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日蓮考察

230みれい:2006/02/15(水) 22:12:17
わめさん

一応何度も書いていますが、すべてに肯定的なわけではありません。
宗教の必要性についてですが、宗教を必要ない人がいるのも事実ですし、否定的な人もいますし、必要な人がいて、宗教や信仰を大事にされている方もいます。必要ないならば「信仰」に対して関わらなくても問題ありません。嫌な思いをされたら嫌な印象を持っているかもしれません(私は以前宗教大嫌いでしたが)。
いまここでは宗教のありかたや信仰のありかたの中の「信じる」について話しているのですが、日本の宗教や信仰のイメージだけでなく、世界でどのような形で人々が宗教と携わっているか(つまりなぜ肯定的でいるか)を知るのは、信仰を考えるにあたっては大事だと思うのです。
信仰が必要ないと思っている場合は、そのままでいてくださってもいいですし、嫌いならば嫌いでいる時期もあると思います。ですが、もし「信仰」ということに関心があるならば、世界の信仰者のスタイルや、宗教の意義などを、信じる信じないではなく「知ってもいい」と思っています。
そこであえてなぜ否定的な意見を載せて「信じる」ということにバランスをとるのかわかりません。信仰に対して必要としないという意見からならばあらためて「信じない」ということについて話をすればいいのではないですか?必要ないという理由もたくさんあるでしょうし、宗教も無理に信じるものでもないと思うので可能だと思いますよ。

>私のここでのバランスを考えた発言や「宗教に功罪あり」の見解が「学会の影響」と思い込まれているようですが

そこではないのですが、団体であれば企業であれ学校であれ、グループにはそれぞれの特色があるように、宗教団体にも各団体カラーがあり、学会員には学会員らしさがあります。
自覚のあるなしに関わらず、長年いて熱心であれば(ましてや2世なら無意識に)なおのこと「らしさ」は染み付きます。それがいい面でも作用することもあれば、悪く反映されることもあると思います。
ですが、この件についてはもうやめておきます。

>「宗教に功罪あり」は偏った見解とみておられるようですが、

それが偏っているというわけではなくて、それだけを取り出して「宗教」すべてをあてはめてしまうのはどうかと思っています。もっと枠組みを広くして考えてもいいと思っています。
ですので「偏った」という考えは当てはまりません。

>「宗教との距離感」と言うことではなく、正反対の見解AとBを同時に信じることが両立できるとする信じ方

パラダイムあるいはパラダイムシフト。
AとBに対して、A枠組みの視点とB枠組みの視点とを変えてみる、と言う事です。それにはまず距離感が必要だと思います。
一応ずっと上にも書いてますが、私のようなまだまだ足りないものにはとても文字だけで簡単にできるものではないと思っていますし、同じく書いていますように、信じ方も各宗教では説かれていますし、宗教学者の考察もあります。図書館でも本屋でも手に入ることでしょう。もうひとつはキリスト教なら教会へ、仏教なら寺院などへ訪れて実感として得られてもいいと思います。(おかしな宗教団体でない限り無理な勧誘はありませんし、行ってみて私は気がつきましたが、学会のマインドコントロールは無意識にそういった施設を避けさせていると思います。)
文字の認識だけですべて理解が可能ならば、釈迦はとっくに教えを字に残したことでしょう。

>客観的でない個人の自由な認識でよいことになって無意味になってしまわないでしょうか?

わめさん個人がそう思うことがカルト問題になると思っていません。
それがそういった教義を信じる信者としての主張ならば多少問題が出てくると思います。
そうなれば私の書き方も変わるでしょう。

すみませんが、なんとなく平行線になりそうな気がするのと、今進もうとしているポイントがいまひとつわからないので、これまでにしたいと思います。

どうぞわめさんの考察をすすめられてください。


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