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大東亜戦争

271NAME:2018/02/17(土) 01:27:40
チャーチル元英首相、見誤った日本観 マレー作戦を予測→日本軍を過小評価しシンガポール陥落
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%81%e3%83%ab%e5%85%83%e8%8b%b1%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%80%81%e8%a6%8b%e8%aa%a4%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%a6%b3-%e3%83%9e%e3%83%ac%e3%83%bc%e4%bd%9c%e6%88%a6%e3%82%92%e4%ba%88%e6%b8%ac%e2%86%92%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%bb%8d%e3%82%92%e9%81%8e%e5%b0%8f%e8%a9%95%e4%be%a1%e3%81%97%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%ab%e9%99%a5%e8%90%bd/ar-BBJbR1e?ocid=iehp#page=2

【ロンドン=岡部伸】日米開戦の発端となった1941年12月8日の真珠湾攻撃とほぼ同時にマレー半島に日本軍が上陸し、わずか55日間で南下した後、シンガポールを陥落させてから15日で76年を迎えた。当時のチャーチル英首相が、マレー作戦をはじめ日本の軍事作戦を予測する情報がありながら日本軍の実力を過小評価し、「大英帝国史上最大の悲劇であり、大惨事」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)を招いたことが、英国立公文書館所蔵の英内閣合同情報小委員会報告書などで示されていた。チャーチルの誤った日本観が英国による植民地支配の終焉の始まりとなったといえそうだ。

 同報告書によると、米ワシントンで日米交渉が佳境に入った1941年11月18日に同小委員会が開催され、「日本の意図」として、「日本政府は英米と戦火を交えるリスクを冒す決断に至っていないが、交渉が決裂すれば、英、米、オランダと戦端を開く進攻作戦を行う判断を迫られる」と日本の軍事作戦を予測した。

 進攻先として、「aタイbマレーc蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)dロシア(ソ連)沿海州」を挙げた上で、「日本は対英、おそらく対米開戦の予備的作戦として最初にタイに進駐する。タイ占領後、マレーさらに日本が最も不足している石油を求めて蘭印に進攻するだろう。日本の石油備蓄量は9カ月から12カ月分だからだ」と石油資源獲得目的で英領ボルネオから蘭印に進むと予測。一方、伝統的な敵であるロシア(ソ連)への進攻(北進)に対しては、「圧倒的な優位性がないため、極東ロシア軍が弱体化するまで据え置かれる」と否定した。

 さらに米国側が事実上の最後通告となるハル・ノートを出した2日後の同11月28日に開催した同小委員会では「日本軍が取る可能性のある軍事行動」と題して、「マレーと蘭印作戦を進めるため、タイへの進駐はほぼ確実。ワシントンでの交渉決裂直後に実行されるかもしれない」とタイ進駐が差し迫っていることを予測した。

272NAME:2018/02/21(水) 02:42:41
なぜだ! 日本の侵略を受けた東南アジア諸国が日本を恨まない理由=中国メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%a0%ef%bc%81-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%be%b5%e7%95%a5%e3%82%92%e5%8f%97%e3%81%91%e3%81%9f%e6%9d%b1%e5%8d%97%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e8%ab%b8%e5%9b%bd%e3%81%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%82%92%e6%81%a8%e3%81%be%e3%81%aa%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBJlC3W?ocid=iehp#page=2

中国では歴史問題を理由に日本に対して反感を持つ人が数多く存在する。このような反日感情は中国や韓国で非常に根強く残っているが、東南アジア諸国では中韓ほどの反日感情は存在しないと言えるだろう。 中国メディアの今日頭条は18日、東南アジア諸国も中国と同じように日本に侵略されたというのに、なぜ日本を恨まないのかと疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、日本の閣僚が靖国神社に参拝したり、歴史教科書の内容を改定したりすると、中国や韓国では激しい反発の声があがると紹介する一方、反発の声は主に中韓からしかあがらず、東南アジア諸国からはほとんど聞こえてこないと指摘した。

 続けて、中国や韓国が日本による侵略に対して反発するのは当然のこととして、なぜ東南アジア諸国は反発しないのかと疑問を投げかけつつ、これは東南アジア諸国が当時置かれていた背景と大きな関係があると主張。そして、東南アジア諸国は日本による侵略を受けた時、欧米の植民地だったとし、「この点こそ中韓と大きく違っている点だ」と論じた。

 さらに記事は、日本は「欧米を追い出し、東南アジアを解放する」という名目で東南アジアに侵攻したがゆえに、当時の東南アジア諸国では日本が歓迎される存在となったと指摘。さらに、日本は欧米の植民地支配より東南アジアを上手に統治したため、恨みが生まれるどころかむしろ一種の感謝すら生じたと主張。これが東南アジア諸国で中韓ほどの反日感情は存在しない理由だと論じている。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

273NAME:2018/04/18(水) 03:43:33
ヤルタ密約 チャーチル英首相、ソ連対日参戦1カ月前に情報漏らす ソ連への千島割譲、英連邦4カ国に
2018.4.17 22:51更新
http://www.sankei.com/world/news/180417/wor1804170043-n1.html

【ロンドン=岡部伸】ソ連に対日参戦の見返りに日本領土だった南樺太と千島列島を割譲するとした「ヤルタ密約」を3巨頭の一人として署名したチャーチル英首相がソ連侵攻1カ月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4カ国首脳に密約内容を極秘に明かしていたことが、英国立公文書館で見つかった英外交電報で分かった。

 同年2月に交わされたヤルタ密約は、ロシアがソ連時代から、日本固有の領土である北方領土の領有を主張する最有力根拠としてきたが、北方四島を含む千島列島のソ連領有に懸念を抱いたチャーチルが英連邦主要国に警戒を促したことをうかがわせる。 電報は1945年7月5日付。チャーチルから英自治領省(ドミニオン・オフィス)経由でカナダ、豪州、ニュージーランド、南アフリカ4カ国の首脳あてに送られた。

 駐重慶カナダ大使が中国政府筋から得たとする「ソ連は対日参戦の見返りに、クリール(千島)、南樺太、南満州鉄道、旅順、大連を得る」との情報について、カナダのキング首相が6月27日付で照会したものにチャーチル自らが回答した。電報は、ソ連の対日参戦の条件として(1)ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持(2)南樺太の「recovery」(回復)(3)千島列島の「acquisition」(獲得)-を明記。 そのうえで「われわれ3人はソ連の要求が日本が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した」などと米英ソ3首脳の密約を説明している。

 ヤルタ会談直後、チャーチルは、密約の流出を懸念して同年3月、英連邦諸国に伝えないように外務省に指示していた。しかし、戦後処理を話し合う同年7月17日〜8月2日のポツダム会談に向けて、トルーマン米大統領らが出発する直前に、英連邦主要国に、情報提供していたことになる。 チャーチルは当時からアジアでの共産主義浸透をもくろむソ連を警戒しており、豪州やニュージーランドに密約を事前説明することで、降伏勧告を含む対日政策で英連邦の結束を促したとみられる。 また電報原本には、千島列島の獲得が記述された左部分に赤線がひかれており、千島列島の扱いについて英政府内で重要な懸案として論議された形跡を示唆している。

カリフォルニア大学サンタバーバラ校の長谷川毅名誉教授(日露関係史)は、「英国は、日本に降伏を迫る上で、米国が主張する国体の否定(皇室解体)を和らげることを望んでいた。一方で、豪州やニュージーランドなどは過酷な和平条件を日本に要求しており、英連邦諸国をいかに説得するかの板挟みにあったのではないか」と指摘している。

【用語解説】ヤルタ密約 1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミア半島ヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相による連合国3カ国首脳会談が開かれた。ルーズベルトはソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられ、ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定、東西冷戦幕開けのきっかけにもなった。

274NAME:2018/04/18(水) 03:45:53
ヤルタ密約 背景に透けるチャーチルの微妙な立場 戦後は一転「歴史的過ち」と批判
2018.4.17 22:52更新
http://www.sankei.com/world/news/180417/wor1804170044-n1.html

チャーチル英首相が英連邦主要国に、米英ソ3首脳によるヤルタ密約の内容を“漏らしていた”ことは、チャーチル自身の密約に対する微妙な立場をうかがわせている。実際、チャーチルは戦後、署名したものの自身を頭越しにした米ソ首脳の独断と釈明し、大西洋憲章とカイロ宣言で定めた「領土不拡大の原則」に反した歴史的“過ち”と認めている。

 密約をめぐって、英外務省は大戦終了約半年後の1946年2月、全在外公館に「ルーズベルトが米大統領の権限を越え、米議会の批准を得ずに署名しており、(南樺太と千島列島などの領土移転を決めた)合意の有効性について米国内で議論が起こるかもしれない」と疑問を呈し、「論議に巻き込まれないように注意すべきだ」と警告を発していたことが、英外交電報で判明している。

 また、米国内でも53年に当時のアイゼンハワー大統領らが、ルーズベルトが独断で決めたとして密約の無効を訴えたことで、同じく英政府にはからず独断で署名したチャーチルの責任を問う声も表面化した。 このため、チャーチルはイーデン外相あてに、「米ソ首脳が頭越しで決定した。自分はその場におらず、連合国の結束を乱したくなかったので署名した」と釈明する書簡を書いている。

英国はこれまで、ソ連・ロシアが北方四島を含む千島占有の根拠としてきた密約が米ソ主導で結ばれたこともあり、北方領土問題に対する立場も明瞭にしてこなかった。 日本の外務省は、こうした英国の姿勢について平成18(2006)年2月の国会答弁で、「わが国の認識を否定するものではない」とのみ答えている。 (ロンドン 岡部伸)

275NAME:2018/05/07(月) 22:40:15
ヨシツネ @yoshitunekodomo
私の父は自衛官だった。
小学4年生だった私は授業中、担任女性教師から
「大野君のお父さんは自衛官です。自衛隊は人を殺すのが仕事です。しかも憲法違反の集団です。みんな大きくなっても大野君のお父さんのようにならないようにしましょう。」と言われたことがある。
大野敏明
0:45 - 2018年5月6日
http://seikeidouga.blog.jp/archives/1070808498.html

276NAME:2018/05/31(木) 00:05:03
特攻隊員の最期、73年経て特定 米艦炎上の映像見つかる
http://a.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A%E5%93%A1%E3%81%AE%E6%9C%80%E6%9C%9F%E3%80%8173%E5%B9%B4%E7%B5%8C%E3%81%A6%E7%89%B9%E5%AE%9A-%E7%B1%B3%E8%89%A6%E7%82%8E%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%98%A0%E5%83%8F%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%8B/ar-AAxRV9K?ocid=iehp#page=2

鹿児島県の鹿屋基地から零式艦上戦闘機(ゼロ戦)で出撃した特攻隊員の西口徳次中尉=当時(23)=が1945年4月、沖縄近海で米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドに突入した直後に同艦が大破、炎上している状況を記録した約2分半の映像が見つかった。27日、京都市内で開かれた慰霊祭で上映され、遺族らが73年を経て最期の様子を目にした。

 西口中尉の妹前田かよ子さん(80)=兵庫県芦屋市=は「まさか今になって見られるとは。見つけてくださりありがたい」と見入った。 遺族から依頼を受けた大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」が、米国立公文書館で映像と関連資料を発見した。

1945年4月29日、西口徳次中尉が搭乗した戦闘機の攻撃を受けた米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドの映像。艦橋部分(中央)から煙が上がっている(豊の国宇佐市塾提供)

277NAME:2018/06/04(月) 19:14:26
「昭和の大戦」への道   渡部昇一・著
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library507.html
https://kabukachan.exblog.jp/18225842/
★ なわ・ふみひと の ひとくち解説 ★
  この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとりと言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または気づいていないふりをしている)点です。
  太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。
  このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。
  当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。
  つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。
  アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。
  結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。

278NAME:2018/08/04(土) 04:22:35
【正論】大戦の検証通じ日本の姿考える 学習院大学学長・井上寿一
2018.8.3 11:00更新
http://www.sankei.com/column/news/180803/clm1808030005-n1.html

8月15日は先の大戦の戦没者を慰霊する日である。戦没者数およそ310万人、そのなかで未帰還遺骨の概数は100万柱以上に上る。戦禍がもたらした犠牲に言葉を失う。 なぜ開戦は回避できなかったのか。回避できなかったとしてもなぜ早期に戦争を終結しなかったのか。犠牲者数を最小限にとどめることはできなかったのか。 以下では日米開戦から戦争終結までの時期を対象として、これらの疑問を考える。

 ≪「万一の僥倖」に賭けた陸軍≫

 日米開戦は回避可能だったのか。戦後の日本外交史研究は、この疑問を解く目的で出発したと言っても言いすぎではない。 1960年代初めには日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部が研究プロジェクトの成果を発表している。それ以来、今日までの膨大な研究の蓄積によって、日米開戦外交の全体像が明らかになっている。 そこへ今年、研究の新たな画期となるような著作、牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』が現れた。同書はすでに複数の書評があるので、内容紹介は必要最小限にとどめる。

 開戦の前年、陸軍の秋丸次朗中佐の下に集まった経済学者たちが、戦争経済に関する報告書をまとめる。 同書はこの秋丸機関の「幻の報告書」を読み解く。「確実な敗北」と「万一の僥倖(ぎょうこう)」の両論併記の報告書に対して、陸軍は「万一の僥倖」の方に賭けた。

 陸軍の選択はそうだったのかもしれない。しかし実際の日米交渉は違った。日本側が最後の外交カードとした「乙案」(南部仏印から北部仏印への移駐と引き換えに石油供給を再開して開戦を回避する案)は、「確実な敗北」の回避策だったからである。 「乙案」をめぐって暫定協定が成立すれば、東南アジアは雨期に入る。状況は膠着(こうちゃく)する。ヨーロッパでは対ソ連戦争でドイツが劣勢に陥る。外交史研究が指摘するように、こうなればあらためて開戦を決定することはむずかしくなる。

279NAME:2018/08/04(土) 04:23:42
≪早期終結の戦略はなかった≫

 ところが暫定協定案に対するアメリカの返答はハル・ノートだった。アメリカにとってハル・ノートは最後通告ではなかった。交渉の余地は残されていたものの、日本は11月末までに外交交渉でまとまらなければ、12月初旬の武力発動を決めていた。ここに日本は対米開戦に踏み切った。

 真珠湾の奇襲攻撃は成功する。問題はそこからだった。 陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐(当時)は戦後、次のように指摘している。「初めからハワイを奇襲したついでに、なぜハワイを取ってしまわなかったのか」。ハワイを占領すれば、それをてこに戦争終結をめざすことができた。 岡田は重ねて言う。「あのとき一挙にハワイをすぱっと取ったら、だいぶ異なった情勢が生まれたのではないか」。しかし実際には予防戦争としての早期終結の戦略はなかった。

 真珠湾攻撃から約半年後、日本はミッドウェー海戦で敗北する。2カ月後から始まったガダルカナル島攻略作戦では壊滅的な打撃を受けた。それでも日本は戦争を続ける。 どこかで決戦を挑み、戦果を上げて和平に持ち込まなければならなかった。しかし陸海軍の戦略の統合が進まず、決戦の天王山は移動した。

 先の大戦で最大の犠牲者が出たのは、戦争の最後の年である。前年までに戦争が終結していれば、東京大空襲も沖縄戦も広島・長崎の原爆投下もソ連の対日参戦もなかった。しかし和平構想を持たずに戦争を始めた日本は、1944(昭和19)年までに戦争を終結することができなかった。

≪反実仮想し歴史の教訓を学べ≫

 「万一の僥倖」に賭けた結果は日本の国家的な破局だった。その代わり、戦後は平和と民主主義の時代が訪れる。 しかし開戦直前の武藤(章)陸軍省軍務局長のように、「国体変革」に至るまで敗北しても、日本民族は「再び伸びる」と予測できたのは、きわめて例外的だっただろう。

 対する「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」による戦争回避は310万人を救うことができた。その代わり日本が先進民主主義国になるには、実際よりもはるかに長い年月を要しただろう。 大政翼賛会から政党内閣の復活への転換に限っても、その過程は曲折が予想される。アジア諸国の独立も遅れたにちがいない。欧州諸国がアジアの植民地を手放す意思はなかったからである。

 他方で第二次欧州大戦が独伊の敗北に終わる。ほどなくして米ソ冷戦が始まる。1920年代の日米協調関係が冷戦状況のなかで復活する。そうなれば現実の戦後日本と同様の日本が形成される。 8月15日は国民一人一人がこのような反実仮想による戦争の検証作業をとおして歴史の教訓に学びながら、戦没者を慰霊する日となることを願う。(いのうえ としかず)

280NAME:2018/08/07(火) 00:03:02
47年隠され続けた太平洋戦争の正体
太平洋戦争で最も得した国
http://www.worldforecast.jp/lp/fukota/adw_lptest3.html?utm_expid=.GjFxD-zNSD2zhBR366NqDA.0&utm_referrer=https%3A%2F%2Fgoogleads.g.doubleclick.net%2Fpagead%2Fads%3Fclient%3Dca-pub-9745878946796737%26output%3Dhtml%26h%3D100%26slotname%3D6484497368%26adk%3D465469005%26adf%3D3492283990%26w%3D670%26lmt%3D1533566068%26loeid%3D201222032%26rafmt%3D12%26guci%3D2.2.0.0.2.2.0%26format%3D670x100%26url%3Dhttps%253A%252F%252Fblog.with2.net%252Frank1510-0.html%26flash%3D30.0.0%26wgl%3D1%26adsid%3DNT%26dt%3D1533567365886%26bpp%3D27%26bdt%3D1303%26fdt%3D39%26idt%3D246%26shv%3Dr20180801%26cbv%3Dr20180604%26saldr%3Daa%26abxe%3D1%26correlator%3D3724105942613%26frm%3D20%26pv%3D2%26ga_vid%3D542308252.1374864911%26ga_sid%3D1533567366%26ga_hid%3D1233738848%26ga_fc%3D0%26icsg%3D181456861871%26dssz%3D42%26mdo%3D0%26mso%3D0%26u_tz%3D540%26u_his%3D3%26u_java%3D1%26u_h%3D1080%26u_w%3D1920%26u_ah%3D1048%26u_aw%3D1920%26u_cd%3D24%26u_nplug%3D3%26u_nmime%3D5%26adx%3D68%26ady%3D803%26biw%3D1463%26bih%3D609%26scr_x%3D0%26scr_y%3D0%26eid%3D21060853%252C21062171%252C62710016%252C62710018%252C201222022%252C368226401%26oid%3D3%26rx%3D0%26eae%3D0%26fc%3D528%26docm%3D11%26brdim%3D179%252C267%252C171%252C95%252C1920%252C%252C1496%252C813%252C1480%252C609%26vis%3D1%26rsz%3D%257C%257CeEbr%257C%26abl%3DCS%26ppjl%3Df%26pfx%3D0%26fu%3D272%26bc%3D1%26ifi%3D11%26xpc%3DkTqTUqdJFO%26p%3Dhttps%253A%2F%2Fblog.with2.net%26dtd%3D306

1946年(昭和21年)5月3日、東京。

元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーと連合国軍最高司令官マッカーサーは「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日間にも渡って話し合った。そのとき、日本人なら誰も思いもしないようなことをフーヴァーは口にした…

「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。気が狂っていると言っても精神異常なんかじゃない、ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかった…その欲望の結果が日米戦争になったんだ」

その言葉を聞いて、マッカーサーははっきりと同意した…

私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなしに攻めて戦争を起こした」「日本は残虐な悪い国だ」ということを新聞でも、テレビでも繰り返し教わってきました。しかし今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の常識とは真逆とも言える証言が、47年公開を禁じられたフーヴァー元大統領の回顧録から次々と浮かび上がりました。 上記のマッカーサーとの会話も、この回顧録からのワンシーンです。回顧録ではその他にも、ハル・ノート、原爆投下、終戦などについて常識を覆す内容を投げかけています。

アメリカではこの証言をもとに、歴史の見方が、世界の見方が、少しずつ変わり始めているようです。しかし、日本人にとってこんなに重要な内容なのに、日本の大手メディアは全く取り上げてくれません。日本人が知らない太平洋戦争の本当の筋書きとはどのようなものだったのか? この講演録では、回顧録をベースにひとつひとつの事実を丁寧に読み解くことで、「日本が戦争を起こした」という教科書通りの太平洋戦争に含まれる多くの矛盾点、戦争の真実を次々と明かしてくれます。 読み終わった後には、きっとあなたの「太平洋戦争のイメージ」は全く変わっていることでしょう。それだけでなく、アメリカと日本を見る目が変わり始めることでしょう。

藤井厳喜氏はこう言います。「テレビ・新聞など日本のメディアには語られないところに真実は存在している。それどころか、私たちに真実が知られないように巧妙に隠され、間違った情報が拡散するように仕組まれている…」 ぜひ、この講演録からあなた自身で「何が真実なのか?」を判断してください。

【目次】日本人が知らない太平洋戦争の大嘘

はじめに・・・1ページ
反日プロパガンダは、日本の国そのものに対する攻撃である
「反日中毒が蔓延している」と反骨のフランス人ジャーナリストが喝破した
序章フーヴァー大統領の『フリーダム・ビトレイド』が明らかにしたルーズベルトの裏切り
フーヴァーの勇気ある告発――ルーズベルトは誰のために戦争を始めたのか
ルーズベルト神話は、いまだアメリカ社会に根強く生きている

281NAME:2018/08/07(火) 00:03:33
第1章 日米関係前史
両国は衝突する運命だったのか? ・・・22ページ

日本の鎖国を終わらせたのはアメリカだった
ハワイ王国を乗っ取ったアメリカ 
若き東郷平八郎は、ハワイの亡国とどう向き合ったか
英露ふたつの大国がぶつかったのが、日本だった
アメリカが、日本を仮想敵国とした戦争計画「オレンジ・プラン」を作っていた理由
対日感情を大きく変えた移民排斥運動
日米は、どこかの段階でぶつからざるを得ない運命にあった
南北戦争勃発で生じた日米関係の空白
カラカウア王が日本に持ち掛けた仰天計画
ロシアとイギリスのグレート・ゲーム
アメリカはなぜ、日英の蜜月関係を終わらせたかったのか
日米関係はずっと悪くなかった
日本人にとって衝撃的な出来事だった、排日移民法の成立
アメリカは、日本がチャイナの利権を独占するのが許せなかった

第2章 日米戦争を起こしたのは誰か?
『フリーダム・ビトレイド』でフーヴァーは何を伝えたかったのか・・・58ページ

日本に対する宣戦布告なき戦争が、静かに始まっていた
スターリン、チャーチル、?介石には、ルーズベルトとの深い関係があった
ルーズベルト家は、チャイナ貿易で財を成した家系だった
かくして、アメリカは開戦に踏み切った
「戦争を始めたいという狂人の欲望」が日米戦争を引き起こした
日本の知らない裏側で世界はつながっていた
なぜ、海軍は三国同盟を防げなかったのか
ついに一緒の船に乗った! 安堵して眠りについたチャーチル
アメリカを侵略する共産主義の脅威
「赤狩り」という極端な政策がアメリカで吹き荒れた理由
アメリカ国民よ、今こそ目を覚ませ
フーヴァーは、アメリカンドリームボーイだった
歴史から消し去られたフーヴァーの功績
世界経済を立て直すための経済サミットを、ルーズベルトが潰してしまった
ルーズベルトのニューディール政策は、大不況を克服することができたのか
なぜ、ルーズベルト大統領は戦争を望んだのか
チャイナとキリスト教宣教師の奇妙な関係
ヨーロッパの戦争でアメリカン・ボーイズを死なせるな
フーヴァーとマッカーサーの会談で何が話されたのか
最大限譲歩した和平交渉は、拒絶された
三国同盟締結は、日本を滅ぼす道だった
日本はハワイではなく、極東ソ連を攻撃して挟み撃ちにするべきだった
議会にアメリカの宣戦布告を求めたルーズベルトの欺瞞
フーヴァーは、共産主義の脅威と戦うことに生涯をかけていた
アメリカ国民は本当の歴史を知らされていない
チャイナは、あらゆるものが戦争の手段となる「超限戦」を仕掛けている
フーヴァー大統領への期待と失望
世界経済を立て直すための経済サミットを、ルーズベルトが潰してしまった
フーヴァー研究所を創設して、アメリカの保守主義を支える

282NAME:2018/08/07(火) 00:04:06
第3章 原爆を落とす必要があったのか?
日本は終戦のために水面下で動いていた・・・128ページ

無条件降伏の要求が、戦争を無駄に長引かせ、より残酷なものにした
広島・長崎への原爆投下がなくても、日本は降伏していた
日本に無条件降伏を呑ませるための切り札
徹底抗戦を叫ぶ陸軍統制派は、社会主義革命を望んでいた
イギリスは、伝統的な外交政策バランス・オブ・パワーに徹すべきだった
第二次世界大戦は、世界の構図をどう変えたのか
第二次世界大戦の本当の勝者は誰か
チャイナを労せずして得た毛沢東
ルーズベルト大統領3つの大罪
原爆投下は、新世界におけるアメリカの覇権を誇示するものだった
トルーマンが、ソ連対日参戦の前に戦争を終わらせたかった理由
和平を訴える「近衛上奏文」のもうひとつの危機感
日本は、大局観に基づく知恵を持っていたか
余りに大きかったイギリスの勝利の代償
最大の犠牲者を出したソ連が、第二次世界大戦で得た最大の成果

終章 日米がもし戦わなかったら?
世界地図は全く異なるものになっていた・・・160ページ 

日本はイギリスとの戦いだけなら勝機があった 
大英帝国の運命を握っていたのは、ドイツではなく日本だった
ヨーロッパは、ナチス・ドイツとソ連の支配が温存された
チャイナは分断国家となっていた

終わりに
ヤルタ協定を徹底批判したブッシュ・ジュニアの演説・・・168ページ

国内外の大企業・投資家からも信頼される国際政治学者
藤井 厳喜 氏 ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ代表取締役

ハーバード大学大学院博士課程修了。日本のマスメディアでは決して報道されない、欧米政府が扱うレベルの政治・経済の動向、そして市民レベルの情報も踏まえて、文化、思想、宗教など多方面から分析し未来を的確に見抜くその予測能力は、内外の専門家から高く評価されている。

著書は第1作の『世界経済大予言』(1984年)以来、年間数冊のペースで出版され70冊を上回る。また、秘匿性の高い年間20万円の会員制レポートは35年間毎月発行され、「正確な情報が命」とも言える大手金融機関や大企業、個人投資家を中心に「世界情勢を読み解くバイブル」として高い評価を得ている。

また、国連集会に派遣団として参加したり、1999年には米ブッシュ政権との架け橋として、リチャード・アーミテージ元米国務副長官、ロバート・ゼーリック世界銀行総裁(共に当時は民間人)らに掛け合い、外交の裏側を取り仕切るなどの国際的・政治的な活動も行ってきた。

その一方で、「朝まで生テレビ」「バイきんぐ」「ニュース女子」「虎ノ門ニュース」などのテレビ出演やラジオのニュースキャスターを歴任。タレントや根拠の薄い発言しかしない学者では伝えられない世界の真実を、お茶の間にも届けるべく情報発進に努める。 さらに現在は、地上波では伝えきれないような「日本人にとって価値ある真実」を広める活動をダイレクト出版と協働で行っている。

283NAME:2018/08/09(木) 12:33:27
9回出撃して9回生還 隠された特攻隊の真実
2018/08/09 07:00
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/9%e5%9b%9e%e5%87%ba%e6%92%83%e3%81%97%e3%81%a69%e5%9b%9e%e7%94%9f%e9%82%84-%e9%9a%a0%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%89%b9%e6%94%bb%e9%9a%8a%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f/ar-BBLGgom#page=2

太平洋戦争末期、爆弾を抱えた飛行機で米軍の戦艦に体当たりする旧日本陸海軍の自爆攻撃「特別攻撃隊」に関する書籍が相次いでベストセラーになっている。究極の犠牲精神と美化されることもあった特攻隊の「虚像」が関係者の証言などで明らかになってきた。戦後73年、いまなぜ特攻隊が注目されるのか──。

*  *  *

 特攻隊として出撃すること9回。その度に生還したパイロットがいた。しかも急降下爆撃で戦果をあげて。本来なら上官は称賛してしかるべきであろうに「次こそは必ず死んでこい」と激怒したという。なんとも衝撃的なエピソードが語られるのは、『不死身の特攻兵軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)。作家の鴻上尚史さんのノンフィクションで、昨年11月発行以来、増刷を重ね18万部を突破した。

 同じく12月に刊行され、「体当たり戦法」も含めて戦争の実態を明らかにした吉田裕著『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)も13万部を数える。鴻上さんが読んで『不死身の特攻兵』を書くきっかけになったという、大貫健一郎・渡辺考著『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(朝日文庫)など、特攻隊に絡む書籍の文庫化や復刊も相次いでいる。

「特攻隊」が多くの人に鮮烈な印象を与えたのは、昭和20(1945)年5月11日、日本陸軍第六航空軍と海軍特攻機64機が出撃した沖縄戦で、嘉手納湾に停泊していた米空母バンカー・ヒルに2機の特攻機が体当たりし、黒煙を上げる映像だろう。 米側の資料では、ヒルの乗員402人が戦死、戦傷者264人。ほかに駆逐艦エヴァンスに4機が命中するなど、前年10月から始まった「特攻」の中で、最も被害が甚大だったといわれる。

 一般に「カミカゼ」と言われるが、昭和19(44)年10月25日、レイテ(フィリピン)防衛戦に投入された海軍初の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」は、劣勢に追い込まれた日本軍の起死回生の作戦だった。零戦に250キロ爆弾を装備して敵艦に体当たりする。 海軍に遅れはするが同年11月12日には、陸軍初の特攻隊が出撃している。

 陸海軍ともに初期の特攻隊には、戦果を重視しベテランパイロットを投入。とくに海軍初の特攻では関行男大尉の体当たり攻撃により、米軍「護衛空母」を撃沈させたことの戦意発揚効果は大きかった。 しかし、特攻は機とともに飛行士の命を失うもので、回数を重ねるにつれ飛行時間が少なく「離着陸がやっと」の少年飛行兵や予備学生らの若い操縦士が充てられ、ガソリンの欠乏から操縦訓練さえ満足にできないまま出撃していったという。

 若い操縦士が選ばれたのは、ベテランを「本土決戦」に残そうとした狙いもあったとされるが、選出する側が身内であるエリート士官に配慮した面が大きいとされる。古参兵のなかには「俺を選んだら許さんぞ」とすごむ者もいたといわれる。 特攻機が不足するに及んでは、誰が見ても不向きと思われる爆撃機や練習機までも投入。整備兵をして「こんな子供たちをこんなぼろ飛行機で」と悔しがらせたほどだった。

284NAME:2018/08/09(木) 12:34:25
 無謀な作戦の背景には戦況の悪化はあるものの、作戦立案において「体当たりは、爆弾を落とすよりも簡単だろう」といった空戦の経験のない参謀たちが中枢を占めたことがあげられる。 その効果に関しても当時、現場のパイロットから疑問が投げかけられていた。命中しても甲板を炎上させるだけで、大破撃沈には至らない。急降下爆撃による爆弾投下が有効と意見を呈するベテランパイロットたちに対して、しかし「命が惜しいのか」と一考されることはなかった。

 栗原俊雄著『特攻──戦争と日本人』(中公新書)によると、8月15日の敗戦までの特攻隊員の戦死者は海軍2431人、陸軍1417人(戦死者数は諸説あり)。対して、撃沈した米軍艦船は合計47隻。しかし大半が小型駆逐艦や輸送船などで、標的とした正規空母、戦艦の撃沈はゼロだ。

 戦後こうした特攻は「志願」によるものか「命令」されたものか、議論を呼んできた。 命じた側は共通して志願だという。しかし近年、生還した特攻兵による証言が相次ぎ出てくるようになり、断ることのできない「志願」だったことが明らかになってきた。『不死身の特攻兵』に出てくる佐々木友次さんは一例だ。

 奇妙なことに命じた側の上官の多くは、出撃の際に異口同音「私もあとに続く」と演説した。けれども言行一致させたのはごくわずか。「最後の一機には、この冨永が乗って体当たりをする決心である」と佐々木さんらをあおった陸軍第四航空軍の冨永恭次司令官は敗色濃厚と見るや、特攻機にもつけなかった護衛機に守られて前線離脱している。その行動にはあぜんとさせられる。

 こうした「命じた側」の多くは悪びれもせず「特攻は志願だった」「現場で自然発生的に生まれた」と語ることで、自身の「責任回避」を図ってきた。

© Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 レイテ湾への出撃を前にした万朶(ばんだ)隊=1944年11月5日 (c)朝日新聞社

 戦死を報告し「軍神」となったはずの操縦士たちが帰還。扱いに困った軍は、生還した特攻隊員だけを集めて寮に幽閉し、「なんで貴様、帰ってきたんだ。そんなに命が惜しいのか」と追い込んでいった。戦後長く隠蔽(いんぺい)されてきた事実を追跡した『特攻隊振武寮』の解説で、取材を行ったNHKディレクターの渡辺考さんは、「命じた側」の沖縄特攻作戦の司令官で陸軍第六航空軍の菅原道大(みちおお)中将と倉澤清忠参謀の戦後の様子を紹介している。

 菅原元中将もまた「最後の1機で必ず、俺も突入する」と訓示した上官のひとりにして、戦後、特攻は命令ではなく自発的行為だったと言明し続けてきた。 その菅原元中将は90歳を過ぎ、認知症の進行した晩年、「刀を持ってこい、腹を切る」「拳銃はどこに隠した」と家人らに命令口調になることが幾度もあった。そして83年12月、亡くなるひと月前、息子に「二十歳前後の若者がなんで喜んで死んでいくものか」とつぶやいたという。 倉澤元参謀は戦後、印刷会社を興し、菅原元中将同様、特攻隊の慰霊祭などにはこまめに出席するいっぽうで、家族には特攻の話をしなかった。そして常にピストルや軍刀を側に置いていたという。

 慰霊祭に出席している倉澤元参謀を見つけた、「貴様らは人間のクズだ」「ひきょう者!」と罵倒を浴びた「振武寮」の元特攻兵たちが「私たちを覚えていますよね」と呼び止め謝罪を求めるや、彼は慌てて首を振り、「覚えがない。どちらさんでしょうか。私はあなたたちを存じあげない」と顔を真っ青にして否定したという。亡くなったのは2003年である。

 なお、「特攻」に関してはすでに真珠湾攻撃の際にその萌芽はあった。あまり知られてはいないが、生還の望めない2人乗りの特殊潜航艇が使われていた。 鴻上さんは著書の中で、特攻は「命令した側」と「命令を受けた側」、さらに「命令を見ていた側」の三つの立場があるとし、それを理解したうえで、命じた側の保身のために「嘘」が構築されてきたことを明らかにしている。そのことの意味は大きい。(朝山実)※週刊朝日  2018年8月17-24日合併号

285NAME:2018/08/09(木) 20:05:28
「後に続く」はうそ、特攻隊の真実

286NAME:2018/08/09(木) 21:44:28
繰り返す人種差別の歴史=米、トランプ政権下で分断加速-強制収容の日系人が警鐘
時事通信社
2018/08/09 14:44
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e7%b9%b0%e3%82%8a%e8%bf%94%e3%81%99%e4%ba%ba%e7%a8%ae%e5%b7%ae%e5%88%a5%e3%81%ae%e6%ad%b4%e5%8f%b2%ef%bc%9d%e7%b1%b3%e3%80%81%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%97%e6%94%bf%e6%a8%a9%e4%b8%8b%e3%81%a7%e5%88%86%e6%96%ad%e5%8a%a0%e9%80%9f%ef%bc%8d%e5%bc%b7%e5%88%b6%e5%8f%8e%e5%ae%b9%e3%81%ae%e6%97%a5%e7%b3%bb%e4%ba%ba%e3%81%8c%e8%ad%a6%e9%90%98/ar-BBLGFEb#page=2

【ワシントン時事】米政府が第2次大戦中の日系人強制収容の過ちを認め、公式に謝罪した「市民の自由法」成立から10日で30年。日本人の血を引くという理由だけで「敵性外国人」のレッテルを貼られ、仕事や財産を奪われた日系人。その差別の歴史は、トランプ政権下で繰り返されつつある。「二度とないように」。元収容者の切実な願いは、人種・民族の分断が加速する米社会にむなしく響く。

 ◇有刺鉄線からの解放

 対向車のほとんどない一本道の両脇には、見渡す限りトウモロコシが青々とした葉を茂らせていた。米東部ニュージャージー州にある人口約4万6000人の町シーブルック。「今も多くの日系人が暮らしているんですよ」。日系3世のスタンリー・カネシキさん(82)は笑顔を見せる。

 大戦末期、徴兵で働き手を失ったシーブルックの野菜加工工場は、日系人の元収容者を積極的に採用した。日系人約2300人が新たな生活を求めて移住。欧州や中南米からも多くの移民が集まった。 1日12時間労働で、時給は35〜50セント。「風呂やトイレは共用で、居住環境は収容所と大差なかった」とカネシキさん。それでも「有刺鉄線の囲いから解放された自由は何物にも代え難かった」と振り返る。

 ◇強まる移民規制

 レーガン元大統領は1988年、市民の自由法に署名し、日系人の強制収容を「重大な過ち」と認めて謝罪。生存している元収容者に各2万ドルの補償金を支払った。 それから30年、米社会における強制収容の記憶は薄れつつある。トランプ大統領は一部イスラム圏の国民の入国を禁止。アフリカや中米諸国を「便所のような国」と侮蔑し、さらなる移民規制を模索する。こうした風潮は社会にも拡散し、ヘイトクライム(憎悪犯罪)は増加の一途をたどる。 日系3世のアイリーン・カネシキさん(78)は「日本に対する恐怖から日系人を一律に敵対視し、権利を剥奪した戦争中と同じだ」と指摘。「米国は移民で成り立つ国。シーブルックはその良い例だ」と語る。

 ◇政権の無関心

 トランプ政権は2019会計年度予算教書で、日系人収容所跡地と米先住民墓地の保存事業に交付される補助金を廃止した。さらに、国定史跡の見直し・縮小も進める。 2015年に国定史跡に指定されたハワイ・オアフ島のホノウリウリ強制収容所も、将来の見直し対象になる可能性は否定できない。日系4世のハナブサ下院議員(民主党)は補助金廃止を「政権の宗教・人種差別に対する無関心さの表れだ」と批判する。

 首都ワシントンの連邦議会議事堂近くの公園には、2羽の鶴が自由を求め、体に巻き付いた有刺鉄線から脱しようともがく様子を表現した高さ約4メートルの銅像がある。日系人収容の歴史を伝える記念碑だ。 日系の故ダニエル・イノウエ元上院議員の言葉も刻まれている。「いかなる人々に対しても二度と起きてはならぬことの教訓として引き継いでいかなければならない」。 © 時事通信社 米日系人強制収容所について語るスタンリー・カネシキさん(右)とアイリーン・カネシキさん=2日、東部ニュージャージー州シーブルック

287NAME:2018/08/10(金) 20:47:24
原爆投下でチャーチル英首相が7月1日に最終同意署名 1945年の秘密文書
2018.8.9 22:49更新
http://www.sankei.com/world/news/180809/wor1808090046-n1.html

【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中の1945年7月、英国のチャーチル首相(当時)が米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1カ月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定に、チャーチルが深く関わっていたことを裏付ける資料として注目されそうだ。 同館所蔵ファイル(CAB126/146)によると、原爆開発の「マンハッタン計画」責任者、グローブス米陸軍少将が45年6月初め、英国側代表のウィルソン陸軍元帥を通じて英政府に日本に対する原爆使用を許可するよう求めた。

チャーチル英首相が新兵器で復権もくろむ ソ連の伸張に対抗

 打診は、米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定めた43年8月の「ケベック協定」に基づく。 英政府内で検討を重ねた結果、チャーチルは容認を決断し、45年7月1日、「オペレーショナル ユース オブ チューブ・アロイズ」(米国が日本に原爆を使用する作戦)に署名した。英首相官邸はこの最終判断を同2日付で公式覚書とした。

同4日、米ワシントンで開かれた原爆開発の相互協力を協議する「合同政策委員会」の席上、ウィルソンが英政府として公式に「日本への原爆使用に同意する」と表明したことが分かっている。同ファイルによると、ウィルソンは米側に、チャーチルがトルーマン米大統領と近く直接協議を望んでいるとも伝えた。

 また別のファイル(PREM3/139/9)によると、7月24日のポツダム会談でチャーチルは、44年9月にトルーマンの前任のフランクリン・ルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。

 トルーマンは翌25日、原爆投下指令を承認、投下命令が出された。その結果8月6日、人類史上初のウラン原爆が広島に、9日にはプルトニウム原爆が長崎にそれぞれ投下された。 チャーチルが最終容認した背景には、英国が米国に先行し原爆開発に積極的に関与してきたことがある。

 30年代から亡命ユダヤ人科学者によって核分裂や核融合反応で放出されるエネルギーを利用した新兵器研究が進められ、40年にウラン235単独で爆弾が製造可能という理論をまとめた。41年10月、英独自の原爆開発計画「チューブ・アロイズ」が始動。米国に開発推進を訴え、42年8月、「マンハッタン計画」が始まった経緯がある。

さらにファイル(PREM3/139/9)によると、チャーチルが44年9月、米国内のルーズベルトの別荘を訪れた際に結んだハイドパーク協定で、2人は「原爆が完成すれば、熟慮後、おそらく日本に使用される」などと合意した。原爆完成後はドイツではなく日本へ投下することが米英で密約され、翌10月、米国は原爆投下の最終準備に入った。

 ■ケベック協定 1943年8月、ルーズベルト、チャーチルの米英首脳はカナダ・ケベック州で原爆の共同開発を密約。(1)兵器(原爆)を互いに対し攻撃するため使用しない(2)第三国に使用する場合、互いの同意が必要(3)両国の同意がない限り、英原爆開発計画「チューブ・アロイズ」に関する情報を流さない-などと結んだ。(2)は英側の事実上の拒否権となった。

288NAME:2018/08/12(日) 07:01:54
真珠湾の日・謎の演習命令
http://www.prideandhistory.jp/book-archive/book1/section1/chapter3/clause3/000244.html
日本海軍が秘策に秘策を練った真珠湾奇襲につき、ワシントン大学で私の担当教授アレックス・エデルスタイン博士から興味深い話を聞いた。彼は、真珠湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の航空母艦(3隻)の水兵であった。
1941(昭和16)年12月5日、金曜日の朝の話。「俺たち、大声で上官に文句を言ったんだ。」『日曜日は外出禁止だ』と命令されたからだ。その上、『明日、土曜日の朝から演習がある』とのありがたいご命令をもいただいた。俺には美しい彼女がいたんだ。週末しか逢えないのに! それも、空母3隻だけに演習命令だ。「土曜日、パール・ハーバーからずっと離れた海原へ一晩かけてお出掛けしましたネ。パール・ハーバーに帰ってきて、俺たち水兵は、助かったと思ったと同時に、なぜ空母だけを助けたんだと不思議に思ったよ」ルーズベルト大統領は、日本が真珠湾へ向かっていることを知っていて、製造するのに時間と銭がかかり、戦略上重大な機動力を持つ空母だけは隠しておいたのだ。

289NAME:2018/08/16(木) 13:11:12
真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」
「太平洋戦争は、軍部の暴走といった単純な話の帰結ではない」
https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-yoko-kato_n_13349530.html
2016年12月07日 00時55分 JST | 更新 2017年11月18日 23時16分 JST

太平洋戦争の開戦から12月8日で75年を迎える。改めて、なぜ日本は戦争へと至ったのだろうか。

日本近現代史が専門の加藤陽子・東京大学教授は近著『戦争まで』で、1941年の太平洋戦争の前に、世界が日本に「どちらを選ぶのか」と真剣に問いかけてきた交渉事は3度あったと指摘する。「満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)」「日独伊三国同盟(1940年)」そして「日米交渉(1941年)」だ。

日本は、真に問われていた選択肢が何であったのかをつかめず、本来はあり得た可能性や回避可能な選択肢をみすみす逃した。ただ、「世界」の側が常に正しかったとも言えない。「世界」から選択を問われた日本がどんな対応をとったのか、それを正確に描くことは「未来を予測するのに役立つ」と加藤氏は語る。「太平洋戦争は軍部の暴走といった単純な話の帰結ではない」と言う加藤氏に、その意味するところを聞いた。

■1つ目の岐路:満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)

――1931年9月、柳条湖事件をきっかけに、日本は中国東北部を占領し、翌年に建国された満州国を承認しました。

この時期、陸軍は農村部で講演会を開き、農村不況にあえいでいた農民を動員していました。満州事変後の1カ月で165万人を集めたといいます。「満州に行けば旦那になれる」「子どもを高校にやれる」といった軍の説明に、「戦争になれば景気がよくなる」と喜ぶ農民の声などが記録されていました。 本来は、重い軍事費が生活関連予算を圧迫していたのですが、一部の農民の目には「自らの要求を聞いてくれるのは軍部なのだ」といった誤った幻想が広がっていったのです。

では、社会の上層部の人々はどうだったかといえば、彼らとて軍にはノーと言えませんでした。一つにテロの脅威があった。32年に三井財閥の総帥、団琢磨(だん・たくま)が白昼、三井本館前で射殺された「血盟団事件」をご存じでしょうか。団は、満州事変調査のため来日したリットン卿と会った翌日暗殺されています。 このようにまずテロによる萎縮が指摘できますが、他に見ておくべき要因として、社会の上層部の人々と一般国民との間に「共通の言葉」がなかったことも大きかった。

――「共通の言葉」とは?

「共通の認識」と言い換えてもいいでしょう。例えば満州事変が起きた時、軍部は「これで中国がこれまで守ってこなかった日本の条約上の権利が確保できる。これは良いことなのだ」と主張します。しかし、これに対し「いや待てよ」と考えた人もいたはずです。 南満州鉄道(満鉄)の上げる利益は5000万円でしたが、中国全体の貿易で日本は10億円の利益を上げている。「満州問題で中国と喧嘩するのは経済合理性に合わない」などと経済人は考えたでしょう。ただ、こういう判断ができる人がいても、それを説得的に一般の国民に説明する手立てがなかった。

石橋湛山や清沢洌(きよさわ・きよし)などリベラルな言論人が、日本にとっての経済合理性から「小日本主義」「満蒙放棄論」などを主張していたことはよく知られています。しかし、彼らが記事を書いていた経済雑誌「東洋経済新報」などは、普通の国民が読むような雑誌ではありませんでした。この雑誌の広告欄には、三菱銀行や三井銀行など金融資本の総本山といった会社が並ぶ、そのような高級誌でした。 2つの階層が文化的思想的に交わっていなかったといえる。これは日本の教育の問題でした。社会の階層間をつなぐ、文化的な中間的な装置を欠く社会は、強固な決意を持ち、既成政党や財閥打破を掲げて国民を動員しようとした軍部のような存在の前に極めて脆弱でした。

290NAME:2018/08/16(木) 13:11:44
――農民は新聞などをあまり読まなかったのでしょうか。

いえ、日本の新聞購読者数は同時代の他国と比べて非常に多かったと思います。ラジオ契約数も31年に100万だったものが、41年には600万となり、普及率も46%ほどになる。2軒に1軒ラジオがあった計算です。 1920年代生まれの方から聞いた話をご紹介しましょう。その方は農村部に住んでいて、太平洋戦争の開戦直後のラジオ放送を近所の人たちと聞いていたのだそうです。ただ、その時ふと、不思議に思ったと。

真珠湾攻撃では2人1組が搭乗した特殊潜航艇「甲標的」5基が参加し、9人が戦死したのですが、この時、大本営は戦死者9人を「九軍神」と称えました。ただ、私に話を聞かせてくれた方は、「2人1組が5基で参加して、軍神9人...あれっ?1人はどこに」と不思議に思ったそうです。1人は捕虜になっていたのですが、これは当時は伏せられている。 放送や紙面が軍国一色になった時代には、この方のように、かなり注意深く見聞きしないと、真理にたどりつくのは容易ではないということでしょう。検閲は当然ありましたが、新聞やラジオが率先して政府の議論を先取りすることなど多々ありました。

――満州事変の解決提案「リットン報告書」は、日本を追い込む内容だったのでしょうか。

まず、リットンに率いられた調査団は、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリアといった5大国委員から構成されていたことが大事です。すべて植民地を持った経験のある帝国でした。彼らは日中の全面衝突を回避し、東アジアの貿易が拡大し、自らの国の権益も安全に保たれればよい...その線での解決案を目指したはずです。 報告書は「張学良政権への復帰は認められない」と書く一方で、「現在の満州国そのままの存在も認めない」と書き、一見すると日本側に厳しいように見えます。しかし、将来この地域につくられるべき仕組みは「過激なる変更なくして現制度より進展」させうるとも書いていた。つまり「満州国の制度からスムーズに移行しうる制度だよ」と。 さらに、日本にとって好条件もあった。具体的には「新政権を現地に作るための諮問委員会メンバーの過半数を日本側とし、また外国人顧問のうち充分な割合を日本側が占めてよい」ともいうのです。

――満州国が日本の傀儡だと分かった上で、リットン報告書はかなり妥協していますね。

ただ、このあと日本は自らの首を締める愚を犯しました。1932年の1月、第一次上海事変が起こされます。満州事変から国際社会の目をそらすためとして、上海共同租界内で日本人僧侶が中国人に襲撃されたといった事件を日本側が作為し、これをきっかけに中国側との軍事衝突が起きます。

――中国との紛争を抱えている状態で、さらに日本は紛争を増やしたわけですよね。なぜそんなことを...。

満州事変に注がれている世界の目を逸らすためと言われていますが、この通説は余り説得的ではありません。 満州事変が起きた時、中国は、国際連盟規約第11条によって連盟に提訴しました。この11条での提訴の場合、紛争処理は理事会が担当します。まさに、1931年12月に理事会が派遣を決定したリットン報告書のラインで処理される訳です。 しかし、この後に上海事変が起こされると、中国は日本を規約第15条で提訴し直します。これは、国交断絶に至る恐れのある大きな紛争が起こった場合の規約です。11条と違って15条による提訴の場合、日本は最悪の場合、連盟の全加盟国から敵国と名指しされ、経済制裁を下される可能性も覚悟しなければならない条項でした。 担当する部署も、理事会ではなく、総会となります。出先の陸軍などはこのような連盟規約の構造を充分に知っていたのでしょうか。そうは思えません。

理事会と異なり、総会には加盟国全てが含まれます。15条での提訴では、紛争の解決案を書くメンバーも、リットンらの5大国委員ではなくなるわけです。上海事件後の日中紛争は、「19人委員会」が担当することになりました。ここには、グァテマラやパナマといった国も含まれる。確かに、日本側が憤っていたように、日中間の歴史的経緯について知らないと思われる中南米諸国なども関与することとなったのです。日本側は怒りますが、そもそも窮地に陥る根本的な要因を作ったのは日本側でした。

291NAME:2018/08/16(木) 13:11:55
――結局、日中間の紛争に関与する国が多くなってしまった。

当時の連盟を支えていたのはイギリスでしたが、第一次世界大戦で敗北したドイツの復活を恐れるヨーロッパ諸国の安全保障上の懸念は、イギリスの対日態度にも影響を与えました。当初は日本に宥和的な態度をとっていたイギリスも変化していったのです。この「19人委員会」が書いた日中紛争解決案は、リットン報告書よりも日本に対して厳しい内容でした。

――日本側はどう対応したのでしょうか?

意外かも知れませんが、全権の松岡洋右は粘りに粘って交渉しました。ただ、主たる交渉の向かう先が本国の外務大臣、内田康哉であったことは悲劇でした。イギリスの仲介や中国政府内の対日妥協派の態度に望みをかけていた内田外相は、連盟の「19人委員会」がまとめた解決案に妥協すべきだとの、松岡全権のもっともな要請を拒絶し続けたのです。 33年1月、松岡は「物は八分目にてこらゆるがよし」とし、「脱退のやむなきにいたるがごときことは、遺憾ながらあえてこれをとらず」と述べ、妥協を内田に薦めます。しかし、内田は、日本側が強硬に主張し続ければ、イギリスと中国は最後に日本に屈服するとして、最後まで妥協を許しませんでした。

――なぜ内田外相は、二国間協議でいけると楽観的だったのでしょうか。

中国の国民政府内に、汪兆銘など対日妥協派がいたのは事実です。この勢力に内田は賭けたといえる。ただ、外相としての内田が時代遅れとなっていたのも事実です。 内田の外相デビューは第二次西園寺公望内閣の時、明治から大正の変わり目の頃でした。2回目の外相は原敬内閣時代、大正半ばのこと。1930年代の中国の動静にどれだけ内田が通じていたか疑問です。軍事と政治の双方の権力を握っていたのは蔣介石でした。

――いわば、蔣介石の独裁ですよね。汪兆銘に実質的な権力はなかった。

そうです。そして、満州における政治と軍事の実権は、張作霖の子息である張学良がなおも握っていたはずです。蔣介石にとっては、満州(東三省)に対し、実質的に関与できるのは外交権しかない。ですから蔣介石からすれば、連盟の「公理」に訴えること、つまり中国の外交権を代表する者として満州問題を扱うしかなかった。連盟に対する蔣介石のスタンスを内田は理解していなかったと思います。

当時の日本政府もジャーナリズムも、32年10月に公表されたリットン報告書に対し、中国側に肩入れしたものという評価を下し、その内容を精査せず徹底的に批判しました。私が惜しいと思うのはそこで、リットン報告書が展開していた日本側への妥協的な選択肢を見ていなかった。 日本側は、「リットン報告書が満州国の存在を認めている」との根拠のない楽観的な下馬評を信じていたため、実際に報告書が出た時には狼狽し、文書の正確な含意を読み取ることができませんでした。

292NAME:2018/08/16(木) 13:12:27
■2つ目の岐路:日独伊三国同盟(1940年)

――2つ目が、第二次世界大戦が勃発した翌年に日本・ドイツ・イタリアが結んだ日独伊三国同盟ですね。

この同盟は39年9月から始まった第二次世界大戦と、37年7月から始まっていた日中戦争にアメリカが介入しないよう、日独伊3カ国がアメリカを牽制するために40年9月に結んだ条約です。 日本がこの時期、ドイツ・イタリアと同盟を結んだインパクトは非常に大きなものでした。日本を結節点として、ヨーロッパとアジア太平洋が結ばれることになったからです。アメリカが大西洋と太平洋とで牽制されることを意味しました。

交渉が一気に加速したのは、ドイツが日本に急接近したためです。当時のヨーロッパでは、40年6月にフランスがドイツに降伏したことで、ドイツと交戦している国はイギリスだけとなりました。そのイギリスが7月、ヒトラーからの和平を拒絶したため、ドイツは日本との同盟締結で最後の圧力をイギリスに加えようと図り、特使スターマーの派遣に至ります。

――三国同盟については、日本ではよく「快進撃を続けるドイツと結ぶことで『バスに乗り遅れるな』」と、勝ち馬に乗ろうしたという文脈で語られる思います。

たしかにそれは間違いとは言えませんが、当時の政策決定者の視点が抜けています。 日本がドイツとの同盟を選んだ理由は、大西洋と太平洋でアメリカを牽制するためにあったのではありません。むしろ、ドイツが電撃戦で降伏させたオランダやフランスが東南アジアに持っていた植民地の処分問題が日本側の念頭にあった。オランダ領東インドの石油、フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)の米などは、総力戦を支える資源として重要でした。 三国同盟調印の2カ月間前(1940年7月)、外務省と陸海軍の担当者が参集し、何を話し合っていたかといえば「ドイツの勝利で第二次世界大戦が終了してしまった場合どうなるか」ということです。

会議には、大臣・次官ではなく課長級、軍で言えば佐官級の40歳前後の人が参集していましたが、彼らの頭には、日本がいまだ参戦もしていないうちに、ドイツの勝利で第二次世界大戦が終わってしまったら、ドイツが敗北させた宗主国(オランダやフランス)が持っていた植民地、つまり、東南アジアや太平洋の植民地が、ドイツに獲られてしまうという危機感だけがありました。 第一次世界大戦後に、連合国の一員であった日本が、英仏と共に何をやったかといえば、敗戦国ドイツが持っていた植民地を山分けした訳です。むろん、名前は、植民地ではなく委任統治領という名称にしていましたが。

293NAME:2018/08/16(木) 13:12:48
――ということは、日本が三国同盟で牽制したかったのはアメリカではなく...。

日本が警戒していたのは、ドイツでした。ドイツの東南アジア進出を牽制したいがための同盟締結だと言えます。陸海軍の軍人たちがいかにドイツ側を警戒していたか、その発言も残っています。

――――この頃から日本は「大東亜」という言葉を使い始め、三国同盟にも「大東亜における新秩序建設」という言葉があります。この「大東亜」って何を意味するのでしょうか。

「大東亜新秩序建設」という言葉が、なぜ使われ始めたか。東北学院大学教授の河西晃祐さんは「植民地宗主国を抑えたドイツによる、東南アジア植民地の再編成の可能性を、参戦もしていない日本が封じるための声明として」という見解を唱えています。来たるべき講和会議に、ドイツ・イタリアの同盟国として日本が乗り込む時、このような声明が有効だというのでしょう。鋭い見方ですね。

――となると、「大東亜」という言葉は三国同盟を結ぶにあたって、日本の勢力圏をドイツにアピールするために作られたような言葉っていう解釈でしょうか。

そうなります。軍事同盟に必須な三要件といえば、第一に勢力圏、第二に援助義務、第三に仮想敵国です。ドイツの勢力を東南アジアから排除するには、勢力圏を設定しうる同盟を締結するのが一番便利、といった発想でしょうか。そのための「大東亜」という用語でした。

――大急ぎも大急ぎで、三国同盟はたった交渉開始から20日間でつくられるんですよね。

この時期の出来事の時系列を整理しておきましょう。1940年9月7日、ドイツはイギリス本土への空爆を開始します。いわゆるバトル・オブ・ブリテンです。 先ほども述べましたが、同じころドイツは日本を同盟に誘いイギリスに最後の圧力をかけるため、スターマーを日本へ送ります。スターマーは、すぐに日本側と同盟交渉を始めました。

そして9月19日に御前会議、26日に枢密院(天皇の諮詢に応えて重要国務を審議する機関)での条約承認、翌27日にはベルリンで三国同盟の締結と動きます。驚くべきは、来日から条約締結までわずか20日間だったことですね。枢密院での審査はたった1日です。

――ドイツのアジア回帰を牽制するため、急いで三国同盟を結びましたが、結局ドイツはバトル・オブ・ブリテンでイギリスに勝てなかった。

日本は、大戦がドイツの勝利で終わることを危惧し、そこから発して「大東亜」という概念を作り上げ、勢力圏設定のための同盟を構想し、イギリスを屈服させるためのバトル・オブ・ブリテンに間に合うよう同盟を締結した。 日本が南方の石油資源と基地を手に入れたいというのはわかります。しかし、これは「小」なる価値ではなかったでしょうか。手に入れたい価値と、そのための対価(アメリカを仮想敵国とすること)が、余りにも引き合わないことになぜ気づかなかったのでしょうか。 ドイツの勝利がすぐに確実に起こると思われていた。起こりうべきことが起こらない、起こるベからざることが起こるというのは、昨今では想像しやすいかもしれません。2016年6月のイギリスのEU離脱、同年11月のトランプ米大統領誕生などはその最たるものです。

294NAME:2018/08/16(木) 13:13:22
■3つ目の岐路:日米交渉(1941年4月〜11月)

――そして3つ目ですが、戦争回避のラストチャンスとして日米交渉があった。

日独伊三国同盟の締結からおよそ半年経った1941年4月、アメリカのハル国務長官と駐米日本大使の野村吉三郎との間で、日米交渉が始まりました。最終的には7カ月後の11月26日、アメリカから「ハル・ノート」(日本側提案に対するアメリカ側回答)が手渡され、その内容が予想以上の厳しさだったことから、日本側は開戦を決意し、対英米開戦(1941年12月)に踏み切ります。

当時、ハルとルーズベルト大統領は、戦争回避のための対日交渉を2人の専権事項として進めていました。当時のアメリカは対ドイツ戦を単独で戦うイギリスを支援するため、また大西洋方面での防衛強化のため、太平洋での日本との対立を当面回避する必要がありました。また日本にとっては、泥沼化した日中戦争終結のため、蔣介石との和平をアメリカに仲介させようという目論見があったのです。 

また、日米両国には、交渉しなければならない懸案がありました。それはアメリカが1941年3月に制定した武器貸与法から生じてきた問題です。 この法律によってアメリカは、イギリスに対するあらゆる武器援助が可能となりました。ただ、このようなアメリカの行動が、三国同盟を発動させてしまわないかという問題が浮上してきたのです。

三国同盟はその第3条に、日本・ドイツ・イタリアのいずれか一国がアメリカ(名指しはしていない)から「攻撃」された時、武力行使を含めた援助義務を三国に生じさせます。「攻撃」にいかなる行動が入るのかがわからなければ、日本もアメリカも安心して艦艇を航行させられません。日米双方とも、不用意な暴発を防ぐために、三国同盟第3条の中味を検討するための交渉が必要でした。

――日米とも衝突は避けたかったけど、実際には戦争へと至りました。なぜでしょうか。

いくつかの答えがあります。一つには、最も有望視された近衛文麿首相とルーズベルト大統領の洋上会談計画が、日本国内の国家主義勢力に漏れ、極めて効果的な批判がなされ、つぶされたからです。彼らは近衛首相のことを、「ユダヤ的金権幕府を構成して皇国を私(わたくし)」する勢力の傀儡だと批判しました。 日米交渉をつぶしたかった国家主義者たちは、幕末維新期における幕府が天皇の条約勅許を待たずに開国した非を思い出させるような口調で非難します。近衛の対米交渉は屈服にほかならず、そのような政府は「討幕」すべきだと批判したのです。 また、1930年代を通じて反米・反英的な言葉を弄することを政府から教えられてきた新聞や雑誌などは、急に当局が「反米的なことは書くな」と通達しても、すぐには動けなかった。政府の意に反して、ハルやルーズベルトに対する批判が日本側の新聞紙上に執拗に載り続けました。

――それでも「ハルとルーズベルトに日本は追い詰められた」という話が未だに残っているように思います。

現在では日米双方の記録が明らかになっていますので、ハルやルーズベルトが1941年8月あたりまで近衛首相との洋上会談を含めて乗り気であったことは確かなのです。しかし41年7月、日本軍が南部仏印(フランス領インドシナの中南部)に進駐すると、その日本側の行動自体が交渉に大きな影響を与えました。

日本側は自らが用いる「進駐」という言葉に自ら惑わされました。フランスのヴィシー政権側や仏印総督側から交渉の結果、許可された「進駐」なのだと自認してしまったのでしょう。でもこれは、この地域の飛行場や港湾を制圧することを目的とした作戦行動でした。日本側は「進駐」であって戦争行為だとはつゆほども思ってない。しかしアメリカ側から見れば、万単位の部隊が飛行場と港を制圧すれば、それは「侵略」に他ならない訳です。

295NAME:2018/08/16(木) 13:13:41
――日米交渉中にもかかわらず、なぜ日本は南部仏印に進駐したのでしょうか。アメリカを刺激すると気付きそうですが...。

これには南部仏印に進駐する1年前、1940年9月に日本が行なった北部仏印(フランス領インドシナ北部)への進駐時の、アメリカの対応がカギとなります。フランスのドイツ降伏を受け、日本は北部仏印へ進駐します。日本はフランス側と交渉をした上で進駐しました。 この時、アメリカはどう対応したかといえば、日本へ圧力はかけたものの、ある意味、計算された圧力のかけ方を選んだ。日本側はアメリカから戦略物資である石油や屑鉄(鋼材の原料)を輸入していましたが、その輸入を許可制にしたのです。

許可制や禁輸といえば一見強硬ですが、この時アメリカは日本の飛行機が用いない「オクタン価87以上の航空機用ガソリン」と「潤滑油」のみを禁輸としました。ハルがいた国務省などは、「厳しい経済制裁や禁輸を日本に課せば、それは日本に南進や開戦の口実を与えるだけだ」と考えていたのです。 日本側は、1年前の北部仏印の時のアメリカ側の対応から類推し、南部仏印への対応を甘く予測しました。しかし、41年7月の日本の南部仏印進駐に対しては、対日輸出の全面禁輸という方策に出たのです。

――なぜこの時は全面禁輸になったのでしょうか?これまでのハルやルーズベルトの姿勢とは異なります。

実はここが面白いところで...。40年7月に日本が北部仏印に進駐したとき、ルーズベルトやハルに対して、財務省のモーゲンソーなど対日強硬派からは、「敵国日本に、なぜアメリカにとっても必須の航空用ガソリンなど輸出し続けるのか」といった批判が出ました。そのため、オクタン価での制限などの措置が取られた訳です。 ところが41年7月、日本の南部仏印進駐時には、アメリカ国内状況に変化が起きていた。41年夏、ルーズベルトとハルはワシントンを離れていました。

この2人の不在時に暗躍したのが、先のモーゲンソーです。彼は対日強硬派が影響力を持ちうる、外国資産管理委員会という機関に、禁輸に関する職務を専管させるようにしてしまいます。 ハルの国務省とルーズベルト大統領は、この委員会が対日資産の全面凍結と全面禁輸を実施していたことを、日本の野村大使からクレームがつけられるまで、なんと知らなかったのです。アメリカ側にも官僚制の対立があり、対日態度の差異による権力闘争があったということです。

――こうして3つの失敗を見ると、日本側の見通しの甘さというか、目算の甘さというのが如実に目立つ気がします。

見通しが甘いということではアメリカ側も同様で、日本側に強硬に出た理由は「資源に乏しく劣勢の海軍力しか持たない日本が、英米に対する戦争を始めるはずがない」と考えていました。アメリカ側の抑止の失敗が、日本の開戦決意でもあった訳です。日本側の失敗を反省するのは大事なのですが、ここで正しい反省の仕方をしないと、また同じ失敗を繰り返すだけです。

私がこの3つの岐路に関して詳しく分析した理由は、「国や個人が選択を求められる場合に重要なのは、問題の本質が正しいかたちで選択肢に反映されているのか」という点をチェックすることだと思うからです。 当時の軍部やジャーナリズムが誘導した見せかけの選択肢ではなく、世界が日本に示した本当の選択肢の形と内容を明らかにしつつ、日本側が対置した選択肢の形と内容について正確に再現することです。実のところ、太平洋戦争への道を回避する選択肢はたくさんありました。

――かつて加藤さんは「8月15日というのは、日本人が戦後歩んできた平和を噛み締める日だ」と定義していました。では、開戦の日となった12月8日は、国民にとってどんな意義がある日でしょうか。

太平洋戦争の奇襲攻撃という側面については、国民はやはり関与できてなかった。国民の多くは対英米強硬論に与しつつ、同時に「戦争はぎりぎりのところで回避されるのでは」との希望的観測をも抱いていたのではないでしょうか。そのような意味で12月8日は、「国民が国家の行く末に十全に関われなかった」ことを噛み締める日だと思います。 「軍部の失敗」という総括は、現在、戦前期の軍部と同様の組織がない以上、実のところ痛くもかゆくもない総括です。そうではなく、社会に溢れている見せかけの選択肢を「本当の選択肢は何だったか」と置き換えて考える癖、言い換えれば「歴史に立ち会う際の作法」というもの、これが3つの失敗の事例から学べるものだと思います。

296NAME:2018/08/16(木) 13:14:29
「戦後70年の価値観が揺らいでいる」歴史家の加藤陽子氏、太平洋戦争からTPPとトランプ現象を紐解く
https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-precept-yoko-kato_n_13353792.html
2016年12月08日 00時28分 JST | 更新 2016年12月22日 22時03分 JST

2016年は太平洋戦争開戦から75年、日本国憲法公布から70年と、戦後日本にとって節目の年だ。1年を振り返れば、7月には参院選の結果、憲法改正が現実味を増し、8月には天皇陛下が譲位の希望を示されるなど、戦後の枠組みが大きく変化する予兆を感じさせる年となった。

戦後生まれが総人口の8割を超え、私たちがこれまで経験したことのない大きな時代のうねりを前に、歴史からなにが学べるのだろうか。近著『戦争まで』で日本が太平洋戦争へと至る過程を論じた歴史家の加藤陽子・東京大学教授は、「戦前と比べ、安価な中等教育の機会を等しく付与した戦後社会は立派なもの」と評価する一方、TPP協定を例に、「国際舞台において、日本は賢明な狡猾さも身につけてよいのでは」と語る。その真意とは…。

■「TPP」と「満州事変」を比較してみると…

――太平洋戦争の開戦から75年、あの時代と比べて日本は変わりましたか。

もちろん大きく変わったと思います。というのも、人口の過半を占める女性への公的な高等教育の道が開かれるようになり、普通選挙権をはじめとする女性の政治的権利も拡大された。政治に関われる国民の数が倍になったのは画期的なこと。また、少数のエリートを育成していればよかった高等教育制度も変わりました。 終戦工作に従事し、のちに東大総長となった南原繁は、1947年2月の時点で「従来の制度によれば、国民大衆のこの方面における教育の門はきわめて狭く、大衆を支配するための少数者の養成に当てられた感がある。軍国主義や官僚主義が容易にそれによって注入された」のだ、と反省の弁を述べていました。

297NAME:2018/08/16(木) 13:14:48
――過去の選択の失敗から、今の私たちは何を学べば良いでしょうか。

過去の例から学べるのは、こういうことです。私たちは日々、判断するのが極めて難しい問題に対し、答えを出せと日々迫られています。そのような悩ましい時、ちょっと立ち止まって、「この問題の本質は、正しいかたちで選択肢に反映され、私の目の前に示されているかどうか、少し冷静に考えてみよう」といった態度が身につくのではないでしょうか。 TPP(環太平洋パートナーシップ)協定を例に説明しましょう。アメリカ大統領選で勝利したトランプ氏は、大統領就任当日に離脱すると言っています。にもかかわらず、日本は大統領選の直後にTPP承認案を衆院本会議で可決しました。

アメリカの方向が判明した後でも、なぜ日本は急ぐのでしょう。2015年の11月、政府が発表した「総合的なTPP関連政策大綱」では、こう謳っていました。「世界のGDPの約4割(3100兆円)という、かつてない規模の経済圏をカバーした経済連携。人口8億人という巨大市場が創出される」と。自由で公正な一つの経済圏が構成されるのだから、その巨大市場に日本が打って出ない手はないと。 この話法は、あたかも日本の進出を待ちうける「空白地帯」が世界に用意されているかのようですね。しかし、医療、保険、農業などの国内産業に対して、この協定がどう影響するのか具体的な絵は見えてきません。

政府が私たちに示す選択肢が、「世界のGDP4割、人口8億の沃野に打ってでるか、それとも国内に引きこもるか」だとしても、その見せかけの選択肢の文句に惑わされることなく、問題の本質を正確に表示した選択肢を自ら頭に描き、ニュースを聞く必要があります。 協定が発効するには、「6カ国以上で、かつGDPの合計が全体の85%以上になる国が批准」(アジア太平洋資料センター事務局長内田聖子氏)する必要がありますから、日米両国が批准しなければTPPは発効しません。 この事実を前提として、なぜ日本政府が国会承認を急ぐのか、それを問うような態度を是非とも歴史から身につけたいと思います。「日米両国の批准がなければ発効しない協定が、アメリカの不参加にもかかわらず、承認を急がされるのは何故なのか」という形に、問いの形を変えていけばよいのです。

TPP協定の正文は、英・仏・スペイン語で、30章からなる膨大なものでした。協定文の日本語訳の誤訳問題も起こりましたが、関係各省庁では、関連分野について、必死で検討がなされてきたはずです。 その省内のプロの官僚たちが、TPPを議論・検討する過程で出てきた問題点を、国会の論戦を通じてでもよいから国民の前に正直に示すべきだ、というのが歴史から学べる教訓の2つ目です。司(つかさ)司(つかさ)で検討尽くされたはずの、本当にテクニカルな協定の問題点を、国民の前に明らかにした上で、国会論議を行っていただきたい。 日本の霞ヶ関の官僚は公正さや能力という点で、世界で最も安価で信頼できる「ブレーントラスト」の塊だと思います。官僚レベルで析出された問題点を、今度は政治家が、法や政治の言葉に書き換えてゆく、そのようなフィードバックがあってよいはずです。

――官僚制の良いところを活かして欲しいと。

霞ヶ関批判は楽ですし、人々から人気がありますね。しかし、日本のような公平な試験任用によって支えられている官僚制度を持つ国も、あまりないのでは。ですので、今回のTPP協定に登場する附属書の留保の内容や「投資家と国家間の紛争処理(ISDS)」の問題点など、省庁を挙げた議論のとりまとめを、国民に前に示していただきたい。 30章からなる協定全文の日本語訳が揃ったのも遅かった。交渉過程が秘密だったのですから、合意に至った後は国内に向けて早急に公開しなければ、国会での議論など間に合いません。1940年9月にたった20日間の協議で締結されてしまった日独伊三国軍事同盟も、枢密院の審査にかけられたのは、協定本文だけで、附属文書などは、審査の対象になっていなかった。拙速は、歴史に照らして何一つよいことはありません。

298NAME:2018/08/16(木) 13:15:06
――日本が国際情勢の中で、リアルタイムでどういう状況に置かれているのか、今も昔も国民には見えにくい。

まさにそこです。TPP交渉と満州事変後の国際連盟での議論を比べたりすれば、お怒りになる方もでそうですが、1932年11月から、国際連盟での満州問題論議を任された日本全権団のことを思い出してみましょう。 日本の外務本省が、全権に与えていた指示は、実は穏やかなものでした。日本の既得権益を守る条約関係を継承する、日本軍を満州国に置けるよう認めさせるよう努めよ、と。ただ、連盟が日本を侵略国呼ばわりした場合、あるいは、日本と満州国が結んだ「日満議定書」の運用を拘束するような決議を行なった場合のみ、極力争えと指示していました。リットン報告書が出たとたん、排撃すべしと声高に叫んだ朝野の雰囲気と外務省の方針は、本当は異なっていた。

しかし、そのような外務本省の方針は、国民の前には隠されていたのです。むろん、外交交渉には秘密がつきものです。しかし、国の意図するところを、秘密にすべきところは守りつつ、方向性を国民に正確に伝えることはできたはずでした。 ですから、先に述べたような問いを立てつつ、状況の変化を待つ。そうせずに、「日本が参加することで、アメリカにも参加を促す」のは無謀です。

――日独伊三国同盟が20日間で作られたという話を考えると、TPPもアメリカが脱退すると宣言している状況で急ぐのはどうか…と思ってしまいます。

歴史は一回性ですので、容易な比較をしてはなりませんが、待つことの重要性を示唆するにはよいかもしれません。バトル・オブ・ブリテンの結果など、やはり待てばよかったと言えましょう。三国同盟締結があと一月遅れていれば…と思います。 詮方ない話ですが、1941年12月8日の真珠湾攻撃についても、この日は、まさにドイツ軍が初めてソ連軍の反撃によってモスクワ近郊から後退した日でした。独ソ戦は既に1941年6月に開始されていたのですから、ソ連軍の反攻を見きわめて対応して欲しかった。

――ちょっと狡猾な気がしますね(笑)

そうですね。ただ、賢明な狡猾さというものも歴史的にはあってよいと思います。 たしかに、気象条件や石油の備蓄量から、アメリカへの奇襲攻撃が可能な下限は決まっていたでしょう。ただ、ではなぜ奇襲攻撃で開戦しなければならないかと詰めて考えれば、それは、軍需物資をまさに敵国アメリカに依存する日本にとって、対英米戦とは短期決戦以外になかったからです。 1923年の帝国国防方針では、直近の第一次世界大戦の教訓は活かされず、持久戦争必至の総力戦時代に日本が生き延びる方策は、緒戦の圧勝による敵の戦意喪失しかないとの硬直した戦略が選択されてしまいました。

ならばもし、緒戦の圧勝が不可能な場合はどうするかという、次の手を柔軟に考えてもよかったのではないか。その中には、できるだけ戦争に参加しないように待つ、という選択肢があってもよいはずですね。日露戦争の実戦に参加し、のちに批評家に転じた水野広徳は、1929年の著作で、「戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代においては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐが如き他力本願の国防は…戦争国家として致命的弱点」を持つのだから、日本は戦争する資格のない国、と喝破していました。

299NAME:2018/08/16(木) 13:15:25
■天皇陛下の譲位への対応は「国会」で

――8月には天皇陛下が自ら、譲位を望むお気持ちをビデオメッセージで出されました。加藤さんはどう感じましたか。

私は1960年生まれなので、終戦の玉音放送は歴史上の世界なのですが、固唾を飲んで見守るという表現が実感として初めてわかりました。 昨年あたりまで、安倍内閣が成立させた安全保障関連法案がらみで、日本国憲法第二章「戦争の放棄」「平和主義」にばかり目が向いていたのですが、このメッセージによって、新たに気づかされたことがありました。圧倒的な武力で日本を打倒したアメリカ占領当局が目指したのは、「象徴天皇制」と「平和主義」、2つの柱だったということです。

憲法第9条の意義については、憲法制定当時から現代に至るまで、それこそ入念に議論がなされ続けてきましたが、象徴天皇制、特に象徴とは何かという問いについては、迂闊なことに戦後の一時期を除いては考えられてこなかったといえる。昭和天皇と今上天皇の存在それ自体に、国民は安心しきっていたというのが正直なところでしょうか。 しかし、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」天皇の地位については、平和な戦後を長らく生きてきた国民の側からも、改めて考えなければならない、と気づかされました。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』や『戦争まで』でも論じましたが、戦争の究極の目的は、相手国の基本的な社会秩序(=憲法)に手を突っ込んで書き換えることにあります。戦前期の国体(=天皇制)を、アメリカ側は見事に書き換えた。 しかし、日本国憲法第二章の戦争放棄に関する条文に比べ、第一章の天皇に関する条文については、1946年時点の宮内省、枢密院、政府内の守旧派の影響力も強く、アメリカ側の思惑は貫徹しなかったのではないか。日本側の思惑に主導され、憲法第2条には「国会の議決した皇室典範の定めるところ」と定めますが、実際のところ法律である皇室典範に何が書かれたかというところまでは、掴めていなかったのではないか。戦後の精神に従って、新皇室典範が定められたかといえば、そうではない部分もあった。

現在の皇室典範は、厳密に言えば、「"国会"の議決した皇室典範」ではないのです。新憲法が、大日本帝国憲法の修正手続きで出来たように、皇室典範も、貴族院・衆議院からなる"帝国議会"という旧来の制度下に成立したのです。ただ、当時の帝国議会議員は真面目であって、「現在の議院は国会ではないのだから、新憲法が施行された後に国会が出来てから皇室典範を議論してはどうか」と述べる議員もいました。

また、皇室典範が議論された帝国議会の議論で興味深いのは、新しい憲法には、女性が天皇になってはいけないと書いてないということで、意外にも、女性天皇について容認する考えが委員会レベルでは多かったことです。1946年の第91回帝国議会の皇室典範案の審議では、「新憲法の精神からも、ただ女性であるということで皇位継承資格がないとする理由はなく、女性も皇位継承資格を有するようにすべき」といった議論もあった。当時は、憲法の規定に従おうという姿勢が顕著に見られたのです。

――終戦直後の議会は風通しが良かった。

憲法に書いてないということは、女性天皇は禁じられていない、との原則的な議論でした。今回の譲位への対応も、戦後の議会における空間を思い出す必要がありそうですね。今度こそ「"国会"の議決した皇室典範」を、改正法として、国権の最高機関である国会が定めればよいのです。

――終戦直後の議論が、天皇陛下の譲位へのヒントになりそうです。

そうです。帝国議会も国会も議事録は完全に残されておりますし、デジタルで誰でもアクセスできます。内閣側も、国民の意見を代表しているとは言いがたい有識者を呼ぶことなどせず、まずは国会で皇室典範改正案の議論をすべきです。

300NAME:2018/08/16(木) 13:15:43
■揺らぐ「戦後70年」の価値観

――参院選では改憲の現実味が増し、都知事選では敗北した鳥越俊太郎氏が「日本のリベラルは現実に負けている」と指摘しました。アメリカ大統領選では、右翼的な発言を続けたドナルド・トランプ氏が勝利しました。こうした現状を加藤さんはどう感じますか。

おそらく、戦後70年間続いてきた、欧米の普遍主義的な価値観の優位性が崩れたのだと思います。欧米は自らを利する自由貿易主義を掲げ、武力を用いてでも、地域主義的な経済圏を打破してきた訳ですが、彼らの行動に理があったのは、そこに、敵対者をも利する普遍主義的な価値観や自らを律する政治的公正さがあったからです。しかし、現在のイギリスやアメリカは、それらをかなぐり捨て、自国の利益を固守するような振る舞いを始めています。

ただ、ここで地に落ちたのは、欧米流の普遍主義です。戦前期であれば指弾された、不満足国家としてのロシアや中国が、今後、自らが主導する秩序や論理を、なんらかの普遍主義的な思想で包んで世界に提示してこないとも限りません、そこは見所だと思います。

第二次世界大戦後というのは、フランスの経済学者ピケティがいうように、連合国であれ枢軸国であれ、極めて珍しいレベルの格差のない社会が生まれた時代でした。2000万の人間が犠牲となった大戦の後ゆえに誕生した、教育や賃金という側面で格差の少ない社会が、大戦後70年で終わりを告げたということです。 今後は、戦争という、最も残酷な平等創出装置を経ることなく、いかに格差の少ない社会にしていくか、その工夫が世界の人々の双肩にかかってきているのだと思います。

――日本でも7月の参院選で憲法改正が現実味を増し、戦後70年の価値観が揺らいできています。そもそも、日本が敗戦と新憲法によって得たものは何でしょうか。

日本国憲法は、連合国に敗北し、国家の基本的な秩序(=国体)を書き換えられた日本が、再び世界へ出ていくための、いわば「搭乗券」でした。1952年の独立回復前に、日本が旧植民地を含めたアジア地域との貿易を再開し、飢えずに生きていくには、日本国憲法という搭乗券が必要でした。 さらに戦後の価値で重要だったのは、憲法11条の「基本的人権の享有」と13条の「個人の尊重」でしょう。戦前との比較で特に肝に銘じたいのは、13条「すべて国民は、個人として尊重される」の、「個人」の部分です。この「個人として」という意味は、たとえ国家が「戦争をやる」と意思決定をしたとしても、それに従わず、国家に対峙する自由が認められているということです。

戦前期の日本を顧みますと、英米に比し、武力で劣っていただけでなく、総力戦時代に国民の総力を真に結集しうる議会制度や民主的な制度を日本は欠いていました。個人として尊重されることの重さを尊重したい理由は、そこにあります。

――自民党の憲法改正草案では、13条の「個人として尊重される」の「個人」の部分が、単に「人」となっています。加藤さんは「戦争は、憲法を書き換えること」と述べましたが、それを変えようということは太平洋戦争の結果を否定することになるのでは…。

論理必然的にはそうなります。朝日新聞による2015年春の世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか「自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか」という問いに、「いまだ不十分だ」と答えた人が65%もいました(2015年4月18日付朝刊)。憲法を変えるのであれば、戦争の結果できた憲法ですから、その戦争自体について再定義しなければならなくなると思います。

301NAME:2018/08/16(木) 13:16:21
――「戦争の再定義」というのは。

1937年の日中戦争から45年の敗戦までのあの戦争の位置付けを、もう一度考え直すということです。今でも、「日本は英・米・蘭から経済封鎖を受けたからやむにやまれず開戦を決意した」という説明がなされることがありますが、防衛戦争だったとの説明の仕方は、実のところ太平洋戦争中の1943年に、東條英機内閣の外相に就任した重光葵が意図的に採用したものでした。

太平洋戦争の再定義自体が、1943年〜44年の戦争中になされ始めたことが興味深いのです。もともとは英米側が1941年8月に戦争目的や戦後世界を語った声明に「大西洋憲章」がありました。それに匹敵するような論理を日本側も準備するため、またイタリアの降伏を目の当たりにして、戦後になされるかもしれない戦争裁判において、いかに説得力ある申し開きをするのか、そのための合理化が必要だったと思います。

事実、重光の主導で日本は1943年11月、欧米の植民地であったアジア諸国の指導者を集め、大東亜会議を開きました。「被支配民族の解放という英米の戦争目的は口先だけだが、日本側は確かに多くの国を独立させたではないか」と胸を張りました。しかし言うまでもなく、日本が太平洋戦争を開始したのは、東南アジアの植民地を独立させるためではなく、後付けの論理でした。

防衛戦争としての太平洋戦争イメージは、実のところ戦時中の再定義に起源を持つものでした。 これと似た理解として、2015年の「安倍談話」の、世界がブロック化したために日本側は戦争に追い込まれていったとの理解があります。この問題点は、『戦争まで』の第1章で論じておきましたので、ご興味がある方はご覧ください。 太平洋戦争は、戦争の渦中において既に再定義の試みが開始されていた戦争でした。そのことを噛み締め、今の私たちこそが、いま一度、あの戦争を再定義してみるべきでしょう。

302NAME:2018/08/16(木) 16:48:19
生き残った兵士たちを監禁… ミッドウェー海戦大惨敗を隠すために国がしたこと
2018/08/15 07:00
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%ae%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%85%b5%e5%a3%ab%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%82%92%e7%9b%a3%e7%a6%81%e2%80%a6-%e3%83%9f%e3%83%83%e3%83%89%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%bc%e6%b5%b7%e6%88%a6%e5%a4%a7%e6%83%a8%e6%95%97%e3%82%92%e9%9a%a0%e3%81%99%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ab%e5%9b%bd%e3%81%8c%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8/ar-BBLWq8Z?ocid=iehp#page=2

「あの戦争」から73年。今年4月に総務省が発表した資料によると、戦後生まれが日本の総人口の82.8パーセントを占め、「平成」生まれも25.6パーセントと4分の1を超えた。 「戦争を知らない世代」が増えつづけていくことは、本来ならば喜ばしいことに違いない。それだけ「平和」が続いてきたということでもあるからだ。

『96歳 元海軍兵の「遺言」』の著者であり、戦争体験の語り部活動を続けている大阪市の瀧本邦慶さん(96)は、1941(昭和16)年11月、千島列島の海にうかぶ航空母艦「飛龍」の中で20歳の誕生日をむかえた。そのまま約2週間後のハワイ・真珠湾攻撃に向かい、翌42年6月のミッドウェー海戦にも身を投じた。敗戦の知らせを聞いたのは、「餓死の5分前」まで追いつめられた南太平洋の小さな島でだった……。

■17〜23歳、青春時代=戦争

 瀧本さんは、1921年11月23日、香川県の農村でうまれた。そして17歳の初夏、海軍を志す。20歳の徴兵検査まで待たなかったのは、「大きくなったら兵隊さんになる。お国のために死ぬ。それこそ男子最高の名誉である」と信じていたからだ。それが当時の常識でもあった。両親も、学校の先生も、地域の人も上から下までそう思っていた。「これはおかしい」と疑問を感じるきっかけなどなかった。心の奥底はいず知らず、みんながみんな同じことを考え、同じ方向をめざしていた。子どもの戦死を親が言祝(ことほ)ぐ時代だった。

 最終階級は下士官。下っぱ兵の目で見た戦場に「かっこいい物語」は一つもなかった、とふりかえる。 ミッドウェー海戦で沈みゆく空母飛龍からほうほうの体で逃げだしたとき、無数の戦友の死体を見た。「手も足も頭もばらばらにちぎれている戦友の姿をようけ見ました。体がまっぷたつに壊れたもん。五つにも六つにも壊れたもん。足がなくて焼け死んどるもの。腰から下が吹き飛ばされておるもの。飛びちっている手や足。助けを求める声はありませんでした」

303NAME:2018/08/16(木) 16:48:33
■監禁、そして死地へ

 大惨敗のミッドウェー海戦から帰ってきた瀧本さんを待っていたのは、病棟への監禁だった。「なんでやと。罪人あつかいやないか。俺ら、そんな悪いことした覚えはないわ。そう思とりますやん。こんなばかな話はないと腹がたちました」 理由は新聞報道で知った。「我が方の損害」として空母1隻喪失、同1隻大破という大本営発表が書かれていた。

「びっくりですわ。大本営はこんな大うそをついておるのかと。こっちはそこに行っとったわけやから。この目で見とったわけやから。虎の子の4隻をたった1日で失ったことを知っておるわけですから」 事実を漏らされないようにと監禁されたに違いなかった。

 それから送りこまれたトラック諸島では、戦友や部下が次々と餓死していった。「やせてやせて、本当に骨と皮になって、ほんで死んでいくんですよ。人間の姿ではありません」「1日が終わると、『ああ、きょうも生きのびたな。死なないでよかったな』と思う。われわれはいったい何のために、誰のために戦争をしているのか。もう戦争などまっぴらごめんだ」

「このころの戦闘行為とは、ただただ生きることだけでした」

 仲間が餓死すると、近くの山に埋めにいく。穴を掘る体力などない。地面をかきむしって遺体を入れ、穴からはみでているところは土を乗せて薄くならした。それで終わり。「なんと申し訳ないことを死者にしたのかと思う。思うけれど、その時はそれどころじゃないんですわ。遺体の処理をしながら、あ、俺はいつやろかと、そんなことを考えながらやっとるわけです。あすは自分の番や。だから堪忍してくれと心の中で手をあわせて、ほいでかえってきた」 それまで上官から繰りかえし聞かされたのは「貴様ら、よく聞け。いったん戦地に行ったら階級の上下は関係なしに一緒に死ぬんやぞ」ということだった。 嘘だった。

 戦後73年となる今も瀧本さんが声に怒気と殺気を込めて語るのは、やはりトラック諸島でのできごとだ。 木の葉を海水で煮て食らうしかない日々。餓死していく下っぱ兵たちを尻目に、非常用の備蓄食糧に手を出して食べている上官たち。どうにも我慢ならなくて瀧本さんは分隊長に食糧の開放を願いでる。

「一発でことわられました」

「われわれ下っぱが草を食って命をつないでいるときに、士官どもは銀飯を食べとるんですよ。銀飯ですよ、銀飯。こっちは草くうとるんや」 みずからにも餓死が迫りくる中、瀧本さんはこう考えるしかなかった。「こんなね、南のね、ちっぽけな島で骨と皮になってね、のたれ死んでね、ヤシの木の肥やしになるだけなんて、こんな死にかたは納得できない」

「ここで死ぬことがなんで国のためか。こんなばかな話があるか。こんな死にかたがあるか。何が国のためじゃ。なんぼ戦争じゃいうても、こんな死にかたに得心できるか。敵と戦こうて死ぬならわかる。のたれ死にのどこが国のためか」 (朝日新聞大阪社会部・下地毅)

304NAME:2018/08/16(木) 16:55:45
台湾で「郷土の守護神」として篤い信仰を集めた零戦パイロット
2018/08/16 07:00
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e5%8f%b0%e6%b9%be%e3%81%a7%e3%80%8c%e9%83%b7%e5%9c%9f%e3%81%ae%e5%ae%88%e8%ad%b7%e7%a5%9e%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e7%af%a4%e3%81%84%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e3%82%92%e9%9b%86%e3%82%81%e3%81%9f%e9%9b%b6%e6%88%a6%e3%83%91%e3%82%a4%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88/ar-BBLZ9dh?ocid=iehp#page=2

祖国を護るために身を捧げた多くの軍人たちの生き方は、我々に多くのことを語りかけてくる──。 台湾南部・台南市郊外で「飛虎将軍」として廟に祀られている日本人がいる。 零戦パイロットとして台湾に赴任していた杉浦茂峰は、太平洋戦争後期の1944年、米軍による台湾南部への空襲に反撃する際、命を落とした。その杉浦が、台湾で「郷土の守護神」として篤い信仰を集めている。

「飛虎とは戦闘機のことで、将軍というのは神格化された勇士を意味するものです。杉浦氏が祀られるきっかけとなったのは、善戦むなしく撃墜された際、集落への墜落を避けるように飛び去ったことに由来します」と語るのは台湾在住の作家・片倉佳史氏。 飛虎将軍廟は大願成就や勝運に御利益があるとされ、毎朝夕には「君が代」「海ゆかば」が祝詞として流され、煙草が供えられている。

●取材・構成/浅野修三(HEW) ※SAPIO2018年7・8月号

305NAME:2018/08/16(木) 17:22:57
橋下徹"あえて言う。負けたからよかった"
橋下 徹
2018/08/15 11:15
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%a9%8b%e4%b8%8b%e5%be%b9%e3%81%82%e3%81%88%e3%81%a6%e8%a8%80%e3%81%86%e3%80%82%e8%b2%a0%e3%81%91%e3%81%9f%e3%81%8b%e3%82%89%e3%82%88%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f/ar-BBLWrXq?ocid=iehp#page=2

第二次大戦に敗れたからこそ、戦後の日本人は世界的にも珍しいほどの自由を手に入れることができた。日本は戦争に負けてよかった。橋下徹氏が、政治家時代には決して公にすることができなかった本心を今明かす。プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(8月14日配信)より、抜粋記事をお届けします――。

戦前社会は、とてもじゃないが我慢できない!

広島、長崎の原爆死没者慰霊祭が終わり、来る8月15日は、終戦・敗戦の日を迎え、全国戦没者追悼式が行われる。僕はひねくれた性格なのか、世間で当たり前のように言われることに関し、逆の視点からも考えてしまう。(略)

僕も知事、市長の時には大阪の戦没者追悼式に毎年参加し、追悼の辞を述べ献花をしてきた。一時、安倍晋三首相の追悼の辞の類が毎年同じ文章だと批判されたけど、追悼の辞の類は毎年変えるものではない。そもそも安倍さん自身が全て考えて作成するものではない。僕も追悼の辞や挨拶の類は、担当部局に作成を任せていた。通常の記念式典では、事前に用意された紙は読まずに、その場で自分の言葉で挨拶を述べていたが、追悼式の類では、事前に用意された紙をしっかり読み上げていた。そして、もちろん毎年同じ文章である。

追悼の辞では、戦没者の皆様に感謝を述べる。今の世で僕たちがこのように生きていけるのも戦没者の犠牲があってのことだ。そして二度と同じ悲劇が起きないよう平和に向けてしっかりと活動していくことを決意する。これは全くその通りで、当然何の疑問も湧かない。

僕が深く考えてしまうのは、では、先の大戦である太平洋戦争がなかった方がよかったのかどうかである。これは戦没者の皆さんや、特にご遺族の方々には大変不謹慎な物言いにもなるので、言い方を慎重にしなければならないことは十分承知している。ゆえに政治家時代には発言しなかった。でも社会人になって問題意識を持ってから、ずっと自分なりに考えてきたのだが、やはりあの大戦で日本が負けたことは、戦没者の皆さんやご遺族の皆さんに大変感謝し、大変申し訳ないと思いつつも、全体として僕にとってはよかった、という結論に達している。実は、このような考えを戦没者追悼式の追悼の辞に入れようかとも考えたのだが、それはやはり止めた。

こう言うと、自虐史観! 弱腰! 売国奴! と猛烈な非難を浴びるだろう。特定の思想団体からは、激烈な抗議を受けるだろう。先の大戦で日本は勝つことができたはずだ! と主張する人から、先の大戦は避けるべきだったと主張する人まで、あの大戦で負けた方がよかったという人はいないだろう。 僕が自分なりに調べたところでは、どう考えても、戦前の日本社会は嫌だ。特に軍部が歯止めなく増長してきた昭和初期から大戦突入に至るまで、もちろん戦時中の軍部のあの態度振る舞いも含めて全てにおいて、とてもじゃないが我慢できない。

306NAME:2018/08/16(木) 17:23:36
アメリカにもあるプライバシー監視などの政府からの圧迫

誤解がないようにしないといけないのは、日本の国を守るために命をかけて戦って下さった個々の兵士の皆さんには本当に感謝している。だけど自分たちの保身を第一にし、組織の権益を守るために汲々とし、いかに自分が責任を負わないようにするにはどうすればいいかだけを考えていた軍指導部に対しては腸が煮えくりかえる。そう言えば、森友学園問題での財務省の公文書改ざんや国会での虚偽答弁の組織行為はこの軍指導部の行動様式に通じるところがあるね。さらに軍指導部だけでなく現場においても、特に唯一の本土決戦となった沖縄戦では、軍が沖縄県民を犠牲にしていた事例が山ほど判明している。(略)

だいたい戦前の日本が良かった! と言っている自称インテリたちは、文句言いが多い。今の日本政府や地方自治体に対して、それこそ野党政治家に対してもボロカスに文句を言っている。あんたら、戦前の日本だったら、監獄にぶち込まれているよ! 政府や軍(自衛隊)に遠慮することのないこの日本がどれだけ素晴らしいか。(略)

先進国のアメリカやイギリスだって、政府には怖さがある。諜報機関を持ち、国民のプライバシーはかなり監視されているのが現実だろう。 しかし日本には諜報機関がなく、盗聴を許す法律の範囲で厳格なルールに従って盗聴が行われるくらいだ。しかも盗聴の年間件数は微々たるもの。もちろん日本政府も色々と情報収集しているのであろうが、日本国民は日本政府にビクビクせずに暮らしている。

僕も戦前に暮らしていたらどうなっていたか。いまと同じ調子でやっていたら監獄にぶち込まれていただろう。でもそんな軍の強い社会においては、ビビッておとなしくしていたかもしれない。 たぶん、今、威勢のイイことを言って、戦前の社会を肯定する人たちは、戦前の社会体制の下ではおとなしくいい子ちゃんになっているパターンが多いと思う。 

こんな今の日本と戦前の日本を比べて、戦前の方がいいというのは僕には理解できない。戦前の日本の方がいい、という人たちは、紙一枚で軍に入らされ、上官からは暴力を受け、戦地に送り込まれても、また何か政府批判をすればすぐに監獄に入れられて拷問を受けてでも戦前の日本の方がいいと言うのかね。

307NAME:2018/08/16(木) 17:23:52
民間人になったから言える戦没者への「御礼」

太平洋戦争が避けられていたら、軍は残っていただろう。ましてや戦争に勝っていたらどうなっていたか。当然、明治憲法下の政治行政がそのまま残る。もちろん、その後の時代の変化に伴って、日本の政治行政の仕組みも徐々に変わり、最終的には今と同じほどの自由を国民が享受することになるだろうが、それにはもっともっと長い年月がかかるだろう。敗戦を経験することで、我々は猛スピードで、今の自由を享受することができた。このスピードのために300万人以上の犠牲が必要だったと言い切れるのか、ここが悩みだ。

確かに300万人以上とも言われる犠牲者が出たことを、簡単に肯定するわけにはいかない。しかし、あの太平洋戦争に負けたことが、今のように国民が世界でも珍しいくらい広く大きな自由を享受することができるようになった決定的要因なのではないか。 こういうことをいうと、「橋下お前は、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に洗脳されて自虐史観に陥っている。お前はアメリカなどの戦勝国に感謝し続けるのか、原爆投下を肯定し続けるのか」と批判されるだろう。

だから悩み考え続けてきた。まだ多くの人を説得できるだけのものを持ち合わせていない。戦勝国に感謝はしたくないし、原爆の投下も肯定したくない。戦没者に対して、皆さんが亡くなられてよかったです、とも言いにくい。だけどあの大戦があったからこそ、敗戦があったからこそ、戦後このスピードで今の自由があるとも感じている。あのまま戦争を避けていたり、戦争に勝っていたりしたら、日本の政治行政は、せいぜいトルコ程度の民主主義にしかなっていなかったのではないか。(略)

僕は今は民間人の立場で、戦没者の皆さんに感謝と哀悼の意を表したい。そして「戦争があり敗戦があり、戦前の政治行政システムがぶち壊されたからこそ今の自由を享受できています。戦前の政治行政システムを命をかけてぶち壊して下さり、ありがとうございました」と知事・市長のときに追悼の辞に加筆しようとした言葉を、民間人となった今、述べさせてもらいます。やっぱり、どのように考えることも、何を言っても、政府をどのように批判しても自由な今の日本社会は、戦前の社会に比べてはるかに素晴らしい!(略)

(ここまでリード文を除き約2900字、メールマガジン全文は約8900字です)※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.115(8月14日配信)を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで! 今号は《【今考える敗戦の意義〈1〉】戦争がなかったら、勝っていたら今の「自由」を享受できたか!?》特集です! (写真=iStock.com)

308NAME:2018/08/19(日) 01:04:48
戦争で奪われた家族と日常「空襲よりも、その後がつらい」 語り始めた男性
2018/08/17 10:30
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%a7%e5%a5%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%ae%b6%e6%97%8f%e3%81%a8%e6%97%a5%e5%b8%b8%e3%80%8c%e7%a9%ba%e8%a5%b2%e3%82%88%e3%82%8a%e3%82%82%e3%80%81%e3%81%9d%e3%81%ae%e5%be%8c%e3%81%8c%e3%81%a4%e3%82%89%e3%81%84%e3%80%8d-%e8%aa%9e%e3%82%8a%e5%a7%8b%e3%82%81%e3%81%9f%e7%94%b7%e6%80%a7/ar-BBM23nR?ocid=iehp#page=2

約2千人の名前が刻まれた大倉山公園(神戸市中央区)、神戸空襲の慰霊碑前で、兵庫県西宮市の古川輝男さん(78)は73年前の記憶をとつとつと語り始めた。「真っ黒な空から赤い火が星のように落ち、逃げる人の波があちらこちらに動いてね。水を求めた人が、生田川や防火用水に首を突っ込んだまま亡くなっていた」 1945(昭和20)年6月5日朝、神戸市東部や阪神間が焦土と化した空襲では4千人以上が犠牲になったとされる。古川さんら一家は葺合区(現在の中央区)の春日野道で被災。母よ志(し)みさんと兄2人が命を落とし、2014年に碑へ名前が加えられた。市民団体「神戸空襲を記録する会」の記録によると母は当時46歳。古川さんは5歳だったが、あの時感じた恐怖心は頭を離れない。

 「さぁみんな、朝ご飯やで」。あの日、6人きょうだいを呼ぶ母の大きな声が聞こえた。精米所で働く父は家にいなかった。直後、米軍機の爆音がし、サイレンが空襲警報の発令を知らせた。朝食を食べずに外へ飛び出し、一家で近くの防空壕(ごう)に駆け込んだ。 だが、そこに焼夷(しょうい)弾が直撃。よ志みさんはすぐに、出口近くにいた末っ子の古川さんを壕の外に放り投げて助けたが、自身は大やけどを負い4日後に息を引き取った。1番上の兄清次(きよじ)さん、3番目の兄良造(りょうぞう)さんも壕で犠牲となった。父は数日後に2人の遺骨を探したが、見つかったかどうかは分からない。

 幼くして亡くした母の記憶は断片的だが、白いかっぽう着姿で縫い物にいそしむ姿は強く印象に残っている。花を生け、卵を確保するため数羽の鶏の面倒も見ていた。良造さんは音楽が好きで、軍歌が推奨された当時もレコードでクラシック音楽を聴かせてくれた。 空襲後は生き残った父や2人の姉、2番目の兄と現在の神戸市北区へ移り、父の兄が暮らす家を間借りした。よ志みさんの遺体は近くに墓標を立てて土葬した。家でいつも構ってくれた母を失い、日中はほとんど1人で過ごした。近くの山や川へ行っては、草や木の実で空腹を満たし、寂しさを紛らわせた。

© 神戸新聞NEXT/神戸新聞社 「火の海の中、たくさんの遺体をまたいで逃げた。5歳の出来事でも忘れられない」。神戸空襲の慰霊碑前で当時を振り返る古川輝男さん=神戸市中央区

 終戦の数年後には長屋を借りて家族5人で暮らし始めた。父は精米関係の仕事を続け、上のきょうだいも働きに出て家計を助けたが、とても裕福な暮らしとは言えなかった。 1946年に入学した国民学校(後の小学校)には、わら草履で通った。学年が上がるにつれてゴム製の履物が普及したが買ってもらえず、子どもながらに足元で貧富の差を感じた。学校帰りに遊んでいても、友人らが母親に「おやつの時間やで」と呼ばれると別れ、人けのない自宅へ帰った。

 「うらやましいな」。そんな境遇を恨んでも、むなしさが募るだけ。姉が洗濯や炊事を担い、いつしか母のいない生活が当たり前となった。 「経験を話しても、母や兄が戻るわけではない」。古川さんは長年、戦争体験をあまり口にしなかった。気持ちに変化が生じたのは「神戸空襲を記録する会」が2013年に建てた慰霊碑だ。新聞記事で完成を知り、同会が犠牲者名簿を地道に作り碑の建立まで至ったことに感銘を受けた。

 「おかげで3人の生きた証しができた。私は戦争を体験しているのに何もしていなかったと、初めて目が覚めた」。古川さんは14年に同会会員となり、中学校などで自身の体験を語り始めた。 「空襲よりも、その後の生活を思い出す方がつらい」と、古川さんはつぶやいた。子どもが平凡な暮らしを奪われ、寂しさに打ちのめされる戦争を二度と繰り返してはならない。「一人一人が自分の幸せだけじゃなくて、互いを思いやる心を持てば平和につながる」。淡々とした口調が熱を帯びた。(田中宏樹)

309NAME:2018/08/29(水) 07:34:40
「真珠湾攻撃忘れないぞ」 米大統領、会談時に安倍氏へ圧力
共同通信社
2018/08/29 05:44
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e7%9c%9f%e7%8f%a0%e6%b9%be%e6%94%bb%e6%92%83%e5%bf%98%e3%82%8c%e3%81%aa%e3%81%84%e3%81%9e%e3%80%8d-%e7%b1%b3%e5%a4%a7%e7%b5%b1%e9%a0%98%e3%80%81%e4%bc%9a%e8%ab%87%e6%99%82%e3%81%ab%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%b0%8f%e3%81%b8%e5%9c%a7%e5%8a%9b/ar-BBMA1Bb?ocid=iehp

【ワシントン共同】米紙ワシントン・ポスト電子版は28日、トランプ大統領が6月にホワイトハウスで安倍晋三首相と会談した際「(第2次大戦の)真珠湾攻撃を忘れないぞ」と前置きした上で、難航している通商問題の協議を始めたと伝えた。異例の発言の背景には、対日貿易赤字の削減を目指し圧力を強める狙いがありそうだ。

 米国では真珠湾攻撃は「卑劣なだまし討ち」との見方が強い。日本側の弱みと見なしてトランプ氏が通商交渉で譲歩を引き出すために、あえて日米首脳会談で触れた可能性がある。 同紙によると、トランプ氏は真珠湾攻撃に言及した後、米国の対日貿易赤字について激しく非難した。

310NAME:2018/08/31(金) 02:45:00
https://www.youtube.com/watch?v=doPlKvTdIbA&t=90s
オランダがとった政策はインドネシアにいろんな言語を使わせ教育を一切しなかった。それによって反乱する事を防ぎたかったからだ
一方日本は言語を統一させ教育を受けさせた。もしこれを侵略戦争などと言う奴がいるのであれば是非英霊の前で同じ事を言って見てほしい。

これだけは言えるのが、日本を孤立させようと日本を悪く言い続けている人が世界にいて、親日国と思っている国を含め、過去の日本のイメージはよくありません。それは日本が反論しないから、声をあげないから今日の結果があります。
私は「親日国」に住んでいますが、皆さんが思ってるより親日国ではないです。日本のテーマが出るたびに日本の悪口を言ってる人もよくいますし。
日本人は「○○友好!」とか言ってヘラヘラしないで、もっと冷静に対応した方がいいです。本当に。
あと、海外住んでわかったんですが、日本人って外国人に妙に変に優しいですが、日本人と同じように接した方が印象良くなると思いますよ。外国人だから〜って許す範囲極端に広くすると調子乗ってああいう反日精神が簡単にできて世界に日本の悪口を広めていくと思ってます。

コメント読んでたら、ホラをバラ撒いてる人もいるようなので、
ソース(信用度の高い情報)のある話を信じるようにしましょうね皆さん。
日本語がおかしい人が何人か混じっているようです。
左翼、在日、朝鮮人、中国人スパイなんかもいるでしょうから。
「私の知り合いは日本を友好的に見ていない」←ソース自分ww
「オランダより日本が嫌い」っていう自作自演とか(´・ω・`)

日本人は世界で一番素晴らしい人種、しかし今の日本人と昔の日本人とでは、泥雲の差がある。
台湾の戦争経験者の方の言葉です。
日本人として胸に刺さります。

インドネシアの教科書には、次のように書かれているそうです。「インドネシアにおける日本軍の支配は短期間であったけれど、長期間のオランダの植民地支配よりもはるかに過酷であった」「日本はインドネシアの天然資源と労働力を徹底的に搾取した。」「日本は農産物と労働力を徹底的に搾取した。人民は極度の貧困に苦しんだ。飢餓と疫病が至る所で発生した。」「物資や食料の大規模後な徴発を行なった。軍隊への大規模な食糧徴発は当然のことながら人民に厄災をもたらした。「日本政府による食糧の徴発は稲や他の収穫物を取り上げるという方法で行われた。複数の収穫物から、人民にはその20パーセントの保有が許可され、30パーセントは農業組合(Noyo Kumiai : 原文ママ)を通じて政府への提供が義務付けられた。残りの50パーセントは、村の格納場所へ納められた。」

「日本占領政府期における労働力の搾取は、インドネシア社会のあらゆる階層に対して行われた。都市部や村落部出身者、教育を受けたものや文盲を問わず、全員が日本の必要に応じて搾取された。中でも労務者(Romusha: 強制労働者)が最も悲惨な状況に置かれた。彼らは日本によって、主に飛行場、防御用堡塁、線路などの軍事施設を建設するため強制的に徴用された。労務者の大半が村落部の出身で、学校へ通っていない者や最高でも小学校卒業者が多かった。こうした住民を数多く抱えるジャワ島では大規模な労務者徴用が可能となった。何千もの労務者がジャワ島外へ送られただけではなく、マラヤ(マレーシア)、ビルマ(ミャンマー)、シャム(タイ)などの国外へ送られた者もいた。

「労務者の待遇は非常に劣悪なものだった。健康は保障されず、食料は不十分だったにもかかわらず、彼らには過酷な労働が課せられた。その結果、数多くの労務者が作業地で亡くなった。こうした悲しむべき状況は人々の口から口へ、全村民へと広がった。」こうして400万人ものインドネシアの人達が亡くなったといわれています。

311NAME:2018/08/31(金) 02:45:18
宇宙戦艦ヤマト、ボルテスV、北斗の拳などのアニメは、暴力と恐怖に支配された世界に正義の戦士たちが現れて、あるものは傷つき、あるいは敗北して命を落としながらも、次々と悪党を打ち破り、最終的に正義の戦士たちが勝利を収める物語だが、実際には日清戦争からベトナム戦争終結までに日本軍が辿った道のりを舞台を変えて描いたものである。ベトナムにおいても、700名以上の日本兵が残留して、1946年にベトナム初の士官学校を創設して、ベトナムを再び植民地にする為に戻ってきたフランス軍を1954年に打ち破り、フランス軍の後を引き継いでやってきたアメリカ軍を1973年に打ち破り、カンボジアでの大虐殺を止めさせたベトナムに懲罰の名目で侵略してきた中国軍を撃破した。これらの功績により、1986年にベトナム政府は残留日本兵に勲章を授与し感謝の念を表明した。日本は同じように日清戦争で1895年に朝鮮を清の奴隷から解放してやり、下関条約の第1条で朝鮮の完全独立を清に認めさせ、1897年に朝鮮は独立門を建立した。日韓併合では朝鮮人を正式に日本人にしてやったにもかかわらず、南北朝鮮では事実と正反対の大嘘を学校で教え、朝から晩まで毎日反日活動に血道をあげている。数ヶ月前の韓国保健部の調査で国民の91%が認知障害を持っていることが報道されたが、これで、朝鮮人の91%が事実と捏造を反転させてしまう脳神経回路を持っていることが判明した。事実捏造反転脳神経回路を持つ連中に何を言っても全く通じない、と言う科学的事実を日本政府はまず認識しなければならない。

312NAME:2019/01/25(金) 14:40:50
日本は大東亜戦争で、っ戦いには負けたが、戦略的には大勝利したという人がいます。
その証拠にアジア諸国は独立し白人たちは再びアジアに戻ってこれなかったではないかと。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11111154271

313日本を護る会:2019/03/04(月) 21:06:01
第80回定例会の案内

梅の便りが聞かれる今日この頃ですが皆様にはお元気でお過ごしのことと存じます。
今回の講師は、大阪市立大学名誉教授の山下英次氏にお願い致しました。特に先の大東亜戦争に焦点をあて、当時の世界情勢を踏まえて、日本が戦争に突入せざるを得なかった状況等に関してのお話です。
今迄もいろいろな方が取り上げられた命題ですが、通常の戦史家とは一味異なる観点からのお話になると思われ、大変興味ある、重要なテーマであると思います。
是非多数の皆様にご参加頂きたくご案内申し上げます。




1 講師 : 山下英次 大阪市立大学名誉教授・経済学博士 、国際歴史論戦研究所(iRICH)所長

2 演題 : 「第2次大戦とはどのような戦争であったのか」-日本は何故大東亜戦争を戦う事になったのか

3 講師略歴 : 1947年東京生まれ、1970年慶應義塾大学経済学部卒業。旧東京銀行に入行し調査部、 国際投資部、海外部などに勤務後、1988年大阪市立大学に移籍。同大学大学院経済学研究科教授を経て、現在、国際通貨研究所(IIMA)客員研究員。アパ日本再興財団の懸賞論文「真の近現代史観」で4回入賞(2014、2015、2016、2018年)。

4 著 書:『国際通貨システムの体制転換』(東洋経済新報社、2010年)、『ヨーロッパ通貨統合—その成り立ちとアジアへのレッスン』(勁草書房、2002年)など

5 日時 平成31年3月13日(水) 受付開始 午後6時00分〜 開 演 午後6時30分〜

6 場所 銀座 カフェ ジュリエ (Cafe Julliet)
東京都中央区銀座5-13-16東銀座三井ビル1F  03-3543-3151
東京メトロ 東銀座駅4番出口徒歩1分
(東銀座駅出口4番三原橋交差点から昭和通りを歌舞伎座とは反対方向へ54メートル)

7 参加費 2、500円 会員は2,000円(いずれも1,000円の寄付を戴ける場合)、学生は1,000円、高校生以下は無料
講演終了後(午後8時半頃)に軽い懇親会(1時間程度、会費2,000円)を講演会場で行います。お時間のある方は是非ご参加下さい。
講演会及び懇親会に御参加希望の方は、3月7日(木)までに原則としてメールにてお申し込みください。
*FAXにてお申し込みの場合はご記入後、本ページを切り取らずに送信して下さい。

2月7日(木)の定例会に参加します。 懇親会( 出席 、欠席 ) どちらかに○印
ご 氏 名
ご 住 所
電話 Fax:
E-mail
 ★★連絡先★★
NPO法人日本を護る会事務所
FAX:03-3985-1008
e-mail: awake-japan@googlegroups.com
HP: http://awake-japan.sakura.ne.jp/

314NAME:2019/07/01(月) 23:44:29
在留邦人危うし 中国軍精鋭が日本人街に襲いかかった 
2019.6.30
https://special.sankei.com/f/society/article/20190630/0001.html

第136回 上海事変 「今こそ対日戦争に踏み切るべきだ」

 蒋介石が抱えるドイツ軍事顧問団団長、ファルケンハウゼンがこう進言したのは、盧溝橋事件が起きる1年以上も前、1936(昭和11)年の春頃といわれる。 同じ頃、ナチス・ドイツは日本と防共協定を結んだが、ドイツ国防軍は日露戦争でロシアと組んで以来、伝統的に日本を仮想敵国とみなしていた。第一次世界大戦で山東省の租借地を奪われてからはその傾向が強く、国民党政府に顧問団を送って軍事力の強化に努めていたのだ。

 蒋介石は、ファルケンハウゼンの進言を直ちに入れることはなかったが、将来の決戦に備え、上海近郊の非武装地帯にトーチカ群など堅固な陣地を構築した。いざという時、ここを拠点に上海駐留の日本海軍を撃滅し、救援に駆けつける日本陸軍も撃破するという、ドイツ仕込みの作戦である。盧溝橋事件後、北京周辺での戦況が不利になった蒋介石は、いよいよこの作戦を実行する時だと判断したようだ。

× × ×

 直接のきっかけは盧溝橋事件の1カ月後、37年8月9日に起きた大山事件である。その日、海軍特別陸戦隊第1中隊長の大山勇夫と1等水兵の斎藤與蔵が車で上海の陸戦隊本部に移動中、中国保安隊に銃撃され、2人とも死亡した。大山の遺体には無数の機関銃弾があったほか、銃剣などで陵辱されたあとがあり、頭部は二つに割れ、顔面の半分が潰されていたという。

 中国側は、最初に大山が保安隊員を射殺したので銃撃したと偽り、日本側がさらなる紛争防止のため保安隊の撤退を求めても、かえって保安隊を進出させ、12日以降は完全武装の正規兵を続々と派遣。上海は、たちまち一触即発の状態となった。

 上海地域の在留邦人を保護するのは、海軍第3艦隊の担当だ。それより前、日本政府は揚子江沿岸の邦人の引き揚げを決定、上海在住の婦女子2万人を帰国させたが、まだ1万人が租界に残っている。 中国軍が乱入すれば、通州の残虐事件が再び起きることだろう。

 12日夜、邦人保護の大海令(※1)が発せられた。 「第三艦隊司令長官ハ現任務ノ外 上海ヲ確保シ 同方面ニ於ケル帝国臣民ヲ保護スベシ」 このとき、上海周辺に集結した中国軍は第87、88、36師で、背後には第15、118師などがひかえ、総兵力は約15万人に達した(※2)。 対する海軍陸戦隊は5千人弱。初年兵にいたるまで、全員が死を覚悟したに違いない。

× × ×

315NAME:2019/07/01(月) 23:44:46
 戦端を開いたのは中国軍だ。時に13日午後4時54分。日本人街のある虹口地区の北、八字橋付近に埋設された地雷が爆発したのを合図に、中国軍第88師の部隊約2000人が攻め込んできた。 海軍上海特別陸戦隊司令官、大川内伝七の命令が飛ぶ。

 「全軍戦闘配置につけ」 敵の第88師はドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製の武器を手にした精鋭中の精鋭だ。「一挙ニ海軍陸戦隊ヲ潰滅(かいめつ)セントスル作戦指導振リハ洵(まこと)ニ猛烈執拗ニシテ我ヲシテ応接ニ遑(いとま)ナカラシメ、我ガ租界第一線ノ如キモ再三ノ危殆(きたい)ニ陥リタリ」と、軍令部編集の「大東亜戦争海軍戦史」が書く。この日の八字橋付近の激戦は5時間以上にわたり、陸戦隊は午後11時、ようやく敵を撃退した。

 翌14日午前3時、新たな中国軍が北部の陸戦隊陣地を襲う。左翼の小隊が包囲され、陣地を突破されそうになったが、駆けつけた増援部隊が奮戦、死力を尽して守り通した。 北部地区を突破できない中国軍は、攻撃の重点を共同租界の東部に移す。とくに17日午前8時からの攻撃は熾烈を極め、一部が租界内に侵入、東部地区の陸戦隊は窮地に陥った。 激戦16時間。戦況不利とみた中隊長の菊田三郎が敵部隊の真っ只中に斬り込む。「中隊長を死なすな」と下士官兵が続く。壮絶な白兵戦だ。手榴弾が飛び交い、彼我の肉片が散った。何とか中国軍を押し戻したものの、菊田は戦死した。

× × ×

 東京では、戦端が開かれた13日に陸軍部隊の派兵を急遽(きゅうきょ)決定したが、どんなに急いでも上海に上陸するのは23日以降だ。現地で最高指揮権をもつ第三艦隊司令長官の長谷川清は、とてもそこまで持ちこたえられないと、軍令部に打電した。 「本十六日ノ激戦ニ依リ陸戦隊ハ可成リノ損害ヲ蒙リタリ。士気ハ依然旺盛ニシテ死力ヲ尽シテ戦線ノ維持ニ努メアルモ敵ノ兵力集中情況ニ鑑ミ、毎日此ノ程度ノ激戦ヲ予期セラルルニ付テハ疲労ト兵力ノ損耗トニ依リ後六日間ノ維持ハ極メテ困難ナリ…」

× × ×

 陸戦隊を救ったのは、鹿屋海軍航空隊と木更津海軍航空隊だ。鹿屋空は台湾の台北基地から、木更津空は長崎の大村基地から、当時は世界でも異例の渡洋爆撃を敢行。悪天候などで多くの犠牲を出しながらも南京などの飛行場爆撃に成功し、制空権を握った。 在留邦人が不眠不休で陸戦隊を支援したことも忘れてはなるまい。男は土嚢(どのう)づくりを、最後まで残った婦女800人は炊き出しなどに従事した。 23日未明、待ちに待った陸軍の救援部隊が上海の外港、呉淞(ウースン)に上陸した。陸戦隊は上海を守りきったのだ。 しかしこの後、陸軍部隊が大苦戦を強いられる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)



(※1) 海軍軍令部総長が天皇の裁可を受け、指揮官に対して発する命令
(※2) 中国軍の兵力には諸説あり、防衛研修所の戦史叢書では、12日夜の段階で海軍陸戦隊に直接対峙したのは第87、88師と武装保安隊の計約3万人としている

【参考・引用文献】

○阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)
○田嶋信雄著「ナチズム極東戦略」(講談社)
○中村粲著「大東亜戦争への道」(展転社)
○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 中国方面海軍作戦〈1〉」(朝雲新聞社)
○海軍歴史保存会発行「日本海軍史」6巻
○軍令部編「大東亜戦争海軍戦史 本紀巻1」(防衛省戦史研究センター所蔵)
○昭和12年8月14〜25日の東京朝日新聞、東京日日新聞、読売新聞

316NAME:2019/07/22(月) 20:44:12
東京大空襲:日本中を震撼させたB29の次もあった!
日本が夢想した超大型爆撃機「富嶽」級を実戦配備させた米国
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55685

毎年、3月になると東京大空襲の体験談を目にする機会が増える。昭和20年3月10日、約300機の「B-29」が隅田川両岸の人口密集地を焼き払い10万人の犠牲者が出た。 一般市民が暮らす人口密集地を攻撃目標とする神経も恐ろしいが、何千キロも離れた場所からそれを実行できる米国の国力も恐ろしい。 爆弾6.6トンを積んで、マリアナ諸島から日本まで片道2500キロの距離を往復できる爆撃機を300機揃える――。 そんなことは当時の日本にはとうていできなかったし、押し寄せるB-29から日本を守ることもできなかった。

 しかし、日本には太平洋を越えて米国本土を空襲するため、B-29を圧倒的に凌ぐ爆撃機を製造する計画が存在した。 中島飛行機の創業者中島知久平により構想された「富嶽」である。 B-29は当時の最先端の航空機であったが、マリアナ諸島から日本を空爆し戻るのがやっとだった。東北地方や北海道は攻撃圏外であった。

 一方、富嶽は日本から離陸し、米国本土を空爆して、そのまま大西洋に抜け、ドイツ占領地域に着陸するというB-29でも不可能な壮大な作戦をすることを想定していた。 現在の大型旅客機でもそれほどの距離を飛べるものは限られる。

富嶽は大日本帝国の妄想に終わる

 B-29が2200馬力のエンジンを4基搭載し、航続距離約9000キロ、最高時速は600キロ弱、最大爆弾搭載量9トン、全長は30メートル、全幅が43メートル。 対する、富嶽は5000馬力のエンジンを6基搭載し、航続距離約2万キロ、最高時速780キロ、最大爆弾搭載量20トン、全長は43メートル、全幅が63メートル。 確かに、富嶽が実現すれば、B-29を圧倒する爆撃機になる。しかし、想定数字をあげつらったところで、B-29に対抗する航空戦力も整えられない大日本帝国が実際に作れるわけがなかった。 例えば、5000馬力のエンジンは絶望的であった。

 日本も2000馬力級の「誉」というエンジンを完成させ、戦争末期に実践投入まで持ち込んでいる。「疾風」や「紫電改」といった戦争末期に完成した新型戦闘機に搭載している。 小型軽量で大馬力の誉は、確かにカタログ数値では非常に優秀なエンジンだった。 しかし、日本の工業力では安定して量産することができなかった。また、故障多発を克服できなかった。日本の新型戦闘機は、襲いかかる米軍機に対抗できる数が揃うことはなかった。 一方、米国は2000馬力級のエンジンの大量生産に成功したうえ、トラブルも実戦に耐えるほどに抑え込むことができている。

 2000馬力級のエンジンを積んだグラマン「F6F」戦闘機は「ゼロ戦」をバタバタ撃墜したし、そんなエンジンを4基積んだB-29の大編隊も実現してしまった。 その米国でも5000馬力のエンジンを実現できていない。2000馬力のエンジンも十分にモノにできていなかった大日本帝国。それなのに5000馬力のエンジンができるわけがなかった。 エンジンに限らず、当時の日本には質的にも量的にも超大型機を作る能力はなかった。

 高空を長距離飛行するのに必要なターボチャージャーや与圧室も作れない、大型機を大量生産するだけのアルミニウムもない、工場のキャパも足りない。航空機のエンジニアは戦争中は仕事が激増し過労死寸前・・・。 実際、日本が実用化できた爆撃機はエンジン2基で与圧装置もなし、マリアナ諸島まで往復できないのでB-29の基地も特攻でしか攻撃できない、爆弾も1トン程度しか積めないというものだった。

 富嶽の実現どころかB-29に圧倒的に劣るものであった。そんな質的に劣る爆撃機すら、B-29と同じ数が揃うことはなかった。 日本の航空産業の実力を考えれば、富嶽など絵に描いた餅でしかなかった。 富嶽開発プロジェクトは開始から1年もたたずに断念されてしまう。国家の非常時にこんな妄想膨らませて遊んでいるわけにはいかなかったのだろう。 大日本帝国にとって、富嶽などは、現実逃避的な妄想に過ぎなかった。

317NAME:2019/07/22(月) 20:44:29
米国では富嶽を実現

 しかし、日本には妄想に過ぎなかった富嶽。米国は何と実際にそれに匹敵するものを戦争中に開発し、終戦直後に完成させていた。 その名は「B-36」。 B-36は3500馬力のエンジンを6基搭載し、最高時速は後期型では700キロ近くに達し、航続距離1万5000キロ、最大爆弾搭載量32トン、全長49メートル、全幅70メートル。 日本が全くかなわなかったB-29を圧倒的に超えている。妄想計画だった富嶽に対する個々の項目の単純比較では優劣があるが、十分に対抗できそうな内容である。

 富嶽は設計すら固まらなかったのに対し、B-36は終戦5日後の1945年8月20日に機体が完成しロールアウトしている。 もっとも、さすがの米国も3500馬力のエンジンは開発に手間取り初飛行は翌年になった。そして、量産に入り1948年から実戦配備をしている。 米国の航空産業は、戦争に勝つために差し迫った開発や生産をこなしたうえで、当時の世界水準を圧倒するB-29すらはるかに超える超大型機の開発を行っていたのだ。 戦時中の日本の航空産業では、性能が向上していく米軍機に対抗する機種の開発、軍からの改造の要望への対応、一機でも多くを生み出すための生産など、大量の仕事に忙殺され、もう限界という状態だった。

 当時の体験談を読むと、技術者は過労で倒れることがあり、生産現場は過重労働で疲れ果てていた。 ヘトヘトになるまでの努力をしても、戦闘機のような小型機すら米国の生産数に遠く及ばないし、ゼロ戦の後継機も満足に作れなかった。 大戦末期には米国では標準になっていた2000馬力級エンジンの安定供給も果たせなかった。B-29を防ぐだけの戦闘機も配備できなかった。 現に存在している米国の航空戦力に対抗することすらできていない状況で、とても、富嶽のような米国の水準を圧倒的に超える巨人飛行機の開発まで手が出るわけがない。

一方、米国は単純な数の比較で4倍以上の航空機を製造し、大日本帝国の航空戦力を圧倒した。 米国の航空機生産実績には数千機のB-29を含む、大量の大型機を含むことを考えれば、その差は数の差にとどまらない。 米国はそのうえで、B-36という日本であれば妄想でしかない超大型機を開発する余力を持っていたのだ。恐るべきことである。 こんな国力のある国と戦って勝てるわけがない。3年10か月戦っただけでも立派なものと言えるだろう。

318NAME:2019/07/22(月) 20:44:42
B-36は役には立たなかったが・・・

 米国がB-36の開発を始めた理由は、英国がドイツに負けてしまった場合、大西洋を超えてドイツを空爆できる爆撃機が必要になると考えたからだ。 「こんな爆撃機が欲しい」というレベルだった富嶽に対し、米国では超大型爆撃機の実現が、第2次世界大戦初期の一時期においては必達目標だったのだ。 しかし、ドイツはあと少しのところで英国を降伏させることはできず、太平洋戦争が始まる頃にはその心配はほぼなくなっていた。 それでも、B-36は優先順位を下げられつつも開発は継続された。

 ここで不要不急として中止にならなかったことも驚きであるが、優先順位が下げられた状態で開発しても、戦争終結後すぐに完成していることはもっと驚きである。 第2次世界大戦後、核兵器の時代になり、米国の勢力圏からソ連を爆撃できるB-36は核戦力の主力として重宝されることになる。しかし、戦後すぐに航空機のエンジンはピストンエンジンからジェットエンジンに移り変わる。

 B-36は強力なエンジンを持つとは言え、第2次世界大戦の飛行機と同じピストンエンジンのプロペラ機。時速200〜300キロの速度差のあるジェット戦闘機にはすぐに撃墜されてしまう。 結局、B-36は配備されてから約10年経った1959年にはすべて退役してしまう。その間、朝鮮戦争があったが、B-36は一度も実戦に出ることはなかった。 B-36は確かに当時の世界最大の航空機であったし、この飛行機の実現のための技術開発は米国航空産業の資産になっただろうが、決して活躍した航空機ではない。 よって、B-36の知名度はあまり高くない。また、メーカーのコンベアーもジェネラルダイナミクスを経て、ロッキード・マーチンの一部になり、名前が残っていない。 しかし、あまり役に立ったようには見えないにしても、米国版富嶽のB-36は大日本帝国では妄想に過ぎないものを実際に実現してしまう恐るべき米国の底力の象徴ではあった。

319NAME:2020/08/29(土) 14:58:09
入隊後、真っ先に教えられた切腹の仕方 15歳で特攻志願、「死にたくない」と後悔
8/26(水) 10:32配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc0cf88bf7923d23c9216ec5d3f867578bbf73c3

「咲いた花なら散るのは覚悟、みごと散りましょ国のため」。15歳で志願して軍人となり特攻要員として訓練を受けた長野市の武井敏雄(たけい・としお)さん(90)がよく歌った「同期の桜」の一節だ。勇ましい歌詞とは裏腹に、悪化する戦況下、若すぎる軍人の脳裏に芽生えたのは「死にたくない」という特攻志願への後悔だった。「もう誰にも自分と同じ経験はさせたくない」。75年前の惨状を語った。(共同通信=櫛部紗永)

 ▽12歳で経験した軍事訓練

 1930年、東京の日本橋や浅草に店を構える衣料問屋の次男として生まれた。生まれつき体が丈夫で、走るのが速く、体育が得意だった。千葉県の八幡尋常高等小学校に入学。小学6年生では全校生徒の代表として体育部長を務め、体操では号令をかけた。太平洋戦争が始まったのはそんな育ち盛りの頃。41年12月、担任の教諭から「本日、日本はアメリカ、イギリスを相手に戦争を始めました」と聞かされた。物心ついた時から戦争は身近だった。

翌年、旧制江戸川中学校に入学。兵器庫がある学校で、軍事訓練を12歳で初めて経験した。毎朝30分間の朝礼は校庭で歩行訓練、陸軍士官学校出身の将校による「教練」の授業では竹やりで敵を倒す練習をした。毎週日曜日は学外訓練として、約30キロの道のりを夜通し歩くこともあった。深夜の線路を戦車が走り抜ける姿や騎馬隊の見学―。「いま考えればあり得ない景色ばかりだった」

 14歳の頃には、勤労動員で魚雷製造工場へ。作り出す爆弾も多かったが、落とされる焼夷弾も多く、空襲は増える一方だった。東京大空襲直後の惨状はいまも、まぶたの裏に焼き付いたままだ。

 ▽焼け焦げた遺体

 45年3月9日午後10時ごろ、東京都に隣接する千葉県市川市の自宅で家族だんらんしている時だった。突然、警戒警報もなしに空襲警報が鳴り響いた。遠くの空には爆撃機。急いで庭の防空壕に逃げ込んだ。警報が解除され外に出ると、西の空が真っ赤だった。

320NAME:2020/08/29(土) 15:00:25
翌朝、中学へ自転車で向かった。黒く焼け焦げた遺体であふれかえった通り、水ぶくれした遺体でびっしりと埋まった防火用水。いつもの通学路は変わり果てていた。空襲が激しかった両国では、国技館が骨組みだけに。たまらず家に引き返すと、遺体を無造作にトラックに投げ込む兵隊に遭遇した。錦糸町の菓子屋前では、道に流れ出した水あめを舐める人たちもいた。「幼心に日本は完全に負けたと思った」

 ▽真っ先に教えられた切腹の仕方

 父の希望で「食べ物に困らない」職業軍人を目指し、陸軍特別幹部候補生に合格。浜松市にある航空技術の教育部隊に入隊した。45年4月、大勢に見送られて東京駅を出発した。中学の同級生から胴上げされ、送別会で渡された日の丸には、親友がナイフで自分の指を切り、血で「タケイガンバレ」と書いてくれた。

 入隊して真っ先に教わったのは切腹で、上官は刀を腹に刺す手本を示した。「敵に殺されるくらいなら、自決くらいしっかりやれ」。銃を抱えてほふく前進、剣で相手を突き殺す練習―。基礎訓練は朝から晩まで続いた。「同期の桜」は骨休めに何度も歌わされた。

その後、特攻要員になることを承知で操縦士を志願。華々しさに憧れたが、日に日に悪化する戦況を感じ取るにつれ、「命を懸けて特攻隊員になりたかったわけじゃない」と悔いた。仲間からは、爆弾を持って戦車に体当たりする自爆訓練を繰り返していると聞いた。「生きて帰れない」。初めて特攻が怖くなった。 45年7月、部隊は滋賀県日野町に疎開。飛行訓練にたどり着く前に玉音放送を聴いた。部隊長からは「自分の意思で帰れ」と告げられた。長野県中野市に疎開し中島飛行機の関連工場で戦闘機を製造していた家族の元へ。母親は涙を浮かべ抱きしめてくれた。

 ▽戦争を若い世代に語り残す

 46年に長野県の旧制須坂中学校を卒業。その後、父が新たに創業した食品会社の商売を手伝い始め、現在は会長を務める。「子どもに食べる楽しさを知ってほしい」と、駄菓子を多く扱う。いまでは地元の人にテレビ広告で馴染みの店だ。 戦争で得ることは何もなかった。「命を捨てても戦争に勝て、という教育に従い、大勢の若者が無駄死にした。こんな恐ろしい教育は二度と繰り返してはいけない」。いまは戦争のむごさを若い世代に語り残す責任を強く感じている。

過去には、長野市の中学校が行う平和学習に招かれ、自身の人生を語った。「人の命以上に大切なものはない」。うなずく中学生の姿に確かな手応えと、わずかな希望を感じた。憲法改正、特に9条については「軍事大国化を助長しかねない」と懸念を持ち、世界的に社会の分断が進んでいることには不安を感じる。 8月15日正午、長野市の自宅で、全国戦没者追悼式のテレビ中継を見た。75年前を思い返し、窓の外に目をやると「力強く復興した日本」が見えた。「平和な世の中が続きますように」と強く願いながら手を合わせた。

 ▽取材を終えて

 物腰が柔らかく、穏やかで優しい人柄。「言葉で表現できないほどの惨状」を、時間をかけて丁寧に教えてくれた。「鮮明に記憶に残っているのですね」と言うと、「本当は忘れたい。いつか僕が教訓として語り残す必要がないくらい平和な世の中になれば、忘れられるかな」と本音を漏らした。 取材中、「若者たちが、国ではなく、自分のために生きられる社会が続いてほしい」と繰り返す武井さん。当たり前の価値観が、当たり前に尊重される平和な世が続くことを願ってやまない。

321NAME:2020/08/29(土) 15:56:50
習近平の中国がなぞる大東亜共栄圏の「失敗の本質」
8/24(月) 6:01配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0b60399818df93f76810cfb80e1b3ef64c515b2

大東亜住民と帝国の関係における不成功は、国力を数十倍も上回る米国に日本が無謀な戦争を仕掛けたという表面上の「失敗の本質」よりも、はるかに深刻なしくじりである。なぜなら、たとえ米国に力で押されても、共栄圏内の住民が日本の行動を心から受容して歓迎しておれば、米国は真の意味で日本に勝利できなかったからだ。実際には、ほとんどの地域において日本人は「侵略者」と見なされ、その結果、日本を破った米国が「解放者」と見られるようになった。

そして現在、共存共栄をモットーに実行される中国の一帯一路共栄圏や「中華民族の偉大な復興」も同じような根源的な矛盾を抱えており、現地住民の民心把握に失敗するという傾向が明確に現れていることは興味深い。

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科学的根拠が明示されない日本の感染症対策の咎

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322NAME:2020/08/29(土) 15:57:14
(岩田太郎:在米ジャーナリスト)
※「中国切腹日本介錯論」(1)「『大日本帝国』と同じ轍を踏む習近平と中国共産党」、(2)「中国が先制攻撃を仕掛ける可能性が高いワケ」、(3)仮面を捨てた中国、世界を自分色に染めるそのやり方も併せてお読みください。

中国国旗と習近平国家主席の写真を燃やすインド民衆。中印国境の係争地帯で軍が衝突、インド人兵士に多数の犠牲が出たことに対する抗議。中国の膨張主義はさまざまな摩擦を生み出している(写真:ロイター/アフロ)

■ 戦中から指摘された共栄圏「失敗の本質」

 中国共産党が熱心に学び、「中国夢」や「中華民族の偉大な復興」のビジョンの参考にする大東亜共栄圏構想は、壊滅的な日本の敗戦で失敗に終わった。だが、開戦間もない頃から、共栄圏の構造的な欠陥が一部の識者によってすでに指摘されていた。

 ケインズ経済学の立場から『東洋経済新報』の石橋湛山らとともに緊縮財政に反対してリフレ政策を唱え、後に転向の上で軍部に接近、日本の排他的な経済ブロックを建設することを強く主張した経済評論家の山崎靖純(せいじゅん)は、近衛文麿の私的政策研究団体である昭和研究会の常任委員であった。

 その山崎が、緒戦連勝の余韻が残る昭和17年(1942年)半ばに「大東亜建設に就て反省すべき諸点(特に現地において痛感するもの)」と題した大東亜省設置に関する内部文書(外務省外交史料館蔵)で、以下のように述べている。

 「新しい人倫協同の“関係”を成立せしめることが何よりも最大の利益なりと云ふ明確な認識を欠ける為に(中略)現地の生産活動は甚しく妨げられ、住民は生活希望を失つて自棄状態となり、日本の労働生産力を不必要に現地に奪はれ、大東亜全体の労働生産を甚しく低下せしめ、住民をして日本指導の新秩序を甚しく誤解せしめる結果を伴つて居る」

 山崎はここで早くも、大東亜戦争の「失敗の本質」を見抜いている。すなわち、日本が大東亜共栄圏内の住民の人心掌握に失敗し、その結果として圏内各国との協働体制を築けず、人々の希望を失わせ、所期の経済目標を達成できないことで日本によるアジア新秩序建設に疑念を抱かせているということだ。

 大東亜住民と帝国の関係における不成功は、国力を数十倍も上回る米国に日本が無謀な戦争を仕掛けたという表面上の「失敗の本質」よりも、はるかに深刻なしくじりである。なぜなら、たとえ米国に力で押されても、共栄圏内の住民が日本の行動を心から受容して歓迎しておれば、米国は真の意味で日本に勝利できなかったからだ。実際には、ほとんどの地域において日本人は「侵略者」と見なされ、その結果、日本を破った米国が「解放者」と見られるようになった。

 この「心の戦い(心理戦・政治戦)に負ける」という共栄圏の構造的な欠陥は、中国共産党が推し進める「中国夢」や「中華民族の偉大な復興」にも顕在化し始めており、この先に悪化の一途を辿るだろう。

 この稿では一次史料を活用し、日本人にとっては極めて耳の痛い大東亜共栄圏の失敗の実例に迫る。そして、次回にはそれらの失敗と「一帯一路」「中華民族の偉大な復興」を対比させ、「中国夢の失敗」という歴史の必然性を論じ、共栄圏における失敗に学ぶことで、覇権的に膨張する中国の切腹(自滅)を日本が介錯する役割を果たせることを示す。

323NAME:2020/08/29(土) 15:57:39
■ 大東亜共栄圏の理想と現実

 日本の大東亜共栄圏は非常に高い理想を掲げていた。企画院が昭和18年(1943年)に発行した『大東亜建設の基本綱領』と題された宣伝物は、「大東亜経済建設において我が国の要求が全面的に貫徹されなければならないが、さうするとそれは欧米の植民地支配と何等異なるところがないではないか」と自問する。

 その答えとして、「大東亜経済建設は大東亜の民衆は勿論(もちろん)、ひろく全世界の人類に英・米支配とは異る何ものかを與へ(あたえ)なければならない。ここに大東亜共栄圏といふスローガンが高く掲げられ、共存共栄の旗印のもとに新しき道義的な経済秩序の樹立が要請される所以がある」と解説。「大東亜広域経済にあつては利己に非ず(あらず)して共栄が、搾取に非ずして共存が支配しなければならない」と説く。

 そして、「日本の要求は(すなわち)大東亜の要求」であるため、日本は収奪的にはならないと主張する。では、現実はどうであったか。

 前述の山崎靖純は、「法外の価格を以て物資を強制買い上げ」「事実は現地住民の財産没収になりつつある」「主要なる商権を日本人が独占」「通貨(交換)比率に非常な無理を生じ」「日本側商社との半強制的な合弁の形式を以て、事実は現地住民の財産横領にも等しい結果」など、共栄圏の理想が完全なる看板倒れであったことを報告している。

 また、戦前に大阪商船の社長を務め、逓信(ていしん)大臣兼鉄道大臣などを経て昭和17年(1942年)1月にフィリピンの比島方面軍最高顧問に就任、昭和18年(1943年)10月に駐比特命全権大使に任ぜられた村田省蔵が、米軍のフィリピン再占領後の昭和20年(1945年)4月に、避難先の台湾で認め(したため)た「対比政策批判」(村田省蔵著『比島日記』巻末収録)には、以下のようなくだりがある。

 「裏附物資の伴はざる軍票を発行し何等の制限なく一切の支払に充てたること(中略)終(つい)には悪性インフレーシヨンに導くこと当然なり(中略)軍票は遂に貨幣たるの機能を失い、物々交換随所(ずいしょ)に行はれ、民衆ために塗炭(とたん)の苦に陥り餓殍(がひょう、餓死者の死体)途(みち)に横はる(よこたわる)に至る」

 「民衆需要の食糧につき切実なる考慮を払はざりしこと(中略)中央現地共に若し重点を少しく比島の民心把握に置き、作戦と密接な関係あるに思い致さば、此の問題に対する解決自ら(おのずから)他に在りしなるべし」

 「産業の開発に関し(中略)此等計画の多くは気候風土、土質慣習等を無視せる杜撰(ずさん)なるものなりしため(中略)徒(いたずら)に嘲笑の話題を残せしに過ぎず」

 「華僑をして経済機構より離脱せしめ(中略)華僑なき経済市場は混乱そのものと化し去りたり」

324NAME:2020/08/29(土) 15:58:04
■ 失敗の本質は人心掌握の失敗

 このように大東亜共栄圏経済において、「日本の要求は大東亜の要求と同じ」という前提そのものが誤っていたため、当然の結果として共栄圏建設は日本の利己的な搾取と無意味な現地経済の破壊に終わり、各地の生活者にもそのように認識されたのであった。

 これは日本人が直視しなければならない歴史の現実だが、軍事的な敗北以上に、現地の住民を心服させられなかったという心理的・政治的な敗退が大東亜戦争の「失敗の本質」であることがわかる。

 事実、日本占領下でフィリピン大統領を務めたホセ・ラウレルは昭和20年(1945年)3月、村田大使に対して「日本は比島人の心理を握む(つかむ)に失敗せり」と率直な分析を披露している。村田は「対比政策批判」の中でフィリピン人民衆がますます日本に背くと予想し、「之は独り比島のみならず程度の差こそあれ、必ずや普く(あまねく)圏内一般に通ずる」と看破している。

 この認識は、日本の敗戦後の昭和21年(1946年)に、高名な経済学者であるジョン・ケネス・ガルブレイスなどで構成された米戦略爆撃調査団が提出した報告で、日本の中国支配の失敗を分析した次の一文にも共有されている。

 「(日本は)日中戦争を軍事的勝利で、あるいはより重要なことなのだが、政治的勝利で終結させることができなかった」

 この報告書の邦訳は昭和25年(1950年)に、『日本戦争経済の崩壊』と題されて出版されたが、昭和16年(1941年)夏の開戦前夜に総力戦研究所と並んで「日本必敗」の予想を上申した秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)の中心的人物であった有澤廣巳(ひろみ)東京大学教授が序文を寄せ、「私は、これは日本帝国主義の『病理解剖』だと言いたい。(中略)日本の敗因のすべてがここに解剖されている」と述懐している。

 その有澤は、民間研究機関の国策研究会内で戦中に設置された「大東亜問題調査会」において憲法学者の鈴木安蔵とともに嘱託を委任されていたのだが、同調査会では「いやしくも新秩序をスローガンとする日本として帝国主義的形態は採るべきではないが、しからばいかなる形態を良しとするのかについては、学問的にも政策的にも五里霧中というほかはない」という状況で、住民の心理掌握という根源的・戦略的な問題が最後まで解決できなかったのである。

325NAME:2020/08/29(土) 15:58:28
■ 大東亜共栄圏の理想を自ら破砕

 理論上の問題だけではない。寛大さや民度に欠ける日本人は、占領地の住民との良好な関係を築くことに失敗した。これこそが、日本の敗戦を真の敗戦たらしめた原因である。村田省蔵は、「対比政策批判」の中で、次のように報告している。

 「(ラウレル大統領曰く)比島民衆は此三年間多数の日本人と初めて接触し、残忍なる民族との観念を懐くに至れり。日本が掲ぐる被圧迫民族解放の理想は、我等の共鳴措かざる(おかざる)所なるも、軍の行ふところは民衆の生活を顧みず、却って之を不安ならしめ、其(その)結果軍に対する不平不満の声は漸(ぜん)を追ふて全国に溺漫(できまん)す。殊に憲兵及び守備隊の苛察(かさつ)横暴に対する反感は、政府要路の者に至る迄浸潤し、今や到底救ふ可らざるに至れり」

 村田大使も、自身の観察に基づき、次のように問いかける。

 「昼間法規を無視し警官を憚らず(はばからず)横行闊歩(かっぽ)放縦自在の行動に出でしは何人(なんぴと)なりや。言語不通のため偶々(たまたま)意に叶はざれば(かなわざれば)直(ただち)に鉄拳を喰わせ、私刑を加へたるは何人なりや。鉄拳なればまだ可なり比島人の最も嫌悪する平手打を行ひ、終世恨を懐かしめたるは何人なりや。相手の如何(いかん)を問はず、時に衆人環視の裡(うち)に在て婦女子に対して又然り」

 「而も(しかも)其行動の粗野なる甚しきは白昼越中褌(えっちゅうふんどし)一つで大道を闊歩せしものあり、予はこれをマニラ、セブの両市に於て親しく目撃せり、我指導者階級にして比島側の高官巨商と交歓するに当り、孰れ(いずれ)が文化高き東洋一等国民なるかを疑はしむることあり」

 こうした現実は、「大東亜戦争における皇軍の大戦果は、(米・英・蘭をもつて東洋人より一段優る優越者なりと観ずる)妄想を完膚なく破砕し、大東亜の指導者たる皇国の卓越性を、原住民の眼前に立証した」(『大東亜建設の基本綱領』)ことが、束の間の「夢」に過ぎなかったことを物語る。

■  寛大さや品性の欠如、傲慢で自壊した日本

 また、山崎靖純もこう分析していた。

 「(日本人の)文化的・人倫的信念の欠如は(中略)『劣等感』的現象を伴つて居る。即ち、威張ること、抗日転向者を無暗(むやみ)に疑ふこと(彼等が転向する筈はないと自分が自分の文化を疑つて居る事)」

 日本の陸海軍や民間人の戦中の失敗を見れば、寛大さや品性の欠如、傲慢が人心掌握失敗の原因であり、それは日本人自身の自信のなさや劣等感、大東亜共栄圏構想の真理性に対する疑いに起因していたことがわかる。

 そして現在、共存共栄をモットーに実行される中国の一帯一路共栄圏や「中華民族の偉大な復興」も同じような根源的な矛盾を抱えており、現地住民の民心把握に失敗するという傾向が明確に現れていることは興味深い。

 これは、利己的で収奪的な「中華民族の偉大な復興」を一義的な目的とする中国の利益が、一帯一路参加国の利益と一致しないという単純な原因に解が求められる。真の目的が収奪であるため、どれだけ美辞麗句で取り繕っても民心は勝ち取れないのである。(続く)

326NAME:2020/10/14(水) 14:37:27
【戦後75年】 特攻同然に変更「突っ込みます」 サイパンに散った兄17歳
2020/10/14 11:05
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%88%a6%e5%be%8c%ef%bc%97%ef%bc%95%e5%b9%b4-%e7%89%b9%e6%94%bb%e5%90%8c%e7%84%b6%e3%81%ab%e5%a4%89%e6%9b%b4-%e7%aa%81%e3%81%a3%e8%be%bc%e3%81%bf%e3%81%be%e3%81%99-%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%91%e3%83%b3%e3%81%ab%e6%95%a3%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%85%84%ef%bc%91%ef%bc%97%e6%ad%b3/ar-BB19ZMqo

太平洋戦争末期、銃撃隊から急遽、特別攻撃に加わって、17歳で亡くなった少年がいた。「海軍第1御楯(みたて)特別攻撃隊」の高橋輝美飛行兵長。本土に対する爆撃を阻止しようと、B29の発進基地サイパン島を攻撃、未帰還となった。「戦闘機乗りとして、お国のため、家族を守るためにもっと活躍したかったはず」と、残された妹が、戦後75年が経った今もなお、輝美さんの死を悼み、慰霊を続けている。  (高橋義春) 

サイパン復仇攻撃

 香川県常磐村(現香川県観音寺市)出身の輝美さん。農家の三男として生まれ、旧制中学に入学するも昭和18年春、16歳で志願兵として山口県の岩国海軍航空隊に入隊。筑波(茨城県)、大分、台湾などを転戦後、19年11月26日、千葉県の館山基地から硫黄島(給油中継地)に向けて飛び立ち、翌27日、サイパン島に集結していたB29爆撃機を攻撃し、戦死した。

 “サイパン復仇(ふっきゅう)攻撃”ともいわれたというこの作戦。当初の予定では、隊員らは敵爆撃機を銃撃した後、反転し北に位置するパガン島に着陸し、潜水艦による救出を待つはずだったが、上官の一声で特攻同然の作戦に変わった。

 当時の偵察機の電信員がまとめた記録によると、作戦の打ち合わせ終了後、参謀の1人が、零戦隊員らに「パガンに戻るためには、零戦の燃料搭載量ではサイパン上空で5分間しか戦闘行動ができないが、どうするか」とたずねた。「突っ込みます」。隊員らは異口同音に返答したという。

327NAME:2020/10/14(水) 14:37:46
攻撃隊の最年少隊員

 戦闘機(零戦隊)11機による襲撃。しかも全弾撃ち尽くしたあとの捨て身の体当たり戦法は「4機破壊炎上、6機大破、23機損傷」(米側記録)したという。編成時は銃撃隊だったが、特攻同然だった同隊の戦功を全日本軍に知らせるさい、「第1御楯特別攻撃隊」と名付けられた。

攻撃隊の最年少だったという輝美さん。海軍入隊後、手紙で家族の面会を断る代わりに、ほぼ毎月のように父親の喜市さんらあてにハガキを送ったほか、貯金を家族に送金していた。

 《自分の事は何んにも思わないで下さい。どうせ御国の為に打ち捨てた命ですから…。散ったならば喜んで下さい。きっと御家の名を汚さないような立派なる働きをしますから…》 銃撃隊員から特攻隊員となった輝美さんの手紙の一部には、死を覚悟した決意がつづられていた。

 家族のもとに戦死の通知が届いた20年4月、村葬の際、母親のイワさんは参列した記者らの質問に「荒鷲の母です。私は泣きませぬ」と、日本軍の飛行隊の愛称「荒鷲」を名乗って気丈に語ったが、葬儀後、仏間で身をよじるようにして泣いていた。

 輝美さんの妹、岡本喜美子さん(78)=堺市中区=は四男の高橋治さん(90)=滋賀県在住=や姉たちから当時のそんな母の様子を聞かされて育ってきた。輝美さんの出征当時はまだ乳飲み子(8人きょうだいの末っ子)だったが、「最後の最後まで私を背負って、可愛がってくれていたことを母からよく聞かされた」と振り返る。

慰霊は今も続く

 「抗(あらが)うことのできない流れの中にあったとはいえ、兄はなぜ、若くして死を選ばなければならなかったのか」。輝美さんの記憶はまったくないが、戦死の状況を知った小学生のころから遺影を片時も放さず手もとに置き、兄を偲び続けている。 岡本さんは、輝美さんを慰霊する旅にも出かけ、広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)や千葉県館山市の海上自衛隊・館山航空基地(旧館山海軍航空隊基地)などを巡ってきた。

 輝美さんの月命日にあたる平成12年11月27日に訪れたサイパン島では、現地の戦没者慰霊碑に郷里(観音寺市)の地酒や有明浜の小石などを供えて冥福を祈った。透き通った海を見て「こんなきれいなところに兄が眠っているんだと思うとなぜか胸がいっぱいになり、涙があふれてしかたがなかった」と振り返る。

 サイパン島周辺を船で巡る慰霊の際、海中に残る零戦の残骸を見て、「サイパンの 零戦沈みし海原に 亡き兄偲び 鎮魂の旅」という歌を詠んだ。 「戦争さえなかったら」。若くして命を散らした輝美さんをはじめ、多くの戦死者を悼み続ける岡本さんの口癖だ。今も戦没者の魂を慰霊し続けている。

328NAME:2021/08/15(日) 05:19:59
SNSでつなぐ特攻の記憶 「肉声伝える使命」
2021/08/14 20:14
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%ef%bd%93%ef%bd%8e%ef%bd%93%e3%81%a7%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%90%e7%89%b9%e6%94%bb%e3%81%ae%e8%a8%98%e6%86%b6-%e3%80%8c%e8%82%89%e5%a3%b0%e4%bc%9d%e3%81%88%e3%82%8b%e4%bd%bf%e5%91%bd%e3%80%8d/ar-AANjJlF

15日で終戦から76年。戦争体験者らは高齢化し、記憶の継承は年々難しくなっている。元軍人や遺族つくる戦友会でも同じだ。「史実を知ることが平和につながる」と、SNS(会員制交流サイト)で肉声や記憶を伝える組織も出てきた。活動が功を奏し、会員数を伸ばした戦友会もある。

「自己犠牲することは苦しいけど、納得して『棺』となる自分の飛行機に乗るという考えでおりました」。2年前に96歳で死去した元特攻隊員、江名武彦さんが動画投稿サイト「ユーチューブ」で語る。特攻作戦や当時の心境を明かし、「戦友を思うと彼らの鎮魂と慰霊に一生を尽くさなければいけない」と話した。

元特攻隊員や遺族らでつくる「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」(東京)が、数年前に行ったインタビューを昨年、投稿した。今後も投稿を続け、次世代への記憶の共有を模索する。 顕彰会の石井光政事務局長(70)は「特攻について中身まで知る若者は少ない。存命の当事者がほとんどいない中、動画を通じて肉声を伝える使命感があった」と言う。

顕彰会はピーク時には約3700人の会員がいたが、現在は約1400人に減少した。存命する元隊員らは一人また一人と鬼籍に入っていく。20歳前後で戦場に散った特攻隊員は未婚だった人が多かったことも、継承のハードルになっている。

「若い世代が『利他の精神』で亡くなっていった英霊たちのことを、完璧に理解することは難しいと思う。動画でその一端に触れ、少しでも思いをはせてもらえれば」。石井事務局長はそう話した。 先の大戦の激戦地、南太平洋・ソロモン諸島での戦闘に従事した軍人や遺族の戦友会「全国ソロモン会」は、約10年前からSNSでの情報発信を続けてきた。

ツイッターやインスタグラムで遺骨収集などの活動を紹介したところ、この5年間で20〜30代の若い世代を中心に新たに約50人が入会した。祖父や曽祖父が当事者だった人もいるが「戦地で何があったかを学びたい」と、入会を決めた若者も少なくないという。

全国ソロモン会では昨年までに、戦地を知る会員が全員亡くなった。若い世代との接点を持つ意義は、今まで以上に大きくなっている。発信する情報がソロモン諸島の風景や市場の様子など多岐にわたるのは、「敷居が高い」と思わせないための工夫だ。

同会の崎津寛光(かんこう)事務局長(49)はこう話す。「世代交代のときが来てしまったが、史実を知ってもらい平和につなげることが戦友会の役目。英霊たちの存在が、今日の日本につながっているということを知ってもらいたい」(石橋明日佳)

329NAME:2021/08/15(日) 06:22:11
「彼らの犠牲があって今がある」元特攻隊員、千玄室さん
2021/8/14 16:07
https://www.sankei.com/article/20210814-CDZCV7ATWFPDFPKSGEH2V55BYA/

15日で終戦から76年。茶道裏千家前家元の千玄室さん(98)は学徒出陣し、特攻隊員だった過去を持つ。今も亡き戦友の存在を胸に刻み、「彼らの犠牲を忘れないでほしい」と願う。過去を正しく知り、未来に継承することが、今を生きる人の責務だと考えるからだ。

同志社大2年だった昭和18年、海軍に入隊。戦況が不利になった20年3月、配属されていた徳島航空隊でも特別攻撃隊が編成されることになった。 ある日、上官から1枚の紙を渡された。そこにあったのは「否・希望・熱望」の3つの選択肢。千さんはその日のうちに、「熱望」に二重丸を書いて提出した。「死にたくねえなあ」とこぼす同期もいた。

「死ぬ覚悟はできていました。でも当時は20、21歳の青二才。『死』の本質は分からなかった」。トルストイの「戦争と平和」を読んだり同期と語り合ったりしたが、死の意味について誰もが納得する答えを導き出せた仲間はいなかった。

同期約3300人のうち、400人超が特攻などで散った。出撃を前に涙ながらに「お母さん」と叫んだ声、敵艦に体当たりするときの「ツー」という最期の電信。強烈な体験は今も脳裏を離れることはない。

沖縄への出撃命令を待ちながら終戦を迎えた千さん。「生き残ったことはじくじたる思いだった」と話す。

戦後、当時の上官に会う機会があった。「私になぜ待機命令が出たのですか」。そう尋ねた千さんに上官は「天命だと思いなさい」と答えた。以来、自分に課せられた意義を問うようになったという。

平和は、願ったり叫んだりしてもやってはこない。どうすれば次の世代につなぐことができるのか。重みを痛感する毎日だ。「彼らの犠牲があって、今があることを忘れてはいけない」。涙を浮かべて訴えた。

330NAME:2021/08/16(月) 02:42:40
血で染まった甲板、母親の目の前で冷たい海に消えた子供たち…1700人もの命はなぜ奪われてしまったのか
早坂 隆 2021/08/15 17:10
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e8%a1%80%e3%81%a7%e6%9f%93%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f%e7%94%b2%e6%9d%bf-%e6%af%8d%e8%a6%aa%e3%81%ae%e7%9b%ae%e3%81%ae%e5%89%8d%e3%81%a7%e5%86%b7%e3%81%9f%e3%81%84%e6%b5%b7%e3%81%ab%e6%b6%88%e3%81%88%e3%81%9f%e5%ad%90%e4%be%9b%e3%81%9f%e3%81%a1-1700%e4%ba%ba%e3%82%82%e3%81%ae%e5%91%bd%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%a5%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b/ar-AANkNY5

「助けて!」北の海に響いた子供の絶叫、千切れた手足はカマス袋に…「北海道にたどり着けなかった」人々を襲った「不条理な暴力」 から続く

 2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦直後、樺太(サハリン)から引き揚げる途中の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が旧ソ連軍の潜水艦に相次いで攻撃を受け、1700人余りが犠牲となった三船遭難事件も、その一つである。  昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『 大東亜戦争の事件簿 』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。

 第二号新興丸の航海士だった中沢宏は、船が留萌港に入ってからも、すぐには下船せずにそのまま船上に残っていた。その時、中沢は不意に遠くの海上から砲声を聞いた。艦橋から双眼鏡を覗(のぞ)くと、日本の船舶が自分たちと同じように潜水艦に襲撃されている光景が目に入った。 この船が「泰東丸」であった。 泰東丸は本来、貨物船である。しかし、大泊港に避難民が溢れている状況を受けて、引揚船に転用されたのだった。

泰東丸が大泊港を出港したのは、21日の午後11時頃である。泰東丸は三船の中で最も軽量な約880トンという小型船だったが、そこに約780人もの人々が乗船していた。 船倉には米などの食糧が大量に積まれていた。南樺太からの引揚者の受け入れ先となっていた北海道でも、食糧不足が深刻化していたためである。 積荷を満載した泰東丸には、乗客のための空間はほとんどなかった。そのため、引揚者たちは甲板にゴザを敷くなどして過ごしていた。泰東丸も稚内には寄らず、小樽に直行する予定だった。

331NAME:2021/08/16(月) 02:43:00
出航から一夜明けた朝、海上の「異様な光景」

 この泰東丸の乗客たちが異変に気づいたのは、出航から一夜明けた22日の午前9時頃である。その異変とは、海上に大量の浮遊物が漂流している異様な光景であった。浮遊物の中には、リュックサックや子供用の水筒なども混ざっていた。 それらは攻撃を受けた第二号新興丸からの漂流物であった。そして、ついには傷ついた遺体までもが、いくつも発見されるようになった。第二号新興丸の悲劇など知る由もない泰東丸の乗客たちは、深刻な不安と恐怖に駆られた。 そんな泰東丸の前に潜水艦が出現したのは、午前9時40分頃のことであった。場所は留萌小平町の沖西方約25キロの辺りである。甲板にいた乗客たちから、「潜水艦だ!」との声が次々とあがった。

破壊されたボイラー、血で染まった甲板、乗客たちは海へ…

 すると、その潜水艦はすかさず泰東丸に向かって砲撃を開始。泰東丸の周囲に複数の水柱が立った。 船長の貫井慶二は、すぐにエンジンの停止を機関室に命令。さらに、白いシーツやテーブルクロスを白旗として掲げ、船として戦う気がないことを明確に示した。特設砲艦である第二号新興丸とは異なり、泰東丸には13ミリ機銃が船首に一丁装備されているだけで、反撃する能力などは有していなかった。 白旗を提示した船舶への攻撃は、国際法で禁じられている。しかも、戦争自体がすでに終結しているはずであった。 しかし、潜水艦からの砲撃は継続された。そしてついに、一発の砲弾が泰東丸の船腹を直撃。船体は大きな衝撃に包まれ、破壊されたボイラーから蒸気が一挙に吹き上がった。 その後、延べ十数発もの砲弾が泰東丸に撃ち込まれ、機銃掃射も行われた。まったく無抵抗の船への攻撃は一向に終わらなかった。 貫井船長は「全員退船」の命令を発したが、甲板は人々の血潮で紅く染まった。乗客たちは意を決して海に飛び込んだ。潜水艦はやがて姿を消した。

母親の目の前で力尽きた子供たち

 4人の子供の母親である鎌田翠は、母子5人で板切れに摑まって波間に浮いていた。しかし、力尽きた子供たちは1人、また1人と暗く冷たい海中へと消えていった。子供たちが抱えた恐怖、そして母親の無念はいかばかりだったであろう。 泰東丸の船体は、右舷側に大きく傾斜。最後は横倒しになるようなかたちで、轟音とともに沈んでいった。沈没の際に生まれた激しい渦によって、船体の周囲にいた人々は引っ張り込まれるようにして運命をともにした。

 船首に備えられていた機銃とその台座も漂流していたが、そこには十数名もの人々がしがみついていた。人々は胸まで海水に浸かりながら、立ち続けているような状態だった。 その中に1人の憲兵がいた。その憲兵は背中に重傷を負い、別の人にずっと寄りかかっていた。しかし、やがてその憲兵は、「もうこれ以上、迷惑はかけられない」と言い残し、自ら手を放して暗い海中に沈んでいったという。

 その後、漂流する生存者たちを救出したのは、たまたま近くを通りかかった機雷敷設艇「石埼(いしざき)」だった。石埼の乗組員たちは、一人でも多くの人命を助けようと懸命の救助活動にあたった。 泰東丸における犠牲者の数は、667名とされている。死亡率はほかの二船と比べても圧倒的に高い。 船長の貫井もその1人であった。

332NAME:2021/08/16(月) 02:44:53
我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こた母親の遺体

 以上が留萌沖で起きた「三船殉難事件」の実態である。 このような事件の発生を知った地元の漁師たちの中には、「こんなことが許されてたまるか」とすぐに船を出して、漂流者の救助にあたった者たちもいた。自身が攻撃される危険も考えられたが、(放っておけない) との思いからの行動だった。 漁師たちは遺体の収容にも努めたが、それらの中には我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こしている母親の姿もあったという。

 これら三船の殉難事件により、じつに延べ約1700人もの人々が犠牲となった。 改めて記すが、これは終戦後の話であり、しかも船はいずれも民間人を乗せた引揚船であった。 事件発生の一報は、札幌の第五方面軍司令部にも伝えられた。第五方面軍司令官・樋口季一郎陸軍中将は、すぐさま事件の詳細に関する徹底的な調査を命令。さらに大本営に事件の発生を伝え、連合国側を通じてソ連に「戦闘停止」を求めるよう要請した。 樋口からの要請を受けた大本営は、フィリピンのマッカーサー司令部に状況を伝えた。しかし、マッカーサー司令部からの返答はなかったとされる。

潜水艦の正体

 戦後の日本社会において、この事件が十分に語り継がれることはなかった。独立回復後も、日本政府の対応は緩慢だった。 昭和37(1962)年、留萌市の海を見渡す丘の上に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたが、これは地元の人々や引揚団体の募金活動によって建てられたものであった。

 昭和42(1967)年、北海道は厚生省(当時)の依頼に基づき、三船の遭難者名簿を作成。しかし、名前や年齢といった基本的な項目に間違いが多く発見されるなど、杜撰(ずさん)な作業と言わざるをえない内容だった。 昭和49(1974)年には、厚生省が泰東丸の捜索を防衛庁に依頼。海上自衛隊の掃海艇が投入されたが、船体を発見することはできなかった。翌年以降も捜索は継続されたが、昭和54(1979)年を最後に厚生省はこの計画を断念した。 そのあとに独自の活動を続けたのは、樺太からの引揚者などから成る社団法人・全国樺太連盟であった。

 昭和56(1981)年には、地元の漁船が一隻の沈没船を発見。その後、全国樺太連盟が海中調査を進め、その沈没船が泰東丸である可能性が高いことを公表した。しかし、現在に至るまで、同船は海底から引き揚げられていない。 総じて同事件に対する日本の国家としての姿勢には不満が残る。詳細に関する徹底調査や、船の引き揚げ作業、ソ連(ロシア)側への抗議など、いずれも不十分と言わざるをえない。歴代政府は、抗議どころか、潜水艦を「国籍不明」と位置付け、曖昧な姿勢をとり続けてきた。

 しかし、平成4(1992)年、秦郁彦拓殖大学教授(当時)の調査により、ソ連国防戦史研究所の回答を得た結果、三船を攻撃した潜水艦がソ連軍に属したものだったことが立証された。公式の文書によって、三船を攻撃したのはウラジオストクを拠点とするソ連海軍第一潜水艦隊所属の「L-12」ならびに「L-19」であると確認されたのである。 ちなみに、潜水艦L-12の艦長であったコノネンコという人物は、ウラジオストクに帰還後、ソ連国内で「英雄」とされ、今に至っている。

333NAME:2021/12/10(金) 01:07:05
太平洋戦争「アジア栄えさせるため」 元議員の学長、高校講演で発言
朝日新聞社
2021/12/09 21:06
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%a4%aa%e5%b9%b3%e6%b4%8b%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e6%a0%84%e3%81%88%e3%81%95%e3%81%9b%e3%82%8b%e3%81%9f%e3%82%81%e3%80%8d-%e5%85%83%e8%ad%b0%e5%93%a1%e3%81%ae%e5%ad%a6%e9%95%b7%e3%80%81%e9%ab%98%e6%a0%a1%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%81%a7%e7%99%ba%e8%a8%80/ar-AARDUZ9

元自民党衆院議員で文部科学副大臣などを務め、現在は九州国際大学(北九州市)学長の西川京子氏(76)が、10月に熊本県立高校であった講演会で太平洋戦争について「アジア全体を栄えさせ、独立させるための戦いだった」という趣旨の発言をしていたことがわかった。9日の県議会一般質問で取り上げられ、県教育委員会の古閑陽一教育長は事実関係を認め、「政府見解や学習指導要領とは一部異なる内容があった」との見解を示した。 九州国際大は朝日新聞の取材に、「学長が不在で取り次ぐことができない」としている。

 県教委や高校によると、講演会は10月8日、県立御船高校の創立100周年記念行事として行われ、全生徒約490人らが体育館やオンラインで聴いた。西川氏は約1時間の講演の中盤で、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼称した上で、その正当性を主張したという。

 講演会は同窓会や保護者会、学校職員でつくる実行委が主催。当初は元プロ野球選手を講師に予定していたがキャンセルとなり、同窓会長への一任で西川氏が選定された。学校は事前に講演内容を把握していなかったという。

 県教委は共産県議の指摘を受け、11月から同校を通じて教職員計約10人への聞き取りを実施。西川氏の発言は、日本のアジア諸国への侵略や植民地支配を認めて公式に謝罪した「村山談話」や、日本がアジアの人々に多大な損害を与えたなどとする中学校の学習指導要領と照らし、「説明が不十分だった」と判断した。

334NAME:2022/01/04(火) 07:26:57
「豪州兵と斬り結んだ白兵戦」
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100510_00000
[6] チャプター6 銃剣で突き合う白兵戦

ああ、その後で、退路を遮断して、それで大砲を撃ちかけた、逃げてくる、逃がすまいで、それをこう撃ち倒していると。両方撃ちあうと向こうもたまらんから引き返す、で、また出てくる。また撃ち返す。引き返す、また出てくる。これをもう4回繰り返したんですね。でも、4回目にはこっちもパーに。夕方近くなったからね。こっちも極端に言うと、磨り減ってなくなって、皆やられた。そういうことです。ただいえることは、これは余談になりますが、わたしの小隊長が自分の陣地から4、5m前へ進んだところで、向こうに撃たれて死んだわけです。その死骸を誰もやろうとしないから、わたしがこわごわ死骸を引っ張りに行った。ところが、それに対してオーストラリア兵は見えているはずです。当然、わたしが。ということは、戦後わたしそこに行って巻尺で、自分でいた穴、小隊長埋めたところ、それから敵の幕舎、そういったものを全部巻尺で計って、地図を作ったんです。それで見ると、なんとわたしのいた場所と敵の幕舎の間は26mしかないんです。それで幕舎逃げるわけない、幕舎から前に出てますから、向こうさんがそれよりもっとわたしたちに近いほうにいるわけです。で、小隊長も4、5m前に出ているから、少なくともその距離は20mもないはずです。だから見えているはずです。ジャングルの中だけれどね。だけど、一発も撃って来なかったんです。撃たれたらイチコロです。わたしも撃たれたらもう、そのときはそのときだと覚悟決めて行ったわけです。だけど、撃ってこないということは、「ああオーストラリア兵は武士道精神があるんだな」と、そう思ったんです。その証拠に、小隊長の負傷体を引っ張ってきて、それで中隊の指揮官に連絡とって、衛生兵に来てもらって、それで衛生兵と二人で小隊長の着ている服を全部脱がして裸にして、どこやられたか調べて、で、衛生兵は傷口を死んでいるのにきれいに消毒して、包帯をまいて、それから二人でまた服を着せて、それから埋めるのはお願いします、って言って衛生兵の上等兵は本部に引き返したんです。引き返したと同時にものすごく撃ってきたんです。だから向こうは見ていたんです、小隊長を埋めて、始末するまで。埋め終わると同時に、ものすごく撃ってきました。まぁそれで、わたしもやられたんです。

335NAME:2022/07/24(日) 23:58:52
武田邦彦氏が指摘。多くの日本人が知らない対米戦争の「事実」
2022.07.19
by 武田邦彦『武田邦彦メールマガジン「テレビが伝えない真実」』
https://www.mag2.com/p/news/545833

先の参院選に参政党の比例代表候補として出馬した中部大学元教授の武田邦彦さんは、遊説をしていて多くの日本人がさまざまな「事実」を間違って覚えていて、そのために意見がまとまらないと感じたそうです。そこで、今回の『武田邦彦メールマガジン『テレビが伝えない真実』』では、日本とアメリカの戦争について、改めて武田さんが認識している「事実」を伝えています。戦争が始まった理由については、白人相手の外交の初歩とも言えることへの不理解があったとし、ウクライナ戦争での対ロシア外交にも通じる問題だと指摘しています。

「戦争」ではなく「虐殺」だ。日本人が知らないアメリカ戦争の事実

参議院議員選挙を経験してみると、ほとんどの日本人が「事実」を間違って覚えているので、意見がまとまらない。もしかすると日本人の真面目さと長い間の日本の歴史から言って、「本当のこと」をみんなが理解していれば、争いのない、勢いのある日本になるのではないか!と思った。 今回はその第1回で、「日本とアメリカの戦争」について簡単にまとめてみたい。

(1)なぜアメリカとの戦争になったのか?

多くの日本人が、なぜアメリカと戦争になったと考えているかというと、イ)日本が軍国主義だったから、ロ)真珠湾攻撃をしたから、と思っている。でも本当はもっと簡単な理由だ。

戦争になったのは、イ)アメリカも日本も中国を狙っていた、ロ)日本が先に中国に進出した、ハ)アメリカが中国の鉄道の利権をよこせと言ったのを日本が拒否した、二)日本はアメリカから石油の77%、鉄鋼の70%を買っていた、ということだ。

アメリカは「金がすべて」の国だから、お金さえ渡せば問題は無くなる。ところが日本人は「正義」が頭をよぎるので、「日本人が血を流して満州を取ったのだ」、「北中国(北支)も日本が戦って取ったのだ」と思っていたから、アメリカからの横やりに腹を立てた。

白人相手の外交は「損得」で決まり、決まった後「正義」の衣をかぶせる。そんな初歩的なことも当時の日本人には分からなかったのだ。それは今でも同じで、国際紛争や外交の問題が起きると、すぐ「正義」で頭が熱くなってしまう。

ウクライナ戦争もそうだ。ロシアがウクライナに侵入したと報じられるとカッとなる。カッとなってロシアを激しく非難するものだから、事実が次第に明らかになって、本当はウクライナが仕掛けたことが分かっても、振りかざした拳(こぶし)を下ろすことができずに、「ロシアが悪い」に一辺倒になり、円は安くなるし、石油は高くなってしまう。オッチョコチョイなのかもしれない。

アメリカとの戦争も同じだった。アメリカが欲しがったのは、中国の鉄道利権だけで、その他は日本でよいという感触だった。それは中国利権の一部にしかすぎず、戦争などになることはなかった。その前に日本は満州国の問題で国際連盟を脱退しているが、もともとアメリカは国際連盟には参加していないのだから、それも問題はない。

日本は正義とか恩とかを問題にするけれど、アメリカ人は歴史も浅く、「お金」がすべてだ。表面上は「正義、自由」などと言うのでついついそれに気を取られるが、実際のアメリカの行動はお金だけだから、本当はわかりやすい。

336NAME:2022/07/24(日) 23:59:05
(2)戦争はアメリカだけが相手ではなかった

これも日本の教育が間違っていて、先の戦争はアメリカとやりアメリカに負けたと思っている日本人が多いが、実際には、戦ったのはアメリカとイギリス、オランダ、それに白人側に寝返った中国(白い中国という)だった。

そして、イギリス、オランダには完勝し、中国には圧倒的に優勢だった。アメリカとは戦争の後半、太平洋の海洋戦で敗れ、劣勢になったが、最終的な勝敗は不明のまま終わった??というと、ほとんどの日本人はびっくりするし、なにか誤魔化そうとしていると思う。洗脳とは恐ろしいものだ。
(3)アメリカとの戦争は終わらなかった

「戦争」とは「軍隊と軍隊」が戦うものであり、「軍隊が丸腰の市民を殺す」のは戦争ではなく、虐殺である。アメリカとの戦争は、1945年3月のルソン島(フィリピン)と硫黄島の戦いが最後で、4月1日に始まった沖縄戦は「戦争」と呼べるものではない。

つまり、軍隊と軍隊が戦う普通に言う「戦争」は3月17日の硫黄島の日本軍玉砕が最後で、そのあとは日本軍とアメリカ軍の戦闘は部分的なもので、アメリカ軍は日本軍を攻めなかった。

3月10日の東京大空襲から、アメリカ軍は日本軍とは戦わず、もっぱら日本の婦女子(非戦闘員)を標的にして襲った。このようなことは日本ではほとんどないが、ヨーロッパのように残虐な民族では時々起こっている。その多くは宗教的なものを含んでいて、例えば十字軍によるコンスタンチノーブル荒凌や聖バルテルミーの虐殺などが有名──でも戦争ではなく虐殺に分類されている。戦争は残虐にならないようにルールがある。

(『武田邦彦メールマガジン『テレビが伝えない真実』』2022年7月15日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)

337NAME:2023/03/31(金) 01:38:57
アジアを奮い立たせた勝利 「太陽の国が、明るい光を与えた」
2018/8/5 07:00
https://www.sankei.com/article/20180805-DNA3PKZDBVJAPIDOHMM3RK6L3I/3/

ロシア皇帝ニコライ2世がアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋(あっせん)を受け入れ、日露講和のポーツマス条約が調印されたのは、日本海海戦からほぼ3カ月後の9月5日である。

 近代戦で初めて、有色人種の国家が白色人種の大国を独力で打ち破ったのだ。日本の勝利は、欧米列強の植民地だったアジア諸地域の人々に、独立への勇気を与えたといえるだろう。

 インドネシアの高校歴史教科書(2000年版)には、こう書かれている。 「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。(中略)太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである」(※3)

 一方、欧米列強では、フランスやドイツなどで日本を脅威とする黄禍論が高まった。ことに日露の仲介役を務めたアメリカは、日本に肩入れすることで満州利権に食い込む思惑もあったが、あてが外れたため次第に日本をライバル視する傾向が強くなる。講和から36年後、セオドア・ルーズベルトと同じファミリーネームをもつ米大統領が日本に強烈なしっぺ返しをするのだから、歴史は皮肉なものだ。

 日本国内でも、勝利の余韻は長く続かなかった。講和条約でロシアから賠償金を取れなかったことに国民は猛反発し、暴徒が内務大臣官邸などを襲う日比谷焼打事件が発生。巨額の債務の穴埋めと国民の批判をかわすため、政府は以後、対外強硬路線に傾くようになる。

 日露戦争の勝利により、日本は列強の一員として歩み出した。しかしそれは、新たな国際摩擦への一歩でもあった。 裕仁親王、4歳の夏である--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

338NAME:2023/05/13(土) 22:17:46
太平洋戦争で旧日本軍が「緒戦に連戦連勝を重ね、後半に至り増長し始めた」という説明は事実でしょうか?
自衛隊上がりの方など、そう仰っている方を結構見かけます。

しかし、アメリカの強大さなど旧日本軍とて百も承知だったはず。そんな単純に増長するほど旧日本軍は愚かだったのでしょうか? (もちろん、アメリカ相手に真珠湾攻撃という結果的に奇襲となる形で戦争を仕掛けたこと自体は愚かだったと思います)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1181534011

アサノ ヒカリさん 2012/2/16 12:51

「緒戦に連戦連勝を重ね、後半に至り増長し始めた」についてですが、戦争後半と言うより戦争序盤の昭和17年春頃は日本中が戦勝気分に浮かれていました。無理も無い事です・・・実際に占領地はどんどん拡大し、戦果もほぼ間違いの無い物でしたから。実際にはアメリカに対しては日本は大きな脅威を持っていました。それは開戦以前の幕末の「ペリー来航」以来ずーとだったのです。しかし覚悟して実際にやってみたら「何だ!結構弱いじゃないか」と初戦で思ってしまったのです。そして日本の開戦にあたっての戦略眼はけっして間違った物ではありませんでした。開戦から約半年の間に北はアリューシャン南はビスマーク諸島、西はシンガポールまで勢力下に収めたからです。実に地球の面積の十分の一広さが日本の勢力下になったのです。

増長していたのは陸軍より海軍の上層部でした。国民の間にも「勝利」に浮かれる気分が蔓延し、それまで反戦派だった知識人にも軍を賛美する人も出て来たのでした。 しかし、アメリカの強大さなど旧日本軍とて百も承知だったはず。についてですが開戦直前の「総力戦研究所」いわゆる「総研」の戦争の推移に関する報告書では「敗戦」は予見されていました。その報告会の席上では居並ぶ戦争指導者達は黙って聞いていたそうです。 そんな単純に増長するほど旧日本軍は愚かだったのでしょうか?についてですが決して日本の兵士達が愚かな訳ではありません。軍の上層部があまりにも頑迷で無知だったのです。愚かだったのは軍を指揮する者達であって将兵は世界に比類なき程に勇敢で優秀だったのは当時の敵国も認めている事です。

何故アメリカ相手に戦ったか?それは当時の状況を知らなくてはいけません。私自身は「自衛戦争」とか「戦うも亡国戦わないのも亡国、されば戦って亡国の道を」とも言いません。 歴史を詳しく知る必要があります。もしあなたが他の会社の人間に「お前の会社の全て俺達に渡せ、そこで得た収入も全部だ。後は家に帰って自給自足で生活しろ」と言われたらどうしますか?驚きより怒りが先に立つ筈です。そうなんです!明治建国以来に築いた権益を全て放棄しろ!と言われたら「ハイそうですか」とはなる訳が無いのです。欧米諸国はアジアに植民地を築き膨大な権益を得ているのですから「お前に言われたく無いよ!」ってなりますよね? 奇襲となる形で戦争を仕掛けたこと自体は愚かだったと思います。についてですが、もしハワイを攻撃しなかったら戦前の構想の様に「艦隊決戦」になって日本は早々に敗北したでしょうね。

339NAME:2023/05/13(土) 22:18:01
ID非表示さん 2012/2/20 21:30(編集あり)

日英同盟が破棄されて以降、日本は単独で陸軍は世界最大の陸軍国ソビエトを、海軍は世界最大の海軍国米国をそれぞれ仮想敵国とせざるを得ない状況になりました。

昭和10年頃以降、陸軍は、満ソ国境で急速に増強されるソ連軍と対峙し、彼我の戦力格差が年々拡大する事態を憂慮し、しかも、兵力的に優勢を維持できない事実も認めざるを得ませんでした。海軍も、米国の大建艦計画を前に陸軍と同様の状況でした。陸海軍とも、自軍を取り巻く軍事バランスが我に不利であることは百も承知であり、帝国国防方針では先制攻撃、短期決戦を戦争ドクトリンとし、国家総力戦、総力戦は務めて避ける事としておりました。つまり、仮想帝国に対して陸海軍とも、国家総力戦、長期戦となった場合に勝算はないことを重々承知していたのです。

太平洋戦争を開戦するに当たり、陸海軍が持った明確な作戦計画は第一期作戦(南方資源地帯の占領)だけで、その後の計画は不明瞭でした。「戦いつつ国力を増強し、長期不敗の態勢を構築し、ドイツと共同で英国の脱落を図り、講和に持ち込む。」という具体性に欠けるものでした。これは最初から米国本土を占領して敵を降伏させるという軍事力がないことを確信していたからです。

第一期作戦は予想以上の成功裏に終了し、陸軍は作戦兵力のうち、占領地の治安維持に必要な兵力以外を懸案事項であった支那事変解決のため、ビルマおよび大陸へ転進させました。これより以降、太平洋戦争は帝国海軍対米国となったのです。海軍は第二期作戦(ミッドウェー、フィジー・サモア。ニューカレドニア攻略作戦など)を実行に移しました。目的は米国艦隊主力の撃滅および豪州を離脱させる事でした。その緒戦であるミッドウェー、ソロモン、ニューギニアで躓き、この時点で、日本の帝国国国防方針が破たんしたのです。

帝国国国防方針は攻勢のみを想定し、守勢の文字は全くありませんでした。これ以降、日本は有効な戦争ドクトリンのないまま敗戦の深みにはまっていくことになったのです。太平洋正面は海軍の担当でしたが、この区分けは攻勢時のみ機能しましたが、海軍が攻勢作戦不能となり守勢に回ると要地防衛戦が主体となっていきます。そこで、陸軍部隊が泥縄式に準備もなく派遣されました。陸軍は南方の戦場も、海上機動も、対米戦も想定しておらず、米軍に対する認識も欠いていました。

たしかに、陸軍主流は米軍をなめていた節があります。これは、第一次世界大戦で観戦武官が報告した米軍の戦闘能力は極めて低いもので、それはその時点では事実でしたが、これが陸軍の米国陸軍に対する強い印象として刷り込まれ、その後の米軍の進化を見過ごす事につながりました。しかし、日本陸海軍は終始増長はしていなかったと思われます。むしろ、自らの非力さと敵の強大さに怯えていたとするのが真実ではないでしょうか。それ故に、身の丈以上に乾坤一擲の攻勢作戦、短期決戦にすがったのでしょう。

陸軍については蓋を開けてみれば、全くの別世界で戦う羽目になり、持てる力すら発揮することなく潰えていったのです。力こそ正義が国際ルールだったあの時代に、昭和期の大日本帝国は独力では、その首都を占領して城下の誓いをさせる事が出来ない強大な国を敵として向かわなければならない悲しい定めから逃れる事は出来なかったのです。これを愚かな姿と笑えるでしょうか。

340NAME:2023/08/10(木) 03:12:33
未来の子供たちに謝罪の宿命を背負わせてはいけない=安倍首相
2015年8月14日7:58 午後8年前更新
ロイター
https://jp.reuters.com/article/abe-ww2-press-idJPKCN0QJ12X20150814
8月14日、安倍晋三首相は午後発表した戦後70年の安倍首相談話について、「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。写真は、会見する安倍首相のテレビニュース画面、14日撮影(2015年 ロイター/Thomas Peter)

[東京 14日 ロイター] - 安倍晋三首相は、14日午後発表した戦後70年の安倍首相談話について、「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。

先の大戦への「おわびの気持ちを引き継いでいく」と述べるとともに、「戦争とかかわりのない未来の子供たちが謝罪を続けないといけない宿命を背負わせてはいけない」と訴えた。

今回の談話で焦点である「植民地支配」や「侵略」「おわび」と言った文言について、1995年の村山富一首相談話や2005年の小泉純一郎首相談話とは異なる形で表現された。安倍首相は「戦後80年、90年、100年に向けて、日本が目指すべき国家像をできるだけ多くの国民と共有できるように談話を作成した」と説明した。 

また「おわびの気持ちは戦後の内閣が一貫して持ち続けてきた」とし、「私の内閣でも引き継いでいく」と強調した。 「侵略」については、談話のなかで「事変、侵略、戦争」との語を列挙した点に触れ、「どのような行為が侵略かは、歴史家に判断をゆだねるべき」と述べるにとどめた。

中国に対して「安倍談話をありのまま受け止めて欲しい」と指摘。「中国とは関係改善していくことで一致している」「中国に対して日本の対話のドアは常にオープン」と強調し、機会があれば日中首脳会談を実現したいとの意欲を強調した。 安保法案について「特定の国を想定したものでない」とした。同時に「ウクライナや南シナ海、東シナ海などで、力による現状変更は許すことできない」とも指摘した。

341NAME:2023/08/10(木) 03:12:49
2015年8月14日6:43 午後8年前更新
戦後70年談話、「謝罪の宿命背負わせてはならない」
https://jp.reuters.com/article/abe-statement-postwar-idJPKCN0QJ0UH20150814

[東京 14日 ロイター] - 安倍晋三首相は14日、戦後70年談話を発表。先の大戦に関わりのない子孫やその先の世代には、「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とする一方、「謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と強調した。

焦点の1つだった「おわび」の表現については、歴代内閣がこれまで「痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた」ことを踏まえ、こうした立場は「今後も揺るぎない」とした。 過去の行いについて「事変、侵略、戦争」の3つを挙げ、今後いかなる武力の威嚇や行使も二度と用いてはならないとの決意を表明。罪もない人々に「計り知れない損害と苦痛」を与えた事実を直視し、戦争で命を失った人々に対する「痛惜の念」を表した。そのうえで、植民地支配から永遠に決別することを誓った。

<不戦のメッセージを強調>

安倍首相は記者会見で「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。 焦点だった「植民地支配」や「侵略」「おわび」などの文言について、今回の談話では1995年の村山富一首相談話や2005年の小泉純一郎首相談話とは異なる形で表現された。首相は「戦後80年、90年、100年に向けて、日本が目指すべき国家像をできるだけ多くの国民と共有できるように談話を作成した」と説明。

また「おわびの気持ちは戦後の内閣が一貫して持ち続けてきた」とし、「私の内閣でも引き継いでいく」と述べた。 「侵略」については、談話のなかで「事変、侵略、戦争」との語を列挙した点に触れ、「どのような行為が侵略かは、歴史家に判断をゆだねるべき」と述べるにとどめた。

中国に対しては、「安倍談話をありのまま受け止めて欲しい」と指摘。「中国とは関係改善していくことで一致している」「中国に対して日本の対話のドアは常にオープン」と強調し、機会があれば日中首脳会談を実現したいとの意欲を強調した。

安保法案について、安倍首相は「特定の国を想定したものでない」と語り、同時に「ウクライナや南シナ海、東シナ海などで、力による現状変更は許すことできない」とも指摘した。

今回の談話では、国際秩序への「挑戦者」となってしまった過去を胸に刻み、今後は「積極的平和主義」の旗を掲げ、世界の平和と繁栄に貢献する考えを示した。 また、女性の人権についても触れ、戦場の陰で「深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも忘れてはならない」とし、21世紀は女性の人権が傷つけられることのないよう世界でリーダーシップを発揮することも盛り込んだ。 また、戦後50年の村山談話と同様、唯一の戦争被爆国として「核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指す」方針も示した。

342NAME:2023/08/10(木) 03:13:19
2023年8月9日(水) よる11時〜
BS朝日「レジェンドキュメント 〜今、このドキュメンタリーを見よ!〜」
https://newscast.jp/news/3839016
https://www.bs-asahi.co.jp/legendocument/lineup/prg_049/

#49 宿命と、忘却と〜“たった70年前”の戦争〜
2023年8月9日(水) 戦争を引き起こした
石川県かほく市の坂本信一さん、93歳。胸の内には、痛恨の思いがある…
1944年9月、中国共産党が宣伝工作に来ているとの情報を得て、集落で中国人の若い男を捕まえた。中隊長は青年をスパイとみなし、坂本さんに処刑を命じた。軍隊生活で人を殺したのは、初めてだった。
亡き妻の墓前で彼の胸にこみあげる思いとは。
殺害体験を語る全国の証言者を通して、語り継がれなかった戦争を考える。

【初回放送】北陸朝日放送:2016年3月27日

343NAME:2023/08/16(水) 00:13:09
タイ国王の「友好の絆」忘れるな ジャーナリスト・井上和彦
2016/11/22 09:46
https://www.sankei.com/article/20161122-2JZDG7FWJBIQNFRD7OLHAXK3EY/

タイのプミポン国王が10月、88歳で逝去した。70年前の1946(昭和21)年に即位。日本の戦没者へひとかたならぬ思いを寄せ、皇室との深い関係を築いてきた国王だけに、惜しまれてならない。日本がアジアに果たす役割を高く評価し、日本を支持してきたのがタイである。両国がいかに親密な関係にあったかを、現代史から探ってみたい。

 ≪列強のアジア進出に共に戦う≫ 《日本国及「タイ」国ハ相互ノ独立及主権ノ尊重ノ基礎ニ於テ両国間ニ同盟ヲ設定ス》。昭和16年12月に締結された「日泰攻守同盟条約」(日タイ軍事同盟)の第1条である。その成立過程では、日本軍のタイ進駐が先行したため両軍の間で小規模な戦闘もあったが、条約締結後は同盟国として大東亜戦争を戦った。タイ政府は、翌年1月に米英に対して宣戦布告し連合軍と戦闘状態に入っている。しかし、こうした事実は今ではほとんど忘れられているようだ。

 大東亜戦争前夜、アジア全域は欧米列強の植民地であり、独立国は日本とタイだけだった。欧米列強の侵略を阻止・追放するには日本とタイが共闘することが不可欠であり、つまり日タイ同盟は「最後の防波堤」だったのである。

タイは同盟締結前から日本を支持してきた。満州国をいち早く承認し、満州国をめぐる問題についてリットン調査団が提出した報告書の同意確認でも、42カ国が賛成したなかで棄権票を投じている。

 またタイは、日本がABCD包囲網で兵糧攻めにあっていたとき、生ゴムと綿を日本に供給した。この決断をしたのが当時のピブン首相だった。同盟が締結されるや、ピブン首相は中国国民党の蒋介石に対して「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」という勧告の電報を打っている。(『アジアに生きる大東亜戦争』展転社)

 ≪「身を殺して仁をなした日本」≫ タイ国民の中には、同国に進駐した日本軍を「占領軍」とみなした人もいたようだ。しかし、後に首相となるククリット・プラモード氏は、自らが主幹を務めたサイヤム・ラット紙に戦後、次のように書き記している。 《日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである》

344NAME:2023/08/16(水) 00:13:59
タイには『クーカム』というドラマがある。戦時下の日本海軍士官とタイ人女性の恋愛小説(邦題『メナムの残照』)をもとに1970年にテレビドラマ化されて以来何度もリメークされ、映画化されている。もし日本軍とタイの人々との関係が良好でなければ、このようなドラマが制作されることはなかっただろう。

 防衛面でも戦前からタイには日本から兵器供与が行われていた。タイの発注を受け、潜水艦4隻を含む多くの戦闘艦が日本で建造された。昭和12年に横須賀で建造されたメークロン号などはその後長くタイ海軍で使われ、いまも完全な姿で保存されている。また戦時中、一式戦闘機「隼」や九五式軽戦車なども供与されていた。 だが昭和20年8月15日、日本は無条件降伏した。このときタイは速やかに日本との同盟を破棄し、締結した協定をすべて無効とする行動に出た。タイが王室と独立を保ち続けるためには苦渋の選択だったに違いない。

 ≪靖国神社に鎮魂の誠をささげた≫ 連合軍はタイに戦犯裁判の実施を通告した。タイは自国が独自に裁判を行うとして、ピブン元首相ら10人を逮捕・抑留した。しかし翌年3月、戦争犯罪人の処分に関する法律は無効であるとして全員を釈放している。(前掲書)

それから約10年を経た昭和30年、戦時中タイ駐屯軍司令官だった中村明人元中将がタイに招待され、国民から大きな歓迎を受けた。タイの人々が日本へ寄せていた思いの表れだった。 昭和38年5月、プミポン国王が来日し、天皇陛下と会見した。プミポン国王は靖国神社参拝を希望したというが、日本の外務省が難色を示したため、代わって中村元中将が参拝した。社報『靖國』(38年7月号)に掲載された中村元中将の手記によれば、NHKホールで開かれた歓迎音楽会の休憩時間にプミポン国王が中村元中将を別席に招き、靖国神社と千鳥ケ淵墓苑に参拝してもらいたいとの意向を伝えたのだという。

 同年6月4日にはプミポン国王からの生花が神前に供えられ、鎮魂の誠がささげられた。この日のことは『靖國神社百年史』にも記されている。 プミポン国王は日本との関係を重視し、戦没者に対しても敬意の念を忘れなかった。現代に生きる日本人は、プミポン国王が守り続けた両国友好の絆を維持していかなければならないだろう。(ジャーナリスト・井上和彦 いのうえ かずひこ)

345NAME:2023/09/13(水) 03:04:01
「日本の歴史」⑥昭和篇 「昭和の大戦」への道 渡部昇一・著 WAC 2010年刊
http://nawa-fumihito.com/library039.html

「日米開戦」はチャーチルが仕組んだ

 盧溝橋(ろこうきょう)から始まったシナ事変(日華事変)はずるずると拡大していったが、その一方で、日本を取り巻く国際環境はますます悪化していった。気がつくと日本は、ABCD包囲陣に取り囲まれて、石油をはじめとする戦略物資がまったく入ってこなくなっていた。Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはオランダ(ダッチ)である。オランダは今のインドネシアを植民地にしていた(当時、インドネシアは蘭領東印度諸島と呼ばれていた)。最近の研究によると、この包囲陣を画策したのは、どうやらイギリスのチャーチル首相であったようである。

 第二次欧州大戦は1939年(昭和14)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって始まった。 ちなみに、ドイツに宣戦布告したのはイギリスであった。イギリスはポーランドとの条約にもとづいてドイツと開戦した。ヒトラーは元来イギリスと戦うことは欲していなかった。しかしひとたび戦端が開かれると、ドイツ軍の圧倒的な強さに、イギリスは風前の灯といったありさまであった。チャーチルが首相になったのも、連敗につぐ連敗でチェンバレン首相が政権を放り出したからであった。 このような状態を見てチャーチルが考えたのは、「イギリスを救うためには、この戦争にアメリカを引きずりこむしかない」ということであった。 だが、当時のアメリカは、とうてい参戦する見込みがない。というのも「第一次大戦のとき、連合国の一員として参戦したけれども、犠牲ばかり大きくて結局は何の見返りもなかったではないか。もうヨーロッパの戦争などごめんだ」という声が国民の間で圧倒的であったからだ。ルーズベルト自身、「絶対に参戦しない」という公約で大統領に当選している人である。 そこでチャーチルは、まず太平洋で日米戦争が起こるようにしむけるという迂回作戦を採ることにした。アメリカが日本と戦争を始めれば、日本と同盟関係にあるドイツはアメリカと自動的に戦うことになる――それが、チャーチルのシナリオであった。 もちろん、放っておいても日米戦争が起こるわけではないし、アメリカが日本に宣戦布告するということもありえない。あるとすれば、日本がアメリカに戦争をしかけるようにするしかない。そこでチャーチルは、アメリカやオランダを説得して、ABCD包囲陣を作ったのである。 戦略物資(つまり近代工業に必要な物資)、中でも石油がなくなれば、日本は“何か”を始めるはずだと読んだチャーチルの計算は正しかった。昭和16年(1941)12月8日、ついに日本は真珠湾攻撃を行なう。

346NAME:2023/09/13(水) 03:04:27
 “泥縄式”に始まった対米戦争  [TOP]

 日米開戦は、このような経緯によって始まったことである。何も日本が好戦的だったり、侵略的だったから戦争を始めたのではない。むしろ、海軍などはギリギリまでアメリカと戦争はしたくなかったのである。また陸軍は、元来、アメリカを仮想敵国と考えたことがなかった。 昭和天皇が終戦直後に側近に語られた記録が残されているが、それによると「この戦争の遠因はアメリカの移民禁止にあり、引き金になったのは石油禁輸だ」という主旨のご発言がある(『昭和天皇独白録』文藝春秋)。これほど簡潔で明瞭な――疑う余地がない――史観は聞くこと稀である。事実、ただでさえ世界経済がブロック化しているところに、石油まで入って来なくなっては、戦争を始めるしか選択肢は残されていなかったのである。 むろん、このような状態に追い詰められるようになった原因の一つには、軍の暴走を政府が押さえられないという憲法上の欠陥があったわけだが、それでも、東京裁判が言うような「戦争遂行の共同謀議」というような事実は、どこにもない。 東京裁判では、「狡猾(こうかつ)な日本の指導者が集まって、世界に戦争をしかける密議を凝らしていた」というような言われ方をした。そういうイメージは、今なお日本人の間にも強い。だが、当時の日本の状況は、何度も繰り返すように「共同謀議」どころの騒ぎではなかった。 何せ海軍が対米戦争突入の研究を始めたのは石油禁輸の問題が出てからであり、真珠湾攻撃の図上演習は作戦開始の3カ月前からようやく始まったというありさまである。まさに“泥縄式”である。それまでの帝国海軍は、小笠原沖あたりでアメリカの円形に配置した大海軍と決戦するというような、迎撃戦型の海戦を主として研究していたのである。 それなのに今日でも日本のイメージが悪いのは、やはり真珠湾攻撃が“スニーク・アタックsneak attack=こっそり忍び足で近づいて行なう卑怯な攻撃)となってしまったことが、最も大きいであろう。 日本が真珠湾を奇襲攻撃したというニュースは、それまで戦争に消極的だったアメリカ世論をいっぺんに変えてしまった。一夜にして、日本を叩き潰すことがアメリカ人にとって“正義”になったのである。今でも日米関係で何か問題が起こると、「やはり日本は油断がならない。真珠湾を忘れるな」という雰囲気になるのは、このときの記憶が生々しいからである。

347NAME:2023/09/13(水) 03:05:17
 日本の外交官が「奇襲攻撃」にしてしまった  [TOP]

 いまだに真珠湾攻撃は日本にとってマイナスの要素になっているわけだが、これが最初から奇襲攻撃をするつもりで行なわれたのであれば、まだ諦めもつく。小狡(ずる)い日本人という悪評も甘受しよう。しかし、現実には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。政府も連合艦隊も、ちゃんと開戦の通告をやってから真珠湾に最初の一発を落とそうと思っていたのである。 ところが、これは予定どおりに行なわれなかった。それは、すべてワシントンの日本大使館員の怠慢に由来する(以下の記述は徳岡孝夫「誰が一二月八日を国辱の日にしたか」〈『文藝春秋』昭和61年1月号〉によるところが多い。なお、この事実は私自身も、当時のことを知る外交官に聞いて確認した)。 真珠湾攻撃に当たって、海軍軍令部総長の永野修身は宮中に参内し、昭和天皇に「戦争はすべて堂々とやって、どこからも非難を受けぬように注意いたします」と奏上した。また、連合艦隊をハワイ沖に送り出すに当たって、山本五十六長官は「くれぐれも偏し討ちにならぬよう」と念を押したという。 このときの日本政府の計画では、開戦の30分前にはアメリカ国務省のコーデル・ハル長官に国交断絶の通告を渡すことになっていたようである。 「たった30分前では奇襲と同じではないか」という議論は成り立たない。というのも、この当時は、すでに開戦前夜のような状況が続いていた。すでに対日石油禁輸は実行されていたし、アメリカにある日本資産の凍結が行なわれていた。また、アメリカ側の事実上の最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」が日本に渡されていたからである。 このような状況であるから、アメリカ側も「いつ日本は宣戦布告を出してくるのか」と待っていたのである。その後の研究では、外務省の暗号は解読されていた上に、機動部隊の動きも知られていたという。だから、日本が開戦の30分前に断交通告を出してきても、彼らは驚かなかったはずである。もちろん、完全に合法的である。
 ところが、この予定は大幅に遅れ、実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本の野村(吉三郎)駐米大使、来栖(三郎)特命全権大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである。 ルーズベルトは、日本側の失態を最大限に利用した。アメリカ国民のみならず、世界に向けて「日本は奇襲攻撃をしてから、のうのうと断交通知を持ってきた。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングは見たことがない」ということを印象づけたのだ。 このとき断交通知が遅れたことについては、戦後長い間「大使館員がタイプライターに不慣れなために予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うのである。

348NAME:2023/09/13(水) 03:05:30
開戦前日(ワシントン時間12月6日)の午前中、外務省は野村大使に向けてパイロット・メッセージ(予告電報)を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にアメリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。 何度も言うが、当時はすでに開戦前夜のごとき状況である。日米交渉の当事者であるワシントンの外交官たちは、そのことを十分知っていたはずである。 ところが、いったい何を血迷ったのか、この日本大使館の連中は一人残らず、夜になったら引き上げてしまったのである。すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行なわれることになっていたのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。 さて、運命の12月7日(ワシントン時間)、朝9時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これを見た武官が「何か大事な電報ではないのか」と大使館員に連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。同じ日本人として痛憤に耐えない。 しかも、彼らのミスはそれだけに留まらない。 あわてて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。しかも、この文書を現地時間の午後1時にアメリカに手渡せと書いてある。 大使館員が震え上がったのは言うまでもない。ところが、その緊張のせいか、あるいは前夜、当直も置かずに送別会をやったという罪の意識からか、電文をタイプで清書しようと思っても間違いの連続で、いっこうに捗(はかど)らない。そこで彼らがやったのは最悪の判断であった。ハル長官に電話して、「午後1時の約束を、もう1時間延ばしていただけないか」と頼んだのだ。 いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っているのであろう。外務省は、「現地時間の午後1時に渡せ」と指示してきているのだ。それを独断で1時間も遅らせるとは、どういうつもりであろうか。 要するに彼らはエリートかもしれないが、機転が利かないのだ。「外交文書はタイプで清書しなければならない」という国際法など、どこにもない。タイプが間に合わなければ、手書きのまま持っていって、とにかく指定された午後1時に「これは断交の通知です」と言って渡すべきだったのだ。きれいな書面が必要なら、あとで持ってきますと、なぜ言えなかったのか。あるいは断交だけを口頭で伝え、あとで文章を渡してもよかったのだ。

349NAME:2023/09/13(水) 03:05:48
 現に、コーデル・ハルは戦後出版した回想録(The Memories of Cordell Hull, 1948)の中で、次のように書いているのだ。 「日本政府が午後1時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前(本当は数十分前=渡部註)に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間どってまごまごしていた。だから野村は、この指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正1時に私に会いに来るべきだった」(訳文は『回想録』朝日新聞社〈昭和24年〉を用いた) いやしくもワシントン大使館にいるような外交官といえば、昔も今も外務省の中では最もエリートのはずである。そのような人たちにして、この体たらくとは。

350NAME:2023/09/13(水) 03:06:02
 真相を隠し続けた駐米大使たち  [TOP]

 しかも、これには後日談がある。 だいぶ昔の『タイム』誌で読んだのだが、あるとき、2人のオランダ海軍の軍人が正式な任官を前にして、生涯の誓いをしたという。それは、「どんなことがあっても、お互いのことを褒めあおう」ということであった。 閉鎖的な組織の中での出世の原則は、「同僚から足を引っ張られない」ということに尽きる。外部からの評価などあまり関係ない。要は、仲間内での“受け”がいいかということが大事なのだ。この2人は誓いを守った。その結果、めでたく両人ともオランダ海軍のトップの座に就いたという。 この話と似たようなことが、開戦のとき一緒に送別会をやって大失敗をやらかしたワシントン駐在の外交官たちの中でもあったらしい。すなわち、「あの晩のことは、一生涯、誰も□にしない」という暗黙の掟ができあがったと見える。 その誓いは守られた。このときワシントンの大使館にいた人は、みな偉くなった。その中には戦後、外務次官になった人もいるし、国連大使になった人もいる。勲一等を天皇陛下からいただいた人もいる。 あの『昭和天皇独白録』を筆記した寺崎英成という人は、あの晩、送別会の主役であった人物である。もちろん、断交通知が遅れたことについて、彼だけを責めるつもりはない。しかし、真珠湾攻撃がなぜスニーク・アタックと呼ばれるようになったのかは、当然知っていたはずである。ところが彼もまた、その真相を誰にも話さなかった。そして、話さないまま、天皇の御用掛になった。 言うまでもないことだが、昭和天皇は最後まで日米開戦を望んでおられなかった。閣議が「開戦やむなし」という結論になったときも、「和平の可能性はないか」ということを重臣に何度も確認しておられたという。 このようなお考えであったから、天皇はきっと真珠湾攻撃がスニーク・アタックになったことを残念に思っておられたはずである。「暗号解読に予想外に手間取り」という言い訳を聞かされて、やむなく納得しておられたのだ。
ところが、その真相が違うことは、目の前にいる寺崎本人が誰よりもよく知っていたのである。何という皮肉な話であろうか。 もちろん、寺崎にしても、天皇に対して真相を隠しつづけることは苦痛であったと思う。それは想像にかたくない。だが、やはり寺崎たち関係者は、事実を自ら公表すべきであったのだ。
 もし彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らかにしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはなかった。 駐米大使をはじめ、当時の関係者たちがペンシルヴァニア・アベニューにずらり並んで切腹して天皇と日本国民に詫びるということでもやっていたら――読者は笑うかもしれないが、明治の外交官であれば、そのくらいのことはやったであろう――そのニュースは世界中を駆け巡り、真珠湾奇襲についての悪評は消えていたはずである。 「そうすれば、この間の戦争も、もっと早期に終わったかもしれない」というのは、かつて駐タイ大使であった岡崎久彦氏の意見である。この見方に私も賛成である。 アメリカにしても、もともとは広島・長崎に原爆を落とすところまで対日戦争に深入りする気はなかったはずである。彼らにしても、ある程度日本を叩いたら、さっさと有利な条件で講和をしたほうが得策だったはずである。 もし、この戦争が“スニーク・アタック”で始まっていなければ、彼らとて岡崎氏の言うごとく「早く手を打とう」と考えた可能性もあろう。だが、現実にはアメリカの世論は反日ムード一色である。とても早期講和などと言い出せる状態ではない。戦争が真珠湾攻撃で始まったことは、アメリカの選択肢をも狭めたのである。

351NAME:2023/09/13(水) 03:06:17
★ なわ・ふみひと の ひとくち解説 ★  この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとり(だった)と言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または、タブーなのであえて知らないふりをしている)点です。 太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。 このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。 当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。 つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。 アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。 結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。

352NAME:2023/12/12(火) 21:51:03
「首を斬る快感」を語るおやじが許せなくて 武田鉄矢さんと父の物語
聞き手・後藤遼太2023年12月7日 11時00分
https://www.asahi.com/articles/ASRCX624QRC8UTIL026.html?iref=com_rnavi_arank_nr01

「中国の匪賊(ひぞく)のヤツらを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を切り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんはおやじの横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。

彼の夢は、大日本帝国の勝利だったんです。敗北によってアメリカの時代がやってきて、それに対する不満と怒りが渦巻いていたんでしょう。おやじの戦後は、皇居前で正座したまま、その姿勢のまま終わっていったんじゃないですかね。

 ところが、母は進駐軍の将校…

353NAME:2024/03/11(月) 16:00:41
「バーン」靖国神社に落ちた爆弾、生き残った8歳 メラメラ燃える自宅は「美しかった」 #戦争の記憶
https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/pacificwar2.html


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