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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

194永遠の行方「呪(105)」:2009/07/04(土) 14:15:15
「そうだな。俺たちでは収拾のつかない事件でも起きて民の生活に悪影響があ
れば、次の王をという声も自然と出てくるだろうし」
 さらりと言ってのけた六太に、朱衡は言葉を失った。それは目覚めぬままの
王の命を奪うことを意味しているからだ。
 今の段階で既に六太がそこまで覚悟しているのかと思うと、さすがの朱衡も
内心の動揺を抑えきれなかった。尚隆が暴君となり六太が失道したのならば、
弑逆もやむを得ないと覚悟を決めたかもしれない。しかし誰が手を下すにしろ、
こんな状況で王を弑するなど、到底耐えられるものではなかった。
 そんな彼の動揺をよそに、六太は淡々と続けた。
「そもそもたとえ謀反人を一網打尽にしても、尚隆にかけられた呪を解く方法
を簡単に吐くはずがない。謀反は計画した段階で死罪と決まっているからな。
今回の事件が敵の賭けだろうが野望だろうが、それが潰えたと悟った彼らは、
捕らえられた瞬間に貝のように口を閉ざすんじゃないのか。むしろ拷問を恐れ
て、捕まる前にみずから命を絶つことも十分予想される。そして彼らが死ねば、
呪を解く方法がわからないまま、尚隆はこのまま昏睡から醒めないかも知れな
い。そんな状態が長く続き、執政に滞りが出てくれば、民の間からは自然と不
満が出てくるだろう」
 あまりにも冷静な言葉に朱衡は愕然とした。そういった想像をすることも確
かに必要ではあったが、ようやく敵の姿が見えてきたかどうか、という今の段
階で口にする言葉では決してない。六太が一介の官吏なら、彼自身が混乱に乗
じて陰謀をたくらみ、王に危害を加えようとしているのではないかと疑われて
も仕方のないところだ
 朱衡は何とか取り繕って落ち着いたさまを取り戻し、口を開いた。六太も大
司徒と同じだ。あえて口に出すことで、逆に不安を解消しようとしている。そ
の相手が気心の知れた自分であるということは、内心を吐露すると同時に暗い
予測を否定してもらいたいと思っているはずだ。
「台輔がそんなことをおっしゃっては困りますね」
「困るか」
 六太は、自分こそが困るとでも言うかのようにほのかに笑った。その表情は
昔の、王は民を苦しめるだけだと暴言を吐いたり、長(なが)の出奔で朱衡ら
を手こずらせた頃の面影はなく、宰輔の顔だった。

195永遠の行方「呪(106)」:2009/07/04(土) 14:18:25
 そういえば六太が尚隆の命を受け、あちこちの国の情勢を探るようになった
のはいつごろからだったろう。先の慶での例を出すまでもなく、妖魔が闊歩す
る荒れた土地にも尚隆はひそかに六太を派遣した。使令を使い、使令に守られ、
人としては弱者である少年の姿を持つこの麒麟は、いろいろな場所に紛れこむ
のに都合が良かったからだ。
 普通の王なら危険な地に麒麟を派遣するなど考えもしないだろう。しかし使
令がいる以上、実質的に危険はないと言って尚隆は無頓着に六太を使い、六太
もその命に従った。それは単に勅命だったからだろうか。それとも主に信頼を
寄せ、心から彼の役に立ちたいと思うようになったからだろうか。あるいは宰
輔として、国外の情勢にも気を配るべきだと考えたからだろうか……。
「困ります、本当に。他の者には何もおっしゃっておられないようですからい
いですが、台輔こそは誰よりも主上がお目覚めになることを信じてさしあげな
ければならないお立場でしょうに」
 それを聞いた六太は、ふたたび困ったように笑った。その笑みがあまりにも
淋しげに見えて、朱衡はどきりとした。
 ――本当は王のことが心配でたまらないのだろうに。
 でなければ蓬山行など口にするはずもない。六太は明らかに他の臣下より焦
燥に駆られているのだ。もし王が目覚めなかったらと暗い仮定をするのも、そ
の焦りの現われ。こんな聞き分けの良い――良すぎる冷静な言葉ではなく、も
っと感情に走ってくれたなら、同じ内容の言葉を投げられても朱衡も落ち着い
ていられたろうに。
 だが六太は不意に考えこむとこう尋ねた。
「俺たちって困ってるよな?」
「は?」
 唐突な下問に意味が解らないながらも、自分をじっと見つめる六太に朱衡は
軽くうなずいた。
「本当に困っているよな?」
「いいえ、とお答えできる状況なら幸いなのですが。残念ながら非常に困って
いると言わざるを得ません」

196永遠の行方「呪(107)」:2009/07/04(土) 14:21:39
 正直に答えると六太は、うん、とうなずき、壁際の供案の上にある物を取っ
てくれと朱衡に頼んだ。それは封をした書簡らしきもので、言われるままに朱
衡は手に取り、確認するかのように六太を振り返って軽くかざした。
「そうそれ。ちょっと開けてくれないか。中に何か書いてあると思うんだけど」
「これは何ですか?」
「たぶん占文(せんもん)のたぐい。前に知り合いにもらったんだけどさ、本
当に困ったときじゃないと開けちゃいけないって言われて。もちろん信じてる
わけじゃないけど」
「占文……。斗母(とぼ)占文ですか? 運勢占いの? 開けると斗母玄君か
らの助言が記されているという?」
「うーん。たぶん」
 朱衡は意外に思いながらも薄い書簡の封を切った。その手のものは基本的に
庶民の娯楽なのだ。どうとでも解釈できる適当な文言が最初から記されている
のが普通なのだから。
「あれは子供の遊びのようなものですが」
「ま、そうなんだけどさ」
 中にたたまれていた料紙を取り出す。開いてみたが、そこには何も書かれて
いなかった。
「白紙です」
 六太に紙面を見せてから、開いた状態のまま傍らの大卓に置く。「信じてる
わけじゃない」と言ったわりに、六太は明らかに落胆していたが、すぐに自嘲
めいた笑みを浮かべて視線を伏せた。
「本当に困ったときに開けると、苦境を脱するのに助けになる言葉が浮き出る
はずなんだけど」
「はあ……」
 朱衡はあいまいに言葉を濁したが、普段はこんなものを当てにするほうでは
ないのにと思うと、さすがに胸が痛んだ。だが六太はすぐ顔を上げ、気を取り
直したように明るく言った。
「しかし意外だな。朱衡もこういうの知ってるんだ?」

197永遠の行方「呪(108)」:2009/07/04(土) 14:25:03
「知っていると申しますか……単に小学ではいろいろな伝説や物語をもとに字
を教えられましたので。信じる信じないではなく、そういった伝説や占いも数
少ない娯楽でした。もっとも当時は雁も厳しい時代でしたから、他には何もな
かったと言うべきですが。一番人気は降神術である紫姑卜(しこぼく)でした
が、斗母占文もそれなりに遊ばれていましたよ。何しろ人間の運命と寿命を司
る斗母玄君が与えてくれる助言です。それにませた女の子などは素知らぬふり
で、恋をしかける言葉を自分で書いて占文と偽って相手に渡したり。相手も心
得たもので、取っておくような野暮な真似はせず、人目のないところですぐに
開いてみたものです」
 朱衡は遠い昔を懐かしむように目を細めた。
 この世界では精神論に重きを置くたぐいの信仰は盛んではない。一般的なの
は「拝めばこういう得がある」という、具体的な現世利益をもたらしてくれる
神々への信仰だ。たとえば子供をくれる天帝や西王母がそれに当たる。良くも
悪くも自分の欲求に正直なのだ。
 碧霞玄君の人気もそこそこ高いが、それは彼女が、立身出世だの病気平癒だ
の恋愛成就だのといった、ありとあらゆる願いをかなえるとされる、いわば都
合の良い女神だからだ。紫姑や斗母玄君もそのたぐいとはいえ、碧霞玄君ほど
いろいろな願いを聞いてくれるわけではない。したがってそのぶん庶民の人気
は低いというわかりやすい構図だ。なのにそれなりに馴染みがあるのは、娯楽
の一種と思えば紫姑卜や斗母占文もおもしろい遊びだからだろう。
「そういえば朱衡の子供時代の話はあまり聞いたことがなかったな。おまえで
も幼い頃は――」
「――台輔!」
 顔色を変えて突然叫んだ朱衡に、六太は怪訝な顔で言葉を切った。朱衡は今
し方、大卓の上に置いたばかりの料紙を震える手で取り、表を六太に向けて見
せた。
「字が……」
 いつのまにか表面にくっきりと浮かびあがっていた文字。
「寄こせ!」
 六太は朱衡から引ったくるようにして料紙を手に取り、少なくとも墨で書い
たとは思えない不思議な茶色い文字をまじまじと見つめた。

198永遠の行方「呪(109)」:2009/07/04(土) 14:28:22
 そこにあったのは、ただ二文字。
 ――『暁紅』。
「さっきは確かに白紙でした」そう言いながら、朱衡は六太の手元を覗きこん
だ。「昔からいろいろな占文の話は聞いていますが、実際にこんな不思議を目
の当たりにするのは初めてです」
「俺もだ」
 六太は唸るように言い、紙をひっくり返したり斜めから見たり、難しい顔で
検分している。
「例の女が尚隆に渡した紙、あれにも『暁紅』とだけあったよな」
「でもあちらは普通に筆で書かれていました。拙官も実物を見ましたが、内容
は同じでも、筆跡も見た目もまるで違います」
「うん。不思議だな」
 ふと朱衡は思いつきで尋ねてみた。
「もしやこれをくれたのは蓬山の女仙ですか? だから台輔は蓬山に行きたい
とおっしゃったのですか?」
 すると六太は苦笑した。
「全然違う。そういうんじゃなくて――」
 だが彼は思い直したように真顔になり、「そうだな、聞いてみる価値はある
かもな。只人ではなく、意外と力のある女仙なのかも」とひとりごちた。
「ちょっと出かけてくる」
「えっ」
 唐突に言われ、朱衡はつい驚きの声を上げた。そんな彼に六太はまた笑い、
先回りしてこう言った。
「心配するな。関弓からは出ない」


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次の投下までしばらく間が開きます。

>>178
ありがとうございます。これだけ書いてももう少しこの章は続くので
気長にお付き合いください。

199永遠の行方「呪(110)」:2009/08/01(土) 00:06:23

 その日、夕餉を取るために寮の自室の扉を開けた鳴賢の前に、思いがけず六
太の姿があった。
「よう。久しぶり」
 片手を軽く上げ、気軽に挨拶をしてくる。最後に会ったのは例の「王は人柱」
の話のときだが、それも既に何ヶ月も前だ。気まずいようなそぶりもなく、以
前と変わらない様子に鳴賢は何となく安心した。
「本当に久しぶりだ。元気だったか?」
「まあまあってとこかな。――で、敬之か玄度、知らねえ? 房間と飯堂を覗
いてきたけどいなかった。そういや楽俊も見かけないな」
「敬之は帰省中だ。玄度はさっき藩老師と話をしているのを見かけたから、そ
のうち戻ってくると思うぜ」
 扉を閉め、外出のために財嚢を持ったか確認しながら答える。最近は飯堂で
はなく、気分転換のために外に夕餉を食べに行くことも頻繁な鳴賢だった。勉
強のためとはいえ、ずっと寮にこもっていると気が滅入るからだ。
「文張はたぶん図書府に本を返しにいったんじゃないかな。今の司書は奴にも
便宜を図ってくれる人だから、今のうちに借りておきたい本もあるらしいし」
「そっか……。どうすっかな」
 何やら考えこんだ六太に、鳴賢は「敬之と玄度に用か?」と尋ねた。
「用は用なんだけど……。あ、鳴賢も知ってんのかな? 倩霞の新しい住まい。
前に引っ越したとか言ってたじゃん?」
「ああ、それなら知ってる。一度だけ敬之につきあって、阿紫のところに行っ
たから」
「へえ。ちなみに奴の戦果は?」
 鳴賢は肩をすくめ、聞くな、と身振りで示した。六太は笑った。
「あいつも仕方ねえなぁ。でも、ま、いいや。鳴賢、すまないけど、倩霞の家
の場所を教えてくれないか?」
「阿紫に何か用か?」
「阿紫じゃなくて倩霞のほう。ちょっと聞きたいことがあって」

200永遠の行方「呪(111)」:2009/08/01(土) 00:08:32
「ふうん?」
「あ、別に倩霞にちょっかい出そうってんじゃないぜ?」
 おどけて言った六太に、鳴賢はふたたび肩をすくめて見せた。
「いちいち言わなくてもわかってるよ。玄度じゃあるまいし、俺はそれほど嫉
妬深くは見えないだろうが」
「どうだかなー」
「わかったわかった。どうせ外で夕餉を食おうと思っていたところだし、散歩
がてら案内してやる」
「そうか、悪いな」
 まったく悪いとは思っていない顔で、六太はにこにことして答える。
「――と。でももしかして玄度を待って、誘って一緒に行ったほうがいいかな?
あとでばれたら、あいつのことだから機嫌を損ねるかも」
「ほっとけよ」鳴賢は淡泊に答えた。「あいつ、最近はほとんど俺と口を利か
ないんだぜ。一緒に行ったって、今さらどうなるものでもないだろう」
「なんだ、まだごたごたしてたのか。いいかげん仲良くしろよ。友達なんだろ」
「あいつの頭が冷えるまでは無理だな。成績も落ちる一方だし、こうなったら
もう本人の自覚にまかせるしかない」
 閑散とした寮の廊下を先に立って歩きながら鳴賢はそう言い捨て、あまりそ
の話をしたくなかったので強引に話題を変えた。
「それより俺、海客の団欒所に行ってみたんだ。雁で官吏になるなら、海客の
ことくらい知っていたほうがいいって文張に勧められてさ。六太もあそこには
ちょくちょく行ってるんだろ?」
「え? うん、まあな」
 がらりと話題を変えられて、六太は少しだけ戸惑った様子を見せた。実のと
ころ鳴賢が団欒所に赴いたのは、新年の開放日を含めて二度だけだし、海客と
さほど親しくなったわけでもなければ、いまだに興味も薄い。単に、毛色の違
う話としてとっさに口をついて出ただけだ。だが六太のほうは頻繁に訪ねてい
るらしいだけに、戸惑った顔をしたのは一瞬のこと、思ったとおりすぐ話に乗
ってきた。

201永遠の行方「呪(112)」:2009/08/01(土) 20:48:23
「どうだった? けっこういい連中だろう?」
「うーん」鳴賢は頭をかいた。「実を言うと最初はうさんくさいやつらだと思
ったんだ。でも話してみたら、そう悪い連中でもないようだ。何て言うか――
良くも悪くも普通というか」
「そりゃそうだ。同じ人間なんだから」六太は苦笑した。「それに鳴賢は雁を
出たことがないだろ?」
「ん? それが海客と関係あるのか?」
「まったく意識してないと思うけど、雁はこれでかなり他国と違うんだよ。家
や橋みたいな大小の建造物の様式はもちろん、食べものも相当蓬莱に影響を受
けてる。王や宰輔が胎果だからというだけでなく、海客や山客を保護している
せいで、特に海客が他国からけっこう流れてくるからな。そいつらが伝える文
化や食習慣が、長いことかかって国内の隅々まで影響を与えた。たとえば酒も
麺も、茶でさえ、雁は他国と違うんだぜ。というか種類が豊富なんだ」
「……そうなのか?」
 こればかりは鳴賢も驚いて尋ねた。六太はうなずいた。
「たとえば蓬莱味噌ってあるだろ? 単に味噌とも言うな。一般的ではないし、
人によって好き嫌いもあるだろうけど、かと言って別にめずらしいわけでもな
いよな?」
「もちろん」
「あれは他の醤(ひしお)と毛色が違うからそう名付けたっていうんじゃなく、
本当に蓬莱風の穀醤(こくしょう)を再現したものなんだ。だから他国からや
ってきた海客はそれだけで感激する。基本的に他の国にはないものだから」
「へえー……」
「今思いつくだけでも、うどんに醤油に……蓬莱由来のものはたくさんある。
雁じゃ普通に食べられているから誰も意識はしてないだろうけど。つまり鳴賢
だって自覚してないだけで、実際には蓬莱の影響を相当受けてるんだよ。だか
らその意味では海客たちと、最初から大いに縁があるんだ」
 鳴賢にとっては初めて聞く話で、驚き以外の何物でもなかった。なんだかん
だ言っても海客は、自分たちのような普通の民とは本質的に接点などない存在
だと思っていたからだ。たまたま知り合った相手とだけ、ごく個人的なつなが
りができるだけの異世界人でしかないと。

202永遠の行方「呪(113)」:2009/08/01(土) 20:50:54
「それは、知らなかった」彼は素直にそう答えた。「六太は海客に聞いたのか?
それとも自分でも他国で、雁との違いを実感したってことか?」
 何となく六太が捨て子だったことを思い出しながら問う。捨てられていた国
――生まれた国――がどこだか知らないが、生きるだけで精一杯だったろうそ
の頃は、そんなことを考える余裕も知識もなかったはずだ。ということは雁に
来てから、それも団欒所に行くようになってから海客に教えられただけに違い
ない……。
 だが六太は意外にも「ああ」と肯定した。
「俺、これでもいろんな国に行ったことがあるんだ。もちろん民の日常を詳し
く知るところまで滞在した国は限られるけどな。それに実を言うと俺、胎果だ
から」
「えっ」
 今度こそ仰天して立ち止まった鳴賢に六太はくすりと笑い、すたすたと歩き
ながら答えた。
「前に言ったろ? 雁の生まれじゃないって」
「そりゃ――そりゃ、聞いたけど、さ――」
 あわてて後を追いながら、それ以上の言葉を紡ぎだせずに絶句する。胎果―
―不幸にして卵果の状態で蓬莱に流され、さらに何の因果かふたたび虚海を越
えて流されてきてしまった存在。
 そんな彼を尻目に、六太は笑顔で淡々と続けた。
「別に不思議はないだろ。何たって雁には海客が多い。俺が蓬莱生まれでも、
それ自体は大したことじゃない。それに海客の総数が増えれば、必然的に胎果
の割合も増えるはずだ」
「そりゃ――まあ――」
「団欒所にだって胎果はひとりいるしな。二年前に流されてきた女の子。それ
に比べれば俺はずっと小さい頃――四つの頃に戻ってきたから、彼女ほどの衝
撃はない。そもそも親に捨てられて山ん中で飢え死にしかけていた時に戻って
きたから、むしろ幸いだったと言うべきなんだろう」

203永遠の行方「呪(114)」:2009/08/02(日) 11:44:20
「じゃあ、もしかして……六太は蓬莱に流されただけで、元から雁の民なのか?」
 「王は人柱」の話の際、六太にいだいた反発を思いだしながら尋ねる。六太
がこれまたあっさり「ああ」と答えたので、鳴賢は押し黙った。
 そう、あのとき確かに六太は自分を「雁の民じゃない」とは言わなかった。
「雁の生まれじゃない」と言ったのだ――蓬莱生まれだから。
「すまない。俺、とんだ誤解をしてたみたいだ」
 あのとき感じた反発の片鱗はまだ残っていた。今でも六太の考えかたに同意
は到底できない。しかし目の前の少年が、生まれる前に異世界に流されて苦労
を重ね、ふたたび戻ってきたという重い事実は、そんなことを想像もしていな
かっただけに、残っていた反発などどこかへ失せてしまうだけの衝撃があった。
「六太は以前、自分のことを『浮民みたいなもの』って言ったろ。だからてっ
きり他国生まれで、雁に流れてきたんだと思ってた」
 一瞬きょとんとして鳴賢を見た六太だが、すぐに笑顔に戻った。
「なんだ、そんなことか。別に大した違いはないし、鳴賢が気にするようなこ
とじゃない」
「でもさ……」
「蓬莱では何しろ貧乏だったから、家族で浮民みたいな暮らしをしていたのは
本当だし、こっちに戻ってきて――その、生まれがわかってさ。そしたらけっ
こう裕福なところで、びっくりするくらい贅沢させてもらったんだ。蓬莱での
俺の両親は、生きるために子供を捨てなきゃならなかったってのに。おかげで
あまりの違いに、餓鬼の時分からいろいろ考えるようになっちまった」
「そうだったのか……」鳴賢は驚愕のままにつぶやいた。「六太はもともとそ
れなりの家の生まれだったんだな。なのに蓬莱に流されたばっかりにそんな目
に」
「だからもう昔の話だって」
「ああ……そうだな。何にしても良かったな、戻ってこられて」
 感慨をこめてつぶやいたものの、六太は本当にもう気にしていないのだろう、
何も答えずにすたすたと歩いている。鳴賢はこれまでたまに、六太の見慣れぬ
仕草に戸惑うことがあったのを思いだした。だがもしあれが蓬莱で培われたも
のだったとしたら納得がいく。

204永遠の行方「呪(115)」:2009/08/06(木) 20:54:53
「行方不明になった息子が思いがけず戻ってきて、両親も喜んだろう。実を言
うと俺、六太はどこかの富裕な官吏の養子にでもなっているんじゃないかと思
ってたんだ」
 これには六太は何も答えず、ちらりと鳴賢を見て微笑しただけだった。
「それにしても蓬莱は伝説の理想郷のはずなのに、実際には子供を捨てるほど
貧しい人々がいるのか。海客と話をして、それなりに蓬莱について知ったと思
っていたけど、こんな話を聞かされるとさすがに幻滅するなあ」
「向こうもこっちも本質は何も変わらないさ。こちら側にいろいろな国がある
ように、いろいろな世界があるってだけなのかも。俺たちが蓬莱と呼んでいる
異世界にも貧しい者も富める者もいて、戦乱があって平和があって、喜びも悲
しみもある。海客たちはそこで、俺たちと同じように懸命に日々を追い、つま
しい生活の中でささやかな幸せをつかもうとしていたんだ。ある日突然、何の
前触れもなく、着の身着のままでこちらに流されてくるまでは」
 団欒所で交わしたさまざまな話を思い起こし、鳴賢はふたたび黙りこんだ。
以前に比べれば、海客たちをそう遠い存在とは思わなくなっていただけに、さ
すがに重いものを感じざるを得ない。そして六太や海客たちに比べれば、いか
に自分が平和で平穏な生活を送ってきたのかがわかるのだった。かつては自分
なりに波乱のある人生を歩んできたと思っていたものだが。
 とはいえ六太は、海客たちへの同情に終始するかと思いきや、厳しい言葉も
口にした。
「いずれにしろこちらに来てしまったものは仕方がない。どうあがいても二度
と帰れないのは確かだからな。さっきも言った団欒所の胎果の女の子、あの子
は俺と違って生まれもわからないから、実質的に他の海客と変わらない。それ
に流されてきて二年しか経っていないせいか、いまだに周囲になじもうとしな
いんだ。現実を受け入れず、自分を哀れんでくれる同情の言葉以外は絶対に聞
こうとしない。でもそのうち嫌でも諦めるようになる。でないと結局は生きて
いけないから」
「……だよなあ。それって緑の髪の子だろ? 見たところ十五かそこらって感
じだったし、まだ親が恋しい頃だろうな。もっとも仏頂面だったから、悪いけ
ど俺はいい感じはしなかった」

205永遠の行方「呪(116)」:2009/08/07(金) 20:10:46
「そうか。でもつらい気持ちはわかるから、俺は何とかここになじんでくれれ
ばと思っていろいろやってる。結局は本人次第だから難しいだろうけど。それ
に他の連中も、表面上は蓬莱に帰ることを諦めたように見えても、実際にはそ
うとはかぎらない。何十年も経って、場合によっては息を引き取る間際になっ
て、諦めていなかったこと、悔いばかりの人生だったことを自覚する海客もい
るんだ」
 だがそれは仕方のないことだろう。あくまで帰還が不可能という厳しい現実
を突きつけられて諦めざるを得なかっただけで、ほとんどの場合は当人が割り
切ったわけではないのだろうから。そのこと自体は鳴賢も同情を覚えたが、と
はいえ雁にいる海客の扱いが、荒民や浮民よりずっと恵まれているのも事実だ
った。
「気持ちはわかる。ただこう言っちゃ何だが、雁では荒民と違って戸籍ももら
えるんだし、少なくとも他国にいるよりは恵まれた暮らしができるはずだろ。
文張が言っていたが、海客ってだけで殺される国もある。それを思えば相当恵
まれているんだがな」
 すると六太は「もちろんだ」と返した。
「でも最初から雁に流れついたり、海客を迫害しているわけじゃない国から来
ると、大して実感はできないだろう。比較の対象がないから。ただ確かに現実
に向き合うための手段として、他人より恵まれていると思うことができれば、
それまでとは違う思いをいだけるかもしれないってのはある。『自分はこの人
よりはましな境遇だ』と考えること自体は不遜かもしれないが、そういう思い
にすがらないと立ち直れないことはあるからな。それで気持ちが落ち着いて、
自立のきっかけになるなら悪いことじゃない」
「誰だって自分が一番不幸だとは思いたくないよな」
 そのことで何か特別な思いをいだけたり、得をするというならまだしも。
 それを言うと六太は、不幸にして荒れた国に流れ着き、海客を迫害する官吏
に追われるだけでなく妖魔にも襲われ、死と隣り合わせだった困難な旅路に関
する手記を匿名で記した人もいると答えた。それを団欒所に置いてあると。淡
々と事実を連ね、さらにその時々の心の動きを取り繕うことなく赤裸々に記し
てあるため、大抵の海客は手記を読んで落ち着くらしい。根本の部分で共感を
覚えるのはもちろん、他のどの海客より過酷な体験であり、その人物に比べれ
ば自分はましだと思えるからだろう。

206永遠の行方「呪(117)」:2009/08/08(土) 10:19:07
 鳴賢は興味を覚え、一度読んでみたいと口にしたが、蓬莱の言葉で書かれて
いると言われて諦めた。それと同時に団欒所で見せられた、自分には意味不明
のさまざまな書きつけを思い出した。
 要するに異世界に流されるなどという前代未聞の体験をした者は、誰であれ
吐き出したいことが少なからずあるということなのだろう。そしてあんなふう
に書き散らすことで心中を吐きだし、精神の安定を保とうとする者もめずらし
くないのだろう。
「しかしちょっと意外だったな」
 鳴賢がそう返すと、六太は怪訝な顔をした。
「意外って何が?」
「この手の話じゃ、六太は大抵、相手を同情するようなことばかり言うだろ。
なのに六太でも、こんなふうに悟ったことを言うんだなと思って。むろん今の
話も同情の範疇ではあるけど」
 すると六太は困ったような笑みを向けた。
「忘れてるかもしれないが、これでも鳴賢より長く生きてきたんだぜ。さすが
にいろいろ学んださ。口先だけで憐れみを施すのは簡単だが、それじゃあ何も
解決しないってこともよくわかった」
「そりゃ当然だ。たとえば当たり障りのない言葉より、厳しい言葉のほうが当
人のためになることだって普通にあるんだし」
「うん。俺もわかってはいるつもりなんだ。とはいえ、とっさのときにはなか
なかな……」
「そういえば何て名前だったかな、海客の団欒所で会った中年の女性。彼女は
末端の仙だそうだけど、それでも蓬莱には帰れないんだろ? てことは普通の
海客はもっと無理だよな。俺は単純に、仙なら向こうに渡れるのかと思ってい
たけど」
「……守真のことか」
「ああ、そんな名前だった」

207永遠の行方「呪(118)」:2009/08/08(土) 22:10:24
「官吏を目指しているんだから鳴賢は知ってるだろうけど、仙には位ってもの
がある。虚海は伯以上の仙でないと渡れない。守真は下士だから、どう転んで
も虚海を渡るのは無理だ」
 淡々としていながらも厳しい声音だった。格付けで言えば下士は最下位の仙
だ。虚海を渡ることについてはともかく、一般論として大した能力がないだろ
うことは納得がいく。
「たとえば王は、正確には仙じゃなく神だ。でもその神でさえ、虚海を渡れば
大災害が起きると言われている。ということはたとえ最上位の仙である公でも、
王よりさらに大きな災害をもたらすだろう。本来交わるはずのないふたつの世
界を強引につなげて渡る上に、王よりも力がないんだから。となれば結局のと
ころ、高位の者だろうと、よほどのことがないかぎり蓬莱へ渡るはずがない」
「なるほど」
 鳴賢は納得してうなずいたが、同時に、やけに六太がこの手の話題に詳しい
ことを不思議に思った。普通に考えれば、大学生である鳴賢のほうが詳しいは
ずなのに。それを問うと、六太は軽く笑った。
「これでもいろいろつてがあるんだ。それに今の話みたいに、一般の民が知ら
ないことでも海客なら知っている場合があるわけだろ。だから鳴賢が知らない
ことを俺が知っていても、それ自体は別に不思議なことじゃない。そもそも今
の話は、官吏でも普通に生活するぶんには必要のない知識だ」
「まあな。海客以外に、今の暮らしを捨ててまで蓬莱に渡りたいと思う雁の民
はいないだろうし」
「もっともそのうちおまえも偉くなって、普通の官吏が知らないことも知るよ
うになるかもしれないぜ」
 冗談とも本気ともつかぬ調子で六太が言ったので、鳴賢は溜息まじりながら
「だといいけどなあ」と軽く返した。
「――そうだな。もしおまえが偉くなっても、どこかで俺に会ったとき、態度
を変えないでくれよな」
 なぜか感慨をこめて言った六太に、鳴賢は「変えるわけないだろ」と呆れた。
「友達なんだから。だが、もちろん公私混同はしないぜ?」

208永遠の行方「呪(119)」:2009/08/09(日) 10:02:31
「わかってるって」
 六太は笑いながら鳴賢の腕を軽くたたいた。それで気持ちを切り替えたのか
彼は、団欒所でのもっと明るい出来事を話し始めた。
 国府を出、ぴりりと気持ちの良い冬の冷気の中、綺麗に除雪された広途をふ
たりしてのんびり歩いていく。倩霞の家まではまだ距離があったし、これまで
の内容には興味を覚えていたとあって鳴賢もおもしろく話を聞いた。たとえば
以前は海客にこちらの言葉を教えるのは大変だったらしいが、最近は蓬莱の童
謡をこちらの歌詞に直し、団欒所を訪れる皆で歌うことで悪くない成果を上げ
ているとのことだった。
「蓬莱にも童謡があるんだ?」
 鳴賢は戸惑いながら尋ねた。何しろ彼が知っている童謡の大半は、文字通り
の子供向けの歌ではない。意味のない戯れ歌もあるにはあるが、子供に歌わせ
る歌謡でこそあるものの、躾に重点を置いていたり、政治的な風刺や批判を含
んだ内容が多かった。躾以外の歌は、要するに表立って言えないことを童謡に
託して歌い、子供の戯れ歌だと誤魔化すわけだ。
 荒れた国はもちろん、これは雁のような安定した大国でも事情はさほど変わ
らない。卑近な言葉が使われる俗謡は程度が低いと見なされ、隠喩や暗喩をち
りばめ、韻を踏む「高度」な歌謡がもてはやされる傾向があるためだろう。い
かに平穏に、裏に意味のある言葉を持つ詞を作るかが腕の見せどころというわ
けだ。それだけに蓬莱にも戦乱や貧困があると知ってさえ、風刺を連想させる
童謡があると聞くのはやはり不思議な気がした。
 鳴賢の疑問を承知している六太は、蓬莱での童謡の基本はあくまで子供のた
めの、底意のない娯楽だと説明した。謎めいた伝承のような歌もあるが、他愛
のない内容だったり可愛らしいものが大半だと。
「蓬莱では童謡ってのは詞が短くて簡単なんだ。あくまで子供が楽しむものだ
から、身近でわかりやすく楽しい言葉が使われる。それをこっちの言葉に置き
換えても、生活に密着している卑近な表現ばかりって点は変わらないだろ。だ
から実生活ですぐ役立つ。何より節がついていると覚えやすいから、言葉の勉
強には最適なんだ。鳴賢も見たかもしれないけど、団欒所にはいろいろ楽器が
持ち寄られている。新年とか冬至とか、そういった大きな祭りがある際は関弓
の民もやってきて、蓬莱の童謡をこっちの言葉で一緒に歌ったりもする」

209永遠の行方「呪(120)」:2009/08/09(日) 22:02:03
 鳴賢は記憶をさぐったが、楽器らしきものを見た覚えはなかった。普段はし
まわれているのかもしれない。
「楽器のことは知らないが、文張も歌のことは言ってたぞ。変わった歌が聞こ
えてきて、それに引きよせられて団欒所にたどりついたって。実を言うと俺、
新年もちょっと覗いてみたんだ。でもすぐよそに行っちまったから、そんなこ
とをしてたとは知らなかったなあ。そう言えば守真だか誰だかが、歌のことは
言っていたような気もするけど」
「機会があったら、また行ってみてくれ。大勢で歌うのってけっこう楽しいも
んだぜ。蓬莱では気分や言動がぴったり合うことを『息が合う』と言う。確か
に歌を歌って呼吸を合わせると、なぜか互いに親しみを覚えやすくなるもんだ。
おまけに大声を出すと気も晴れる。だから簡単に覚えられる童謡をそこそこの
人数で歌って楽しむと、海客と関弓の民はいっぺんに仲良くなれるんだ。おか
げで団欒所に来たことのある民は、蓬莱の童謡もいくつか歌えたりする。それ
くらい簡単な歌なんだ」
 そう言うと六太は、蓬莱の童謡らしい歌を口ずさんでみせた。鳴賢には馴染
みのない曲だったため、雁が蓬莱の影響を受けていると言っても歌謡は違うの
かなと思ったほどだが、拍子が良くて単純で、すぐに覚えられそうなのは本当
だった。
 ただしひよこや子犬がかくれんぼという遊びをするとの歌詞には大いに戸惑
った。家禽や家畜を擬人化すること自体に馴染みがなかったし、さらにそれを
子供向けの歌にするという発想がなかったからだ。そのため「もしかして蓬莱
では家畜も言葉を喋るのか?」と尋ねて六太に笑われた。
「こういうのは蓬莱独特の感覚らしいな。向こうじゃ植物さえも擬人化する。
たとえば趣味で綺麗な花を育てている人が、毎朝水を遣りながら花に挨拶した
り、ねぎらったりするなんて話もめずらしくない。もちろんそんなことをしな
い人も多いんだろうけど」
「すごい世界だな」鳴賢は呆れた気持ちで相槌を打った。
「そうだ、鳴賢の字、本当は赤烏だったよな? 烏が出てくる童謡もあるぜ」

210永遠の行方「呪(121)」:2009/08/10(月) 20:44:22
 六太はそう言って別の歌を口ずさんだ。烏が鳴くのは、巣に残してきた子供
を可愛いと言っているのだという内容の歌。これまた烏を人に見立てているよ
うで、目を丸くした鳴賢は「へえー……」と返すしかなかった。
 蓬莱と同じくこちらでも烏は身近な鳥だから、関弓の民も馴染みやすいので
はと思い、早めに翻訳してみたと六太は説明した。烏は成長したのち親に食物
を運んで恩を返す孝鳥と言われるくらいで、その真偽はともかく縁起もいい。
鳴賢の本来の字である赤烏に至っては太陽に棲むという神鳥のことで、太陽の
異称のひとつともなっているくらいだ。まったく知らない蓬莱独特の鳥が出て
くる歌より、雁の民が馴染みやすいのは確かだろう。
 そんな興味深いことを話していたせいか、道中はあっという間だった。関弓
も他の大きな街と同じく、長い間に少しずつ外へ外へと拡張されてきた街だ。
そのため、ところどころにかつての隔壁の名残である城壁があり、鳴賢はそれ
を越えながら六太を街の南西へと案内した。
 大きな邸宅が立ち並ぶ一画に来たところで、六太は「今、団欒所でやりたい
と思ってるのは講談なんだ」と楽しげに語った。
「それも普通のやつじゃない。紙芝居って言うんだけど、紙に物語の絵を描い
て、場面ごとに差し替えて見せながら物語を語るんだ。演目は蓬莱の伝説や物
語でもいいし、俺たちの世界の物語でもいい。たとえば――海に棲む竜王の話
とか。子供は絶対喜ぶし、綺麗な絵で講談師がそこそこなら、大人だって楽し
んでくれると思う」
「そりゃ確かにおもしろそうだ」
「だろ? 蓬莱にもおもしろい話は山ほどあるから、娯楽として聞きに来る民
もいるだろう。そうやって交流を深めるのは互いのためにもなる。問題は絵を
描けるやつがいないってことなんだけど、鳴賢は心当たりないかなあ?」
「俺に聞くな。さすがに絵描きの知り合いなんぞいないって。しかし俺たちに
とっては蓬莱こそが伝説なのに、その蓬莱にも伝説があるってのは不思議な気
がする。いや、蓬莱もこっちと似たような世界だってことはよくわかったけど
さ」

211永遠の行方「呪(122)」:2009/08/10(月) 20:47:17
「実を言うと蓬莱にも異世界の伝説があるんだ。海のかなたに不老不死の人々
が住む理想郷があるって話。蓬莱人はそこを常世の国と呼んでる」
「へえ。俺たちの蓬莱の伝説と似てるな」
「どこでも現実は世知辛いものだから、今いる場所とは違う素晴らしい世界が
あるんじゃないかと夢想するのは、どの世界でもあるってことなんだと思う。
要するにさ、そういうことなんだ」
「そうか。そうかもな……」
 ふと考えこんだ鳴賢は、先ほどから気になっていたことを尋ねてみた。
「あのさ。俺って頭が固いかな?」
「え?」
「何て言うか……発想が貧困と言うか。文張や六太に蓬莱の――というか海客
の話を聞いても、良くない方向に驚いたり否定したり、後ろ向きのことばかり
言ってたような気がしてさ」
 六太のことも、雁の生まれではないと聞いて、はなから浮民と思いこんで反
発を覚えた。楽俊に海客のことを聞かされても、どうせ胡散臭い連中で、自分
たちとは無縁の存在だと頭から決めつけていた。
 それでも今までは特に意識してはいなかった。しかしこの道中で何となく、
自分は頭が固いんじゃないか、既成概念に囚われすぎているんじゃないかと、
鳴賢は思い始めていたのだった。
 だが六太は笑うと軽く流した。
「別にそうは思わないな。これまでの自分の経験や常識に照らして、まったく
異質のことを見聞きしたら、まずは懐疑的になるのは当然だろう。異世界から
来た異邦人に対して警戒を覚えるのだって仕方がない。むしろそれが大人の分
別ってものだ」
「文張もそうだったか?」
「楽俊? あいつは好奇心の塊だからなあ。――うん、蓬莱のことは単に目を
丸くして聞いているほうが多かったような気はするけど、団欒所に行ったとき、
海客とは積極的に話していたようだな」

212永遠の行方「呪(123)」:2009/08/10(月) 20:49:22
「だよな。少なくとも俺みたいに、はなから否定したり悪い印象を持ったりは
してないよなあ……」
「でも最後は大抵、『蓬莱ってえのは変わったとこだな』で一刀両断だぜ。確
かに、いいとか悪いとかじゃなく、そういうものだと単純に受け止めている感
じではあったけど」
「そうか。あいつらしいな」鳴賢はそう言い、ふと見えてきた大門のひとつを
指した。「あそこが倩霞の家だ」
 すると六太は妙な顔をした。かすかに眉をしかめて立ち止まる。
「どうした?」鳴賢も立ち止まる。
「いや……」
 何やら戸惑うように件の大門を凝視している。高い墻壁が連なり、その中に
穿たれた大門の意匠からしてかなり立派な邸宅であることが窺える。鳴賢はそ
れで気後れしているのかなと思い、ふたたび歩き出すと、六太は無言であとを
ついてきた。だが閉じている大門の前まで来ると、さっきまでとは打って変わ
って硬い声でこう言った。
「案内してくれてありがとう。ここから先はひとりで大丈夫だ」
 鳴賢は思わず「はあ?」と声に出していた。確かに案内するとは言ったし、
倩霞に用があるのは彼ではなく六太のほうだ。しかしこんなふうにそっけなく、
用済みと言わんばかりの言葉をかけられるとは思わなかった。少なくともいつ
もの六太なら、「鳴賢はどうする? せっかくだから一緒に倩霞に会ってくか?」
ぐらいは聞くはずだった。
「何だよ、そりゃ」
 さすがにむっとしたため、彼はさっさと通用門から中に入った。そのとたん、
生臭い臭いがかすかに鼻を突く。不審に思って見回すと、中門である垂花門の
前を過ぎた壁際の茂みに雪が積み上げられており、そこから漂ってくるのだっ
た。

213永遠の行方「呪(124)」:2009/08/10(月) 22:12:13
 近寄ってよく見れば、それは料理のためにさばかれた羊だの鶏だのの残骸だ
った。ほとんど雪に埋もれる形で放置されているため、近くに寄らないかぎり
大した臭いではないが、こういうことは家の裏手でやるものだ。主人である倩
霞が病弱で、外出もほとんどしないことはわかっているから、目が届きにくい
のをいいことに使用人が怠けて処置していないものと思われた。
「使用人のしつけがなっていないな。郁芳とか阿紫あたりが、こういうところ
までちゃんと気を配っても良さそうなものだが」
 何の答えもないため振り返って見ると、六太は門を入ったところで真っ青な
顔をして立ち尽くしていた。かなり気分が悪そうだ。鳴賢は、こいつはこうい
う動物の死骸も苦手なんだよなと思いつつも、普段より反応がずっと激しいよ
うに見えて不思議に思った。
「おい。大丈夫か?」
「……あ。うん」
 力なく答える六太。もはや笑みを浮かべようともしない。さすがに鳴賢は気
遣い、「中で少し休ませてもらえよ」と言った。
 そんなやりとりが聞こえていたのだろう、通常は門番の住まいである門房か
ら阿紫が出てきた。見知らぬ間柄ではないが、彼女は丁寧ながらもどこか警戒
するような面持ちで「何かご用でしょうか?」と尋ねてきた。
 鳴賢は六太を見やった。あれだけ道中で長話をしたのに、考えてみればここ
に来る理由を尋ねなかったことにやっと気づいた。
「倩霞に会いに来た。ちょっと聞きたいことがあって」
 六太は硬い声のまま静かに答えた。阿紫は黙って鳴賢と六太を交互に見てい
たが、やがて「どうぞ」と言って、垂花門の奥に案内した。広い院子を抜け、
回廊を経て正房に上がる。
 日没には間があるというのに、正房の中は暗かった。ほとんどの窓が鎧戸を
閉じている上、あちこちに衝立を立てて風だけでなく光も遮っているせいだろ
う。刺繍を凝らした重厚な緞帳を壁に巡らし、そこここに高価な飾り物を置い
てあるというのに、どこかひっそりと陰鬱な感じがした。足元が危うくならな
い程度の灯りはともっているものの、房全体を照らすにはほど遠い。何より、
しつこいほどに甘い芳香が漂い、鳴賢は息がむせそうになった。

214永遠の行方「呪(125)」:2009/08/10(月) 22:14:17
「何なんだ、この匂い。それに暗い。もっと明かりを足せばいいのに」
 思わず鳴賢が言うと、阿紫はつんとした顔で、「倩霞さまのご病気に、強い
光は目の毒ですから」とそっけないいらえを返した。
 鳴賢たちを客庁に通して椅子を勧めたのち、阿紫は主人に来客を伝えに下が
った。ふたりきりになると六太は、「鳴賢。悪いけどやっぱり帰ってくれない
か」と静かに言った。
「おまえ……」
 鳴賢は呆れた声を出したが、六太の顔がこわばっているのを認めて言葉を切
った。乏しい灯りの下でも蒼白になっているのがわかる。六太は硬い声のまま、
鳴賢がこれまで見たこともないほど真剣な表情で言った。
「取り越し苦労かもしれない。だが嫌な予感がする。おまえを危険な目に遭わ
せたくない」
「危険? 危険って何だよ。ここは倩霞の家で――」
 鳴賢が言い終わらないうちに扉が開いた。とたんに甘い芳香が強くなる。衣
擦れの音とともに、気遣わしげな阿紫に手を添えられた貴婦人が姿を現わした。
黒紗ですっぽりと全身を覆った倩霞だった。
 その異様な姿に鳴賢は思わず立ちあがっていた。ほのかな灯りが黒紗を透か
し、見慣れた麗人の面影を奥に認める。しかし美しかった肌はただれ、酷い有
様だった。
 姿なき男の声が「タイホ」と制すると同時に、六太が「おまえたち、手を出
すな」と低く呟いた。何が起きたのかわからず、とっさに周囲をきょろきょろ
した鳴賢の耳に、ふたたび「しかし」という男の声が届いた。
「ようこそ、延台輔」
 戸惑う鳴賢の眼前で、黒紗の麗人は異様な姿に反して音楽的で朗らかな声で
挨拶をした。以前と変わりのない倩霞の声。六太も立ちあがり、抑揚のない声
で「晏暁紅か」と尋ねた。それと同時に自分の頭に手をやり、巻いていた頭巾
の布を解く。豊かな長髪が光をはじいてこぼれ、肩に、背に、ふわりと落ちた。
その光景に鳴賢は呆然となって立ちつくした。
 それは真夏の太陽の色。神々しいまでに輝く、まばゆい黄金(こがね)色だ
った。

----------
次の投下までしばらく間が開きます。

215名無しさん:2009/08/10(月) 23:45:56
うおおお久々に覗いてみて良かった
続き楽しみにしてます!!

216永遠の行方「呪(126)」:2009/08/28(金) 21:29:34

「まあ、知っていたの?」
 鳴賢の驚愕をよそに、倩霞は鈴を転がすような声でころころと笑った。何か、
とても楽しいことがあったかのように。
 六太は「いや……」と力なく首を振った。
「だが中門のところで家畜の屠殺体を見たとき、もしやと思った。断末魔の苦
悶の痕跡が、いまだに邸の外からも窺えるほど苦しめて殺すなんて尋常じゃな
い。あんな――あんな酷い……」
 彼は視線を落とすと体を震わせた。だがすぐに敢然と顔を上げる。
「そしておまえのその姿を見てはっきりわかった。呪詛を行なう者は、みずか
らの心身をも損なう。他人を害する呪は呪者自身に跳ね返ってくるからな。ま
してや、あれほど大がかりな呪を行ない、大勢の人々を死に至らしめたとあっ
てはなおさらだ」
 黙って黒紗の中からほほえんでいる倩霞に、六太は厳しい顔で問いかけた。
「この謀反をたくらんだのはおまえだな。家畜の死骸は呪詛の痕跡か? それ
とも俺への警告のつもりか」
「痕跡? 警告? とんでもない」倩霞は朗らかに答えた。「おまえには使令
がいるじゃないの。危険を察知した使令の進言によって、眼前で引き返されて
はおもしろくないわ。いえ、別にそれでも構わなかったのだけれど、血や穢れ
に弱いというおまえの性質を試してみたの。そんなに青い顔をして、きっと使
令も影響を受けて弱っているのでしょうね」
「そんなことまで知っているのか。いや、当然か。光州侯の寵姫だったのだか
らな」
「昔のことよ」彼女は眉をひそめ、初めて不快な表情を見せた。
「では、おまえは謀反を認めるのだな。事件のあった光州ではなく、こんな近
くにいたとはまだ信じがたいが、他に首謀者がいて協力しているのでも何でも
なく、紛れもないおまえ自身がたくらみ、光州の人々に、そして王に害をなし
たと認めるのだな?」
 倩霞は答えず、艶然たる微笑を返した。六太は深く溜息をついた。

217永遠の行方「呪(127)」:2009/08/28(金) 21:36:08
「俺がここにやってきたのは、事件が起きる前におまえに渡された書簡を開い
たからだ。最初は白紙だった中の占文に、おまえの字『暁紅』が浮かび上がっ
た。その不思議に、おまえを疑っていなかった俺は力のある女仙かと思い、助
言を得られるかもしれないと考えた。だが今にして思えば、最初からそう仕組
んでいたんだな? 斗母占文を装ったあの紙片も、呪で演出しただけなんだな?」
「あれは光州の片田舎で自生する草の汁で書いただけよ。日に当てると文字が
浮かび上がってくる、それだけ。その地方では子供でも知っているというのに、
おまえは何も知らないのね」
「待って――くれ」
 置いてけぼりにされた鳴賢は、やっとのことでかすれた声を出した。だがそ
れきり言葉は続かなかった。このふたりはいったい何の話をしている? 呪―
―謀反――何の話だ? それに六太の髪……。
 対峙しているふたりを交互に見ながら、必死に状況を把握しようと努める。
そんな鳴賢にちらりと暗い目を投げた六太は、すぐ倩霞に視線を戻して言った。
「彼は無関係だ。おまえの新居を知らなかったから案内してもらっただけ。帰
ってもらってもかまわないだろうな?」
 わけがわからぬなりに冗談じゃないと思った鳴賢が口を開く前に、倩霞が
「だめよ」と言った。相変わらず朗らかに。だがすぐに言を翻した。
「――そう、それでもいいかもしれないわ。この者が国府から役人を連れて戻
ってくる頃には、すべてが終わっているでしょう。王はこのまま永遠に目覚め
ることはなく、五百年の長きに渡って続いてきた王朝はあっけなく終わる。―
―そうね、それがいいわね」
 ふと倩霞がよろめき、彼女の体に気遣わしげに手を添えて支えていた阿紫が、
女主人を傍らの榻に座らせた。その拍子に黒紗から手が覗き、指先から手首ま
で痛々しくも醜くただれているのがよくわかった。紗に隠れている他の部分も
似たようなものなのだろう。前に敬之と一緒に会ったときはこうではなかった
のに、どう見ても余命いくばくもないのは明らかだった。数ヶ月か――もしか
したら数日の命なのか。
 鳴賢はぞっとなった。倩霞も六太も、阿紫でさえ自分が知っていると思って
いた人物ではなく、何が起きているのかさっぱり理解できなかった。眼前で重
大なやりとりが行なわれているらしいことはわかるのに、彼だけはまったくの
蚊帳の外だった。

218永遠の行方「呪(128)」:2009/08/28(金) 21:48:21
「待ってくれ」鳴賢はふたたび声を上げた。「主上が永遠に目覚めないって―
―何のことだ。六太――」
 黙って彼を見つめる金色の少年に、言葉を切る。髪の色が指し示す真実はひ
とつしかない。だがそれは、茫然とした頭にひどく染みこみにくいものだった。
「――台、輔……? 延台輔……?」
「そう呼ばれている。五百年前、この国に王を据えて以来」
 静かな声だった。その声は鳴賢の脳裏にじわりと染み込んでいき、混乱して
いた頭はようやく秩序めいたものを取り戻していった。
 ――ああ。
 足元が崩れそうになりながら、彼はうめいた。そう、まったくもって六太は
嘘は言っていない。雁は王も麒麟も胎果であり、それは誰もが知っている有名
な事実だった。五百年も生きていれば、鳴賢より年上に決まっている。他国の
ことであれば自国のことであれ、鳴賢の知らないことを知っていても何の不思
議もない。
 ――ああ、まったくもって何の不思議もない。
 彼はよろめいて、力なく後ろの椅子に座りこんだ。
 がっくりと垂れた頭を両腕でかかえこんだ鳴賢の前で、六太はしばらく黙り
こんでいたが、やがて淡々と語り始めた。
「昨年末、光州の州侯から急使があった。原因不明の流行病により、ひとつの
里が全滅したという」
 のろのろと顔を上げた鳴賢の前で、六太は静かに話を続けた。調査の結果、
光州では一年前から奇妙な病死が相次いでいたのがわかったこと。場所は州城
を中心とする環を右回りに移動しつつ、計ったように月に一度の頻度で発生す
るという不可解なものであったこと。
 もろもろの状況を鑑み、国府は呪を使った謀反のくわだてと判断。新年早々
のふたつめの里の全滅を受け、王は行幸という名目で親征を決断、光州入りし
た。ところが狡猾な罠をしかけていた謀反人に呪をかけられ、昏睡状態に陥っ
てしまった……。
 触れがあったため、行幸のことは鳴賢も知っていた。光州で何か事件が起こ
ったせいであることも。しかし王を信頼しきっている民は、心配という名の関
心を寄せることもなく、それは鳴賢も同じだった。

2191:2009/08/28(金) 21:54:47
>>215
どうもです。今のところ一月弱に一度くらいは集中的に書き込めそうなので
この章が終わるまでは、そのくらいでたまーに覗いてもらえると
空振りはないんじゃないかと思います。

220永遠の行方「呪(129)」:2009/08/29(土) 00:06:25
「何しろ梁興の謀反から二百年も経っている。そのため当初は残党の仕業であ
る可能性は低いと思われていたが、王に昏睡の呪をかけて絶命した呪者が、梁
興の寵姫だった晏暁紅の下僕である線が濃くなった。そのため暁紅を首謀者も
しくは謀反の協力者と推定し、行方を追おうとしているところだった」
 六太はそう言って、険しい表情で倩霞を見やった。彼女に対し「晏暁紅か」
と問いかけ、それを倩霞が肯定したことを思いだした鳴賢は身を震わせた。
「なんで、そんな――」動揺のかけらも見せず、ひたすら倩霞を気遣って側に
侍っている阿紫に呼びかける。「――阿紫……」
 阿紫は鳴賢に一瞥を投げたものの、冷ややかなまなざしだった。女主人が座
る榻の傍らに膝をついたまま、ふたたび気遣わしげに倩霞を見あげる。
「まさか、この家の者すべてが知っているのか? ここは謀反人の根城だった
とでも言うのか?」
 倩霞の店は女向けの小物を扱っていただけに、従業員も若い娘ばかりだった。
それもほとんどが恵まれない境遇から倩霞の家に引き取られたため、一緒に住
んでもいたはずだと思い、鳴賢は信じられぬ思いで倩霞を凝視した。だが彼女
は相変わらず微笑を浮かべているだけ。その静かで妖しいほほえみに、鳴賢は
自分の発した言葉が真実であることを悟らずにはいられなかった。
「他の娘たちはどこだ? 郁芳とか……。頼む、話をさせてくれ」
 何かの間違いではないのかと祈りつつ、鳴賢は訴えた。しかし倩霞は答える
代わりに、傍らの阿紫の手にそっと自分の手を重ねた。
「もう誰もいないわ、誰も。残ったのはこの子だけ」
「逃げたということか……?」
「いいえ。みんなわたしに命をくれたの。あの呪を行なうためには若く健康な
命がたくさん必要だった。みんな喜んでわたしに命をくれたわ」
 ――狂っている。
 鳴賢はそんな言葉を飲みこみ、倩霞、いや暁紅を凝視した。言葉もない鳴賢
の前で、六太は悲痛な表情でしばし瞑目した。

221永遠の行方「呪(130)」:2009/08/29(土) 10:46:22
「おまえは賭けをしていた」六太の青白い顔色は変わらなかったが、それでも
しっかりとした声だった。「俺たちが気づいてたくらみを阻止するか、気づか
ぬまま光州を不毛の地にしてしまうか。少し遅かったかもしれないが、俺は気
づいた。賭けに勝ったのはどちらになる? おまえか? 俺たちか?」
 だが暁紅は榻の上で、相変わらずほほえんでいた。混乱しきりの鳴賢は、震
える声でやっと六太に尋ねた。
「それで主上は……」
「目覚める気配のないまま、宮城でこんこんと眠り続けている。もう半月にも
なる。このまま呪が解けなければ、王の眠りが覚めることはないだろう」
「そんな」
 目の前が真っ暗になる。以前楽俊に問われた、王が崩御したら――という仮
定が、突如として現実味を帯びたことに、彼は慄然となった。
「知らなかった――そんなことになっていたなんて――」
「箝口令を敷いているからな。今のところ雲海の下にはいっさい漏れていない
はずだ。だから下界で王の状態を知っている者がいるとすれば、謀反人の一味
でしかありえない」
 六太はそう言って、厳しい顔でふたたび暁紅を見やった。鳴賢は茫然と座り
こんでいるばかり。ついに六太は悲壮な声で、「いったいなぜだ!」と叫んだ。
「おまえは飛仙となり、下界にくだって百年以上経っている。宮城では今回の
謀反の首謀者に対し、さまざまな憶測がなされているが、いろいろな情報を見
聞きするにつれ、俺には単なる権力欲だの復讐だのとは思えなくなった。たと
えば梁興が没した直後なら、逆恨みとはいえ主人の仇討ちのつもりなのだろう
と解釈することもできる。しかし八十年も貞州城の片隅でひっそりと過ごし、
さらに市井に紛れて百二十年。王への恨みなど、あったとしても既に失せてい
るはずだ。あるとすれば――」
 六太はいったん言葉を切ってから続けた。
「――飛仙ゆえの、屈折した厭世感。違うか?」
 暁紅はほほえんだまま、快い楽の音を楽しむかのように少し首を傾げて聞い
ている。

222永遠の行方「呪(131)」:2009/08/29(土) 10:53:47
「聞けば貞州城に引きこもったおまえからは、梁興の謀反に結果的に関わるこ
とになったことへの悔悟の念は窺えなかったそうだ。むしろ冷遇されているこ
とへの反発があったとか。貞州での隠遁に等しい生活は、華やかだったろう光
州での寵姫としての毎日とは確かに雲泥の差だったろう。それで処遇に不満を
持ったのなら気持ちはわからないでもない。少なくとも梁興を討った功労者で
あるのは事実なのだから。
 だがおまえの面倒を見てくれた貞州侯が代替わりして居場所がなくなったと
き、おまえは市井に紛れることを選んだ。ならば少なくともそのときは復讐心
などなかったはずだ。復讐するつもりなら、その機会など二度と得られないだ
ろう市井に下るより、州城にとどまることを選ぶだろうからな。しかしおまえ
は市井に降り、やがて行方をくらました。それは心機一転、最初から出直すつ
もりになったからではないのか? だとすればおまえの動機は仇討ちでも復讐
でもない。単に、何かの理由で長い間に降りつもった不満のはけ口を求めただ
けだ」
 涼しい顔で聞き流している暁紅と異なり、鳴賢は愕然として聞いていた。謀
反をたくらむ輩がいること自体、信じがたいことだが、それが確たる動機のあ
るものではなく鬱屈した不満のせいだなどとは、到底信じられるものではない。
何かの間違いではないかと思いながら、彼は眼前で交わされるやりとりの意味
を必死に理解しようとした。
「飛仙の中にはたまにそういう不満を溜める者がいる。特に政争に敗れて位を
追われた高官が、仙籍を持ったまま失意の中で隠棲する場合などがそうだ。し
かし彼らと異なり、幸か不幸かおまえには手段があった。梁興が遺した呪の文
珠だ。かくしておまえは、普通の飛仙ならただ不平を口にして日々を無為に過
ごすしかないものを、文珠があったばかりに大それたたくらみをくわだてた―
―違うか?」
 だが暁紅は溜息をつくと、どこか小馬鹿にした表情で六太を見た。
「どうとでも好きなように捉えればいい。慈悲の生き物と言われながら、おま
えも情人の王と同じく、いつもそうやって高みから見下ろしているだけ。勝手
に推し量って理解した気になって、その実、地べたにはいつくばって暮らす者
の気持ちなどわかるはずもない」
「――待て」

223永遠の行方「呪(132)」:2009/08/29(土) 11:05:09
「何にしても既に手遅れよ。追いつめられた気持ちはどう?」
「待て、おまえは何を……」
 六太は驚愕の面持ちで「情人……?」とつぶやいた。その有様に鳴賢は今さ
らながらに、市井でなかば公然の事実として受け止められている話を思いだし
た。雁の王は麒麟と理無い仲であるという話を。
 実際、小説などでも普通に演じられているし、囚われた麒麟を王が単身救出
に赴いた斡由の乱などは、昔から人気の演目だ。庶民が思い描く麒麟は、慈悲
深いのはもちろん、美しくたおやかで性別を感じさせない夢幻の世界の住人。
雁の麒麟が少年の姿であることは知られているが、人間の女など足元にも及ば
ないほど美しいともされており、王の寵愛もさもありなんと思われていた。
 鳴賢は以前、楽俊や六太を無理やりその手の小説を見せに連れだしたことが
あった。しかしそれは、まさか六太が当の延台輔だとは思いもよらないからで
きたことで、さすがに恥じ入った。
 だが六太は、青ざめた顔はそのままに、少し困惑した体で低く笑った。
「何か誤解があるようだ」少し待ってから、誰も何の答えを返さないことに言
葉を続ける。「俺は王の褥に侍ったことはない。それを言うなら、誰の褥に侍
ったこともない。人は人を求めるものだろう。だが麒麟は人じゃない。おまえ
は今の俺の姿に惑わされているだけだ。俺が麒麟の姿になれば、自然と納得で
きるだろう」
「それを口実に転変するつもり? 転変して何をしようというのかしら」
 暁紅は冷笑した。六太は彼女の様子を窺い、諦めたように視線を落としては
かない笑みを浮かべた。
「市井の小説で、そういった演目があるのは知っている。だがたとえば元州の
乱の際に王が単身元州城に潜入したのは、実のところ謀反人の斡由と一騎打ち
をするためだった。それが一番被害の少ない方法だったというのが王の弁。俺
を助けたのはそのついでだ」
 六太はちらりと鳴賢に微笑を投げ、かすかにうなずいた。その表情に、鳴賢
はその話が真実であることを知った。小説はあくまで小説。庶民の娯楽でしか
ない。
「しらじらしいこと。光州侯でさえ、おまえたちの仲を知っていたというのに」

224永遠の行方「呪(133)」:2009/08/29(土) 11:12:59
「梁興のことか。だが俺はその男と実際に会ったことはないし、市井の者と同
じく、単なる噂に想像をたくましくしただけだろう。宮城で働く者に問えば、
俺と王はそんな間柄ではないと誰しも答えるはずだ。だいたい王と麒麟が異性
ならまだしも、雁の場合は男同士。一般的にも婚姻を結べるのは男女に限り、
同性同士の結びつきは倫理にもとるというのに、王と麒麟だけが例外であるは
ずがない。それ以前にさっきも言ったとおり、そもそも麒麟は人じゃないんだ。
人外の者を、人である王が欲するはずがないだろう。王の名誉のためにそれだ
けは言っておく」
 六太はほとんど感情を見せず、淡々と言ってのけた。その説明に鳴賢は納得
せざるをえなかったが、同時に傷をえぐられたような鋭い痛みを覚えた。
 ――人外の者を、人である王が欲するはずがない……。
 かつて六太は、想いを寄せる女性について鳴賢に語ったことがある。しかし
その想いが成就することはないとも言い切った。あのときは相手が年上で既婚
の可能性を考えたが、自分が人間ではないことをもって諦めたのだとしたら。
 確かに麒麟に愛を告白されても相手の女は困るだろう。人間ではなく、婚姻
もできず子も持てない相手と添おうとする女もいないだろう。そもそも第一に
王と国のことを考えるべき麒麟の恋など、少なくとも官吏は歓迎しないだろう
し、王自身も不快を覚えかねない。庶民も何となく釈然としないものを感じ、
そこまで麒麟が想う相手の女こそが真実の王ではないのかと、余計なことを考
えるのではないか。そうなれば相手の女にその気がなかったとしても、王に叛
意を持つ者に利用されないとも限らない……。
 そう、麒麟の恋など誰も歓迎しないのだ。
 俺はいつも考えなしだ、鳴賢は絶望のままに内心でうめいた。頭が固くて考
えが浅くて、いつも物事の表面しか見ていない。六太がさらりと語ったあのと
きの告白は、心の内に相当な覚悟と悲哀を秘めたものであったろうに。
 そんな彼の悲痛な思いをよそに、六太は暁紅に尋ねた。
「おまえが謀反をくわだてるに至った動機の中には、同じように誤解があるの
ではないか? もしそうなら誤解を解きたい。どうしてこんなことをくわだて
たのか、話してはもらえないか」
 だが暁紅は答えなかった。超然と沈黙を守っている彼女を前に、六太は迷う
ような表情を見せた。

225永遠の行方「呪(134)」:2009/08/29(土) 20:48:27
「それともやはり仇討ちのつもりなのか? 梁興を討ったのはおまえ自身だが、
それは籠城を終わらせるためにやむにやまれずやっただけで、主君への恩情は
いまだ残っているということか?」
「仇討ち?」ようやく口を開いた彼女はおかしそうに笑ったが、口調はそっけ
なかった。「仇討ちなどであるものか。あの男に恨みはあっても恩などない」
 とりつく島のない、冷ややかなまなざし。
「そうか。だが少なくともおまえは俺たちを試していたな。実際に賭けをして
いたかどうかはさておき、俺たちがたくらみに気づき、適切に対処をすれば、
被害を最小限に抑えられるようにしていた。ということは、本気で謀反を起こ
す気などなかったのではないか?」
「さあ。それはどうかしら」
「まぜっかえさないでくれ。これまでの短いよしみとはいえ、俺にはおまえが
そんなに残酷な人間とは思えない。いや、思いたくない。何を不満に思ってい
たにせよ、おまえには謀反に通じる確たる動機はなかった。だから八つ当たり
に等しい行為を完遂することに迷いがあった。どこかで自分を止めてほしいと
いう気持ちがあった……」
 鳴賢は懸命に話しかける六太を、それを聞き流す暁紅を、ただ見つめていた。
彼自身になすすべはなかったが、それでも倩霞こと暁紅に、六太の真摯な言葉
が届いていないことだけは見て取れた。無惨な姿になり果てていながら、彼女
からは恐れも迷いも窺えず、動揺のかけらさえ見て取れなかった。
 黒紗から覗いている指先を凝視し、酷くただれたように見える肌が、実は腐
りつつあるのではないかと思いついて吐き気をもよおす。房に蔓延するこの奇
妙な甘い匂いは、腐臭を隠すためではないのか……。
 ――いや。暁紅が身じろぎするたびに舞い上がるように思える甘い匂い、こ
れは腐臭そのものではないのか。
 鳴賢は酸っぱいものがこみあげるのを感じたが、何とか抑えこんだ。
「占文を装って俺に渡したあの書簡。あんな手がかりを与えては、一歩間違え
れば計画が頓挫しかねない。そんな書簡を俺に渡したのは、内心で止めてほし
かったのではないか?」
 暁紅は深く溜息をついた。
「麒麟というのは本当に莫迦な生き物なのねえ……」ひとりごとのようにつぶ
やいてから、「あれはわたしの運だめし。ただし同時におまえを、適切な時期
にここへおびきよせるための餌でもあった」
「なに……」六太は目を見開いた。

226永遠の行方「呪(135)」:2009/08/29(土) 20:53:14
「むろんうまくいく可能性はほとんどなかったけれど、もともとこのくわだて
は成功するほうが不思議なくらいだったのだもの、失敗しても諦めはつく。で
も蓋を開けてみれば運命はわたしに味方し、王は眠りに落ち、おまえはこうし
てわたしの元にやってきた。どうやら天帝は、王朝を終わらせることをお望み
のようね。誤算は唯一、王が出てくるのが遅かったというだけ」
 何の遠慮もなく謀反の根幹にからむ事柄を口にする。震える声で「待て」と
口を挟んだ尋ねた六太の傍ら、鳴賢はどんどん肝が冷えていくのを感じた。
 彼女がここまであけすけに語ることの意味はひとつ。既に目的を達し、国側
がどうあがいても事態が動かない、手遅れの段階にまで至ってしまったという
ことに他ならない。あるいはそれを装って、さらに罠をかけようとしているの
かもしれないが、いずれにせよ、のっぴきならない状況であるのは確かだった。
 そして今の彼が何よりも案じているのは、謀反人の首魁と対峙している六太
だった。麒麟は数多くの妖魔を下僕として従え、それにより身を守っていると
聞く。下僕となった妖魔が人語を操るとすれば、先刻聞こえた姿なき男の声が
そうなのかもしれない。しかし六太は「手を出すな」と制し、頼りない少年の
姿で対峙している。暁紅も彼女につきそっている阿紫もかよわい女人ではある
が、どこにどんな罠があるともしれない以上、麒麟に危害が及ぶ事態を鳴賢は
恐れた。王が意識不明に陥っているというのが本当なら、さらに麒麟にまで危
害を加えられてはたまらない。それこそ雁が滅びてしまう。
「おまえは王が出てくることを予想していたとでもいうのか?」
 鳴賢の焦燥を知らぬげに、六太は相手に問いかけた。そんな彼に、暁紅はた
だ莫迦にしたような視線を投げた。
 無言の返答に愕然とした表情で黙り込んだ六太は、蒼白な顔をいっそう白く
して暁紅を凝視した。
「――光州の地に描かれた環。月に一度、里で特定の方角の住む家族が呪によ
る病に斃れた――ひそやかで不可解な事件」
 微笑を取り戻した暁紅は、茫然とつぶやいた六太をじっと見つめていた。勝
ち誇ったような表情は、六太の推測が当たっていることを指しているのだろう
か。
「王は言っていた。事件を知られても知られなくともどうでもいいと思ってい
るような、なげやりな意思を感じると。だがその反面、ここで不可解な事件が
起きているぞと、しらしめる意図があるようにも思えると」
「その割には、ずいぶん遅いお出ましだったこと」暁紅はくすくすと笑った。

227永遠の行方「呪(136)」:2009/08/29(土) 20:56:47
「わざわざ一年をかけて最初の呪環を完成させたというのに。野次馬のように
ふらふらと出歩くあの下卑た王なら、人死にの出る怪異を目の当たりにすれば、
興味を引かれて即座に飛んでくると思ったのに」
「おまえ――」
「それでもやっと幇周で食らいついてきたとき、もうおまえたちに勝ち目はな
くなった。罠を張った郁芳は、さぞかし満足して逝ったことでしょう。あとは
おまえたちが、残された選択肢の中から自分の運命を選ぶだけ」
「郁芳……?」
 阿紫と同じく、暁紅の店で働いていた若い娘の名。鳴賢も六太も何度か会っ
たことがあった。
「――浣蓮。生まれたときから一緒にいた、わたしの乳兄弟」
「おまえはその彼女をも死に追いやったのか!」
 悲痛な叫びを上げた六太だったが、微笑を浮かべている相手にその思いが届
くはずもない。
「追いやるだなんて。あれは郁芳自身の望みだったというのに。わたし以上に
王を恨んでいたというのに」
「王を恨む? なぜだ。この謀反はやはり復讐だったとでもいうのか?」
「――だめだ、聞いちゃいけない!」
 やっとの思いで鳴賢は立ち上がると、膝に力が入らないながらも、何とか両
者の間に割って入った。頭の片隅で、こんな状況でも玄度なら暁紅をかばうの
だろうかと、ちらと考える。そうかもしれない、そうでないかもしれない。だ
が自分はもうごめんだ。こんな女などどうでもいい、何とか六太をここから遠
ざけなければ。安全な場所まで連れて行かなければ。
「こんなにぺらぺら喋るなんておかしい。こいつは何か罠をしかけようとして
いる。聞いちゃいけない!」
「鳴賢……」
 悲しそうな顔でつぶやいた六太の前、暁紅は傍らの阿紫の頭を優しくなでた。
「この子の父親はね、雁に流れてきてすぐ、窃盗の濡れ衣を着せられて往来で
なぶり殺しに遭ったの。母親のほうは妓楼に売り飛ばされるところを抵抗した
ために、その場で大勢の男に慰みものにされて舌をかんで死んだ。この子には
姉もいたのだけれど、まだ十になるやならずやだったのにどこかに売り飛ばさ
れてそれっきり。わたしが通りかからなかったら、やせこけた姿で物乞いをし
ていたこの子も数日のうちに命を落としていたでしょう。うちに引き取った娘
はそんな境遇の子ばかり。王を恨み、自分の無力さを嘆きながらも一矢報いた
いと思っている者は雁にも大勢いるのよ」

228永遠の行方「呪(137)」:2009/08/29(土) 21:00:14
 鳴賢は振り返ると、六太の代わりに暁紅に反論した。
「主上は浮民にも荒民にもできるだけのことはなさっている。慶はずいぶん良
くなったが、戴から、そして巧から、これまでどれだけの荒民が流れこんでき
たと思っているんだ。いくら雁が大国でも、限界ってものがあるんだぞ! 治
安が悪いと言いたいんだろうが、それは浮民や荒民自身が追いはぎだの強盗だ
のをやらかしているせいじゃないか。女を乱暴して売り飛ばすのも、手っ取り
早く金を稼ごうとする浮民がよくやる手口だ。おまけに仲間内でさえ、施しを
奪い合って喧嘩沙汰になるくせに、自分たちの無体を棚に上げてよくそんなこ
とを言うな!」
「鳴賢」
 六太がそっと後ろからそっとささやき、激昂した彼を穏やかに制した。鳴賢
はさすがに黙ったが、暁紅と六太の間で踏んばり、どくまいとした。
「王は眠りに落ちたが、本当に謀反をたくらんでいるなら弑逆を試みたはずだ。
それをせずに昏睡にとどめたのはなぜだ? 内心で止めてほしいと思っていた
わけではないなら、本当は何を狙っている?」
 六太の問いに、暁紅はふっと微笑した。彼女はしばらく思わせぶりに沈黙し
ていたが、やがて阿紫の肩に置いていた手を、ゆっくり持ち上げて六太に向け
た。
 鳴賢は緊張して、六太を指すただれた指先を見つめた。これも何かの罠かと
警戒する中、相手の爪が真っ黒に変色しているのを見て取り、先ほどの吐き気
が蘇った。
「おまえ」
 微笑を浮かべたまま、暁紅は静かに言った。意味をつかめないまま鳴賢が息
を殺していると、彼女は続けた。
「おまえが王の身代わりになれば、自然と王の眠りは覚める。あの呪は、その
ように定めてかけたのだから」
 鳴賢は血の気が引くのを感じた。これこそが罠だ。この女は王だけでなく麒
麟をも罠にかけ、雁を滅ぼそうとしている……。

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次の投下までしばらく間が開きます。

229永遠の行方「呪(138)」:2009/09/17(木) 20:32:58
 だが背後の六太はしばし沈黙しただけで、こう尋ねた。「それで王は助かる
のか?」と。
「おい、謀反人だぞ。こいつの言うことに耳を貸すな。嘘に決まっている」
 鳴賢は血相を変えて訴えたが、六太は超然とたたずんでいた。
「六太――い、いや、台輔」
 今さらのように気づいて言葉を取り繕ったものの、六太はふっと笑って「態
度を変えないでくれと頼んだだろ」と言った。喉元までこみあげた、それどこ
ろじゃないとの言葉を鳴賢は何とか飲みくだした。
 だいたい麒麟を昏睡に陥れることが目的だったなんて、それもおかしな話だ。
王を殺す、麒麟を殺す、王位を乗っ取る――どれも大罪とはいえ、人なら誰し
も持つ醜い感情、すなわち権勢欲、復讐心、嫉妬心などに立脚しているだけに、
理解することは可能だ。だが麒麟を王の身代わりに求める暁紅の本心がどこに
あるのか、鳴賢にはさっぱりわからなかった。
「し、使令で――そう、使令でこいつを捕らえてください。その間に俺が国府
に走って、衛士を呼んで――」
「鳴賢」
 興奮した鳴賢を、六太は静かにたしなめた。その控えめな威厳に、鳴賢は黙
らざるを得なかった。
「よく見てくれ。どう見ても、この女は余命いくばくもない。今だって命を永
らえているのが不思議なくらいだ。そんな女を捕らえて乱暴したら、その場で
絶命してしまうかもしれない。仮に捕らえたとしても、すぐ死ぬ者が脅しなど
に屈するとも思えないし、何より衛士が来る前に自害しない理由もない。そう
なれば王は助からない」
 六太の言うとおりだった。暁紅が最初から余裕のまなざしでふたりに相対し
ていたのがその証拠。今さら何をしようと事態は動かないと睨んでいるからこ
そ、彼女はいろいろなことを語ったのだろう。そんな彼女を捕らえることは、
すなわち王を見捨てること。
 だが。
「主上のことは残念です。でも台輔がいれば」
 王を見捨てても麒麟がいる。麒麟がいれば、新たな王を選ぶことができる。

230永遠の行方「呪(139)」:2009/09/17(木) 20:53:30
 そんな鳴賢の心中を察したのだろう、六太はゆっくりと首を振った。
「それはできない」
「台輔!」
 鳴賢は悲鳴に似た叫びを上げた。だが六太は「俺には王を見捨てることはで
きない」ときっぱり言い切ると、暁紅に向きなおった。
「おまえの真の狙いはわからないが、真実、俺が身代わりになることで王が助
かるのなら幸いというものだ。その意味では――そう、俺は間に合ったんだな。
あの書簡を開き、助言を求めておまえの元にやってきた。それ自体はおまえの
目論見どおりだったとしても、俺は最後の賭けに勝った」
「王を助けるとでも言うの? おまえに自分を犠牲にできると?」
 嘲笑った暁紅を尻目に、鳴賢は必死で六太に訴えた。
「そんな! 飲まず食わずで眠り続けたら死んでしまいます。そうなったら結
局は主上も死んでしまう。同じことだ!」
 一瞬きょとんとした六太だが、すぐに合点がいったようにひとりうなずいた。
「ああ、そうか。おまえはまだ神仙についてよく知らなかったな」そう言って、
笑みさえ浮かべて説明する。「只人と異なり、神仙は飲まず食わずでも相当も
つんだ。王が半月も眠っていながら生命に何ら危険が及ばないのがその証拠。
おまけに麒麟は天地の気脈から力を得ることができるから、安静状態ならおそ
らく何十年眠ろうがまったく問題ないだろう。そして意識の有無に関わらず、
俺が生きてさえいれば王の生命に別状はない」
「そんな問題じゃ――!」
「安心なさい」暁紅が楽しそうに口を挟んだ。「本当に身代わりになるという
なら、おまえが昏睡に陥ると同時に王は目覚める。それは保証するわ。それに
この呪は必ず解除条件を定める。だからおまえの眠りも永遠ではない」
 鳴賢は彼女を振り返った。光州の人々を害し、王を眠らせ、今また麒麟に身
代わりを迫りながら、その眠りはいつかは解けるという。いったい何を狙って
のことなのか、見当もつかなかった。狂人に論理を求めるのは無駄かもしれな
いが。
「――だからおまえの一番望まないことが起きたら、眠りから覚めるようにし
てあげる」

231永遠の行方「呪(140)」:2009/09/18(金) 20:14:15
 にこやかに告げた彼女に、呆気にとられた鳴賢はすぐ「おまえは狂ってる」
と吐き捨てた。
「あら。それとも――そう、いっそ王が死んだときに目覚めるほうがいいかし
ら」
 六太は顔をこわばらせた。頭を振った鳴賢は「話にならない」と言い捨て、
暁紅に指をつきつけた。
「おまえは詐欺師だ。大げさに言いたてて不安をあおり、もっともらしい嘘を
吐き、自分の望む方向に誘導しようとしている。だが残念だったな。そもそも
どうやって台輔の心の中を知る。台輔がもっとも望まないことを知る。だいた
い自分が真実、何を望んで何を望まないかなど、当人にだってわからないもの
だ。人の心はそれほど単純じゃない。なのにそんな不確実なことを眠りから覚
める条件にすると言い切ること自体、おまえが俺たちを騙そうとしている証拠
だ」
「……潜魂術か」
 つぶやいた六太をはっとして見やる。六太の顔は真っ青で今にも倒れそうだ
ったが、それでもしっかりと立っていた。
「そういう呪があることは知っている。他人の精神に忍びこみ心の内を探る、
危険で高度な術だ。なぜなら肉体であれ精神であれ、他人に干渉する術はすべ
て、相手の抵抗に由来する反動が生じるからな。だが潜魂術の場合、まず相手
が術を受け入れなければならないはずだ」
「そう。だからおまえはわたしを受け入れなければならない。受け入れて、心
の内をすべてさらけ出さねばならない」
「だまれ!」
 鳴賢はわめいた。なぜ自分は六太の求めに応じ、こんな女の家に案内してし
まったのだろう。これで麒麟にもしものことがあれば、悔やんでも悔やみきれ
ない。
「台輔、これも何かの罠です。謀反をたくらむようなやつが、自分の目的を正
直に言うはずがない。きっと嘘をついて――そう、何か、台輔しか知らない重
大な機密を握ろうとしている。それが目的だから、主上を眠らせて台輔をここ
へおびきよせたんだ!」

232永遠の行方「呪(141)」:2009/09/18(金) 20:29:15
「俺しか知らない国家機密などないよ……」六太は力なく笑った。「仮にそん
な機密があったとして、余命いくばくもない女が知ってどうする? どうにも
ならない」
「しかし、台輔」
「王朝を滅ぼすことが目的なら、このまま事態を放置すればいい。たとえ王の
命に別状がなくても、王が玉座にいなければ遅かれ早かれ国は傾くのだから。
それをせずに身代わりになれというのなら、この女の狙いは確かに俺なんだろ
う」
 まんまと相手の話に乗せられかけている六太の様子に、鳴賢は何とかせねば
と必死に考えた。なぜここまで素直に相手の言葉を聞いてしまうのだろうと、
憤りさえ覚える。
 もともと六太は相手を疑ったりしないほうだし、彼が麒麟であることを知っ
た今、それも慈悲の生き物の性分と考えれば納得はできる。しかしそれと謀反
人の言い分に耳を傾けることは話が別だ。
「すべてはおまえ次第。見てのとおり、わたしの余命は短いわ。光州の呪環を
完成させるまで永らえるつもりだったけれど、もしかしたら数日も保たないか
もしれない。このまま黙って立ち去るか、別の運命を選ぶか、早く決めなさい。
わたしはどちらでもかまわない。どんな形であれ、おまえと王が苦しみさえす
ればいいのだから」
 涼しい顔で言ってのけた暁紅を、六太は凝視した。
「俺と王を苦しめるために……?」
 沈黙。
「俺たちを――俺と王を恨んでいるのか?」
 投げられた問いには答えないまま、やがて暁紅はこう言った。
「でもわたしにも慈悲はあるから、おまえの苦しみを最小限にしてあげる。呪
の眠りは夢をもたらさない。おまえは何も感じず、何も考えず、ただ呼吸をし
ているだけの木偶(でく)になる。暗黒に呑まれ、時の流れから切り離されて
昏々と眠り続ける。悦びもない代わりに、悲しみも苦しみもない」
「狂ってる……」
 つぶやく鳴賢の傍ら、しばし考えこんだ六太は静かに問うた。

233永遠の行方「呪(142)」:2009/09/18(金) 21:03:38
「麒麟の生命は王の生命とつながっている。その呪が俺の生命を脅かさないと
約束できるか? 俺が昏睡に陥ると同時に王は目覚め、王の生命にも健康にも
害は及ばないと保証できるか?」
「そのように計らったと言ったでしょう。信じられないのなら、何よりも我が
身が可愛いのなら、黙ってここを立ち去ることね」
「俺には多くの使令がいる。そいつらはどうなる? 同じように意識を封じら
れるのか、それとも自由に動けるのか。ほとんどはこの場で俺の影に陰伏して
いるが、身辺から離れている者もいる」
「影の中の使令はおまえとともに封じられる。他はどうなるか試してみる? 
完全に意識を封じられ、息をしているだけの木偶と化した麒麟の使令が暴走し
ないかどうか」
 わずかな躊躇のあと、六太はうなずいて「わかった」と答えた。
「離れている使令もすべて呼び戻す。俺はおまえを拒まない。潜魂術でも何で
も使うがいい」
「台輔!」
 今度こそ悲鳴を上げた鳴賢に、六太はなだめるように言った。
「さっきも言ったとおり、人の身体や精神に干渉する術は呪者に相当な負担を
かける。何よりも人の心の中は、常に変化する迷路のようなものと聞く。だか
ら潜魂術は、術者を迷路で迷わせないために、受け手が術を受け入れる必要が
あるのだと。ならば目的の情報以外はほとんど読みとれないだろうし、俺の最
も望まぬことが何かくらい、すぐにでも死ぬ女に知られても大した問題じゃな
い。むしろ余力のある今のうちにやってもらわないと王が助からない」
「でも――でも――!」
「鳴賢……」
「夢も見ない眠りなんて――死と同じじゃないか!」
 ついに鳴賢は泣き声を上げた。顔も知らず姿を見たことさえない王は、むろ
ん尊崇の対象ではあるものの、彼にとって記号と同じだ。だが六太は違う。何
年も何年も、友人として過ごしてきた。ともに騒いで楽しい時間を共有し、さ
さいな喧嘩をし、悩みを語り合い――。
 しかもその大事な友人の危難に、自分は何の役にも立たないのだ。

234永遠の行方「呪(143)」:2009/09/19(土) 19:49:36
「いつかは目覚めるだなんて、本当にそのいつかはやってくるのか? 考えた
くはないだろうけど、もし主上が謀反や事故で逝去なさってしまったら! 眠
り続ける六太は次の王を選べない。主上がおられなくなり、眠る麒麟だけが残
されたら……」
 続く言葉はさすがに口に出せなかった。仮朝を預かる官吏たちは、悩みつつ
も国家のために非情な決断をくだすだろう。次の麒麟を得るために。
「だとしても、だ。今ここで王が助かるのなら、俺はそれでかまわない」
 六太はそう言って笑ってみせた。鳴賢は絶望と混乱に囚われたまま、もう何
も言うことができなかった。
 ほんの数刻前まで変哲のない日常の中にいたというのに、この違いはどうだ。
想像だにしなかった事件に突然投げ込まれ、力も知識もないまま、ただ成り行
きを見届けることしかできない。
 何か見落としがないだろうか。暁紅の言に、明らかな矛盾、罠の匂いはない
だろうか。
 ――あるに決まっている。自分が気づかないだけで。
 鳴賢は思ったものの、何をどうすべきなのか彼にはわからないのだ。限られ
た時間の中、それもこの場においてどうすれば最上の決断になるのかなど、一
介の大学生に判断できるはずもなかった。
「で。俺はどうすればいいんだ?」
 尋ねられ、暁紅は目の前の床を無造作に示した。
「そこに横たわり、目を閉じなさい」
「台輔に無礼だろう!」
 鳴賢は憤慨して叫んだが、六太は素直に床にあおむけになって目を閉じた。
暁紅は阿紫に支えられながら傍らに座り込み、黒紗の中からただれた片手を伸
ばすと、掌を六太の胸に置いた。その有様を間近で見守ることしかできない鳴
賢は、せめて何か重大なことを見落とすことがないようにと、懸命に目を凝ら
した。
 だが暁紅が一言二言何かつぶやいただけで、特別なことは何も起きなかった。
誰ひとり身じろぎする者のないまま、時間だけがひっそりと過ぎていった。
 そして。

235永遠の行方「呪(144)」:2009/09/19(土) 20:00:11
 さだかではないものの四半刻も経ったかに思われた頃、不意に暁紅がくずお
れた。伸ばしていた腕をだらりと垂らし、六太の傍らで完全に力を失って倒れ
こむ。ずっと彼女を介助していた阿紫が顔色を変え、それでも声は出さずに女
主人の体に手を添えた。
 鳴賢は息を殺して、その様子をじっと見ていた。床に倒れこんだまま微動だ
にしない暁紅に、もしかして死んだのかもしれないと考える。
 負担をかける術だと六太は言った。その術が、予想外に暁紅の体力を奪った
のではないか。だとしたら王を救うことはできないかもしれないが、六太は助
かる。
 そうは思ったものの、六太も目を閉じたまま動かないことに気づいてぞっと
する。
 人の心は迷路に似ていると六太は言わなかったか。もしや暁紅はその迷路の
中で迷ったのではないだろうか。そしてその干渉が、六太にも悪影響を及ぼし
たのではないだろうか……。
 だが、やがて暁紅がわずかに身じろいだ。同時に六太もかすかにうめいてぼ
んやりと目を開き、鳴賢を複雑な思いにさせた。
 見守る中、いったい何を思ったのか暁紅がくすくすと笑いだす。それはすぐ
に明らかな嘲弄となり、彼女はおかしくてたまらないとでも言うように、大声
を上げてけたたましく笑いはじめた。鳴賢は呆気にとられた。
「これが――これが麒麟……。なんてあさましい――!」
 堰を切ったように笑い続ける暁紅の傍ら、六太が悄然とした面持ちでゆっく
り体を起こした。暁紅は黒紗の奥に満面の笑みをたたえたままこう告げた。
「気が変わったわ。最も望まないことではなく、おまえの最も望むことがかな
ったとき眠りから覚めるようにしてあげよう。おまえの最大の願望の成就が、
昏睡の呪縛を解くようにしてあげよう」
 彼女の意図を理解できず、鳴賢は目をしばたたいた。これも何かの罠か。と
はいえ望まぬことではなく、望みがかなったときに呪が解けるというのなら少
しはましかもしれないとは考える。同時にどこか引っかかるものを覚えて妙に
気が急いたが、それが何かはわからなかった。
「――鬱蒼とした山林。草を踏みしだいて去っていく足音。二度と振り返らな
い背中。衣笠山」

236永遠の行方「呪(145)」:2009/09/19(土) 20:11:11
 上体を起こしたまま、頭痛でもするのか額を押さえていた六太が、はじかれ
たように顔を上げた。驚愕の面持ちで暁紅に目を向ける。
「待っているなんて嘘。死を受け入れたなんて嘘。おまえは父親が振り返って
駆け戻ってくるのを望んでいた。すまなかったと言って、ふたたび手を引いて
ともに帰ることを望んでいた。民意の具現? 慈悲の塊? とんでもない!」
 くっくっと笑った暁紅は阿紫に助けられ、よろめきながらも元の榻に戻った。
声の力強さとは対照的に弱々しい足取りだったが、それでも彼女は黒紗の奥で
目をきらきらと輝かせて六太を見た。
「この王朝が安寧のままに続くこと、それはおまえの第三の願いにすぎない。
そして王を選ぶ役目を負いながら、それこそがおまえの存在意義の最たるもの
でありながら、王が死ぬときはともに逝くことを願っている。王朝の安寧を願
うより王と麒麟を失った国を案ずるより、責任を投げ捨てることを望んでいる。
それが第二の願い」
「それがどうした」
 うつむいてしまった六太を尻目に、鳴賢は腹立たしい思いで吐き捨てるよう
に言った。暁紅が放った言葉の意味はよく理解できなかったものの、六太を貶
めようとしていることだけはわかったからだ。
「雁の民すべてにとって主上は大切なおかただ。おまけにこれだけ長く仕えて
きたなら、そのおかたに殉じたいと思っても何の不思議もない。民だろうと官
だろうとそれは同じだ」
 延王は五百年もの間この国に君臨している、神のごとき賢帝だ。想像力がな
いことを自覚している鳴賢でさえ、王の近臣らが主君に対していだいているだ
ろう尊崇と思慕の念くらい容易に想像できる。長く仕えていればいるだけ、最
期をともにしたいと考えるだろうことも。
 むろん実際には悲しみに暮れながらもやがて立ち直り、自分の人生をまっと
うしていくものだ。親を失った子供、伴侶を失った妻や夫が、涙のあとで新た
な生き方を模索するように。
 だが暁紅は彼を無視し、暗い顔でうつむいたままの六太を責めるように、さ
らに言葉を投げつけた。「あさましい」と。
「自国の麒麟の最大の望みが、王の長寿でも国の安寧でもないなんて誰も思わ
ないでしょうね。でもおまえはそれを知っている。どれほど自分が愚かしくて
あさましいか、聖なる神獣、慈悲の具現と言われながら、その実どれほど自分
が可愛いか。おまえの願ってやまないことが何かを知ったなら、民はどれだけ
失望するかしら。どれほど愚かしい望みを抱いているか知ったなら」

237永遠の行方「呪(146)」:2009/09/19(土) 20:33:00
 無礼な物言いに憤りを高める鳴賢とは逆に、六太は唇をかみ、沈黙を守った
まま一言も発しなかった。それをいいことに暁紅は次々とあざけりの言葉を投
げつけた。
「胎果というのはあわれなものね。蓬莱でのおまえはただの足手まといだった。
親にとっては遺棄するしかない邪魔な子供だった。でもそれがおまえの真の姿。
この世界で大切にされ、かしずかれているのは、ただ天帝から王を選ぶ役目を
負ったという一点のためだけ。おまえ個人が何を思おうと、そんなことは何の
価値もありはない」
「六太は六太だ」
 鳴賢はとっさに反駁しようとしたが、投げつけられた内容への理解が足りな
いのとあまりにも憤りが大きすぎるのとで、それ以上は言葉にならなかった。
 それでも蓬莱との連想から、六太が異世界で親に捨てられたと言っていたこ
とを思い出す。麒麟と言えど、蓬莱では普通の人間として生まれたということ
だろうか。金の髪を目の当たりにしながら、誰も彼が麒麟だと気づかなかった
のだろうか。鳴賢にはそれは不思議なことに思えたが、本来なら大勢の侍者に
かしずかれ、敬われつつ大切に大切に育てられるはずだったろうにと思うと、
偶然卵果が流されたばかりに辛酸をなめた六太が気の毒でならなかった。
 だが六太自身は何も言わず、責められるがままに甘んじていた。まるでなじ
られるのが当然だと思っているかのように。
 ひとしきり暁紅が責め、やがて気が済んだのか笑みを含んだ顔で口を閉じる
と、六太はようやく顔を上げた。しかしながら鳴賢の想像とは裏腹に、彼の表
情からは既に翳りは失せており、憤りも焦りも窺えないどころかむしろ穏やか
な様子だった。
 彼は相手に慈愛のまなざしとしか思えないものを向けて言った。
「まだよくわからないが、俺がおまえを傷つけたことがあるなら申し訳なく思
う。俺はこんなふうだからいつも考えが足りず、意図せずに誰かを傷つけてし
まうことがままある。何しろ王に対してさえもそうだからな。だからそれでお
まえの気が済むのなら呪でも何でもかけてくれ。ただ、あとで自分が後悔する
ようなことだけはしないでほしい。なぜならそれで苦しむのは俺ではなく、お
まえ自身だから」

238永遠の行方「呪(147)」:2009/09/20(日) 19:50:34
 鳴賢は呆気にとられた。それは暁紅も同じだったらしく、彼女は見るからに
唖然とした顔になった。
「紙と筆をくれないか」彼らの反応に大して注意を払わず、六太は頼んだ。
「俺が昏睡に陥ると同時に王が目覚めるなら、国政に関する心配はいらないだ
ろうが、官に伝言を残しておきたい。これでも一応宰相なんでな。その伝言を
鳴賢に託したいんだが、彼には手を出さないでくれるな?」
「六太!」
 本当に謀反人に言われるがままに呪にかけられるつもりなのか。鳴賢は今さ
らながらにぞっとなった。一方暁紅は、狼狽を取り繕おうというのか「勝手に
なさい」とそっけなく答えた。彼女に軽くうなずいた六太を見て、何とかしな
ければと必死に考える。何とか――。
「頼む、六太とふたりきりで話をさせてくれ」
 先ほど覚えた引っかかりの正体を悟った鳴賢はあわてて暁紅に頭を下げた。
 六太から、彼が最も望んでいることを聞き出す。どうやら彼はそれをはっき
り自覚しているようだし、それなら自分は聞いたままを国府に伝えるだけでい
い。本当に呪の解除条件がそれなら六太を助けることができる――そう考えた
のだ。
 小馬鹿にしたような視線を暁紅に向けられ、鳴賢は焦った。何しろ先ほどま
でなじっていた相手だ。もう少し手加減すれば良かったと後悔しながら、彼は
懸命に言い募った。
「六太には友達も多いのは知っているだろう。そいつらに向けた伝言も聞いて
おきたい。本当にこれが六太と言葉を交わせる最後なら、せめてそれくらい許
してくれ。何も知らなかったとはいえ、俺がここに六太を連れてきたんだ。そ
の後悔のまま一生を過ごすなんて耐えられない。麒麟が王の身代わりになるこ
とが避けられないなら、せめて最後に少しでも役に立ったと思えることをさせ
てくれ」
 すると暁紅は思いの外あっさりと「好きなようにすればいい」と答えた。こ
れで謀反人の裏をかけると確信した鳴賢は心の底から安堵したが、それを相手
に気取られないよう気を引き締めた。
 暁紅は阿紫に命じて紙と筆を取りに行かせ、戻ってきた阿紫は大卓にそれを
置いた。うなずいた六太を意味深な微笑とともに一瞥した暁紅は、阿紫の介添
えにすがって房室を出ていこうとした。

239永遠の行方「呪(148)」:2009/09/20(日) 19:54:29
「言伝は短い。すぐに書き終わる。出ていく必要はない」
 鳴賢の腹の内を知らない六太が彼女を引き留めた。鳴賢の希望を打ち砕く言
葉だったが、とうに覚悟を決めた彼が万が一を考えて言ってるのはわかった。
どう見ても暁紅が重病人なのは確か。席を外している間に彼女の息が絶えるこ
とを恐れているのだ。少なくとも時間が経てば経つほど、不測の事態が起きて
王を助けられなくなる可能性はあるのだから。
 鳴賢としては望むところだが、主君を限りなく尊敬し慕っているに違いない
六太にしてみれば確かにそれを懸念しても無理はない。
「俺も六太と最後に話したいんだ」
 敵が間近にいるとあって、目配せなどでほのめかすこともできない。鳴賢は
必死の思いで訴え、自分の意図が通じるよう念じた。さらに暁紅に向き直り、
再度頭を下げる。
「おまえは永遠の眠りではないと言うが、現実にはこれが台輔と言葉を交わせ
る最後の機会かもしれない。ならば台輔の言葉を他の者に伝えるのも、この場
に居合わせた俺の務めだ。余人を交えずに話したい。そんなに長くはかからな
い」
 幾度も幾度も必死に頭を下げる鳴賢を、何の感慨も窺えない顔で眺めやった
暁紅は、沈黙を守ったままあっさり扉の向こうに姿を消した。扉が静かに閉ま
ると、吐き気をもよおす甘い匂いが少し薄らいだ。
 扉に耳を当てて向こう側の様子を窺い、本当に大丈夫だと見極めてから六太
に向き直る。それから「すまない」と言って六太にも頭を下げた。
「台輔の――いや、六太の気持ちはわかる。でもあいつらのいないところで話
をする必要があったんだ」
 意味が分からないような顔をした六太に説明する。
「六太があいつの言葉を信じるなら、俺はもう何も言わない。俺なんかに口を
出せることじゃないから。でもあの女が確かに真実を語っているとしたら、主
上も六太も助かる方法がある」
「……どうやって」

240永遠の行方「呪(149)」:2009/09/20(日) 20:03:23
「あいつが言っていたことを教えてくれ。六太の最も望んでいることは何か、
こっそり俺に教えてくれ。そうすれば俺は国府に駆け込み、役人にそれを伝え
る。六太の望まないことが、王朝の滅亡だの民の困窮だのといった悲惨な事態
だろうことは想像がつく。でも最も願っていることなら。それならきっと誰も
傷つかないんだろう? むしろ良いことなんだろう? 多少の困難はあったと
しても、時間はかかったとしても、目指すべき結果がわかっていれば何とかな
る。そうすればいったんは呪にかけられたとしても、遠くない時期に確実に解
くことができる」
 だが六太は疲れたように笑っただけだった。怪訝な顔をした鳴賢の前で、彼
はいったん床に視線を落とし、何やら考えこんでから顔を上げた。その面を彩
るのは穏やかで淋しげな微笑だった。
「俺は俺の望みを知っている。あの女に言われたとおり、あさましい願い事だ。
そしてそれは絶対に成就しえないことだ」
「そんなの聞いてみなきゃわからないじゃないか」
 六太は深く溜息をついた。
「暁紅がなぜおまえの願いを聞き入れて俺とふたりきりにしたと思う? 俺が
絶対にそれを口にしないと知っているからだ。俺の最大の願い事が絶対に成就
しえないことをわかっているからだ。だから俺を苦しめるために、呪の解除条
件にすると言ったんだよ」
 鳴賢は言葉に詰まった。
「まさか、そんな」
「潜魂術をかけられたとき、俺にもあの女の思考が少し読みとれた。というよ
り勝手に流れ込んできた。あの術は両刃の剣だな。いずれにしろ、理由はとも
かく確かに暁紅は俺と王を恨んでいる。王が昏睡から覚めないことで俺が苦し
んでいることを喜んでいるし、逆に俺が昏睡に陥ったなら、実質的に麒麟を失
う前代未聞の事態に王が苦しむだろうと想像して喜んでいる。王を弑逆しなか
ったのは、おそらく昏睡の呪にかけるほうが簡単だったからだろう。単に成功
する可能性が高いほうを選び、実際に成功した。そしてどうやら肉体的により、
精神的に苦しめるほうを望んでいるらしい。
 もっとも俺が眠りに囚われても、実際には王はさほど苦悩しないと思う。麒
麟が生きてさえいれば王の生命に別状はないし、そもそも単に長く生きている
というだけで、実のところ俺は大して国政の役に立ってはいないんだ。だから
これからおまえに託す言伝さえ伝われば、この国は何の波乱もなく平和に続い
ていくはずだ」

241永遠の行方「呪(150)」:2009/09/20(日) 20:14:28
 声もない鳴賢に、六太は笑った。
「考えてもみろよ。俺はもう五百年も生きてきたんだぜ? 只人の何倍も生き
たんだから、たとえ今日命が終わったって恨む筋合いはないだろ。それに実際
には昏睡に陥るだけで死ぬわけじゃない。少なくとも暁紅が本当にそう考えて
いることはわかった。俺としては確証を得られてかなりほっとしたし、正直、
王が助かるならこういう目に遭うのもありかな、と思った」
 あまりにも淡泊な物言いに鳴賢は愕然とした。飛仙ゆえの厭世観と六太は言
ったが、もしや生きることに飽いているのは彼自身だったのだろうか。暁紅に
投げた問いは六太の本心でもあったのだろうか。麒麟の生命が王とつながって
いなければ、彼は死そのものさえも簡単に受け入れたのだろうか。
 だが六太はさらにこうも言った。
「蓬莱のある世界では、好機の女神には前髪しかないという言い方がある。出
会ったときすぐつかまないと女神は素通りしてしまい、好機をつかむことは二
度とかなわないんだとさ。ならば俺にとってこれこそが好機だ。たとえそうで
はないとしても、逡巡している余裕はない。機会を逃し、あとになって最初で
最後の好機だったことに気づいて生涯後悔するより、俺はこの機会を選ぶ」
 彼にとって、王は自分の命より大事な存在なのだろう。決して生に飽いてい
るのではないのだ。ただ王を救うためなら自分がどうなろうとかまわないのだ。
 黙り込んでしまった鳴賢を前に、六太は大卓の前の椅子に座ると筆を取った。
墨に穂先を浸し、いつもの達筆で紙の上にさらさらと文字を連ねる。傍らで見
るともなく見ていた鳴賢は、簡潔で残酷な文言がしたためられるのを目の当た
りにした。
 まず前提として、呪者との取引により王の身代わりになることを決断したと
いう事実、それを縁あって知り合った赤烏という青年に託すが、彼には何の落
ち度もないことが説明された。そして官への指示が淡々と記される。
 もし王が道を失った場合、国を荒らさないために早い段階で自分を殺すこと。
そして王が崩御した場合も、昏睡状態では新たな王を選べないので、次の麒麟
を得るために自分を殺すこと。
 ――それだけ。
 やはり六太は死を覚悟しているのだ。書面が言伝という名の遺言であること
をまざまざと感じた鳴賢は、彼の決意の度合いにもう何も言えなかった。

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次の投下までしばらく間が開きます(今回はそんなに長く開かないと思いますが)。

242名無しさん:2009/09/22(火) 02:16:51
ぅぉぉぉぉぉ…!!
ついにキターーーーー!
切ない
テカりながら待ってます

243永遠の行方「呪(151)」:2009/09/24(木) 20:13:02
例の新作が発表になるとしばらく世界にひたってしまうかもしれないので(前回そうだった)
とりあえず4レスぶんだけ投下して行きます。その後はたぶん間が開きます……。
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 署名をし、別の紙を上から押しつけて墨を吸い取らせた六太は、伝言を折り
畳んで鳴賢に差し出した。
「俺が呪にかけられたら、これを国府に届けてくれ。押印がなくとも、筆跡か
ら俺の直筆だとわかるはずだ」
 震える手で紙を受け取る。そのとたん鳴賢は足下から震えが立ち上ってきて
床に座り込んでしまった。困ったような顔をした六太を見て、自然と涙が溢れ
てくる。
「六太……」
「気にするな。おまえのせいじゃない」
 穏やかな笑みを向ける相手に、鳴賢は泣きながら「ごめん……ごめん……」
と繰り返した。何と慰めを言われても、ここに彼を連れてきたのは自分なのだ。
 六太はそんな彼を黙って見つめていたが、やがてこんなことを語りだした。
「知ってのとおり俺は胎果だ。五百年前、卵果が蓬莱に流されて向こうで生ま
れた」
 優しいまなざしに、鳴賢は嗚咽しながらも何とかうなずいた。
「蓬莱はこことは違う理のもとに成り立っている世界で、天帝もいなければ麒
麟もいない。そもそもこちらの世界のことはまったく知られていないんだ。だ
から家族はもちろんのこと、俺自身でさえ自分を人間だと思っていた。おまけ
に貧しい家でさ、毎日食っていくのがやっと。なのに当時は戦乱の世で、蓬莱
中がきな臭かった。住んでいた都も敵の焼き討ちにあって燃え、俺の家族も焼
け出されて浮民同様の生活を強いられた。そのとき俺はまだ四つ。自分の食い
扶持さえ稼げない末っ子の俺は厄介者でしかなく、両親は生き延びるために俺
を山に捨てた。もう顔も名前も忘れてしまったけれど、俺の手を引いて山に連
れていった父が、振り返りつつ去っていった後ろ姿をまだ覚えている。俺はす
べてわかっていて、そうせざるを得なかった家族の事情を酌み、その場にとど
まった。そして、何せ飢えかけている四つの子供だから、三日も過ぎるころに
は身動きすらできなくなった。だが幸いにも俺の女怪、これは麒麟と生死をと
もにする乳母代わりの生き物だが、その女怪がようやく俺の居場所を捜し当て
て蓬山に連れ帰ったんだ」

244永遠の行方「呪(152)」:2009/09/24(木) 20:15:42
 淡々と語られる数奇な身の上。過去の六太のさまざまな言動を思い起こし、
すべてはこの生い立ちに立脚したものであったのかと、鳴賢はやっとすべてに
得心がいく思いだった。
「衰弱しきってほとんど意識がなかったこともあり、当時のことはよく覚えて
いない。そもそも麒麟は、こっちでは五歳くらいまで獣型で、人としての意識
はないんだ。そのため五歳を過ぎて人型を取り戻した俺は、やっと周囲の女仙
と言葉を交わせるようになり、蓬莱でのことも思い出した。そのとき言われた
んだ、俺は麒麟で王を選ぶ役目を負って生まれてきた神獣だって。蓬莱では俺
の家族を含め、戦に明け暮れる為政者に民がさんざん苦しめられたのに、今度
は俺が、民を虐げる為政者を選ばなければいけないんだって。それを聞いて心
底ぞっとした。おまけに王になりたくて昇山してきた連中はろくでもないやつ
ばかりで、彼らとの対面に俺は辟易した」
 王の選定を嫌がる麒麟。さすがに六太はすまなさそうに複雑な微笑を向けた。
「とはいえそのためだけに生まれてきたというなら、王を選ばなければ俺の存
在意義はない。それで十歳のとき、女仙を拝み倒してこっそり雁に連れていっ
てもらったんだ。『生国』を見れば、役目を果たす気になるかと思って。
 でもその時代の雁は、蓬莱よりずっとむごい有様だった。失道した前王はた
ったの三年で雁を焦土に変え、さらに次の麒麟は新たな王を見つけられないま
ま寿命を迎えてしまった。天の加護を得られずに数十年を経た国土は荒れ果て、
妖魔でさえ飢え死にするほどの荒廃だった。見渡す限り一片の緑もなく、黒々
とした荒野が広がる惨状に俺は震えた。蓬莱での記憶が蘇り、俺の選ぶ王がこ
の国に、民に、とどめを刺すだろうことを予感し、俺は役目を放って逃げ出し
た。逃げて ――蓬莱に帰った」
 雁の民が知っているのは、麒麟が蓬莱で王を見つけたという事実だけ。当然
ながら、王を探すための蓬莱行だったと、誰もが思いこんでいる。
 それを知っているからだろう、六太はいったん言葉を切り、泣き濡れた顔で
座りこんでいる鳴賢に「夢を壊してごめんな」と謝った。
「そ、んな。謝らないで――くれ――」
 鳴賢は声を震わせながら、何とかそれだけ言った。

245永遠の行方「呪(153)」:2009/09/24(木) 20:17:52
 彼自身はむろん折山の荒廃を知らない。単に書で読み、知識として知ってい
るだけだ。しかし実際にそれを目にした相手、それも親しい友人から生々しく
語られると、六太のような生い立ちの幼い麒麟が酷い光景に衝撃を受け、動揺
のあまりそんな行動を取ってしまったのも仕方がないように思えた。むろん普
通の麒麟なら、だからこそ「早く王を選んで国土を安んじなければ」と考える
のだろうが、そもそも麒麟が只人と同じように悩み苦しむなど、鳴賢は想像す
らしたことはなかった。王とて元は人だ。だが麒麟は蓬山で生まれ育つ特別な
神人なのだから、無意識のうちに浮き世を超越している存在だと思いこんでい
た。
 いずれにしろ十歳といえば、彼自身は小学に通っていた頃。国の命運を左右
するほどの重荷を負わせられた者の悩みなど、冗談でも「わかる」などと言え
るはずもなく、ましてや責められるはずもなかった。
「でもそれも結局は、王を選ばずにはいられない麒麟の本能に影響されていた
んだ。なぜなら俺は、蓬莱で放浪した末に王と出会ってしまったから。広い広
い蓬莱で三年もの間、後から思えば最初から王のいる場所を目指していたかの
ように旅をしていた。そして相手を見た瞬間に、俺にはそいつが王だとわかっ
た。瀕死の雁の息の根を止める王だと」
「六太……」
「今ならわかる。俺は単に蓬莱で過ごした幼い頃のつらい記憶から、王という
ものが国を滅ぼす存在としか思えず、見いだした王を希望ではなく絶望と感じ
ただけだと。だが結局は俺は彼を連れ帰った。連れ帰って王にした。それから
五百年。見てのとおり、俺が雁を滅ぼすと直感した王のもとで国は繁栄してい
る。危うい局面もなかったわけじゃないが、王はそれを乗り切った」
 話の向かう先の見えぬなりに鳴賢がおずおずとうなずくと、六太は力強くう
なずき返した。そして言った。「ならば最も良いのは、このまま彼に国を任せ
ることだ」と。
 鳴賢は背筋がぞくりとした。思わず口を開いたものの、言葉は出てこなかっ
た。この結論を説明するための告白であったのかと、めまいさえ覚える。王の
選定を嫌がり、王に懐疑的だった麒麟がたどりついた結論。

246永遠の行方「呪(154)」:2009/09/24(木) 20:19:58
「歴史上、短命の王朝は多い。天帝は最も王にふさわしい者に天啓を下すとい
うが、鳴賢も知っているように、実際にはなかなかうまくいかないものだ。今
ここで王を見捨て、俺が次の王を選んだとする。その結果、国が荒れる可能性
は、残念ながら決して低くはないどころかむしろ高い。とすれば現実に事がう
まく運んでいる以上、最善の選択はこのまま王に任せることだ。俺自身が王を
見捨てる気になれないというのもあるが、民のためにも、王と俺とどちらが犠
牲になるべきかと考えれば俺のほうなんだ。
 むろんいずれ王は失道するだろう。もしくは禅譲するだろう。人間というも
のは永遠の重荷を負えるようには作られていないからな。そして史書をひもと
いて歴史の例に学ぶまでもなく、禅譲よりも事故死よりも、失道する可能性の
ほうがはるかに高い。したがって最初の俺の『雁を滅ぼす王だ』との予感は、
十中八九、現実のものとなり、国土はふたたび荒れるだろう。だがそれでも俺
はもう、王を選ぶのを嫌がり、王を信じなかった昔の俺じゃない。
 たとえ王が明日失道したとしても、五百年もの長きに渡って国を支えてきた
功績は確かに存在する。そして王と言えどひとりでは何もできない以上、終わ
らない生の重圧に耐えかねて道を誤ったとしても、それは王だけの責任じゃな
い。ともに国を支えてきた官や民、すべての者が等しく負うべき咎なんだ。全
責任を他者である王ひとりに負わせ、自らの所業を顧みないほど傲慢なことは
ないのだから。
 昔の俺は、王という存在そのものを信用できなかった。だが王はもはや他の
何者にもなれないが、民は官にも王にもなれる。官も民にも王にもなれる。そ
して人は立場が変わると、容易にそれまでの信条を翻したり、過去の自分と同
じ立場の者を虐げたりする。王だから信用できないのじゃない、人の心がうつ
ろいやすいだけだ。王であること、民であること、それ自体で何かを許された
り責められたりするのじゃない。長くかかったが、俺はやっとそう思えるよう
になった」
 これは六太の遺言だ。鳴賢はようやく気づいた。先ほど受け取った言伝はあ
くまで官への指示。だが六太は、最期の言葉を書面ではなく言葉にして鳴賢に
伝えるつもりなのだ。

247永遠の行方「呪(155)」:2009/10/10(土) 12:56:26
 いったん止まった涙がふたたび溢れてくる。
 自分は彼の意志を尊重し、一言一句聞き漏らさず、誠実に国府に伝えるべき
なのだろう。六太自身が倩霞こと暁紅の新居を知っていたらひとりで訪問した
ろうし、そうなればこんな機会を与えられる者もいなかったはず。だからこれ
はむしろ僥倖なのだ……。
 理性でそうは考えたものの、感情は追いつかなかった。つらいのは身代わり
になる六太のほうなのだから、たまたま居合わせた傍観者に過ぎない自分は、
もっとしゃんとしているべきなのに。
 泣き続ける鳴賢に、六太は優しく語りかけた。
「なあ、鳴賢。人は誰しもいつかは死ぬ、それが理だ。しかし死が確実に訪れ
るからと言って、よしみを結ばないとか愛さないと考えるのは本末転倒だよな。
人生の結末だけを見て、その人が生きてきた軌跡をまったく顧みないというこ
とだから。ならば王朝も同じだ。王はいずれ斃れ、王朝はいつか滅びる。だか
らと言って昔の俺のように、はなから王を信じないなんて愚かなことだし、人
というものがいずれ必ず死ぬから知り合わない愛さないと主張するのと同じく
らい馬鹿げた考えだ。永遠に続くものしか信じないという無い物ねだりは、不
遜だし悲しいことじゃないだろうか。だから俺は王を信じるし、五百年もの間、
雁のために粉骨砕身してきた王にこのまま国を委ねたいと思う」
 鳴賢は顔を上げ、泣きながらも「うん……うん……」とうなずいた。そんな
彼を六太はしばらく黙って見つめていた。
「こんなことを言っても無理かもしれないが、あまり気に病まないでくれ」や
がて六太はそう言った。「なぜなら麒麟にはもともと何もない。生命すら自分
のものではなく、王を敬愛するのも天帝に仕組まれた本能でしかないんだ。本
当は自分の意志だってない。言ったろ、王を選ぶのが嫌で逃げ出したはずなの
に、実際は王のいる場所に引き寄せられていただけだったって。麒麟は所詮、
天意を受けるための器、天の傀儡でしかない。さっき暁紅はただ生きているだ
けの木偶になると言ったが、もともと天の木偶なんだから、おまえは本当に何
も気にしなくていいんだ」
 鳴賢は途端に激しい感情が沸き起こるのを感じた。それは憤りに似ていたが、
とてもやるせなく切ない感情でもあった。
 彼自身も今まで、他の民と同じく延麒について一方的な幻想のみをいだいて
いた。慈悲深く気高く、雲の彼方に住まう至高の神人だと。それは王について
民が考えるのと同じく、尊崇という言葉を理由に個性はまったく問題にしない
ものだった。麒麟の存在意義は民に慈悲を施すこと。何を思い悩もうと、いや、
麒麟が民への慈悲以外に思い悩む可能性があることさえ考えが及ぶことはなか
った。

248永遠の行方「呪(156)」:2009/10/10(土) 12:58:49
 だがそれは単に当人を直接知らなかったからにすぎない。今、延麒が六太だ
と知った。六太は六太だ、誰とも違う。
「六太は六太だ」
 感情に突き動かされるまま、やっとのことでそれだけ言った。先ほど暁紅に
言ったのと同じ言葉を。六太はまた少し笑ってみせたが、それはとても淋しそ
うに見えた。
 鳴賢は悟った。自分の意志というものがあるか否か。人として、自我を持つ
者として根元的なそんな事柄さえ、六太はずっと確信を持てずにきたのか。天
意を伝える者として敬われながら、本当は自分というものは存在しないのでは
ないかと長い間心の底で怯えていたのか。
「ありがとな。でも――もう、いいんだ」
 淋しそうな笑顔に、鳴賢はとっさに「あきらめないでくれ」と言いかけた。
しかし結局口には出せなかった。こんな状況で無責任な気休めを言えるはずが
ない。だがせめて――せめて。希望とは言わないまでも、何か六太の心にささ
やかな灯火がともるようなことを。
 先ほど渡された言伝を握りしめる。
「これは俺がちゃんと国府に届ける」
 きっぱり言い切ると、六太は微笑とともにうなずいた。
「ただ、これは宰輔として公に準ずる文書のつもりなんだろう? 何しろ官宛
の指示だ。それなら書けること書けないこと、いろいろ制約があるんだろうと
の想像はつく。でもせめて主上には私的な言伝を残してもいいんじゃないか?
一介の民に過ぎない俺がこんなことを言うのは差し出がましいが、主上だって
五百年もそばにいてくれた六太がこんな目に遭って、最後に一言でも自分に向
けた言葉を残してくれなかったらお悲しみになると思う。そもそも六太は主上
の身代わりになるんじゃないか。むろんさっき話してくれたことは細大漏らさ
ず国府に伝える。俺ごときに主上への拝謁がかなうはずもないが、これほど重
大なことだ、内容は官吏がすべて奏上してくれるだろう。でも直筆での言伝が
あるのとないのとでは、主上のお気持ちも違うと思うんだ」
 せめて尊崇する王にくらいは、正直な心中を吐露してくれれば。吐き出すも
のを吐ければ六太も少しは気が安まるのではないだろうか……。

249永遠の行方「呪(157)」:2009/10/10(土) 13:01:29
 だが六太は軽い調子で肩をすくめると、「そんなものを残しても、あいつは
うるさがるだろうから」と答えた。
「慈悲の繰り言ばかりだって、いつもうるさがられていたし、最後くらいは静
かにしてやるのが王に対する情けってものだろう」
 冗談なのか、それとも本気で言っているのか。何と応じるべきか迷っている
と、六太はこんなふうに説明した。
「俺たちは――そうだな。王と俺は、主従としてはまあまあうまくやってきた
と思う。でもそれだけだ。俺は第一の臣だが、王はいつだって自分の勝手にや
るから、民にしわ寄せがいくのでないかぎり諫言はするが放っておく。そもそ
も王が俺の諫言を容れた試しはないんだ。俺が――まあ、他の臣でも同じだが、
誰が何を言おうと大勢に影響はない。さっき説明したから、鳴賢もさすがにも
う小説みたいなことは想像していないだろうけど、それでも俺と王がそれなり
に親しいと思っているんだろ? そりゃあ五百年も一緒にいるんだから親しい
と言えば親しいが、俺がいわゆる寵臣かと問われれば違うと答えるしかない。
 ちなみにまた夢を壊すようで申し訳ないが、王が后を迎えず後宮に寵妾も囲
わないのは、単にその必要がないからだ。何しろ適当に街に降りて、その辺の
独り身の男と同じように妓楼で用を済ませているからな。宮城で女官に手を出
す必要すらない」
「……まさか」鳴賢は唖然となった。至高の存在である王が街の妓楼に通う…
…?
「雁じゃ、麒麟が普通に町中を歩いているんだぞ? 王が粗末ななりでその辺
を闊歩していても不思議はないだろうが」
 おどけた笑み。素直にうなずいて良いものやらわからず、鳴賢は目をしばた
たいた。
「おまけに妓楼と言っても高級なところとは限らない。何せあいつは、うさん
くさい場所にも平気でもぐりこむからな。賭場で負けて無一文になり、その安
っぽい女の元からさえ叩き出されることもある。それでもどういう奇跡か国は
治まってるんだから大目に見てやってくれ。これでも五百年前よりは随分大人
しくなったんだ。何しろ宮城にいる時間も長くなったからな。少なくとも何ヶ
月も行方をくらまさなくなった」

250永遠の行方「呪(158)」:2009/10/10(土) 13:04:10
「あ、ああ……」
 どうやら本当らしいと踏んだ鳴賢は何とかうなずいた。だが内心の落胆は隠
しようもない。「宮城にいる時間が長くなった」って、そもそも王が宮城にい
るのは当然だろうと思うのだが。
 六太はにやりとすると「ま、そういうわけで」と続けた。
「それだけ好き勝手やってきた破天荒な王だから、この期に及んで俺の私信は
必要ない。むしろ心配なのはあいつが失道したあとだ。だから官への言伝を書
いた。それに俺が永遠に目覚めないなら、これから先、王宮では俺のことを物
として扱ってほしいと思っている。はっきり言えば見捨ててほしい」
 軽い感じで王について語られたあとだけに、思いがけない話題の転換に鳴賢
は絶句した。
「なぜなら意識もなく使令もいないも同然の麒麟にできることは何もないし、
王にはそんな役立たずの宰輔よりも民のことを心にかけてほしいからだ。しか
し最後に私信を残そうものなら、もしかしたらあんな王でもそれにとらわれて
俺を物として扱えないかもしれない。それじゃあ王もつらいだろうし、そのせ
いで治世を誤らないとも限らない。万が一そうなったら、俺がここで身代わり
になる意味がない」
「でも――それじゃあ、六太はどうなるんだ」
「麒麟の役目は慈悲を施すことだ。いわばこれも俺の役目ってことだ」
「そんな」
 六太は椅子から立ちあがった。座りこんだままの鳴賢の傍らで膝をつくと、
相手の片腕にそっと手を添えて顔を覗きこむ。
「ありがとな。おまえと友達になれて楽しかった」
 鳴賢は何も言えないまま、ただ言葉を飲みこむしかなかった。
「それとおまえとの約束を破ることになるから謝っておく」
「約束……?」
「以前、言ったろ。俺の好きな相手が誰か、俺が死ぬ直前ならおまえに教える
って」

251永遠の行方「呪(159)」:2009/10/10(土) 13:07:30
 そう言われて鳴賢は思いだした。ずいぶん前、確かにそんな話をしたことが
あった。彼自身はその場の勢いで応じただけで、そこまで厳密な「約束」とは
考えていなかったのだが。
「き、気にしないでくれ。そもそも六太は死ぬわけじゃない。ただ眠るだけだ。
もしかしたらちょっと長く眠っているかもしれないけど――それだけだ」
 ふたたび泣きそうになりながらも何とかこらえる。六太はうなずくと、ふと
厳しい顔つきになった。
「それとおまえにはさらにつらいことを頼まなきゃいけない」
「言ってくれ。俺にできることなら何でもする」
「無事――という言い方も変だが、呪にかけられてしまえば俺は用済みのはず
だ。それが暁紅との約束だからな。だからおまえには即座に国府に走ってもら
って、俺を宮城に運ぶための官を連れてきてもらいたいんだが、やはり少し懸
念がある。なのでさっきの書面を届けるだけじゃなく、昏睡に陥った俺を、そ
のままおまえの手で国府まで運んでもらえるとありがたい」
 鳴賢はうなずいた。言われずともそのつもりだったのだ。無防備な六太をこ
んな場所にひとり残して行けるはずがない。呪にかけられるのも耐えられない
というのに。
 何より暁紅が本当に約束を守るつもりか怪しいものだ。か弱い女人とはいえ、
六太が使令とともに無抵抗となってしまえば、息の根を止めることも簡単にで
きる。鳴賢には六太のように謀反人を信じることなどできはしない。ここでは
無力な立会人でしかないから、仕方なくなりゆきに任せているだけなのだから。
 六太が「ありがとう」と言って立ち上がった。そのまま暁紅の元に行くのか
と思った鳴賢は、とっさに彼の手をつかんで引き留めた。
「主上に言伝がいらないというのはわかった。でも市井の個人的な知り合いに
簡単な文(ふみ)を書くのはどうだ? 六太の身分や今回のことを報せるわけ
にはいかないにしても、文張とか――そ、そうだ、風漢とか。ずいぶん親しか
ったじゃないか。ご機嫌伺いの挨拶くらいなら、そんなに変には思われないだ
ろうし」

252永遠の行方「呪(160)」:2009/10/10(土) 13:10:22
 これはただの時間稼ぎだ。鳴賢はそう自覚していながら、どうしてもこのま
ま六太を送り出す気にはなれなかった。時間を稼いでも何にもならないとわか
っているのに。
 風漢という名前に、六太はわずかにぴくりと反応した。だがすぐに「今は一
刻も早く王を救うのが先だ」と答えた。「すまないがわかってくれ」と。
 とうとう鳴賢は覚悟を決めざるを得なかった。彼はまだ萎えている脚を叱咤
しつつ何とか立ち上がった。震える声で言う。
「――俺が。俺があの女を呼んでくる。六太はここで待っていてくれ」
 普通は目下の者が目上の者の元に出向くものだ。仮にも宰輔を謀反人の元に
向かわせるよりは相手に出向かせる。雁の民としての、せめてもの矜持だ。
 六太は一瞬迷うような顔をしたが、すぐにうなずいた。
「わかった。頼む。俺はおまえが戻ってくるまでに、さっきからずっと影の中
でざわついている使令をなだめておく」
 鳴賢はおぼつかない足取りで扉に歩み寄った。扉を開き――六太の「鳴賢」
という呼びかけに振り返る。六太は先ほどまでとは違い、ためらうような、妙
に思い詰めた表情をしていた。鳴賢は黙ってうなずくと六太に向きなおり、相
手の言葉を待った。
「もし――もし、でいいんだけど、さ……」
 しばらく迷っていた六太は、やがておずおずと言った。鳴賢は相づちの代わ
りに、またうなずいてみせた。
「もしいつか――町中で王に会うことがあったら伝えてくれ。『雁を頼む』と。
それから『おまえは雁を救った。感謝している』と」
 鳴賢はこみあげるものを感じたが、必死に飲み下した。
 最後に思いの一端を口に出せてほっとしたのだろう、六太はまた優しい顔に
戻り、どこか懐かしむような目でひとりごとのようにつぶやいた。
「俺、ほんとはあいつと一緒にいられて楽しかったんだ……」

253しばらくオリキャラ中心です:2009/10/10(土) 13:12:33
次の投下までまたしばらく間が開きますが、
次回からは章の終盤近く(予定)までオリキャラ側の描写になります。
ただし読み飛ばしても大筋には影響ありません。

その辺の描写が終了するあたりで、またアナウンスを入れたいと思います。

254名無しさん:2009/10/17(土) 00:03:16
ろくたん…
鳴賢と同じところでこみあげてしまいました
続き楽しみにしています

255永遠の行方「呪(161)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 20:58:10
予告通りしばらくオリキャラ中心の描写になるため、
名前欄にマーキングしておきますね。いちおう尚隆&六太も出てはきますが。
------

 女は泣いていた。抵抗することも従うこともできず、ただ臥室の床に突っ伏
して泣いていた。
「……できません」
 彼女はすすり泣きながら弱々しい声で訴えた。だが取り囲む男たちからは、
取り乱す女に対して何の感情も窺えなかった。
「どうか、どうか、お許しを」
 幾度も床に額をこすりつけ、ひたすら主君の足元で許しを乞う。女は善人と
いうには俗物に過ぎたが、さりとて別に悪人というほど性根が卑しくもない。
権力者の寵姫らしく奢侈を好む、単に美しいだけの平凡な女だ。そんな彼女に
とって、いきなり下された主君の命は恐怖そのものだった。
「わしの妾たちの中ではおまえはなかなか見所があると思っていたが、どうや
ら眼鏡違いだったようだな」
 榻に座るその男は、眼下の女を見おろして陰鬱に笑った。
 周囲に仁王立ちになっていた小臣のひとりが、先ほど女が取り落とした冬器
の短剣を床から拾い上げ、ふたたび無理やり握らせる。女はがたがたと震え、
今度は自分の膝の上にそれを取り落とした。命じられた罪を犯さずにこの場か
ら逃れるには、もはや自分が死ぬしかないが、もとよりそんな勇気があるはず
もない。
 男は言った。
「聞け、暁紅。こうなってはわしも小臣も処罰からは逃れられぬ。だが王には
一矢報いずにはおくものか。たっぷりと後悔を味わわせ、わしに王位を譲って
おけば良かったと悲嘆のうちに崩御するよう仕向けてやる。とはいえそれには
わしの臣が残っておらねばな」
「謀反は大罪です」
 震えながら訴える暁紅を、梁興は鼻で笑った。
「おまえとてなびかぬ王への不満をぶちまけておったろうが。そもそもせっか
く閨に侍らせてやったのに、色仕掛けで王をたぶらかすこともできずにしおし
おと戻ってきおって、この役立たずめ。おかげでわしの計画が台無しだ」

256永遠の行方「呪(162)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 21:03:16
「でも――でも、わたくしは謀反の計画など存じませんでした」
 梁興はにやりとした。
「わかっておるとも。それが重要なのだ。その作為のなさがな。過去、延麒の
助命嘆願で謀反の中枢に近い者も赦された例がある。となれば計画を知らず謀
反人の首魁を討った功労者なら、必ずや放免されるだろう。早くその冬器でわ
しの首を落とすのだ」
 震え上がった暁紅は、ふたたび主君の足元に体を投げだして許しを乞うた。
先の見えない籠城の生活はつらかったし、何より謀反の連座による処罰が恐ろ
しかったが、華美と贅沢の中で安穏と暮らしてきた身には、人を斬首せよとの
命に従うのも同じくらい恐かった。
 死の苦痛を最小限に抑えるため、既に薬剤で首から下を完全に麻痺させてい
た梁興は、小臣らに目配せした。うなずいたひとりがいったん暁紅の臥室から
出ていき、すぐ別の女を引きずって戻ってきた。
「お許しください、お許しください!」
 暁紅の側仕えであるその女は泣きわめき、自分の主が他の小臣に囲まれてい
るのを認めて助けを求めた。
「暁紅さま! お助けください!」
 暁紅は蒼白な顔を自分の乳きょうだいに向けたが、怯えた表情のまま、ふた
たびうつむいてしまった。
 梁興は小臣に命じた。
「その女を殺せ。慰み者にして、その有様を存分にこやつに見せつけてから、
これ以上ないというくらい惨たらしく殺してやれ。死体は細かく切り刻み、凌
雲山から下界にばらまけ。あとは獣が始末してくれよう」
「侯!」
 暁紅は浣蓮とともに悲鳴を上げた。小臣らは野卑な笑みを浮かべて顔を見交
わすと浣蓮の装束に手をかけた。半年もの籠城で彼らも鬱憤がたまっており、
仙籍に入っていない奚らはとっくに餓死していたとあって、特に女に飢えてい
たからだ。
「暁紅さま! お嬢さま!」

257永遠の行方「呪(163)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 21:08:09
 装束を乱暴に引き裂かれながら、浣蓮は必死に助けを求めた。その昔――乳
母と一緒に親元で過ごしていたときのように「お嬢さま! お嬢さま!」と泣
きながら呼ぶ乳きょうだいに、暁紅は絶望に満ちた目で梁興を見上げた。梁興
はふたたびにやりとした。
「おまえは狗(いぬ)の皮をかぶった狼となる。赦されて野に下り、時期を待
つのだ。あとはわしが教えたとおりにやればうまくいく。呪具の隠し場所は覚
えたな?」
 力の入らない膝を叱咤して何とか立ち上がる。彼女は震える手で梁興を榻に
押し倒すと、冬器を握りしめた。護身用の女物の短剣よりずっと大きいそれは
無骨な手触りで、これまで武器とは縁がなかった者にはとても扱いにくかった。
 梁興はぎらついた目で女を見上げた。口元は相変わらず笑いを含んでおり、
死や苦痛に対する恐れはまったく窺えなかった。
「肉を斬る感触、骨を断つ感触。その手でしっかり覚えておくのだぞ。それを
折りに触れて思い出せ。これは予言だ。わしの遺言を果たすまで、おまえはそ
の呪縛から逃れられぬ」
 最後まで梁興は悪趣味だった。追いつめられているのは彼ではなく、暁紅の
側なのだった。暁紅が主君の喉元に冬器の切っ先をあてがうと、相手はまばた
きすらせずに、ひたと自分の妾妃を見据えて嘲った。
「違う違う、喉を突くのではない、首筋に刃を押し当て、そのまま体重をかけ
て横に倒して首を切断するのだ。非力なおまえが突いたぐらいで仙は死なぬわ」
 自分の手に余る事態に対して静かに恐慌に陥っている暁紅の腕を、いつのま
にか横にいた小臣が乱暴につかんだ。梁興の首に側面から刃を当てる形で榻に
短剣を勢いよく突き立て、そのまま彼女ごと梁興の上にぐいと押し倒す。仙の
体でさえ貫通する鋭い冬器の威力ゆえか、はたまた首の骨と骨の間にうまく刃
が入ったのか、暁紅の手の中で、鈍い音とともに男の肉と骨はあっけなく切断
された。胴体を離れた首は派手に血糊をまき散らしながら、ごとりという音を
立てて榻から転がり落ちた。
 その有様に暁紅は息を飲み、一瞬後絶叫した。血にまみれた短剣を悲鳴とと
もに放り投げ、その際、自分も上体に盛大な返り血を浴びていることに気づい
てさらに絶叫する。首を失った胴体と小臣の間からもがくように逃れ、臥室の
片隅にまろぶように駆け寄ると、彼女は泣き叫びながらその場にしゃがみこん
で頭をかかえた。

258永遠の行方「呪(164)」★オリキャラ中心★:2009/10/31(土) 21:12:07
 背後で一部始終を見ていた小臣らは、ふたたび顔を見合わせてうなずいた。
乱れた装束のまま座り込んでいた浣蓮は、ただ茫然と事態を眺めていた。
 小臣のひとりが暁紅に近づき、狂乱している彼女の腕を乱暴に取って臥室の
中央まで強引に引き立てた。先刻のように大勢で彼女を取り囲む。
「侯の指図を覚えているな? 呪具は書類とともに油紙で包んで凌雲山の古い
隧道に隠してある。以前は城下への秘密の抜け道だったが、さびれているから
そこまでなら光州城を出たあとでも外部から入り込めるだろう。迷路のように
なっているから道順を間違えるなよ」
 だが恐慌に陥ったままの暁紅はひたすら首を振り、訳の分からぬうわごとの
ようなものを漏らすだけだった。小臣の言葉が聞こえていないのだ。
「お嬢さまをお離し!」
 男たちの間をすり抜けて気丈に駆け寄った浣蓮が、小臣から暁紅の腕を強引
にもぎ取る。彼女は血まみれの女主人をしっかり抱きしめ、憎悪に満ちた目で
男たちを睨んだ。小臣らは再々度顔を見合わせて笑った。
「おまえ、なかなか見どころがあるではないか」
 そう言って彼らは、先ほど梁興が暁紅に教えたのと同じ内容を浣蓮に語った。
そうしてから彼らは、ようやく大声を上げた。
「反乱だ! 侯が後宮の女に討たれたぞ!」
 さらに男たちは臥室の扉を開けて、何度も「反乱だ」と声を張りあげながら
臥室を飛び出していった。途端にざわめきに包まれた深夜の後宮で、混乱と衝
撃から脱せないまま、暁紅はただ乳きょうだいと抱き合って震えていた。

 暗い目だ。王を目の当たりにした暁紅がまず思ったのはそれだった。まるで
闇の深淵を覗いているかのような、狂気を宿した暗い目だと。
 危険な輝き。だから暁紅は王に惹かれた。鋭利な刃が放つ魔性のきらめきに、
人が魅入られるように。
 彼女にとって、すべての始まりは行幸だった。主君である梁興が、光州への
行幸を願っているのは知っていた。それをきっかけに、彼が王に取り入るべく
画策していることも。

259永遠の行方「呪(165)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 10:47:01
 暁紅はもちろん遠い関弓に行ったことはなかったし、ましてや王の拝謁を賜
わったことなどあるはずもなかったが、市井に暮らす者と異なり、王の不行状
についての噂はおぼろに聞いて知っていた。側近がしっかりしているから王朝
がもっているだけで王自身は俗物だと。その反面、またとない賢君と褒めたた
える者も多くいて、暁紅はどちらが真の評価か図りかねていた。ただ梁興が王
を前者だと見なしているのは明白だったため、彼女自身も何となくそうなのだ
ろうと想像していた。
 それでも王が神人であり、国家の最高権力者であることに変わりはない。そ
のため梁興に「皆で主上の閨に侍って技巧を凝らすように」と言い含められた
際も、高級遊女扱いされて悲嘆に暮れる他の寵姫と異なり、彼女は千載一遇の
好機と受けとめた。もとより梁興に愛情などあるはずもない。単に地位と贅沢
な暮らしに惹かれて仕えているだけだ。もし王に乗り換えられるなら願っても
ない。
 王が独り身であることは知っていた。もちろん後宮には非公式に女を囲って
いるに違いないが、彼女は自分の美貌に自信があった。もし王の寵愛を得られ
たら……。三百年もの長きに渡って后をもたない王に、彼が延麒を溺愛してい
るとの噂もあったが、暁紅はまったく信じなかった。麒麟は人ではないし、そ
もそも延麒は十二、三歳の少年の姿と聞く。これが麟ならば、王が幼い少女を
好む場合はまたとない相手かもしれない。だが色気も何もないだろう幼い少年
を好む王がいるとは信じられなかった。
 何にしても州侯に過ぎない梁興とて大勢の寵姫をかかえているのだから、お
そらくそれと同数以上の妃嬪(側室)はいるだろう。お手つきの女官も多いだ
ろう。だが容貌にしろ王の愛情にしろ、后に取り立てるほどの者はいないのだ。
そこに何とか割り込めれば……。
 正式な婚姻は結べないにせよ、実質的な王后になれれば名誉も贅沢も思いの
まま。おそらく宮城の後宮は、こんな州城の後宮とは比べものにならないほど
豪勢に違いない。

260永遠の行方「呪(166)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 10:51:54
 そうやって梁興とは違う自分なりの目論見を心にいだいた暁紅は、王の無聊
を慰めるための宴席に念入りに着飾って姿を現わした。諦めた他の寵姫も梁興
の指図どおりに王の周囲にしどけなく侍っていたが、肝心の王は、あまたの美
姫に何の関心も見せなかった。ただ常に王の身辺を守る宮城の小臣らが、傍ら
の禁軍将軍とともに片時も気を緩めず鋭い目を周囲に投げていた。
 夜になり着替えを済ませた王を、女たちは王に用意された豪華な臥室で待ち
かまえた。薄物をまとい、下品にならぬ程度になまめかしく肌を見せて媚びを
売るさまに随従らは顔をしかめ、王はと言えば苦笑した。
 王は傍らの禁軍将軍に「これが光州流のもてなしのようだぞ」と声をかける
と椅子に腰をおろした。ゆったりと足を組んで女たちを眺め渡し、指先で頭数
を数えてから自分の小臣に言う。
「女のほうがかなり多いな。だがひとりでふたりを相手にすればだいたい数は
合う。せっかくのもてなしだ、存分に可愛がってやれ」
「主上」
 何を言われたのか理解できずうろたえる女たちを前に、将軍ら随従が諫める
ように王の傍らでささやいた。だが王はおもしろそうに肘をつき、あごをなで
て再度女たちを眺めてから「俺にも好みというものがあってな」と冷たく言い
はなった。寵姫らは激しく動揺したが、それでも必死に笑顔を作って頭を下げ
た。
「申しわけございません」
「わたくしどもではお好みに合いませんでしたか」
 王は肩をすくめた。
「合わぬな。どれも変わりばえせぬし、花娘のほうがよっぽどかわいげがある」
 女たちは顔色を変えたが、それでも暁紅は何とか笑みを浮かべていた。権力
者が傲慢なのはあたりまえだ。ここをうまく取り入ってこそ、王の寵愛を得ら
れるというもの。
 だが暗い目の奥に狂気の光を宿した王は、事もなげにこう続けた。
「おまえたち、何の芸があるのだ? 裸踊りでもしてくれるのか? どのよう
な痴態で俺を楽しませようというのか、まずは小臣相手に技巧を見せろと言っ
ておる。おもしろそうなら抱いてやらんでもない」

261永遠の行方「呪(167)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 10:54:40
 さすがに女たちは蒼白になって体をこわばらせた。これは勅命なのか。この
場で王の小臣を淫売のように肉体でもてなし、そのさまを披露せねばならない
のか。
 王の随従らが身じろぎするのを見て、彼女らは恐怖のままに後じさった。だ
が将軍も小臣も、諫める言葉を溜息とともに投げただけだった。
「主上。お戯れはおやめください」
 しかし相変わらず暗い目をした王は、ただ意地の悪い笑みを浮かべただけだ
った。
 将軍は寵姫たちに向きなおった。
「おまえたちはもう下がれ。主上はお疲れである。侯にはこの手のもてなしは
いっさい不要である旨を伝えるように」
 女たちはその場から逃げるように退出した。暁紅も淫売の真似をせずにすん
だことに心の底から安堵しながらも、あまりの屈辱に唇をかみしめながら逃げ
帰った。
 翌朝、不首尾を知った梁興にねちねちと嫌味を言われたものの、勝ち気な暁
紅はひるまなかった。そもそもこの男が嫌味たらしいのはいつものことなので、
王は最初から自分たちを侮辱するのが目的だったと言い張った。命令どおり、
ちゃんと男をそそるいでたちで誘惑した、美しい女になまめかしく誘われたら、
まっとうな男なら情欲に駆られるはずだと。
 それを聞いた梁興は考えこみ、やがてこう言った。
「こうなるとあの噂は真実かも知れぬな」
「何の噂です?」
 王后になる野望があっけなく潰えたことでいらいらしていた暁紅は、つっけ
んどんに尋ねた。
「なに、王は延麒を寵愛し、ひんぱんに閨に侍らせているというあの噂だ」
「まさか」暁紅はせせら笑った。「台輔は幼い少年のお姿だというではありま
せんか。それに主上が女を漁りに下界にちょくちょく降りるとかいう噂、存じ
ておりますよ。さすがにありえない話ですが、要するにそれほど女好きである
という比喩なのでしょう」

262永遠の行方「呪(168)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 21:53:29
「しかしな、わしに稚児趣味はないが、少年もたいそう味があるそうだぞ。一
度やると忘れがたいとも聞く。思えば歴代の延王の中には、女より男を寵愛し
た王もいることだな」
 美しい眉をひそめた暁紅をよそに、彼はひとり「見目良い少年を大勢侍らせ
るべきだったか」と唸り、無造作に手を振って彼女に退出を命じた。女として、
州侯の寵姫としての誇りを傷つけられた暁紅は、腹立たしい思いとともに後宮
の自室に下がった。
 侮辱され、またみずからの目論見も台なしとなり、暁紅が王を恨めしく思っ
ていたのは事実。さらに女の浅はかさで、どのように意趣返しをしてやろうか
とも考えていたが、ほどなく梁興が謀反を起こしたこと、内宮で王を襲撃させ
失敗したことを知ったときはさすがに愕然とした。
 まさに青天の霹靂。もとより容貌が美しいだけで内面は平凡な女にすぎない
彼女は、主君が犯した罪の大きさにおののくとともに連座で処罰されることを
確信し、目の前が真っ暗になった。州侯の側近く仕えている上、王に色仕掛け
を試みた事実がある以上、最初から計画を知っていたと見なされるのは必至だ
からだ。
 謀反は計画しただけでも絞首、実行すれば斬首。いずれにせよ死罪は免れな
い。王に辱められて憤ったことを忘れ、暁紅は他の寵姫と同じく絶望の中で毎
日を過ごすこととなった。
 後宮に閉じこもってさえいれば、外部の様子はほとんど知らずに済む。それ
でもやがて王が側近の助けで州城から脱出したことが、女たちの知るところと
なった。州城は王師と近隣の州師に包囲され、梁興は籠城を決意した。城の各
門を強固な呪で閉ざしたため、外部からの侵入が難しくなったと同時に、内部
の者が投降することもできなくなった。
 女官が仕入れてくる話の端々から、暁紅は自分たちの置かれた状況が刻一刻
と悪くなっていくのをひしひしと感じた。それでもしばらくは生活に目立った
変化はなかったものの、二ヶ月を過ぎる頃になって急速に食料事情が悪化した。
援軍の当てもないのに城に籠もっていれば、遅かれ早かれ物資が尽きるのは明
白。後宮でも庭院に畑を作るなどして手を尽くしていたが、時間がかかる上、
もともと大勢の人間を養うほどの収穫は見込めない。仙ではない奄奚らが飢え
て衰え、体力を失って病にかかり、ばたばたと倒れだした。仙であればごく少
量の食物で永らえることは可能だが、それでもひもじさは隠しようもない。水
も不足して湯浴みや衣類の洗濯にも事欠くようになり、よれよれになった装束
をまとい、惨めな日々を送る羽目になった。

263永遠の行方「呪(169)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 22:00:29
 そしてある夜、前触れもなく臥室を訪れた梁興に命じられたのだった。彼の
首を落とし、王への復讐に備えて市井に身を潜めよと。
 梁興が死んだあと、長い籠城で覇気を失っていた臣下らはあっさり降伏した。
もとより主君に王位簒奪後の地位を約束されていた限られた側近以外は、王に
叛意を持つ理由などないのだ。呪によって強固に閉ざされた扉を開けることは
生き残った者には難しかったため、まず王師が雲海上から侵入、彼らに伴われ
た冬官によって門という門が開けはなたれた。
 だが梁興の首を落とした際の心理的な衝撃で自失していた暁紅に、当時の記
憶はほとんどない。気づいたときには崆峒山の離宮に引き立てられ、他の者と
一緒に延王延麒に引見されていたという具合だった。
 王は珠簾の奥に鎮座したまま、見覚えのある暗い笑みを浮かべて沈黙を守っ
ていた。臣下であるにも関わらず壇上で王の前に立っていた延麒が、気遣わし
げな顔で人々を見渡す。
 暁紅はただそれをぼんやりと見あげていた。秋官に尋問もされたはずだが、
手に残る、肉を、骨を断つ生々しい感触に悩まされ、意味の通る返答をしたか
どうか覚えがなかった。だがそれだけに周囲は、彼女が梁興を討ったことには
疑いを差しはさまなかった。無謀な籠城を終わらせるためだったと誰もが自然
に納得したようだ。あの場にいた梁興の小臣らは拷問の果ての死を恐れて開城
前に自害していたから、事情を知る者がほとんど残っていなかったせいもある
だろう。
 暁紅の目に映った延麒は華やかな少年だった。際だって派手ないでたちをし
ていたわけではないが、おそらく身分ゆえの高価な装束と、何よりも頭に戴く
黄金の豪奢なきらめきがそのように見せたのだろう。ただ、美しいと言って言
えないこともなかったが、それは外見の年齢に由来する中性的な印象と、長い
髪によって女性的に見えたからに過ぎない。暁紅にしてみれば決して美貌とは
言えず、何よりあまりにも幼すぎた。
 延麒は何も言わぬ王を尻目に、この場の全員に恩赦を与えると言い張った。
周囲の臣に諫められてはいたが、彼は背後の王を振り返って「それでいいな?」
と無造作に言ってのけた。相対する王の暗い目は相変わらずだったが、それで
も以前見たときよりずっと生命の躍動が感じられるものになっていたのを、暁
紅は投げやりな気持ちの中にも不思議に思った。

264永遠の行方「呪(170)」★オリキャラ中心★:2009/11/01(日) 22:02:52
 王は疲れたように軽く笑うと、無礼な延麒の物言いを咎めもせず「好きにし
ろ」とだけ言った。堂にいた光州城の者は安堵のあまり泣き崩れた。「台輔、
台輔……」と泣きながら叩頭する彼らに、延麒は安心させるように声をかけた。
「心配するな。州侯が謀反を起こしたのは事実だが、おまえたちは知らずに巻
きこまれただけだ。おまけに門扉には閉鎖の強固な呪言が刻まれ、投降しよう
にも普通の者には開けられなかった。おまえたちのせいじゃない」
 押し殺した嗚咽が広がる中、ひとり暁紅は普通ではないと思った。何しろ事
は謀反なのだ。本来ならば生き残りの全員に対し、苛烈な取り調べが行なわれ
てしかるべきだろう。少なくとも王は何かしら指示をするはず。なのに延麒は
王をないがしろにして光州の者に話しかけ、しかも王自身がそれを許している。
 王が麒麟の慈悲の諫言を容れて恩赦を与える形ならまだしも、これでは延麒
自身が王であるかのようなふるまいではないか。そもそも王が謀反に連なる者
をわざわざ引見していること自体がおかしい。既に斬首しただろう何人かの臣
の首を確かめるために赴いたついでかもしれないが。
 暁紅の脳裏に梁興の言葉が蘇った。王が延麒を寵愛しているとの言葉が。
 市井でそのような小説がもてはやされているのは知っていた。だがよもや下
世話な演目に、真実が含まれているなどとは思いもよらないことだった。
 安堵で泣き続ける周囲の者と異なり、暁紅は下を向いて情けなさに唇を噛ん
だ。美貌とも言えないこんな少年に自分は負けたのか。あのとき王は暁紅に興
味のかけらも示さなかったのに、今の王は皮肉めいたおもしろそうな顔で延麒
を眺めている。
「少年もたいそう味があるそうだぞ。一度やると忘れがたいとも聞く」
 梁興が浮かべていた野卑な笑みとともに、そんな言葉が蘇った。この麒麟は
閨でどんな睦言を王にささやくのだろう。どんな痴態で王を惑わしているのか。
 だが暁紅が何を思おうとすべては終わった。梁興は死に、光州城は陥ちた。
 彼女はうなだれ、ただぼんやりと延麒の、他の臣の声を聞いていた。だがそ
の空洞に似たうつろな意識の片隅で、梁興が遺した呪具の所在を知っている自
分は、無力に見えて大きな力を持っているのだと何となく意識していた。

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次の投下までしばらく間が開きます。もしかしたら今までより少しかかるかも。

26584:2009/11/29(日) 06:41:14
約一年ぶりに覘いてみたら凄いことになってる…!
六太の切なさは痛々しいけど色んな方が書いて下さっているので
「なぜ尚隆→六太になったか」にじっくりこだわっている作品に出逢えるのは嬉しいです。←尚隆ファンなので
想いが通い合う瞬間が待ち遠しい〜。
Viva、延主従!!

266永遠の行方「呪(171)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 21:58:04

 梁興の乱のあと、暁紅は乳きょうだいを連れて従兄弟大叔父に当たる貞州侯
の元に身を寄せた。昇仙して数十年、市井の親族とはとうに疎遠になっていた
とあって行き場がなかったためだが、何より梁興の側仕えだったがゆえに、一
定の期間、所在を明らかにすることを求められたからだ。
 いくら延麒が恩赦を施したとはいえ、謀反人を主君に戴いていた者、それも
近習や妾妃を即座に放免するほど国府の秋官は甘くない。貞州城に行くことを
許可されたのは、いずれかの凌雲山にいれば、そうそう行方がわからなくなる
ことはなかろうとの判断に違いない。明言こそされなかったものの、遺された
者たちに不穏な動きがないか様子を見るつもりなのだ。貞州侯は遠縁とはいえ
実際には行き来のなかった暁紅を快く受け入れたが、彼は親族ゆえの単純な身
元保証人というわけではなく、所在を保証する役目をも負っているわけだ。
 貞州侯は実際の生活の面倒を妻の采配に任せ、その侯妃は後宮内で暁紅に二
間続きの広い房室を与えた。
 光州城では殿舎ひとつをあてがわれていたとはいえ、寄る辺を失った身で贅
沢を言えるわけもない。そもそも暁紅は客分でも何でもなく、建前は侯妃の下
僕としての後宮入りだった。それも仙籍こそ削除されなかったものの、降格さ
れて浣蓮と変わらない身分になっていたことを思えば、むしろ厚遇と言えただ
ろう。建前は建前として、実際には侯妃の世話をする必要もない。あくまで後
宮に住むための名目上の地位だからだ。そしてもし暁紅と浣蓮がしおらしくも
誠実に貞州の者たちに接していたなら、ここでの暮らしは想像していたほどわ
びしくはないとほっとしたことだろう。
 しかし光州の後宮での長年の奢侈にどっぷり浸かっていた暁紅はもちろん、
美貌の乳きょうだいを幼い頃から誇らしく思って崇拝していた浣蓮も、その振
る舞いは当人らが自覚していた以上に尊大だった。特に暁紅は、梁興の首を落
としたときの肉と骨を断つ生々しい感触から逃れられず、しばしば悪夢にうな
されていたとあって、よけいに侮られまい、弱みを見せまいと肩肘を張ってい
た。そのため当初は彼女らの人となりを見定めようと遠巻きにしていた女官た
ちも、すぐ冷めた目で見るようになった。

267永遠の行方「呪(172)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:00:50
 何しろただでさえ謀反人の側仕えだったのだ。暁紅が梁興を討った功労者で
あることは伝わっていたものの、無謀な籠城を終わらせるためではなく単に生
命惜しさ、要するに謀反人を討つことで助命を乞うためだったのだろうと、す
ぐ揶揄まじりにささやかれるようになった。それは当人に謙虚さのかけらも窺
えなかったせいもあるが、身近で接する女官らとさえ親しく交わろうとしなか
ったことが一番大きかった。こういうことは人間関係次第で良くも悪くもなる
ものだが、少なくとも暁紅は決して自分から歩みよろうとはしなかったからだ。
 これまで女主人の身の回りの世話だけをしていた浣蓮にしても、ここでは膳
を運んだり掃除をしたりといった下働きの仕事までこなさねばならないことに
茫然としていた。もともと市井にいた頃も裕福な商家で、暁紅の乳きょうだい
兼遊び相手として恵まれた暮らしをしていた彼女にとっても、貞州城での暮ら
しはやりきれないものだった。
 こうして女ふたり、日々の生活に理不尽だという不満ばかりを心にいだいて
過ごすことになったのだった。

「ほれ、にこりともせぬ。相も変わらずかわいげのないこと」
「主人ともども穀潰しのくせに、自分を何様だと思っているのやら」
 これ見よがしのささやきが、女主人の膳を厨房に下げる浣蓮に投げかけられ
る。貞州城に身を寄せてから既に半年近く。様子見だった当初と異なり後宮の
女官たちの反応は冷たく、こうして蔑みのこもったささやきを耳にすることも
多くなった。
「謀反人と一緒になって主上を色仕掛けでたぶらかそうとした輩の下僕だもの。
心根が卑しくないわけがない」
「そもそも梁興の妾妃というのは、賓客の閨の相手もする遊女のごときものだ
ったそうな」
 ひそやかな笑い声がさざなみのようにあたりに満ちた。つい足を止めた浣蓮
と目があった女官は、わざとらしく長い袖で口元を隠すようにして同僚にささ
やいた。

268永遠の行方「呪(173)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:03:25
「もちろん主上がそんな安っぽい手管に惑わされるはずもなく、淫らな奉仕は
丁重にお断わりになったそうですよ。下賤の者のようにけばけばしくも安っぽ
い格好をした女たちは、なすすべもなく臥室を引き上げていったとか」
「それはそれは。さぞかし見ものだったでしょう」
 羞恥と憤りに顔を染めた浣蓮は、唇をかみしめて相手を睨んでから敢然と言
い放った。
「心根が卑しいのは王のほうだわ。丁重に辞退したですって? 目の前で小臣
相手に閨の技巧を見せろと、下卑た顔で後宮の方々に命じたくせに。きっと普
段から宮城でも無体を強いているんでしょう。お気の毒にお嬢さまは危うく王
の無体に蹂躙されるところだった。あのような暗君に仕えねばならない官は本
当に哀れね」
 不敵なあざけりに、女官らは顔を見合わせた。彼女らは「恐れ多い言い草を」
と、このときばかりは心からの驚きとともにひそひそと言い交わした。
「恐れ多い?」
 浣蓮は冷笑とともに言い捨て、まじまじと自分を見つめる女官らを置いて立
ち去ったが、腹の中は煮えくり返っていた。
 暁紅はまず光州の官吏の愛人となって州府の官邸に住むようになり、そこで
さらに高位の官の興味を引いた。そして最終的には州侯の目に止まって後宮入
りするという、女としてとんとん拍子の「出世」だった。そのいずれにも浣蓮
はつき従い、女主人の未来が開けていくたびに誇らしい気持ちを味わったもの
だ。なのにまさか別の州城の片隅でこんなみじめな生活をするようになるとは、
予想だにしないことだった。
 幼い頃から美貌で、富裕な実家でちやほやされて育った暁紅は当然ながら気
位の高い娘だったが、気心の知れた浣蓮には気位の高いなりに心にかけ、実の
姉妹のように仲良く過ごしてきた。浣蓮のほうも遊び相手としていつも一緒に
いたとあって、女主人が受ける崇敬を自分と同一視しやすく、いつしか暁紅の
お気に入りとして彼女に尽くすこと自体に生き甲斐を覚えるようになった。
 浣蓮自身は、可もなく不可もなくといった体の平凡な容姿だったが、それだ
けに磨けば磨くほど光輝く女主人を飾りたてることに深い満足を覚えた。暁紅
は「出世」のたびに乳きょうだいの装束も新調してやり、身の回りのものも自
分に合わせて高価な品々に代えてやった。女というものは友達と一緒に綺麗な
装束を試し着したり、化粧を施しあったりという戯れも好きなものだが、暁紅
にとってその相手はいつも浣蓮であり、趣味の良い彼女が化粧を施してやると、
若い娘であるだけに浣蓮もそれなりに美しく見えた。

269永遠の行方「呪(174)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:12:20
「おまえだって元は悪くないんだから、もう少し外見に気を遣わないとだめよ」
 そう言って朗らかに笑う暁紅と、長いこと楽しく過ごしてきたものだ。
 行幸の報を聞いたとき、浣蓮も女主人と同様、暁紅が王の目に止まる可能性
を考えて胸を躍らせた。美しい女というものは得てして、男がみな自分に懸想
すると思いこみがちだ。暁紅自身が多少なりとも王の気を引けるはずと考えて
いたのはもちろん、彼女を誇りに思っている浣蓮はむしろ当人より大きな期待
をいだき、必ずや良い目が出るにちがいないと確信した。どちらの女もこれま
で挫折と言えるほどの苦い経験はなく、そのため完全にもくろみが失敗する可
能性など思ってもいなかった。
 いずれにせよ謀反の計画を知らなかった彼女たちにとって、事実はどうあれ
すべての始まりは行幸だった。結局のところ梁興が何をたくらもうと、王が暁
紅の魅力に捕らわれてしまえば関係ない。謀反が成功すれば王となった梁興が
宮城に入ったろうし、失敗しても暁紅自身は何の憂いもなく宮城に迎え入れら
れただろうからだ。
 そのためいざその野望があっけなく打ち砕かれると、我が身が落ちぶれたこ
とに対する悲嘆と不満の矛先は、不思議なことに梁興ではなく、狂気の光を宿
した王、暁紅に目もくれなかっただけでなく無体な命令をくだした王に向かっ
た。それは既に死者であり最後の最後に自分たちを惨い目に遭わせた梁興のこ
とで思い悩みたくもなかったという心理もあろうが、要するに初めて味わった
挫折の原因が王だったからに過ぎない。加えて王の権力が絶大なだけに、后に
なるという野望が潰えたことによる衝撃が何より大きかったのだ。特に女主人
のさらなる栄華を確信していた浣蓮の失望は深く、その意味では暁紅当人より
打撃を受けていたかもしれない。おまけにこうして貞州城で女官らのあざけり
を受けるようになり、心の傷がさらにえぐられるようだった。
 何も知らないくせに、と浣蓮は歯ぎしりして思う。お嬢さまはこんなところ
で朽ち果てて良いかたではないのに。お嬢さまも、そしてわたしも、本来なら
華々しく宮城に迎え入れられるはずだったのに――。

270永遠の行方「呪(175)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:15:40

 やがて彼女が厨房を経て女主人の元に戻ると、ちょうど暁紅が何やら紙片を
くしゃりと丸め、足下に捨てたところだった。書き損じなどのただの塵にして
は暁紅が不快な顔をしていたので、浣蓮は不審に思って「お嬢さま?」と声を
かけた。
「ああ、戻っていたの。ご苦労だったわね」
 にこやかに乳きょうだいを迎えた暁紅の前で、浣蓮は紙くずを拾い上げて開
いた。それが下賤の男からの情交を持ちかける淫猥な文面であることを知り、
憤激とともにふたたび丸めて捨てる。
「なんて恥知らずな……」
 金品をちらつかせる、明からさまで興味本位な誘い。貞州城に来て以来、彼
女らが不如意であることを知っているのだ。暁紅は誇り高く顔を上げ「下賤の
者のたわごとです。捨て置きなさい」と言ったものの、心中が穏やかでないの
は明らかだった。
 浣蓮は憤りのままに、先ほど女官らから受けた侮辱を報告した。その言に王
から受けた屈辱を思い出した暁紅は、自分が娼婦であるかのような噂が後宮に
蔓延していることを知ってさすがに色を失った。女官だけではない、このよう
な誘いの文が奚に仲介されていつのまにか臥室に置かれること自体、貞州城の
者たちが彼女をどのように見ているか知れるというものだ。
 さらに浣蓮から、門卒が「いくら握らせれば、暁紅の臥室に手引きしてくれ
るんだ」と淫らな話を持ちかけてきたことなども聞き及び、暁紅は毅然として
「侯妃に抗議しましょう」と言った。
「わたしもおまえも、このような低劣な侮辱を甘んじて受けねばならない理由
などない」
 浣蓮もうなずき、ふたりして念入りに身支度を調え――手持ちの衣装も少な
く、新調もできぬ今では大した支度はできなかったが――奚をつかまえて強引
に先触れとして向かわせた上で侯妃の元に赴いた。

271永遠の行方「呪(176)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:18:48
 周囲の冷たい視線のせいもあろうが、特にすることもないとあって暁紅は房
室にこもりがちの毎日だった。にぎやかに宴を催して他の妾妃に権勢を見せつ
けたり、贅沢な衣装をまとって園林を散策したりといった、光州城での華やか
な生活は過去のこと。当初、そんな様子を気遣った貞州侯から「毎日毎日こう
して閉じこもってばかりでは気も晴れぬだろう。この際だから何か身の立つこ
とを覚えてはどうだね」と言われたものだが、いったんかたくなとなった心が
それを受け容れることはなく、そのため侯妃とさえ会うことも滅多になかった。
そんな彼女を穏やかな侯妃は快く迎え入れたが、それも用向きを聞くまでのこ
とだった。
「わたくしを侮辱したのは王のほうです。浣蓮が申したことに間違いはありま
せん。王はわたくしどもに対し恥知らずで下劣な命令をくだしました」
 女官らへの叱責を求める暁紅の言い分を黙って聞いていた侯妃は、やがて深
いため息をついた。
「実のところ、あなたの言が真実か否かは問題ではないのですよ」
 結果的に謀反に関わったことについて何ら後悔の念が窺えない彼女に対し、
侯妃は言動に注意するようにとたしなめた。さらには仮に王による侮辱が真実
だったとしても、恩赦を受けた身、それもいまだゆるやかな監視を受けている
身でそんな不敬を言うものではないと、こんこんと諭した。人の口に戸は立て
られないのだから、まずは自分の言動を省みるようにと。
 女官の言動は確かに品性を欠いているとして、それについての叱責は約束さ
れたものの、結局暁紅らは、大して気の晴れぬうちに自分の房室に戻っていく
ことになった。
 そもそも罪はすべて梁興のものではないか。巻き込まれた自分たちは、要す
るに運が悪かっただけなのに。
 そう考えて不満をためた彼女らの心理に同情の余地はあった。だとしても日
頃、主君から窺えた王への侮蔑は謀反の萌芽であり、それを見過ごしていたこ
とになにがしかの後悔はあってしかるべきだったのだが。
 いずれにしろ後宮は女の園であり、女というものは基本的に噂話が好きだ。
侯妃の叱責が効いたのか、さすがに目の届くところで女官たちが下卑た噂をす
ることはなくなったものの、相変わらず暁紅と浣蓮に向けられる視線の意味は
明らかだった。

272永遠の行方「呪(177)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:21:34
 男性の官吏の反応は多少異なっていて、高位の者はそれなりに警戒の目を向
けていたものの、下吏や奄の中に淫猥な興味にあふれた視線を向けてくる者は
やはりいた。なのに決して誘いに乗らず孤高を保つ暁紅に対し、既に大勢の男
を引っ張りこんでいるとのくやしまぎれの噂を流す下吏さえいた。
 もっとも後宮に入れる者は限られているとあって、好んでそのような噂話に
耳を貸した女官らも、実際にここでの暁紅の不行状を信じたわけではない。し
かしいつまで経っても打ち解けず傲慢な彼女が、噂の中だけでも貶められるこ
とに小気味の良さを感じていた。一般的に言っても他人の悪い噂ほど広まりや
すく、不幸であればあるほど覗き見的な興味を持たれるものだ。
 こうして暁紅は、彼女を崇拝する浣蓮は、かたくななままいつまでも貞州城
で孤立していた。
 そんな中、ふたりは慰めあい、暇に飽かせて夜遅くまで語りあうのが常だっ
た。たったひとりでいたならば、何とか周囲になじもうと努力もしたかもしれ
ない。しかし身近に親しい相手がいたことで最低限の孤独は癒やされたため、
どちらも自分を変えたいとは思わなかった。そして浣蓮という幼い頃からの崇
拝者がいたことで、暁紅はむしろ浣蓮自身に比べれば蓄積される不満の度合い
は低かった。不遇の主人に代わって憤り、ひいては自分を不幸だと嘆く浣蓮を
慰めるたび、暁紅は自己の誇りを保てる気がするのだった。
 ただ皮肉なことに、そうして不遇を嘆く彼女らの支えは梁興に託された呪具
だった。既に死者である梁興の駒になるつもりなどないものの、国家を脅かす
力を持つらしい呪具が自分たちのものであることだけが、今となっては彼女ら
のなけなしの誇りの源だったからだ。そのため、どちらもかつての主君に恩の
かけらも感じていなかったのに、呪具の存在についてはしっかりと口を閉ざし
ていた。
 貞州城に来る前に不審を覚えられずに隠し場所に近づく機会がなかったとあ
って、実際にはそれはいまだ光州城に隠されたままであり、どちらも実物を見
たことすらなかった。すべての根拠は死ぬ直前の梁興の言葉のみで、どのよう
に使うものなのか、具体的な効果は何なのかを把握しているわけでもなかった。
 だがそれだけに、逆境にあってむしろ想像はふくらんだ。光州全土に呪いを
かけて、作物が育たない不毛の地とする呪。そんな事態になったら、王が天命
を失ったがゆえと考えるのが普通だろう。そして作物が取れなくなれば民の恨
みは結局王に向かい、遅かれ早かれ実際に失道するはずだった。つまり貞州城
の者が何も知らずに蔑む暁紅たちこそが、王朝の命運を握っているのだ。

273永遠の行方「呪(178)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:27:09
「あの者らは、自分たちが砂上の楼閣に住んでいることを気づいていないので
すわ。光州ではなくこの貞州において呪具を使うこともできますのに、そんな
ことも知らずにお嬢さまとわたしを邪険に扱って」
 周囲を警戒して夜ごとひそかに語らいながら、浣蓮はいつもそう言って女主
人と自分の自尊心を保った。何しろ語る時間ならたっぷりとある。それに実際
に呪具を見たことがなくても、州侯の権威のもとに王への復讐を意図して開発
された呪なのだ。効果がないはずはなく、おそらくは聞かされた通りの威力を
発揮するに違いない。
 梁興に教えられた隠し場所は、ほとんど使われなくなっていた古い隧道の枝
道だった。途中が迷路のように入り組んでいたがために、道を知らない者が不
用意に入りこめば、二度と光を拝めずに横死するのは必至。それでなくとも籠
城の際、万が一の王師の進入に備えて件の枝道に通じる分岐は封鎖され、落城
直前に周囲の岩を破壊して完全に塞いだとも聞き及んでいた。その後、枝道を
復旧したか否かはわからなかったものの、もともと使われなくなっていた場所
にそう手間をかけたとも思えない。つまり州城に通じる最奥部は閉ざされて打
ち捨てられたままだろうが、それゆえに下界側の入口からなら容易に入り込め
るだろう。
 ただしこれだけ時間が経てば、整備されていない隧道なら落石などで道が埋
もれている可能性もあった。だがどちらもそのことはあえて考えないようにし
ていた。誇りの拠りどころである呪具が失われてしまったと考えることは絶対
にできないからだ。
 実際には、国府による監視が終わったと確信できる頃まで殊勝に過ごし、そ
のあとで知恵を絞れば光州城の様子を見に行くだけの理由は簡単に見つけられ
ただろう。したがって呪具の現状を知ることも可能なはずだったが、暁紅らは
毎晩楽しく語らうだけで行動に移すことはなかった。たとえ既に呪具が失われ
ていたとしても、ここで王や貞州城の者にどうやって復讐するかを語り合って
いるぶんには、自分たちのものとして楽しい想像を巡らせることができるのだ
から。

274永遠の行方「呪(179)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:31:26
 そうして月日が過ぎ、後宮の片隅で不遇を嘆きつつ暮らす彼女らは、自然と
州城の者から忘れられていった。良くも悪くも興味を持たれたのは最初の頃だ
けだった。悪意が含まれていたとはいえ当初の関心は、目立つ新参者に対する
通り一遍の興味でしかない。そもそも大した地位も金もない女が、下吏であれ
貞州城の面々の生活に影響を及ぼすはずもなく、となれば周囲になじもうとも
せず、みずから隔てを作る暁紅らに積極的に関わる理由はなかった。噂好きの
女官らも彼女らを揶揄するのに飽いて別の話題を見つけ、やがて暁紅の世話を
する浣蓮を見かけても、空気のごとく無視するに至った。
 そんなとき貞州侯から「何なら州城の外、市井に住まいを求めても良い」と
告げられたのは、おそらく国府からのゆるやかな監視が終わったためだろう。
不満はどうあれ実際にはたくましく運命を切り開いていくだけの気概もないふ
たりが、それを受けることはなかったが。
 こうして梁興の呪具を手元に置くことも、それを使った復讐を実行に移すこ
ともないまま、いたずらに歳月だけが過ぎていった。
 そして。
 長い時間の経過は好むと好まざるとに関わらず、王から貞州の官から受けた
屈辱による憤怒の感情を自然と風化させたのだった。

 州城の後宮の片隅で送る、人々に忘れ去られた生活。当たり障りのないまま
に日々は過ぎていき、毎夜の暁紅と浣蓮の語らいも形骸化した。呪具の威力を
見せつける日が来ることだけは、いまだおぼろに夢見てはいたが、熱意はとう
に失せていた。
 侯妃の下僕としての給金だけのつましい暮らし。暁紅は名目だけのその役目
を一度とて果たすことはなく、したがって波風も立たないが満足もない、代わ
り映えのない毎日だった。仙は歳を取らない。周囲の人々も州城の様子も何も
変わらない。時に凍結されたかのようなその環境で、ふたりの女はただ漫然と
生きていた。年を過ぎるごとに時の風化は思考の上に降り積もり、こまやかな
心の動きさえその堆積に埋もれ、喜びも憤りも感じず、もはや日々に流されて
生きているだけだった。

275永遠の行方「呪(180)」★オリキャラ中心★:2009/12/03(木) 22:35:07
 陽光まぶしい園林を、華やかな殿閣の威容を露台からぼんやりと眺めては、
暁紅は何の感動も覚えぬ毎日になげやりな吐息を漏らした。ここでの生活は、
戴にあるという厚い万年雪に閉ざされて眠っているようなものだった。浣蓮も
彼女と大差なかったが、下働きの仕事をする折りに周囲とやりとりする機会が
あるだけあって、まだ不満の種は尽きていないようだった。
 このままおもしろみのない人生をただ過ごしていくのだろうか。諦めに似た
思いが暁紅の心中をよぎる。いや、自分はとっくに死んでいたのだ。梁興の首
を落としたあのときに。
 いまだ両手に生々しく残る、肉と骨を断つむごい感触。皮肉にもその記憶だ
けは、いつまで経っても衰えることはなかった。
 救いはどこにもない。梁興の謀反はとうに忘れ去られ、雁は繁栄し、ここで
蟄居しているも同然の暁紅のことなど、覚えている者もいないだろう。
 このまま夢も希望もなく、時の流れに心をすり減らしていくだけの余生なの
だろうか。そうしてただ歴史の中に泡のように消えていくのだろうか。
 暁紅の想念の中、暗い目の奥に狂気を宿した王は遠い荒野でひとりたたずん
でいる。彼の横顔は彼方をひたと見つめ、雁を、そして自分自身をさえ焼きつ
くす狂気の中で、ひたすら運命の時を待っているかのようだった。
 光州を不毛の地とする呪。そんなものが何になると言うのだろう。暁紅が手
を下したとしても、王はあの皮肉めいた暗い笑みを浮かべるだけに違いない。
たとえ手を下さずとも、王はやがて自らを焼きつくすだろう。そして自分はと
っくにあの暗い狂気に焼かれてしまっていたのだ、そんな気がした。
 彼女は既に燃え殻だった。何も見ず何も生みださず、もはや喜びにも怒りに
も心を動かすことはない。単にまだ死んでいないというだけの虚ろな存在でし
かなかった。

----------
次の投下までまたしばらく間が開きますが、
その辺りでオリキャラ中心の部分を終わらせたいと思います。

>>265
また一年後に覗いてもらえるようがんばりますね♥

2761:2010/02/28(日) 17:47:35
オリキャラしか登場しないのにちまちま投下してもなーと、
章の区切りがつくまで投下を控えていたのですが、
とっくに書き上がった後も納得がいかず、未練がましくいじくってました。
でもしょせんオリキャラの部分だし、別にいっか、と投下することに。
それでもまだ少し未練があるので、手直ししつつ、
時間軸が現在に戻るまでは小出しにします。

なお名前欄から「★オリキャラ中心★」が取れるまでは、
読まなくても話の筋はわかると思います。
(要は何とかして尚六になだれ込むための動機の捏造に過ぎないので)

それと何だか随分と閑散としてしまったのと
他の投下もないようなので邪魔にはならなさそうだし
別の書き手さんがいらっしゃるまでageていきます。

277永遠の行方「呪(181)」★オリキャラ中心★:2010/02/28(日) 17:51:36

 あるとき久しぶりに貞州侯が暁紅を尋ねてきた。ひとしきり世間話をした彼
は、やがて仙籍を辞することにしたと静かに告げた。後進に道を譲り、妻とふ
たり、余生を田舎でのんびり過ごすつもりだと。
「おまえたちはどうするね? わたしが采配をふるっているぶんにはともかく、
さすがに次の貞州侯の方針までは左右できない」
「それはわたくしどもの仙籍が削除されるとおっしゃっているのでしょうか?」
 質問の意図を悟った暁紅が、こわばった表情で尋ねた。傍らでそれを聞いて
いた浣蓮は真っ青になった。
 長く市井と関わりを持たぬままに生きてきた彼女らにとって、仙籍を削除さ
れることは死と同義だった。いつまでも若くいられるのは仙であればこそ。仙
籍を削除されればその瞬間から老いはじめ、病気にもかかるようになり、怪我
も負いやすくなる。いくら死んだような日々を無為に過ごしていても、みずか
ら求めて仙籍をはずれるのではなければ、そのような宣告を受けるのはおそろ
しいことだった。
「その可能性はある。少なくともこのまま州城にいたいなら、それなりの職務
に就く必要があるだろう」
 震える浣蓮の傍ら、みずからも大いに動揺しながらも、暁紅は自分でも意外
なほど冷静な態度を崩さなかった。もともとこんな事態は、毎夜のひそやかな
語らいの中で何度も出てきた話題だった。それゆえこれは、予想された運命の
時がついに訪れたというだけにすぎない。
 とにかく次の貞州侯がやってきて現実に居場所がなくなってからでは遅い。
それだけははっきりしていたので、彼女はめまぐるしく思考を働かせて時間を
稼ごうとした。
 突然の話で枝葉を考える余裕はなかったものの、重要なのは呪具であること
はわかっていた。市井に下ってから寄る辺のない女ふたりが遠い光州城に行く
のは困難を伴うからだ。呪具を回収するなら、貞州侯の庇護下にある今しかな
い。その他に何か問題があったとしても今は頭に浮かばなかったし、おそらく
あとでどうにでもなるだろう。
「いきなりそのようなお話を伺いましても途方に暮れてしまいます。浣蓮もこ
うして動揺しておりますし、わたくしにも心の準備というものが必要です。仙
籍を削除されるというのは大変なことですから」

278永遠の行方「呪(182)」★オリキャラ中心★:2010/02/28(日) 17:53:42
「そうだな。だがもし今のうちに下界に戻るのであれば、飛仙として仙籍を削
除されぬよう計らうことはできる。今のおまえたちの官位ではさすがに歳費を
与えるほど優遇することはできないが、餞別としてしばらく楽に生活できるだ
けの俸禄は与えられるだろう。何と言っても親族なのだからね。とにかくしば
らくぶりに下界の空気に触れ、環境を変えて、身の振りかたをじっくり考えて
みてはどうかな」
 下界で只人と交わる飛仙は、親しい人々を見送るだけの歳月に倦み、結局は
仙籍を返上することが多い。もしくは行方をくらまし、放浪の果てに客死する
か。要するに貞州侯は、彼女らが他の飛仙と同様に市井の暮らしの中で達観を
得、自分から仙籍を返上する気になることを想定し、それまで多少の猶予を与
えると言っているのだ。
 浣蓮はすがるように暁紅の手を握りしめた。その手を優しく握り返しながら、
暁紅は神妙な表情を作って貞州侯に申し出た。
「その前に光州城を訪れるわけにはまいりませんか? 謀反という嫌な思い出
があるとはいえ、わたくしどもが長い時間を過ごした場所です。それになつか
しい場所を目にすれば、浣蓮も気持ちを決めやすくもなるように思います。別
に今の光州侯にお目にかかりたいとか、以前の住まいを見たいとまでは望みま
せん。でもせめて最後に、思い出深い光州の凌雲山や麓の街の様子を見てまい
ることをお許しいただきたいと思います」
 貞州侯は少し驚いたようだったが、「なるほど」とうなずいた。
「そういうことなら扱いやすい騎獣を貸してあげよう。もし光州に戻りたいの
なら、ついでに城下の街の下調べもして当座の住まいを見つけてくるといい。
田舎暮らしも悪くないと思うのだが、どうやらおまえたちには華やかな都会の
ほうが好ましいようだ」
 貞州侯が退出したあと、動揺から脱せられずにすがる浣蓮を暁紅は励ました。
長く仕えた浣蓮は当然ながら、誇り高い暁紅の操縦法――どうすれば彼女の機
嫌を取れるか――を心得ていたが、それは暁紅も同じだった。どうすればこの
唯一の下僕にして崇拝者の忠誠を失わず、したがって孤独に陥らずに済むか。
そんなことは感覚でわかっていた。
 弱気にならず、自信に満ちて未来を語れば良い。

279永遠の行方「呪(183)」★オリキャラ中心★:2010/03/01(月) 20:30:58
「とにかく今は呪具を見つけることが最優先。手に入れさえすれば、おそらく
何とでもなるでしょう。梁興はわたしに王への復讐をさせたがっていたのだか
ら、たとえばある程度の期間、市井に潜んで暮らせるだけの宝物のたぐいも隠
されているのではないかしらね」
 歳費を得られないなら、自分たちで生計の手だてを講じなければ路頭に迷っ
てしまう。仙籍の削除に次ぐ浣蓮の恐怖の理由はそれだった。暁紅にとっても
そうなのだから。
「でも――お嬢さま――」
「新しい貞州侯が来て、ここを追い出されてしまってからでは遅いのよ。かと
言って追い出されたくなければ、官吏になる知識も技能も持たないわたしたち
は、今度こそ奚の仕事でも何でもしなければならなくなる。そんな屈辱になど
到底耐えられるものではないわ」
 長い蟄居の過程で実際には王への復讐心を失っていたとしても、この期に及
んで新たな屈辱を味わうのはごめんだった。何と言ってもいったんは州侯の寵
姫にまで上りつめた尊い身なのだ。その誇りだけは誰にも奪うことなどできな
い。
 呪具と一緒に宝物があるかもしれないというのは願望でしかなかったが、い
ざ口に出してみると信憑性があるように思えた。女主人が自信たっぷりに言い
切ると、浣蓮は動揺を残しながらもようやく落ち着く様子を見せた。
 そうして数日のうちに貞州侯が寄越してくれた騎獣に乗り、彼女らは実に数
十年ぶりに光州に向けて飛び立っていった。

 騎獣の上で風を切りながら――むろん騎乗していれば実際には風など感じな
いが――暁紅は徐々に眠りから覚めていく気分を味わっていた。貞州城に来て
からの長い歳月は、漫然と日を追い、ひたすら日常を倦むだけの毎日だった。
だがこうして久しぶりに外の新鮮な空気を吸うと、まるで暗く長い洞窟から陽
光の下に出てきたように思えた。
 季節は晩春。気候もよく蒼穹は高く、何の憂いもないなら快適な旅路だった。
動きやすいこざっぱりとした衣服を着こみ、一路、光州の中心部を目指す。
 足の速い騎獣を使うふたりだけの道程とあって、大して時間はかからなかっ
た。騎獣に乗り慣れていないため途中で頻繁に休憩を取ったものの、光州城を
擁する凌雲山が見えてからは気が楽になって飛ばしたので、州城にたどりつい
たのはまだ陽が高いうちだった。

280永遠の行方「呪(184)」★オリキャラ中心★:2010/03/04(木) 00:06:28
 街に入って宿を取るより先に、とにかく目的の隧道の入口に向かう。もとよ
り知識として位置を教えられていたに過ぎない彼女らは、寂れた小さな洞窟の
入口を探すのに少々難儀した。それは当然で、ようやく見つけたそこは長い間
使われていなかったらしく半ば崩れ、苔むし、人が定期的に出入りしている気
配はまったくなかったのだ。
「明らかに打ち捨てられている。予想通りだわ」
 黒々とした口をぽっかり開けた洞窟に少々怖じ気づきながも、暁紅は訳知り
顔でうなずいて見せた。
 この奥に入らなければ呪具は手に入らない。それも浣蓮に取ってこさせるの
ではなく自分で見つけなければ。ひたすら不遇を嘆いていれば良かった今まで
とは違うのだ。暁紅の直感は、市井に降りても変わらず自分が主人であること
を、今のうちに感覚で納得させておくべきだと告げていた。
 時の流れはどれほど強い感情でも風化させる。長いこと眠ったように過ごし
てきた彼女は実際、昔ほどにはこんな場所も怖いとは思わなかった。何かあっ
たとしたら、それはそれだ。どうせ後は朽ちていくだけの人生なのだから、今
のうちにさっさと死ねるだけましだ……。そんな投げやりな慨嘆さえ心にいだ
く。
 後込みする浣蓮を従えた暁紅は、騎獣の手綱を手にしたまま、小さな手燭の
灯りだけを頼りに、この数十年の間に何度も反芻した記憶に従って隧道をたど
った。
 梁興の首を落としたときの衝撃がずっと残っていたせいもあるが、何より毎
夜の語らいで隠し場所に通じる道順を反芻し続けていたため、運命の夜に告げ
られた道順はそっくり脳裏に刻まれており、鉄の格子で封じられた一角にたど
りついたら梁興を讃える文言を唱えれば封印が解除されることもわかっていた。
おかげで何ヶ所かの分岐にも迷うことはなく、ほどなく古びた鉄格子が見えて
きたとき、ようやく浣蓮はほっとした表情になった。
 しかし手燭を高く掲げてあたりをよく照らしてみると、どう見ても鉄格子の
向こう側の岩が崩れて塞がれているように見え、彼女らは愕然とした。
「岩が――!」
 背後で小さな悲鳴を上げた浣蓮を制しつつ、暁紅は解呪の文言を唱えて鍵を
はずした。彼女の頭の中にも衝撃が渦巻いていたが、とにかく見定めなければ
との動揺のままに、開かれた扉の内側によろよろと歩み入る。そして崩れた岩
の陰、外からでは見えない場所に、巧妙に小さな扉が据えられているのを見つ
けたのだった。

281永遠の行方「呪(185)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 00:40:55
 大人の背丈の半分の高さしかないその扉に鍵はかかっておらず、取っ手を引
っ張っただけで難なく開いた。向こうは岩壁にうがたれたささやかな洞(ほら)
になっており、小さな櫃が三つ積まれていた。
「見つけたわ。こちらへ来てごらんなさい」
「お嬢さま……」
「梁興は用心深く事を運んだようね。確かに落石で塞がれているように見える
鉄格子の奥など、誰も無理に押し入ろうとはしないでしょう」
 間近であらためて周囲の岩を調べると、それらは漆喰のようなもので隙間を
固められており、見かけとは裏腹に、実際には容易に崩れないようになってい
た。
 騎獣の体躯では狭い鉄格子の扉をくぐれなかったため、手綱を外側につなぎ、
一番上の櫃を地面におろす。ひとかかえほどしかない小さな櫃ではあったが意
外に重く、埃のような土砂に薄く覆われていたために持ち手が滑りやすくもな
っており、ふたりがかりでおろすのがやっとだった。
 蓋の掛け金をはずして調べると中身は、柔らかな絹の詰め物と油紙に包まれ
た上に皮袋に入れられた、玉やら装身具やらの見事な宝飾品だった。傍らに置
いた手燭の乏しい灯りだけでも、それらの豪華な美しさは堪能できた。
「言ったとおりでしょう。やはり梁興は宝物も隠していたんだわ。州城にあっ
た莫大な財宝に比べればささやかなものだけれど、これだけあればどんな生活
でもできる」
 こんなことは最初から見通していたという体で、暁紅は一番上にあったきら
びやかな連珠と歩揺を取り、「これはおまえのものよ」と言って浣蓮に渡した。
「そんな、お嬢さま」
「この櫃の半分はおまえのものだもの。おまえは貞州城でわたしよりずっと苦
労してきたのだから、これくらいのものは受け取らなくてはね」
 寛大な主人の役を演じた彼女は、「あとで再訪するときの旅費になる」とつ
ぶやいて小さな宝玉をひとつだけ取り、櫃の蓋をぱたんと閉めてふたたび掛け
金をかけた。
「これほどのかさと重さのものを、見咎められずに貞州城に持ち帰れるわけも
ない。もうしばらくここに隠しておかなければ。市井に降りてからあらためて
取りに来るとしましょう。呪具は残りのふたつの櫃の中でしょうね」

282永遠の行方「呪(186)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 00:44:59
 そう言ってふたたび浣蓮を促し、ともに汗を流して第二の櫃を引っ張り出し
た。
 油紙と皮袋で厳重に守られていたのは同じだが、今度の中身は書類の束だっ
た。しかし重要な内容が書かれているのだとしても、手燭の灯りだけでは細か
な文字を読むことはできず、彼女らは諦めて最後の櫃を取り出した。そこには
明らかに呪言とわかる文言を刻まれた文珠が山のように納められており、今度
こそふたりは心の底から安堵の吐息をもらした。

 書類のうち一番上にあった包みから数枚のみ取り出して懐に入れると、暁紅
は櫃を元通りに洞に納めた。今すべてを持ち出すわけにはいかないにしても、
記されている内容をまったく知らないままこの地を離れるのはいやだった。一
部でも持ち帰って、確かに強大な威力を持つ呪具があることを確認しなければ。
長い間心の支えであった事柄が、確かに事実であるとの証拠がほしかった。
 とはいえまだ回収こそしていないにせよ、梁興の遺産をあっけなく発見でき
たことに暁紅は拍子抜けする思いだった。貞州で無為に過ごしていた間、心の
どこかで見つからないかもしれないと恐れていたのが嘘のようだ。こんなこと
なら理由をつけてもっと早くここを訪れるのだったと、今さらながらに彼女は
後悔した。
 その後ふたりはようやく街に入って高級な舎館を選び、騎獣を預けて広々と
した居室に落ち着いた。旅装束だから簡素ななりだが、手入れの行き届いた高
価な騎獣と物腰から宿では上客として丁重に扱われた。
 まずは湯を使って短い旅路の疲れと隧道で浴びた土埃とを落とす。それから
豪勢な食事をしたため、茶を飲みながらゆったりとくつろいだ。連珠を首に、
歩揺を髪に差してはしゃぐ浣蓮に高慢な微笑を投げつつ、暁紅は懐に隠してい
た書類をわずかな緊張とともに取り出して卓に広げた。気づいた浣蓮も、つつ
ましやかながら興味深く覗きこむ。
 それは呪に関する説明書きで、素人である暁紅にもわかる表現で概略が記さ
れていた。いわく摩訶不思議な作用をもたらすものではあるが、これは厳然た
る技術なのだという。
 呪を行使する方法は三つ。

283永遠の行方「呪(187)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 16:39:25
 言うまでもなく一般に知られているのは、所定の手順によって呪言が刻まれ
た呪具を用いることだった。これは持ち主が仙であると只人であるとを問わず、
誰でも効果を享受することができる。順風車や冬器がそれだ。もっともこの場
合は正確には、「呪を行使する」とは言えないが。
 次の方法は無機物や生物に対し、定められた文言を正確に刻むこと。つまり
前述の呪具を作成する方法となる。ただし普通は冬官の仕事になるためか、詳
細は省くとそっけなく記されているだけだった。素人にとっては適当に文字を
刻むだけでも大変な作業に違いなく、工人でもない暁紅らには到底無理だと思
われたからかもしれない。
 最後の方法は、言葉の意味を理解した上で正確に呪言を詠唱すること。これ
は呪具が必要なこともあれば、詠唱だけで効力が生じるものもあるらしい。ど
ちらにしても通常は只人には扱えず、仙であっても当人の位、または能力に依
存する部分が大きいとされていた。呪詛の場合はさらに特殊で、被術者の無意
識の抵抗を打ち砕くため、それなりの能力を持っていないかぎりは相応の注意
と準備が必要と記されていた。呪具自体の何らかの変形によって結果的に相手
を傷つけるものなら別だが、相手の心身に直接作用を及ぼす呪は闇の領域に属
する禁断の秘術であり、たとえ仙であっても元は人にすぎない者が使うには多
大な危険を伴うのだ。
 概略に続いて、国府への報告なしに密かに開発されたものを含めた呪の目録
が載っていた。個々の術に関する細かい説明はなかったので、隧道に残してき
た書類の中に詳細があるに違いない。
「いろいろな術がありますわ。名前を見ただけでは何のことやらわかりません
けど、きっとどれもすばらしい効果をもたらすのでしょうね」
 目を輝かせた浣蓮の言葉通り、目録には大量の術名が羅列されていた。しか
しそれらを含め、大半は暁紅が光州時代に「呪ではこんなこともできる」と噂
を聞いたことのある内容の焼き直しに過ぎないと思われた。ということは世間
に知られているか否かはともかく、大多数は秘術でも何でもないに違いない。
だが少なくともひとつの州を不毛の地にするなどという邪法は、前代未聞の禁
呪のはずだ。
 それにしても、と暁紅は不審を覚えた。これだけの呪をすべて駆使すれば、
梁興はすぐにでも王位に就けたのではないだろうか。それをせずにまずは行幸
を仰いで王をおびき寄せたことを考えると、厳しい制約があるのか、先ほどの
概略にあった注意書きが示すように、使用をためらうほどの危険があるに違い
ない。たとえば自分の肉体や生命を代償にしなければならないなど。

284永遠の行方「呪(188)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 16:50:10
 最後の夜の、彼の陰鬱な笑みが脳裏に蘇った。あの男は自分の目的さえ達せ
られれば、暁紅がどうなろうと意に介さなかったろう。たとえ呪の発動と引き
替えに暁紅や浣蓮が命を失っても些末事に過ぎないのだ。
 そんな男、それも死者の操り人形で終わってたまるものかと憎々しげに考え
る。自分が件の呪を使うとしたら、それはあくまで自分のため。間違っても梁
興のためではなく、もちろん浣蓮のためでもない。確かにあとは市井に埋もれ
て消えていくだけの人生かもしれない。しかしそれは絶対に、他人の道具とし
て生涯を終えることではないのだ。

 一ヶ月後、暁紅たちは貞州侯の代替わりを前に貞州城を辞して光州に戻った。
最後に受け取った俸禄で光州城下の立派な邸宅を買い取り、当座の住まいとす
る。いずれは口の固い下働きを探すことになるだろうが、しばらくはふたり暮
らしだ。
 騎獣を借りて、例の隧道にあった櫃を早々に手元に運んだ暁紅は、邸の奥深
い小部屋に安置して詳細に検分した。
 最初の櫃には只人が一生遊んで暮らせるほどの豪華な財宝。次の櫃には呪に
関するさまざまな資料。もっとも大半は少なくとも冬官にとっては既知と想像
される内容だったが、それは復讐に際して、既存の術でも何らかの役には立つ
だろうと梁興が考えたからに違いない。もしくは単にすべてを国府に明け渡す
のが惜しかったのか。そして最後の櫃には呪言を刻まれた、それ自体が価値の
ある美しい宝玉で作られた大小の文珠。
 浣蓮はこれでようやく長い間の苦しみを王にぶつけられる、絶対に思い知ら
せてやると意気込んだ。暁紅のほうは既に復讐心を失っていたも同然だったが、
唯一にして忠実な下僕の機嫌を損ねるのは得策ではないと判断し、自分も同じ
気持ちであるように装っていた。それに多大な力を得た今、どうせなら王に意
趣返しをしてみたいという欲求はあった。
 何しろこれらの呪に本当に効力があるとすれば、指を鳴らすように簡単に雁
の運命を左右することができる。ならば猫が鼠をもてあそぶように王をもてあ
そんでみたいものだ。
 そう、高貴な女神のごとく玉楼に座し、はるか下界で人々があわてふためく
さまを見物できたらどれほど気分が良いだろう。自分はいわば翳(うちわ)を
一振りするだけで、優雅に、そして簡単に国土を暗雲で覆うことができる。天
上の彼女を見上げて畏怖と恐怖におののく愚か者たちを眺め、宴の中で笑いさ
ざめき……。

285永遠の行方「呪(189)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 16:52:19
 そこまで空想したものの、楽しくさまよいだした思考も王のことを考えると
萎えてしまった。暁紅にはどうしてもあの王が普通の男のように苦しむさまを
想像することはできなかったのだ。闇に魅入られたような暗い目と、その奥で
燃え盛る異様な炎。触れれば斬れるような危険な刃のきらめき。苦しむという
よりはむしろ――おもしろがるのではないだろうか。
「ほう。これはなかなかの見ものだ」
 そう言って笑いを含み、興がる王の姿なら容易に想像することができ、彼女
は唇をかんだ。やはり自分は王に一矢を報いることはできないのか。
(ならばお望み通り、おもしろいものをご覧に入れてさしあげますわ、主上)
 彼女は心の中で挑戦的に呼びかけた。枯瘠環で混乱に陥った光州を見て苦悩
するもよし、よしんば彼女の想像通りに王が興がったとしても、ひとつの州の
滅亡は必ずや王朝の終焉を導くはず。目の奥に闇をたたえた王は、自分の最期
さえも笑い飛ばしてしまうのかもしれないが、それでも暁紅の力を誇示するこ
とはできる。そして興を得た彼は今度こそ彼女に深い関心を示すだろう。
「おまえのような野心的な美女を后にしておけば、はるかにおもしろい人生を
過ごせたろうな。惜しいことをした」
 そう言ってにやりと野生的な目を向ける王なら容易に想像でき、暁紅は少し
気分が良くなった。
 しかしながら書類を検分するにつれ、どうやら只人ならまだしも仙に呪をか
けることは難しいらしいとわかった。額に第三の目が開いている仙は、位が高
ければ高いほど呪術的な能力も大きいからだ。神籍にある王は仙よりはるかに
高位の存在だから、さらに困難を極めることは想像に難くない。
 ふたりの女は落胆したものの時間だけはいくらでもあったので、とにかく何
かの術を試してみることにした。そうやって呪に詳しくなれば状況を打開する
方法が見つかるかもしれないと考えたのだ。
 複雑な文言を唱えたり面倒な準備や呪具が必要な高度な術はいったん脇にの
き、彼女らは呪言の詠唱で発動できる術を試すことにした。
 暁紅が慎重に選んだそれは、しかし呪詛に連なる術だった。最悪の場合、相
手を死に追いやる邪悪な術。しかし彼女は多少のためらいを覚えただけで、さ
ほど気にすることはなかった。市井の只人が相手なら比較的簡単に効力を発揮
するだろうし、そもそも彼らはたった六十年で生涯を終える下層民にすぎない。
わずかなためらいも、あくまで自分の身に惨事が起きることを恐れてのもの。

286永遠の行方「呪(190)」★オリキャラ中心★:2010/03/06(土) 23:44:33
 これが毒殺なら、何とかして標的に近づき毒を盛らねばならない。剣を使う
場合に至っては、肉を斬り骨を断つおぞましい感覚を二度と味わいたくはなか
ったから最初から問題外だ。
 しかし呪言をつぶやくだけとなれば、もともと心理的な垣根は低い。暁紅は
その決定的な境界を、自分でもまったく意識せずに楽々と越えてしまったのだ
った。
 それでも他人に害をなす呪は相手の抵抗を打ち砕かねばならないとの警告は
無視できなかったので、考えあぐねたあげく、心身ともに抵抗が弱いだろう乳
幼児を狙うことにした。幼い子供、特に赤子はちょっとしたことで死に至るだ
けに、直接触れないかぎりは疑いも招きにくいだろうとの計算もあった。
 ある日、暁紅は良家の夫人と侍女という風体で浣蓮を従えて町中を散策した。
人目のまばらな小途で、揺りかごに寝かせた赤子と日向ぼっこをしていた若い
母親を見つけた彼女は、「まあ、可愛い赤ちゃんだこと」とにこやかに話しか
けた。そして浣蓮と母親が世間話をしている隙に、定められた呪の心象を正確
に思い浮かべて小声で呪言を唱えた。
 その瞬間、世界は暗転し、彼女はその場で意識を失って昏倒した。

287永遠の行方「呪(191)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 00:06:34

「……さま。お嬢さま」
 遠くで呼わる浣蓮の声。ひどい倦怠感の中、暁紅は長らくその声を聞き流す
だけだった。このままではいけないという考えが頭に浮かんだのはずいぶん経
ってからのこと。彼女はようやくうっすらと目を開いた。
 そこは例の買い取った邸宅の牀榻であり、枕元を覗きこんでいた浣蓮がほっ
とした表情を向けた。
「お気がつかれましたか。ようございました。本当にようございました」
 そう言ってさめざめと泣く。指一本動かすだけの気力もない暁紅は、黙って
臥牀に横になっていた。疲労だの何だのという生易しいものではない。生命そ
のものを使い果たしたかのようなすさまじい消耗感。
 浣蓮が彼女の口に吸い飲みをあてがって薬湯を飲ませようとしてくれたもの
の、だらだらとこぼすばかりで結局飲みこむことはできなかった。
「お嬢さまが昏睡しておられる間、あの書類を詳しく調べてみました。只人の
場合は呪言を唱えても効果を発揮させることはほとんど望めないわけですけど、
仙であってもよほどの才能がないかぎり、呪詛には相当な準備が必要だそうで
す。というのも相手の抵抗を打ち崩し、無意識の呪詛返しがあったとしてもそ
れを無効化するために、あらかじめ大量の気を蓄えておかなければならないん
です」
 こわばった顔で訴える下僕の言葉を、暁紅は打ちひしがれた思いで聞いてい
た。
 ではこれは、あの赤子に呪詛をしかけたがための報いだったのか。たかが只
人の赤子だったのに、そもそも首か胴を断ち切られないかぎりそうそう死ぬも
のではないと言われる仙なのに、これほどの消耗を強いられるのか……。ある
いは赤子ゆえに潜在的な生命力は強かったということだろうか。
 何にしてもひとり呪ったくらいでこんな目に遭うのでは、ひとつの州を不毛
にするなどという大それた術は到底かけられない。ざっと書類を読んだかぎり
では、枯瘠環を発動させるには目的となる地域を十二方位から二重の死の呪環
で囲わなければならず、したがって最低でも二十四家の死が必要なのだから。
梁興はいったい何を考えていたのだろう。

288永遠の行方「呪(192)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 21:02:11
 暁紅が倒れてから既に十日以上が過ぎていた。浣蓮によると、結局あの赤子
は数日後に死んだとのこと。しかし眠ったまま目を覚まさずに衰弱死したとい
う静かな終焉であり、呪詛による効果かどうかはわからなかった。
 それから丸一日、暁紅は寝たきりだった。それでも女主人が回復してきたこ
とでほっとしたのだろう、浣蓮はかいがいしくもにこやかに世話をし、書類に
あった記載をさらに調べたと言って、消耗ゆえに極端に口数の減った暁紅が黙
って耳を傾けるまま事細かに報告した。
「気というものは、その人の能力や体質によっては労せずためることができる
そうです。そうでない場合は呪言を他人に唱えさせることで、その人の気を利
用する方法があるとか。とはいえ無理強いして唱えさせても効果は見込めない
そうですし、そもそもわたしたちの代わりに生命を投げだしてくれる他人を見
つけるなんて無理でしょうね」
 だが彼女は打ちひしがれるでもなく謎めいた笑みを口元に浮かべていたので、
暁紅は不思議に思った。それがわかったのだろう、浣蓮は笑みを浮かべたまま
こう続けた。
「でもお嬢さま、わたしたちは恵まれていますわ。というのも男の体は基本的
に気を放出するように作られているそうですけど、反対に女は気をためこみや
すいんだそうです。ただ一点だけ注意すれば、女は男の気をいくらでも吸いと
れるとか」
 意味がわからず、さりとて疑問を口にするほど回復していなかった暁紅は黙
って聞いているだけだった。
 やがて暁紅の体調が良くなると、浣蓮はたまに一、二刻姿を消すようになっ
た。そうして一ヶ月後のある日、家事の合間に同じように暫時姿を消したかと
思うと、疲れきった様子ながらも勝ち誇った表情で戻ってきたのだった。
「お嬢さま、わかりました。消耗に備えて気をためれば良いんです。梁興もそ
れを見越して、わたしたちに呪を任せたんです」
 呆気にとられている女主人を前に、彼女は暁紅が唱えたのと同じ呪言を用い
て幼児ひとりを殺めたことを得意げに報告した。しかし少々やつれてはいたも
のの足取りも声音もしっかりしており、あのときの暁紅と比べるとはるかに元
気だった。

289永遠の行方「呪(193)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 21:04:28
「どうやって……」
「男から気を奪うんです。やりかたも書いてありました。思ったより簡単でし
た。それに」いったん言葉を切ってから、意味深な笑みを浮かべて続ける。「
男のほうも悦ぶんです。不思議ですわね。気を、つまり生命力そのものを奪わ
れているとも知らず、狂ったように何度でもわたしの体を求めるんです」
 ――房中術。
 茫然としながらもようやく暁紅は理解した。浣蓮は男と交わることで、相手
の気を、精力を奪いとったのだった。
「どうやら気を奪われる際の感覚というものは、恐ろしいまでの快感をもたら
すようです。破滅に導かれているとも知らず――いえ、だからこその禁断の快
楽なのかもしれません。何度も何度も狂ったようにわたしを求め、十日も経つ
頃には老人のように肌が乾いてかさかさになり、目は落ちくぼみ、それはみす
ぼらしい風体になり果てていました。適当なところで切り上げて別の男を見つ
くろいましたけど、どの男もそれはそれは夢中になって、ふんだんに気をくれ
ました」
「浣蓮……おまえ……」
「けれどお嬢さま、いくら男を悦ばせても、自分だけは達しないように律しな
きゃいけません。気をためこむ女の体も唯一、達するときだけは気を放出する
状態になるそうです。そうなったらせっかくためこんだ気を失ってしまいます」
 狂おしげに目を輝かせて、くっくっと笑う下僕の様子に、暁紅は背筋がぞっ
とするものを覚えた。男女の交情が子供に結びつかないこの世界では、さほど
貞節が重んじられるわけではない。だが少なくとも地味な浣蓮はこれほど容易
に男に身を任せる娘ではなかったし、いくら目的のためとはいえ、交情による
成果を赤裸々に語るような下品な娘でもなかったはずだ。なのにこの様子は、
ためらいもなく呪詛を行なった暁紅でさえ、何かが異常だという感覚は否めな
かった。
 そんな女主人の様子に頓着せず、というよりも暁紅は表面上は落ち着いて、
「よくやったわね」と微笑とともに褒めたので気づかなかったのだろうが、彼
女はそれからも時折姿を消してはそのたびに勝ち誇った顔で戻ってくるように
なった。自分たちが呪を使えることを周囲に知られてはまずいというのに、手
に入れた力を得意になって乱用するさまに暁紅は愕然とした。

290永遠の行方「呪(194)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 21:06:35
 ――この……小娘。
 心中で毒舌を吐く。これまでも折に触れうとましく思ったことはあるものの、
この下僕をこれほどいまいましいと思ったのは初めてだった。
 やたらと力を行使しないよう、何とか言いくるめなければならない。それも
浣蓮が不快に思わないよう注意して。ここで扱いを間違えたら、下僕を失うだ
けでなく敵を作ることにもなりかねない。
「ねえ。いくら大きな街でも、流行病でもないのに赤子や子供が次々と死んで
は怪しまれてしまうわ。特にわたしたちは新参者なんだもの、子供が死ぬ前に
必ず見慣れない女の姿があったなんてことが知れたら大変なことになる。書類
にあった呪が本物だという確認はできたことだし、おまえのおかげで気をため
る方法もわかったのだから、今度はもっと地味な別の呪を試してみてはどうか
しらね。どの術も、いずれ何かの役には立つだろうから」
 そう言うと浣蓮は心得顔でうなずいた。
「おまかせください、お嬢さま。そうおっしゃるだろうと思って、子供を殺め
たのは一度だけですわ。それも不審を抱かれないよう細心の注意を払ってのこ
とですからご安心を。餌食にした男たちは皆衰弱死しましたけれど、旅人や浮
民のような余所者ばかりですし、傍目には悪い風邪をこじらせたように見えた
と思います。今試しているのは呪詛ではなく、心を縛って一時的に昏睡に落と
す術とか、香を使って幻惑する術とか――そのあたりです。もちろんなかなか
成功はしませんけど、それは仕方がないと思います。少なくとも只人に限って
言えば、そういう術のほうが単純な呪殺よりずっと難しい面もあるし、そもそ
も仙とはいえ素人のやることなんですから」
「そう……」
 彼女なりに注意は払っているらしいことを確認し、暁紅はとりあえず安堵し
た。しかし浣蓮は相変わらず狂おしくも目を輝かせており、暁紅は下僕の暴走
を警戒するとともに薄ら寒くなった。確かに浣蓮は身体的には多少の疲れが窺
える程度だったが、代わりに精神を――自分自身をどんどんすり減らし、心そ
のものを病んでいっているように見えたからだ。
 もしや他人に害をなす呪は、身体にしろ精神にしろ、術者の側も必ず何かを
犠牲にしなければならないのではないだろうか。そう考えて慄然としたものの、
だからと言って櫃を封印してどこかへやってしまうわけにもいかない。そんな
ことをしたら、これまでの数十年の心の支えがなくなってしまう。それに害さ
え被らないのなら、そして周囲に露見しなければ、暁紅自身も他の呪を試して
力を実感したいとの欲求はあるのだ。

291永遠の行方「呪(195)」★オリキャラ中心★:2010/03/09(火) 23:12:54
 そんな女主人の心境にはまったく気づかず、浣蓮はあいかわらずさまざまな
呪を試していった。とはいえ相手は市井の名もない民に限られていたのが幸い
だった。呪殺に限らず、仙に呪をかけるのは困難を伴うとあっては無理からぬ
話だが。
 枯瘠環(こせきかん)と名づけられた、土地に不毛をもたらすための肝心の
呪にもまだ手は出せなかった。いろいろと面倒な準備が必要な上、実際に不毛
にする土地――つまり光州の大半――を死の呪環で囲む必要があり、そのため
の文珠を各地に埋めねばならなかったからだ。
 どこにどのように埋めれば良いかという指示は事細かに記されていたし、そ
もそも櫃の文珠はこのために用意されていたのだから、他の術に比べれば手順
自体は明確で施術者の能力に依存する部分もなかった。しかし光州中を何ヶ月
も旅して埋めねばならないというのだから、か弱い女ふたりにとっては考えた
だけでも難事業だ。何よりそれだけの規模の呪詛となると、いったん発動した
ならば施術者の側も相当な負荷を強いられるのは想像に難くない。いくら気を
ためて備えても、簡単に生命を落とすかもしれないのだ。
 とはいえ浣蓮はあきらめたわけでもなかった。既に復讐心をほとんど失って
いた暁紅と違い、彼女は何としても王を苦しめたいと思っていたからだ。
「あまり深刻に考えることはありませんわ、お嬢さま。物見遊山のつもりで楽
しく旅をして、文珠はそのついでに埋めてきましょう。でも――そう、浮民や
荒民のようなならずものに襲われないよう、旅の間、屈強な用心棒を雇ってわ
たしたちを守らせるぐらいはしたほうがいいでしょうね」

292永遠の行方「呪(196)」★オリキャラ中心★:2010/03/10(水) 23:50:44
 茶を飲みながら、そう言って楽しげにころころと笑う。内心でずっとこの下
僕の暴走を警戒していた暁紅は、相手の様子にふと思いつくものがあった。
 浣蓮は王を苦しめたいと思っている。そのさまを見て溜飲を下げたいと。そ
れならば。
 暁紅は考えこむ風情を見せてからおっとりと尋ねた。
「おまえ、それで本当に満足なの?」
「と、おっしゃいますと?」
 怪訝な顔をした浣蓮の前で、暁紅は持っていた茶杯をゆっくりと卓に置いた。
そうしてふたたび考えこんで見せてからこう答えた。
「時間さえかければ、もちろん枯瘠環を敷くことはできるでしょう。でもそれ
で光州を不毛にしたからと言って、市井で暮らすわたしたちはもう王が苦しむ
姿を直接見られるわけじゃない。人々は王に呪詛の言葉を吐くだろうけれど、
それで本当に彼が苦しんだかどうかを知ることはできないわ。あの王のことだ
もの、むしろ皮肉めいた顔で軽く笑い飛ばすだけかもしれない。たとえ最後は
失道だったとしても、わたしたちが味わった悔しさや苦しみの一端さえ味わわ
ないで終わるかも知れない」
「それは……」
 浣蓮は言葉を失って口を閉ざした。
 ずっと暁紅につきしたがってきた彼女も、何十年も前に光州城で王を目の当
たりにしている。横暴で冷ややかで、みずからを焼きつくす炎を内に秘めてい
た王。そんな彼が普通の男のように単純に苦しむ姿は、確かに想像しにくかっ
たのだろう。
 目を伏せた彼女は、やがて吐き捨てるように「仕方がないじゃありませんか」
と答えた。
「わたしたちには他に手だてなどないんです。これで王が苦しむはずと自分に
言い聞かせて、せめて想像で心を慰めるしかないんです」
 子供のようにふてくされた相手を見て、暁紅は微笑を浮かべた。彼女の暴走
を抑え、自分の手足として操るための糸口を見つけたと思ったからだ。
「そうでもないかもしれないわ」
 思わせぶりに優しくほほえんだ女主人に、浣蓮ははっとして顔を上げた。

293永遠の行方「呪(197)」★オリキャラ中心★:2010/03/11(木) 00:11:20
「お嬢さま……」
「お聞きなさい。梁興が謀反を起こすまで、わたしは王がおしのびでひんぱん
に市井に降りているなどと信じたことはなかった。女を抱きに妓楼に通ってい
るという噂も。だってあまりにも荒唐無稽ですもの。でもわたしたちは既に、
延麒が王の寵愛を受けていることを知ったわね。となれば他の噂もかなりの部
分は真実なのではないかしら」
「それは、まあ……」
「貞州城にいた間だって、おまえは王に放浪癖があるという話を普通に耳にし
て、わたしに教えてくれたわね。ならばあの男を市井におびきだすこと自体は
不可能ではない。彼の関心を引ければ向こうからやってくるんだから。そうや
っていったんおびき出してしまえば、王が苦しむさまを、少なくとも報いを受
けた姿をこの目で見ることも不可能ではない――そうでしょう?」
「それは――そうですけれど……」浣蓮は困惑したように口ごもった。「でも
……おびきだすって、どうやって」
「だから呪よ。枯瘠環を目的ではなく手段として使うの。それも梁興の思惑通
りに一度に未曾有の大事件を起こして終わりにするのではなく、只人にはわか
らないけれど国府の関心は引くようなおかしな現象を、思わせぶりに少しずつ
起こしていく。そのほうがわたしたちの体の負担にもなりにくいだろうし、日
頃から下界をふらついているような王なら、自分の目で確かめようとしゃしゃ
り出てくるんじゃないかしらね。延麒のためとはいえ、かつて元州城にひとり
で乗り込んで謀反人と一騎打ちをしたほど無謀な男だもの」
 幾度かまばたいた浣蓮は、やがて合点がいったらしく大きくうなずいた。
「――ええ。ええ……確かに」
 忠実な下僕がようやく主人の言に耳を傾ける姿勢を見せたことで暁紅はほっ
とした。いろいろなものを手に入れたばかりなのに、暴走しかけていた浣蓮に
自分まで引きずられるのはごめんだった。
 そもそもまだ櫃を手に入れたばかりで、具体的に何が可能で何が不可能かを
把握したわけではないのだ。今はとにかく、先のことを考えるのに時間がほし
かった。




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