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仏教大学講座講義集に学ぶ 【 日蓮大聖人と法華経 】
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:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/02/29(月) 21:55:45
次に、権大乗の菩薩の成仏不可能なる事を論じられる下りは、この断常の二見を以て、展開されて行くのである。権大乗経は、心生の十界を論ずるけれども、
心具の十界を説かないので、次の様な結果を招く。すなわち、菩薩から仏に成ろうとすれば、「九界の色心を断尽して仏界の一理に進む」事になる。九界の
色心を断尽するとは、見思、塵沙、無明の三惑を断ずる事であり、その結果として変易の土を離脱して、常寂光土に生ずるのである。この考え方に対して、
日蓮大聖人は仏界に至るには、九界の色心を滅しなければならないとするのは、断見に囚われた見方であり逆に九界と切り離された、仏界のみが到達すべき
境智と捉えているが故に、仏界の常見に堕していると、見事に心生十界論の矛盾をつかれている。「九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに
非ずや」と述べられている様に、まず九界の色心が常住なる事を明かされている。二乗にしても、権大乗経の菩薩にしても、共に心生論に導かれているが故に、
九界の色心を断滅して仏界に昇るとの思想を払拭出来ない。ここに、大きな迷いがあるとの日蓮大聖人の断定が、由来するのである。
「一代聖教大意」で「法華経已前の諸経は十界互具を明かさざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う・・・・、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には
成ると談ず・・・・・、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く」(P.403 ⑨)と説かれた“厭離断九の仏”
(九界を厭離して以て仏乗を求めんとする権法)について、本抄では何故に爾前権教では、厭離断九にならざるを得ないかを、論証された言えるのであろうか。
この第三重の難最後に述べられた、「本門の観心の時は是れ実義に非ず一応許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く
六道の流転を出ず可からず」との言は、爾前・迹門の二乗・菩薩は本門寿量品の如来久遠に迷い、事の一念三千を知らないが故に結局見思惑も断ずる事が
出来ず、永久に六道流転の境涯を離脱出来ないとの大聖人の結論である。既に第一の問答で、寿量品の文証を以て爾前・迹門の二乗・菩薩が、未断見思の類で
あると暗示された事柄が、ここでははっきり“如来久遠の本に迷い、一念三千を知らず”と、明らかな内容を以て説かれている。
さて、日蓮大聖人が、天台教学をも超越して独創的な思想を開かれるのは、「第四重の難に云く」として述べられた、御書全集の約四頁(P.420〜423)に
渡る個所であろう。ここには、後の「開目抄」で明らかにされる本迹相対は勿論の事、種脱相対の観点も不分明ながらも織り込まれ、大聖人の悟りの深さと
広さを、窺い知るに十全な思想内容が展開されている。まず「法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取って掌中の捧ぐるが如し、所以は
如何迹門の大教起これば爾前の大教亡じ・本門の大教起これば迹門爾前亡じ・観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず此は是如来所説の聖教・従浅至深して
次第に迷を転ずるなり」とある。有名な四重興廃の原理である。この文で特徴的なのは「観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず」と、本門と観心との勝劣を
立て分けられている点であろう。
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