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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人と法華経 】

32美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/04/06(水) 21:12:38

 つまり、釈迦は長期間に亘り九界の代表たる菩薩道を行じて、仏界に到達したことが分かる。しかも、九界の菩薩の生命も仏界の生命と共に、今日まだ常住して
 いると宣言している所に、釈迦の常住の生命の中に、九界(衆生)も仏界を備えている事を明かしているのである。つまり、釈迦が九界即仏界、仏界即九界の
 生命の当体たる事を述べたのである。以上の説明から明らかな様に、寿量品に於ける発迹顕本があって、初めて事実の上で十界互具が成就する。ここから、迹門を
 「理」、本門を「事」とする立て分けが為されてくるのである。

 今一つは、説法する仏の側から見た立場である。非常に簡単な理由であるが、二乗不作仏、女人不作仏等と衆生の成仏に差別を設けてきた爾前経の教えが、
 迹門に来たって百八十度転回し、二乗作仏、女人成仏等を説いたわけであるから、爾前と迹門の差は衆生にとっては驚天動地の差である。しかし、説法する
 主体の側である仏は、相変わらず始成正覚の姿のままである。仏たる釈迦に於いては、爾前経も迹門も同じなのである。ここに、仏自身の何らかの転回が
 要請されざるを得ない。それが、発迹顕本であったといえよう。その様に捉えれば、迹門の説法自体が本門の転回を、予告するものであったと言えるのである。
 それ故に、迹門で説かれた九界即仏界は、本門の説法があって初めて成就する、と言えるのである。

  第三に時間論から見た立場である。先に述べた様に、始覚とは現世の時間論である。つまり、現在の時間に制約された、因果論である。現在時間に制約される
 とは、我々の生活時間であり日常の時間である。そこに於いては、必ず因果は異時とならざるを得ない。まず因があって、果が出て来るのである。これを、
 迹門の説法に於ける九界即仏界に当て嵌めれば、仏も衆生も共に始覚、すなわち現在時間に束縛された中での出来事に過ぎない。それ故に九界の因は何処まで
 行っても、仏界の果と即には成らないと言える。換言すれば仏界の果は、九界の因より見れば到達すべき地点であり、目標である事に変わりはない。
 その意味では、九界と仏界を断絶するものと説く、爾前の諸経と同じ領域に入ってしまうのである。迹門に於いて用意周到にも、二乗作仏を現わす授記の劫・
 国・名号に於いて、必ず未来に於ける成道に保証の形式を採ったのも、右の事からも肯けるであろう。


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