
汎経験説対創発説は上のページにリダイレクト。

汎経験説対創発説はあちこちのページで書いてるので徐々に書き直し。

243名無しさん:2013/02/18(月) 01:04:14
パルメニデスの項目で表記に不明なところがありましたの御連絡させていただきました。

つまり、ほんとうに「ない」ものは断じて「ない」のであるが、
それは言葉では表現できないず※、
言語上の「ない」を、あたかも「ある」と対立して実在しているかのように…

細かいことなので申し訳ないですが…。

244メビウス@管理者:2013/02/18(月) 19:39:09
>>243
脱字でしたね。
>それは言葉では表現できないにも拘わらず
と修正しました。

245メビウス@管理者:2013/03/01(金) 16:48:33
ライプニッツの自我論を書き直した。
ようやくモナド論を半分ぐらい理解できた気がする。

246メビウス@管理者:2013/03/03(日) 21:36:36
スーザン・ブラックモアの『「意識」を語る』はインタビュー集で、
色んな哲学者や科学者の意識についての見解がわかるので面白い。
しかし翻訳が酷すぎる。

247メビウス@管理者:2013/03/04(月) 21:15:27
山形浩生は翻訳も酷いけど、あとがきも酷い。
自分の見解を書くのは結構だがチャーマーズやサールが何を問題にしてるのか
理解してるとは思えない。
この人物は博学なのは確かだろうけど、広いけれど浅い知識しか無いんだろうと思う。

248メビウス@管理者:2013/03/09(土) 22:06:50
独今論のページを加筆。また自分の見解ばかり書いてしまった。

今度は現象的意識の非論理性のページを作る予定。
実在論批判も書く予定だったけど、考えてみれば現象的意識の非論理性はそのまま
実在論批判になっているので、一緒にしとこう。

249メビウス@管理者:2013/03/12(火) 00:08:45
やっぱりサールは天才だと思う。
柴田正良が学生たちと「ロボットは心を持てるか」という議論して、
ほとんどの学生は中国語の部屋の思考実験を聞いて「持てない」と
結論してしまうと書いてたし。

250メビウス@管理者:2013/03/16(土) 21:56:50
今までずっと随伴現象説を性質二元論の下位カテゴリーに位置づけていたけど、
よく考えれば間違いだった。
とりあえずメニュー修正。

251メビウス@管理者:2013/03/16(土) 23:24:23
随伴現象説の間違いで書き直すべき所が大量にある。
好きな本ばかり読んでたのがまずかった。
心の哲学の基本的な部分で間違ってたのはがっかり。

しかし随伴現象説は基本的には物理主義なんだよね。
ジェグォン・キムとか。
サールが時に物理主義者と批判される理由がわかる。

252メビウス@管理者:2013/03/17(日) 14:15:05
2ch哲学板で意見交換を試みたけど、やっぱ全然話が通じない。
おまけに異常者がいる。

2chはやめた。
ツイッターやってみよう。

253メビウス@管理者:2013/03/17(日) 23:07:48
還元・創発・汎経験説のページは自分の意見が混合してたので書き直し。
自分の意見は下にまとめた。

254メビウス@管理者:2013/03/19(火) 22:35:30
現象判断のパラドックスを大幅に修正。

255メビウス@管理者:2013/03/20(水) 18:45:23
随伴現象説は思ったより広い意味で使われてる。
性質二元論とは還元についての立場があきらかに違うにも関わらず、
性質二元論の一種として解説してるケースもある。
しかも、必ずしも創発説を前提としているわけではない。
創発概念もエックルスは特別な定義をしてるし。
サールが創発を認めながら随伴現象説を否定するのは矛盾だと思うし。
なんでこんなに混乱してるのやら。

本格的に調べて書き直しだな。

256メビウス@管理者:2013/03/20(水) 22:00:16
とりあえず創発説や随伴現象説、それらと性質二元論の関係の
曖昧さを考慮して各ページを微修正した。

茂木健一郎は随伴現象説と性質二元論を同一視してるようだが、
両者は明らかに異なるはず。
スピノザやラッセルは「随伴して生じる」なんて表現はしないし。

257メビウス@管理者:2013/03/21(木) 20:48:32
心脳同一説と性質二元論の違いの説明方法を変えてみた。
今回の方がわかりやすいと思う。

258メビウス@管理者:2013/03/22(金) 22:19:06
ツイッターのアカウントを取得したので茂木氏に随伴現象説の件で質問しようかと
思ったけど、40万以上フォロワーいるしw
とても回答は期待できないのでマイナーな哲学者に質問しようかなとも思うけど、
心の哲学者でツイッターやってる人は少ないな。

とりあえず付随性のページは自分で調べられる範囲のもので書き直した。

259メビウス@管理者:2013/03/24(日) 21:36:22
付随性は随伴現象説だけの問題ではないのでメニューを修正。
書き直した上で心的因果の下位カテゴリーに移した。

太田雅子はツイッターやってるみたいだけど一般公開してないな。
入不二基義は身辺雑記ばかりで哲学的つぶやきはしてないし。
しようがないので放置してたmixiのアカウントから哲学関連コミュニティ
を探してみる。

260メビウス@管理者:2013/03/25(月) 23:33:04
英wikiでも創発説と随伴現象説は峻別されてるな。
Epiphenomenalismのページ見ると、
mental phenomena are caused by physical processesとあって、
emergenceやemergentは使われていない。
ティム・クレインの本では付随性と創発主義の微妙な違いが書かれてあった。
ややこしいことにチャーマーズとディヴィドソンでは付随性のニュアンスが違う。

付随性、随伴現象説、創発主義は、字義だけ見ると同一の心身関係論を説明する
言葉のように解釈できるけど、心の哲学ではきちんと区別されているということだ。

261メビウス@管理者:2013/03/26(火) 21:12:23
ジェグォン・キムを随伴現象説に分類してたけど、微妙なので外して、
チャーマーズの分類通りフランク・ジャクソンに変えた。
キムの主張は見方によっては随伴現象説なんだけど、中立一元論にも思える。
太田雅子の本を読めば詳しいことがわかると思うけど、正直そこまで細かい
議論には興味が無いし。

262メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/03/27(水) 20:43:32
トリップ付けてみる。

263メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/03/27(水) 20:50:25
心の哲学の限界が見えてきた。
所詮実在論だし。実在論とは二元論のことでもある。
物理主義は一元論の範疇にされてるけど、サールが看破したように還元、または消去
しようとする「心的」なるものを認めていることになる。

本当の一元論は現象主義または観念論だけ。

264メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/03/29(金) 21:12:29
大森荘蔵の弟子は沢山いるけど、現象主義を継承した人物がいないのは、
今の時代現象主義ではメシが食えないからだと思う。
心身問題での大森氏の探究には優れたものがあるのに、現代の心の哲学には
ほとんど生かされていないような。
日本人学者の著作には大森氏を引用してるケースは結構あるけど、英語圏の学者が
引用してるのは未だに見たことが無い。
英語語圏の学者は傲慢だな……というより、可哀想だなと思う。
学者にとって一番不幸なのは価値ある情報を知らないことだろう。

265メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/03/31(日) 21:33:32
橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』を読了。
私とほぼ同じ考え。つまり橋元氏はマクタガートのいう「C系列」論者。
そしてC系列は時間ではないから時間は実在しないという。

しかし現代の物理学者は時間は実在しないという立場の者が多いと書かれてるんだけど、
例として挙げられてるのはジョン・ホイラーだけというのは不満。
ちなみに内井惣七の本ではジュリアン・ハーバーが非実在論者として挙げられていた。
また中島義道の本には、ほとんどの物理学者は出来事の実在性を取り、時間の実在性を
捨てていると書かれてたんだけど、具体的な科学者名はなかった。

たぶん中島氏は相対論でいう「事象」を「出来事」と解釈したのだと思う。

266メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/03/31(日) 21:45:07
アインシュタインは現在過去未来の区別が幻想だって言ってたし。
もっとも、その相対論解釈だけではC系列に直結しないと思うけど。

橋元氏は、「この宇宙はただ存在するだけの相対論的C系列で、ミンコフスキー空間という
時空に描かれた一枚の絵」という(p.132)。
この解釈も、思考のプロセスは全然違うけど私と同じw
おまけに、「われわれの宇宙が相対論的C系列であるとすれば、あらゆる事象は在るがままに在る」(p.155)
という部分を読んだ時は、橋元氏は私のサイトを見てるんじゃないかと思ったw
でも出版が2006年だから私のサイトは関係なし。

要するに、時間の実在性を否定した上で、無主体論を徹底すると必然的にこのような解釈に到達するという
ことなのだろうと思う。
橋元氏は物理学的な思考プロセス、私は哲学的な思考プロセスだけど、結論はほぼ全く同じ。
また他の時間論の本ではないがしろにされがちな空間についても実在性を積極的に否定してるので、
よくここまで一致するものだと感心してしまったw

ちょっと残念なのは、橋元氏に哲学的な知識が不足してることだな。

267メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/01(月) 23:34:59
クオリアのページに意識とクオリアの違いを加筆。
サールや茂木氏の、意識は常に質的であるという考えは尤もだと思う。

268メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/04(木) 22:48:29
心の哲学者で時間・空間について論じてる人物はほとんどいないのは残念。
チャーマーズが情報の二相理論で僅かに時空の問題に言及している程度だな。

心的なものは非空間的、物的なものは空間的というデカルトの二文法を否定するには、
時空の哲学は不可欠だと思う。
結局、現代の心の哲学者はデカルトの手の平で踊っているだけと思える。
二元論を前提にする限り心身問題に合理的な解答を与えることは不可能だろう。

269メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/06(土) 23:47:47
植村恒一郎の『時間の本性』は変化の問題を考察してる点で、
他の時間論本より優れていると思う。基本はベルクソンなんだけど。

植村氏は「出来事」が最も根源的な概念と考え、出来事とは変化だから、
出来事自体は変化しないという立場。
私と近い考えなんだけど、植村氏は「私」という主体を天下り的に想定してる点が不満。
これで無主体論を前提にすれば私や橋元淳一郎みたいなC系列論者になると思う。

270メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/06(土) 23:55:35
植村氏の場合、「私」という主体を想定しているために「人生丸ごと現在」
という中途半端な主張になっている。

橋元氏の場合、「あらゆる事象は在るがままに在る」と、個人の人生の
現在性を超えて、より完成度の高い形而上学になっている。

271メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/07(日) 21:27:13
人格の同一性のページを微修正。

ベルクソンのページはWikipediaの方が遥かに充実してるのでメニューから消した。

272メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/07(日) 21:30:54
植村氏の時間論にはいくつか重要な問題がある。
ひとつは人格の同一性問題がないがしろにされていること。
人生そのものを「持続」というのはパーフィットが批判した非還元主義の立場。
ならばパーフィットのスペクトラムの思考実験に合理的に答えなければならない。

273メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/07(日) 21:38:13
もうひとつは「絶対無」と、ベルクソンが洞察した存在の否定としての無、
いわば「擬似無」とを混同していること。
変化や消滅の概念を含む「持続」や「出来事」が根本概念だというのは、
認識論的に正しくても、存在論的に重要な問題が派生する。
存在論的には、出来事は不可能なものを含むことはできないからだ。
つまり出来事に含まれている消滅とは擬似無でなければならない。
絶対無が含まれているなら持続した出来事にはならない。

274メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/07(日) 21:47:25
しかし出来事が無矛盾な全一的な存在者だとしたら、それは絶対無から生じた
ことになる。絶対無から生じていないというなら、擬似無から生じたことに
なり、人生が始まる前から出来事は持続していることになる。
また人生の終わりに絶対無になるというのも、論理的不可能性がある。

橋元氏の「あらゆる事象は在るがままに在る」という相対論解釈による
形而上学は、個人の生を超えており、植村氏の矛盾を解消している。

275メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/07(日) 21:51:46
植村氏が現象主義を前提にするならともかく、バークリーを批判して
実在論を肯定した上で、非還元主義的な「出来事」を提唱するのは無理がある。

276メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/09(火) 23:09:12
ようやく「現象的意識の非論理性」のページが完成。とりあえずだけど。

>>265-266で紹介した橋元淳一郎の見解はどれぐらい形而上学的含意が
あるのか微妙なのだけど、私の見解と極めて近いので再考した上で
載せるかも。

277メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/11(木) 21:05:02
橋元氏の残念なのは自我論がないこと。
時間の実在を否定するなら人格の同一性についての考察が不可欠だ。
逆に時間の実在を肯定する立場でも人格の同一性は問題になるので、
橋元氏も植村氏も同様の瑕疵がある。

278メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/15(月) 21:29:19
マリーの部屋のページを大幅に修正。
フランク・ジャクソンは物理主義的な表象主義に転向したので、表象主義の
ページを作ろうと思う。

あと大森荘蔵の「重ね描き」も独自の心身関係論として、独立したページに
しようと思う。

279メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/19(金) 21:22:12
ようやく表象主義のページが完成。

しかし表象主義の細部は疑問だらけ。機能主義の問題点を少しも克服してないように思える。

といっても資料が少なかったので正確に理解してるか疑問がある。
手持ちの本では信原氏の入門書で僅かに言及されてた程度。
後はネット上で拾える論文を寄せ集めて、それを要約したというレベル。

心の哲学で表象主義が注目され始めたのはジャクソンの転向から考えると
2000年前後ぐらいからだから、まだ研究成果も少ないということかも。

280メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/21(日) 21:30:50
「言語的批判」のページは消すかどうか難しいところ。
大森氏の「重ね描き」を独立したページにするなら、必要なくなるような。
重ね描きは明らかにウィトゲンシュタインの洞察、つまり言語的批判を出発点にしてる。

281メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/21(日) 21:40:39
ウィトゲンシュタインの<独我論と実在論の一致>で心身問題は終わったという見方はできるけど。
しかし事情が変わったのは20世紀後半の脳科学の劇的な進捗で、このため心の哲学は自然主義、
科学的実在論を前提にせざるを得なくなった。
ウィトゲンシュタインや大森氏の洗礼を受けているはずの野矢茂樹があえて実在論を
選択したのもそいう背景があったからだろうし。大森氏が晩年脳科学に拘った理由でもある。

それでも大森氏は基礎付け主義を放棄せず「重ね描き」で現象主義を貫徹したのだから、
凡百の哲学者とは器が違うな。

282メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/24(水) 20:30:16
心の哲学全般のページを加筆修正。

あと大森荘蔵のページを修正すれば、このまとめサイトも一応完成だな。
細かい部分の修正は定期的にやる必要があるだろうけど。

サイト完成したらのんびり好きな本読んでみたい。
2chの軍事板にも戻ってみるか、と思って久しぶりに見たら良コテは
ほとんどいなくなっているんだな。残念。

283メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/27(土) 23:28:46
大森荘蔵のページを加筆修正。
「無主体論と独今論」というテーマで大森氏がなぜ最終的に独今論に到達したかを
私の独今論解釈で書き加えた。かなり恣意的な解釈かもしれないと思うけど。

以前書いたヒュームの問題は大森氏の無主体論の問題と同じだと思うので、
ヒュームのページも修正する必要がありそうな。

284メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/04/27(土) 23:31:15
あと「重ね描き」を主要な説のカテゴリーに加えた。
独立したページを作るつもりだったけど、重ね描きは大森哲学全体から不可分なので、
大森氏のページ内にリンクした。

私としては、重ね描きで心身問題は「解消」していると思っている。
「解決」ではないのがポイントである。

285メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/02(木) 00:19:16
「無主体論と独今論」はまだ書き直しが必要っぽい。
大森氏はアウグスティヌスらの独今論に接近する過程で、なぜヒュームの
抱えた人格の同一性問題に言及しなかったかと疑問に思う。

あと「形而上学的無主体論」のページは自分でも満足してないのでとりあえず消した。
書き直しは何年後になるやら。

286メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/02(木) 00:23:07
「対戦型哲学史」の人のウィトゲンシュタイン解釈は優れたものだと思うが。
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card15987.html

しかしウィトゲンシュタインがもしラッセル並に長生きしてたなら、
やはり大森氏のように知覚因果説を検証せざるを得なかったかもしれない。

287メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/03(金) 21:10:04
各ページを微修正。

ベルクソンは「無」を認めなかったから「純粋持続」の終焉の解釈で苦慮したような。
霊魂研究とかw
いっそ独今論の立場を選択すればよかったと思うけど。
純粋持続を評価していた大森氏は最終的に独今論を選択したし。
ベルクソンはマクタガートと同時代の人なんだけど、どれだけマクタガート
を知ってたのだろう。

288メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/04(土) 21:35:20
ベルクソンは主体である「私」を放棄できなかったのだと思う。
その点、永井均と共通してるような。
永井氏も神や魂を信じてるみたいだし。

「実在」や「私」に拘る限り救いようの無い不合理を抱え込んでしまう。
だから私は無主体論と独今論を選択した。
大森氏もおそらく私と類似の理由で、思考プロセスは違えど同じ結論に至ったのだと思う。

289メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/05(日) 23:23:00
ヒュームのページを修正。大森氏のページで書いた自分の見解と整合性を持たせた。

無主体論は、よく指摘されるように理解不能な考え方だが、それでいいような気がする。
「汝自身を知れ(know thyself)」という格言は紀元前からあったそうだけど、
結局、カントがいうように人間は思考の様式が制限されているので、
「私自身」の本当のあり方は理解できないのだろうと思う。

290メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/07(火) 23:12:23
中国語の部屋のページを加筆修正。

この思考実験で心の哲学における機能主義は終わってると思う。
認知科学には機能主義の役割はあるんだろうけど。

291メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/10(金) 23:31:17
大森荘蔵のページを微修正。いくつか間違いがあった。

まだ加筆が必要な気が。
知覚因果説を否定するのはよいとして、野矢茂樹も指摘してるように、
「因果関係」の問題が解消したわけではないような。

この点には私なりの見解があるのだけど。

292メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/12(日) 21:21:55
クオリアのページに自分の見解を加筆。

言語的批判のページはとりあえず消した。
この問題をやろうとしたら後期ウィトゲンシュタインやクワインを本格的に勉強する
必要があるだろうし、そんな時間もない。

まあ、クリプキによって分析哲学における形而上学は復活したというのが一般的な
理解だから、言語的批判はとりあえずスルーしてもいいかも。

294メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/21(火) 21:18:12
マイケル・ダメットのマクタガート解釈は多くの論者が言及してるので『真理という謎』を購入。
マクタガートに関する論文は短い内容だったが、久しぶりに知的興奮を味わえた。

ダメットはマクタガートの時間論から、

A:時間の内に存在するものは、状況依存的表現なしに(世界の)描写はできない
B:実在には、観察者に依存しない完全な描写が原理的にありうる

という二つを読み取り、両者が矛盾するとした。
時間についての、ミンコフスキー空間のような客観的描写には動的な変化が描かれないから。
これは「描かれた運動は、運動そのものではない」というベルクソンの洞察と同じ。

295メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/21(火) 21:20:57
両者が矛盾するためマクタガートは時間の非実在を選択したというのがダメットの解釈。
しかしダメットは実在を認めて、認識の可能性、つまり科学的実在論を拒否する。
これがダメットの「反実在論」。

296メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/23(木) 20:50:42
ダメットの解釈は橋元淳一郎の解釈と部分的な共通性がある。
橋元氏はC系列論者でダメットとは異なるが、それでも「変化している現在」、
つまりA系列は認めざるを得ず、それを「人間の意志」で創られるとしている。
その辺の説明は実に不合理で、まあ橋元氏は哲学者ではないので仕方ないかなと。

297メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/05/27(月) 23:04:02
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』は、ラッセルの思想の変遷がよくわかる良書だった。
前述のダメットや橋元淳一郎の本といい、最近購入した本は「当たり」が多いw

ただ、ラッセルが後期ウィトゲンシュタインに反発して、あくまで実在の探究に拘ったのは無神論者
だったからだと思うが、その点への言及はなかった。
ウィトゲンシュタインの信仰とラッセルの無神論は、両者の哲学の重要な「根」だと思うんだが。

298メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/01(土) 20:35:06
三浦氏の本を参考にラッセルのページを書き直したいと思うんだが、
晩年のラッセルの思想は複雑難解すぎる。体系的にまとめようとしたら
タイプ理論から説明する必要がありそうな。
つまりラッセルは「中立一元論」とはいっても、それは巨大な哲学体系から
必然的に導かれた立場だということで。

299メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/02(日) 19:24:03
三浦氏はチャーマーズと共通点が多いな。
クリプキに心酔してる点。ラッセルから大きな影響を受けて点。
チャーマーズは数理エリートだったし、三浦氏は論理学者。

論理を重視する人としての共通性があるということかな。

300メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/08(土) 13:33:12
ラッセルのページを加筆修正。
ラッセルの哲学はホワイトヘッドから大きな影響を受けてるというので、
中村昇『ホワイトヘッドの哲学』を購入。
とりあえずホワイトヘッド哲学のアウトラインだけ理解。
ベルクソンとそっくりだなと思ったら、やはりそういう指摘はあるんだな。

301メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/08(土) 20:46:54
三浦俊彦は「クリプキの論説のわかりやすさは群を抜いている」と絶賛するわけだけど。
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/kripke-s.htm

『名指しと必然性』は私も読んだが、同一性の成立についての論説は説得力に欠けていると思うが。

302メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/09(日) 15:35:14
ラッセルの無主体論は優れた考察だと思ったが、
しかし肉体を主体として想定する限り知覚因果説の難点を抱え込むはず。
これはシュリック、ストローソンにも共通する。

知覚因果説のページを作るべきかもしれない。

303メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/09(日) 15:48:27
ラッセルが終わったのでウィトゲンシュタインのページも書き直したい。
ただしウィトの哲学全体を把握するのは無理なので、独我論に絞ってみる。

『論考』の独我論解釈は入不二基義の解釈でいいと思うんだけど、
『探究』はどうかな。入不二氏は『探究』にまで言及してないし。

しばらく前からウィトの著作を読み直してるんだけど、以前に比べると
だいぶ理解できるようになった気がする。
やはり永井均が書いてたみたいに、ウィトの哲学全体は(特殊な)独我論を
前提に成り立っているような心証がある。

304メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/10(月) 23:08:46
無主体論のページを加筆修正。
シュリックはラッセルの影響が強いように思うけど、入不二氏は書いてなかったな。

あと存在論的差異のページはとりあえず消した。
自分のハイデガー解釈には疑問がある。
もう一回勉強しなおそうと思うが、何年先になるやらだな。

305メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/13(木) 20:47:36
随伴現象説のページを修正。
近年では「随伴現象説」という言葉はネガティブなイメージしかもっていない。
20世紀初頭には随伴現象説は広く受け入れられていたみたいだけど。
ウィトゲンシュタインの『探究』でも随伴現象説が言及されてるんだよね。

現在、随伴現象説を主張してる学者は皆無だと思うが、茂木健一郎はそれっぽい
ことを書いているような。でも中立一元論とも受け取れるので真意は不明。

306メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/14(金) 20:39:01
現象主義のページを微修正。
「ブントが要素主義を批判した」という間違いがあった。
「ブントに代表される要素主義」と修正。

あと、知覚因果の説明が現象主義では難しいことを書き加えた。

307メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/16(日) 12:40:37
知覚因果説のページを作った。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/141.html

どちらかというと現象主義寄りの解説だけど。

野矢茂樹は私や大森荘蔵とは別の観点から知覚因果を否定してるみたいな。

308メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/18(火) 21:07:28
野矢茂樹の『哲学・航海日誌』の他我論は実に興味深い。

以前、私も大森荘蔵の他我論に違和感を抱いて、自我と他我には実は明確な
境界などないのではないかと考えたことがあるんだけど、野矢氏もそれに近い
ことを書いている。
ただ私の場合は実在論を否定するわけだけど、野矢氏の場合はそこまで行っていない。

309メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/18(火) 21:14:32
しかし、野矢氏は「逆転スペクトル」に対して、永井均と同じような批判をしてる。
永井氏のページでも書いたことなんだけど、想像可能性論法の意味がわかってないと
しか思えない。
ウィトゲンシュタインの私的言語批判を牽強付会してるけど、私的言語は関係ないし。

ウィトゲンシュタインのページを修正し終わったら、「ウィトゲンシュタインの誤用」
というテーマで野矢氏の批判をしてみようと思う。

310メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/21(金) 20:39:38
もう少し野矢茂樹を読んでみようと『同一性・変化・時間』を購入。
私の問題意識と重なってるタイトルだし。

ところが内容はがっかり。問題意識が浅すぎる。
永井均の言い方だと「哲学的感度が低い」。

偶然だろうけど、同じく大森荘蔵の弟子である植村恒一郎の『時間の本性』も
同じ2002年に出版されてる。でもこちらはかなり哲学的感度が高い。

大森氏の弟子同士、時間について議論してなかったのかな。
シンポジウムで会うことはあったみたいだけど。

311メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/23(日) 22:40:55
「他我とは自我である」なんてアクロバットな思想を持ってるのは渡辺恒夫と私ぐらい
なものだろうと思ってたけど、>>308で書いた野矢茂樹もそれに近いことを言ってるし、
森岡正博も類似の主張をしてる。
http://www.lifestudies.org/jp/taga01.htm
森岡氏によると、「私の心と他人の心はまったく同じである」という発想を最初に提唱したのは
1984年の平山朝治らしい。

平山氏の本を入手して渡辺氏のページを加筆しようと思う。

312メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/23(日) 22:48:03
空間の実在性を否定するのは時間の実在性を否定するより遥かにたやすい。
さらに「自我」を否定する無主体論の立場をとるのなら、「他我とは自我である」
という発想は必然的に生まれる。一時期の西田幾多郎もその可能性に言及した。

しかし大森氏は他我問題を「アニミズム」で片付けたんだよね。
それが不満。
この不満だけは野矢氏と共有できるw

313メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/25(火) 21:09:47
ウィトゲンシュタインのページを大幅に修正。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/75.html
独我論と心の哲学に関連した部分のみに絞ってまとめた。
「派生問題」として書いていた自分の見解は疑問が生じたので、とりあえず消した。

以前に比べればだいぶ理解できるようになったけど、やはり『探究』は意味不明の
部分が多い。
大森氏は第Ⅱ部の解読を諦めたそうだけど。

314メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/27(木) 21:05:49
入不二基義『時間と絶対と相対と』の書評。

入不二氏は「変化こそ時間にとって本質である」というマクタガートのA系列を
「動く今」として解釈する。(p.27)つまり「PがQに変化する」場合、
t1という時点でPという状態であること、t2という時点でQという状態に
あることは共に真であり、ここに変化はない。
「t1という時点でPという状態である」そのこと自体が、未来である状態から
現在へと到来し、過去へと消え去る。これが「(A系列の)変化」である、という。
世界の中の「状態変化」が全て凍りついて止まったとしても、その静止した
世界自体が、過去のものとなっていく「時間変化」こそが、〈今〉の運動なの
である、とA系列を定義する。

――この解釈は矛盾がある。世界が凍り付いて変化が生じないなら、「t1という時点でPという状態である」
という出来事も生じないのだから、〈今〉の運動も生じなくなる。

317メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/27(木) 22:14:28
入不二氏は「動く今」、つまりA系列は誤解であるという。(pp.34-36)
〈今〉は並立のありえない単独の様相であり、〈今〉という自己同一体が、
複数の時点間を移動しているのでなく、まったく新たな〈今〉がそのつど
生まれていると言った方がよい、という。
「時間の要」としての〈今〉は、同時性という意味での〈今〉でもなく、
「動く今」でもない、まさに現実化している〈今〉(〈今〉の現実性)こそが、
第三の〈今〉である、という。

――この入不二氏の主張には同意するが、これはマクタガートのA系列(「現在」が
なくなって「過去」になるという変化)に含意されているものである。
マクタガートも(A系列においては)過去と未来の実在性を認めているわけではない。
入不二氏の分析にはマクタガートの認識論と存在論の混同が散見される。

318メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/27(木) 22:19:55
「変化」とは矛盾を孕むものである。変化と同一性は両立しない。

入不二氏も前述のように「t1という時点でPという状態であること、t2という時点で
Qという状態にあることは共に真であり、ここに変化はない」と変化の矛盾を認めている。
ならば、なぜ人は「同一であるものが変化する」と認識するのか、という問題がある。

マクタガートは、出来事が変化しながらも「同一」のままにしておける特性として、
「出来事Aが、未来であり、現在になり、過去になる、という時間様相の変化を被る」
ということによって、変化と同一性の認識が成立すると考える。
(ただし、その時間の三様相が矛盾するため時間の非実在を主張する)

入不二氏は、同一不変の出来事が、未来の方から現在へと到来するという考え方の錯誤を
指摘する。未来は「ない」のだからという理由である(p.40)。
C.D.ブロードの考察も援用される。

しかし、この批判はマクタガートの論旨を捉え損なっている。マクタガートは
「時間概念(出来事が変化しながらも同一であると理解される)」の成り立ち
を認識論的に分析しているのである。つまり時間の矛盾を主張するための前段階の
レトリックであり、未来が存在論的に「ない」ことは問題にならない。
これが入不二氏はマクタガートの認識論と存在論の混同ということである。

319<削除>:<削除>
<削除>

320メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/28(金) 20:15:24
入不二氏は、時間特有の変化は、変化の中から取り出される固定的なものに対しての、
さらに高階の変化として、どこまでも高階化するのでなければならない、という(pp.106-107)。
これは>>314で書いたような、
>「t1という時点でPという状態である」そのこと自体が、未来である状態から現在へと到来し、過去へと消え去る。
ということをYとして表現するならば、そのY自体も、未来である状態から現在へと到来し、過去へと消え去る……(無限)
というわけであり、無限後退を時間の本質として肯定しようとする。

――この入不二氏の考えには同意する。ただしこれはマクタガートのA系列と対立するものでなく、
A系列から必然的に導出される理論である。
「現在」なるものが未来から徐々に到来して現実化し、過去へ無限に退行していく……。
このA系列は高階性を包含している。

321メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/28(金) 20:27:26
A系列論者とB系列論者の論争に対し、入不二氏は第三の解釈として、過去・現在・未来が両立不可能なのは、
それらが異なる概念だからというのでなく、「ある」現在と「ない」未来・過去との動的排他性だと主張する。(p.112)
また、赤と青の排他的な関係でなく、むしろ現在の赤と過去の赤を並べて比べることの不可能性に相当する、という(p.126)

――この入不二氏の解釈もA系列に既に含意されていたものである。
>>317で述べたようにA系列論者は過去と未来の実在を認めているわけではない。
即ちA系列論者が時制の「概念」によってのみ排他性を主張しているという入不二氏の理解が間違いである。
マクタガートも「ある」現在が「ない」過去になるということを、時間特有の変化と捉えていた。
その存在論的な問題を現在・過去・未来という概念で表現したのが、A系列という認識論的表現なのである。

322メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/06/28(金) 20:36:57
入不二氏は上の問題と関連して、時間特有の変化とは、
「端的な現在の現実性(これ)こそが過ぎ去るのでなければならない」という(p.117)。
これは>>317の「新たな〈今〉がそのつど生まれている」ということの表裏である。
この主張は『時間は実在するか』でも見られた。「現実性」の概念は入不二氏の形而上学の中核であり、永井均の〈私〉に近似する。

――この入不二氏の考えに対しては、存在論の最深部に到達しておきながら、存在論の核心問題を捉えそこなったという心証を抱く。
全一的な「現在(現実性)」が過ぎ去り、新たな「現在」が到来するということは、入不二氏も認めた排他的な「ある」が
「ない」になり、「ない」が「ある」になることである。これは「無からは何も生じない」という存在論の根本的信念に
ついて論じなければいけないはずである。
事実、植村恒一郎は『時間の本性』でこの問題について論じている。論じないのは、重大な瑕疵であると批判せざるを得ない。

323メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/01(月) 20:59:59
言語的批判のページを復活させて加筆修正。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/29.html

野矢茂樹と永井均によるクオリア批判を「ウィトゲンシュタインの誤用」として批判した。

324メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/01(月) 21:09:19
今後の予定。

>>320で書いた入不二氏の時間の高階性という問題が、意識の高階性に繋がるか研究してみる。
ややこしいことにクオリアを意識の「高階の性質」という人がいる。

あと、平山朝治の著作を入手したので、森岡氏の論文と併せて研究し、
渡辺恒夫のページを修正しよう。

あと、大森氏のまだ読んでない著作を購入して「重ね描き」に潜在する難問の研究。

325メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/02(火) 20:42:11
言語的批判のページの私の見解部分を微修正。
語の「指示対象」と書くとフレーゲみたいで、その後に引用しているウィトゲンシュタイン
と矛盾するようなので。

326メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/02(火) 20:45:16
野矢氏に関してこんなのを見つけた。
東大生だと思うけど、2011年にこんなシケプリを作成してる。逆転スペクトルその他について。
http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/lindoc-s3/documents/1013/files/2b096fba28128c869919671a2848fdf93f57191b.pdf?1328155842
>日常の振る舞いで齟齬が起きていないものに亀裂を生じさせるような懐疑を公共言語で
>表現できるわけない。公共言語でそのような懐疑を理解できたと思っていても、
>本当は理解できていないのである。

もちろん野矢氏の本を参考にしてるわけだが、こんな間違ったこと覚えていいのかとw
知覚一元論に対する(野矢氏の)理解も浅い。

327メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/02(火) 21:01:07
野矢氏は単にウィトゲンシュタインを引用したくて逆転スペクトルに私的言語を牽強付会してるとしか思えない。
ウィト妄信者にありがちなこと。

私のウィトに対する評価は野矢氏ほど高くない。
独我論と言語哲学について優れた考察を行ったことは認めるものの、
文法至上主義は「現象主義の劣化バージョン」というべきものだ。

われわれは言語でしか哲学を語れないのだから言語の射程を超えたものについては語れない――
これは当然だが、「現象を超えたものについては語れない」という現象主義の思考型と同じ。
異なるのは、「言語」そのものが「現象」の一部に過ぎないということ。
だから現象主義の劣化バージョンである。

ジョン・サールは言語哲学が専門だったが、「言語の哲学は心の哲学の一部門にほかならない」
という理由で、研究の中心を心の哲学に移した。

サールの姿勢はもっともである。

328メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/04(木) 20:35:56
逆転クオリアの思考実験をアレンジしてみた。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/41.html#id_219ee2f3

野矢氏や永井氏は「本当の色」なんてないという立場だが、私はありうるという立場。

329メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/07(日) 21:38:46
森田邦久『科学哲学講義』と内井惣七「量子重力と哲学」を参考に実在論のページを加筆。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/91.html

330メビウス ◆4lggoO1oV6:2013/07/13(土) 19:56:20
ジェグォン・キムの「付随的因果」とは上手く考えたものだと感心してしまう。
ちょっと調べて独立したページにしようかと思う。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板