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『史実・教義の考察』用スレッド

1若鷹の掲示板 管理人:2009/01/09(金) 16:11:36
若鷹別館『史実・教義の考察』用掲示板(http://www2.ezbbs.net/35/chidou-waka/)を継承する『史実・教義の考察』用スレッドです。

『史実・教義の考察』に関する論文などのスレとしてご使用下さい。

なおそれに関する意見などは【若鷹の掲示板 継承スレ】又は【雑談スレ】へ。

なお、2008年11月に天城五兵衛氏が発表された『沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−1〜13』を
投稿者の氏名を 天城五兵衛(管理人代理投稿)として掲載させていただきます。

2天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:13:27
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−1

名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時50分

第二次宗門事件勃発後、日蓮正宗には邪義がはびこりだした。
「三宝破壊」に起因した「法主本仏論」が、その際たるものであった。

宗門の公式機関誌「大日蓮」1991年6月号では、「創価学会における御宗門批判のキャンペーンについて」と題する論文が掲載された。
内田和子なる信徒の論文ではあるが、公式文書に、「(阿部日顕管長は)現代における大聖人様」と発表している。
詳細は、地涌選集・第171号等を参照願いたい(www.houonsha.co.jp/jiyu/04/171.html)。

狂える日蓮正宗の邪義は加速した。

1991年9月の「大日蓮」では、創価学会古参幹部と日蓮正宗の能化との間での交わされた文書が掲載されており、大御本尊と日顕管長とを「不二の尊体」と規定し、両者への信心を信徒に求める邪義を展開したのである。
「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」等としている。
詳細は、地涌選集・第256号などを参照願いたい(www.houonsha.co.jp/jiyu/06/256.html)。

1991年8月のある式典で、高野法雄(当時・調御寺住職、現・平安寺住職)が、いわゆる「御書部分論」を説法。
「大聖人の御法門の一切は、あますところなく日顕上人猊下が所持あそばされ、その筋目の上から種々の御指南を下されるのであります。私たちが迷うことなく、日顕上人猊下の御指南に信伏随従する所以は、ここに存するのであります」
詳細は、地涌選集・第277号などを参照願いたい(www.houonsha.co.jp/jiyu/07/277.html)。

同月、行学講習会で、元海外部書記で「C作戦」にも関与した福田毅道が日顕管長を「本」で御本仏・日蓮大聖人は「迹」と主張した。
「立つ浪というのは次から次へと起こっては消えていくものだから、いま起こっている波が本で、過ぎ去った波が迹である。従って大聖人や日興上人、また歴代法主も過去だから『迹』で、当代の法主・日顕が『本』である。しかも日顕の指南の中でも新しい指南が本であり、昔の指南は迹である。従って新しい指南に沿っていくのが正しい」
詳細は、フェイク・第620号などを参照願いたい(golgo-to-maria.kill.jp/?cmd=read&page=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF_%E7%AC%AC620%E5%8F%B7)。

この様に、日蓮正宗は「日顕宗」へと堕して行ったのである。
私達は、大聖人の仏法を歪曲した「日顕宗」を各地で糾弾し、その邪義に騙されている法華講の方々を覚醒させ、救済する戦いを展開していいる。
そんな折、2008年10月、創価学会員を自称する沖浦克治氏、耕治氏親子が、インターネット上の複数の掲示板で、上記の日顕宗と一脈通じる邪説を開陳した。
曰く、「ご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹」等云々。この論を、便宜上「人本仏迹論」としよう。

この書き込みを機に、心ある複数の学会員諸氏が、「人本仏迹論」の正当性を論ずるべく詰め寄った。
しかし、沖浦氏は諸氏の忠言に耳を傾けることはなく、一方的に自説の正当性を主張し、却って忠言の諸氏を悪口罵詈、誹謗中傷、掲示板へのアクセス禁止措置を講じる暴挙に至った。
氏の子息である、沖浦耕治氏が、ネチケット違反の書き込みを「富士宮ボーイ掲示板」に貼り付けて来た為、同掲示板の常連である私は、沖浦両氏に対し、第三者の運営する掲示板にて厳正に正邪を論ずる対論を再三に亘り呼びかけた。
残念ながら、両氏はザリガニ宜しく私への誹謗中傷、挑発行為をするのみで、対論の提案を黙殺し続けたため、止むを得ず対論終結の判断を下した次第である。
しかし、同氏の邪義・邪説に同調する様子のメンバーが幾ばくかいる様に伺えたため、本掲示板でその邪義・邪説を正す事とした。

破邪顕正に際しては、自説を用いるよりも、私達の師匠である池田名誉会長の講義、指導を優先して用いる事とした。
また、沖浦両氏の人格を否定、批判を目的とするものではなく、あくまでも両氏の邪義・邪説の批判である事を明記しておく。

天城五兵衛 拝

3天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:14:26
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−2

名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時51分

下記は沖浦氏の持論である、所謂「人本仏迹論」である。
沖浦耕治氏が「富士宮ボーイ掲示板」に、2008年10月21日午前7時に投稿した分である(読み易くするために、一部改行位置を改めたが、原文はそのままにしてある)。

閲覧者の方で、自分の信心に不安を感じる方は、邪説に惑わされぬ様、注意深く読んで頂きたい。

*******(ここから「沖浦説」)

池田先生が、曼荼羅は虚空会の儀式を紙に写し取ったものだ。(趣意)と言われている。
そして、虚空会は迹。と明言されておられる。虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然じゃないですか。何故、小理屈がいりますか?

仏法は人間のための教えである。教えのの大原則なんですよ。国の憲法みたいなものです。仏法が人間のためなら、人間が本。仏法が迹。

曼荼羅は仏法に含まれます。物凄く簡単明瞭な理屈です。歴代の仏は曼荼羅なしで悟っているんです。全て内得信仰で悟ります。釈迦、天台、伝教、日蓮大聖人様、戸田先生。全てそうです。この事実すら忘れ果てた不心得者が、ややこしくしているのです。日蓮正宗の害毒から抜けられない人たちです。寛師の毒に侵されています。
 
例えば大聖人様と私共。身体は仮のものですから迹ですね。恐れ多いので私で説明いたします。大聖人様もおなじですよ。沖浦克治と言う人間。これはこの世での仮の姿です。ですが命は妙法なんですね。この身体は迹。次に生まれる時は違う身体です。命は同じです。妙法の当体です。本です。これは大聖人様も同じです。そして、自分と他人は自分が本、他人は迹。ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。ここは差別が無いのです。

『然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、』(生死一大事血脈抄)

現実社会の出来事から御書を読む。依義判文と言い、現実主義です。反対が依文判義で、教条主義で原理主義です。

日蓮系は古来二つの道しかありませんでした。教条主義で玉砕。現実主義で堕落。創価学会だけが、現実主義路線でありながら堕落致しませんでした。戸田先生が御書を依義判文なされて読まれたからです。大聖人様とご同様のご境涯でなければ不可能です。世界一のお方だったでしょう。

曼荼羅の現実はこれまでの思い込みとは異なります。海外のメンバーは曼荼羅がない方が多数いらっしゃいます。空の仏壇にお題目を唱え、見事な功徳が出ておられます。私共は、この現実からスタートせねばなりません。依義判文です。そうすると、曼荼羅が絶対ではないことがわかります。曼荼羅のご安置は、絶対条件ではなく、充分条件です。事実なくても大功徳が出ていますから。

大聖人様も曼荼羅なしでのお悟りです。戸田先生も同じく牢獄の中で曼荼羅はありません。お数珠もなく、牛乳瓶のふたで作られておられます。末法を導くお二人の偉大な仏法者が、お二人とも、曼荼羅に頼らず悟りを開かれた事実。門下なら当然大前提にすべきでしょう。この前提を歪め、曼荼羅崇拝を広め信徒支配を企んで来たのが、日蓮正宗と言う名の邪教です。曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。

なくても功徳が出て、戸田先生や大聖人様がお悟りになられた。迹じゃないですか。はっきりしてますよ。

(「沖浦説」ここまで)*******

この説に同調出来る様であれば、基礎教学を一から学び直すことをお勧めする。

4天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:15:51
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−3

名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時55分

はじめに、「本迹」の立て分けについて、「『諸法実相抄』の池田会長講義」の講義から抜粋する(50頁〜53頁)。

*******(ここから「池田会長講義」)

 妙法蓮華経すなわち南無妙法蓮華経が仏の生命の常住不滅の体であり、釈迦・多宝の二仏といってもこの南無妙法蓮華経という体があらわす働きにほかならない、との仰せであります。

 体は“本体”、用は“働き” であります。まさしく御本尊のお姿であります。御本尊における釈迦・多宝は 「南無妙法蓮華経 日蓮」と中央におしたための脇士となっており、妙法の用の仏として位置づけられております。釈迦・多宝といえども、またあらゆる十方三世の諸仏といえども、妙法の働きであります。南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人のご生命そのものであり、故に大聖人は、十方三世の諸仏を動かしていく当体であられる。私どもも御本尊を受持することによって、あらゆる仏・菩薩を動かしていくことができるのです。なんと私どもには、偉大な境涯の海が開けていることでありましょぅか。本当の信力・行力を貫いていけば、当体義抄文段に「我れ等妙法信受の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」とあるごとく、大聖人の生命が滾々とわいてくるのであります。

 また本とは「本地」で、本来の境地をいい、迹は「垂迹」で、影として映った姿をいいます。

 これを、もう少し分かりやすくいうと、本迹について天台大師は、天月と池月をもって示しております。空に輝いている本物の月が“本“で、他の水面に映った月影が“迹“であるというのであります。

 考えてみると、影は、池だけに映るわけではない。海の水面にも映りますし、湯飲みの茶の面にも映ります。ガラスの面にも映ります。すなわち、十分に光を反射する、滑らかな面であれば、そこに、はっきりとした影を映すことができるのであります。こうした光を十分に反射する面は、現代的にいえば、スクリーンと呼ぶことができます。

 したがって、法華経本門において、仏の本地を久遠実成と明かしたということは、久遠五百塵点劫成道の仏身が本地で、それ以前の始成正覚の釈尊は、当時のインド社会というスクリーンに映った影となるのであります。更に、地涌の菩薩が、本地・久遠元初の自受用報身如来であるということは、久遠元初の仏が、法華経の儀式というスクリーンのうえに映した一つの影ということになるのであります。

 地涌の菩薩ばかりでなく、釈迦・多宝の二仏も、久遠元初の自受用報身即・南無妙法蓮華経という本地の仏が、虚空会の儀式のうえに映し、あらわした影である、との仰せであります。

 これを私どもの生命に約していえば(約すとは、立場からという意義である)私どもは、さまざまな社会をスクリーンとして、さまざまな姿=影を映しております。家庭というスクリーンでは、一家の長という姿、会社というスクリーンでは、たとえば課長、学会の組織というスクリーンでは総B長、国際社会というスクリーンでは日本人という影、そして生物の世界をスクリーンとしては、一個の人間という影を映しているといえる。

 これらは”影“である故に、スクリーンが揺れれば、影も揺れる。スクリーンはそのままでも、やがて消える影もあります。学生という影は、卒業によって消えるのであります。なかには、早く消して、新しいスクリーンに新しい影を映したいと思いながら、なかなか消せなくて困っている人もいるようですが‥‥‥。

 では、消えないで、永続していく本体はいかなるものか。人間の過ちの根本は、仮にあらわれているにすぎない影を、自らの不変の本地であるかのごとく錯覚してしまうところにあるといって過言ではないでしょう。先にあげたうち、人間であるということは、比較的、本地に近いし、生き、行動していくうえで、忘れてならない原点ではあります。

 だが、それすら、より深く考えれば、生死流転する無常の存在にすぎない。故に、この生老病死という流転、変貌の人間存在を見詰め、生死を超えて常住の自己の真実の本地を見いだそうとしたのが、仏教なのであります。そして、結論的にいえば、南無妙法蓮華経こそ、其の常住不滅の体であり、それが自己はもとより宇宙万物の実相であると究め尽くしたのであります。

 故に、妙法蓮華経こそ“本仏”、それに対して、釈迦・多宝の二仏は“用の仏”“迹仏”であると仰せられるのであります。

(ここまで「池田会長講義」)*******

5天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:17:05
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−4

名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時57分

日蓮大聖人曰く、
「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)
「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄)
余りにも有名な御文なので引用の必要も無いが、破邪顕正のために敢えて引用した。

教学において持論を展開するならば、当然のことながら「文証」をあげる事が第一である。
而して後、持論を裏付ける「文証」が道理に適っているのか証明するために「理証」が必要になる。
そして、持論の正当性を証明するために「現証」を提示するのが肝要である。

これとは逆に、「現証」を正当なものと証明するならば、理論的な裏付けが必要である。
「文証」であり、「理証」である。これが無ければ、「鰯の頭も信心から」となってしまう。

然るに、「人本仏迹論」には、確固たる「文証」が無い。
下記は、文証の提示を質した際の沖浦氏からの「若鷹の掲示板」での回答である(2008年10月26日)。

*******(ここから「沖浦説」)

文証はね、理解能力が無い人には無意味なんです。現証が一番理解しやすいんです。その最もわかりやすい現証すら理解しようとしない方ですよ。文証わかる分けないじゃないですか。
これね、こう言うふうになるんですよ。ホント、スゲー!で、どうして?
〜これが現証。

理屈はね、これこれこの通りです。ウワッ〜! 超納得〜〜!!!
〜これがね、理証。

そしてね学説的な裏づけがこの論文です。イヤ〜〜!本物なんだね〜〜〜!!
〜これね、文証。

こう言う順番なんです。
ところがね、入り口の現証すらわからない。(以下略)

(「沖浦説」ここまで)*******

何やら、日顕宗管長の過去の説法を彷彿とさせる表現と酷似している点が面白い。
「現証」を証明する理屈の「理証」と学説的な裏付けの「文証」はどこにあるのか?
自己完結では、人々の理解は得られない。
ともあれ、「人本仏迹論」には、確固たる「文証」が無いのである。


また、大聖人は「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(三沢抄)と説かれているが、私達は、佐渡流罪以前に著された御書を、「迹門」と呼ぶであろうか?
「立正安国論」は迹門と習っただろうか?
十大部である「唱法華題目抄」は爾前の教えとして、軽んじてきただろうか?
答えは「否!」である。何故なら、本迹相対する必要が無いからだ。

しかるに、沖浦氏は何故「人本仏迹論」を主張したのか?その真意は分かりかねるが、全く無意味の本迹相対であることから、かの説は邪論・邪説であることは明白である。


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