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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

1わめ@管理人 ◆TJ9qoWuqvA:2005/06/17(金) 12:30:37
 生命とは生体の生存維持活動に必要不可欠な意識(自意識・自己「エゴ」)である。
この自意識は実在ではない。脳が創り出す生存維持に不可欠な要素である。
この意識はおそらく動植物にも備わっているものと推測する。
この意識の主体が死亡(脳死含む)することで消滅する。
自らの意識と他者の意識は互いに影響を与え合う。
 しかしこのことにより、影響(他者・他物「書物・メディア等」)を受け合う対象たる生物は、その影響の度合いに応じて自らの行動・言動に変化が現れる。そしてその行動・言動が連鎖的に他の生物に影響を与え、また影響を受けて行く。この意味において、一人の人間の死は、そのものが生存中に他の人間を含むあらゆる生物の意識に影響を与え、この影響の連鎖を、影響を与え合うすべての生物の死滅を除いて止めることはできない。また、その生物の生存中に残した遺物が、後の世の生物の意識にも影響を与えるものである。一人の人間の意識は、ある意味宇宙やすべてのものが消えてなくなるまで消滅することは無いのかもしれない。
 またこの意識は、生存中の様々な経験を、脳かあるいは何らかの器官を通じ、物質(生化学的)的に記録しているものとおもわれる。これは遺伝的要素として子孫にも影響を与えていくものである。
これらを総括して、
・1個の生物としての生命(自意識)の永遠性はない。
・1個の生物としての生命(自意識)は、他の生物に永遠に受け継がれていく。

私は現在、釈尊の説かれた縁起の法・空・無我を、このように理解している。

※読まれた方、ご意見(ご批判大歓迎)を頂けましたら幸いです。

219わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 11:14:24
Leoさん、くまりんさんがいいこと書いてる!
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=887

 人は関係性から生まれ(わめ的には変化)、ずっと関係性の中で依存しあいながら生きてるけど、種の保存欲・根本的生存欲ってのがやっぱあって、それをうまくコントロールできない(無明だからかコントロール法を知らないからか)から色々な問題も生まれる。

 ブッダを合理的な人としたい願望も分かるな。わめも合理的なのが好きだからブッダに憧れている時はその口だったかもw汗
 十二支縁起がよく分からないので真理かどうか、と言うか暫定が付かない真理なんて思い浮かばないけど、涅槃は真理ではなく体験で、ブッダは方法論を説いたと言うことかな。
 業・輪廻も、捉え方にもよるけど現実にはない(うん 無いよね?)のにブッダがあると言ってるという言明はおかしいと考えるからややこしいけど、ブッダがあると言ってもそれは涅槃に達するための方法論としてなら何にも問題はないんじゃないかな。
 それに涅槃を目指す人にこそ業・輪廻は必要で、涅槃を目指さない人にも関係ないじゃん。と考えると目指す目的のためには思い込みも必要になってくるんじゃないかな。

 でもますますブッダへの好感が薄れていくわめがいる。(´・ω・`)ショボーン

 うぅ仕事があるからしっかり思考できないw 夜には手が空きそうだからもっと色々考えてみよう。♪

220わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 12:36:40
メモ

ちょっとショックだわんw
人格・性格を業(カルマ)とするなら脳が壊れていくことにより人格・性格まで変質(壊れる)していくというアルツハイマー病患者の事実と整合性がとれないねw
http://freett.com/Libra0000/z006.html

221わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 02:26:57
Leoさん、こんばんは。^^ もう寝てるって?w笑

 何かを前提(業報と輪廻転生)にしなければ真理と言えない真理って、真理ではなくよくて暫定真理の可能性を残せますが、その前提(業報と輪廻転生)も客観的事実じゃなければ、暫定真理かもしれなかったものも暫定真理とも言えなくなりそうですね。
 前世があると言う客観的事実も見えてこないし、結局これらは客観的事実とも暫定真理ともまして真理とも言えないということかな。
 でも個人の思考の中で何をどう思おうと自由であるとは思いますし、これがブッダの主要な教えで事実としての言明なら色々思うこともありますけどもそれがブッダなのでしょうね。
 Libra師匠なら色々反論もあるかもしれませんが、わめはそんなのどうでもいいかも。^^

 心の呪縛(思い込みか?)から解放されていくのは気持ちいいわ♪

 あ、そうそう、>>218 で書いた「元々人間も動物も本能的に」ってくまりんさんのおっしゃる種の保存欲・根本的生存欲なのかもって考えてます。そこからと体験的に関係性の重要性を学んで(無意識含む)いくのが本来あるべき姿なんじゃないかと思ったりします。あとは >>218 の見解は今のところ変わってないですけど。^^

222Leo:2005/12/11(日) 02:48:34
わめさん、こんばんは。

そろそろ寝るところでした(^^; その前に、 

最近「涅槃」がわからなくなってきたので、くまりんさんのところで質問してみました。
もしかするとわめさん的には「涅槃」はどうでもよいかもしれませんが、私的には何かあるんじゃないかと
思っています。

(たとえがわけわかめですが...)
ブラックホールが体験できなくてもブラックホールの存在が推測されるような...

>心の呪縛(思い込みか?)から解放されていくのは気持ちいいわ♪

私自身への反省もあるですが、物事に凝り固まらないってことでしょうね(^^;

ではまたです。

223わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 02:55:49
おお、Leoさん起きてた。^^

> もしかするとわめさん的には「涅槃」はどうでもよいかもしれませんが、私的には何かあるんじゃないかと思っています。

わめにはどうでもいいですが、涅槃は大いに何かあるでしょう。
わめもそのように認識してます。
ただ2500年くらいも経っているのに社会・世界に与えた影響は?と考えるとどうでもいいかなって思っちゃっているんです。
でも趣味だったら個人の好みがあるし、それが涅槃となったらその醍醐味は想像を絶するのじゃないかとは思いますよ。^^

> ブラックホールが体験できなくてもブラックホールの存在が推測されるような...

いや、心で体験できたとしても存在としては無いということなのではないでしょうか。
もちろん存在としては無いことが無意味だ何ってまったく思っていませんが。

224Libra:2005/12/11(日) 07:34:27
 みなさん、おはようございます。

 多くの方に「そんなのどうでもいい」(わめさん)と思われるであろうこと
をちょこっと書いてみます。

 わたしがブッダの思想だとおもっているところの思想(以下、「思想A」と
略記)をわたしが支持するのは、思想Aがすぐれているようにわたしにはおも
えるからです。思想は、《それが誰によって主張されたか》とは切り離して評
価されるべきです。尊敬する顕正居士さんのご発言をお借りすると、「思想の
評価をその方の身分によって行なうなら、これもトンデモ」[*1]だとおもいま
す。

 思想Aを言い出したのはシャカだろうとわたしはいまのところ思っているわ
けですが、これは、いってみれば歴史の問題です。もし、思想Aを言い出した
のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。そ
ういう意味では、わたしにとって歴史の問題はさほど重要な問題ではありませ
ん。

 次に強調しておきたいのは、わたしは、初期仏典は思想的に矛盾していると
思っているということです。つまり、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と
無我説の両方が含まれており、両者は論理的には両立しないというのがわたし
の理解です[*2]。ややこしくなりそうなので、わたしが理解し支持している無
我説を、以下では「無我説A」ということにします。

 「論理的には両立しない」と書きましたが、わたしは、論理に西洋も東洋も
ないとおもっています。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立す
ることになるなどということはありえないだろうとおもいます。もしそのよう
なことがあるとすれば、西洋と東洋との間では相互批判は成立しないというこ
とになるのではないでしょうか。ちなみに、わたしは、「批判とは、あくまで
も言明間の論理的関係の指摘である」[*3]とおもっています。

 「初期仏典には思想的な矛盾などはない」と理解されている人も多くおられ
るようです。このような方がいわれる無我説(以下、「無我説B」と略記)と
無我説Aとは内容的には全く異質のものということになるでしょう(もっとも、
わたしには無我説Bは全く理解不可能であり、矛盾しているとしかおもえない
のでそのように想像するにすぎないわけですが)。もしシャカが無我説Aでは
なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。

225Libra:2005/12/11(日) 07:35:02
 輪廻転生を肯定しない思想は倫理的に破産するというような考えにもわたし
は賛成しません。ポパーは「生命には終わりがあるからといって、これを価値
のないものと考える人もいる。彼らは、終わりがなかったら生命には価値がな
かっただろうという正反対の議論も同様に擁護できることを見過ごしている。
彼らは、人生の価値を理解するのを助けてくれるのは、一部には、生命を失う
という絶えまなく現存する危機であることを見過ごしているのである」[*4]と
いいますが、わたしはこのような倫理観に賛成します。「生命現象の根底にい
かなる生命原理を想定しない仏教においては、その生命現象自体も絶えず変動
にさらされ、崩壊の危機にさらされている。実はこの点に原始仏教において生
命倫理の成立する根拠があるのではないかと思われる」[*5]という高橋先生の
仏教理解も支持します。

 輪廻転生と無我説についての曽我さんと佐藤さんの議論[*6]を拝見しました。
佐藤さんは、曽我さんのお考えを「珍説」であり、「検証不能でまともに相手
にしようがない(何とでも言える)」とコメントされており、くまりんさんの
「このかたはどうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
とのコメントも同様の趣旨だろうとわたしは理解しました。おそらく、わたし
の考えに対しても同じような評価が下されることだろうとおもいます。これは
さきにのべた歴史の問題に対するスタンスの違いということになろうかとおも
います。

 わたしにとって歴史の問題はさほど重要ではありませんので、まともに相手
して頂かなくても全然かまわないのですが、思想の問題として、論理的に両立
しない思想を両方とも肯定してしまうというのは大問題だとおもいます。そん
なことをすれば、批判が成立する基盤を自ら放棄することになり、まさに「何
とでも言える」ということになるのではないかとおもいます。

 また年末年始にお邪魔させていただこうとおもっています。


  [*1] 《日蓮本仏論》再考
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog005.html

  [*2] 輪廻説は仏教ではない(Libra)
     http://page.freett.com/Libra0000/z006.html

  [*3] 批判とは言明間の論理的関係の指摘である(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/124.html

  [*4] あらゆる人々は哲学者である(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/113.html

  [*5] 原始仏教における生命観(高橋審也)
     http://page.freett.com/Libra0000/059.htm

  [*6] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

226Leo:2005/12/11(日) 11:41:46
Libraさん、おはようございます。

>もし、思想Aを言い出した
>のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
>た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。

顕正居士さんが大乗仏教は龍樹教という意味のことを仰っておられましたが
そういう意味なのかもしれないと思いました。

>もしシャカが無我説Aでは
>なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
>するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
>う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。

釈迦が意味不明なことをいう人であったならば、初期仏教の不妄語の戒律に反しますね。
だから「釈迦が意味不明なことをいう人であったはずがない」という擬似推論でなく、
思想内容で判断すると。ううむ。

> わたしにとって歴史の問題はさほど重要ではありませんので、まともに相手
>して頂かなくても全然かまわないのですが、思想の問題として、論理的に両立
>しない思想を両方とも肯定してしまうというのは大問題だとおもいます。そん
>なことをすれば、批判が成立する基盤を自ら放棄することになり、まさに「何
>とでも言える」ということになるのではないかとおもいます。

そのご指摘はものすごく気になります。少なくとも私にとっては「どうでもよいこと」
ではないです。

227わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 12:19:35
Libra師匠、Leoさん、こんにちは。^^

今から昼食に出かけますので一言だけ。

くまりんさんの記事(どの記事か調べなくてごめんなさいw)で、輪廻転生を肯定の思想と無我(非我)説と”論理的に両立しない思想”ではないと詳しく書かれていたと思いますが、くまりんさんのテキストは難解なのでわめの勘違いでしたらごめんなさい。

228Libra:2005/12/11(日) 15:20:11
 Leo さん、こんにちは。

 顕正居士さんとわたしとでは意見が異なっている部分もかなり多いです。わ
たしがおかしなことを書いたせいで、顕正居士さんのお考えまでが誤解されて
しまうことをわたしはおそれます。公の場で顕正居士さんのお考えについて述
べられる場合には、直接、顕正居士さんのご発言を参照されることを希望しま
す。

 わたしは、顕正居士さんの以下のようなお考えに賛成です。

  「釈尊の大悟の内容が縁起であったことに異論はないこととおもいます。
   それが十二支の程式か、彼あれば此あり彼無ければ此無し、かには議論
   があります。」[*1]

  「龍樹の空性の説(人法無我の説)は釈尊の縁起説の認識論的発展であり、
   縁起の論と実相の論は対立しないという理解は近代仏教学の成果であり
   ます。」[*2]

 以前、顕正居士さんが、われわれの立場を想定して『理想版・創価学会会則
前文』というものを考えて下さいましたね。わたしはこの『理想版・創価学会
会則前文』に大賛成です。

  「釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法
   華経は万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華
   経の万人平等(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国
   に伝え、智者大師が両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達し
   た法華思想を、日蓮は世界に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこ
   の訓えを信じるがゆえに、空性の教義と一乗の精神とを世界に伝えたい
   とおもう。」(『理想版・創価学会会則前文』[*3])


  [*1] 素朴な疑問コーナー
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog002.html

  [*2] 素朴な疑問コーナー
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog002.html

  [*3] 仏教とは何か
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html

229Libra:2005/12/11(日) 15:58:43
 わめさん、こんにちは。

 くまりんさんのテキストは、わたしにとっても難解なので、以下に述べるこ
とはわたしの勘違いかもしれません。勘違いでしたらごめんなさい。

 わたしが「論理的には両立しない」というのは、どこにいっても(西洋だろ
うが東洋だろうが)「論理的には両立しない」という意味です。

 くまりんさんは、《西洋論理学的には両立しないが、インド論理学的には両
立する》といわれているように見えます。

 >>224 に書きましたように、わたしは、論理に西洋も東洋もないとおもって
います。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立することになるな
どということはありえないだろうとおもいます。

 くまりんさんは「即今此処自己の自己反省の実践は未来を選択することその
ものになるよというのがやっぱりインド論理学なんです」ともいわれています
が、わたしはこのご発言を理解できません。わたしは、論理学というものを
《命題間の論理的関係や推論の妥当性についての学問》であり《命題の内容に
ついては何も語らないもの》であると認識しているからです。

 もちろん、「自己反省の実践」を重視する思想にはわたしも賛成ですが、そ
れはインド論理学の枠内においてのみ主張されうるとはおもいません。また、
「自己反省の実践」と同じくらい「他者による批判」[*]を重視したいとかんが
えています。

  [*] ポパーの倫理思想(小河原誠)
    http://page.freett.com/Libra0000/083.htm

230わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 16:21:02
ヽ(^0^)た(^。^)だ(^-^)い(^O^)ノま

>>229

 Libra師匠、くまりんさんは確かにそのようなこともおっしゃっておられました。でもそれはそれとして、仏教を無我ではなく非我の捉え方として輪廻転生と言うか輪廻だけかもしれませんが、整合性が取れる(東洋・西洋論理関係なく)ともおっしゃっていたように思いますが、わめの読解力では誤解読の可能性もあります。涙

231Leo:2005/12/11(日) 17:51:55
Libraさん、こんにちは。

>公の場で顕正居士さんのお考えについて述べられる場合には、直接、顕正居士さんのご発言を参照されることを希望します。

了解です(汗

> 以前、顕正居士さんが、われわれの立場を想定して『理想版・創価学会会則
>前文』というものを考えて下さいましたね。わたしはこの『理想版・創価学会
>会則前文』に大賛成です。

そのようなご発言がありましたね。しかも私のホームページに記録があるわけで(大汗
確かに『理想版・創価学会会則前文』は希望の持てるものですね。

他のホームページで 顕正居士さんのこのようなご発言があったのも思い出しました。

顕正居士さん発言集より
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/8451/taiwa/kensyou.html(リンク切れ)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html(引用)
「>顕正さんはどんな立場(宗派?)の方なんですか?
 大乗仏教です。根本教理は「人法二無我」です。霊魂とか物自体は存在しないと云う立場です。」

「龍樹−月称−宗喀巴と継承する中観帰謬論証派が最高の理解であると考えます。
 ローカル(日本仏教的)には日蓮主義です。何故かと云うと浄土教は絶対者、密教は有我、
 禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。中で日蓮は実践的には唯色論的だからです。」

「縁起(釈尊)や空性(龍樹)の説は霊魂や物自体の否定で唯心論ではないが大勢はそういう
 方向が盛んになった。日蓮的唯色論も自然科学、社会科学的発想を促すのでなく、呪物崇拝、
 呪文信仰に転落して来た。唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想は
 十分現代でも信仰に価すると云う立場かな。」

232Leo:2005/12/11(日) 17:55:18
わめさん、こんにちは

ちなみに顕正居士さんのホームページは、

顕正居士網站連線
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/
最近掲示板はメンテされていないようですし、項目が中国語で書かれているので
ちょっとわかりにくいです。

站長介紹
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/zhanzhang.html
宗教近代合理主義
宗旨急進自由主義

だそうです。発言内容的に私の気になっている方の一人です。

233わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 21:16:04
Libra師匠、Leoさん、こんばんは〜

>>134 が参考になるかも。^^
「時間の先頭に立って未来を選択し峻別しゆく認識主体」はある。
そしてそれは変化していくから無常でもある。
これを我とするなら自我はあると言うことになるのかな?
でも認識主体からみたら自分は非我ですね。^^

でも輪廻転送とは結びつかないかw汗


> ちなみに顕正居士さんのホームページは、

Leoさん、かな〜り以前から読んでますよ。^^
でも「時間の逆流する世界 」に興味がいっちゃいましたがw(^^;;

234わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 21:17:26
> でも輪廻転送とは結びつかないかw汗

どこに転送するんだwヽ(・∀・;)ノ アヒャッ! 輪廻転生

235Leo:2005/12/11(日) 23:54:05
>どこに転送するんだwヽ(・∀・;)ノ アヒャッ!

それはエンタープライズ号にでしょう(^^;

236くまりん:2005/12/12(月) 01:07:44
Libra さん。わめさん、Leo さん、こんばんは。
 今晩は仏教者にあるまじき酒浸りでサンスカーラびんびんで外しているかも知れません。それを踏まえたうえで、すいません。酔った勢いで行きます。

歴史観のスタンスの違いは Libra さん のご指摘される通りだと思います。
 しかし Libra さん。歴史を無視してしまえば法華経は単なる有部文書をつなぎにつなげたただのパクリでしょ。そこへ非大乗系涅槃経以来のブッダと友に共存する共通の dhaatu で生存しようと思う理念はブッダ在世中からであることは明らかでありその dhaatu は基体であるばかりでなく遺骨をも意味することはなにも松本先生の思想的発見でもなんでももなくてすでに有部の文書に出てきちゃうんですから。その前提と弟子達の想いが無ければ法華経は作られることもなかったでしょう。ブッダと出会い自分の人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が、自らの感動を託すことはあっても歴史的な正しいブッダを伝承しようなどという学問的な意志でなしに口伝で伝承してきたものが初期仏典であったことを忘れてはなりません。仏教はそうした歴史無しにナーガルジュナも天台大師も日蓮さんもないんです。

 僕にとってはこの世で一番大好きな人であり、また世間の人々からも慕われ敬われた祖父に創価学会の人が邪教の幹部だからと言って石を投げつけ祖父が重体になって救急車で運ばれたこと。それにも関わらず祖父は同じ法華経を授持する人々である、法華経授持者の仲間内のことは世俗の世話になるわけには行かぬと刑事立件を予定した警察に取り下げるように申し出たこと。祖父の寺で寺男をされていたMさんと仰った大工さんが脳溢血で寺の造作仕事をされているときに倒れてなくなられたとき、寺の境内の中にあったMさんのご自宅にお参りに行った父や叔父をご自宅を占拠した学会の人たちが入れてくれなかったこと、そして集まった香典を学会の人たちが持ち去ってしまって明日の生活の途方にも暮れてしまったMさんの未亡人や、幼いころ学会の言い方で言えば邪教のお寺の境内で泥まみれになって一緒に遊んだMさんの息子のK君とその日以来遊ぶことが出来ないばかりかその行方さえ分からないこと。そして祖父の後を継ぐべく東大の印哲を進んだ父の兄、祖父の一番下の息子である僕の叔父が大学に進学しようとする僕におまえ今の身延の考え方では創価学会員は哲学的にもかなうものではない。お前は日蓮宗の坊主などにならずに仏教学へ進め!と。

 自意識が出てから大人になるまで僕の敵は創価学会だったのです。いつか創価学会を知性で叩きのめしてやろう(その時点では煩悩だらけ - 爆 -)と叔父のアドバイスに従い仏教学を選択し、祖父の親友でもあった朝比奈宗源老師のところへおもむき、臨済宗で出家した僕は、もちろんその後御利益の為にお題目をあげて良い人生を送ろう、清らかな人生をおくろうとする創価学会の方々と接して、人は組織ばかりでなくやはり個人なんだと思うこともあって理性が身に付くとともに創価学会への個人的敵憎しみは消えては行きました、しかし袴谷先生の導きによって Libra さん、あなたのサイトを知り読ませていただいとき程、嬉しく打たれたことはありません。数十年の時間を超えて祖父の「同じ法華経を授持する人々である」という「ことば」がたった今のことのように蘇り、涙が止まりませんでした。ブッダは2500年という時間を超えて今も僕たちと共存しているのではないかと。
 
 いまお話したことは別に感情的に恩を売ろうとかそんな染汚にまみれたサンスカーラの為すワザではありません。 Libra さんの考える現代科学にも矛盾しない理性的な論理にかなった仏教も、たとえ業報輪廻を否定したとしても仏教のうちに成立すると考えるし僕は尊重します。僕はそういう方々を難解な言葉を用いて論破しようなどとは微塵も思っていません。しかしちょっと考えていただきたいんです。ポパーの哲学に従えば、科学はとは経験から優れた仮説的な法則を導き出す学問であるから、死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、反証を試みるどころではなく発言することがあり得ないのです。したがって、科学的な死生観という概念は成立する議論すら為される筈がありません。にもかかわらず多くの人々は、輪廻説は非科学的な迷信だというんです。しかしポパーの論理に従えば輪廻説は科学的か否かという基準で死生観を論ずることなど、まさに迷信にほかななりません。仏教は苦しみや悩みにあえぐ人々が自覚的に安心を得る教えです。繰り返しになりますがそれはブッダと出会いその「ことば」によって人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が語りつづけることによって発展してきた思想であって、他者に対しては真理の候補であるということを忘れてはならないと思います。

238わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/12(月) 02:45:03
 くまりんさん、コメントありがとう。^^

 ブッダもくまりんさんのような思いで教えを説いていったのかもしれませんね。
 わめもその”思い”を同じにする者の端くれに加えて頂けるならにどんなにか嬉しいことでしょう。

 ただ悲しいかな思いを同じにすると勝手に思うわめとしては、同調できないとの思いが多々あります。
 これは現在のわめからは、くまりんさん以上にLibra師匠に、そしてLeoさんにも感じていることです。(ごめん)

 仏教が苦しみや悩みにあえぐ多くの人々にとって救いとなっている(きた)のは事実でしょう。それは大いに認めます。
 でも広い意味での仏教として、それがため苦しんでいる人々も多くいると思うのです。
 悲しいことですがそれは最近までよく知らなかった初期仏教とて例外ではないように思えてきました。

 わめはアホだからそれを説明するにはかなり多くの時間が必要だと思いますが、現実重視のわめのたわ言だと思って頂いても構いません。
 ただただ”思い”として端くれに加えて頂きたいとの思いを込めて、失礼とは思いながらもわけわかめなことを書かせて頂きました。m(_ _"m)ペコリ

239Libra:2005/12/13(火) 00:49:49
 くまりんさん、わめさん、Leo さん、こんばんは。

 くまりんさん、貴重なお話をありがとうございました。他のことに集中する
ため、年末までここへの書き込みはひかえようとおもっていましたが、このよ
うなお話を読ませて頂きながら返事をしないというのは失礼だと思い、返事を
書かせて頂きます(おじいさまのように法華経の行者として生き抜くことがこ
のわたしにもできるとはおもいませんが、そのように生きたいと望むことだけ
は許されると信じて)。

1.歴史を無視するのではなく批判する

 わたしは歴史を無視しようとおもっているわけではありません。>>224 に書
きましたように、わたしは、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と無我説が
含まれていると認識しています。初期仏典は初期の仏教理解を伝えているとも
認識しています。ただ、わたしは、その初期の仏教理解の全体をシャカの思想
とイコールだとは見ないということです。曽我さんのお言葉をお借りすれば、
「<経典には、釈尊の教えそのままが書かれている>とナイーブに信じられる
ほど、事は簡単ではない」[*1]とわたしもおもうということです。これがわた
しの歴史の問題に対するスタンスです。

 わたしは、初期経典に含まれている無我説こそがシャカの思想とイコールだ
とおもっています。この無我説がなければ、龍樹もチギも日蓮もないとおもい
ます(>>228)。そして、この無我説は縁起説とイコールだとおもっています。
一方、輪廻転生を肯定する思想はシャカの思想とイコールとはおもいません。

 わたしは、初期の仏教理解(歴史)の一部を肯定的に評価し、一部を否定的
に評価するということです。このような態度をとったとしても、歴史を無視す
ることにはならないとわたしはおもいます。歴史を批判することにはなるとお
もいますが。

  [*1] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

240Libra:2005/12/13(火) 00:51:31
2.法華経の評価について

 たしかに法華経は初期経典とか律蔵を素材にして作られていますから、形式
に注目して「パクリ」ということは可能だとおもいます。もっとも、わたしな
ら「批判的継承」といいたいところです。しかし、それは法華経の中身につい
ての思想的な評価の問題です。

 わたしは法華経の中心思想を支持しますが、法華経のすべてを支持するわけ
ではありません[*2]。くまりんさんは否定的に評価されているようです[*3]。

 わたしはまだくまりんさんの法華経評価をじっくりと読んだことがありませ
んので、くまりんさんの評価とわたしの評価がどのような関係にあるのかはわ
かりません。ただ、くまりんさんの「ブッダは2500年という時間を超えて今も
僕たちと共存しているのではないか」という表現からは、みかけほどの違いは
ないのではないかと推測します。

  [*2] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/nt50-56

  [*3] 法華経 - その哲学的凡庸さとご都合主義
     http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050921#p1

241Libra:2005/12/13(火) 00:53:09
3.ポパーの哲学に従えば、死生観を論ずることは可能
 
 くまりんさんは、「ポパーの哲学に従えば、〔中略〕死んだらどうなるかと
いう、経験を超えた領域の問題について、〔中略〕発言することがあり得ない」
といわれていますが、くまりんさんのこのポパー理解には反対です。

 小河原先生は、「ポパーは、大部分の宗教的言明を科学でないものに分類す
るとはいえ、宗教的あるいは形而上学的レベルでの討論の可能性を否定してい
ない。つまり、ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って宗教批判
をおこなうことが可能なのである」[*4]といわれていますが、わたしは小河原
先生のポパー理解を支持します[*5]。

  [*4] 小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(講談社、1997年)の70-71
     ページ。

  [*5] 「わけわかめのために・付録2〜3」
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_001.html

242Libra:2005/12/13(火) 00:54:40
4.真実が明らかにされるに至る手段になれれば幸い

 以上に述べたわたしの考えは、これまで、わたしなりに納得がいくまで考え
てきて、今はそのように考えているということを述べたものにすぎません。ど
なたかに同調してほしいともおもいません。どなたかに同調されたところで、
わたしの考えが正しいということには全くなりませんので。

 わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。

 最後に、ポパーの本によって知ることができたアルブレヒト・デューラーと
いう人の言葉[*6]を引用させて頂いておわりにしたいとおもいます。

 「しかし、わたしよりも有能な者が真実を推察し、その仕事の中でわたしの
  間違いを証明して、論破できるようにするために、わたしが学んだ僅かば
  かりのものを世に出そうと思います。ここにおいて、自分がその真実の明
  らかにされるに至る手段になったということに、わたしは喜びを感じます。」


  [*6] カール・R・ポパー『確定性の世界』(田島裕訳、信山社、1998年)
     の 88 ページから孫引き。

243わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/13(火) 01:14:01
Libra師匠、こんばんは。^^

>  わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
> には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。

さすが師匠です。^^ この点は人それぞれバラバラが大好きわめも激しく同意です。

わめが師匠から未だに推察することができないのは、師匠は何が目的なのかです。
もちろん答えていただけなくてもいいのですが、師匠のご期待にもしかしたらわめも多少はお応えできるかもしれないと微かな期待をもつわめです。^^

244Libra:2005/12/13(火) 01:53:07
 わめさん、こんばんは。もう落ちますが少しだけ。

> 人それぞれバラバラが大好きわめも激しく同意です。

 「人それぞれバラバラ」だから相互批判が実り多いものになりうるのではな
いでしょうか[*1]。「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、こ
の道のすべてである」[*2]というのはそういう意味も含んでいるとわたしはお
もいます。

 わたしは「相対主義ではなくて、多元主義」[*3]が大好きです。

> 師匠は何が目的なのか

 わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。

 では、今日のところはこのへんで。


  [*1] フレームワークの神話(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/111.html

  [*2] 「われを善き友として」(増谷文雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/012.html

  [*3] 相対主義批判(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/039.htm

  [*4] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
     http://freett.com/Libra0000/024.htm

245Leo:2005/12/13(火) 01:57:03
わめさん、くまりんさん、Libraさん こんばんは。

今日はコメントできないくらい色々な感慨で一杯です。

かろうじてこのようなことを考えたのですが、
わめさん、皆さん どうでしょうか、もしよろしければLibraさんがご多忙で閉じたLibraさんの掲示板
(NOTHING TO YOU BBS)の内容のいくつかあるいは多くを引き継ぐというのは。

NOTHING TO YOU BBSの記録
http://page.freett.com/leo020503/bbslog.html

この掲示板の目的と使用上のルール(管理人Libraさん)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog000.html

246Leo:2005/12/13(火) 02:14:18
>>245 は全く余計でした。撤回します。わめさん達を遠くから見守って暫くROMに徹することにします。

247Leo:2005/12/13(火) 02:33:35
わめさんに説明しておくと、(別にLibraさんにたのまれたわけでは全然ないんですが)Libraさんが掲示板に
来ない間盛り上げようと思ったんですが、私がやっていたのはまとまりのないことを書き込んで
なんか引っ掻き回したような感じでした。すまなく思っています。
わめさんから教えられたことも多いです。色々ありがとうございました。

248わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/13(火) 08:54:08
Libra師匠、Leoさん、おはようございます。^^

 意思疎通はチャットが一番との思い込みとその習慣からか、単に資質の問題なのか(涙)、”思う”ことを言葉に訳すのが苦手と言うか、思うことを書こうとするところに問題があるのかも分かりませんが、とにかく >>238 の発言はLeoさんには申し訳ないことを書いてしまったと思っています。

 Leoさんの「この掲示板を盛り上げよう」との思いはうれしく思いますし、わめにとってありがたい気持ちを持っていてくれる(た?)ことに感謝しております。そして自分でまいた種とはいえ、わめの発言が元で暫くROMに徹すると言うのは悲しくも思います。

 Leoさんにヒューマンと言われるようなわめですから、>>238 の”同調できない”発言もわめの思いをむき出しにした言葉で、人間ブッダの心・思いを棚上げにしての今回の議論だったように勝手に思い込み、また互いのよりよい生き方を模索するための議論とも思いにくく、何か何のための議論なのか空虚な感覚を持ってしまったのです。

 そこにくまりんさんから思いもよらぬ >>236 の投稿があり、その投稿内容に今回の議論で足りないと思っていた人間ブッダの心・思いを感じたのです。わめにとってもそれは比べれば爪の垢ほどかもしれませんが、でもわめにとってはわめの思考の源でもあるのです。

 しかしながらくまりんさんの心・思いには感銘するものの、ブッダはその時代・その客体である人々に対しそれで(ブッダの教え)よかったのかもしれませんが、その教えをそのまま現代に継承することには思い込みの副作用が強過ぎると感じるために同調できないと書きました。でもくまりんさんの心・思いには感銘しておりますので、その観点からわめの推量が足りないにも関わらず、心・思いの点で師匠やLeoさんに同調できないと書いてしまったのです。

 ただ、人間それぞれバラバラがいいと思うわめですから、決して非難のつもりで同調できないと書いたわけではありません。その点は誤解しないで欲しいのです。

 それに >>238 のわめの発言は今回のブッダの教えについての考察という議論においての意見ですので、できることならLeoさんにはわめのお守りは大変でしょうが、これからもお相手して欲しいと願っております。

249わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/13(火) 09:01:55
> 思い込みの副作用が強過ぎると感じる

またまた言葉が足りないやw 同調できない理由のひとつです。(^^;;

250わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/13(火) 09:42:11
Libra師匠、おはようございます。^^

 わめも同じ意見と思える点はスルーしました。(^^;;

>  「人それぞれバラバラ」だから相互批判が実り多いものになりうるのではな
> いでしょうか[*1]。「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、こ
> の道のすべてである」[*2]というのはそういう意味も含んでいるとわたしはお
> もいます。

 ブッダの教えにも含まれる可能性があるということでうれしく思います。(*´∇`*)
 「人それぞれバラバラ」については色々な思いを持っているのですがそのひとつに、人それぞれが自分と同じように思ってるとか考えているなどの錯覚・思い込みから、不幸な人間関係・事柄が多く起こっているように思うからです。また同じ時間・同じ位置に2つ以上のものは存在できないと思いますから、それぞれバラバラがホントだと単純に思っていると言うこともあるのですがw汗

>  わたしは「相対主義ではなくて、多元主義」[*3]が大好きです。

 わめも同じだと思っているので引用する必要はなかったのですが、師匠の言葉に”大好き”があってうれしかったので引用します。^^

> > 師匠は何が目的なのか
>
>  わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
> せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
> もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
> を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
> 果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。

 いつも言葉が足りなくてごめんなさい。予測して頂いたとおりです。
 ”とりあえず”と言うことでは順序の意味合いとして並行がいいと思いますが、これだけじゃないんだという意味ではうれしく思います。^^

251Leo:2005/12/13(火) 23:29:10
わめさん、こんばんは。

>Leoさんにヒューマンと言われるようなわめですから、>>238 の”同調できない”発言もわめの思いを
>むき出しにした言葉で、人間ブッダの心・思いを棚上げにしての今回の議論だったように勝手に思い込み、
>また互いのよりよい生き方を模索するための議論とも思いにくく、何か何のための議論なのか空虚な感覚を
>持ってしまったのです。

誤解があるといけないので...わめさんの発言でROMになるのではないですよ。
くまりんさん、Libraさん、わめさん達のよい話を聞けて感慨深くなって頭を冷やそうと思ったのです。

そういえば同調についてはLibraさんは下のように仰っていましたね。
同調よりも批判(非難でもなく吟味)ということで。

242 名前: Libra 投稿日: 2005/12/13(火) 00:54:40
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/242
「4.真実が明らかにされるに至る手段になれれば幸い

  以上に述べたわたしの考えは、これまで、わたしなりに納得がいくまで考え
 てきて、今はそのように考えているということを述べたものにすぎません。ど
 なたかに同調してほしいともおもいません。どなたかに同調されたところで、
 わたしの考えが正しいということには全くなりませんので。

  わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
 には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。」

>それに >>238 のわめの発言は今回のブッダの教えについての考察という議論においての意見ですので、
>できることならLeoさんにはわめのお守りは大変でしょうが、これからもお相手して欲しいと願っております。

お守りということはないすよ。逆な気がするです。
私はしばらく頭を冷やしますので、またの折にはよろしくです。

252わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/14(水) 00:37:47
Leoさん、こんばんは〜^^

> くまりんさん、Libraさん、わめさん達のよい話を聞けて感慨深くなって頭を冷やそうと思ったのです。

 わめは余計ですが、そういうことですか。そう言うことなら・・・納得しません。笑
 互いに批判し合いながら誤謬の発見が( ・∀・)イイ!

 ・・・それに一人で議論できないからわめも独り言スレに行くことになっちゃう。(´・ω・`)ショボーン

 早く帰ってこないと悪口一杯書いちゃうぞ〜笑

253くまりん:2005/12/14(水) 08:26:38
Libra さん、わめさん、Leo さん、おはようございます。
 先日は酔った勢いでの投稿失礼いたしました。そしてわたくしのつたない投稿に丁寧にご自身の仏教観を起承転結を以てご呈示下さった Libra さん、本当にありがとうございました。

1.縁起と業について
 わたくしの理解するところの初期仏教では物質というと当たらずとも遠からずでしょうが音や光や認識しうる表象はすべて地、火、風、水・四大で構成される「色(rupa)」と認識されるものです。その四大で構成される「色」のうち眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して認識しその認識を「因」として自ら変化していくものを生命(生命によっては5官すべてが揃うわけではない)として所謂生命ではない物体と峻別しました。すなわち人間は四大と五蘊で構成される故にブドガラです。生命には四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)が働きます。四大と五蘊はその意志を「因」として生滅と変化を連鎖のように続けます。その連鎖によって次の変化に影響を与える「縁」として形成されるポテンシャルが「業」。「業」は次ぎに生起する意志(sa#mskaara)に影響を与え「業」なしに生起する変化とは違う結果を生みます。そうして妄想を繰り返せば「わたくし」が造られその段階をちゃんと観察しありのままに見ることが出来ればそれは「わたし」ではないということになります。外界と内界の境界が眼、耳、鼻、舌、身の五境にあると認識してしまえば意志(sa#mskaara)に依って仮に集合(upacaya)したものを「わたし」とする「煩悩」ですが、その境界を常に時間の先頭の世界外存在としての認識主体である「わたし」とそれに連続して続く認識対象としての過去に置き、その時間軸の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が追認出来れば推測ですがそれは「さとり」の世界ではないでしょうか。「わたし」は此処にいるの「わたし」では無いという体験でもありますが、これは突き詰めますと方法論を異にするとは言え臨済宗で言うところの見性と非常に近い体験であると思います。ただし脳内麻薬が出てきて仏我一如の霊妙なる体験というものとは一線を画し自覚的に峻別しておく必要があると思いますけれども・・・これは最近の涅槃とは体験ですというわたくしの発言への Leo さんへのお返事でもあります。

254くまりん:2005/12/14(水) 08:27:22
2.無我について
 認識主体である「わたし」を古代インドの通例に従ってアートマンと呼べば仏教は非我説になります。中村博士はこういう理解だと思います。また仮に集合(upacaya)したものの世界外的存在であり、かつその時間軸の先頭に立って変化し続ける立場で外から世界内存在としての過去とその反省から選択するべき未来を峻別するのが暗黙の了解の自己であるというのが説一切有部の非我説であり、わたくしの anaartman 理解もこういうものです。但し説一切有部はこれを無我説であると強弁しており袴谷先生も有部の強弁にのっかたような説を採られていると思いますが、例えば南方分別説部やその法孫の僧伽・テーラーワーダ仏教も世界外存在であろうが時間の先頭であろうが変化し続けるのだから、ウパニシャッドでいうアートマンとは異質なものであって、それをアートマンと記号化するのは間違いである、それは無我であると無我説を主張しています。わたくしは仮に集合(upacaya)したとは言え暗黙の了解の自己であるから「わたくしではない」とされる宮本啓一先生に賛同し非我説ではないか?と提起させていただく次第です。

255くまりん:2005/12/14(水) 08:28:49
3,輪廻について その1
 ー二支縁起が口伝で伝承された仏教の核心であるということは何回か述べさせていただき、あるいはその解釈はわたくしとは違うとしても松本史朗先生や袴谷先生も含めて多くのかたが認めるところであろうと思います。それはパーリ律蔵大品や相応部・因縁篇・因縁相応第一経にのみならずサンスクリット原典はなかなか出土しないものの北伝漢訳では説一切有部の長阿含・四衆経、法蔵部・相応阿含・因縁相応、根本説一切有部律・破僧時にもそのー二支についてはまったくの同内容で顕れます。パーリ仏典よりも増広されていないばかりかむしろパーリ仏典よりシンプルなスッタニパータやダンマパダのサンスクリット・ヴァージョンやガンダーラ語・ヴァージョンが出土された現在、ハッダやバーミヤン出土のその原典分析を行った仏教大学や大阪大学の研究室からはパーリ仏典の増広発展形態がサンスクリット・バージョンではなく、説一切有部に属するサンスクリット・バージョンの聖典が律蔵やアヴァダーナに比べて出土が少ないのは、それが無いのではなくその核心部分は口伝で伝承されたからだと推察しうる、これらによって中インドマガタの言語で口伝された伝承が南方パーリ語圏、北西インドへそれぞれ別々に口伝で伝承されていったと推察される、との研究成果が報告されています。余談ですがそれを受けてわたくしは義浄や玄奘などはサンスクリット原典から翻訳したのではなしに口伝で伝承されている聖典を聞いて漢訳して書き留めていったので中国にサンスクリット原典が残っていないのではないか、通俗的に言われるようにいくら中国人が中華思想であるからといって、仏教徒であった訳経僧たちが簡単に後代に跡形もなく残さぬようにサンスクリット原典を処分するはずがないのではないかと考えています。このようにー二支縁起はブッダの教えの核心として、ブッダと出会いその「ことば」によって人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が歴史的な正しいブッダを伝承しようなどという学問的な意志でなしにその感動を口伝で伝承してきたと考えられるのです。彼らがそのブッダの「ことば」に操作を加えるでしょうか?加えなかった証拠が南方、北西インドそれぞれ別々に口伝で伝承されていったものの内容がピシャリと一致している事実ではないでしょうか。

256くまりん:2005/12/14(水) 08:29:43
4,輪廻について その2
 ところでそのー二支縁起は無明→行→識→名色→六処→触→受→愛(渇愛)→取→有→生→老死という各ダルマをブッダが順観と逆観で考察したということになっていますが、ここにおける連鎖の鎖の「生」より以前の各支は四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)による四大と五蘊の構成の生起として「わたし」が生まれる以前の過去世の煩悩の変化のプロセスであり、いいかえればブドガラである「わたし」の生命力を観察し、それぞれの変化の過程の最小限の単位で記号化したものであるということが出来ます。これをブッダは『あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死とを、2つながらに思惟弁別して、塵を離れ、汚点なく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、―――かれを目覚めた人(仏)という』と述べたとされていますから、ブッダは過去生を瞑想によって観察したのだということになってしまいます。そうであるならば輪廻思想はブッダの生命観としてブッダ自身が持っていたということになります。しかし悲しいかな非力なわたくしには「1、縁起と業について」で述べたような内容を説一切有部のアビダルマに従ってどんなに努力して瞑想しても過去生としての無明→行→識→名色→六処→触→受→愛(渇愛)→取→有は見えてきませんでした。臨済の僧堂で掟破りではあってもやってみましたが見えませんでした。いま自由に出入り出来る日蓮宗のいくつかの静かな山の中にあるような本堂でやってみてもダメでした。

 しかしこれらのダルマを現在の自分を表象するもの、すなわちブドガラである「わたし」の生命原理の観察として実行してみればなるほどブッダの言うとおりだと自ら知ることが出来ます。まさしく「箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相ひ似て、吐けども又吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知する」のは間違いがないのです。つまり現在の「わたし」の問題としてー二支縁起を順観と逆観し無明を制御(nirodha)することで形成力(sa#mskaara)から出てくる想いやそのポテンシャルである「悪業」をもをこれもダメ、アレもダメと捨て去って、自らの執着と行動を自己反省して、他者との関係を含む未来への予測をより良きものであるよう峻別して選択することによって、 - - - わたくしの経験できることはここまでですが - - - 、その連鎖的将来である「わたし」という仮において四大と五蘊を仮に集合(upacaya)させる意志(sa#mskaara)が滅(nirodha)し尽くされているならば「来世の苦である生」を滅して再び生まれ変わることがないと説く輪廻思想は現世の「わたし」の「即今此処自己」の常なる自己反省と自戒の問題になるのです。そこで善業を積めば楽果がある、悪業を積めば苦果があるという初期仏教のよく言われる倫理がブッダの生命観に統合されると思います。坊さんぽい言い方をすれば「人がイヤだと思うことはしない。」「人のためになることをすれば人間関係は良くなる。」「だからと言って見返りは端から期待しない。」つまり「自分の気持ちに悔いない行動をすればその点については未来も心は清らかである。」これが Libra さんが疑問を投げかけられた「即今此処自己の自己反省の実践」は「未来を選択することそのものになる」が「インド論理学」にちゃんと当てはまりますよということなんです。

257くまりん:2005/12/14(水) 08:30:14
5,ポパーの解釈について
 「3,輪廻について」で申し上げたようにわたくしには過去世を観察する力もないし、自分の過去の反省から峻別すべき未来を想像することはできても、観察することはまったく出来ません。はっきり言ってわたくしには前生があるのかないのか?とか来世があるのかないのか?なんてまったく分かりません。お手上げです。しかししつこいようですが口伝で伝承され、操作を加えることを考えにくい仏教の核心であるー二支縁起が仏典で伝承されるように業と輪廻思想を前提にするならば、その否定材料を用意することができないわたくしには仏教とはそのような生命観あるいは生死観を持つ思想であると理解するしかありません。Libra さんがお好きなポパーを引用させていただいたのはアインシュタインの反証実験に感銘したという彼の哲学を持ってすれば推測することもその反証も用意することが出来ないじゃないですかという事なのです。小河原先生の「ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って宗教批判をおこなうことが可能なのである」というご意見を否定する見解ではないと思います。そういう理由でわたくしは物質認識を四大において業報輪廻から解脱すべく、かつ倫理的要請としてしても善業・楽果を説く仏教のうちに、その中から選択し峻別していくべき思想として純化した現代科学にも矛盾しない理性的な論理にかなった仏教も成立すると考えています。何故なら仏教はその思想のうちに他者への絶対歓待という輪廻思想からは必然的に自戒的に導きだされる思想が、たとえ輪廻を否定もしくは無視しても忘れることがない自覚さえ持つならば、仏教徒ひとりひとりが自覚的に安心を得る教えであり、他者とっては「わたし」が提示することが出来る人生の真理の候補の一つに過ぎないからです。

258くまりん:2005/12/14(水) 08:31:14
6,法華経について
 法華経についてはときたま他の研究から関連することを見つけたり思いついたりする度に書き留めている程度ですのでわたくしが『法華経』を論じたまとまったテキストはありません。『法華経』好きの研究者のテキストは贔屓が入ってアテになりません。されど自分でも体系的に考えているわけでもないのですが最近思うことを少しだけ。『法華経』を成立させた条件は説一切有部僧団の中に多くみられること。まずは有部の思想の自由さについてですが『有部律破僧時』では月二回のウパヴァーサ・布薩(upavaasa)に参加し、パラティーモクシャ・波羅提木叉(praatimok#sa)を共にすれば三蔵に反しない限り議論は自由であったし森林で遊行していていてもOKであったこと。有部律には苦行者や森林遊行者に対しても仏教徒として丁重に扱いブッダの持ち分とされる財産から寝具や坐具、医薬品や食事、死んだ場合の葬送儀礼の費用を援助していたことが記されています。経の記述法についてですが特に律文献からのセットフレーズの借用は在家信者には出来ないことだと考えられます。なぜなら律蔵は比丘にしか知らされないから。在家信者にはアヴァダーナのみ。永遠のブッダについては言うまでもなく在家信者への比丘の教団と比丘の態度としては『根本説一切有部律』に見られる通りでなんの違和感もありません。また阿含経典でのブッダの対話の相手として業報輪廻の多くはアーナンダに、智慧と縁起はシャーリープトラに説かれていることを『法華経』の作者グループは良く押さえていると思うのでこれも在家信者じゃ無理なことでしょう。

 そして有部僧伽の構成員の多くはブッダによって人生の一大転換を成し遂げた声聞とその弟子達であってブッダへのあこがれは非常に強かったであろうということ。アビダルマを大成していった中心メンバーはその思想こそ僧団へ照射されうるがエリートの少数派であっただろうということ。法華経は仏塔や塔を重視しているような書き方をしているが良く読めば仏塔より経そのものを重視していること。まるで『アビダルマ・コーシャ』が『アビダルマ・マハー・ビヴァーサ』を正当化し補強するふりをして結論は教量部の思想へ導くように仏塔崇拝を勧めるふりをして経への崇拝へ導いていることですが、これは法華経の手法を後にヴァスバンドゥーが模倣したとも言えるんでしょうか。『アビダルマ・コーシャ』と『法華経』の成立はやや前者が早いのでしょうがどちらも仏塔をあまり重視せずに自分たちの思想を重視しています。『根本説一切有部律』が諸律と比較すると仏塔とそのメンテナンス、儀式などの記述が一番多く細かいのですが、これは『アビダルマ』の論師グループや『法華経』の法師グループの作り出す仏塔軽視の風潮へいわゆる授戒者と言われる声聞たちがブレーキを掛けたのではないかと思われること、その証拠にあれほど仏塔信仰が盛んであるのに南方分別説部のパーリ律蔵には仏塔についての記述がありません。法華経を貫いているのはブッダの思想というよりもブッダにあこがれた人の思想だと思います。だけど脅しが入るのは明らかに仏教的には凡庸だし違反。

 実際当時の北西インドの梵天、天人、国王、大臣、商隊主、長者、優婆塞、優婆夷、緊那羅、乾闥婆、羅ゴ羅たちに対してはアヴァダーナと同様に説戒を垂れちゃってますから新しいアヴァダーナ程度にしか受け入れられなかったんじゃないかと思います。義浄の記述によればジャータカマーラーのような本生譚やアユヴァゴーシャの仏讃頌のほうが人気があったようですから(法華経に比べてとは書いていませんけど)。それが律蔵より先に紹介された中国では大ヒットしたんですね。もし律蔵やアヴァダーナが中国に先に入っていたらどうなったのやらと思います。そういうパラダイムから見るとたいした経典じゃないことになってしまいますが、しかし大好きだし、文学的には素晴らしい経典だと思います。松本先生の「永遠のブッダを待ちきれなかった思い」には共感します。仏教学的な分析をすると悪態ばかりついているようですが「みかけほどの違いはないのではないかと推測」はご明察です。

259くまりん:2005/12/14(水) 08:31:49
6,まとめに
 このように長文をしたためてみたのは Libra さんがお手数でしたでしょうにわたくしのためにご自分の仏教理解を理路整然と提示してくださったからです。これは論争への誘いでも宣戦布告でもありません。わたくしはまだまだ自分は変わっていくと考えています。これも Libra さんと同じように現段階でのわたくしの仏教理解の提示にしか過ぎません。わたくしが Libra さんのご意見、あるいは引用される他の研究者のかたのテキストでは自分の考え方を変更する根拠には未だならないように Libra さんがこの程度のテキストで考え方を変えられるとは微塵も思っていませんし、そのためのものではないからです。簡潔に提示しようと思っても、わたくしのテキストの稚拙さや、その稚拙さを乗り越えようとして仮にまともに簡潔なテキストになったとしてもその簡潔さがお互いに認識のために必要であると考える「ことば」や「述語」の違いから誤解を生むこともあるでしょう。わめさんの言われるように100人の仏教徒がいれば100通りの仏教があってしかるべきだと考えますし、その中での議論によって誤解を解き、あるいは指摘された誤りを改めるべきは感謝の念を持って改めていきたいと思います。わたくしの仏教学はあらたな考古学的な発見を心から期待し、そうした可能性と現実に直面したときに何を棄てて、何を残していくかのその取捨の選択の懐を常に用意しておこうとの土台作りであるといっても過言では無く、当然のように批判は歓迎されるに違いありません。批判があればこそ取捨の選択を誤る可能性を減らすことが出来ると信じます。自分が進むことが出来ると信じます。まことに夜飛ぶ虫は蛍だけではなく、常に縁起の連鎖の中で生かされ、もがいていることに感謝の念が堪えません。またこうして皆さんとの議論に参加させていただいて、普段のわたくしの日常とはパラダイムを変えるべき点をも大いに学ばさせていただきました。最後に他者に提示すべき真理の候補としてのそれぞれの仏教が副作用を伴うことがあってはならないことを自戒として自らに命じつつ、また皆さんとの議論を急がず慌てずに続けさせて頂ければわたくしにとっては過分な僥倖であると申し添えさせていただいて筆をおこうかと存じます。

********
- 清浄なる法雨の音恰が律の調べのように Libraさん、わめさん、Leoさん、に灌頂されますように -

260Leo:2005/12/17(土) 12:11:12
くまりんさん、Libraさん、わめさん こんにちは。

少し頭を冷やしましたのでちょっと戻って来ました。ぼちぼちいこうと思いますのでよろしくお願いします。

261Leo:2005/12/17(土) 12:25:52
くまりんさん、こんにちは。

私は今までアビダルマや唯識に関心がなかった(縁起説につながらず重要でないと思っていた)のですがくまりんさんのご紹介で少し興味が出てきました。

Abhidharma-mahāvibhāşā 大天の五事
http://ngp-mac.com/kumarin/wp-trackback.php/888

ロジックはともかく(ロジックの方の話でなくて恐縮ですが)、マハー・デーヴァのエピソードというのが
(今はなくなって来たのですが)聖教新聞4面の創価の敵対者をヤリ玉にあげる「座談会」という記事を思い起こし
違和感を持ってしまうのです。

話は飛びますが...
指導者の実像
http://page.freett.com/leo020503/note007.html
(Googleで検索するとこの文書が引用されている形跡があるのですがちなみに「指導者の実像」の題名は
原典の章題にはなく私が勝手につけたものです。)

「Ⅴ 創価学会 E(男)」について「生れは大森のノリ屋です。」これだけで誰だか察しがついてしまうのですが、
「五時間くらいもそこで締めあげられたのです。南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、
 理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。
 負けたのでシャクにさわってしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。
 それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような感じがしたんです。」

昔の創価学会の折伏というと不意打ちようなもので負かされる理論なのかというのが疑問でしかも後にかなりかなり
有名になるお方がこのような感じです。人生観としての経験的哲学(知恵・原理を探究する学問でなく)かもしれませんが
仏教との関連性が希薄なのではないでしょうか。

262Leo:2005/12/17(土) 12:27:18
わめさん、こんにちは。

Libraさんのいわれた、
「わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
 せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
 もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
 を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
 果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。」

たとえば「創価学会」「会員」「牧口の理念」に限定せずこれらを「仏教」「仏教徒」「ブッダの教え」
(さらには仏教に限定しなくともよいです)に拡張することも可能と思います。

(a)「原点をおもいだす」(b)「自分の頭をつかって過去を振りかえったり反省すべき点についておたがいに討論」
(c)「その結果をそれぞれが明確に言葉にする」は重要と思います。以前わめさんが私の書き込みを
「わけのわかめ」系と仰ったのも私が(c)が足りなかった(特に「明確に」という点)ことであると
いうことであると思います。

263Leo:2005/12/17(土) 14:08:39
あと、私自身の反省として次の引用をしておきます。

「いや、ところがここに一人の人間がおつて正しいことを口にしている、したがつてそれを理解しているはずでありながら、
 さていよいよ行動せねばならぬときには不正なことをする、すなわち彼がそれを理解してはいなかつたことが曝露される
 とすればこれこそ無限に喜劇的である。真理のために生命を捧げる高貴な自己否定の話を読んだり聞いたりして
 涙を流すほど感動した人間が、いや涙だけではなく汗までたらたらと流した人間が、すぐ次の瞬間にほとんど
 まだ眼に涙をためながら、ワン・ツー・スリー・ドンとたちまち一転して虚偽に勝利を獲(え)させるために
 額に汗して全力を尽すとしたら、これこそ無限に喜劇的である。」

(キェルケゴール著・斉藤信治訳 『死に至る病』 岩波文庫、1957年改版、p.148)

264わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/17(土) 20:30:19
Leoさん、(=゜○゜=)オ(=゜□゜=)カ(=゜◇゜=)エ(=゜ー゜=)ノ~~リーー!

>>260

☆^∇゜) ニパッ!!

>>261

面白い資料見せていただきました。^^
牧口先生の頃の学会はこの資料以前から教育学を主にやっていたんだなって思ってましたが、戸田先生の事業についてや学会の現世利益体質はこのようにして出来ていったのかなって想像に難くないですね。

>>262

わめはaがないし、bも弱いし、cは逆のほうに言ってそうw(>▽<;; アセアセ

>>263

いい言葉だし反省するっていいよね。^^
これが子供が転んだのを見て自分が転んだ時に痛かったのを思い出して駆け寄って大丈夫?って適切な対応をするって言う意味、自分も他者も転んだら痛いんだと理解するということなら分かります。
それぐらいの理解力しかわめにはありません。。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

265Leo:2005/12/18(日) 01:06:18
わめさん、こんばんは。

>>263 ですが、わかりにくいのでちょっと説明します。
私がLibraさんの主張を理解しているつもり(《批判》が重要だということ)なのに反して、私が創価等への《非難》を時々口にすること
への反省です。要は愚痴を言っていても何も解決しないので知性を使わなくてはということだと思います。

ひはん【批判】
「(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
 (3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、
  その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。」(大辞林 第二版)

ひなん【非難】
「相手の欠点や過失を取り上げて責めること。」(大辞林 第二版)

○自分たち自身の知性を使え(カール・ポパー)
http://page.freett.com/Libra0000/118.html
「カントはこう書いている。「啓蒙とは、みずから課した保護の状態から人を解放することである……外からの案内なしには、
 自分自身の知性を使うことができないという無能力の状態からの解放である。わたくしが『みずから課した』保護の状態と呼ぶのは、
 それが知性の欠如によるのではなく、勇気ないしは決意が欠けているために、
 自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態のことである。
 あえて賢かれ〔Sapere aude!〕、自分自身の知性をあえて使え。これが啓蒙の標語である。」」

このカントの啓蒙主義が牧口会長に共通するのですね(啓蒙は聖教新聞の部数を増やすことなどでは決してないんですね)。

○【創価学会の根本理念──カントと牧口常三郎に共通する啓蒙主義──】(Libraさん)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_003.html
「カントがいう「啓蒙」とは《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態から人
を解放する》ということですが[注2]、この理念は創価学会の初代会長である牧口常三郎
に継承されています[注3]。この意味での啓蒙主義こそが、おそらくは創価学会の創立理
念だったのだと思います。」

時代の要請(戦後の新興宗教のニーズ)で「創価教育学会」から「創価学会」に衣替えしたのだと思いますが、
今の時代原点をふりかえってみることも大切ではないでしょうか。そうれなければ「《価》値」の「《創》造」も
「《学》」もなくなんでもアリでなにもなしのただの「《会》」になってしまうでしょう(これはたとえです)。

266Leo:2005/12/18(日) 01:15:17
(補足)
Libraさんの(私にとっては衝撃的であった)過去のご発言の中にキルケゴールの「無限に喜劇的」が出てきました。

Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言[ 1 ]
http://freett.com/Libra0000/Yahoo_01.html

「私は創価学会員(三世)ですが、現・創価学会の教義は事実上破綻していると思います。」

「そういう意味では、「言論戦」を前面に押し出している創価学会の思想性(
 批判精神)は大いに評価されてよいのかもしれません。問題は、その「言論戦」
 の質ですね。肝腎なところで(理論的に破綻しそうになると)結局「体験主義」
 に逃げ込んで(「議論の世界」を離脱して、「実践の世界」へと引き返して)
 しまうのではダメですね。」

「実際の行動がともなっていないのであれば、いくら「菩薩行」などと口で偉
そうなことを言っていても、そこには何の説得力もないでしょう。キルケゴー
ルの言葉で言えば、「無限に喜劇的」だと思います。

267わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/18(日) 01:41:07
Leoさん、こんばんは。^^

知性と批判も大切だと思います。
また菩薩行も大切だと思います。
でもそれらは何のために大切なのか、そこが知りたくもあります。

わめなんてエゴの塊ですけど、このエゴを大切にしたいと思います。

わめは自性は否定的ではありますが、くまりんさんの思いには感銘と心打たれます。
http://wame.seesaa.net/article/10650360.html からのくまりんさんのコメントを引用。

>>みんなが至上の喜びや境智を手に入れるのは、わめやくまりんさんの後の世の方達で充分じゃないでしょうか。

 縁起の時間の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が自覚できれば、苦しんでいる方の苦しみや悲しんでいる方の悲しみもみな「わたし」自身の苦しみや悲しみそのものでしょうに。そうしてなにものにも執らわれずに、信仰への憧れを持つ人には一切智者への信仰の姿で接っし、信仰を嫌う人には信仰の素振りを微塵も見せずに、あるときは共に悲しみ、あるときは共に苦しみ、人を批判する時と境を辨え、いつのまにか自然に生きる喜びを伝え、そして喜びを分かち合えるひと。

 そういう人に僕はなりたいですけれども、そういうひとこそ、初期仏教では阿羅漢と呼び、大乗では慈悲の人と呼ぶ、そして禅で呼ぶ般若が自発発展する仏さんなんだと思います。そういう人格に趣く人はまた結果を急がずそのプロセスを重んじる。なぜなら厳しい自戒とともに常に他者を見ているから。その選択すべき未来への希望こそ「後の世の方達」への希望です。そしてそのことだけのための即今自己此処。ブッダこそそのように生きた人であったに違いないと僕は勝手に思いたい。論文じゃないからこの勝手をお許しくださいね(笑)

>>かっこいいことを書いてしまいましたが(かっこよくない?w)、実は周囲に笑顔がないとわめも楽しむことが出来ないという自己中が本音なのですがw汗

 まわりのひとの笑顔、笑顔にかこまれて生きられたら本当に素敵ですね >^_^<

268くまりん:2005/12/18(日) 09:49:11
おはようございます。

 Leo さんへのお返事になりますが、わめさんも仏教の歴史ということでお読みください。これは僕の思想ではなく、仏教観ではなく仏教学のお話です。マハー・デーヴァのエピソードで「座談会」を思いだされるというのは良くわかります。エントリでも触れましたがマハー・デーヴァへの批判というより2段と連結ではほとんど非難です。ちょっと余談なんですが仏教史的な話をしますと説一切有部の拠点はカシュミーラやガンダーラの北西インドです。この地域はクシャン王朝の時だけが例外であとは異民族の侵入とそれに伴う政変が多くほとんど戦闘状態です。そのせいか三蔵を除く他の仏典(アヴァダーナ、ジャータカ、教団史のたぐい)をパーリ仏教圏の同様のものと比較するとパーリ語のほうは動物を主人公にしたほのぼのとした物語が多いのに北西インドの方は人間の生々しい描写や殺人などが目に付くのです。なんとなく人間が好戦的だったのでしょうか。非大乗系の部派文献はそれでもまだ律蔵の戒を守ることを前提に記述されていますが、大乗文献になれば戒など関係なく例えば大乗涅槃経には武器を取って闘うことも勧めるテキストが顕れます。ご承知のように法華経もある意味好戦的な要素を持っています。日蓮もそうですね。好戦的なオリジンは意外やカシュミーラやガンダーラにあるのかも知れません(笑)。

 話を元に戻します。アビダルマを世俗社会にいる我々の感覚で考えるとまるで違うことになってしまいます。とはいっても世俗の僕らにはどうしようもありません。そこでこんどは仏教学を引っ張り出します。仏教とはとゆーかさんがわめさんの『宗教はやっぱり好きになれない』でコメントしているようにブッダの教えであり「四聖諦」を真理と認めて(認め方は仏弟子によってさまざまですが)確信し実践する教えです。マハー・デーヴァをたとえ連結でのエピソードとしてではあっても非難しているのは出家者なのです。ブッダ自身、悟りを得るために、家族・財産、そして国までも捨てて出家し成道から死まで一貫して「出家」の生活を送りました。説一切有部僧伽の比丘たちもそれはまったく同じです。彼らが考えたのはブッダをはじめとした先人の仏弟子たちの営みから逸脱すれば、ブッダが身を以て示したブッダの説いた教えという意味での「仏教」そのものを否定することになると考えたのです。ですから初期仏教では在家阿羅漢の存在を否定します。仏教の掲げる涅槃に最終目標に在家者は至ることが出来ないとするのです。厳密に言えば、在家者のまま阿羅漢果に到達することは可能なんですが、その状態を保持し続けることは後述するように不可能なので、即日出家するか、そのまま般涅槃(完全な涅槃つまり死ぬこと)するしかありません。

269くまりん:2005/12/18(日) 09:50:00
エラーが出たので二つに分けます f(^ー^;
 特に「アビダルマ・マハービバーサ」をまとめあげていった比丘たちは阿羅漢に達して悟りを得た比丘たちです。彼らは一切の結縛を断ち切っています。彼らは社会的立場にしがみつき、稼業にエネルギーを費やし、自己と家族の安泰を図ることをとっくに放棄しています。その阿羅漢の状態を保つためには出家で有り続けなければなりません。現実的に家族があり、財産があり、社会的立場があり、稼業がある僕ら世俗の人間が、一切の結縛を断ち切り得るかは僕ら自身考えてみれば簡単にわかることです。自分の家族や財産が他人によって危険にさらされれば、法的にも実力的にもこれと対峙しなければなりませんし、社会的立場を守り、稼業にエネルギーを費やし、自分と家族の安泰を図ることのほうが世俗では求められます。「四聖諦」で否定される「貪り」や「瞋り」は、世俗社会ではむしろ必要な意志でもあるのです。そして阿羅漢果を得た比丘達は律蔵の決まりに従って在家信者からの要望があればたとえ安居の最中であろうと出かけて行って在家信者とお付き合いしなくてはなりません。僧伽僧院に在家信者、あるいは仏教信者ではないただの物見遊山の観光客であっても頻繁に訪れる来客を連れだって僧院を案内し、説明し、その人々に応じて法を説かなければなりませんでした。僧院内の仏塔や香室など客が訪れるところの清掃と旗や花、香油などによるお清めや供養も彼らの仕事でした。比丘達には作業の割り当てが決められており結構忙しい、世俗社会との接触も自分の意志にかかわらずしなければなりませんでした。

 そういう意味では大乗の担い手だったと考えられる森林遊業者、あるいは出家の時にアビダルマ瞑想コースを選択せずに読誦コースを選択して法師となった人々(彼らのオリジナルなアヴァダーナやジャヤータカが大乗経典として成長したと考えられるし、話が面白いと人気がでて収入もあった)は世俗社会との接触は自由意志とされていたにも関わらず、衣食住は説一切有部教団から援助もされていたのですから仏教的に言えばほとんど出家と言うより世俗社会の倫理的な生活をしていた人とさえ言えるし、瞑想コースの比丘達からみれば随分と虫のいい連中ですが律蔵で決まっていましたから、彼らも尊重しなければなりませんでした。そこで阿羅漢たちはそういう世俗の結縛にいとも簡単に戻ってしまう人間の弱さを断ちきり続けるために、自らの瞑想に利用する認識対象の手引きとして、あるいは後続の阿羅漢を目指して出家修行をする比丘たちのための認識マニュアルとして四大や五蘊、十二支縁起の各ダルマのパラダイムを変えて観察して記号化し、あるいは共通要素をパラダイムごとにグループ化して記号化して、ただ認識できたら執着せず意識の中から滅していくものとしてアビダルマを体系化したのです。そしてとくに注意を払うべき仏教と対立する思想に対しては由来のエピソードとしてマハー・デーヴァのような架空の人物を仕立て槍玉にあげて連結しているのです。どうか仏教学的知識としても「座談会」とは区別して考えてください(笑)。まぁ以上は『根本説一切有部律』と『阿毘達磨大毘婆沙論』の記述や碑文や遺跡などの考古学的成果の報告から構成したもので仏教史としてお考えください。誤解していただきたくない点は、在家阿羅漢が否定されるなら在家仏教徒の実践は無意味だと短絡的に断ずることです。四向四果の預流・一来・不還・阿羅漢という定型句で言えば、不還までは到達できることになります。不還と言うのは次生において生死(インド的に言えば輪廻)を出離する者のことです。あるいはわめさんのように仏教から人生の哲学を学ぶというのも有りだと思います。なんせ僕らは在家(たとえ日本で僧侶だろうがインド的には在家と同じ)なんですから。なんか、随分長文になってしまいました。

********
- 生きとし生けるものが幸せでありますように -

270Leo:2005/12/18(日) 17:12:55
くまりんさん、こんばんは。

>非大乗系の部派文献はそれでもまだ律蔵の戒を守ることを前提に記述されていますが、
>大乗文献になれば戒など関係なく例えば大乗涅槃経には武器を取って闘うことも勧めるテキストが顕れます。

なるほど、それは「ポア」にもつながる思想ですね。

>ご承知のように法華経もある意味好戦的な要素を持っています。日蓮もそうですね。
>好戦的なオリジンは意外やカシュミーラやガンダーラにあるのかも知れません(笑)。

創価学会員は日々の活動を「戦い」と称しますから確かにその系譜ですね。
(ちなみにそういう好戦性を理性による批判(できるなら知的生産)に昇華させようというのが私のLibraさん解釈です...)

>そこで阿羅漢たちはそういう世俗の結縛にいとも簡単に戻ってしまう人間の弱さを断ちきり続けるために、
>自らの瞑想に利用する認識対象の手引きとして、あるいは後続の阿羅漢を目指して出家修行をする比丘たちのための認識マニュアル
>として四大や五蘊、十二支縁起の各ダルマのパラダイムを変えて観察して記号化し、あるいは共通要素をパラダイムごとに
>グループ化して記号化して、ただ認識できたら執着せず意識の中から滅していくものとしてアビダルマを体系化したのです。
>そしてとくに注意を払うべき仏教と対立する思想に対しては由来のエピソードとしてマハー・デーヴァのような架空の人物を
>仕立て槍玉にあげて連結しているのです
>どうか仏教学的知識としても「座談会」とは区別して考えてください(笑)。

了解です。(念のため...(「座談会」は個人宅を用いた会合をも意味しますので)聖教4面によく出ていた「座談会」ということで。)。
少し前くまりんさんに「勝義諦」と「世俗諦」をご指摘いただいたのを思い出しました。「出家」と「在家」の
違いも(当然のことながら)そのようなことがあるのですね。

>誤解していただきたくない点は、在家阿羅漢が否定されるなら在家仏教徒の実践は無意味だと短絡的に断ずることです。
>四向四果の預流・一来・不還・阿羅漢という定型句で言えば、不還までは到達できることになります。
>不還と言うのは次生において生死(インド的に言えば輪廻)を出離する者のことです。
>あるいはわめさんのように仏教から人生の哲学を学ぶというのも有りだと思います。
>なんせ僕らは在家(たとえ日本で僧侶だろうがインド的には在家と同じ)なんですから。

近頃仏教は私にとって意味があるのだろうかと(短絡的に?)思いはじめて(悩んで?)いたところなので丁度よい
アドバイスです。ありがとうございます。

272Leo:2005/12/20(火) 23:05:54
>(ちなみにそういう好戦性を理性による批判(できるなら知的生産)に昇華させようというのが私のLibraさん解釈です...)

これはなんか表現がおかしいのでちょっと修正。

私はLibraさんのお話や資料を拝見したり書籍を読んだりした流れから(今回思いついた表現として)
好戦性を理性による批判(できるなら知的生産)に昇華したらよいと思っています。

と書いていて、好戦性の昇華は知的生産だけに限らずなんらかのよい行いという多様性があると
思ってしまった

273わめ:2005/12/21(水) 17:05:29
 Leoさん、Libra師匠、こんにちは。^^

 くまりんさんのエントリーのテキストから読み取れることは、アビダルマに関しての見解は大概に下記のようのものかな。

くまりんさんのブログの『Abhidharma-mahāvibhāşā 大天の五事 』から
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=888

四聖諦を核としそのうちの苦聖諦、苦聖集諦、苦聖滅諦にほほ収斂される仏教思想の核心である十二支縁起、四大、五蘊を最小限の単位で記号化し人間の苦の表象をかたちづくる心・心作用の本質的存在としてのダルマに分解されたアビダルマはそれを自身の生存原理のうちにはっきりと頷きながら認識し、認識した心作用を制御していく実践心理学、あるいは実践哲学である苦聖道諦へと連続するブッダの弟子達の豊饒なる思索の体系であるといってよい。当然テーラワーダ仏教ではそのヴィヴァサナー瞑想で活用されるが本来ならば北伝仏教である日本仏教においても活用されてしかるべきものである。

くまりんさんのブログの『出家とアビダルマ 』から
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=890
まえにも書いたけど「桜の見頃は春ですね」「いえ、いつでも見頃でございます」の問答はパラダイムを変えた視点で仏教は深いなんて比喩にも使われるけど、どんなものでも、表象でも、事象でも、本質でもパラダイムを変えてみるのが仏教では当たり前でそんなもんちっとも深くないんだ当たり前なんだということがよーく分かります。人に期待して裏切られると自分が被害者で相手が加害者みたいな意識も、みんな自分の為にやっているんだから被害者だなんて妄想だったってことも仏教では当たり前に考えていることがよーくわかります。そういうものの見方をとりあえずは rūpa から。読み出してみれば長老がなぜ「心・心所」ではなく rūpa から始めたのかが良くわかります。まずこの認識対象としての「物質」を仏教の基本的なパラダイムから始めることで当時のインドの世界観にすすっと入っていけるんです。なぜか?仏教を理解しようと思えばまずはインド的世界観をマスターせねばいけないからです。当時のインド人が知りもしなかったような現代の僕らが考えている?いやいや推測しているだけなのに認識していると思いこんでいる物質への常識は捨て去らなければなりません。当時のインドには顕微鏡もオーディオアンプも有りませんし、ましてやコンピュータなんてシロモノはないんですだから。彼らは目で見て耳で聞いて鼻で嗅いで舌で味わい身体で触れた感触だけをたよりに物質を分析したんです。それが世界観の基礎になるのです。だから長老のやり方はちっともインド学的ではないけれど正攻法なんですね。というわけで地水火風の四大と眼耳鼻舌身の五根、と機能としての五境をこれでもか、これでもかと視点を変えて、共通の働きによるグループ分けと、グループ替え、それぞれの組み合わた状態での共通の働きによるグループ分けと、グループ替え、まるでフォトショップでレイヤーを切り替えるようにとんとんとんと話が因縁で縁起して進みます。「あなたはものごとの見方が狭くないですか?それはこういう風に見たら真実が見えてくるでしょうに!」と長老の甲高い声が迫ってくるようです。編集にも携わった ajita さんがくらくらするくらい!と仰るのはまさにピッタンコの形容です。そして最後のほうに長老のひとこと。「アビダンマは哲学や心理学を語るものではありません。瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いていますから、一般には通用しません。このままでは現代の哲学にはなりません。修行者のための哲学・マニュアルなのです。- p201」

274わめ:2005/12/21(水) 17:33:57
>>273
 「アビダンマは哲学や心理学を語るものではありません。瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いていますから、一般には通用しません。このままでは現代の哲学にはなりません。修行者のための哲学・マニュアルなのです。- p201」

 とあり、これがブッダの正当な教えの「修行者のための哲学・マニュアル」なのか、あるいは他に「修行者のための哲学・マニュアル」があるのか、またこの修行者と言うのが出家者のみを指していて在家者向けにも「修行者のための哲学・マニュアル」があるのか、その辺はよく分かりませんが、ブッダの教えがそのまんま修行者のための「アビダンマ」そのものであるとすることは、在家者にもブッダが教えを説いていることからまた、最終的に在家のままではだめで出家者になることがすべての人々にその目的から必要であると説いていないのなら、ブッダの教えから「修行者のための哲学・マニュアル」として発展させていったひとつの仏教の形となるのではないかと思うのですが。
 そのひとつの仏教の形のアビダルマとしてそれがブッダの教えと矛盾しないのかどうかと、ブッダの教えの中心思想を縁起の思想とした場合、その(暫定)真理でもある縁起の思想を信仰と切り離して自己の中心思想として日々生きて行くことは、ブッダの教えと矛盾するのかしないのかをわめは知りたいと思っております。

275わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 17:49:21
>>273-274

 「瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いています」とありますが、これがブッダの教えの実践として正当であるかが疑問に感じているのですが、それは論理的にではなく(わめには論理的に無理w)わめからはその修行者の言動が創価学会の盲信バリバリ学会員と非常に類似して見えるからなのです。

276とゆーか:2005/12/21(水) 20:18:58
また、相変わらず妄想していますね。

ひとことで言えば、ヴィパッサナーを行うときの認識対象を用語化グループ化しているのです。
辞書です。用語です。ラベリングの言葉です。
ヴィパッサナーで観たときに、観えない対象をいくら用語定義しても意味はないのです。
瞑想者にとってのみリアリティのある話です。

また、新しい現象を観るのですから、普通の日常用語ですむ話でもありません。
だったら辞書があったほうが良いのです。

ヴィパッサナーが進むにつれて、そういう風に分類していけるのですが、そこには用語(言葉)の個人印象の問題があり、
複数名で同じものについて同じものを見ていることを確認しないといけないのです。

悟りに必要なのは、辞書ではありませんから、その意味で上の辞書は無意味です。
しかし、お互いのお話を通じさせるためには、辞書は必要なのです。
上の辞書を読み、仏教共通言語を用いて、会話していけば、どこの認識ができていないかがチェックできるのです。

いずれにせよ、阿羅漢を目指す修行者には必要ですが、預流果についてはそこまで必要ではないとされますので概ね無駄です。
読んで面白いところを楽しんで捨てるべき本です。

仏法僧に帰依しないかぎり、これで行こうという決心(サッダー)は生まれませんから、
だから無駄です。やめなさいとブログに書いたのです。

再び、それなりの修行を行った比丘を誹謗していますから、二度目の聖者非難罪です。
このまま放置すると、預流果の悟りも無理ということになるので、
とにかくその妄想の言動をやめてください。
悪業を積んでいるだけです。これは、忠告です。

菩薩にしろ沙門にしろ、助けたくとも、帰依していないものは助けられません。
どちらも奉仕者ですから、別にあなたが何かしていなくても、帰依していれば助けられますが、
反発しているものは無理です。

邪教に帰依した業(習気)は簡単に消えないようですね。
残念です。

279わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 20:41:28
とゆーかさん、いらっしゃい。^^ こちらでもよろしくです。

 ご気分を害されたのなら申し訳ありませんが、わめが >>273-276 で書いていることは何ものをも誹謗しているわけではありません。
創価学会と言う組織において、アンチからよく盲信バリバリ学会員との指摘を受ける方々がいるのですが、そのような方達と言動が非常に類似していると言っているだけです。
 何を信じるかが違うわけで、その信じるものが正しいか間違っているかを論じているわけではなく、その姿勢がよく似ているわけですがそれも果たしていいことか悪いことかも断じてもいませんので誤解なきようにお願いいたします。

 ただあなたの信念から、またそれが仏教上の教義として正しいとしても、他者に対して妄想しているなどと断じることはわめの管理するサイト上では今後お止めいただきたいと思います。
 人にはいろんな考え方があり、それが間違っている場合も多々あるでしょう。
 可謬性のない人間はいないと思いますし、わめやとゆーかさんとて例外ではないと思います。

280わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 20:59:06
 とゆーかさん、誤解があるといけませんので補足しておくと、わめが指摘している盲信バリバリ学会員と言動が非常に類似していると言いますのは、とゆーかさん個人を指して言っているわけではないのです。
 チャット仲間の中にもテーラワーダの瞑想行などを実践されている方がおられるのですが、その方もやはり自分の信じていることが絶対に正しく思いそのような言動に出ることが多々あるのを、他の方がやさしく色々な考え方の人があるんだからと諭したりしたのですが、諭してくれた方を浅はかだとか何も分かってないなどと非難したりするのです。
 そのチャットを管理しているわめとしては以後もそのような発言を続けるのならチャットに参加させないようにすると勧告しました。
 このような経緯などから盲信バリバリ学会員と言動が非常に類似していると指摘しているわけです。
 わめももう少し配慮して盲信を外してバリバリ学会員と表現したほうが良かったのかもしれないと少し反省はしているのですが、自らが信じることのみが正しいとの感覚は盲信の言葉を外すと表現が難しかったこともお察しください。

281わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 22:05:36
 とゆーかさんは、とゆーかさんが正しいと信じる教えから、わめを良い方向へと導いてあげたいとの温かい心で言っておられることは重々分かるのですが、前述の学会員の姿とまるでそっくりなんですよ。(^^;;

 LeoさんやLibra師匠や他の学会経験者がどのようにお感じになるかも興味があるのですが、わめはその点に強い抵抗感を持っているわけで、とゆーかさんがご指摘の「邪教に帰依した業(習気)」とわめが映るように、前述の学会員からはとゆーかさんが邪宗の害毒が深いなどと言いそうなこととこれもまたよく似ています。自身の信じる教えを、信じない人に対して哀れと思うなどの共通性が高く思います。

 わめのこのような意見が、今後のとゆーかさんにとって多少なりともよい意味での参考になれば幸いです。

282とゆーか:2005/12/21(水) 22:42:00
サッダーというのはそれほどのものだとご理解ください。
サッダーです。決心です。狂信と紙一重のものです。
それほどの決心がないと、広すぎる瞑想世界は、目的地につけないのです。
本当に命綱です。

一度、チベットの死者の書(中沢新一著)を読んでみて下さい。
テーラワーダでは否定されている部分があるのですが、臨死、瞑想者の心理状態をそれなりに表現しています。

われわれ瞑想者は、眼前に広がる妄想の海から、灯台をひとつずつ見つけ、次の灯台へと進むのです。
瞑想者にとっての命綱です。あなたには関係のない話なのです。
だから、わたしはその本に触れるなといったのです。

大学生の教科書を小学生が読む必要がないように、仏教初心者には意味のない教えです。

あなたが野良猫だとします。
餌やりばーさんが、なんとかわいそうな猫だろうと、餌をあげようと、近づきます。
野良猫は、人は怖いものだと思っているので全力で逃げ、餌はもらえませんでした。

わたしも野良猫だったとします。
おなじように近づいてきました。
わたしは、餌やりバーさんをくれる人であると認識して、餌をもらえました。

そういうことなのです。
あなたは、餌やりばーさんを怖いと思う訓練をやっているだけです。

波動を読み取る力、そういう力がないと、精神世界は渡りきれません。
同じ波動同士が一緒に進むのです。
あなたの行動を見ていると、慈悲というか愛に反応はしますが、智慧、悟りには反発する性質のようです。

この世界が愛であふれているならば、ライオンがシマウマを食べる必要などないでしょう。

仏教者はそういう状況を見て、この世界は、本質的に苦であると認識します。
宇宙が愛だなんていうのは、大嘘だという事実をみます。
仏教というのはそういう教えです。

ついでだから、あなたの性格テストを行ってみます。

問題
おなかをすかせたライオンが一週間ぶりでシマウマを見つけました。
ライオンはシマウマを襲います。

そこにあなたと数人の人間が一緒でこの状況を見かけます。

1.目をつぶる
2.おもしろがってみているだけ
3.平静に観察する
4.シマウマを助けようとする
5.ライオンに手助けする
6.シマウマの代わりに身代わりになる。

あなたはどういう行動をとりますか?
あなたはどういう行動をとるひとを尊敬しますか?
師匠をその行動だけで選んでください。

それがおそらくご自身の思考パターンを表現することになるでしょう。
解説は、くまりんさんにおまかせしちゃいましょうか。
私が説明するより信用するでしょうから。

283わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/21(水) 23:56:30
 とゆーかさん、こんばんは。^^

 う〜ん、何て言ったらいいのか困ったな・・・w汗
 どう言っていいのか難しくて失礼があったらすいません。m(_ _"m)ペコリ
 とゆーかさんの信じる瞑想世界も、とゆーかさんの信じる仏教も、それはそれでとゆーかさんの中である内や同じように思う方達の中では何も問題ないと思いますし、それをとやかく言う気はないのです。
 そしてわめはとゆーかさんから見れば現実社会で貪瞋痴にまみれた人達と同じく貪瞋痴にまみれて生きているのです。でもこれが悲しい現実の世界じゃないのでしょうか。それを認めるのも認めないのもとゆーかさん次第でありますし、そのわめのテキストに触れ妄想してると思ったり哀れと思ったりすることも”ここまで”なら何の問題ないと思います。しかしそれ以上は難しくこの貪瞋痴にまみれた人達が作った矛盾に満ちた社会の常識や良識やルールがあったりするわけで、どれだけとゆーかさんが正しい、素晴らしい教えや実践法を語ったとしても、貪瞋痴にまみれたわめには理解もやってみようとも思わないのです。何故ならこの貪瞋痴にまみれたこの世界やそこに住む方達が大好きだからです。とゆーかさんの目指す目的地は果てしなく遠く、わめはこの貪瞋痴にまみれた世界の人達と一緒に良い方向にたとえ一歩、或いは半歩進めれば、否、その方向に向って死ねれば大満足なんです。それ以外は覚悟で乗り切るつもりです。歴史が物語るように限られた方しか現実世界で身に付けることができない智慧や辿り着けない悟りなら興味がないのです。それよりは「赤信号(でも)、覚悟を持って渡れば怖くない」って感じです。怖w
 いずれ未来に、あの時にとゆーかさんの言うことを聞いていればよかった、餌を貰っていればよかたって後悔するかもしれません。でもそれも仕方ないですよ、自業自得です。
 この世界はこんな貪瞋痴にまみれた人達が一杯で愛も溢れてないですよ。^^
 とゆーかさんもこんなわめに関わっているとロクなことがないかもしれません。涙
 ブッダが出家を薦めるのもこんな理由も含まれるのじゃないでしょうか?

 あ、正確テストは面白そうなのでやってみました。(*゜▽゜*)
 でも誰がどれを選んでもその方を師匠だなんて思えませんがwヽ(・∀・)ノ アヒャッ!!
 わめが目の当たりしたら選ぶのは「1の目をつぶる」でしょうかね。

 失礼しました。<(_ _)>

284わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/22(木) 00:26:15
> 歴史が物語るように限られた方しか現実世界で身に付けることができない智慧や辿り着けない悟りなら興味がないのです。

 これは誤解を生みそうですね。(^^;;
 可能性が限られているとの話じゃなくて、過去からの結果を見てということです。^^

285とゆーか:2005/12/22(木) 03:03:25
困りましたねぇ。仏教なんて信仰しなくて良いよと言ったはずですけど。
捨てなさいといっているぐらいですよ。
トンジンチに酔っ払っている人に、仏教を伝道できると思っている初期仏教者はいないのです。

では、私がしつこく何を問題にしているのか、餌やりを例にとってもう少し説明しときましょう。

A)怖いので近づかない。安全な距離程度にちょっと離れる。
そしたら、餌やりばーさんは、足元に餌をおいて、どこかにいくでしょう。
いなくなってから食べればよいから、ほかの猫にとられなければ無問題です。

B)怖いので全力疾走で逃げる。絶対ちかづかない。
これだと足元に餌をおいても仕方ないのですから、どうにもなんないでしょう。

あなたは、Bの練習を一生懸命しているのです。
私から見ると完全にそう見える。

仏法僧の三宝に帰依さえしていれば、トンジンチに酔っ払っていても、どこかでなにか最悪な不幸なときに会うことがあっても、
助けが入るのです。
仏法僧を誹謗、中傷、批判、反発、いずれにせよそういう習慣を続けていると、その最悪の不幸のときに助けようがないのです。
例えば死ぬときビジョンで乞食坊主と天使と悪魔と天女と仏陀と菩薩がお迎えにきたときに良い道を選べなくなるのです。
(妄想に取られるでしょうけどね)
つまり、三宝帰依してれば、トンジンチによっぱらって遊んでても何もいいませんよ。
でも、仏法僧を否定する訓練を続けているとダメです。どうにもなりません。

その練習のために仏教勉強しているならはっきり悪行です。やめたほうがいい。
疑問程度はかまいません。反発してはいけないのです。ほうっておけばいいんです。
お布施しなきゃいいだけです。悪態ついてしまうと大変な悪業です。
関係ないでしょ。余計なエネルギー使って悪業積んで何がしたいのかよくわかりません。

日本で天皇陛下の悪口を言うことがどれだけ危険かはご存知でしょう?
同様に仏法僧の悪口を言ってよいことはなにひとつもありません。
キリスト教の神の悪口言うことだって命がけですよ。よーいいません。
大作氏の悪口だって周りを注意しなきゃ、大変なことになります。
たとえ不徳の僧に見えても、僧、比丘をしているだけで、それなりの善業があるのです。
有徳の僧は言うに及びません。僧、比丘というのは、現在は仏陀の代理なんですよ。
間違ってはいけません。不徳ゆえにその後、地獄に行く僧、比丘がいたとしても、
あなたの問題ではありません。

さて、悟りを開いた人ですが、
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/thread.cgi?user_id=QZV00171&amp;disp_no=2399&amp;log_no=2399&amp;msg_per_page=10&amp;def=10
仏陀の時代はこの程度ですね。
大体は無名で終わるのです。ひっそりと悟りひっそりと寂滅します。

在俗の人間にとって預流果はかなり現実的な目標です。
日本のように現在平和で物質的に豊かで教育水準の高いところに生まれた人間の場合は、
善業としては十分だというのが一般的理解です(たとえ貧乏で不細工で頭が悪くても)。
時間さえ作れれば問題はないでしょう。
幸いなことに、観法がやっと伝わり八正道の八支分が全部揃いました。
単なる禅定ではなく行捨智で業を完全に滅ぼす条件が整ったのです。

いずれにせよ、トンジンチで遊んでいたいというのなら、
命綱の三宝帰依だけは確認しておいたほうがよろしいでしょう。

だから、仏教捨てて、命綱きってどうなるか自分で確かめれば、
三宝帰依のありがたみがわかるのにと思ってお勧めしたのに、
くまりんさんはどうしても仏教に結びつけるからね。

命綱つけるなら、その命綱に切れ目入れる馬鹿は普通はいないんです。
あなたはそれをしています。

286わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/22(木) 08:41:25
 とゆーかさん、おはようございます。^^

 くまりんさんにほとんど同じ仏教の理解者と言われるように、瞑想者であられるとゆーかさんのその修行の妨げになってはいけないと思い書かせていただいた >>283 もさすがに歯が立ちませんね。(^^;;
http://wame.seesaa.net/article/10814676.html

> 困りましたねぇ。仏教なんて信仰しなくて良いよと言ったはずですけど。
> 捨てなさいといっているぐらいですよ。

 同じく上記URLのコメント欄でとゆーかさんは、『信仰を捨てよというのはまったく正しいですから。ただし、阿羅漢になってからという前提がつくだけです。』ともおっしゃっておられますが、貪瞋痴の塊のわめが阿羅漢であろうはずもないし一見矛盾しているようにも思えるのですが、しかしこれもきっとパラダイムを変えた視点で述べられているのでしょうけど、わめのような浅はかな者には理解できません。涙
 こんなわめなので >>285 のお返事を全部書いちゃっていいものか、と言うかそれ以前のコメントにもお返事してないところがいくつかあるのですが・・・、でも理解できないことで皮肉っぽく反発して書いちゃいそうなので(既に書いてるなw汗)、とりあえずここまでで控えさせていただきますね。^^

287Leo:2005/12/25(日) 21:49:19
Libraさん、くまりんさん、わめさん こんばんは。

『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』を便宜のため抜書きしました。

アルボムッレ スマナサーラ、藤本 晃『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』サンガ、2005年
一部抜粋(1)

○アビダンマと対象とする入門テキスト『アビダンマッタサンガハ』について。
および(スマナサーラ長老が語るところの)仏教の考え方。

「仏教心理学というタイトルで、ここではアビダルマを勉強するつもりなのです。
 経・律・論の三蔵経典の三番目のアビダルマ(論蔵)は、七つのテキストで
 構成されています。」(p.4)

「正直なところ、論蔵は本棚を立派に飾るという役割だけを果たしています。」(p.4)

「上座仏教では、三蔵経はまことの仏説だと徹底的に信仰しているので、こんなことを
 言ったら破門されてしまうかもしれません。しかし、論蔵は分かりにくいということは
 まぎれもない事実です。」(p.4)

「これから勉強する『アビダンマッタサンガハ Abhidhammattha-sangaha』なら、私たちにも
 いくらか分かる可能性はありますが、本物のアビダンマのテキストは、本当にわかりません。
 いきなり、心はこれ、などと説明が書いてあるだけです。ですから仏説ではないだろうという
 感じはあります。」(pp.27-28)

「我々の俗的レベルで聞きたいことは何も説明しません。その代わり解脱の必要なことは言って
 います。アビダンマは、修行者のために必要な論理・心理学なのです。」(p.33)

「仏教、特にアビダンマには、簡単に「全知」になって「ああ、もう勉強は完全に済んだ、
 楽になった」と重荷を下ろしてもらおうという狙いがあります。」(p.55)

「atmanとかpursaとは、普遍的な、全てを支配している精神的なエネルギーだと言うのですけど、
 我々がどこまで探し求めても、そんなものはどうしても見つかりません。見つからないのですから、
 捨てて忘れてしまえばいいのです。仏教が他のどんな宗教、哲学、思想とも違うところは、
 見つからないものは、考えから外すというところです。」(p.110)

288Leo:2005/12/25(日) 21:50:26
アルボムッレ スマナサーラ、藤本 晃『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』サンガ、2005年
一部抜粋(2)

○大乗仏教の空論への批判

「逆に「自も他もあらず、一切は空」などと言ってみても、現に私が他者を認識して
 煩悩を作っていることに変わりありません。人が勝手に「真実には自も他もない」と
 言っても、私の煩悩は消えません。だから哲学を振り回しても何の意味もありません。」
(p.134)

「簡単に「すべては空だ空だ」という人に「ではどこで煩悩が生まれるのですか」と聞いても、
 「煩悩はない、輪廻もない、解脱もない。全部空だ。」と答えます。それでは、煩悩を
 断ち切って解脱の達する仏道が全部否定されてしまうのです。このような、真理ちそれに
 至る道について何の説明もしてくれない単純な空論は、結局、哲学でもない、実践もない、
 ただの言葉の遊び、概念の空回りだけです。」(p.135)

「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色がある」と言います。
 大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸命批判しています。どちらが正しいか、
 ちょっと考えればすぐに分かります。」(p.182)

「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから『これ』と掴まえられるものはない」
 と言い、それをsunnata(サンスクリット語ではsunyata)と言います。一部の人は、ただその
 「空」という言葉だけを取って、「全ては空である」と拡げて、一生懸命宗教システムを
 作って「これが大乗です」とまで言いますけど、ただ言葉の遊びだけです。こちらは、
 「では頑張って下さい」と言うしかありません」(p.183)

「「一切皆空」などと言葉とか哲学だけでいろいろ言いますけど、それでは現象の問題は何も
 解決しません。そんなものに何の意味もありません。ただの言葉遊びです。哲学は、ものこと
 をただいじるだけです。」(pp.183-184)

289Libra:2005/12/28(水) 02:58:25
 Leo さん、こんばんは。抜書きありがとうございました。

 「関係性」の問題のほうにもコメントしたいので、こっちのほうは簡潔に書
いてみます。不明な点がありましたら、またおっしゃってください。

 長老は「本物のアビダンマのテキスト」について「仏説ではないだろうとい
う感じはあります」といわれています。龍樹の批判対象は「本物のアビダンマ
のテキスト」だろうとおもいます。わたしは『アビダンマッタサンガハ』は見
ていませんので評価できません。

 「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色
がある」と言います。大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸
命批判しています。どちらが正しいか、ちょっと考えればすぐに分かります。」
と長老はいわれています。たしかに、長老がおっしゃるような大乗仏教がある
とすれば、そんなものが正しくないことは考えればすぐに分かります。しかし、
少なくとも、龍樹やチギの大乗仏教がそのようなものではないことは、龍樹や
チギの書いたものを読みさえすればすぐに分かります。たとえば、チギの「三
諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有していな
い(空)けれども、それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有してお
り(仮)、しかも空であることと仮であることとが一なる存在において統一さ
れている(中)がゆえに、即空即仮即中として表示されうることを明かす教説」[*1]
です。

 「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから『これ』と掴
まえられるものはない」と言い、それをsunnata〔中略〕と言」うという長老
のご理解は正しいとおもいます。ところが、「本物のアビダンマのテキスト」
では「現象の中に実体はある」といっています[*2]。龍樹は、この「現象の中
に実体はある」という考えを論理的に批判しています。この龍樹の批判を「言
葉の遊びだけ」といわれているのだとすると、長老にとっては「論理的な批判」
も「言葉の遊び」ということになるのでしょう。こうなりますと、わたしとし
ても「では頑張って下さい」と言うしかありません。わたしが長老のお考えを
論理的に批判したところで、それは「言葉の遊び」ということになるだけでし
ょうから。


  [*1] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
     http://page.freett.com/Libra0000/122.html

  [*2] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

290Libra:2005/12/28(水) 05:55:32
 わめさんへ

 さきほど以下の拙文をブログのほうに投稿しようとしましたが、うまくいき
ませんでした。もしかしたら何重にも投稿してしまったかもしれません。適切
なご処置をよろしくおねがいいたします。

 睡魔と戦いながら書いたので内容的にも表現的にもおかしいところが多々あ
るとおもいます。

291Libra:2005/12/28(水) 05:56:16
 わめさん、こんばんは。

 関係性の問題について、以下に私見をのべてみます(わめさんに理解してい
ただけるように書く自信はあまりありませんが)。


1.関係の不可逆性

 「ナーガルジュナの縁起思想を関係性で理解」してしまうと常に仏教ではな
くなってしまうということはないとわたしはおもいます。問題は、関係性をど
のように理解するかだろうとおもいます。

 たとえば、松本先生は、ダルマキールティが〝関係の不可逆性〟を論証した
ことを高く評価され、「彼に至るまでは、〔中略〕ナーガールジュナの論法を
別にすれば、〝関係〟というものは、相互的なものと考えられ、関係者である
二項の間に漠然と存在すると考えられていた。しかるに、ダルマキィールティ
は、〝関係〟というものは、関係項を離れては存在しないこと、従って、関係
項Aから関係項Bを見たときの関係は、BからAを見たときの関係と全く逆で
あることを論証したのである。〔中略〕即ち、彼は、〝関係の不可逆性〟を説
くことによって、〝縁起〟と〝時間〟そのものを論証したのである。従って、
彼は、仏陀とナーガールジュナを継ぐ〝縁起論者〟であると見るべきであろう」[*1]
といわれています。

 松本先生のこのようなダルマキールティ評価が現在も維持されているのかを
わたしは知りませんが、少なくとも、松本先生は「〝関係の不可逆性〟を説く
ことによって、〝縁起〟と〝時間〟そのものを論証」できるとお考えなのだと
おもいます。

292Libra:2005/12/28(水) 05:56:50
2.存在論と認識論

 わたしは、関係性を論じるさいには、存在論と認識論を区別して論じるべき
であると考えます。松本先生は主として存在論を論じておられ、佐倉さんは認
識論のみを論じておられるというのがわたしの印象です。

 存在論と認識論を区別して関係性を論じるということは、《概念》を関係項
として論じる場合と《具体的な存在》を関係項として論じる場合を区別して関
係性を論じるということです。

 たとえば、「男」という概念と「女」という概念は、まさに相互否定の関係
にあるといってもよいとおもいます。「男」という概念がないのに、「女」と
いう概念のみがあるということはありえません。佐倉さんが「第二章」[*2]で
論じられているように、たしかに龍樹もこういった議論を展開して、概念に自
性などはないと主張しているとおもいます。

 これにたいしまして、ある具体的な男の子(太郎)と女の子(花子)がいた
として、この太郎と花子の関係性を論じる場合を考えましょう。この太郎と花
子の関係を、「男」という概念と「女」という概念の関係と同じにように考え
るのは馬鹿げているとわたしはおもいます。

 松本先生は、《具体的な存在》を関係項として、〝関係の不可逆性〟をいわ
れているのだとわたしは理解します。

293Libra:2005/12/28(水) 05:57:25
3.松本先生の存在論──危機的存在──

 松本先生の存在論をもっとも特徴づけているのは「危機的存在」という言葉
です。たとえば、松本先生は、「法は確固不変なるものではなく、反対に実に
不安定な中ぶらりんな危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこ
にもない。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ存在
しているのだ。」[*3]といわれています。この言葉以上に仏教の縁起説を的確
に表現する文章をわたしはしりません。

 空(無自性)の思想は、概念の無自性をいうだけではありません。わたしと
いう存在に自性などはなく、まさに「危機的存在」であることをふかく自覚さ
せてくれるものであるからこそ、空(無自性)の思想は菩薩行につながるのだ
とわたしは理解しています。

294Libra:2005/12/28(水) 05:58:07
4.龍樹の認識論──概念に自性などはない──

 《概念に自性などはない》という龍樹の主張についても、認識論として優れ
た視点を提供してくれるものであるとわたしは高く評価します。この龍樹の思
想は、《概念もまた危機的である》ということを含意します。すなわち、「概
念の体系」は plastic である[*4]ということです。このような考えは、ポパー
の以下の議論にみられるような意味での自由をわれわれに教えてくれるように
おもいます。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがある種の知的牢獄、われ
  われの言語の構造的規則によって形作られた牢獄のなかに住んでいると示
  唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意があるが、しかしわれ
  われは通常この牢獄に気づいていないというかぎりでは、これは奇妙な牢
  獄だということを付け加えねばならない。われわれは文化衝突を通じて牢
  獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに気づくということによ
  って、牢獄から脱出できるのである。十分に努力し、新しい言語を研究し、
  母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。
   その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、これははるかに大きく広
  い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄に悩むこともないであ
  ろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことになれば、われわれには
  つねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由が
  あるのだ。
 
  (カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
    『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
     会訳〕、未來社、1998年、pp. 102-103)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

295Libra:2005/12/28(水) 05:58:50
5.時間と場所

 「場所」というのは、ある時点において切り取られた(静止した)世界をイ
メージしてみるとわかりやすいのではないでしょうか。現実の世界は「危機的
な諸法の時間的因果系列としてのみ存在している」のですが、われわれの認識
というのは、その現実の世界をある時点における「概念の体系」で切り分けま
す。その結果として、諸法が危機的でないものに見えてくる場合もあるのでは
ないでしょうか。その典型が、諸法を支える(それ自体は変化しない)基体の
存在を信じる、いわゆる基体説だとわたしはおもいます。

 

  [*1] 『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
     http://page.freett.com/Libra0000/087.htm

  [*2] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第二章 縁起論」
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html

  [*3] 松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 27。

  [*4] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33

296わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/28(水) 16:28:11
 Libra師匠こんにちは。^^

 >>290

 年末でメンテでもしてたのか、トラフィックが上がっていたのか分かりませんが、ブログに投稿できなかったようで申し訳ありません。
 ブログの該当記事のコメント欄からリンクさせていただきますね。
『自性・無自性について』
http://wame.seesaa.net/article/10864702.html

>  睡魔と戦いながら書いたので内容的にも表現的にもおかしいところが多々あ
> るとおもいます。

 わざわざありがとうございました。<(_ _)>
 しっかり読ませていただきまして上記ブログのコメント欄でお返事させていただきます。

297Leo:2005/12/29(木) 08:00:42
Libraさん おはようございます。

コメントありがとうございます。
龍樹(とそれをもとにする大乗仏教)は現在批判に耐えうると思いました。
(またむしろポパーの有用性を再認識してます...)

できればくまりんさん紹介の別の龍樹に関する書籍も読んでみようと思います。

298Leo:2005/12/30(金) 21:46:22
>できればくまりんさん紹介の別の龍樹に関する書籍も読んでみようと思います。

これですね。

『ブッダ論理学五つの難問』 ISBN4-06-258335-6
http://homepage1.nifty.com/manikana/buddhalogic/buddhalogic.html

**************************************************************************

近頃の感想です。

龍樹は龍樹を理解される方、理解しようとする者には有益ですが、少なくとも
テーラワーダの修行者と修行にとっては妨げということなのですね。
(テーラワーダの大乗批判はやや不満ですが修行の達成が主眼であれば仕方ないです)

あとアビダンマは大乗にも影響与えているのですね(北伝仏法ではもっぱら倶舎)。
創価で聞いたことのある(日蓮正宗系の教義で)「三世」とか「法体」とかアビダンマ
起源なのですね。(アビダンマは部派と大乗の接点ということなのですね)

299くまりん:2005/12/31(土) 01:30:36
こんばんは。お久しぶりです。
 年内最後の書き込みになると思います。
『ブッダ論理学五つの難問』の著者マニカナエムさんと仏教思想のソフトランディングの方向性について拙サイトとマニカナエムさんのサイトで意見交換をしています。よろしかったらご覧下さい。

http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=891#comment-12406
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2005/12/post_4fba.html

 僕は拙サイトで大乗仏教を批判していますが、基本的なスタンスとしては大乗仏教が非大乗を小乗というモノイイで論じている点についてのみ大乗を批判しています。実際のインド仏教の流れの中では部派と大乗は連続しているんです。14世紀のインドの哲人宰相 Maadhava はその著『全哲学綱要(Sarvadar;sanasa.mgraha)』 において仏教徒は〈Maadhyamika(中観学派)〉 〈Yogaacaara(実修行派)〉 〈Sautraantika(典拠学派・教量部)〉 〈Vaibhaa.sika[Sarvaastivaadin](選別学派・説一切有部)〉の四種の〈bhaavanaa(教え)〉によって優れた人間の目的を説くと仏教を解説しています。実際彼らは〈caaturdi;sa-sa.mgha(四方僧伽・全教団)〉という仏教徒としての制約の下議論を続けたのです。

 実際仏教の中に大乗、小乗などと区分を設けたのは中国での話であって実際には議論の中である意図〈vivak.saa〉の元に発せられたナーガルジュナの叫びを実際の議論と流れを理解できなかった智ギ、神会、宗密などが大乗、大乗と小乗を蔑んだだけでしょう。少なくともインドにおいては六波羅蜜ですら大乗と小乗を区別するキーワードにも成りませんし、名称としての菩薩行はともかく、実際の仏教上の呼び名で言えば慈悲行は原始仏教の時代から苦行の一種としてブッダに推奨もされ部派においても仏塔信仰とともに大いに為されたものです。

 ナーガルジュナは優れた思想家ですが彼の卓越したところは論理であって無自性は議論における意図〈vivak.saa〉でしかありません。仏教という豊かな思想の流れのなかでは1/4に過ぎないんです。それを智ギ、神会、宗密がそれぞれのやり方で引き継いだからといってなんか意味がありますか?それは単に仏教の中国的変容という視点で検討するべきテーマで、なにが正しい仏教かの俎上にのせる話ではありません。ブッダの体験としての「さとり」を排除したような仏教は仏教ではなくなってしまいます。ナーガルジュナの思想とて一緒です。彼は明らかに「さとり」の体験をしています。だから涅槃がないと言えるんです。つまらないこだわりはお捨てになって仏教を白紙から見直したほうがずっと楽しいですよ。

では、お幸せでありますように。

300Leo:2005/12/31(土) 06:32:33
くまりんさん、おはようございます。

『ブッダ論理学五つの難問』を読んで、仏教は論理だ(釈迦は論理を表出さないでしっかり論理的だった)、
と龍樹も肯定的印象を受けたのですが、龍樹(とその系譜)は仏教の1/4というご指摘ですね。ううむ。

それに龍樹は「論理」で(を表に出して)仏教の防波堤を設けたのかもしれないのですね。

>つまらないこだわりはお捨てになって仏教を白紙から見直したほうがずっと楽しいですよ。

(他の方へのご指摘もあるのかもしれませんが)
私は創価仏教を捨てて仏教を白紙から見直しているつもり(つもりというところが曲者?)なのですが、
龍樹にひっかかって(拘って)しまったということなのでしょうか?(自問自答中)

301Leo:2005/12/31(土) 07:33:17
(自分的宿題は多いですが...)
皆様、よいお年を!

302Leo:2005/12/31(土) 12:01:55
>龍樹にひっかかって(拘って)しまったということなのでしょうか?(自問自答中)

ちょこっとだけわかりました(!)。
「中観派」だけだと「中観学派」、「実修行派」、「典拠学派」、「選別学派」の4学派のうち1つ
だけということですね(で1/4と)。

龍樹は「中観学派」、アビダンマは「選別学派」、世親は経量部の思想が入っているから
「選別学派」+「典拠学派」...

これら4学派はお釈迦様の仏教を中心とした(源流とする)仏教の四天王(?)のような存在ですね。

くまりんさん曰く:
「14世紀のインドの哲人宰相 Maadhava はその著『全哲学綱要(Sarvadar;sanasa.mgraha)』において仏教徒は
〈Maadhyamika(中観学派)〉 〈Yogaacaara(実修行派)〉 〈Sautraantika(典拠学派・教量部)〉
〈Vaibhaa.sika[Sarvaastivaadin](選別学派・説一切有部)〉の四種の〈bhaavanaa(教え)〉によって優れた人間の目的を説く
 と仏教を解説しています。
 実際彼らは〈caaturdi;sa-sa.mgha(四方僧伽・全教団)〉という仏教徒としての制約の下議論を続けたのです。」

303わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 14:56:08
 くまりんさん、Leoさん、こんにちは。^^

 くまりんさんが >>299 で書かれた『ブッダの体験としての「さとり」』とはどのようなものでしょうか?仏教用語はわめには難し過ぎw つい神秘的なことを想像しがちになってしまいます。汗

 わめ的な勝手解釈では、この世界の有り様が分かることは分かり、分からないことは分からないと”分かる”ことがさとりなのかなってイメージしちゃったのですが大外れを予想しています。(>▽<;; アセアセ

 わめは仏教にはそれほどのこだわりを持っていませんので、大乗とか非大乗とかを区別して考えたりもできないのですが、ブッダも自分の教えがこんなにも分析され複雑化されるとは思ってもいなかったと思います。
 またブッダの時代に西洋論理学なるものが身近にあったとしたら、ブッダはどのような教えを説いていたのか想像して楽しくなりました。^^

 今年の総括、抱負になってしまいそうですが、いいとこ取りのわめですから仏教からはブッダの思いと、この世のものはすべて依存関係にあり「すべて危機的存在」であること(これも縁起かな?)を知り、実体はないけれどすべては関係性によって成り立っていることからの関係性重視思考に至り、わめにとってはこの実世界が現実であり関係性であるように思います。あ、実世界と言っても多数が思い描く縮図的イメージのこの世界のことですから妄想世界とも言えなくもないなw汗
 その妄想世界の住人として、互いに楽しくよりよい方向に進むための微力となっていきたいな。

304Leo:2005/12/31(土) 15:48:21
わめさん、こんにちは。

>またブッダの時代に西洋論理学なるものが身近にあったとしたら、ブッダはどのような教えを説いていたのか
>想像して楽しくなりました。^^

(全然宣伝ではないですが...(^^;)くまりんさんのご紹介の
『ブッダ論理学五つの難問』 ISBN4-06-258335-6
http://homepage1.nifty.com/manikana/buddhalogic/buddhalogic.html

によるとブッダの論理は明白で、21世紀の西洋論理を超えるそうですよ(^^;
(うまく説明されていて目からウロコだったですが私としては若干慎重に捉えてます)
(少なくとも私にとってはですが)色々な疑問の解決の糸口になる情報がまた増えました。

(もしかすると既にご存知かもしれないですが)著者の方のHP。
MANIKANA=HOMEPAGE
http://homepage1.nifty.com/manikana/

従来インド(ヒンドゥー)風味と勘違いして敬遠してたんですが(失敬!)、良く見るとウマーなページが。
○心にしみる原始仏典
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/canonindex.html
○龍樹大好き
http://homepage1.nifty.com/manikana/love!ryuju/love!ryuju.idx.html
○『方便心論』
http://homepage1.nifty.com/manikana/upayahrdaya/upayahrdaya.html

(インド嫌いならカレー食べるな!なんていわないでねカレーがないと生きていけないですー)
最近は部派もヒンドゥー教も抵抗感少なくなくなりました。

師匠方先生方はそれぞれ一理あってためになるというか面白い世界を提供されてます。
自分は自分なりにちょこっと飛べたらよいなーと。

ものごとをこっちから眺めたりあっちから眺めたりすると色々違って見えるわけで、
コロコロ話がかわって私は節操のない人間かって?
ものごとは眺める方向が違うと違って見えるってことで勘弁して下さーい(^^;

305わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 16:36:06
 Leoさん、こんちゃ。^^

> 師匠方先生方はそれぞれ一理あってためになるというか面白い世界を提供されてます。

 >>289 でLibra師匠が書かれているチギの三諦説も同じようなことを言っているのではないかと思うのだけど、仮諦だって仮諦としっかり捉え、仮諦に拘るなだけではバカみたいに思えてくるし、だからって仮諦のみに拘る生き方もバカみたいに思えるし、とにかくすべてが危機的状況にあることを実感として持ち、過去を反省し未来を予測選択し、今を生きることが大切なんじゃないかと思うのだけどな・・・
 それがなきゃ空でも仮でも中でも、また自性があろうがなかろうが何にもならないと思うんだけどな。

306Leo:2005/12/31(土) 17:32:21
わめさん、こんばんは。

ちょこっと勉強した方面のパワーでちょこっとLeo流コメントしてみます。
(Libraさんはご多忙といのことでひとまずの結論はよいとしてちょっと遊びましょう)

> >>289 でLibra師匠が書かれているチギの三諦説も同じようなことを言っているのではないかと思うのだけど、

チギの三諦説は龍樹の中論にないから中論の誤読でしょうということもいえるし、
そういう意味でチギの三諦説も危機的状況にあることを実感として持ち、
過去を反省し未来を予測選択し、今を生きることは大切というか、それしか
できないかもしれないです。

人間だから多少拘っているものがあってもよいのではないではないでしょうか。
拘りすぎたら俺って拘りすぎてるかもなと思えれば拘りすぎを制御し自由に
拘ったり拘らなくなったりできればこれは拘らないに似て拘らないより自在に
なれると気づきました。

307わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 17:49:26
> 人間だから多少拘っているものがあってもよいのではないではないでしょうか。

 Leoさん(・∀・)イイネ!!
 多少なんて言わずおもっきり拘ることもいいんじゃないでしょうか。^^
 そういうものもなければ世の中発展や発達や解明などないかもしれませんもの。
 そういった拘りも「危機的状況にあることを実感」することは大切だと思います。(*´∇`*)
 結局「過去を反省し未来を予測選択し、今を生きる」というのも一種の拘りかもしれませんし。笑

308わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/31(土) 18:40:37
 >>294 のポパーの『十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。』のテキストにみられるような、牢獄に気付き牢獄を超越していくっていい感じかなと。^^
 ただわめの場合はこの「十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって」ということさえほとんど理解できていないし、非常に怠慢でもあるような気がしますが。(>▽<;; アセアセ

309Leo:2005/12/31(土) 19:32:11
> >>294 のポパーの『十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって、
>われわれの牢獄を超越できるのである。』のテキストにみられるような、牢獄に気付き牢獄を超越していくって
>いい感じかなと。^^

「文化衝突」なので、「言語」でなくとも、部派やアビダンマのお知らせ、龍樹や大乗の否定なども
刺激になるのかもしれませんです。カウンターパンチってことで。

たとえ話ですが、「牢獄」って別の角度から見ると隙間があったり、牢獄でなかったりするかも
しれません(映画などで脱獄人の話もありますし...根性さえあればということもあります)。
逆に「牢獄」と思わない場所が実は牢獄だったりするんです。

全然関係ない話ですが、Libraさんからの又聞きで、私知らんかったんですが、阿部日顕氏って退座
したんですね。本幹でもその話が出たという話も別方面から今日聞きました。
(聖教をひっくりかえしてみて寸鉄にもありましたが最高裁が関係するのはさだかでないですが(^^;)

あと東洋哲学研究所のHPが出来たとのことで。
http://www.totetu.org/

雑誌の第三文明に小林さんが何か書いたってご存知でしょうか。

310Leo:2005/12/31(土) 19:39:27
>Libraさんからの又聞きで

Libraさんの許可無く、この表現を書いてしまいました。すみません。> Libraさん
(内容がある程度一般的に知れるものなので問題はないと思いますが...)

311わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/01(日) 01:08:55
 Leoさん、皆さん、明けましておめでとうございます。^^

 えへへ、2006年初カキコでごじゃります。(*´∇`*)

> 「文化衝突」なので、「言語」でなくとも、部派やアビダンマのお知らせ、龍樹や大乗の否定なども
> 刺激になるのかもしれませんです。カウンターパンチってことで。

 それはLeoさんだからでしょ。笑
 わめは仏教から >>303 のようなことを抜き出しちゃったのでカウンターパンチにはならないかもです。(⌒▽⌒)アハハ!
 牢獄と言うのも概念ですからね。あまり拘る必要も無いと思います。

 Libra師匠の >>293 に、

>  空(無自性)の思想は、概念の無自性をいうだけではありません。わたしと
> いう存在に自性などはなく、まさに「危機的存在」であることをふかく自覚さ
> せてくれるものであるからこそ、空(無自性)の思想は菩薩行につながるのだ
> とわたしは理解しています。

 とありますが、大乗とか非大乗とか越えて菩薩行(慈悲行)、と言うか仏教も超えてわめも皆さんもこの世界もすべて「危機的存在」であることを当たり前のように自覚できれば、わめにはうまく言葉に出来ませんが、そこから湧き起こる思いを共有できるような気がします。
 自他じゃなく実体のない関係性に身を置くって感覚は悪くないように思います。^^

312くまりん:2006/01/01(日) 14:08:14
明けましておめでとうございます。
昨年は思いも掛けぬ出会いからご批判、ご指導有り難うございました。

Leo さん。
>>龍樹(とその系譜)は仏教の1/4というご指摘ですね。ううむ。
相手にこう思わせてしまうやり方こそ、龍樹の得意技なんですね(笑)
「ダルマに自性なんてねぇぞ!」ってね。
「悟り」了れば「悟り」はないんですね。
アイルランドのフィドルチューンをフィドル(ヴァイオリン)でそのまま奏でればそのままありのままに聞いて体験するしかあり得ません。「ことば」でそれを伝えることは難しい。しかしそれをギターで弾いたらどうでしょう。緻密に連続する一つ一つの音は音符に記号化されるままに一つ一つの音として、ありのままにではあるけれど、一つ一つ聞こえて来るでしょう。その時始めて「ことば」にして他者に伝えることが出来る。

わめさん。
「悟り」はあらゆる煩悩が滅し尽くされた境地、欲望を捨て去りきった境地、神秘でもなんでもありません、それを知り尽くしたブッダだからこそニヒリズムに陥らず、恐怖もなくただ楽しむことが出来るし、その涅槃への道を語ることが出来る!「悟り」を知るには口伝で伝承された教えが記述された経典を読むしかありません。あらゆる仏教の解説書よりパーリ経典を読むことが仏教を知り、「悟り」を知る近道でしょう。

 そしてより詳細にヴァイオリンの音をギターで弾くように明瞭に聞きたければ是非アビダルマも!但し一点で立ち止まって執らわれると真っ逆さまに地獄に堕ちてしまいますぞ。その流転こそ輪廻的生存そのものですが、そういうときは龍樹の「ダルマに自性なんてねぇぞ!」をしっかり思い出してください。

「仏教を超えて」ということは過去に仏教徒たちによって語られたことの一切を超えたときにのみ始めて有効です。それを超えなければ仏教の中でもがいているか、仏教に対する誹謗でしかありません。Libra さんのホームページのサイトの冒頭にはわたくしも大好きな以下の丸山真男の書簡集からの引用があります。

「日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。」(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)

本年も皆様のご活躍をお祈りしております。

********
- お幸せでありますように -

313わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/01(日) 15:03:48
 くまりんさん、皆さん、明けましておめでとうございます。^^
 昨年は、くまりんさんやLibra師匠やLeoさん他皆さんから多くを学ぶことが出来て感慨無量です。
 本年もよろしくお願いいたします。

 音楽、ギターの縦えがでてきましたのわめはちょっとうれしい。♪
 同じ曲を忠実に弾いても弾き手で音色や曲調が大きく変わるように思います。同じ人が同じ曲を弾く場合にも、その時々で音色や曲調は変わってくるようにも思いますし、また聴き手によっても変わってきます。

 これはブッダの悟りのご説明での縦えと思いますが、体験主義的に捉えることは非常に危険を感じてしまいます。ブッダの悟りとはブッダ一人のものだと思いますし、ブッダの悟りを他の方がそっくりに体験することは不可能に思いますし、一人ひとりの体験を悟りとするなら悟りは悟りを開いたと”思う・言う”人の数だけあるように思います。また仏教徒でもなく悟りを悟りと知らないまま体験する人もいるかもしれません。(悟ったかどうか、あるいはその悟りのレベルを判定する方法はあるのかもしれませんが、それもあるひとつの概念での判定法でしかないように思いますし。)

 「仏教を超えて」との表現はちょっとまずかったかもと反省していますw汗
 仏教の枠を超えてと言うのがわめ的には正しい表現であったように思いますので訂正させてください。 ってことで仏教を誹謗する気など毛頭ありませんのでご容赦ください。<(_ _)>

 但しブッダご自身があるひとつの方法でしかこの悟りを得ることができないなどともしも言ったとしたら、あるいはこれが一番の近道だと言ったとしたら、それは悟りを開いたはずのブッダ自身がその方法に固執してしまって矛盾するように思いますので、その場合はわめの「仏教を超えて」との表現もまんざらまずくないかもとも思います。

 いずれにしましても悟りや涅槃が目標でないとしたならば悟りや涅槃に拘る必要などないように思いますし、それが目標だとする方には頑張ってくださいとしかわめには言う言葉が見当たりません。

314わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/01(日) 16:04:42
 >>313 を書いてて、ふっと思ったのがわめはこの現実の世界に起こることをおもっきり享受しているんだなということです。
 それはたまに嫌なこともありますし、人命が奪われていく事件や事故や天災などが起こると悲しくもなりますし、地球のどっかじゃ自分じゃどうしようもない災禍に包まれた人達もいるでしょう。それは微力ながらわめもどうにかしていく努力をしていきたいと思っていますし、それが自身に振りかかることもあるかもしれませんが元々「危機的存在」なわけで、そのようなことにも覚悟を持って対処するつもりです。

 それはそれとして今こうして毎日過ごしていることが楽しいし、さっき大晦日の紅白歌合戦をキャプったのを視聴てたのですがやっぱり歌っていいですねぇ。^^ その歌の切なさや悲しみや願い等々、表現できないほその色々な思いが溢れてきます。これは自身の経験の中にその歌や歌い手の表現する思いと同じようなことがあったからなのかと思ったりもしますが、あぁわめもTVの向うの方達も過去から現在に至るまで色んなことを経験し精一杯生きているんだなって感じちゃってとても感慨深いです。

 また、そんな思いもこうして掲示板やブログに書いて他の方にも読んでも貰えるわけで、人間は愚かでバカなのかもしれないけれどこのようなことのできる世界を作ってくれて感謝だな。

 悲しく切ない離別もあり、また人生を揺さぶる出会いあり、生きていると色々なことがありますよね。

 泣いたり笑ったりむっつりしたり人はその時々で豊かな感情に溢れこの世の生を謳歌し、また謳歌していきたいと思っているんじゃないかと思ったりしています。

 わめはこの現実のこの世界や自分自身を否定する気がまったくないわけで、これを違った角度で見る場合にもそれはこの世の生を謳歌できていない方へのメッセージ作りに役立てたいだけなのかもしれないと感じています。
 このように考えてみると、仏教を志すということとはもしかしてまったく異質な考え方なのかもしれないと思ったりもするのですが、皆さんはどう思ってられるのか聞いてみたくなりました。

315Leo:2006/01/01(日) 16:23:14
くまりんさん、わめさん、皆さん 明けましておめでとうございます。

私は昔テレビを観るものがないときぼーっと放送大学を眺めていたら中世の哲学とか中世の古楽とか見かけて
意外に面白いと思いました。東洋にも匹敵するものがないかと思ったら(昔はないと思っていました...)仏教を
はじめとする東洋思想・哲学なんですね。面白さだけに拘泥してはいけないのかもしれませんが...
(昨年末あたりからなんか私のスイッチONになったかなと...)

316Leo:2006/01/01(日) 19:52:13
>やっぱり歌っていいですねぇ。

龍樹についての警告を替歌にするとこんな感じでしょうか。
オー、ベイビー、ベイビー い・け・な・い 龍樹・マジック♪

317Leo:2006/01/01(日) 22:12:22
わめさん、こんばんは。

>このように考えてみると、仏教を志すということとはもしかしてまったく異質な考え方なのかもしれないと
>思ったりもするのですが、皆さんはどう思ってられるのか聞いてみたくなりました。

私は仏教の修行者でないので仏教を語ることはおこがましいのですが(おこがましいんですが
イッパンピープル(自分を含む)に必要なものを想像するにあえて語ると)、
仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり
(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の必要ない方は忘れていて必要になったときにふと思い出すというのも
アリかなとも思います。

318Leo:2006/01/05(木) 07:48:37
>仏教(仏教に限らないかもしれませんが)の効用は日常と違った物事の見方を提供し行き詰まり
>(日常的危機)を解消すること、人生の最後(自己最終的危機)でじたばたしない諦観を持つことかなと思っています。

そういう意味においては、(仏教学的には承認され得なくとも)創価仏教も効用が十分あると思いますが、
他者とのかかわりや人格形成において疑問点があります。そういう点を確認したいなと。


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