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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人と法華経 】

25美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/02/29(月) 21:55:45

 次に、権大乗の菩薩の成仏不可能なる事を論じられる下りは、この断常の二見を以て、展開されて行くのである。権大乗経は、心生の十界を論ずるけれども、
 心具の十界を説かないので、次の様な結果を招く。すなわち、菩薩から仏に成ろうとすれば、「九界の色心を断尽して仏界の一理に進む」事になる。九界の
 色心を断尽するとは、見思、塵沙、無明の三惑を断ずる事であり、その結果として変易の土を離脱して、常寂光土に生ずるのである。この考え方に対して、
 日蓮大聖人は仏界に至るには、九界の色心を滅しなければならないとするのは、断見に囚われた見方であり逆に九界と切り離された、仏界のみが到達すべき
 境智と捉えているが故に、仏界の常見に堕していると、見事に心生十界論の矛盾をつかれている。「九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに
 非ずや」と述べられている様に、まず九界の色心が常住なる事を明かされている。二乗にしても、権大乗経の菩薩にしても、共に心生論に導かれているが故に、
 九界の色心を断滅して仏界に昇るとの思想を払拭出来ない。ここに、大きな迷いがあるとの日蓮大聖人の断定が、由来するのである。

 「一代聖教大意」で「法華経已前の諸経は十界互具を明かさざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う・・・・、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には
 成ると談ず・・・・・、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く」(P.403 ⑨)と説かれた“厭離断九の仏”
 (九界を厭離して以て仏乗を求めんとする権法)について、本抄では何故に爾前権教では、厭離断九にならざるを得ないかを、論証された言えるのであろうか。
 この第三重の難最後に述べられた、「本門の観心の時は是れ実義に非ず一応許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く
 六道の流転を出ず可からず」との言は、爾前・迹門の二乗・菩薩は本門寿量品の如来久遠に迷い、事の一念三千を知らないが故に結局見思惑も断ずる事が
 出来ず、永久に六道流転の境涯を離脱出来ないとの大聖人の結論である。既に第一の問答で、寿量品の文証を以て爾前・迹門の二乗・菩薩が、未断見思の類で
 あると暗示された事柄が、ここでははっきり“如来久遠の本に迷い、一念三千を知らず”と、明らかな内容を以て説かれている。

  さて、日蓮大聖人が、天台教学をも超越して独創的な思想を開かれるのは、「第四重の難に云く」として述べられた、御書全集の約四頁(P.420〜423)に
 渡る個所であろう。ここには、後の「開目抄」で明らかにされる本迹相対は勿論の事、種脱相対の観点も不分明ながらも織り込まれ、大聖人の悟りの深さと
 広さを、窺い知るに十全な思想内容が展開されている。まず「法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取って掌中の捧ぐるが如し、所以は
 如何迹門の大教起これば爾前の大教亡じ・本門の大教起これば迹門爾前亡じ・観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず此は是如来所説の聖教・従浅至深して
 次第に迷を転ずるなり」とある。有名な四重興廃の原理である。この文で特徴的なのは「観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず」と、本門と観心との勝劣を
 立て分けられている点であろう。

26美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/03/06(日) 22:19:49

 第三重の難に於いては、「法華本門並に観心の智慧」と並列して書かれていたのが、ここでは観心が勝れ本門が劣るとされている。日蓮大聖人が胸中に抱いて
 おられた、本来の思想を“従浅至深”して、打ち出してこられる。余りにも鮮やかな展開に、驚かない者があろうか。思うに、日蓮大聖人の著作は単に理論の
 一貫性のみを、追究されたものではない。むしろ、論理を駆使される躍動する生命の回転が、著作の端々に溢れ出て、その自在の展開に、これを拝読する我々は
 思わず引き込まれるのである。本抄に於ける、めくるめく生命の回転を伴った論の発展も、又その好例の一つなのである。かなりの速度を以て、従浅至深して
 きた本抄の論の運びは、いよいよその結論に向かう。

  すなわち、法華本門の文底観心の立場に立たれて、十界互具論に関する日蓮大聖人の、独創的な地平が開かれるのである。まず、その前提として、法華迹門に
 説かれた十界互具論の説明が為される。
 「然るに今法華方便品に『衆生して仏知見を開かしめんと欲す』と説き給う爾の時八機並みに悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り互に五眼を具し一界に十界を
  具し十界に百界を具せり・・・・真実に証する時は一衆生即十衆生・十衆生即一衆生なり、若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ず可からず是くの如く
  説くと雖も【迹門は但九界の情を改め十界互具を明かす故に即ち円仏と成るなり】」(【】は傍点の代わり。傍点は筆者)とある。

 二乗が見思を断じて六道を出離すると言う事は、一衆生即十衆生を説く十界互具論から言えば、二乗の心に具される六界の見思を断ずる事に他ならない。爾前は
 互具論を説かない故に、二乗は見思を断ずる事も、六道を出離する事も出来ないとの意が裏に隠されている。この事は、菩薩の成仏についても、同じである。
 「然れども菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり、衆生無辺誓願度も満せず二乗の沈空尽滅は即ち是菩薩の沈空尽滅なり凡夫六道を
  出でざれば二乗も六道を出ず可からず」とある通りである。十界互具論を説かぬ爾前教では、凡夫はもちろん、二乗も菩薩も六道を出離する事は出来ないと、
 それまでの問答に終止符を打たれているのである。

27美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/03/13(日) 20:32:55

  さて、問題は次の一文である。
 「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ
  免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・
  色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、
  故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり」と。

 ここには十界互具論に関する、本迹勝劣が明かされている。更には種脱相対をも、その文底に隠されている事が窺える。ともかく、この文は、それ以前の
 文中で暗に示されてきた、法華本門中心の思想を真正面から採り上げられて、日蓮大聖人の胸中にある本来の境地を表現されたものである。念のために、
 この文に至るまでに暗示された本門思想を挙げれば、第一の問答では、本門寿量品の「一切世間、天人及阿修羅・・・・」の文が掲げられている。第二の問答では
 「但し爾前の諸経に二事を説かず実の円仏無く又久遠実成を説かず」とあり、第三の問答では「法華本門並に観心の智慧を起さざれば円仏と成らず」の文があり、
 また「本門観心の時は是実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず」と説かれて
 いる。“第四重の難”では「法華本門の観心の意」を以て、一代聖教を見れば四重興廃が成立し、観心の大教と本門の大教との勝劣を明かされている。

 これらの暗示された「法華本門」や「観心」なる言葉は、正に散説されているに過ぎず、具体的内容や何故に本門並びに観心を重視するかについては、全く説明
 されていない。それらの一切が、この文で解答されるのである。一挙にその全貌を明らかにする様な感がある。その意味では、この文は本抄の結論であり、
 同時に以後の「開目抄」「本尊抄」へと引き継がれつつ、思想的な深化を遂げていく重要なテ-マを包含しているのである。

28美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/03/20(日) 22:41:09

                                【生命の永遠性という視点】

  さて、いよいよ、この文の思想内容に迫っていこう。予め言える事は、前から何度も述べてきた如く、此の文の孕む思想が天台の哲理を超え、日蓮大聖人の
 悟りから発する独創的な地点に立たれている事である。では、如何なる点で天台教学を超えられたのであろうか。それは、一言で言えば無始無終の長時間的
 視点、もう少し分かり易く言えば、生命の永遠性という一点なのである。既に日蓮大聖人は、建長七年作の「諸宗問答抄」に於いて「我等・一切衆生・螻蟻
 蟁蝱等に至るまでみな無始無終の色心なり、衆生に於いて有始有終と思ふは外道の僻見なり」(P.382 ⑥)と述べられている。これを、大聖人の宇宙と生命の
 根源についての悟りとの関連で捉えれば、その悟りの一端を“無始無終の色心”と表現されたと言えるであろう。

 日蓮大聖人が法華経を媒介にされつつ、その悟りを一層明瞭化されていく過程に於いて、法華経迹門より本門へ、本門より文底観心へと次第に深化されて
 いったであろう事は、我々としても容易に肯ける問題である。いや、もっと正確に言えば、最初から法華本門に焦点を当てられ、遂には本門文底に末法独一
 本門を、樹立されたと言った方が良いであろう。ともかく、宇宙と生命の根源について、最初の電撃的な悟りを体験された日蓮大聖人は、妙法=十界互具=
 一念三千を、仏教最高の経典たる法華経並びに天台の哲理より抽出され、仏教究極の原理であると決定された事は既に述べた。

  宇宙と生命の根源と言う時、それは空間的には無間の宇宙を貫き、時間的には永劫の無始より未来永遠に亘って、常住し続ける当体でなければならない。
 「生命」と言う時、それは我々の日常的な時・空間の感覚では捉え難いものであるからである。この前提を以て、妙法=十界互具=一念三千の等式を捉える時、
 そこに天台の哲理とは決定的な相違が、浮かび上がってくるのである。その相違を明らかにする意味からも、この文について検討を加えていきたい。この文で
 注目すべきは、「始覚の十界互具」と「本覚本有の十界互具」という立て分けであろう。言うまでもなく、迹門が始覚の十界互具を説き、本門が本覚本有の
 十界互具を説いているのである。

29美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/03/21(月) 21:34:09

 始覚とは、始成正覚(始めて正覚を成ず)の意味である。“始めて”に意義が込められていて、今生に於いて衆生凡夫の立場から菩提心を発(発心)し、仏道
 修行を積み重ねながら次第に煩悩・迷いを克服して、その結果、始めて正覚の悟りを成就していく事を言うのです。法華経迹門では、仏は伽耶城菩提樹下に
 於いて始めて正覚を成就した仏であるから始覚なのである。その仏が、方便品では諸法実相・十如是、並びに開示悟入の四仏知見を説いて、十界が互具する
 という革命的な原理を説くのであるが、説法の主体者たる仏が始覚であるが故に“始覚の十界互具”と、大聖人は述べられているのである。周知の如く迹門に
 於いては、十界互具を衆生の立場に当て嵌めて、九界の衆生に仏知見(仏性・仏界)を具足する事を、明かす九界即仏界に焦点が当てられていた。

  法華経迹門正宗分とされる方便品より人記品に至る八品は、二乗を対告衆に其の成仏の可能性を未来得作仏として、示した事は周知のところであろう。二乗を
 対告衆としたのは、二乗作仏こそ取りも直さず九界の衆生が、成仏しうるか否かの分岐点であったからである。それは、前回に挙げた「守護国家論」の文意を
 見ても明らかであろう。更に、迹門流通分の提婆達多品では、悪逆の提婆、畜生の竜女の授記作仏、すなわち悪人・女人の成仏の可能性が説かれ、勧持品では
 摩詞波邪波提比丘尼、耶輸陀羅比丘尼の授記を説いて、重ねて女人成仏の保証をしている。これは要するに、二乗を代表して九界の衆生がそれぞれ自身、
 仏界を具すという原理を授記の形を借りて、表明したのが迹門十四品の根本思想なのである。

 中でも、方便品の次の説法は、迹門の思想を貫く確信であり、骨髄とも言うべきであろう。
 「舎利弗当に知るべし 我本誓願を立てて 一切衆生をして 我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき 我が昔の所願の如き 今者は已に満足しぬ 
  一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ」
 すなわち、一切衆生を自らと等しくして、異なる事無き様にする ── それが釈尊の誓願であり、そしてこの願いが今満足したとの表明である。仏が一切衆生を、
 仏自らと等しい境地に引き揚げる事が、仏の昔からの誓願であったというのである。

 この「如我等無異・如我昔所願」の説法は、仏の一大事因縁たる開示悟入の、四仏知見を明かす説法と共に、一切衆生皆成仏道を説く法華経迹門の、核心と
 なるものである事は言うまでもない。これによって、能化の仏も十界互具(従って一念三千)の円仏となり、所化の大衆も円教の衆生となるのである。
 然るに日蓮大聖人は、始覚の説いた十界互具なるが故に、「所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや」と
 厳しく断定されている。その断定の理由として、「当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の
 義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し」と述べられている。

30美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/03/27(日) 20:50:09

  これは一体、何を意味されているのであろうか。
  四教の四仏とは、蔵教・通教・別教・円教(爾前の)を、それぞれ説いた時の釈迦仏の身と位である。蔵教を説く釈迦は、丈六劣応身の仏身、通教の場合は
 劣応身と勝応身、別教の他受用報身、円教の自受用報身の四仏である。従って、四仏は四人の仏ではなく、釈迦一仏が衆生の機根に応じて現わした四種の仏身を
 言うのである。この四仏が法華経を説くに当たって、一大円仏と成ったと、まず言われる。何故なら、それまでの四教の四仏は九界と衆生との間に、超え難い
 断絶を置いていたのであるが、法華経に来たって諸法実相、“如我等無異”や開示悟入の四仏知見の説法により、仏と九界の平等、ひいては十界互具・一念
 三千の円融円満の仏と成ったからである。

 しかし日蓮大聖人は、それも「且く迹門の所談なり」として、限定付きで四仏の円仏化を認められているに過ぎない。それは、当に迹門を説く仏が始覚の域を、
 出ていないからであるとの仰せなのである。既に、“第四重の難”中の文として、先に挙げた文証で、筆者が傍点を付けた個所があった。それはすなわち、
 「迹門は但九界の情を改め十界互具を明かす故に即ち円仏と成るなり」という文である。これは迹門の十界互具が、従って四仏の円仏化が、一往の意味で成立
 する事を、与えて言われたものである。迹門は、少なくとも諸法実相の原理を説いて、九界の間の差別や九界と仏界との、断絶という迷いの情を改めた点で、
 原理的に、理の上で、十界平等互具互融が成り立つとされた文なのである。だが、これはあくまでも与えて言った場合である。

 奪って言えば、迹門は「無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し」となる。この文中に、実に“無始”なる言葉が
 三回も畳み込まれている。日蓮大聖人にとって、如何に“無始”と言う事が大切なキ-・ワ-ドであるかが、この一事を見ても明らかであろう。ここで意味
 されている“無始”とは、文上教相では、寿量品の久遠実成の顕本を指し、文底観心に於いては、久遠元初を指す事は、言うまでもない。では、何故に無始
 本覚ではなく、有始始覚であってはならないのであろうか。ここに重大な意義が存するのである。この疑問を種々なる角度から解きほぐして行く時、大聖人の
 独創的な思想が開かれて来るのである。始覚と本覚の問題については、仏教思想史的には複雑な経過を辿って、中国仏教及び日本仏教に於いて展開されてきた
 のであるが、その点の考察は後日に譲り、あくまで「十法界事」の文脈に沿って、今提示した疑問を少し考えてみよう。

31美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/04/03(日) 20:17:25

                                  【発迹顕本の意義】

  何故に、能化・所化共に始覚であっては、奪って言えば、十界互具にならないのであろうか。始覚の意味については、既に述べた。換言すれば、始覚とは
 現世論の因果であり、現在の時間に制約された因果論である。逆に言えば、寿量品の五百塵点劫顕本がなければ、なぜ十界互具にはならないのかと言う事で
 ある。一つは、説法を聞く衆生の側から見た立場である。迹門で、たとえ九界の衆生に仏界を具足していると説かれても、未来得作仏による授記作仏に
 明らかな如く、未来の時点に於ける成仏を保証したに過ぎず、現在只今、ここに於いて事実の上で成仏したのではない。それ故、九界の衆生にとっては、
 事実に於いて何も変化して、いないわけである。ただ理論的、原理的に、九界の衆生が仏界を具足する事を、明かしたに過ぎない事になる。

 そこで釈尊が、この原理を事実の上で証明する為に、自身が実際に仏果を、成じた体験を語る必要が生じた。釈迦が凡夫から仏に成った体験は二十九歳出家、
 三十五歳成道の始覚の立場に於いて、既に衆生に示しているわけであるが、それだけでは不十分である。なぜなら、釈迦の衆生の立場と言っても、最初から
 王子として生誕し、王侯貴族として成長し、庶民とは隔たった存在である。それ故、この立場から仏に成ったと言っても、衆生から見れば元々庶民とは
 異なった、才覚と力量によって成道し得たと感ずるのみで、全ての衆生が、成仏し得るとの体験的証明としては、説得性が弱いと言えよう。

 ここに、より確実な説得力を持たせるには、始覚の立場ではない別の方法を採る必要があった。それが久遠五百塵点劫に於ける、成道の体験なのである。
 釈尊が久遠五百塵点劫に於いて、九界の代表たる菩薩の道を行じて成仏を果たした事は、寿量品の文に明らかである。それは「然るに我 実に成仏してより
 已来 久遠なること斯くの如し」と、五百塵点劫成道を遂げてより今日まで、仏界の生命が常住であることを明かす文と同時に、「我本 菩薩の道を行じて
 成ぜし所の寿命 今猶未だ尽きず 復上の数の倍せり」とある文である。特に後者の文は、釈尊が本果成道の為に、長期間に渡って菩薩道を行じた事を明言
 している。

32美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/04/06(水) 21:12:38

 つまり、釈迦は長期間に亘り九界の代表たる菩薩道を行じて、仏界に到達したことが分かる。しかも、九界の菩薩の生命も仏界の生命と共に、今日まだ常住して
 いると宣言している所に、釈迦の常住の生命の中に、九界(衆生)も仏界を備えている事を明かしているのである。つまり、釈迦が九界即仏界、仏界即九界の
 生命の当体たる事を述べたのである。以上の説明から明らかな様に、寿量品に於ける発迹顕本があって、初めて事実の上で十界互具が成就する。ここから、迹門を
 「理」、本門を「事」とする立て分けが為されてくるのである。

 今一つは、説法する仏の側から見た立場である。非常に簡単な理由であるが、二乗不作仏、女人不作仏等と衆生の成仏に差別を設けてきた爾前経の教えが、
 迹門に来たって百八十度転回し、二乗作仏、女人成仏等を説いたわけであるから、爾前と迹門の差は衆生にとっては驚天動地の差である。しかし、説法する
 主体の側である仏は、相変わらず始成正覚の姿のままである。仏たる釈迦に於いては、爾前経も迹門も同じなのである。ここに、仏自身の何らかの転回が
 要請されざるを得ない。それが、発迹顕本であったといえよう。その様に捉えれば、迹門の説法自体が本門の転回を、予告するものであったと言えるのである。
 それ故に、迹門で説かれた九界即仏界は、本門の説法があって初めて成就する、と言えるのである。

  第三に時間論から見た立場である。先に述べた様に、始覚とは現世の時間論である。つまり、現在の時間に制約された、因果論である。現在時間に制約される
 とは、我々の生活時間であり日常の時間である。そこに於いては、必ず因果は異時とならざるを得ない。まず因があって、果が出て来るのである。これを、
 迹門の説法に於ける九界即仏界に当て嵌めれば、仏も衆生も共に始覚、すなわち現在時間に束縛された中での出来事に過ぎない。それ故に九界の因は何処まで
 行っても、仏界の果と即には成らないと言える。換言すれば仏界の果は、九界の因より見れば到達すべき地点であり、目標である事に変わりはない。
 その意味では、九界と仏界を断絶するものと説く、爾前の諸経と同じ領域に入ってしまうのである。迹門に於いて用意周到にも、二乗作仏を現わす授記の劫・
 国・名号に於いて、必ず未来に於ける成道に保証の形式を採ったのも、右の事からも肯けるであろう。

33美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/04/10(日) 20:54:54

 九界即仏界を、真実の意味で“即”ならしめる、すなわち因果倶時にするには、どうしても時間の制約を破らなければならない。日常的な時間の制約を破って
 はじめて、先ず因があって後に果が来るという、因果異時を破る事が出来る。ここに、日常時間を打破して永遠の視点を、導入する事が要請されるのである。
 この要請に応えたのが、本門寿量品の久遠実成の説法といえる。五百塵点劫という久遠の過去に立つ時、時間の制約下に置かれていた先因後果の、動かす
 べからざる関係を逆転して、先果後因の関係にも、因即果、果即因の因果倶時の関係にも自在に展開する事が出来る。つまり迹門で説いた十界互具を真実の
 意味で、互具互融ならしめる為には始覚という時間軸を、無始本覚という超時間、永遠性により逆転しなければならない。

 以上、三つの立場からの論を述べたが、そこで明らかになった様に、何れも説法の主体者たる仏の側の問題であると言う事である。その意味で当に“能化”
 なのであって所化たる衆生は、全く受動的にならざるを得ない。当然と言えば当然であるが、意外にもこの一点が、本文の理解にとって不可欠の条件となる。
 爾前権教に於ける九界と仏界との間に断絶を設ける思想も、又それを法華経迹門で十界平等と打ち破った思想も、共に能化たる仏の側から打ち出された、説法
 内容の変化に過ぎない。更に今度は、始成正覚であった仏が、久遠実成を開顕して本覚を表わすのも、仏の側の一方的な宣言である。

  先に述べた様に、迹門は仏の側から衆生に仏界を具足するという、九界即仏界を宣言したものであったが、説く仏自身が始成正覚であった為に、その一事の
 故に「始覚の十界互具」と大聖人は断じられた。元来、断絶と差別のあった九界と仏界とが、迹門で始めて互いに具する事が明らかにされたわけであるから、
 それ自体革命的な説法ではあるが、しかし如何に互具と言っても原理的、理論上の説に過ぎない。その意味では、まだまだ九界と仏界とが相対している、と
 言って良いであろう。「本無今有の失」とは当に、何故に九界に仏界を具すのかという理由や根拠がないまま、偶然的に九界即仏界が宣せられているに過ぎない、
 と言う欠点を有していると言う事である。

34美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/04/17(日) 20:52:19

 ところが、本門の久遠実成の発迹顕本によって、その欠点が除去された、つまり「本覚の十界互具」となったというのである。言い換えれば、「無始の本仏」
 「無始無終の義」「無始・色心常住の義」「本有の大乗菩薩界」と言った迹門には、欠けていた重要な思想が満足されたと言う事になる。この場合、一往“無始”を
 久遠、過去常と言う事にしておこう。なぜなら、にちれんだいしょうにんは、わざわざ“無始”について「但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして
 是過去常に非ざるなり」(P.421 ⑯)と述べられているからである。“無始”の意味する内容として、永遠、超時間という言葉を、これまで何度も使用してきた
 が、未来常住か過去常かについては、それほど注意せずに用いてきた。しかし、ここに於いて大聖人は、はっきりと未来常住ではなく、過去常でなければならない
 と断定されている。

 永遠、つまり日常的時間を突破するという点では、既に方便品で、「是の法は法位に住して世間の相常住なり」との説法がある。だが、これは説く仏が始覚である
 故に、未来の常住を説いたものに過ぎず、その意味では有始無終と言う事になる。涅槃経に於いても、仏性の常住を説くが、この場合も又未来常住に過ぎない。
 更に、一見過去常を思わせる化城喩品の三千塵点劫の説法も、主眼は釈迦が声聞弟子を化導してきた、その始終の因縁を明かす所にあり、説く仏は始成正覚の
 ままである。大聖人の言われる“無始”すなわち“過去常”は、あくまで釈迦自身の始成正覚を打ち破って、久遠の過去へと遡り、その上に立っての永遠性で
 なければならない。過去常があって未来常住が言われねばならない。それであって、初めて無始無終と言えるのである。さて、「無始無終の義」は仏界常住の
 義であり、「無始・色心常住の義」は九界の衆生が常住であると言うことである。

35美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/04/20(水) 22:13:13

  結局、本門に入って仏界も九界も、すなわち十界が同時に常住となり、その上で十界互具を説いたので「本覚の本有の十界互具」と言われたのである。
 ここにも、仏の発迹顕本、即ち過去常の開顕による仏界常住の義が宣せられて、その結果として九界の衆生も常住となり、更には国土世間も常住の寂光土と成る
 と言う、大聖人独自の思想がはっきりと表われている。先程の第一の立場で明らかにした様に、寿量品は常住の仏界に常住の九界を具す、仏界即九界の側面
 を明らかにしたものである。当に、日蓮大聖人の法華経を捉える視点は、一貫して本門で明かされる常住の生命に焦点が当てられている。

 そう思って、「一代聖教大意」に於ける十界互具論を見直してみると。仏界に九界を具する仏界即九界の側面を、強調されていたことが分かる。本稿でも、幾度か
 引用した爾前権教の“厭離断九の仏”を破する文証の中で、「【九界を仏界に】具せざるが故に」「【凡夫の身を仏に】具すと云わざるが故に」(【】は傍点の
 代わり。傍点は筆者)「仏の身に九界が本よりありて」「実には九界を離れたる仏無き故に」等々と、仏界中心の論を展開されている。大聖人の首尾一貫した論の、
 発展を思うべきであろう。それ故、妙法=十界互具=一念三千も、全て無始無終の十界互具の生命を、起点として展開されて行くのである。妙法も、寿量品に
 開顕された常住の仏界の生命の、不可思議な力用を表わす言葉となり、十界互具論も常住の仏界の生命に、具足される常住の九界を意味し、一念三千も常住の
 仏界の一念に具される三千、となる。

  迹門を基軸に論を展開した天台教学は、妙法を哲学的に捉え、十界論は九界の衆生に仏界を具する側面に傾き、一念三千論も衆生の一念に具される三千を
 強調する。総じて天台哲学は、九界の因より仏界の果を望む従因至果の法門となるのに対し、日蓮大聖人の仏法は、常住の仏界から逆に九界の因に働きかけ、
 これを救い取って行く従果向因の法門となるのである。更に言えば、共に内在即超越、超越即内在を共通にしつつも、天台教学が九界の衆生の因に内在する
 仏界の果を、止観行という禅定の修行によって内観し、仏果に到達した瞬間に九界を超越しようとする、内在から超越を志向するのに対し、日蓮大聖人の
 仏法は、超越的な常住の仏界の果に具する九界という、仏界即九界の本源的な生命の力用を、九界の衆生の因の中に内在せんとして、超越から内在を志向する
 のである。ここに、御本尊の建立が要請されてくる、必然性が存するのである。

36美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/05/04(水) 20:58:11

                                  【文底の意味するもの】

  これまで「十法界事」を中心としつつ、かなりのスペ-スを費やして、日蓮大聖人の十界互具論の本質に迫ってきたが、本抄で示された基本論調は、そのまま
 以後の著述に、引き継がれていくのである。文永九年に著された人本尊開顕の重書「開目抄」では、「十法界事」のテ-マが一段と深化され、明瞭なる文底観心の
 立場から、より鮮明に説かれていく。まず、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいだ
 さず但我が天台智者のみこれをいだけり。一念三千は十界互具よりことはじまれり」(P.189 ②)と、文底観心の立場より、種脱相対を明かされる。すなわち
 一念三千法門は、法華本門寿量文底の南無妙法蓮華経に、包み込まれているというのである。ここで“文の底にしづめたり”との表現に、重大な意義が込められて
 いる。なぜ“文の底”と言われたか。

 元来、一念三千の法門は天台大師が、法華迹門の諸法実相・十如是や二乗作仏の思想をもとに、天台観心の立場によって構築したものであるが故、迹門を表にした
 法門である。その一念三千の法門が、法華本門寿量品の文底に秘沈されている、と言われたのは何故か。ここに於いて、先程「十法界事」で検討した、日蓮大聖人
 独自の十界互具論即一念三千論が、重要な意味を持ってくるのである。すなわち、久遠を開顕した常住の仏界の生命に具す九界であり、久遠仏の一念に具足される
 三千が、日蓮大聖人の十界互具、一念三千であるとすれば、当然、大聖人の捉えられる一念三千が、発迹顕本を説く本門寿量品に、求められて行くのは必然で
 あろう。しかし、寿量品の発迹顕本そのものが、一念三千の法門を表わしていない為、教相にこれを求めるわけにはいかない。発迹顕本した久遠仏の、常住の
 生命に具足されるものだからである。それ故に“文の底にしづめたり”と、言われたのである。

37美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/05/15(日) 22:17:12

  更に日寛上人は、法華寿量の文底に南無妙法蓮華経が、秘沈されていると言う日蓮大聖人の元意を追究し、見事な論を展開された。日寛上人は寿量品に説き
 明かされた本因、本果、本国土の三妙合論の文は、未だ真実の意味の十界互具、一念三千を成就していないとの観点に立たれている。すなわち久遠五百塵点劫に
 於いて、長期間にわたる菩薩道を行じて仏果を得たというのが、寿量品の本因・本果である。言い換えれば九界の本因の後に、仏界の本果に到達した事になる。
 確かに釈迦が仏果を得てからは、九界も仏界も共に釈迦の生命に具備されて常住を明かし、仏界即九界、九界即仏界の妙なる生命の実在を明らかにしてはいる。

 しかし、厳密に言えばこの場合の常住は、一種の“有始無終”となり、真実の無始無終ではない。なぜなら、釈迦が仏果を得る前に、長期間の菩薩道を行じた
 事を述べ、九界から仏界に至るという始覚性を残しているからである。その意味では始成正覚の在り方を、五百塵点劫という久遠の昔に、移したに過ぎない
 結果に陥っている。ただ久遠の開顕という超時間、永遠性は、釈迦が仏果を得てからの仏界即九界、九界即仏界の妙なる生命の実在を、明かす上での根拠に
 なっている。問題は、始覚性を如何にして払拭するかである。そこに見出されたのが、久遠の釈迦を本因所住に於いて不退転に登らせ、成仏せしめた根源の法
 =南無妙法蓮華経であった。

 日寛上人は、その久遠仏を仏たらしめた能生の根源の法こそが、事の一念三千即南無妙法蓮華経であり、この法を久遠元初以来所持された末法の御本仏こそ、
 日蓮大聖人であると断定された。ここに、日蓮大聖人が胸中深く抱かれた本意が、明らかとなったのである。日寛上人より開かれた、究極の思想によれば、
 結局、寿量品開顕の久遠仏とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の御生命になる。従って久遠仏の一念に具された三千とは、久遠元初自受用報身如来
 即日蓮大聖人の、一念の心法に具された三千となり、それはすなわち、妙法=南無妙法蓮華経と表わされる。ここに、自受用身(人)即事の一念三千(法)の
 人法一箇の、久遠元初仏の生命が明々了々となるのである。日蓮大聖人が御図顕に成られた御本尊の相貌こそ、大聖人御内証の御生命たる一念三千の当体なのである。

38美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/05/20(金) 22:13:33

  更に「開目抄」には、次の如き重要な一文がある。
 「華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を
  開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の
  心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千も
  あらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮かべるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、
  四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり、九界も無始の
  仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(P.197 ⑩)

 かなり長くなったが、重大な思想内容が織り込まれているので、あえて引用させて頂いた。ほぼ「十法界事」に於けるテ-マと重なる内容であるが、本文の
 後半部分の展開は、日蓮大聖人の末法独一本門の独創性を示して余す所がない。「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば
 四教の因やぶれぬ」との文は、先の「十法界事」の“始覚の十界互具”であっては何故に、日蓮大聖人の所謂“真実の十界互具”にならないかという、
 その理由を簡潔に述べられている。迹門の始成正覚の仏は、爾前の蔵・通・別・円の四教を説いた仏と同じ始成の仏果である。それ故、本門寿量品に於いて、
 始覚を発って久遠の本果を開顕したと言う事は、四教の仏の果を打ち破り、否定した事になる。四教の仏果が否定された事は、同時にその仏果を得る為の、
 九界の修行因(仏因)を破った事になる。それ故、次に「爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり」
 と述べられたのである。

 九界を因とし、仏界を果とする十界の因果は、爾前・迹門に於いては、無常始覚の故に否定された。本門寿量品に於いては、無始常住の九界の因と無始常住の
 仏界の果との因果を説き顕わしたのである。「十法界事」における「本有の十界互具」を、ここではこの様に表現されたのである。
 また、“本因本果の法門”とは、始成の仏果と九界の仏因とは異なり、仏界も九界も共に本有常住の因果である事を示されている。先に述べた時間論の視点で
 言えば、始覚の現在時間では因と果が異時にならざるを得ない所を、久遠本有常住の超時間によって、倶時ならしめるのが本因本果の法門といえよう。
 この様にして超時間、永遠性によって成立する因果倶時とは、久遠仏の生命の不可思議性に他ならない。

40美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/05/22(日) 21:03:23

 それ故に、更に「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」と述べられたのである。無始本有の
 因の九界は、無始本有の果の仏界に具わり、無始本有の仏界は無始本有の因の九界に備わってこそ、真実の十界互具・百界千如・一念三千になるとの仰せで
 あり、正に久遠仏の十界互具の生命そのものなのである。ここを日寛上人の思想によって読む時、久遠元初の自受用報身如来の生命になり、同時に南無妙
 法蓮華経の一法になる事は言うまでもない。「当体義抄」に於いて「至理は名無し聖人理に観じて万物に名を付けくる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り
 之を名けて妙法蓮華経と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(P.513 ④)
 この中で、因果倶時・不思議の一法である南無妙法蓮華経を修行する者が、「仏因・仏果・同時に之を得る」と言われている点が、重要である様に思う。
 仏因(九界)も仏果(仏界)も因果倶時で、法で言えば南無妙法蓮華経の妙法そのものであり、人で言えば久遠元初の自受用報身如来の生命そのものであるが
 故に、その妙法を修行する、すなわち妙法を唱えれば唱うる主体の生命が妙法則久遠元初の生命となると言う事である。

  ここで整理をかねて、今一度之までの論述を振り返ってみると、迹門では九界の衆生に始覚の仏界を具すと、理的に九界即仏界の十界互具が説かれた。
 本門寿量品の発迹顕本、久遠実成開顕によって始覚の仏界が否定された事になり、その必然の結果として、能具の九界の衆生(因)も否定された。こうして、
 迹門の九界即仏界を否定し去った後に、今度は本有常住の仏界に本有常住の九界を具足する、常住の仏界即九界が成り立ってくる。もちろん、常住の九界即
 仏界も、成立するのは当然である。これすなわち、久遠仏の生命そのものの相貌である。更に文底観心から言えば、久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の
 御生命そのものであり、同時に南無妙法蓮華経の一法となる。この人法一箇の当体を、日蓮大聖人は御本尊として図顕され、「末代幼稚の頸にかけさしめ給う」
 たのである。この御本尊に妙法と唱うれば、唱うる者の生命に南無妙法蓮華経即久遠元初仏の、常住の仏界即九界、九界即仏界の大生命が感応妙で涌現して
 くるのである。その時、無始の九界に仏界を具し、無始の仏界に九界を具す、真実の十界互具・百界千如・一念三千の当体として蘇生する。

  さて、南無妙法蓮華経即久遠元初仏の生命こそ、宇宙と生命の根源であり、人間を含めた宇宙森羅万象を貫いて躍動する力用に他ならない。宇宙と生命の
 根源についての最初の日蓮大聖人の悟りが、法華経と天台の一念三千説を媒介にしつつ、深化発展し法華経迹門を超えて遂に、法華本門寿量品の文底に南無妙
 法蓮華経即久遠元初仏の大生命を樹立されるに及んで、その究極の境地に達せられたのである。そして、究極の悟りの境地を御本尊として図顕され、三大秘法
 具足の一閻浮提の大仏法が、ここに打ち立てられた。

  本稿は、ひとまずここで打ち切りたい。
  残る今一つの重書“観心本尊抄”の検討、並びに妙法の題目についても、まだまだ考察すべき事柄が多いが、それらについては、後日を期したい。


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