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物語スレッド

1言理の妖精語りて曰く、:2006/07/13(木) 00:22:13
物語のためのスレッドです。

・このスレッドでは断片的な情報ではなく、ある程度まとまった「物語」を扱います。
・小説風、戦記風、脚本風など形式は問いません。
・何日かかってもかまいませんが、とりあえず「完結させる」ことを目指してください。
・自分が主な書き手となるつもりか、複数人のリレー形式か、メール欄にでも明記しておくと親切です。
・名前欄か一行目に物語のタイトルや話数を入れておくと、後でまとめやすいです。

88冥府からの脱出*01:2006/09/10(日) 10:16:57
 今は昔、葬式のやり方といえば水葬だった。人々は死者を棺に納めて川に流していた。棺は川を下って海に辿り着き、波に乗って世界の果てに流れ着いた。この時の世界は平らだったので、棺は海水とともに落下して冥府に着くものだった。
 冥府に着いた棺を死神たちが仕分けをした。蓋を開けて、死んだ身体から魂を抜き出し、秤にかけた。そして重い魂は砕いてから月に打ち上げ、軽い魂はぺしゃんこにして風に任せた。薄片になった魂は風に吹かれてどこかへ飛んでいった。
 ある時「これは一体、なぜなのだろう」と1体の死神が呟き、仕分け作業の手を止め、水平線を見た。波のない暗い水面の上、遥か彼方まで棺が並んでいる。どれもこれも小さかった。小さいのは子供用の棺だからだ。

89冥府からの脱出*02:2006/09/10(日) 10:18:08
 「なぜ子どもばから流れてくるのか」とその死神は隣にいた死神に尋ねた。
隣の死神は言われて初めて子どもの棺ばかり流れてくるのに気づいたようだった。そして「子どもがたくさん死んだから子どもの棺が流れ来るのだ」と答えた。
「それは判っている。その理由を知りたいんだ」
「知らない。そんなことには興味がない」
尋ねた死神はお話にならないと思ってその場を離れた。そして「地上のことは地上のものが詳しいだろう」と冥府の奥に下った。
冥府は命を失ったもののいくところだったが、その深部にはたくさんの命あるものがいた。というのは冥府に挑戦するものが後を絶たないからだった。あるものは不死を手に入れるために、またあるものは死者を蘇らすために冥府へと下った。そしてそのことごとくが冥府の主から罰を与えられた。
罪人たちは捕らえられると、その魂を抜かれて不死の身体に移し変えられてしまう。そして冥府に生息する空飛び鮫の餌にされてしまう。空飛び鮫は海の鮫と同じく凶暴であっという間に獲物の内臓を根こそぎ喰らってしまう。けれども罪人たちは不死の身体なので喰われる倍の速さで元に戻る。再生するまでの間、空飛び鮫は空腹に苛立ちながら罪人を中心に周回する。冥府の主はそうやって絶え間ない苦しみを罪人たちに与えていた。

90冥府からの脱出*03:2006/09/10(日) 10:19:26
 死神は疑問を抱いて阿鼻叫喚の中を下っていく。そして1人の男の前で立ち止まった。その罪人は腹から腸を引きずり出されていたが、眉をひそめるだけで声1つ上げていなかった。苦痛に飽きたような表情だと死神は思った。
 この男こそ命あるものの中でもっとも深く冥府に下ることのできたものだった。
 死神は空飛び鮫を追い払うと尋ねた。「最近子どもの棺ばかりが流れてくる。地上では何が起こっているんだろうか」
 男は生えてきた腹の肉を触りながら「戦争か、流行り病だろうよ。でなければ、火山の爆発か地震さ。」
 「それにしては数が多い」と死神は言い、空を指差した。空には月が出ていた。その月に向かって銀の小片が昇っていく。数があまりにも多い。まるで空を埋め尽くすかのようだった。
 「これは」と男。「絶滅戦争をしているのかもしれない」
 「絶滅戦争?」
 「種を滅ぼすために行われる戦争だ。敵対種族をことごとく何の例外も無く皆殺しにしてしまう」
 「そんなことが――――――いや、待て。棺に入っていたのは人間だけだ。絶滅戦争ではないだろう」
 「いや。人間は人間相手に絶滅戦争を仕掛けるよ。肌や使う言葉が違えば、人間にとっては別の種族も同然だ。おれは何度もそういうものを見てきたよ」
 「野蛮だな」
 「まったくだ。あんな馬鹿をしないで済むようにしてやりたかったんだがな」と男は傷だらけの自分の身体を見た。男は冥府に挑戦するもの中では変り種で、知識を求めて下っていた。
 「それで死神よ」と男。「お前はどうするんだ。絶滅戦争を知ってどうするんだ」
 「…………何かする必要があるのか」
 「あるね。知った以上は何かをすべきだ」
 「お前なら何をする」
 決まっているだろうと男は唇を歪めた。
 死神は不意に恥ずかしさを感じた。そして死神はその場を立ち去った。すると空飛び鮫が男に寄って行き、喰らい始めた。

91冥府からの脱出*04:2006/09/10(日) 10:20:46
 それ以来、死神は仕分け作業を怠るようになった。そして時折、空を眺めては地上を思い、罪人の男の問いかけを反復した。そんなある日、冥府は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。というのはあの罪人の男が脱走を企てたからだった。けれどもすぐに捕まってしまった。
 死神は思った。私もまた地上に行こうと。思い立つと行動は早いもので死神は冥府の主に許可を求めた。しかし冥府の主は仕分け作業を命じるだけで許可しなかった。
 それで死神は仕方なく黙って地上にいくことにした。地上への道を登っていくと他の死神に声をかけられた。
 「どこへいくのだ」
 「あなたには関係のないことだ」
 「地上にいくのではないか」
 「まさか」
 「地上にいくのだな」
 「そんなわけない。私に難癖をつけるのか」
 「やはり貴様は…………!」
 そんな押し問答をしていると他の死神がわらわらと集ってきた。そして地上へ行こうとした死神はみなから叩きのめされ、冥府の深部に捨てられた。
 身体のどこもかしこも痛くて仕方がなかった。けれども死神は歯を食いしばって立ち上がり、深部の奥を目指した。そこにはあの罪人の男がいた。
 「酷い有様だな」と男。「俺のせいと文句を言いに来たのか」
 「文句がないわけではないが、言いたいのは別のことだ。お前は地上を目指しているな?」
 「もちろん。おれにとって冥府は一時の宿だ、まあ千年以上も滞在するはめになってしまったが」
 「では、私に協力しろ。1人では地上にいけない。私と一緒に行こう」
 「ふむん。でも、いいのか。おれは地上に行ったら何をするかわからんぞ」
 「その時はその時だ。私は私の心に従いたい」
 男は微笑を浮かべた。人間にだけできる美しい表情だった。冥府に来る時にもきっと同じ顔をしたのだろうと死神は思った。そして死神もまた同じように笑おうとした。
 死神と罪人は地上に向かって歩き始めた。
 <終わり>

92【キュトスのタマゴ】(5):2006/09/12(火) 17:03:28
 生まれたのが静かな奴でよかった……という俺の安心は、
しかし数日後にはすっかり打ち砕かれていた。

「ニース! ニース! 遊ぼ! 遊ぼ! 遊ぼ!」

 家の表からけたたましい叫び声が響いてくる。
アルセスの家で暮らしているキュトスの魔女フラベウファが、
連日のようにうちに押しかけてくるようになったのだ。

「まったく、小姉さんは仕方ないなあ」

 フラベウファの声に反応して、ニースフリルは読んでいた本を閉じる。

「じゃ、ちょっと相手してくるね。
 あーあ子供のお守りは大変大変」

 仕方ないと言いつつ、ニースフリルもまんざらな顔ではない。
 玄関に出ると、フラベウファが喜色を顕わにして立っている。

「ニース、ニース、今日は何して遊ぶの?」
「そだね、じゃあこの家の中を探検して回ろっか。
 小姉さんは探検隊長、私は考古学者」
「わぁい! 御同行宜しくお願いします教授殿!」
「お前ら、頼むからもの壊さんでくれな……」

 貴重な休日も、この連中の相手だけであっさり潰れる。
普段は大人しいニースフリルも、興が乗ればフラベウファ並みに手に負えなくなる。
この前などは、埋蔵金を発掘するため本気で床を掘り返そうとしていやがった。
今さらながら、この卵を俺に押し付けた市場のおっさんが恨めしく思えてきた。

93魔女達の呟き:2006/09/25(月) 02:06:10
自らの殺めてしまった男の死体の前でアンリエッタは呟く
「あなたのこと、もしもっとよく分かっていれば、きっと嫌いじゃなかったんです。愛してあげることもできたかもしれないんです。でも、私にはそれが出来なかった。きっと貴方が悪いんじゃない、でも私が悪いんでもないと思います。誰が悪いなんて、きっと分かりませんよね、永遠に」
ふと、その頬を伝った涙に、あぁ、これが哀しいと言うことなんだ、と彼女は気付いた。
こんな感情は知りたくなかった、と彼女は思う。
けれど、もう遅かった。
「だから、人は地獄と言う贖罪の場を考え付いたのですね」
次第に体温を失い、あとは朽ちていく肉と血の塊になった彼の頭を抱え、その髪を優しく撫でながら彼女は、もう聞こえていないと言うのに彼に囁きかける。
「それでも、私はその地獄にすら行くことができないんです。きっとこれが罰なんですね」
返答は無く、塔の暗闇と静寂だけが彼女を包んでいた。
「もし、許されるのなら、それが出来るのなら、せめて私はこの名前を、貴方が付けてくれたこの名前を残したいと思います。貴方の愛の証として、そして私が犯した罪の証として」

「ふん、せっかく感情をあげたのに湿ってるねぇ」
塔の外、その魔法を使って塔の中の出来事を見守っていたムランカは言った。
「せっかく力を得て、しかも自由になったんだから喜んでもいいじゃないか。復讐だって遂げたのにさ」
彼女は塔から踵を返し、その場を後にしようとする。
この後のことは自分の知ったことではないし、どうすることだってできないからだ。
「でもさ、ほんの少しだけ、あんたのこと羨ましいよ」
彼女の呟いた、その言葉は誰の耳にも伝わらない。
さぁ、とふいた一陣の風に乗って、その言葉はどこかへ運ばれてしまったからだ。
そして、その風の行方は、彼女にはもちろん、誰にも分からないことだった。

94夜のハルバンデフ:2006/09/25(月) 02:44:19
「ふん、また今晩も現れたか」
幕舎の中、一人ハルバンデフは呟く。
それは、毎晩、ハルバンデフが独りになると現れる。
「毎晩、毎晩よく飽きないものだ。お前には感心すらする」
彼はそれに対して言った。
「余が怯えるのを待っているのか、だとしたら見当違いも甚だしいな。もう余には怖いものなど無い。いや、怖がることなど許されないのだよ」
彼の言葉に、それは無言だった。
「それとも自分の恨みを余に伝えようとでも言うのか?理解はしてやろう。だが、だからと言って余は公開などせぬぞ」
ふん、と鼻で嘲笑うようにして彼は言う。
いつも部下達の前で無口な彼には考えられないほど、その時のハルバンデフは多弁だった。
「それが証拠に、今日も戦で多くの敵を殺してやった。命乞いをするものもいたが、聞き届けてはやらなかった。思いつく限りの非道をもって殺してやったわい」
無言と静寂
しかし、それでもハルバンデフは己が非道を誇るようにしてそれに語った。
それでも無口なそれに対し、とうとうハルバンデフは感情を爆発させる。
「言いたいことがあるのだろう!だったら言え!恨みでも、呪詛でも、何でも言えば良いではないか!。なぜ無言のままなんだ、カーズガン!」
その時になって、やっとそれ、カーズガンの幽霊はハルバンデフに語りかける。
「お前を恨んじゃいないよ、ハルバンデフ。お前に殺されたことも、部族を皆殺しにされたことも、何も恨んじゃない」
「俺はお前の妻を殺したんだぞ!、俺自身がかつて愛していた女をこの手にかけたのだぞ!。それを恨まないとでも言うのか!?。だったら余程の馬鹿かお人よしだよ、お前は!」
「殺したのはお前じゃない。彼女は自害だった。他の男に辱められることを、そしてきっとこれ以上俺に抱かれることすら拒んで自らの死を選んだんだろうな。死んでからやっと分かったよ」
「だったら、なぜ俺の前に現れる!」
ハルバンデフは床に敷かれた高価な絨毯を乱暴に、そして踏みにじるようにして蹴りながら叫ぶ。
「俺の前に現れるんだったら俺を責めろ!、苛め!、恨め!、呪え!、今の俺は諸国から恐れられる、そして恨まれて呪われる「魔王」だ!。きっとこれからも、未来永劫そうだ!」
「だからだよ、ハルバンデフ。だからお前が哀れでこうして現れるんだよ」
激高したハルバンデフは、やにわに腰の剣を抜き、そして渾身の力でそれに対して投げつける。
しかし、剣は実体を持たないカーズガンの幽霊を通り抜け、幕舎の壁を切り裂いただけだった。
「お前は本当はそんなことができる人間じゃない。だが、今やお前にはその生き方しかできない。周りが、そして世界がその生き方しか許さない。だから、それがあまりに哀れでこうして現れるんだ。せめて俺だけがお前を分かって、許してやろうと思ってね」
「五月蝿い!、許しなどいらない!、必要ない!。去れ、消えろ!」
彼が叫ぶと、それは消え、幕舎にはまた彼一人だけが残された。
「今更……もう、遅いんだよ」
彼は両拳を握り締め、わなわなと身体を震わせながら呟いた。
「陛下?」
幕舎の外を警護していた兵士が恐る恐る幕舎の中を覗き込みながら言う。
「何か?」
「いえ、今幕者の中で何事かが起きたのかと……」
「何も起きてはおらん」
「しかし……」
「何も起きてはおらん。余がそういうのだからそうに決まっておろうが」
兵士は「はぁ」と答えて、警護に戻ろうとした。
下手にこの「魔王」の逆鱗にふれては、たとえ自分が何者であれ、自分の命、いや下手をすれば関係者全員の命が危ういことを知っていたからだ。
「待て」
しかし、自らの職務に戻ろうとしたこの兵士をハルバンデフは呼び止めた。
「今日落とした城の姫君を捕虜にしていたな」
「はい、王族の娘と言うことですが……」
「連れて来い」
「は、しかし……」
「余に意見するのか?」
 ハルバンデフに睨まれ、兵士は慌てて、王族の娘を連れてくるためにその場から離れた。
 ……無茶苦茶にしてやる、犯してやる、種を植え付けてやる、その身体に、心に敗北を刻み込んでやる
 ハルバンデフは思った。
 だが、彼は知っていた、きっとそれらを行っても自分の気が晴れないだろう事を、そしてまた翌日になればカーズガンの幽霊が現れ、彼のその行為を哀れむだろう事を。
「……世界が、俺をそう生きるようにしか許さない、か……」
 彼はカーズガンの言葉を思い出して呟いた。
 切り裂かれた幕舎の壁からは、わずかに月の光が差し込んでいた。
 その月の光は、彼が戦いの末にカーズガンを殺めてしまったあの晩の月と同じ月の光だった。

95ムランカの戦い(1):2006/10/09(月) 16:12:28
「……結局、塔から出なかったんだね、あんた」
 薄暗い塔の中、闇の先に向かって眉を顰め、その美しい顔をしかめてムランカは言った。
「折角自由になれたのに、どうしてそれを謳歌しなかったわけ」
「分かりません……何度もこの塔の外に出ようとはしたんです。でも、駄目でした」
「……わからないねぇ。もしかして罪悪感とか感じている?。あんな奴、死んで当然だったんだよ。あんたが罪悪感を感じる必要なんてこれっぽっちもないね」
 闇の先から返答は無かった。
 その闇に一歩踏み出そうとしたムランカに、「あぁ、ごめんなさい」と声がかけられる。
「今の姿、見られたくないんです」
 その言葉に、ムランカは彼女に何が起きているのかを察知した。
「……朽ちかけ始めているんだね」
「はい、もう左腕は一週間前に崩れ落ちちゃって……」
 不憫だ、とムランカは思う。
 「いつか朽ちる肉体」を持っているのはムランカも同じだ。だが、彼女の肉体は朽ちるときは一瞬だし、その朽ちる瞬間までは歳をとることはない。そして彼女の記憶はもちろん、意識も次の肉体に引き継がれる。だから「いつか朽ちる肉体」の寿命が来て朽ちることなど、彼女にとっては永遠の時を生きることの、退屈しのぎのイベントでしかない。
 人間の『死』とは本質的に違うのだ。
 だが、目の前の闇の中にいるアンリエッタにとっては違う。
 イレギュラーなキュトスの姉妹である彼女の肉体は歳をとるし、記憶は引き継がれても意識は、「奔流たる意識」に飲み込まれて存在するとは言え引き継がれない。そしてその肉体が朽ちるのも一瞬ではなく、ゆっくりと少しづつだ。
 それは人間の『死』に等しい。
 いや、それよりも拷問だろうと思う。
 病気や怪我によってではなく、崩壊の果てにもたらされる確実な『死』。
 それが始まれば、決して奇跡など起き得ず、ただ明確な結末だけが用意されている。
「それで、次の肉体は……決めてないよね」
「はい」
 ムランカの眼前の闇の先、アンリエッタは静かな口調で素直に答える。
「この10年、塔から出ることはありませんでしたから。それに、もう、足も萎えちゃって動かないんです」
 それに、こんな姿の『魔女』の後を継ごうなんて人、いませんよ、とアンリエッタは言った。
 健気なぐらいに素直だ、とムランカは思う。
 「いつか朽ちる肉体」が朽ちるとき、ムランカは相手の同意など得ない。
 その予兆を感じたら、そうなる前に用意していた候補の中から適当な相手の前に現れ、無理矢理言いくるめてその身体を文字通り『奪う』のだ。
 その肉体の意識は自分の「奔流たる意識」の中に飲み込まれ、本体たる自分に微々たる影響を与えることはあっても主体である自分に大きな影響を与えることはない。それが彼女にとっては当たり前な行為だし、それを疑ったことはもちろん罪悪感も感じたことは無い。それは息をするような、食事をするような当然な行為なのだ。
 ……なのに、彼女は
「それで、どうするつもりなのさ、あんた?」
「このまま消えちゃうのは駄目でしょうね」彼女は言う。「私の前にもこの意識を引き継いできた人達がいるんですよね。私が消えたらその人達が生きてきた証が消えてしまう……そんな勝手、許されませんよね」

96ムランカの戦い(2):2006/10/09(月) 16:13:03
 衝動的に彼女はそれをやってみたいと思うことがある。
 ……消えてしまう……存在しなくなる……居なかったことになる
 永遠の刻を生きる、言い換えれば死を許されない彼女には、その『死』に等しい行為は時に甘美に思える時がある。
 そして実際にそれを実行しようとした時もあった。
 ……それを止めたのは誰だったっけ?……コキューネーだったか、宵だったか、それともシャーネスかハルシャニアだったか……他の人間だった気もする……思い出せない……あまりに古い出来事だから……でも、何故かそいつ泣いていたな、あの時
 その事件の後も彼女には『死』の持つ意味など分からなかった。けれど、今、少しだけ『死』の持つ意味が分かった気がした。
 『死』は一つの世界の崩壊なのだ。
 ……そして、この娘はその事を知っているんだ……まいったな、あんた並みのキュトスの姉妹より遙かに賢いよ
「それじゃ、こうしない」
 ムランカは闇へと一歩踏み出す。
 闇の中でアンリエッタは息を呑み、ムランカを制止しようとするが、ムランカの歩みを止めることは出来なかった。
 闇の中で、ムランカはアンリエッタの姿を見た。彼女が言った通り、その身体はあちこちが朽ち始めていた。けれど、不思議とその姿が醜いとはムランカには思えなかった。
 そして、アンリエッタは見た、ムランカが胸元に抱えていたそれを。
 ムランカは、それをアンリエッタの残った片方の腕に優しく抱かせた。
 それは静かな寝息をたてて眠っていた。
「あんた知らないだろうけどさ、この先で馬鹿な人間達が戦争をやらかしたのさ」
「じゃ、この子は……」
 腕の中で赤子は目を覚まし、そして無邪気な笑みを浮かべながらアンリエッタに手を伸ばす。
 アンリエッタはなれない手付きで、赤子を揺すってあやした。
「この先の集落でね、死んだ母親が必死に抱いていた。彼女は最後までこの子を守ろうとしたんだね」
「……この子に後を継がせろと。でも……」
「大丈夫だよ。あたしがこの子、いや、あんたか、あんたが独り立ちできるまで面倒は見てやるよ」
 自分の腕の中の赤子の笑顔。
 それは彼女に一つの希望と一つの不安を抱かせた。
「アンリエッタと言う名前はね」その不安に応えるようにムランカは言う。「不幸になるための名前じゃない。幸せになるための名前さ。だからこの子、あんたはきっと幸せになれる。次はきっとね……」
 その言葉に、アンリエッタはようやく意思を固めた。

97【キュトスのタマゴ】(6):2006/10/12(木) 17:56:37
ちび共の相手をするのも疲れるので外に出た。
ついでに記帳でも済ませておこう。
最近は入るのも増えたが出費も増えた。合わせればトントンだ。

「やあ、ナプラス。フラベウファがいつも悪いね」

玄関で鉢合わせしたアルセスには、まったくだと答える。
アルセスの両手にはハルシャニアが抱きかかえられていた。
彼女が全身水びたしなのを見る限り、海に行った帰りなのだろう。

「機嫌が良さそうだな」
「まあ、そうね」

すました顔で頷くハルシャニアの様子は、やけに大人びて見える。
海で遊んだ直後のこいつは、いつもこんな調子らしい。
昨日フラベウファと一緒になってどたどた騒ぐハルシャニアを見ていた俺は、
彼女の見違えそうな態度に少し驚いた。

98氷の玉座(1):2006/10/16(月) 02:43:01
「この玉座は冷たい」
象牙と白磁、そして白豹の革で作られた純白の玉座を見て男は呟く。
「まるで座ると凍てつくようだ。『北方諸侯による連合帝国』、いや『北方帝国』というその名に相応しいぐらいに座った人間を凍てつかせる」
男は玉座の皮の手触りを確かめるように撫で、そして腰を下ろした。
かつて男はこの玉座に憧れていた。
いつかこの玉座に腰をおろし、広大な国家の全てをその手に統べることを夢見ていた。
そして、夢は叶った。
誰かの力によるものではなく、自らの力によって。
北方帝国を構成する諸侯全ての代表者にして北方帝国の皇帝。
それが彼だ。
けれど、手にしてみればその玉座は彼の思い描いていたものとは違った。
玉座は『皇帝』と言う人間を超えた存在のために作られたものでは無かった。
『皇帝』と言う人間のために作られたものでもなかった。
「人形のための椅子だったのさ」
皮肉な台詞を口にして彼は口元を歪める。
確かにその通りだった。
「北方帝国」という国家に、意思を持って政を行う『皇帝』という個人は必要ではなかった。
この国にとって必要なのは、諸侯達の代表者である央機卿の決めた政に対して「よきに計らえ」と一言答えるだけの人形だった。
「だったら、最初から精巧な人形でも作って座らせておけば良かったのさ」
無論、そのシステムのメリットというものを彼は知らないわけではない。
皇帝は君臨し、央機卿の政に対して許可と言う名の看過を行う。そうすれば、その政が失政であっても責任を負う事は無い。
そして、その事は何があっても国家と言う名の体制は維持されることを意味する。
「つまらん」
だが、彼は思う。そのような体制の下に『皇帝』と呼ばれ、玉座に座らせられるのは、生きて氷漬けにされるようなものではないかと。
だから彼は皇帝になった時に、少しづつ央機卿の権限を奪い、自らの権限を増やしていった。
「俺は氷漬けの人形にはならない。生きた、暖かい血の通う、人間としてこの玉座に座る」
しかし、その対価は、央機卿達による寵妃を使った暗殺未遂というものだった。
彼はじっと自らの両の掌を眺める。
寵妃を抱きしめ、愛し、その体温を確かめた掌だ。
だが、その寵妃は、もういない。この世のどこを探してもいない。
「央機卿制度の廃止の代償の対価と考えるべきなのだろうな……いや、俺が『皇帝』という名の人間になるための対価と考えるべきか」
だが、その対価は高すぎたのではないかと思う。

99氷の玉座(2):2006/10/16(月) 02:44:06
玉座に深く腰掛け、彼は皇宮内を通り過ぎていった風を感じた。そこには微かながら春の香りがした。
「あの娘はこの風を感じることは無かったな」
不憫と感じるべきなのだろうか、と彼は迷った。
だが、彼女だって央機卿の陰謀は知っていたし、加担していた張本人なのだ。
「ふん……」
彼は呟き、玉座に頬付けをつく。
国政権は手に入れ、北方帝国史上初の皇帝による親政は始まった。だが、国の経済を発展させようと、いかなる政策をとろうと貴族達や領主達、軍閥達はおろか国民の誰もがそれを快くは感じていないようだった。
「どんな善政を施こうと、また悪性を施こうと結果は同じだろうよ。結局奴らが欲しいのは『皇帝』という名の人形なのだからな」
気付くのが遅すぎた、と彼は思わないことも無い。
国盗り物語に憧れて、傭兵生活を捨てて皇帝へと上り詰めた彼だったが、これなら傭兵稼業の方がましだったか、と思わぬこともない。
「どうしたものかね」
「陛下」その時だった、皇帝の間に一人の官僚が入ってきたのは。「バキスタ卿より使者が参っております」
「バキスタ卿だと?」
彼は眉を顰める。直接の国交の無い西方諸国との外交は、名目上はどの国からも独立している機関であるバキスタ卿を通して行われる。
回りくどいことだ、と彼は思うが、西方諸国より無理矢理独立を勝ち取ったこの国の代償のようなものだ。
「要件は聞いてあるな。簡潔に申せ」
「『草の民』ハルバンデフの征伐を我が帝国に依頼したいとのことです。代償として戦費の負担と、成功の暁には褒章を出すと……」
褒章とはね、安く見られたものだ……
バキスタで西方諸国が、『草の民』の王ハルバンデフに大敗したことは彼も知っていた。その損害からおそらく、同じ規模での戦など、あと何年も叶わぬ話であろうことも彼は知っている。
断ってみるのも面白い話だな、と彼は思った。その場合、西方諸国は大混乱に陥るだろう。その大混乱の後で、兵を出して西方諸国を併呑してしまうのも面白いかもしれない。
かつての植民地が今度は宗主国になるのだ。
だが、まてよ、と彼は思う。受けてみるのも面白いかもしれない。揃えられるだけの兵を揃え、そして開国以来未曾有の戦争を起こすのだ。
「そうすれば、この国の体制も国民の感情も全てを狂わせ、壊すことができるかもしれない。その時こそ、人形ではない、人間の『皇帝』がこの国を治めるようになるのだ」
「陛下?」
「良い、使者と謁見しよう。すぐに参るので、謁見の間に待たせておけ」
彼は玉座より立ち上がり、そして振り返った。
「お前は、何人もの『皇帝』を人形にして凍りつかせてきた。だが、それも終わりだ。終わらせてやる」
彼、パトゥーサは大きく一歩を踏み出した。
それは、気を抜けば自らを凍りついた人形にしてしまう玉座の魔力からの脱出のための一歩であるはずだったが、彼にはまだ未来は見えなかった。

100氷の玉座(3):2006/10/18(水) 02:32:58
「それで兵は集まっているか?」
「今のところ、予定の8割というところです」
短期間でこの数は上々だ、と彼は玉座に腰掛けながら思う。
戦は嫌いだ、などと人は言うが、金さえチラつかせれば現実はこんなものだった。
もともと北方帝国における失業率は決して低いものではない。
未だに北方帝国を新天地と考えて、西方諸国から移住してくる人間が少なくないからだ。
だが、近年の航海技術の発展によって発見された新大陸と違い、北方帝国が未開の新天地だったのは遙か昔の話だ。
今では有望な鉱山や開拓地など、既に国有化されているか誰かに所有化されているかのどちらかだ。
文化や商業のレベルとて、西方諸国と肩を並べるまでに発展している。
よって今更この国に来たところで、安い賃金で小作農か鉱夫、その他の日雇い労働者になるか、さもなければ失業者として帝都の周辺のスラムにでも居を構えて餓死か、万に一つも無い幸運でも待ち受けるより他に無い。
そんな彼らに平均以上の報酬をチラつかせてみれば、兵は面白いほどに集まった。
また、兵として集まってきたのは失業者や低所得者だけでは無かった。
地方の中小貴族や軍閥達も競って兵を差し出してきたのだ。
理由など難しいことではない。開拓時代は終わったと言うことだ。
最早はっきりと各諸侯の領土の境界線が引かれて区切られた北方帝国において、自らの領土というものは戦争によって功績でも立てない限り増えることなどありえないのだ。
「今の状態で既に、かのバキスタにおける戦の軍勢にも負けるとも劣らぬ兵力でしょう。しかし……」
「分かっている」
彼は答える。
彼が集めるように命じた兵力は、西方諸国が支払った戦費を既に上回っている。
バキスタにおいて、決して無傷ではなかった蛮族一つ滅ぼすのにこの軍勢は大げさではないか、という意見もあった。
これだけの兵を維持するのには多額の金が必要だ。帝国の脅威になりかねないとはいえ、蛮族一つ滅ぼすのにこれだけの兵力は必要なのか?、という意見には実は彼も同意するところはあった。
だが、あえて彼はこの兵数に拘った。
「壊すのさ、この国の全てを。そして再生させるのさ、新しい帝国を。そして新しい『皇帝』を」
「陛下?」
「集めた兵たちは閲兵広場か?」彼は聞いた。「よし、集まってくれた兵達に閲兵を行おうぞ」
「御意に。既に準備は整っております」
彼は立ち上がる。
もう玉座は振り向かない。
もう一度そこに腰を下ろす時、彼は、もはや玉座の魔力をもっても自分が氷漬けの人形にはならない存在になっている自信があったからだ。
廊下に出た時に、窓から差し込んだ夕焼けがいつもより暗いことに一抹の不安を感じなくも無かったが、彼にはよもや自分が負けるであろうなどとは考えられなかった。

101氷の玉座(4):2006/10/21(土) 02:49:56
「陛下、お気づきになられましたか」
従事官の声に瞼を開いてみれば、そこには既に見慣れた天幕の天井があった。
彼は自分が寝台に横たわっていることに気づき、「どのぐらい私は眠っていたのだ?」と側の従事官に聞いた。
「3日ほどです、陛下」
「そうか……」
そう呟き立ち起き上がろうとした彼だったが、肩に激痛を感じて、思わず呻き声を上げていた。傷は思っていたより深いようだった。
「陛下!!」
「大丈夫だ……」彼は激痛に耐えるべく歯を食いしばりながら答える。「それより我が軍はどうなっている」
その問いに、従事官は回答を躊躇った。だが、彼にとってその躊躇いこそが、如何なる言葉よりも現状を物語っていた。
彼は再び床に伏し、瞼を閉じて今までの戦いの経過を振り返る。
緒戦において彼の軍隊は草の民の軍隊を文字通り蹴散らし、予定より遙かに早いペースで草原の深くまで侵攻した。
幾つかの戦闘はあったが、その全てに彼は鮮やかなまでの戦争の手腕を見せて圧勝し、やがて組織的な抵抗はなくなった。
彼の軍の進む先々で、草の民達は全てを捨てて部族から逃げ出すようになった。そう、文字通り徹底的に全てを捨てて……
井戸は潰すか毒が投げ込まれ、家畜は全て連れて行き、連れて行けない家畜や穀物は消し炭になるまで焼いて、彼らは逃げた。
食料は敵地で調達するのが兵法の王道だったが、こうまで徹底されてはそれは不可能だとしか言いようが無かった。
そして、更に進軍を続け、草原の中央にまで進んだ頃、事件は起きた。
後方で本国から補給物資を届けるための部隊が襲われたのだ。
戦いが有利に進んでいる、と言っても戦争の要たる補給部隊を決して無防備な状態で運用していたわけではない。むしろ、どの国の軍隊より厳重な警備を付けていたぐらいだ。
それが圧倒的な兵力の元に蹴散らされたと言うのだ。
……そうか、草の民の主力は既に我が後方に回っていたか。本拠地を捨て、兵站の破壊に全てを費やすとは流石だ。
意味の無い進軍をさせられたということに苛立ちながらも、戦術面の負けても着実に戦略面での勝利への布石を打っている敵を流石だと、彼は素直に驚嘆し、賞賛した。
……この戦いはこれが潮時だ。これで我々も本来の計画に戻れる
補給戦を絶たれる危機にあるというのに彼に焦りはない。むしろ、これで草の民と講和を結び兵を本国に戻す機会が出来た、と彼は内心ほくそ笑んだ。元々彼にとって草の民に勝つことがこの戦争の目的ではないのだ。
草の民には適当な勝利を得ておき、最終的な止めを刺さずに本国へ軍を戻す、そしていけしゃあしゃあと西方諸国に報酬を要求する。無論、西方諸国はこの要求を突っぱねるだろう。だが、これこそが本来のこの戦争の目的だ。
報酬の不払いを理由に、草の民との戦争で鍛えられた軍を西方に進軍させる。バキスタの戦いに敗れた西方諸国には最早、この軍に抵抗するだけの兵力は無いだろうし、あの戦いで、幾つかの国が戦わずして兵を引いたことで彼らは北方帝国に対抗するべく連合軍を組織することなどできないぐらいに互いに疑心暗疑にかられているはずだ。
そうなれば中小国の一国か二国、いや、下手をすればあのリクシャマー帝国を落とす事だって夢ではない。
戦争が終わった後で帝都を、『白の都』と言えば聞こえがいいが、結局は冬は極寒に閉ざされるソフォフから暖かいどこかの都市に移してやるのだ。
そして、領土の拡大を理由に統治体制を徹底的に変え、貴族や領主、そして軍閥達を徹底的に整理してやるつもりだった。
そうすれば帝国は変わる。もはや人形の『皇帝』を氷の玉座に縛り付けることで成立する国家ではなくなる。
それが、彼にとってのこの戦争の目的だった。
……ここまでは上手くいっていたのだがな
今にして思えば自分はハルバンデフと言う男を、いやこの戦いを舐めていたのかもしれない、と彼は思った。

102メト・ハレクが語るフルフミブァルムの神話伝説・種族の起源(1):2006/11/07(火) 23:06:23
兄弟種族ジャドナゲンの友アーム・ラルドメクセトへ。
今回は我々の祖先の起源について書き伝えようと思います。

その昔、我々の祖は緑の雲から地上に振り落とされたといいます。
その数は百を超えていましたが、その半分は地面に叩き付けられた衝撃で
死んでしまいました。残ったのは五十三人。かれらが私達フルフミブァルムの祖となりました。
我々にそれ以前の歴史があったかどうかはわかりません。雲から落ちた祖先は
姿はすでに大人であったにも関わらず、何も知らなかったからです。
そんな小児のごとき祖先を拾い上げ、育て上げた偉人がいます。
厚衣のアルフレイムと呼ばれる人です。この人は常に分厚い衣で全身を覆い、
顔面にはさらに雄獅子を模した大きな仮面をかぶっていました。しかも
誰の前でもそれを脱ぐことがなかったので、彼の種族が何だったのかは解らずじまいです。
彼は我々の種族に『フルフミブァルム(緑の雲から来たもの、の意)』と名づけ、
我が子のように可愛がって、生きていくために必要な知識や技能を教えました。
アルフレイムの知恵は相当なもので、成長していく祖先の質問にも正確無比かつ懇切丁寧
に回答しました。しかし彼がそれほどの知識をどこで学んだのか等、彼の過去に
関する質問にだけは答えませんでした。

103星の楽園の物語(1/5):2006/11/12(日) 03:52:00
昔々ある山の村に、星を眺めるのが大好きな女の子がいました。
女の子は昼は寝てばかり、夜になると一晩中、星をながめていました。
「朝なんて来なければいいのに」
と朝が来るたびにつぶやきました。
女の子にはお父さんもお母さんもいませんでした。
だからひねくれた性格になってしまったのだと、女の子の住んでいた村の人々は思いました。
だけど、その村の人々は優しかったので、その女の子を可哀想にも思って
みんなで面倒を見てあげていました。

ある日、男の子が星を眺めている女の子に尋ねました。星の特に綺麗な夜でした。
「きみはいつも星ばかり見ているけど、何がおもしろいんだい?」
女の子は答えました。
「私が星を見ていると、その星のことがみんなよりもよくわかるの。それがおもしろいのよ。
 その星がどこにあるのかとか、どんな人がそこにいるのかとか」
男の子は驚いて言いました。
「星に人がいる?そんなバカな。星っていうのは、空に描かれている絵なんだよ。
 アルセスがキュトスのために描いてあげたんだ。アルセス・ストーリーに書いてあったよ」
女の子は何も言いませんでした。男の子はさらに言いました。
「ねえ、たまには星を見る以外のこともした方がいいよ。明日、僕と一緒に泉に行こう。
 水は綺麗だし、動物や鳥がいることもあるし、花も咲いてるよ」
女の子は返事をしませんでした。男の子は、溜息をついて自分の家に帰りました。

104星の楽園の物語(2/5):2006/11/12(日) 03:53:02
その日から、ほとんど毎日のように男の子は女の子を誘いました。
女の子は、決して男の子と一緒に行こうとはしませんでした。
しばらく経ったある日、その男の子はいつものように星を眺めている女の子を誘いました。
「そうだ、ちょっと遠いけど町まで降りるのはどう?町にはいろんなものがあるんだよ。
 大きな教会とか、珍しいおもちゃとか、変わった食べ物とか…」
「ありがとう。でもいいわ」
その日、男の子は諦めませんでした。
座って星を眺めている女の子の正面に立って、初めてその目を見つめました。
男の子は、そうして何か言おうとしたのですが、その言葉を忘れてしまいました。
女の子の大きな瞳は夜空のように暗く、そして星が輝いていました。美しい瞳でした。
「どいて。星が見えない」
「君の目の中に星がある!こんなの、見たこと無い」
男の子は、すっかりその目に見入ってしまいました。
「―――どいて」
女の子は、とても怒っていました。
男の子はようやくそのことに気付きましたが、すでに遅かったのです。
女の子の瞳の星が、ひときわ強く輝くと、そこから光の矢が飛び出しました。
光の矢が男の子の頭を貫くと、男の子はその場に倒れ伏せました。冷たい夜風が吹きました。
女の子は何が起こったのかわかりませんでした。すぐに人を呼びましたが、手遅れでした。
男の子のことについて、村の人々は大いに悲しみました。女の子もまた悲しみました。
いつもあんな態度でしたが、女の子は男の子のことが気に入っていました。
なぜなら、男の子はどこか、女の子が見る遠い遠い星に似た雰囲気を持っていたからです。

朝になると、みんなは集まって女の子のことを改めて考えました。
よく考えてみると、その女の子がいつ村に来たのか思い出せる者はいませんでした。
しかも、女の子が来てから少なくとも10年は経つのに、その姿は昔と全く変わっていませんでした。
村の人々はそのことを怖がりました。何故かそのことに気付かなかったことも怖がりました。
そして、村の人々は、その女の子を村から追い出すことに決めたのです。
村の人々はやさしい人たちでしたが、臆病な人たちでもありました。

105星の楽園の物語(3/5):2006/11/12(日) 03:53:55
村から追い出された女の子は、とりあえず夜まで一眠りして、それからこれからのことを考えました。
今まで何も考えてこなかった女の子には、何も思い浮かびませんでした。
いつものように、とりあえず星を眺めることにしたのです。
女の子は、すぐにひときわ明るい、女の子の近くにある星を見つけました。
今までそんな星を見たことは無かったので、女の子は不思議に思いました。
なんとなく、女の子はその星の方向に行ってみようと考えました。
そして、女の子の旅が始まりました。
見たことの無い星は、どういうわけか左へ右へ、何回も動いているように見えました。
だから女の子は、夜の間だけ、蛇のように曲がりくねりながら進んでいきました。
険しい山道でしたから、女の子は大変でした。昼間はぐっすりと眠りました。
日が落ちるとその星が真後ろ、つまり今まで通ってきた道の方向にあることさえありましたが
それでも女の子は、星に少しづつ近づいて来ていることがわかっていました。

12回目の夜でした。雲ひとつ無く、星は空に無数に輝いていました。
その時はもう、村の人々に貰った食べ物は無くなっていました。女の子も疲れていました。
女の子がいつものように星を追いかけていると、開けた高台に出ました。
星はものすごく近くに見えました。そこに、小ぢんまりとした館が立っているのが見えました。
その星は、その館の上で輝いていたのです。その時、後ろから声がしました。
「やっと見つけたね、イングロール!」

106星の楽園の物語(4/5):2006/11/12(日) 03:54:57
女の子は振り向いて、驚きました。そこには、死んでしまったはずの男の子がいました。
「君を外に出すには、これが一番手っ取り早いと思ってね」
「あなたは死んだんじゃなかったの?見つけたって、この館を?
 それと、私の名前はイングロールじゃないわよ。知ってるでしょ?」
「そんなに興味を持ってもらえるなんて嬉しいね。質問はひとつずつだよ」
男の子は右手を前に出して、人差し指を立てました。
「まず、僕はそもそも死んでない。死んだフリをしていたんだ。君をここに導くためにね。
 まあ、瞳を見るまで星夜光で撃たれるとは思ってなかったけど」
「星夜光?あれは星夜光って言うの?」
男の子は中指を立てました。
「2つ目の質問だね。そう。少なくとも故郷ではそうだった。君も僕の故郷を見たんだろう?」
「見たかもしれない。あなたが星から来たことはなんとなくわかってたわ」
「うん。そうだろう。じゃあ3つ目の質問に答えるよ」
男の子は薬指を立てました。
「そう。僕は君にこの館を見つけてもらいたかった。僕一人じゃここまで辿り着けないからね。
 君のように、星を読む力が無ければ、とてもこの場所を見つけることはできないんだ」
「それで、ここは何なの?」
男の子は小指を立てました。
「4つ目。この館は、星見の塔。かつてキュトスとアルセスが星を眺めた場所に立てられた館。
 この館は、灯台でもあるし、見張り塔でもある。観測台でもあるし、素敵な館でもある。
 館もすばらしいけど、この場所もすばらしい。少なくとも君にとってはね。
 そう、この場所には――朝が来ないんだよ」
「本当?本当なの?信じられない!」
女の子はとても興奮しました。夢にまで見た楽園が、ここにあったのです。
そして、にっこりと微笑むと、男の子にお礼を言いました。
「どうもありがとう」
「いやいや、君は自分の力でここに来たんだよ。それにしても、君の笑顔なんて始めて見るな」
男の子は空いている左手で頭を掻きながら、最後の指、親指を立てました。
「そう、喜んでくれて結構だけど、5つ目の質問を忘れてはならない。
 君の本当の名前はイングロール。キュトスの姉妹のイングロールだ」
「イングロール。変ね。そう思うと、私はすでにその名前を知っていたみたい」
「事実そうなんだけどね。忘れてただけなんじゃないかな」

107星の楽園の物語(5/5):2006/11/12(日) 03:56:12
「……さあ、もう質問は全部片付けた。あの光は、君の姉さんであるダーシェンカのものだ。
 君はこれから彼女に会って、話をしなくてはならない。キュトスの姉妹として。
 姉妹の詳しい話とかは、彼女から聞くことができるはずだよ」
「あなたは来てくれないの?」
「うん、残念ながらね。他に片付けることがたくさんあるんだ。もうここには来れないと思う」
イングロールは表情を曇らせました。ここでずっと星を眺めて、彼の誘いを断る。それが理想でした。
「ごめんよ」
イングロールは少し考えると、男の子に尋ねました。
「ねえ―――名前を教えてくれない?嘘のじゃない、本物の名前。
 私の本当の名前はイングロールだった。あなたにも本当の名前があるんでしょ?」
「鋭いね。教えてあげてもいいけど、約束して欲しいんだ。
 僕の名前と、僕が教えたことは誰にも言わないで欲しい。無論、これから出会う君の姉さんにも」
ダーシェンカの光で、男の子の顔ははっきりと見えていました。
イングロールはその星の輝く瞳で、しっかりと男の子を見据えて答えました。
「約束する」
男の子は、ゆっくりと、1つ1つの言葉の発音を確かめるように言いました。
「よろしい。僕の本当の名前は―――ハグレス。ハグレスだ」
「ハグレス。いい名前。青く輝く星のような響き」
ハグレスは笑いました。何でも星に結びつける、イングロールがおかしかったのです。
「君はやっぱり変わっているなあ」
「そうかしら?」

辺りに、冷たい夜風が吹きました。
風が収まると、イングロールは改まった態度で言いました。
「ハグレス。私は星空が一番目に好きだけど、あなたは二番目に好きよ」
「それは嬉しいね」
「だから、また会えるよね…?」
「それは君次第だね。約束を守ってくれるなら…」
女の子はすぐに力強く答えました。
「守るわ!」

イングロールに詰め寄りながら、ハグレスは言いました。
「―――それなら、きっと」
ハグレスは、イングロールの額にキスをして、はにかむように笑いました。
「―――また会おう!」
そして、ハグレスは、崖からさっそうと飛び降りました。
イングロールがその崖の下を見ても、星々も姉の光もそこを照らしてはくれませんでした。

108ムランカの戦い(3):2006/11/12(日) 23:23:47
「ねぇ、アンリエッタ聞こえるかい」
 闇の先、ムランカは尋ねる。
 闇の先に彼女は踏み出す気はなかった。いや、踏み出せなかった。
 だから彼女はずっと蹲っていた、アンリエッタが赤子を抱きながら闇に消えた後、入り口の所でずっと……
 そして無言のままだった……彼女には闇の先に語りかけることができなかった。
 けれど、その日になって、彼女はやっと闇に語りかけた。その事を黙っていることはそれ以上できなかったのだ。
「あたしの今の身体の持ち主はね、母親だったんだ」
 闇を包む静寂。
「彼女は多分幸せに成長して、幸せに結婚して、幸せに子供を産んだんだ。ところが酷い飢饉が起きてね。大分酷い飢饉だったようだよ。村の半分が餓死した、と聞いている。旦那がその時に死んだともね……」
 静寂の中で小さな息の音が聞こえた。それがアンリエッタのものなのか、彼女の横に置いた揺り篭の中の赤子のものなのかは分からない。
「食料も尽き、死を待つだけの集落に、ある日一人の魔術師の男が訪れたんだ。村人達だって魔術師一人にどうこうできるという問題じゃないことを知っていた。けれど、村人達は彼にすがった。そしてその男は、『幸運』にも王宮に縁のある人間だった。程なくして村には食料が運び込まれ、村は九死に一生を得た。けれど、事が終わり男が村に要求したのは『少女を一人』だった」
 小さな風が吹き、彼女の頬を撫でた。
 それは冬の訪れを予期させる冷たい風だった。
「村人達は当然ながら、それを拒んだ。けれど、男は要求が果たされないのなら食料を引き上げて、村を焼き払うと脅した。村人達は逆らえなかった。だから少女を一人選んで差し出した。嫌がる母親から無理矢理引き剥がすようにしてね。分かるよね、その母親っていうのが私の身体で……」
 ふと何かを感じてムランカは立ち上がり、闇へと踏み出す。
 闇の先では全てが終わっていた。
 寝台に散らばった灰と、やがて灰化するだろう髪……そして、その横で静かな寝息を立てる赤子。
「……眠ったんだね、アンリエッタ」
 自分でも気付かないうちに流した一筋の涙が彼女の頬を伝って地面に落ちた。
 そして、彼女は語りだす、堰を切ったようにその事実を……。
「その子の母親はね、ずっと己の所業を後悔し続けた。そして、程なくしてあたしが彼女の目の前に現れた。彼女はたいそう美しかったからね、あたしは彼女を騙して身体を奪うつもりだった。だからおいしい話を色々と持ちかけた。なのに……彼女はその話に反応を示さなかった。そして……」
 『奪って!』
 ムランカは彼女の言葉を思い出す。半狂乱になりながらすがる様にして、懇願するように彼女が言った言葉。
 『奪って!……私から何もかも奪って!。意識も!、理性も!、思考も何もかも……。いらない!、もう何もいらないの!。私に何も欲しがる権利なんて無い!。私に資格なんてない!。私はそういうことをしてしまった!。でも、救って……あの子が不幸になっているのなら救ってあげて』
「ごめんね、約束は守れなかったね」
 彼女は自分の中に取り込まれた御霊の一人に語りかける。
 しかし反応は無かった。
 彼女に取り込まれて、「奔流たる意識」に取り込まれた意識は、その精神力や資質が余程高くない限り、全体の中ではその存在は限りなく無に近くなってしまうのだ。
「あたしが見つけた時、既にあんたの娘は……」
 静寂の闇の中で、突然に赤子が目を覚まし、やがて泣き始めた。
 彼女は優しく赤子を抱き上げ、その腕の中で優しくあやした。
「アンリエッタはね、幸せになるための名前だ。そうでなきゃ嘘だ。だから……」
 彼女は服の胸元を緩め、その父を赤子の口に含ませた。
 安らかに、無心にそれを吸う赤子に、彼女は今まで見せたことが無いに違いない笑顔を向けて言う。
 彼女は気付いているのだろうか?、その笑顔が『母親』の笑顔であるということに。
「だから、その名前をあんたにあげる。幸せにおなり、あたしがあんたが幸せになれるように手助けしてやるから。それがあんたの義務だよ」
 乳から口を離した赤子は、彼女に笑いかけた。

109ハザーリャの罰(1):2006/11/25(土) 23:29:45
ある日、キュトスはふと思いました。自分には何かが足りない、と。
強さではありません。彼女はセルラ・テリスのようになりたいとは思っていませんでした。
賢さでもありません。ラヴァエヤナのようになりたいとも思っていませんでした。
美しさでした。いえ、女らしさといった方がいいかもしれません。
誰か他の神から、女らしさをわけて貰おうと思いました。彼女は誰にしようかと考えました。

ハザーリャという神がいました。
それ(ハザーリャは男でも女でもありませんから、こう呼ぶが普通なのです)は女らしさを持っていました。
そしてあまり偉い神ではありませんでした。そこで、キュトスはそれから女らしさを貰うことにしたのです。
しかし、ハザーリャは、私の女らしさは海と始まりを管理するためのものであり、それをあげるとすると
世界で色々と困ったことがおこるので、あげることはできない、と彼女の頼みを断りました。

しかしキュトスは諦めませんでした。
それが寝ている間(怠けているわけではなく、これもそれの仕事のひとつなのです)に寝床に忍び込んだ彼女は
その女らしさ、海と始まりを管理するためのものの一部を盗み取りました。
そして、キュトスはより美しく、女らしくなりました。アルセスはそれを見て驚き、喜びました。

夜月が沈み、朝が来ると、ハザーリャは自分の体の異変に気がつきました。
女性としてのそれの姿の背の高さは頭1つ分ほど縮み、目と鼻と胸が抉られていたのです。
力もうまく使えませんでした。静かだった海はそれの心臓に合わせて揺れ動いていました。
それはすぐにキュトスがやったと気付きました。
彼女の元へ行き、返して欲しいと頼みましたが、この女らしさが気に入っていたキュトスは断りました。
それとしては奪い返してもらっても良かったのですが、立場上、それは難しいことでした。
そこで、それは彼女に罰を受けてもらうことにしました。
それは、彼女から一切の「死」を奪うことを許して欲しい、と言いました。
彼女はすぐに許しました。それは、何があっても死ねなくなるが本当にいいのか、と重ねて問いました。
しかし彼女は深く考えず、それで気が済むのならと、むしろ喜んで、自分の「死」をそれに奪われました。
こうして、キュトスは不死の神となりました。

110ハザーリャの罰(2):2006/11/25(土) 23:30:44
キュトスは女らしさを望んではいましたが、海だとか原初だとかの力には興味がありませんでした。
そこで、その力を自分の持っていた武器のひとつに付加してみました。
そのハルシャニアという棒は、いくらでも海水を噴き出すことができるようになりました。
彼女はその新しい武器を大いに気に入りました。
ヘレゼクシュ地方にあるネイバース湖を創ったのは、このハルシャニアだという話があります。

それからずいぶんと経って、キュトスは殺されました。その原因は定かではありません。
彼女の身体と心は71個に切り裂かれ、世界に飛び散りました。
しかし、身体でも心でも無い、キュトスの魂とでも言えばいいのでしょうか。
それはまだ死なずに残っていました。そして痛みに苦しんでいました。
悲しんでいたアルセスは、彼女が未だに死の苦しみにのたうっていることを知って、さらに悲しみました。
そして怒って、ハザーリャの元へ向かいました。

アルセスはハザーリャを責めました。
しかし、それは自分が死を奪うことによって、どのようなことが起こるかは彼女に十分に説明した
よく考えずに了承した彼女に非がある、と反論しました。
アルセスは、それならばいっそ彼女に死を返して、殺してやってくれと頼みました。
ハザーリャは彼の必死な様子を見て承諾しましたが、しかし身体と心がバラバラになった今の状態では
死を返すことはできませんでした。キュトスを再び1つに戻す必要がありました。
死んでいないからといって生きているわけでもないので、彼女が蘇るわけではない。
しかし、1つになっているのなら死を与えることはできる、とそれはそう言いました。
こうして、アルセスはキュトスを苦しみから救うために、殺すために、旅に出たのです。
世界に散らばった71の彼女の破片を繋げ直す旅に。


(「終わりが続くことから始まる物語」第3章より)

111勇猛なるユンダリャー:2006/12/23(土) 20:30:17
勇士ユンダリャーはガリヨンテに仕える巫女から金剛石の聖剣を受け取り、ロワスカーグを四つに切り裂き、東西南北に封印した。
ユンダリャーは偉大なる英雄として称えられ、国中の尊敬と感謝を一身に集めた。
彼はそれ以降に現れるであろう全ての「ユンダリャー」の名前を懐く者はガリヨンテの加護を受けし偉大なる英雄になるだろうと言い残し、雷光と共に消え去った。
それから、後世においてユンダリャーの名を持つものは、歴史に名を連ねる偉人ばかりになったという。

112断章 1:2007/02/05(月) 15:27:42
というわけだから、シャルルは最後まで彼女に別れを告げることが出来なかった。
クレールの長い爪はシャルルに躍りかかった野犬の喉笛を鋭く貫き、彼女はその自慢の牙で犬の頭部に喰らいつく。勢い任せに崖下に転がり落ちていく一人と一匹を見送った後、シャルルはその場にへたり込んでいることしか出来なかった。数時間後、路上のど真ん中で呆けているのを新聞配達の少年に見つかるまで、ずっと。
それから、シャルルは死ぬまでクレールと、その奇妙な連れを目にすることは無かった。
野犬と縺れ合いながら転がり落ちていった少女がどうなったかも知らないし、【悪魔】と相対したもう一人がどうなったのかも知らない。
シャルルは全てが終わった後、一度だけあの打ち捨てられた館に行って見たことがあったが、恐る恐る覗き込んだ館の中は、相変わらず閑散として、そして相変わらず幽霊や悪魔の出そうな雰囲気のままだった。
ただ、あれだけ沢山いたはずの蜘蛛が一匹残らずいなくなっていたのだけが奇妙でならなかった。
結局の所、あの事件がシャルルにとってなんだったのか、いまだに自分の中でも消化しきれていない。けれど多分、あれは自分には本来関わり無い所で進行するはずだった事件で、自分は生来の悪運の強さでその断片を少しだけ覗き見てしまったのだろう、と思う。
何故って、でなければこんなにも平凡な自分が、吸血鬼と人狼を名乗る二人組と、悪魔の縄張り争いなんかに巻き込まれるはずが無いのだ。
それ以来、シャルルの周りでは奇怪な出来事や、頭を抱えたくなるような不運事は起きていない。
多分、一生分の悪運を、あそこで使い果たしたからだと、そう思う。

113メクセトと魔女 1章(1):2007/02/20(火) 01:21:56
「嘘……こんなことありえない」
 少女の形をした彼女は大きく目を見開いて呟いた。
 それはあり得ない出来事のはずだった。そんなことはあってはならないはずだった。
 だが、彼女の目の前の出来事は紛れもなく真実だった。
「何で……どうして?」
「ふん、お前、『魔女』か」
 彼女の目の前で、舞い上がった土煙の中、軽く左手を挙げた男は不適にも口元を歪めて言う。
 その姿が彼女には限りなく邪悪なものに見えた。
 恐怖、という彼女にはあってはならない感情が彼女の中で鎌首をあげる。
「面白い手品だ、もう一度やって見せろ」
 彼女は絶叫し、もう一度同じことを……彼女の知る限りの最強の攻撃魔法による力の塊を男にぶつけた。
 だが、結果は同じだった。
 まるで同じ刻が繰り返されたかのように、男は再び軽く左手を挙げ、力の塊は脆い何かが砕かれたように四散して、大気の中へと消えていく。あとには砂埃だけが派手に舞うのみ。
「嘘……嘘……こんなわけ、ない」
 それは彼女の渾身の力のはずだった。
 これに直撃されて地上に存在する物質があるはずはないのである。
 だというのに、目の前の男は傷一つなく彼女の前に立ちはだかっていた。
「やれやれ興醒めだな。栄華を誇りし、『ハイダル・マリクの切り札』がこの程度とはな」
 男は肩を竦め、彼女はその場に思わず座り込みそうになる。
「何者なのよ……何なのよ、貴方?」
「余の名前なら既に知っておろう」座り込んだ彼女を見下すように笑みを浮かべながら男は言う。「余の名はメクセト。これより全てを統べる者だ」
 彼女は恐怖に再び絶叫し、そして知る限りの、ありったけの魔法を男に叩き込んだ。

114メクセトと魔女 1章(2):2007/02/20(火) 01:23:46
 全ての栄華に終わりがあるように、その都市国家にも終わりの刻が迫っていた。
 それは従属民族の走狗にしか過ぎなかったはずの一人の男によってもたらされようとしていた。
 その男の統べる叛徒は、従属民族によって構成された傭兵部隊の大軍を打ち倒し、虎の子の正規軍をも易々と打ち倒した。
 あらゆる力も、魔法も、知略も全てはその男の前では無力だった。
 男は正に『魔人』だった。
 故に、毒には毒を、魔には魔をと都市国家は最期の手段を講じたのだが……
 
 
 「おぉ、何ということだ」
 白亜と宝玉に彩られた宮廷の中、軍政官はその少女を前にして言った。
「人類を裏切る行為だと知りながら、かかる行為に及んだというのに……」
「遂に栄華を誇りしハイダル・マリクも終焉ということか……」
 絶望にざわめく群臣を前にして、ふん、と小馬鹿にするように少女は鼻を鳴らした。
「人類の至宝なんて言われているぐらいだから、どんな所かと思って来たら、とんだ張子の虎も良い所ね」
「何を言うか、小娘!」
「そうだ、畏れおおくも陛下の御前なるぞ!」
 彼らは口々に少女の無礼を責め立てたが、少女は怯むことなく「下が下なら上も上ね」と小馬鹿にした口調で言う。
「貴方達が同盟を求めるからわざわざ姉妹の代表として来たというのに、こんな無礼な態度をとる臣下を責めもしないなんてね」
「この娘の言う通りである」
 金色の玉座に腰を下ろした獅子の仮面の王は言った。
「娘よ、臣下に代わり、非礼を詫びよう」
「陛下……」
「良いのだ」
 そう言って、男は玉座から立ち上がり、少女の前まで歩み寄るとその足元に跪いた。
「陛下、なりませぬぞ、この小娘は……」
「良いのだ!」
 男は、文政官を一喝して制すると、「ハイダル・マリクが王である。援軍に感謝する」と跪いたまま言った。
「ま、及第点という所ね」
 くっ、と屈辱に身を震わせて耐える群臣を、悪戯っぽい流し目で見回しながら少女は言った。
「それじゃ本題、まず私達姉妹は貴方達人間とは同盟を結びません」
 「ふざけるな!」と軍政官の一人が身を乗り出して抗議する。
「かかる屈辱に耐え、『人類の裏切り者』の汚名を後世まで被る覚悟で同盟を結ぼうという我々の申し出を無下に断るというのか?」

115メクセトと魔女 1章(3):2007/02/20(火) 01:24:24
「まっ、当然よね。貴方達が私達姉妹にした迫害の数々を考えれば、そんな申し出受けるわけないじゃないの」
 軍政官の抗議をさらり流すようにして言う少女の言葉に、絶望と憤怒に彩られる宮廷。
 しかし、少女はその場の雰囲気に呑まれることなく平然とした様子で「人の話は最期まで聞きなさいよね」と言った。
「ただし、今回だけは貴方達に助力します。条件は一つ、以後私達姉妹に干渉しないこと。同盟を結ぼうとまで言った貴方達なんだから、このぐらいの条件は呑むでしょ」
 沈黙が宮廷を支配する。
 彼女達に干渉しないということは、ある意味同盟を結ぶよりも取り返しのつかない結末になるかもしれないことだった。
 だが、もし今、彼女達の助力がなければ、この都市国家に待ち受ける運命は確実な滅亡である。
「……願ってもいない条件。この王、しかと受け止めよう」
 沈黙を破り、少女に跪いたままの王が口を開いた。
 既にして、彼女達に同盟を申し入れたこと自体が『人類を裏切る』行為なのだ。これ以上、何の汚名を恐れる必要があろうか?。汚れるというのならば、どこまでも汚れてでも生き延びてやろうではないか。未来永劫、子々孫々に至るまで罵られてみせようではないか。その覚悟がこの王にはあった。
 その王の心を知ってか知らぬでか、「感心、感心」と少女は相も代わらず小馬鹿にした態度で言う。
「それでこそ、援軍に来た甲斐もあるってものね」
「一つ質問して良いかね?」年老いた軍政官が、恐る恐る口を開いた。「援軍というのは君一人なのかね?」
「えぇ、そうよ」
 当たり前のことのように少女は答えた。
「……それで勝てるのかね、あの男、メクセトに」
 わずかな沈黙の間をおいて軍政官は少女に尋ねる。
「愚問ね」
 少女は鼻を鳴らして言う。
「信頼していいのだな?」
「それも愚問だわ」
 自信ありげに少女は答えた。
 群臣たちは互いに顔を合わせ、ひそひそと何かを囁きあい、やがて一人の男が彼女の目の前に現れ、王と同じように少女に跪いて言った。
「私からも頼む、この国を、ハイダル・マリクを是非貴方の力で救っていただきたい」
「私からもお願いします」
「私からも……」
 どうやら、この男はかなりの有力者だったらしく、群臣達は次々に少女に跪いた。
「頼まれるまでもないわ、私を誰だと思っているわけ?。『キュトスの姉妹』の一人なんだから」
 少女はそう言って胸を反らした。
 「そう言えば……」と王は頭を上げて、少女に聞く。
「余はお前に名を尋ねていなかったな?。名はなんと申す」
「あぁ、それは答えられないわ。私が名前を教えるのは、私が心を許す相手だけなんだからね」
 そう言って、少女は身を翻して王宮を後にしようとする。
 目指すは、彼女の今回の敵にして、ハイダル・マリクの敵、メクセト。
「まぁ、大船に乗った気持ちで待ってなさい。そのメクセトとやらを見事退治してくるから」
 それが数時間前の出来事……

116メクセトと魔女 1章(3):2007/02/20(火) 01:24:57
 もはや、それは魔法にすらなっていなかった。
 出鱈目な呪文の詠唱と、出鱈目な力の解放。
 しかし、それでも尚、その力は地を抉り、土埃をあげ、確実に地上のあらゆる物質を破壊するに足りるはずの力だ。
 だというのに、土煙の晴れた後、男はそこで何事もなかったかのように悠然と腕を組んだまま立っていた。
 その体には、傷一つない。
「それで終わりか、手品師」
 言われて彼女は恐怖にその顔を引きつらせながらも何かをぶつぶつと呟いた。
「聞こえぬぞ。言いたいことがあれば余に聞こえるように言え」
「私は……私は……末妹とは言え『キュトスの姉妹』。神より分かれた者。神に等しき力を持つもの」彼女は震える手で魔法の用意をしながら言った。「貴方達人間とは違うの!。貴方達人間に負けるはずはないの!。こんなことあっちゃいけないの!!」
「お前の目の前にある余が真実だ。認めるがいい」
 男は一言の元に少女の世界に取り返しのつかない皹を入れる。
「認めない。こんなの認めない!」
 しかし、少女は砕けかけた世界にすがろうとして再び力を解放しようとした。
 残った全ての力を、その命すらも、出鱈目な呪文の詠唱に載せて少女は己が世界を繋ぎ止めようとする。しかし……
「もう、その手品は飽きたぞ」
 男は少女の目の前へ歩み寄り、そして彼女の手を掴んで呪文の詠唱を止める。
 「ひっ」と少女は息を呑み、そして座り込んだ。
「どうした、もう終わりか?」
 男の言葉に少女は声にならない嗚咽をあげて泣き叫んだ。
 少女の世界は、今、音を立てて崩壊したのだ。
 その少女の腕を掴んだまま男は彼女を見下ろしていたが、やがて開いている方の手を使って少女の顎を掴み、自分の方にその顔を向かせた。涙で顔をくしゃくしゃにした美しい顔がそこにはあった。
「ふぅむ……」
 その顔を値踏みするように眺めていた男は、「従事官!」と自分の背後に下がらせていた軍勢の中から一人の男を大声で呼んだ。
 やがて、「ただ今!」と軍勢の中から、一人の若い男が馬を走らせて姿を現せる。
「従事官、余は今宵のうちにハイダル・マリクを焼く」
 さも大したことではないかのように、静かな口調で男はそう宣言した。
 従事官も男の性格を分かっているのだろうか、「御意に」と当たり前の指令を受けたかのように頭を下げる。
「西門のみを残し他の門に兵を遍く配置せよ。未だハイダル・マリクに残る民や生き延びたい生存者は西門から逃がす。だが、西門以外からは蟻一匹逃すな」
「しかし、それでは……」
 王は西門より逃げてしまうのではないか?ということを従事官は心配した。
「安心しろ。あの王は都と運命を共にするであろう。そういう人物だ、あれは」
「しかし、臣下の中には王を無理矢理連れ出すものがいるかもしれません」
 「ならば西門に弓兵を伏せておけ」と男は指示を出す。
「いくら身をやつせども、その姿は遠目からでも分かろう。王の姿を見たと思うたのならば迷わず弓を射て、それを殺せ。それより……」
 男は、その時になって、ようやく掴んでいた少女の腕を離した。
 恐怖に怯え、少女は座り込んだまま男から後ずさった。
 しかし、その足を、その腕を、目に見えない鎖のような何かが縛り付けて少女の動きを拘束した。
「ハイダル・マリクを焼き払った後、余はそこに余の宮殿を造るぞ。余の後宮に部屋を一つ用意しておけ」
「……!!」
 少女は声にならない絶望の悲鳴をあげた。
 それは、男が彼女を蹂躙することを高らかに宣言したということを意味した。
「喜べ、魔女。お前を女として扱ってやる」
「こ、殺しなさい!」
 恐怖に怯えながらも、少女はそう言って男に最期の抵抗を試みる。
「人間に好きにされるぐらいなら、私は死を選ぶわ」
「余は勝者なるぞ。敗者に自らの運命を選ぶ権利などない」
 そう言って、男は、少女を舐めるように見回し、「楽しみだ」といやらしい笑顔を浮かべて言った。
「散らされた経験の無い乙女を、いかなる女に開花させるか……それが魔女ともなれば、考えるだけでも楽しみだ」
「く……ぅっ」
 少女は顔を背け、自らの不運を呪う。
 人間ならば、己が誇りを守るために舌を噛んで死を選ぶことも可能だろう。だが、彼女は『キュトスの魔女』である。そのようなことでは死ねぬし、傷口もすぐに癒える。癒えない傷は心の痕だけだ。
「それまで、この魔女は余の幕舎に置いておけ。兵には指一本触れさせるな」
「御意に、メクセト閣下」

117メクセトと魔女 2章(1):2007/02/20(火) 01:34:33
 終わらぬ栄華などなく、また散らぬ花などない。
 滅びぬ世界もまたあり得ない。
 ハイダル・マリクと呼ばれたその都市は一夜にして焼き落とされ、王は自ら命を絶った。
 後には何も残らなかった。
 ハイダル・マリクは文字通り地上から姿を消したのだ。
 そして、メクセトは宣言通りその都市の跡に自らの宮殿を建てた。
 まるで何かを馬鹿にするかのように壮麗な宮殿。
 そして、その宮殿の後宮に少女の姿はあった。
 
 
 僅かに蒼を含んだ白銀の月の光が宮殿内を照らしていた。
 その白銀の光の中、少女はその裸体を褥にうつ伏せに横たえていた。
「……」
 少女のすすり泣く小さな声が、風に混じって宮殿内のどこかへと消えていく。
 それは幾度繰り返された夜の光景だろうか?
「悔しい……私は……」
 その後の言葉を彼女は続けることができない。
 彼女を彼女たらしめていたその世界は既に砕け散ったからだ。
 いや、既に踏みにじられ陰すら残っていないのだ。
 あの男、メクセトは宣言の通りハイダル・マリクを焼くと、その跡に自らの宮殿を建て、宮殿の中に自らの後宮を作った。彼女にはそのうちの、決して粗末ではない、むしろ豪奢ですらある部屋が一室与えられ、そして宣言通りメクセトは彼女を『女』として扱った。
 圧倒的な力の前に蹂躙される夜が幾晩続いたのだろう?
 蕾は散らされ、いつしか、自ら望まぬことだというのに女としての悦びに咲こうとしている自分がいる。
 砕け散った世界の後に訪れようとしている、それが現実だった。
 最近では、もう全てが遠い過去のことなのではないか?とまで彼女は錯覚するようになっていた。
「私は……私は……」
 そう呟いてみても、やはり言葉を続けることができず、己が現実をさらに理解するだけだ。
 ふと、自分を呼ぶ声に気づいて、彼女は顔を上げる。
 涙に濡れた、焦点の定まらぬ視線のその先には彼女にとって懐かしい女性の姿があった。
「お姉さま?」
 幻覚なのだろうか?とふと彼女は自分の目の前の世界を疑った。
 しかし、黒衣に身を包んだ、少女の形のそれは、おぼろげな輪郭をしながらも、決して彼女の生み出した幻覚でも妄想でも無かった。確かにそれは……
「ヘリステラお姉さま!」
 彼女は寝台より身を起こし、その足元に擦り寄る。
「可愛い妹よ、可愛そうに……」それは彼女にそう優しく声をかけた。「君を今すぐにでもここから助け出したい。もうこれ以上辛い目に遭わせたくない。この胸に抱いてやりたい。だが、私がこの通り自らの影を送ってしか君の目の前に姿を現すことができない事からも分かるだろう?。あの男の魔術は強力だ。こと、この後宮にかけられた魔術に関しては、私も実体はもちろん物質すら送り込むことができないぐらいだ。すまない」
 それの言う通り後宮には強力な魔法による結界がかけられていた。その中では外部からの魔法はもちろん、内部からの魔法も、ただ一人メクセトの魔法を除いて全てが無力化される。魔法の使えない今の彼女は、外見の通りただの無力な少女にしか過ぎないのだ。
「いいえ、お姉さまの謝ることではありません」彼女は俯いて答えた。「全ては私の失態のせいです」
「それは違う」それは彼女の言葉をあわてたように否定して言った。「君は私が命令した通りに行動した。一撃で、知る限り最強の魔法を使って渾身の力で倒せ、という命令を忠実に実行した。だが、我々姉妹の誰しもがあの男の実力を見誤った。失態があったとすれば私のほうだ」
「お姉さま……」

118メクセトと魔女 2章(2):2007/02/20(火) 01:36:15
 少女はそれの足元に泣き崩れる。
 それは、このような時にやさしく彼女を抱きとめることも、その肩に手を置いてやることもできない不甲斐なさに唇を噛んだ。
「あの男は予想外の存在だ。おそらく人間という種が幾億の世代を経て一人産まれるか産まれないかの存在だろう。しかし、その実力が『キュトスの姉妹』を凌駕するなどとは考えてもいなかった。改めて人間という種が恐ろしくなった」
 それは言った言葉は、決して冗談から口にした言葉ではなかった。
 今まで取るに足らなかった、その気になればいつでも滅ぼせると考えていた人間という種族は、今や確実に彼女達の脅威へと変化したのだ。
「あの男をこのまま生かしておくことは、我々『キュトスの姉妹』にとって、いや世界にとって脅威になりかねない。いかなる手段をもってもあれを殲滅しなければならない」
「はい」
 少女は答えたが、それは決して姉の心や考えを理解しての言葉ではなく、姉への絶対の忠誠心と信頼から出た言葉だった。
 それほどまでに少女は姉に対して絶対の忠誠心と信頼をもっていた。
「もし直接的な力で滅ぼせない場合には暗殺という方法も考える」
「……」
 だというのに、なぜか少女には姉が「暗殺」という言葉を口にしたときにそれに対して肯定の言葉を返すことが出来なかった。
 メクセトの死……それは彼女の望むところのはずだ。
 なのに、「暗殺」という方法を用いてのメクセトの死を彼女は何故か受け入れることが出来なかった。何故なのかは分からない。だが、その方法は間違えている気が彼女にはした。
「どうした?」
「いえ……」
 彼女は軽く頭を振り、自分の中に湧き上がったその考えを消そうとした。
 どのような方法を用いようと、メクセトの死は自分の望むことのはずなのだ。それに姉の思慮は絶対のはずではないか……
「今後の行動は追って伝える。必ず君を救い出してみせる。だから、それまで可愛そうだが耐えておくれ、愛しい妹よ」
 そういうと、それの姿は夜の闇へと消えていった。
「メクセトの死……暗殺による死……」
 少女は、呆然とそれの消えた後を眺めていた。

119メクセトと魔女 2章(3):2007/02/20(火) 01:37:10
 「お前は化粧もせぬのだな」
 幾人もの美女を侍らせ、従事官……いや、今や大臣となった男にさせている報告を聞きながら、メクセトは少女に唐突にそう言った。
「必要ないですからから」
 女達の隅の方で、体を小さくしながら座っていた少女はメクセトの問いにそう顔を背けて答えた。
 「ふぅん」とメクセトは呟き、暫く少女の顔を眺めていたが、やがて立ち上がると、クイと親指で少女の顎を上げさせ自分の方を向けさせた。
「確かにお前は美しい。これからももっと美しくなっていくだろう。だが、化粧をすればもっと美しくなれるかもしれぬぞ」
「よ、余計なお世話よ」
 そう言って、少女は顔を背けようとしたが、メクセトはそれを許さず、「女達よ」と他の女達の方を向いて言った。
「この娘に化粧を施してやれ」
「だから余計なお世話って……」
 そう抗議しようとする少女を女達は押さえ込み、口に紅を塗り始める。
 その様子を見ながら、「余は大臣よりの報告を聞きに暫くこの場を離れる」とメクセトは言う。
「戻って来た時、お前がいかように美しくなっているか楽しみだな」
「だから余計なお世話だって!。ちょっと、離してよ!離しなさいよ!」
 少女は暴れたが、魔力の無い今の彼女はただの少女にしか過ぎない。あっという間に女達に押さえ込まれ、化粧を施される。
 その様子を、いつものように高笑いをしながらメクセトは部屋を後にした。

120メクセトと魔女 2章(4):2007/02/20(火) 01:37:57
 「これが私?」
 少女は鏡の中の自分に一瞬魅入った。
 その少女の姿を見て微笑ましいと感じたのか、
「ほら、やっぱり化粧をするとさらに美人じゃない」
「元が良いから、化粧が映えるのよね」
「もう、嫉妬しちゃうわ」
 と女達は口々に少女の美しさを褒め称えた。
 確かに、元の美しさも手伝って、少女の美しさは一層引き立つものになっていた。
「きっと、メクセト陛下も貴方の美しさに釘付けね」
 女達の一人の言った言葉に我に返った彼女は、「誰があんな奴……」と鏡から顔を背ける。
 彼女のその態度に一瞬女達は目を丸くしたが、やがて何を勘違いしたのかケラケラと笑い始めた。
「もう、笑わないでよ!。私は本当にあんな奴……」
「ほう、何やら賑やかだな」
 女達が声の方向を向くと、そこには大臣を従えたメクセトの姿があった。
 メクセトは美しく化粧された少女の姿に「ほぅ」と嘆息すると、少女の前に歩み寄る。
「これは美しい。予想以上だ」
 そう言って彼は、また親指を少女の顎の下において無理矢理少女の顔を自分に向けた。
「今、余がお前の代償に手に入れた富を全て手放せと言われても、喜んでそうするだろう」
 メクセトのその言葉に、少女はせめてもの抵抗にと視線を彼から外したが、その頬には女達の化粧による頬紅によるものとは違う赤みがさしていた。
「何を、何を言うのよ……そんな言葉なんて、私は……嬉しくなんか……」
 不意に彼女の言葉を遮るように、メクセトは彼女の唇を奪った。
 それは今までも幾度となく彼女に対して行われた行為だったが、今日の彼女はメクセトのその行為に怯えて目を閉じるのではなく、驚いたように目を見開いていた。
 彼女から唇を離すと、「だというのにお前とくれば」とメクセトは言う。
「こういう時は自分から歯を開くものだという事を何時まで経っても覚えてくれぬ」
「当たり前でしょ。私は貴方に心まで許したわけじゃないわ」
 彼女はメクセトから目を背け続けながら言う。
 彼女の中で何かが揺らぎ始めていた。
 今、メクセトに目を合わせてしまったのならば、自分の中で何かが変わってしまいそうだった。
「ほぅ、お前は余の手元にありながらも手折られていない花と申すか」
 そんな彼女の姿を見ながら、メクセトはいつものいやらしい笑みを浮かべながら言う。
「ならば何時の日か手折ってやろう。そして、その時に余の物になったお前が余の手元でいかなるように輝くか、今から楽しみでならぬわ」
 高笑いのメクセトを見て、「いつか殺す」と彼女は誓いを新たにした。
 ただ……

121メクセトと魔女 2章(5):2007/02/20(火) 01:38:41
 「メクセトの暗殺を待ってほしいと?」
 少女の部屋に現れたヘリステラの影は、彼女の言葉に眉を顰めた。
 「はい」と少女は姉であるそれに対して言う。
「あの男は私の手で必ず殺します。ただ、暗殺のような手段ではなく、正々堂々と勝負を挑んでそれを成したいのです」
「……だが」
 「私をここまで辱めたあの男をこの手にかけずにはキュトスの姉妹には戻れません」と彼女は強い口調で言う。
「それに勝ち目はあります。あの男は私に自分の魔法を教え始めてくれたのです」
 彼女の言う通り、メクセトは『折角魔女だというのに、使えるのが手品だけではつまらなかろう』と言って自分の魔術を少しづつ彼女に教え始めていた。勝者の驕りなのかもしれないが、彼女はその驕りを利用して彼から最大限にその魔法を引き出して習得することにしたのだった。
「私はあの男から全てを引き出し、あの男を倒します。もしあの男を暗殺するというのでしたら、あの男に私が破れ殺されたときにしてください」
「……あの男の魔法を引き出してくれるというのならば、長い目で見れば我々キュトスの姉妹の利益になる。だからそれは構わないが、その分君が辛い目に遭うぞ」
 「耐えます」と少女は言った。
「耐えて、耐えて、必ずあの男を倒します。そして、あの男から引き出した魔法と、あの男の首を手土産に星見の塔に戻ります」
「……分かった」
 少女の目を見て何かに気づいたのか、遂にそれは折れた。
「メクセトの暗殺計画は中止しよう。あの男が我々に直接仇なす行為をしない限りその討伐は君に一任する。だが、君を心配する姉から一ついらぬ忠告をしておこう」
 「『女』になるなよ」とそれは呟き、また少女の前から姿を消す。
 姉の言葉の意味が分からず、首をかしげたまま少女はその場に立ち竦んだ。

122言理の妖精語りて曰く、:2007/02/20(火) 13:53:34
ムランカ姉さんの若りし頃、まだ勝気なツンデレ娘だった時の秘話がついにw
・・・そういえばメクセトの最後って無銘たる軍神に討ち取られたのか、神々に破れ処刑されたのか、
死体をバラバラに切り刻まれて世界の各地に隠蔽されたのか、【扉】を通って異次元へと逃れてどこかの次元で生きているとか諸説が様々だけど結局どうなったのだろうか・・・。

123言理の妖精語りて曰く、:2007/02/20(火) 23:34:34
末の妹だから、ムランカじゃないんじゃない?

124メクセトと魔女 3章(1):2007/02/21(水) 01:44:44
 栄華も権力も、それが例え絶対に見えても崩れ去るのは一瞬のことだ。
 全ては砂上の楼閣にしかすぎぬ。
 例外などない。
 千年続いた帝国とて、滅ぶ時は一瞬なのだ。
 そして終わりという観念がある以上、遍くそれ瞬間は訪れる。
 天を自由に羽ばたく鳥とて、何時の日か力尽きて地に落ちるのだ。
 全ては移ろい、変わり、そして終わりを告げる。
 地上の民族全てを統べ、空前の人類国家を作り上げたメクセトにとってもそれは例外ではなかった。
 
 
 「随分と外が騒がしいわね」
 少女は、後宮女官にその唇に紅を差させ、髪を梳かせながら言った。
「はい、メクセト陛下が諸国から兵を集めてらっしゃるのです、寵妃様」
 「寵妃様」というのは、彼女が名前を何時まで経っても名乗らないので、何時しか誰かが彼女に対して呼び始めた名前だ。
 最初はその名前で呼ばれることに抵抗を感じていた彼女だったが、何時の間にかその抵抗は消え失せていた。
「そう……でも、もう陛下に戦争を挑む民などないでしょうに」
「『神』に戦争を挑むのだそうです」
 「『神』に……」と少女は窓の外へちらりと視線を走らせる。
 窓の外のはるか地平に、地から天へと消える「天の階段」の白い軌跡が見えた。
 メクセトが作り上げた、神の世界への侵攻のための天へと繋がる階段だ。
「『被創造物が、創造主から独立する時が来たのだ』とメクセト陛下はおっしゃっておりまして、それに賛同する英雄の皆様が世界の各地より集まっているようですよ。メクセト陛下はその中から1032人の英雄を選抜していると、街ではもっぱらの話題ですわ」
 興奮したような口調で女官は言う。
 彼女がこのようなのだから、後宮の外の民衆はどれだけこの「『神』を倒す」という行為に熱狂していることだろう。
「何時でも強い敵を求めて、無茶ばかり。あの人は、幾つになっても代わらないのね」
 ふ、と彼女は自ら意識しないうちに笑みをこぼしていた。
 あれから3年、世の中は変わった。
 彼女に「全てを統べる者」と宣言した通り、彼は地上の全てを短期間で掌握した。その支配の下に、多少の諍いこそあるものの、民族同士の大規模な争いは消え、今ではハイダル・マリクのような都市が世界の各地に作られているという。
 後宮のある王宮のまわりにも大きな街が広がり、聞きなれない様々な異国の言葉による喧騒が彼女の耳元にも聞こえてくる。その喧騒に眠りから覚まされる朝も珍しいことではない。
 そして自分もすっかり変わってしまった、と彼女は思う。
 永遠に歳をとらないというキュトスの姉妹だったというのに、魔法の効かないこの後宮の中ではその理すら無効化されたらしく、彼女はその過ごした時間にふさわしく歳をとっていた。もう、少女と呼ばれる時代もせいぜいあと1年ぐらいだろう。
 その間に後宮は、彼女が知っているものより遥かに大きいものになり、そこに住む女達も増えた。それに比例して、メクセトが彼女の元を訪れる機会も減った。
 ……そして、あの人の気を引くためにあれだけ嫌がっていた化粧をする私がいる。目的のための手段とはいえ、全ては時間とともに変わっていく
 今更、永遠などありえない、という何処かで誰かが言った言葉を彼女は思い出す。
 全ては季節と共に移ろい変わるのだ。
「それじゃ、またあの人は後宮には寄り付かないわね」
「そうですね。寂しい事ですね」
 「そうね」と自らがふとこぼした溜息に彼女は気づいた。
 ……私は、いつの間にかこんな溜息をこぼすようになってしまった
 今更ながら彼女は愕然とした。

125メクセトと魔女 3章(2):2007/02/21(水) 01:46:18
 「遂に、あの男は『神』に宣戦を布告したよ」
 それ、ヘリステラの影は、夜陰の中で溜息混じりに言った。
「これで晴れて人は神の脅威へと、そして敵対者になることを選んだわけだ」
「そうなりますね」
 少女は、それの言葉にそう頷いたが、それは首を傾げながら「君、他人事のようだな」と聞いた。
「いえ、そんなことはありませんわ、お姉さま」少女は慌てて首を振る。「私は一日だって自分がキュトスの魔女だということを忘れたことはありませんし、あの男を倒すことを忘れたことはありません」
 その言葉に少なくとも嘘はなかった。
 確かに、彼女はこの3年、メクセトからあらゆる魔術を引き出した。その為にはかつての自分の嫌がった行為を行うことも厭わなかった。熱心だったとも言える。
「その割にはこの3年、何の行動もおこさなかったようだが?」
 だが、それの言葉に、思わず視線を背けてしまうのも本当だ。
 だというのに、彼女は彼を倒そうという行動も策謀を施すことも何もしてはいないからだった。
「今の君だったら、この後宮を覆う結界だって破れるのではないかと私は思うのだがね?」
「それは……」
 確かにそれの言う通りだった。
 『檻より解き放った鳥が大空に羽ばたいて逃げるのみと考えるのは愚者の考えだ。余にはお前が逃げない自信がある』と言って、この後宮に仕掛けられた結界について教えてくれたのは既に2年前の話だ。3年前の彼女ならまだしも、魔力も、覚えた魔法の数も段違いの今の彼女にはこの後宮を抜けることなど決して難しいことではない。
 なのに、自分でも理由は分からないが、この後宮を抜けることが彼女には何故か出来なかった。
 何故、ここから逃げ出さないのだろう?、この男の腕に抱かれて眠ることに、ぬくもりに安心を感じる時があるのだろう?、と彼女は偶に自問するが、何かが彼女の中で揺らいでしまったのだろうか?、どうしてもその答えが分からない。
「いえ、まだその方法は分かっておりません」
 そして、いつしか彼女は姉に対して嘘を言うようになっていた。
 妹の嘘を見抜いているのかいないのか、「まぁ、良い」とヘリステラは腕を組んだまま言った。
「結論だけ言う。我々『キュトスの姉妹』はこの戦いにおいて神々にも人間にも組しない。結末まで看過する」
「看過ですか……」
 そうだ、と影は頷き、「何故だか分かるか?」と聞いた。
「いいえ……」
「怖いからだよ、あの男がね」
 それは彼女にとって姉から聞くとは思ってもいなかった言葉だった。
「人間など、取るに足らぬ存在。かつての我々はそう思っていた。だが、あの男が、メクセトがその認識を変えてしまった。今では、主神アルセスに勝つことすら絵空事ではないのではないかと思うときがある」
「そんな……」
 大袈裟なとは言えないのも事実だ。
 今の飛ぶ鳥を落とす勢いのメクセトならば、それすら可能なのかもしれない。
「ともかく、元は一の神たる我々は、自らに不利益にならない限り不干渉を貫く。最悪の場合、最後の神になるためだ」
「……」
 無言のままの妹を見て、「結局君は私のいらぬ忠告は聞いてくれなかったようだな」とそれは言った。
「そんな、私は……」
「違うというのならば、それは君が気づいていないだけだ」
 それの言葉を完全に否定することが出来ず、彼女は俯く。そんな彼女の姿を見て、「随分と可愛くなったものだ、君は……」と皮肉混じりにそれは言った。
「あの男を暗殺する方法を、実際幾つも考えたのだよ。だが、今の君を見ているとそれすら実行しなくて正解だったと思う時がある。可愛い妹の涙はみたくないからね」
「お姉さま、私は……」
「だが、一つだけ覚えておきたまえ。どんなに強い力と魔力を持とうとも、あれは結局の所は人だ。いずれ終わりは来る」

126メクセトと魔女 3章(3):2007/02/22(木) 01:54:24
「喜べ、魔女、お前が解放される日が来るぞ」
 ある晩、前触れもなく彼女の部屋を訪れたメクセトが開口一番に言った言葉がそれだった。
 その言葉の意味する所が判らず、唖然とする彼女を横目に、メクセトは彼女の部屋の寝台に体を投げ出すように横たえた。
「どういうことなの?」
 そう聞く彼女に、天井を見つめたまま「次の戦で余は出陣するからだ」メクセトは答えた。
「そして二度とここには戻って来るまい」
「……?。言っていることが分からないわ」
 メクセトはフンと自嘲気味に鼻を鳴らすと、「余が負けるからだ」と半ば投げやりな口調で彼女に言った。
「全く……余もとんでもない過ちを犯したものだ。神の数を誤るとはな」
「そんな……」
 そう呟く彼女の脳裏に「いずれ終わりは来る」という姉の言葉が思い出される。
 その言葉の意味は分かっていたし、それは望んでいたことのはずだった。
 なのに、いざ、その日を前にしてみると、彼女に出来ることは困惑することだけだ。
「だったら……そんな戦い、止めちゃえば良いじゃない」
 半ば答えは分かっているというのに、彼女はメクセトに言うと、「無理だ」と案の定、にべもなくメクセトは答えた。
「どうして?宣戦布告をしちゃったから?『神』が今更戦いの終わりを認めないから?」
「どれも違う」不機嫌そうにメクセトは答えた。「余は王だからだ。余が宣言し、民がそれを渇望し、それを余が行う以上、余は王としての責務を果たさねばならぬ。今更取り消しはできぬ」
「そんなの……そんなのおかしいじゃない!」
 彼女は叫ぶようにして言った。
 何故、そんなことをしたのか彼女にも分からない。あれだけ憎んでいた相手が自滅しようというのに……終わりを迎えようというのに……なのに彼女には叫ばずにはいれらなかった。
「貴方、王なんでしょ!。地上の全てを統べているんでしょ!。好きに出来ないものはないんでしょ!。だったら……」
 彼女が言わんとしていることを察したのか、「それをやったら、余は王ではなくなる」とメクセトは彼女の言葉を遮るようにして言う。
「全てを統べるということは、全ての責務を受け止めるということだ。それが出来て、初めて、全てを恣にできるのだ。それが余の選んだ生き方だ」
「そんなの嫌!」
 気付けば、両の瞳から涙がとめどなく溢れていた。
 ……この人がいなくなる……私の目の前からいなくなる……私は、それを望んでいた……でも、嫌だ!……それは嫌だ!
 そして彼女は上半身を起こしたメクセトの胸に飛び込み、その胸を力一杯叩く。
「勝手すぎるわ。そんなの勝手すぎる!」
「お前は魔女だ」メクセトは、そんな彼女の体を優しく抱きとめながら言った。「いかなる傷とて癒すことが可能であろう?。ならば乙女に戻ることも可能なはずだ。余がいなくなり、無事にその身が解放されたのならば、余がお前に刻んだ全ての傷を癒して乙女に戻り、余のことは忘れることだ」
「勝手なこと言わないでよ」
 精一杯大声で言ったはずの彼女のその声は、涙で掠れていて、自分でも聞き取れないほどの小声になっていた。
 その体を震わせながら、彼女は今まで真っ直ぐに見ることの出来なかったメクセトの目を見て叫ぶ。
「私、乙女になんて戻らない!。貴方に会う前の自分になんて戻らない!絶対、貴方のことを忘れない!」

127メクセトと魔女 3章(4):2007/02/22(木) 01:55:07
 そして彼女はメクセトの胸の中で嗚咽した。
 もう崩れ去って跡形もないはずの彼女の世界が再び崩壊を始め、ありったけの感情が痛覚になって彼女の胸を苛んでいた。
 そんな彼女を呆気にとられた表情で見つめていたメクセトは、ふと微笑をその顔に浮かべると、いつものように親指でクイと彼女の顎を上げさせると、その唇に自分の唇を重ねた。
「ようやく覚えたな」しばらくの間を置いて、メクセトが唇を離して言う。「こういう時は自分から唇を開くことを……」
「天駆ける蒼い馬……よ」
 不意に彼女が言った。
 「うん?」と怪訝そうに首を傾げるメクセトに、「……私の名前よ」と恥ずかしそうに顔を背けながら彼女は言う。
「……ムランカ、か」
「そう……それが、私の名前」
 メクセトの言葉に、彼女は答えた。
「私はね、この名前が嫌い。全然、女の子らしくないもの。まるで男の名前みたい。それに、魔女らしくもないし……他のお姉さまのような、もっと女の子らしい綺麗な名前が欲しかった」
「余も自分の名前が嫌いだぞ」
 彼女の耳元に、囁きかけるようにメクセトは言った。
「……軍政官だ」
「?」
「ハイダル・マリクでは軍政官を『メクセス』と呼んだのだ。余の父は軍政官だった。だからようやくできた男子に、自分の後を継ぐようにと『メクセス』をもじってメクセトという名前を付けたのだ。少しも偉そうではない、下僕の名前だ。余も、もっと王に相応しい名前が欲しかった」
 そう言って、メクセトはいつものように高笑いをする。
 かつては癇に障っていた、恐れたこともあったその高笑いが、今は何より愛しく彼女には感じられるようになっていた。
「……で、でも……でもね、わたし、貴方の名前が……」
 続けようとするのに、吃音症でもあるように、彼女はその後の言葉を続けることができない。
 そうしているうちに、「余はお前の名前が気に入ったぞ。とても好きだ」とメクセトの方が先に言ってしまった。
「冥府黄泉に抱えていくのならば、こういう名前が良い」
 また新しい涙が彼女の目から溢れて頬を伝う。
 嬉しかったから……あれだけ嫌っていた、他人に、姉達にですら語ることを疎んでいた名前を口にされることが今は何より誇らしかったから……
「私を御傍に置いて下さい」
 だから彼女は、気付けばその言葉を自然と口にしていた。
 それが何を意味するかは分かっている。今まで味方だった全てに叛くことも分かっている。何もかもを失うことも分かっている。結末、いや末路も分かっている。
 一時の感情に流されてそう言っているのかもしれないことだって分かっている。
 けれど……後悔だけはしたくなかった。
「戦場で貴方の隣にいさせてください。きっと、どのあなたの将兵よりも良い活躍をして見せます」
「それは出来ぬ」
 だが、その申し出をメクセトはあっけなく断った。
 「どうして?」と聞く彼女の瞳を見つめてメクセトは言う。
「余は言ったはずだ。お前を『女』として扱う、と。自分の『女』を戦場に立たせることなど余には出来ぬ」
「馬鹿!」彼女はもう一度彼の胸を叩きながら、そして泣きながら言った。「馬鹿!、馬鹿!、馬鹿!」
「そうだな、余は愚者であるに違いない」
 そう言ってメクセトは彼女の唇を自分の唇で再び塞ぎ、優しく彼女の体を寝台に横たえた。
 ……あぁ、そうか。
 今更彼女は気付いた。
 ……もっと早く自分の心に気付くべきだった……私はずっと前からこの人のことを……ゆっくりと……
 彼の腕に抱かれるぬくもりを感じながら、この刻がいつまでも続けば良いのに、と彼女は思った。

128言理の妖精語りて曰く、:2007/02/22(木) 05:44:16
これは感動。泣いていいですか?
まさかメクセトとムランカにそんな別れがあったなんて、あれ、なんか今と昔じゃイメージが合わないぞ?

129言理の妖精語りて曰く、:2007/02/22(木) 16:31:13
と、言うか別人?

130メクセトと魔女 4章(1):2007/02/23(金) 00:53:28
 人は振り子。
 暁と黄昏を、そして栄華と衰退を行き来する振り子。
 全てを支配するのはラプラスの竜か、それともシュレディンガーの猫か?
 確かなことは、その後の物語は歴史や伝承の語るとおりだということ。
 圧倒的な力を誇る神々との戦いにメクセトは敗れ、そして捕らえられた。
 形ばかりの裁判による判決は処刑による死。
 敗者は運命を選べない、とかつて彼は自ら嘯いたが、それは自身も例外ではなかった。
 
 
 かつてその地にはハイダル・マリクと呼ばれた都市国家があり、メクセトという男の宮殿があった。
 だが、今、更地になったその場所にあるのは広大な処刑場だった。
 そこで処刑されるのはただ一人、かつて地上を統べた男……そして神に叛いた男。
 刑場に集まった群衆の王であった男だった。
 勝者のみが敗者を裁くことが許されるというのなら、その罪は突き詰めれば戦いに敗れたこと……そしてその罰は同じ人間の手による処刑。
 刑場に集まった群衆は、かつて自らもその戦いに熱狂したというのにそれを忘れたかのように、否、そうすることで自らの行為を忘れようとするかのごとく、罪人が姿を現す前から口々に男を詰った。
 それは王であった男にとって限りなく惨めなことのはずだった。
 だが、刑場に引き出された男は俯くことなく堂々と真正面を見据えて、そしてその顔には薄笑いすら浮かべていた。
 堂々たる体躯の隅々に再生防止のための魔術刺青をされ、腕には幾重もの呪術縄が巻き付いて食い込み、その肌には体を弱らせるための拷問の跡が生々しく残り、未だ鮮血を滲ませていた。
 だというのに、その顔には苦痛の表情はなく、口々に自らを罵る群衆にも怯む態度を見せず、目の前に迫る確実なる死の運命にも恐怖すら見せていなかった。この期に及んでも尚、彼は王だったのだ。
 だが、それを認めないようにするためか、人々はそんな男に罵声を浴びせ、石もて投げ打つ。
 石つぶての雨は容赦なく彼を打ち据えたが、彼はまるでそれらを雨粒程にしか感じていないのかその表情を変えない。
 やがて、彼は処刑台に跪かされ、処刑吏は彼に末期の水を勧めたが「いらぬ」と彼は答えた。
 神官が現れ、彼に懺悔を求めたが「せぬ」と彼は答える。
 神官はその言葉に眉を顰め、「最期の言葉は?」と聞いたが「ない」と彼は言った。
 やがて処刑は始まった。
 足の小指から始まり、両手の指、両の瞳と、処刑は彼が苦しむように行われたが、彼は呻き声一つあげず、また表情一つ変えない。その顔には全てを嘲笑するかのごとく笑みがあった。
 やがて、手足も切り落とされ、芋虫のようになった彼はついにその首を切り落とされることになった。
 その時になり、彼は突然顔を上げた。
 そしてその口には歯もなく、既に舌も切り落とされたというのに、人々は確かに聞いたのだ、あの高笑いを……
 それはメクセトを知る人ならば誰もが知る、彼の高笑いに他ならなかった。
「最高だ、お前ら!」
 続いて聞こえたその声に人々は驚愕する。
「余はお前らを愛しているぞ!」
 そして、その首は斬り落とされた。
 この目的だけのために神より授かった【神々の斧】によって……それで切られた物は何人の手をもってすら再生できない、その神具によって……
 メクセトの首は宙を舞い、そして地を跳ね、それきり動かなくなった。

131メクセトと魔女 4章(2):2007/02/23(金) 01:56:54
 群衆の中から一人の少女が飛び出したのはその時だった。
 彼女は刑場の柵を超え、静止する兵士たちを押しのけ、そして地面に転がったメクセトの首をその手に抱え上げた。
 彼女が覗き込んだその顔には既に双眸は無く、鼻も無く、唇すら削がれていた。だというのに、その顔は笑っていた。彼女の記憶に残る、あの日と同じ笑顔がそこにはあった。
「馬鹿よ……馬鹿よ、貴方」
 少女は自分の声が震えていることに気付いた。
 ……あれだけ憎んでいたのに……あれだけ「殺してやる」と誓っていたのに……あれだけ死を願っていたのに……今はただこの人の死が心に痛い……この人が私を変えてしまったから……
「馬鹿!、馬鹿!、馬鹿ァ!」
 彼女はメクセトの首を抱いて泣きじゃくった。
 もう人目も何も関係がなかった。
 ただ感情の赴くままに泣いた。
「おい、娘」その彼女に処刑吏は横柄な口調で咎める様に言う。「その首をこちらによこせ」
「嫌よ」
 少女は俯き、メクセトの首をその胸に抱いたまま答える。その声には怒りすら篭っていた。
 不幸にも処刑吏はそのことに気付かなかった。
「絶対に嫌」
「もう一度言うぞ、痛い目に遭う前に……」
「煩い!」
 怒ったように少女が手をかざすと、鋭い閃光が一瞬煌き、次の瞬間には処刑吏は灰になって消し飛んだ。
「『魔女』だ!」
 その光景に呆然としていた群衆の一人が叫んだ。
「メクセトの囲っていた『魔女』だ!」
「噂は本当だったのか!?」
「恐ろしい……忌まわしい」
 人々は口々に囁き合い、やがてそのうちの一人が「忌まわしい『キュトスの姉妹』め!」とその手にした石を彼女に投げた。
 石は彼女の額に当たり、彼女の額から一筋の赤い血が流れた。
 やがて、一人、また一人と人々はその手に石を取り、彼女に向けて投げ始める。
 石つぶての雨の中、「何よ、貴方達……」と少女は呟くように言った。
「貴方達だって熱狂したじゃない……『被創造物が創造主より解き放たれるのだ』という言葉に酔いしれたじゃない……この人を二度と引けない所まで追い詰めたじゃない!」
 彼女の言葉に恥じ入るところがあったからか、一瞬群衆は黙った。
「貴方達だって同罪じゃない!この人を責める権利なんてないじゃない!」
「黙れ『魔女』!」
 再び石つぶての雨が降る。
「お前達が俺達を唆したんだ!。騙したんだ!。裏切らせたんだ!」
 「そうだ、そうだ」と人々は彼女に罵声と石つぶてを浴びせた。
 もちろん彼女の言うところも少しは分かっていたに違いない。だが、己が罪を認めぬようにするためには、そうするしかなかったのだ。しかし、その人の脆さが彼女には分からなかった。
「許せない……貴方達許せない」
 彼女はゆっくりとその俯けていた顔を上げる。
 美しい顔を怒りに歪め、血塗れのその顔は正に彼らが心の中に思い描き、恐れていた『キュトスの姉妹』に他ならなかった。
「無くなればいいのよ……こんな世界、無くなれば良いのよ!」
 彼女はゆっくりとその右手を上げた。
 突然、空が曇り、地面がゆっくりと、しかし確実に震え始めた。
 人々には何が起きたか分からなかった。だが、恐ろしいことがこれから起きるのだ、ということは察することができた。
 もし、かなり高度な魔力を持った人間がいたのならば、空から、いやもっと高い場所から純粋な破壊の力が、まるで滴り落ちるように地面を目指して迫っていることに気付いたはずだ。
 それは世界を滅ぼすに、いや掻き消してしまうに足りる力だった。
 メクセトが生前彼女に教えた魔法……『きっとお前は使わない』と自信を持って言った魔法……彼自身、例えその身が敗北に繋がろうとも決して使わなかった魔法……全てを台無しにしてしまう魔法。
 しかし、彼女は一時の感情に任せてそれを使おうとしていた。
「無くなっちゃえ!。全部無くなっちゃえ!」

132メクセトと魔女 4章(3):2007/02/24(土) 02:22:18
 彼女の叫びと共に、ゆっくりと、だが確実に空が裂け始めていた。
 空に現れた、闇より深い漆黒の点。
 それはゆっくりとその数を増やし、やがて点が線になり、面となってその領域を増やそうとしていた。
 そして、その闇の最中から、明らかに禍々しい何かが、滴り落ちる樹液のように地面を目指して降下しようとしている。
 だが、人々はその空の変化に気付かなかった。否、正確にはその変化を見ることが出来なかったのだ。
 なぜなら空の変化と共に地面の揺れは一層激しいものとなり、人々はその場に立っていられなくなっていたからだ。
 だが、群衆に紛れていた、黒衣を纏った幾つかの人影はその揺れをものともせず、天上を見上げていた。
 それら……いや、彼女達には天から滴り落ちようとしている『それ』の正体と、これから起きる事態が分かっていたのだ。
 『それ』は、力へと具象化する前の、巨大な魔力の塊、この世界を構成する一つだった。
「いかん、ダーシェンカ!」
 彼女達の一人、ヘリステラが慌てた様に傍らにいる同じ格好をした女に言った。
「分かっています!。カタルマリーナ!、サンズ!」
 女が言うと、同じように群衆の中に立っていた二つの人影が、刑場で何かを受け止めようとするように右手を上げる少女に跳躍し、そして懐から何かを取り出すと、それを彼女に目掛けて投げつけた。
 それは拘束紐と彼女達から呼ばれる縄だった。
 正確には物質ではなく幾重もの魔法を練り上げて作られたそれは、素早く彼女を包み込んで拘束し、呪詛に似た声で詠唱される彼女の呪文を止める。だが、空から滴り落ちようとする『それ』を止める事はできない。
「駄目か!?。妹達、力を貸してくれ!」
 ヘリステラは妹達から魔力を集め、それを力に練り上げて『それ』にぶつける。
 力の衝突の末、『それ』は僅かに消耗したが、地上への落下を止めようとはしなかった。
「駄目ですわ。やっぱり消えない」
 蒼い顔をして、天を見上げたままダーシェンカは言う。
 今や、『それ』は大気を震わせながら地へと接触しようとしていた。『それ』が地に触れ、力へと具現化した時、世界は掻き消されるのだ。
「いや、今『発動』しなければ良い!。サンズ、『扉』だ、ムランカとあれを『扉』で飛ばせ」
「はい、それで目的地はどこに?」
 サンズと呼ばれた黒衣の女がヘリステラに聞くと、ヘリステラは天上を見上げたまま言った。
「星見の塔の【虚空の間】、この前作った部屋だ!」
「あの部屋……ですか?」
 それの意味する所を知っているサンズは一瞬躊躇する。
「そうだ、他に方法はない。早く!」
 慌てたようにサンズが呪文を詠唱すると、ムランカの足元の空間に僅かな歪が発生し、それは目に見える歪みになって彼女と、そしてそれを飲み込んだ。
 やがて地面の震えが止まり、 空は何事も無かったようにその蒼さを取り戻す。
「間に合ったようですわね」
「そうだな……」
 群衆と処刑吏達が大地の震えが収まったことに気付き、恐る恐る顔を上げた時、そこにはあの『キュトスの姉妹』である少女の姿はなく、ただ処刑されたばかりのメクセトのバラバラになった身体だけがあった。
 しかし、処刑吏達がいくら探しても、その頭部だけは見つけることができなかった。

133メクセトと魔女 5章(1):2007/02/24(土) 15:55:14
--5
 かくしてメクセトという男についての伝承は終わりを告げる。
 全ての伝承には終わりがあり、歴史にも区切りという名の終わりがある。
 だが、伝承と歴史の違いは、そこに語られてこそいないものの、時代と時代を繋ぐ事実という名の物語が確実に存在するということである。
 その事実を、歴史はいつの日にか語られることを待つかのように紡ぎ続ける。
 伝承を作り上げるのは、いつの世も人。
 だから、これも、歴史に紡がれた一つの語られざる物語である。
 
 
 『星見の塔』という名に相応しく、そのドーム状の天上部分の真上には、満天の星空が広がっていた。
 その星空にたゆたっているような錯覚に身を任せながら、「それで、ムランカはどうしている?」とヘリステラは傍らに立つダーシェンカに聞いた。
「【虚空の間】に幽閉中です。元に戻るにはしばらく時間がかかるとの見通しです」
「しばらく……か?」
 「はい」とダーシェンカはヘリステラの言葉に答えて言う。
「一週間なのか、一月なのか、それとも一年か……何にせよ、いかにその場にいるだけで魔力を急激に消耗する部屋とは言え、あれだけの魔力を無にするには時間がかかります」
「いくら我々が『キュトスの魔女』とは言え、大丈夫なのか?」
 「多少の後遺症は残るかもしれません」と落ち着いた口調でダーシェンカは言う。
「しかし、あの子が召喚しようとしたものを考えますと……」
「世界を具現化している『力』の一部か」ヘリステラは溜息を吐く。「具現化できるということは破壊できるということ。大事に至らなくてなによりだったよ」
 もしそうなっていればこの星空も、その星空を見る彼女達自身も今頃は既に掻き消されていたことだろう。
 世界は根源の無たる白に還っていたはずなのだ。
「しかし皮肉だな。あれはメクセトがこの星見の塔に攻めて来た時の奥の手だったのだが、よもや自分の妹に使う羽目になろうとはな……」
「えぇ、皮肉な結果です」
 そうして二人は、しばらく星空を見上げ続けた。
「やはり、我々『守護の九姉』の一人が行くべきだったのかね」
 暫くの沈黙の後に、不意にヘリステラが口を開いた。
「そうすれば、勝てない相手と分かれば少なくとも引くという考え方ができたはずだ。しかし、『キュトスの姉妹』として見出されたばかりの彼女にはそれができなかった。いや、そうすることは自分にとって取り返しのつかない何かを失うことだと彼女は勘違いしたのだろうね。『キュトスの姉妹』とは言え、我々は所詮魔女にしか過ぎない。だが、ムランカにとってはそれ以上の意味があったのだろうね」
 そう言ってヘリステラは、ムランカに初めて会った日のことを思い出す。
 土風吹きすさぶ貧しい辺境開拓地、そこで荒野を耕す農奴達。その中の一人、とりわけまだ幼い少女の前に近づくと、手を差し伸べながら彼女は言ったのだ。
「やぁ、我が愛しい妹よ。私は君を迎えに来た」
 その時の彼女が何を思ったのかは知らない。だが、確かなことは、少女は他の農奴達とは違い、目の前に現れた『キュトスの姉妹』に恐れおののくことなく、笑顔すらその顔に浮かべてその手を掴んだのだった。
 それが二人の出会いだった。
「そのムランカについてなのですが……」ヘリステラは表情を曇らせながら、重々しい口調で躊躇いがちに言った。「お姉さま、我々はムランカの『削除』を要請します」

134メクセトと魔女 5章(2):2007/02/24(土) 17:27:49
 「『削除』とは穏やかじゃないね」ヘリステラはダーシェンカの言葉に眉を顰めて言った。「まがりなりにも大切な妹だぞ」
「削除が適わないのでしたら、肉体と意識を消去することを要請します」
「……理由を聞こうじゃないか」
 ヘリステラは傍らにある彼女専用の椅子に腰を下ろしながら聞いた。
「彼女は危険だからです。今やただの『キュトスの姉妹』ではありません。世界をいつでも滅ぼせる力を手にしたのです。今回は事なきを得ました。しかし次回同じこと、いえ別の方法で似たような事態があった場合にそれを阻止できるとは限りません」
 確かに彼女の言うとおりで、メクセトよりムランカが引き出した魔法は他にも世界を滅ぼせる力をもつものがあるかもしれないのだ。彼女達には、この3年間、ムランカがメクセトから何を教わったのかについて知る術はなかったのだから。
「君の言うことは分かる。しかしだね……」
「お姉さま、何を躊躇うことがあるのです。もともとムランカ……いえ、今はそう呼ばれているキュトスの欠片にはもともと意思などは存在しないのですよ」
 ダーシェンカは言った。
 彼女の言うとおり、ムランカは元々肉体や意思を持った『キュトスの姉妹』ではない。
「彼女は精神体です。今までは人間以外の生物に潜り込んで、その本能の赴くままに生物の記憶をその精神内に取り込んでいました。しかし、今から10と余年前に人間、ムランカという少女に潜り込み、何の気まぐれを起こしたのか、その意識を自らの主意識としたのです。おかげで我々は存在は知ってこそいましたが接触したことの無い妹と接触して姉妹に取り入れることに成功しました。意識なんて彼女にとって後付の要素にしか過ぎないんです」
 不意に、冷たい夜風が吹いて二人の頬を撫でた。
 ヘリステラは椅子に腰掛けたまま、暫くダーシェンカの顔を見ていたが、やがて「君の言いたいことは分かった」といつものように冷静な口調で口を開いた。
「だが、彼女は『削除』しない。その肉体も意識も『削除』しない」
「どうして……」
 驚き、絶句するダーシェンカに、ヘリステラは「使えない『力』は脅威ではないからだ」と答えた。
「おそらく彼女は二度とあの『力』を使うまい。彼女の中の記憶が、あの男の記憶がそれをさせまい。あれは『女』になってしまったのだから」
 「皮肉なことだ……」とヘリステラは呟き、腰を下ろしていた椅子から立ち上がって再びその視線を星空に戻した。
 彼女の考えが正しければ、メクセトという神を滅ぼそうとした男が……永遠に叛徒として、絶対の『悪』として語り継がれる男が、永遠に、少なくとも彼女達が一に戻るか、消え去るかするまでこの世界を守り続けるのだ。
 ……人間という種が幾億の世代を経て一人産まれるか産まれないかの存在か
 それはどれだけの奇跡なのだろう、と彼女はふと思いをめぐらせる。
 彼女達の頭上で、輝く悠久に輝く星々は地の営みなど大したことではないとばかりに彼女達を照らしていた。

135メクセトと魔女 5章(3):2007/02/26(月) 00:18:22
 何もかもが溶けてしまいそうな漆黒の闇の中で、石畳の上に彼女は横たわっていた。
 この部屋で意識を取り戻して長い、長い時間が経っていた。
 特に拘束されていたというわけではないが、虚脱感のあまりに彼女は身動きひとつできないままだった。
「もう、全ては過去のことなのね」
 力なく彼女は呟く。
 これが夢であれば、と思う。
 目を覚ませばメクセトが隣にいて、いつものように寝顔を覗き込んでいて、それに対していつもの強がりを良いながらその腕の温もりを感じることがでいればどれだけ幸せなことだろう?
 だが、もう彼はいない。
 彼女の記憶に、まるで夏の日差しのように鮮烈な思い出を残して去ってしまったのだ。
 目を閉じて耳を澄ませば、今でも彼女の心の中にはあの高笑いが響いている。
「……世界は貴方に手の平を返したのに……」
 彼の最期の言葉が、彼女の記憶の中で蘇る。
 ……最高だ、お前ら!……余はお前らを愛しているぞ!
 あの言葉はきっと本心からの言葉だったのだろう。
 彼はこの世の全てを、例えそれが綺麗なものでも、そうでないものでも、全てを受け入れてそう言ったのだ。
 彼女が破壊しようとしたものですら受け入れたのだ。
 分かった上で全てを愛したのだ。
「ずるいわ……貴方」
 彼女は、じっと両手を見つめた。
 メクセトはもういないのに、その手を握ったその感触だけはその手に残っていた。
「世界を滅ぼせても……滅ぼすことができないじゃない」
 彼女の両の頬を涙が伝って石畳に落ちた。
「あなたが、世界で一番嫌い……」
 自分の体を抱きしめながら、嗚咽混じりの声で彼女は言う。
「でも……世界で一番貴方のことが……」
 全てを無くしたメクセトには、その次の言葉を聞くことはもうできない。

136メクセトと魔女 終章:2007/02/27(火) 02:24:51
 かつてその土地は無人の土地だった。
 火山性の列島という地理的な条件もあり、その土地には草木すら生えななかった。
 しかし、千年の時の流れはこの土地を緑豊かな土地に変え、いつしかそこに人が住むようになっていた。
 住人達はその土地を、泡良と呼ぶ。
 そして、その泡良の獣すら拒む険しい山奥の一角に女の姿はあった。
「あぁ、すっかりこの辺りも変わっちまったねぇ」
 青い月下の中で、美しい女が一人空を見上げながら言った。
 彼女が初めてこの土地を訪れたとき、そこは一面の荒野だった。
 誰も知らない静かな場所で彼を眠らせたいと考えて、彼女が世界中を旅して探し出した場所がそこだったのだ。
 しかし、今はそこは一面の野生の花畑に変わっていた。
「でも、あんたの墓にはこういうのがふさわしいかねぇ」
 そう言って、その金髪の女は、優しい目をして地面を見下ろした。
 長い年月の間に、墓石代わりにした岩も無くなってしまったが、彼女には分かっていた。彼女の見つめるその先の地面の下には、彼が今も尚眠り続けるのだ。
「この場所も変わっちまったけど、世間もみんな変わっちまったよ。あんたのことなんて誰も覚えていない。そして、あたしも変わったろう?すぐにあたしが誰だか分かったかい?」
 そう言って、女はクルッとその地面の前で、軽くステップを踏みながら、舞うようにして回ってみせる。
「まぁ代替わりしたんじゃ、分からないだろうけどね」
 代替わりというのは魔女のその肉体が朽ちる時に、別の肉体に移り変わることだ。
 千年の月日の中で、彼女は様々な肉体に移り変わっていたが、その肉体は必ず美しい女性だった。
「あんた美女が好きだったからねぇ。やっぱり毎年墓を訪れてくれるのは美女の方が良いだろう?」
 まるで彼女の言葉に応えるかのように、少し強い風が吹き、春の香りに乗せて花びらがそれに舞った。
 ……あぁ、懐かしい
 彼女は思った。
 それはもう遠い昔の話で、男と過ごした期間は短いものだったが、こんな風に花びら舞い散る春風を、男の腕に抱かれながら見たことをまるで昨日のことのように彼女は覚えていた。そして、それはきっとこれからも彼女の中で色褪せることなく残り続けるだろう。
「やっぱり世界は美しいねぇ。そうじゃないものもあるけど、だからこそ世界は美しいよ」
 今の彼女は知っている。だからこそ全てを受け止め、愛することができるのだ。
 それがこの千年で彼女が世界を見て学んだことだ。
「……やっぱり、あんたのことが世界で一番大嫌いだよ」
 やさしい口調で、口元に軽い笑みを浮かべながら彼女は言う。
 天上で静かに月が翳った。
 その夜陰に紛れるようにして彼女は続けた。
「そして、あんたの事を、今でも世界で一番愛してるよ」
 月が雲の中から姿を現すまでにはまだ僅かの間だけ時間があった。
 だから彼女はその間、思い出の中で少女時代に戻っていた。
 あの高笑いも、彼女を抱きしめる逞しい腕の温もりも、それらは確かにそこにはあった。
「……これまでも、これからもずっと……あんたが世界で一番好き」
 それはもうどこにも届かない言葉のはずだった。
 けれども再び姿を現した月の、全てを冷たい銀色で照らし出す光の中、彼女は確かにあの高笑いを聞いたのだ。
「馬鹿だねぇ、あんた。本当に馬鹿だよ……」
 そう言った彼女、ムランカの頬を一筋の涙が伝っていた。
 
 
 全ては誰も知らない、月と天の星々だけが知る物語。(完)

137言理の妖精語りて曰く、:2007/02/27(火) 07:53:36
実はこの話は
宵が過去のこと(メクセトと魔女時代)を聞いてくる。
受け流そうとしたところ長姉様登場。
あわてる本人を尻目に過去話を色々暴露。
よって後に納豆束にされて酒場に放り込まれるのに繋がっていたんだ!

138言理の妖精語りて曰く、:2007/03/21(水) 22:55:49
うらみはらさでおくべきか

139竜と竜と白の巫女:2007/03/22(木) 17:26:29
1
それは日も昇りきらぬ早朝のこと。
社から本殿へと繋がる渡り廊下から外を見ると、白い霞みがゆっくりと消えていくのが見られる。
―――鋸山の山麓に位置する竜神の社では巫女衆に禊を課していない。
ケガレを清めるという考え方は東方大陸独自のものであるが、大海を隔てた本大陸にあるこの祖国にもその風習は伝わっている。
東方信仰―――浅見流の流れを組む竜神信教もまた「ケ」や「ハレ」といった概念を持ち合わせるが、精神性を重んじる傾向があり、禊や清め、払いなどが実践されることは少ない。
しかし、西洋的志向を強く残すこの社の中で真っ先に起き出し、本殿の東、礼水殿で禊を行う少女がいる。
少女に名前は無い。竜神信教が第一神、界竜ファーゾナーに仕えることを決定された時より、【界竜の巫女】としての生を与えられた少女から名前は消滅した。
黒色の簡易礼装に身を包んだ巫女は長い回廊を進む。真夏の朝、爽やかな風が吹き込み、少女の細い黒髪が肩のあたりでたなびく。
わき目も振らずに真っ直ぐに進む彼女が、ふと何かに気を取られたように横を向いた。
白い霞みがかかり遮られていた視界が開き、社の奥に広がる広大な荒野が眼に映る。
薄く砂塵を吹き上げる広漠な荒野の中央に、奇妙な痕跡がある。
荒野を真っ直ぐに横断する、巨大な溝。
途方も無く巨大な窪みは、まるで馬鹿でかい鉄球を転がしたようである。
視界の端から端へ、地平線の彼方へ何処までも続くこの溝は、大陸のほぼ全土に広がっているゼオート神話の神、球神ドルネスタンルフが通った跡だと云われている。
祖国は本大陸でも少数派である非ゼオーティア教圏の国家である。
竜神信教の教義はゼオートの教え―――引いては大神院の意向に敵対するものではないが、周辺諸国からの反発は避けられない。総本山たる【御社】の存続も危ぶまれているというのが現状だった。
少女はこの巨大な跡―――ラバルバーと呼ばれるそれを見る度に、複雑な気分に陥る。 彼女は竜神を信じ敬い、そして主神、界竜の巫女たる自分に向けられる信頼に応える為には努力を惜しまない。 強烈な責任感と巫女としての自負、そして信仰心が彼女の強靭な精神を構成する主要な要素だ。
しかし現実は暗い。 ゼオーティア教圏が主張する聖地や罪の教えの拡大解釈は留まる事を知らず、竜神信教に対する攻撃は勢いを増すばかりだ。
かの教義を支える根幹の一つであるこの【跡】を見るたび、彼女の心はささくれ立つのだ。 憎しみという【醜さ】を良しとしない彼女は溢れ出そうになる感情と、煮え立つような想いを押し隠そうと足掻くはめになる。
竜神の教えは、ゼオートの神々の教えを否定しない。 彼女が竜神を信じるならば、ゼオートの教えを憎んではならない。
頭で理解してはいても、感情は云う事を聞かない。 濁った泥のような感情が胸の奥に沈殿していく。
ふうと息を吐き、界竜の巫女は本殿に目を向けた。彼女が禊を行うのは、こういった自分の感情を自覚しているからだった。
―――この醜い思考を、水とともに洗い流す。
気持ちを鎮め心機を一転させるため、界竜の巫女は本殿を通り、礼水殿へと向かった。

140竜と竜と白の巫女:2007/03/22(木) 20:38:14
2
その噂が界竜の巫女の巫女の耳に入ったのは、【視伝の儀】の為の予備稽古を後輩の巫女につけている時であった。
竜神信教において「巫女」と呼称される人間は九人しかいない。
すなわち、教義に掲げられた九の創生竜に一人ずつ仕える一位から九位までの巫女である。
その中で一位に列せられる界竜の巫女はその日、竜神の社の一つである竜奉殿で四位の巫女―――威力竜の巫女に付きっ切りだった。
先日起きたある凶事により、不幸にも四位の巫女は竜神の下へ召された。そのため、遥か東亜の大陸より選抜されてきた数多くの巫女候補生の中から新たな四位の巫女が選ばれる事になったのだ。
九頭竜の巫女着任の儀式はこれもまた故あって難航し、界竜の巫女の頭を痛くさせたのだが、なんとか一人の少女が巫女として着任し事態は収まった。
だが、界竜の巫女にとって本当に頭が痛いのはその後だった。 新たに着任した巫女は候補生、つまりは見習として教義や竜学、礼儀作法から他宗教の神話の概容、この【祖国】の言語など様々な事柄を修めていたが、儀式や託宣など様々な「お役目」の仔細は巫女たちが口伝で伝えなくてはならない。
更には、【竜の予言】を巫女の名において伝える【視伝の儀】は夏至に行われる。今は夏も盛り、儀式は間近であった。
そこで巫女長たる界竜の巫女が直々に威力竜の巫女に儀式の手順を教えているのである。
そこで界竜の巫女はまたしても骨を折る事になった。
鋸山脈(別名ヴーアミタドレス山脈)の中腹には大竜院―――九位の竜の祭壇があり、そこから山麓に連なるようにしてそれぞれの竜の社が存在する。
九つの竜の社。 山から這い出す竜のようにも見えるその神宮群こそが竜神信教総本山【九頭竜院】である。
現在界竜の巫女が寝起きし、務めを果たしているのは一位の竜の祭壇を擁する【竜奉院】である。この社は全ての社の中で最も大きく、また一般の信者に公開されているのもこの場所である。
その中央には儀式・儀礼が行われる【開伝の間】がその威容を見せ付けている。石造りの床には九の創生竜の絵が刻まれ、九人の巫女は大勢の信者の前で舞い、詠い、託宣を告げる。
今回の【視伝の儀】もまたこの【開伝の間】で行われるわけだが、この儀式は九人の巫女全員で行われる。 竜導師が聖円を回し、巫女が舞い、祝詞を上げ、託宣を下すという定型のパターンなのだが、その時の舞いの手順がややこしい上に引っ切り無しに巫女同士で立ち位置を変えるので、本来ならば全員で行うべき稽古なのである。
だが折悪く他の巫女は遠方に出払っており、戻るのは儀式の数日前だという。
それではとても間に合わないと、界竜の巫女は身振り手振りを交えながら威力竜の巫女に舞いを教えるのだった。

141竜と竜と白の巫女:2007/03/23(金) 00:11:35
2・2
「一位様、聞きましたか」
「・・・・・・何をです」
身が入っていないと活を入れようかと思うくらい浮ついた威力竜の巫女を、界竜の巫女はじとりと見据えた。
大の男が逃げ出すその眼光を、しかし威力竜の巫女は軽く受け流す。何を考えているのか分からない微笑みは薄く、何かの皮を顔に張り付けてでもいるようだ、と界竜の巫女は思う。
「土竜の噂です。噂」
「土竜?」
はてな、と界竜の巫女はいぶかしんだ。【土】という概念と関連付けされる竜は多くいるが、その多くは寒冷な大陸東部にはいない筈である。
今は夏とはいえ、棲家を変えることは竜にとって生命を移す事だ。この近辺で土竜が現れるはずが無い。
そんなこと、竜神の巫女ならば理解している筈だが―――
「ああ、違うんです。これが、土竜神とかいうのらしくて―――」
「土竜神(ラバルバー)?」
異教の神の名が出てきたことに界竜の巫女は戸惑い、そして眉を顰めた。
土竜神、というのはゼオーティア教圏では有名な神格で、かの球神の眷属ラバルバーが西の無鱗王の剥落した鱗の魔力によって竜となった存在である。
つまりは、ゼオートの神話における竜神信仰であり、かの竜神を信奉する者たちにとっては竜神信教は歓迎すべき隣人となる。
こちらにとってもそれは望ましい事であり、こちらが相手側に好意的な接触を行う時、ラバルバーは必ずといっていいほどよく引き合いに出される。
「その、ラバルバーが、何か?」
「あ、はい。 えっとですね。 九位様が、見たそうです」
「何をですか」
「ええですから土竜神を」
「は?」
「ですから、土竜神、を」
界竜の巫女は眉根を寄せて人差し指で眉間を押さえた。
「また、あの娘は―――」
「いや、九位様は第一発見者で!」
え? と界竜の巫女が疑問を提示する前に、威力竜の巫女は噂の内容を簡潔に説明した。
曰く。
荒野の【跡】が深夜になると起き上がる―――言葉にすると怪談じみているが、目撃した神官や衛兵が多数いるというのだからその信憑性は高い。
何故それほどの大事になっているのに自分の耳に入っていないのか。
考えて、すぐさま気付く。 
恐らく、導師の緘口令が布かれている。
あの男は若年ゆえに大神院に対する敵意は長老たちより強い。なまじ被害を直撃させられた世代であるため、教義そのものに反していようがゼオートの神話に連なるものは全て切り捨てようとしているきらいがある。
今回の件もそれだ。
あの竜導師長はゼオートの教義を認めたがらない。あちら側の神が現れた、などと、例えそれが竜であっても許しがたいことには違いないのだろう。
なるほど、と納得する。
「どうもこの噂、拗れそうですね」
「?」
わかっているのかいないのか、読めない表情で威力竜の巫女は小首を傾げた。

142言理の妖精語りて曰く、:2007/03/24(土) 16:10:48
2・3
その後も中々演舞に身の入らない威力竜の巫女の指導を続けたが、
最早日も暮れ、今日の稽古もここまでと、一方的に打ち切った一位は人気の無い廊下にいた。
いつも通り静かな足音にも僅かな苛立ちが込められている。
その原因は、威力竜の巫女の稽古中に聞いた「深夜に目撃される土竜神(ラバルバー)」の噂である。
他の巫女はゼオートの教義云々に対しては(比較的)受け入れているが、全ての巫女を統べる界竜の巫女は違う。
周囲をゼオーティア教圏に囲まれた祖国―――正確には竜神教に対する反発や迫害は日に日に大きくなっているのだ。それ故に、紀元神群(ゼオート)の噂や話題には敏感になってしまい、焦燥、憎悪、嫉妬、憤怒、嫌悪感とも呼び難い暗い情動が胸を走る。
誰もいないのが幸いなことだが、「私は今怒っている」という空気を垂れ流しながら黙々と歩みを続ける。
そう、こんな処には誰も居ない

            そして影は嘲笑った―――
「―――――――?」

ふと、視界の隅に人影が映り、振り返るが―――やはり誰も居ない。
この世の全てが死滅し、この廊下だけが世界の全てなのでは、と錯覚させる様な清浄/正常な空気。視線の先には一点の穢れも無い白く、白い漆喰の壁のみが存在を主張する。
いつも通り、何の異常も無い。だが、何故か、言い知れぬ不安が、界竜の巫女の心を揺るがすのだった。

143竜と竜と白の巫女:2007/03/24(土) 22:09:14
2・4
草木が眠り黒猫も目覚めて遠吠えを上げる、ニ錘半月・新月幽半の晩。
雲ひとつ無い夜空を支配するのは紅く煌く星の群。
社の者が皆寝静まった頃、界竜の巫女は一人本殿と【面の社】を繋ぐ渡り廊下を訪れていた。
一つの月光と半分の霊光が大地を照らし、浮かび上がるのは淡く輝く「通り道」。 幽月の光は霊質そのものを照らし上げ、球神の通り道が確かにそれなりの霊地であることを証明している。
深く刻まれた溝からは青白い光が発せられており、見ようによっては巨大な竜が横たわっているようにも見える。
なるほど、と納得して界竜の巫女は唇を噛んだ。 幽玄の虚影をこの目で見たのは初めてだが、確かにこれならばあのような噂が立ってもおかしくは無い。
しかし、噂はこの現象から一歩踏み込んだ内容である。この青白い光の帯が起き上がらなくては、噂が嘘か真かは確かめられない。
界竜の巫女はまるでそうすれば光の帯が怯えて起き上がるのだというように鋭い眼光で睨みつけた。
一分、二分と時が経ち、さすがに眠気を隠せなくなってくると、逆に界竜の巫女の心はいよいよもって集中力を増していく。
元来のものかその重責ゆえか、彼女は逆境でこそ意欲を増す性向をしている。眠気というのは精神を鈍磨させるものであるが、それを自覚する事によって逆に精神を鋭敏に研ぎ澄ませて行く彼女は、やはり紛れも無い一位の巫女である。
喉の奥からこみ上げるものがあり、小さな口を限界まで開く。あくびを手で隠しもしないのは彼女にとっては常に無い事だが、人目も無い今は些細な事だ。
「お前さん、のどちんこでかいなあ。 胸は無いのに」
「っ!?」
目を見開き、あたりを見回す。 周囲に気配は無い。 しかしたった今、確かに界竜の巫女は男の声を聞いていた。
「何者ですっ!!?」
「おーおーそうカッカしなさんな。 私は別に怪しいものじゃあないよ」
声はすれども姿は見えない。 魔術師の類かとも考えたが、魔術師封じの結界を破って侵入してきたとすればそれは相当の大魔術師に当たる。 まさか、と最悪の展開を危惧し、界竜の巫女は拳を固めて――――

「まあ、落ち着け巫女さんよ。  まずは一杯、酒でもどうだい」
と。 界竜の巫女はその異変に気付いた。
眼前、月明かりに照らされた大地の溝。 その中からゆっくりと身を起こしているのは、紛れも無く・・・・・・

「土竜神?!」
伝承に語られる、大地の竜神であった。

144言理の妖精語りて曰く、:2007/03/24(土) 22:12:59
土竜神が随分人間臭いね、いや、いい意味で

145言理の妖精語りて曰く、:2007/04/09(月) 23:38:44
もぐらだから泥臭いのが好きなのさ

146飛行する意識:2007/04/11(水) 12:23:36
彼女には身体がありませんでした。正確には身体はあるのですが、まったく動かず、見ることも聞くこともできなければ、皮膚の感覚すらありませんでした。けれども彼女はPTSを使って世界を認識していました。
PTS(PsycoTelepathySystem)とは人間の持つ遠感現象を機械的な支援で増強かつ制御したものでこの時代の通信機器の基礎技術でした。
彼女はPTSを介して周囲の通信機器を五感の代わりとしていました。彼女は長じるとPTSを先鋭的かつ違法に扱うようになって、他者の五感を盗むようになり、やがて、他者の身体制御系を乗っ取って自由にするようになりました。
こうして彼女のニックネームは『肉体泥棒』とか『悪魔憐歌』、もっと簡単に『アザゼル』となりました。
もっともそんな恐ろしげなニックネームをつけられたのは彼女が様々な犯罪行為に及んだからでした。彼女はPTS使いとして超一流でしたが、いかんせん、身体が動かないという弱点は克服できず、警察に捕まり、なぜか政府に回され、さらに軍需産業の企業に下されました。
軍需企業で彼女は来る未来の情報戦を研究するようになりました。といっても研究者半分モルモット半分の立場でした。ここで彼女の能力はさらに高まり、PTSネットワークにおいては彼女は妖精のように神出鬼没になりました。
彼女はとてもとても強くなりましたが、まだ不満がありました。自分の動かず感じない身体が不満でした。だから彼女は身体を捨てようと考えました。
彼女は身体の必要のない自分を作るため、必要な記憶と不要な記憶の選別を行い、自分の意識を構成する情報を最初の量にすると、PTSネットワークを移動する機能やインターセプト機能を付け加えると、最後に身体を自壊させて旅立ちました。
公式には彼女は死亡しましたが、いまでも彼女はネットワークを飛び回り、他者の身体を乗っ取りながら生きています。

147言理の妖精語りて曰く、:2007/04/11(水) 16:05:25
>>146
それなんてあやねですか?

148言理の妖精語りて曰く、:2007/04/11(水) 16:36:17
言理の妖精ではない、あれは、電子の妖精だ。

149地上太陽の由縁:2007/04/12(木) 18:30:37
地上太陽の由来

大地が球化して以来、太陽は大地の周りを何億何兆回も回っていました。そうでないと生物や神々が寒くて死んでしまうからでした。けれども最近になって太陽は回るのを止めたくなりました。というのは神々や生物は太陽の奉仕的な気持ちや弱いものに対する同情心を知らずに「太陽こそが生命の源ならば、太陽を制した者こそが神の第一位! 太陽を射落とせ!」などと叫んだり、ちょっと熱すぎたり、乾きすぎたりしたくらいで「みんなをいじめる太陽を懲らしめよう」とほざいて討伐の旅を始めるものが現れたからでした。
これら困った連中を最初の頃、太陽は無視していましたが、威力神の放った矢がかすめたぐらいの時、相手をするのが面倒になって、いくつかあった月のひとつを地上に落としました。このおかげで神々も生物も静かになりましたが、わりとすぐに息を吹き返しました。
月の落下のせいで神々や生物は前に増して太陽を制しようとしたので、太陽は思い上がりを正してやるべく、月をいくつも落としました。そのせいで月は今日のようにたったひとつになってしまいました。そのような景観に対する犠牲を払っても、神々や生物は知恵をつけていたので効果を発揮しませんでした。いくつ落下させても地上にたどり着く前に破壊されてしまいました。
そして神々や生物の強いものはいよいよ太陽のもとへと攻め上りました。だから太陽は諫めるのをもう諦めて殴り倒すことにしました。
太陽は周回するのを止めて落下すると、地上のなにもかもを焼き尽くし、その灰すら蒸発させると、地殻をずぶずぶ溶かして、大地の奥深くに沈みました。
こうして太陽は空から姿を消しましたが、太陽は地上を焼き尽くしたことに若干の後悔と同情を感じたので、昼夜の区別だけはつけてやることにしました。
明滅する世界、これこそが地上太陽の由来です。

<終>

150朔夜の宴:2007/04/12(木) 21:02:59
空を仰げば双満月が煌々と輝いている、今宵も私は彼の下へと赴いていた
周りには無粋な刺客達が各々の武器を手に私達を取り囲んでいる
そんな中でも彼はこの状況に気付いていないかの様に、ただ妖刀に目を奪われていた
私は、そんな彼を屠らんと次々に襲い掛かる刺客を愛剣で切り伏せ続けていく
不意に怖気の様なものを感じ振り返る、背後は無言で佇む彼の姿がある
だが、そんな彼の様子がいつもとは違った、その瞳がぬらりと狂気を帯び
視線は手元の大刀ではなく周囲で戦う我々の姿へと向かっている
その事実に愕然とした、私は取り乱しながらも空に目を向けた
そこには今まで確かに存在していた丸々と満ちた二つの月は既に無く
有るのは暗く陰りに犯されて、まるで闇に喰われてゆくかの様な新月の姿――
――朔の帳――
迂闊だった、双満月であるという事実に安心して、その存在を忘れていた
それは刺客の面々も同じであったようで狼狽えるのが手に取るように分かる
声を上げるのも忘れ、慌てた様にこの場を逃げ出そうとする彼ら
だが既に時は遅すぎた、先ほどまで辺りを照らしていた月明かりは既に無く
無音の静寂を撒き散らす闇の中、光る彼の瞳に晒され、どうして逃げられようか――
――かくして、惨劇と血の宴が幕を開く――
目の前に立つ者の頭部が弾けた、悲鳴を上げて背を向けた者の体が縦に裂ける
我武者羅に立ち向かう者達は振るわれた刀によって四肢を切断され
ただ震える事しか出来ない者は無造作に突き出された腕で臓腑を引き摺り出され絶命
罵声を上げ手元の武器を振り上げた者は、振り上げた両腕と共に首を落とされる
闇に包まれ一寸先も見渡せぬ中で、人々の絶叫と剣鬼の哄笑が聞こえる
慌しいまでの血塗れの葬送曲、だがそれも長くは続かず、遂には途絶える
既に周りには、彼と私の二人だけしか動くものは無く
彼は無言で私に近づいてくると、壊れた笑みを浮かべ私の頭上に凶刃を振りお――
――月の明かりが周りを照らし出した――
血の宴は終わり、狂う剣鬼は空に浮かぶ双満月を仰ぐ
先ほどまでの狂気は既に無く、虚ろな瞳はただ月光に煌き、掲げた妖刀だけを見つめている
私は震える体を抑えて彼の下へと向かう、例え側まで近づこうとも、その瞳に私の姿は写らない
無言のままの彼の手を取り近くの泉へと誘う、血に塗れた彼を自身の身体を使い清めてゆく
こびり付いた血と肉の欠片を濯ぎ落とし、はだけた彼の胸元にしな垂れかかる
月明かりの下、青白く浮かび上がる端正な彼の顔に手を添えて、その唇を奪う
口内を這う舌の感触すら今の彼は感じていないかの様、まるで身動ぎ一つしない姿に私は涙した
私は壊れてしまったのだろうか――
嘲いながら人を殺す彼の姿を、ただ愛おしいと感じる私は狂ってしまったのだろうか?
今、私の胸の中にいる、妖刀に魅入られた剣鬼と同じように? もしそうなのならば、私は――
――東の空が白み始める――
私は、いつもの様に彼の側を離れてゆく、日が昇り月が消えれば彼はまた元の鬼へと戻る
次の双満月の夜まで会うことはない、其れまでに出会ってしまえばそれ即ち死への直送便
彼に殺されるのならば本望ではあるが、その後、彼と会えなくなる事を考えると未だ死ぬ事は出来ない
さあ、この一月の間は何をして暇を潰そうか、その間の彼は一体何を?
愛しき姿を夢想する、きっと彼は相も変わらず人を殺め続けるのだろう、そう思い当たり笑みを浮かべる
こんな私は、きっと壊れているのだろう――
だが其れも悪くは無いと思う、狂った自身の心に満足を浮かべ、私は宛て無く歩き出した。

151神々の出会い:2007/04/13(金) 18:04:03
大陸の南東には行けなかった。大きな砂漠があってとても生き物が生きたまま横断することなど無理だった。けれどもいつの時代も無謀な輩がいて挑戦し、死に、その死が好奇心をかきたて、さらに死ぬのだが、やがて砂漠を横断して見せるものも現れた。
最初に横断したものは帰ってくると人と会うのを止めてしまい、周囲の人がなにがあったのかと尋ねると、首をかしげていってみないとわかりはしないと答えた。
もうこのころだと砂漠を横断するのはかなり楽になってきて幾人も横断した。これらの人たちが砂漠の果てで知ったのはその先へ行けないということだ。砂漠を越えてすこし行くと自分がなんなのか判らなくなってしまうのだった。
砂漠の果てから戻ってきた人々は好奇心をひどくかき立てられて調査に乗り出したのだが、砂漠の果てにコロニーを作って観察を始めたものの、少しも埒が開かなかった。
しかし果ての先にいって帰ってくると、意識が茫洋としてたまらない代わりに、何かお土産を持って帰ることがあった。
このお土産はいろいろあったのだが、どうも人々には知られていない文化圏の製品らしかった。まあつまりよく判らないということだった。
しかし人々はいやでもお土産の正体を知らなくてはならない日がやってきた。
ある夜、砂漠に流星が落ちた。
翌朝、落下地点にいくと、そこには山のように巨大な船があった。
これこそが墓標船で、これこそが「紀元神群」と「南東からの脅威」の最初の接触でもあった。

152呪術師ナの物語(1):2007/04/13(金) 22:57:13
プラーミグ地方に『ナ』という男がいた。ナは部族の呪術師だったが、
部族の皆が持ち寄るのは強欲で自分本位な現世利益の願いばかり。
ナは山に登り師のもとで呪術の修行に励んでいた。それは厳しいものであったが、
今となっては清冽な山の空気が懐かしい。俗人どもの俗塵にまみれた毒気に
当てられ続けて悪酔いさせられるようではたまらない。
ナは富に飢えた人々に一際大きな恵みを与えると、山に昇る許可を得ようと族長の住居を訪れた。
「族長よ、私はまた山に登り、師のもとで呪術の研鑽に励みたいと思っております。」
「構わんぞ。だが、出発の前にわしに術をかけてもらおう。少し入り用があってな。」
ナがいつも部族の皆にかけているまじないをしようとすると、
「それではない。私が欲しいのは、世間に出回っている金や宝ではない。」と言って
古人が森の中に埋めたという宝について話して聞かせた。
その森は部族の集落の近くにあり、動植物に恵まれた広大な猟場となっている。
族長曰く、ナの術で宝の在り処がわかったら三日後の狩りの際に回収するという。
ナは身振り手振りを交えながら呪文を唱え始めた。「部族の守護者、命に満ちた天上より来た者、
地の精霊を統べる『燃える単眼』よ。万物を見通す神秘の瞳にて土に封じられし……」
呪文が半分に差し掛かったところでナは左手を上げて拳骨をつくり前に突き出した。
手をかざしながらその場でゆっくりと回り始め、3周ほどしたところで止まった。
その左手の先は森の一点を指しているようだった。ナは握り締めた左手を開き、
何かを手繰り寄せるように開いたり閉じたりを繰り返す。ナの額に脂汗が滲む。
しばらくして外から一匹の虻が部屋の中に入ってきた。虻はナに近づき、
左手に向かって引き寄せられるように飛んでいき、つかまった。
虻の入った拳はそのままに、ナは大きく深呼吸した。
「術は成功しました。狩の当日にはこの虻が宝への道案内をしてくれます。」
開いた左手には虻が大人しくじっとしている。族長が手を差し伸べると虻は
ナの手から族長の手に移った。族長はまるで自分の子供に向けるような
愛しげな眼差しを虻に注いでいた。
ナは一礼すると、族長の住居を後にした。

153呪術師ナの物語(2):2007/04/13(金) 22:59:03
ナが師と共に修行した山はそれほど遠くない。集落から歩いて一日の距離にある。
その威容はなかなかのもので、部族はこの山を自分達の誇りとしている。
よく謳われる「雲にも届くほど」という形容は正しくはないにせよ、一度でも
この山を見た者はなるほどと思うことだろう。夏ということもあり、
山の麓には青々と木々が生い茂り、山の中腹まで緑に色づいているが、
それから上となると途端に木はまばらとなる。頂上に近づくと草すら少なくなる。
師が庵を建てているのは頂上近く、以前に修行していた頃は食料を採集するため
毎日山を下ったり上ったりを繰り返した。おかげで足腰は鍛えられたが、
集落に戻ってから随分時間が経っている。昔のように一日で登ることは無理だろう。
一日かけて山の麓に着いたナは薪を集めて火をつけ、その傍らで外套にくるまって寝た。
森からやってくる蚊やその他もろもろの虫どもがまとわりついてくるので
すぐさま安眠とはいかなかった。
その夜、ナは夢を見た。

夢の中でも夜で、ナは石床の上で誰かにひれ伏しているようだった。
「我が戦士よ、ではあの兵隊どもはまだ力を保っているのだな?」
「そうです。奴らに補給があるわけでもなく、水や食べ物を
砂漠の真ん中で保存しておける限界は既に過ぎています。
簡単なテントや日除けすら作らずに、しかも戦争しながら生きていけるはずがないんです。
つい昨日、兵隊の死体を見たのですが、あの蟻の……あれは仮面や兜の
類ではありませんでした。後で解体した者の話を聞いたところによれば
やはり人ではない別の生き物、とのことです。」
それからしばらく沈黙が続いた。とはいっても遠くでざわめく声はする。
ここにいるのは二人だけではなさそうだった。

154赤石の獣:2007/05/03(木) 06:11:59
遅れてすみません><
ええっと、竜と竜と白の巫女はちゃんと続き書きます。待ってる人いるかわからないですが。
とりあえず、フォービットの魔獣の話です。

女は幽閉されている。
薄暗い地下牢の中、岩を削り取った狭い穴倉の中で女の足と鉄球は鎖で繋がれている。
女は骨と皮ばかりに痩せこけている。浅い眠りと気絶を繰り返す女の喉からは大気を僅かに揺らす呼気が漏れている。冷えた地下の空気は女の体温を確実に奪い、冷たい岩が座り込んだ女の足から感覚を奪って久しい。どこかから響くのは水の滴り落ちる音だ。それほど頻繁に聞こえるわけではないが、定期的に響いている。どこか高い天井から落ちているであろうその水音はこの場所が水源に近いであろう事を示していた。
女は隔離されている。
地下牢は狭い。人が二人入れるかどうかという空間に、大の大人がかがまねば潜れぬ入り口。木製の格子が嵌められたそこに抜け出す隙は無い。寒々しい地下には、他の人間の気配はおろか、虫一匹すら存在していなかった。およそ唯一と言っていい生命が牢中に隔離されている。地下にある熱源はたった一つ。だがその熱も徐々に消えつつある。女は死に瀕している。
女は放棄されている。
牢の外に看守はいない。外は死の世界である。格子の内と外で、生と死が隔てられている。死の世界から生の世界を覗くことはできない。手を差し伸べることもできない。外には誰もいない。
「ならば、生の世界から死の世界へ赴くことは可能ではないのか」
と、男が呟いた。
男は格子の隙間に挟まっている。男は死んでいるが生きている。生きていないわけではないが死んでいる。故に生と死の狭間ではなく、死に近い位置から女に話しかける。生の世界に、語りかける。
女は語りかけられている。
「外に出ることは叶わない。そうであるならば、外へ入ることにしてはいかがか。 君の今の状態ならば容易い事ではないだろうか」
女は答えない。答えることが叶わない。女は男の声を聴いていない。聞こえていない。女は死に瀕している。男は死にずり落ちていく。
「一緒に入らないか。 君ならば上へ下がることができる」
果たして女は男に答えて見せた。女はその瞬間、飢餓で絶命した。
女の肉体は力を失い、もたれていた壁からずり落ちて地に臥せる。女の死体は天井から伸びてきた鋼の腕に絡めとられて一滴の水になった。
巨大な一滴である。水が溢れ、男は死に流された。
地下牢の中に一瞬生が満ち溢れ、次いで死が満ちた。
外と内が繋がり、内である意味が消失した。格子が崩壊した。地下牢は牢としての役割を終え、ただの空洞になった。
世界には死が満ちている。

155赤石の獣:2007/05/03(木) 06:12:14

そして死が目覚めた。
死は少女の姿をしていた。
少女はまず悪魔と神を呼び、それぞれ配下とした。
死は悪魔を下に遣わし、神を右に遣わした。
役割を果たした死は死んだ。
死で満ちていた世界には何も無くなった。
神は光あれと言ったが、光は神を拒絶し、神は光を殺した。
そこに牢獄ができた。牢獄には神が繋がれ、光と殺しあっている。牢獄の中は正義と希望が閉じ込められた。外には悪魔がいる。悪徳と絶望が世界に満ちた。絶望は力となった。底に押し込める力である。
上から下へ向かう力を絶望と呼び、歓喜と愛で世界を満たすことを悪徳と言う。
悪魔は土塊の子らに悪徳を教え、絶望を与えた。
絶望を手に入れた土塊の子らの一部が、炎の子になった。炎によって燃え上がった軽い彼らは、上から土塊の子に力を押し付けた。
力は絶望である。
炎の子らは絶望を操った。
土塊の子らは絶望に恐怖した。そして炎の子らを崇めた。
ある日ひとりの少女が石の中に炎の子を閉じ込めた。それは失意と呼ばれた。失望という感情を操る少女は、絶望を操ることしか知らない炎の子を石の中で飼いならし、獣とした。
これを期に、様々な形で炎の子を石の中に閉じ込め、獣にするという試みが行われた。
土塊の子は獣を区別するために石に色を付けた。
百の石が作られ、百人が獣を従えた。
炎の子らは土塊の子の反逆に憤り、戦争が始まった。炎の子らは敗北した。
土塊の子らもまた多くが滅び、獣たちも滅んだ。
残った少数の土塊の子らは石と獣を誰かに見つからないように隠し、仲間たちの後を追って自害した。
後には、獣たちが封じられた石だけが残った。
右のほうでは、神と光の戦いに決着が着いていた。
左から闇がやってきたからだった。闇は神と光の双方を殺し、竜となった。
竜は猫を生み、猫は精霊を生んだ。精霊は星を生み出し、星は月を生んだ。月は星を殺し、精霊を殺し、猫を殺し、竜を殺し、最後に太陽に変化した。
太陽は闇に変化し、闇は竜に変化した。
そして円環が始まった。
竜から月へ、月から太陽へ、太陽は闇に、闇は竜に。
隠れていた石の中で最も大きい赤い石の獣が、見かねて太陽を食べてしまった。
獣は太陽の光と炎で包まれ、そのあまりの輝きに斜め右で寝こけていた悪魔は起きだした。
悪魔は獣をいたく気に入り、獣の中に溶け込んで魔獣となった。
獣の仲間がいくらか残っていることに気付いて、悪魔は自分の体をいくつかに分けて全ての獣に染み込ませた。こうして石の獣たちは全て魔獣になった。
世界には魔獣が隠れている。
始めに魔獣になった赤い石の魔獣は好色だった。
魔獣は過去へ走り、始めにいた生の女を娶った。
しかし種が違い過ぎたため、妻とすることはできなかった。
魔獣はそれでも諦め切れず、男に変身して女を口説き続けた。
しかし魔獣は力尽き、遂には死んでしまった。
しかしそれでも諦め切れず、死体のまま生の淵にしがみついて女を口説き続けた。
女は死にかけていたが、それでも魔獣は男の姿で地下牢の格子の隙間から女を口説いた。
魔獣の一念も空しく、死んだ女の流れによって魔獣は死に流され、未来に流れ着いた。
魔獣は女に似た女を捜し求めて、放浪した。
あるとき魔獣は地下牢の女と瓜二つの女を見つけて、即座に求婚した。
女と魔獣は結ばれた。
今では魔獣は女がしつらえた小さな小屋で、女とその夫と、その二人の娘たちを見守りながら幸せに暮らしている。

そして、復活した魔王十四歳が女とその夫をドアノブに変えてしまい、二人の娘たちのうち姉のほうが夢を追う男と共に家を出た時から、小さな少女と赤い石の魔獣の魔王を倒す旅が始まった。

156言理の妖精語りて曰く、:2007/05/03(木) 19:17:04
>>154
みんな待ってますから。激しく期待

157竜と竜と白の巫女:2007/05/06(日) 11:28:58
2・5
「つまり、あなたは土竜神などではない、と?」
「然り。 んな大層なもんじゃないよ」
言いつつ、長くのたうつ半透明の竜(というよりもその姿は大蛇に喩えるのが適当だろうか)は
界竜の巫女が渋々ながら用意した杯を傾けた。
手足の無い土竜はその扁平な頭部の脇から生えた長い髭を器用に動かして酒を杯に注ぎ、
お前も一杯どうだ、とばかりに巫女に突き出してくる。
いただきます、と杯を持ち上げる界竜の巫女。実のところ酒はあまり得意でないのだが、
しかし付き合い程度には嗜んでいる。仮にも神に対する礼として、杯を受ける巫女であった。
「竜脈っつってなあ。 まあ古い本物の神さんが創った、【大いなる力】ってやつの宿った道筋のことよ。
それに宿った精霊とか、意思とか、魔力とか、まあ、そんなようわからんものの塊がわしよ。
実のところ、自分でも自分の正体がなんなのか、はっきりせん」
「ならば、神でないという証明にはならないのでは」
「いや。違う」
巫女の懐疑に、しかし明確に否定を返す竜。こちらを覗く茶色の瞳が、どこかで見たような気がして、界竜の巫女は
ふと違和感に捕らえられた。
妙な感覚はだがすぐに雲散してしまう。とっかかりのつかめぬまま、思考は流れてしまう。
「何故っていやあ、わしは本物の神様を知っておるからの。
あの神様が広く古い神話のまあるい神様だったのか、それとも路と川の行く末を支配する北の神様だったのか、
わしにはわからん。
けどな。ずうっとむかし、わしの上をたーくさん通っておった力あるお方。
あの、わしの頭のてっぺんをぐるぐる引っ掻き回すような恐ろしさを持ったあの気配こそは、
間違いなく神様なんじゃよ。 わしにゃあわかる。
自分と明らかに違うものなら、誰だってそうだと区別が付くじゃろう。
劣ったものと優れたものがあって、両方が本物だと間違われていたら、
真偽の程なんて本人たちには即座にわかりそうなもんだろうがよぅ。
なあ、界竜の巫女よ。 お前さんにならわかるだろう?
なんせ、お前さんは竜神の巫女の中で唯一の【偽者】なんだからなぁ」
「っ!?」
なぜ、と口に出そうとして、界竜の巫女は思わず口を押さえた。
巫女が長年の間ずっとひた隠しにしてきた疑心。
それがふたたび頭をもたげたと思った矢先。
思わぬところから、その事実は突きつけられた。
「や、はり・・・・」
そうなのですか。
界竜の巫女は、静かに嘆息した。
「なんじゃ? お前さん、まさかわかっておらなんだか?」
「いいえ。・・・・・・・薄々とは」
暫し項垂れ、界竜の巫女はそっと面を上げる。その顔には、静かな諦めがあった。

158言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 20:54:58
解体された子宮がある。

これを、キュトスと定義する。


はじめまして。
私はインサ・マリサ。九人目の騎士にして、言理の妖精から外れてしまった
一度きりの記述者だ。
私が語るのはたった一つのイメージだ。
記述し、語る。それだけを為し、そして消え行くのが私の定め。
記述を残し、イメージを作り上げる。
そのイメージを想起させる為、今現在私がここに存在しているのだと、
そう言っても過言ではない。
キュトス。
かの女神を語るためにのみ、私は記述を行うのだ。
私がこの界面にアクセスしているのは大陸から外れたとある辺境。
複数の川―とある大河の支流が入り乱れ、過剰に造船・貿易が発達した国家。
中州ごとの自治都市で構成された連合国家だ。
その内で、最も小規模な都市。
私は今、あるいは以前、そこにいる。
私は今からこの地で語られている伝承を語ろうと思う。恐らく、
世界に広く知れ渡った大地の女神、邪悪な女神の神話ではない、かの地でだけ
伝えられていた、とある女の物語。
そう。
私がいるこの水弦の都に於いて、キュトスとは神ではない。
とある一人の、女である。

159言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 21:49:13
キュトスは潜り女(もぐりめ)だった。
大地に網のように張り巡らせた支縁の泰河。新神の血管と呼ばれたその中に剣を
携え潜り込み、血肉を裂くが如くに流れを割りて渦を作り出す。
その渦を壷の中に捕えて、都市のエネルギーにするのが潜り女の仕事だ。
潜り女たちは国の宝で、柱だ。
国民は皆、渦エネルギーによって生活を成り立たせているからだ。
渦が生み出すエネルギーはすさまじい。船を動かし、火を起こし、ポンプを汲み上げ、
螺子を巻き、大の男の数人分のパワーを捻出する。
渦エネルギーがなければ、明日の生活にも困る人間が、たくさんいるのだ。
だから人々は、潜り女を称える。
英傑だと、皆が言う。
キュトスは、最も優れた潜り女だった。誰からも愛され、敬われ、称えられていた。
素晴らしい、素晴らしい潜りの技術から、彼女は女神とまで言われた。
茶色の女神。濁った川の、美しい女神。
腐り、汚れ、悪臭漂う忌まわしき川に果敢に挑み、その命をすり減らしながら
民に奉仕する、だが短命であることが定められた哀れな女神。
潜り女。
悪意と怒りの新神の屍骸。死に満ちた河に潜り民に使われる使い捨ての奴隷。
それを欺瞞と偽善で塗り固め、心地よい罪悪感だけに浸るためだけの醜い崇拝。
キュトスは、全ての民を忌み嫌っていた。

160言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 21:57:38
新神は英雄よって殺された。シャーフリートと呼ばれた英雄は自らの肉を引き裂き、
その地で新神の肉を汚した。
大地に呪いが振り撒かれた。
呪い。全ての人に死と絶望を。
呪い。
それは、英雄の皮を被った魔神が最後にもたらした狂気の遺物。
そして、彼を信じていた民は分断された大地に束縛され、
大地と溶け合った新神はその血管を川と為して大地に根付いてしまった。
民は呪われた。
無責任に英雄を煽った咎で。英雄で無いものを無理やり英雄に仕立て上げた、
その欺瞞の責任を取らされている。
その責任を回避するため、彼らは更なる欺瞞でその呪いを上から塗り潰した。
新たな英雄は、女たちだった。
使われる女たちだ。
男ではない。【雄】ではない。
道具である。
消耗する。それが雄の役目。
生み育む。それが雌の役目。
消耗する雌とは何か。
それは鋳型に捻じ込んだ、歪な道具。
人工の、剣。
生ませない。育てさせない。
女を否定された女。それが潜り女。

161言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 22:10:31
キュトスは反逆した。
一人の少年を襲い、身ごもった。
少年の首はキュトスの剣の柄の飾りになった。

身ごもったまま、キュトスは民を殺した。
妊婦の鬼神。
恐れが撒布され、産婦は子供を生んだ。
世界が崩壊した。
欺瞞は崩れた。呪いが甦った。しかし、それすらも出産によって否定された。
新生した世界が、新神と魔神とを塗り潰し、キュトスは罪悪の象徴として
否定された。
しかし彼女は抵抗した。
道具として用いた赤子ごときに、否定されるわけにはいかなかった。
キュトスは赤子を道具として用いた。
そこに彼女の罪科があったが、それに涙するのは柄尻の生首だけだった。
父親は話せず、赤子もまた話せない。
だが両者の間には絆があった。
キュトスは、そこに勝機を見た。
計算通りであった。
キュトスは少年の首を潰し、赤子の父親を殺してみせた。
赤子に絶望が訪れた。
希望の象徴を絶望で打ち破った。
そのために少年の首を取っておいたのだ。
キュトスは全てに勝利した。
キュトスはそして、全ての呪いを打ち払った。
呪縛。
偶像の呪縛。
消耗品の呪縛。

そして女であると言う呪縛。
最後の呪縛を完全に否定するため、彼女は自らの腹を裂き、子宮を抜き出し、
千々に引き裂いた。
解体された子宮。
キュ・トス。
それがキュトスと言う名の字義であるというのは、けして偶然ではない。
なぜならば、キュトスと言う名は後から付けられたもの。
潜り女の本当の名前を知るものは誰もいない。
何故なら、道具に名前を付ける必要は無く、偶像に名前を付ける必要もまた無い。
ただ使い、ただ崇めればいいだけ。
キュトスは自分で自分の名前を付けて、嘗ての自分を否定した。
キュトスは解体された子宮を全身に針と糸で縫い付け、高らかに嗤った。
世界を。
大いなる、世界を。
人を。
偉大なる、人類を。
彼女は、女神だ。
運命を破壊する、女神だ。

新生した世界を否定した彼女は、異形の姿のまま自害し、世界の礎となった。
キュトスは世界、大地となった。
世界はキュトスの大いなる意思に包まれた。
そうして、この世界はこれほどまでに残酷で、過酷で、そして不条理に
満ちるようになったのだ。
この世界以外は、とても優しい。

162言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 22:17:31
・・・・・・。

私の話は、これでおしまい。
インサ・マリサの役目はこれだけだ。
え?
結局神話じみてるって?

いいや。
これは神話じゃない。


だって、全部うそだからね。


嘘吐きインサ・マリサは、本当のことは言わないよ。

あれは私の創作だもの。
だって、言理の妖精はみんな嘘吐きでしょう?
私がうそをついたって、海面に真水を垂らすようなもの。
しかもその海はとっくに汚れてる。
あああああああああああああああああああああああああいみない。


インサ・マリサの一人騙り おしまい。

163インサ・マリサ:2007/05/12(土) 23:33:49
待て。


ちょっと


待て。



んだこれは
     、リン
       クして
         い
         る
         の
         か
         ?

164インサ・マリサ:2007/05/12(土) 23:34:39
何処から?

どうやって?


誰が何のためにいったいいつこの干渉を


え?

お前、ひょっとして

165永劫船のノエレッテ:2007/05/12(土) 23:35:53
出航します。


ボー。ボォー。



今の、汽笛ね。


完。

166言理の妖精語りて曰く、:2007/05/13(日) 13:30:56
大反響に応えて第二部執筆中!

嘘吐きノエレッテはいかにしてインサ・マリサを慰めたのか!
第二ノエレッテはいつ現れるのか!
マリサって略すとサラミの香りがするよね!
コルク抜きってかわいい!
ワインは青くってとってもまぶしい!

来月号巻頭カラー大増5ページ!堂々開幕!
グダグダにならないか心配だ!

167永劫船のノエレッテ:2007/05/13(日) 13:35:44
第二部  インサ・マリサと青い船。(赤色カラーなので青い表紙絵がちゃんと配色されない)



「俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ!!」


完。

168言理の妖精語りて曰く、:2007/05/13(日) 13:38:34
1P扉タイトル
2・3P見開きで「俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ!!」
4P「完!」一文字
5P「次号予告!第三部激烈強制執筆中!!期待せず待て!!!だが断る!!!!」

169言理の妖精語りて曰く、:2007/05/16(水) 23:08:02
彼は探偵だった。といっても現実の探偵ではなくてオンラインゲーム上の探偵だった。彼としては探偵という呼び名に少しだけ気恥ずかしさを覚えていた。というのはゲームにおける彼の特技は物や人を探すことであって探偵のような真似が得意なわけではないからだった。彼は自分を探索者と呼んでほしいと思っていたが、誰も彼をその名前で呼ぶことはなかった。
さてこの他称「探偵」の彼だが、依頼を受けた。ますます探偵っぽいので彼は苦笑しながら依頼内容をこなすことにした。ダンジョンの奥にあるアイテムを探す仕事だった。探すだけでいくばくかのゲーム上の通貨が与えられ、成功した場合はさらに与えられるのだった。
探偵の仕事には違いなかったが、小説の名探偵ではなくて、保険会社の小間使いをするような探偵だった。こんな彼を悪くいうものもいる。使いぱしりだと。しかし彼は気にしない。今の彼はゲーム会社の用意したイベントをこなすに飽き飽きしていて自分でイベントをつくっていて、これがそうだった。彼が非難を気にするのは彼の仕事を邪魔されたときだけだった。
彼はダンジョンに潜る。一日で最低一度は構造が変化するという自動生成タイプのダンジョンだった。浅い階層において少人数で行動するプレイヤーから一緒に行動しないかと誘われたが、彼は断った。チームプレイは嫌いではなくてむしろ好きな分類にはいるが、現在は依頼遂行のために探索しているので、誘ってくれた人々とは目的に相違があったからだ。楽しいプレイをと挨拶を交わして彼は潜る。彼を見送る人々は少々心配そうであった。
というのはやはり単独で潜行するのは大変な難事だからだった。またこのゲームは非常にデスペナルティがきつくて、操作しているキャラクターが死亡すると、即座にキャラクターデータが抹消されてしまう。彼は腕の良いプレイヤーであったが、ゲームはシステム上の難易度が高くて心配されるのは嬉しかった。
こうして彼はダンジョンに潜り、モンスターを倒したり、罠を迂回したり、発動した罠を無理矢理突破しながら前に進んだ。時折プレイヤーキラーといプレイヤーを獲物と見なして盗賊行為を楽しむ輩と対決して下したり、強力な敵と遭遇して立ち往生しているプレイヤーを助けつつ、念願のアイテムを手に入れた。
こうして来た道を彼は戻るのだが、その途中で人とあった。このプレイヤーは立ち往生していたので彼は助けてやった。すると潜行しないかと誘われたので彼は丁重に断ったが、プレイヤーはだだをこねた。子供だなと思いながら彼はさらに断るとその場をあとにしたとたん、アラームが二度なった。一つのアラームはさっき話したプレイヤーが彼のアイテムをごっそり盗み出したことを知らされるもので、もうひとつは今いる階層に無数の敵を出現させるものだっt。彼の所持アイテムから依頼の品物が無くなっていた。あのプレイヤーは逃げ出していた。
彼はおもしろくなってきたとおもい、追撃を始める。彼は敵プレイヤーの脱出ルートを見当する。下の階層にいくか、上の階層にいくしかあるまい。彼の現在位置から近いのは下の階層への階段だった。しかしそこには強力なモンスターが立ちふさがっている。ということは上の階層にいったはずだ。そう判断して彼は走る。
 目の前にふさがる敵を回避し、切り伏せ、飛び越えて前に進む。罠はどうやら嫌らしいもので強力な敵ばかりがふさがっていた。しかし彼の腕も相当なもので敵をばさばさと切り倒した。そのうちに階段が見えてきた。しかしそこには誰もいないと思っていると、後ろからモンスターが迫ってくる。しかもあのプレイヤーもいる。従えているというか追われているのは下の階層を塞いでいたモンスターだ。彼は思った。どうやら上の階層に逃げようとして失敗して下の階層に向かったらモンスターがいて逃げてきたというのだろうと。
彼はあのプレイヤーをくびり殺すと、追ってきたモンスターも一刀両断で倒して、地上へ戻った。
彼は報酬を手に入れたが、今回の仕事はへんな出来事が多くて大満足だった。

170言理の妖精語りて曰く、:2007/05/17(木) 23:11:13
 彼はプレイヤーキラーだった。NPCを殺して経験値やアイテムを得るのではなくてプレイヤーを殺して経験値やアイテムを手に入れていた。もっともプレイヤーキラーの中では変わり種で彼が求めたのはただ一つ、スリルだった。彼は対人戦闘はNPCとの戦闘では決して得られない快感があるとおもっていた。

171K市について:2007/05/18(金) 13:53:49
 今は昔、愛知県と三重県の境目にK市という町があった。小さな町だったが、文学史に記録されるような文豪と由縁があったり、大昔の戦争で英雄を輩出したこともあった。とはいえそれらが賞賛されることは少なく、日々の暮らしに充足していたためか、はたまた忘れてしまったのか、当地の住民も自ら誇りはしなかった。
 さてこの平凡を装ったK市だが、水害に悩まされる町でもあった。というのはK市西域にはN川という長大な河川があってまれに氾濫を起こすからで、そのうえ悪いことにK市のほぼ全域が海抜よりも低いからだった。
 このような土地であったのでKの住民は家に舟を用意して大水に備えていた。といってもこの舟は災害用だけではなくてむしろ移動用でもあった。というのは町中に水路が走っているからだった。
 この水路は河川とつながっていて、河川の上流から運ばれてくる木材を市内に搬入するのに使用されていた。搬入された資材は水路を利用して加工場に運ばれ、近隣の大都市のNに出荷された。
 Kの住民は大水に難儀していたが、これを生活の糧ともしていた。この一種の蜜月は今日では見られない。今でも海抜が低くて大水の危険はあったが、河川をせき止めるような大きな堰がもうけられて、今では氾濫することなど決してなかった。町に張り巡らされていた水路は路上列車や車の増加に伴って埋め立てられるようになり、いくつかは暗渠と化した。
 K市は水郷の町だったが、もはやその面影はなく、今ただひとつあるのは、夏の初めに行われる祭であったが、これの大水を鎮める意図を知るものはもはや老人しかいなく、この老人もまた数少なくなり、祭り自体も取りやめの動きが強くなっていた。

172猫とヘルン:2007/05/18(金) 14:30:48
 私は猫だ。ヘルンと呼ばれている片目の悪い人間の男と暮らしているが、次のような成り行きがあった。
 生まれてまもなく私は兄弟といっしょに捨てられた。空地に捨てられたダンボール箱でもがいていると、人間の子供がのぞき込んできて手を伸ばした。私の隣にいた猫が連れ去られた。戻ってくることはなかった。
 翌日になってまた人間の子供がやってきた。昨日と同じ子供だった。昨日と同じように私の兄弟を連れ去った。私はもう会うことはあるまいと残念におもったが、兄弟は戻ってきた。その片目を潰されて。私たちは空き地をあとにすることにした。
 すると件の子供が現れて私たちを一抱えにした。じたばたもがているとポリ袋の中に押し込められた。どうなるかとやきもきすると落下する感覚があってすぐに何かに激突したあと冷たいものが肺の奥に侵入してきた。ポリ袋詰めの状態で水に川に投げ込まれたらしかった。もうダメかとおもっているとポリ袋が持ち上げられ、ほっと息をつこうとした瞬間に、再び水面に落とされた。
 私と兄弟たちは大変に抗議をしたのだが、人間の子供に通用するはずもなく、私と兄弟は徐々に体力を奪われ、傷を負っていき、私も兄弟もだんだんと声を上げるための気力が失われてきた。すると不意にこの拷問が終わった。
 私と兄弟はそっとコンクリートの上に降ろされ、ポリ袋から救出された。そこには人間の大人の男がいた。大人の男は左目をすがめていた。そのそばで子供が鼻血を出して倒れていた。左目すがめの男は私と兄弟を抱き上げると子供をまたいだ。
 この左目すがめの男がヘルンという人物で私の同居人だ。ヘルンはあのあと私たちを医者に診せ、自宅で治療してくれた。ある程度回復するとヘルンは私と兄弟全員の世話を見てやれなかったらしく他の同居人を探してくれた。今日私と私の兄弟が生きていられるのはヘルンという男のおかげだった。
 さてこのヘルンという男は左目が悪い。視力がほとんどないようだった。この視力を補うためなのかヘルンは聴力が発達しているらしく、なんと我々猫族の足跡を聞きつけ、そのうえはっきり聞き分けることができるようだった。なかなか奇特な男だ。
 しかし真に奇特なのは耳ではなくて目だった。しかも左目のようだった。というのはある夜、

173竜と竜と白の巫女:2007/05/27(日) 02:15:35
2・6

それを奇妙と感じたのは何時が初めてだっただろう。
浅見の修練場でたった一人だけ個別の指導を受けることが決まった時だろうか。
あるいは、たった一人だけ、【竜覚】の演技指導を受けることが決まった時だろうか。
それとも、先代の界竜の巫女の持つ【武】が自分のそれと異なることに気付いた時が、決定的だったのだろうか。
竜神信教第一位の巫女、界竜の巫女の担う役割は、他の巫女たちとは趣を異とする。
第一位なる竜神、界竜ファーゾナーより【武】を賜り、全ての竜とその眷属らを守護することを宿命付けられた絶対の武力。
竜神信教の力を確かなものにしている、揺ぎ無い戦力。
それが、界竜の巫女という役割である。

竜神信教全てのものが頼みとし、絶対的な崇拝と尊敬を受ける、【武】。
しかし、と幼少時、まだただの少女であった界竜の巫女は思った。
その【武】とは果たして何なのか。
自分の持つ【鉄塊之武】は先代の巫女の【香炎之武】とはまるで違っていた。
専任教官には、界竜は当代の巫女によってお与えになる【武】を変えられるのだと教えてくれた。
個人の資質に合わせた力を授けるのだと。
しかし、それでも彼女の心には疑心が付きまとった。
彼女が持つ【武】は、彼女が竜神信教の者に誘われ、両親に浅見の社に送り出される前よりあったものだ。
そして、幾人かの巫女見習いたちが兆候を見せつつある中、未だ竜覚の前兆すら見えぬ彼女は決して抱いてはならぬ疑いを抱いてしまった。
界竜など、本当にいるのだろうか。
自分は、居もしないものと、無理やりに同調している振りを仕込まれているだけではないのか。
周囲の大人たちは何も言ってくれなかった。
疑心を表に出すなどとてもできなかった。
巫女就任の儀の日、同期の巫女たちが【竜覚】を果たしていく中、自分だけがそれをできず、
しかしあっけなく彼女は界竜の巫女に選ばれた。

その時、なんとはなしに理解したのだ。
界竜の巫女とは、すなわち【武】の所有者にあたえられる照合なのだ。
そして、おそらく【武】というのは。


「まあ、単なる異能、ということじゃの」
あっけらかんと土竜が結論を下すと、界竜の巫女は眉を顰めて言うのである。
「これは、神の不在証明にはなりえませんよね?」
「あたりまえじゃばかもの。 おぬし案外頭悪いの」
頭に青筋が浮く界竜の巫女である。

174竜と竜と白の巫女:2007/05/27(日) 03:05:35
2・6 追加

「感知できぬから居らぬ、力を授けてくれんから居らぬ、では世界は居ぬ神だらけじゃわい。
本来、神などなにもしてくれんものじゃよ」
「ですが、私は【竜覚】ができません」
「そりゃおぬしが未熟なだけじゃ」
ばきり、と凄い音を立てて割れた杯を見やりつつ、土竜は平然と続ける。
「というか、歴代の界竜の巫女全てが、じゃな」
「手に余る、というのですか。 大御主との同調は」
「平たく言うと、そうじゃ」

175光の魔獣戦ZV 1:2007/05/31(木) 00:25:27

その戦いは、少女の高らかな口上で幕を上げた。
「牙を剥け、赤かる顎(あぎと)、われらが怒りその身に宿し、
鍵たる剣持てわれらが土塊の出自を否定せよ!
われら、この身は水の御子、大海より出で暗闇に還る、深淵の申し子なりと知らしめよ!!」

栗色の髪をなびかせる少女は片腕を失っている。
眼前の敵はその腕と引き換えに少女に戦いの覚悟を与えたのである。
敵、否、もはや少女にとっての的はその口に少女の細腕を咥えながらも恐々としている。
少女の口に咥えられた真紅の宝石から放たれる威圧に恐れをなしている。
愚かなりと宝石が赤い輝きと共に笑うのだ。
的手は犬だ。
二足で立ち、三本の腕を両肩と臀部に持ち、鋭い牙と嗅覚を持つ、犬だ。
腕を、食い千切る。
骨が砕ける音と共に、少女の宝石が輝きを増した。
刹那の間、世界に光が満ちる。

次に訪れた静寂は一瞬で食い破られた。
広がる顎は犬の全身を数倍する。獰猛な牙の一噛みは犬の肉と骨を砕き散らし、
一撃の下に殺戮を遂行した。

牙の主は、獣だった。
犬よりも少女よりも、遥かに巨大な赤色の獅子。
獅子。王なる獣。
その中でも伝説と謳われし真紅の鬣を持つかの獣こそ、フォービットの魔獣。
赤の幻視。太陽喰らい。フェンリスの獅子。「symbol red」。
そして、真紅のフォービット。

少女は片腕のまま、得意げに笑う。
少女は魔獣使い。

魔王を倒さんとする、殺人嗜好者である。

176睡眠不足が鼻を盗む話:2007/05/31(木) 23:35:36
 夜を司る神は八百万体の眷属を持っていたのですが、どれにもこれにも眠ることを許しませんでした。というのは夜の神は眠りを守る仕事を持っていたので、眷属たちに幾億幾兆の生物の眠りを見張らせたからでした。
 たまらないのは夜の眷属たちで、幾億年幾兆年眠れず、いらいらして仕方がありませんでした。それで時々気晴らしにと人間たちに悪戯を仕掛けました。
 こうして人間たちは寝入りがたまに悪くなりました。胸に重いものが乗った感じがしたり、眠りに落ちる直前に催したりするようになりました。悪戯のやり方はこれだけではなく、いろいろあって、くしゃみが止まらないというものもありました。
 今は昔、あるところのある男が床に入ったらくしゃみが止まらず、夜中まで眠れませんでした。それでもなんとか眠って目を覚ますと鼻がありませんでした。男はびっくりしました。

177睡眠不足が鼻を盗む話:2007/05/31(木) 23:36:32
 これは夜の眷属の仕業で、悪戯をしたのに男が眠ってしまったので、腹を立てて鼻をもいでしまったのでした。
 男は自分の鼻を求めて旅に出ました。
 ちなみにこの男はいろいろあった末に鼻を取り戻しますが、その晩、腹痛になって休むのですが、眠ってしまったので、夜の眷属に今度はお腹を盗まれたそうです。

178フィライヒ<どらごんさん大好きv>:2007/06/06(水) 00:13:33
この、おしゃれん坊さんめ!

私の彼氏はとってもおしゃれさん。
でもヒッキーだから誰にもその姿は秘密なのっ♪
私は毎日彼の家に行って、彼の身の回りの世話をしてあげてる。
彼ったらかっこいいのにだらしなくって、私がいなきゃなーんにもできないんだから♪
彼は狭いアパートに一人暮らしで、お金持ちの親とは断絶状態だから好き放題やってるの。
お父様から世話を任された私がしっかり目を光らせておかないと、すぐに変なことに嵌りだすんだから。
最近だって、昆虫収集に没頭してるみたいで、もう体中にぶんぶんうるさい虫とか纏わせて、挙句の果てには
体の中にまで白くてちっちゃい虫を入れてるんだから。本当にもう臭くって。
でも知ってるの。これは彼なりのこだわりなんだって。私が着せ替えてあげてる服よりもすてきな彼自身のおしゃれ。
理解ある恋人のわたしは、彼が唯一自分の意思でするおしゃれを尊重してあげるのでした。まったく、幸せなやつめっv

179遺された紀憶(1) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:39:20
時:a84nf-jk4l-9f3d

 とりあえず、ぼくは欠陥品だったらしい。最初にそれを知ったときにはううむ、そうか、なんて、柄にもなく唸ってしまった。欠陥品なりに精一杯働いていたつもりだったんだけどね。ある日突然、壊れちゃった。湖のほとりまでトントロポロロンズを取りにいって、それっきり。あまりに遅いぼくの様子を見にきた父さんはため息をついて言った。
「もう、帰ってくるなよ」
 でも、こういったセリフにも、ぼくはそれほど傷ついたわけじゃない。本当にショックだったのは、ぼく自身、ぼくが壊れるなんて思っていなかったことだ。大体、湖に行くなんて日課みたいなものだし、それまではごく普通に動いていたのに。まったく、困ったものだ。
 取り残されたぼくはずっと、湖のほとりでうずくまっていた。最初の星が空に光り、月が登り闇が立ちこめても、どうしても動くことができなかった。とはいうものの、身体はどこも正常だった。異常はどこにも見当たらなかった。だから、たぶん悪いのは心だったんだと思う。よくわからない。でも、ぼくは壊れてしまったんだ。
 夜の湖面はいつもとはまるで違っていた。女の子の瞳みたいにふうわりとした黒のうえで、星や月がきらきらと輝いていた。綺麗だった。
 何も考えられないままにただじっと見詰めていたら、不思議なことがおこった。そういうあれこれが段々とぼやけて滲んでいったんだ。ぼくはよくわからないままにただじっとうずくまっていたんだけど、やがてふっと奇妙な考えが浮かんで、思わずほんの少し、笑ってしまった。

 おかしいな。
 涙を流す機能なんて、ついていないはずなのに。

 それが最初の日のこと。以来ぼくはずっと、うずくまったままで、ここにいる。

180遺された紀憶(2) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:44:47
時:a84vx-jhr5-jh8d

 それからどれくらいの月日が流れたのか、ぼくにはわからない。ぼくはただ、うずくまっていただけだから。
 まわりの地面に草が高く生い茂っては、また枯れていった。
 近くに狼がねぐらを作ったけれど、何世代か続いたあとで一匹もいなくなった。
 ぼくの身体からちっぽけな緑の芽が出た。それはやがてぼくの身体よりもずっと大きな樹になった。鳥たちが、季節ごとにたくさんの巣を作った。でもそれも、あるとき雷が落ちてぼろぼろになっちゃった。
 湖は一度枯れ果ててしまったものの、今では再び豊かに水を湛えている。以前とは形が変わってしまっているけれど。
 まったく、自然というのは凄いものだ。くるくる、くるくると、変化しつつもちゃんと生き続ける。ぼくみたいに、生まれて数年で壊れちゃった出来損ないとは大違いだ。とはいえこんなに長い年月ぼくの身体がちゃんと形を保っていることには素直に感心してしまう。きっとぼくの父さんはぼくが思っているよりもずっと凄い人だったんだろう。もし壊れなければ、ぼくもその偉大な発明品として歴史に名前を残せたのかもしれない。
 今となっては、むなしい空想だけれど。

181遺された紀憶(3) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:48:51
時:a8r7j-j8j4-g9j0

 ぼくの最近の楽しみは、鳥たちが楽しそうに餌をついばむのを眺めながら紀憶回路の中身を整理することだ。驚いたことに、こんなにも壊れてしまったぼくの紀憶回路は今でもほとんど正常に動く。ただ、それに気付いたのが遅かった。始めのころ、ぼくは何もせずにただぼんやりうずくまっているだけだったから、そのせいで、壊れる以前の紀憶はほとんど失われてしまった。残っているのは断片的な風景とちりぢりの情報ばかり。父さんの顔も名前も、正確には思いだせない。ただ、「G」で始まる名前だった気はする。
 この文章も、せっかく使うことのできる紀能なんだから使っておこうと思い、数日前から紀憶装置に書き溜めている。日記と呼ばれるものに近いんだと思う。いつか、そのことすらもわからなくなる日がくるかもしれないから、未来の自分のために、記す。

182遺された紀憶(4)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:56:09
時:a843d-n34s-g49s

 今日はいつもとは違う日だった。
 太陽がてっぺんを少し過ぎたころ、ぼくはいつものように昔の紀憶の整理をしていた。遠くの空に赤い火が数週間灯りつづけたのと、あたりに一匹も動物が居なくなってしまったのはどっちが古い出来事だっけ、なんて考えているうちに、気付いたら眠っていた。気温を感じる紀能はもう失われていたけれど、なにせ、とても気持ちの良い日射しだったから。
 なにか夢を見たような気がするのだけれど、よくは覚えていない。とても、懐かしい出来事を見た気はする。ともあれ、こんなことはよくあることだ。問題は、次。
 夢から覚めると、顔のあたりに、柔らかいものを感じた。目を開けてみると、若い女性がぼくの顔をぺたぺたと触っていた。
 結構びっくりした。いや、こんな場所にずっといると驚くことなんてそうそうないし、そもそもわりと無感動な性質なので、ひょっとしたらぼくは滅茶苦茶に驚いていたのかもしれない。
 彼女はまだぼくが眠っていると思っているみたいだった。どうしてなのか、そのときはよくわからなかった。ただ、綺麗な人だなって思って、じっと見ていた。ぼくには本当に、その人が、綺麗に思えたから。
 さてどうしよう、と考えた。なにしろ、もう長いことうずくまっていたものだから、いろいろなことがさっぱりわからない。大体、生まれてから父さん以外の人間に会った紀憶がない。声が出せるかどうかすら危うい。
 でも、正直言って、ずっとずっとこの場所にうずくまっていて、寂しくなかったなんていうのは嘘だ。いつも、父さんが迎えに来てくれるんじゃないか、誰かがぼくを連れにきてくれるんじゃないか、なんて無駄で無意味な期待を持っていた。自分ではなにもしようとしなかったくせにね。だから、ぼくは、この人に行ってほしくなかった。少しでも長く、側に居てほしかった。だから、思いきって、言った。
「あの」
 ぎくりとしてその人は飛び退いた。ぼくは悲しくなった。ぼくのどこかがきいきいと軋みをあげた。ああ、もうだめだ。こんな壊れたぼくのこと、この人は気味悪がってすぐどこかへ行ってしまうに違いない、そう思った。でも違った。
その人は首を傾げて、言った。
「……わたしのこと、怖くないの?」
「怖いって、どうして?」
「だって、その……両目の、傷とか」
「傷?」

183遺された紀憶(4)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:56:50
 そう言われてみると確かに彼女の両目は閉じられたままで、ぱっくりと縦に裂けた大きな傷あとがあった。でもぼくはたぶん父さん以外に普通の人を見たことがないだろうし、その傷あとが怖いなんてこと、全然思わなかった。それよりも、彼女は目が見えないんだということに納得した。それでぼくが目を覚ましていても気付かなかったのか、と。
「ぼくにはよくわからない。他の人を見たことがないから」
「それにわたし、魔女だし。聞いたことくらいあるでしょう? キュトスの姉妹」
「なんとなくは。でも、それだけだよ」
 ぼくは彼女をじっと見て、言った。
「君は? ぼくのこと、怖くないの?」
 その人は悲しそうな顔で笑った。その表情を見て、ぼくは自分の心がこれ以上壊れることもあるのだと思った。
「わたしはもう、何も怖くないの。この世界の全部が、悲しいだけ」
「悲しい?」
「むしろ、寂しい、かな」
 ぼくはどうしていいかわからなくなってしまった。それでも何か言わなくちゃ、と思って考えた。ぼくのどこかがきいきいと軋んだ。
「えっと、ぼくはいつもここに居るから、だから」
 そのあとに言葉は続いてくれなかった。ぼくのばかばかばか、なんて頭のなかで何度も呟いていたのだけど、その人は優しく笑ってくれた。ぼくの紀能モニタは今まで見たこともない値を返した。彼女は真夏のさざ波みたいな声で言った。
「ありがとう」
 そうしてゆっくりと、危っかしい足取りで彼女は近づいてきた。ローブの端が草むらにこすれ、くすぐったそうな音を立てた。彼女はゆっくりとぼくのほうに手を差しのべ、これはぼく自身びっくりしたのだけど、ぼくの手は無意識の内に彼女の柔らかい手の平を掴んだ。自分が動いたなんて今でも信じられないけれど、そのときはそんなことを考えている余裕はなかった。彼女の顔がゆっくりとぼくのほうに近づいてきて、こつんと、額と額が触れあった。
「また明日、ね」
 ぼくはやっとのことで言葉を絞りだした。
「また、あした」
 彼女はそっとぼくから離れると、もうこちらを振り返ることなくあっという間に歩き去ってしまった。遠くに山が見える方角だった。もっともうずくまったままのぼくには、森の樹々に覆いかくされて天辺がほんの少し見えるだけなんだけど。
 それからずっと、彼女のことばかり考えている。眠ってしまったら全てが夢か幻になってしまいそうで怖い。もう空が明るくなりだしている。そろそろ、無理矢理にでも眠ろうと思う。紀憶回路まで壊れて、彼女の紀憶が失なわれてしまうことのほうがもっと怖いのだしね。

184遺された紀憶(5) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:59:03
時:a843d-n35y-j49s

昨日遅くまで起きていたせいか、今日は寝坊した。
彼女は来なかった。真ん丸い月が天辺を越しても来なかった。西の空に沈んでもまだ来なかった。空が、昨日と同じくらい白みはじめても来なかった。
ぼくが寝ているあいだに来たのかもしれない。そう思いたい。
怖い想像がいくつも頭の中を駆けめぐっている。書くと本当のことになっちゃいそうだから、書かない。
消えてしまいたい、なんて思ったのは、本当に久しぶりだ。
もう、寝る。

185遺された紀憶(6)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:13:11
時:a843d-n36k-48fk

 自分でも、今の状況が信じられない。だってこの文章を紀憶しているのがそもそも……いや、順を追って書こう。
 辺りがすっかり明るくなるころ眠って、目を覚ましたときには彼女がいた。
 びっくりしすぎて目が回りそうだった。でも、それはとってもうれしいびっくりだった。彼女はやっぱりこのまえと同じでぼくの顔や身体をぺたぺたと触っているところだった。ぼくはうれしくて、思わず大声で言ってしまった。
「おはよう!」
 彼女はびっくりして飛び退いてしまった。ぼくは自分を呪った。目が見えない人はちょっとした音にも怯えるってことくらい、考えればすぐわかることなのに。ぼくのばかばかばか、と思っていたら、彼女がふうわり近づいてきた。
「ごめんなさい。起こしてしまった?」
 彼女は少なくとも見た目上ぼくの無作法をそれほど気にしていないみたいで、ちょっと安心した。
「そうだけど、もう太陽もてっぺんだし、起こしてもらえてよかった。ぼくのほうも、いきなり大声だして、ごめん」
 彼女は今日も、この前あったときと同じゆったりとしたローブを着ていた。中になにか入ってでもいるのか、所々ごつごつとした輪郭が飛び出していた。彼女はそっとぼくの顔に触れた。彼女の顔はまっすぐにぼくのほうを向いた。ぼくは困ってしまった。
「うまく言えないけど、なんか、変な感じだ」
「変?」
「身体のどこかが軋んでる気がする」
「嫌?」
「嫌じゃないよ。軋んでるのに、なんでか心地良いんだ」
「そう。よかった」
 彼女はにっこりと微笑んだ。ぼくは知るはずのない暖かさを知った気がした。
 彼女はぼくの隣に移動して、ぺたんと腰を下ろした。目が見えないのに、そんなふうにちゃんと正確な場所へと行けるのはすごいと思った。それを云うなら、白杖もなしにどうやってここまで歩いてこれたのだろう。不思議に思ってそのことを訊くと、「いつ死んでもいいと思っていれば、結構どうにかなるものよ」なんて答えが返ってきた。
「もっとも、死のうにもそう簡単には死ねない身体なんだけどね」
「あ……ぼくと同じだ」
「同じ?」
「ぼくも、いつ消えてもいいと思ってた。それで、ずっとここにうずくまってたけど、ぼくの身体はまだまだ頑丈みたい。内側は、まるきり欠陥品なんだけどね」
「そうなの? こうして話している分には、あなたは普通の男の子と全然変わらないけれど」
「でも、ぼくの身体、父さんみたいな普通の人間とは違ってとっても硬い。それに、最近は軋むことも多いんだ。やっぱり、欠陥品なんだよ」
「父さんって? あなたを……その、作った人なの?」
「たぶん。よく、覚えていないんだ」
「……亡くなったの?」
「さあ。捨てられてから、一度も会ってないし」
「捨てられた?」
「うん。ぼく、欠陥品だったから」
「そんな!」
 彼女は勢いよくぼくに掴みかかった。どうしてか、怒っているようだった。
「えっと……ぼく、なにか、悪いこと言ったのかな。ごめん」
「あ……いえ、あなたは何も悪くないものね。掴みかかったりして、こっちこそごめんなさい」
 彼女はゆっくりと身を引いた。しかし怒りはまだ冷めていないようで、忙しなく手を握ったり開いたりしていた。
「でもそんなのって、酷い! 親が子を捨てるなんて!」
「仕方ないよ。ぼくは壊れちゃったんだもの」
「壊れても、駄目。子が親を捨てるのはいいけれど、親が子を捨てるなんてあってはいけないの。それはもう、絶対のことよ。ああもう! あなたの父親に会って説教してやりたいくらいだわ」
「でも、説教しようにも名前がわからないよ。失なわれてしまった」
「そう? あなたみたいな素晴らしい子を作れる人なんて、限られてくると思うけれど」
「頭文字が『G』だったことしか、覚えていないんだ」
「『G』……」
 そう呟くと、彼女はごそごそとぼくの後ろにまわって、手で背中を撫でまわした。しばらくすると、彼女はもとの位置にもどって頷きながら言った。
「あの刻印、間違いないわ。あなたの父親はグレ……」
 言いかけて、ちょっと考えこんだ。
「あなたは、父親の名前、知りたい?」
 ぼくはちょっと考えるふりをした。でも、答えはもう決まっていた。長い年月のあいだ、何度も考えたことだ。風が凪ぐのを待ってから、ぼくははっきりとした声で否定した。
「いいや。今更知ったところで、どうにもならないよ。たぶん、悲しくなるだけだと思うから、それなら、知らないままでいたい」

186遺された紀憶(6)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:15:56
「そう」
 彼女はちょっと首を傾げた。何も言わず、何か考えているようだった。彼女は湖に石を投げた。立ちあがり、ローブを脱いだ。ローブはやっぱり内側に何か仕舞われているみたいで、地面に置かれていてもいくらか膨らんでいた。彼女の身体はローブを着たときとは全然違っていて、今にも折れてしまいそうなほど痩せ細ってみえた。彼女は音のしたほうへゆっくりと、危っかしい足取りで歩きはじめた。何をしようとしているのか、ぼくには全然わからなかった。
「どうしたの?」
 訊いてみても、彼女は答えてくれなかった。ただゆっくりと、歩きつづけた。やがてその足が湖面に触れても彼女は歩き続けた。靴がびしょ濡れになっても、歩きやめなかった。腰まで水に漬かったところで、ようやくぼくはおかしいと思いはじめた。
「ちょっと! ねえ、溺れちゃうよ!」
 ぼくは叫んだけれど、彼女は歩きやめてくれなかった。振り返ってもくれなかった。そのくせぼくはずっと、うずくまったままだった。ぼくの心はきいきいと軋みっぱなしだった。音に驚いて小鳥があわてて飛び去ったほどだ。
 彼女はどんどん歩いた。波紋がずっと遠くの湖面にまで届いた。彼女の身体はやがて完全に沈み、最後に残っていた頭もとぷりと音をたてて、消えた。
 風が吹いた。湖面にさざ波が散った。ぼくは自分の見たものが信じられなかった。ぼくは彼女が笑って、すぐに戻ってくると思っていた。でも、彼女は戻ってこなかった。風が凪いで、湖面が真っ平らな板みたいになっても、彼女は戻ってこなかった。
「え……?」
 ぼくの語彙じゃとても説明できない恐怖に襲われた。叫んだ。身体中で叫んだ。地面を何度も掻き毟った。指が千切れてもおかしくなかった。喉が潰れてもおかしくなかった。それでも叫んだ。動いた。走った。
 音に気付いたとき、ぼくはもう湖のなかにいた。目の前ににやりと笑う彼女の顔があった気がするのだけど、よく覚えていない。とにかく彼女の身体を抱きしめて、重い身体を必死で湖の上まで持ちあげた。
「なに考えてるんだよ!」
 必死で浅瀬まで辿りつくやいなやぼくは叫んだ。彼女はにやっと笑って答えた。
「言ったでしょう? 『いつ死んでもいいと思っていれば、結構どうにかなるものよ』って」
「無茶だよ……」
「でも、動けたじゃない」
 そう言われて、びっくりした。ようやくぼく自身、自分が動いたということに気付いた。
「ほんとだ」
「ね。意外となんとかなるものよ」

187遺された紀憶(6)-3 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:16:45
 ぼくはすっかり感心してしまって、自分の身体をあちこち動かして眺めてみた。本当に、どこも異常なく動いていた。
「でもよく考えると不思議だな。どうして今までは動けなかったんだろう」
 その言葉を聞くと、彼女は暗い表情になった。
「それはきっと、呪いよ」
「呪い? 父さんって、呪術師かなにかだったの?」
 彼女は悲しげに首を振った。
「人間には……いえ、全ての心持つ者には、呪い、呪われる定めがあるのよ。それは悲しくて、寂しいことだけれど、不幸せではないんだと思う」
「え? ……よく、わからないよ」
「たぶん、いつか、わかる日が来るわよ」
 彼女は今にも泣きそうにみえて、ぼくは不安でたまらなくなって、どうしていいかわからなくて、だから、ただ手を引いて、彼女を岸まで連れていった。ふたりともすっかりびしょ濡れだった。
「いやー濡れちゃったね」
 まだ少し空元気みたいな笑いかたをしながら、彼女は濡れた服に構わずローブを着込んだ。彼女のまわりで搖れるローブは改めて見るとずいぶんと重たそうにかさ張っていた。
「気になる?」
 ぼくが見詰めているのに気付いたのか、彼女はいたずらっぽい笑い方をした。ぼくはなんだか恥ずかしい気分になって、何も言えなかった。
「このなかにはね、わたしの宝物が仕舞ってあるの」
「大事にしてるんだ」
「うん。わたしが狂っていた証、わたしが掛けて掛けられた呪いの証。今でも着てるってのは偽善なのか贖罪なのか愛なのか、自分でもよくわからないんだけどね。ただ、大切なもの」
 彼女はそっとローブを撫でた。ぼくはどうしてか「ずるいな」と思ってしまった。それが彼女に対してなのかローブの中身に対してなのかもわからないけれど。たぶん、両方へだったんだと思う。彼女の気持ちも考えずにそんなことを思うのは非道で卑怯なことだとはわかっていたけれど、そう思わずにはいられなかった。そこにはぼくに足りていないものがある気がした。今のぼくには、明確にはわからないけれど。
 考えていたら、彼女がそっとぼくの手をとった。
「動けるようになったところで……どう?」
「え……そうだね、動くってのも、なかなか慣れない感じだよ」
「そうじゃなくて、わたしの家へ。どう?」
 ぼくははっとした。きっと馬鹿みたいな笑顔を浮かべていたと思う。
「それはもう、喜んで!」
 旅路はなかなかに長かったけれど、退屈はしなかった。これからはずっと彼女と居られるってことが嬉しくて、それ以前にただ彼女と話をしているだけのことがどうしようもなく楽しくて、時間なんてあっという間だった。月がてっぺんに来るころにはどうにか目的地に辿りついた。本当はもっともっと時間がかかるらしいんだけれど、彼女の姉妹が作った扉のおかげでかなりの行程を短縮できるとのことだった。
 今ぼくは、彼女の部屋の隣にある一室をあてがわれて、この日記を書いている。こんな気分になるのは生まれてこのかた初めてだ。たぶんこれが、本当の幸せというものなんだろう。すっかり目が冴えてしまって、全然眠れる気がしない。とりあえず今日の分の紀憶はここで止めておくことにするけれど、もうしばらくは起きていると思う。
 明日も良い日でありますように!


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