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日蓮考察

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 11:10:24
このスレッドでは、日本では馴染みの深い、日蓮をテーマに議論していきたいと思います。
日蓮の呼称は、大聖人とか、聖人とか大菩薩など様々ですので、敢えてスレタイは日蓮とさせていただきました。
わめもここでは配慮して、日蓮と書く場合が多いかもしれませんが、配慮以外の他意はないことを予めお断りしておきます。
皆さんは馴染みある呼び方でも、日蓮とだけでも自由にお書きください。

それとわめの掲示板での議論のルールを説明します。
ネチケット尊守は当然して、ここではポパーが提唱する「可謬性」をお互いが認知し、「批判的合理主義」に則って議論をし、互いの知識を高めあっていこう、互いの誤謬を発見し合い、喜びとしようとするものです。
なので、自らの論の正当性を、訴えることに終始したり、他者からの批判を、攻撃されているように受け止めることは避けてください。
それと皆さん限られた時間の中での書き込みになるかと思いますので、レスを催促したりすることは避けてください。レスはむしろテキストエディター等で作成し、何度も読み返す&時間をおいて書き込む等を心掛けてください。

またテーマに関する範囲でその自己認識を提出し、誤謬がないかを指摘してもらうのもいいかもしれません。
ということでよろしくお願いいたします。ぺこ <(_ _)>

最後に「可謬性」及び「批判的合理主義」の簡単な解説を載せておきます。

「可謬性」とは、ポパーが用いた用語で、われわれの知識が完全に真理に到達したかどうかは確証できず、常に誤っている可能性があるということ。
「批判的合理主義」とは、「私は間違っているかもしれない、あなたが間違っているかもしれない、そしてお互いに批判的に検討しあえば、よりよい真理に到達できるかもしれない」とする見解をいう。

222みれい:2006/02/13(月) 00:27:42
わめさん

>バランスを考えたコメントを書いてしまいます。

としたら、わめさんの意見の中心が曖昧になる可能性があります。
バランスはバランス、わめさんの意見はわめさんの意見として分けてほしいと思います。

>それは私の「宗教嫌悪または偏見」みたいなものからではないことをご理解頂ければと思います。

わめさんブログの「やっぱり宗教は好きになれない」はもう昇華されたのでしょうか?
コメント欄は脱線していって結論がどこになったのかよくわかりません。

>みれいしゃんは宗教を全般的に容認するお考えを持っておられるからでしょうか

いいえ、全般的にというわけではありません。でもわめさんのおっしゃる枠よりは広く容認していると思います。

>他に相違点として、みれいしゃんは特定の宗教団体側に「他者に迷惑をかけるような盲信」が生まれやすい原因があると思われて、Leoさんは主に信じる側の信じ方に原因があると思われているように感じます。(Leoさん、違ってたらご指摘くださいね。)
 私は(カルトに限らず)宗教側と信じる側の信じ方の両者に問題があると思います。

あれ?私は宗教団体と信者の両方に問題があると思ってますが?(問題宗教団体に絞ってますけど)
それにLeoさんもここでのコメントはそこに絞りましたが、必ずしもそこだけに断定していないことは、それまでのコメントやLeoさんのサイトをみて思います。

>「他者に迷惑をかけるような盲信」についてのみ話し合ったほうがよいように思いますがいかがでしょう?

そうですね。

223みれい:2006/02/13(月) 00:29:29
>両立できる「信じ方」とはどのようなものでしょう?
>「それ以外」の宗教とはどのような宗教を指すのでしょうか?

それは重要なところだと思うので、私の意見よりきちんと世界のいろんな宗教学者や宗教家(できれば信仰者でなくて)の話をきちんと聞いて信仰のあり方や信仰そのものをご自身で認識されて判断されたほうがベター(この場合信じる信じないは必要ないです)だと思いますが、
わめさんの言葉を借りれば
『>「この世のすべての事柄に法則や秩序」があると思いますし「法則や秩序」を真理と読み替えてもいいと思います。』
の『「法則や秩序」に加えて「普遍性」をもったもの』を説いている宗教ならばそこから離れないと思います。そして、信じ方もそういった宗教でも説いているとおもいます。

「普遍性のある法則や秩序」を宗教団体がいかにもな事を言って勝手に歪めて作れば、問題も生じてくると思います。
仏教がなぜ血脈を大事にするかというと(キリストも言い方は違うでしょうけど伝承にあたっては慎重だと思います)、やはりそういった道から出来る限り外れていかないためのものだと思います。時代によって変わってゆく部分があるにしても、普遍性の「法則や秩序」からはずれれば、歴史上長く残らないし問題も生みやすいのではないかと思います。
これまで何千年の間に、仏教や他の宗教もものすごくたくさんの枝分かれが出来たと思います。消えていったものも多いでしょう。(だからとって消えるまで問題を放っておいていいと思えないですよね)

>受け入れてしまうことは、その一面において「科学や心理学や精神医学の発達」の妨げにもなっていると思います。

>ただこの場合にも仮説を理解・予測し、その上で仮説は仮説として支持(信じる?)していかないと(仮説に対し)盲信に陥ることになると思います。

どちらも「信じ方(言いかえれば受け入れ方と言ってもいいと思う)」の問題ですよね。
世界の各国によっても風土も気候も立地条件も違えば生まれる宗教もちがいますから、例えば自然の恩恵を受けて昔ながらの宗教でバランスも取れている地域なら無理に科学や精神医学を発達させる必要もない場合もあると思います。そして今まで科学がすごい速さで発達したのはキリスト教圏のはずです。神の存在に客観的な答えがあるのでしょうか?それは問題ではないとおもいます。
他に問題があるとすれば「科学や心理学や精神医学の発達」と逆流、歪曲するような事や「客観的に明確な答えが出ていないこと」を盲信することを説く宗教に絞ってもいいと思います。

>盲信に陥らない信じ方とは、仮説はあくまで仮説であって不確かなこととした上で、その仮説を出来うる限り理解・検証し、その仮説が真であると予測できるなら支持(信じる)することだと思います。というかLibra師匠のいう「仏教的信仰」そのものではないかと。

それでいいのだと思います。
とかいって、余裕のあるときは誰でもそのように冷静に考えるのに、溺れそうになると、考える余裕もなく身近にあるものなら何でもつかんでしまったりすることが人間ありますよね。
http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/2d8f81180521b776dc6e3f263a2f2390

そんな、ロジカルな部分だけでは済まない面も人間は持っているので、日頃から信仰について考える機会がもっとあってもいいのだろうなと思います。

224みれい:2006/02/13(月) 00:38:22
さて、「なぜ人は宗教にすがりたくなるのか」(小田 晋著)という、このテーマにぴったりの本を以前借りてきたものの、他の本を読んでいる間に返却期間が来てしまって(やばい過ぎたかも)、借り直ししてから読んで参考にさせていただきたいと思います。
見出しのみ紹介。(先に読んでおけばもっと的確な意見をお伝えできたかもorz)
簡単に言うと「宗教との上手な距離感」ともいえるかな、と、目次を見て思いました。
(そうするとわめさんの主張とも合わさるでしょ?)

《1章》宗教に頼りたい心理は誰にでもある
 ①今こんな人が邪悪な宗教に狙われている
 ②不安を解消する答えはどこにあるのか
 ③人は無意識に宗教と関わっている
 ④「自分はなぜ生きているのか」をふと考えたとき
 ⑤宗教にはまる人には、これだけの予兆がある
 ⑥死への不安に押しつぶされる人、跳ね返せる人

《2章》宗教との距離感が人間関係を決める
 ①自分は「無宗教」「無信仰」と信じている人々
 ②こうして「日本教」の信者は作られた
 ③なぜ宗教は日本人の“警戒心”を刺激するのか

《3章》宗教を興した人々−正常と異常の分かれ目
 ①3大宗教の始祖を“徹底解明”する
 ②「ご託宣・憑依」はどこまで本当なのか
 ③カリスマが出現するときの「これだけの条件」
 ④日本の新宗教を支えた「女性教祖の存在」

《4章》心を蝕む宗教、体を侵す宗教
 ①宗教がこんな「心の病人」を生み出している
 ②人格は変えてしまうことはどこまで可能なのか
 ③何が真実で、何が嘘か−目が曇ってくる危険

《5章》「本物の宗教」と賢く関わるために
 ①癒しの原点がここにある
 ②病気直しの「奇跡」は本当に起こったのか
 ③「カウンセリング」にこそ、宗教の意味がある
 ④犯罪を防ぐ宗教、生み出す宗教
 ⑤これが宗教との「正しい付き合い方」

225わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/13(月) 01:55:11
 みれいしゃん、こんばんは。^^

 何だかバタバタしてましてじっくりお返事が出来ない状態です。
 ですので主題になりそうな「他者に迷惑をかけるような盲信」はさておいて、今回は議論の枝葉にあたる箇所についてだけお返事させていただきます。

> としたら、わめさんの意見の中心が曖昧になる可能性があります。

 私は宗教が好きだからとか嫌いだからという前提を元に意見を述べている訳ではありません。ですので私が宗教を好きか嫌いはまったく私の意見に影響しておりませんので関係はないと思います。

> わめさんブログの「やっぱり宗教は好きになれない」はもう昇華されたのでしょうか?
> コメント欄は脱線していって結論がどこになったのかよくわかりません。

 記事では私の「宗教が好きになれない」理由を述べておりますし、そのコメント欄では宗教が好き嫌いについて是か非かの議論はされておりませんし、そこではみれいしゃんとも意見の一致が多々あり議論は終結しているように思いますし、そしてそこでのひゃきまるさんの私への現在最後のコメントは『わめさんと僕が一見表面上相互理解が困難に見えてしまうのは、わめさんと僕が「ありきたりな同意」や「わかったつもり」という安易な解決策を求めていないからであり、そのことをもって僕は大いにわめさんに同調を感じます。』となっておりますし、現在もひゃっきまるさんとは楽しく交流しております。
 私は宗教嫌いではありませんが(やっぱり好きになれないとの見解)、みれいしゃんにとっては私が宗教を好きにならないと都合の悪いことでもあるのでしょうか?w涙

> あれ?私は宗教団体と信者の両方に問題があると思ってますが?(問題宗教団体に絞ってますけど)
> それにLeoさんもここでのコメントはそこに絞りましたが、必ずしもそこだけに断定していないことは、それまでのコメントやLeoさんのサイトをみて思います。

 はい、私は断定したコメントはしていませんしそのようなつもりもありませんが、今回みれいしゃんは信仰する側よりも特定の宗教団体(問題宗教団体)を問題視している傾向が強いように感じましたし、また同じことを書きますがLeoさんは主に信じる側の信じ方に原因があると思われているように感じましたのでそのように書きましたが、みれいしゃん、Leoさんがどちらか一方だけに問題があるんだなどと思われているとはまったく思っておりませんので誤解させてしまったのなら申し訳ありません。

>両立できる「信じ方」とはどのようなものでしょう?

 は 、>>220 の『「神の存在を信じない」をA、「神の存在を信じる」をBとした場合、このAとBは同時に成り立たないと思いますが、両立できる「信じ方」とはどのようなものでしょう?』との質問なのですが、

>「それ以外」の宗教とはどのような宗教を指すのでしょうか?

 こちらとは切り離してみれいしゃんのご意見で結構ですので簡単に説明して頂けないでしょうか?
 私は多かれ少なかれほとんどの宗教は、時代の流れや自宗に都合のよいように教義や指導を変化させているものとの認識を持っておりましたが、みれいしゃんの思う「それ以外」宗教を指摘して頂ければ私なりに調べさせていただいて分かる範囲でお返事をさせて頂きます。

226わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/13(月) 02:04:13
訂正します

> 私は多かれ少なかれほとんどの宗教は、時代の流れや自宗に都合のよいように教義や指導を変化させているものとの認識を持っておりましたが

 ”時代の流れや”は私の認識に都合よい結果を導き出しそうなので割愛し訂正させて頂きます。

私は多かれ少なかれほとんどの宗教は、自宗に都合のよいように教義や指導を変化させているものとの認識を持っておりましたが

227みれい:2006/02/13(月) 09:07:20
わめさん

私も2月に入ってネット自由時間が減りました。

>みれいしゃんにとっては私が宗教を好きにならないと都合の悪いことでもあるのでしょうか?

ん?「好きになって」とはどこにも書いていませんし、私の都合にも関係ありません。

>私が宗教を好きか嫌いはまったく私の意見に影響しておりませんので関係はないと思います。

私には影響しているように感じます。
わめさんの書き込みからは宗教全般に対して主観であれ客観であれ必要性が感じられないコメントや否定的なコメント(宗教の一部分を必要とするといったほうがいいのかも)のほうが多いと思います。
「信」について話すなら、必要性のない方の意見(ほとんどの日本人)も大事ですが、必要性を感じている人が世界中にいる事実も知っておいてもいいのではないでしょうか。
なのでこちらは宗教全般とカルト宗教(や問題の出る宗教)の傾向を書くと同時に問題宗教も書くということになります。

>簡単に説明

宗教との距離感

>みれいしゃんの思う「それ以外」宗教を指摘して頂ければ私なりに調べさせていただいて分かる範囲でお返事をさせて頂きます。

これは前にも書いたとおり、個人の意見で書くのはやめておきます。

>私は多かれ少なかれほとんどの宗教は、自宗に都合のよいように教義や指導を変化させているものとの認識を持っておりましたが

持っていても構いませんし、そのような認識でいても個人の自由だと思います。

228わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/13(月) 13:48:43
 みれいしゃんこんにちは。

> >私が宗教を好きか嫌いはまったく私の意見に影響しておりませんので関係はないと思います。
>
> 私には影響しているように感じます。

 既に >>218 でお返事させていただきましたが、納得されていないようなのでもう少し書いてみます。

> わめさんの書き込みからは宗教全般に対して主観であれ客観であれ必要性が感じられないコメントや否定的なコメント(宗教の一部分を必要とするといったほうがいいのかも)のほうが多いと思います。
> 「信」について話すなら、必要性のない方の意見(ほとんどの日本人)も大事ですが、必要性を感じている人が世界中にいる事実も知っておいてもいいのではないでしょうか。
> なのでこちらは宗教全般とカルト宗教(や問題の出る宗教)の傾向を書くと同時に問題宗教も書くということになります。

 このスレ(この掲示板全体でも)でも、みれいしゃんの言われた「ほとんどの日本人が信仰(信)を必要性としていない」にも関わらず、信仰に肯定的なご意見が圧倒的であるように思いますし、私が(バランス的に)宗教・信仰に否定的な意見を書かないとそのような意見は皆無になってしまいそうですよ。涙
 また「必要性を感じている人が世界中にいる事実」を絡めてのお話をさせて頂くなら、『宗教はやっぱり好きになれない』の記事の「信仰対象の転向の自由の確保や信仰する者を無理にやめさせようとしない」やコメント欄でみれいしゃんのお返事として書きました「宗教肯定派になれなく、また宗教否定派にもなれない。結局のところは宗教には功罪ありの結論に至っているわけです。 でも宗教是非の概念ではなく、事々の例をあげればみれいしゃんとわめとはよく似た見解になっちゃう場合が多いのではないかとも感じています。^^」や「宗教の功罪について宗教を薬物と考えれば薬物に頼らないと生きていくことが非常に苦しい方には必要かもしれません」と書いており認知しているつもりです。

 ただ同コメント欄のみれいしゃんの発言で気になったのが、私の「宗教に功罪あり」の見解に対してみれいしゃんは「というところに落ち着いてしまうあたりが、まだ創価学会の宗教観の枠組みがわめさんの体に残っているように感じます。」とおっしゃっており、「宗教に功罪あり」は偏った見解とみておられるようですが、私には「宗教に功罪あり」の見解が「創価学会の宗教観の枠組みの影響」とは思えないのですが、みれいしゃんのこれとよく似た発言で >>215 「学会の中によく発生する原理的(または盲信的)な信仰姿勢は宗教界全般(特に仏教全般)と照らし合わせればかなりイリーガルであると思います。そして時々わめさんはそのクセのようなものが顔をだすように感じます。その考え方のクセがとれるまでちょっと私の話も違和感があるかもしれません。学会で懸命に活動されたならばそれは当然のことだとおもいます。」ともおっしゃっており、ここでも私に「学会の影響」が残っていると言われているようですが、私のここでのバランスを考えた発言や「宗教に功罪あり」の見解が「学会の影響」と思い込まれているようですが、もう一度よくお考えになりお返事を頂ければありがたく存じます。

 ここからここの管理者としての意見(お願い)ですが、私に対してなのでまだいいとは思いますが、このような発言が私以外の学会経験者に対して行われることは、その方を「偏った思考の持ち主」と決め付けた発言で相手を傷付けかねないように思いますし、スレがフレーム化してしまう原因とも成りかねないように思いますので今後はご注意くださいます様よろしくお願いいたします。
>>218 の「また誰しも個性や個人の考え方〜」も再読をお願いしたいと思います。)

229わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/13(月) 13:49:12
再掲 >>220 『「神の存在を信じない」をA、「神の存在を信じる」をBとした場合、このAとBは同時に成り立たないと思いますが、両立できる「信じ方」とはどのようなものでしょう?』

再掲 >>225 『簡単に説明して頂けないでしょうか?』

> >簡単に説明
>
> 宗教との距離感

 「宗教との距離感」と言うことではなく、正反対の見解AとBを同時に信じることが両立できるとする信じ方を説明して欲しいということですから、これは簡単な説明になっていないように思います。
 読み手に分かる程度で結構ですので説明をお願いします。

> >私は多かれ少なかれほとんどの宗教は、自宗に都合のよいように教義や指導を変化させているものとの認識を持っておりましたが
>
> 持っていても構いませんし、そのような認識でいても個人の自由だと思います。

 それでは宗教全般とカルト宗教(や問題の出る宗教)とを区別するために書かれたと思われるみれいしゃんのご意見自体が、客観的でない個人の自由な認識でよいことになって無意味になってしまわないでしょうか?

230みれい:2006/02/15(水) 22:12:17
わめさん

一応何度も書いていますが、すべてに肯定的なわけではありません。
宗教の必要性についてですが、宗教を必要ない人がいるのも事実ですし、否定的な人もいますし、必要な人がいて、宗教や信仰を大事にされている方もいます。必要ないならば「信仰」に対して関わらなくても問題ありません。嫌な思いをされたら嫌な印象を持っているかもしれません(私は以前宗教大嫌いでしたが)。
いまここでは宗教のありかたや信仰のありかたの中の「信じる」について話しているのですが、日本の宗教や信仰のイメージだけでなく、世界でどのような形で人々が宗教と携わっているか(つまりなぜ肯定的でいるか)を知るのは、信仰を考えるにあたっては大事だと思うのです。
信仰が必要ないと思っている場合は、そのままでいてくださってもいいですし、嫌いならば嫌いでいる時期もあると思います。ですが、もし「信仰」ということに関心があるならば、世界の信仰者のスタイルや、宗教の意義などを、信じる信じないではなく「知ってもいい」と思っています。
そこであえてなぜ否定的な意見を載せて「信じる」ということにバランスをとるのかわかりません。信仰に対して必要としないという意見からならばあらためて「信じない」ということについて話をすればいいのではないですか?必要ないという理由もたくさんあるでしょうし、宗教も無理に信じるものでもないと思うので可能だと思いますよ。

>私のここでのバランスを考えた発言や「宗教に功罪あり」の見解が「学会の影響」と思い込まれているようですが

そこではないのですが、団体であれば企業であれ学校であれ、グループにはそれぞれの特色があるように、宗教団体にも各団体カラーがあり、学会員には学会員らしさがあります。
自覚のあるなしに関わらず、長年いて熱心であれば(ましてや2世なら無意識に)なおのこと「らしさ」は染み付きます。それがいい面でも作用することもあれば、悪く反映されることもあると思います。
ですが、この件についてはもうやめておきます。

>「宗教に功罪あり」は偏った見解とみておられるようですが、

それが偏っているというわけではなくて、それだけを取り出して「宗教」すべてをあてはめてしまうのはどうかと思っています。もっと枠組みを広くして考えてもいいと思っています。
ですので「偏った」という考えは当てはまりません。

>「宗教との距離感」と言うことではなく、正反対の見解AとBを同時に信じることが両立できるとする信じ方

パラダイムあるいはパラダイムシフト。
AとBに対して、A枠組みの視点とB枠組みの視点とを変えてみる、と言う事です。それにはまず距離感が必要だと思います。
一応ずっと上にも書いてますが、私のようなまだまだ足りないものにはとても文字だけで簡単にできるものではないと思っていますし、同じく書いていますように、信じ方も各宗教では説かれていますし、宗教学者の考察もあります。図書館でも本屋でも手に入ることでしょう。もうひとつはキリスト教なら教会へ、仏教なら寺院などへ訪れて実感として得られてもいいと思います。(おかしな宗教団体でない限り無理な勧誘はありませんし、行ってみて私は気がつきましたが、学会のマインドコントロールは無意識にそういった施設を避けさせていると思います。)
文字の認識だけですべて理解が可能ならば、釈迦はとっくに教えを字に残したことでしょう。

>客観的でない個人の自由な認識でよいことになって無意味になってしまわないでしょうか?

わめさん個人がそう思うことがカルト問題になると思っていません。
それがそういった教義を信じる信者としての主張ならば多少問題が出てくると思います。
そうなれば私の書き方も変わるでしょう。

すみませんが、なんとなく平行線になりそうな気がするのと、今進もうとしているポイントがいまひとつわからないので、これまでにしたいと思います。

どうぞわめさんの考察をすすめられてください。

231顕正居士:2006/02/28(火) 11:07:56
一念三千は天台家と日蓮家と二つあるのかという議論が起こったので、興味がある方は。

富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/

232小雨:2006/04/01(土) 07:34:11
http://www.geocities.jp/mksutra/

http://www.geocities.jp/mksutra/nolecturebyikeda.html

結構面白いホームページだ。

233Leo:2006/04/02(日) 14:22:15
皆様は「蝸牛角上の戦い」はご存知のことと思います。
一部の仏教界でも同じようなことが起こったのですな(笑)

蝸牛角上の戦い
http://www.interq.or.jp/www1/ayu0896/novels/novel_kagyu.html

234Leo:2006/04/02(日) 14:33:22
(ある方のご指摘を参考にしました)

今ではSGIのHPでは釈迦がキチンと説明されているのですね。
未だに珍説日蓮本仏論が信じられているのは日本だけなのでしょうか?

Nichiren's philosophy is rooted in the teachings of Shakyamuni
(Gautama Siddartha), the historical founder of Buddhism who lived
in India some 2,500 years ago.

http://sgi.org/english/Buddhism/nichiren.htm

Buddhism began with one person’s search for a solution to human
suffering. Shakyamuni (Gautama Sidartha), known as the Buddha, or
“awakened one,” lived around 2,500 years ago in India.

http://sgi.org/english/Buddhism/shakyamuni.htm

235Leo:2006/04/02(日) 15:07:12
>皆様は「蝸牛角上の戦い」はご存知のことと思います。
>一部の仏教界でも同じようなことが起こったのですな(笑)

私がこのようにいったのは、一部の仏教界で宗教戦争している間に真実があきらかに
なりつつあるということで、あしからず。

このような資料が参考になるのではないでしょうか。

○ 所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について(犀角独歩さん)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

○ 何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか(犀角独歩さん)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

○ 日教研・研究発表レジュメ(犀角独歩さん)
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/041023_resume_01.jpg
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/041023_resume_02.jpg

○ 二箇相承 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%AE%87%E7%9B%B8%E6%89%BF

○ 平楽寺書店 『大石寺教学の研究』
http://spn07604.co.hontsuna.com/article/1310806.html

236Leo:2006/04/02(日) 23:08:01
このような資料があるのを見つけました。ご参考までに。

○ 本門戒壇之大御本尊の相貌について―日禅授与本尊との対比―(興門所伝考)
http://lupinus.org/naohito/kaidan_zenshi.html

○ 上代興門略年表(興門所伝考)
http://lupinus.org/naohito/nenpyou.html

○ 日興門流小辞典(興門所伝考)
http://lupinus.org/naohito/dictionary.html

237顕正居士:2006/04/05(水) 20:07:54
蝸牛角上の戦いに似た故事に鷸蚌(イッポウ)相争うがあります。いわゆる漁夫之利です。
http://oak.zero.ad.jp/teru/gakusyu/kojiseigo/gyohu/

この故事が法華文句の釈寿量品に引かれています。寿量品の仏は有限なのか無限なのか。
対立する解釈を挙げた後に、こう評します。

今為答之。品直道壽量。不道壽有量。不道壽無量。爾作無常他作常解此復何咎。鷸蚌相扼。

今為ニ之ニ答ヘン。品ハ直チニ壽量ト道(イ)フ。壽ニ量有リト道ハズ。壽無量ナリト道ハズ。
爾ラバ無常ト作(ナ)スモ、他(マタ)常解ヲ作スモ此レ復タ何ノ咎カアラン。鷸蚌相扼センヤ。

それぞれに言分があることを二者択一で争うことはむなしい。

238日蓮見直し隊:2006/04/19(水) 00:45:25
本来の「法体」とは、法華経の教えの本体、法華経の本質となる教え、所謂法華経の肝心である教えを言います。ですから、「南無妙法蓮華経」は法華経という優れた教え、特に寿量品を中心とした教えへの信心となります。その信心を以て、人生を懸命に修行して真理・真実に至らんとするのです。勿論、法華経の教えを謗る世の中或いは人達の中に交わって、法華経の教えこそ最勝であると「南無妙法蓮華経」と唱えて宣伝するならば、法華経を説かずとも、法華経の哲学を理解するに至らずとも、その功徳はとても大きいでしょう。

ところが、中古天台的な本覚思想に影響された人達、そして彼等が創りだした日蓮聖人の書にあらざるものを日蓮聖人の書と信じてきた人達は、「法体」とは即ち「真理(妙法)」であるからと、前述の「南無妙法蓮華経」を置き換えます。即ち「南無妙法蓮華経」そのものが真理の名称であって、その真理をただ口に出して唱えていれば、真理を悟る身になる、本来自分が仏であることを覚ると、仏教の常識では有り得ない極端な事を言うわけです。ですから、彼等にとっては釈尊も法華経も必要なものではなくなるのです。そして日蓮聖人の教えを、矮小なカルトとしてしまいながらも、最も優れた教えであると自負するに至ります。

日蓮門下にあっても、近代の文献的な研究を尊重せず、或いは日蓮聖人の御遺文を勉強せず、その本来の宗教的・哲学的思想を理解せずして、創価学会と同じようなことを言う僧侶が結構います。まあ、最近は本覚思想に影響されていると言うよりも、面倒な勉強も厳しい実践もしなくて楽だからのようですが。一方で堕落した教えに満足できない人、日蓮聖人の教えを誤解している人達は、心の持って行き場がないので、荒行に入って祈祷を学んだり、或いは慈善活動に傾倒したりしているようでもあります。

創価学会の如くに「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」を振り回して、法華経も説かず、日蓮聖人の御遺文も読まず、題目さえ唱えれば良いとする門下の僧侶が居るとすれば、もう法師である僧侶は人々から必要とされません。必要とされるのは、檀家に対して営む葬式・法事の時と祈祷ぐらいのものです。自分達で自分の首を絞めるだけでありましょう。しかしながら、現実は実にこれに近い有様であるかも知れませんね。大いに危惧せねばならないことです。

ちなみに、この「切り文」が用いられる上野殿御書(弘安1年と日興上人の注記)は真蹟のない写本で、出所はあの「富士大石寺」です。日蓮正宗・創価学会が依拠とする真蹟の存在しない上野殿(南條時光)に宛てられたする書簡の殆どが、写本されたとして富士大石寺に保管されています。

では、数少ない真蹟のある上野殿御返事(弘安2年)に日蓮聖人は何と書いてるでしょうか?ちなみに、この出所も実は「富士大石寺」なのです。

日蓮聖人は、次のように自らの身を語られます。「念仏と禅と真言と律とを信ずる代に値(あ)ひて法華経をひろむれば、王臣万民ににくまれて、結句は山中に候へば、天いかんが計らはせ給ふらむ。」(念仏・禅・真言・律などを信じる世の中で法華経を弘めんとしたために、国王にも万民にも憎まれ、挙げ句には山中に入ることとなっているが、天は今後如何にお計らい下さるであろうか。)

そして日蓮聖人に供養なさった南條氏には「たうとくめでたき御心かな。釈迦仏・法華経定めて御計らひ候はんか。」(尊く立派なお心です。釈迦仏・法華経が、必ずお計らいになられることでしょう。)

真蹟には、明らかに「釈迦は役に立たない、釈迦の法華経は役に立たない」とする創価学会ならびに日蓮正宗の教義とは異なることが述べられています。さて、日蓮門下は日蓮聖人の御真蹟を用いて、日蓮聖人の教えを護るべきでしょうか?それとも真蹟の存在しない日興上人の写本とされるものを以て教義を立てるべきでしょうか?

以上は転用です。http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

239青空:2006/05/25(木) 12:53:23
日蓮の言う法華経とは”南無妙法蓮華経”の事では?

釈迦仏・法華経の計らい・・・これも 誤解??

釈迦仏は、南無妙法蓮華経を知っていたが、機根の違う衆生だったので説かなかっただけの事。

他の御書・遺文に、そのような記述がある。

顕本法華は、経文相承を掲げるが、そっちは如何なる根拠があるのですか?

日蓮正宗も顕本法華宗も どっちもどっちって感じです(汗)

240みれい:2006/07/06(木) 16:32:33
御書に「教主釈尊」という言葉がしばしば出てきますが、その解釈の違いで全部意味合いが変わってきちゃいますね。
日蓮正宗系では(創価学会も)その言葉は抜かして説明されていたと思います。

241わめ:2006/07/18(火) 19:08:14
 皆さん、こんにちは。^^

 青空さんおひさです。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪

> 釈迦仏は、南無妙法蓮華経を知っていたが、機根の違う衆生だったので説かなかっただけの事。

 釈尊は、普通に考えると法華経も南無妙法蓮華経という言葉も知らなかったと思いますよ。(^^;
 また、機根が正像末の三時を指すとすると、この機根も釈尊は知らなかったと思います。
 釈尊滅後に創作された法華経や三時の立て分けを知る訳はないでしょう。

 でも釈迦仏というのが、人間ブッダを指していないとしたらこの限りではないかもしれませんが。

242青空:2006/08/12(土) 15:03:03
わめさん、元気ですか?

お釈迦様の説法は、対機説法、但し 法華経は随自意の説法といいますね。

これも、後世の人が考えた事で、そんな事も創作なのだという事ですね。

視点を変えると、全然 宗教が有り難くなくなりますね(汗)

でも、人が生きる為に 宗教ってあった方が良いのかな??でも、戦争の原因になるくらいですから・・・

仏教が広まった方が良いと思いました。

243わめ:2006/08/12(土) 15:21:30
青空さん、こんにちは。^^

わめは元気ですよ〜(*´∇`*)

> お釈迦様の説法は、対機説法、但し 法華経は随自意の説法といいますね。
> これも、後世の人が考えた事で、そんな事も創作なのだという事ですね。

実際のお釈迦様の説法は対機説法が多かったと思います。
不勉強でいい加減なことを言わせてもらうと、随自意が随他意より勝れているということはないように思います。
スッタニパータは対機説法が多いのかな。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/fransoie/zuian/kotoba.htm

> 視点を変えると、全然 宗教が有り難くなくなりますね(汗)
> でも、人が生きる為に 宗教ってあった方が良いのかな??でも、戦争の原因になるくらいですから・・・

釈迦は「信仰を捨てよ」と言われていますからね。(^^;

> 仏教が広まった方が良いと思いました。

仏教も他宗教みたいな信仰態度の信者ばかりで広まっていくなら、やっぱ「信仰を捨てよ」になっちゃうんじゃないかな。

【釈尊が肯定する信仰】
http://wame.seesaa.net/article/21946519.html

244わめ:2006/08/12(土) 15:23:15
訂正w

> 仏教も他宗教みたいな信仰態度の信者ばかりで広まっていくなら、

仏教も、仏教以前の他宗教みたいな信仰態度の信者ばかりで広まっていくなら、

245青空:2006/08/12(土) 21:38:53
当時のバラモンのような信仰に対して、そのような信仰は捨てよ・・・

とばかり、思っていました。

246わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/08/13(日) 15:01:24
青空さん、こんにちは。^^

> 当時のバラモンのような信仰に対して、そのような信仰は捨てよ・・・
> とばかり、思っていました。

仏教も含むどのような宗教に対してであれ、それに向かう側の態度が問われると思います。
一般的に言われるような信仰態度は、ブッダから「信仰を捨てよ」と言われてしまうのではないでしょうか。
ブッダや仏教を信頼することはいいとしても、その教えに固執することは執着であり、確かめようのないことや理解できないことを信じることは盲信です。

「合理的なものは信ずる必要がない。不合理であり理解し得ないからこそ信ずる」(テルトリアヌス)

仏教は合理的であり信じる必要はないと思いますし、信じてしまうと、仏教に入り込んでしまった仏教以外(土着信仰等)の異質な教えさえも仏教と勘違いして受け入れてしまう可能性が高く危険だと思います。

247青空:2006/08/13(日) 17:29:33
教えに固執することは執着とすると、宗教とりわけ 本家たる仏教は崩壊してしまいそう(涙)

他力の阿弥陀さんにすがる事も執着になる。。。

執着せずに生きる事など、どうしたら出来るんだろうか。。。

日蓮さんの教えは、南無妙法蓮華経って自分も唱え人も唱えさせれば幸せになると言ってます(単純に)

法華経に執着しています。

それでは、仏教では 本来どうすればイイと言っているのだろう。

四諦・十二因縁・八正道とか???

でも、その教えに執着しては 仏法ではなくなる。。。

わめさんは、どう思う?

250わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/08/13(日) 18:10:11
青空さん、こんにちは。^^

> 教えに固執することは執着とすると、宗教とりわけ 本家たる仏教は崩壊してしまいそう(涙)

いえ、少なくとも本来の仏教はそんなことはないと思います。

> それでは、仏教では 本来どうすればイイと言っているのだろう。

『佐倉さんの無我論への感想(5)』より以下一部抜粋
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism40.html
『(5)信仰について
> ここでいう「信じ込んで」は「信仰」という意味ではなく、この世への執着です・・・

執着のことを信仰の語で現しているところが興味深いところです。実は、「信仰を捨てよ」とブッダが語るとき、すべて、執着を捨てよと解釈することができます。信仰とはドグマへの執着以外のなにものでもないからです。悟りとは無明・無知から覚めることですが、信仰は知らないまま自分を賭けることなのですべて盲目的行為です。真理(知識・智恵)が人を解放し、盲目的行為(信仰・執着)が人を迷わせます。だから、ブッダはすべてのドグマを捨てよ、と説きました。
また、ダンパマダ97についても、takpさんはまたもや信仰者の訳を引用しておられますが、中村氏は、そのような訳が正確ではないこと、そして、

文字どおりの意味は「信仰することなく」である。
(『ブッダの真理の言葉・感興の言葉』、岩波文庫、93頁)

と、指摘されています。
縁起の思想(「これがあるときに、あれがあり、これがないとき、あれがない」)や四諦の思想(「苦の真理・苦の原因の真理・苦の滅却の真理・苦の滅却の道の真理」)などにみられるように、ブッダの基本的な教えは、人間苦には原因があり、その原因を滅することによって、その苦から解放される、というものでした。このような思想では、苦の原因を洞察し、その除去の道を悟ることが必用なのであって、神秘的な力(神や仏)に依存して苦からの解放をただひたすら願う「信仰」という宗教的手段を無用化します。この意味において、「仏教は宗教ではない」(第14世ダライ・ラマ)と言えます。

ブッダの思想に信仰の居場所は論理的に存在しません。仏教における信仰はすべて後代のブッダ神格化の結果だと思います。』

> 日蓮さんの教えは、南無妙法蓮華経って自分も唱え人も唱えさせれば幸せになると言ってます(単純に)
> 法華経に執着しています。

日蓮仏法や法華経の捉え方としては、Libra師匠の見解が参考になるかもしれません。
「法華経・日蓮の中心思想」(Libra師匠)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/nt50-56

251わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/08/13(日) 20:48:47
> 四諦・十二因縁・八正道とか???
> でも、その教えに執着しては 仏法ではなくなる。。。
> わめさんは、どう思う?

そうですね、四諦・十二因縁・八正道にも執着するのはどうかと思います。
特に十二因縁などは証明もできず納得できませんし、説一切有部、唯識などで解釈も違ってきているようで関心もありません。
四諦・八正道はそれなりに理解も納得できるので、なるべく自分の生き方に生かしていこうとは思いますが、それは教え通りに生きるということではありません。

仏教に限らずいいと思うことは取り入れて、それは批判的合理主義や可謬主義もそうですが、それらも取り入れて自分なりの生き方を模索していきたいと思っております。

252わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/08/13(日) 21:01:12
学会でバリ活経験があり、その誤りに気が付いた方は、私に限らず心に確信のようなものの穴がポッカリ空いちゃって、それを埋めるものを求めてしまう傾向が強いように思います。

青空さんにもそのような穴がポッカリ空いちゃったって感覚はありませんか?
【信じることをやめた時】
http://wame.seesaa.net/article/9048192.html

いずれそれは埋まっていくものだと思うのですが、埋まるというのはそこに何か代わりのものが埋まるのではなく、確信の穴が少しづつ無くなっていくことだと私の経験的には思います。

確信できるものなどどこにもないことを、色々なことを学びながら、それは無常で無情なことかもしれませんが、少しずつ心に受け入れていけることだと私には思えます。


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