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電力・発電・原子力スレ

2100とはずがたり:2014/04/05(土) 16:43:26
第4部(8)新鋭火力・苅田発電所 「20年の遅れを取り戻せ!」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130122/trd13012200280000-n1.htm
2013.1.22 00:25

 昭和26(1951)年9月、吉田茂首相(当時)はサンフランシスコ講和条約締結のため渡米した。吉田の娘、和子の夫であり、同年5月に誕生したばかりの九州電力の会長、麻生太賀吉氏も随行団に加わっていた。麻生太郎副総理兼財務相の父であり、吉田氏の腹心といわれた人物である。

 麻生氏のカバンの中には1通の仕様書がしまい込まれていた。あて先は米・総合電機メーカー、ウェスチングハウス(WH)。九電が新設を計画する火力発電所の主要機器をWHから輸入しようと考えたからだ。

 第二次世界大戦を通じて米国は世界一の工業国の座を揺るぎないものにした。一方、主要都市が空襲の被害を受けた日本は、戦前に築き上げた技術力も多くは失っていた。当時、日米の技術格差はあまりに大きく、日本の発電所を調査した米国の技術顧問団は、日本を「米国に比べ20年遅れている」と評したほどだ。

 日本の火力は、熱エネルギーから電気を生み出す熱効率が悪く出力は5万キロワット程度。対して、米国製の発電所は7万キロワット以上の出力を有していた。

 九電の初代社長の佐藤篤二郎氏にとって主力電源である火力発電の効率化は大きな課題だった。「20年の遅れを取り戻すために米国から最新鋭の発電所を輸入する。発電所本体だけでなく、建設や運営の技術そのものも吸収したい」と考え、麻生氏に仕様書を託したのだった。

 翌年、WHは計画に応じると返答、米国流の火力発電所建設が決まった。出力7万5千キロワット。タービンを回した後の蒸気を再利用する「再熱方式」や、1つのボイラーに1つのタービンという型式など、これまで日本にはない技術が詰め込まれていた。

 建設場所は福岡県東部の苅田町の埋め立て地に決まり、29年11月5日に着工した。九電の若き技師は、日米の流儀の違いに苦しみながら、この新鋭火力発電所を通じて祖国復興に貢献しようと奮闘することになる。

●「電力の鬼」一喝!

 計画時には、苅田町のほか、長崎県大村市も候補地に挙がっていた。誘致への意気込みの強さなどで苅田町に軍配が上がったのだったが、戦前から電気事業に強い影響力を持ち「電力の鬼」と呼ばれた松永安左ェ門の発言も苅田町への立地決定に大きく働いた。

 昭和27年、76歳だった松永氏は苅田町を訪れた。当時の町長が発電所候補地の砂浜を案内すると松永氏は「格好の場所だ。着工を進めるように佐藤君(社長)に伝えよう」と言った。

 松永氏は、苅田発電所に強い関心を寄せていたとみられ、建設中も現場を訪問している。苅田発電所建設所の技術課長だった古賀作一氏(96)は当時を鮮明に憶えている。

 「説明が専門的過ぎる。この女将が分かるように説明してやってくれ!」

 古賀孝所長が発電所の概要を説明し始めたところ松永は、同伴させた料亭の女将を指し、一喝。その後、たじろく技術者らをねぎらって回った。

 よほど戦後復興と電力の将来を気にかけていたらしい。松永は九州各地の発電所巡りをその後も続けた。九電には「常々前進」「日々新た」など、進取の気風に富んだ松永氏らしい揮毫(きごう)が残っている。

2101とはずがたり:2014/04/05(土) 16:43:50

●コンクリの中で

 当時の日本は、今と違い貧しい国だった。社長の佐藤氏が「資本金より大きい」といった苅田発電所の建設費は国内で調達することができず、世界銀行からの融資を受けた。その額40億円は、当時の資本金7億6000万円の5倍にあたる。

 苅田発電所の建設方法も米国流。当時の日本では、コンクリートの土台の中に鉄骨を組み込み、この鉄骨とタービンを固定するのが当たり前だったが、WHから送られた設計図によると、高さ10メートルの土台にアンカーボルトを埋め込み、これでタービンを固定するようになっている。日本にはない技術だった。

 1平方センチ当たり100キロもの蒸気圧力が加わり、高速回転するタービンを置く土台は、限りなく水平でなければならず、許される誤差は1.5ミリ以内の精度を求められる。

 だが、木枠にコンクリートを流し込むうちに、アンカーボルトの位置が徐々にずれてきた。苅田発電所建設所の技術課社員だった福田博氏(84)は焦った。福田氏は、生乾きのコンクリの中に入り、ドロドロになりながらアンカーボルトの位置を修正した。

 設計図を読むのにも一苦労だった。設計図は全て米国流のインチ・ヤードで書かれており、日本のセンチ・メートルはすべて規格外。建設に携わった社員は単位変換用に常にそろばんを手にしたという。

 土台部分の工事が終わった昭和30年になると、苅田港にWHのピッツバーグ工場で作られたタービンやボイラー、発電機がユニットごと次々と陸揚げされた。

 当時、発電所のような大きなプラント建設では、メーカーから部品が運ばれ、現地で電力会社側が組み立てるのが主流だった。だが、WHは自社製品へのこだわりからユニットで搬送した。発電機ユニットは直径4メートル、長さ10メートル。重さは163トンもあり、米国での積み込みには米海軍の、苅田港での陸揚げには三菱重工業の造船用クレーンが持ち込まれた。

 技術課長だった古賀氏は感慨深げに、クレーンに釣り上げられたユニットを眺めた。「日本のおくれを取り戻すノウハウが詰まったユニットだ」。こう思ったという。

 「とにかくわずかなミスですべて水の泡になる。若手はもちろんベテラン技師にとっても初めてのことばかり。ちゃんとしたものを建設し、工業発展に貢献しようと必死でしたね。無事にタービンを土台に設置できた時は本当に安心しました」

 福田氏はこう振り返るが、九電の現状には一抹の不安を覚えている。

 「建設作業はメーカーやグループ会社任せになり、本社は監督をするだけ。現場と本社の距離が本当に遠くなっているのではないでしょうか…」

第4部(9)「君たちは躍進する」米からの贈る言葉
2013.1.23 13:37
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130123/trd13012313410008-n1.htm

 戦勝国・米国の最新技術を日本に持ち込み、復興に生かす。その意気込みを具現化させたのが、九州電力苅田発電所(福岡県苅田町)だった。

 だが、昭和29年に始まった建設工事は困難の連続だった。当時として高出力の7万5千キロワットの同発電所は、タービンを回した後の蒸気を再利用する「再熱方式」などそれまで日本になかった技術を駆使したシステムだったこともあるが、何より九電の技師たちは日米の文化や考え方の違いに悩まされた。

2102とはずがたり:2014/04/05(土) 16:44:12

 建設現場には、設計元の総合電機メーカー、ウェスチングハウス(WH)や建設コンサルト会社のギルバート・アソシエート・インコーポレーション(GAI)から計13人の技術指導員が派遣された。「世界最先端」を自負する彼らは最初、日本人技師を子供扱いし、すべてに米国流を押しつけてきた。

 日本の技師が、指示通りの手法に従わないと顔を真っ赤にさせて激高する指導員もいた。ひどいときはヘルメットを投げつけたり、足蹴にすることもあった。

 ただ、日本の技師にもプライドはある。「図面さえあれば、日本人だけで作れるんだ。図面を置いてアメリカへ帰れ!」。こう食ってかかる通訳もいた。強い使命感がストレスとなり、日米の狭間で精神的に疲れ、自ら命を絶った技術者もいたという。

米国技術に驚き

 だが、どれだけ悔しい思いをしても、敗戦から復興しようとしている日本にとって米国からの技術導入は欠かせない。

 建設現場には、日本の電機メーカーの技師も密かに紛れ込んでいた。九電が米国製の火力発電所の導入を決めた際、国産メーカーは「反対」の大合唱を起こしたが、やはり米国の技術力は気になっていたのだ。

 メーカーの技師たちは毎夜、米国の技師が帰った後、輸入された機械を丹念に調べ、自分たちに足りない点を学んだ。やがて米国人の技師もそれに気付いたが黙認したという。

 苅田発電所建設所の技術課長だった古賀作一氏(96)はこう振り返る。

 「石炭の計量器一つとっても、とにかく日本の機械とは精度が違った。輸入されてきた機械を見て日本の遅れを実感しましたね…」

 建設や運転に関するマニュアルが充実していたことにも日本人技師たちは驚いた。発電所内の清掃やペンキ塗り替えの頻度、必要な備品の種類や数−。何から何までマニュアル化する。技師の経験と勘を重んじる日本にはなかった文化だった。

 苅田発電所の運転を担当した徳渕照雄氏(86)はこう解説する。

 「それまで日本の運転技術は徒弟制度でした。つまり親方から弟子へ口伝で継承されるんです。ところが米国流は極端な話をすれば、マニュアルさえ読めば素人でも運転できる。その合理性に驚かされました。戦争で負けた理由が分かったような気がしましたね」

 マニュアルは危機管理にも直結する。清掃マニュアルは労災事故を防ぐ。トラブルの発生可能性に応じてどれだけの予備を用意すべきかもマニュアル化されていた。これらはトラブルによる発電停止、停電を極力減らすための方策だった。

 発電所の運転態勢も大きく違った。

 戦前、日本の火力発電所はボイラーやタービン、発電機にそれぞれ6〜7人の作業員を配置し、制御を担った。ところが、米国の発電所は、自動化や遠隔操作が進んでおり、中央制御室と呼ばれる場所でコントロールしていた。この結果、同規模の発電所の人員は、日本の1千人に対し、米国は100人以下。これはランニングコストに大きく跳ね返った。

2103とはずがたり:2014/04/05(土) 16:44:39
>>2100-2103
祖国復興の第一線

 技術面の米国流は積極的に吸収した九電だが、「文化の壁」を乗り越えるのは大変だった。

 社運をかけた国内最新鋭の苅田発電所は、昭和31年3月31日までに営業運転を始めることが、佐藤篤二郎社長の至上命令だった。

 ところが、米国人の技術指導員には「残業」の概念はなく1日8時間労働をきちんと守る。着工からわずか1年半の工期での完成にも「絶対に無理だ」と口をそろえた。

 技術課長だった古賀氏はこう言い返した。

 「1日は8時間じゃない。24時間あるんだ。3交代で24時間ぶっ通しで建設を進めることができる!」

 古賀氏は戦時中、軍隊で後方部隊に従事し、前線に送り出した戦友は数多く亡くなった。それだけに「祖国復興の戦いでは、第一線で働きたい」との思いが強かったのだろう。

 また、日本では監督官庁の通商産業省(現経済産業省)が発電所の図面提出を義務付けていた。これが米国人には理解できない。

 「図面は会社の財産じゃないか。アメリカ政府にも提出してない図面を、なぜ日本政府に出す必要があるのか?」

 何度、日本の仕組みを説明しても納得してもらえない。九電側は非常手段に出た。ある九電関係者は、全員が帰宅した米国人の仕事部屋に合鍵を使って入り、図面を取り出して、知り合いの青写真屋でコピーを取った。そして原本を翌朝までに仕事部屋に返却。現在ならば裁判沙汰や外交問題になりかねない綱渡りの所業だった。

 そんな努力の末、苅田発電所は31年3月31日午後11時40分、全ての検査を完了し、営業運転を開始した。経営陣が定めた期日ぎりぎりだった。

九州から東北へ

 全身全霊を込めて米国の技術を吸収しようという九電の技師たちの姿勢は、米国人技術指導員の「日本人」への認識をも改めさせ、やがて敬意さえ抱くようになってきた。

 そうなると打ち解けるのも早い。

 技師たちが使うハンコを見て「自分たちにも作ってほしい」とねだる米国人もいた。バッカーを「幕火」、アーランは「阿蘭」、アルガーは「有賀」−。そんな風変わりなハンコを作ってもらい、喜んでサイン代わりに使った。

 運転開始後、古賀氏は「幕火」ことバッカー氏とゴルフに行った際、こう打ち明けられた。

 「日本人はたいしたものだ。技術力はハイレベルで逆に自分が教わることもあった。近い将来、君たち日本は躍進するだろう」

 その言葉は、古賀氏の心中にあった、かつての敵国人に対するわだかまりも溶かしていった。

 その後、九州に苅田発電所をモデルとした新鋭火力が次々と誕生する。その新しい火は、東北地方にも“飛び火”した。

 100人を超える技師が、火力発電所建設に本腰を入れようとする東北電力に請われ、移籍した。彼らは八戸発電所などの建設に大きく寄与した。

 全国に名をとどろかせた「火力の九電」。それは苅田から始まった。


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