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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

688永遠の行方「王と麒麟(269/280)」:2013/12/01(日) 10:35:45
「そうですか? そりゃ、六太も前はかなり甘ちゃんだったそうですけど。い
つだったか、昔は自分もずいぶん餓鬼で、いろいろ莫迦なことを言って周囲を
――特に主を困らせたと笑ってました」
 主ということは王のことだ。尚隆はますます意外に思った。
「今は違う、と?」
「少なくとも、六太の言う『昔』とは変わったってことじゃないかな。本人が
そう言ったんだから」
「なるほどな……」
 尚隆は微苦笑して応え、最近の六太の言動を思い浮かべた。はるか昔、最初
の大がかりな謀反だった斡由の乱の頃と比べれば物分かりは良くなったから、
確かにそのぶん成長したとは言えるだろう。尚隆に対してさえ相変わらず遠慮
はないし、目先の慈悲に捉われる麒麟の性のせいか、見通しが甘く人を見る目
がない点はさほど変わらないが。
「それじゃ、そろそろあっちに戻ります。俺の質問に答えてくださってありが
とうございました」
 恂生は丁寧に頭を下げてから小部屋を出ていった。それでようやく朱衡は大
きく息をついた。
「驚きました。台輔のご身分が知られていたとは」
「だがまあ、あの様子では他の者には言うまい。あれでも過去にはいろいろ
あったそうだが、なかなか見どころのある男だ」
「そうですね」
 それにさすがに尚隆が王ということまでは気づいていないだろう。
 しばらくするとふたたび海客たちの無伴奏の合唱が聞こえてきた。それで本
日はお開きとなり、歌と団欒を楽しんだ客たちは機嫌よく帰っていき、尚隆た
ちも守真らに礼を述べた上で再訪を約したのだった。

689永遠の行方「王と麒麟(270/280)」:2013/12/01(日) 13:35:42

 宮城に帰りついた尚隆は、いったん女官に六太の世話を任せ、内殿で官に奏
上された雑務をこなしてから正寝に戻った。六太のいる臥室で夕餉を取る際の
慰みに、海客の団欒所での温かなもてなしを女官たちに話してやると、彼女ら
は興味深く耳を傾けては六太に「台輔、良かったですねえ」と話しかけた。
 夕餉のあとで酒肴を運ばせた尚隆は、近習をさがらせ、しばしひとりで酒杯
をあおった。そうしてほろ酔い気分で牀榻に入った。
 眠る六太の傍らに座りこんだ彼は、ふ、とほのかな笑みを口元に浮かべ、半
身に声をかけた。
「まったくもって意外なことだな」
 六太は王に――尚隆に――莫迦なことを言って困らせたことがあると言った
という。自分は餓鬼だったから、と。海客の男が語ったその話は本当に意外
だったのだ。
 普段の六太は、今も昔も尚隆に対して遠慮はないし、言葉を選ばないものだ
からかなり辛辣な言い方もする。だが何しろ万事に見通しの甘い彼のことだか
ら、その意見に任せていたら実際には人的な被害が出たり国が混乱しかねない
ことばかりだった。それでいてうまく切り盛りする尚隆をねぎらうことはなく、
むしろ自分の意見に固執して非難するくらいだから、基本的にみずからの言動
を反省するということがない。本人はあくまで民への慈悲に立脚しているつも
りだからだろう。六太の言動が結果的に他人に害をもたらした場合は、さすが
の尚隆も厳しく接するせいかしょげることもあるが、どうも本質を理解しての
ことではないらしい。気持ちの切り替えが早いと言えば聞こえはいいが、要す
るにその場かぎりのことに見えた。
 だから具体的に何を思い浮かべて言ったにせよ、王に対する事柄で、彼が自
発的に反省の意を述べたこと自体が驚きだったのだ。
 もっとも尚隆自身は彼に殊勝な態度を求めたこともなければ、その言を気に
病んだこともない。口の悪さとは裏腹に悪気がないのはわかっていたし、何よ
り宰輔は王に進言や諫言、助言を行なうのが本分。理由もなく反対するならま
だしも、本人なりに考えた結果であれば、立派に自分の務めを果たしていると
言えた。それを容れるか否かはあくまで尚隆の側の問題だろう。

690永遠の行方「王と麒麟(271/280)」:2013/12/01(日) 18:45:50
 そもそも天帝から慈悲の性を与えられた麒麟には、普通の人間のような割り
切った考え方は絶対にできず、時に国のために厳しい決断を下さねばならない
王の論理とは決して相容れない。そういった考え方をする能力はないのだと、
尚隆はかなり早い段階で理解していた。それゆえ本人の能力を超えたところに
責めを負わせたいとは思わなかった。
 むろん官吏の中にはこれまで、大局を見極められず、短絡的な言動を多くす
る六太に諫言する者もいることはいた。しかし人的な被害がなければ、尚隆自
身はいつも彼の好きにさせていた。
(だが、それでも何やら省みるところがあったというわけか……)
 自分は餓鬼で、昔はそのせいで主を困らせたと。第三者に対する言葉とはい
え、今でもそう口にするということはずっと気にしていたのだろう。直接言っ
てくれれば、尚隆も茶化すなり真面目に対応するなりして慰め、それで六太自
身も気持ちに区切りをつけて忘れることができたろうに、あくまで黙っていた
ところが意地っ張りな彼らしい。
 相手に伝えたいともその必要があるとも思わなかったからこその沈黙だろう
が、今にして思えば少しは伝えてほしかったというのが正直な気持ちだった。
いつも飄々としている尚隆とて、本心では半身からの気遣いを欲さないではな
かったのだから。何であれ、言葉に出さないと相手には伝わらないものだ。
 こうして振り返ってみると、自分たちは一見、相手に言いたい放題だったよ
うに思える。しかし実際はずっと一定の距離を置いたまま、口にしないことも
数多くあったということなのだろう。
 もちろん相手の心に踏み込まない態度こそが逆に気遣いという場面もあった
はずだ。少なくとも尚隆はそうだった。それでも六太が内心でいろいろ省みて
いたとすれば、生命を分けあった半身同士、もう少し互いの内に踏み込んでも
良かったのかもしれない。
 陽子に対するような明らかな気遣いを示された記憶はないが、そういう尚隆
自身、半身への気遣いや励ましのたぐいを言葉にしたことはなかった。それで
も六太に対する配慮はいつも念頭に置いていたのだから、六太もそうではな
かったとは言い切れないだろう。
 今回の事件で知った六太の生い立ちを考えれば、麒麟の本能を忌避するかの
ようなこれまでの彼の言動は苦悩の裏返しということも考えられた。蓬莱で為
政者に虐げられた幼い頃の記憶に縛られて王を厭い、王のそばにあることを切
望するはずの麒麟の本能さえ厭う原因となっていたなら哀れなことだった。

691永遠の行方「王と麒麟(272/280)」:2013/12/01(日) 19:58:36
 しかしもし尚隆が気遣いを口にし、意見を容れなかったとしても彼の存在自
体が大事なのだと言ってやれていたら、何かが違ったのではないか。他国の王
と麒麟と違って年がら年中一緒にいたわけではないし、六太の進言も諫言も却
下してばかりだったが、それでも自分なりに半身を大切にしていたつもりなの
だから、きちんと言葉で伝えてやれば良かったのかもしれない。
 普段は必要以上に主に近づかず、それで少しも気にするふうのなかった六太
は、何だかんだ言って他国の麒麟ほどには主に執着していたわけではないだろ
う。顔を合わせてばかりいると、嬉しがるどころかうんざりするような反応を
見せることさえあった。だが尚隆は六太の相手をするのは嫌ではなかったし、
特に一緒に旅に出て、にぎやかな市井ではしゃぐ六太を連れ歩くのは楽しかっ
た。麒麟に似合わぬ口の悪さも、周囲がきついと受けとめて諌めるような暴言
でさえ、尚隆にしてみれば外見が幼いせいかほほえましかったのだ。
「六太」
 静かに声をかけた尚隆は、手を伸ばすと、今まで幾度となくそうしたように
六太の頭をそっとなでた。
「おまえが大事だとちゃんと伝えたことがあったかな?」
 返事はなかったが、答えは自分でわかっていた。
「なかったかもしれんな。せめてこうなる前に伝えておくべきだった。二度と
言葉を交わせなくなる前に」
 人は後悔する生きものだ。いつまでも同じ日々が続くと思いこみ、いざそれ
を失ってしまってから、取り返しがつかなくなってから初めて後悔する。
「覚えているか? たまにそろって宮城を脱出するときは楽しかったな。昔は
一緒に他国にまで足を伸ばしていろいろと見聞したものだ……」
 何しろ五百年だ。好きなようにやってきたつもりだったし、この事件が起き
るまでは、いつ死んでも悔いはないと思っていた。何よりひとりで、自分の足
で立っていると思っていた。すぐそばにいて自分を支える小さな麒麟の存在に
気づかないまま。
 天帝が配したように、確かに王に麒麟は必要なのだ。孤独と責務を分かち合
う相手として。でなければこの長い生を耐えられるものではない。たったひと
りで重責を担い続けることは人にはできない……。

692永遠の行方「王と麒麟(273/280)」:2013/12/01(日) 21:44:28

 季節は移る。
 雁の夏は、日差しこそ強いが空気は乾いて涼しく過ごしやすい。くっきりと
濃い緑に黄金の陽光が降りそそぎ、雲海を透かして見る下界は、秋の実りを予
感して彼方まで豊かな色彩にあふれていた。尚隆の心中を置き去りにしたよう
な鮮やかな色彩が。
 尚隆が予想したとおり、この頃になると海客の団欒所への訪問も目新しさが
失せ、すでに日常の一部となっていた。だがもともと市井で民と交わることを
好む尚隆だから、先方のきめ細やかな心配りもあって心がなごむひとときでは
あった。
 おかげで気持ちはずいぶんと落ちついたものの、相変わらず淋しさはあった。
それは六太が傍らにいないせいでもあるが、いよいよとなればひとりで治世を
続けるしかないという重い現実のせいだった。
 六太を裏切りたいとは思わない。ということは、仮にこのまま麒麟を失おう
と、最後まで王として立ち続けねばならないということだ。
 しかしいかに理性でそう考えても、覇気を失い、どこか疲れを覚えてしまっ
たことはいかんともしがたかった。既に六太を置いて気晴らしに下界に行きた
いとも思わなくなっていたし、そんな自分の変化に呆れてもいた。
 六太はあれで淋しがりやだが、実際のところ俺もそうだからな、と嘆息まじ
りに考える。これまでひんぱんに下界に降りて民にまじってきたのも、市井の
情報を収集するためもあるが、結局は人々といたいからだった。孤独を望む者
もいるだろうが、尚隆は人間が好きだった。君主である以上、宮城において安
らぎや楽しみを見出そうとは思わなかったが、そうやって自分を律しているぶ
ん、粗末な服で民にまぎれ、親しく接せられるのは嬉しかった。
 そんなふうに根が淋しがりやであるからこそ、いざこうして半身を取りあげ
られ、しかもそれが故郷を同じくする唯一無二の存在となると、その事実は心
に重かった。本当は尚隆とて幸せになりたかったし、真にすべてを分かち合え
る者――配偶者であれ親友であれ――を得ることへの憧れを持たないわけでは
なかったのだから。

693永遠の行方「王と麒麟(274/280)」:2013/12/01(日) 21:50:12
 二度目以降も朱衡は団欒所に同行したがっていたが、煩雑な雑務を官に任せ
て自由な時間が多い主君と異なり、六官ともなればそうひんぱんに宮城を空け
られるわけもない。結局、以前から何度か通っていた下吏を代わりに付き添わ
せ、朱衡自身は遠慮するようになった。下吏は恐縮していたものの、もともと
お調子者の気のある男ではあり、二度ほど付き添いをこなすと緊張も解け、苦
笑した尚隆に促されるまま、小部屋で寝かされている六太の傍らを離れて堂室
のほうで海客や訪問客と楽しく語らうようになった。その代わり守真や恂生が
しばしば様子を見にきては相手をするので、手持無沙汰になる暇もない。特に
恂生は、初回にいろいろ聞いて得心したあとは、いっそう親身に気を配ってく
れるようになった。六太の身分を知っていると明かしたことで、逆に気が楽に
なった面もあるのだろう。
「いつまでも寝ていると、目が溶けちゃうぞー」
 現代の蓬莱での言い回しだろうか、そんなふうにからかうように六太に声を
かけては、尚隆ともいろいろな話をする。二度目以降、尚隆は菓子などの簡単
な手土産を持ってくるようになったのだが、客が帰ったあと、片づけで残った
海客らと一緒にそれをつまんでしばし語らうこともあった。
「嫁さんとも話してたんだけど、六太の目が覚めたら、子供の名づけ親になっ
てもらおうと思って」
 四度目の訪問の際、団欒所の小部屋の中で尚隆がくつろいでいると、水差し
を取り換えにきた恂生が言った。
 聞けば、彼の今の名は妻の父がつけたのだが、以前違う字を名乗っていて、
それは六太がつけたとのことだった。
「守真も華期も、字は六太がつけたんです。悠子にも、まあ、あの子は結局
使ってないけど、本名をもじって悠明って字を考えてやって」
「ほほう」
「うちの子は冬になる前に生まれる予定だから、それまでに六太の目が覚める
といいねって、昨日も嫁さんと話してたんです」
 尚隆は微笑して「そうだな」と応じた。
 その日は小部屋の卓に小さな花器が置かれ、可愛らしい夏の野花が活けられ
ていた。守真が見よう見まねでやっているらしいが、これもきっかけは六太だ
とのことだった。

694永遠の行方「王と麒麟(275/280)」:2013/12/01(日) 22:07:44
「いつだったかなあ。何年も前だったと思うけど、六太が主にもらったって
言って、花をつけた梅の小枝を大事そうに持ってきたことがあったんです。で、
なるべく長く鑑賞したいって頼まれた守真が活けてやって、それから守真はと
きどき花を摘んでくるようになって」
「主にもらった梅の小枝?」
「そう。大事に世話していたから、かなりもったんじゃないかな。あの頃はま
だここが開くのは開放日に限定されていなくて、昼間は毎日でも来られたけど、
しばらく飾ってあった記憶があるから。花器の前で六太は頬杖をついて嬉しそ
うに眺めていたっけ。やっぱり麒麟だから、花でもすぐ枯らしたら可哀想だと
思うんだろうなあ」
 尚隆はいぶかしんだ。そんな覚えはない――と首をひねったあとで思い出し
た。
 後宮にある梅林で、満開の梅の木に登って遊んでいた六太が、うっかり長い
髪を枝にからませたことがあったのだ。苦笑した尚隆が取ってやろうと手を伸
ばしたところ、慌てて身を引いたものだからいっそうきつくからまってしまい、
尚隆は面倒だとばかりに小枝をぽきりと折ってしまった。折れたほうからだと
すんなり髪がほどけ――確か、そのまま枝を無造作に胸元に差してやった、と
思う。
 ただそれだけのことだったのだが。
 そんな小枝を大事に……?

 その日、訪れるなり守真が和綴じの冊子を尚隆に差し出して、蓬莱のおとぎ
話のひとつを脚本ふうに書き直したものだと説明した。多少おもしろく枝葉を
付け加えてみたので、また六太に読み聞かせてやってほしいと。以前鳴賢に、
人形劇の脚本の類似がないかと問われてから、悠子が守真と相談しつつ書きあ
げたものだという。
「これはすまんな。手間がかかったろう」
「どういたしまして。悠子ちゃんがせっかく書いてくれたから、これを元にま
た人形劇をやろうって計画してるんです」
「それはいい。そのときはぜひ六太を連れてこよう」

695永遠の行方「王と麒麟(276/280)」:2013/12/01(日) 23:11:44
「今度は台詞や説明を喋るだけじゃなく、楽しい歌も織りまぜて歌劇仕立てに
するつもりです。六太は歌が好きだし、みんなでわいわい騒ぐような賑やかな
雰囲気も好きだから、きっと喜んでくれるんじゃないかしら」
「うむ」
 一緒に六太に付き添ってきた下吏は、今日も早々に他の面子と歓談している。
尚隆が許したこととはいえ、朱衡に知れたら小言をくらうだろう。守真や華期、
恂生、勉強が忙しいらしく、初回以降ひさしぶりに顔を見せた鳴賢と敬之が入
れ代わり立ち代わり小部屋に姿を見せ、何やかやと六太の世話を焼いた。鳴賢
はここでは不用意なことを言うつもりはないようで、普段の彼からすると無口
なくらいだったが、代わりに恂生があれこれ話しかけてきた。尚隆のほうも、
鳴賢経由で六太に関する海客たちの証言は聞いていたものの、六太の身分を
知っていると明かされた上での語らいは興味深かったので、余人の目のないと
きにさりげなく水を向けていろいろなことを聞きだした。
「以前、六太は昔は自分は餓鬼で、周囲を困らせたと言っていたそうだが、気
に病んでいるふうだったのか?」
「え? いいえ?」恂生は少し驚いたように目を見張ってから、軽く肩をすく
めてみせた。「基本的に六太はくよくよする性格じゃありませんからね。こん
なことがあった、って言ってあっけらかんとしていたな。それに特に主にはた
くさん迷惑をかけたけど、ちゃんと許してもらえたって笑ってたし」
「許して――?」
「六太の主はいい人らしいですよ」そう言って笑顔を向ける。「かしこきあた
りのおかたのはずだけど、いろいろ想像して嬉しかったな。俺たちなんか一生
会うこともないだろうけど、何だか身近に感じられたから」
「ほう……」
「六太は言ってました。莫迦なことをして本気で怒られたこともあるけど、そ
れでも必ず挽回や反省の機会をくれるんだって。そうしてふたたび前を向いて
進むことを許してくれる。六太相手にかぎったことじゃないらしいけど、俺、
それを聞いてすごい人だと思ったな。だって普通に考えれば、権力の頂点に
立っていれば何かと疑心暗鬼になっても仕方のない局面もあるだろうし、過ち
を赦してばかりいたら、周囲にしめしがつかないはずでしょう。でもそういっ
た綻びを生じさせることなく収めているってことだから。きっとそれで六太も
失敗をくよくよせず、気分を切り替えて物事に当たれたんだろうな」

696永遠の行方「王と麒麟(277/280)」:2013/12/02(月) 19:26:36

 尚隆が宮城に戻ったのは午後も遅くなってからだった。出迎えた女官らにい
つものように六太の世話を任せると、守真にもらった冊子も彼女らに手渡した。
「俺も内容は知らんが、これも蓬莱のおとぎ話だそうだ。いろいろとおもしろ
く翻案してくれたらしい」
「それは楽しみなことですわ。さっそく練習して、また台輔にお聞かせしま
しょう」
「ところで主上、海客の楽曲にも意外と静かな曲があるとか。いつもこちらで
演奏してくれている楽人が、台輔がお好みなら宮城でもお聞かせしたいと興味
を持っているのですが」
「ふむ。その楽人が演奏するということなら、楽器が違うようだから難しいの
ではと思うが……。いつも付き添っている朱衡のところの下吏に聞くとよかろ
う。その者もかなり気に入っていて詳しいようだから参考にはなるだろう」
 着替えをしながらひとしきりそのような会話を交わしたあと、急ぎの書類を
手にやってきた白沢と政務の話をした。それから夕餉を摂り、六太にも水分を
摂らせた。女官が用意したのは、今日は花のよい香りを移した水で、尚隆が口
に含むと芳醇な蜜の甘みがあった。それを慎重に六太の口腔内に落として飲ま
せたのち、今日は疲れたからと、酒だけは用意させて早々に女官をさがらせた。
だがくつろいだふうに椅子にゆったりと座った尚隆は、何となく酒杯を手に
取ったものの、そのまましばらくぼんやりとしていた。
 ふと、夜のとばりの降りた窓の外を見やる。やがて彼は立ちあがると、露台
に通じる大きな框窓に歩み寄り、そのまま窓を開けて外に出た。高欄に両手を
ついて見おろすと、雲海の水を透かし、はるか下界の街の灯が見えた。
 しばらく夜の雲海を眺めてから室内に取って返し、六太を抱きあげて戻る。
初夏の夜風は尚隆にとって心地よいばかりだったが、寝たきりの六太の身体が
冷えないよう、しっかりと衾にくるんだ。
 尚隆は露台の端で下界を見せるかのように六太の身体を傾け、「どうだ、見
えるか?」と耳元で低く語りかけた。

697永遠の行方「王と麒麟(278/280)」:2013/12/02(月) 19:38:38
「おまえはよく高欄にのぼったり肘をついたりして、下界の様子を楽しそうに
眺めておったな」
 身軽な六太は、そこが高欄だろうが卓子だろうが、いつでも無造作にひょい
と座りこんだ。昔は官も、六太の行儀の悪さにいちいち小言を言っていたが、
今ではすっかり諦めて誰も何も言わない。宮城にある池で素っ裸になって水浴
びがてら鯉とたわむれたり、木に登って昼寝をしたりと、雁国の宰輔はしばし
ば市井のやんちゃ坊主そのままの無邪気な姿を見せた。
 だが諸官が呆れていたのは確かだが、その反面、永遠に子供の姿を留めたま
まの六太がはしゃぐさまになごんでいた面もあったろう。
「下もずいぶん賑やかになった。ほれ、あんなに灯が大きい」
 尚隆が登極したばかりのころ、首都関弓でさえ、たいそう困窮したありさま
だった。夜に灯すための蝋燭も少なく、それも蜜蝋や白蝋ではなく質の悪い獣
脂を使ったものだから、煙も臭いもひどかった。おまけに油や薪は冬に凍えぬ
ためにも節約せねばならず、その結果、日が落ちるともう街は真っ暗だった。
今、豊かな関弓で暮らす民には、そんな時代があったことなど想像もできない
だろう。
 ――もう、いいのかもしれんな。
 長かった、と心底から思う。国土を荒廃せしめた梟王の暴虐。さらに四十年
以上もの空位の時代があり、限られた財と食糧を奪いあった内乱が頻発して荒
れ果てたと聞いた。その結果、この世界にやってきた尚隆が見たのは、まさに
更地となった焦土だった。
 改革を勅令で断行し、とにかく民を食わせるために働いた。だが空位の間に
独断に慣れた雁の諸侯諸官は、のらりくらりと言い訳して、素直に新王に恭順
することはなく反乱も多かった。とにかく彼らに兵力だけは蓄えさせないよう
にして時間を稼ぎ、土に養分を取り戻させて、数十年をかけてやっと雁の全土
を復興させた。
 しかし何しろ深刻な貧困による混迷のさなかのことで、尚隆が見据える未来
が見えている者は官にもほとんどいなかったから苦労の連続だった。尚隆とし
ても奸臣に囲まれていたために、そうそう意図を明かすわけにもいかず、相手
が油断するなら侮られるくらいでちょうど良い、それで貴重な時間が稼げると
ばかりに説明の労はほとんど取らなかった。おかげで最初の何十年かは、下官
でさえ尚隆を侮る者が多く、彼らと違って嘲弄こそしなかったものの、六太も
ずいぶんと本気の罵倒を浴びせてきたものだ。

698永遠の行方「王と麒麟(279/280)」:2013/12/02(月) 20:15:55
 だが。
 ――たくさん迷惑をかけたけど、ちゃんと許してもらえたって。
 ――莫迦なことをして本気で怒られたこともあるけど、それでも必ず挽回や
反省の機会をくれるんだって。
 腕の中の六太を見おろしていた尚隆は、そうか、とつぶやいた。
 ただでさえ慈悲の神獣たる麒麟の思考は人と違う。時に厳しい処断をせねば
ならない王とならなおさら、決して真にわかりあえることはない。
 それでも六太は六太なりに尚隆を受け入れていたのかと、尚隆は思った。ひ
たすらに慈悲の繰り言を口にするだけ、自分の軽はずみな言動が逆に被害を生
じさせ、拡大させかねないことの自覚もないから、反省がないどころか、逆に
尚隆を責めた。少なくとも尚隆は恂生からいろいろ聞くようになるまで、そう
いう生きものなのだから仕方ないと、ある意味で突き放して考えていた。
 ――なのに、たくさん迷惑をかけたと言ったのか。
 許してもらえたと。必ず反省の機会をくれるのだと――信頼の言葉を。
 なぜか泣きたいような気がした。そして想像していたよりもずっと穏やかな
気持ちで、もはや何の心残りもないと思えたのだった。

 室内に戻った尚隆は、六太を臥牀の上におろし、ふと上半身を抱き寄せたま
まの六太の寝顔を見おろした。しばらくそのまま見つめてから微笑し、低い声
で「許せ、六太」とささやいた。
「もはや俺に、雁は支えきれん。長い間に作り上げた官の機構は王を頼らない
ようになっているから、冢宰や六官どもがしっかりしていれば、あと何十年か
はもつだろうがな」
 王が覇気を失ってしまった以上、国が乱れるのはそう遠いことではない。腑
抜けた気持ちで御せるほど、国政とはたやすいものではないのだ。
 それでも真に六太を裏切るつもりはなかった。信頼に応えるため、最後の最
後まで踏ん張ってみせる。ぎりぎりまであがきつづけ、たとえ一日でも六太の
命を延ばしてみせる。
「だが安心しろ。たとえ俺の命運が尽きても、おまえを置いてはいかん。官に
などおまえの息の根を止めさせはせん。俺がこの手で始末をつけてやる」

699永遠の行方「王と麒麟(280/E)」:2013/12/02(月) 20:20:49
 尚隆はそう言うと、自然に六太の唇に口づけた。深く深く――この上もない
愛情と、遠い決別への約束を込めて。
 六太は市井の民を見るのが好きだから、こんな房室に閉じこめるのではなく、
いよいよとなったときは一緒に連れていって外の景色を見せてやろう。騎獣に
乗せて街や田畑の上を飛び、ともに山野を眺め、それから黄海へ向かおう。そ
して六太の骸とともに蓬山にのぼるのだ……。
 口づけたあと、万感の思いで再び六太の顔を眺めやる。そのまま脳裏に刻み
つけるかのようにじっと見つめていると、不意に、伏せられていたまぶたが、
ぴく、と動いた。次いで明らかな意志を持ってゆっくりと瞬く。
 思いがけぬ事態に尚隆は息を飲んだ。まばたきも呼吸も忘れて、腕の中の六
太をひたすら凝視する。
 やがてまぶたが上がり、暁そのものの瞳が現われた。まるで夜明けのようだ、
と尚隆は思った。眼球がゆっくりと動いて傍らの尚隆に焦点が定まり、ふたた
び瞬く。もう長いこと何かに焦点を結ぶことのなかった瞳に見つめられ、信じ
られぬ思いで、六太の頬にそっと掌を添えた。
 それからどれくらい経ったのか。ほんの数瞬か半刻か。時間の感覚さえまっ
たくわからなくなった尚隆の耳に、かすれた声がひそやかに届いた。
「……どうして……泣いている……」
 驚いて反射的に自分の頬に片手をやった尚隆は、初めてそこが濡れているこ
とを知った。こちらの世界に来てから泣いたことなど一度たりともなかったの
に。
 ああ、と心の中で嘆声を漏らす。自分もまだ人だったのか、悲しいとき嬉し
いときにまだ涙を流すことができたのかと、深い感慨の中でしみじみと六太を
見やる。そして「どうしてだろうな……」と優しくささやくと、そっと六太の
頬をなでた。
 長らく無彩色だった周囲の風景に、ゆるゆると鮮やかな色彩が戻っていく。
尚隆の周囲で、止まっていた時間がゆっくりと動きだしていた。

- 「王と麒麟」章・終わり -

700書き手:2013/12/02(月) 20:23:18
というわけで、やっと終わりました。
大した事件もなく、たらたら日常が続いていくだけって、書くのが難しいですねえ……。
が、これでも尚六的にはまだ前座です。

「絆」章から分離した次章「封印(仮)」は、原作の『東の海神 西の滄海』直後から
しばらくの期間を主体とする六太視点の回想です。
六太がかたくなに自分の恋心を押し隠すことにした、その辺のいきさつの話。
それが終われば、「王と麒麟」章直後からの続きである「絆」章で、やっと恋愛話に入ります。

次章開始までかなり間が空くと思いますが、しばらくお待ちください。

701永遠の行方「遠い記憶(前書き)」:2013/12/14(土) 12:38:17
※しばらく来られないかもしれないので、ちょろっとだけ置いておきます。
※章のタイトルを、仮題の「封印」から「遠い記憶」に変更しました。

この章は六太視点で進みます。
原作の『東の海神 西の滄海』直後からしばらくの間がメイン。
ただ、もともと「絆」章の最初の部分として構想したので大した長さにならない“予定”。

以下、注意事項です。
(六太びいきの人間ですが、後で(気持ちを)上げるために、ここでいったん落とす感じです)
・『東の海神 西の滄海』において明確になっていない尚隆の意図について、
 断定するように見える部分が多々あります(もともと捏造過多なので今さらですが)。
・上記に関連して、正しさは「尚隆>尚隆以外の原作キャラ」という扱いになります。
・六太を非難するオリキャラが登場します。

実際に投下を開始するのはまだ先(来年以降)になると思いますが、
試しに冒頭だけ置いていくので、警戒警報を感じたらこの章はスルーしてください。
尚六的には次章「絆」がメイン(誤解、すれ違い、乙女、メロドラマのてんこ盛り)だし、
仮にこの章を読み飛ばしても物語的に意味不明になる恐れは“まったく”ありません。
(最後の部分は六太の心情描写になる予定なので、そこだけ読んでもいいかなー、と)

702永遠の行方「遠い記憶(1)」:2013/12/14(土) 12:40:20
 六太は恋をしていた。だがその相手は同性であったため、明確な禁忌ではな
かったにしろ一般的には好ましからざるとされていた。人に知れれば揶揄の対
象ともなりかねない。何より相手が六太を何とも思っていないことは明らかで、
彼は無意識のうちに感情を抑えつけた。
 だから六太が自分の想いを自覚したのは、かなり時間が経ってからのこと
だった。そしてそれからの歳月はつらいものとなった。
 決して報われることのない想いをいだきつつ、余人はもちろん、当の相手に
も気取られることのないよう細心の注意を払う。慈悲の生きものである彼は、
もともと根本の考えかたが相手と異なっていたため、その意味では楽だった。
必要以上に相手に近づかないようにした上で、彼がその存在意義の命ずるまま
に自分の意見を述べていれば、誰もが自然と、一見近しく思えるふたりの間に
も厳然たる距離があると考えてくれたからだ。
 それでも時折、ふたりきりで宮城を抜け出すときは心が躍った。相手がたま
たま拾ってしばらく弄んだ小枝だの、舎館で用意してもらった弁当を包んだ竹
皮だのを記念にこっそり持ち帰っては、しばらく手元に置いて眺めたりした。
彼以外の者から見れば、ごみ以外の何物でもないから、誰に迷惑をかけること
もない。
 そんなふうに日々を過ごし、それでもそばにいられるだけで幸せだと六太は
思った。
 ――主上が失道なさるとしたら、きっと台輔のせいでしょうね。
 その昔、もう顔も覚えていない下吏が侮蔑の微笑とともに打ちこんだ言葉の
楔は、今もしっかりと胸に突き刺さっていたけれども。

703437:2014/03/04(火) 01:05:33
年に一度の閲覧を心から楽しみにして、早数年。
「王と麒麟」章のラスト、読ませていただきました。
よくぞ、よくぞここまで書いてくださいました、姐さん…!

>自分もまだ人だったのか

この一行こそ私的クライマックスでした。
尚隆→六太の心情変化の描写をじっくり味わいたかった者にとって、
「王と麒麟」は最高級のホテルサービスで超一流フルコースメニューを頂戴した気分です。
このお話に出逢えたことは、尚六好きとしてファン冥利に尽きる醍醐味だなぁ…と感涙にむせっております。
本当に、本当にありがとうございます。
「絆」章、心待ちにしております。
どうぞご自愛くださいませ。

704書き手:2014/05/13(火) 00:07:41
ストックから1レス分だけひっそり置いていきます。
なかなか時間が取れないので、本格的な再開の見通しは立ってません……。

705永遠の行方「遠い記憶(2)」:2014/05/13(火) 00:08:41

 元州の乱のあと、州宰だった院白沢を太保に迎えると聞いたとき、さすがに
六太は戸惑った。
 もちろん尚隆は誰も罰さないと元州城で約束していたのだし、赦されること
自体は不思議ではない。しかし太保は宰輔直属である三公のひとりであり、宰
輔を助けて王に助言と諫言をするのが職分だ。そこに謀反の中枢にいた者を迎
えるというのだから、誰が聞いても唖然とする措置だった。
「なに、下官でいいから少し国府で働かせてもらえないかと白沢に頼まれてな。
だが、さすがに、もと州宰を下官に使うわけにもいくまい」
「だからって太保にするか? そもそも三公は州宰より位が上なんだぞ。言わ
ば栄転じゃないか」
 帷湍も呆れ顔で主君に意見したものの、尚隆の語調はあくまで気楽だった。
 元州城では長年、斡由に幽閉されていた州侯が救出されたものの、梟王にお
もねって大勢の民を虐げた罪が明らかで既に罷免されている。数十年間、表舞
台から遠ざかっていたために影響力はなく、謀反の件もあって更迭は容易だっ
た。令尹の斡由も王によって罰された。これで謀反さえなかったなら、とりあ
えず州六官の筆頭である州宰白沢が政治を主導したのだろうが、何しろ陰謀の
中枢にいた人物だ。おまけに白沢は宮城まで斡由の要求を伝えにきた使者でも
あるため、さすがに他から王に恭順する者を立てる必要があった。
 そこで尚隆は光州に派遣していた牧伯を元州侯に据えた。元州の乱への対処
の一環として首をすげかえたばかりの光州侯は、謀反のような大悪とは縁のな
い、財を蓄えることばかり熱心な小悪党にすぎないため、とりあえずは他の者
でも牧伯は間に合うからだ。
 すると白沢は、末端の下官、何なら府吏以下で構わないからしばらく国府で
働かせてほしいと懇願し、それならと尚隆は太保に任じることにしたのだとい
う。太師と太傅は、これまた乱に対処する際に光州から迎えたばかりなので据
え置き、末席の太保だけ入れ替えるわけだ。
「主上に恭順したように見えても内心はわかりません。獅子身中の虫というこ
とになりませんか?」

706永遠の行方「遠い記憶(3)」:2014/07/07(月) 23:42:55
「まあ、大丈夫だろう。白沢は身の回りの世話をさせる下吏をひとりだけ連れ
てくるそうだ。あとの人員はこちらに任せると」
 懸念の表情を浮かべて言った朱衡に、尚隆はそう答えた。白沢にしろ、自分
がどう見られるかは承知していて、身辺に元州出身者を極力置かないことで悪
心がないことを示すつもりなのだろう。言外に、監視されてもかまわないと
言っているわけだ。とはいえ連れてくる側仕えがたったひとりというのも極端
な話だった。
「州宰は、光州から迎えた冢宰や内朝六官と人脈があるのでは」
「人脈というほどではなかろうな。あくまで斡由主導による書簡のやりとりが
主体で、個人的な関係はなかったようだから。州宰が他州に赴けば目立つと
あって、本人が元州城を出たのも玄英宮に来たときぐらいだったらしい」
「では元州と連絡を取りあうつもりも、自分の派閥を作るつもりもないという
ことでしょうか。他の派閥に入るつもりも」
「そのようだな。まあ、いい経験にはなるだろう」
「はあ」
 朱衡は困惑まじりながらもうなずいた。
 王に恭順する者を元州侯につけ、令尹および州宰の後任は新しい州侯が任じ
る。もと州宰のほうは国府で三公に迎えられて位は上がるものの、実権も人脈
と言えるものもない。結果としては旧元州政府の穏便な解体と言えるだろう。
位が上がる代わりに、宮城にいることで、もと州宰の体面を保ちながら国府が
監視するのも容易になる。第一、水面下で元州と手を結んでいた光州から冢宰
や六官を迎えたくらいなのだ、あらためて考えればそう無茶な話ではなく、そ
れなりに均衡は取れていると言えた。

707書き手:2014/07/07(月) 23:44:58
ちまっと、また1レスだけ。
次は……たぶんまた間がかなり空きます。

708永遠の行方「遠い記憶(4)」:2014/07/13(日) 10:19:44

「本当にひとりしか連れてこなかったんだ……」
 その日、直接の上司となった六太の元へ、白沢が着任の挨拶に訪れた。仁重
殿の客庁で迎えた六太は、平伏する面々を見て少し複雑な気分でつぶやいた。
 事前に聞いていたとおり、供は下吏らしき青年がひとり。白沢は叩頭したま
ま、くぐもった声で六太のつぶやきに応えた。
「主上の過分なご厚情のもとに大任を拝命いたしましたが、元より犯した罪を
忘れたわけではございません。身ひとつで参る所存でしたが、さりとて宮城の
方々のお手をわずらわせるのも申しわけなく、この者に身の回りの世話をさせ
ていただくことを主上にお許しいただきました」
「いや、そりゃ、別にいいだろ、供ぐらい何人いても。――まあ、顔を上げろ
よ。ふたりとも、長旅ご苦労だった」
 顔を上げた彼らは礼節に則って、六太の顔でも足元でもなく、胸元のあたり
に視線を据えた。
「尚隆には? もう挨拶したのか?」
「ただいま、天官を通じて拝謁の許可を願っているところでございます」
「そっか。じゃあ、とりあえずお茶でも飲もうや」
 六太は奥に顎をしゃくり、既に女官が茶器を用意して待っていた卓を示した。
御前とあって、下吏のほうは緊張に青ざめ、立ち上がった際に足元もふらつい
たが、白沢はさすがに自然体だった。六太の着席を待って、自分も示された下
座に座る。下吏はと言えば、側仕えらしく近くの壁際に慎ましく立って控えた。
「とにかく、よく来たな」
 六太は茶を勧めながら歓迎の言葉を口にした。それでも複雑な心境は拭えな
い。
 もと元州の州宰。斡由の重鎮のひとり。
 あの乱で更夜にさらわれた際、斡由と対面した折も傍らに控えていたし、尚
隆に斡由の要求を伝える使者にもなったと聞いた。まさしく陰謀の中枢にいた
人物であり、尚隆が何を考えて三公に抜擢したのか、六太には今もってさっぱ
りだった。

709永遠の行方「遠い記憶(5)」:2014/07/13(日) 10:42:25
「今日からおまえは俺の直属ということになる。王に助言や諫言をするのが仕
事だ。もっとも」いったん言葉を切っておどけて見せる。「実際のところ、ほ
とんど仕事はないだろうけどな。尚隆は何でも勝手にやるから」
 これには白沢は微笑するのみで応えた。
「……元州はもう落ち着いたのか」
 ふと声を落として尋ねると、白沢はまた微笑して「大体は」とうなずいた。
「むろん新しい元州侯のもとに、調査は引き続き行なっております。今になっ
てみると、法外に行方不明者が多かったことがわかりまして」
 そう言ってさすがに顔を歪める。
 尚隆は確かに元州の謀反を赦したが、それは事件をうやむやにすることと同
義ではない。犯罪は犯罪であり、州侯の幽閉と哀れな身代わりのことを始めと
して、きっちり捜査して事件を解明することは必要だった。それにどこかに謀
反の芽が残されていないとも限らず、あるいは他州に飛び火しかねない火種が
くすぶっているかもしれない。それらをみずから綿密に調査することで、元州
の王への恭順を態度で示す意味もあった。
 さらに言えば調査に先立って、州城内において不審な行方不明事件が多発し
ていたこともわかっており、これまで州府で門前払いされてきた家族や縁者が、
続々と国府に訴え出ていた。
 そうして判明したのは、官位の高低を問わず、この十数年でかなりの官吏が
行方不明になっていたことだった。その数、十や二十ではきかない。国府には
既に簡単な報告が上がってきていたので六太も知っていたが、記録と聞き取り
結果を丁寧に突き合わせてみれば、実に百名を超える州官や下官、下働きが、
身の回りの品をすべて置いたまま忽然と姿を消していた。
 ――おそらくはすべて更夜が妖魔に喰わせたのだ。斡由の命令で。
 逆に言えば、それだけの人間が斡由の本性を見抜いていたということだろう。
そして非難するなり対抗するなりした結果、斡由の逆鱗に触れて闇に葬られた
のだ。
 ただ周囲の人間の中には、不明者の末路を薄々察していながら自身の生命を
守るために口を閉ざしてきた者も少なくなかったらしい。その恐怖の重石が取
れた今、事情聴取に訪れた秋官に堰を切ったように諸々を訴えているという。

710永遠の行方「遠い記憶(6)」:2014/07/13(日) 10:44:46
 六太はうつむいて、「そうか……」とつぶやいた。斡由は暴君にはならない
と更夜は言った。だが実際は、その時点で既に血にまみれた暴君だったのだ。
「白沢は生まれも元州か?」
 普通、国官以外の官吏になる場合は州から出ることはない。つまり生まれ
育った州の官府で登用される。
「さようでございます」
「遠く離れてしまうと、元州のことが心配じゃないか?」
「それは、もちろんでございますが」少し驚いたように口ごもってから「しか
しもう拙官が関わっては、逆に元州のためにはならないでしょう。いずれにし
ても既に州宰の任を解かれております」
「まあな。にしたって、太保に任じた尚隆も滅茶苦茶だけど」
「……わからないのです」
「ん?」
「わたくしどもがいったいどこで何を間違ったのか」
 白沢は苦悩の声音で心中を吐露した。
「元州の事情を斟酌してくださった台輔には正直に申し上げます。拙官には元
伯が掲げた大義自体が間違っていたとは、今でもどうしても思えないのです。
もちろん元伯の本性を見抜けず、かしらに戴いたことは大きな過ちでした。そ
れだけはわかるのですが」
「うん……」
 何をどう言いようもなくて、六太はただ相槌を打った。
 謀反は確かに大罪だが、尚隆に非があったのも事実なのだ。最後の最後でた
またまうまく転んだから王の首がつながっただけで、元はと言えば、重要な堤
さえ整備せずに長年放っておいたつけが回ってきたに過ぎない。
「しかしながら、ああいう結末になったからには何かが間違っていたはずなの
です。もしかしたら、そもそもの最初から、何もかもが」
「……そうなのか?」
 意外な返答に六太は驚いた。しかし手段は間違っていたかもしれないが、あ
のときの元州には大いに同情の余地があったのではなかろうか。元州の民が毎
日洪水の恐怖に怯え、何とか自治を得て堤を整備したいと切望した心情は、六
太にもじゅうぶん理解できた。

711永遠の行方「遠い記憶(7)」:2014/07/14(月) 00:26:58
「さようです。それで国府を見れば、何を間違ったのか、その手がかりなりと
つかめるのではと考え、厚かましいことは承知の上で主上にお願いいたしまし
た。まさか太保に任じていただけるとは思いもよりませんでしたが」
「尚隆のことだから、実はなーんも考えてないかもしれねーぞ」
 六太のからかいを白沢は「さ、それは拙官には何とも」と穏やかに受け流し
た。
「主上のお人柄は存じておりませんゆえ。それでも――」ふと遠くを見るよう
なまなざしで続ける。「少なくとも元伯より懐の深いかたであられるのは確か
でしょう」
「……まあな……」
 だが同時に、得体が知れない、とも六太は思う。尚隆の本音がどこにあり、
何を目指しているのか、この期に及んでも六太にはわからないでいた。
「もし――もし、主上のお考えの一端なりと垣間見ることができましたなら、
あるいは雁の未来を見ることができるのかもしれません。今よりは良い未来を」
「そうかな……」
「少なくとも元伯と異なり、主上は誰も手にかけてはおられません」
 結果的に斡由だけは斬ったが、あれはさすがに斡由の自業自得だろう。
 六太は一瞬言葉に詰まり、ややあってこう言った。
「……更夜のこと、許してやってくれな」
「更夜――元伯の射士だった男ですな。妖魔を飼っていた」
 今では白沢も、彼が暗殺者を務めていたことを知っている。大量の行方不明
者の直接の原因であろうことも。
「うん……。もちろん更夜がひどいことをしたのはわかってる。でも仕方な
かったんだ。斡由に拾われて恩を感じていたし、他に行くところもなくて逆ら
えなかったんだから。でも本当はいいやつなんだ」
 ふと他方からの視線を感じた六太が何気なく目を転じると、白沢の後方に控
えていた下吏と目が合った。彼は礼儀も忘れ、愕然とした体で六太の顔を凝視
していた。

712永遠の行方「遠い記憶(8)」:2014/07/26(土) 13:30:18

 白沢はまた微笑して、「主上がお赦しになりました」とだけ答えた。
 王が赦したものを自分が許さぬはずはない、ということだろうか。自身も主
君の前に大罪人として並び、赦されたひとりなのだから。それとも――。
 そこへ、客庁に侍っていたのとは別の女官が現われて来客を告げた。
「台輔。太師と太傅が参っておりますが」
「うん? 何の用だ?」
 三公は王の助言者だが、とりあえず新参の白沢をのけたとしても、現在の太
師と太傅は適当に与えられた役職にすぎない。それだけに、これまでみずから
仁重殿に伺候することもなかった。
 六太が元州城から宮城に戻ってきたとき、三公六官の顔ぶれががらりと変
わっていて驚いたものだが、尚隆が光州から招いたのだという。あとで朱衡に
聞いたところでは、光州は斡由率いる元州とひそかに結託していたそうだから、
それをあえて宮城内に引き入れた尚隆の思惑はよくわからなかった。
 しかし適当に高い官位を与えて、良からぬことをしないよう機嫌を取ろうと
しているんだろう、ぐらいのことはおぼろに想像がつく。それだけに太師らの
興味は、権力を拡大することと私腹を肥やすことに集中しており、民の暮らし
になどまったく関心がなさそうだった。六太のことも、接する態度こそうやう
やしいものの、本音では大して敬っていないのは明らかだった。
「何でも、太保がこちらにお見えと聞いて、ぜひ挨拶を、と」
「ふうん?」
 六太は白沢を見やり、彼がうなずいたのを見て、女官に客を通すよう伝えた。
来訪した太師らは、六太に叩頭して挨拶したのち、席を立って拱手していた白
沢に、にこやかに声をかけた。
「おお、貴殿が元州の」
「お初にお目にかかります。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。まずは台輔に
着任のご報告を、と思ったものですから」
「なんのなんの。もとより承知のこと。よく参られた」
「三公府にてお待ちしていても良かったのだが、何かとお困りのこともあろう
かと馳せ参じた次第。何と言っても元州の犯した大罪を思えば、特別に主上に
お赦しをいただいたとて肩身も狭かろう。何かあれば我らが主上にとりなすゆ
え、ぜひご相談くだされ」

713永遠の行方「遠い記憶(9)」:2014/07/26(土) 13:34:15
 妙に愛想の良い彼らを、六太は胡散臭そうに見やった。そんな視線などまっ
たく意に介さず、太師が続けた。
「時に太保。こたびの謀反を主上は寛大なお心でお赦しになったが、それに甘
えてはならぬだろう。やはり誠意というものは見せねばならぬ」
 自分たちも元州と結託していたくせに、いけしゃあしゃあとそんなことを口
にする。
「聞けば、元州は不正に財を貯めこみ、首都州である靖州よりも豊かだとか。
この際――」
 六太は顔をしかめた。他州に比べて元州が豊かなのは確かだが、別に不正を
したわけではなかろう。だが白沢はなんら抗弁しなかった。
「――元州が貯めこんだ財を主上に献上されてはいかがかな? もと州宰なれ
ば、その辺の財政事情にも詳しかろう」
「ご配慮、いたみいります」白沢は慇懃に頭を垂れた。「しかしながら小官は
既に州宰の任を解かれた身。現在の州政は主上が任じられた新しい州侯の領分
でございますれば」
「おう。それはそうなのだがな。しかし」
「代わりに小官は私財をすべて整理して参りました。新参の田舎者ゆえ、ご迷
惑をおかけするかもしれませんので、もともと三公六官の皆さまには、ご挨拶
に伺いがてら財を献じるつもりで」
 それを聞いたとたん、太師らは破顔し、目に見えて上機嫌になった。
「おお――おお、さすがに心配りのあることだ」
「恐れ入ります」
「ではのちほど三公府に参られよ。六官にも口添えし、貴殿の心遣いを伝えて
おくゆえ」
「ありがとう存じます」
 彼らは再び六太に挨拶すると、意気揚々と退出していった。
 六太は、ふう、と息を漏らし、白沢を促して座らせてから「ごめんな」と
謝った。六太のせいではないが、宰輔の御前であることも気にせず、堂々と賄
賂を要求するさまには溜息しか出なかった。

714永遠の行方「遠い記憶(10)」:2014/07/26(土) 13:36:19
 とはいえ、いたたまれない、というほどではない。雁は貧しく、一般の官の
志も低いのはこの二十年でよくわかっていたのだから今さらだ。それにいずれ
は改善していくはずだ――していってほしい、と思う。
 だが元州城にいた間は、同種の光景を見たことも話に聞いたこともなかった。
いろいろ鑑みても、六太が気づかなかっただけで水面下で横行していたとも思
えない。大逆を犯したとはいえ、その点、斡由は立派に元州を治めていたのだ。
 そう考えると、多少ばつが悪い思いをする六太だった。尚隆の統治の手腕が、
果たして白沢の主君だった斡由より優れているものかどうか。
 一方、その白沢は相変わらず動じる気色もなく、穏やかに答えた。
「台輔が気になさることはございません。これも世の習いというものでござい
ましょう。いずれにしましても太師に申し上げた通り、もともと私財を献じよ
うとは思っておりました」
「あんまり遠慮しなくていいんだぞ。いろいろあったが、太保に任じられたの
は事実なんだ。実権がないとはいえ領地だって相当な広さだし、下につく下官
や胥徒、奄奚の数もきちんと法で定められている。おまえが連れてきた下吏ひ
とりじゃ、身の回りの雑事をこなすのはもちろん、俺や他の官とやりとりした
り、先触れを遣わしたりする程度ですら手が回らないはずだし、配属された連
中のことは遠慮なく使っていい」
「お気遣い、かたじけなく」
「うん」六太はうなずいて笑いかけた。「とりあえず今日はもう下がっていい
ぞ。疲れているだろうし、急ぎの用事もないから、何かあっても明日以降でか
まわない」
「かしこまりまして」
 退出する白沢らを見送りながら、六太は多少は複雑な気分が拭えたような気
がしていた。
 もと州宰だけあって取り繕いはうまかったが、白沢の言葉そのものに嘘は感
じられない。人柄自体は誠実なのだ。国府に入ることを願ったのは、決して陰
謀や栄誉栄達のためではないだろう。そしてそんな彼がいったん王に仕えるこ
とを選んだ以上、二度と同じ罪を犯すことはないに違いない。

715書き手:2014/07/26(土) 13:38:23
とりあえずここまで。

10レスも使って白沢が着任の挨拶に来たあたりまでしか話が進んでないとか、
結局この章も想定より長くなる予感……orz

次回の投下は未定なので、今度こそしばらく間が開きます。

716書き手:2015/05/03(日) 16:35:22
お久しぶりです。いや、ほんと。

やっと仕事が落ち着いたので、ようやく続きに取りかかれます。
……が、さすがにここまで間が空くとこれまで書いた内容を忘れてしまい、
既存部分を読み返していろいろ確認中。
そのため実際に続きを投稿できるまではまだ少しかかりそうですが、
もう少々お待ちください。

せっかくなので書き逃げのほうに、尚六の掌編を一本おいていきますね。

717名無しさん:2015/05/12(火) 04:42:50
私もこの春からまた読み返してちょうど一週間ほど前にまた再読しおえたところでした
すごくタイミングがあってwktk

718703:2015/11/16(月) 17:43:22
久しぶりに読み返しては、新たな感動に浸っております。
今年から執筆に取りかかれそうとのことなので、続きを楽しみに待っています。
これほどの大作ですから、じっくり味わっていきたいですね。

719永遠の行方「遠い記憶(11)」:2017/03/11(土) 15:41:20

 ちょうど尚隆が姿をくらましていたこともあり――というより、所在が知れ
ていることのほうが少ないのは謀反の前と変わらないのだ――白沢が王に拝謁
が叶ったのは五日後のことだった。
 あとで白沢から苦笑まじりにそれを聞いた六太は、自身も苦笑した。
「あいつはいつもあんなもんだ。急ぎの用事があるときは、見かけたら即、つ
かまえないと逃げられるぞ」
「主上は驚くほど活動的でいらっしゃいますな」
「物は言いようだな。あいつ、すぐに行方をくらますから官はいつも探し回っ
てる――まあ、知ってるだろうけどさ」
 何しろ他ならぬ斡由が、そうなじっていたのだから。官は始終、王を探し
回っている、と。
 そのときのことを思い出した六太は、複雑な胸中ながらもへらりと笑ってみ
せた。そうして王が普段からいかに官を困らせているかのあれこれを、面白お
かしく披露した。
 白沢は何も言わずに微笑とともに拝聴し、やがて頃合いと見て辞去していっ
た。去り際、彼のあとに付き従っていた下吏が眉をひそめ、六太をちらっと見
たような気がした。

 翌日には七日に一度、三公六官が一堂に会する朝議にも白沢は出席し、気負
うことなく自然になじんでいった。六太の生活も、完全に謀反の前の状態に
戻った。
 それでも一応、六太は白沢のことは気にかけるようにしていた。三公は宰輔
の直属だし、心中を吐露した際に見せた苦悩の表情に同情を感じていたことも
ある。だがそれよりも、告げた動機通りに国府の状況を見聞し始めたようだが、
どこに赴くにしろ必ず事前か事後に六太に報告を入れていたため、単純に顔を
合わせることが多かったからだ。

720永遠の行方「遠い記憶(12)」:2017/03/11(土) 15:43:42
 疑いをいだかれないようにしているんだろうな、とはさすがの六太も気がつ
く。三公の職務である王への諫言や進言をするでもなく、ひたすらあちこちの
官府を見聞しているとなれば、普通は陰謀を疑うに決まっているのだから。
 毎日のように白沢から下吏を差し向けられ、あるいは本人が直接出向いて見
聞先に対する許可や報告を受けるのは、普段の六太なら面倒に思ったにことだ
ろう。しかしいまだ苦悩の中にいるらしい白沢が自分自身を納得させたいと
思っているなら、その手伝いをするのはやぶさかではなかった。何より荒廃の
中で元州を支えていた人物のひとりなのだから、白沢の行動は回り回って少し
でも民が潤う一助になるかもしれない。 そんなふうに思って接していると、
白沢は必ずしも件の下吏を同道しているわけではなかった。たったひとりを厳
選して連れてきたくらいなのだから腹心の部下だと思いこんでいたのだが、下
吏は自分を重用する白沢に対して逆に淡泊でさえあり、特にそういったことに
無頓着な六太でさえ、気づいてみれば首を傾げるほどだった。

「あの下吏は今日も連れてないんだな。元州から連れてきた……」
 あるとき六太は、別の胥徒を伴って仁重殿を訪った白沢に何気なく聞いた。
表面上はなじんだとはいえ、白沢にとって宮城は居心地の良い場所ではないだ
ろう。だからこちらが用意した胥徒を使いはしても気を許すまではしないだろ
うと思い、少し心配したのだ。
 白沢は問いに少々不思議そうな顔をしながら、「曠世(こうせい)のことで
ございますか」と穏やかに返した。
「本日のこの時間ですと、大学にお邪魔させていただいております」
「大学?」六太はきょとんとした。「まさか入学したのか?」
「いえ。ごく一部の講義のみ、聞く許可を主上よりいただいたものですから」
 聞けば曠世という名のその下吏はなかなか優秀らしく、彼が得意とする一部
の学科のみ、特別に聴講して良いことになったのだという。入試を受けられる
ほどの学力ではないらしいのだが、大学は雁全土から優秀な人材が集まってく
る場だ。そこに一部の学科とはいえ加わることを許されたのだから、大したも
のだと六太は素直に感心した。

721永遠の行方「遠い記憶(13)」:2017/03/11(土) 15:45:46
「ああ、そうか。そのために連れてきたのか」
 六太が得心してうなずくと、白沢は「あ、いいえ、そうではなく」と否定し
た。そもそも簡単に聴講の許可がおりるとは思っておらず、だめでもともとと
ばかりに頼んでみた結果らしい。
「あの者は仙籍に入ったのも比較的最近で、実際の年齢もまだ若いのです。身
寄りもないものですから、この際、いったん元州を離れ、中央で新しい知識を
学ばせれば本人のためにもなるかと思いまして」
「へえ」
「それに曠世はもともと元伯に――斡由に批判的でございました。それだけに
拙官にも遠慮がございません。いっそ、そういう者のほうが身辺に置くのに良
いでしょう。拙官の気づかぬ失態に気づいて諌言してくれるやもしれません」
 六太は目を瞬いた。
「いずれにせよ、拙官のいただいた太保の職は一時的なものと心得てございま
す。しかし短い間とはいえ、前途有望な若者を大学の空気に触れさせてやれれ
ば、元州に戻ったときに州政府の役にも立ちましょう」
「そ、そう、か。それで聴講を……」六太は何と返していいものやらわからず
に、ようやくそれだけ答えた。
「ただ実際にお許しいただけるとは思っておりませんでしたので、それについ
ては本当に驚きました。主上は鷹揚に笑って、好きにしろ、とだけ」
「ふーん……」
「主上には拙官にも、好きにしろ、と」白沢は苦笑した。「各官府を見学させ
ていただく際、当初は予定表を作った上で都度主上にも許可をと思ったのです
が、不要と言われてしまいました。むしろ面倒だから、それだけのためにいち
いち来てくれるな、と釘を刺されまして」
「まあ……その辺の態度は謀反の前と何も変わってないからなあ。官があいつ
をつかまえるのも相変わらず大変だ」
「そのようでございますな」

722永遠の行方「遠い記憶(14)」:2017/03/11(土) 15:48:12
「ま、何にしても、そういうことなら官府訪問の予告のたぐいは、今そうして
もらっているように引き続き俺に言ってくれていいぞ。何ならこれからは毎日、
午前中は朝議が終わったら見学に行って、午後は俺んとこに来ると流れを決め
ておくとかな。だからどうだってわけでもないけど、そう言っておけば明らか
に俺への報告のためって名目になるから、周りも納得しやすいんじゃないか。
おまえも黙って動き回るよりは気が楽だろう」
「ありがたいことでございます。ただこれまで伺った各部署の責任者にはどう
も賄賂の催促と受け止められたようで」
「へ?」
 驚く六太に白沢は片眉を上げ、おどけたように続けた。
「本当に勉強のつもりでいるのですが、こちらの出方を探られております。む
ろん厄介事にならぬよう、懺悔のためと正直に伝えておりますが、どこまで信
じてもらえているやら」
「……まあ、無理だろうなあ……」
 六太はつい腕組みをして唸った。実際、あちこちで賄賂のやりとりが蔓延し
ているのだから、訪問先の官府にとっては自然な発想なのだろう。
「あまり否定するのも逆効果でしょうから、贈られたものは素直に受け取って、
すべて主上に献上することにいたしました。これまた主上には笑われてしまい
ましたが」
 曠世に言いつけてきっちり作成した目録とともに献上しているとの話だった
が、尚隆は現物には関心を寄せなかったものの、どのような品や金額が賄賂に
使われたのかについては興味を示したらしい。
「それでせっかくなので相談させていただきたいのですが、大抵は曠世を伴っ
ているのです。しかし官府に赴く際はあえて他の者を――宮城で用意された胥
徒を――伴ったほうがよろしいでしょうか」
「うーん」
 六太は考え込んだ。確かに腹心と見なされている下吏だけを伴って白沢が現
れれば、密かに他の官と顔をつないで何かを企もうとしているように見えるだ
ろう。
 だが。

723永遠の行方「遠い記憶(15)」:2017/03/11(土) 15:50:14
「別にそこまで気にしなくてもいーんじゃねえの?」へらっと笑って言う。
「尚隆だって勝手にやれと許可したわけだろ?」
「はい」
「だったら王の許可はあるんだから気にすることはない。なんたってあれでも
雁の最高権力者だ。もっとも実際は王の権威なんかあんまりないけどな」
 六太が冗談のようにして笑い飛ばそうとすると、白沢は先ほどまでのやわら
かい表情を曇らせて沈黙した。
「……どうした?」
「驚きました」
 白沢はぽつりと漏らした。「主上の周囲は敵ばかりだったのですね」と。
 敵、という激しい表現に六太は少しひるんだ。敵も何も……すべて尚隆の民
なのだが。
「なのに主上はあれで、思いのほか宮城内の状況を把握しておられる。手足と
なる者はほとんどおらぬようなのに」
 そう漏らしてから六太の複雑そうな表情に気づいたのだろう、「つまらぬこ
とを申しました」と話の区切りでもあったので辞去しようとした。
 六太は彼を送りながら、努めて朗らかな態度で接した。元州の事件のさなか、
尚隆は元州とつながっているとわかっていて、光州から新たに三公六官を迎え
た。もともとそんなでたらめをやる呆れた王なんだから白沢が気にすることは
何もない、あいつは自分で墓穴を掘ってるんだから、と。
「それと官府への訪問の予定や報告以外にも、思うところや気づいたことがあ
れば俺に言ってくれ。そりゃ、何か身になる助言をしてやれるわけでもないだ
ろうけど、それでも誰かに話すと考えもまとめやすいだろ。もともと俺の直属
なんだから、遠慮はいらない。これからの国のためにも忌憚のないところを聞
かせてほしい。あと曠世だっけか、これまで通り、俺のところにだって遠慮せ
ずにいつでも連れてきていいんだぞ。せっかくだから大学の話なんかも聞かせ
てくれよ。俺、行ったことないし、ちょっと楽しみだ」
「お気遣い感謝いたします」
 白沢は頭を下げ、退出していった。

724書き手:2017/03/11(土) 15:52:47
なんだか予定に反して随分間があいてしまいました。
また忙しくなってしまったので続きはいつになるか未定。
今回まとめて載せたぐらいの量なら、さほどかからないとは思いますが。

……というか全然色気がない……。

725永遠の行方「遠い記憶(16)」:2017/03/14(火) 21:50:36

 こうして、気になる点がないでもなかったが、白沢とはまずまず良い関係を
構築できたのではないかと六太は思った。どうせ尚隆は六太だけでなく官の言
葉も聞かずに勝手をするのだ、しばらくは尚隆のやることに目をつぶっている
と約束したことでもあるし、そのぶん暇だ。
 むろん靖州侯たる六太にも政務はある。しかし宰輔に実権がないと言われて
いるのは、首都州は実際のところ州の宰相たる令尹が仕切っているからだ。六
太の仕事は現状、朝議や儀式等で王の傍らに侍るのを除けば、書類に承認の署
名や押印をするのが主体。時間はたっぷりあったから、数日後の午後、さっそ
く白沢が下吏の曠世を伴って仁重殿を訪問したのを喜んで迎えた。
 胸襟を開いていることを示そうと、六太はあえて、尚隆が建物を解体させて
周囲がみすぼらしくなった庭院を臨む房室に席を設けた。もちろん場そのもの
はきちんとしつらえられているし、女官も数人控えている。開け放たれた窓か
ら見える風景もあからさまに寒々しいわけではないから、礼を失しているとか
相手を軽んじているように見えるわけではない。ただ宮城にしてはちょっと質
素なだけだ。そうして尚隆が半数もの建物を解体して石材や木材として売り
払ったことを、率直にというよりはむしろ滑稽な話として大げさに話した。
「あいつ、いつもこんな調子ででたらめなんだよ。官も呆れて物も言えないっ
て感じでさ。元州と比べてがっかりしたろ。頑朴は関弓と違って活気もあって
綺麗だったもんな。元州城だって――」
「――畏れながら!」
 六太は曠世にも席を作って白沢の傍らに座らせてやっていたのだが、その曠
世が突然強い声を上げて六太の言葉を遮った。
「畏れながら台輔に申し上げます。ここ関弓より頑朴が栄えて美しかったのは、
主上が富を関弓に集めなかったからと拝察いたします。それは地方にも平等に
心を砕いておられるゆえではないでしょうか。宮城が元州城よりみすぼらしい
のも同じこと。凡庸な王であれば単純に自分の住まう首都を優先して整備する
ところを、主上はご自身が贅沢をなさることより、華やいだ風景や活気に満ち
た賑わいでご自分の目を楽しませることより、いまだに明日の食にも事欠く切
実に貧しい地域を少しでも助けることを優先しておられるのです」
「は……」

726永遠の行方「遠い記憶(17)」:2017/03/14(火) 21:52:36
 六太は目を丸くして相手をまじまじと見た。思い詰めた様子の曠世は、むし
ろ六太を睨む勢いでこわばった視線を向けている。白沢は小さく溜息をつくと、
曠世に「控えなさい」と叱責した。
「いや……別に構わない、け、ど」
 六太は白沢に取りなしながらも口ごもった。曠世は何か言いたげだったもの
の、いったん飲みこむことにしたらしい。謝罪するように深々と頭を下げたあ
と、しばらく口元をぎゅっと引き結び、六太が瞬きながらも見つめているうち
に再び口を開いた。
「ご無礼いたしました。畏れながら台輔に伺いたいことがございます。お許し
いただけるでしょうか」
「あ、ああ。何だ?」
 白沢の着任の挨拶のときは、曠世はただ六太を畏れ敬っていただけに見えた。
だが今は敵意とまでは行かずとも気圧されるぐらいには鋭い覇気を放っており、
六太は困惑を隠せなかった。
「台輔は斡由の射士だった男、妖魔を飼っていた駁更夜と古くからのお知り合
いだったと伺いました。だから更夜が斡由の命で台輔をさらったとき、台輔は
斡由の言いぶんに理解を示して元州城にみずからお留まりになったのだと。宮
城におられた台輔はいつ、元州の射士とお知り合いになったのですか?」
「ああ、そのことか」
 六太は何かほっとしてうなずいた。確かに不思議に思われるかもしれない。
二十年近く前の懐かしい出会いをちらりと思い浮かべ、六太は我知らずほほえ
んだ。
「十八年ぐらい前に一度会ったんだよ。息抜きに使令に乗って元州の黒海沿岸
あたりを飛んでたら、例の妖魔に乗って飛んでた更夜とすれ違ってさ。びっく
りして追いかけたんだ。まだ更夜は十かそこらで、斡由に拾われる前で。ずい
ぶん汚い格好をして腹を空かせてた感じだったから、一緒に飯でも食おうって
誘ったんだ。ちょうど餅の袋を持ってたし」
 そう答える。曠世が何かを待つようにしばらく黙っていたので、六太は首を
傾げた。
「――えっと?」
「それで……?」
「うん、それで。それでいろいろ話しながら、一緒に餅を食べたんだ」
「……は?」

727永遠の行方「遠い記憶(18)」:2017/03/14(火) 21:55:00
 曠世の表情が驚愕に彩られるのを、不思議な思いで見返す。長い沈黙のあと
で、曠世はようやく口を開いた。
「それ、で……餅を、食べて」
「うん?――うん」
「さほど長い時間ではありません――ね……?」
「そ、う――だな。うーん、半刻(一時間)もなかったかな?」
「十ばかりの子供の時分に一度、半刻ばかりともに餅を食したから。だから十
八年も経って更夜の仕える斡由が内乱を起こそうとしても信用なさった、と?」
 六太は黙った。黙らざるを得なかった。ようやく相手の言いたいことがわ
かったからだ。
 確かに――客観的に見ればそれだけだ。それだけだった。それだけで六太は
無条件で更夜を信用した。
 きっと何を言っても相手には理解されまい。そんな思いのまま顔を伏せ、膝
の上で拳を握りしめる。
 だって更夜は六太だったのだ。罪なくして親に捨てられた六太だったのだ。
 だから――ああ、だから。
 暗い顔をして何も言い返さない六太に、曠世は表情をいっそうこわばらせた。
そうして押し殺すような声で「たったそれだけであの男を信用したのですか」
と吐き捨てた。
「曠世、控えなさい。台輔に無礼だ」
 ぎり、と歯を食いしばった曠世を、再び白沢がたしなめる。実際、下吏ふぜ
いが宰輔にこんな物言いをしたら、死罪を申しつけられても抗弁はできない。
侍っている女官らも顔色を変え、これ以上の無礼があれば取り押さえられるよ
うに身構えた。
 白沢は溜息とともに、六太の許しを得て曠世を退出させた。意気消沈した六
太に、残った白沢は「実は」と説明した。
「州城の行方不明者の中に、曠世の大伯母と兄がおりましたのです。他の者と
同様、私物をすべて置いたまま姿を消しました」
「それは……」
 六太は絶句した。

728永遠の行方「遠い記憶(19)」:2017/03/14(火) 21:59:15
 不明者はまず全員が更夜の妖魔に食われたのだろうと推測されている。曠世
は州府に幾度も捜索を訴え出、門前払いをされ続けていたらしい。ようやく調
査が行なわれることになったものの、生存の見込みは薄い。そうして聴取の過
程でたまたま白沢の目に止まり、紆余曲折を経て、こうして供をするに至った
のだという。
 道理で斡由に批判的だというわけだ、と六太は暗い思いで納得した。斡由に
処分されたらしいからには、曠世の親族はもともと斡由に否定的な立場だった
のだろう。その影響を受けたにしろ、州政府の仕打ちに憤ったにしろ、元州の
もとの執政陣に対して曠世が恨みをいだいているのは想像に難くない。
「しかも両親は曠世が幼い頃に亡くなり、官吏だった大伯母の援助のもと、年
の離れた兄に育てられたようなものだとか。そんなあの者にとって、駁更夜は
もちろん、斡由に従っていた拙官も家族の仇なのです」
「仇……」
 六太は呆然と呟いた。着任の挨拶に訪れた際、更夜をかばった六太に愕然と
した彼の表情が脳裏に蘇った。
「そのことは、尚隆は……?」
「知っておられるようですな。主上への使いは曠世に命じておりましたが、聞
けばいろいろと声をかけてくださっているようで。大学での聴講を許可してい
ただけたのもそのせいかもしれません。おかげでこの短期間で、曠世はかなり
主上に心酔していると言ってもよろしいかと」
「そうなんだ」
 意外に思いながらも、だからか、と得心する。だから尚隆をおとしめるかの
ような六太の発言にも過剰に反応したのか。
「曠世には不明の大伯母と兄以外に身寄りがございません。しかしながらその
ことと、台輔への無礼を許容することは違います。若いとはいえもう少し分別
があると思ったのですが、もう御前に出さないほうが良いようですな。次から
は別の者を――」
「いや、構わない」六太は即座にきっぱりと返した。「むしろちゃんと話し
合って理解を深めたほうがいいだろう。曠世だっていつまでも暗い感情に囚わ
れていたくはないはずだ」
 曠世の苦しみや悲しみはそれとして、少しは更夜のことも理解してほしい。
甘い考えかもしれないが、六太はそう願わずにはいられなかった。

729書き手:2017/03/14(火) 22:01:51
久し振りのせいか、早速前回の投稿内容に誤り(原作との矛盾)がありました。
話の筋には影響ないので、気づいたかたもスルーしていただければ幸いですw


またしばらく間隔が空きます。

730名無しさん:2017/03/17(金) 01:07:31
よくぞ更新してくださいました!待ってました!
続きを楽しみにしています!!

731永遠の行方「遠い記憶(20)」:2017/03/25(土) 15:29:40

 最近の六太は三日に一度の朝議にもだいたい出席している。今日も冬官主体
の朝議のあと、昼餉を挟んで広徳殿での政務を終えた六太は、仁重殿に戻る途
中で朱衡と行きあった。拱手して挨拶したのち笑みを浮かべた朱衡は「台輔も
ようやく心を入れ替えたようでけっこうなことです」と満足の体だった。
「尚隆はいなかったけどなー」
 六太は立ち止まって向き直ると肩をすくめた。特段発言することのない六太
にとって、朝議は暇な時間でしかない。朱衡は少し呆れたような顔をしたが、
出席しているだけましだと思ったのだろう、何も言わなかった。
「ちなみに今日は三公のいる日じゃなかったけど、普段白沢もまじめにやって
るぞ。そうそう、白沢が元州から連れてきた下吏な、斡由が始末した被害者の
遺族らしい」
 相手が白沢に懸念を覚えているのを知っていたのでそう教えると、さすがに
朱衡は驚いた顔になった。
「それは……まことでございますか」
「うん。だから斡由に従っていた白沢も、その下吏の――曠世にとって仇なん
だと。あえてそういう、自分に厳しい目を持つ官を連れてきたそうだ」
 朱衡が考えこむ中、六太は「朱衡は曠世と話をしたことあるのか?」と聞い
てみた。尚隆から声をかけられているというぐらいだから、何かと尚隆の元を
訪れている朱衡も見知っているのではと思ったのだ。何となくその評価が気に
なる。
「いえ。そもそも拙どもは基本的に後宮で主上とお会いしておりますので、お
そらくその者を見たこともないかと」
「そっか」
 さすがに尚隆も、腹心の部下だけを入れている内密の執務室にまで白沢やそ
の従者を招いているわけではないようだ。

732書き手:2017/03/25(土) 15:31:44
ある程度書き溜めたので、しばらくの間
推敲しつつ思わせぶりに1レス単位でちまちま出していきます。
また矛盾があるかもしれないけど、もういいやw

733永遠の行方「遠い記憶(21)」:2017/03/26(日) 12:01:18
「何でも尚隆から、大学で一部の講義を聴講する許可も得たらしい。まだ若い
し、元州に戻ったあとで役に立つだろうと白沢が判断したそうだ。それなりに
優秀なんだろうな」
「……主上に取り入っているわけですか?」
「違う」警戒を露わにした朱衡に六太は笑って否定してみせた。「むしろそい
つは何でか尚隆に心酔している。白沢が奏上する際の使いに曠世を使ってるそ
うなんだけど、なんか尚隆は曠世といろいろ話をしてやってるっぽいんだ。こ
の間も白沢と一緒に来たときに、頑朴や元州城に比べて関弓や宮城はみすぼら
しいだろと話を振ったら、尚隆が富を関弓に集めずに地方にも気を配ってる証
拠とか何とか、すごい勢いで抗弁されてさ。まいったよ」
 六太が軽い態度で困ったように頭を振ると、朱衡は小首を傾げて「それはそ
の通りでは?」とあっさり返した。
「……まあ……そうかもしれないけど」
 不承不承同意する。
「そうだ、聞いてるだろうけど、白沢は今後のために官府を見学して回ってて、
直属の上司である俺のところに都度報告に来てる。もし気になるなら、その場
に朱衡も同席するか? 大半は単なる雑談だけどな」
 朱衡は微笑して「その機会がありましたら、ぜひ」とうなずいた。

 次に白沢が仁重殿に訪れたとき、先日の六太の取りなしがあったためか、連
れていたのはまた曠世だった。気になって白沢の挨拶の合間に彼に目をやると、
こわばった表情で六太の胸元を見つめていた。前回のことがあったせいか、さ
すがにいきなり目を合わせるような無礼はしないらしい。
(そうやって反感を丸出しにされてもなあ……)
 内心で溜息をつく。
 いつものように女官にお茶などを用意させ、曠世も席に着かせて、白沢と報
告という名の雑談をする。更夜のことをどうやってわかってもらおうか考えあ
ぐねていると、ふと白沢が神妙な面持ちで言った。

734永遠の行方「遠い記憶(22)」:2017/03/26(日) 21:27:14
「こう申しては何ですが、宮城には不心得な輩が多いですな。彼らが懐にする
金銭の半分でもあれば、市井の民の暮らしはもっと楽になるでしょうに」
 宮城の諸官の現状を憂えているようだ。斡由を妄信していたとはいえ清廉な
官も多かった元州城と比べているのだろうと想像し、六太も居心地の悪い思い
は禁じ得なかった。
「何しろ尚隆がいまだに官を御しきれてないからな。冢宰と三公六官は白沢を
除けばもと光州の連中だし、上がああだと、どうしてもな。――そういえば」
最近、帷湍から聞いた話を思い出してにやりと告げる。「元州の謀反のとき、
尚隆は市井に王が賢君だとか何とか大げさな噂を流したそうだけど、あれ、内
容を変えてまだ続けてるらしいぞ」
「ほう。今度はどのような内容で?」
「王がどれほど民のことを思ってるか、ってやつだな。その延長で、頑朴の漉
水沿岸以外の堤の工事が遅れてることもいろいろ言い訳して誤魔化してる。実
際は何もやってねーんだけどな」
「そうですか……」
 白沢は難しい顔で黙りこんだ。落胆しているのかもしれない。傍らの曠世は
と言えば、本日は控えているだけだ。
「それで官が文句を言えば、相変わらず『不満は俺を選んだ六太に言え』で済
ませてるもんなあ。俺には実権はないっつーの」
 そうして時間が過ぎて暇を告げた白沢を、いつものように六太は房室の扉の
あたりで見送った。白沢のあとに続いた曠世は、六太の前を通るとき、ひとり
ごとのように「主上もお気の毒に」とつぶやいた。
「えっ?」
 その声音の冷ややかな調子に思わず目を瞬いた六太だったが、曠世は何事も
なかったかのように退出していった。

735永遠の行方「遠い記憶(23)」:2017/03/27(月) 19:04:50

 穏やかに日々を送る中で、何だろう、と六太は訳のわからない不安に駆られ
る。
 顔を合わせる際に向けられるようになった、あの、どこかさげすむような曠
世の目。
 そもそも六太は常世に来て以来、ずっと大事にされてきた。宮城の官吏たち
は内心ではろくに王も麒麟を敬っていないだろうが、少なくとも表面上は礼儀
を尽くしているし、言葉も選んでいる。だから六太は、そういった負の感情を
まっすぐ向けられることに慣れていなかった。
(親族を亡くして八つ当たりでもしてるのか。でも斡由の独裁は俺のせいじゃ
ない。強いて言うなら、なかなか全土を治められない尚隆のせいだ)
 雲海に張り出した露台の上、高欄に上って座りこみ雲海の下を覗き見る。ど
こかへ出かけていたらしい尚隆が先ほど禁門から帰城したのも、六太はそこで
ぼんやりと見ていた。そうやって息抜きばかりしている王のどこに弁護の余地
があるというのだろう。確かに六太は、尚隆がいいと言うまで目をつぶってい
ると約束したけれども……。
 ふう、と吐息を漏らして、傍らの柱に寄りかかる。
(元州の謀反は、たまたまうまく転んで収拾できた。でも堤もそうだけど、他
の部分の整備もできていない……)
 王ひとりで何でもかんでもできるはずがない。でなければ国土が州に分けら
れ、州ごとに州侯が置かれる意味がない。斡由が実際にやったことはともかく、
言っていたことは正論だ。
 そうやって物思いをしていたせいか、朝議に向かう途中で久しぶりに姿を見
せた尚隆が「なんだ、変な顔をして。拾い食いでもして腹の具合がおかしいの
か」と失礼なことを言ってきた。むっとした六太は相手の正装の長い裳裾を踏
みつけてやった。尚隆は「おお」と笑ってわざとよろけながら、あっさり六太
の足をのけてしまったけれども。

736永遠の行方「遠い記憶(24)」:2017/03/27(月) 21:19:51

「なあ。尚隆が重用している朝士がいるんだけど、話をしてみたいか?」
 あるとき六太は、白沢にそう話を向けてみた。朱衡ら尚隆の真の側近は、謀
反の前と変わらない官位だから身分は低い。普通なら三公の白沢とは直接話も
できない立場だ。
 だが思ったとおり白沢は興味を引かれたようだった。
「ほほう。警務法務を司る朝士でございますか。それはまた」
「おまえは宮城には王の敵ばかりだと言ったが、実は尚隆が本当に重用してい
る人間は皆官位が低いんだ。だからそいつらが何をやってるかはほとんど知ら
れていない」
 後宮に執務室があることまで言って良いかわからなかったので、そちらには
触れない。白沢はやんわりと笑んでうなずき、「ぜひお願いしたいですな」と
答えた。
 さっそく朱衡に使いをやって予定を調えて招くことにする。白沢、朱衡、曠
世という顔ぶれである。六太は主に白沢と朱衡に話をさせ、その中の話題で
きっかけをつかんで曠世と和やかに語らうつもりだった。
 今や六太は、白沢よりも曠世が気になっていた。もっと話をしていろいろ聞
いてみたいし、自分も伝えたいことがある。でも実際にはどうして良いのやら
わからなかった。普通に話しただけではわかりあえないような気がしたのだ。
 そこで余人を交えての歓談に紛れれば、六太自身が話を振るよりは曠世も耳
を貸すのではと思いついた。白沢を警戒している朱衡にも、相手の人柄を見極
める良い機会を与えられるから一石二鳥だ。
 宰輔を中心とした親睦のための内々の茶会という体で場をしつらえる。現わ
れた朱衡は身分に則り、慇懃に礼を尽くして白沢に挨拶をした。白沢のほうも
相手を軽んじることなく、むしろ丁寧に対応していた。
 だがあらためて白沢に朱衡を紹介して尚隆に重用されている朝士であること
を告げると、朱衡は呆れ顔で、どこか咎めるように六太を見た。あまり尚隆の
手の内を明かすなとでも言いたいのだろう。それでも白沢がこれまで見聞した
官府の様子を正直に話して懸念を示すと、朱衡は警戒を怠らないふうながらも
誠実に言葉を返していた。曠世についても朱衡に紹介し、親睦を深める場なの
で遠慮なく交歓してくれと六太が保証したものの、少なくとも曠世のほうは特
に何か言うつもりはないようだった。

737名無しさん:2017/03/28(火) 16:49:11
また更新されてる!やったあああ

738永遠の行方「遠い記憶(25)」:2017/03/28(火) 21:06:37
「いまだに賄賂が蔓延していることは主上もご承知です。しかし富が国外に流
出さえしなければ、対応の優先度は低いとお考えなのです。実際、今そこに手
を着けられるほど余裕はありません。何しろ先の謀反に対処するために光州か
ら招いた冢宰および三公六官自体が悪習を隠しませんので」
 ちくりと牽制を混ぜながらも、朱衡は状況を説明した。現在の六官に代わる
官吏を育てているところなので、あと数年から十年程度はかかるだろう。何し
ろ長い空位の間に疲弊しつくした雁に劇薬は禁物だ。せっかくここまで緩やか
ながらも回復してきたのだ、着実に歩み続けるには、極端な抵抗を招かないよ
う、いくら歯がゆくともある程度まで変化はゆっくりでなければならない。だ
が任せられる官が大勢育てば、王は一気に対応するだろう。
 白沢が反論するのではと思った六太だったが、白沢は意外にも神妙にうなず
いていた。朱衡があえて「太保のお考えはいかがですか?」と水を向けると、
白沢は「いろいろごもっともかと」と答えてから、何やらふと溜息をついた。
「実は宮城にお世話になるようになって、拙官はもともと国全体のことも考え
ていたつもりが、元州の視点で元州の都合しか考えていなかったことを痛感し
た次第でしてな」
「そうなのですか?」朱衡が意外そうに問う。
「少なくとも国の援助を受けずとも、元州は立派に持ちこたえておりましたか
らな……。いろいろと後回しにされても仕方がなかったのでしょう」
 朱衡は眉をひそめたが、白沢は嫌味からではなく心底そう思っているよう
だった。
 首都州である靖州ですら元州に及ばない有様に、白沢も当初は王の失政を
疑っていなかったという。しかし登極当時に比べれば国全体に緑が増え、緩慢
とはいえ着実に復興しているのは確か。ならば失政とは言い切れないし、むし
ろ以前曠世が指摘したように、王が地方にも平等に心を配っているためとすれ
ば納得できるのだ。
 実際尚隆は宮城の建物ですら解体して建材として売り払ったぐらいなのだか
ら、富を首都州に集めてなどいない。それでもほとんどの地方州は靖州より貧
しいのが現実だ。国府にしてみれば、より貧しい地域を優先して労力を割くの
は当然だろう。それに対して元州の人々が「どこよりも元州は豊かで特別だっ
たのに、他の州も追いついてきている」と嘆いて不満をかこったのはお門違い
というものだった。

739書き手:2017/03/28(火) 21:08:48
>>737
>>731以降の一連の流れはあと5レスぐらいですかねー。
原作と密接に絡む部分なだけに、ちょっと推敲に難儀していて、
往生際悪く何度も手を入れてるんですけど、
たぶん明日か明後日までで全部投稿できるんじゃないかなと。

740永遠の行方「遠い記憶(26)」:2017/03/28(火) 23:15:35
「今となっては、漉水の堤さえ何とかしていただけていたら元州も過ちを犯さ
なかっただろうと、それだけが無念で」
「斡由がそんな殊勝な心がけだったはずはないし、主上も内乱を防ぐためには
許可できなかったに決まっているでしょう」
 さすがの朱衡も言い訳できずに口を閉ざしたところへ、曠世が唐突に冷やや
かな言葉を挟んだ。
「……曠世?」
 六太が驚いて声をかけると、これまで完全に沈黙を守っていた曠世は「失礼
いたしました」と差し出口を謝罪しながらもこう続けた。
「主上のご厚情により、私は大学で一部講義を聴講させていただいております。
そしてこれまで発布されたすべての勅令も学んでいるのですが――」
「尚隆のやつ、やたら勅令が多いだろ。思いつきで乱発するし、学んでも役に
立たねえんじゃねえの?」
 六太が茶々を入れたが、曠世は六太が喋る間は口をつぐんだだけで、すぐに
また続けた。
「先日から主上が元州の治水工事を許可しなかったのはなぜかと学生らが議論
していたのですが、複数回の討論を経た結果、内乱を防止するためだったとい
う解釈が主流となりました」
「……へ?」
「曠世。詳しく話してみなさい」
 白沢がこわばった顔で促す。曠世は淡々と続けた。
「先だっての元州の反乱について、大学でも情報の整理はだいたい済んでおり
ました。そのうちの重大な事実のひとつとして、元州が州師の兵卒の数をかな
り多めに申告していたことが挙げられます。これはもちろん既に明らかにされ
ているように、王師を少しでも多く元州頑朴に引きつけ、背後を光州師に突か
せると同時に関弓に攻め上がるという作戦を念頭に置いたためです。
 しかしそれ以前に、そもそも軍の規模を大きく見せることで言外に『これほ
ど強大なのだぞ』と牽制し、不用意に国府から手出しされないようにする意図、
陳情という名の要求を王に突きつけやすくする意図があったと推測するのは自
然なことです。つまり兵卒数が水増しで申告されたことに気づきさえすれば、
論理的な帰結としてそれ自体が元州の叛心の可能性を示唆していると判断でき、
警戒せざるを得ないわけです」

741永遠の行方「遠い記憶(27)」:2017/03/29(水) 19:28:34
 白沢が動揺を示して、わずかに目をそらした。
「何にせよ永遠に水増しのこけおどしのままとも考えにくく、いずれ元州は実
際にそれだけの兵力を蓄えるつもりだったはずです。そして状況から推して、
主上もその計画に気づいておられたのでしょう。おそらく元州師が申告してい
た総数について、最初から疑念を覚えておられたのではないでしょうか」
 朱衡は呆気に取られていたが、ふと何かを思い出したように「あ」と声を漏
らして一同の視線を集めた。
「そういえば……台輔の誘拐騒ぎのさなか、主上が元州師の規模について『黒
備左軍はありえない』とおっしゃっていたことが……」
 実際、申告通りの黒備一万二千五百などとんでもないことで、内実は何とか
八千をかき集めたものの、手を結んでいた光州も兵力不足で一部をそちらに貸
し出した結果、うち三千は大して訓練もしていない徴用兵だったと判明してい
る。
 曠世は得心したようにうなずいた。
「やはりそうだったのですね。さまざまな勅令を関連づけて解釈するかぎり、
主上が国全体の状態を少しずつ好転させようとしておられたこと、逆に梟王に
任じられた州侯には、治水の権を取り上げた上で監督官である牧伯を派遣する
などして、力を蓄えさせないよう苦心なさっていたことは明らかでした。そう
なれば当然、余州の軍備には常に神経質なほど注意を払われていたはずで、兵
力の水増しについても敏感に察知しておられたのではと推測する学生が多くい
ました」
「そう……かもしれません。私どもは、はなから申告を鵜呑みにして焦ってい
たのですが、主上は常に冷静でした。元州の謀反が明らかになった際も、頑朴
に王師を引きつけている間に、他州の州師に関弓を攻めさせるつもりだろうと
看破しておられました」
「さて、そう考えるとどうでしょう。治水を含めた土木工事も軍の管轄です。
そして残念ながら国府には、まだ地方の治水に手をつけるだけの余裕がなかっ
た。そこで仮に主上が慈悲深くも求めに応じ、元州に治水の権をお返しになっ
ていたら、元州はこれ幸いと、申告していた数、あるいはそれ以上にまで兵卒
の実数を増やしたと思われませんか? 大規模な土木工事のためと言えば堂々
と兵力を増強しても名目は立ちますし、実際に元州は何年も前から反乱の準備
をしていたのですよね?」

742永遠の行方「遠い記憶(28)」:2017/03/29(水) 20:20:25
 問われた白沢はといえば、言葉もない様子だった。
「さらに光州も元州の企てに乗ったことを考えれば、他の州も野心を持ってい
たことは想像に難くありません。何しろ雁は空位の時代が長く、官吏の専横が
当たり前になっています。そんな彼らにとって自分たちの意のままにならない
王という存在は煙たかったことでしょう。太保も憂えておられるように、宮城
でさえ、今もって主上を軽んじる輩が闊歩しているくらいです。自分たちの言
いなりになる新王にすげかえられないものかと、彼らが大それたことを考えて
も不思議はありません」
 事実、財のためであれ権のためであれ、不穏な動きをする州ばかりだった。
白沢の元州とて権を王に返さず、州侯を幽閉した令尹が勝手に仕切っていた。
 曠世は微笑しながら、「極論でも何でもなく、余州すべてが主上の敵だった
のです」と言い切った。
「元州に至ってはのちに台輔を誘拐し、それを盾に王権を譲るよう主上を脅し
たほど現実に増長していました。そんな元州に治水の権を許すことで軍備増強
のお墨付きを与えてしまえば、反乱を起こされる危険が増すのは当然です。さ
らには他州も『元州に許可してなぜうちの州がだめなのだ』と次々に要求を突
きつけてくる事態になるだろうことを、主上は見抜いておられたのではありま
せんか? そして他州も治水の権を得たら得たで、実際に王に剣を向けたかは
ともかく、元州と同じく兵を蓄えたことでしょう。力をつければつけるほど、
王に対する発言力は増すのですから。おまけに武力を手に入れた者は往々にし
てそれを誇示するものですから、不満があれば自分たちの要求を王に飲ませる
ために容易に兵を挙げたでしょう。
 しかし元州一州――裏で光州も手を組んでいましたが――でさえ対処が大変
だったのです、余州すべてとはいわずとも複数の州が、手を組んだにしろ組ま
なかったにしろ連鎖的に反乱を起こしていたら、国中を巻き込んだ内乱に発展
し、それこそ主上のお命はなかったはず。主上がかたくなに元州の要求をはね
つけることで余州州師の軍備拡大を抑えていなければ、今ごろはまた空位の時
代が訪れていたとは思われませんか?」
 朱衡も驚愕の面持ちで、呆然とした白沢を見やっている。六太は何とか言葉
を押し出した。
「で、でも。実際に漉水には氾濫の危険があったわけだし、氾濫していたらそ
れこそ民が大勢死んだはずで――」

743永遠の行方「遠い記憶(29)」:2017/03/29(水) 22:52:20
「どちらを取るか、苦渋の決断だったのかもしれませんね。多少の犠牲は覚悟
で国内を治めることを優先するか、主上がご自分のお命を捨てることでまた雁
に空位の時代と絶望をもたらし、はるかに大勢の死者を出すか。実際、それく
らいしか選択肢はなかったのですから」
 六太は息を飲んだ。
「……とまあ、大学ではこのように結論づけておりましたが、何しろ実務を知
らない学生の想像に過ぎませんから」
 先ほどは内乱を防ぐためだったと断言しておきながら、曠世は一転してにっ
こりとそう締めくくった。
 その後もさまざまなやりとりは続いたが、動揺した六太はほとんど聞いてい
なかった。ただ曠世が「主上には最初から事態の流れが見えていたのでしょう。
その上で優先順位を定め、真にやるべきことから着実に手を着けておられたの
だと拝察しております」と言ったことだけが耳に残った。

 彼らを見送ったあと、六太はその足で急いで後宮に向かった。思ったとおり
尚隆はいつもの執務室にいて、ひとり書卓で書きものをしているところだった。
「どうした?」
 血相を変えた六太を不思議そうに見やる。
「げ――んしゅう、の」声が震えて続かず、いったん口を閉じてからまた開く。
「元州の、治水工事を許可しなかったのは、反乱を防ぐためだったって本当
か? 州侯の権を制限することで内乱の勃発を防いでいたのか?」
「なんだ、ばれてしまったか」
 いきなりの問いに混乱しても良さそうなところを、尚隆は苦笑とともにそう
答えた。
「……なぜ、俺に――いや、他の官に、そう言わなかった……?」
「阿呆。宮中ですら敵ばかり間者ばかりなのだぞ。不用意に手の内を晒してど
うする」
 こちらの動きを読まれれば対策されて足元をすくわれる。そう言われてしま
えば、六太には反論できない。
 尚隆は書きものを再開しながら、気楽な調子で続けた。

744永遠の行方「遠い記憶(30)」:2017/03/30(木) 00:16:52
「それにいちいち王が命令の意図を説明すると、見所のある者でも自分の頭で
考えなくなり、無能の量産につながるだろうが。それに比べれば、怠けている
とかわけのわからんことをしているなどと思われて俺が奸臣に軽んじられるこ
とぐらい可愛いものだ」
「でも。漉水の堤が決壊していたら、大きな被害が――」
「それを危惧して治水の権を与えていたら、元州は工事を名目に兵を蓄え、数
年のうちに大規模な反乱を起こしていただろうな」あっさりと曠世が推測した
とおりの内容を告げる。「そうなれば十中八九、俺の首はなく、民も巻き添え
を食って大勢殺されていたはずだ。生き残った民も、悲願だった新王践祚が夢
と消えて絶望し、飢えや誰かに害される前に、みずから生きる気力を手放した
だろう」
「あ……」
 六太は自分の足が震えるのを感じた。それを察したのかどうか、手を止めて
筆を置いた尚隆は六太に向き直り、慰めるように言った。
「大丈夫だ。正当な王が玉座にあれば、それだけで天災が減るのだろう? お
まけに王は強運の持ち主だという。ならば洪水が起きたとしても、おそらく規
模は最小限で済む」
「でも」
「実際、州侯の頭を押さえつつ地方州の治水に金や人手を回す余裕などなかっ
たのだぞ。なのにもし大災害が起きたなら、俺も民も運がなかったと諦めるし
かなかろう」
「尚隆!」
「なあ、六太」悲鳴のような声を上げた六太に、尚隆はなだめるように言った。
「この世界は天帝が作り、独自の理に支配されているのだろう? ならば王だ
ろうと、造物主の定めた天測から逃れる方法などない」
「それは――」
「天帝を否定すれば、王が玉座にいなくても天災は起きないのか? 蓬莱のよ
うに男女の交わりで子ができるようになるのか? 違うだろう。ならば余裕が
できるまでは逆に天帝が作った理とやらを当てにし、できることから順次こな
していくしかない。実際、今のところむごい災害は起きずに済んでいるのだ。
綱渡りは綱渡りだが、このまま何とか俺の運が続くのを祈っておけ。多少は復
興したとはいえ、今、王を失えば、雁は間違いなく壊滅的な打撃を被るのだか
らな」
 六太にはもう何も言えなかった。

745書き手:2017/03/30(木) 00:19:19
これで推敲したぶんは出したので、また間が空きます。


あと最初に注意書きした通り、この章は基本的に尚隆age六太sage章です。
さらにガンガン行くことになると思うので、
ろくたんがオリキャラなんぞに責められる様子をご覧になりたくない場合はご注意を。

746名無しさん:2017/04/01(土) 00:25:43
更新待ってましたあああ!
次の投稿までwktkしてます

747書き手:2017/04/02(日) 09:19:51
前章以前を読み返していないため矛盾があるかもしれませんが、
いちおうこの章の最後まで書き上げたため
自分でもいい加減けりをつけたくなったというか面倒になったwので
推敲を切り上げてちまちま落としていきます。

残り27レスです。
投稿間隔規制が面倒なので、思い出したときにでも適当に。

オリキャラを避けていた向きには「遠い記憶(55)」あたりから
六太と尚隆のやりとりや六太の心情になるので
そのへんから目を通してもらえると大丈夫かも。
次章まで行けば、オリキャラは必要なくなるため
ほとんど出ない予定なんですけど。

748永遠の行方「遠い記憶(31/57)」:2017/04/02(日) 10:31:32

 陽光にきらめく広大な雲海の上を、悧角を駆って風のように飛ぶ。頭の中は
わけのわからない感情が嵐のように渦巻いていて、六太を苛んだ。
 しばらく悧角を乗りまわして、ある程度気が済んだ六太は宮城に帰った。仁
重殿に戻ると、朱衡が待っていることを女官に伝えられた。
「よう。どうかした?」
 明るく装って客庁に入ると、朱衡は気遣わしげな目を向けた。
「台輔。大丈夫ですか?」
「何が?」へらりと笑ってみせる。
「あれからしばらく太保と話したのですが、ずいぶん気落ちしていましたよ」
「ふうん」
「みずから信用されないようなことをしておいて、主上を無能と決めつけてい
たと」
 ――元州が明らかに王に帰順していなかったから。最初から反乱の恐れあり
と疑われていたから。だから治水工事を許可していただけなかったのですね。
 要は自業自得だったのだと、白沢は自嘲していたという。あまりにも悄然と
してしまったので、さすがに朱衡も気の毒に思ったようだ。
 六太は、ふいと顔をそむけて窓の外を見た。
「大学での議論は、拙官にとっても目から鱗が落ちる思いでした。確かに学生
の想像かもしれません。しかしむしろ我々のほうが日々の実務に追われて視野
を狭くしていたのでしょう。言われてみればどれも納得できることばかりでし
たし、根拠もありました。当時の主上のいろいろな言動も腑に落ちるのです。
ただ――」
 朱衡はいったん言葉を切ってから、こう続けた。
「太保はともかく、あの曠世という従者は、もうおそばに呼ばないほうがよろ
しいかと」
 六太は振り返って朱衡を見つめた。
「どうもあの者は、台輔に敵愾心のようなものをいだいているように思われる
のです」
「……曠世が俺に危害を加えると?」

749永遠の行方「遠い記憶(32/57)」:2017/04/02(日) 11:13:50
「そうは申しません。使令もいるわけですし」
「前に言ったろ? あいつは尚隆に心酔してる。でも俺に手を出せば尚隆にも
害は及ぶ」
「しかし身体的にどうこうではなく、台輔のお心を乱すに躊躇しない輩に見受
けられました」
「大丈夫だ」にっと笑う。「だいたい耳に痛い進言でもちゃんと聞くのが良い
為政者ってものなんだろ? 尚隆だってあいつと話をしてるらしいし、俺だっ
てそれくらいやれるさ」
「しかし……」
 朱衡は難色を示したが、六太は何でもないように肩をすくめてみせた。朱衡
は諦めたように息を吐き、「ではなるべく拙官も同席させてください」と念を
押してから辞去していった。
 朱衡の懸念もわかる。だが六太は曠世を遠ざけるのは嫌だった。
 怖い、と思うのだ。曠世と話せばきっと、また何かとんでもない話が出てく
る。大学で仕入れた知識か、あるいは尚隆が口にした言葉か。でも話をしない
ことはもっと怖い。
 尚隆は六太には言わないことも、朱衡や帷湍には話すことは知っていた。そ
れでいいとも思っていた。だが謀反を起こした州からやってきたばかりの曠世
にさえ話しているかもしれない、と想像すると心が重かった。

 後から六太が聞いたところでは、白沢は尚隆に私的に謁見してもらい、以前
の無礼と浅慮を心から悔いて叩頭深謝したという。既に太保に任じられている
のだから今さらではあるが、真面目な白沢のことだからあいまいにするのでは
なく、きっちりけじめをつけたかったのだろう。
「主上には『間違いを犯さない人間などおらぬだろう。そのぶん励めよ』と
笑って許していただけました」
 白沢はどこか晴れ晴れとしたように六太に報告した。
「遅きに失したきらいはありますが、主上が懐の深いかたで本当に良かった。
非常の時こそ本性が出るとよく言われますが、思い出すまでもなく主上は元州
が乱を起こした際も鷹揚に構えていらっしゃった。これが器の違いというもの
でしょうかな」

750永遠の行方「遠い記憶(33/57)」:2017/04/02(日) 13:23:14
 六太を誘拐されても動揺を示さず、泰然と構えていたという尚隆。翻って斡
由は、追い詰められて逆上した。
「まあ、斡由とは違うわな……」
 六太もさすがに否定はせずにつぶやく。
 斡由は天帝などいないと言いながら、最後は昇山しておけばと嘆いていた。
いつもその場かぎりの言を弄しただけで、実際のところは信念も何もなかった
のだ。
「もちろん拙官は、みずから過ちに気づけたわけではございません。もともと
斡由を盲信し、元州が不利になって初めて迷いを感じたくらいです。むしろそ
のような態度が斡由を増長させたのかもしれない、きちんと気づいて諌めてさ
えいれば、それなりに良い為政者であり続けてくださったのかもしれない。そ
んな拙官に他者を非難する権利などありません。これからは誠心誠意、主上に
お仕えさせていただきます」
「うん、まあ……がんばれよ」
 そんなふうだから、以前のように六太が「また尚隆が行方をくらまして官が
探してる」と言っても、白沢は「何か下界に用事がおありなのでしょうかな」
と妙に理解を示して笑むようになった。
「思えば主上は単身、元州城に潜入できるほど活動的なおかたでした。もしや
今回も、何やら探っておられるのでしょうか」
 ちょうど朱衡と曠世も伴って仁重殿の庭院を散策しているときで、朱衡は少
し諦めたように「実は以前から間諜の真似事をなさっておられます」と明かし
た。
「なんと。人手不足も極まれりというところですな――」
 そんな中、曠世は立ち止まって周囲の木立を見回した。
「仁重殿周辺の木々はよく手入れされていますね。他の場所はみな人手を減ら
したままのようで荒れている箇所も少なくないのに、主上は台輔を気遣ってお
られるのですね」
「え?」
 六太は同じように立ち止まって周囲を見渡したが、よくわからず「そうか?」
と言った。白沢と朱衡が話しながら徐々に遠ざかる中、曠世は笑みを浮かべて
「ああ」と何やらうなずいた。

751永遠の行方「遠い記憶(34/57)」:2017/04/02(日) 21:18:14
「失礼しました。台輔は主上がお嫌いでしたね」
 六太は目を見開いた。「何だって?」
 なぜか、六太は王が嫌いなのかと問いかけた更夜の顔が浮かんだ。何とかし
てあげるよ、と更夜は言ったのだ。言外に、王を殺してあげる、と。
「俺は別に――」
「駁更夜については、彼が幼い時分に一度、短時間ともに過ごしただけで無条
件で信用したのでしょう? 護衛を殺して台輔をさらうという暴挙をしでかし
た後でさえ。しかも護衛を殺したこと自体はまったく咎めなかったようだと太
保から伺いました。
 翻って地道に雁を復興させて内乱も起こさせずに治めていた主上の手腕は
まったく評価せず、いつも官の前でも遠慮なく悪しざまに言っていたと聞き及
んでいます。短い間ですが、私も台輔が主上を褒めたりかばったりするお言葉
を一度も聞いたことがございません。むしろ貶めてばかりだったかと」
 六太は、ぐ、と言葉を飲み込んだ。
 ――なぜ台輔はいちいちに主上を軽んじられるのですか。
 記憶の中の驪媚までもが悲しそうに六太を責める。
「だから主上を嫌っていると思ったのですが――もしや台輔は、本当は内乱が
起きてほしかったのですか?」
「そんなわけないだろう!」
 心にもないことを言われ、さすがの六太も激しい調子で言い返した。曠世は
笑顔のまま首を傾げた。
「そうなのですか? でも元州の反乱当時、台輔は主上ではなく斡由のほうに
理があると思われたのですよね? つまり王権を奪おうとした斡由に正義を認
めたから元州城にとどまった。州宰だった太保を含め、元州城側はそう解釈し
ていたために強気だったそうですが」
「なんで――なんでそうなる」
 六太は頭をかかえたくなった。確かに六太は斡由に理解を示した。王を弑す
ることも厭わない更夜を目の当たりにしながら更夜を信じた。
 だからと言って、戦いを容認していたわけでは決してない。むしろ回避させ
ようとしていたのだ。

752永遠の行方「遠い記憶(35/57)」:2017/04/02(日) 21:32:57
「理由はどうあれ、王の選定を担っている麒麟が天や王を疑う者に理を認めれ
ば、反乱に根拠を与えて後押ししたのと同じだからですよ」
「え……」
「元州の思惑や内情を知らずとも、護衛を殺して台輔をさらわせただけで斡由
の罪状は明白でした。なのに台輔は理解を示された。当時、私は正式な州官で
はありませんでしたが、州城内にはおりましたので、台輔が元州の言いぶんを
認めた、元州が正義だと皆が口にしていたのは聞いていました。もっとも台輔
は人質のはずなのにのんきに出歩いていらしたため、状況をわかっておられな
いのではと陰では非難もされていましたが。それともまさか、ご自分の行為が
戦いを引き起こしかねないこともおわかりにならなかった?」
「ち、違――戦いたがっていたのはむしろ斡由と尚隆だろう!」
「斡由はともかく、主上が、ですか? この前申し上げたとおり、主上はむし
ろ内乱を避けようと尽力なさっていました。軍を頑朴に向かわせたのは、あく
まで台輔が誘拐されたから。それも結局は斡由と一騎打ちをすることで、被害
を最小限に食い止められた」
「あれは――だから、その、漉水の堤が――」
 混乱のままに、もごもごと抗弁しようとする。曠世はくすりと笑った。
「ずっと思っていたのですが、台輔はすぐ人のせいになさるんですね」
 六太は絶句した。絶句しつつも、何とか反論しようとして結局果たせない。
 視界の端で、六太を置き去りにしていたことに気づいた朱衡らが急いで戻っ
てくるのを認めてそちらに顔を向ける。朱衡が「台輔、どうかなさいました
か」と焦った様子で問うのへ、六太は必死に笑顔を作ってみせた。
「いや、何でもない」
「この周辺は木々も下生えもきちんと手入れされているとお話していたのです。
主上は台輔を気遣って、仁重殿の周辺だけは人手を減らしていないようだと」
 曠世がにこやかに説明すると、朱衡と白沢も周囲を見回した。
「ああ、そう言われれば確かに。特に陰になって見えない場所ですと、正寝な
どでもわりと放置されていますが、仁重殿の辺りはどこも枝が整えられている
し歩きやすくもなっていますね」

753永遠の行方「遠い記憶(36/57)」:2017/04/02(日) 21:40:17
「ほほう。それはそれは」
 朱衡は安堵したようだったが、六太は内心で動揺したままだった。何となく
視線を落として足元をつま先でつついたあと、和やかに言葉を交わす三人に唐
突に声をかける。
「――なあ。王って必要だと思うか?」
「は?」
 朱衡は驚きを隠さずに六太を凝視した。六太は三人から視線を逸らして歩き
だした。彼らもあわててついてくる。
「別に斡由に理を認めたわけじゃないけど――誘拐されたとき斡由に言われた
んだ。天帝なんか存在しないんじゃないかって。王にしたって、あるじを自分
で選ぶ麒麟の特性を知った先人が勝手にありがたがって祭りあげただけじゃな
いかって」
 反応のなさに足を止めて振り向くと、朱衡が息を飲んで立ち尽くしていた。
傍らの白沢さえも「そんな不遜なことを言ったのですか!」と愕然としている。
六太はまた目を逸らした。
「天は梟王の横暴をなぜ許したのだ、麒麟が最善の王を選ぶというのは嘘だと
非難されて――俺は反論できなかった」
 反論できないどころか、尚隆について「雁を滅ぼす王だ」と答えた。相手の
言い分を認めたようなものだ。
 つまり六太は――舌先三寸で言いくるめられた。尚隆を信じていなかったか
ら。二十年もの間、尚隆が暴君の片鱗を見せることはなかったのに、六太は護
衛の亦信を手にかけた更夜よりも信じなかったのだ。
「そのとき一緒にいた牧伯の驪媚は反論していたけどな……」
「台輔。台輔がなぜそうお迷いになったのかはわかりませんし、天帝の存否な
ど拙官のような者が口にできるはずもありませんが、この世は王が国の頂点に
立つべきと定められているのは確かです」
「そう、かな……」
「ではなぜ、白雉は一声と二声を鳴いて王の即位と崩御を報せるのです? な
ぜ仙の任命と解任ができる玉璽を扱えるのは王だけで、白雉の足を取れるのは
王が崩御したときのみ、そしてそのときだけは官がそれを玉璽の代わりにでき
るのです」

754永遠の行方「遠い記憶(37/57)」:2017/04/02(日) 22:46:31
 六太は瞬いて朱衡を見た。
「なぜ凰は他国の大事を鳴き、その中に王と麒麟の去就があるのです。なぜ余
人ではなく王が祭祀をすれば天候が定まるのです。王が、ひいては王を選ぶ麒
麟が特別な存在であることの証左は、他にもいくらでも挙げることができます
よ」
 それは本来、言われるまでもないことだった。理の異なる蓬莱で生まれ、蓬
山で育ち、天勅を受けた六太には、この世界がそう作られていることを肌で感
じているのだから。
「俺、は……」
「台輔」朱衡は気遣うように声を和らげた。「主上や台輔が生まれ育った蓬莱
では、王は麒麟に選ばれるのではないのでしたね。だから混乱してしまったの
でしょう。しかし蓬莱はこことは違う理に支配された別世界なのでしょう?」
「……うん」
「斡由が台輔にそう言ったのは、あくまで反乱を起こした自分たちに理がある
と強弁したいがためでした。台輔を惑わし騙すためだけにそう主張したのです。
斡由の言が一貫していなかったことは既にわかっているではありませんか。い
たずらに言を弄して国を乱した謀反人の世迷い言など信じてはなりません」
 六太は泣きたいような思いで朱衡を見上げた。
「蓬莱では王は……為政者は往々にして横暴だった。だから俺は、王は王だと
……民とは違うから民を踏みにじりかねないと思ったんだけど……尚隆は違う
のかな……」
「もちろんです」朱衡は力強くうなずいた。「王こそは国のすべてであり、民
の庇護者です。王がいなくて民がやっていけるはずがない。主上が践祚なされ
なかったら、いまだに国土は荒れる一方だったことでしょう。民は主上のおか
げで救われたのですよ」
 六太はいったんうつむき――顔を上げると、はは、と唐突に明るく笑った。
「台輔?」
「いやー、深刻になっちゃってごめんな。うん、そーだよなー。いやあ、俺も
そう思ってたんだけど、ほら、何しろ尚隆のやつ、怠け者じゃん? さすがの
俺もとっさに反論できなくてさー。いやあ、まいったよ」

755永遠の行方「遠い記憶(38/57)」:2017/04/02(日) 23:19:18
「台輔……」
 いたましいものでも見るような目を向けられ、それでも六太は笑顔を作り続
けた。
「考えてみりゃ、王って得だよな。最近じゃ尚隆が出奔しても、白沢でさえ理
解を示すようになっちまったし、逆に俺が遊びに出るときは肩身が狭いのなん
の」
 純粋に遊びや息抜きで下界に行っている六太と異なり、実は尚隆がみずから
間諜まがいのことをして情報を集めていたと知ったことには触れない。朱衡ら
もそのことは口にせず、曖昧に笑みを浮かべただけだった。
「あー、でも一度くらい文句は言っとこうかな。尚隆のやつ、いまだに面倒に
なると『文句があるなら俺を選んだ六太に言え』って官を煙に巻いてるらしい
し。俺はあいつが玉座がほしいって言うからやっただけだっつーの。尚隆が勝
手やるのは今さらだけど、尻拭いさせられるなんて冗談じゃねえや。そりゃ実
際に俺のところまで文句を言いにくる官はいないけど、一度ぐらい釘は刺さな
いとな」
 そんなふうに言って、さっそく正寝に赴こうとする。はらはらした様子の朱
衡たちがつき従ったものの、結局その日は尚隆の姿を探すことはできず、六太
も不満を伝えることはできなかった。そのときになってようやく気づいたやや
遠い王気の所在を探ると、どうやら尚隆は宮城を出て関弓に行っているらしい。
翌日になって戻ってきたようなのだが、当然ながら六太に報せが来るでもな
かった。
(帰城したなら、少しぐらい顔を見せてくれたっていいじゃないか)
 八つ当たり気味にそんなことを考える。
 いつだって尚隆はそうなのだ。勝手に行方をくらませるし、六太のことなど
気にもしない。いつも六太が正寝や後宮に訪ねていくばかりで、尚隆のほうか
ら仁重殿を訪ねてきたこともない。
 だから六太は。
 誘拐されたとき、ほんのちょっと、尚隆があわてればいいと考えた。いつも
六太を放っておくから。出奔するときに六太を誘ってもくれないから。
 六太はひとり座っていた椅子の上で片膝を立てて両腕で抱き、その膝がしら
に顔を伏せてじっとしていた。

756永遠の行方「遠い記憶(39/57)」:2017/04/03(月) 19:19:14

 意外にも朱衡は白沢と話が合うようだった。あれ以来、朱衡は何度か白沢の
官邸に呼ばれて話をしたらしく、そればかりか帷湍のことも紹介したという。
ただし帷湍のほうは「表面上はにこやかなのに、太保はあれでかなり押しが強
いし図太い。裏で何を考えてるのかわからん。俺は苦手だな」と、当初の朱衡
と同じく、まだかなり警戒しているようだ。
 しばらくぶりに白沢と曠世が仁重殿を訪れたとき、朱衡も予定を合わせて訪
問してきた。極力笑顔を見せようと六太が心がけていると、朱衡は安堵したよ
うに「お元気になったようですね。何よりです」と挨拶してきた。
 白沢は太保として与えられた領地を視察してきたそうで、ついでに胥徒に管
理を任せていた領内の自邸の様子も見てきたという。もっとも太保として大半
は宮城内の官邸で過ごすのだろうから、滅多に自邸には行かないだろうが。
「ところでまだ補修されていない堤について、どのくらいあるのか帷湍に調べ
てもらいました」
 ひとしきり雑談を交わしたあと、朱衡が切りだした。帷湍は地を整える遂人
だ。国内の治水状況についても詳しいものの、他州の情報となると、実際に水
害が起きるか州侯が報告するかしないかぎりは中央に伝わりにくいものだ。だ
から朱衡が教えられたのも十数ヶ所に留まるが、現実に何らかの問題がある河
川はもっと多いだろう。
「それでもわかっているだけで十数ヶ所もあるのか」六太が憂いを込めて言っ
た。
「漉水の頑朴沿岸のように梟王に堤を切られた場所はもちろん、単に手入れが
行き届いていないだけだが危険な河川も挙げたそうです」
 もともと頑朴沿岸だけが氾濫の危機にあったわけではない。あの場所がこと
さら取り上げられていたのは、源泉が首都州にある大河ということと、何より
州侯気取りだった斡由が州都近くの堤ゆえに整備を強く求めたためだ。当然、
国府まで情報が届いていない、または高位の官の住まいから遠いとして放置さ
れている河川はさらにあるだろう。

757永遠の行方「遠い記憶(40/57)」:2017/04/03(月) 19:31:17
 何しろこの世界の国の常として、雁も平野は少ない。多少なりとも起伏のあ
る土地が大半だから一般的に水の流れも速く、仮に小川であっても、地形や季
節によっては警戒を欠かせないのだった。
「それでも梟王が切った堤の補修が最優先か。どうせ重要な場所を切ったんだ
ろうから」
 六太がそう言うと、白沢も「にしても思ったより数は多いのですなあ」と
唸っていた。
「これではさすがにすぐには予算を割けないのは理解できます。どこから着手
するかについても利害が絡む上、優先度についてはほうぼうから異論が出てく
るでしょう。これはまた調整が難しいですな」
「前王朝末期から空位初期に残された資料では数ヶ所に過ぎなかったはずです
が、状況的に混乱していたのか数は当てにならないようです。もしくは天候不
順のせいで急速に荒れてしまったか」
「何しろ民も自分たちで堤や自然の岸辺を壊しましたからね」
 六太らの会話に、曠世がしれっと口を挟んだ。六太はもちろん、他の者も驚
愕を隠さずに曠世を見やった。
「……何か?」曠世はいつものように笑みを浮かべていたものの、表情はどこ
か挑戦的だった。
「その。また大学での話か?」
 六太が恐る恐る問うと、曠世は首を傾げるようにして「いいえ?」と答えた。
「単に放置の結果、状態が悪化した箇所はともかくとして、壊された堤などが
全部梟王の仕業のはずがないじゃないですか。民も自分たちの手でやったんで
すよ。身に覚えのある里廬では公然の秘密になっていますし、処罰を恐れて役
人には必死に隠しているだけです」
「ど――う、して」喉がからからになったような思いで六太が問う。
「もちろん自分たちが助かるためです。洪水の恐れがあるときに対岸の土手を
崩してそちらに水を逃がすやりかたは、昔から繰り返されてきましたからね。
そりゃあ大罪ですが、洪水に押し流されて里廬が全滅するよりはましです。も
ちろん壊した土手の方向に別の里廬があろうと知ったことではありません」

758永遠の行方「遠い記憶(41/57)」:2017/04/03(月) 20:10:01
 何しろ王師に攻められた元州師だって、同じことをやろうとしたそうじゃな
いですか、今さらですよ――曠世はそう事もなげに言った。
「そんな!」
「曠世。それは根拠のある話なのか?」
 六太が悲鳴じみた声を上げ、白沢が強く問いただした。曠世は笑みを絶やさ
ないままうなずいた。
「これは昔、大伯母に聞いた話ですが、空位の時代、漉水の支流で続けて二ヶ
所ほど民が自分たちで堤を壊したそうです。私が育った里廬でも幼いころ大人
たちが内々にそのことを話していて、いざとなったら里廬の近くの河川も、こ
ちら側より高い対岸を同じように壊せないかと相談していたのを知っています。
さすがに主上が践祚なさってからは天候が安定してきていますから、そういっ
た事例は減ったでしょうが、それでも皆無ではないでしょうね。
 ちなみに件の二ヶ所をやったのは幼子をかかえた若い母親で、もちろんあと
で罪に問われて処刑されました。遺された子供は所属する里でちゃんと面倒を
見たそうですが」
「ちょっと待て。二ヶ所?」混乱した六太は額に片手を当て、もう一方の掌を
押しとどめるように曠世に向けた。「若い母親がひとりで堤を壊した? 一ヶ
所だけでも無理だろう!」
「ええ。無理ですね」
「じゃあ、それは……」
「もちろん真実は里に属する廬の男手が総出でやったんですよ。そして里廬で
もっとも不要とされたひとりに罪をなすりつけて口をつぐんだ。遺された子供
を皆で育てたのは、罪人とされた女――夫を亡くして困窮していたようです
――と話がついていて罪を被るのと引き換えだったのか、単に罪滅ぼしをした
かったのか。どちらかまではわかりかねます」
 言葉もなく黙り込んだ面々に、曠世は追い打ちをかけた。

759永遠の行方「遠い記憶(42/57)」:2017/04/03(月) 23:06:13
「念のために申し上げておきますが、こんな話は元州だけではないと思います
よ? 主上に申し上げたところ、もともとご存じだったようで、ここも蓬莱も
変わらないなと嘆息をついておられました。元州ではない別の州におしのびで
いらした際に、親しくなった民自身から、梟王がやったことにして堤を壊した
里廬があると耳打ちされたこともあったとか。おかげで同じ河川の岸辺が複数
箇所荒らされていた場合、流れが変わりかねない以上、補修の順番も熟慮しな
ければならず大変だとも頭を痛めていらっしゃいました」
 六太にとってあくまで民は弱者、庇護すべき存在で、責められるべきは必ず
為政者の側だった。まさかその民らが自衛のためとはいえ、氾濫の恐れがある
河川の対岸をみずから壊していたなど思いもよらないことだった。ましてや罪
をひとりに押しつけてのうのうとしていたなど。
「ですから私は常々思っていたのです。もちろん堤の補修は大切でしょう。し
かし空位の間、民自身もあちこちで岸辺を壊して状態を悪化させていた以上、
どうしたって手が回らないのは当然です。壊された箇所の周辺に至っては、他
の部分より崩落しやすいでしょうしね。なのに一方的に主上を責めて対応を急
かすのは違うのではと」

 その日、内殿の執務室は尚隆と冢宰、女官がいるだけで閑散としていた。先
ほどまではもう少し人がいたのだが、それぞれ書類を受け取って辞去していっ
たからだ。
 最後に冢宰も書類のいくらかを渡されて立ち去ったあと、尚隆は女官に供さ
れた茶を飲み、ようやく大きく開け放たれた窓枠に行儀悪く座りこんでいる六
太のほうを見た。
「何か用だったか?」
「別に」
 六太は不満げに答えてから、なあ、と問いかけた。
「おまえ、曠世と――白沢が連れてきた下吏といろいろ話してるんだって?
大学の聴講の許可も与えたんだよな」

760永遠の行方「遠い記憶(43/57)」:2017/04/03(月) 23:11:12
「なんだ。気になるのか?」
「気になるっていうか……」
「あれもあれでまじめすぎるな。もっと気を抜いたほうがいい」
 軽い口調だった。六太と異なり、別に辛辣な言葉を投げられているわけでは
ないのだろう。
 もっとも仮に何か言われたとしても尚隆は気にしないだろうが。何しろ普段
から側近に――特に帷湍には遠慮のない言葉で罵倒され慣れているのだから。
 六太が「斡由の被害者遺族らしいな?」と探るように言ってみると、尚隆は
肩をすくめただけだった。
「あいつ、おまえに心酔してるらしーぞ」
「ほう? 物好きなやつだな」
「……そうだな」
 それだけ返したものの、話が続かない。堤の話をしようかとも思ったが、今
さらだという気もした。きっと尚隆の頭の中では、とっくにいろいろな段取り
がつけられているのだろうし。
 尚隆が茶杯を卓に置いた音に、六太はふと思い出してまた、なあ、と言った。
「おまえさ、いいかげん『不満は俺を選んだ六太に言え』とか何とかで官を煙
に巻くのをやめろよ」
「うむ。いろいろ些末事を言われても面倒なだけだからな。あとはおまえに任
せる」
 にやにやした顔を向けられ、六太は眉をしかめた。
「だいたい玉座がほしいって言ったのはおまえだろうが。望みどおりにして
やったんだ、いちいち俺に押しつけるな」
「阿呆。俺に国がほしいと言えと迫ったのはおまえのほうだろう。半身なのだ、
面倒ごとぐらい、分かち合ってみせろ」
 苦笑した尚隆の抗弁に、六太は声もなく固まった。尚隆が玉座をほしいと
言ったから王にしたのではないか、何のことかわからないと考えて――。

761永遠の行方「遠い記憶(44/57)」:2017/04/04(火) 01:03:38
(違う)
 六太は愕然としながら、すっかり忘れていた記憶をようやく引っぱり出した。
(違う。尚隆は自分から玉座がほしいなんて言わなかった。まず俺が聞いたん
だ)
 そもそも蓬莱に生まれた尚隆は、当然ながらこちらの世界の存在も王の意味
も知らなかった。何より小松の民を逃がすために戦って死ぬつもりだった。
 それを助けてこちらの世界に連れてきたのは六太だ。確かに尚隆は「玉座が
ほしいか」と問われて「ほしい」と答えた。だが六太のほうも「国がほしいと
言え」と強く迫ったのだ。
 玉座の責任はどちら一方のみが負うべきものではない、両人がともに負うべ
きものだった。
 ずっと「尚隆が玉座をほしいと言ったから王にした。だから俺のせいじゃな
いし、そもそも天意が不満なら文句は天帝に言え」と周囲に減らず口を叩いて
きた六太は、反論の言葉を口にできなかった。
 ――台輔はすぐ人のせいになさるんですね。
 曠世の言葉が脳裏によみがえり、六太は暗い顔を伏せて唇をかんだ。
「六太?」
 急に黙りこんだ六太に、さすがに様子がおかしいと気づいたのだろう。尚隆
は席を立って、六太が座る窓に歩み寄ってきた。
「どうした」
 気遣うように頭に手を置かれる。そのぬくもりに、六太は泣きそうな目で見
上げた。
「なんだ、また拾い食いでもしたのか」優しい声だった。
「そう――かもしれない」
「困ったやつだな。腹が減っているなら、今日は正寝で一緒に飯を食っていく
か?」
「……うん」
 一瞬だけ顔をそむけてさっと目元を拭ってから、六太は必死に笑ってみせた。

762永遠の行方「遠い記憶(45/57)」:2017/04/04(火) 01:08:20

 斡由の乱以降、特に深刻な事件は起きていない。だから心穏やかに過ごして
も良いはずだが、最近の六太はこんなことを考えるようになった。
 なぜ尚隆は白沢を太保に任じたのだろうか、と。
 宮城に置いていろいろ見聞させるためなら、別に三公である必要はない。謀
反の中枢にあった人物なのだから、何なら本人が当初乞うたように下官として
勤めさせても良かったはずだ。
 だが尚隆は太保にした――六太の下につけた。
 もしや白沢の思いの変遷と反省のさまを間近で見せることで、六太に誤りを
悟らせるためかとも疑う。何をしてもいいが俺の足は引っ張るな、おまえが不
用意に動けば逆に民が害される、と言外に牽制しているのか。
 元州から宮城に帰還したあと、尚隆が六太の使令に命じたことがある。それ
は万が一また六太が狙われるようなことがあれば、誰を人質にされ、何を六太
自身に命じられようと、即座に六太の身柄を宮城に連れ帰れというものだった。
 あのとき更夜にも言われたように、本当に戦乱の到来を防ぎたいなら更夜を
殺すべきだったし、人質の赤子を犠牲にしても逃げるべきだった。でも六太に
はできなかった。だから尚隆が命じた。
 六太のあざなを馬鹿とした尚隆の心の一端が見えたような気がした。考えす
ぎかもしれないが、彼の苛立ちを示していないとどうして言えるだろう。
 白沢が尚隆に深謝した際、尚隆は「間違いを犯さない人間などおらぬ」と
笑って赦したという。さらには「何も失わずに生きていける人間もおらぬ」と
言って慰めもしたらしい。
 驪媚や亦信を喪わせた六太を、尚隆は本当に許してくれたのだろうか。何も
失わずに生きていけるはずはないのだからと、達観しているのだろうか。
 それでも相変わらず憎まれ口しか叩けない六太を、尚隆はどう思っているの
だろう。
 ――なぜ台輔はいちいちに主上を軽んじられるのですか。
 ――台輔が主上を褒めたりかばったりするお言葉を一度も聞いたことがござ
いません。
 最近では、六太は曠世と目が合うのを恐れるようになった。

763名無しさん:2017/04/04(火) 01:23:32
怒涛の更新で嬉しい・・・・
次も楽しみにしてるよ!

764永遠の行方「遠い記憶(46/57)」:2017/04/04(火) 19:45:29
 もちろん曠世は、内容はともかくとして言葉遣いは丁寧だ。だが、おそらく
それは敬意からではない。
 あれは拒絶だ。言葉そのものを丁寧に取り繕うことで、彼は六太との間に
きっちり線を引き壁を作っている。
(たぶん……憎まれてもいるんだろうな)
 諦めの心境で考える。曠世にとって更夜は親族の仇。更夜をかばう六太もそ
れは同じなのだろう。六太が更夜の肩を持つ以上、歩み寄りはあり得ないとい
うわけだ。
 傍で見ているかぎり、白沢は着実に尚隆の信頼を得、白沢に侍る曠世も、
けっこう便利に尚隆に使われてもいるようだった。それにどうやら曠世が辛辣
な言葉を突きつけるのは六太だけらしい。何しろ尚隆に心酔しているわけだか
ら、六太が更夜をかばうだけでなく尚隆に減らず口を叩くのも気に入らないの
だろう。その割に帷湍たちが言うぶんには大して気にしていないように見える
ので、よほど六太が嫌いらしい。
 あるとき仁重殿に帰る途中、たまたま曠世がひとりで書類を運んでいたとこ
ろに行き合ったため、六太は声をかけてみた。
「よう。がんばってるようだな」
「おかげさまで」
 いつものように張りつけられた笑みさえ、六太に対する壁と思われた。
「その、さ」立ち去ろうとした曠世をあわてて引き止める。「そろそろ普通に
話をしないか?」
「はい?」
「これだけけなされ続けると、さすがの俺も気分が落ち込むんだ。でももう知
らない仲じゃないんだし――」
「そうですか? でも拝見しているかぎり、台輔はずっと主上をけなし続けて
おられますよね。となれば当然、同じ行ないがご自分に返っても文句を言えな
いのでは?」
 小首を傾げるさりげない態度の割に、言葉は相変わらず辛辣だ。六太は口元
をこわばらせたが、何とか笑顔を保った。
「いやあ、尚隆は気にしてないしさ。それに帷湍なんかもよく尚隆を罵倒して
るだろ」

765永遠の行方「遠い記憶(47/57)」:2017/04/04(火) 20:06:28
「ああ。他の者がやっているからご自分もやっていいと思われているわけです
か。なるほど」
 六太は言葉に窮した。感情をそのまま相手にぶつけるという意味では、曠世
も六太のことを言えないほど未熟なのだろうが、だからこそ六太には反論でき
なかった。
ちなみに曠世は二十代前半らしいので、六太や更夜より年下なのは確かだ。
「実際のところ、はなから主上を軽んじている台輔と異なり、あれで帷湍どの
は主上にかなり敬意をいだいておられます。しかし奸臣は違います。玉座の根
拠である麒麟が王を軽んじるさまを見て、彼らはそれに正当性を見いだして主
上をないがしろにしています」
 つまり、と曠世は続けた。かつて元州城に留まったことで斡由の反乱を認め
たと見なされたと同様に、奸臣らは六太の態度を見て、王は軽んじてしかるも
のと思っていると。だから宮中の秩序の混乱は、六太の態度が一因でもあるの
だと。
 黙り込んだ六太に、曠世はくすりと笑みを漏らした。
「ご存じでしたか? 主上は相手の水準に合わせて対応を変えておられますよ」
「え……?」
「頭の良い、主上の意図を察することができる者にはそれなりの答えを、そう
でなければ適当にあしらっておられます」
「それは、おまえにはいろいろ話しているという意味か?」
 愚かな六太に何も話さないが、曠世には話しているのだと。
「まさか。私のような者に主上の深遠なお考えがわかるはずもございません」
 急に顔つきを正した曠世は、その言ばかりは本心から口にしたようだった。
「単に主上が意図を明かす相手は限られるということです。なのに表面だけで
判断して主上を悪しざまにおっしゃるのはいかがなものでしょう。奸臣らはい
まだに主上が怠けていると非難していますが、主上は実際には、ご自分が定め
た優先度と方法とで順次物事を処理しておられます。単にそれが官の考える対
応や優先順と異なっているがために、政務を放擲していたように見えるにすぎ
ません」
「それは……」

766永遠の行方「遠い記憶(48/57)」:2017/04/04(火) 20:24:02
 六太が口ごもると、曠世はひとつ溜息をついてから話を変えてこう言った。
「主上がこう言っておられたことがあります。『人は正義の名のもとに、簡単
に相手を追いつめるものだ』と。『自分が正義だと確信したときの人間の残虐
さは本当に恐ろしいぞ』と」
 自分は正義だからまったく悪くない。相手が悪いのだから何をしても良いと、
簡単に相手を傷つけて正当化してしまう。曠世は淡々とそう語った。
 六太のことか、それとも六太を責める自分を自覚してのことなのか。そう
思って困惑していると。
「勘違いしていただきたくないのですが、別に私は自分を正義だとまでは思っ
ておりませんよ。私は台輔は嫌いですが、無礼打ちにされても仕方がない態度
だということも承知しています。
 それでも台輔にこういったことをお伝えする人間も必要でしょう。でなけれ
ばこれまで同様、誰もが台輔を庇護して甘やかすだけなのですから。いくら台
輔の安全が主上のお命にかかわるとはいえ、そしてお姿が子供のままとはいえ、
ここまで甘やかすのはどうかと思いますね。何しろ台輔の考えなしの言動が主
上を貶め、それによって主上のお身の回りの危険を増大させているのは確かな
のですから」
 立ち尽くす六太に、曠世は一礼した。そうして踵を返して去っていく。
 その姿が見えなくなってから、六太はのろのろと歩き出した。仁重殿に戻り
ながら欝々と考える。確かに言われるまでもなく、六太の態度は王を軽んじて
いて、それが宮中の乱れの一因なのかもしれない。
 だが。
 仕方ないじゃないか、とも泣きたい思いで言い訳する。
 なぜなら――。
 なぜなら本当は尚隆にもっとかまってほしかったのだから。だから言い合い
もしたし、文句も言った。そうすればそのときだけは尚隆の気を引けるから。
六太には尚隆が耳を傾けたり意見を求められるほどの政治能力はないから。
 幼い子供みたいだ、と六太は自嘲した。あるいは好きな女の子の気を引くた
めに髪を引っ張っていじめたりして、逆に嫌われる男の子か。
 六太は尚隆を見る。いつも――見ている。だが尚隆は六太を見ない。

767永遠の行方「遠い記憶(49/57)」:2017/04/04(火) 21:23:37
 あいつは本当はけっこう優しいんだけどな、と半ば諦めの気持ちとともに、
仕方がないとも理解している。なぜなら尚隆にとって六太は、曠世に言われる
までもなく役立たずなのだから。

 それから数年が経った。
 未来の雁を担う官は順調に育っているようで、表面上はまだ奸臣が幅を利か
せていたものの、尚隆の手足となって実務を担う人材は着実に増えていった。
特に元州の州官出身者は、徐々に、だが確実に復興していく国を目の当たりに
して、自分たちの何がいけなかったのか、国府が本当は何をしていたのかを
悟ったらしく、完全に王に帰順した。
 三公六官は白沢を除けばまだ光州出身者のままだったが、数年のうちに首が
すげかえられることは確かだろう。朱衡などは明らかに法務関連の重要な案件
もかかえるようになったから、いずれは小司寇、もしかしたらいきなり大司寇
に抜擢されることもありえた。
「国内が安定していないのに、今度は荒民か。相変わらず頭の痛いことだ」
 周辺国がきな臭いという情報を持ってきた成笙に、後宮の執務室で尚隆が嘆
息を漏らした。
「大半は雁を素通りしていくとは思うがな。まだ雁の民自身が食っていくのが
やっとなのだし」
「まあ、いい。引き続き状況を探らせておけ」
 うなずいた成笙が麾下に指示を下すために退室する。それを見送った六太が
ふと口を出した。
「なあ。何なら俺がさっと行って様子を見てこようか?」
「うん?」
「宮城にばかりいたら息が詰まるし。おまえの命令で国外に出るなら勅命って
ことで言い訳できるじゃん」
 六太は大きく伸びをしたあと、にやりとしてみせる。
「なんだ、退屈していたのか」
「そりゃそうさ。おまえだって相変わらず外に出歩いてるんだ、たまには俺に
も口実を与えろよ」

768永遠の行方「遠い記憶(50/57)」:2017/04/04(火) 21:26:34
「なるほど。使令もいるし、考えてみれば適任か」尚隆はくっくっと笑ってか
ら「よし、台輔に命じる。適当にいろいろ探ってこい。だがあまり遊びすぎる
なよ」
「任せとけって」
「そうだな。うまくやれたら、そのうちどこかに連れていってやろう」
 六太は一瞬目を見開いてから、「楽しみにしとく」と笑った。
 嬉しかった。六太は名目上の靖州侯でしかなく、宰輔としても、何しろ尚隆
が六太の助言諫言を必要としていない。だから国が整いつつある中で、尚隆の
側近周辺が皆尚隆に頼りにされて忙しく働くさまにどこか焦っていた。置いて
いかれる、自分も何かしなくてはならない、と。
 だからとっさに申し出たのだが、尚隆の出奔に誘われるとまでは思わなかっ
た。
 思わず、ぐっと拳を握る。尚隆の目となって命じられるままに国の内外を探
れば、もっと気にかけてもらえるかもしれない。さすがに危険な場所には行か
せてもらえないだろうし、六太自身も不安があるが、使令さえいれば大抵の場
所なら何とかなる。
 六太は頑張って勅命をこなした。傾きつつある外国で民の暗い顔を見るのは
つらかったものの、そういうとき尚隆は、次は穏やかな地域の視察を命じて気
遣ったり、周辺に緑の増えた関弓の散歩に誘ってくれるようになった。おまけ
に使令を人目につかせるわけにはいかないとあって、一緒に騎獣に乗せてくれ
るのだ。
 騎獣の上で体を安定させるためなら、尚隆に後ろからぎゅっと抱きついても
言い訳はいらない。騎獣が小さめだと六太が前方に乗り、尚隆が後ろからかか
えるようにして手綱を取ることもあった。
 幸せだった。そんな自分の感情を分析するまでには至らなかったが、これが
麒麟の本能なのだろうと、深く考えることもなかった。
 相変わらず減らず口を叩くのまではやめられなかったが、尚隆自身は気にせ
ずにあしらってくれたから、曠世に呈された苦言を忘れ、これまた深く考えな
かった。むしろ一緒に過ごす時間が増えたことで積極的にわがままを言って、
どこまで許容してくれるのかと無意識に量っていたところがある。

769永遠の行方「遠い記憶(51/57)」:2017/04/04(火) 22:03:13

 そうやって日々が過ぎていき、あるとき六太は来年には三公六官が刷新され
る予定だと聞きつけた。
 まず朱衡の元に赴いて事実を聞いてみる。必要な人材がかなり育成された今、
今度こそ尚隆は改革を敢行するつもりらしく、朱衡は大方の予想通り大司寇に
抜擢される旨を内々に伝えられたとのことだった。帷湍は大司徒の予定だし、
白沢に至ってはなんと州侯だ。ただし元州ではない別の州だが。
 忙しそうな朱衡に祝いを告げ、ひとしきり話をしてから次に帷湍のところに
行く。禁軍左軍将軍になるはずの成笙の元へも。
 最後に白沢の元を訪れると、他の三人と違って実権のない三公だったぶん時
間もあるのだろう、引き止められて和やかに話をした。
「元州じゃなくて残念だったな」
「さすがにそこまでは望みません。むしろ宮城に来たときのように、遠く離れ
ていたほうが元州のことも客観視できて良いでしょう」
 白沢はそう言って朗らかに笑った。
「これは主上もおっしゃっていたのですが、斡由の政治的手腕自体は見るべき
ものがありました。見習うべきところは見習い、正すべきところは正してよく
治めよと、そう激励をいただきました」
「……うん。がんばれよ」
「まあ、実際に就任するまでまだ数ヶ月ありますので、これから初心に帰って
学ばせていただきますが。もっとも現在の冢宰らに漏れないよう注意も必要で
すな」
 何しろ尚隆が目論む改革はまだ極秘だ。現在の官位にふんぞり返っている奸
臣らに抵抗する隙を与えず、一気に畳みかける計画なのだから。同時に、これ
まで奸臣らが不正に蓄えてきた財も没収されることだろう。
 年が変わり、しばらくして現実に諸官に辞令が下ると、宮城はにわかに慌た
だしくなった。それでも尚隆の息のかかった下官がこの三十年でじわじわと組
織に浸透し、実務の要所を仕切るようになっていたとあって、上が刷新されて
ももはや混乱は起きない。捕縛されるべき者は捕縛され、または仙籍を剥奪さ
れて放逐され、代わりに今度こそ尚隆の認めた人材が冢宰および三公六官の座
につく。

770永遠の行方「遠い記憶(52/57)」:2017/04/04(火) 22:05:48

 六太があらためて白沢に挨拶に行くと、任地の州に向かうため、太保の官邸
は整理の真っ最中だった。さすがに十年近く過ごしたとなると、なんだかんだ
で荷物も増えたのだろう。
「元気でな。がんばれよ」
 六太はそう言って激励した。ついでに、最後かもしれないので曠世を呼びだ
して、久しぶりにふたりだけで言葉を交わした。もっとも曠世の冷ややかな笑
みは変わらなかったが。
「いろいろあったが、おまえもがんばれよ」
「お気遣い感謝いたします」
「その、俺もいろいろ浅慮だったのは認める。うん」
「そうですか」
「でも当の尚隆が別に気にしてないんだし――」
「それでも主上が失道なさるとしたら、きっと台輔のせいでしょうね」
 最後の最後で突きつけられた鋭利な言葉の刃と毒に、油断していた六太は絶
句した。ややあって震える声で問いかける。
「なん、だって?」
「只人でも、毎日身近な人間に罵倒され続けていればひねくれてしまうもので
しょう? なのにしっかり統治しておられる主上の手腕に、何かというと未だ
に難癖をつけていらっしゃるのですから、さすがの主上もいずれは倦んでしま
われるのではと」
「それ、は」
「もちろん不敬な想像ですし、主上が雁を繁栄に導いてくださることは疑って
おりません。しかしながら王というものは昔から、いずれ玉座に飽くものだと
言われます。なのにもっとも身近にいる麒麟が支えたり慰めるのではなく日ご
ろから罵倒していたら、さすがの主上もやがてはうんざりして『もういい』と
すべて投げ捨ててしまわれかねないとは思いませんか?」
 その論理には穴があったかもしれない。しかしいきなりのことで六太には否
定できなかった。
 六太自身、曠世にきつい言葉を浴びせられるのは嫌だったし、誤魔化しては
いたものの彼と顔を合わせるのは怖くもあった。いい加減、うんざりすること
もあったし、そろそろ態度を改めてくれないかとも思っていたのは事実だ。

771永遠の行方「遠い記憶(53/57)」:2017/04/04(火) 22:08:18
 だがそれを自分と尚隆の関係に当てはめられようとは思わなかった。
 思えば六太の意識は、言うなればずっと被害者のものだった。自分が加害者
になるなどありえないと無意識に確信していたから、他者を害している可能性
に至っては微塵も考えたことがない。顔では笑っていても、ほんの毛筋ほどで
も尚隆が傷ついている可能性、当人が自覚していなくても塵が積もるように鬱
憤が降り積もっている可能性などまったく想像していなかった。
「以前台輔は、王は王だ、民とは違うから民を踏みにじりかねないとおっ
しゃっていたことがありますね。私はそれを伺ったとき『世に言われる麒麟の
慈悲というものは、ずいぶん底が浅いのだな』と思ったことを覚えています」
「……」
「なぜなら、はなから信じずに疑ってばかりいたら、普通なら疑われたほうは
心が歪むものだからです。それは王であれ変わらないでしょう。臣が最初から
疑って信じなければ、主君の感情をみすみす負の方向へ向けかねません。
 台輔がどう思われようと、主上も人間ですよ。実際、どの国のどの王も、最
後には失道して過ちを犯してきたではありませんか。それは人間だから、どう
しても心の弱さを完全に克服するには至らないのでしょう。世に終わらない王
朝はないと言われるのはそういうことです。
 ならば主上もいつかは玉座の重責に耐えられなくなります。そんなとき半身
とされ、もっとも身近な麒麟にさえ罵倒され続ければ、立ち直れずに転落する
しかないではありませんか」
 六太が黙っていると、曠世は話が終わったと判断したのだろう、「それでは
お元気で」と一礼して立ち去った。六太はぼんやりとしたまま、その後ろ姿を
見送った。

 既に元州と光州は治まっている。改革で宮中にも秩序が戻り、さらに白沢の
治める州が完全に王に帰順すると、国内の状況は急速に安定した。むろんまだ
盤石とは言い切れないため油断はならないが、このまま地道に治め続けていけ
ば、雁の全土はおのずと復興を遂げるだろう。
 この頃には既に、以前曠世が口にしたような現王の意図、つまり治水を含め
た勅令の目的についても解釈が広まってきていて、十年、二十年経って結果が
誰の目にも明らかになると、もと元州の州官もあらためて王の慧眼ぶりに感服
して褒めたたえた。

772永遠の行方「遠い記憶(54/57)」:2017/04/05(水) 21:21:02
 白沢は新年の慶賀には必ずみずから宮城に足を運び、尚隆や六太はもちろん、
朱衡や帷湍らとも親しく歓談した。その際、いつも曠世を伴っていたが、それ
も十年が過ぎるまでだった。
「もともと元州に帰るのが本人の希望でしたのでな。いろいろと経験も積んだ
ようなので、先ごろ元州侯にお願いしてあちらの州官に戻していただきました」
 その年、白沢の随行に曠世の姿が見えなかったため六太が尋ねると、白沢は
そう答えた。六太は「そうか」と言ったものの、ほっとしたような、逆に寂し
いような、複雑な思いだった。
 以来、それとなく探ったところ、曠世は元州でよくやっていたらしい。それ
から何十年かを真面目に勤め上げ、後進を育ててからあっさり仙籍を辞して市
井に下ったという。
 その頃には内朝六官のひとりとして宮城に戻っていた白沢から、曠世が結婚
したらしいとの噂も聞いていたのだが、官でなくなった者の消息はすぐにわか
らなくなるものだ。さらに数十年を経るころには、おそらく既に没したのだろ
うなと思い、六太は不思議な寂寥感を覚えた。
 きつい言葉を浴びせられたのはもちろんだが、確かに六太の周囲には彼のよ
うに嫌悪とともに惨い事実を容赦なく突きつける者はいなかった。嫌だったし、
今度は何が口から飛び出すのだろうと思うと怖くもあったが、あれはあれで得
がたい経験だったのかもしれないと、今なら思える気がした。
「どうした」
 もう尚隆は後宮で密かに政務を執ることもない。内殿の王の執務室で六太が
何となくぼんやりしていると、書類の吟味が一段落したようでそう声をかけて
きた。
「なあ、曠世って覚えているか?」
 尚隆は少し考えこんだものの、すぐに「昔、白沢の側仕えだった者か?」と
正解を口にした。
「うん、そう。実はあいつがいた頃、けっこうきついこと言われ続けててさー」
ふいと視線を逸らして窓の外を見やる。「でも今となってみると、妙に懐かし
いっていうか。不思議なんだけどさ」
「ふむ」
「仙籍を辞して長いから、もう亡くなってるんだろうけど、何だかふと思い出
して。どうしてかな」

773永遠の行方「遠い記憶(55/57)」:2017/04/05(水) 21:32:40
 席を立つ気配がして視線を戻すと、尚隆が歩み寄ってくるところだった。首
を傾げてその様子を見ていると、たまにやるように尚隆が六太の頭に手を置い
た。
「誰であれ、置いていかれるのは寂しいな」
 変わらないその手のぬくもりに、不意に六太は泣きたくなった。曠世なんか
好きではなかった。自分すらも誤魔化していただけで、本当は話をしたくもな
かった。
 でも。
「そう、だな」
 誰であろうと置いていかれるのは寂しい。いっときとはいえ近しくしていた
者であれば特にそうだ。
 無造作に頭をなでてくる尚隆を見上げ、六太はごく自然に思った。尚隆が好
きだと。
 それは春になって草木が萌えるような、雪が融けて水になるような、ごく当
たり前の感情の開花だった。
(――そうか)
 ぼんやりと尚隆を見上げながら、六太はようやく自覚した。自分は尚隆が好
きだから、あれほど減らず口を叩いてまで気を引こうとしたのか、と。
 それは主君への敬愛ではない。友愛でもない。その手を余人と分け合わずに
自分だけのものにしたいと願う独占欲は恋情に他ならず、だからこそ報われる
ことはないだろうとも同時に確信した。
 にっと笑ってみせると、尚隆も笑顔を向け、またひとしきり頭をなでてくれ
てから椅子に戻った。
 その様子を眺めながら、六太はみずからの滑稽さに笑い出したくなった。
 なんて哀れなんだろう。尚隆が六太を麒麟として以上に見ることはないし、
そもそも男としての欲求は普通に市井で女を買って済ませている。雁でもこれ
まで美男美童を後宮に集めた男王はいるらしいが、少なくとも尚隆にそんな性
癖がないことは、長く接した六太自身がよく知っていた。
(気づかなければ良かったなあ)
 頭の後ろで手を組み、くつろいだふうにまた窓の外を眺めやる。尚隆の治世
が長く続くことを望んではいたが、それが自分の片思いの歴史になることを考
えれば、溜息しか出なかった。

774永遠の行方「遠い記憶(56/57)」:2017/04/05(水) 21:44:36
(長いなあ。長く続くんだろうなあ。まあ仕方ないか)
 心中で苦く笑う。感じるのは最初から諦念しかなかった。それでもこのとき
はまださほど実感がなかったせいか、どちらかと言えば穏やかな気持ちだった。
 期待はしない。夢も見ない。それでも想うだけなら許してほしいと、凪いだ
心で慈悲を乞う。
 しかし季節は過ぎる。その長さに応じて想いも降り積もる。ときに尚隆と馬
鹿騒ぎをし、ともに出奔して楽しく諸国を巡りながら、六太の恋情はより深く
真剣になっていった。それゆえに、この想いは絶対に知られてはならないと心
に銘じてもいた。
 王と麒麟は一蓮托生、いわば夫婦よりも固い絆で生涯を共にする。だがそれ
は国主と臣下の関係であって、決してそれ以上のものではない。尚隆が六太に
向けるのは、あくまで身内に対する親愛の情に過ぎなかった。
 そんな相手に自分の想いの深さを知られたときの惨めさを思うと死ぬよりも
つらい。離れるわけにはいかない相手となればなおさらだ。
 呆れられるかとも思うが、意外に優しい尚隆のことだから、知ればむしろ困
惑や哀れみの目を向けてくるのではないだろうか。ときにはあまりにも思いつ
め、宴席で酔ったはずみに笑い話として臣下に話されるかも知れないと、尚隆
の性状からしてありえない状況まで想像して恐怖することさえあった。尚隆で
はなく他の者にばれたとしても、もし哀れみや嘲りの目で見られるなら毎日が
針のむしろになるのは変わらない。

 だからなのか、それから長い時を経て晏暁紅に、六太が身代わりになれば王
は助かると告げられたとき、おかしなことに実質的な死を迎えることについて
の動揺はなかった。むしろこれが自分の生に用意されていた結末だったのかと、
すとんと胸に落ちるものがあった。振り返ってみれば、こんな不自然な想いを
いだいたままいつまでもいられるはずがないと、どこかで覚悟していた気がし
た。
 かつて使令は尚隆に、六太が狙われたなら誰を人質にされても六太を宮城に
連れ帰れと命じられた。だが今その王が危険にさらされ、翻って六太は眠り続
けるだけで生命に障りはないという。六太の影の中、どちらの命令に従うべき
か混乱した使令を、六太は双方の生命を守る唯一の方法だとしてなだめる。

775永遠の行方「遠い記憶(57/E)」:2017/04/05(水) 21:48:45
 きっとこれは天帝の慈悲なのだ。決して報われることのない想いを秘めつつ、
これ以上主のそばで苦しい一生を過ごさなくても良いのだ。誰よりも恋しい相
手が、六太のことなどまったく意に介さず、今日はこちらの女、明日はあちら
の女と渡り歩く姿をもう見なくて良いのだ。
 そう考えると、六太はやけに静かで落ち着いた気持ちになった。そして身勝
手な思いながら長いこと苦しんでいた暁紅に対して、心の底から哀れに思った。
州侯の美貌の寵姫にまでのぼりつめておきながら、ここまで落ちぶれてしまっ
たとは。
 それに尚隆が道を失ったとき、きっと六太には何もできない。かつて曠世が
六太の心に打ち込んだ楔は今でも鮮やかに生きていて、自分はむしろ追い打ち
をかけることしかできないだろうと思った。
 これまで国政で役に立たなかったように、結局は手をこまねいて、王と民の
双方の苦しみを見ていることしかできないに違いない。そもそも国政に有能な
麒麟がいた試しはないと聞く。それくらいなら、生きているだけの木偶になっ
ても同じこと。むしろいざというときに官が六太の命を絶つことで王の暴虐を
止めやすくなるかも知れない。
 ならば眠り続けるのも悪くはないと思った。どうせ麒麟のものは何もない。
生命すら自分の自由にならない。この想いさえ、もしかしたら王を慕うとされ
ている麒麟の本能なのかもしれない。ならばいっそ。
 ――ただの木偶になってしまえばいい。
 麒麟の生命さえ続いていれば、王の健康には何の差しさわりもないはず。む
しろ慈悲の繰り言を聞かされずに済むぶん、尚隆にとっては好ましいことかも
しれない。
 ――それでも。
 少しは悲しんでくれるだろうか。少しは哀れに思ってくれるだろうか。何年
かに一度でも、何かの折りに思いを馳せてくれるだろうか。長い時が経ち、王
から人に還る最期のとき、一瞬でも懐かしく思い出してくれるだろうか……。
 六太は安らかだった。そうして暁紅が呪を唱える中、不思議なほど澄んだ気
持ちで、尚隆への愛情を宝石のように胸にいだきながら目を閉じたのだった。

- 「遠い記憶」章・終わり -

776書き手:2017/04/05(水) 21:54:08
結局ぎりぎりまで往生際悪く推敲していたため少しかかりましたが、
やっと「遠い記憶」章が終わりました。

当初の構想ではほぼ地の文だけでさらりと書いて六太の覚醒につなげる予定だったところを、
説明だけに終始しても説得力がなさそうだと、結局普通に描写することにしたらこの体たらく。
これでもかなりのネタを入れ切れずにボツにしたんですが。
おまけに最後の六太の心情描写を書いたのは、昔書き逃げスレに投下したより前とあって、
今回書いた部分とうまくつながってないかもしれません。

元州に頑なに治水工事を許さなかった尚隆の意図については、原作を読み込むかぎり
ああいう感じだったのではと本作としては断言しちゃったのですが、実際にはどうでしょうねー。
民も自分たちで河岸を荒らしたとか、いつもながら勝手に設定を作っているし。
荒れた巧にいた頃の陽子の「ここは神だのみをしない国だ」あたりの描写から推して
空位であちこちが危険になれば、民は生き残るために手段を選ばなかったろうと想像しました。
現実の歴史や言い伝えなんかでもほうぼうで類似の話はある上、
雁は折山の荒廃と言われるほどすさまじく追い詰められたわけなので。

ともあれ次章「絆」はようやく、書きたかった尚六的本論です。

777名無しさん:2017/04/05(水) 22:12:40
お疲れ様でしたー
尚六的本論、楽しみにお待ちしています!

778永遠の行方「絆(前書き)」:2017/04/10(月) 21:13:50
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 無事に呪の眠りから目覚めた六太。
 しかし呪に囚われている間、夢すら見ず、唐突に意識が戻った六太と、
 長らく苦しんだ尚隆とでは、その心情に温度差があった。
 主従は誤解し合い、すれ違いながら、それでも絆を深めていく。
―――――――――――――――――――――――――――――――――


やっとこの章までたどりつきました……長かった。

この「絆」章は尚六的本論、つまり承転結に当たり、
主に六太、または尚隆の視点で進みます。
たまに他のキャラの視点も入るかもしれませんが、
焦点がぼけるのでさらりと済ませ、舞台もあくまで宮城が中心。

基本的にはちょっとした誤解とすれ違いの話で、六太がやたら乙女です。
本格的に投下するまで、またけっこう間があくと思うので、
あとでとりあえず最初の2レスだけ落としていきます。

779永遠の行方「絆(1)」:2017/04/10(月) 22:23:36

 それは不思議な感覚だった。日も射さぬ深い深い水底から、唐突にぷかりと
浮かび上がったような。
 六太はなぜか、熱い、と思った。
 体が熱い。顔も熱い。そう――口元が熱い。何か熱いものが押しつけられて
いて、さらには口腔内に割って入ってくる。味わったこともないおかしな感覚
なのに、それがまったく不快ではない。
 何だろうと夢うつつに思いつつ、やがてその熱が離れたときは訳もわからず
寂しく思った。
 それと意識せずに、ぼんやりと目を開ける。思いがけず、呆然とした表情の
尚隆の顔が間近にあった。
 何が起こったのかわからず、そのままぼうっと眺めていると、男の目から一
筋の涙がこぼれ落ちた。この男が泣いた顔など、これまで一度たりとも見たこ
とはない。六太はあっけにとられて、まじまじと見つめた。声をかけようとし
たが、口がうまく動かなかった。
「……どうして……泣いている……」
 やっとのことでかすれた声を絞り出すと、尚隆はほんのりと微笑して「どう
してだろうな……」と静かに答えた。
 優しく頬をなでられて嬉しく思いながら、引き続き尚隆の顔を見るともなく
見ていると、徐々に記憶が蘇ってきた。
(そうだ、俺は暁紅に呪をかけられて――)
 そこまで思い出してはっとする。六太は王が目覚めることと引き換えに、覚
めない眠りに落とされたはず。尚隆が無事だったのはわかったが、こうして自
分まで目覚めたのはおかしい。
 そう思ってみれば尚隆の顔は、今まで見たことがないほどやつれていた。
 やつれ、というのとは違うかもしれない。何しろ仙は病にもならず怪我もし
にくい。死線を潜り抜けるようなことをしたのでないかぎり、そうそう面立ち
は変わらないものだ。ただ雰囲気が――妙に疲労の色が濃いというか。
 他に何か事件があったのだろうか、とめまぐるしく考える。この房室は静か
なようだけれど。
 六太はここが仁重殿の自分の牀榻でないようだということにやっと気づいた。
だが大きく開け放たれていた折り戸の向こうの様子に見覚えはある。牀榻の内
外にやたらと花が飾られているのが不思議だが、この装飾はおそらく正寝。そ
れも正殿たる長楽殿の王の臥室のひとつ、のような……。

780永遠の行方「絆(2)」:2017/04/10(月) 22:37:49
 六太は、まさか自分が眠り続けていたことで思わぬ悪影響があったのだろう
か、と焦った。
 靖州の令尹は優秀な男だから、靖州侯の不在が確定すれば、王の権限で承認
の押印まで全面的に任せるのに支障はなかったはず。それとも宰輔としての政
務のほうだろうか。あるいは祭礼とか他国の賓客を迎えるなどで、宰輔がいな
いと格好がつかなかったのかもしれない。それとも五百年の治世を誇る王とは
言っても、宰輔が実質的に不在であることに苦言を呈する輩でもいたのか。確
かに王の傍らに麒麟がいないとあれば、傍目には不安定この上ない。それとも、
それとも――。
「あの――さ。おまえ、随分やつれてるみたいだけど、何かまずいことでも
あったかな。いちおう呪者にはおまえに害がないって確認したんだけど……」
 かすれた声を出すたびに痛む喉を無視して、懸命に言葉を紡ぐ。
 自分がここにいるのは、頼んだとおりに鳴賢が国府に連れていってくれたか
らだろう。当然、経緯も詳しく説明したはずだ。だがそれ以上のことはさっぱ
りだった。牀榻はもちろん外の臥室の様子もほの暗いことから、せいぜい夜だ
ろうことが推測できる程度だ。
 尚隆の目が大きく見開かれるのを見て、当たりかな、と沈んだ気持ちになる。
昔の斡由の乱のときのように、自分が良かれと思ってしたことが、結果的に事
態を悪化させたのだろうか。
「ごめん……。俺、莫迦だからさ。やっぱり何か騙されたかな。王には何も悪
影響はないって、しつこく確認したつもりなんだけど」
 尚隆の唇がきつく結ばれ、眉に険が寄った。ここに至って臥牀の上に腰かけ
た尚隆に、衾にくるまれて抱き寄せられていたことに気づく。そうやってすっ
ぽりと腕の中に納まっていたものだから、六太にも相手の身体の震えがまざま
ざと伝わってきた。六太の目の前で固く衾を握りしめた拳には筋が白く浮いて
いた。
 ああ、怒っているんだ、と萎えた心で考える。大抵のことには鷹揚な態度を
崩さず対応してきた尚隆が、こんなに憤りをあらわにするのもめずらしいけれ
ど。
(じゃあ、本当に何か問題があったんだ。もしかして――今度こそ殴られるか
な)
 だが尚隆はふいと目をそらすと、六太をそっと臥牀に横たえてから立ち上
がった。臥室を出て、そこにいた護衛の臣にだろう、「六太の意識が戻った。
黄医を呼べ」と命じている声が聞こえた。
 尚隆はそのまま臥室に戻っては来なかった。

781名無しさん:2017/04/11(火) 12:11:41
一区切りお疲れさま&更新有難うございます
昔通ってましたがもう動いてないと思ってたのでサロンのスレで動いてた事を知り
他スレとあわせ全ログ一気読みさせていただきました
出来上がるまでのもだもだやスレ違いや追い詰められる系が大好物なので
脇まで丁寧に描かれ一歩一歩前進してる本作には引き込まれました
呪のくだりは蠱毒に似た禍々しさにゾクッとさせられ成長しながら真相に近付く鳴賢や
よくぞ言ってくれた!な陽子を応援し尚隆の気持ちが自然と六太に傾いていく様と
その憔悴っぷりをハラハラドキドキ見守りようやくと萌え死に…
でもこの先もまだもだもだしそうで楽しみでなりません
続きもゆっくり気長にお待ちしております

782書き手:2017/04/11(火) 22:46:28
ありがとうございます。
エタだけはないので、また何かの折にでも覗いてください。

前章でろくたんをかなりいじめてしまったので
早く尚隆とラブラブにさせてあげたいものです。

783名無しさん:2017/04/12(水) 22:28:46
絆の2スレだけで既に萌える、出て行った尚隆が切ない・・・
続き楽しみに待ってます!

784名無しさん:2017/04/15(土) 21:11:12
あぁぁほんと最高です!
待ってます!

785書き手(尚隆語録):2017/04/18(火) 21:05:22
長らく放置状態だったのに見てくださってありがとうございます。

実は投下してなかった間も「尚隆の台詞はこんな感じ」と随分ためてたのですが、
前章は六太視点に終始したし、あれ以上オリキャラをクローズアップするのも
「なんか違う」とほとんど使えず全部ボツに。
でもせっかくなのでそれも、全部ではなくごく一部ですが、合間に落としていきます。
ファイルごと削除するのもなんかくやしいので見逃してくださいw

 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

曠世が白沢に命じられて初めてひとりで尚隆の元に使いにやられた際、
むろん最初に白沢が「この者に使いをやらせます」と境遇を含めて紹介&予告した上での話ですが、
気安く声をかけてくる尚隆に、曠世は極限まで緊張しながらも思いきって
「あの! 不心得な元州をお見捨てになろうとは思われなかったのですか?」と問い。

片眉を上げてにやりとした尚隆、
「どうせ救うなら国を丸ごとだ。どちらにしろやることは大して変わらんのだからな」

もともと元州政府に恨みをいだいていたこともあり、
自分の親族を殺した更夜の肩を持つ六太の態度に衝撃を受けたこともあり。
それらとの対比から、曠世はこのたった一言でやられて心酔してしまったのでした。

……この台詞、先のどこかで使えるといいなあ(未練)。

786永遠の行方「絆(3)」:2017/04/18(火) 22:32:58

 六太が状況を理解できないまま待っていると、ほどなくあわただしい気配が
近づいてきた。
 足音、話し声。ずいぶんと大勢に思える。
 臥室の扉が開く音がして、衝立の陰から黄医が仁重殿の女官を数人伴って現
われた。
「おお、台輔、本当に……!」
 黄医は感極まったように叫んだ。女官たちは喜びというよりはむしろ顔を歪
め、泣きそうな表情で臥牀にまろび寄った。
 黄医は震える声で「失礼をば」と言って六太の片手を取った。そうして脈を
見、女官に差し出された手燭を六太の顔近くにかざして注意深く診察する。
「えっと。何があった?」
 とりあえずこれだけは聞かねばなるまいと思って尋ねると、黄医は目を瞬い
てから「おお」とうなずいた。
「台輔は一年半近く、意識がなかったのでございます」
「一年半……」
 たった、と意外に思った。たったの一年半。少なくとも何十年かは眠り続け
るだろうし、場合によっては眠ったまま命を失うことさえ覚悟していたことを
思うと、何だか拍子抜けした。
 言われてみれば確かに、呪にかけられたのは真冬だったはずなのに、気配は
既に初夏のものだった。
「呪が……」
「解けたようでございますな。理由はわかりませんが。主上が何かなさいまし
たかな?」
「さあ?」
 六太には何の自覚もないとあって首を傾げるしかない。ただ口元の不思議な
熱を思い出したとき、話に聞く接吻のようだったとふと思い、滑稽な連想にす
ぐ我に返って切なくなった。
 喉の痛みが本格的につらくなってきたところで、声調子からそれと察した黄
医が制止し、いろいろ疑問に思っているだろうことを簡潔に教えてくれた。
 今回の謀に関わった者は全員が死んだと思われること。したがって今度こそ
二百年前の光州の謀反は幕をおろしたはずで、後顧の憂いは何もないこと。
 犯罪者とはいえ、慈悲の麒麟にその死を伝えて喜ぶべきではなかったろうが、
王と麒麟の命が直接脅かされたのだから仕方ない。

787永遠の行方「絆(4)」:2017/04/18(火) 23:31:51
 六太を国府に運んでくれたはずの鳴賢がどうなったかについては、そもそも
彼の存在すら黄医らの意識になかったらしく、六太が必死で「め、けん、は」
と尋ねるなどしてやっと知ることができた。
「さて、やはりだいぶ四肢が衰えておられますな。神仙とはいえ、こればかり
は少しずつ動かして地道に訓練することで回復させるしか手がございません」
 重い身体にそうだろうなと六太も納得したものの、上体すら起こせないと
あって溜息しか出ない。女官は毎日六太の体勢を変えたり関節をゆっくり動か
したりと丁寧な世話をしてくれたらしいが、やはり自分で動かさないと体調は
戻らないのだろう。
「喉が乾いてはいらっしゃいませんか? 何かお飲みものをご用意いたしま
しょう。お食事についてはすぐには無理でしょうから、まずはごく薄い重湯の
ようなものから始めることになります」
 確かに長らく絶食していたのだから無理はない。
 用意された温かな小杯を口元にあてがわれる。ほんの一口か二口で充分と
思ったのに、さらりとしていながら芳醇で甘い風味に、気づけば六太は小さめ
の杯をあっさり干していた。
 しかし意識のない間も、なんと飲みものだけは少し摂っていたという。それ
も尚隆の口移しで。
 六太は目を白黒させ、ついでようやく状況を理解して真っ赤になった。体が
動いたなら、羞恥のあまり頭から衾をかぶったところだ。
「湿らした綿を台輔のお口にあてがって水分を流し込む案もございましたが、
窒息の可能性を考えるとどうしてもふんぎりがつきませんでした。かと申して
私どもが口移しさせていただくなど畏れ多いことでございます。そう申しまし
たら、主上が笑ってお引き受けなさって」
 六太の羞恥をよそに黄医は朗らかに笑い、女官たちも互いに見交わしてほほ
えんだ。
(――ああ。そうだったのか)
 不意に六太は悟った。
 目覚める直前の、あの熱い感覚。口元に何か熱いものが押しつけられていて
――。
 あれは単に何か飲み物を口移しされていたのだろう。まるで接吻のようだと
思ったけれど、半分は当たっていたわけだ。
 そこまで考えてから、六太は勝ち誇ったような暁紅の宣告を思い出した。
 ――最も望まないことではなく、おまえの最も望むことがかなったとき眠り
から覚めるようにしてあげよう。おまえの最大の願望の成就が、昏睡の呪縛を
解くようにしてあげよう……。




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