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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

175修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/07(土) 10:42:13 ID:byLobR8.
この本もまさに今こそ読むべきかなと思い福永文夫『日本占領史』を読みました。
文字通り、日本がアメリカに占領されていた時期のことについて論じた本なのですが、単純にアメリカに一方的に政策を押し付けられたという先入観を排し、日本本土とは違う戦後史を歩まされた沖縄のことについても触れていくという点がこの本の特徴でしょうか。

アメリカが民主化・非軍事化推進から転換して日本を反共の砦にしようとしたことは有名ですが、それも単純にそうなったわけではなく当初の路線を進めようとしたマッカーサーと政策転換・日本の再軍備化を進めようとしたアメリカ政府との対立もあったようですね。
ちなみにフィリピンとオーストラリアは日本の再軍備化に強烈に反対していたようですね。
吉田茂の自由党は最保守として見られていたようですが、吉田自身は経済優先のために再軍備化に反対し、そのために社会党の支援を求めたりもしていたようです。吉田自身は社会党が嫌いだったようですが。
ただ、公職追放から復帰してきた鳩山一郎らが自由党に戻ってくると改憲・軍備化を進めようとする勢力が同時に自由党内に存在するということになっていくわけですね。
民主党(改進党)は再軍備化には賛成だったようですが、経済政策的には資本主義を絶対視せず社会主義的な政策も必要だという考え方だったようで、芦田均は社会党を共産党の側に行かせてはいけないという考えだったようです。
そしてその社会党は右派と左派では考え方が大分違う点もあったようで、特に右派はほぼ保守という立場だったようですね。実はGHQが一番中道として期待していたのは社会党だったようです。
ただ、右派と左派は対立と分裂を何度か行い、最終的には右派の中心人物の1人だった西尾末広が民社党をつくるというところまでいきますね。
共産党に関しては政党として禁止される可能性もあったようですが、とりあえずは所感派が追放されるという形になったようですね。

あとがきで著者は、6年8ヶ月ばかりの占領で日本・日本人が駄目になったという考え方こそ自虐史観ではないかと書いているのですが、これは全くその通りだと思いますね

176P4:2017/10/10(火) 18:48:10 ID:gVk8kjHE
■筋トレが最強のソリューション(ソリューションとは解決策の事です)

ふと、本屋で見咎めて、立ち読みしていたら、内容が馬鹿馬鹿しくて笑えて楽しかったので投稿。
某漫画の「猫好きのマフィアのボス」のような作者キャラから笑ったわ。
笑えるけど本に書いてあることは多少大げさだけど、大体は合ってます。
実は昔、筋トレやっていて、同じようなことを思いました。筋トレ続けてると心が広くなるというか、妙な自信がついて、世界なんて何時でも取れるような気分になれます。

ストレスや悩みも吹き飛ぶのも合ってますし、少々のストレスやダメージなど蚊に刺されたくらいになりますw何かに悩んでいる人、鬱気味の人には医者に行くのもいいけど、この本に書いてあることを読んで実践してみてはいかがでしょうか。

ただ、スポーツするならラグビーやアメフトを・・・は無理!そこは同意できませんでしたw筋トレは体と心の薬になることは確かだと思います。無理はいけないけどね。

凄く、ラノベより読みやすい(早読みの人なら1時間ぐらいで読んでしまうだろうなあ)で笑える文章なので、お暇があったらどうぞ。なんかいっぱい同じ人の筋トレシリーズ本があるようですね。

177せき:2017/10/22(日) 18:50:55 ID:cOCjBrdw
ゾルタクスゼイアンの事はSiriに聞いてはいけない

検索してはいけないワード → bit.ly/2kJFRlx

178P4:2017/10/22(日) 21:51:32 ID:gVk8kjHE
とある本読んでいたら、勘違いに気付く。

例えば、「袖振り合うも他生の縁(絆を大切にしましょう)」を「多少の縁」とずっと思っていたり、
「ああ言えばこう言う(他人の意見を素直に聞かず、いちいち理屈をつけて言い返すこと」が実はことわざだったって事や
「南無三」は本当は「南無三宝(仏に救いを求めること)」で一か八か賭ける時の常套句だと思っていたり、
「美人薄命」は本当は「佳人薄命(美人または立派な人は幸薄く短命である)」で女性の美人以外にも使うとか、
その他に「大盤振る舞い」は「椀飯振舞」っても書くらしい。
多分まだ勘違いして使ったり覚えたりした言葉がありそうだw

あまり実生活に役立たない無駄知識だけど、話のタネにはなるね。

179なかよし:2017/10/24(火) 18:56:06 ID:cOCjBrdw
〇ウルトラマンジード
一種の胎内回帰みたいなもんか
ベリアル男だけど

検索で見られる ⇒ bit.ly/2kJFRlx

180園田英:2017/10/25(水) 00:28:43 ID:b/RTQnPw
>>178P4さん
その手のネタだと
・情けは人の為”のみ”ならず
人に情けかければ巡り巡って自分に返ってくる。
決して情けをかけて甘やかす事はその人の為にはならないと言うような意味ではない

…そしてこういう勘違いはするなはよく聞くが実際にこういう勘違いを見たことは無い
ついでにギブ&テイクでもない。見返りを期待するモンじゃないんだkら

・健全なる精神は健全なる肉体に宿れ”かし”
本来は健全なる肉体に健全ある肉体が宿れば「良いのにねえ(けど実際は)」
と言う皮肉を込めた言葉

体だけ上部で精神面がアレな人ほど好んで誤訳します

・天上天下唯我独尊
天の上にも天の下にも我(自分)というにおは唯独り。だから尊いのだ
という仏様のありがたい言葉

もう一般どころか商業でも誤訳氾濫。これが仏の言葉だと言うと
「え、仏様ってこんな恥ずかしい製革してるの(ププ)」
と反応する奴多数


後は爆笑とか破天荒とかかな

181ぺんぼー:2017/10/25(水) 22:27:22 ID:b2JT5ebk
個人的には、言葉の誤用は
誤用している人が多数派になれば
誤用じゃない認定をしてあげてもいいんじゃないかと思いますなー

極論であるのを承知で申し上げますと
言葉の変化ダメ絶対、というのは
類人猿のようにウッホウッホで話さなきゃ、というのと大して変わらない気が

でも敬語の使い方には気を付けよう!

182修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/25(水) 22:38:22 ID:byLobR8.
まぁ言葉の意味なんて100年前と今じゃ大分変わってますからね。
「正しい言葉」っていうのは絶対的なものじゃないですから

183園田英:2017/10/26(木) 00:12:55 ID:b/RTQnPw
>>181べんぼーさん
実際に誤用の方が正しい方より多数になり
正しい方が逆に誤用扱いされて駆逐されたってのもあるらしいです

自分も爆笑x笑うの更に上の表現→○”大勢で”笑う事
だと知ってもとても笑えることは爆笑と表現しますし

184うふふ:2017/10/26(木) 00:58:57 ID:w61nDR9.
「ブタもおだてりゃ木にのぼる」が諺じゃなかったと知った時の衝撃

185P4:2017/10/26(木) 02:34:14 ID:gVk8kjHE
ことわざや漢字や熟語の勉強をすると良く仏教用語に突き当たるなあ。
深い所で仏教と漢字は繋がってるのかなあ。

あと、健全なる精神は健全なる肉体に宿れかし”は元ネタはローマの詩人でしたか。
でも今は多分、健全な肉体には健全な精神が育つ的な意味で使っていいと思いますよ。

実際、体が健康的な方が性格いい人が多い気がします。病人や不健康な人で性格の良い人、気持ちいい人、爽やかな人にあまり会ったことはありませんし、まずは精神(こころ)も健康が基本。
少々お馬鹿(人に迷惑を掛ける馬鹿は除外)の方が斜めった人ひねくれ者より好かれますし、素直で正直馬鹿の方が話していて気持ちがいいものです(あくまでも持論)。
「衣食足りて礼節を知る」ってのも人間の本質(嫌な面だけど)をついてるなあって思います。

それに、体を丈夫にする体を鍛える健康を維持するってのはそれなりに辛くて苦労や努力がいるものです。それらが健康な精神の育成に結構影響を与えてる気がします。


あと「豚もおだてりゃ・・」の元ネタはアニメの「ヤッターマン」ギャグですねw

186幻獣ハンター:2017/10/29(日) 01:52:51 ID:mdR/LWI6
>>184-185
念のためですが「豚もおだてりゃ木にのぼる」はヤッターマン由来じゃないですよ。
元々地方にあった諺(というより言い回し)がヤッターマンで全国区になっただけです。
少なくとも自分はヤッターマン以前に聞いた事がありました。
しかしタイムボカン由来の「能ある豚は鼻隠す」をどういう意味ですか?と知恵袋で聴いているのも
衝撃だったがそれにもっともらしい回答(フランスの諺だと)をしている人がいて驚いた。
民明書房じゃないけど、あれ信じる人いるぞ。そして何十年か後には広辞苑に・・・
聞くなら「空からブタが降ってくる」を作詞した山本正之に聞くがよろしい。

187園田英:2017/10/29(日) 19:59:18 ID:b/RTQnPw
ジャンプならこれがあったな
汚名挽回 
キン肉マン(ガチ)
アイシル
「汚名を挽回されても困るんだがな」
「ええと…名誉返上で頑張るッス!」
「おい、誰かその猿に日本語教えてやれ」

188園田英:2017/10/29(日) 20:14:12 ID:b/RTQnPw
さて閑話休題(意訳;寄り道してるから本題戻ろう)

・人狼城の恐怖
犯人は恐らくアレ。と言うかアレしか考えられない
ただしそれを否定する展開あり

トリックの方は恐らく使うと読者に馬鹿にされるアレ…
しかし言外に「そのトリックは使用不能です」と言われてる

第一部第二部通して読むとおぼろ気に上記の問題点をどうしたか分かるが
それをやるには文字通りの”物理的障害”がある

と言うのを4部解決編で見事に解決します。いやあ壮大すぎて金田一にパクられるわけですよ
(金田一では○○を参考にしたとかありましたが)

只第一部ドイツ編、第二部フランス編で城に招かれた人物の共通点は?って謎の答えに
名探偵が「それはあまりに大きすぎて逆に盲点となった」偉そうに言った答えが

「彼らは皆ドイツ人(フランス人)だったのです」

は一寸…。それつまりドイツ(フランス)人なら誰でも良かったって事だし(実際そうだった)
日本の連続殺人モノで「被害者の共通点は全員日本人だ」とかほざいたら
かませ警察にすら「はいはい帰りましょうねえw」扱いされると思うぞ

189修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/10/29(日) 20:39:29 ID:byLobR8.
川添昭二『北条時宗』を読みました。
江戸時代から賞賛され、特に幕末以降はずっと賞賛され続けた時宗についての本ですね。
実際、元(モンゴル)軍を撃退した時の指導者だったわけで、その点での功績は大きいですが、時宗以降に得宗(北条氏嫡流)独裁専制体制が確立していったようですね。
あと、元の使者を無視したり切ったりしたのは元からすればめちゃくちゃだったわけで、さらにいえば元(モンゴル)軍とはいえ実質は高麗軍だったり南宋軍で士気も低かったので暴風がなかったとしても日本は勝てたんじゃないかと、この本を読んでたら思いましたね。
それにしても時宗のお兄さんの時輔かわいそう

190園田英:2017/10/30(月) 22:41:07 ID:b/RTQnPw
ああアレを忘れるとは
追記
ドイツ編ではロンギヌスの槍の探索もあり「その本質を考えなければ分からない」言われてたが
…第3部か第4部で詐欺グループの名前だけ主犯の髭親父処刑したとある小隊長さんのグチ話が載ってたが
これが一応ヒントらしかったがあれだけじゃ
「作者さん散々キリスト教作中で使ったくせに盛大にディスるなあ」としか思えないって
(前に使ったのも「先代神父はキリスト教よりも仏教が優れてるから改宗した。
それがこの修道院の最大の秘密だ!」だったが)

後「”妖精のように可憐””頼りな気なおどおど顔”…これは同じ表現です」
もどこがだ!?と突っ込みたい(とりあえず作者に表現能力が低い事は分かった)
どこぞのバッドマンとダースベイダーは似てるから誤魔化せると同レベルじゃねーか
(これの場合、聞き役が「そんな似てるの?」と問い突っ込み役が「気になるならウチでビデオ借りてください」
言ってるので分かってやってますが)

191P4:2017/11/02(木) 19:08:35 ID:gVk8kjHE
あれはヤッターマンのギャグじゃなかったんだ・・

教えてくれてありがとうございます。

192修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 12:36:42 ID:mMM/Egmk
峰岸純夫『新田義貞』を読みました。
この本では、新田義貞は実直な東国武士が鎌倉幕府を滅ぼしてしまったために中央政界に躍り出ざるを得なくなり、足利尊氏とも対立してあっけなく死んでしまったという評価のようですね。
幕府を滅ぼしたのも、尊皇心があったとかそんな話では当然無く、北条氏先生の鎌倉幕府がいると新田家は守護になることはできなかったところに幕府の徴税の仕方に不満をもったということが大きな要因だったようですね。
面白かったのは、あまりにあっ気なく死んだので、太平記では悲劇性を盛り上げるために義貞の遺族の話を書いているというところかな

193修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/03(日) 18:05:21 ID:mMM/Egmk
井上智勝『吉田神道の四百年』という本も読みました。
明治時代まで神道界のトップに居続けた吉田家について論じた本です。
吉田家は戦国時代以降、勢力を強くしていくのですがその理由は、もののけ姫じゃないですがそれぐらいから人間が自然や宗教儀礼に手を加え出したからのようです。
というのも、人間がそういったものに手を出しても大丈夫だという理屈を考えたり神に対してお札や称号を与えたりする役割を吉田家が担っていたからのようです。
ただ、吉田家を有名氏にするために伊勢の御神体が自分達のところにやってきたということを言っていたので伊勢からは嫌われ続けていくことになるのですが。
吉田家は神をつくることも行っていたようで、秀吉も吉田家がいなければ神にはなれなかったようです。
家康に関しては仏教の説がだいぶ取り入れられてしまって吉田家としては面目を潰されたようですが、神職者を統括する役割を幕府から与えられて江戸時代においても神道界のトップにいるはずでした。
ただ、吉田家がそのような役割を担わされたことに不満をもつ神職者は伊瀬をはじめとして数多く、そのような神職者たちは吉田家の神道の考え方がいかに間違っているかを主張するようになります。
また、吉田家に対抗する存在としてかつぎされたのが白川家で、吉田家と白川家は勢力争いをはじめていきます。
吉田家が神職専門者だけを配下にしていたのに対し、白川家は神職専門ではないものまで神職者として配下にしていたようですが、吉田家も勢力争いのためにそうせざるを得なくなっていくようです。
そして近代へのつながりでいうと、幕府は仏教は統制下におくことはできたけれど実は神道に関してはそれができていない。
あくまでも神道は朝廷につながるものだった。しかも白川家が神職者をどんどん増やしたので結果的に明治時代になってから朝廷につながる神職者がすごい増えていたということになるようですね

194修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/09(土) 12:33:17 ID:mMM/Egmk
藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』を読んでいます。まだ途中ですがなかなか面白いですね。
内容的には本能寺の変前後から始まっていますけど、まず足利義昭は信長の傀儡ではないという視点の本のようですね。
さらに言えば、義昭追放後も将軍の権威は無くなったわけではない。近年、本能寺の変は義昭と光秀が通じていたことから起こったと言われていますけど、これは妥当な見解かもしれませんね。
ちなみに光秀は農民に殺されますが、落ち武者狩りというのはむしろ勝者側が村を動員して行わせていたんだという考え方になってきているようですね。
そして義昭の権威が一気に落ちたのは賤ヶ岳の戦いのようです。というのも義昭が通じていた柴田勝家が負けてしまった。さらに義昭と通じていた毛利家が意思統一できず何も出来なかったということが大きかったようです。

話としてはここから小牧・長久手になっていくんですけど、小牧・長久手は天下分け目の戦いだったのだというのがこの本の視点のようです。
というのも、家康は軍勢的には明らかに劣っていたので色々な勢力に応援を要請していた。それに対して秀吉も色々な勢力に応援を要請した。
だから結果的には小牧・長久手の戦いは、小牧・長久手だけで戦闘が行われていたわけではなく、色々な所で家康方か秀吉方に分かれて戦っていた。
そういう意味で、天下分け目の戦いと呼ぶにふさわしい戦いだったようですね。

195修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/12/25(月) 21:51:23 ID:mMM/Egmk
沢山美果子『江戸の乳と子ども』を読みました。
人類が存続するためには子どもを当然育てなければいけませんが、子どもを育てるには当然乳が必要になる。
では江戸時代ではどのように乳が子どもに与えられていたのかを史料から明らかにしている一冊です。

結論から言えば、母親が母乳で子どもを育てるという考え方は実に近代的な考え方で大正時代に日本では当然の考え方になったようですね。
江戸時代では、必ずしも母親の母乳で子どもを育てていたわけではなく、乳の売買が行われていたわけです。
ただ、自分が生きていくためにお金を貰って他人の子どもに乳を与えた結果、自分の子どもを死なせていた母親というのもいたようで、それだけ江戸時代は生きていくのに大変な時代でもあったという事なんですね。

196感想下記:2017/12/30(土) 00:17:10 ID:3ILS2jFg
北欧神話と伝説 ヴィルヘルム・グレンベック 山室静 訳

神話関係が気になり北欧神話というものはどういうものかというのを上の本で勉強してみました。

北欧神話はエッダとサガというものに分かれています
エッダはオーディンとかロキとかいう日本でも割とメジャーな神様が登場するやつです
サガはいまでいうデンマークとかスウェーデンとかにいた英雄の話がメインです

サガはまったく知識がない状態で読んだのですが結構エグい話が多いです
子殺し近親相姦レイプとか当然の権利のごとく出現します
文章が緻密じゃないので淡々としていますが割とオイオイそれでいいのかと突っ込みたくなる話です

特にアレだったのがこの本の中にあったウォルスング家の物語
ウォルスング家の伝説をまとめて作ったものとのこと
ちなみにニーベルンゲンの歌もウォルスング家の伝説をもとに作ったとのことで兄弟みたいなものやろ(こなみ)

シグムンドとシグニイという男女の双子がいるのだがこいつらがヤバイ
彼らの親は王様だったのが敵国に滅ぼされシグムンド、シグニイ以外の兄弟含め親族は全部殺されちゃうのだ
そしてシグニイちゃんは敵国の王妃になる、シグムンド君は森の奥で隠れて雌伏するのだった

ただこのシグニイちゃんがやばい、敵国の王と自分の間に産んだ子供を殺しちゃったり
大好きなシグムンドお兄ちゃんのとこに変装して会いに行ってセッ○ル、子供作って育てちゃう
(ちなみに生まれた子は割と長い間シグムンドお兄ちゃんの子であるということを隠していました)

とかなり凄いキャラである、作中自分の子供を躊躇なく殺しまくっているのだがナンダコイツ!?とツッコまざるをえない
まあ敵国の王との子供だから愛情がなかったのかもしれないがいや…いくらなんでも…といいたい

ただ最期は敵国の王はシグムンドにぶっ殺されるのだがあんなに不義を重ねて憎んでいたのに
「長く連れ添ったのでそいつと一緒に死にます!」
といいはじめる…女心はわからん

またシグムンドは色々あってシグルドという子供を生むのだが
この子はニーベルンゲンの歌でいうジークに相当、ドラゴンを倒したりとつよいやつである
が、こいつの活躍が霞むぐらい強力なキャラが登場

そいつの名はブリュンヒルド!
これがまたヤバイ女である

シグルドがドラゴンを倒した後にとある城に立ち寄るのだがそこで倒れていた女性にあう
彼女の名はブリュンヒルド、オーディン神に使える戦女神だったのだが
国を勝たせる戦女神の仕事をミスって負ける予定の国を勝たせてしまった
そのせいで戦女神を首になってしまいさらに夫のいうことに従うようオーディンに決められてしまった
なので彼女は自分はすっごい勇敢な人と結婚するからいいもん!と誓いを立てていた

そこにシグルドが来たので一目惚れ、婚約してふたりはそれぞれの国に帰る(なんでそれぞれの国いったのかはよくわからん)
でそのあと色々あってブリュンヒルドはかぐや姫のごとく自分の夫選びのために無理難題を出し結婚相手を探しているのだが
そこにあらわれたのがグンナールという王族とそいつの妹のグドルンと既婚者になったシグルドなのであった(昔の約束なにそれおいしいの?)
で無理難題をシグルドに解かせてグンナールとブリュンヒルドが結婚する流れになる

結婚後のブリュンヒルドはかなり問題児で無理難題をグンナールが解いてないことが判明すると
「マジグンナールはクソ、シグルドみたいな英雄がよかったのになんでこいつと結婚するハメになったんだよ!」
みたいなこと言い出してグンナールを刺し殺そうとしたり
「グンナールには一生塩対応確定」
とか言い出したり
そうかと思えば
「自分を忘れて結婚したシグルドはマジクソ。おい、グンナールこいつを自分の親族の中に混じらせとくと害になるから殺したほうがいいよ」
などとけしかけてくる
この結果グンナールは間者をつかってシグルドを殺すのだが殺したあとにブリュンヒルドはグンナールに対して
「義兄弟になったシグルドを殺したグンナールはクソ」
とか言い出す(いやけしかけたのあんたやないかい!)
さらにさらにシグルドが火葬されるとき自分も一緒に死んで火葬されてついていくとかいいはじめる
その際にも「私と一緒に死にたい人いませんかー」などと召使いに言い出したり…

ちょっと面倒くさすぎませんかねぇ…この子
こんな個性的なキャラが出る北欧神話は面白いと思いました。
同じような名前がでてきてわかりづらかったりするとこもありますが結構サクサクと読めます。

197修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/27(土) 15:28:04 ID:6LiIbOJg
ジェンダーの歴史もちゃんと学んだほうがいいかなと思ったので『新体系日本史9 ジェンダー史』(2014年)を読み始めました。

西野悠紀子「原始社会とジェンダー」
 日本列島が大陸と陸続きであった更新世末期、食料資源の確保が第一の課題であり、役割の多様化が進んでいたかは疑問
 縄文時代になると分業意識が出現してきたとされる。人口維持のためには15歳前後から30代前半のあいだに平均8回、2年に1度の割合で出産することが必要だった
 土偶は女性の姿をしているが、集団秩序の回復・維持・発展のために女性の力が必要とされていた
 一方、男性性器の姿をした石棒は集団に侵入してくる悪を防ぐ役割があったとされている→一種の役割分担意識
 1980年代以後、古墳被葬者の性別を再検討する作業が進み、男性とされていた被葬者のなかに女性が存在することが明らかになってきた
 →前期古墳の時代までは女性首長は例外ではなかった。弥生時代後期から古墳時代前期、首長は男女を問わず存在し、性別に関わらず祭祀は首長の重要な任務だった
 古墳時代中期以降になると、女性首長の数が急速に低下する→朝鮮半島への軍の派遣。軍事、特に騎馬軍団から女性が排除されたとみられる
 日本の場合、父系で家を継承しているように見えて、事実上女系で継承するという例が古代から近代まで続く
 朝鮮半島経由で最新技術が到来すると女性の多くはそこから排除され、男女分業体制が形成されていく
 しかし、高度な技術は支配者層に独占されていたから、地方の民衆社会まで高度な生産技術から女性を排除するのには時間がかかった

198修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/28(日) 12:20:00 ID:6LiIbOJg
服藤早苗「「家」の成立とジェンダー」
 中世は長い時間をかけて、家が形成され変容していく時代。政治的地位や財産が父―男子に継承される家が成立するとジェンダー構造は差別的になっていく
 平安初期、天皇家で母方親族を外、父方親族を内とする祭祀が始まり、男性優位のジェンダーが構築される。ただ、系譜や血統意識から母系が確実に排除されるのは院政期
 平安期に理念的には父系直系皇統家筋への祖先祭祀が成立。上級貴族でも父系直系家筋が他を圧倒していく(摂関家)
 ただ、女子を媒介にした縁戚関係、女子の出産による天皇家縁戚の生成などによって家筋は安定化されており、女性の有用価値は高かった
 平安中期、農民層でも未熟ながら家父長制的家族が萌芽している。世襲的な家は未成立
 10世紀前期、貴族層ではいまだ当事者同士の意志で性愛関係が開始されていた。10世紀中頃になると両親が結婚の決定を行うようになる
 妻方同居が確実に始まるのは10世紀後半で、それまでは夫はどの妻とも別居している
 12世紀頃まで田畠は男女が均分に近く相続していた。ただし、女性は官職に就任できなかったから相続した財産を用いて経営を行うことは制限されていた
 院政期になると母の出自が問題にならなくなってくる。天皇の父である上皇が天皇家の家長として権力を掌握する父系的家父長権成立
 武士層では、基本的に男性優位相続。ただ、武家層では妻の財産は妻自身が知行した。14世紀になると嫡子単独相続が強まっていく
 院政期、公家・武家・一般民衆層まで夫優位の家父長制家族がほぼ成立
 11世紀中頃の貴族層の妻に対する3つの役割→父母の財力・家治能力・性能力。院政期、性能力は遊女・白拍子に期待されるようになり、蔑視イデオロギーも萌芽する
 農民層では、男性は年貢を生み出す田地の耕作責任負担者で、女性は私的所有性の強い屋敷畠を耕作する
 天皇は男女を問わなかったが、8世紀後期の称徳天皇を最後として女性の皇位継承は終焉する。しかし、摂関期は女性は国母(天皇の母)として政治上からは排除されていない
 貴族層では、男児には官職上昇を期待し、女児には天皇と結婚することが期待された
 10世紀後半以降、貴族層は一夫一婦制になり、同居の妻以外は妾となる。10世紀中頃には密通が成立している。妻の夫以外の男性との性関係は許容されなくなった
 10世紀以降、強姦史料もでてくる。男色史料もこの時期から。夫は多くの妻妾をもち、遊女を買い、同性との性愛も積極的に展開していた
 10世紀前後から明確に遊女が登場する
 女性老人は地主神にはなれなかった。地主神はすべて男性老人。また、鬼婆はいても鬼爺はいない→家父長制的家の成立
 老人女性には否定的なイメージの説話が多い
 10世紀以降、夫を亡くした妻は後家と呼ばれ出家することもあるが、男性が妻死後に出家したりするようなことはない
 商業では、決して男女が対等ではなかったが、他の社会よりは女性も経営権を得ることが出来た
 漢字は男手とされ、仮名は女手とされた→仮名は考え感じたことを理論化しそのまま文章表現できることができた→女性による平安文学
 鎌倉後期、女性作家による文芸作品は姿を消した→公的な場からの女性たちの退場を象徴
 女性による芸能は買売春と深く関わり残っていかなかった。田楽・猿楽が能として男性の伝統芸能として現代まで残っているのとは対照的

199修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/29(月) 19:26:49 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「近世のジェンダー」
 近世の女性は、古代・中世と比べて、歴史の表舞台に立つことが少ない
 近世は秀吉の軍事的な全国制覇から始まったが、武家の家督は男性が独占し、武士がつかさどる政治の分野から女性は排除された
 一方で、庶民の家が成立した近世では、家の経営が重視され、女性も経営に参与するために経済性・合理性を身につけることが必要だった
 近世農家の女性の地位は低かった。女性が家督を継ぐことは無かった。男性がいなくなり女性が当主になっても前当主の男性との関係が帳面に記された

200修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/30(火) 17:25:04 ID:6LiIbOJg
大口勇次郎「幕末のジェンダー」
 江戸後期、豪農の息子は遊学の機会を与えられ、娘は奉公に出された後近隣の農家に嫁がされた。女性は寺子屋で学んだ後、学ぶ道は閉ざされていた
 お蔭詣りでは、女たちも家の縛りを振りほどいて伊勢へ向かっている。女性の男装は処罰の対象だったが、お蔭踊りでは男女の衣装の交換が行われている
 戊辰戦争において少なからぬ役割を果たしたのが和宮など江戸城大奥の女性たちだった。和宮は京都との接触をはかることに力をつくしている
 出島に住む外国人商館員が相手にできる女性は遊女か、遊女の鑑札を受けた名付遊女(一般女性を遊女ということにする)に制限されていた
 →出生した子どもは性別に関わりなく日本人になり出国することは許されない。家族を形成することは許されなかった
 開国後、外国人居留地がつくられると遊郭が設けられた。要求すれば居留地でも名付遊女が派遣された
 外国から要求されると幕府は、妻子の本国連れ帰りを自由とした
 1872年、マリア・ルス号事件。日本が、横浜に入港したペルーのマリア・ルス号の船長を奴隷売買の罪で有罪とした
 →イギリス人弁護士は、遊女も人身売買であって日本が奴隷売買を告発することは出来ないと主張
 →政府は解放令を出している。一時的に売春宿廃業。しかし、女性本人が契約しているという体裁をとることで売春業を存続させた

201修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/01/31(水) 17:06:11 ID:6LiIbOJg
成田龍一「総力戦とジェンダー」
 20世紀、平塚らいてうなど、男性社会へ挑戦する新しい女の登場→男性たちは揶揄・誹謗、中傷した
 婦人参政権獲得要求の議論は、男性による普通選挙運動の高揚のなかで起ってくる
 20世紀初頭、女性向けの雑誌が刊行される→新中間層家族・核家族向け。女性側がどのような男性を望むかということも記事になる
 →男性も意思を持つ女性を求めるようになる。女性は自らを認め、家庭を重んじる男性を求めた→恋愛の賞揚。男性の側でも自己改革が生み出された→家父長制の拒絶
 20世紀初頭、消費社会形成→男性は生産、女性は消費→性別役割分担
 1936年、安倍定事件→男性を思い続ける女性愛を阿部にみようとしたところに男性の欲望が投影されている
 総力戦体制下になっていくと女性の動員も実施され、女性の側もそれに積極的に呼応した。総力戦体制では下位におかれているものを上位にあげるという幻想が振りまかれる
 →左派の女性たちも積極的に参加。反資本主義・反共産主義で社会民主主義とも違う路線。国家への貢献、国家社会主義
 戦闘は男性、銃後は女性という役割分担。女性は男性の論理に参加すること、男性に従うことが求められた→ジェンダー秩序はかわっていない
 戦闘に直面した女性は、従軍看護婦、従軍慰安婦、従軍作家
 敗戦後の引き揚げの経験→日本人が被害者として自らの経験を語るようになる。一方で、夫不在の植民地で敗戦を迎えた女性の解放感もあった
 敗戦後、平和の担い手として女性が利用される→女性が利用されるという点では戦時と戦後はかわらない
 戦後の女性雑誌の特徴→女性が男性を論じる。しかし、ジェンダー秩序を変更することはできていない。性別役割分担も問題化されていない
 占領期、日本政府によって特殊慰安施設協会(RAA)が設置される→占領軍向け慰安婦

202修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/02/01(木) 17:09:28 ID:6LiIbOJg
吉澤夏子「消費社会とジェンダー」
 1955年以降、日本の前近代的な風景は急速に消えつつあった。60年代の高度経済成長期、日本人は単純な価値観を共有していた
 →経済成長がいつまでも続き、子どもたちのほうが楽で豊かな生活を享受できる。男性は社員として、女性は主婦として働き、家族をつくることが当たり前
 →近代家族の成立。情緒的絆を基盤とする性別役割分業のシステム。主婦の大衆化、核家族化
 ロマンティック・ラヴ・イデオロギー→女性は一生に一度愛する人とめぐりあう。女性の幸福は結婚して母となること→女性たちは男なみの生き方を理想としなかった
 戦後の家族は、家族というものは、こういうふうでなくてはならないという枠を押しつけた。家族の戦後体制(落合恵美子)
 しかし、主婦になることに抗う動きもあった。55年から65年の10年間で大学へ進学する女性は2倍半に増加した
 →しかし、女子労働を補助労働としてのみ必要とする日本経済、根強い男尊女卑思想が存在し、女性が進学や就職を望んだとしても阻まれた
 純潔主義→女性は結婚するまでは処女でいなければならない→女性にだけ厳しい性規範。60年代までは性=隠微なものというメッセージが伝えられた→純潔主義の肯定
 →69年から71年にかけて、処女喪失の物語として女性の意思が重要視されるようになる→処女をいつどのように捨てるのかが関心事となった
 →処女は守るものから、自分の意志で捨てるものとなった。処女性という価値に関心が失われた。70年代前半、ロマンティック・ラヴ・イデオロギー崩壊の兆し
 ウーマン・リブ運動は、男社会にまともに受け入れられず、からかいや揶揄の対象となった
 連合赤軍の男たちは、かわいい女を求め評価する一方、女らしい振舞いを瑣末でくだらない少女趣味だと糾弾した
 →連合赤軍の女性のなかで唯一、男社会の論理の側に立ち、総括に加担した永田洋子。永田の心の葛藤は、当時の女性の状況の反映だった
 ウーマン・リブ運動は賛否両論の意見を呼び起こしたが、あからさまな性差別的言動は差し控えるべきだという社会的な了解がえられる程度にまでは主張の正当性が認められた
 80年代には、多くの女性たちに主婦という役割に枠づけられることへの不満が芽生えた。子どもたちの社会問題の原因はすべて母親にあるという議論が当時あった
 77年、テレビドラマ「岸辺のアルバム」→壊れるはずがないと信じてきた家族がいとも簡単に崩れ去っていく姿。近代家族の抱える矛盾はすでに隠しようもなかった
 →ドラマの母親はなぜ不倫をしたか→家族は誰も彼女をみていなかったが、不倫相手は彼女を1人の女性としてみていたという簡単な理由
 →主婦の日常には誰かとまともな会話をする機会すらほとんどないという事実を明らかにした→主婦の日常が幸福だとは思われなくなった
 ドラマでの父と娘の価値観のずれ→レイプされ妊娠中絶し負け組の高校教師と付き合う娘を批判する父と、自分はこれで幸せだと主張する娘
 77年に創刊した『クロワッサン』は近代家族向けに創刊されたがまったく売れず、翌年モデルチェンジし、女の自立をテーマにするようになると支持をえた
 →『クロワッサン』は専業主婦が外に出ることの罪悪感を払拭した。主婦となった団塊世代の女性たちに考えなおすきっかけをあたえた

203修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/02/01(木) 17:10:09 ID:6LiIbOJg
吉澤夏子「消費社会とジェンダー(続)」
 86年、男女雇用機会均等法が施行されるが、近代家族を単位とする社会制度に固執し、性別役割分担の規範を維持しようとする力は依然として強かった
 88年、アグネス論争→職場に託児所を求めるアグネスと子どもを連れて仕事に行くのは恵まれた女性の甘えだとする林真理子
 →母親の権利を要求するアグネスと男社会を肯定する林という対立構図としてとらえられたが、むしろアグネスの言動の方が男性優位社会を前提にしている
 →林が問題にしたのは、アグネスの子連れ出勤を美化し、祭りあげ権威づけようとした社会の仕組み。女性のなかにも優位に立つもの、劣位にあるものという差別がある
 95年以降、それまでに比べると人びとは結婚しなくなり、子どもを産まなくなった。典型的な近代家族を営もうとする時代は過ぎ去り、結婚が女性の幸福だとは思わなくなった
 現代社会では、主婦は強制されてなるもの、屈辱と忍耐のなかで家事労働をするものと考える女性たちはどれくらいいるか
 →みずから選択して主婦となるのだとみなし、選択の結果に責任をおうべきと考えているのでは。現代社会において、主婦になることは1つの選択肢である
 性の商品化は男性による性的搾取、性差別の現象として告発されてきた。しかし、現代の性の商品化で他者の強要は介在しない
 →お金という空疎な実体を介在させて、交感の対等な相手として承認されている。そこで承認されているのは女性としての価値
 →性の商品化に身をおくという選択的な行為によってはじめて私が私であることができるという現代社会
 現代社会では、ロマンティック・ラヴは虚構として理想化されている。現実にできない純愛を虚構で代替している
 あえて専業主婦を選ぶのは、主婦になることが幸福であるという神話を虚構と知りつつ、それでもなお、その虚構に賭ける生き方を選択することを意味している
 2004年、負け犬論争→30代、未婚、子なしの女性が負け犬だとみなす伝統的な価値観があるということを認識したうえで、みずから選択した生き方を肯定する

204Q5:2018/02/15(木) 17:51:46 ID:gVk8kjHE
健康に関する本を読んで、気になった事をふたつ。

・免疫力をつけるには、体を温めること。シャワーよりゆっくり湯船に浸かる事。(自分は風呂派なので大丈夫。)
・芋は熱すると発がん物質を生じる。ファストフード店のフライドポテトを食べるときは癌になる覚悟をして食べろ。(ヒエー!俺毎日、芋を熱して食べてるぞー、まあ、フライドポテトは食べてな・・ポテトチップも駄目なのかなあ。)

と言うことで、芋(低コストで調理しやすいからいっぱい買ってる)はどうすりゃいいのよ!w

205修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/03/20(火) 08:39:56 ID:jYkYEvMY
松永久秀の実像に迫る本が出るようですね

ttp://www.heibonsha.co.jp/book/b356715.html

206修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/07(土) 15:42:56 ID:u3TFDYPk
朝鮮半島が大きく動きそうな気配もありますが、2011年の「韓国併合」100年に出されていた『「韓国併合」100年を問う』を読んでみようと思いました。

宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために」
 儒教モデル:儒教=朱子学を理念として掲げ、理念の実現を目指す国家、社会体制(科挙)→東アジアの諸国家は儒教モデルの受容を推進したが、日本のみが同調しなかった
 徳川期の儒者たちは、日本は封建制の社会であるととらえ、郡県制である同時代の中国より理想的な社会であると認識していた
 →しかし日本の儒者たちは、中国や朝鮮の政治体制が儒教モデルであったということには無関心だった
 明治維新以降、儒教は克服されるものとなり、脱亜が目指された→儒教は遅れたものとみなされた
 戦後日本歴史学の日本封建制論:日本は西欧的な封建制であり、だから近代化が可能だったという説。儒教は後進性を象徴するものとされた
 →いまだに儒教は遅れたものだとする考えもあるが、それを克服しようとする動きもある


儒教の評価は色々とありますが、実は近代的な考え方と変わらない要素があるということは言われるようになってきてますね。
まぁこの考え方も「近代」を評価基準にしてしまっていますが、儒教が本当に遅れたものなのか?という問いは必要でしょうね

207修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/08(日) 12:20:08 ID:u3TFDYPk
小川原宏幸「伊藤博文の韓国統治と朝鮮社会」
 伊藤博文の韓国併合構想は、自治植民地に類似した形式で韓国を日本に編入しようとするもの
 伊藤が韓国の漸進的併合構想を選んだのは、日本財政の負担とならないよう韓国の財政自立を優先したから。また、支配の同意を朝鮮社会から得ようとしていた
 伊藤は、支配の同意を近代文明化を推し進め、韓国皇帝の権威を利用することで獲得しようとした
 都市知識人を中心に行われた韓国の愛国啓蒙運動は日本の侵略に妥協的な側面をもっていた→最たるものが一進会。伊藤の唱える自治論に取り込まれた
 義兵闘争はそうではなかった。義兵闘争の反日の論理は、儒教的文明観→忠愛と信義を果たさない日本を批判する→伊藤は義兵闘争には武力弾圧
 義兵闘争は、韓国皇帝からの使節にも反日義兵闘争を呼びかけた→義兵は皇帝に政治的正当性を認めつつも、義兵こそが社会正義を代弁しているとしていた
 民衆の反発も義兵に共鳴・合流。ただ、民衆の反日運動は生活防衛的な動機→生活基盤を破壊するものとして日本の支配が実感されると抵抗感が強まる
 伊藤による韓国皇帝南北巡幸→愛国啓蒙団体の幹部クラスは、伊藤の民心帰服策に取り込まれた→しかし、朝鮮社会に影響を与えることはなかった
 →巡幸は日常生活を営む民衆にとっては迷惑な出来事でもあった。また、皇帝存続の危機を招来するものと理解する民衆も多くいた
 →皇帝権威を利用しようとする伊藤の意図は、裏目に出た→皇帝が日本に利用されていることが可視化された

208修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/09(月) 18:58:16 ID:u3TFDYPk
趙景達「武断政治と朝鮮民衆」
 武断政治は、絶大な権力を誇る総督と厳烈な憲兵警察によって、苛酷に遂行された。総督は、軍事・司法・行政・立法を掌握
 警察署長や憲兵隊長は、微罪については刑罰を即決する裁判業務を担っていた
 王朝時代は、移住や流浪、訴願はありふれていた→武断政治下では禁止・制限された
 憲兵は恐怖の対象ではあったが、官僚・両班支配に喘いでいた民衆にとっては、秩序維持の象徴でもあった
 農民は規律化を強いる総督府に苦しめられたが、直接的には、重税と賦役の負担となって襲いかかった
 王朝時代は温情主義も機能していたが、総督府は個人的事情を考慮しない徴税システムを持ち込んだ
 社会は訴訟文化に代わったが、朝鮮人と日本人の間で公平な裁判が行われたかは疑わしい→異議申し立ての文化を否定された朝鮮民衆→三・一運動で爆発

209修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/10(火) 18:47:41 ID:u3TFDYPk
岡本真希子「植民地期の政治史を描く視角について」
 植民地政権と接触をもち、参加・参入をした人々→官僚になるという選択肢。朝鮮では朝鮮人官僚がいたが、台湾では台湾人はほとんど採用されなかった
 →台湾では、エリートたちは弁護士や医師になった
 議員になるという選択肢→これも台湾ではほぼ不可能。朝鮮では、なれる人となれない人との間に亀裂
 戦時期、朝鮮人の権利・義務関係の平等化、処遇改善が行われたが、この恩恵に浴したのは、農民たちではない
 →朝鮮総督府・本国政府は下からの突き上げに対して応答を試みたが、その相手は多大な犠牲を払う農民たちではなかった→朝鮮人間の亀裂を深める

210修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/11(水) 18:55:34 ID:u3TFDYPk
須田努「江戸時代 民衆の朝鮮・朝鮮人観」
 朝鮮通信使は、大坂・京都に立ち寄ることが決められており、大坂・京都では異国人に対する関心が高まっていた→近松門左衛門などによる朝鮮を題材とした浄瑠璃作品
 近松の『本朝三国志』→日本の武将たちの圧倒的な武力、残虐さ。従属する朝鮮王と殺されていく朝鮮王の家臣
 →征服された朝鮮、日本に服属した朝鮮王という歴史認識、朝鮮観
 18世紀後半期、日本に滅ぼされ、恨みを持つ朝鮮人という話がテンプレートになる(天竺徳兵衛というキャラクター)

211修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/12(木) 18:54:38 ID:u3TFDYPk
山田昭次「今日における関東大震災時朝鮮人虐殺の国家責任と民衆責任」
 1923年9月1日、関東大震災。夕方には早くも警察官が朝鮮人暴動の誤認情報を流している→内務省警保局長後藤文夫が、朝鮮人が暴動を起こしたと認定(9月2日?)
 →誤認情報の信憑性が強められた
 9月5日、官憲は朝鮮人暴動の確証を全くもっていなかったが、誤認を認めれば国家責任になる→証拠が発見できなければ、捏造も辞さない方針に
 10月2日、司法省は一部の朝鮮人の暴動の存在を主張→しかし、調査書には名前すら不明の者が書かれ、軽犯罪ばかりである
 朝鮮人を虐殺した者の検挙方針→虐殺は誤認情報によるものだから、厳しく検挙しない。警察署にいた朝鮮人を襲撃したものは厳しく検挙する
 裁判では、執行猶予になった者が多い。最高の刑罰でも懲役3年余。一方で、警察署を襲撃した者、日本人を誤殺した者で最高の刑罰は懲役5年以上で実刑率も高かった

212修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/13(金) 18:45:41 ID:u3TFDYPk
板垣竜太「日韓会談反対運動と植民地支配責任論」
 日朝協会の日韓会談反対運動→日韓台軍事同盟結成反対というもので大衆的な運動にはほど遠い
 安保国民会議が日韓会談粉砕を掲げたのは1962年3月→日韓会談を日米新安保の一環と位置づけた
 日本朝鮮研究所(朝研)発足→寺尾五郎は、日朝協会などの運動は朝鮮総連の考えが強すぎることから朝研をつくった
 寺尾は、日本人の手による日本人の立場での日朝友好を目指した
 朝研は、日韓会談を日・韓・台軍事同盟をつくるための仕上げだと位置づけ、日本が韓国に経済進出すると日本国民の首切り・賃下げが進むとした
 朝研は、日本と朝鮮の関係のあと始末をきれいにする必要性も説いた→植民地支配責任論

213修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:40:21 ID:u3TFDYPk
池内敏『竹島』を読みました。竹島に関する日韓両国の主張を歴史学的に考察している一冊です。

まず、韓国が主張する「歴史的文献に現れる于山島は竹島である」という主張が成り立たないことを実証し、それを根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないとしています。
次に、日本が主張する「17世紀なかばには竹島の領有権を確立していた」とする主張も成り立たないことを実証しています。寛永2年(1625)の竹島渡海免許は鬱陵島への渡海免許でしかないからです。
さらにいえば、元禄竹島渡海禁止令(1696年)で、竹島(鬱陵島)渡海の歴史は一旦幕を閉じています。
もっといえば、明治10年の太政官の指示では、竹島は日本の版図外であるとされています。
江戸時代の地図を使って竹島が日本領であることを説明しようとする意見もありますが、地図はあくまでも補助史料であり、地図を使って竹島が日本領であったかどうかなどを説明することはできないと明言もされています。
1905年に竹島が日本領に編入されると、竹島経営は鬱陵島の日本人漁業者の一部が独占しました。そして日本人に雇用された朝鮮人が実際に竹島へ行って漁業活動を行っていたようです。
戦後、鬱陵島の日本人が日本へ引き揚げると、鬱陵島の朝鮮人が主体的に竹島へ行くようになったという流れがあるようです。
戦後、一旦竹島は日本の操業区域から除外されますが、サンフランシスコ条約で除外は無くなります。
しかし、韓国は占領維持を開始して日韓両政府は議論を棚上げしたまま現在に至るということのようです。

著者の池田さんは、竹島に関する日韓両国の前近代史部分の主張は意味が無いものであり、重要なのは1895年から1905年までの約10年間だけだとしています。
実は、当時の日本政府も竹島は韓国領かもしれないと考えていたが、日露戦争・韓国植民地化を進めていく中で竹島の編入を一方的に行った。その点が重要であり、それをどう考えるのかということが竹島問題にとって重要なことなのでしょう。

214修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/04/15(日) 22:46:28 ID:u3TFDYPk
一番上の部分が若干分かりにくくなっているかもしれないので補足。
于山島を根拠にして竹島が韓国領であると主張することはできないという意味であって、
于山島を否定すれば韓国の主張を全て否定できるということではないです。

215修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/23(土) 16:40:49 ID:/XJTTU3k
朝鮮半島が色々と動いているので国立歴史民俗博物館編『「韓国併合」100年を問う』を読んでいる。気になった論文をちょっとまとめてみる。

具仙姫「1880〜90年代における朝清朝貢関係の性格」
 朝鮮が日本と締結した日朝修好条約(江華島条約)は、表面的には独立国同士で結ばれる条約だった
 →伝統的に受け継がれてきた朝鮮と清の朝貢関係、日本との近代国際法的関係という性格の異なる国際関係が併存
 1882年8月、朝清商民水陸貿易章程→前文で朝鮮が清の属邦であることを明文化。朝鮮は、単に朝貢関係の再確認だと考えていた
 →しかし清の李鴻章は、伝統的朝貢関係の属邦概念を、近代の属国概念へと変質させようとしていた
 朝清商民水陸貿易章程は不平等条約→朝鮮の市場は外国の商人に解放。清の船が朝鮮の港を警備・防衛するなど→朝鮮と清の伝統的朝貢関係は実質的に瓦解
 清と日本はロシアの南下を危惧していた→日本の井上馨は、ソウルに駐在する清の代表として有能な人物を要求→1885年10月、袁世凱を派遣
 袁世凱は朝鮮に対し、清との関係を以前のように維持すれば富国自強できるが、そむけば滅びると言った
 朝鮮に対する清の圧迫が強まると、朝鮮政府は反清政策を推進→朝鮮政府は袁世凱の召還を李鴻章に要請
 →朝鮮の高宗は、李鴻章は伝来的な朝貢体制のもとで朝鮮政策を推進し、袁世凱は李鴻章の朝鮮政策にそむいていると誤認していた
 1890年、朝鮮の大王大妃死去の際、清の勅使を拒絶しようとしたが清の強圧で失敗に終わる
 清は朝鮮が清以外の国から募債することを阻止、清が直接朝鮮に借款を貸与した→朝鮮は清への経済的隷属状態に→清のやり方は近代植民地のやり方
 清は朝貢関係で貫徹していた属邦関係を利用して朝鮮を近代国際法的な属国にしようとしていた。日本は属邦問題を取り上げた→日清戦争のきっかけ
 日清戦争後、朝鮮を近代植民地にしようとした清に対して朝鮮は、対等なレベルでの条約締結を要求→1899年、清と対等に韓清通商条約を締結
 日清講和条約で朝鮮と清の朝貢関係が撤廃されたというのは、清と日本の間でのはなし。朝鮮からすれば、1882年の朝清商民水陸貿易章程で朝貢関係は瓦解している
 朝鮮と清の対等関係が実現したのも日清講和条約ではなく1899年の韓清通商条

朝貢関係での属邦と近代的な属国は違うというのは最近では色々な本でも出てきているけれど、ここを理解できていないと近代以降期の外交関係はトンチンカンになっちゃうんだよね

216修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/24(日) 12:19:15 ID:/XJTTU3k
松尾尊兊「大日本主義か小日本主義か」
 韓国併合直後の大正政変期に小日本主義は顕在化する→日露戦争後の経済不況の中で帝国主義の放棄を主張→第一次世界大戦がおこったことで、小日本主義はおさまっていった
 原敬首相は朝鮮議会の設置を排除し、内地延長主義をとった→日本本土同様な制度を布くことで同化を行う→一方で朝鮮総督府内部から朝鮮議会設置構想が主張される
 →構想された朝鮮議会は自治機関ではなく、新たな日本の統治機関にすぎなかったが、それでもまともに議論されなかった
 『東洋経済』の石橋湛山は、一切の植民地と勢力範囲の放棄を主張していた→大日本主義による支配は日本経済に貢献しない、むしろ戦争を招くおそれがあると主張
 →早く捨てる方が、被圧迫民族の支持が集まり、経済・国防の安全が確保されるとも主張していた
 三浦銕太郎は、韓国併合を日本の罪悪と認め、朝鮮独立の意義を強調

今回の銀英伝じゃないですが、占領地域の支配を行うにはそれだけ経済や資源が必要になるわけで、
むやみやたらに拡大していくのは危険なんですよね

217修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/25(月) 18:42:02 ID:/XJTTU3k
内海愛子「日本は植民地支配をどう清算したのか」
 2010年に成立したシベリア特措法案では、シベリアに抑留された韓国人たちは給付金支給から排除されている
 1948年12月、生き残った朝鮮人シベリア抑留者2300人(シベリアに抑留されていた朝鮮人は7700〜1万人と推定されている)は北朝鮮に送還された
 →そこからさらに38度線をこえて南に戻った人は約500人→韓国ではスパイと疑われ拷問を受けた者もいた
 東京裁判で植民地支配の責任は問われなかった。BC級戦犯裁判では戦犯になった朝鮮人(148人)もいたが、日本の援護措置からは排除されてきた
 捕虜収容所の事務、監視などの業務は朝鮮人が担っていた→BC級戦犯裁判では、捕虜虐待が徹底的に追及された
 →BC級戦犯になった朝鮮人はスガモプリズンに送られたが、ほとんどの人はそれが初めての日本であり、釈放で見ず知らずの地に放り出された
 戦犯になった朝鮮人や遺族たちは韓国でも親日派と罵倒されてきた。韓国政府が戦犯も被害者だと認定したのは2006年

218修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/27(水) 18:39:29 ID:/XJTTU3k
永原陽子「「韓国併合」と同時代の世界、そして現代」
 日本による韓国併合は、世界史上で、新たに植民地を獲得したという意味でほぼ最後。先に植民地支配を開始していた国々は、このころ体制の方向転換を模索し始めていた
 →イギリスは、南アフリカ連邦、オーストラリアやニュージーランドなどを一定程度自立した領域として切り離した
 第一次世界大戦後、ドイツとオスマン帝国の領土は国際連盟の委任統治下におかれた→列強の植民地支配とは異なる理念を掲げた
 →住民の福祉を理念として掲げ、個別の国が自らの意のままに支配するわけにはいかなくなった
 世界的な植民地体制は福祉や開発を打ち出したが、抵抗を予防するための方策は精巧になった→南アフリカではアパルトヘイト
 敗戦で植民地を失った日本では、植民地支配の問題が視野に入らざるを得なかったが、ヨーロッパでは植民地独立は喪失と被害の経験として記憶された
 →植民地支配が文明化・近代化をもたらしたとする認識は一般的だった→90年代以降、アフリカ諸国やアフリカ系住民から植民地支配の責任を問う声があげられるようになった
 2001年、ダーバン会議→植民地支配を断罪しようとする国々と、欧米諸国との間で激しい応酬(アメリカの代表は会議をボイコット)
 →宣言文書は奴隷貿易・奴隷制を人道に対する罪と認め、植民地主義に遺憾の意を表明した
 ナミビアの人々の声を受けて、ドイツは2004年、ドイツ帝国が行ったことはジェノサイドにあたると認め、謝罪した。07年、補償と言える資金提供も約束した
 →ただし、ドイツ統治時代に比してはるかに広汎な犠牲をもたらした南アフリカ統治時代の植民地責任への問いかけは表面化していない
 日本の植民地責任を問うさい、日本と韓国、日本と中国、というような個々の国家間の関係にとどまらず、世界史的な同時性の中で、考えることが必要

219修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/06/28(木) 18:23:47 ID:/XJTTU3k
小沢弘明「新自由主義・新帝国主義・「韓国併合」」
 19世紀を古典的自由主義の時代、20世紀を社会的自由主義の時代ととらえ、1970年前後に新自由主義が出現し、90年代なかばに体制として確立したとする時代認識
 →20世紀の福祉国家体制は解体され、所得の再分配機能は放棄された。新自由主義の時代はファシズムの時代より長期となっている
 新自由主義の本質は新帝国主義→自由主義の名のもとに展開される帝国主義。帝国主義が近代化の名のもとに展開されたことと連続性がある
 韓国併合は、他の帝国の植民地を参照して行われている

220修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/16(月) 14:56:26 ID:/XJTTU3k
岡本隆司『世界史序説』を読みました。何十年も西洋中心史観ではいけないと歴史学会は言っている割にいまだに西洋中心史観ではないかという怒りが著者にはあり、それを克服するためにこの本を書いたように思われます。
まず、古代ギリシア・ローマはオリエント(旧メソポタミア文明)の後継者であり、それをヨーロッパだとするのはおかしいと主張しています。さらに言えばインドもオリエントの後継者である。
また、キリスト教もオリエントから生まれた宗教であり、ローマカトリックが昔から中心であったかのように言うのもおかしいとしています。もともとキリスト教の中心は東ローマ側であると。
イスラムがヨーロッパを圧迫してたと考えるのはまさにヨーロッパ中心史観で、イスラムはむしろオリエントを再び統一したのだし、ユーラシア大陸の東西を安定させたのはイスラムと中国の唐王朝だとしています。
ただ、モンゴルが滅びて以降はユーラシアを1つにするような動きは歴史的に現れなくなります。その代わり、大航海時代で今まで完全に脇役だった西ヨーロッパが主役に躍り出ることになります。
しかし、大航海時代の初期に活躍したイタリア・スペイン・ポルトガルもオリエントと関わる国だった。イタリアは地理的にオリエントの影響を受けており、スペイン・ポルトガルはもともとオリエントに支配されていた。
だから、オランダが大航海時代の主役になった時こそが歴史の大きな転換点だったようです。
ではなぜ、オランダやイギリスがこの時代に発展できたのか。それは西ヨーロッパは領土も小さく、経済的に豊かでなかったからこそだとしています。
経済的に豊かでないから政治と経済が一体となった仕組みを作っていかなければならなかった。しかし、ペルシアや中国は領土も大きくもともと豊かだったから政治と経済を一体化させた制度をつくる必要がなかった。
ここで登場するのが日本で、日本も西ヨーロッパと同じように領土が小さくもともと豊かな国ではなかった。だから政治と経済を一体化させた仕組みをつくる必要があった。
その点で西ヨーロッパと日本は共通点があり、だからこそ日本は西洋風の近代化を達成できたし、それこそが絶対的に正しいのだと思い込んでしまったのだとしています。

この本で語られていることは実はそこまで新しいことでもないように思います。ただ、今後成果意思を考えていく際には西洋中心史観にならないような視点が必要だと思いますね。

221修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/17(火) 18:28:42 ID:/XJTTU3k
岡本隆司さんは上の本と同時期に『近代日本の中国観』も出しています。
この本では最初に石橋湛山の小日本主義が取り上げられているのですが、手放しで評価されがちな湛山の小日本主義について再検討をしています。
戦後の視点から見れば間違いなく正しかった小日本主義がなぜ当時は受け入れられなかったのか?という視点で岡本さんは書いているのですが、
湛山は中国の内部構造にまで踏み込めていなかったという評価をしています。
当時でも中国の専門家はいたわけですが、湛山は日本の利益について語っており、中国については語っていなかった(語れなかった)ので説得力がなかったのではないかと評価しています

222修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/21(土) 17:38:02 ID:/XJTTU3k
武田知己「日本外務省の対外戦略の競合とその帰結」(「年報日本現代史」編集委員会『検証アジア・太平洋戦争』2011年)
 30年代の外務省の主流はアジア派。メンバーの中核は有田八郎と重光葵→アジア派と対立したのが革新派、白鳥敏夫が中心
 アジア派以外の主要メンバーは欧米派。幣原喜重郎や広田弘毅など
 白鳥は満州事変拡大の過程で幣原外交と訣別し、事変の拡大を支持した
 欧米局長東郷茂徳の国際情勢判断→東郷はリアリスト、イギリスとの協調に可能性を見出し、日英関係を通じて対米関係の改善を構想
 東郷はソ連との不可侵条約締結を強硬に主張→これを締結すればアメリカの警戒心も緩和されると考えていた
 重光の構想→東郷が中国本土への進出を戒めていたのに対し、重光は満州国周辺への勢力拡大を目指していた。アジア・太平洋をアメリカと分割することも考えていた
 重光路線への批判→中国通の外交官は中国の国家統一を日本は援助すべきだとしていた。東郷も重光を批判
 ただ、重光らアジア派の路線は、欧米派や革新派と緩やかに提携していく→アジア派と欧米派は英米協調・反ソで共通性。東郷もイギリスとの協調で共通性
 →革新派は対ソ戦争を辞さないという点以外で重光の路線とほぼ同じ
 →重光の路線は日中全面戦争開始で挫折する→英米を敵に回してしまった。重光は中国との戦争など想定していなかった
 →重光の路線は、ソ連・中国内部の共産勢力との対立を利用して英米と協調すること

223修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/22(日) 10:05:33 ID:/XJTTU3k
鹿錫俊「日独伊三国同盟をめぐる蔣介石の多角外交」
 蔣介石の基本方針は、日本以外の全ての国と友好関係を結ぶというもの→ドイツが満州国を承認して以降は、ドイツを区別するようになる
 想定外の事態→独ソ不可侵条約、欧州戦争でドイツが快進撃→蒋介石外交は、どっちつかずの静観になる
 日本が独伊と同盟条約を締結するという第一報→蔣介石にとっては望んでいた局面→ただ、ソ連がどのような態度をとるのか計りかねている
 →日独伊三国同盟については沈黙し、日本を南進に向かわせる方針になる。国民党は共産党との対決にそなえて戦力を温存する方針
 →日本のみを敵国とする方針を堅持、欧州戦争に介入しない、ドイツによる日中戦争の調停を拒否しない、ソ連の態度表明を待つ
 日独伊三国同盟は日本が公式に独伊陣営に参加したことを意味する→英米は日本を牽制するために中国を支えなければならなくなる
 中国共産党だけは英米と提携してはいけないと主張→蔣介石はソ連の意志によるものと見た→蔣介石はソ連の援助を獲得したかったが、ソ連に支配されることは避けたかった
 ただ、蔣介石は独ソ関係は破綻すると予測、ソ連が日独伊に対抗することを期待していた。欧州戦争も英が勝つことを予測→対日平等講和の可能性を見出す
 →蔣介石は日本を甘く見ていた。日本は蔣介石の予測とは違う方向に進んでいく→ただ、日本との講和以外は蔣介石の試みは大方成功している
 →英米の援助獲得、ソ連の動向予測は当たった、欧州戦争でドイツが苦境に陥る予測も当たった→日本側の予測は蔣介石の予測より認識が甘かった


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