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賎のおだまき・武家の時代の男色

1名無しさん:2008/05/20(火) 20:40:22
森鴎外「イタセクスアリス」に出てくる、明治時代、薩摩の寮で硬派の学生が毎年、正月には
第一に読むという男色読み物です。「男色」とは美童愛のこと。

130ゆき:2011/09/11(日) 00:36:10
私のおまんこが大変なんです☆
皆さん使ってください。

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肉便器になりたいです(//o//)

131名無しさん:2012/05/18(金) 20:03:23
白洲正子はその著書「両性具有の美」で、男色が盛んなことで知られていた薩摩藩の「郷中」と呼ばれる若衆宿で、二才(にせ)と呼ばれる年長の少年グループと稚児と呼ばれる年少のグループが男色関係で結ばれていたのは周知の事実でありながら、

意外に男色に関する文献が残っていないのは、それがあまりに日常の生活に密着したものであったとともに、一種の秘密結社を形成していたためかも知れないと書いています。

132名無しさん:2012/05/22(火) 20:58:32
白洲 正子[両性具有の美] (新潮文庫)

133yui:2012/05/23(水) 22:17:01
オナニーで濡れています。(//o//)

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134明美一夫:2012/06/27(水) 08:38:24
始めまして青木です。もう迷う必要はありません。飛び込んできてくれませんかいつ会いますか。宜しくお願い申し上げます、愛しています。純粋に出会いたいです  連絡下さい。Hしてセックスが出来るの好きです?もう今からしたいよ〜〜よろしければ恋人とし    てのお付き合い考えて戴けませんか。突然のお手紙申し訳御座いません。青木と交際お願い申し挙げます。

135名無し:2012/11/17(土) 23:09:06
織田信長×森蘭丸
これは外せないカップリング

136名無しさん:2012/12/20(木) 21:12:53
薩摩藩が多くの非道を行ったことを
鹿児島県人は隠したいのだろうな。
数々の奇習もある、またはあったが
犬食とホモ行為は裏で存在するらしい。
衆道も、郷中教育も、示現流も島津支配を維持強化するための仕掛けだ。
自由奔放な欲求を抑え込み、既得権益者のために犠牲になることが正しい道と思い込ませる洗脳プログラム。

郷中制
肛門の結束!
肛門性交は薩摩では
ごく当たり前の行為であった。

【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。
薩摩ではこういった風習が常識であり
「父ちゃん、伊東さんちの美少年とホモダチになったよ」
「ほー、おまえもやるねー」
的な話題が家族の食卓で成り立つのである。

【郷中教育】
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式をあげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し斬り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。

【薩摩隼人】
薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆で焼酎を飲み、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

137名無しさん:2012/12/20(木) 21:14:52
【超高税の農民虐め】
薩摩では百姓の本田畠に対しては79.6%と言う常軌を逸した高税が課されていた。
(自ら田畠を耕す自作郷士も大勢いたが郷士の自作地については僅か18.4%の課税)
更に食料や収入になりそうな樹木にも附籾と言われる課税がされていた。
(例えば、柿や漆は1本あたり籾1升に換算されて課税される)
そして15〜60歳の男子に用夫役や狩夫役などの労役が課せられ
公役は「月三十五日」と言われる過酷なものであった。
薩摩には独特の門割制度と言うものがあり
要するに耕作者の均一を図る為に
人口の少ない所には多い所から人を強制移住させるものである
選抜は「くじ」で行われ家族もばらばらに引き裂かれた。
明治期に至っても士族至上主義の農民虐めは続き
地租改正後も土地は士族が大半を独占し農民は小作になり士族支配の形は変わらなかった。
当初、選挙権・被選挙権共に地租の所有量により与えられた為
薩摩では議員も殆どが士族であり薩摩は太平洋戦争後まで封建制度が継続する事になった。

138名無しさん:2012/12/21(金) 18:17:41
『男色四十八手』については、『男色山路露』、『弘法大師一巻之書』などがあるほか、夢中庵魯鈍作『男色四十八手指南』(文化6年) がある。(東○大学図書館などでみられる。)
これらは図版があるようだが、稲垣足穂「少年愛の美学」や今東光「稚児」などの本が分かりやすい。

稲垣足穂「少年愛の美学」(徳間書店1968)
「稲垣足穂大全」第3巻? (現代思潮社 (1969) 1〜6巻)
「稲垣足穂全集第4巻」筑摩書房2001
ちくま文庫、河出文庫、角川文庫などになっている。

今東光「稚児」(鳳書房2005)
稚児『今東光代表作選集』第五巻(読売新聞社1973)
「定本稚児」防長史料出版社 (1977/03)
自身、天台宗の僧侶であった今東光が、それまでベールに包まれていた僧侶の性生活=男色(美童愛・稚児愛)の実態を小説の形で公表したことにあります。

139名無しさん:2012/12/21(金) 21:08:16
揚飛雀。男色の一姿勢なり。「衆道秘伝」(慶長三年満尾貞友編)に「揚雀といふ突きやうあり、是は雲雀の加減をして空にあがる如く自然と突く仕様にして痛まぬものなり」とあり、「醜道秘伝」に「飛雀が峯にあがるが如き仕様にて」とあり。

140名無しさん:2012/12/23(日) 00:04:51
・薩摩には戦国時代から続く 武士道的男色が残っていた。
藩士となる若者達は 地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。
二才は稚児を指導する立場で 稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。
女性との接触は以ての外で 「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けろ」という教えが普及していた。
二才と稚児が男色の関係になったのは ごく当然の成り行きと云える。
幕末の英雄である西郷隆盛も ある僧と関係を持っていたと云う。「九州男児」と云えば男らしいことの代名詞だが 確かに当時の薩摩は男らしかった。

・その薩摩に負けず‥男色が一般的だった と云われるのが土佐である。
武士の少年であれば 「男色の契り」の意味を知らぬ者はい無かったという。
もし男色を拒む少年がいると 年上の者が徒党を組んで家に押し掛け、その少年を捕まえて その場で強引に侵した。それには 隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も 見て見ぬ振りをした。恐ろしい 話である。

・明治維新が起きて 薩摩の人間が東京へと流れ込むと、社会の一部‥学校 特に全寮制の男子校で男色ブームが吹き荒れた。
それは盛ん且つ 公然化したものであったようで、市井には 実話を基にした「三五郎物語(しずのおだまき)」という本が大人気となった。
内容は 薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルになった。
当時から 異性の事で頭がいっぱいの生徒を軟派と呼び、少年愛を好む生徒は硬派と云った。入学してきた美少年は 早晩‥硬派に身体を狙われる運命にあった。

・もう一つ男色が流行したのは 軍隊であった。明治後期に ある政治家が書いた手記には、「男子同性愛が 兵士や士官の間に非常に蔓延している」ことが記され、多くの兵士達が腕を組み手を握り合って 通りを歩いて行く姿を見掛けたと云う。

・昭和に入ってからの 軍隊での男同士の「契り」では、例えば‥陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮では 70年の伝統として男色行為が行われていた。
その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうである。
寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつで、1年生を愛でるのは3年の特権だった。
3年生は1年生を稚児とし 契を結ぶ権利を持つ。2年生は 2年生同志で契り合う。幼年学校では自慰は禁止で 精液の付いたパンツを洗っていると咎められたという。
自慰は禁止、つまり一人ですることはだめだが、そこはよくできたもので、上級生にしてもらうのはよかった。
シーツを汚さぬよう、俺の口に出せと言われる。もちろん絶対服従だ。

141名無しさん:2013/04/13(土) 10:08:50
(参考)国会図書館蔵

新聞記事に見る杉並の少年通り魔事件と、戦後少年愛事件史
蔭間と少年性愛の系譜 : 日本における少年愛と少年売春の歴史
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜

142名無しさん:2013/05/22(水) 13:56:36
「戊辰戦争」では、会津藩だけでなく二本松藩を始め東北諸藩が参加。

この「戊辰戦争」には、多くの少年兵が参加していることが分かる。
主に戦った相手は、「男色」の盛んな薩摩であった。

それぞれ数え年で

・会津藩では・・
白虎隊(15(のちに16歳)から17歳の武家の男子によって構成された部隊。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいた。)
年小隊(13〜15歳の少年有志で編成)100名
護衛隊(14〜15歳の少年有志で編成。)50名

・二本松藩では・・
二本松少年隊(12歳から17歳の幼い少年62名で結成された少年隊)

薩摩の軍勢が,ちょうど「男色」における「二才(にせ)」の齢であるのに対し、
ほんの12,3〜4の「稚児」にあたる少年兵たちが活躍した会津や二本松藩・・

戊辰戦争の時代はまだ会津でも薩摩でも男色は盛んにおこなわれていたこと、
男色では、他の男に体を許すことは少年武士として死ぬほどの恥辱屈辱であったろう。

生け捕りにされたりした少年兵もいただろうが、敵に自由にあれ凌辱される少年隊士は
哀れ

143名無しさん:2013/06/16(日) 23:49:59
森鴎外 ヰタ・セクスアリス

十三になった。
 去年お母様がお国からお出になった。
 今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃(や)めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分益(やく)に立った。
 僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。

中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴(ばちびんやっこ)との間の恋の歴史であって、嫉妬(しっと)がある。鞘当(さやあて)がある。末段には二人が相踵(あいつ)いで戦死することになっていたかと思う。
 軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。 僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生(はにゅう)庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
 学校に這入(はい)ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦(わにぐちゆずる)という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石(あばた)の顔が長くて、前にしゃくれた腮(あご)が尖(とが)っている。痩(や)せていて背が高い。若(も)しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
 幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ている 教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
「おれがおらんと、又穴(けつ)を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
 僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐(ふところ)に隠していた。
 
 盲汁仲間はがやがやわめきながら席を起(た)った。鰐口も一しょに出てしまった。
 僕は最中にも食い厭(あ)きて、本を見ていると、梯子(はしご)を忍足(しのびあし)で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゅうど)を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀のをしっかり握った。
 寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に明(あかり)がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
 逸見の声である。僕は息を屏(つ)めていた。暫(しばら)くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
 短刀は幸に用足たずに済んだ。

144名無しさん:2013/06/16(日) 23:53:00
「西南戦争」(明治10年)は、明治以降日本で最初で最後の内戦、これ以降日本は自由民権運動に移っていくきっかけとなった。

西南戦争は「征韓論」に敗れ下野した西郷が鹿児島に作った「若者宿」つまり「郷中」である「私学校]生徒の蜂起に端を発したもの。

西南戦争に「少年兵」が多く参戦したというのも、こうした背景による。

男色組織でもある「郷中」はその後、「舎」と呼ぶ「塾」で行われる。

鴎外の「イタセクスアリス」に出てくる、鹿児島の塾なんぞでは元旦には「少年の事を書いた写本」(「賤のおだまき」)を回し読むことが慣行になっているとあるが、
その「塾」である。

森鴎外の小説[イタセクスアリス」は、1909年(明治42年)に発表された。

145永江聡:2013/07/15(月) 09:15:50
たまご

146名無しさん:2013/10/01(火) 13:05:13
田原坂の戦い
士族出身で合戦や衆道に手馴れた薩摩軍に対し、官軍は徴兵で集められた民兵が中心。
硬く雄雄しい薩摩兵の股竿に対し、男色のだの字も知らない農民や町民たちは歯が立たず
次々と掘り盗られては無垢な初尻を散らしていった・・・・。
薩摩兵壱「この下郎めっ!食らえっ!!」
官軍兵壱「ぎゃあああっ!しっ尻が裂けるうっ!?」
薩摩兵壱「ふんっ!ふんふんっ!!」
官軍兵壱「痛いっ!痛いーっ!!うっ動かないで・・・っ!!」
薩摩兵壱「嘘を言うな!こんなに股の竿を硬くしおって!!」
こうして官軍は窮地に立たされてたが、そこへ頼もしい助っ人が現れる。
地元の警察官たちが協力を申し出て来たのだ。
彼らは幕府軍や会津出身の元士族で戦いと男色のエキスパートだった。
警官壱「見てくだされ我らの股間を!仇敵薩軍を前に股のアームストロング砲はギンギンですぞ!」
警官たちがズボンを下ろすと、そこには薩摩兵の物に勝るとも劣らぬ巨根が並んでいた!
官軍司令官「おおっ!これなら薩摩に勝てるかも知れん!是非ご助力下され!」
こうして地元警官たちによって組織された抜刀隊は即日、田原坂へと導入され、
警官壱「うおおおっ!!西郷隆盛の尻はわしの物じゃ〜!!」
警官弐「なにを抜かす!!犯るのはわしが先じゃ〜っ!!」
警官抜刀隊はわき目も振らず敵陣へと突入を開始した。
薩摩兵壱「ウホッ!また平民どもが掘られにきたわい!くせになったのかの!?」
薩摩兵弐「こりゃ!抱きつくでない!かわいいやつめ!慌てなくともたんと掘ってやるわい!!」
官軍を完全に舐めきっていた薩摩兵達は無防備に警官抜刀隊と接触してしまった。
警官壱「なにをわけのわからぬことを抜かしておるんじゃ!食らえっ!!」
薩摩兵壱「ぎゃあああっ!しっ尻が裂けるうっ!?」
警官壱「会津の戦の恨み思い知れっ!ふんっ!ふんふんっ!!」
薩摩兵壱「お主会津者かっ!?うぎゃあっ!痛いーっ!!うっ動かないで・・・っ!!」
警官壱「嘘を言うな!こんなに股の竿を硬くしおって!!」
警官弐「近藤さんの仇!こっちから喰ろおてやる!!」
薩摩兵弐「こっちは新選組かっ!?ひゃあああっ!さっ竿が吸い込まれるうっ!?」
警官弐「むんっ!むんむんっ!!」
薩摩兵弐「ああっ!気持ち悪い!!うっ動かないで・・・っ!!」
警官弐「嘘を言うな!こんなにわしの中で竿を硬くしおって!!」
薩摩兵弐「あひぃ!搾らないでぇっー!?」
こうして警官抜刀隊は敵の体を蹂躙。精強を誇った薩摩軍は瞬く間に壊滅したのであった。

147名無しさん:2013/10/01(火) 17:13:54
西南戦争でせっぱ詰まった時に警官による抜刀隊を投入したというエピソードには、興味をもった。士族の影響力を最小にして近代陸軍を確立したいという戦略と、薩摩の士族による反乱である西南戦争を徴兵制による近代陸軍で制圧することに手を焼いて士族出身が多い警官隊による抜刀隊を編成する戦術の間にある矛盾と葛藤、組織論・リーダーシップ論を学んできた身にはすごく興味の湧く状況である。



 そして、その抜刀隊には、戊辰戦争で薩摩の兵士達に故郷を蹂躙された会津の士族が数多く参加したという、

148名無しさん:2013/10/01(火) 17:31:11
薩摩隼人、彼らは西南戦争で活躍した。田原坂の戦いでは抜刀隊として兵児達が突っ込んだ。それとステガマリという関ヶ原の退却戦の時に用いた自己を捨石にする戦術があるのだが、それらは後の大東亜戦争の時の神風特攻隊に影響を与えているとも言われる。
会津など旧士族で急遽編成された警視庁抜刀隊がこれと対峙することのなる。

149名無しさん:2014/05/20(火) 11:52:06
吟詠舞踊特選集(三) 綾子舞/薩摩の稚児桜 [Single, Maxi]
吉永典子,赤羽有花 | 形式: CD コロムビア

150名無しさん:2014/07/17(木) 22:48:03
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。

151名無しさん:2014/07/17(木) 22:48:45
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【郷中教育】

「胴上げで高く放り上げ、そのまま落とし絶息させる。
倒して数枚の畳を重ね、その上に多人数で乗り苦しめる。
木に釣るし手足を縛り、メッタ打ちにする・・」
(出典:薩摩見聞記)

薩摩の郷中ではこのような、教育という名の壮絶なイジメが日常でした。
理由は上級者や年長者への批判を封じ、絶対服従を強制すること
なんでしょうが・・・「議を言うな」の一言ですべてが正当化されていたみたいですね。

152名無しさん:2014/07/17(木) 22:49:46
戊辰戦争で捕虜になった幕府軍の少年兵は、薩摩兵に
やられまくったとかホント?

うちの蔵には俺の先祖様が函館五稜郭で、旧幕軍少年兵を四つん這いにして端からぶち込んでいる基調なしゃしんさがある。

153名無しさん:2014/07/17(木) 22:51:12
薩摩のホモ文化の特徴は乱交すること
思春期になると自然と郷中制度の中で行われた。
薩摩の中に強固に残されていた《男色》の伝統は、《郷中教育》の中に生まれたものではなく、実はもっと遡れると考えています。その伝統のルーツは、新羅の花郎の風習ではないかと推測しています。

これについては、大和岩雄氏が、薩摩の稚児や二才(にせ)という若者集団を特別視している伝統と
新羅の花郎との関係を積極的に主張していて、その根拠として指摘しているのが、古代における
豊後豊前の新羅系移民の大隅移住の歴史的事件です。

この大隅とは現在の国分市(霧島市)一帯のことで、
稚児の風習が最後まで残っていた土地として国分を大和氏は指摘しています。

薩摩武士は普段の性欲処理はホモセックスですましていた
嫁とするのは子作りのときだけだった。

154名無しさん:2014/07/18(金) 12:08:29
イスラム原理集団のタリバンって「学生」という意味だそうだ。ようは「学生党」

薩摩の「郷中」「私学校」もほとんど同じ
洗脳して軍事教練して、喜んで死んでくれるロボット兵士を産み出してい,

155名無しさん:2014/07/18(金) 12:14:12
会津藩藩士教育 什の掟

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです


薩摩の郷中教育とそっくりだ

156名無しさん:2014/07/18(金) 12:44:51

薩摩の郷中で稚児が男色行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その稚児を集団で手取り足取りレイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩、二才の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆で焼酎を飲み、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

157名無しさん:2014/07/18(金) 13:06:31
郷中制度って本当に
青年たちのあいだで
後輩が先輩のチンコしゃぶって性欲処理の
お手伝いしてたん?

男色行為の一つで、フェラすることを,当時の小笛・一節切になぞらえて
『一節切』(ひとよぎり)と称した。

尺八が間に竹2節であるのに対し、間に一節の一回り小さい笛・一節切。
それを吹くこと。

稚児といわれるまだ12,3の美童、その一回り小さいもの。それが、まだ柔らかいそれが口愛によって、それでも竹の笛のように、
せいいっぱい勃ちあがっても、舐め尽くし、しゃぶりつくす・・
もちろん、拒否も許されない。

158名無しさん:2014/07/25(金) 13:14:56
同じ内容のコピペばっか載せていて楽しいの?

159名無しさん:2014/08/14(木) 20:19:59
木谷俊男「賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜」(国会図書館蔵000002727681)

160名無しさん:2014/08/18(月) 14:35:36
幕末に会津に新政府軍が攻め込んだ時、薩摩の兵士たちは
負傷して動けなくなっている会津の少年兵たちを捕まえると犯した。

男色の盛んな薩摩兵にとっては少年愛(男色)はお手の物だったが、辱めに耐えきれず
犯されている間に舌噛み切って死んだ少年も多かっただろうよ。
なお、会津も男色の盛んな土地、他人それも敵軍に穢され尽くし、生童(きわらべ)を失うのは最大の不名誉とされた。

161名無しさん:2016/10/09(日) 18:34:45
★ 『賤のおだまき』抜粋。


↓美少年平田三五郎宗次が狼藉者の倉田・小濱に襲われるシーンです。そこへ後に義兄になる吉田大蔵が通りかかります。

『倉田軍平。後ろから三五郎を大抱きに抱きければ。宗次心得たりと脇差を。抜かんと欲するを。小濱助五郎。ひたと両手を。握りて少も動かさず。三五郎は無念至極に思ひつつ。心の中は燃る火の。火水なれと揉合ふに。此勢ひに三五郎が。髪の元結ふつと切れ。梅の匂の乱髪。乱れて馨る春風に。吹れて衣裳の褄返る。雪を欺く其肌に。倉田小濱はこらへかね。花の様なる宗次を。強力無双の両人が。物の数とも思はずして。既に捻ぢ倒して。無理に本意を達せんと。云ふ日も西に入相の。無常を告る山寺の。鐘の響に音添えて。哀れ彌増す春の暮。往来の人もあらばへに。哀れや今の三五郎が。未だ少年の悲さは迚も叶はぬ物故に。詮方なくも涙組み。偖も無念と思ふなる。心の中ぞ無慚なる。斯の處に。一人の士。馬に打乗り。通りしが。此有様を見るよりも。急ぎ馬より飛び下りて。其は吉田大蔵なり。各何事にて候やと。云ふ声の下より。倉田小濱の両人は。如何思ひけん。只只一言も云はずして。一目散に逃失せけり。』


……スゴイと思いませんか?文体は全体を通してこんな感じです。他にも「芙蓉の顔」とか。読んでるこっちが恥ずかしくなります。
…………薩摩隼人って……(汗)。
h ttp://www3.rocketbbs.com/403/bbs.cgi?id=aki_tae&page=6



(参考)

賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 h ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8

2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10

3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8

h ttp://sweetvirgin.fc2web.com/gallery2/s02.html

162名無しさん:2019/05/21(火) 13:21:14
薩摩の『郷中制度』(ごじゅう)と男色(美童愛)!

163名無しさん:2019/05/21(火) 13:38:48
日本における男色の歴史

164名無しさん:2019/05/21(火) 13:39:51
参考文献
 
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
『日本庶民生活資料集成』第12巻(三一書房刊)薩摩見聞記
氏家幹人「風俗と流行」(『日本通史』第13巻近世3 1994年岩波書店刊)
白洲正子「両性具有の美」
 嵐山光三郎『悪党芭蕉』(2006年新潮社刊)
佐藤喜一「幕末史研究 36」・「田村銀之助をめぐる男色考-脱走軍美少年秘録
-」        (東京日野市立図書館蔵)
樋口清之「史実 江戸」(芳賀書店 1967)
稲垣足穂「少年愛の美学」(徳間書店1968)
「稲垣足穂大全」第3巻? (現代思潮社 (1969) 1〜6巻)
「稲垣足穂全集第4巻」筑摩書房2001
今東光「稚児」(鳳書房2005)
稚児『今東光代表作選集』第五巻(読売新聞社1973)
「定本稚児」防長史料出版社 (1977/03)
自身、天台宗の僧侶であった今東光が、それまでベールに包まれていた僧侶の性生活=男色(美童愛・稚児愛)の実態を小説の形で公表したことにあります。
三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収)(平凡社1974)
上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)

165名無しさん:2019/05/21(火) 14:04:35
本朝美少年録/實吉達郎 光風社出版
本朝男色考男色文献書誌/岩田準一 原書房 
日本における男色の研究/平塚良宜 人間の科学社
少年愛の連歌俳諧史-菅原道真から松尾芭蕉まで-/喜多唯志 沖積社
美少年日本史/須永朝彦 国書刊行会

166名無しさん:2019/05/21(火) 14:08:03
本朝美少年録/實吉達郎 光風社出版
本朝男色考男色文献書誌/岩田準一 原書房 
日本における男色の研究/平塚良宜 人間の科学社
少年愛の連歌俳諧史-菅原道真から松尾芭蕉まで-/喜多唯志 沖積社
美少年日本史/須永朝彦 国書刊行会

167名無しさん:2019/05/21(火) 14:18:24
本朝美少年録/實吉達郎 光風社出版
本朝男色考男色文献書誌/岩田準一 原書房 
日本における男色の研究/平塚良宜 人間の科学社
少年愛の連歌俳諧史-菅原道真から松尾芭蕉まで-/喜多唯志 沖積社
美少年日本史/須永朝彦 国書刊行会

168名無しさん:2019/05/21(火) 16:53:05
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆道(ホモ)】

江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩(鹿児島県)では近代まで盛んであった。
明治32年の薩摩見聞記によれば、とりわけ稚児(少年)を好み、
客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。

薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ、歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。

薩摩ではこういった風習が常識であるのである。

169名無しさん:2019/05/21(火) 17:07:36
年長者を二才(にせ)、年少者を稚児と年齢で二つに大別。
二才が稚児を監督/保護し、薩摩隼人たるべく教育訓導する組織。大雑把に言うとこんな感じでしょうか。
この郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。全員がなにかしらそういう関係を誰かと持っていたのか、それが一部であったのかというのはよく分かりませんが、
江戸時代の薩摩では男色を知らなければ一人前とは認められなかったということも聞くので…そういう点から考えるとほぼ全員が通った道ではないかとも思われます。

薩摩では社会的な身分関係が
1)男、2)馬、3)女

という順番で、女性と触れ合うこと(話しかけるというライトな関係を含めて)を極端に忌避したといいますので、そういったこともあったかもしれません。
女性と目が合っただけで切腹した人もいたそうです。怖い。

それはとにかく、薩摩であると尚武の風が特に強く、それだけに戦場を想定した集団の連帯感や結束が求められたというのも男色がさかんであったひとつではないですかね。
出水だったかと思いますが、稚児の中でも特別に美しい少年を「稚児様」とか「○○様(名前の様付け)」と呼び、薄化粧をさせて周囲の人間が日の掛からないように傘をさし、他郷の人間に攫われないように集団で護衛して歩いたという話も残っています。
ここには男色という一言で終わらない何かがあるような気がします。
上記した集団の結束というのも当たるでしょうし…

170名無しさん:2019/05/21(火) 17:10:00
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ、歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。

171名無しさん:2019/05/21(火) 17:12:32
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ、歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。

172名無しさん:2019/05/21(火) 17:17:41
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩隼人(さつまはやと)】

薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

173名無しさん:2019/05/21(火) 17:20:00
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【超高税の農民虐め】

薩摩では百姓の本田畠に対しては79.6%と言う常軌を逸した高税が課されていた。
(自ら田畠を耕す自作郷士も大勢いたが郷士の自作地については僅か18.4%の課税)
更に食料や収入になりそうな樹木にも附籾と言われる課税がされていた。
(例えば、柿や漆は1本あたり籾1升に換算されて課税される)

そして15〜60歳の男子に用夫役や狩夫役などの労役が課せられ
公役は「月三十五日」と言われる過酷なものであった。
薩摩には独特の門割制度と言うものがあり
要するに耕作者の均一を図る為に
人口の少ない所には多い所から人を強制移住させるものである
選抜は「くじ」で行われ家族もばらばらに引き裂かれた。

明治期に至っても士族至上主義の農民虐めは続き
地租改正後も土地は士族が大半を独占し農民は小作になり士族支配の形は変わらなかった。
当初、選挙権・被選挙権共に地租の所有量により与えられた為
薩摩では議員も殆どが士族であり※後述
薩摩は太平洋戦争後まで封建制度が継続する事になった。

174名無しさん:2019/05/21(火) 17:27:19
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩隼人(さつまはやと)】

薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

175名無しさん:2019/05/21(火) 17:32:02
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩隼人(さつまはやと)】

薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

176名無しさん:2019/05/21(火) 17:32:34
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩隼人(さつまはやと)】

薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

177名無しさん:2019/06/07(金) 11:29:54
郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法です。似たものに会津藩の「什」があります。
教育の内容は
武士道の義を実践せよ
心身を鍛錬せよ
嘘を言うな
負けるな
弱いものいじめをするな
質実剛健たれ
たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと
などからなる。
4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を
小稚児(こちご、6-10歳)
長稚児(おせちご、11-15歳)
二才(にせ、15-25歳)
長老(おせんし、妻帯した先輩)
の4つのグループに編成したもの。
それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだようです。
郷中の起源は島津義弘によるとされています。
また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、
現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。
薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられたのは有名です。
明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。
現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっています。
なお、イギリスで郷中が研究され、ボーイスカウト制度のもとになったという俗説もあるが、そのような事実はない

178名無しさん:2019/06/15(土) 10:05:46
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだようです。

森鴎外の性的自伝「イタセクスアリス」で、薩摩の塾では、元旦には、競って読む本というのがあり、平田三五郎という13歳の美童のことを書いた『賤のおだまき』と言う男色本で、その「塾」が『舎』(健児の舎)と呼ばれるもの。

最近まであったようだ。

179名無しさん:2019/07/14(日) 20:38:44
・薩摩には鎌倉,室町から続く 武士道的男色が残っていた。
藩士となる若者達は 地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。
二才は稚児を指導する立場で 稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。
女性との接触は以ての外で 「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けろ」という教えが普及していた。
二才と稚児が男色の関係になったのは ごく当然の成り行きと云える。
幕末の英雄である西郷隆盛も ある僧と関係を持っていたと云う。「九州男児」と云えば男らしいことの代名詞だが 確かに当時の薩摩は男らしかった。

180名無しさん:2019/07/14(日) 20:50:46
・薩摩に負けず‥男色が一般的だった と云われるのが土佐である。
武士の少年であれば 「男色の契り」の意味を知らぬ者はい無かったという。
もし男色を拒む少年がいると 年上の者が徒党を組んで家に押し掛け、その少年を捕まえて その場で強引に侵した。それには 隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も 見て見ぬ振りをした。恐ろしい 話である。
・明治維新が起きて 薩摩の人間が東京へと流れ込むと、社会の一部‥学校 特に全寮制の男子校で男色ブームが吹き荒れた。

181名無しさん:2019/07/14(日) 20:55:31
それは盛ん且つ 公然化したものであったようで、市井には 実話を基にした「三五郎物語(しずのおだまき)」という本が大人気となった。
内容は 薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルになった。
当時から 異性の事で頭がいっぱいの生徒を軟派と呼び、少年愛を好む生徒は硬派と云った。入学してきた美少年は 早晩‥硬派に身体を狙われる運命にあった。

・もう一つ男色が流行したのは 軍隊であった。

182名無しさん:2019/07/14(日) 21:02:02
陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮では 70年の伝統として男色行為が行われていた。
その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうである。
寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつで、1年生を愛でるのは3年の特権だった。
3年生は1年生を稚児とし 契を結ぶ権利を持つ。2年生は 2年生同志で契り合う。幼年学校では自慰は禁止で 精液の付いたパンツを洗っていると咎められたという。

183名無しさん:2019/07/30(火) 13:10:14
新薩藩叢書 第3巻
頼山陽 [賤のおだまき]
鹿児島県立図書館

184名無しさん:2020/07/23(木) 19:51:07
↓美少年平田三五郎宗次が狼藉者の倉田・小濱に襲われるシーンです。そこへ後に義兄になる吉田大蔵が通りかかります。

『倉田軍平。後ろから三五郎を大抱きに抱きければ。宗次心得たりと脇差を。抜かんとするを。小濱助五郎。ひたと両手を。握りて少も動かさず。三五郎は無念至極に思ひつつ。心の中は燃る火の。火水なれと揉合ふに。此勢ひに三五郎が。髪の元結ふつと切れ。梅の匂の乱髪。乱れて馨る春風に。吹れて衣裳の褄返る。雪を欺く其肌に。倉田小濱はこらへかね。花の様なる宗次を。強力無双の両人が。物の数とも思はずして。既に捻ぢ倒して。無理に本意を達せんと。云ふ日も西に入相の。無常を告る山寺の。鐘の響に音添えて。哀れ彌増す春の暮。往来の人もあらばへに。哀れや今の三五郎が。未だ少年の悲さは迚も叶はぬ物故に。詮方なくも涙組み。偖も無念と思ふなる。心の中ぞ無慚なる。斯の處に。一人の士。馬に打乗り。通りしが。此有様を見るよりも。急ぎ馬より飛び下りて。其は吉田大蔵なり。各何事にて候やと。云ふ声の下より。倉田小濱の両人は。如何思ひけん。只只一言も云はずして。一目散に逃失せけり。』


……スゴイと思いませんか?文体は全体を通してこんな感じです。他にも「芙蓉の顔」とか。読んでるこっちが恥ずかしくなります。
…………薩摩隼人って……(汗)。
h ttp://www3.rocketbbs.com/403/bbs.cgi?id=aki_tae&page=6

No.45 - 2004/06/26(Sat) 14:51:36
賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 h ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8

2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10

3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8

h ttp://sweetvirgin.fc2web.com/gallery2/s02.html

185名無しさん:2020/11/04(水) 08:26:01
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜
木谷俊男 編著. [木谷俊男], 1998.10 <EF91-G289>


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