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習志野原の掲示板

7936エル・アルコン:2022/07/26(火) 20:34:47
1972
1972年は「鉄道100年」であり、偶然の面が強いとはいえ大きな改革もあった年でした。
面白いのはエポックメイキングとしてのダイヤ改正が3回あったわけで、3月の新幹線岡山開業、7月の房総関係、10月の全国改正(日本海縦貫線の完全電化)と、実は房総の7月改正は「首都圏ローカル改正」と切り捨ててもいいくらいの大物改正がありました。

車両面でも14系寝台車の本格投入開始(3月改正)、183系電車(7月改正)と大きな変化があったわけです。ご指摘の北陸トンネル火災事故で結果として急行の食堂車全廃となったのもこの年です。
世相としても田中内閣発足、日中国交回復、あさま山荘事件、札幌五輪、沖縄返還と大きな出来事が目白押しだった年です。

当時は路線の新設と廃止が入り乱れていた時期でしたね。岩泉線もあの当時であれば小本まで延伸して三陸海岸を縦貫する路線と接続すれば大化けすると思ってたんでしょうし、今でも流動的には小本−岩泉があれば三陸鉄道の支線として残っていたかもしれません。

篠山線も残っていればJR宝塚線は篠山行きが大半で、篠山口からは加古川線の谷川口のように超段落ちになっていたも。
白糠線はどう考えても無理ですが。そうそう、偶然かもしれませんが、篠山線の篠山、鍛冶屋線の西脇と、支線にちょっと入ったところに有力都市の中心がある、というのがこのエリアにあるわけで、公平性の問題がどうしてもネックですが、こういうケースは残していればとも思います。

城東電軌はどうですかね。専用軌道区間も砂町線の一部だし、南北連絡は四ツ目通りの方がメインだし、道路の幅員を確保してセンターリザベーションの軌道を整備すれば近代化も可能でしたが、起終点での各方面への直通を考えるとBRT的な近代化の方がよかったのでは。水神森(亀戸)とか、かつての大市交バスのようにターミナルを設けて接続を意識した路線網への再編があってもとは思いますが。




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