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ご意見、ご連絡スレ

1メビウス@管理者:2010/11/10(水) 00:24:44
当サイトへのご意見、また著作権上の問題などを発見されましたらここへお書き下さい。

2メビウス@管理者:2010/11/16(火) 00:45:10
このサイトは管理者個人が心の哲学を整理し、より思索を深めるために作ったものです。
Wikipediaをはじめ他サイトや他者の著作物からの引用が大半です。著作権については詳しくありませんので、問題ありましたらぜひご指摘下さい。

5メビウス@管理者:2011/04/06(水) 22:14:26
管理者個人の見解は以下のページで述べています。

形而上学的無主体論
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/125.html
動物の心
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/116.html
パルメニデスのアポリアとして
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/96.html#id_799a0c55
渡辺恒夫-遍在転生観に関連して
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/97.html#id_e9f8d93e
永井均に対する批判と疑問として
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html#id_42cc2e8a

6名無しさん:2011/04/19(火) 18:46:33
ぼくは今年の四月までFPS中毒者で、四月から啓示的に哲学をやりはじめた学生なのですが、
これはとても良いサイトですね、学校が忙しいのと、読みたい本がたくさんあるのとで、
少しずつしか読み進めることができませんが、少しずつやっていこうと思います。
がんばってくださいね。

7メビウス@管理者:2011/04/20(水) 01:35:08
>>6さん、
感想を頂いたのは初めてです。ありがとう。

念の為ですが、このサイトは私の主観によってかなりバイアスがかかっています。
また現状では心の哲学全般を網羅しきれてないのも確かですので、割り切って
ご利用頂けたらと思います。

9:2011/06/21(火) 21:43:10
レヴィナスって心の哲学に入るんだろうか?
現象学との絡みがあるみたいだけど

10メビウス@管理者:2011/06/23(木) 02:03:57
現象学自体は独我論を出発点とした思考の形式なので、
心の哲学であるのか微妙なところですね。
フッサールの自我はカントの超越論的哲学と似ていますが、
現象学のためにあらかじめ存在が仮定されている点がポイントでしょう。

まあ、心の哲学とあんまり関係ないような。

11メビウス@管理者:2011/06/23(木) 02:27:35
留意すべきなのは、現在の心の哲学はほぼ全てが自然科学の知見を前提に、
またはそれと相克しないように行われていることでしょう。
心の哲学者はみな、かなりの科学的知識ももっています。

まあ、永井氏みたいに独我論ベースで関わってる人もいるので、
やり方が自由なのは確かですが。

12:2011/06/23(木) 07:24:05
だよなあ。

今、倫理学に興味があって、色々読んでるんだけど、
ぶっちゃけ範囲広すぎて手えつけようがないもんで困っている。
こいつの広さは、科学的知識だけじゃなく、
歴史的な知識まで必要とするところに大きな原因があるんだが。

13MoCa:2011/08/26(金) 03:16:30
他の連絡手段がわからなかったので、こちらで失礼します。

同じ@wikiの別のページにて、哲学関係やらもろもろ載っけてる者ですが、こちらのwikiもとい掲示板を拝見いたしまして、掲載されている文章を引用などさせていただきたいと思いまいました。
こちらほど文章量があるわけでもなく、つい先日やっとニーチェに触れたぐらいの若輩者ですので、あまり大きく出られるものでもないのですが……。

哲学に関するまとまったデータがネット上にあまりなかったので、こちらのサイトを発見できたのは嬉しいことでした。もし引用がダメだったとしても、リンクぐらいはOKだとかであれば、ぜひ宜しくお願いします。
駄文にてお目汚し、失礼いたしました。

14メビウス@管理者:2011/08/26(金) 23:32:56
>>13
引用、リンクはご自由になさってください。

なお、wiki内の文章に関しては私が他の著作物やサイトから引用しているものも
多いですので、ご注意された方がいいと思います。

15MoCa:2011/08/26(金) 23:54:11
>>14
ありがとうございます。
参考のリンクなどとして、活用させていただきます。

16名無しさん:2011/11/04(金) 12:35:36
永井均の<私>の意味を勘違いしてはいないだろうか。
少なくともあなたは永井の使う意味においての認識論的独我論、他者を誤解している。
たとえば、永井にとっての他者はふつう人を指しているのだが、
あなたにとっての他者は肉体という「もの自体一般」のうちの一つとして見えているようだ。
そもそも、永井均の<私>の概念は、他者と私の関係から考察されて導かれているのだ。

17メビウス@管理者:2011/11/04(金) 19:27:07
>>16
>永井にとっての他者はふつう人を指しているのだが
>あなたにとっての他者は肉体という「もの自体一般」のうちの一つとして見えているようだ。

その永井の「認識論的独我論」と「他者」の使い方がダブルスタンダードなんです。
「もの自体」は認識できないというのはカント以来の哲学者の共通了解です。
自分の肉体に〈私〉があるという見方は物自体をそのまま認識しているという素朴実在論的な
見方でなければできないのです。これは認識論的独我論と相反する考え方です。
認識論的独我論においては確実に認識できるのは自分の意識だけです。

実証的な立場から考えても、自分の肉体と思われているものは、自分という
特定の意識の所有者とはいえず、因果的な相関関係があるといえるだけです。
それならば、「他者」たちも同じです。

永井はダブルスタンダードなんです。チャーマーズの素朴実在論的前提に対しては、
「他人たちには意識があると信じて疑わないのは不思議というほかはありません」
と批判してるのに、自分は素朴実在論を前提に自分の肉体に〈私〉があるかの
ように書いてるからです。

18hijk:2011/12/01(木) 06:38:05
心の哲学という難しい領域が、凄く分かり易く纏められていて、
感動しました。問題を心底理解し、自分の言葉で語れる、
管理者の方の力量ゆえだと思いました。

私は、永井均の<私>という概念にすっかり魅了されており、
なんとか理解したいと思っているのですが、難しいです。

ちょっと思ったのですが、意識の難問まではいずれ物理現象に
還元される気がします。(それぞれが自己意識を持って生きて
いるという、世界を客観的に俯瞰するような感覚。)

一方、<私>は、「相互排他的な空間の各点において」「内側から
外側を(志向的に、時間に沿って)“見る”」ということが、
どうして可能なのか、という問い、すなわち「どうして空間は
広がっているのか、どうして時間は流れているのか」という
世界への問いに直結しているような感じがしてなりません。

意識の超難問は、意識の問題から出発して世界の在り方を問う
最短距離というか、世界と自我を繋ぐ洗練された現象学の核
のように感じています。この印象は的を射ているでしょうか。

19hijk:2011/12/01(木) 06:49:30
つまり、意識の難問までは、物理に還元し得るが、
物理の超難問は、物理が拠って立つ時空そのもの
への問いなので、物理に還元できない、という感じ。

(「意識の難問」のうち、時空そのものへの疑問と
表裏一体である部分を取り出したのが「意識の超難問」、
という言い方もできるような気がしています。)

20メビウス@管理者:2011/12/02(金) 22:16:36
>>18-19
まさに意識の超難問は「私」から出発して「世界」のあり方を問うものだと思います。
というか、「私」やクオリアというものの本性を考え詰めると、どうしても
時間と空間の実在性を問わざるを得ないんですね。
この点は人格の同一性やパルメニデスなどのページに私個人の見解として
書いているのですが、まあかなり飛躍した考え方かもしれません。
渡辺恒夫も自我論については私に近い考え方ですが。

21メビウス@管理者:2011/12/02(金) 22:44:40
永井均の<私>の概念は確かに理解が難しいです。
永井は説明が上手い哲学者とは言い難いですし、何より本人は自分が哲学する
ために本を書いてるようなものですから。
永井の<私>については、私が意識の超難問で「独在性のアポリア」として
書いたものが一番わかりやすいかもしれません。

とは言っても永井は<私>を、特定の人物に論理的に付随しないものと考えていることが
重要な点です。(これは大庭健からの批判に対する反論として明確に述べられています)

私は永井均のページで色々批判してますが、批判の一つがその点です。
仮に私が人物Aであるとした場合、<私>とは人物Aが「存在する」ということの
最も根本的な意味本質であり、<私>とは論理的に人物Aである、というのが私の考えで、
このことがハイデガーのいう存在論的差異の問題の核心だと思います。
永井も<私>の説明に存在論的差異を使ってるのはおもしろいですね。

22名無しさん:2011/12/15(木) 03:20:01
面白いサイトだ。
フランシスコ•ヴァレラとかも載ってていいと思いましたが。

23名無しさん:2011/12/15(木) 16:52:05
>>17
>その永井の「認識論的独我論」と「他者」の使い方がダブルスタンダードなんです。
>「もの自体」は認識できないというのはカント以来の哲学者の共通了解です。
>自分の肉体に〈私〉があるという見方は物自体をそのまま認識しているという素朴実在論的な
>見方でなければできないのです。これは認識論的独我論と相反する考え方です。
>認識論的独我論においては確実に認識できるのは自分の意識だけです。

その、まさに「認識論的独我論と相反する」という箇所が、
永井均の独我論に対する解釈をほとんど理解していない証拠だと思う。
確実に認識できるのは自分の意識だけ、というふうに言ったときの「自分」を、
皆にとっての自分自身、つまり「私」に置き換えて、受け取る形でしか、
認識論的独我論は伝達できない。逆に言えば、普遍的な認識論的独我論、
というものがありうる。でも、それは独我論的状況とは言いがたいものに
(永井均の言葉を借りれば)『変質』してしまった有様だ。だから、
「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする、
素朴実在論的状況と、何ら相反するものではない、といえる。

多分、「独我論」に対する解釈が様々にあるから、
永井均にとっての意味で捉えるほうがよい文脈と、
永井均にとっての意味で捉えてはいけない文脈とで分類しながら、
うまく読み取っていくしかないような気がする。
この意味で、永井はダブルスタンダードにならざるをえなかった、
と言うこともできる。

24メビウス@管理者:2011/12/15(木) 22:15:58
>>23
あなたは私がどういう脈絡で永井均を批判しているか全然理解してない。

永井は「認識論的独我論」について、「ある一つの心にとってその外部にある
ものの存在は認識できない、という一般論にすぎない(中略)その意味でこの
独我論は普遍的な独我論なのである」(『〈子ども〉のための哲学』p38)といいます。
それと対比されるのが「存在論的独我論」で、それがあなたの解説してる普遍化できない
永井の独我論です。それは既に私が永井均のページで簡単に説明してあります。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html#id_9be9d4d1

あなたの誤読は、永井がチャーマーズの素朴実在論的前提に対する批判として、
「認識論的独我論」でなく「存在論的独我論」を使ってると思い込んでることです。

永井はチャーマーズ批判に「存在論的独我論」なんて使ってません。
私が批判してる『なぜ意識は実在しないのか』の該当箇所(p80)をもう一回読んで下さい。

25メビウス@管理者:2011/12/15(木) 22:39:22
>>22
フランシスコ•ヴァレラですか。
心の哲学には間接的に関わってくるかもしれませんね。

まだトーマス・ネーゲルのページさえ作ってないので、
書くとしたらだいぶ先になると思いますが。

26横から失礼:2011/12/22(木) 20:58:45
永井均の話題に関連して質問させてください。
「なぜ意識は実在しないのか」を読んだのですが、正直よく理解できません。
結局永井が言ってるのは「意識は語りえない」ということでしょうか?

「転校生とブラックジャック」は凄く面白いと思ったのですが、
「なぜ意識」の方は読者を無視して書いてるような感じで付いて行けませんでした。

27メビウス@管理者:2011/12/24(土) 00:12:19
>>26
>結局永井が言ってるのは「意識は語りえない」ということでしょうか?
結論からいえばそういうことです。
永井の主張の要旨は、言語の本質は公的に共有されるものであるから、公的で
ないことが本質である現象的意識は決して語りえない、また公的に理解されて
はならないということで、これはウィトゲンシュタインの洞察に基づきます。

私見ですが、永井の著作で一番秀逸なのは『転校生とブラック・ジャック』、
または『翔太と猫のインサイトの夏休み』で、逆に一番悪いのは
『なぜ意識は実在しないのか』です。
あなたは永井の一番良い本の後に一番悪い本を読んでしまったようです。

『なぜ意識は実在しないのか』は心の哲学とウィトゲンシュタインの独我論
について相応の知識がなければ理解不能な内容です。
しかも永井の理論展開も随分ずさんなもので、そもそも心の哲学についての
基礎知識が間違っている。(というより、意図的に無視して自分の哲学を
やってるという感じですが)

28メビウス@管理者:2011/12/24(土) 00:28:56
永井は現象的意識について、ウィトゲンシュタインを度々引用して
「語りえない」といい、またそのウィトゲンシュタインの洞察が
英米圏で忘れられていると嘆きます。
でもこの永井の批判は全く的外れなんです。
そもそも20世紀の心の哲学はウィトゲンシュタインから大きな影響を受けた
論理行動主義から始まります。
行動主義はあまりに素朴心理学からかけ離れているため心脳同一説や機能主義に
置き換わっていきますが、その機能主義もまたウィトゲンシュタインの
「語の意味とはその用法である」という思想に由来しています。

そして、その機能主義に対する批判として現れたのがジョン・サールやチャーマーズの
自然主義的を前提とした心の哲学なんです。
つまり現代の心の哲学はウィトゲンシュタインの「語りえない」という考察は当然の
前提に過ぎず、チャーマーズが哲学的ゾンビや逆転クオリアの想像可能性論法による
思考実験で主張していることは「語りえないけど想像できる」ということなんです。
永井は「想像できない」ということ、つまり哲学的ゾンビやクオリアの逆転が論理的に
不可能であることを全く証明できていません。
それなのに自分の独我論的前提が周知の事実であるかのように拙速に話を進めていき
ますから、内容がずさんで、話についていけないのは当然でしょう。

永井もすっかり有名人になってしまいましたから、権威主義的になってるという
感じですね。

2926:2011/12/24(土) 19:38:33
>>28
心の哲学の前提を無視してチャーマーズをネタに
自分の思想を展開してるということですね。

永井均のチャーマーズ批判は何か釈然としないものを
感じたのですが、様するに土俵を間違ってるわけですね。

30メビウス@管理者:2011/12/26(月) 01:03:38
>>28
誤字があった。
×自然主義的を前提とした心の哲学なんです。
○自然主義を前提とした心の哲学なんです。

>>29
>心の哲学の前提を無視してチャーマーズをネタに
他の分野の哲学を批判的に読み替えていくというのは哲学において
一般的な手法で、ポストモダンでは脱構築なんて言いますが、
それが悪いわけではなく、理論展開がずさんなのが問題なんです。

参考までに、哲学の歴史において「他我問題」はフッサールとウィトゲンシュタインで
一旦終わったといえます。要するに他我は理解できるわけ無いからブラックボックスに
して、素朴心理学的に「類推」で他我を想像すればいいと。

大森荘蔵によると、「類推説は哲学じゃない」という批判から行動主義が始まったそうです。

31hijk:2012/01/24(火) 03:10:34
>>20-21
カメレスで恐縮ですが、ご解説大変ありがとうございました。
心の哲学が時空の実在性に繋がっているという見通しに
太鼓判を押して頂いたようで嬉しく感じております。

講談社「<私>の哲学を哲学する」の中で、
唯物論 vs 唯心論 のような構図が生じる根源が
言語と時空であると脚注で(僅かに)触れられています(p.284)。

世界が成立していることの必要十分条件は、
物理宇宙(物)が内部観測者(心)を持つことであり、
物的過程と心的過程が重ね描かれるためにはどうしても
言語(=記号一般、論理)と時空(=変化、矛盾を許容する形式)
が前提されざるを得ない、という構図が、私には分かり易いです。

どうも<私>の不思議については「言語で言えない」ことに議論が
集中していて、「時空とは何か」との関連については、あまり
突っ込んだ議論がまだ為されていないように感じています。
(※勿論、私が知らないだけなのかも知れませんが。)

(※話が脱線しますが、位相幾何学の本を読んでいて閃いたことが
  あります。物理時空の性質(擬リーマン空間)から時間を抜き、
  次元構造を抜き、距離概念やハウスドルフ性も抜き、それでも残る
  ギリギリの空間の性質としての「位相」というもの、それは即ち、
  開集合族が定義できることなワケですが、これって実は
  「自分が自分である」という(外側にある如何なるものでもない、
  一瞬前の自分ですらない、内側へ内側へと突き詰めていく連続的な)
  現象、即ち現象的意識が成立する最小限の条件の事なんじゃないかな、
  と感じています。ここの議論の通路が開くと、心と時空の表裏一体性
  の議論の基盤になりそうな気がしています。以上、脱線でした。)

<私>を単独で存在論的に扱うとパーフィットの思考実験などの問題に
突き当たるように思いますが、生命身体のような自我境界線(つまり
空間内で内側が定義できる表面)の中で強く焦点を結ぶものとして考え、
しかしその本質は時空そのものに帰着する(極論すれば素粒子にも
超希薄な<私>がある)と考えれば、スペクトル的な思考実験で生じる
問題も自然な形で解決できるような気がしています。

32メビウス@管理者:2012/01/26(木) 21:25:34
時空についての議論はパルメニデスに始まってカントで終わったという感があります。
ウィトゲンシュタインも『論考』でカントを追認するように時空を「形式」であると述べています。

デカルト以来、心的性質とは物理的性質と異なり、「延長」を持たず純粋に時間的であると
理解されてきました。
しかし私はその時間的性質も懐疑できるという考えです。
人間は変化とその属性である時間を「感じる」ことでしか理解できませんが、
では、感じるのに必要な最小の時間というのは何秒なのかという問題が生じます。
「私には確かに昨日の記憶があり、かつ今時間が流れているという感覚がある」
という現象的意識をAとするなら、そのAが存在するための最小の時間なるもの
はやはり確定できません。
このような考えを演繹すると必然的に、心的現象が存在するのに時間は必要
ないのではないかという懐疑に至ります。

あと、
>しかしその本質は時空そのものに帰着する(極論すれば素粒子にも
>超希薄な<私>がある)と考えれば、スペクトル的な思考実験で生じる
>問題も自然な形で解決できるような気がしています。
この点、心の哲学でいう「意識の境界問題」や「きめの問題」と関連しています。
素粒子にも超希薄な<私>があるというのは、チャーマーズの汎経験説に
類似した還元主義的な考えだと思いますが、この点では「組み合わせ問題」
などが指摘されています。

パーフィットの思考実験は人格概念について行われたものですが、クオリアや
<私>についても応用可能です。いずれも独我論的な内在性、私秘性をもった
存在者であり、テセウスの船のように恣意的に同一性が決められないものです。

テセウスの船は還元主義的に考えることができ、「部分」の総和が「全体」である
といえます。でもクオリアや<私>は部分を持たないですから、それらを空間と
存在論的に調和させるのは難しいと思います。

33hijk:2012/01/28(土) 05:28:58
>>32
ご返信ありがとうございます。

>心的現象が存在するのに時間は必要ない
>のではないかという懐疑に至ります。
★無時間の心的現象というのは私には全く想像できないので
 非常に興味深いです。どんな感覚なのかしらん…。

 心的現象の核には「自分(b)が自分(a)である」という感覚の
 連続があり、これが成立するには時間が必要だと思われます。
 また、この連鎖の最小時間は「確定できない」けれども
 「ゼロでない有限値である」とは言える気がします。

 (※人間の意識の場合でも、自分(a)が記憶化・客体化されて
   自分(b)になるまでの脳の計算所要時間は、ゼロではない。)

 しかし、こういう、言わば素朴な考えを遥かに超えた所に
 「無時間の心的現象」は構想されているのでしょうね!

>チャーマーズの汎経験説に類似した還元主義的な考えだと思い
>ますが、この点では「組み合わせ問題」などが指摘されています。
★一体自分が自我と宇宙に対して抱いている感覚は何なのか、
 誰の考えに近いのか、分からなかったのですが、なるほど
 チャーマーズの汎経験説に類似していると思います!
 しばらくチャーマーズを勉強してみようかな、と思いました。
 高所からのご助言に感謝致します。

 「組み合わせ問題」は確かに難しいですが、生命の進化は
 人間の脳に至るまでの過程で、この問題を解いたとも言えますね。

>クオリアや<私>は部分を持たないですから、それらを空間と
>存在論的に調和させるのは難しいと思います。
★確かに物理的な空間概念には全く馴染まないと思います。

 物理現象の属する時空と、心的現象の属する時空は、本来は
 全く別種のもので、これがたまたま噛み合うような特殊な状況を、
 宇宙とか存在とかと呼ぶのではないかな…、などと考えています。

36メビウス@管理者:2012/01/30(月) 01:40:19
>>33
>★無時間の心的現象というのは私には全く想像できないので
> 非常に興味深いです。どんな感覚なのかしらん…。

カントが分析したように時空は形式として既に感覚に伴っているものですから、
その感覚によって「無時間」を「感じる」ことは出来ません。
ただ論理的に可能性が示唆出来るだけです。
確かに、私には「時間が流れている」という感覚があるし、
「1,2,3・・・」と数えて時間の流れの感覚を得ることが出来ます。
しかし、そのようなことで実証される確かな事実は時間が流れているという
「感覚の存在」だけであり、時間そのものの存在ではないのです。

このように懐疑してみると、上記の「時間が流れている」も
「1,2,3・・・」と数えて時間の流れを感じたのも、「一つの感覚」の
「性質」ではないかと懐疑することが出来ます。
このような懐疑を飛躍させると、必然的に人の一生、つまり人生体験その
もの一つの感覚の性質ではないかという懐疑にも辿り着きます。
そして、空間の実在性に対する懐疑と併せると、全てのものは「唯一の存在」
の性質に過ぎないのではないかという壮大な一元論の展望が開けます。
これがエレア派が考えた一元論です。

アウグスティヌスも時間の実在性を懐疑する考察を行っており、
「全てのものが一挙に在る」という存在論を展望しています。
つまり過去の出来事も全ては唯一の〈今〉に対する現われと見るもので、
これを永井均は「独今論」と呼んでいます。

37hijk:2012/01/30(月) 06:57:12
ご解説ありがとうございます!(※あと、誤投稿の削除
ありがとうございました、お手数をおかけしました。)

私も時空は実在しないと思います。

時空とか意識とか物質とかによって自己完結的に「ある」
ことになっている性質を取り敢えず『存在』と呼び、
それらと関係なく独立に「ある」(従って論理的に示唆
することしかできない)性質を『実在』と呼び分けてみます。

時空も宇宙も心も『存在』の側にある概念で、一方
カントの「物自体」は『実在』のことだと思われます。

この用語が適切かは分からないのですが、何かこういった
厳密な呼び分けが必要であるような気がしております。

38薄いワクチン:2012/02/23(木) 22:33:57
どうも、使い慣れない哲学用語にぶつかったときなんかに
便利に使わせてもらっています(多謝)、読者です。


さっそくですが、最近更新された「中国人民」の項目に
あやしい記述があったので、報告させてもらいます。

それは、カッコでつけ足された「人間にはおよそ140億個の
神経細胞があるという。しかし神経細胞のうち実際使用して
いるのはそのうち3%ほどという研究結果もある」という部分です。

私も専門家ではないし、最新の脳科学などにも明るくないので
正確なことは言えないのですが、上記のような脳は一部しか使ってない説は、
一種の都市伝説か、過去にそのような研究があったとしても
現在は否定されている、とても古い説だと思います。

試しに検索してみましたが、wikipediaの脳の(解剖の)項目では、
脳は一部しか使ってない説は、脳の9割を占める「グリア細胞の機能が
よくわかっていなかった時代に、働いている細胞は神経細胞だけ
という思い込みから広まったもの」であり、俗説と切り捨てられています。
また、他にも下のような記事を見つけました。

web R25 >人は脳の3割しか使っていないって本当?
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20120130-00022636-r25


以上、報告でした。
サイトの質向上の一助になれば、幸いです。

39メビウス@管理者:2012/02/28(火) 00:48:03
>>38
ご指摘ありがとうございます。
どうやら脳は一部しか使ってないというのは俗説のようですね。
修正しました。


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