[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
| |
ヨブへの回答−完全グノーシス版−
1
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/03/17(火) 23:08:02 ID:???0
ユングのような回りくどいやり方でやるのも私は面白いと思うが
私は旋風からヨブの「目の前に」現れた神についてはっきり言お
うと思う。そもそもユングは激情に身を委ねると称して言い切れ
ていないからだ。あれは『ヤルダバオート』であると。
新共同訳の『ヨブ記』において、ヨブの前に現れた神はこういっ
た。
「これは何者か。知識もないのに言葉を重ねて神の経論(オイコ
ノミア)を『暗くする』とは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお
前に尋ねる。私に答えてみよ」
以下120節以上にも渡って、もういいだろう?それ以上このちっぽ
けな人間を虐げてどうするのだと、力でねじ伏せようとする圧倒
振りがある。わけもわからないなかでこのように理不尽に叩き潰
されそうになっているヨブ、彼にどうして反論できようか。口に
手を当てて押し黙ろうとするヨブ、にもかかわらず、まだ続ける
のだ、この「見えた神」は。
「私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論できま
しょう。私はこの口に手を置きます。一言語りましたが、もう主
張いたしません。二言申しましたが、もう繰り返しません。」
「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟
りました。
『これは何者か、知識もないのに神のオイコノミアを<隠そう>
とするとは』
その通りです。私は理解できず、私の知識を超えて、驚くべき御
業を論っておりました。
『聞け、私が話す、お前に尋ねる、私に答えてみよ』
「あなたのことを、『耳にしてはおりました』。しかし、今、こ
の『目であなたを仰ぎ見ます』。それ故、私は塵の灰の上に伏し、
自分を退け、悔い改めます。」
神が圧倒しているように見えるこの最後の結末。だが、はっきり
言おう。二十八章の「神の知恵の賛美」がある。ヨブはこれにつ
いて「聞き知っている」。ユングはヨブに落ち度があるとしたら
楽観主義だけだといった。だが、確かに楽観主義といえるが、ユ
ングの意味の楽観主義とは若干違うというものを提示してみよう。
2
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/03/17(火) 23:10:01 ID:???0
ヨブの言葉をよく見てみよう。「あなたは全能であり」というこ
の言葉。これはこれでいい。次を見てみると「御旨の成就を妨げ
ることはできないと悟りました。」とあるが、これは二通りに読
める。それはヨブがよく「耳にしていた」神の御旨の成就を妨げ
ることはできない、という読み方と、「目の前に現れた神」の御
旨の成就を妨げることはできない、という読み方である。通常は
おそらく後者の読み方で読むだろう。(というよりも前者の読み
方はあまり知られていないと思う)だが、私はあえて前者で読む。
細かい違いだが、見落とさないでいただきたい。神の言葉はヨブ
をさして「知識もないのに神のオイコノミアを『暗くするもの』」
である。対してヨブの言葉は「知識もないのに神のオイコノミア
を『隠そうとするもの』」とある。変換されているのである。そ
の上で「その通りです」と答えるヨブ。この目の前に現れた神を
理解できない、彼がよく「耳にしていた」神とはまったく違うも
のだったからだ。
『目の前に』現れた「神」を名乗るものは自分の言葉を『聞け』
という。ところがそれは聞かせてはいるが、『目の前に現れてい
る』のだ。目の前に現れたこの神が聞かせる言葉は、ヨブにとっ
てよく耳にしていた神の言葉とは思えないものだった。それは、
かえって「無神論者」の言葉としか思えないのである。ともなれ
ばヨブがいった「知識もないのに神のオイコノミアを隠そうとす
る」張本人は、この目の前に現れた『無神論者』の吐く言葉とい
えるのである。その後に「その通りです」というのは、ヨブは自
分を指していった言葉ではない。神の言葉を引用してそのままこ
の目の前に現れた神をさして「その通り」だ、といっているのだ。
だが同時に自分のことを指して言っているようにも聞こえるとい
う点で、これは知識の人ヨブの言葉巧みな返し方といえるのであ
る。
3
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/03/17(火) 23:16:51 ID:???0
このことをさらに立証する手立てとして、『ヨハネ福音書』には
「かつて神を見たものは誰一人としていない」ということがあげ
られる。というわけで最後の帰結にヨブが「耳にしていたが、し
かしこの目で仰ぎみたのは初めてだ」といったのは、目で見たの
が本当の神ではなかったということなのだ。そうすると答えは簡
単だ。
ヨブが楽観していたのは、この世を支配しているのが自分のよく
耳にして聞き知っている神であるはず、という一点であり、まさ
かこの世を支配していたのが、もはやよく聞き知っていた神では
なく、この「無知蒙昧なる無神論者」であるヤルダバオートだっ
たとは思いもよらなかったのである。ではヨブがよく聞き知って
いたオイコノミアを定めた神はどこへ行ってしまったのだろうか。
それは、ボゴミール派が語るような至高神のような「デウス・オ
テイオースス」となってしまっていたのである(暇な神)。要す
るに真の至高神は、この世のことを放置プレー状態にしているの
であって、ヨブは最後にそれを知ったのだといえよう。これこそ
光のグノーシスといわずしてなんであろうか。
最後に、この世を支配するのがヤルダバオートであり、至高神はデ
ウス・オテイオーススであるということをヨブに知らしめたのは誰
だったかを指摘しておこう。
それは光を与える者にして暁の輝ける子、「ヘレル・ベン・サハル」
(ルシファー)としてのサタンだったのである。
ヨブはここに光のグノーシスを、間接的にサタンから開示されたの
である。だがそれが一般の意味でいうところの「救済」であったの
か?といえば否である。ヨブは確かに光を得た、しかし結果的には
闇の中で塵芥に過ぎぬことを自覚する「刑苦」を背負い、生き抜い
たのである。最後の神の祝福は私にしてみれば「刑苦」としか言い
ようがない、ある意味ヤルダバオートの嫌味だ。しかしだ。ヨハネ
福音書にあるように「闇は光を阻止できなかった」とあるようにヤ
ルダバオートは最初から最後までヨブに負けていたのである。
4
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/03/17(火) 23:45:50 ID:???0
もう少し補足しておくと『ヨハネ福音書』の闇は光を阻止できなかっ
たというのは、私がヨブ記から読んだ、「耳にしていた」神の御旨の
成就を妨げることはできない、という読み方と対応しているというこ
とである。ヨブは自分が「耳にしていた神=至高神デウス・オテイオ
ースス」のオイコノミアを隠し立てすることはできない、と言葉巧み
に返したのだ。だから、闇=ヤルダバオートは、光=至高神を阻止で
きなかった、取り押さえておくことはできなかったのである。
ヤルダバオートは位格である。それは神の仮面を被ったまがい物であ
る。そして仮面を被っているがゆえに裏側を知らないのであり、自分
自身の本質を知らないのだ。ヤルダバオートは無神論者である。なぜ
なら至高神について無知だからである。『伝道の書』に「智慧は力に
勝る」とあり、『ヨブ記』は智慧が『力』をひけらかすヤルダバオー
トに勝利し、絶望の中に、もはやロゴスの通用しない瞬間を垣間見た
悟りの物語だったのだ。
5
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/03/18(水) 02:59:55 ID:???0
思えば『創世記』の頃から全知全能の神など不在のごときである。ソド
ム滅亡の際にアブラハムと「主」の会話がなされるわけだが、「主」は
グノーシスに照らすなら造物主ヤルダバオートとしか思えない。なぜな
ら善悪を知る神が、なぜ人間の側からたしなめられなければならないの
か。ソドムの滅亡など、17節にもわたってアブラハムにたしなめられて
いたりする。明らかに『善悪を知らない神』というように思える節ばか
りだ。だが、この裏を読むと、私が至高神をデウス・オテイオーススと
言ったのはまた同時に、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)で
あるというようにも受け取れるのである。なぜなら「主(YHWH)」
をヤルダバオートであると読むと、後ろに『バシリデースの教説』に見
出されるような、「存在しない神」の、すべてその計算づくされたこと
であるという、真の「全知」が見出されるからだ。ヤルダバオートに全
知はない。全知にとっては何が起こるか、それはすべて計算済みだから
だ。要するにこの場合、サタンのけしかけもヤルダバオートのヨブの前
にさらされた無知も、デウス・オテイオースス=デウス・エクス・マキ
ナの想定の範囲内だったということができるであろう。ヤルダバオート
の意図するところに全知はないのである。これはユングの場合、全知が
飛んでしまっていて、ヤハウェは全能をひけらかしてさまざまなものを
作れる力を目の当たりにして子供のようにはしゃいで全知を忘却してし
まっているという風に苦し紛れな形となって説明しているが、私はこれ
をオミットしたといえるだろうか。至高神はデウス・エクス・マキナで
あるがすでにデウス・オテイオーススであり、ヨブにはすでに、あの時
点で答えが与えられていたのである。
この点、イスラームのアッラーはデウス・オテイオーススであり、デウ
ス・エクス・マキナとしての性格を取り戻しているように思われるが。
6
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/03/24(火) 14:26:56 ID:???0
もっとも、これはグノーシス主義における解釈法であって、ユダヤ神秘
主義カバラに置き換えることもできるだろう。これはユングが『死者へ
の七つの語らい』において、プレロマ(プレーローマ)を、エン・ソフ
と同義のものとみなしていると考えられるところからも解釈できるし、
バタイユが神をさしてその「位格」、つまりペルソナは非連続的な属性
を持っているが、それそのものは「存在の連続性の混合物」である、と
いっていることにも関わっていると思われる。
エン・ソフは「隠れたる神」である。すなわち、人間の前に現象として
表れる、「愛の神」であるとか「妬みの神」といった神の非連続的な属
性はみな位格であり、仮面なのであって、神そのものの本質は、それら
一切の属性から完全にかけ離れたものとして、人間の分際でははかりし
れぬ、見る事も感じることも思考の対象にすることもできない超越した
ものとされている。
問題はこの仮面が邪悪か、そうでないか、そしてその考え方が認識重視
かそれとも信仰重視かである。ユダヤ神秘主義カバラでは、ヤハウェは
当たり前のことながら神聖視されている。グノーシス主義のヤルダバオ
ートもこちらのヤハウェも「位格」であることには変わりはない。
ようはこの「位格」の捉え方の問題である。ヤハウェが現れることで、
このペルソナの裏側にあるエン・ソフが認識される。この場合多面相と
いえるヤハウェは「自分ですら自分自身を知らない」という形でエン・
ソフを目に見えないという形で「知らしめてくれている」ものとなる。
だからユダヤ神秘主義カバラではヤハウェは貶められないのである。グ
ノーシス主義とカバラの相互関連を述べるが、このようにみると、ユダ
ヤ神秘主義カバラはうまい回避方法をとったとみなしえる。すなわち構
造は同じであるが、自分たちの唯一神は貶められないのである。
7
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/11/11(水) 21:03:07 ID:???0
すみません、スレ名に「完全」なんてつけてますが、おこがましいですね・・・。
解釈の一つということで…。…というわけでもう一段。ニーチェ解釈編です。
『反キリスト者』には、「「原因」と「結果」の自然概念の逆倒」について書
かれている。それは端的にいえば、「おんどれは、本来の神と人間の相互関係
を忘れたか!?」と唱えている側面がある(汗)。それと関連してだが、『悦
ばしき知識』にはこんなことが書かれている。
「〈最大の重し〉。――もしある日、あるいは夜なり、デーモンが君の寂寥極
まる孤独の果てまでひそかにあとをつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろ
う、――「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、否、さら
に無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこにあらたな何ものも
なく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想とあらゆる嘆息、お前の人
生の言い尽くせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰せねばならぬ。しか
も何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、さればこの蜘蛛も、
樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねば
ならぬ。〈存在〉の永遠の砂時計は、繰り返し繰り返し巻き戻される――それ
とともに塵の塵であるお前も同じく!」――これを耳にしたとき、君は地に身
を投げ出し、歯軋りして、こう告げた〈デーモン〉を呪わないだろうか?それ
とも君は突然恐るべき瞬間を体験し、〈デーモン〉に向かい「お前は神だ、お
れは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答えるだろうか。
もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、
おそらくは粉砕するであろう。何事をするにつけてもかならず、「お前は、こ
のことを、今一度、否、無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大
の重しとなって君の行為にのしかかるであろう!もしくは、この究極の永遠な
裏書と確証とのほかには、〈もはや何ものをも欲しない〉ためには、どれほど
君は自己自身と人生とを愛惜しなければならないだろうか?――」
8
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/11/12(木) 12:55:37 ID:???0
ご存知の通り、『悦ばしき知識』の中で開示された〈永劫回帰〉についてのアフォリ
ズムであるが、このモチーフ、私にはあの『ヨブ記』のヨブが目の前に現れた「主」
によって驚愕的な体験をするあの場面に被って見えてしまう。〈永劫回帰〉の精神は、
ニーチェにおいては「神」であり、またそれは〈存在〉=「生」の円環運動をさして
いる。それは〈存在者〉全体との関係において「一にして全、全にして一」である。
それらの象徴的表現は、自らの根拠を奪い続ける〈ウロボロス〉の蛇である。蛇は、
ご存知の通りキリスト教においては人間を堕罪せしめた〈デーモン〉である。しかし、
ニーチェが〈デーモン〉と呼ぶそれが「神」であるというのは、ヘブライにおける本
来の〈YHWH〉についての神の概念と全く相反しない。なぜなら、〈YHWH〉の
意味は〈存在〉であると考えられており、また「生の上昇運動」そのものであり「生」
の光明化や永遠の肯定」を表象するものだからだ。『反キリスト者』において、ニー
チェは、「さあ、汝らはここに何を見て取れるか!」と、執拗に凝縮した説明をして
いる。
12
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/11/16(月) 00:27:43 ID:???0
すみません、思考を逡巡しているうちに、自分なりにもっと面白い書き方があること
を編み出しました。それもある意味ニーチェ=グノーシス的な。それと、自分で読み
なおしていて、明らかに書き方に不具合が生じていると思われるので、書き直させて
ください。ホント申し訳ないっす…。黄金の〈ウロボロス〉の閃光ってまあ、ハイデ
ッガーを参照しているんですがね…。あの人、殊更に〈蛇〉のことを強調なさる(笑)
13
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/11/17(火) 22:26:26 ID:???0
ニーチェの根本論理を図式化しておいたほうがいいだろうか?
〈存在〉=「生」=「魂」=「生成への動き」=「〈力〉への意志」=「〈力量〉の
昂揚と下降の永遠の円環運動」=「生の円環運動」=「「生」という〈蛇〉の腹に輝
く誘惑的な黄金の閃光」=〈ウロボロス〉=「神」
私の思考の場合、ニーチェは厳密に言うと「無神論者ではない」という結論が出る。
むしろ「有神論者」ではないかとさえ思えてきてしまう。とりあえず、特に問題視さ
れる訳語のことであるが、ここでは〈Macht〉を〈力〉、〈Kraft〉を〈力量〉と訳し
ておく。前者は「行使することによって作用するもの(たとえば「語ること」)」で
あり、後者は〈生命エネルギー〉である。それぞれちくまのニーチェでは前者が〈権
力〉であり、後者が〈力〉である。ニーチェはヘブライの「神」について、それは本
来最高の「〈力〉への意志」を持っていたというようなことを言う。もし、「神」と
いう概念が堅持できるとするならば、それは単に衝動する〈力量〉としてではなく、
「神」を極大状態として、一つの〈転期〉として、捉えることによってのみであると
もいう。「神」とはニーチェにおいて「〈力〉への意志」の発展における一点であり、
この一点から、それ以前の発展、そこまでの発展と同じく、それ以後の発展も説明さ
れるという。
「われわれは「神」の概念から最高の善意を除去しよう。それは「神」の品位に相応
しくないからだ。同じくわれわれは最高の知恵をも除去しよう。「神」を知恵の怪物
と見なすこの愚かさをおかしたのは、哲学者たちの虚栄心だからだ。〔われわれは〕
「神」は能う限りにおいて彼らと平等視されるべき〔だという者たちに対して唱えよ
う〕。否!「神」とは最高の〈力〉、これで十分なのだと!すべてのことがそれに引
きつづいて生ずる、それに引きつづいて生ずる――「世界そのもの」が!」
(『力への意志』1037番(一部改))
…『機動戦士ガンダム』のギレン・ザビとか、どこぞの独裁者が勘違いしそうなアフ
ォリズムだが、もちろんニーチェがそういうことを言わんとしたのではない。なぜな
らそちらは〈権力欲〉とか〈支配欲〉とか〈力〉そのものを欲するのであって、「生
き生きとした〈力量〉の上昇・下降の円環運動の肯定」ではないからである。
14
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/11/17(火) 23:36:58 ID:???0
以前より挙げている『悦ばしき知識』の125番と連動しているが、この『力への意
志』1037番も明らかに本来の「神」の復活を唱えていると考えられる。それは人
間の「神の臨在」=〈シェキナー〉=「魂」の復活でもある。そして、この「魂」の
復活のために啓示的存在となっているのが、上記に挙げた『悦ばしき知識』341番
に登場する、〈永劫回帰〉について告げる〈デーモン〉だ。この〈デーモン〉は本来
の「神」である。『反キリスト者』をみれば一目瞭然だが、「生」の肯定そのものを
表象する〈YHWH〉は、「「原因」と「結果」の自然概念の逆倒」によって捏造さ
れたキリスト教の「生の否定」としての〈神〉とは真っ向から対立するもので、その
道徳観からすれば〈デーモン〉である。したがって、この〈デーモン〉の〈永劫回帰〉
の告知に「神的なこと」を聞いたと叫ぶ者は本来の「神」の概念の認識に覚醒しえる
者だということになる。これは上記に示したすべてのもの、すなわち〈存在〉=「生」
=「魂」=「生成への動き」=「〈力〉への意志」=「〈力量〉の昂揚と下降の永遠
の円環運動」=「生の円環運動」=「「生」という〈蛇〉の腹に輝く誘惑的な黄金の
閃光」=〈ウロボロス〉=「神」の認識に目覚めるということである。それは「最強
者の手にする鉄槌」だということになる。すなわち〈超人〉たりえるものである。逆
に呪うものは〈末人〉ということになるだろうか。
15
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/11/22(日) 01:33:45 ID:???0
私ははっきり言って、ニーチェの芸術についての論理それ自体は、ユングの内的要因
であるゼーレが、外的要因に触発されて生成することへの意欲に駆られるという説明
と全く違わないものであると考える。ニーチェは、『力への意志』とは、「魂」が感
官の先入見のうちに世界に対して抱く、「「芸術家」の芸術(技芸)への「生命感情」」
であるという。これはユングの言うところのヌミノース(ヌーメン的・守護霊的)な
「情動」に近いのではないか。というか訳の問題だと思うし、またニーチェ自身の語
の表現が散逸的なのだが、ちくま版の『権力への意志』において「欲情」となってい
る部分が、ハイデッガーの講義(細谷訳)では「情動」となっている。しかも感情と
情動と情熱がニーチェにおいては同一的に扱われているとのこと。「欲情」という日
本語には二つの意味があるが、単純に「欲する心」ということの意味でとるより、通
俗的にとられている「異性の肉体を欲する」とか、劣情を催すほうで一面的に受け取
られかねないので、細谷訳を採用したほうがいいだろうか(ご意見求む)。
さて、「「神」とは最高の〈力〉、これで十分!」というニーチェの論理では、ヨブ
は、『悦ばしき知識』の341番において「神的なこと」を聞いた!と叫ぶものに該当す
ることが、ニーチェ自身によって説明されている。ニーチェのヨブについての考えは
『力への意志』の821番にて述べられている。ヨブは「芸術を肯定する」とある。ただ
これだけであるが、たったこれだけでヨブが「神的なことを聞いたもの」ということ
ができる。最後につむじ風の中から現れた「主」は、「力への意志」そのものを表象
する神である。それはまさに「これぞ神の最高傑作!」とうたうベヘモットやレヴィ
ヤタンを「生成すること」に表れている。これが神の「芸術・技芸」だ。すなわち、
「芸術を肯定する」とされているヨブは、なんの裏もなく全面的に悔い改めていると
目されているのだ。この場合『ヨハネ福音書』に書いてある「神を見た者はいない」
という記述は嘘だということになる。ヨブは間違いなく神を「見た」。「聞き知って
いただけの神」のほうは、哲学者の虚栄心が生み出した知恵の怪物だということにな
るのだろうか。
17
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2009/11/29(日) 03:10:23 ID:???0
バタイユが引用している『悦ばしき知識』172番「趣味の妨害者(ぶち壊し屋)」
をパロってみる。
「主」→「私は「趣味のぶち壊し屋」を「趣味」としている!」
「ヨブ」→「確かに!あなたは「趣味のぶち壊し屋」を「趣味」としておられた!
私は「自分の趣味」でそれを隠そうとした痴れ者でした!」
ユングからしたら「しょーもないよねこんなんw」とか思いつつ(^^;)
18
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2010/02/01(月) 14:51:00 ID:???0
ちなみに訳によって有鱗動物とか穿山甲(センザンコウ)とか違う表現をされること
があるが、ニーチェの超人の好敵手としての最強の超龍は、それに似ていると表現さ
れる。超人と超龍は互いに合い争って「相搏つ」とあるが、穿山甲は敵に出くわすと
丸くなる(あるいは球状になる)という性質を持っている。訳注にはこのことが書か
れていないが、こういう性質をも見込んだ上でニーチェが穿山甲という象徴的表現を
用いているとすれば、これにはエーリッヒ・ノイマン的解釈におけるウロボロスを当
てはめて考えることが出来るだろう。ましてやその最強の超龍が、同一物永劫回帰を
象徴するものであるとすればなおさらだと思う。
19
:
【管理人】アイオーン・アブラクサス★
:2010/02/01(月) 20:19:38 ID:???0
それと、今更でたいへん申し訳ないのですが、岩波書店の文字でかい聖書でヨブのと
ころを見直したら、これ、「論」じゃなくて「綸」ですね。新共同訳の文字小さいや
つを虫眼鏡で拡大したらこっちも「経綸」だったという…。「オイコノミア」の意味
はそのままですが、なんと言うミス、私の眼はどっちも眼内に人工レンズを入れてい
るのですが、人工レンズはピントを合わせられなくて辛い…。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板