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メモ

1メモ:2011/02/17(木) 16:52:40
メモ

86天才tinko:2011/06/28(火) 19:25:31
>>83
一人称が安定しないのは、たしかどっかのスレで自分で自分にツッコミをいれてたし、オレも気になってたんだ
だから「オレが思うに、オレの・・」って統一しようと思ったけど、自分の中で統一したら違和感があったから、やめた。

たぶんそれは、自分で自分を見ている、メタ認知している自分と、そうでない自分に見られている自分で一人称を変えてたんだと思う。感覚的に。
なんとなく、見られているがわの自分はオレ
見ている側の自分はぼく、のようなニュアンスがオレの中であった。

まぁ、さすがにこんな事はオレが説明しなきゃわかんない事なんで、わかれとは言わないけどw
一人称が安定しない理由は、こういう理由でしたよ、と

87天才tinko:2011/06/28(火) 19:48:20
>>83

節目って表現を使ったのは、オレの中で言語と非言語コミュニケーションのサイクルのようなものを感じているから。
ある節で区切れる、フレームっていうとちょっと専門的な言葉すぎるんだけど、
そういう一連の言葉の枠組みがあるわけ。それは必ずしも一文や段落では区切れない、意味や目線や感情の切り替えを示唆する枠組みがあるわけ。
そういった一連の言葉の枠組みに対して、その枠組を認識しようとするメタレベルでの認識が、非言語コミュニケーションを感じさせるんだと思う。

一連の言動のセットと、それに対するメタレベルの認識で成り立つ態度というもの。
これは、一言、あるいは一文ごとに、態度を認識できるものではなく、
もっと大きな文脈としての言葉の枠組みに対して、その言葉の枠組みの特徴を抽出したものから感じられるメタレベルの認識で感じられる態度。
これがオレの感じる、言語と非言語コミュニケーションのサイクルのようなもの。

これら、1つ1つの言葉の枠組みが節的であり、
その節から態度を感じ取るタイミングがオレにとっての節目なんだ。
だから節目という表現を使った。
単純な「ポイント」や「弱点」のような意味合いは、点的な捉え方でしょ。
節目は「節」という線的な点の集まりという枠組みを示唆する目線が必要だった、って事。


誤字脱字はひどいですw
語義も、そこまで厳密な意味では使っていない。学術的な何かではないし。
言葉を抽象的に捉えてもらって、そこから同じ特徴を感じ取ってもらえればそれでいいと思ってるが
分からない所や、実際に「その語義は違う」って所があれば、指摘してくれれば、そのつど対応はするよ。
あくまでオレが思いついたメモなんで、1つ1つ語義を確かめて書きこむ労力は使えない。



ハウツーに対しては、細かい語義はしらないw
ただ、ハウツーは「こういう場合には、こうやるといいよ!」って1つ1つやり方を教えてる本、みたいに思ってる
そういう、1つ1つ手取り足取り相手をサポートする本の”ように”、一問一答で喧嘩相手をリードしたほうがいいのかな?という意味合いの言葉なので
意味はおかしくないと思う。

小説については、文体についてもジャンルについても言及していないし、言及する必要はない。
ただ一般論として「小説は、言葉の使い方を大事にする事で、雰囲気を表現する」みたいな理解はあるわけじゃん。
これは厳密には間違ってるのかもしれないけど、少なくともオレの中では長文にしないと綿密な味わいは表現するのが難しい、と思ってるわけ。
ただでさえ、小難しい議題とかに2,3この指摘を同時進行で書き連ねると長文になっちゃうのに、
ソレに合わせてオレはそこそこの煽りや逃げ道の確保になる言い訳とかも混ぜておきたいわけよ。そうすると、どうしても長文になっちゃう。
それらを的確に短文で表現したら、それはわかりやすいかもしれないけど、そしたら手の内がまるわかりじゃん。それは困るw
ましてや喧嘩で、攻めて欲しくないところを、端的に「攻めて欲しくない」とは表明できないw

フローチャートは知ってます、矢印ちゃんと入れようかなーって思ったけど、めんどいので省略した
あえて箇条書きに表現を変えなかったのは、書いてる項目が上から順番に発展的である事を箇条書きとは区別したかったから。


オレがなんで「掲示板で喧嘩をする際に長文か短文か」で悩んでるかっていえば、
オレにとって最重要の部分は「相手に読んでもらえる事」なわけ
仮に、長文でも読むよ!って人しか集まらない場所にオレがいるならば、安心して長文をうつわけ
この文章もそう、ここは「興味があって読みに来る人」を前提にしてるから、オレはあえて譲歩しない書き方を結構してる。
だけど他のサイトでは違って「読まれる事」「まず目につくこと」をすごく大事にしてる
其の次に「わかってもらう」事、つまり「相手がわかる表現をする」事。

新しい喧嘩スタイルのスレでアドだしてたけど
基本的に、相手が読み込んでくれないんだよ、オレが意図してる部分まで。
じゃあ、どういうスタイルなら相手は読み込もうとしてくれるか?最初の第一歩を出し易くするスタイルは、なあに?ってのがテーマなの。
そうすると、どうしてもやっぱり「パッと見、わかりやすい短文である事」は
ある程度の条件にはなってくるんだよ・・
だけど、本当の質を追求すれば長文になってしまう、という相反する条件があるわけ
これを、どうやってクリアしようか・・・っていう話です。

88名無しでござる:2011/06/28(火) 20:11:21
>>86,>>87

つまりまとめると結局
・きみにしかわからない語意で言葉を使い、
・きみにしかわからない文法で書いてる
ということだ。

これは当方が>>29以降、再三再四指摘していることなんだけれども。

で、そういうことをしておいて

>オレにとって最重要の部分は「相手に読んでもらえる事」なわけ

などと悩んでいるわけだ?

(^^)うんうんよくわかった

なんかごめんもうまったくオマエに興味ないや

さいなら〜

89天才tinko:2011/06/28(火) 20:55:53
>>83-85
まぁフローチャートにいたっては、項目が2つしかないけどねw
最初もうちょっと細かく、流れを表現しようと思ってたんだけど、なんかうまくいかなかったw


レスに時間差があったのは
一旦はレスをするのを完全にやめたから。
だけど、一方では「乗っかっておいたほうがよかったのかな?」って迷いも消えずにあったからw
ここはオレが心情を吐露するメモスレだから、その迷いを素直に吐露しただけですw

「キミは未熟だ〜」が「キミはバカだ〜」になってるのは、なんて書いたか完全に忘れてたからですw
それも、心情を吐露する為のレスなんで、正確な表記は確かめなくていいや、と思った。
別にトラップではないです。ただオレがオレのレスに返事をするとしたら、あの節目となる部分を絶対指摘してるよね、と思った。

昔はこういう節目にツッコミを入れる人は、たくさんいました。
例えば、今だから言うが、このスレでアドだしてもらってる、ゲシュが立てたHKJのスレでのやりとり。
ゲシュが「第三者を共通の敵にする事で仲間意識をアピールしようとしてるー!」ってつっこみが途中で入ってるんだが
あれは、まさにズボシでしたw
ズボシだったので「は、はあああああ??ありえねーーー!!」ってレスしてたw

例えば、ここでのゲシュのツッコミは、まさにオレが実際に言語化していない非言語コミュニケーションとして、もくろんでた事を言語化してバラされた。
こういう「書いてある言葉」だけじゃない「なぜ、こういう書き方をしようと思ったのか?」という所から読み取れる、相手の態度に対しての言及ってのが、いまはない。

ちょっと話はずれるけど、オレが昔いってたMSN喧嘩部屋が特別優れてたのは
本当は「態度を見ていたから」って言いたいけど、厳密には少し違って
たぶん、MSN喧嘩部屋は煽りのセンスが優れてたから、だと思う。
MSNは、特に初期のMSNは、煽りに独特の気取ったセンスがあって、かっちょよかった。
これはMSNだけじゃなく、2chだって初期の頃は2ch特有の言い回しとかが生まれて、気取ってたかっちょよさがあったじゃん。アングラっぽい感じのかっこつけるセンス。
オレも(ワラってつけたい!!!って思わされるような、独特の魅力があったw
そっから発展して、みんなが(ワラって使うなら、オレは(藁って使うわ、みたいな派生があったりw
見慣れないって理由だけで半角カナを乱用したがったりw

そういう気取ることが主体かもって話は>>81でもちょっと書いたけど
とにかく、そういう「かっちょよさ」があったのよ MSNにはw
いまこそ、あんま使わないが「愚鈍が」とか「痴愚が」とか「白痴じゃねーの」とか、そういう語彙も使ってた。
白痴なんて、超オーソドックスな語彙なのに、喧嘩サイドじゃ全然見かけないよね
いまは全然思い出せなくなっちゃった、そういう語彙・・・(悲)

で、そういう「かっこつける」っていうセンスは、やっぱり態度で表す物じゃん。
同じ言動をしてもタイミングとかで効果が変わってくるわけ。
そういう意味では「何を言うか」よりも「何をどういう風に言おうとするか?」という態度の方が重要だったわけよ。
こういう特徴からいえば、MSN喧嘩部屋は、態度への注視も、一定量あったと思う。

90天才tinko:2011/06/28(火) 20:56:41
>>83-85
不甲斐なさを弁明したいなら、もうちょっとわかりやすく、理路整然と書くし
なにより、不甲斐なさを弁明したいなら「不甲斐なさを弁明しようとしてる」って事がバレるのを恐れて、まず書き込まないw
なぜオレが、こういう発言をすることを「カッコ悪い、恥ずかしい、気持ち悪い」と表現するかっていうと
そういう「オレってすごいだろ?って思われたいんでしょ?」って思われるだろうな、って分かるから恥ずかしいわけ。
オレの言動では、そういう態度に見えるだろうな、って分かるから恥ずかしいわけw

だけど、恥ずかしい事してみよう。
心情を吐露してみよう。って所に戻ってきてる。
そういう意味では、弁明が意図の吐露なら、もっと聞こえの良い事ばかりを書くけど
意図は弁明じゃなく吐露そのものだから、より聞こえの悪い物も同列に並べたいな、と思ってる

大会で熱心に評論してんのは、実は「ネタバレ」したいから。

喧嘩のログがあんま残ってないのは、いい指摘だw
それこそ、なぜ喧嘩のログがあんまないかというと、喧嘩に慎重になってるからw
もしかしたら、掲示板で完全な形で勝敗がついた、みたいなログはないかもしれない。(オレが忘れてるだけかも)
なぜそこまで喧嘩に慎重になってるかといえば、周りの評価を気にしてたからだw
つまり、オレがもっと周りの評価を気にしてたら、まず最初にする態度は「傍観」だw
こうやって一人で心情を吐露するような事は絶対にしないw

でも今は心情を吐露してる。それは今は砕けてるからだし、吐露する事によっての何かを期待してるから。
喧嘩での周りの評価を気にしてるのは昔の話だよ。
あとオレは長い間ずっとチャットで活動してきたから、掲示板の喧嘩なんて全然馴染んでない、今だに。
だからこそ余計に慎重になってんだろうな
だから実はオレ、そんな掲示板喧嘩の歴戦ファイター!みたいな感じじゃない

ちなみにこの掲示板はオレが作った物じゃなくて、喧嘩して奪った物なので
そん時のログは、探せばあるかもw


ちなみに、ちなみに!ここ重要!
チャット喧嘩では、オレは最強ではありません。少なくともオレはそう思ってる。
なぜならオレが「この人が最強だ」と思う人がいるからだ。そしてそれはオレじゃない。
あるいは、ソレと同じように、オレが誰かから最強と思われるかもしれないけど

91天才tinko:2011/06/28(火) 20:57:18

>>83-85
定石について、特定のフレーズに対する返答というパターンでのストックは、オレは一切ないな・・・。
特定の言葉がストックされてるって事はあるかも。
例えば、内包とかは、HKJのゲシュのスレでも使ってたのを見て、自分で驚いた。
そういう意味ではオレが偏ってしまう語彙はあるんだと思う。
ただ、煽り文の展開がパターン化するって事はある。
相手を障害者だとして差別したり、親や家庭環境や学校での態度に想像を広がらせたり、変なあだ名をつけたり。
最近はこの煽りパターンが特に固定化して狭くなってきてるから、自分であんま「いまひとつ」って思う、正直。
ただ、だからって新しい煽りを考えるだけのモチベーションもないし、それを活用できる場もないので、新しい煽りはめったに考えないと思う。


板喧嘩で白けちゃうのは、オレが「云う」について言及してる部分だと思うw
あそこは、うっすら「読み手は、そこまで共感できずしらけるかもなー」とは意識してたけど
あんましやる気がなかった事と、目指すべきスタイルがみえてない事と、
オレが実際に本当にウケてたって事でw あえて、その場のノリだけで書き込んだ。
あそこは、そこそこ「確かに云うの使い方へんだww」って思えるやつと「こいつ一人でハシャいでんな・・」って思うヤツで二分すると思った。

大会での喧嘩はスタイルが安定しないで、オレが自覚してる中で、3つ変わってる、厳密には4つ言えるかもしれない。
最初は、長文で思った指摘を綿密に書いた(論理的に負けないようビビってたから)だから煽りも少なめ
だけど、あんまし反応が良くなかったのと、論理的な会話が発展しない事から、こいつ論理的な話できないな、と踏んで
煽りの量を増やしていった。

それでも、あんまし相手の変化がみられないから、全然通じてないのか??って思い出して
別スレで全然評価されてない事もあいまって、今度は短文で端的って事にだけこだわった。
で、短文で端的にしても、一切相手の一辺倒の返答が変わらないので、だんだんつまんなくなってきて
プププギャハハwって短文に混ぜたあたりから、ノリだけでの書き込みにスタンスを変えた。つまんなかったからw

スタンスを意図的に変えたことが、よかったのか、わるかったのかは、わからない。
ただ、みんなの意見をきくと、やっぱり悪かったみたいw
少なくとも「見世物」としての判断でいえば、スタンスが変わることは見苦しいみたい。
オレとしては、スタンスを変幻自在に変えて「なにこいつ、めちゃくちゃ!!」って思われたいんだけどねw
「めちゃくちゃなのに、論理的に押し返せない!デタラメにみえて、理路整然!」みたいにしたい

オレを祭り上げる必要はないよ。本当は祭りあげて欲しいけどw
祭りあげて欲しいし、そもそも天才tinkoというキャラクターは祭り上がるようにしよ!って思って作ったw
それで最初もなちゃとで喧嘩してたんだよ、2日ぐらいだけどw
そのあと飽きて、掲示板きて、ちょっと喧嘩して、また飽きてってのを繰り返してて
オレ的には「あー、こんなんじゃ祭り上がるキャラにはなれんな」って思ってた
けど、出現回数が少ないことと、出現すると古参と仲良くしてるって所が他人からみたら謎めいて見えたんだと思うw
気づいたら周りのお蔭で祭り上がってた


今は心情吐露しまくってるし、神格化されてる部分もだいぶ剥がれていくと思うよ。とくにここの胡散くさい発言の塊をみればw
でも、それは良いことです。
祭りあげて欲しいけど、それと同時に謎めいてて「本当はあいつ何でもないんじゃねえの?」って思われるような
そんな胡散くさい感じでもありたい。

92天才tinko:2011/06/28(火) 20:58:31
>>88
なんだそりゃ!w

93天才tinko:2011/06/29(水) 06:33:45
おはよん

ちんぽー、ぼいんぼいん

94名無しでござる:2011/06/29(水) 09:21:57
>>86-92
(;゚;ё;゚`)きんもー☆

95名無しでござる:2011/06/29(水) 13:41:45
>>81
>気持ち悪い事をあえてする、というブランディングをしているのではないか?みたいな指摘するようなヤツがいなさすぎると彼は思っているみたいだけど、

そうそれなんだけどさ。
そういうのって、喧嘩板初心者じゃなけりゃみんな分かってる、と思ってる。
でも誰もそれを突っ込まないのは、それを上手く煽りに換えて指摘する言葉を持たないからっていうのもあると思うけど、それ以前にそういう態度の部分指摘したって論破に繋がらないって思想があるからだろw
経験的に今こういうこと書いてるこいつはこういう感情なんだろうなっていうのはは大体察しついても否定されたらそれで終わりなんだよ十人十色だからなw
だからそういうのは、このつまらない喧嘩界では流行らなかった。
逆にMSN喧嘩部屋で流行ったのは住民のノリが良かったのもそうだし煽り全盛の時代だったからじゃね?
それだけの話なのに、それ(態度の件)を誰も「気付かない」「分からない」自分だけが「気付いてる」と思ってる天才tinkoってマジ気持ち悪いなと思ってました。

>この考えそのものが彼のおごりであったり、怠慢であったり、欺瞞である可能性は、たしかにあるとおもうよ。
そういうことです。

96天才tinko:2011/06/30(木) 04:25:58
ぷんすかぷん!!

97天才tinko:2011/07/16(土) 10:20:48
喧嘩っていうか、言動の質は、喧嘩師のパーソナリティに頼る事になる。

ここで仮に、能力の低い喧嘩師の喧嘩を面白くすべく
条件を設けた喧嘩をさせるとしよう。
しかし、これはまったくの逆効果だ。
そもそも、自由にさせていて魅力的な言葉を作れないヤツが
規制のある状態で発言をして、魅力的な言葉を作れるわけがない。

そもそも論、魅力的な言葉とは何かを理解させる時点で、それ相応の知的センスが必要になる。
この、そもそもの知的センスが無いヤツに対して、どういうアプローチをしても、意味はない。
もっといえば、規制から外れる事が魅力だとも言えるのに、規制を作って意味があるわけがない。

98名無しでござる:2011/07/16(土) 21:48:14
>>97

「言動の質」?
わからない。
イキナリわからない。

なにをもって質が高いとか低いというのか?

例えばエッセイストの文章を小説家は情緒がないと批判する。
小説家の作品を科学者は無駄が多く論理的でないと切り捨てる。
そして科学者の論文をエッセイストは退屈とこき下ろす。
―なんてことはごくふつうにあるわけだが、では「喧嘩」の場合は?

どんな言動なら評価できるのか。
誰が、いつ、どういう基準で評価するのか。
わからない、わからない。


で、とりあえず先に進むと、

>パーソナリティに頼る事になる。

なんてヘタクソな文章!
「頼る事になる」ですって!

「左右される」とか、「依拠する」とか、「起因する」とかならすんなり読めるけど、

頼る事になる?
頼る事になる??
頼る事になる???

ま、言いたいことはわからないでもない。
わからないでもないけど、「でもそもそも喧嘩師のパーソナリティを量るのは言動以外ないんじゃないか…?」
などという疑問も頭に浮かびたいへん落ち着かないわけです、読み手にしてみれば。

わずか一行!
冒頭一行にしてこのありさま!


>仮に、能力の低い喧嘩師の喧嘩を面白くすべく
>条件を設けた喧嘩をさせるとしよう。
>しかし、これはまったくの逆効果だ。

うんうん、オマエがそう言うならそうかもしれないねえ。

でも「仮に」以下が具体的にどんな場合を言ってるのかわからない。

つまらないヤツを面白くしようとして?
条件だか制約だかを設けて喧嘩させる?

そんなことがあったんだ?
でもいつ?
誰がそんなくだらない試みを?
―と、またしても疑問が頭を占拠して、オマエが
「そんなことは無駄なんだ!」と熱弁したところで、何に異を唱えているのか、読み手は戸惑うばかりだ。

よくわからない例を挙げて唾トバしながら否定したところで、誰にも何も伝わらない。
否、書き手の頭の悪さがしみじみと伝わるばかり。


あと、バカと議論するつもりはないからどうでもいいんだけど、
規制から外れるのが魅力なら、まず規制がなければ「破」も「離」もないだろうに。
「意味があるわけがない。」わけがないだろうに。
というあたりは指摘しておこうかしら、嘲笑う意味で。


書き出し一行から読み手を混乱させ、最後の一行で呆然とさせる。
バカの果てしなさには畏れさえ感じさせる。

あ、これも余談だけど。

最近読んだ文章の受け売りなんだけどね、
知的センスのないヤツは魅力的な言葉を操れないし、そもそもそのなんたるかさえ理解できないらしい。
で、そんなヤツにどういうアプローチをしても無意味なんだって。

オマエの文章は支離滅裂だし退屈だしつまりは魅力的な言葉じゃないから、
どうやらオマエは知的センスが乏しいみたい。
あいにくなお知らせだけどもね。
そんでそういうバカはどうにもこうにも料理しようがないらしい。
ご愁傷なことだけどもね。
いや、ほんと同情するわ。

99天才tinko:2011/07/17(日) 08:06:10
asahi.com(朝日新聞社):オバマ大統領、ダライ・ラマと会談 中国の制止押し切る - 国際
http://www.asahi.com/international/update/0717/TKY201107160739.html

この記事をみて、まず思った。
オバマひいてはアメリカは、実質上の権力(軍事力・経済力)を持っている。
少なくとも、中国にとって無視できない国である事は確かだ。
そのオバマが、中国が目の敵にしているチベットの偉い人に友好的にするということは、
単純に、アメリカが中国に対して、対等以上の牽制力を持つ足がかりとなる図式と言えるのではないだろうか。
(つまり、中国は自分が嫌いな組織にアメリカを取られないよう、アメリカに気を使う必要が出てくる)

こう思った後に、さらに思い返した。
そもそも、この考えは、アメリカは強いという前提に成り立っている。
アメリカは強い。そして最近盛んな中国を牽制するチカラを持つべく、中国の嫌がる相手とも友好的に接する。
そういう見方だ。
しかし、前提を覆したらどうだろう。
今、可能性のある中国と友好的な関係を保ちたいのに、わざわざ中国の嫌がることをして溝を作る事はマイナスではないか?
中国との関係が大切なら、チベットの偉い人と関わらない方が”無難”であるのは間違いない。
そう考えれば、リスクの孕む会談をするべきではない。
と、こういう考え方もできる。

これらは結局「アメリカは強い。だからこそ追撃するように牽制力をえよう」と考えるか
「アメリカは強いが、それがいつまで続くかわからない。だからこそより可能性のある国との協調を重視しよう」と考えるか。
この差だ。
リスクを選び、選択権を得るか。リスクを逃し、協調を得るか。
この差に何の意味があるかは、わからない。
チベットの偉い人と会談したオバマやアメリカの真意もわからない。

だが、この差をもつ2つの考え方・見方が存在するという事は事実だ。
それは、オレらが見ている情報には個人的なフィルターが大いにかかっていて、
そのフィルターを通した捉え方によって、リスクを取ることが良くもなるし
リスクを取らない事が良くもなる、という事だ。

このフィルターが、どういったものか
自分にはどういったフィルターがあるのかを正しく観察する必要がある。
そして、それは有益なことだ。
これらを、”機械的に”計る、チェック項目を設け、それを定期的に自己点検する事は想像以上に有益なことかもしれない。

100天才tinko:2011/07/17(日) 08:16:07
>>98
言動の質は、言葉によって、状況・シチュエーション、あるいは感情・情動の輪郭を、いかに表せるか?にある。
小説家も科学者もエッセイストも、それぞれの「切り出したい対象」が違えば「切り出し方」が違うのは当たり前。
小説家が求める細やかな描写に、科学者やエッセイストは敵わないかもしれない。
しかし、科学者やエッセイストは、細やかな描写を切り出すことを、そもそも目的とはしていない。
だから、小説家も科学者もエッセイストも、互いに互いの言動を「質が悪い」と表現しあう事はない。
それは自分の立場において「物足りない」とか「わからない」と表現する事はあっても。

ただ、小説家、科学者、エッセイストに共通する感覚はある。
それは、美的センスだ。言葉によって、人間のどういうシチュエーションを切り抜き、輪郭を作るか。
そこには「何を切り抜きたいか?」ではない、「どのようにして切り抜こうとしているか?」という目線が存在する。
この「どのようにして切り抜こうとしているか?」というのが、文章表現における美しさだ。
この美しさは、多彩な学問の中でも度々重なるテーマである。
科学者が、思いもしなかった言葉の切り出し方に触れたとき、小説の美しさを知るし、
小説家が、意味のわからなかった記号を説明してもらうことで、科学の美しさを知る。
こういう事は、よくある。

「言動の質」に対して、そもそも「わからない、わからない」という事を繰り返すことしか出来ないキミは
オレがそもそも言っている「知的センスのないヤツ」という事だ。単純にね。

101天才tinko:2011/07/22(金) 14:01:21
>>99
つまり・・
自分の呪いを知るために、いろんな角度から自分を晒し上げるとも言えるかもしれん

102天才tinko:2011/07/26(火) 00:10:49
>>100
これ苫米地さんがまったく同じ事を言ってた
「簡単な言葉でも、頭いい人は言葉の使い方が微妙に違う」って

103天才tinko:2011/07/26(火) 00:19:37
>>95
甘えだっていうんで、喧嘩大会とやらで実践してきたよ。
結論としては、誰もオレの真意を見ぬいた人はいませんでした。

0と無は同じか?別か?っていう話題をやった。
これは、同じとも別とも言える。どちらを前提に語る事もできる。
「どちらとも言える」が答えなら、これを喧嘩の優劣に反映させるには、まさしく「口うるさく相手を攻め立て、なんとなく正しい感じになればいい」事を目的とした、喧嘩らしい喧嘩のテーマだ。
オマエが言うとおり「天才tinkoの真意なんて、みんな見抜いていて指摘してない」としたら、この「どちらとも言える」をまっさきに指摘し、それを基盤と捉えるはず。
でも実際は、そんなヤツはいませんでした。それ所か「0と無は潜在的に別物だ」という事を本気で信じるようなバカがわんさか居たよ。

ようするに、オマエの理屈はオマエのネガティブな感情が元になった、根も葉も根拠もない妄言ってこった。

104天才tinko:2011/07/26(火) 12:44:03
細部の輪郭にこだわる必要はない。のかも。
境界線がシャープでわかりやすい事よりも、そういうシンボル、あるいは働き、あるいは役割を示すものが存在する、と思える形が存在する事。こっちが主体なのかも。
細部の形のあり方よりも、思想的な、「はい、やりました」という、そこに「ある」とする事。輪郭がぼやけていても、こういう働きのものがある、そういう体で存在を仕分ける、という事が主体なのかも。
だから、細部のキレイさに拘っても、それが拘るだけに値する状況というのは限定的

105天才tinko:2011/07/26(火) 12:51:10
これは、「相手をコントロールする」という実態が主体なのではなく、「自分のやり口が通用する相手がスキ」という事が主体という話と、似ている本質かも

絵とかマンガ、イラストも、細部の輪郭が、境界線がきれいに分け隔てられているかどうかよりも、これは人、これは木、これは斧、そして斧を振りかざしている人、という配置がわかる事が大事なんだ。
斧が新しいとか、きれいとか、使い古されているとか、よく手入れされているとかも、これらは細部の輪郭の境界線で表すものではなく、そういう意味をシンボルとして、働きとして描き表せるかどうかであって
境界線そのものに拘っても意味が無いのかもしれない。

スーパーリアリズムも、境界線を突き詰めるリアリズムだけど、その実態は現実の存在とはかけ離れていってる。
あくまで人間が感じうるリアリズムが主体で、実態がどうであるかは問題ではないし、写真にまかせればいい。
そもそも写真さえもが、本物の実態よりも、人間のリアリズムを主体として追求してる。
さらにスーパーリアリズムは、細部の輪郭や境界線を段階的、構造的にねじ曲げて、入り組ませる描写がある。スーパーリアリズムは構造美だ。

106天才tinko:2011/07/31(日) 16:33:39
死にたくなるのは、他人に受け容れられないと思うからかもしれない。
他人に受け容れられない、だから死にたくなるが
もとより、他との交流を全て経って、たった一人だとしたら、死にたくはならない。
自ら、まったく何の理由もなく死にたいと思えば死にたくなるけど
他者が存在しない、まったく孤立した状態では、そういう発想はうまれにくい。

逆に、他者が存在している。そして受け容れられたい(もしくは、受け容れられなければならない、と脅迫的な教育を受けた状態)では、死にたくなる。
他者に受け容れてもらわなければならないが、他者が積極的に自分にコンタクトをくれない。そして自分が積極的に他者にコンタクトをとっても、生返事しか帰ってこない。
こういう場合は死にたくなる。(DMC的に)

107天才tinko:2011/07/31(日) 17:12:14
今までは、人を受け入れる事が基本だと思ってた。
そのうえで自分を確立するには枠を作るしかない。しかし、その自分本位の枠組みが自分を退廃させる原因にもなるので、自己矛盾と危険性を内包している。だから他人を受け容れようとする。
しかし、他人を受け容れようとしても、他人には受け入れてもらえない。
全てにおいて、他者と自分との関係は、自分(あるいは他者目線)にとって他者が「いても困らないからいていいよ」というレベルか、「いるとムカつくから攻撃したい」や「いなくなってくれ」でしかない。
(※ここでの他者の排除の理論は、他者そのものをコントロールし理想の状況を求めるものではなく、自分の働きかけに対して他者が有効であってほしいという願いが本質である可能性がある)
(※あるいは「悲しい」などのレベルも存在する)


実は逆で、他人を受け容れない事が基準なのかもしれない。
他人を受け容れないのが基本で、自分が何かを受け容れるという事も本質的にありえない。
あるのは、接触と発展しかないのかもしれない。
接触は、他者に対する先天的な潜在的な無視の前提の上になりたつものである。ただ拒絶ではない。
発展は、接触したものへの感触が固定化してきたら、さらにそれを応用して、何らかの高次元の働きかけへと昇華させる事。
ライオンの赤ちゃんが、親がとってきた獲物を弄って遊ぶ事で狩りの基本を学ぶ。
これは、まずは接触がそこにあり、それを繰り返すうちに感触が固定化され、それが狩りへと発展していく。

そもそも受け容れることの反対は拒絶なのではないのかも。
受け容れること=無視を前提とした接触 なのかもしれない。
さらに、接触から発展へとステージが進んでも、それは受け容れることではない。
そもそも、受け容れられなければ、受け容れられたいという考えそのものが幻想で、受け容れるなんて事はこの世に存在しないのか。
つまりこれは、潜在的な他者の主観の否定であり、それは同時に、自己主観の肯定とイコールいなる。

108天才tinko:2011/07/31(日) 17:30:24
受け容れることは基本じゃないかもしれない。基本は人を無視する事かもしれない。
人間の認識の限界から、基本は無視し、こいつはオレに関係ないと思い接触しない事か。
「受け容れる」とは「人の意見や要求を認める事」らしい。
つまりこうだ。受け容れない=認めない・拒絶する。受け容れる=認める≒無視。取り入れる≒発展。

つまり、0が無視で、+1が接触で、−1が拒絶だ。
だとしたら「オレは本当に心から相手を受け入られてるのかな?」なんて悩むことはありえない。
何故なら、受け容れるとは「接触する事」だからだ。
拒絶し、相手を嫌がり、排除しようとしていない限りは「相手は別にそこにいてもいい」わけだ。
「相手がそこにいる」事は、相手の事が目に付くわけだ。そして目についた相手を無視できる事は、普通の事だったんだ・・・。

そして、その接触を発展させた時、それは共感や強い同意、共存となり、それは相手の技術や思想を取り入れる事になる。深い理解だ。
この領域が、宮台真司的にいえば「感染」だ。

109天才tinko:2011/07/31(日) 17:36:32
接触に対して接触を返すことがリアクションなわけか。
接触に対して無視する事は、できるけども、基本的にできない。
なぜなら、接触されて、影響をうけない事はありえないから。

ただ接触されて拒絶したら、それは拒絶なわけか。

110天才tinko:2011/08/07(日) 17:13:54
論理クイズ大変すぎる・・
やっと言いたいことが言語化できた・・

111天才tinko:2011/08/12(金) 17:30:34
特徴は、抽出された特徴と分岐の特徴という事で、二分できるんだと思う。
抽出された特徴とは、様々な事象に対応できる”概念”そのものの事で、分岐の特徴とは、「中身が悪くても、ここを抑えておけば終わったことにできる」という上辺を良くするための特徴。
抽出の特徴は、枝分かれしている筋道がどのようにまとまっているかをマッピングしたもので、分岐の特徴は、枝分かれしている筋道がどこで合流しているか?だけに注目したもの。というイメージ
ただ、抽出の特徴も分岐の特徴も両方大事ではあるんだと思う。たぶん、抽出の特徴が指導・コーチ的なもので、分岐の特徴が指示・ボス的なものなのかも
ボスは秩序を持って指示系統をまとめる必要があるから分岐に注視する必要があるが個人の能力差まではカバーしなくていい。コーチは個人の能力差を重要視している。(発展すれば、個人の能力が優れていれば各々の判断が適切になるはずだ、という事)

112天才tinko:2011/09/01(木) 05:14:56
「わたし」と「あなた」と「世界」

これらを、どう切り離すかという事が問題


行動は、全て自己満足だ、という考え方がある。
これはわりかし、中学生ぐらいに思いつき安い考えで
ひとつ違えば「自分さえ良ければいい」という原則のもと「他人に迷惑をかけなけなければいい」あるいは「他人に掛けた迷惑を背負う覚悟あるなら、それでもいい」という理屈になってしまう。
が、これは「わたし」と「あなた」と「世界」を分節する考えとは、まったく違う。

「自分さえ良ければいい」というのは、自分の行動の根源を全て自分に帰結させる事で、自分の前提が肯定にある、という事にしようとしているだけ。
「わたし」と「あなた」と「世界」の文節は、「わたし」という主観から切り離された客観、それに対して「あなた」の存在を主観的に捉えるか客観的に捉えるか、
そして、それらの無数の「あなた」が存在する世界を、どう切り分けるか、という問題であって

要するに評価軸が自分にあるという事は、その評価軸から意見を切り離す事ができる、つまり他を差別する事ができるって事だ。

113天才tinko:2011/09/01(木) 05:25:04
「わたしたち」と認識する時は、他人Aと他人Bが違うと認識してる時に「わたしたち」と考えられる。
「あなたたち」と認識する時は、他人Aと他人Bが同じだと認識してる時に「あなたたち」になる。

「あなた」の存在を主観的に捉える事が、AとBを同じだと認識する「あなたたち」であって
「あなた」の存在を客観的に捉える事が、AとBを違うと認識する「わたしたち」なわけだ

つまり「あなた」は、「わたし」から切り離されてこそ、本質的な「あなた」である。
「あなた」の中にある「わたし」を見つけようとしてる間は、それは「あなた」ではない
それは、代替えのきく「あなたの中にあるわたし」であり、あなたを否定できる事は、わたしを「あなたたち」に置き換える事にすぎない

114天才tinko:2011/09/01(木) 05:37:15
つまり、違うっていう事が本質的に「同じ」事と同じ意味、働きをもっていて
同じって事は、そもそも「存在しない」

同じは同じ、違うは違う。っていう考え方はおかしくて
まず、違うことが先立ち、違う=同一性の証明 となる。

なので、「同じ」が先立つ事は、ありえない。

115:2011/09/02(金) 13:41:31
その同一性の証明、例えば「AはAである」っていう判断自体が同一性だけではなく、非同一性をも意味してるって考え方もあるよねー

116天才tinko:2011/09/03(土) 02:37:52
何に対して何を意味してるんだろ
「AはAである」って判断は、同時に「A以外」を定義しているから、
同一性を定めることは、非同一性(同一ではないもの)を同時に定めてるって事かな


同一性とは、何かを何かから”切り離す”ことで行われるから
「AがAである」という、トートロジー的な同一性の証明はありえない。

人間が自分の主観から抜け出せないのは、人間が他人のために努力をしたとしても、それはその人間が「他人のために頑張らないと自分が満足できない」から努力するんであって、自己満足である。と立川談志はいっておった。
それと同じで「AはAである」という証明は不可能。
「Aはこれと違う」Aはあれと違う」とする事で「**でないものがAである」という説明こそが、同一性の証明の一次的な論理展開だと思う。

他者と比べるという行為は、自分の発散であり、自分の同一性を築いていく行為なはず。
相手に何かを話すのは、相手のためではなくて「話すことで話したい気持ちを発散する」事がメインなんであって、それは「話す自分」と「話さない自分」の違いを認める事による同一性なんだ。

117:2011/09/03(土) 04:11:56
同一性の判断のこと〜
ありえないのかなぁ
「Aは」のAと「Aである」のAは、本当は別物じゃん
ある事物が何であるか、または何に相当するかを認定するときって差異化がなされないといけないでしょ
A同士の場合も、ふたつを重ね合わせてみて差異化を図らないといけないんじゃないの、って思った
そして、差異化が少なければ少ないほど同じって言えるみたいな感じ

119天才tinko:2011/09/11(日) 00:25:45
池沼レベルに頭が悪い奴あつまれー(^o^)ノ - hogehoge速報
http://hogehogesokuhou.ldblog.jp/archives/51785657.html

終わりなき日常の終わり、と最近の日本の傾向を表現してる人がいたが、それと似たようなことを感じた。
今まで「何が普通なの?」という類の質問を投げかける場合、「異常と正常の違いはなにか?」を意味していて、
それは反体制という意味においてだけ機能していた。

なぜ「反体制」という意味に限定されるかというと、今の現実は、実際に正常が崩れてきて、みんなが日常的に「何が正常で何が異常なの?」と疑問を持つ世界になってるからだ。
いわば、反体制を望んで、正常と異常の違いを投げかけてきた人達が考えていたような事が、現実に広まっている。
こうなった場合、人達はどう考えるかというと、上記アドにもあるように、人は「自分をより正常に近づけよう」とする。
つまり、正常とはなにかを他者から積極的に輸入して、その輸入した正常にあわせようとする。
しかし、今はどこからか輸入した「正常」も、別の世界では異常にされてしまう、という不条理なアウェーがあちこちで許されてる事がネットによって露呈してる世界になっているので、
いくら幻の正常を輸入したところで、「自分が本当に正常といえるか?」という不安を本質的にぬぐえない。

つまり、正常と異常の境界線という疑問が人間の生活にとって身近になった場合、人は何らかの評価基準や価値観を求めるようになる。
積極的に縛られ、何かに従わされる事を望むんだ。
今まで過去の映画などで行われてきた、正常と異常の違いを知ったものによる体制破壊とは、まったく逆のことが現実では起こっている。
ゆえに、今までの「正常と異常の違い」とは「反体制としての批判」的な意味合いしか、実質機能していなかったわけ。

そしてさらに、使い古された教訓として「何か1つの価値観や体制に縛られることは不幸を招く」事が、わりと知られている。
すると今は、何らかの価値観や体制に縛られることなく、なおかつ、正常を積極的に規定できる、安心できる何かを提示するなり、
あるいは、それぞれの異常な正常を閲覧し、比較し、判断するような環境が必要になる。平たく言えば教養必須の世界だ。
ここから、教養必須の世界へと移行するのか、あるいは何らかの支配的な価値観が横行し、横暴な統率が行われ、また反体制を繰り返すのか。このどっちになるかはわからないが、
最近のフジデモに始まる、責任者なき右翼の声や右翼活動のエスカレートには、魔女狩り的な暴走と、新しい評価軸を求める人が右翼の断定に飲まれていったような世界観を感じずにはいられない、と。

120名無しでござる:2011/09/11(日) 12:31:48
他者からの同意や共感に、喜悦や安心を得られるからこそ、人は人を求めて彷徨う。
それによって様々なグループが形成されていく。たくさんある学問の種類も、これが要因だと思う。

誰かに自分の行動や考えを委ねるのは、その誰かに同意や共感をして、喜悦や安心を得られるから。
これによって様々なグループの考え方などが強化されていく。

だから、常識でも宗教でもどんな○○学でも、その拠り所が何であるかが違うだけで、本質的には何もかも「信じること」に繋がる。

121天才tinko:2011/09/12(月) 01:57:01
ぼくたちは、何と同じなのか?を基準に考える人と
ぼくたちは、何と違うのか、切り離せるのか?を基準に考える人だと
ずいぶんと方向性が違う。
あるいは、前者がネガティブで、後者がポジティブという事なのかもしれない。

122:2011/09/13(火) 16:31:56
>>120

何もかもを疑う哲学はどうなるんですかw
「喜悦や安心」を度外視してひたむきに論理的整合性を求める哲学はどうなるんですかw
はたして人は人を求めているのですかw

123:2011/09/13(火) 21:28:47
哲学は何もかも疑ってるから喜悦や安心よりは得体の知れない不安をとりわけ強く感じさせるし
同意や共感はおろか他者そのものを存在レベルで疑ったり全て自分の観測可能な範囲内に留めて考えたり
ただ1日24時間ずっと哲学してる人なんて早々いないし、やっぱり人は人を求めると思う

ところで哲学は論理的整合性を求めつつ、その論理の根本にある暗黙の了解も疑ってかかるのか?

124名無しでござる:2011/09/13(火) 22:14:26
要は面白いぐらい被れてるな〜

125:2011/09/14(水) 17:27:30
>>132

論理は万能じゃないからね。
人間である以上多少の妥協は致し方ない。
論理を介さずにどうやって思考の体系を築く?
文字通りそれは無理だろう(笑)。
真の認識とは、何らかの枠組みや前提の中でしか
存在しえないものではないでしょうか!

126:2011/09/15(木) 02:25:33
>>125

じゃあ結局は哲学も、Aを信じることによりBないしC〜Zを疑うみたいな感じじゃないの
Bを信じてAないしC〜Zを疑うとかそういう姿勢の違いこそあれど
何かを信じることで軸を立てて、その軸に沿って考えるって点は哲学も同じ

127:2011/09/15(木) 15:40:34
>>126

便宜的にAを前提に置くことはあれど、
それは信じるとか信じないとかいう次元とは無縁の話だろw

128:2011/09/15(木) 20:48:36
もし完全に無縁なら、前提となるAが非論理的でもいいわけ?
非論理的というよりむしろ論理的には間違いとされる物でもいいわけ?
便宜的であれ何であれ哲学するにおいて前提とする論理は
とりあえず疑わずにその正しさを肯定するんじゃないのw
それとも、ある論理Aを前提にB〜Zを疑うとき、同時に前提Aも疑うってことかい

129:2011/09/15(木) 21:25:32
>>128

完全に無縁ってどういう意味?
Aに論理を当てはめるならそれは非論理とは呼べないはずだけど。

信じるのではなくて筋道にしたがって物事を考えるだけだろ。
何らかの前提による正しさの肯定=信じる?
それは大きな勘違い。

そもそも哲学っていうのは前提から考える作業なんで…。

130:2011/09/15(木) 22:02:20
ん〜?よく分からんぞ?
便宜的であれ何であれ、何か(仮にA)を前提にして哲学を展開するにあたっては
Aそのものを疑うことはしないよな?
これって「Aが正しいと信じて話を進めるならば、かくかくしかじか・・・」って事じゃないの?

「筋道にしたがって物事を考える」ってのも、まさにそうじゃん
まず根本的にその「筋道」が正しいものだって肯定することではじめて次のステップでしょ
おれ専門的な知識ないから説明するの難しいけど
哲学って「自分以外はすべて幻かもしれない」とか考えたりするんだろ
その思想は例えば「他者のクオリアはどのようなものなんだ」って哲学する際にも適応されるわけ?
他者の感じてるクオリアについて哲学する時って、「その他者は幻ではない」っていう前提をとりあえず肯定するじゃん
本当は他者が実在するかも疑わしいけど、とりあえず実在することにしよう、その他者もクオリアを感じているとしよう
・・・みたいな、便宜的な肯定でもとりあえずその前提を「正しいもの」に位置付けるでしょ
俺はこれ「本当のところは分からないけど、とりあえず信じる」みたいな感じで捉えてるんだけど違う?

131:2011/09/15(木) 22:11:38
>>130

信じてはないけどとりあえず前提に置いてるって言えばわかる?

根本的に筋道が正しいのではなくて、論理という前提においては
筋道に則ることが正しいという意味。

クオリアって茂木さんのだっけ?
専門的な知識ないならあんまり専門用語使わない方がいいと思う。
混乱を招くだけだから。

「便宜的な肯定でもとりあえずその前提を「正しいもの」に位置付ける」ことと
「信じる」ことは無縁だって言ってるの。

132:2011/09/15(木) 22:17:29
もう少し噛み砕いて言うと、
論理という規範の中で正しい事柄が、
すべてにおいて正しいとは思ってないってことw
だから厳密な意味では「信じてない」ってことw

133:2011/09/15(木) 22:27:08
前提を置いたものの、その前提すら信じないなんて
そうなると哲学する過程もそこから湧き出る考えも総じて信じられないな
あなたのことなんてこれっぽっちも信じてないけど、そこまで言うならプレゼントだけは貰ってあげるってか?
それでさらに本当にプレゼント貰えるのかどうかも、自分が本当に欲しいと思ってるのかどうかも疑うんだろ
虚しすぎるじゃねえか、哲学は空っぽで中身のないものですって言ってるようなもんだぞ、それ

134:2011/09/15(木) 22:37:28
>>133

それは哲学だけに言える話じゃないでしょう。
信じる・信じないのレベルで哲学やってるわけじゃないし。
プレゼントなんてものが本当に存在するのかどうかすら考えるのが哲学だし。

何かを信じることで精神的な安定が得られるのが
幻想のなせる業だよ。
もちろんそのほうが健全に生きられるだろうね。

しかし、俺みたいなタイプは
たとえ虚しくてもそうやって誤魔化すような生き方は
生理的に無理なんだよ。
一度それが幻想だって悟っちゃったばっかりにw

135:2011/09/15(木) 22:55:16
幻想っていうと、これまたうさん臭さがプンプンするわけで
誤魔化して生きるなんて無理だ、とか言っても結局は誤魔化してるでしょ
いくら客観的に自己分析しても自分の精神、内側に根付いた情報でしかないよそれ
その対象が実在しようと幻想だろうと二つに一つでしょ
俺らが疑ったり信じたりする以前に、その物の在り方は確定してるわけで
つまりは信じる信じないっていう個人の姿勢の違いでしかない
信じることを盲目的という意味で幻想と言うなら、疑う行為も幻想だと思うね

136:2011/09/15(木) 23:03:01
>>135

いいやそれは違うぞw
「疑う」ってことは言うなれば結論を先延ばしにしてるってことだw
「〜である」と決め付けてないってことだw

物の在り方が確定してるってのが幻想だろすでにw
物の在り方なんていくらでも変化するぞw

いや誤魔化せれないねw
どうがんばってもw

自分の精神、内側に根付いた情報でしかないって
どうして言い切れるのw

137:2011/09/15(木) 23:20:18
コイン投げたら、裏か表が出るじゃん
サイコロ投げたら、1〜6のどれか出るじゃん

コインやサイコロを分子とか原子に置き換えたら、物の在り方も確定してるって言えない?
裏表とか6通りとかじゃなくてもっとパターンは多くなるだろうけどさ
それで裏か表か、何の数字か分からないから疑うにせよ
それはただ「自分が疑ってる」ってだけの現象で、コインやサイコロとか外界には何も影響しなくね?

138:2011/09/15(木) 23:29:30
>>137

結局何が出るかわからないだろ?
原子だって細分化できるし。
そしたら電子になるわけけど、電子の運動って
観測できないんだよねw
だから結局のところ謎w

139:2011/09/15(木) 23:31:15
マジ神秘なんだがwww

140:2011/09/15(木) 23:33:31
誰か千尋呼んでこいw
この手の話はあいつが得意だぞw

141名無しでござる:2011/09/15(木) 23:55:11
原子レベル(ミクロ)までいくと、マクロでの事象との比較はもはや通用しない

142天才tinko:2011/09/16(金) 01:41:08
何の話をしているのかね?

143:2011/09/16(金) 03:48:39
>>142

>>120の "本質的には何もかも「信じること」に繋がる" という発言をうけて
要は「哲学は信じるのではなく疑うことが基盤」のように主張して
俺はその要の考えに対して「哲学も、ある何かを疑いつつ違う何かを信じるのでは」と疑問を投げた

で、まあ紆余曲折を経て
今は「信じるという行為は幻想なのかどうか」とか
「哲学するとき、本当に何もかも信じず疑っているのか」とか
そういう話をしてる・・・はず

144:2011/09/16(金) 03:59:39
>>138

何が出るかは分からないけど
「表かもしれない、裏かもしれない・・・」って疑っても疑わなくても表か裏どっちかが出るわけだし
結果を知る術を持たない立場にいる俺たちがそうやって疑ったとしても
コインの裏表には何も影響しなくて、ただ裏かも表かもっていう想像を巡らせてるだけじゃないの?
自分の内側に根付いてるってのはそういう意味だよ
そういう「分からないから疑う」ってのも結局は幻想なんじゃないのってね
あくまで認識という面で分からないだけでしょ

あと電子とかよく分からん
原子を核と電子に分離させたら電子が行方不明になるってこと?
核と結びついてる状態、その原子がその原子たり得る状態でもその原子の性質が謎ってこと?

145:2011/09/16(金) 18:18:47
>>144

何を言ってるんだ。
結果を知る術はあるじゃないか。
とりあえず投げてみればいい。

146:2011/09/16(金) 20:09:35
コインだとそうだけど、元々ただの例えだっての考慮してくれよ
何かを疑って、こうかもしれないああかもしれないって哲学してても
とりあえず投げてみれば裏か表が出るんだし
もし仮に表が出たとしたら、表が出ないかもしれないっていう疑いは幻想だろ?
未発生の現象に例えるから話がややこしくなってるかもしれないんで
すでに壺の中に投げ入れたコインが裏表どっちか、とかに置き換えてもいい
もう結果は出てるよな、裏か表かって疑うのは自分の内側のことでしょ
もしかして哲学する奴と俺とで根本的に着想が違うのか?

147名無しでござる:2011/09/16(金) 20:16:32
哲学は信じるか信じないかに本質があるのではなくて、
そのものをどう見るのか?
例えば「神」という存在をどう捉えるか?
という「解釈」にある
哲学が全てを疑う学問だというとなんか消極的な印象が半端ないから
あんまり哲学に携わっていないものに「懐疑論」的な印象を与えるのはよろしくないと思うよw
疑うことは手段であって目的ではないからね
まぁ解釈によっては「信じることにつながる」というのも一つの哲学なのかもしれんけど

148:2011/09/16(金) 20:26:13
とにかく落ち着け。お前たち!
俺は眠くて頭まわらんから寝る。

149:2011/09/16(金) 20:41:23
脳トレの達人版みたいな、何重にも罠をはった騙し絵みたいな、そんな感じか哲学

150名無しでござる:2011/09/16(金) 21:48:36
>>149
まぁ興味あったらハイデガーの「存在と時間」読んだらいいと思うよ。
他の哲学書に比べては難解な方じゃないから読みやすいし
文庫であるから全然金かからんよ

151:2011/09/16(金) 22:44:37
いやそんなんより中島義道先生の「哲学の教科書」でおk。
ものすっごいわかりやすい。これぞ哲学である。

152:2011/09/17(土) 11:46:58
哲学について哲学やってる人があれこれ主張する本って
なんか宗教やってるやつがその宗教について語ってるみたいなフィルター感じちゃうから
興味ないって言ったらウソになるけどそこまで魅力感じない

疑問うかぶ→情報集める→哲学ブログ偶然見つかる
みたいな、そんな感じの需要しかないわ俺の中で
本の推奨までしてもらったのに申し訳ないね

153名無しでござる:2011/09/17(土) 21:07:05
>>151
入門書は二冊ぐらいしか読んだことないからどういうのがあるのかわからん
ただハイデガーの存在と時間は哲学的思考をする上での基礎になるから、
最初に読んどいて損はないと思う

>>152
まぁ確かにハイデガー以前の哲学を知ってからじゃないと、言ってることの重大さがわからないのも
あるかもしれんわ
まぁこういう視点もあるんだな程度で受け取ってくれ

154:2011/09/17(土) 22:14:51
>>153

基礎を学ぶならとりあえずカントの「純粋理性批判」をおすすめする。
哲学の基盤が集約されている。いわば出発点だ。
ただ難しすぎて読解できるかどうかは保証できない(苦笑)。

155名無しでござる:2011/09/17(土) 22:39:48
哲学史からか、解説書から学ぶのが一番いい
難物から入るよう勧めるのはよろしくありませんね

156OG:2011/09/17(土) 23:11:26
たしかに哲学書読んだことありませんってやつに純粋理性批判は難しすぎるだろうな
もともとが難解な書籍は訳者によってかなり左右されるしね

157:2011/09/17(土) 23:17:34
>>155

一番いいのは哲学に精通している人と
コミュニケーションをとることだ。
噛み砕いて説明してくれるし、会話の過程で
すんなりと知識が入ってくる。
何よりおもしろい(笑)。

>>156

たぶん原文を読むのが一番いいのだろうが…。

158名無しでござる:2011/09/18(日) 06:34:20
本に出会うことと人に出会うことは同じことだ
本の場合は必要だと思えば手に取るだろう読むだろう
安易に最良だと依拠するところは終着駅への見切り停車だ

159Alive山田 ◆2YiZiNPEdk:2011/09/18(日) 10:59:29
なんていうか俺は、本を読むことで、自分が新たな発想をする可能性を狭める可能性が高いと思っている。
まぁ逆に言えば自分の知らない考え方を知ることで、新たな発想をすることができるっていう場合もあるけど、
大体はその本に書いてあることに納得してしまい、それが正しいと思い込むようになってしまいそうな気が、
(そこらへんの学生を見ると、哲学者の○○信者だったりなんだりで、コイツ自分で考える力を失ってるのかと思う)
所詮その人の考えにすぎないのに。
なんかわからない問題の答え見て分かった気になるみたいな感じで、いやなんだよね。他者に頼らないで自分で考えていくことで、誰も思い浮かばなかったような発想ができるのではないかと思ってる。今の考え方に満足しなければの話だけど。

ちなみにこんな俺にオススメの本があったら教えろ。いや、教えてください・・・

160Alive山田 ◆2YiZiNPEdk:2011/09/18(日) 11:01:46
ちなみに俺はそういうのに全く興味ないけど、それでもすげえおもしれえって感じのやつ頼む

161名無しでござる:2011/09/18(日) 14:46:47
>>154
あれは頭がつかれる
初心者には確かに難しすぎるよな^^;
でも哲学で詭弁を見極められないのは致命的だからなぁ
純粋理性批判はそういうこと教えてくれるから、
やはり読んでおいたほうがいいよね

>>159
でも結局発想っていうのは色々な考え方を当てはめて得られるものだから、
最初のうちは書籍から学んでいった方がいいと思うよ
いい食材がなくて、いい料理は作れないでしょ

まぁそれは自分で見つけていったほうがいいかな

162天才tinko:2011/09/20(火) 20:07:28
世界に存在するものの全ては基本的に、こういう構造(あるいは見立て・解釈)になっている
それは、エネルギーとでも言うか、あるいは要素とでも言うようなものが、散らばっている状態にある。
こういう状態を、世界が混沌としている、ひとつの繋がった世界として存在している。

この散らばったエネルギーは、均衡のとれた散らばりではなく、ゆらいでいる。
つまり、散らばりの濃い所と薄い所、つまり散らばってる所と集まってる所といった差がある。
そしてエネルギーの集まってる所は、秩序があるものと見立てる。
つまり、混沌の反対だ。

ベースに存在する混沌とは、要素の散らばり、存在の繋がりの事であり、
その反対に「秩序」とは、「要素の集まり」あるいは「存在の切り分け」である。

「要素が散らばるものが世界のベースである」とし、その「散らばりを集め、繋がった世界を切り出す行為」が認識であったり、定義である、いわゆる「秩序」である「記述行為」であるわけ!

ここからが本題で、この概念的で相対的な考え方は、人間の生死観と、幸福論にも当てはまるのではないか。

ベースに混沌という「散らばり」があるように、人間のベースは「死」と「不幸」がある。
この場合のベースとは「放っておくと自然に”そうなる”事」
つまり、世界は放っておけばエントロピーが増大するし、人間は放っておけば死ぬし、不幸になる。という事だ。

ならば、世界が放っておくとエントロピーが増大し、要素が散らばる状態になるもので、その散らばりを集める行為「秩序」という物が、ベース(混沌)の反対に存在するものだとすれば、
つまりそれは、人間が放っておくと死んでしまう事、不幸になる事、その死と不幸というベースの反対に存在する「秩序」にあたるものが、「生」であり「幸せ」であるはず。

つまり、人間の認識の基本原則は「何かと何かを切り分ける」事によって、物事を記述し、定義し、理解する事と同時に、
不幸の中から幸せを切り分ける事。つまりそれは、自分にとって混沌として、秩序のない、理解できない世界が不幸であり、それを切り分ける、つまり秩序を作る、あるいは見つける事が幸せであるという事だ。
要素の集まりを作り、存在を切り分ける事が秩序であり、それが不幸から幸せを切り取るという行為の説明ではないだろうか。


死とは「活動しない状態」と説明するばら、「活動しない状態」から切り離される状態とは「活動できる状態」だ
それはつまり、子孫を残せば、よりあたらしく「活動できる状態」を生み出すことができる、それは「死」から「生」を切り離した行為だ。
これが、動物における生の意味と定義だが、人間はもう少し複雑だ。
なぜなら、人間には「記述」という「生」があるから。
つまり「記述」とは、たとえ自分が死んだり、あるいは活動をしない状態になったとしても、自分が記述したものは「自分から切り離されて」 「活動をしない状態から切り離されて活動し続ける」事ができる。これが「記述」の本質であって、人間の「概念」の本質でもあり、人間の「生」の本質だ。

生きるとは、活動ができる状態を保つ事であり、つまりそれは、散らばろうとする要素を集めようとする事。
それは同時につながろうとする世界を、切り離すこと。これが生きるという事の基本構造と意味じゃないだろうか。

人間は原則、エントロピーが増大したものを不幸に感じ、エントロピーが小さいものに幸せを感じる。
だから、喧嘩や、会話が咬み合わなくてイライラするという行為は、まさに「散らばった状態」つまり「エントロピーが増大した状態」によって「不幸」になっているわけ。
ここに、切り離すというルールや定義を持ち込む事で、集まりや切り離しを行い、エントロピーが小さければ幸せになる、という原則をここに見つける事ができる。

163天才tinko:2011/09/20(火) 20:30:13
人の頭の良さには二種類の方向性があって、
問題の前提を問いただす能力(問題の存在そのものを考える方向)と、
問題があった場合、その問題と固定化し、ブラックボックスとして扱い、今ある要素からの最善の対処だけを考える事(問題の出力する結果だけを考える方向)と、この二種類がある。

問題の存在そのものを考えるとは、問題の中身である「要素の散らばり(混沌として問題がおきる原因の事)」をさらに集め直す事(予測できていない事を調べ直す事)で、問題を切り分け、より問題の核を見つけ出し、そもそも、なぜ問題が問題なのか?という構造を明らかにする事だ。

逆に、問題の出力する結果だけを考えるという事は、この問題の構造や、あるいは問題の必然性はさておき、問題が出力する結果のエントロピー、つまり要素の散らばり(問題の結果おこった不具合)を(結果においてのみ)増やさないようにしたり、あるいは少なくしようとする事だ。
これには問題の核は問題ではなく、問題の出す不具合を補えればなんでもよい、という事だ。

この原則をあてはめると、口論という問題をどう考えるか?という事が、よく見えてくる。

口論そのものが、なぜ起こっているのか?を考えた場合、つまり「問題の存在そのものを考えた」場合、
それはお互いの価値観の違いとか、感情の違いとか、目線の違いとか、そういた、あらかたの「論者の存在性の違い」に結論づける事でまとめらる事ができる。
(本当は、口論がなぜ起こるか?って疑問はなぜ論者の存在性が違うのか?という事と同義だから、ちょっとトンチな答えだけど)

逆に、口論そのものが起こった事を問題とはせず、起こってしまった口論をどうやって扱うか?によって、これ以上のエントロピー増大を防ぐ。
つまり、要素が散らばること(互いの言い分の予測できない不具合)を防ごうと考えるのが、「問題の出力する結果だけを考える」事だ。
これは、お互いの言い分の予測できない不具合が「なぜ起こるのか?」を考える事ではなく、既に存在してしまった互いの言い分の予測できない不具合を、なぜ起こったか?ではなく、どう切り分けるか?(どうとりあえずの秩序を作るか?落とし所を作るか?)という問題だ。
つまり、問題の構造ではなく、問題の出力・結果に対してだけ、エントロピーを小さくし、秩序(らきしもの)を見出せば”幸せ”という話だ。

この場合では、問題を第三者や、関係ないもののせいにしたり、(ここでは問題がなぜ問題であるか?という核は関係なく、問題の出力の結果を秩序だてるために、誰が責任を負おうとも関係ない)それによって、問題の出力の結果がエントロピー増大しないように、つまり要素が散らばって、混沌としないようにし、秩序をもたせようとする。
早い話が、問題を関係のない誰かの所為になすりつける事で、一度増大したエントロピーを理屈なく、小さくする、あるいは無効化してしまおう、という考え方だ。

両方共、アプローチは別々だが「エントロピーを少なくする」(散らばった要素を集める、もしくは無効化する)という点において共通点がある。

つまり、これらの法則の原則が、「問題の解釈の必然性」を問う前に、「要素の散らばりが大きいと不幸であり、小さいと幸せである」という原則に従えば、
むちゃくちゃな論理で、とりあえず「散らばりを小さくしてしまう」という力技がまかりとおるし、それは「不幸か幸せか」という判断においては、一定の効果があると考えても、不思議ではない。という事だ!

164くおりあ:2011/09/20(火) 20:52:10
おう!あろく、正面からではなかったがようやく登城か。
頭の良さを哀れなスノッブが批判するとはなんたることか。
「ある物事の群がXであるかいなか」という通常の判断が行われる 際の登場人物として、1:ある物事の群そのもの、2:ある物事の群を時間的なスケールで取りまいている狭いコンテクスト、3:判断のプロセスを実行していく様々なプログラム、4:プログラムに報酬を与えて動作に影響を及ぼしている価値系、5:プログラムと価値系に関わる事柄を時間的なスケールで取りまいている広いコンテクスト――少なくとも上記のものが挙げられねばならない。ここで着目されねばならないのは、これら全ての登場人物が変数的なレベルで存在していて、しかも互いに様々な影響を及ぼしあっているという点、一連のプロセスを通して抽出されてくるXも実に多義的なレベルで存在しうるという点です。もしもXに「ある集団にとって同じである」とか「誰にとっても同じである」という強弱の異なる共有度を設定したいのならば、上記のそれぞれの条件が少なくともタイプのレベルで一致している必要があります。5つの登場人物が同じような身なりをしていて、一定の共有度が設定されているようなXが、あたしによって「真理」の名を与えられる。故にあなたはどう思う?

165おらおら:2011/09/20(火) 21:23:19
>>164いみ分かんねーよ しねや

166おらおら:2011/09/20(火) 22:02:53
>>164貴殿は重要なところで救い用の無い瑕疵を犯している。それは、まず根源的存在論について、異なる価値系及び時間軸に則った物理的作用(電子の配置・位相・運動を含む物理論の根本)
に対する積極的容認とでも言うべき一般的前提を論ずることを忘れていることだ。此等は、専門的知識如何により議論の価値が決定付けられるというような意味ではなく、無論、有って然るべきなのだけれど、
結論としての真理という位置付けを再度論じ直すにあたってこういった根源的追求に恐れをなし、曖昧模糊なる再定義が行われるであろう論理の脆弱性そのものを露呈させる攻撃であるのだよ?
そもそも行為及び其れを取り巻く事象の構成的分解という手段はこれは、幾分か恣意的であるというか真理という概念は帰納演繹のような蓋然的な導出に取って代わるものではないということを忘却しておられぬか?
否、忘却という現象は人間の深層心理における対象への消極的否定、嫌悪、疎外の表れだというからこれもまた同様に心的作用により本来的に考慮されるべき所を胸中に押しとどめられたと言うことなのかも知れぬ。
だが、どちらにせよ議論の心臓部たる主張への論駁としては余り効果的では無いやも分からない。というのはくおりあの言うXという記号に代入される事柄が、これこそ一意的に判断せらるるものとは限らないからな
ん…待てよ?と言う事は、くおりあは端から要素分解という手法を持ってして真理の設定値を多義的理解に基づいた多元論により解釈していたのだろうか?しかしそうすると、変数による結果的識別の変容という点から見ると、真理という概念は宙に投げられた水塊のように特定の同一性が特定の認識により形を変えるということも意味する。この間に生じる間接的な事象に行違いは何によって、どのような学問により説明されるべきなのだろうか?私には検討がつかない。

167くおりあ:2011/09/20(火) 22:10:20
おらおら、お前はあろくだな?ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ〜〜〜♪


集合論の哲学さ!


読め!

168おらおら:2011/09/20(火) 22:15:58
やっぱ哲学書とか読んでる奴は頭が逝ってるな キメェわ ソクラテスの彫刻でも見ながらマスコイてろゲス野郎

169おらおら:2011/09/20(火) 22:21:00
>>166は平均的哲学っ子の文体を真似しながら適当なこと書いただけだから何の意味もないよ
思慮も主張もクソもないゴミみたいなレスだけどそれでもクオリアとか名前につけちゃう理性的思考を身につけたばかりの猿には十分だと思ったの

170天才tinko:2011/09/20(火) 22:30:04
つまりだ。

人は、行動や考えや、何かをすれば、要素が「散る」
散るから、まとめようとしたり、捨てたりして、散ったものを、集めたり、無かったことにする。
これが、生きるって事だ。

エントロピーが増えたり、それを小さくしたりして、循環させるって事だ。

「切り離す」って事は「わかる」って事で「認識する」って事だ。
なら逆に、捨てるって事は、散らす、世界に繋げる、混沌にするって事なのかもしれない。むずかしーい

171くおりあ:2011/09/20(火) 22:30:16
真理批判に対して適切な応答がなされているのその批判は問うことの制止を何らも強要しない。そもそも問うことの制止に力点を置いていなくて批判を少しも考慮 せずに問い続ける人たちの「並外れた豪快さ」に呆れているわけだが、批判を十分に考慮した上でそれでも問いつづけようとするのなら邪魔しようとするつもりはございません。
おらおらの脳の並列分散処理が生みだす多様な記述レベル、処理の「マッピング」が生みだす抽象度のレイヤがどのように「問題の整理」の内容と接続しているのかエッセンスだけでも提示してもらえますか?あたしにはそのように見えないのですが?

172おらおら:2011/09/20(火) 22:32:16
>>171うっさい

173名無しでござる:2011/09/20(火) 22:43:57
もっかい言っとくね、あろくは天才tinkoだよ
だから、おらおらはあろくじゃないw
分かってて言ってるかもしれないけど、一応

174くおりあ:2011/09/20(火) 22:45:31
エントロピーが小さくなる?

175くおりあ:2011/09/20(火) 22:47:49
名無しでござる ・・ありがとう♪
わかってるよ^^

愛してます♪♪

176おらおら:2011/09/20(火) 22:50:05
>>174お前頑張ってるけど、ここは天才tinkoの脳内であってCLOSEDなスレらしいよ

177おらおら:2011/09/20(火) 22:50:42
>>175きもい しね

178天才tinko:2011/09/20(火) 22:53:19
ぼくは深く絶望しています。

179くおりあ:2011/09/20(火) 22:58:14
へ?なんで絶望?

180名無しでござる:2011/09/20(火) 23:08:20
くおりあ‥ちょっぴり愛してます

絶望はあって無望がないなんて

181くおりあ:2011/09/20(火) 23:25:22
ちょっぴりでも嬉しいな〜〜^^

あろくのいってる絶望ってなんだ?

無望か・・

182名無しでござる:2011/09/20(火) 23:53:07
うれしいのは同じだね。
ちょっぴりって言うのは自分がよく分からないからだから、精一杯って言った方がよかったね。

183くおりあ:2011/09/21(水) 00:30:08
正直でいいよ^^そのまま大丈夫。OK

184名無しでござる:2011/09/21(水) 00:35:15
正直なことと、本音を言わないことは別なのにね。
正直じゃない人は自分にそっぽ向いてるんだ、きっと。

185くおりあ:2011/09/21(水) 00:46:35
そだね。
正直じゃないと真正面からいけないし、逆に全現象を成し遂げるのにも観察するのにも時間がかかっちゃうww

そのまま真っ直ぐいけよーって言いたくなる。

硬派わさ、無口なのかなw でも、喧嘩じゃなきゃいけないから、言葉で秘孔つくヤツ^^


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