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大東亜戦争

1NAME:2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争

309NAME:2018/08/29(水) 07:34:40
「真珠湾攻撃忘れないぞ」 米大統領、会談時に安倍氏へ圧力
共同通信社
2018/08/29 05:44
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e7%9c%9f%e7%8f%a0%e6%b9%be%e6%94%bb%e6%92%83%e5%bf%98%e3%82%8c%e3%81%aa%e3%81%84%e3%81%9e%e3%80%8d-%e7%b1%b3%e5%a4%a7%e7%b5%b1%e9%a0%98%e3%80%81%e4%bc%9a%e8%ab%87%e6%99%82%e3%81%ab%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%b0%8f%e3%81%b8%e5%9c%a7%e5%8a%9b/ar-BBMA1Bb?ocid=iehp

【ワシントン共同】米紙ワシントン・ポスト電子版は28日、トランプ大統領が6月にホワイトハウスで安倍晋三首相と会談した際「(第2次大戦の)真珠湾攻撃を忘れないぞ」と前置きした上で、難航している通商問題の協議を始めたと伝えた。異例の発言の背景には、対日貿易赤字の削減を目指し圧力を強める狙いがありそうだ。

 米国では真珠湾攻撃は「卑劣なだまし討ち」との見方が強い。日本側の弱みと見なしてトランプ氏が通商交渉で譲歩を引き出すために、あえて日米首脳会談で触れた可能性がある。 同紙によると、トランプ氏は真珠湾攻撃に言及した後、米国の対日貿易赤字について激しく非難した。

310NAME:2018/08/31(金) 02:45:00
https://www.youtube.com/watch?v=doPlKvTdIbA&t=90s
オランダがとった政策はインドネシアにいろんな言語を使わせ教育を一切しなかった。それによって反乱する事を防ぎたかったからだ
一方日本は言語を統一させ教育を受けさせた。もしこれを侵略戦争などと言う奴がいるのであれば是非英霊の前で同じ事を言って見てほしい。

これだけは言えるのが、日本を孤立させようと日本を悪く言い続けている人が世界にいて、親日国と思っている国を含め、過去の日本のイメージはよくありません。それは日本が反論しないから、声をあげないから今日の結果があります。
私は「親日国」に住んでいますが、皆さんが思ってるより親日国ではないです。日本のテーマが出るたびに日本の悪口を言ってる人もよくいますし。
日本人は「○○友好!」とか言ってヘラヘラしないで、もっと冷静に対応した方がいいです。本当に。
あと、海外住んでわかったんですが、日本人って外国人に妙に変に優しいですが、日本人と同じように接した方が印象良くなると思いますよ。外国人だから〜って許す範囲極端に広くすると調子乗ってああいう反日精神が簡単にできて世界に日本の悪口を広めていくと思ってます。

コメント読んでたら、ホラをバラ撒いてる人もいるようなので、
ソース(信用度の高い情報)のある話を信じるようにしましょうね皆さん。
日本語がおかしい人が何人か混じっているようです。
左翼、在日、朝鮮人、中国人スパイなんかもいるでしょうから。
「私の知り合いは日本を友好的に見ていない」←ソース自分ww
「オランダより日本が嫌い」っていう自作自演とか(´・ω・`)

日本人は世界で一番素晴らしい人種、しかし今の日本人と昔の日本人とでは、泥雲の差がある。
台湾の戦争経験者の方の言葉です。
日本人として胸に刺さります。

インドネシアの教科書には、次のように書かれているそうです。「インドネシアにおける日本軍の支配は短期間であったけれど、長期間のオランダの植民地支配よりもはるかに過酷であった」「日本はインドネシアの天然資源と労働力を徹底的に搾取した。」「日本は農産物と労働力を徹底的に搾取した。人民は極度の貧困に苦しんだ。飢餓と疫病が至る所で発生した。」「物資や食料の大規模後な徴発を行なった。軍隊への大規模な食糧徴発は当然のことながら人民に厄災をもたらした。「日本政府による食糧の徴発は稲や他の収穫物を取り上げるという方法で行われた。複数の収穫物から、人民にはその20パーセントの保有が許可され、30パーセントは農業組合(Noyo Kumiai : 原文ママ)を通じて政府への提供が義務付けられた。残りの50パーセントは、村の格納場所へ納められた。」

「日本占領政府期における労働力の搾取は、インドネシア社会のあらゆる階層に対して行われた。都市部や村落部出身者、教育を受けたものや文盲を問わず、全員が日本の必要に応じて搾取された。中でも労務者(Romusha: 強制労働者)が最も悲惨な状況に置かれた。彼らは日本によって、主に飛行場、防御用堡塁、線路などの軍事施設を建設するため強制的に徴用された。労務者の大半が村落部の出身で、学校へ通っていない者や最高でも小学校卒業者が多かった。こうした住民を数多く抱えるジャワ島では大規模な労務者徴用が可能となった。何千もの労務者がジャワ島外へ送られただけではなく、マラヤ(マレーシア)、ビルマ(ミャンマー)、シャム(タイ)などの国外へ送られた者もいた。

「労務者の待遇は非常に劣悪なものだった。健康は保障されず、食料は不十分だったにもかかわらず、彼らには過酷な労働が課せられた。その結果、数多くの労務者が作業地で亡くなった。こうした悲しむべき状況は人々の口から口へ、全村民へと広がった。」こうして400万人ものインドネシアの人達が亡くなったといわれています。

311NAME:2018/08/31(金) 02:45:18
宇宙戦艦ヤマト、ボルテスV、北斗の拳などのアニメは、暴力と恐怖に支配された世界に正義の戦士たちが現れて、あるものは傷つき、あるいは敗北して命を落としながらも、次々と悪党を打ち破り、最終的に正義の戦士たちが勝利を収める物語だが、実際には日清戦争からベトナム戦争終結までに日本軍が辿った道のりを舞台を変えて描いたものである。ベトナムにおいても、700名以上の日本兵が残留して、1946年にベトナム初の士官学校を創設して、ベトナムを再び植民地にする為に戻ってきたフランス軍を1954年に打ち破り、フランス軍の後を引き継いでやってきたアメリカ軍を1973年に打ち破り、カンボジアでの大虐殺を止めさせたベトナムに懲罰の名目で侵略してきた中国軍を撃破した。これらの功績により、1986年にベトナム政府は残留日本兵に勲章を授与し感謝の念を表明した。日本は同じように日清戦争で1895年に朝鮮を清の奴隷から解放してやり、下関条約の第1条で朝鮮の完全独立を清に認めさせ、1897年に朝鮮は独立門を建立した。日韓併合では朝鮮人を正式に日本人にしてやったにもかかわらず、南北朝鮮では事実と正反対の大嘘を学校で教え、朝から晩まで毎日反日活動に血道をあげている。数ヶ月前の韓国保健部の調査で国民の91%が認知障害を持っていることが報道されたが、これで、朝鮮人の91%が事実と捏造を反転させてしまう脳神経回路を持っていることが判明した。事実捏造反転脳神経回路を持つ連中に何を言っても全く通じない、と言う科学的事実を日本政府はまず認識しなければならない。

312NAME:2019/01/25(金) 14:40:50
日本は大東亜戦争で、っ戦いには負けたが、戦略的には大勝利したという人がいます。
その証拠にアジア諸国は独立し白人たちは再びアジアに戻ってこれなかったではないかと。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11111154271

313日本を護る会:2019/03/04(月) 21:06:01
第80回定例会の案内

梅の便りが聞かれる今日この頃ですが皆様にはお元気でお過ごしのことと存じます。
今回の講師は、大阪市立大学名誉教授の山下英次氏にお願い致しました。特に先の大東亜戦争に焦点をあて、当時の世界情勢を踏まえて、日本が戦争に突入せざるを得なかった状況等に関してのお話です。
今迄もいろいろな方が取り上げられた命題ですが、通常の戦史家とは一味異なる観点からのお話になると思われ、大変興味ある、重要なテーマであると思います。
是非多数の皆様にご参加頂きたくご案内申し上げます。




1 講師 : 山下英次 大阪市立大学名誉教授・経済学博士 、国際歴史論戦研究所(iRICH)所長

2 演題 : 「第2次大戦とはどのような戦争であったのか」-日本は何故大東亜戦争を戦う事になったのか

3 講師略歴 : 1947年東京生まれ、1970年慶應義塾大学経済学部卒業。旧東京銀行に入行し調査部、 国際投資部、海外部などに勤務後、1988年大阪市立大学に移籍。同大学大学院経済学研究科教授を経て、現在、国際通貨研究所(IIMA)客員研究員。アパ日本再興財団の懸賞論文「真の近現代史観」で4回入賞(2014、2015、2016、2018年)。

4 著 書:『国際通貨システムの体制転換』(東洋経済新報社、2010年)、『ヨーロッパ通貨統合—その成り立ちとアジアへのレッスン』(勁草書房、2002年)など

5 日時 平成31年3月13日(水) 受付開始 午後6時00分〜 開 演 午後6時30分〜

6 場所 銀座 カフェ ジュリエ (Cafe Julliet)
東京都中央区銀座5-13-16東銀座三井ビル1F  03-3543-3151
東京メトロ 東銀座駅4番出口徒歩1分
(東銀座駅出口4番三原橋交差点から昭和通りを歌舞伎座とは反対方向へ54メートル)

7 参加費 2、500円 会員は2,000円(いずれも1,000円の寄付を戴ける場合)、学生は1,000円、高校生以下は無料
講演終了後(午後8時半頃)に軽い懇親会(1時間程度、会費2,000円)を講演会場で行います。お時間のある方は是非ご参加下さい。
講演会及び懇親会に御参加希望の方は、3月7日(木)までに原則としてメールにてお申し込みください。
*FAXにてお申し込みの場合はご記入後、本ページを切り取らずに送信して下さい。

2月7日(木)の定例会に参加します。 懇親会( 出席 、欠席 ) どちらかに○印
ご 氏 名
ご 住 所
電話 Fax:
E-mail
 ★★連絡先★★
NPO法人日本を護る会事務所
FAX:03-3985-1008
e-mail: awake-japan@googlegroups.com
HP: http://awake-japan.sakura.ne.jp/

314NAME:2019/07/01(月) 23:44:29
在留邦人危うし 中国軍精鋭が日本人街に襲いかかった 
2019.6.30
https://special.sankei.com/f/society/article/20190630/0001.html

第136回 上海事変 「今こそ対日戦争に踏み切るべきだ」

 蒋介石が抱えるドイツ軍事顧問団団長、ファルケンハウゼンがこう進言したのは、盧溝橋事件が起きる1年以上も前、1936(昭和11)年の春頃といわれる。 同じ頃、ナチス・ドイツは日本と防共協定を結んだが、ドイツ国防軍は日露戦争でロシアと組んで以来、伝統的に日本を仮想敵国とみなしていた。第一次世界大戦で山東省の租借地を奪われてからはその傾向が強く、国民党政府に顧問団を送って軍事力の強化に努めていたのだ。

 蒋介石は、ファルケンハウゼンの進言を直ちに入れることはなかったが、将来の決戦に備え、上海近郊の非武装地帯にトーチカ群など堅固な陣地を構築した。いざという時、ここを拠点に上海駐留の日本海軍を撃滅し、救援に駆けつける日本陸軍も撃破するという、ドイツ仕込みの作戦である。盧溝橋事件後、北京周辺での戦況が不利になった蒋介石は、いよいよこの作戦を実行する時だと判断したようだ。

× × ×

 直接のきっかけは盧溝橋事件の1カ月後、37年8月9日に起きた大山事件である。その日、海軍特別陸戦隊第1中隊長の大山勇夫と1等水兵の斎藤與蔵が車で上海の陸戦隊本部に移動中、中国保安隊に銃撃され、2人とも死亡した。大山の遺体には無数の機関銃弾があったほか、銃剣などで陵辱されたあとがあり、頭部は二つに割れ、顔面の半分が潰されていたという。

 中国側は、最初に大山が保安隊員を射殺したので銃撃したと偽り、日本側がさらなる紛争防止のため保安隊の撤退を求めても、かえって保安隊を進出させ、12日以降は完全武装の正規兵を続々と派遣。上海は、たちまち一触即発の状態となった。

 上海地域の在留邦人を保護するのは、海軍第3艦隊の担当だ。それより前、日本政府は揚子江沿岸の邦人の引き揚げを決定、上海在住の婦女子2万人を帰国させたが、まだ1万人が租界に残っている。 中国軍が乱入すれば、通州の残虐事件が再び起きることだろう。

 12日夜、邦人保護の大海令(※1)が発せられた。 「第三艦隊司令長官ハ現任務ノ外 上海ヲ確保シ 同方面ニ於ケル帝国臣民ヲ保護スベシ」 このとき、上海周辺に集結した中国軍は第87、88、36師で、背後には第15、118師などがひかえ、総兵力は約15万人に達した(※2)。 対する海軍陸戦隊は5千人弱。初年兵にいたるまで、全員が死を覚悟したに違いない。

× × ×

315NAME:2019/07/01(月) 23:44:46
 戦端を開いたのは中国軍だ。時に13日午後4時54分。日本人街のある虹口地区の北、八字橋付近に埋設された地雷が爆発したのを合図に、中国軍第88師の部隊約2000人が攻め込んできた。 海軍上海特別陸戦隊司令官、大川内伝七の命令が飛ぶ。

 「全軍戦闘配置につけ」 敵の第88師はドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製の武器を手にした精鋭中の精鋭だ。「一挙ニ海軍陸戦隊ヲ潰滅(かいめつ)セントスル作戦指導振リハ洵(まこと)ニ猛烈執拗ニシテ我ヲシテ応接ニ遑(いとま)ナカラシメ、我ガ租界第一線ノ如キモ再三ノ危殆(きたい)ニ陥リタリ」と、軍令部編集の「大東亜戦争海軍戦史」が書く。この日の八字橋付近の激戦は5時間以上にわたり、陸戦隊は午後11時、ようやく敵を撃退した。

 翌14日午前3時、新たな中国軍が北部の陸戦隊陣地を襲う。左翼の小隊が包囲され、陣地を突破されそうになったが、駆けつけた増援部隊が奮戦、死力を尽して守り通した。 北部地区を突破できない中国軍は、攻撃の重点を共同租界の東部に移す。とくに17日午前8時からの攻撃は熾烈を極め、一部が租界内に侵入、東部地区の陸戦隊は窮地に陥った。 激戦16時間。戦況不利とみた中隊長の菊田三郎が敵部隊の真っ只中に斬り込む。「中隊長を死なすな」と下士官兵が続く。壮絶な白兵戦だ。手榴弾が飛び交い、彼我の肉片が散った。何とか中国軍を押し戻したものの、菊田は戦死した。

× × ×

 東京では、戦端が開かれた13日に陸軍部隊の派兵を急遽(きゅうきょ)決定したが、どんなに急いでも上海に上陸するのは23日以降だ。現地で最高指揮権をもつ第三艦隊司令長官の長谷川清は、とてもそこまで持ちこたえられないと、軍令部に打電した。 「本十六日ノ激戦ニ依リ陸戦隊ハ可成リノ損害ヲ蒙リタリ。士気ハ依然旺盛ニシテ死力ヲ尽シテ戦線ノ維持ニ努メアルモ敵ノ兵力集中情況ニ鑑ミ、毎日此ノ程度ノ激戦ヲ予期セラルルニ付テハ疲労ト兵力ノ損耗トニ依リ後六日間ノ維持ハ極メテ困難ナリ…」

× × ×

 陸戦隊を救ったのは、鹿屋海軍航空隊と木更津海軍航空隊だ。鹿屋空は台湾の台北基地から、木更津空は長崎の大村基地から、当時は世界でも異例の渡洋爆撃を敢行。悪天候などで多くの犠牲を出しながらも南京などの飛行場爆撃に成功し、制空権を握った。 在留邦人が不眠不休で陸戦隊を支援したことも忘れてはなるまい。男は土嚢(どのう)づくりを、最後まで残った婦女800人は炊き出しなどに従事した。 23日未明、待ちに待った陸軍の救援部隊が上海の外港、呉淞(ウースン)に上陸した。陸戦隊は上海を守りきったのだ。 しかしこの後、陸軍部隊が大苦戦を強いられる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)



(※1) 海軍軍令部総長が天皇の裁可を受け、指揮官に対して発する命令
(※2) 中国軍の兵力には諸説あり、防衛研修所の戦史叢書では、12日夜の段階で海軍陸戦隊に直接対峙したのは第87、88師と武装保安隊の計約3万人としている

【参考・引用文献】

○阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)
○田嶋信雄著「ナチズム極東戦略」(講談社)
○中村粲著「大東亜戦争への道」(展転社)
○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 中国方面海軍作戦〈1〉」(朝雲新聞社)
○海軍歴史保存会発行「日本海軍史」6巻
○軍令部編「大東亜戦争海軍戦史 本紀巻1」(防衛省戦史研究センター所蔵)
○昭和12年8月14〜25日の東京朝日新聞、東京日日新聞、読売新聞

316NAME:2019/07/22(月) 20:44:12
東京大空襲:日本中を震撼させたB29の次もあった!
日本が夢想した超大型爆撃機「富嶽」級を実戦配備させた米国
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55685

毎年、3月になると東京大空襲の体験談を目にする機会が増える。昭和20年3月10日、約300機の「B-29」が隅田川両岸の人口密集地を焼き払い10万人の犠牲者が出た。 一般市民が暮らす人口密集地を攻撃目標とする神経も恐ろしいが、何千キロも離れた場所からそれを実行できる米国の国力も恐ろしい。 爆弾6.6トンを積んで、マリアナ諸島から日本まで片道2500キロの距離を往復できる爆撃機を300機揃える――。 そんなことは当時の日本にはとうていできなかったし、押し寄せるB-29から日本を守ることもできなかった。

 しかし、日本には太平洋を越えて米国本土を空襲するため、B-29を圧倒的に凌ぐ爆撃機を製造する計画が存在した。 中島飛行機の創業者中島知久平により構想された「富嶽」である。 B-29は当時の最先端の航空機であったが、マリアナ諸島から日本を空爆し戻るのがやっとだった。東北地方や北海道は攻撃圏外であった。

 一方、富嶽は日本から離陸し、米国本土を空爆して、そのまま大西洋に抜け、ドイツ占領地域に着陸するというB-29でも不可能な壮大な作戦をすることを想定していた。 現在の大型旅客機でもそれほどの距離を飛べるものは限られる。

富嶽は大日本帝国の妄想に終わる

 B-29が2200馬力のエンジンを4基搭載し、航続距離約9000キロ、最高時速は600キロ弱、最大爆弾搭載量9トン、全長は30メートル、全幅が43メートル。 対する、富嶽は5000馬力のエンジンを6基搭載し、航続距離約2万キロ、最高時速780キロ、最大爆弾搭載量20トン、全長は43メートル、全幅が63メートル。 確かに、富嶽が実現すれば、B-29を圧倒する爆撃機になる。しかし、想定数字をあげつらったところで、B-29に対抗する航空戦力も整えられない大日本帝国が実際に作れるわけがなかった。 例えば、5000馬力のエンジンは絶望的であった。

 日本も2000馬力級の「誉」というエンジンを完成させ、戦争末期に実践投入まで持ち込んでいる。「疾風」や「紫電改」といった戦争末期に完成した新型戦闘機に搭載している。 小型軽量で大馬力の誉は、確かにカタログ数値では非常に優秀なエンジンだった。 しかし、日本の工業力では安定して量産することができなかった。また、故障多発を克服できなかった。日本の新型戦闘機は、襲いかかる米軍機に対抗できる数が揃うことはなかった。 一方、米国は2000馬力級のエンジンの大量生産に成功したうえ、トラブルも実戦に耐えるほどに抑え込むことができている。

 2000馬力級のエンジンを積んだグラマン「F6F」戦闘機は「ゼロ戦」をバタバタ撃墜したし、そんなエンジンを4基積んだB-29の大編隊も実現してしまった。 その米国でも5000馬力のエンジンを実現できていない。2000馬力のエンジンも十分にモノにできていなかった大日本帝国。それなのに5000馬力のエンジンができるわけがなかった。 エンジンに限らず、当時の日本には質的にも量的にも超大型機を作る能力はなかった。

 高空を長距離飛行するのに必要なターボチャージャーや与圧室も作れない、大型機を大量生産するだけのアルミニウムもない、工場のキャパも足りない。航空機のエンジニアは戦争中は仕事が激増し過労死寸前・・・。 実際、日本が実用化できた爆撃機はエンジン2基で与圧装置もなし、マリアナ諸島まで往復できないのでB-29の基地も特攻でしか攻撃できない、爆弾も1トン程度しか積めないというものだった。

 富嶽の実現どころかB-29に圧倒的に劣るものであった。そんな質的に劣る爆撃機すら、B-29と同じ数が揃うことはなかった。 日本の航空産業の実力を考えれば、富嶽など絵に描いた餅でしかなかった。 富嶽開発プロジェクトは開始から1年もたたずに断念されてしまう。国家の非常時にこんな妄想膨らませて遊んでいるわけにはいかなかったのだろう。 大日本帝国にとって、富嶽などは、現実逃避的な妄想に過ぎなかった。

317NAME:2019/07/22(月) 20:44:29
米国では富嶽を実現

 しかし、日本には妄想に過ぎなかった富嶽。米国は何と実際にそれに匹敵するものを戦争中に開発し、終戦直後に完成させていた。 その名は「B-36」。 B-36は3500馬力のエンジンを6基搭載し、最高時速は後期型では700キロ近くに達し、航続距離1万5000キロ、最大爆弾搭載量32トン、全長49メートル、全幅70メートル。 日本が全くかなわなかったB-29を圧倒的に超えている。妄想計画だった富嶽に対する個々の項目の単純比較では優劣があるが、十分に対抗できそうな内容である。

 富嶽は設計すら固まらなかったのに対し、B-36は終戦5日後の1945年8月20日に機体が完成しロールアウトしている。 もっとも、さすがの米国も3500馬力のエンジンは開発に手間取り初飛行は翌年になった。そして、量産に入り1948年から実戦配備をしている。 米国の航空産業は、戦争に勝つために差し迫った開発や生産をこなしたうえで、当時の世界水準を圧倒するB-29すらはるかに超える超大型機の開発を行っていたのだ。 戦時中の日本の航空産業では、性能が向上していく米軍機に対抗する機種の開発、軍からの改造の要望への対応、一機でも多くを生み出すための生産など、大量の仕事に忙殺され、もう限界という状態だった。

 当時の体験談を読むと、技術者は過労で倒れることがあり、生産現場は過重労働で疲れ果てていた。 ヘトヘトになるまでの努力をしても、戦闘機のような小型機すら米国の生産数に遠く及ばないし、ゼロ戦の後継機も満足に作れなかった。 大戦末期には米国では標準になっていた2000馬力級エンジンの安定供給も果たせなかった。B-29を防ぐだけの戦闘機も配備できなかった。 現に存在している米国の航空戦力に対抗することすらできていない状況で、とても、富嶽のような米国の水準を圧倒的に超える巨人飛行機の開発まで手が出るわけがない。

一方、米国は単純な数の比較で4倍以上の航空機を製造し、大日本帝国の航空戦力を圧倒した。 米国の航空機生産実績には数千機のB-29を含む、大量の大型機を含むことを考えれば、その差は数の差にとどまらない。 米国はそのうえで、B-36という日本であれば妄想でしかない超大型機を開発する余力を持っていたのだ。恐るべきことである。 こんな国力のある国と戦って勝てるわけがない。3年10か月戦っただけでも立派なものと言えるだろう。

318NAME:2019/07/22(月) 20:44:42
B-36は役には立たなかったが・・・

 米国がB-36の開発を始めた理由は、英国がドイツに負けてしまった場合、大西洋を超えてドイツを空爆できる爆撃機が必要になると考えたからだ。 「こんな爆撃機が欲しい」というレベルだった富嶽に対し、米国では超大型爆撃機の実現が、第2次世界大戦初期の一時期においては必達目標だったのだ。 しかし、ドイツはあと少しのところで英国を降伏させることはできず、太平洋戦争が始まる頃にはその心配はほぼなくなっていた。 それでも、B-36は優先順位を下げられつつも開発は継続された。

 ここで不要不急として中止にならなかったことも驚きであるが、優先順位が下げられた状態で開発しても、戦争終結後すぐに完成していることはもっと驚きである。 第2次世界大戦後、核兵器の時代になり、米国の勢力圏からソ連を爆撃できるB-36は核戦力の主力として重宝されることになる。しかし、戦後すぐに航空機のエンジンはピストンエンジンからジェットエンジンに移り変わる。

 B-36は強力なエンジンを持つとは言え、第2次世界大戦の飛行機と同じピストンエンジンのプロペラ機。時速200〜300キロの速度差のあるジェット戦闘機にはすぐに撃墜されてしまう。 結局、B-36は配備されてから約10年経った1959年にはすべて退役してしまう。その間、朝鮮戦争があったが、B-36は一度も実戦に出ることはなかった。 B-36は確かに当時の世界最大の航空機であったし、この飛行機の実現のための技術開発は米国航空産業の資産になっただろうが、決して活躍した航空機ではない。 よって、B-36の知名度はあまり高くない。また、メーカーのコンベアーもジェネラルダイナミクスを経て、ロッキード・マーチンの一部になり、名前が残っていない。 しかし、あまり役に立ったようには見えないにしても、米国版富嶽のB-36は大日本帝国では妄想に過ぎないものを実際に実現してしまう恐るべき米国の底力の象徴ではあった。

319NAME:2020/08/29(土) 14:58:09
入隊後、真っ先に教えられた切腹の仕方 15歳で特攻志願、「死にたくない」と後悔
8/26(水) 10:32配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc0cf88bf7923d23c9216ec5d3f867578bbf73c3

「咲いた花なら散るのは覚悟、みごと散りましょ国のため」。15歳で志願して軍人となり特攻要員として訓練を受けた長野市の武井敏雄(たけい・としお)さん(90)がよく歌った「同期の桜」の一節だ。勇ましい歌詞とは裏腹に、悪化する戦況下、若すぎる軍人の脳裏に芽生えたのは「死にたくない」という特攻志願への後悔だった。「もう誰にも自分と同じ経験はさせたくない」。75年前の惨状を語った。(共同通信=櫛部紗永)

 ▽12歳で経験した軍事訓練

 1930年、東京の日本橋や浅草に店を構える衣料問屋の次男として生まれた。生まれつき体が丈夫で、走るのが速く、体育が得意だった。千葉県の八幡尋常高等小学校に入学。小学6年生では全校生徒の代表として体育部長を務め、体操では号令をかけた。太平洋戦争が始まったのはそんな育ち盛りの頃。41年12月、担任の教諭から「本日、日本はアメリカ、イギリスを相手に戦争を始めました」と聞かされた。物心ついた時から戦争は身近だった。

翌年、旧制江戸川中学校に入学。兵器庫がある学校で、軍事訓練を12歳で初めて経験した。毎朝30分間の朝礼は校庭で歩行訓練、陸軍士官学校出身の将校による「教練」の授業では竹やりで敵を倒す練習をした。毎週日曜日は学外訓練として、約30キロの道のりを夜通し歩くこともあった。深夜の線路を戦車が走り抜ける姿や騎馬隊の見学―。「いま考えればあり得ない景色ばかりだった」

 14歳の頃には、勤労動員で魚雷製造工場へ。作り出す爆弾も多かったが、落とされる焼夷弾も多く、空襲は増える一方だった。東京大空襲直後の惨状はいまも、まぶたの裏に焼き付いたままだ。

 ▽焼け焦げた遺体

 45年3月9日午後10時ごろ、東京都に隣接する千葉県市川市の自宅で家族だんらんしている時だった。突然、警戒警報もなしに空襲警報が鳴り響いた。遠くの空には爆撃機。急いで庭の防空壕に逃げ込んだ。警報が解除され外に出ると、西の空が真っ赤だった。

320NAME:2020/08/29(土) 15:00:25
翌朝、中学へ自転車で向かった。黒く焼け焦げた遺体であふれかえった通り、水ぶくれした遺体でびっしりと埋まった防火用水。いつもの通学路は変わり果てていた。空襲が激しかった両国では、国技館が骨組みだけに。たまらず家に引き返すと、遺体を無造作にトラックに投げ込む兵隊に遭遇した。錦糸町の菓子屋前では、道に流れ出した水あめを舐める人たちもいた。「幼心に日本は完全に負けたと思った」

 ▽真っ先に教えられた切腹の仕方

 父の希望で「食べ物に困らない」職業軍人を目指し、陸軍特別幹部候補生に合格。浜松市にある航空技術の教育部隊に入隊した。45年4月、大勢に見送られて東京駅を出発した。中学の同級生から胴上げされ、送別会で渡された日の丸には、親友がナイフで自分の指を切り、血で「タケイガンバレ」と書いてくれた。

 入隊して真っ先に教わったのは切腹で、上官は刀を腹に刺す手本を示した。「敵に殺されるくらいなら、自決くらいしっかりやれ」。銃を抱えてほふく前進、剣で相手を突き殺す練習―。基礎訓練は朝から晩まで続いた。「同期の桜」は骨休めに何度も歌わされた。

その後、特攻要員になることを承知で操縦士を志願。華々しさに憧れたが、日に日に悪化する戦況を感じ取るにつれ、「命を懸けて特攻隊員になりたかったわけじゃない」と悔いた。仲間からは、爆弾を持って戦車に体当たりする自爆訓練を繰り返していると聞いた。「生きて帰れない」。初めて特攻が怖くなった。 45年7月、部隊は滋賀県日野町に疎開。飛行訓練にたどり着く前に玉音放送を聴いた。部隊長からは「自分の意思で帰れ」と告げられた。長野県中野市に疎開し中島飛行機の関連工場で戦闘機を製造していた家族の元へ。母親は涙を浮かべ抱きしめてくれた。

 ▽戦争を若い世代に語り残す

 46年に長野県の旧制須坂中学校を卒業。その後、父が新たに創業した食品会社の商売を手伝い始め、現在は会長を務める。「子どもに食べる楽しさを知ってほしい」と、駄菓子を多く扱う。いまでは地元の人にテレビ広告で馴染みの店だ。 戦争で得ることは何もなかった。「命を捨てても戦争に勝て、という教育に従い、大勢の若者が無駄死にした。こんな恐ろしい教育は二度と繰り返してはいけない」。いまは戦争のむごさを若い世代に語り残す責任を強く感じている。

過去には、長野市の中学校が行う平和学習に招かれ、自身の人生を語った。「人の命以上に大切なものはない」。うなずく中学生の姿に確かな手応えと、わずかな希望を感じた。憲法改正、特に9条については「軍事大国化を助長しかねない」と懸念を持ち、世界的に社会の分断が進んでいることには不安を感じる。 8月15日正午、長野市の自宅で、全国戦没者追悼式のテレビ中継を見た。75年前を思い返し、窓の外に目をやると「力強く復興した日本」が見えた。「平和な世の中が続きますように」と強く願いながら手を合わせた。

 ▽取材を終えて

 物腰が柔らかく、穏やかで優しい人柄。「言葉で表現できないほどの惨状」を、時間をかけて丁寧に教えてくれた。「鮮明に記憶に残っているのですね」と言うと、「本当は忘れたい。いつか僕が教訓として語り残す必要がないくらい平和な世の中になれば、忘れられるかな」と本音を漏らした。 取材中、「若者たちが、国ではなく、自分のために生きられる社会が続いてほしい」と繰り返す武井さん。当たり前の価値観が、当たり前に尊重される平和な世が続くことを願ってやまない。

321NAME:2020/08/29(土) 15:56:50
習近平の中国がなぞる大東亜共栄圏の「失敗の本質」
8/24(月) 6:01配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0b60399818df93f76810cfb80e1b3ef64c515b2

大東亜住民と帝国の関係における不成功は、国力を数十倍も上回る米国に日本が無謀な戦争を仕掛けたという表面上の「失敗の本質」よりも、はるかに深刻なしくじりである。なぜなら、たとえ米国に力で押されても、共栄圏内の住民が日本の行動を心から受容して歓迎しておれば、米国は真の意味で日本に勝利できなかったからだ。実際には、ほとんどの地域において日本人は「侵略者」と見なされ、その結果、日本を破った米国が「解放者」と見られるようになった。

そして現在、共存共栄をモットーに実行される中国の一帯一路共栄圏や「中華民族の偉大な復興」も同じような根源的な矛盾を抱えており、現地住民の民心把握に失敗するという傾向が明確に現れていることは興味深い。

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322NAME:2020/08/29(土) 15:57:14
(岩田太郎:在米ジャーナリスト)
※「中国切腹日本介錯論」(1)「『大日本帝国』と同じ轍を踏む習近平と中国共産党」、(2)「中国が先制攻撃を仕掛ける可能性が高いワケ」、(3)仮面を捨てた中国、世界を自分色に染めるそのやり方も併せてお読みください。

中国国旗と習近平国家主席の写真を燃やすインド民衆。中印国境の係争地帯で軍が衝突、インド人兵士に多数の犠牲が出たことに対する抗議。中国の膨張主義はさまざまな摩擦を生み出している(写真:ロイター/アフロ)

■ 戦中から指摘された共栄圏「失敗の本質」

 中国共産党が熱心に学び、「中国夢」や「中華民族の偉大な復興」のビジョンの参考にする大東亜共栄圏構想は、壊滅的な日本の敗戦で失敗に終わった。だが、開戦間もない頃から、共栄圏の構造的な欠陥が一部の識者によってすでに指摘されていた。

 ケインズ経済学の立場から『東洋経済新報』の石橋湛山らとともに緊縮財政に反対してリフレ政策を唱え、後に転向の上で軍部に接近、日本の排他的な経済ブロックを建設することを強く主張した経済評論家の山崎靖純(せいじゅん)は、近衛文麿の私的政策研究団体である昭和研究会の常任委員であった。

 その山崎が、緒戦連勝の余韻が残る昭和17年(1942年)半ばに「大東亜建設に就て反省すべき諸点(特に現地において痛感するもの)」と題した大東亜省設置に関する内部文書(外務省外交史料館蔵)で、以下のように述べている。

 「新しい人倫協同の“関係”を成立せしめることが何よりも最大の利益なりと云ふ明確な認識を欠ける為に(中略)現地の生産活動は甚しく妨げられ、住民は生活希望を失つて自棄状態となり、日本の労働生産力を不必要に現地に奪はれ、大東亜全体の労働生産を甚しく低下せしめ、住民をして日本指導の新秩序を甚しく誤解せしめる結果を伴つて居る」

 山崎はここで早くも、大東亜戦争の「失敗の本質」を見抜いている。すなわち、日本が大東亜共栄圏内の住民の人心掌握に失敗し、その結果として圏内各国との協働体制を築けず、人々の希望を失わせ、所期の経済目標を達成できないことで日本によるアジア新秩序建設に疑念を抱かせているということだ。

 大東亜住民と帝国の関係における不成功は、国力を数十倍も上回る米国に日本が無謀な戦争を仕掛けたという表面上の「失敗の本質」よりも、はるかに深刻なしくじりである。なぜなら、たとえ米国に力で押されても、共栄圏内の住民が日本の行動を心から受容して歓迎しておれば、米国は真の意味で日本に勝利できなかったからだ。実際には、ほとんどの地域において日本人は「侵略者」と見なされ、その結果、日本を破った米国が「解放者」と見られるようになった。

 この「心の戦い(心理戦・政治戦)に負ける」という共栄圏の構造的な欠陥は、中国共産党が推し進める「中国夢」や「中華民族の偉大な復興」にも顕在化し始めており、この先に悪化の一途を辿るだろう。

 この稿では一次史料を活用し、日本人にとっては極めて耳の痛い大東亜共栄圏の失敗の実例に迫る。そして、次回にはそれらの失敗と「一帯一路」「中華民族の偉大な復興」を対比させ、「中国夢の失敗」という歴史の必然性を論じ、共栄圏における失敗に学ぶことで、覇権的に膨張する中国の切腹(自滅)を日本が介錯する役割を果たせることを示す。

323NAME:2020/08/29(土) 15:57:39
■ 大東亜共栄圏の理想と現実

 日本の大東亜共栄圏は非常に高い理想を掲げていた。企画院が昭和18年(1943年)に発行した『大東亜建設の基本綱領』と題された宣伝物は、「大東亜経済建設において我が国の要求が全面的に貫徹されなければならないが、さうするとそれは欧米の植民地支配と何等異なるところがないではないか」と自問する。

 その答えとして、「大東亜経済建設は大東亜の民衆は勿論(もちろん)、ひろく全世界の人類に英・米支配とは異る何ものかを與へ(あたえ)なければならない。ここに大東亜共栄圏といふスローガンが高く掲げられ、共存共栄の旗印のもとに新しき道義的な経済秩序の樹立が要請される所以がある」と解説。「大東亜広域経済にあつては利己に非ず(あらず)して共栄が、搾取に非ずして共存が支配しなければならない」と説く。

 そして、「日本の要求は(すなわち)大東亜の要求」であるため、日本は収奪的にはならないと主張する。では、現実はどうであったか。

 前述の山崎靖純は、「法外の価格を以て物資を強制買い上げ」「事実は現地住民の財産没収になりつつある」「主要なる商権を日本人が独占」「通貨(交換)比率に非常な無理を生じ」「日本側商社との半強制的な合弁の形式を以て、事実は現地住民の財産横領にも等しい結果」など、共栄圏の理想が完全なる看板倒れであったことを報告している。

 また、戦前に大阪商船の社長を務め、逓信(ていしん)大臣兼鉄道大臣などを経て昭和17年(1942年)1月にフィリピンの比島方面軍最高顧問に就任、昭和18年(1943年)10月に駐比特命全権大使に任ぜられた村田省蔵が、米軍のフィリピン再占領後の昭和20年(1945年)4月に、避難先の台湾で認め(したため)た「対比政策批判」(村田省蔵著『比島日記』巻末収録)には、以下のようなくだりがある。

 「裏附物資の伴はざる軍票を発行し何等の制限なく一切の支払に充てたること(中略)終(つい)には悪性インフレーシヨンに導くこと当然なり(中略)軍票は遂に貨幣たるの機能を失い、物々交換随所(ずいしょ)に行はれ、民衆ために塗炭(とたん)の苦に陥り餓殍(がひょう、餓死者の死体)途(みち)に横はる(よこたわる)に至る」

 「民衆需要の食糧につき切実なる考慮を払はざりしこと(中略)中央現地共に若し重点を少しく比島の民心把握に置き、作戦と密接な関係あるに思い致さば、此の問題に対する解決自ら(おのずから)他に在りしなるべし」

 「産業の開発に関し(中略)此等計画の多くは気候風土、土質慣習等を無視せる杜撰(ずさん)なるものなりしため(中略)徒(いたずら)に嘲笑の話題を残せしに過ぎず」

 「華僑をして経済機構より離脱せしめ(中略)華僑なき経済市場は混乱そのものと化し去りたり」

324NAME:2020/08/29(土) 15:58:04
■ 失敗の本質は人心掌握の失敗

 このように大東亜共栄圏経済において、「日本の要求は大東亜の要求と同じ」という前提そのものが誤っていたため、当然の結果として共栄圏建設は日本の利己的な搾取と無意味な現地経済の破壊に終わり、各地の生活者にもそのように認識されたのであった。

 これは日本人が直視しなければならない歴史の現実だが、軍事的な敗北以上に、現地の住民を心服させられなかったという心理的・政治的な敗退が大東亜戦争の「失敗の本質」であることがわかる。

 事実、日本占領下でフィリピン大統領を務めたホセ・ラウレルは昭和20年(1945年)3月、村田大使に対して「日本は比島人の心理を握む(つかむ)に失敗せり」と率直な分析を披露している。村田は「対比政策批判」の中でフィリピン人民衆がますます日本に背くと予想し、「之は独り比島のみならず程度の差こそあれ、必ずや普く(あまねく)圏内一般に通ずる」と看破している。

 この認識は、日本の敗戦後の昭和21年(1946年)に、高名な経済学者であるジョン・ケネス・ガルブレイスなどで構成された米戦略爆撃調査団が提出した報告で、日本の中国支配の失敗を分析した次の一文にも共有されている。

 「(日本は)日中戦争を軍事的勝利で、あるいはより重要なことなのだが、政治的勝利で終結させることができなかった」

 この報告書の邦訳は昭和25年(1950年)に、『日本戦争経済の崩壊』と題されて出版されたが、昭和16年(1941年)夏の開戦前夜に総力戦研究所と並んで「日本必敗」の予想を上申した秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)の中心的人物であった有澤廣巳(ひろみ)東京大学教授が序文を寄せ、「私は、これは日本帝国主義の『病理解剖』だと言いたい。(中略)日本の敗因のすべてがここに解剖されている」と述懐している。

 その有澤は、民間研究機関の国策研究会内で戦中に設置された「大東亜問題調査会」において憲法学者の鈴木安蔵とともに嘱託を委任されていたのだが、同調査会では「いやしくも新秩序をスローガンとする日本として帝国主義的形態は採るべきではないが、しからばいかなる形態を良しとするのかについては、学問的にも政策的にも五里霧中というほかはない」という状況で、住民の心理掌握という根源的・戦略的な問題が最後まで解決できなかったのである。

325NAME:2020/08/29(土) 15:58:28
■ 大東亜共栄圏の理想を自ら破砕

 理論上の問題だけではない。寛大さや民度に欠ける日本人は、占領地の住民との良好な関係を築くことに失敗した。これこそが、日本の敗戦を真の敗戦たらしめた原因である。村田省蔵は、「対比政策批判」の中で、次のように報告している。

 「(ラウレル大統領曰く)比島民衆は此三年間多数の日本人と初めて接触し、残忍なる民族との観念を懐くに至れり。日本が掲ぐる被圧迫民族解放の理想は、我等の共鳴措かざる(おかざる)所なるも、軍の行ふところは民衆の生活を顧みず、却って之を不安ならしめ、其(その)結果軍に対する不平不満の声は漸(ぜん)を追ふて全国に溺漫(できまん)す。殊に憲兵及び守備隊の苛察(かさつ)横暴に対する反感は、政府要路の者に至る迄浸潤し、今や到底救ふ可らざるに至れり」

 村田大使も、自身の観察に基づき、次のように問いかける。

 「昼間法規を無視し警官を憚らず(はばからず)横行闊歩(かっぽ)放縦自在の行動に出でしは何人(なんぴと)なりや。言語不通のため偶々(たまたま)意に叶はざれば(かなわざれば)直(ただち)に鉄拳を喰わせ、私刑を加へたるは何人なりや。鉄拳なればまだ可なり比島人の最も嫌悪する平手打を行ひ、終世恨を懐かしめたるは何人なりや。相手の如何(いかん)を問はず、時に衆人環視の裡(うち)に在て婦女子に対して又然り」

 「而も(しかも)其行動の粗野なる甚しきは白昼越中褌(えっちゅうふんどし)一つで大道を闊歩せしものあり、予はこれをマニラ、セブの両市に於て親しく目撃せり、我指導者階級にして比島側の高官巨商と交歓するに当り、孰れ(いずれ)が文化高き東洋一等国民なるかを疑はしむることあり」

 こうした現実は、「大東亜戦争における皇軍の大戦果は、(米・英・蘭をもつて東洋人より一段優る優越者なりと観ずる)妄想を完膚なく破砕し、大東亜の指導者たる皇国の卓越性を、原住民の眼前に立証した」(『大東亜建設の基本綱領』)ことが、束の間の「夢」に過ぎなかったことを物語る。

■  寛大さや品性の欠如、傲慢で自壊した日本

 また、山崎靖純もこう分析していた。

 「(日本人の)文化的・人倫的信念の欠如は(中略)『劣等感』的現象を伴つて居る。即ち、威張ること、抗日転向者を無暗(むやみ)に疑ふこと(彼等が転向する筈はないと自分が自分の文化を疑つて居る事)」

 日本の陸海軍や民間人の戦中の失敗を見れば、寛大さや品性の欠如、傲慢が人心掌握失敗の原因であり、それは日本人自身の自信のなさや劣等感、大東亜共栄圏構想の真理性に対する疑いに起因していたことがわかる。

 そして現在、共存共栄をモットーに実行される中国の一帯一路共栄圏や「中華民族の偉大な復興」も同じような根源的な矛盾を抱えており、現地住民の民心把握に失敗するという傾向が明確に現れていることは興味深い。

 これは、利己的で収奪的な「中華民族の偉大な復興」を一義的な目的とする中国の利益が、一帯一路参加国の利益と一致しないという単純な原因に解が求められる。真の目的が収奪であるため、どれだけ美辞麗句で取り繕っても民心は勝ち取れないのである。(続く)

326NAME:2020/10/14(水) 14:37:27
【戦後75年】 特攻同然に変更「突っ込みます」 サイパンに散った兄17歳
2020/10/14 11:05
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%88%a6%e5%be%8c%ef%bc%97%ef%bc%95%e5%b9%b4-%e7%89%b9%e6%94%bb%e5%90%8c%e7%84%b6%e3%81%ab%e5%a4%89%e6%9b%b4-%e7%aa%81%e3%81%a3%e8%be%bc%e3%81%bf%e3%81%be%e3%81%99-%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%91%e3%83%b3%e3%81%ab%e6%95%a3%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%85%84%ef%bc%91%ef%bc%97%e6%ad%b3/ar-BB19ZMqo

太平洋戦争末期、銃撃隊から急遽、特別攻撃に加わって、17歳で亡くなった少年がいた。「海軍第1御楯(みたて)特別攻撃隊」の高橋輝美飛行兵長。本土に対する爆撃を阻止しようと、B29の発進基地サイパン島を攻撃、未帰還となった。「戦闘機乗りとして、お国のため、家族を守るためにもっと活躍したかったはず」と、残された妹が、戦後75年が経った今もなお、輝美さんの死を悼み、慰霊を続けている。  (高橋義春) 

サイパン復仇攻撃

 香川県常磐村(現香川県観音寺市)出身の輝美さん。農家の三男として生まれ、旧制中学に入学するも昭和18年春、16歳で志願兵として山口県の岩国海軍航空隊に入隊。筑波(茨城県)、大分、台湾などを転戦後、19年11月26日、千葉県の館山基地から硫黄島(給油中継地)に向けて飛び立ち、翌27日、サイパン島に集結していたB29爆撃機を攻撃し、戦死した。

 “サイパン復仇(ふっきゅう)攻撃”ともいわれたというこの作戦。当初の予定では、隊員らは敵爆撃機を銃撃した後、反転し北に位置するパガン島に着陸し、潜水艦による救出を待つはずだったが、上官の一声で特攻同然の作戦に変わった。

 当時の偵察機の電信員がまとめた記録によると、作戦の打ち合わせ終了後、参謀の1人が、零戦隊員らに「パガンに戻るためには、零戦の燃料搭載量ではサイパン上空で5分間しか戦闘行動ができないが、どうするか」とたずねた。「突っ込みます」。隊員らは異口同音に返答したという。

327NAME:2020/10/14(水) 14:37:46
攻撃隊の最年少隊員

 戦闘機(零戦隊)11機による襲撃。しかも全弾撃ち尽くしたあとの捨て身の体当たり戦法は「4機破壊炎上、6機大破、23機損傷」(米側記録)したという。編成時は銃撃隊だったが、特攻同然だった同隊の戦功を全日本軍に知らせるさい、「第1御楯特別攻撃隊」と名付けられた。

攻撃隊の最年少だったという輝美さん。海軍入隊後、手紙で家族の面会を断る代わりに、ほぼ毎月のように父親の喜市さんらあてにハガキを送ったほか、貯金を家族に送金していた。

 《自分の事は何んにも思わないで下さい。どうせ御国の為に打ち捨てた命ですから…。散ったならば喜んで下さい。きっと御家の名を汚さないような立派なる働きをしますから…》 銃撃隊員から特攻隊員となった輝美さんの手紙の一部には、死を覚悟した決意がつづられていた。

 家族のもとに戦死の通知が届いた20年4月、村葬の際、母親のイワさんは参列した記者らの質問に「荒鷲の母です。私は泣きませぬ」と、日本軍の飛行隊の愛称「荒鷲」を名乗って気丈に語ったが、葬儀後、仏間で身をよじるようにして泣いていた。

 輝美さんの妹、岡本喜美子さん(78)=堺市中区=は四男の高橋治さん(90)=滋賀県在住=や姉たちから当時のそんな母の様子を聞かされて育ってきた。輝美さんの出征当時はまだ乳飲み子(8人きょうだいの末っ子)だったが、「最後の最後まで私を背負って、可愛がってくれていたことを母からよく聞かされた」と振り返る。

慰霊は今も続く

 「抗(あらが)うことのできない流れの中にあったとはいえ、兄はなぜ、若くして死を選ばなければならなかったのか」。輝美さんの記憶はまったくないが、戦死の状況を知った小学生のころから遺影を片時も放さず手もとに置き、兄を偲び続けている。 岡本さんは、輝美さんを慰霊する旅にも出かけ、広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)や千葉県館山市の海上自衛隊・館山航空基地(旧館山海軍航空隊基地)などを巡ってきた。

 輝美さんの月命日にあたる平成12年11月27日に訪れたサイパン島では、現地の戦没者慰霊碑に郷里(観音寺市)の地酒や有明浜の小石などを供えて冥福を祈った。透き通った海を見て「こんなきれいなところに兄が眠っているんだと思うとなぜか胸がいっぱいになり、涙があふれてしかたがなかった」と振り返る。

 サイパン島周辺を船で巡る慰霊の際、海中に残る零戦の残骸を見て、「サイパンの 零戦沈みし海原に 亡き兄偲び 鎮魂の旅」という歌を詠んだ。 「戦争さえなかったら」。若くして命を散らした輝美さんをはじめ、多くの戦死者を悼み続ける岡本さんの口癖だ。今も戦没者の魂を慰霊し続けている。

328NAME:2021/08/15(日) 05:19:59
SNSでつなぐ特攻の記憶 「肉声伝える使命」
2021/08/14 20:14
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%ef%bd%93%ef%bd%8e%ef%bd%93%e3%81%a7%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%90%e7%89%b9%e6%94%bb%e3%81%ae%e8%a8%98%e6%86%b6-%e3%80%8c%e8%82%89%e5%a3%b0%e4%bc%9d%e3%81%88%e3%82%8b%e4%bd%bf%e5%91%bd%e3%80%8d/ar-AANjJlF

15日で終戦から76年。戦争体験者らは高齢化し、記憶の継承は年々難しくなっている。元軍人や遺族つくる戦友会でも同じだ。「史実を知ることが平和につながる」と、SNS(会員制交流サイト)で肉声や記憶を伝える組織も出てきた。活動が功を奏し、会員数を伸ばした戦友会もある。

「自己犠牲することは苦しいけど、納得して『棺』となる自分の飛行機に乗るという考えでおりました」。2年前に96歳で死去した元特攻隊員、江名武彦さんが動画投稿サイト「ユーチューブ」で語る。特攻作戦や当時の心境を明かし、「戦友を思うと彼らの鎮魂と慰霊に一生を尽くさなければいけない」と話した。

元特攻隊員や遺族らでつくる「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」(東京)が、数年前に行ったインタビューを昨年、投稿した。今後も投稿を続け、次世代への記憶の共有を模索する。 顕彰会の石井光政事務局長(70)は「特攻について中身まで知る若者は少ない。存命の当事者がほとんどいない中、動画を通じて肉声を伝える使命感があった」と言う。

顕彰会はピーク時には約3700人の会員がいたが、現在は約1400人に減少した。存命する元隊員らは一人また一人と鬼籍に入っていく。20歳前後で戦場に散った特攻隊員は未婚だった人が多かったことも、継承のハードルになっている。

「若い世代が『利他の精神』で亡くなっていった英霊たちのことを、完璧に理解することは難しいと思う。動画でその一端に触れ、少しでも思いをはせてもらえれば」。石井事務局長はそう話した。 先の大戦の激戦地、南太平洋・ソロモン諸島での戦闘に従事した軍人や遺族の戦友会「全国ソロモン会」は、約10年前からSNSでの情報発信を続けてきた。

ツイッターやインスタグラムで遺骨収集などの活動を紹介したところ、この5年間で20〜30代の若い世代を中心に新たに約50人が入会した。祖父や曽祖父が当事者だった人もいるが「戦地で何があったかを学びたい」と、入会を決めた若者も少なくないという。

全国ソロモン会では昨年までに、戦地を知る会員が全員亡くなった。若い世代との接点を持つ意義は、今まで以上に大きくなっている。発信する情報がソロモン諸島の風景や市場の様子など多岐にわたるのは、「敷居が高い」と思わせないための工夫だ。

同会の崎津寛光(かんこう)事務局長(49)はこう話す。「世代交代のときが来てしまったが、史実を知ってもらい平和につなげることが戦友会の役目。英霊たちの存在が、今日の日本につながっているということを知ってもらいたい」(石橋明日佳)

329NAME:2021/08/15(日) 06:22:11
「彼らの犠牲があって今がある」元特攻隊員、千玄室さん
2021/8/14 16:07
https://www.sankei.com/article/20210814-CDZCV7ATWFPDFPKSGEH2V55BYA/

15日で終戦から76年。茶道裏千家前家元の千玄室さん(98)は学徒出陣し、特攻隊員だった過去を持つ。今も亡き戦友の存在を胸に刻み、「彼らの犠牲を忘れないでほしい」と願う。過去を正しく知り、未来に継承することが、今を生きる人の責務だと考えるからだ。

同志社大2年だった昭和18年、海軍に入隊。戦況が不利になった20年3月、配属されていた徳島航空隊でも特別攻撃隊が編成されることになった。 ある日、上官から1枚の紙を渡された。そこにあったのは「否・希望・熱望」の3つの選択肢。千さんはその日のうちに、「熱望」に二重丸を書いて提出した。「死にたくねえなあ」とこぼす同期もいた。

「死ぬ覚悟はできていました。でも当時は20、21歳の青二才。『死』の本質は分からなかった」。トルストイの「戦争と平和」を読んだり同期と語り合ったりしたが、死の意味について誰もが納得する答えを導き出せた仲間はいなかった。

同期約3300人のうち、400人超が特攻などで散った。出撃を前に涙ながらに「お母さん」と叫んだ声、敵艦に体当たりするときの「ツー」という最期の電信。強烈な体験は今も脳裏を離れることはない。

沖縄への出撃命令を待ちながら終戦を迎えた千さん。「生き残ったことはじくじたる思いだった」と話す。

戦後、当時の上官に会う機会があった。「私になぜ待機命令が出たのですか」。そう尋ねた千さんに上官は「天命だと思いなさい」と答えた。以来、自分に課せられた意義を問うようになったという。

平和は、願ったり叫んだりしてもやってはこない。どうすれば次の世代につなぐことができるのか。重みを痛感する毎日だ。「彼らの犠牲があって、今があることを忘れてはいけない」。涙を浮かべて訴えた。

330NAME:2021/08/16(月) 02:42:40
血で染まった甲板、母親の目の前で冷たい海に消えた子供たち…1700人もの命はなぜ奪われてしまったのか
早坂 隆 2021/08/15 17:10
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e8%a1%80%e3%81%a7%e6%9f%93%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f%e7%94%b2%e6%9d%bf-%e6%af%8d%e8%a6%aa%e3%81%ae%e7%9b%ae%e3%81%ae%e5%89%8d%e3%81%a7%e5%86%b7%e3%81%9f%e3%81%84%e6%b5%b7%e3%81%ab%e6%b6%88%e3%81%88%e3%81%9f%e5%ad%90%e4%be%9b%e3%81%9f%e3%81%a1-1700%e4%ba%ba%e3%82%82%e3%81%ae%e5%91%bd%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%a5%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b/ar-AANkNY5

「助けて!」北の海に響いた子供の絶叫、千切れた手足はカマス袋に…「北海道にたどり着けなかった」人々を襲った「不条理な暴力」 から続く

 2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦直後、樺太(サハリン)から引き揚げる途中の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が旧ソ連軍の潜水艦に相次いで攻撃を受け、1700人余りが犠牲となった三船遭難事件も、その一つである。  昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『 大東亜戦争の事件簿 』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。

 第二号新興丸の航海士だった中沢宏は、船が留萌港に入ってからも、すぐには下船せずにそのまま船上に残っていた。その時、中沢は不意に遠くの海上から砲声を聞いた。艦橋から双眼鏡を覗(のぞ)くと、日本の船舶が自分たちと同じように潜水艦に襲撃されている光景が目に入った。 この船が「泰東丸」であった。 泰東丸は本来、貨物船である。しかし、大泊港に避難民が溢れている状況を受けて、引揚船に転用されたのだった。

泰東丸が大泊港を出港したのは、21日の午後11時頃である。泰東丸は三船の中で最も軽量な約880トンという小型船だったが、そこに約780人もの人々が乗船していた。 船倉には米などの食糧が大量に積まれていた。南樺太からの引揚者の受け入れ先となっていた北海道でも、食糧不足が深刻化していたためである。 積荷を満載した泰東丸には、乗客のための空間はほとんどなかった。そのため、引揚者たちは甲板にゴザを敷くなどして過ごしていた。泰東丸も稚内には寄らず、小樽に直行する予定だった。

331NAME:2021/08/16(月) 02:43:00
出航から一夜明けた朝、海上の「異様な光景」

 この泰東丸の乗客たちが異変に気づいたのは、出航から一夜明けた22日の午前9時頃である。その異変とは、海上に大量の浮遊物が漂流している異様な光景であった。浮遊物の中には、リュックサックや子供用の水筒なども混ざっていた。 それらは攻撃を受けた第二号新興丸からの漂流物であった。そして、ついには傷ついた遺体までもが、いくつも発見されるようになった。第二号新興丸の悲劇など知る由もない泰東丸の乗客たちは、深刻な不安と恐怖に駆られた。 そんな泰東丸の前に潜水艦が出現したのは、午前9時40分頃のことであった。場所は留萌小平町の沖西方約25キロの辺りである。甲板にいた乗客たちから、「潜水艦だ!」との声が次々とあがった。

破壊されたボイラー、血で染まった甲板、乗客たちは海へ…

 すると、その潜水艦はすかさず泰東丸に向かって砲撃を開始。泰東丸の周囲に複数の水柱が立った。 船長の貫井慶二は、すぐにエンジンの停止を機関室に命令。さらに、白いシーツやテーブルクロスを白旗として掲げ、船として戦う気がないことを明確に示した。特設砲艦である第二号新興丸とは異なり、泰東丸には13ミリ機銃が船首に一丁装備されているだけで、反撃する能力などは有していなかった。 白旗を提示した船舶への攻撃は、国際法で禁じられている。しかも、戦争自体がすでに終結しているはずであった。 しかし、潜水艦からの砲撃は継続された。そしてついに、一発の砲弾が泰東丸の船腹を直撃。船体は大きな衝撃に包まれ、破壊されたボイラーから蒸気が一挙に吹き上がった。 その後、延べ十数発もの砲弾が泰東丸に撃ち込まれ、機銃掃射も行われた。まったく無抵抗の船への攻撃は一向に終わらなかった。 貫井船長は「全員退船」の命令を発したが、甲板は人々の血潮で紅く染まった。乗客たちは意を決して海に飛び込んだ。潜水艦はやがて姿を消した。

母親の目の前で力尽きた子供たち

 4人の子供の母親である鎌田翠は、母子5人で板切れに摑まって波間に浮いていた。しかし、力尽きた子供たちは1人、また1人と暗く冷たい海中へと消えていった。子供たちが抱えた恐怖、そして母親の無念はいかばかりだったであろう。 泰東丸の船体は、右舷側に大きく傾斜。最後は横倒しになるようなかたちで、轟音とともに沈んでいった。沈没の際に生まれた激しい渦によって、船体の周囲にいた人々は引っ張り込まれるようにして運命をともにした。

 船首に備えられていた機銃とその台座も漂流していたが、そこには十数名もの人々がしがみついていた。人々は胸まで海水に浸かりながら、立ち続けているような状態だった。 その中に1人の憲兵がいた。その憲兵は背中に重傷を負い、別の人にずっと寄りかかっていた。しかし、やがてその憲兵は、「もうこれ以上、迷惑はかけられない」と言い残し、自ら手を放して暗い海中に沈んでいったという。

 その後、漂流する生存者たちを救出したのは、たまたま近くを通りかかった機雷敷設艇「石埼(いしざき)」だった。石埼の乗組員たちは、一人でも多くの人命を助けようと懸命の救助活動にあたった。 泰東丸における犠牲者の数は、667名とされている。死亡率はほかの二船と比べても圧倒的に高い。 船長の貫井もその1人であった。

332NAME:2021/08/16(月) 02:44:53
我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こた母親の遺体

 以上が留萌沖で起きた「三船殉難事件」の実態である。 このような事件の発生を知った地元の漁師たちの中には、「こんなことが許されてたまるか」とすぐに船を出して、漂流者の救助にあたった者たちもいた。自身が攻撃される危険も考えられたが、(放っておけない) との思いからの行動だった。 漁師たちは遺体の収容にも努めたが、それらの中には我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こしている母親の姿もあったという。

 これら三船の殉難事件により、じつに延べ約1700人もの人々が犠牲となった。 改めて記すが、これは終戦後の話であり、しかも船はいずれも民間人を乗せた引揚船であった。 事件発生の一報は、札幌の第五方面軍司令部にも伝えられた。第五方面軍司令官・樋口季一郎陸軍中将は、すぐさま事件の詳細に関する徹底的な調査を命令。さらに大本営に事件の発生を伝え、連合国側を通じてソ連に「戦闘停止」を求めるよう要請した。 樋口からの要請を受けた大本営は、フィリピンのマッカーサー司令部に状況を伝えた。しかし、マッカーサー司令部からの返答はなかったとされる。

潜水艦の正体

 戦後の日本社会において、この事件が十分に語り継がれることはなかった。独立回復後も、日本政府の対応は緩慢だった。 昭和37(1962)年、留萌市の海を見渡す丘の上に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたが、これは地元の人々や引揚団体の募金活動によって建てられたものであった。

 昭和42(1967)年、北海道は厚生省(当時)の依頼に基づき、三船の遭難者名簿を作成。しかし、名前や年齢といった基本的な項目に間違いが多く発見されるなど、杜撰(ずさん)な作業と言わざるをえない内容だった。 昭和49(1974)年には、厚生省が泰東丸の捜索を防衛庁に依頼。海上自衛隊の掃海艇が投入されたが、船体を発見することはできなかった。翌年以降も捜索は継続されたが、昭和54(1979)年を最後に厚生省はこの計画を断念した。 そのあとに独自の活動を続けたのは、樺太からの引揚者などから成る社団法人・全国樺太連盟であった。

 昭和56(1981)年には、地元の漁船が一隻の沈没船を発見。その後、全国樺太連盟が海中調査を進め、その沈没船が泰東丸である可能性が高いことを公表した。しかし、現在に至るまで、同船は海底から引き揚げられていない。 総じて同事件に対する日本の国家としての姿勢には不満が残る。詳細に関する徹底調査や、船の引き揚げ作業、ソ連(ロシア)側への抗議など、いずれも不十分と言わざるをえない。歴代政府は、抗議どころか、潜水艦を「国籍不明」と位置付け、曖昧な姿勢をとり続けてきた。

 しかし、平成4(1992)年、秦郁彦拓殖大学教授(当時)の調査により、ソ連国防戦史研究所の回答を得た結果、三船を攻撃した潜水艦がソ連軍に属したものだったことが立証された。公式の文書によって、三船を攻撃したのはウラジオストクを拠点とするソ連海軍第一潜水艦隊所属の「L-12」ならびに「L-19」であると確認されたのである。 ちなみに、潜水艦L-12の艦長であったコノネンコという人物は、ウラジオストクに帰還後、ソ連国内で「英雄」とされ、今に至っている。

333NAME:2021/12/10(金) 01:07:05
太平洋戦争「アジア栄えさせるため」 元議員の学長、高校講演で発言
朝日新聞社
2021/12/09 21:06
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%a4%aa%e5%b9%b3%e6%b4%8b%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e6%a0%84%e3%81%88%e3%81%95%e3%81%9b%e3%82%8b%e3%81%9f%e3%82%81%e3%80%8d-%e5%85%83%e8%ad%b0%e5%93%a1%e3%81%ae%e5%ad%a6%e9%95%b7%e3%80%81%e9%ab%98%e6%a0%a1%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%81%a7%e7%99%ba%e8%a8%80/ar-AARDUZ9

元自民党衆院議員で文部科学副大臣などを務め、現在は九州国際大学(北九州市)学長の西川京子氏(76)が、10月に熊本県立高校であった講演会で太平洋戦争について「アジア全体を栄えさせ、独立させるための戦いだった」という趣旨の発言をしていたことがわかった。9日の県議会一般質問で取り上げられ、県教育委員会の古閑陽一教育長は事実関係を認め、「政府見解や学習指導要領とは一部異なる内容があった」との見解を示した。 九州国際大は朝日新聞の取材に、「学長が不在で取り次ぐことができない」としている。

 県教委や高校によると、講演会は10月8日、県立御船高校の創立100周年記念行事として行われ、全生徒約490人らが体育館やオンラインで聴いた。西川氏は約1時間の講演の中盤で、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼称した上で、その正当性を主張したという。

 講演会は同窓会や保護者会、学校職員でつくる実行委が主催。当初は元プロ野球選手を講師に予定していたがキャンセルとなり、同窓会長への一任で西川氏が選定された。学校は事前に講演内容を把握していなかったという。

 県教委は共産県議の指摘を受け、11月から同校を通じて教職員計約10人への聞き取りを実施。西川氏の発言は、日本のアジア諸国への侵略や植民地支配を認めて公式に謝罪した「村山談話」や、日本がアジアの人々に多大な損害を与えたなどとする中学校の学習指導要領と照らし、「説明が不十分だった」と判断した。

334NAME:2022/01/04(火) 07:26:57
「豪州兵と斬り結んだ白兵戦」
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100510_00000
[6] チャプター6 銃剣で突き合う白兵戦

ああ、その後で、退路を遮断して、それで大砲を撃ちかけた、逃げてくる、逃がすまいで、それをこう撃ち倒していると。両方撃ちあうと向こうもたまらんから引き返す、で、また出てくる。また撃ち返す。引き返す、また出てくる。これをもう4回繰り返したんですね。でも、4回目にはこっちもパーに。夕方近くなったからね。こっちも極端に言うと、磨り減ってなくなって、皆やられた。そういうことです。ただいえることは、これは余談になりますが、わたしの小隊長が自分の陣地から4、5m前へ進んだところで、向こうに撃たれて死んだわけです。その死骸を誰もやろうとしないから、わたしがこわごわ死骸を引っ張りに行った。ところが、それに対してオーストラリア兵は見えているはずです。当然、わたしが。ということは、戦後わたしそこに行って巻尺で、自分でいた穴、小隊長埋めたところ、それから敵の幕舎、そういったものを全部巻尺で計って、地図を作ったんです。それで見ると、なんとわたしのいた場所と敵の幕舎の間は26mしかないんです。それで幕舎逃げるわけない、幕舎から前に出てますから、向こうさんがそれよりもっとわたしたちに近いほうにいるわけです。で、小隊長も4、5m前に出ているから、少なくともその距離は20mもないはずです。だから見えているはずです。ジャングルの中だけれどね。だけど、一発も撃って来なかったんです。撃たれたらイチコロです。わたしも撃たれたらもう、そのときはそのときだと覚悟決めて行ったわけです。だけど、撃ってこないということは、「ああオーストラリア兵は武士道精神があるんだな」と、そう思ったんです。その証拠に、小隊長の負傷体を引っ張ってきて、それで中隊の指揮官に連絡とって、衛生兵に来てもらって、それで衛生兵と二人で小隊長の着ている服を全部脱がして裸にして、どこやられたか調べて、で、衛生兵は傷口を死んでいるのにきれいに消毒して、包帯をまいて、それから二人でまた服を着せて、それから埋めるのはお願いします、って言って衛生兵の上等兵は本部に引き返したんです。引き返したと同時にものすごく撃ってきたんです。だから向こうは見ていたんです、小隊長を埋めて、始末するまで。埋め終わると同時に、ものすごく撃ってきました。まぁそれで、わたしもやられたんです。

335NAME:2022/07/24(日) 23:58:52
武田邦彦氏が指摘。多くの日本人が知らない対米戦争の「事実」
2022.07.19
by 武田邦彦『武田邦彦メールマガジン「テレビが伝えない真実」』
https://www.mag2.com/p/news/545833

先の参院選に参政党の比例代表候補として出馬した中部大学元教授の武田邦彦さんは、遊説をしていて多くの日本人がさまざまな「事実」を間違って覚えていて、そのために意見がまとまらないと感じたそうです。そこで、今回の『武田邦彦メールマガジン『テレビが伝えない真実』』では、日本とアメリカの戦争について、改めて武田さんが認識している「事実」を伝えています。戦争が始まった理由については、白人相手の外交の初歩とも言えることへの不理解があったとし、ウクライナ戦争での対ロシア外交にも通じる問題だと指摘しています。

「戦争」ではなく「虐殺」だ。日本人が知らないアメリカ戦争の事実

参議院議員選挙を経験してみると、ほとんどの日本人が「事実」を間違って覚えているので、意見がまとまらない。もしかすると日本人の真面目さと長い間の日本の歴史から言って、「本当のこと」をみんなが理解していれば、争いのない、勢いのある日本になるのではないか!と思った。 今回はその第1回で、「日本とアメリカの戦争」について簡単にまとめてみたい。

(1)なぜアメリカとの戦争になったのか?

多くの日本人が、なぜアメリカと戦争になったと考えているかというと、イ)日本が軍国主義だったから、ロ)真珠湾攻撃をしたから、と思っている。でも本当はもっと簡単な理由だ。

戦争になったのは、イ)アメリカも日本も中国を狙っていた、ロ)日本が先に中国に進出した、ハ)アメリカが中国の鉄道の利権をよこせと言ったのを日本が拒否した、二)日本はアメリカから石油の77%、鉄鋼の70%を買っていた、ということだ。

アメリカは「金がすべて」の国だから、お金さえ渡せば問題は無くなる。ところが日本人は「正義」が頭をよぎるので、「日本人が血を流して満州を取ったのだ」、「北中国(北支)も日本が戦って取ったのだ」と思っていたから、アメリカからの横やりに腹を立てた。

白人相手の外交は「損得」で決まり、決まった後「正義」の衣をかぶせる。そんな初歩的なことも当時の日本人には分からなかったのだ。それは今でも同じで、国際紛争や外交の問題が起きると、すぐ「正義」で頭が熱くなってしまう。

ウクライナ戦争もそうだ。ロシアがウクライナに侵入したと報じられるとカッとなる。カッとなってロシアを激しく非難するものだから、事実が次第に明らかになって、本当はウクライナが仕掛けたことが分かっても、振りかざした拳(こぶし)を下ろすことができずに、「ロシアが悪い」に一辺倒になり、円は安くなるし、石油は高くなってしまう。オッチョコチョイなのかもしれない。

アメリカとの戦争も同じだった。アメリカが欲しがったのは、中国の鉄道利権だけで、その他は日本でよいという感触だった。それは中国利権の一部にしかすぎず、戦争などになることはなかった。その前に日本は満州国の問題で国際連盟を脱退しているが、もともとアメリカは国際連盟には参加していないのだから、それも問題はない。

日本は正義とか恩とかを問題にするけれど、アメリカ人は歴史も浅く、「お金」がすべてだ。表面上は「正義、自由」などと言うのでついついそれに気を取られるが、実際のアメリカの行動はお金だけだから、本当はわかりやすい。

336NAME:2022/07/24(日) 23:59:05
(2)戦争はアメリカだけが相手ではなかった

これも日本の教育が間違っていて、先の戦争はアメリカとやりアメリカに負けたと思っている日本人が多いが、実際には、戦ったのはアメリカとイギリス、オランダ、それに白人側に寝返った中国(白い中国という)だった。

そして、イギリス、オランダには完勝し、中国には圧倒的に優勢だった。アメリカとは戦争の後半、太平洋の海洋戦で敗れ、劣勢になったが、最終的な勝敗は不明のまま終わった??というと、ほとんどの日本人はびっくりするし、なにか誤魔化そうとしていると思う。洗脳とは恐ろしいものだ。
(3)アメリカとの戦争は終わらなかった

「戦争」とは「軍隊と軍隊」が戦うものであり、「軍隊が丸腰の市民を殺す」のは戦争ではなく、虐殺である。アメリカとの戦争は、1945年3月のルソン島(フィリピン)と硫黄島の戦いが最後で、4月1日に始まった沖縄戦は「戦争」と呼べるものではない。

つまり、軍隊と軍隊が戦う普通に言う「戦争」は3月17日の硫黄島の日本軍玉砕が最後で、そのあとは日本軍とアメリカ軍の戦闘は部分的なもので、アメリカ軍は日本軍を攻めなかった。

3月10日の東京大空襲から、アメリカ軍は日本軍とは戦わず、もっぱら日本の婦女子(非戦闘員)を標的にして襲った。このようなことは日本ではほとんどないが、ヨーロッパのように残虐な民族では時々起こっている。その多くは宗教的なものを含んでいて、例えば十字軍によるコンスタンチノーブル荒凌や聖バルテルミーの虐殺などが有名──でも戦争ではなく虐殺に分類されている。戦争は残虐にならないようにルールがある。

(『武田邦彦メールマガジン『テレビが伝えない真実』』2022年7月15日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)

337NAME:2023/03/31(金) 01:38:57
アジアを奮い立たせた勝利 「太陽の国が、明るい光を与えた」
2018/8/5 07:00
https://www.sankei.com/article/20180805-DNA3PKZDBVJAPIDOHMM3RK6L3I/3/

ロシア皇帝ニコライ2世がアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋(あっせん)を受け入れ、日露講和のポーツマス条約が調印されたのは、日本海海戦からほぼ3カ月後の9月5日である。

 近代戦で初めて、有色人種の国家が白色人種の大国を独力で打ち破ったのだ。日本の勝利は、欧米列強の植民地だったアジア諸地域の人々に、独立への勇気を与えたといえるだろう。

 インドネシアの高校歴史教科書(2000年版)には、こう書かれている。 「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。(中略)太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである」(※3)

 一方、欧米列強では、フランスやドイツなどで日本を脅威とする黄禍論が高まった。ことに日露の仲介役を務めたアメリカは、日本に肩入れすることで満州利権に食い込む思惑もあったが、あてが外れたため次第に日本をライバル視する傾向が強くなる。講和から36年後、セオドア・ルーズベルトと同じファミリーネームをもつ米大統領が日本に強烈なしっぺ返しをするのだから、歴史は皮肉なものだ。

 日本国内でも、勝利の余韻は長く続かなかった。講和条約でロシアから賠償金を取れなかったことに国民は猛反発し、暴徒が内務大臣官邸などを襲う日比谷焼打事件が発生。巨額の債務の穴埋めと国民の批判をかわすため、政府は以後、対外強硬路線に傾くようになる。

 日露戦争の勝利により、日本は列強の一員として歩み出した。しかしそれは、新たな国際摩擦への一歩でもあった。 裕仁親王、4歳の夏である--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

338NAME:2023/05/13(土) 22:17:46
太平洋戦争で旧日本軍が「緒戦に連戦連勝を重ね、後半に至り増長し始めた」という説明は事実でしょうか?
自衛隊上がりの方など、そう仰っている方を結構見かけます。

しかし、アメリカの強大さなど旧日本軍とて百も承知だったはず。そんな単純に増長するほど旧日本軍は愚かだったのでしょうか? (もちろん、アメリカ相手に真珠湾攻撃という結果的に奇襲となる形で戦争を仕掛けたこと自体は愚かだったと思います)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1181534011

アサノ ヒカリさん 2012/2/16 12:51

「緒戦に連戦連勝を重ね、後半に至り増長し始めた」についてですが、戦争後半と言うより戦争序盤の昭和17年春頃は日本中が戦勝気分に浮かれていました。無理も無い事です・・・実際に占領地はどんどん拡大し、戦果もほぼ間違いの無い物でしたから。実際にはアメリカに対しては日本は大きな脅威を持っていました。それは開戦以前の幕末の「ペリー来航」以来ずーとだったのです。しかし覚悟して実際にやってみたら「何だ!結構弱いじゃないか」と初戦で思ってしまったのです。そして日本の開戦にあたっての戦略眼はけっして間違った物ではありませんでした。開戦から約半年の間に北はアリューシャン南はビスマーク諸島、西はシンガポールまで勢力下に収めたからです。実に地球の面積の十分の一広さが日本の勢力下になったのです。

増長していたのは陸軍より海軍の上層部でした。国民の間にも「勝利」に浮かれる気分が蔓延し、それまで反戦派だった知識人にも軍を賛美する人も出て来たのでした。 しかし、アメリカの強大さなど旧日本軍とて百も承知だったはず。についてですが開戦直前の「総力戦研究所」いわゆる「総研」の戦争の推移に関する報告書では「敗戦」は予見されていました。その報告会の席上では居並ぶ戦争指導者達は黙って聞いていたそうです。 そんな単純に増長するほど旧日本軍は愚かだったのでしょうか?についてですが決して日本の兵士達が愚かな訳ではありません。軍の上層部があまりにも頑迷で無知だったのです。愚かだったのは軍を指揮する者達であって将兵は世界に比類なき程に勇敢で優秀だったのは当時の敵国も認めている事です。

何故アメリカ相手に戦ったか?それは当時の状況を知らなくてはいけません。私自身は「自衛戦争」とか「戦うも亡国戦わないのも亡国、されば戦って亡国の道を」とも言いません。 歴史を詳しく知る必要があります。もしあなたが他の会社の人間に「お前の会社の全て俺達に渡せ、そこで得た収入も全部だ。後は家に帰って自給自足で生活しろ」と言われたらどうしますか?驚きより怒りが先に立つ筈です。そうなんです!明治建国以来に築いた権益を全て放棄しろ!と言われたら「ハイそうですか」とはなる訳が無いのです。欧米諸国はアジアに植民地を築き膨大な権益を得ているのですから「お前に言われたく無いよ!」ってなりますよね? 奇襲となる形で戦争を仕掛けたこと自体は愚かだったと思います。についてですが、もしハワイを攻撃しなかったら戦前の構想の様に「艦隊決戦」になって日本は早々に敗北したでしょうね。

339NAME:2023/05/13(土) 22:18:01
ID非表示さん 2012/2/20 21:30(編集あり)

日英同盟が破棄されて以降、日本は単独で陸軍は世界最大の陸軍国ソビエトを、海軍は世界最大の海軍国米国をそれぞれ仮想敵国とせざるを得ない状況になりました。

昭和10年頃以降、陸軍は、満ソ国境で急速に増強されるソ連軍と対峙し、彼我の戦力格差が年々拡大する事態を憂慮し、しかも、兵力的に優勢を維持できない事実も認めざるを得ませんでした。海軍も、米国の大建艦計画を前に陸軍と同様の状況でした。陸海軍とも、自軍を取り巻く軍事バランスが我に不利であることは百も承知であり、帝国国防方針では先制攻撃、短期決戦を戦争ドクトリンとし、国家総力戦、総力戦は務めて避ける事としておりました。つまり、仮想帝国に対して陸海軍とも、国家総力戦、長期戦となった場合に勝算はないことを重々承知していたのです。

太平洋戦争を開戦するに当たり、陸海軍が持った明確な作戦計画は第一期作戦(南方資源地帯の占領)だけで、その後の計画は不明瞭でした。「戦いつつ国力を増強し、長期不敗の態勢を構築し、ドイツと共同で英国の脱落を図り、講和に持ち込む。」という具体性に欠けるものでした。これは最初から米国本土を占領して敵を降伏させるという軍事力がないことを確信していたからです。

第一期作戦は予想以上の成功裏に終了し、陸軍は作戦兵力のうち、占領地の治安維持に必要な兵力以外を懸案事項であった支那事変解決のため、ビルマおよび大陸へ転進させました。これより以降、太平洋戦争は帝国海軍対米国となったのです。海軍は第二期作戦(ミッドウェー、フィジー・サモア。ニューカレドニア攻略作戦など)を実行に移しました。目的は米国艦隊主力の撃滅および豪州を離脱させる事でした。その緒戦であるミッドウェー、ソロモン、ニューギニアで躓き、この時点で、日本の帝国国国防方針が破たんしたのです。

帝国国国防方針は攻勢のみを想定し、守勢の文字は全くありませんでした。これ以降、日本は有効な戦争ドクトリンのないまま敗戦の深みにはまっていくことになったのです。太平洋正面は海軍の担当でしたが、この区分けは攻勢時のみ機能しましたが、海軍が攻勢作戦不能となり守勢に回ると要地防衛戦が主体となっていきます。そこで、陸軍部隊が泥縄式に準備もなく派遣されました。陸軍は南方の戦場も、海上機動も、対米戦も想定しておらず、米軍に対する認識も欠いていました。

たしかに、陸軍主流は米軍をなめていた節があります。これは、第一次世界大戦で観戦武官が報告した米軍の戦闘能力は極めて低いもので、それはその時点では事実でしたが、これが陸軍の米国陸軍に対する強い印象として刷り込まれ、その後の米軍の進化を見過ごす事につながりました。しかし、日本陸海軍は終始増長はしていなかったと思われます。むしろ、自らの非力さと敵の強大さに怯えていたとするのが真実ではないでしょうか。それ故に、身の丈以上に乾坤一擲の攻勢作戦、短期決戦にすがったのでしょう。

陸軍については蓋を開けてみれば、全くの別世界で戦う羽目になり、持てる力すら発揮することなく潰えていったのです。力こそ正義が国際ルールだったあの時代に、昭和期の大日本帝国は独力では、その首都を占領して城下の誓いをさせる事が出来ない強大な国を敵として向かわなければならない悲しい定めから逃れる事は出来なかったのです。これを愚かな姿と笑えるでしょうか。

340NAME:2023/08/10(木) 03:12:33
未来の子供たちに謝罪の宿命を背負わせてはいけない=安倍首相
2015年8月14日7:58 午後8年前更新
ロイター
https://jp.reuters.com/article/abe-ww2-press-idJPKCN0QJ12X20150814
8月14日、安倍晋三首相は午後発表した戦後70年の安倍首相談話について、「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。写真は、会見する安倍首相のテレビニュース画面、14日撮影(2015年 ロイター/Thomas Peter)

[東京 14日 ロイター] - 安倍晋三首相は、14日午後発表した戦後70年の安倍首相談話について、「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。

先の大戦への「おわびの気持ちを引き継いでいく」と述べるとともに、「戦争とかかわりのない未来の子供たちが謝罪を続けないといけない宿命を背負わせてはいけない」と訴えた。

今回の談話で焦点である「植民地支配」や「侵略」「おわび」と言った文言について、1995年の村山富一首相談話や2005年の小泉純一郎首相談話とは異なる形で表現された。安倍首相は「戦後80年、90年、100年に向けて、日本が目指すべき国家像をできるだけ多くの国民と共有できるように談話を作成した」と説明した。 

また「おわびの気持ちは戦後の内閣が一貫して持ち続けてきた」とし、「私の内閣でも引き継いでいく」と強調した。 「侵略」については、談話のなかで「事変、侵略、戦争」との語を列挙した点に触れ、「どのような行為が侵略かは、歴史家に判断をゆだねるべき」と述べるにとどめた。

中国に対して「安倍談話をありのまま受け止めて欲しい」と指摘。「中国とは関係改善していくことで一致している」「中国に対して日本の対話のドアは常にオープン」と強調し、機会があれば日中首脳会談を実現したいとの意欲を強調した。 安保法案について「特定の国を想定したものでない」とした。同時に「ウクライナや南シナ海、東シナ海などで、力による現状変更は許すことできない」とも指摘した。

341NAME:2023/08/10(木) 03:12:49
2015年8月14日6:43 午後8年前更新
戦後70年談話、「謝罪の宿命背負わせてはならない」
https://jp.reuters.com/article/abe-statement-postwar-idJPKCN0QJ0UH20150814

[東京 14日 ロイター] - 安倍晋三首相は14日、戦後70年談話を発表。先の大戦に関わりのない子孫やその先の世代には、「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とする一方、「謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と強調した。

焦点の1つだった「おわび」の表現については、歴代内閣がこれまで「痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた」ことを踏まえ、こうした立場は「今後も揺るぎない」とした。 過去の行いについて「事変、侵略、戦争」の3つを挙げ、今後いかなる武力の威嚇や行使も二度と用いてはならないとの決意を表明。罪もない人々に「計り知れない損害と苦痛」を与えた事実を直視し、戦争で命を失った人々に対する「痛惜の念」を表した。そのうえで、植民地支配から永遠に決別することを誓った。

<不戦のメッセージを強調>

安倍首相は記者会見で「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。 焦点だった「植民地支配」や「侵略」「おわび」などの文言について、今回の談話では1995年の村山富一首相談話や2005年の小泉純一郎首相談話とは異なる形で表現された。首相は「戦後80年、90年、100年に向けて、日本が目指すべき国家像をできるだけ多くの国民と共有できるように談話を作成した」と説明。

また「おわびの気持ちは戦後の内閣が一貫して持ち続けてきた」とし、「私の内閣でも引き継いでいく」と述べた。 「侵略」については、談話のなかで「事変、侵略、戦争」との語を列挙した点に触れ、「どのような行為が侵略かは、歴史家に判断をゆだねるべき」と述べるにとどめた。

中国に対しては、「安倍談話をありのまま受け止めて欲しい」と指摘。「中国とは関係改善していくことで一致している」「中国に対して日本の対話のドアは常にオープン」と強調し、機会があれば日中首脳会談を実現したいとの意欲を強調した。

安保法案について、安倍首相は「特定の国を想定したものでない」と語り、同時に「ウクライナや南シナ海、東シナ海などで、力による現状変更は許すことできない」とも指摘した。

今回の談話では、国際秩序への「挑戦者」となってしまった過去を胸に刻み、今後は「積極的平和主義」の旗を掲げ、世界の平和と繁栄に貢献する考えを示した。 また、女性の人権についても触れ、戦場の陰で「深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも忘れてはならない」とし、21世紀は女性の人権が傷つけられることのないよう世界でリーダーシップを発揮することも盛り込んだ。 また、戦後50年の村山談話と同様、唯一の戦争被爆国として「核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指す」方針も示した。

342NAME:2023/08/10(木) 03:13:19
2023年8月9日(水) よる11時〜
BS朝日「レジェンドキュメント 〜今、このドキュメンタリーを見よ!〜」
https://newscast.jp/news/3839016
https://www.bs-asahi.co.jp/legendocument/lineup/prg_049/

#49 宿命と、忘却と〜“たった70年前”の戦争〜
2023年8月9日(水) 戦争を引き起こした
石川県かほく市の坂本信一さん、93歳。胸の内には、痛恨の思いがある…
1944年9月、中国共産党が宣伝工作に来ているとの情報を得て、集落で中国人の若い男を捕まえた。中隊長は青年をスパイとみなし、坂本さんに処刑を命じた。軍隊生活で人を殺したのは、初めてだった。
亡き妻の墓前で彼の胸にこみあげる思いとは。
殺害体験を語る全国の証言者を通して、語り継がれなかった戦争を考える。

【初回放送】北陸朝日放送:2016年3月27日

343NAME:2023/08/16(水) 00:13:09
タイ国王の「友好の絆」忘れるな ジャーナリスト・井上和彦
2016/11/22 09:46
https://www.sankei.com/article/20161122-2JZDG7FWJBIQNFRD7OLHAXK3EY/

タイのプミポン国王が10月、88歳で逝去した。70年前の1946(昭和21)年に即位。日本の戦没者へひとかたならぬ思いを寄せ、皇室との深い関係を築いてきた国王だけに、惜しまれてならない。日本がアジアに果たす役割を高く評価し、日本を支持してきたのがタイである。両国がいかに親密な関係にあったかを、現代史から探ってみたい。

 ≪列強のアジア進出に共に戦う≫ 《日本国及「タイ」国ハ相互ノ独立及主権ノ尊重ノ基礎ニ於テ両国間ニ同盟ヲ設定ス》。昭和16年12月に締結された「日泰攻守同盟条約」(日タイ軍事同盟)の第1条である。その成立過程では、日本軍のタイ進駐が先行したため両軍の間で小規模な戦闘もあったが、条約締結後は同盟国として大東亜戦争を戦った。タイ政府は、翌年1月に米英に対して宣戦布告し連合軍と戦闘状態に入っている。しかし、こうした事実は今ではほとんど忘れられているようだ。

 大東亜戦争前夜、アジア全域は欧米列強の植民地であり、独立国は日本とタイだけだった。欧米列強の侵略を阻止・追放するには日本とタイが共闘することが不可欠であり、つまり日タイ同盟は「最後の防波堤」だったのである。

タイは同盟締結前から日本を支持してきた。満州国をいち早く承認し、満州国をめぐる問題についてリットン調査団が提出した報告書の同意確認でも、42カ国が賛成したなかで棄権票を投じている。

 またタイは、日本がABCD包囲網で兵糧攻めにあっていたとき、生ゴムと綿を日本に供給した。この決断をしたのが当時のピブン首相だった。同盟が締結されるや、ピブン首相は中国国民党の蒋介石に対して「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」という勧告の電報を打っている。(『アジアに生きる大東亜戦争』展転社)

 ≪「身を殺して仁をなした日本」≫ タイ国民の中には、同国に進駐した日本軍を「占領軍」とみなした人もいたようだ。しかし、後に首相となるククリット・プラモード氏は、自らが主幹を務めたサイヤム・ラット紙に戦後、次のように書き記している。 《日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである》

344NAME:2023/08/16(水) 00:13:59
タイには『クーカム』というドラマがある。戦時下の日本海軍士官とタイ人女性の恋愛小説(邦題『メナムの残照』)をもとに1970年にテレビドラマ化されて以来何度もリメークされ、映画化されている。もし日本軍とタイの人々との関係が良好でなければ、このようなドラマが制作されることはなかっただろう。

 防衛面でも戦前からタイには日本から兵器供与が行われていた。タイの発注を受け、潜水艦4隻を含む多くの戦闘艦が日本で建造された。昭和12年に横須賀で建造されたメークロン号などはその後長くタイ海軍で使われ、いまも完全な姿で保存されている。また戦時中、一式戦闘機「隼」や九五式軽戦車なども供与されていた。 だが昭和20年8月15日、日本は無条件降伏した。このときタイは速やかに日本との同盟を破棄し、締結した協定をすべて無効とする行動に出た。タイが王室と独立を保ち続けるためには苦渋の選択だったに違いない。

 ≪靖国神社に鎮魂の誠をささげた≫ 連合軍はタイに戦犯裁判の実施を通告した。タイは自国が独自に裁判を行うとして、ピブン元首相ら10人を逮捕・抑留した。しかし翌年3月、戦争犯罪人の処分に関する法律は無効であるとして全員を釈放している。(前掲書)

それから約10年を経た昭和30年、戦時中タイ駐屯軍司令官だった中村明人元中将がタイに招待され、国民から大きな歓迎を受けた。タイの人々が日本へ寄せていた思いの表れだった。 昭和38年5月、プミポン国王が来日し、天皇陛下と会見した。プミポン国王は靖国神社参拝を希望したというが、日本の外務省が難色を示したため、代わって中村元中将が参拝した。社報『靖國』(38年7月号)に掲載された中村元中将の手記によれば、NHKホールで開かれた歓迎音楽会の休憩時間にプミポン国王が中村元中将を別席に招き、靖国神社と千鳥ケ淵墓苑に参拝してもらいたいとの意向を伝えたのだという。

 同年6月4日にはプミポン国王からの生花が神前に供えられ、鎮魂の誠がささげられた。この日のことは『靖國神社百年史』にも記されている。 プミポン国王は日本との関係を重視し、戦没者に対しても敬意の念を忘れなかった。現代に生きる日本人は、プミポン国王が守り続けた両国友好の絆を維持していかなければならないだろう。(ジャーナリスト・井上和彦 いのうえ かずひこ)

345NAME:2023/09/13(水) 03:04:01
「日本の歴史」⑥昭和篇 「昭和の大戦」への道 渡部昇一・著 WAC 2010年刊
http://nawa-fumihito.com/library039.html

「日米開戦」はチャーチルが仕組んだ

 盧溝橋(ろこうきょう)から始まったシナ事変(日華事変)はずるずると拡大していったが、その一方で、日本を取り巻く国際環境はますます悪化していった。気がつくと日本は、ABCD包囲陣に取り囲まれて、石油をはじめとする戦略物資がまったく入ってこなくなっていた。Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはオランダ(ダッチ)である。オランダは今のインドネシアを植民地にしていた(当時、インドネシアは蘭領東印度諸島と呼ばれていた)。最近の研究によると、この包囲陣を画策したのは、どうやらイギリスのチャーチル首相であったようである。

 第二次欧州大戦は1939年(昭和14)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって始まった。 ちなみに、ドイツに宣戦布告したのはイギリスであった。イギリスはポーランドとの条約にもとづいてドイツと開戦した。ヒトラーは元来イギリスと戦うことは欲していなかった。しかしひとたび戦端が開かれると、ドイツ軍の圧倒的な強さに、イギリスは風前の灯といったありさまであった。チャーチルが首相になったのも、連敗につぐ連敗でチェンバレン首相が政権を放り出したからであった。 このような状態を見てチャーチルが考えたのは、「イギリスを救うためには、この戦争にアメリカを引きずりこむしかない」ということであった。 だが、当時のアメリカは、とうてい参戦する見込みがない。というのも「第一次大戦のとき、連合国の一員として参戦したけれども、犠牲ばかり大きくて結局は何の見返りもなかったではないか。もうヨーロッパの戦争などごめんだ」という声が国民の間で圧倒的であったからだ。ルーズベルト自身、「絶対に参戦しない」という公約で大統領に当選している人である。 そこでチャーチルは、まず太平洋で日米戦争が起こるようにしむけるという迂回作戦を採ることにした。アメリカが日本と戦争を始めれば、日本と同盟関係にあるドイツはアメリカと自動的に戦うことになる――それが、チャーチルのシナリオであった。 もちろん、放っておいても日米戦争が起こるわけではないし、アメリカが日本に宣戦布告するということもありえない。あるとすれば、日本がアメリカに戦争をしかけるようにするしかない。そこでチャーチルは、アメリカやオランダを説得して、ABCD包囲陣を作ったのである。 戦略物資(つまり近代工業に必要な物資)、中でも石油がなくなれば、日本は“何か”を始めるはずだと読んだチャーチルの計算は正しかった。昭和16年(1941)12月8日、ついに日本は真珠湾攻撃を行なう。

346NAME:2023/09/13(水) 03:04:27
 “泥縄式”に始まった対米戦争  [TOP]

 日米開戦は、このような経緯によって始まったことである。何も日本が好戦的だったり、侵略的だったから戦争を始めたのではない。むしろ、海軍などはギリギリまでアメリカと戦争はしたくなかったのである。また陸軍は、元来、アメリカを仮想敵国と考えたことがなかった。 昭和天皇が終戦直後に側近に語られた記録が残されているが、それによると「この戦争の遠因はアメリカの移民禁止にあり、引き金になったのは石油禁輸だ」という主旨のご発言がある(『昭和天皇独白録』文藝春秋)。これほど簡潔で明瞭な――疑う余地がない――史観は聞くこと稀である。事実、ただでさえ世界経済がブロック化しているところに、石油まで入って来なくなっては、戦争を始めるしか選択肢は残されていなかったのである。 むろん、このような状態に追い詰められるようになった原因の一つには、軍の暴走を政府が押さえられないという憲法上の欠陥があったわけだが、それでも、東京裁判が言うような「戦争遂行の共同謀議」というような事実は、どこにもない。 東京裁判では、「狡猾(こうかつ)な日本の指導者が集まって、世界に戦争をしかける密議を凝らしていた」というような言われ方をした。そういうイメージは、今なお日本人の間にも強い。だが、当時の日本の状況は、何度も繰り返すように「共同謀議」どころの騒ぎではなかった。 何せ海軍が対米戦争突入の研究を始めたのは石油禁輸の問題が出てからであり、真珠湾攻撃の図上演習は作戦開始の3カ月前からようやく始まったというありさまである。まさに“泥縄式”である。それまでの帝国海軍は、小笠原沖あたりでアメリカの円形に配置した大海軍と決戦するというような、迎撃戦型の海戦を主として研究していたのである。 それなのに今日でも日本のイメージが悪いのは、やはり真珠湾攻撃が“スニーク・アタックsneak attack=こっそり忍び足で近づいて行なう卑怯な攻撃)となってしまったことが、最も大きいであろう。 日本が真珠湾を奇襲攻撃したというニュースは、それまで戦争に消極的だったアメリカ世論をいっぺんに変えてしまった。一夜にして、日本を叩き潰すことがアメリカ人にとって“正義”になったのである。今でも日米関係で何か問題が起こると、「やはり日本は油断がならない。真珠湾を忘れるな」という雰囲気になるのは、このときの記憶が生々しいからである。

347NAME:2023/09/13(水) 03:05:17
 日本の外交官が「奇襲攻撃」にしてしまった  [TOP]

 いまだに真珠湾攻撃は日本にとってマイナスの要素になっているわけだが、これが最初から奇襲攻撃をするつもりで行なわれたのであれば、まだ諦めもつく。小狡(ずる)い日本人という悪評も甘受しよう。しかし、現実には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。政府も連合艦隊も、ちゃんと開戦の通告をやってから真珠湾に最初の一発を落とそうと思っていたのである。 ところが、これは予定どおりに行なわれなかった。それは、すべてワシントンの日本大使館員の怠慢に由来する(以下の記述は徳岡孝夫「誰が一二月八日を国辱の日にしたか」〈『文藝春秋』昭和61年1月号〉によるところが多い。なお、この事実は私自身も、当時のことを知る外交官に聞いて確認した)。 真珠湾攻撃に当たって、海軍軍令部総長の永野修身は宮中に参内し、昭和天皇に「戦争はすべて堂々とやって、どこからも非難を受けぬように注意いたします」と奏上した。また、連合艦隊をハワイ沖に送り出すに当たって、山本五十六長官は「くれぐれも偏し討ちにならぬよう」と念を押したという。 このときの日本政府の計画では、開戦の30分前にはアメリカ国務省のコーデル・ハル長官に国交断絶の通告を渡すことになっていたようである。 「たった30分前では奇襲と同じではないか」という議論は成り立たない。というのも、この当時は、すでに開戦前夜のような状況が続いていた。すでに対日石油禁輸は実行されていたし、アメリカにある日本資産の凍結が行なわれていた。また、アメリカ側の事実上の最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」が日本に渡されていたからである。 このような状況であるから、アメリカ側も「いつ日本は宣戦布告を出してくるのか」と待っていたのである。その後の研究では、外務省の暗号は解読されていた上に、機動部隊の動きも知られていたという。だから、日本が開戦の30分前に断交通告を出してきても、彼らは驚かなかったはずである。もちろん、完全に合法的である。
 ところが、この予定は大幅に遅れ、実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本の野村(吉三郎)駐米大使、来栖(三郎)特命全権大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである。 ルーズベルトは、日本側の失態を最大限に利用した。アメリカ国民のみならず、世界に向けて「日本は奇襲攻撃をしてから、のうのうと断交通知を持ってきた。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングは見たことがない」ということを印象づけたのだ。 このとき断交通知が遅れたことについては、戦後長い間「大使館員がタイプライターに不慣れなために予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うのである。

348NAME:2023/09/13(水) 03:05:30
開戦前日(ワシントン時間12月6日)の午前中、外務省は野村大使に向けてパイロット・メッセージ(予告電報)を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にアメリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。 何度も言うが、当時はすでに開戦前夜のごとき状況である。日米交渉の当事者であるワシントンの外交官たちは、そのことを十分知っていたはずである。 ところが、いったい何を血迷ったのか、この日本大使館の連中は一人残らず、夜になったら引き上げてしまったのである。すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行なわれることになっていたのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。 さて、運命の12月7日(ワシントン時間)、朝9時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これを見た武官が「何か大事な電報ではないのか」と大使館員に連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。同じ日本人として痛憤に耐えない。 しかも、彼らのミスはそれだけに留まらない。 あわてて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。しかも、この文書を現地時間の午後1時にアメリカに手渡せと書いてある。 大使館員が震え上がったのは言うまでもない。ところが、その緊張のせいか、あるいは前夜、当直も置かずに送別会をやったという罪の意識からか、電文をタイプで清書しようと思っても間違いの連続で、いっこうに捗(はかど)らない。そこで彼らがやったのは最悪の判断であった。ハル長官に電話して、「午後1時の約束を、もう1時間延ばしていただけないか」と頼んだのだ。 いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っているのであろう。外務省は、「現地時間の午後1時に渡せ」と指示してきているのだ。それを独断で1時間も遅らせるとは、どういうつもりであろうか。 要するに彼らはエリートかもしれないが、機転が利かないのだ。「外交文書はタイプで清書しなければならない」という国際法など、どこにもない。タイプが間に合わなければ、手書きのまま持っていって、とにかく指定された午後1時に「これは断交の通知です」と言って渡すべきだったのだ。きれいな書面が必要なら、あとで持ってきますと、なぜ言えなかったのか。あるいは断交だけを口頭で伝え、あとで文章を渡してもよかったのだ。

349NAME:2023/09/13(水) 03:05:48
 現に、コーデル・ハルは戦後出版した回想録(The Memories of Cordell Hull, 1948)の中で、次のように書いているのだ。 「日本政府が午後1時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前(本当は数十分前=渡部註)に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間どってまごまごしていた。だから野村は、この指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正1時に私に会いに来るべきだった」(訳文は『回想録』朝日新聞社〈昭和24年〉を用いた) いやしくもワシントン大使館にいるような外交官といえば、昔も今も外務省の中では最もエリートのはずである。そのような人たちにして、この体たらくとは。

350NAME:2023/09/13(水) 03:06:02
 真相を隠し続けた駐米大使たち  [TOP]

 しかも、これには後日談がある。 だいぶ昔の『タイム』誌で読んだのだが、あるとき、2人のオランダ海軍の軍人が正式な任官を前にして、生涯の誓いをしたという。それは、「どんなことがあっても、お互いのことを褒めあおう」ということであった。 閉鎖的な組織の中での出世の原則は、「同僚から足を引っ張られない」ということに尽きる。外部からの評価などあまり関係ない。要は、仲間内での“受け”がいいかということが大事なのだ。この2人は誓いを守った。その結果、めでたく両人ともオランダ海軍のトップの座に就いたという。 この話と似たようなことが、開戦のとき一緒に送別会をやって大失敗をやらかしたワシントン駐在の外交官たちの中でもあったらしい。すなわち、「あの晩のことは、一生涯、誰も□にしない」という暗黙の掟ができあがったと見える。 その誓いは守られた。このときワシントンの大使館にいた人は、みな偉くなった。その中には戦後、外務次官になった人もいるし、国連大使になった人もいる。勲一等を天皇陛下からいただいた人もいる。 あの『昭和天皇独白録』を筆記した寺崎英成という人は、あの晩、送別会の主役であった人物である。もちろん、断交通知が遅れたことについて、彼だけを責めるつもりはない。しかし、真珠湾攻撃がなぜスニーク・アタックと呼ばれるようになったのかは、当然知っていたはずである。ところが彼もまた、その真相を誰にも話さなかった。そして、話さないまま、天皇の御用掛になった。 言うまでもないことだが、昭和天皇は最後まで日米開戦を望んでおられなかった。閣議が「開戦やむなし」という結論になったときも、「和平の可能性はないか」ということを重臣に何度も確認しておられたという。 このようなお考えであったから、天皇はきっと真珠湾攻撃がスニーク・アタックになったことを残念に思っておられたはずである。「暗号解読に予想外に手間取り」という言い訳を聞かされて、やむなく納得しておられたのだ。
ところが、その真相が違うことは、目の前にいる寺崎本人が誰よりもよく知っていたのである。何という皮肉な話であろうか。 もちろん、寺崎にしても、天皇に対して真相を隠しつづけることは苦痛であったと思う。それは想像にかたくない。だが、やはり寺崎たち関係者は、事実を自ら公表すべきであったのだ。
 もし彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らかにしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはなかった。 駐米大使をはじめ、当時の関係者たちがペンシルヴァニア・アベニューにずらり並んで切腹して天皇と日本国民に詫びるということでもやっていたら――読者は笑うかもしれないが、明治の外交官であれば、そのくらいのことはやったであろう――そのニュースは世界中を駆け巡り、真珠湾奇襲についての悪評は消えていたはずである。 「そうすれば、この間の戦争も、もっと早期に終わったかもしれない」というのは、かつて駐タイ大使であった岡崎久彦氏の意見である。この見方に私も賛成である。 アメリカにしても、もともとは広島・長崎に原爆を落とすところまで対日戦争に深入りする気はなかったはずである。彼らにしても、ある程度日本を叩いたら、さっさと有利な条件で講和をしたほうが得策だったはずである。 もし、この戦争が“スニーク・アタック”で始まっていなければ、彼らとて岡崎氏の言うごとく「早く手を打とう」と考えた可能性もあろう。だが、現実にはアメリカの世論は反日ムード一色である。とても早期講和などと言い出せる状態ではない。戦争が真珠湾攻撃で始まったことは、アメリカの選択肢をも狭めたのである。

351NAME:2023/09/13(水) 03:06:17
★ なわ・ふみひと の ひとくち解説 ★  この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとり(だった)と言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または、タブーなのであえて知らないふりをしている)点です。 太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。 このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。 当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。 つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。 アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。 結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。

352NAME:2023/12/12(火) 21:51:03
「首を斬る快感」を語るおやじが許せなくて 武田鉄矢さんと父の物語
聞き手・後藤遼太2023年12月7日 11時00分
https://www.asahi.com/articles/ASRCX624QRC8UTIL026.html?iref=com_rnavi_arank_nr01

「中国の匪賊(ひぞく)のヤツらを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を切り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんはおやじの横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。

彼の夢は、大日本帝国の勝利だったんです。敗北によってアメリカの時代がやってきて、それに対する不満と怒りが渦巻いていたんでしょう。おやじの戦後は、皇居前で正座したまま、その姿勢のまま終わっていったんじゃないですかね。

 ところが、母は進駐軍の将校…

353NAME:2024/03/11(月) 16:00:41
「バーン」靖国神社に落ちた爆弾、生き残った8歳 メラメラ燃える自宅は「美しかった」 #戦争の記憶
https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/pacificwar2.html

354NAME:2024/06/16(日) 07:17:48
「あんたを殺さんと俺が殺される」銃剣突き出すと敵兵の血…今も毎朝夕、手を合わせる98歳
2023/08/12 17:11
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20230811-OYTNT50035/

生き抜いて〜元兵士の78年(上)

 太平洋戦争を経験し、恩給を受給する元兵士の平均年齢が昨年、100歳を超えた。戦争の不条理を肌身で知る人たちは、その記憶を背負い、戦後78年をどう生き抜いたのか。今なお戦火が世界を揺さぶる中、重い証言に耳を傾けた。
特攻隊員が通った剣道場に遺品、寒稽古皆勤賞の賞状も「爽やかで勤勉で稽古熱心な人だったようです」

 目を閉じると、まぶたに浮かぶのは満州(現中国東北部)と中国の国境近くで起きた交戦時の光景だ。自らが手にかけた2人の敵兵は、まだ若かった。「あんたを殺さんと、俺が殺される。上の命令だから勘弁してくれ。すまんね……」

 戦後、長崎県島原市の平川重信さん(98)は毎朝夕、自宅の仏壇に手を合わせてきた。2人の敵兵とその親を思い、自然と言葉が口をつく。心に深く刻まれた傷は、1世紀近く人生を歩んだ今も消えることはない。

 1924年、同県 布津 村(現・南島原市)の農家に長男として生まれた。16歳の時、南満州鉄道に勤める親類を頼って満州・撫順へ。機関士見習いとして働いたが、戦局が悪化し、20歳で陸軍に入隊。銃剣で敵を突く訓練に明け暮れた。

 終戦間際、民家への襲撃から住民を守る部隊にいた時のことだ。攻め込んできた敵兵が小銃に弾を詰めるのが見えた。気づかれないようほふく前進で進む。1・5メートルまで近づいた時、不意に銃口が向けられた。

 「先に殺さんと殺される」。銃剣を突き出すと、相手の血が降りかかった。隣には小銃で日本兵を狙う別の敵兵がいた。背後から銃剣で突いた。無我夢中だった。

 交戦の中で砲弾が爆発し、自身の右手人さし指が吹き飛んだ。上官に「痛いか」と問われ、「痛い」と答えると、「このくらいで痛くて戦争ができるか」と顔が腫れるまで殴られた。

数か月後、玉音放送が流れた。上官はたった一言、「戦争終わり!」と言った。「神の国だから絶対負けないと言われてきたのに。何のために戦ったのか」。命を奪った敵兵のことがよぎり、虚無感が押し寄せた。

93歳が初めて語る「B29」本土初空襲…未明の警報に地響き、崩れる壁「何が何だか」

355NAME:2024/06/16(日) 07:18:02
 攻め入ってきた旧ソ連軍に、列車でシベリアに連行された。マイナス約30度。極寒の地で、日本兵約10人で肩を抱き合って寝た。翌朝目を覚ますと、目の前の仲間は冷たくなっていた。遺体は山奥の溝に捨てられたと聞いた。 巨木の伐採など重労働に耐え、木の中の虫や、湯飲み半分ほどの雑穀・コーリャンで命をつないだ。抑留は約2年に及び、47年に帰国の途に就いた。

 北海道から青森へ移動し、男性が駅で売っていたりんごを奪うと、上等兵から「ここは内地だぞ」と怒鳴られた。「シベリアから帰ったね。体を大切に長生きしろよ」。怒りもせず気遣ってくれた男性の言葉に「俺も日本人だったな」と実感がこみ上げた。「ありがとうございます」。ひざまずき、声を上げて泣いた。

 たどり着いた実家では、母がぬるま湯で背中を優しく洗い、父は伸びきった髪を切って「我が家ぞ。ゆっくり寝ろ」と休ませてくれた。おかゆを口に運ぶと、人間らしさを取り戻していく喜びに浸るとともに、死んだ戦友を思い出して深い悲しみに襲われた。

 復員当初は露天商として働き、30歳を過ぎて島原市で個人商店を始めた。焼きそばや回転焼きをつくり、腹をすかせた小中学生や高校生がおいしそうに食べる姿に目を細めた。

ただ、戦地の記憶が脳裏から離れることはなかった。「敵兵の親御さんは、『息子はどんな死に方をしたのか』と考えながら亡くなったのではないか」。シベリアで失った仲間を忘れたこともない。自宅や介護施設でご飯を半分にしてほしいと頼んできたのは「この飯さえあれば……」との悔しさがあるからだ。

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 次女の松本文子さん(64)から昨年、体験を詳しく聞かれ、敵兵をあやめたことや抑留地の悲劇を初めて伝えた。戦友から託されたと感じてきた責務を果たし、ご飯を普通の量に戻した。松本さんは「ずっと、つらくて言えなかったのでしょう。わだかまりを吐き出せたのでは」と推し量る。

 昨年始まったロシアのウクライナ侵略は終わりが見えず、兵士の撃ち合いを想像しては胸を痛めている。「なぜ、また殺し合うのか。戦争はどっちにもいいことはない。絶対したらいかん。したらいかんとです」。どれだけ長い時を経ても、戦争で負った心の傷が癒えることはない。それを知るからこそ、強く訴える。

恩給受給、平均100歳超す

 総務省によると、出征して一定期間軍務に就いたり、負傷したりして国から軍人恩給を受けている元兵士らの平均年齢は2022年3月に100歳を超え、23年3月には100・8歳に達した。戦後29年のピーク時(1974年)に約139万人いた受給者は、同50年(95年)に約81万人、同70年(2015年)に約5万人にまで減少。今年3月には2356人となった。

 一方、戦地での過酷な体験は心の傷として残り、家族にすら記憶を語らず鬼籍に入った人も多い。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」(東京)によると、人が変わったように無気力になったり、暴力的になったりするケースが報告されている。

358NAME:2025/06/09(月) 02:37:41

大東亜戦争でさえも、コントロールされた結果である
ミッドウェーでの惨敗で、日本は負けに転じたが、それをやったのは ご存じ山本五十六
日本は、すでに乗っ取られていた
餓死病死ばっかりだったのも見殺しと言うか殺人
行く必要無い南方に行かせて 

見殺しにしたのも同じ それでも日本人は、祖国のため家族のために、玉砕した・・・ 
内地では、天皇陛下に申し訳ないと思わないのか非国民!と
天皇を使い従属を強いた
今でも、本物の天皇(裏天皇)は実在する。

「人類の歴史で
「一度の攻撃で殺された人数最悪記録」はトップ3が全て『日本人虐殺』

1位:広島原爆 14万人
2位:東京大空襲 10万人
3位:長崎原爆 7.4万人

《日本本土空襲》
投下爆弾 16万9800トン
死者 50万人以上
死者最多 0〜9歳(10万5000人)
罹災者100万人以上」

人類で初めて 人種平等を唱えたのは日本人。
大東亜戦争の目的は、日本人大虐殺


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