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業務連絡 3
たてました。
>前スレ1000
難しいこと言うひとキター!!
よく分からないけど、千と呼べ!と言ってることだけは理解し
た。
でもね、貴方の本名は多分千尋じゃないからあなたのことを
「千」と呼べと言われてもね。あえて呼ぶなら、「お千さん」。
そして釣り針を垂れずに怪魚を得た私はたぶん太公望以上で
しょうよ。
>前スレ 999 続き
大きな認識の変化があると、意識の中では自動的に価値観や考
え方が構成され直すらしい。これもまた良く考えてみるとなる
ほどその通りなのです。
そうするとそれまではどうしてもあれが許せないとかこれが我
慢できない。言わずにはおれないけれど言うと争いになるので
じっと我慢していてしんどい。その分心の中では相手をコテン
パンに言い負かせて泣かしてやった!なんて妄想を人間はいつ
もしているものです。いやこんな妄想していたらいけないと思
ってもなかなかやめられないのが自分の心ですね。
いやいやこのような心ではいけない、なんとか仏のような清ら
かな心を、ってんでエイやっと頑張ってみたり瞑想してみたり
深く自分を振り返ってみたりして浄化して一瞬綺麗な心になっ
たような感覚がして心穏やかになってみたりもいたします。
しかしいけません。次の瞬間にはまた相手のにっくい言葉が心
のなかで蘇ってきたりしてちーんって音が鳴って心の中のボク
シングが再開したりいたします。
こんなことをしながら人生というものは暮れていってしまう
ものなので、おらハァ〜、何のために生まれてきたんだべ?
って黄昏(たそがれ)てしまうものなんですね。
いやいやお兄さんお姐さん方、それはね、努力の方向が違う
んじゃありませんかい?そんなに力んで肩肘(かたひじ)張
らなくっったってものの見方を変えれば自動的に心安らかに
仏のような心境になりますぜ、ってのが私の発見です。
おや、これもどっかで何度も聞いたような話だ。聞き飽きた
よね。耳にタコができそうな説ですよねぇ。
しかぁ〜しですね、どっかで聞いた耳タコ話には大きな欠点が
あるんです。それはものの見方を変えるとはどういうことなの
かっていう、一番肝心なところが曖昧すぎるんですね。だから
まぁ世の中にはいろんなものの見方の訓練法みたいなのがあり
まして極端なのになりますと2011年の155スレで登場した数字
のおっちゃんみたいに「全ては虚無だ」みたいなものの見方を
すれば人から何を言われても心動かさなくなるみたいな考えを
する人も出てきてしまいます。
私は世の中の耳タコ話も一概に否定するつもりはありません。
ものの見方を変えなさい。本当は貴方は周りから多くのものを
与えられていて、貴方が変われば周りも変わってくるんだ、み
たいな教えであってもそれで救われて大きく人生変わって心が
安らかになる人もいるのかもしれません。
しかし私は思うんですけれども、それは心稚(おさな)き人に
限られるんじゃないの?って。様々な人生の矛盾を体験し、そ
れでも人間の本当のあり方を追求してきた人々にとっては、な
かなかそのような教えで納得も安らぎも得られす逆に矛盾する
思いに引き裂かれるんじゃないでしょうかね?
なぜかというとこの種の耳タコ話には人間に対する本質的な
理解や、こころや意識に対する理解が決定的に欠けているか
もしくは極めて不十分だと思うからです。
自分自身も含めて、人とは如何なるものなのか、この理解が
深まり広がることなくしてこころの苦しみから解き放たれる
ことはないと私は思います。
なぜならこころの苦しみとはこころの矛盾だからです。原因
であるこころの矛盾を解消することなくしてこころの安らぎ
がありうるわけがない。
このことは皆さんよくお分かりでしょう。
それではこころの矛盾の生じる原因は何か?
それは自分自身を間違って認識し、他者と世界を間違って認識
するところから全ては始まっている、というのが私の発見です。
そしてなぜ自分自身や他者、または他の存在を間違って認識し
てしまうのか。それは自分というものがあまりにも弱くてそ
もそも他者をそのまま認識できるだけの受け皿がないからだ、
ということなのですね。
そのためにとりあえず存在そのものではなく存在の影絵のよ
うなものとか他人が用意した存在の簡易なモデルのようなも
のを採用して自分の心の中に認識することで他の存在を受け
止めようとしているのだ、ということですね。
おはようございます。
さておなじような内容の話を一ヶ月前から部分的にやっており
ますね。満月の夜に私が何に気がつき、一ヶ月前からの話とど
こに違いがあって意識の中の大きな変化(安定度の向上)が生
じたのかというと、次のようなことなんです。
つまり、個としての意識、存在は初めは非常に弱いものなので
個として存在し続けるためには「受」、すなわち認識能力を下
げざるを得ないのだ、ということなのです。認識能力を下げ、
あまり物事がわからない状態から始めて少しずつ自分を育てて
ゆかないと、すぐに意識は全体に飲み込まれて自分を見失って
しまい、いわば霧消してしまうほかないのですね。
分かりすぎると相手の感情や想いに飲み込まれてしまう。感受
性の鋭い子どもが、身近にいる両親や昔でいえば子守りをして
くれるおばあちゃんの価値観に飲み込まれて、本当の自分の想
いが何なのかわからなくなってしまう。その結果人生を狂わせ
てしまう、というのはよく見かける話であります。
そのようにならないためにはある程度人の想いに鈍感になり、
自分の想いを優先しながら育ってゆく必要が生まれます。つま
り子どもというのはある程度我が強い方が正常に育ちやすい。
あまりにも聞き分けの良い子どもの場合は、その子の個性がし
っかりしていればいいですがそうでない場合は逆に心配ですね。
これまで私は法華経の作者の想いと同じように「人というもの
はなぜこうもわかってくれないのか?どうしてどうでも良い方
向にばかり大切なことのように考えて、一番大事なことの方は
顧みないのか」、このような想いでいました。
しかしそうではなかったのだ、なぜわからないのかではなく、
そもそもわからないことがまず人には必要だったのだ、という
ことを納得したのです。
そして「なぜわからないのか」という私の想いの最初にはまず
「怒り」という感情があったことに気づけたのです。
おそらくこの感情に気づくことが私にとっての大きな課題だっ
たのでしょう。そしてそれに気づいた結果私の意識の中には大
きな変化が、自然と生まれてきた、といえそうです。
つまり「無知への怒り」という戦い破壊しようとする方向性で
はなく、無知を認め尊重しつつ対話して智慧を目指そうという
ような大きな転換ですね。あるがままに認める、という「赦し」
の感情です。
そうした心の中の方向性を決めているのが感情である、という
ことが理解できてきたのです。
結局これが私が以前「感情の問題」と称していたことの本質で
あるといえそうです。
こうして満月の夜の「受」の発見はさらに「感情」の発見に
つながってまいりました。
その結果私の心の中には世の中の様々な不条理不合理と戦い
格闘するでもなく、またニヒルな傍観者として対するのでも
なく、また彼らの存在を無視して進もうとするのでもなく、
ただ淡々と想いを述べ対話し共に生きることを楽しめば良い
のだ、という認識が自然と生まれてまいりました。
私自身が個の生命であり、個としての意識進化を目指しており
ます。
そして他者もまた一人一人が個の生命であり、個としての意識
進化を目指している。いま彼らの表面に現れている考えや行動
がどのようなものであろうとも、お互いに「生きたい」、「個
として存在したい」という存在の想いは変わらないはずです。
そして「個」として存在し続けるために「受」を制限し、苦楽
の経験を通して自分の魂を豊かにしようとしているわけですね。
個は個として自分一人で存在しているわけではありません。
他者がいるから個が個として存在できるわけです。もし他者が
存在しなくて個しかないのであれば、それは個ではなく全であ
ることになってしいますからね。
ですから我と他者との関係性は、存在の本質に関わるものなの
です。
例えば世の中にはよく「お百姓さんや商人や料理人がいて毎日
ご飯を食べることができるのだ」というような共同社会のあり
方から我と他者が切っても切れない関係なのだ、と説明する場
合もあります。しかしそのような利害関係からだけから他者と
の関係を考えるのは大きな見落としがあるのです。
利害関係を詳しく調べてゆく、という視点は否定しないのです
が、もし我と他者との関係の全てを利害関係で割り切ろうとす
ると問題が生じます。一見最初は調子良く行くことでしょうが
そのうち利益を追求しようとすればするほど思ってもみなかっ
たことで損をしてしまうようなブレーキ現象が次々と現れてし
まうことでしょう。
我と他者との関係は存在の本質に関わるもっと根本的なものな
ので利害関係に全て落とし込めるようなものではないというこ
とです。損をしようが特をしようが我を生かし彼を生かしてゆ
くのです。
ここで生かすと言っているのはもちろん「肉体を生かす」とい
う意味ではありませんね。
それでは私は存在とはどのようなものと考えているかという
説明をいたしましょう。あくまで今の私が考えている存在に
ついての見解です。
私は存在とは意識であると考えています。
しかしその意識とはどのようなものでありどのような形で存
在しているのか。
私はそれは空間の小さな粒であろうとしか考えられません。
突き詰めて考えてゆくと空間は微小な粒である。そしてその
微小な粒が様々な状態に常に変化しているのだろう。その粒
が個性に目覚めた一つの状態が存在の粒子であり、存在の粒
子が無数に集まったものが霊質や幽質や物質であろう、とい
うのがさっくりとした私の考えであります。
言い換えると空間には最小単位が存在する。それ一つ一つが
いわば存在の粒子であり、意識を持っている。
個性がなくただ空間としての意識を共有した状態を「無意識」
とよび、個としての意識や個性を持っていない。想いがなく
ただいわば全体の意識の中の大きなうねり小さなかうねりを
感じているだけのようなものだ。
空間の粒が何かのエネルギーを受けて個性に目覚めた時、つ
まり「我」という認識に目覚めた時、意識は自分自身と他者
との区別を認識するようになります。これが存在の粒子です
ね。
存在の粒子が「想い」を持った時、周囲の存在の粒子は想いに
呼応するのですね。「我」が存在したい、し続けたいという想
いに反応して集中してまいります。
こうして存在の核が形成され、核を中心とした粒子集団は成長
して心、魂の構造を作り出し構造は想いを実現するための機能
を発揮してまいります。
それでは時間ですので失礼します。
こんにちは。
昨日は朝早くから某福祉事業所を視察に出かけておりました。
無理を承知でお願いしてみたところ快く了承して頂けまして
親切に案内してくださいました。
そこは身体障害や難病などの方を中心に仕事の能力の高い方も
そうでない方も一緒に色々な方が働いておられる先進的な事業
所でした。ゆっくりゆっくり確実に作業をこなしていかれる方、
最新の機器を扱いながら作業を進める方。それぞれの方が自分
に責任の持てる範囲で与えられた仕事をこなし、また自らの能
力を伸ばすことに挑戦する人もいるなど、眺めておりますと未
来の社会のあり方が具現化されたような印象を持ちました。
私がそこで印象的に感じたのは、一つは職員の方達の考え方、
リーダーの方達のイキイキとした元気の良さ、事業所内の利
用者も含めてのまとまりの良さなどでした。
もう一つは事業所の利用者さんたちの生活のあり方でした。
障害のある方たちが支援学校を卒業してすぐにそうした施設
・事業所に入ってくる。そしてそこでほぼ一生を終える人も
少なくないという現実でした。
私はこの二つをみて人間関係のあり方について大きく感じる
ところがあったのです。
というのは、人間関係。人と人との関わりとは結局意識のエネ
ルギーの関係であると言い換えてよいと私は思っているのです
が、その意識のエネルギーのあり方を観察し自分で実験してみ
ますと二つのパターンに分けられるのではないか、と思うので
す。
一つは上から下、下から上という上下のエネルギーの循環です。
これは力や能力がある者と足りない者との間に起こる循環現象
です。
そしてもう一つは水平的なエネルギーの循環、これは一対一の
平等な関係性を基本とするエネルギーの循環ですね。
まるで十字架の形を思わせるこの上下の循環と水平の循環はど
ちらも必要なものですが、そのあり方には注意が必要だと思っ
ています。
私は19日の満月の瞑想(と言うとかっこいいですが実際はゴミ
出しのためにゴミ集積場まで歩きながら存在と意識について考
えていたのです)で存在の弱さ、それがどのように強く進化し
てゆくのか、そしてなぜ進化には「受」を制限しなければいけ
なかったのか、について気がついた。納得がいった、と申し上
げました。
同時に受を制限し相手の心や考えや事情がわからないためにそ
こに様々な苦しみや喜びの感情が湧いてくるのだ、ということに
も気がついたのです。
全てがわからないために様々な苦しみや喜びが生じる。そして
その喜びや苦しみがあるために全てを理解しようという想いが
生じる、と申し上げたら良いのでしょうか。想い無くして行動
は生まれません。
お腹が空いた、何か食べたいという想いが生じるから仕事が生
まれ社会が発展するのですし、異性が欲しいという想いがある
から家庭が生まれ、子孫が存続します。
こうした本能を基盤とする基本的な想いをベースに存在は行動
を開始し経験を積んで自らの意識を形作ってゆきます。受想行
識ですね。
おはようございます。
ちょっと話は >12、>13 のあたりに戻ってしまうのですが、
私の意識に大きな変化が生じたというところをもう少し詳し
くご説明しておきます。
私の母は若い頃から認知症的な傾向があったと私の弟は申し
ます。
その話が正しいかどうかは、私は大学入学以来家を離れてお
りましたので判断できません。しかし現在では立派な認知症
患者となってしまいまして「今何時かね」「6時ですよ」
「今何時かね」「6時ですよ」「今‥」というように同じ質問
延々と続けるのが日常になってしまいました。
この同じ質問を延々と繰り返されるのは結構苦痛なんですね。
二度三度はまだいいのですが、五度も六度もになると顔は笑っ
ても心の中は「いい加減覚えてよ」と思って苛立ってきます。
急速に耳が遠くなってしまって大きな声を出して話さないと
聞こえないのでいつも怒鳴るような感じで話をしなければな
らず、このことがまた小さなイライラを助長してしまいます。
ところが満月の気づきからこのイライラが綺麗さっぱり消え
てしまったんです。考えてみると「なぜ分からない」という
無知への怒りの思いも「なんで何度言っても覚えてくれない」
という小さな怒りも似たようなものですね。
それでこれまでは何度も同じことを言わされてそれでも覚えて
くれないことに苛立っては、そんな苛立つ自分に残念な思いを
して参りました。
そこでなんとかこの小さな怒りを起こさずに優しく対応しなけ
ればと思うのですが、大きな声を出して返事するたびに自然と
心が荒くなってしまうのです。頭ではいけないとわかっていて
も自分の心が自由になりません。
ところがそのどうしようもないイライラ、小さな怒りがすっぱ
り起こらなくなってしまったんですね。
しかもそれだけではありません。
なんと満月の翌日の目覚めのすっきり爽やかなこと。それ以来
意識がすっきりと軽くなっているのがはっきりとわかるほど以
前とは違います。なんと、私の心の中で巣食っていた怒りは自
分では全く気が付かなかったのですが、常時ストレスとなり心
の苦しみとなっていた事実に気がついたのです。
人間というものはこのようにして苦しみを作り出しているのか、
ということをはっきりと自覚できたのですね。逃れようのない
人生の苦しみと称するものも、その大半は実は自分自身のここ
ろが生み出したものだと言えるのでしょう。
自分の心の中に巣食う怒り、恨み、妬み、足ることを知らぬ
欲望、こうした意識が自分自身の心のストレスとなり自分の
心を暗く重くしてしまっていたのだ、ということですね。
私の場合にはそれは「怒り」だったわけです。
そして自分の中のこうしたいわば心のお荷物に気づいた時、
人間はその気づいた分だけ自由になることができるようで
す。
では私はこうした自分自身を解放し自由にしてゆくために
一体幾つの気づきが必要なのだろうかと訊いてみました。
そうすると私にとって必要な大きな気づきは六つであり、一つ
は「存在は意識である」という気づき。二つには「意識は自分
自身を守り育てるために『受』を制限している」という気づき。
三つ目は心の中に巣食う「怒り」の気づき。ここまでが現状の
到達点で、残された気づきは後三つ、ということでした。
四つ目は「赦し」に対する気づきでこれはまだ半分しか理解で
きていないという評価です。
五つ目は「恐怖心」でそれは全然理解できていない。
六つ目は現状私にはまだ不明です。
こんばんは。
今日も塾に教えに向かう途中の車の中で色々考えていたんです
よ。「赦し」とは何なのか。5割しか理解できていないという
残りの5割とはどのようなものなのか。
そうするとだんだん物事の考え方・見方が整理されてきまして
クリアになってきたものがありました。「ん?これは残りの5
割も理解できたのかな?」そう思って確認のために訊いてみた
ら、「8割」という答えが返ってきました。
そこで今日(暦の上では昨日ですが)新たに得た認識を簡単に
ご説明してみます。
>32
名前欄が抜けてました。
さて、簡単に言えば、「人間生きてるならば他人様に迷惑かけ
るのは当たり前」ということです。生きていて他人に迷惑かけ
ない人間なんて一人もいないじゃないか、という話はよく言わ
れることであります。よく言われて実際その通りだなと思うわ
けですけれど、それなら他人に迷惑かけられて黙っていられる
のか、納得できるのか?と言われると誰しも納得できるはずが
ないですよね。
なんでだよ、バッカヤロー!!ってなるじゃないですか。普通、
怒りが湧いて参りますね。
つまりそうは言われても全然納得できません。許せまん、って
ことですね。
では何がわかったかというと、人間はどうやって自分以外のも
のを認識しているのか、ってことなんです。それは他人に声を
かけると返事が返ってきます。声で返事がなくても表情とか動
きとか、なんらかの体のリアクションか、あるいは心に感じる
リアクションがあります。このようにこちらが発したエネルギ
ーに対するリアクションを感じてそのリアクションで色々察し
て理解し認識してゆく、という流れになりますね。
これを発する方と受ける方の立場を逆転してみますと、相手か
らなんらかの言葉や態度やちょっとした体の動きとか、強い念
のようなものを感じて、ああこの人は私に対してこんな事を思
ったり、あんなことを伝えたいと意図しているんだなと理解す
るわけです。
このように相手から投げ与えられるエネルギー、あるいは自分
が相手に向かって投げたエネルギーが相手から打ち返されて返
ってくるのを受け止めることで、相手の感情を知り、自分が発
したエネルギーがどのようなものだったのか(相手を喜ばせる
ものであったか、怒こらせるものであったか)を知ってゆく、
ということになります。
こんにちは。
ここ数日恋愛相談で毎晩長電話をしております。
人間は自分の考え方が当然で正しいものだ、と思っているもの
でして、それは私も全くその通りなんです。ところが人という
ものはしばしば自分とは全く異なった主張や判断をするもので
す。
その変な考え方をするから苦しくなってきたり辛くなってくる
んじゃないの?なんでそんな考え方をしてしまうの?とよく聞
いてみますと、なるほど彼や彼女の考え方はそれはそれで筋が
通っています。しかしやはり私の目から見ると物事の受け止め
方とか、根本的な価値観に問題があると感じます。具体的にい
うと自分自信を好きになれず自分以外のものが好きなんです。
はっきり言って、自分自身のことを嫌いなわけです。他人と比
較して自分の劣っているところばかりを強調して自分が嫌いに
なっているんですね。かといって自分が誇れるところとか、自
分が自信を持てるところをあげてみようとしても、実際何一つ
自信を持てるものがない、という現実があります。世の中の大
多数の若者にとってこれが現実だと思うんですね。
他人と比較しよう、他人と比べていいところを見つけようとす
れば、まぁそうなってしまいますよ。何かひとつくらいは‥と
見つけ出すことのできる人もいるとは思いますが、実際どこに
良いところがあるんだろうと途方に暮れる人も多いんです。
名前忘れでしたね。
一つくらいは、と自分の心の中でつぶやいたとしても、それを
口に出して言えば、そんなこと、と人から笑われてしまう。だ
から口に出して言うこともできないという人も多いんですね。
世の中は他人との比較の中で物事を捉えようとして、励ますつ
もりで君にもいいところがあるんだよ、というのですが、その
言葉すら当人たちを追い詰めてしまうことがあるんです。
それは自信の根拠そのものが偏っているからです。人間の自信
の根拠を他人と比較しての優劣に求めれば、約半数の人たちは
置き去りにされ、優秀とされたグループも際限のない競争意識
の中に意識を置いてしまうことになってしまいます。
実際には己の自信の根拠はなにか外部との比較の中に求めるべ
きものではないんですね。
実は自信は己の存在そのものの中に求めれば良いいんじゃない
でしょうか?我は在る。この事実はどこまで行っても覆すこと
ができない。死のうと生きようとこの事実は変わらない。
在る、ということは感じ、思い、繋がってゆき、学び、作り出
してゆくことである。すっごく単純な事実じゃありませんか。
ところが面白いことに人間はこの単純な事実を受け止め切るこ
とができないようなんですね。そしてああでもないこうでもな
いと考えて他人との比較の中に自分の考えの確かさを感じよう
としてしまうようです。
他人と比較して自分の方が優れているから、だから自分に自信
が持てた、感じることができた。いい変えれば自分に対する不
安が少し減ったり無くなったりした。と言っているわけですね。
ところがこの考え方は曲者でして、構造的にすごく不安定なん
ですよ。考えや思考にも構造があるんです。不安定な構造は外
部からの衝撃を受けるとすぐ消し飛んでしまうんです。
この考え方は外部との比較に基準を置いているので、外部に追
いこおされるとこれは劣等感を持たないといけない構造になっ
てしまっています。「我在るが故に価値あり。自信あり」って
いう方が桁違い、次元違いに構造が強いんです。
なぜならこれは自分自身が「存在する」という単純な事実に
基礎を置いておりますので覆りようがないわけなんです。
そして実は自分自身をよく反省してみますと、自分自身も小
さい頃、幼い頃は単純に誰と比べるでもなく自分に自信を持
っていたのではないでしょうか?逆に生まれた時から自信が
持てなくて不安で不安で仕方なかった‥という方はまずいら
っしゃらないのではないでしょうか?
そしていつから周囲と比較することで自信を感じるようになっ
たかと反省してみると、それはたいてい周囲の大人たちのちょ
っとした言葉や喜びや失望を受け取って、ああ、人よりも優れ
ていることは素晴らしいことなんだな、とか劣っていることは
つまらないことなんだなと察していったり、あるいは言葉によ
り「他人に負けてはいけないよ」などと直接意識づけられたり
しているのではないでしょうか。
だから他人と比較する価値観は、95%くらいは周囲の環境から
後天的に吸収した価値観と言えるのじゃないかと思います。
こんにちは。
毎日のように昨晩も恋愛相談に乗っていたわけですが、相談者
の意識、そしてそれに対する私の意識を精査する中で、私自身
が認識すべき六つ目の課題がだんだん明らかになってきつつあ
るように思います。
それは意識の中のエネルギーの動き方、働き方であり、端的に
言えば「執着とは何か。それはどのように心の中、意識の中で
働いているのか」を理解することである、と言い換えてもよさ
そうです。
敵を撃破するにはまず捜索、次に照準、そして撃破という段階
を経るわけですが、とりあえず捜索までは終わったですね。
そうしますと私の意識世界の探索もそろそろ佳境に入ってきた
のかなぁという感じがいたします。
意識世界の探索と申しますととかくあの世があるのかないのか
とか、高次元世界がどうなっているのかとか、高次元世界から
のメッセージがどうだとか、宇宙連合が銀河連合がとかいう話
になりがちなんですが、まぁそれはそれであたしにはあまり関
係ない話かな。我とはなんぞや?我は何を思い何を考えている
のか、それはなにゆえなのか?それを知らずしてああだこうだ
と先走っても仕方ないように思えます。
まず汝自身を知れ、なんですね。
そこでこの12月は自分を知る強化月間にして自分自身の想念
というエネルギーの動きを見てゆきたいと思っています。
自分自身の魂は「我あり」という最初の思いが気の遠くなる
ような年月をかけて営々と築き上げた最高の創造物であるわ
けですよ。
それは「想い」というエネルギーから始まり、想いが「体」を
得ることで客観化が可能になります。体を通して想いを現実化
してゆくことで新たな認識を獲得し、新たな認識によって意識
を編みエネルギー構造を作り込んできたわけです。
これが受想行識の仕組み、サイクルですね。
いま私にとっては新たな認識を獲得するチャンスが巡ってきた。
つまりようやく捜索レーダーの性能向上が果たせて今まで見え
てなかった敵ステルス標的が見え始めたワケですね。おいおい
そういうことかよ、あっちにウヨウヨ、こっちにウヨウヨ、心
中の国土にまで敵ステルスの侵入を許していたのかよ、ってと
ころまで気がついてきたわけなんです。
まぁあとは標的→撃破すれば良いので楽しみなことです。
では失礼。
初めまして。先日10年越しに155スレの存在を知った者です。
155スレその19や、>>18 - >>20 の
「存在は意識である」、この気づきは物理学の"素領域理論"と非常に親和性が高いように思われますがいかがでしょうか?
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士が晩年に研究した理論だそうです。
最近では保江邦夫博士が『神の物理学』の題で素領域理論の本を著しています。
自分は物理に疎く、また上記本も未読なので恐縮なのですが...
スピリチュアルブログを覗くと、この理論を(守護霊の方が)評して曰く、
「体主霊従の世界観から霊主体従の世界観へ転換することができる」とのことで。
155さんの探求の糧になればと思います。
また、「空間(と時間)に最小単位を設定する」というアイディアでは”ループ量子重力理論”にも等しいものがあるようです。
こちらは超弦理論と並んで大統一理論の最有力候補と目される理論で、カルロ・ロヴェッリという方が第一人者なのだとか。
(邦訳本は『すごい物理学講義』など)
自分の勉強が足らず伝聞の域を出ないのが申し訳ないのですが、良ければぜひ。
>47
こんにちは。
木曜日に投稿を拝見したのですが、私の理解が行き届かなかっ
たところがあったので考えているうちに時間が経ってしまいま
した。ある方のスピリチュアルブログで素領域理論のことを取
り上げて評価していたということなんですね?
私は155スレでは蘇領域理論のことは発言していないように思
うのですが(忘れやすいのであまり良く覚えてはいないのです
が)、その理論の存在は存じております。そしてかねがねなぜ
この理論が十分発展しないのか疑問に思っております。
私は文化系の学生でしたので、もちろん素領域理論をそれほ
ど知っているわけでも理解しているわけでもありません。名
前を知っていて新聞記事程度の知識があるに過ぎません。
ところが47氏に指摘されて検索してみると空間と存在に関す
る基本的な考え方があまりにも私の考え方と似ているのに驚
きました。もちろん湯川先生の理論は物理学者としての洞察
力を基盤とした理論であり、私の考えは体験を元として意識
のあり方、存在についての考察を進めた結果、こうでなけれ
ばおかしい、という納得を追求したものですから立脚点がか
なり違います。
しかしながら私の印象からすると「同じこと言ってるやん」と
言いたくなるほど、言葉の説明としてそっくりの内容になって
しまうらしいことは興味深いことだと思います。
実はこの度の存在と意識についての私の考えについては説明を
できるだけ簡便にして詳しい話は次の機会に譲ろうと思ってい
ました。
話し出すとすっかり長くなってしまう恐れがあったからです。
それよりも、そこはとりあえず簡単に話を進めておいて、その
次の、そこからどのように物事が展開してゆくのかを先に詳し
く説明したいと思ったからです。
名前忘れですね。>48ー>50 は155です。
さてここで47氏から素領域理論についてのお話が出てきまし
たのでこれはやはり促されているのかもしれないと考えを改め
ました。
そこであらためて存在と意識について私がどのように考えてい
るか、もう少し詳しくご説明したいと思っております。
今日は今から少し遠方に出かける予定ですのでまた時間をあら
ためて投稿したいと思っております。
とりあえず失礼いたします。
ども、47です。
>>48 >>ある方のスピリチュアルブログで素領域理論のことを取
り上げて評価していたということなんですね?
はい、その通りです。言葉足らずですみません。
確かamebaブログだったんですが、
今軽くググってみても見つけられませんでした...
見かけたのは4年前くらいなので、消されちゃったのかもしれませんね。
そのブログでは
「守護霊の人が『真実にかなり近づいている』って言ってて喜んでる。」
みたいな記述がされていたと記憶しています。
存在と意識についての気づきは
素領域理論からインスピレーションを受けたものではなかったんですね。
47の書き込みの後にテストスレを読んで
155氏が湯川秀樹博士のご婦人とお話したことがあると聞いて
もうすでに素領域理論など知り尽くされてるんじゃないかと、
返す刀でボコボコにされるんじゃないかと、戦々恐々としてましたw
異なるアプローチから導かれる近しい見解。
これは真理の香りがいたしますなあ。+(0゚・∀・) + wktk +
他のスレを読みながら、ゆっくり楽しみにさせていただきます。
おはようございます。
私は昨日小豆島に行っておりまして、小豆島というのは何かし
らハワイなんかに通じる気のいい観光地だなあと感じました。
>52
なるほど、そういうことだったのですね。
さて、存在と意識なのですが、一般にはさまざまな物質存在が
あり、それらが集合したり化合したりして複雑に組織化されて
生物が生まれ、生物はDNAをコピーすることで形質を次世代に
伝え、次世代に伝える過程で様々な突然変異が生じ、その中で
環境に適合した優れた形質を持つ個体が生き残り繁殖し、進化
を繰り返してゆく。そして最後に現れたのが人間で人間だけが
意識を持って思考する、みたいな考え方が普及しておりました。
今となってはこれはもう随分古い考え方になってしまったよう
に思いますが、ほんの数十年前まで、少なくとも今のおっちゃ
んおばちゃんが学生時代の頃まではまだこんな考えがまかり通
っていて教壇で教えられていたのです。
現代ではずいぶん多くの方が犬や猫のペットを家族の一員とし
て育てているので、犬や猫に意識があるのかないのかなどもう
あまり議論になりません。しかしほんのしばらく前までは、あ
れは意識があるんじゃないんだ、外界の刺激に対して脳のプロ
グラムが自動的に反応しているだけなんだ、動物に人間のよう
な意識なんて無いんだ、と考える方が正しいとされていたので
す。
つまり意識というのは生物進化のある段階、それもかなりの最
終段階になって初めて高等生物だけに生まれたものなのだ、と
いう考えなのですね。
ところがある時私はこれが全くの逆転したあり得ない妄想であ
ることに気がついたのです。なぜならありのままに見るならば
我々自身は意識そのもので、意識である我々が物質である自分
の体や他の物質存在、意識存在(他人様や動物)を認識してい
るのではありませんか?
まず意識存在としての「我」があり、その我が他の存在を認識
している。しかもその他の存在とコミュニケーションをとるこ
ともできる。それが植物や鉱物であっても意思疎通が可能だと
気がついたのです。
あらゆる存在と意思疎通が可能であることは155スレで「修行
中」さんが実証してくださったのですが、実はそれ以外でもい
ろいろあったんですね。これも155スレで紹介したように思う
のですが、私の弟が海辺の丸石から話しかけられて山の中で眠
っていてそれが河原に落ち、長い間に砕かれ丸くなって海にま
で運ばれた歴史を聞かされたことがあるそうです。彼はまた肥
料にするために養鶏場に鶏糞を貰いにきまして、汗を流しなが
ら養鶏場の床の鶏糞をかき集めている最中に、突然鶏たちのけ
たたましく鳴き交わす声が人語に翻訳されて聞こえてきたそう
です。
人間からすると鳥の鳴き声や鶏の鳴き声はなんか知らんが本能
的にギャオギャオ言いたくなって鳴いとるだけじゃろ、なんて
考えてしまいます。ところがなんと弟が耳を澄ましてみると鶏
たちがこっこっこと鳴いているのはひたすら彼女ら同士(卵を
取るための養鶏場なので雌鶏ばかりなんですね)で会話してい
たそうなんです。
しかもその会話たるや今朝餌を持ってきた人はどうだったこう
だったとかあれを見たこれを見たあれはどうだったこれはこう
だったと人間のオバはんの会話そのものを延々とやっていたそ
うですよ。
このように我々が意識・心のないものの代表のように考えてい
る木石すらも全て意識があり、意識があるということはコミュ
ニケーションが可能である、ということなのですね。そうしま
すと存在と意識と申しますが、そもそも存在と意識を区別する
ことすら可能かどうか怪しくなって参ります。
存在と意識とはそもそも別のものとして考えるのはおかしいの
ではないのか?これは同じものを言っているのではないのか?
ということなのです。
>>55 こんな説話(?)みたいなの思い出した。
ある宣教師が現地の東洋の者たちに言った。
「どうでしょう。私たちの主の教えは。
あなた方に精神と心の存在をもたらし
高尚な世界を拓いたのではありませんか?」
対する東洋の者たちは答えて言った。
「とんでもない。精神や心が存在することくらい
私たちだってずっと昔から承知していた。
あなた方が我々にもたらしたのは"肉体"だ。
精神と切り離された肉体、などという見方を
我々はこれまでしたことがなかった。」
宣教師はこれを聞いて驚き、何も返せず黙ってしまった。
>59
それが本当ならドヤってやるつもりだった宣教師さんたちも目
を白黒させたことでしょうね。
私たちは何となく存在と意識は別次元のものであって、存在の
中から意識を持つものが現れた。そしてその意識は存在が消滅
してしまえば意識も消滅するのだ、という設定のもとで思考を
進めてしまいます。正確にいうとそう思考を進めることが科学
的であったり、迷信から解放されていたり、賢い人の考えるこ
となのだ、というような世界観のもとでもとで生きています。
まぁ世の中なんとなくそう考えることが当然であって、それ以
外の考え方を大きな声で言うと白い目で見られてしまいます。
しかし存在の中から意識を獲得するものが現れた、という思考
方法は進化論的思考であります。一つの考え方のパターンに過
ぎないことで、それが真実かどうかとは関係ないことなのです。
また存在が消滅すれば当然意識も消滅するのだ、という思考は
視覚最優先、五感絶対主義の思考方法でありまして、今日のよ
うに我々が頼りにする視覚も五感も実は物理存在の中の一部分
しかとらえきれてないのだ、ということが明らかになった時代
においてはもはや古臭い考え方と言わねばなりません。
こんばんは。
私は新聞やテレビの無い生活をしておりますので、今世間では
どのような報道がなされているのか少し疎(うと)いところが
あるのですが、ロシアに関する報道はきちんとされているので
しょうか?
ネットでは中国がらみや韓国絡みの報道は多いようですが、ロ
シアの動向に無関心なように見えます。しかしSNS上でのロシ
アの動きに関する報告を追っていますと、今ロシアは17万の大
軍と膨大な軍事物資や兵器をウクライナ国境に集積させており
ます。軍事的常識で言えば必ずウクライナを侵略する構えです。
私が知る限り新聞・テレビ・ネットでの報道は中国の台湾侵攻
の可能性についての報道が多いように思われます。
もし東で中国が台湾を侵攻し、西でロシアがウクライナに侵攻
すればそれは長い間予言されてきた黙示録的世界が現象化する
ことを意味しております。中露両国と日本を含む西側諸国との
間でかなりの期間泥沼のような戦争が続くことになってしまう
可能性があります。
しかし中国の台湾侵攻はすんでのところで抑え込めているのが
実情ではないでしょうか?前政権時代に進められた日米豪印の
軍事的同盟関係の構築が進み、これを基盤として、カナダ、イ
ギリス、フランス、ドイツも協力体制をとっております。
太平洋における日米豪印の連携、さらに欧州海軍の参加は中国
の意図を挫くことができる大変強力な海軍力を構築しており中
国がこれに対抗できるとは到底思えません。確かに中国は派手
な戦闘艦艇を次々と建造しておりその拡大のスピードは驚異的
だといえますが、よく観察してみるとマスコミが煽るほどの実
力を備えているとはとても思えません。
具体的に言えば海軍の戦略兵器は空母と潜水艦です。空母は動
く航空基地であり、きちんと稼働する空母があれば世界中どこ
にでも自国の航空戦力を展開できます。しかし現在の中国の空
母戦力には欠陥が多いようでまだまともな運用は期待できませ
ん。
中国がまともな空母戦力を構築するにはまだ何十年もの時間が
必要になるようです。
もう一つの戦略兵器である潜水艦ですが、中国の潜水艦はどん
どん改良されているとはいえ、日米との差は大きいのです。は
っきり言って潜っていてもすぐに日米に見つけられてしまいま
す。
高性能の潜水艦は恐ろしい兵器です。これが一隻潜んでいるか
もしれないとなると、その海域には軍艦を出すことが困難にな
ります。なぜなら高性能の潜水艦は見つけ出すことができず、
しかも相手の艦船を一発で撃沈してしまう能力を持っているか
らです。そのような海域に艦船を出せば沈められに行くような
ものです。
日米の潜水艦はこのように卓越した海域の支配能力があるので
すが、中国がこの域に達するにはやはりまだ10年の時間が必要
なようです。
こう考えてくるとアメリカが台湾支援の明確な意思を示せば中
国は身動きが取れなくなることでしょう。なぜなら台湾侵攻を
強行して日米豪印や西側海軍とに対立すれば、せっかく築いた
南シナ海での軍事的権益を一挙に失い共産党政権の崩壊を招く
可能性すらあります。
ロシアがウクライナ侵攻を実行すればアメリカは軍事的対応を
する必要があります。この時に同時に中国が台湾侵攻すればア
メリカは二正面作戦を強いられる極めて困難な事態に追い込ま
れることになります。
しかしいま極東の海には日米豪印の連合(クワッド)だけでな
くカナダや英仏独の戦力が代わるがわる展開し不足するアメリ
カの軍事力補うことが可能です。これは中国の行動を思い止ま
らせるに足る状況を作り出している、と思います。
前首相が台湾支持発言をして中国を牽制していますが彼はなか
なかやるもんだね、と思います。
注目すべきはこれらクワッド(日米印豪4カ国協力)やカナダ、
欧州各国のインド太平洋地域への軍事的プレゼンスの形成にあ
たって各国が自衛隊との協力(演習)という形をとっており、
事実上各国の軍事的連携の核は自衛隊が担っているのではない
か、いうことです。
自衛隊はもともと自国に向けられた戦争への抑止力として創設
されているのですが、これらインド太平洋地域への各国のプレ
ゼンスの核を担っているとしたら、自衛隊はいま現在第三次世
界大戦に向かう世界的な紛争の発生を抑止していることになり
ますね。
最悪のシナリオは第三次世界大戦ルートでした。これまで多く
の予言で示されてきたように、そのルートでは中国とロシアが
二正面で戦争を起こします。それに引き続いて中央アジアやア
フリカ、南米などで訳のわからない紛争が続発し、ダラダラと
世界各地に紛争が広がり、欧米の先進国でも暴動が発生し各国
が疲弊して多数の犠牲者が出る。最悪核兵器が使用されてしま
う、というものでした。
インド太平洋地域での連携がうまくいけばロシアを止めるのは
難しいにしても中国の暴走は止めることができます。
興味深いですね。
第三次世界大戦が回避されたルートに入った、というような
情報は他の人のスレなんかで読んだりしてましたが、
ここでもそう言ってもらえると安心します。
...ただ、時事問題スレのほうが相応しいかと。
と言いつつ質問がしたいです(笑)
以前、後ろの人は
「日米豪で同盟を組むべきだ。ただしインドやその他は
同盟に入れるべきではない。」
と言っていたように記憶しているのですが、
現状のクアッドにはインドが入っちゃってます。
後ろの人的にはコレは許容範囲内なのでありますか?
戦争の本質的な原因は人々の心の中にある破壊的なエネルギー
です。現代は偏った物質文明が進んだために人々の心が疲れ果
てて、こんな社会は嫌だ無くなってしまえ、というような気持
ちが大きく積み重なったり、自分さえ良ければ良いという想念
エネルギーが積み重なれば破壊的な現象が避けられなくなりま
す。エネルギーは仕事を成しうる能力であり、積み重なったエ
ネルギーは何らかのきっかけで仕事をしてしまうのですね。
これは戦争を避けることは難しいかと思っていたところにコロナ
禍です。これで昨日までの日常は一瞬にして世界から消え去って
しまいました。
これはこれで大変な災害ではあるのですが、しかし戦争災害と
比べるとどうでしょうか?
考えようによればコロナ禍によって、これまで積み重なった破
壊的エネルギーは相当程度消費されてしまったといえると思い
ます。それは戦争災害によるよりもはるかに少ない被害で済ん
でいると言えるのではないでしょうか。
もう一つ言えることは、コロナ禍によってこの災害を協力して
乗り切ろうという前向きなエネルギーも同時に湧き起こってお
り、こうしたエネルギーは新しい社会を築く基礎となりうるの
ではないでしょうか?
かといって戦争の危険がなくなったわけではないのです。現代
の各国の軍事技術の動向や軍備の方向性を見ておりますと相変
わらず核戦争の危険性は高いままであると言えるでしょう。
そしてその危険性が、ロシアや中国のような大国はもちろんな
のですが、意志さえあれば北朝鮮のような破綻国家であっても
世界を脅かす核戦力を構築できる、という事実には驚くほかは
ありません。
中央アジアやアフリカ方面の混乱ぶりを見ておりますと北朝鮮
に続く国が今後いくつか出てきたとしても不思議はありません。
アラサーさん、お邪魔します。
良かった。最近の時事については後ろの方からNGにされているのかな?と勝手に思っていました。
米中は実は結託して日本の分轄統治を狙っている、ということはないのでしょうか?
また、核攻撃の危険性を訴えるYouTube動画も目にします。よくわからないのでアラサーさんに教えて頂きたいのですが、既に混沌として争っている中東などではなく、狙われていることもさっぱり理解してない国に対して核攻撃をするメリットってありますか?侵略したい土地をわざわざ汚染するなんてことをするのでしょうか?
ない、と思いたい故の質問です。やっぱり平和ボケなのかなあ。
コロナ騒動の面だけから見ると、オーストラリアもカナダも共産化していると感じていました。
自衛隊が抑止力になっているなんて。そんなに優秀かな、そして優秀な政治家はいるのかな。全然わからなくなりました〜。
意思があり行動あるところに力は集中され、現実が創られてゆ
く。いつであってもこの事実が変わる事はありません。それは
個人であっても集団であっても同じことが言えるはずです。
そこに誤った意思があったとしたら、多くの人々が大変な現実
を体験してしまうことになってしまいます。では一体そうした
誤った意思はどうやったら変えてもらうことができるのでしょ
うか?よく考えてみるとそうした意思を変えてもらうための方
法は限られてきます。
一番簡単な方法は、そうした意思を持つ相手に消滅してもらう
ことです。
というと「暗殺?」なんて不穏なことを考えるかもしれません
が、ご心配なく。放っておけばいずれ寿命がきてこの世からは
おさらばしてくれますね。
二つ目の方法は、相手に考え方を変えてもらうことです。実に
簡単なことですね。言うだけならば。
現実には相手の考え方を変えるなど、子供であっても言うこと
なんて聞くものではありません。それなのに日本の平和主義の
人たちはどうして話しあえば解決する、などと単純な考えがで
きるのでしょうか?現代史上の七不思議に挙げていいですね。
三つ目の方法は相手の意思に対してこちらの意思を示すことな
のです。意思を示すとは力を示し、相手の思い通りにはいかな
いことを明らかにすることですね。これが通常選択される現実
解であります。
現代の世界平和の枠組みは三番目の方法をメインにして一番目
の方法を取り入れている、と言えるでしょう。どういうことか
できるだけ簡単にご説明します。
>70、>74、>75
すみませんがもう少しお待ちください。
現在の世界平和の枠組みは第二次世界大戦以降確立されたもの
です。その仕組みは米露(当時は米ソ)の核戦力を拮抗させ、
互いに相手を出し抜けない監視システムを作り上げる。もし相
手を攻撃しようとしても、すぐに同等かそれ以上の反撃を受け
てしまうので戦いにメリットがない状況を作りあげる、という
ものです。
通常はメリットがあると思えるから戦争するわけで、メリット
がなければ戦わず、話し合い、交渉するしかなくなります。
しかしここからが人間のいやらしいところで、全面戦争にはメ
リットがないけどそれなら全面戦争にならない程度に紛争を起
こしてメリット追求してはどうですか?ってことですね。
こんにちは。続きです。
さてそんなわけで、米ソの厳しい相互監視のもと核戦争の抑止
体制が作り上げられておりました。今日の核戦力はどのような
ものかというと、地下基地から発射する弾道ミサイル、車両な
どの移動発射台から発射する弾道ミサイル、そして海中深く潜
って位置を秘匿した潜水艦から発射する弾道ミサイルの大きく
三つに分けられます。その中で一番厄介なのは潜水艦発射弾道
ミサイルでした。そこでアメリカはソ連の戦略核潜水艦が基地
を出た時からずっと攻撃型潜水艦で後をつけていつでも攻撃し
て沈めることができる体制を作りました。
ソ連崩壊後のアメリカ軍関係者の証言によれば、アメリカに追
尾されたソ連戦略原潜に追尾を気づかれたことは一度もないそ
うです。さらにアメリカは世界中の海底にセンサーを設置して
ソ連潜水艦の位置を特定できるシステムを作り上げていたので
す。
また地下基地の様子は場所を特定し宇宙から監視して変な動き
ができないよういつも見張っていたのです。
このようにして互いに変な動きがあれば相手に筒抜けになるよ
うな仕組みにより核戦争の発生を抑止したのです。ところが技
術の進歩がこの枠組みを破ってしまうのです。
それは何かというと、固体ロケット技術であろうと思います。
私はあまり軍事に詳しいわけではないのでここからは推測の話
をしているのですが、当初大陸間弾道弾は液体燃料ロケットで
した。日本で言うと大型の静止衛星を打ち上げているH2ロケッ
トなどが同じ液体燃料のロケットです。これは長距離を飛べる
のですが大型で取り回しや発射準備が大変で、地下に固定式の
発射基地を作る必要がありました。
ところが取り扱いの容易な固体燃料で精密な打ち上げのできる
大型ロケットが開発されるようになってきたのです。
北朝鮮が今開発に躍起となっているのはこの固体燃料ロケット
を使ったミサイル技術なのです。これは液体燃料のミサイルと
違って発射準備に時間がかからず、しかもより小型なので、こ
れまでのような大きな地下基地に据え付ける必要がなくなりま
す。
大型のトレーラーに乗せていつでも好きなところに走っていっ
て発射できてしまうのです。
そうしますとこれまで固定式の地下基地と戦略原子力潜水艦を
想定した核抑止政策は崩れ去ってしまうのですね。相手は走り
回ることができるので位置がわからないからです。
それまでの核抑止戦略は相手の動向に注目して、変な動きをす
ると即座にこちらから核攻撃しますよ。だから貴方がこちらを
攻撃した時にはこちらももうミサイルを飛ばしてますから共倒
れになりますね、だから核ミサイルのボタンを押すのはやめま
しょう。って論理ですね。
でも相手に気づかれずに核ミサイルを発射できればこちらは無
傷で相手を倒すことができるようになります。核抑止が成り立
たなくなります。
このような事態を引き起こしたのが個体ロケットミサイルによ
車載式大陸間弾道弾の開発です。どこにいるかわからないし、
このままでは発射されてもいつ射たれたのかわかりません。
ミサイルが飛んできて初めて射たれたのに気づくのでは反撃で
きないために一方的に国が滅んでしまいます。少なくとも、射
てば即打ち返しますよ、両方とも滅んでしまいますよ。だから
やめときましょう、って状態にまで引き戻さないといけません。
そこでどうしたかと言えば、宇宙からミサイルを発射した時の
発射炎を観測することにしたのです。ミサイルの発射炎は特別
な波長の光を出すので宇宙からだと容易に観測できるのです。
ミサイル警戒衛星というのをたくさん地球の周りに飛ばせてど
こから発射されても瞬間にわかるようにしたわけです。
これで若干の対処時間が生まれます。その対処時間に相手に反
撃するわけです。これで以前と同じ核抑止状態に引き戻された
わけです。
しかし話はこれで終わりません。技術の進歩は飛んでくる核ミ
サイルを無力化しよう、撃ち落とそうという方向に進んでいく
のです。ミサイル防衛です。
考えてみてください。核ミサイルが飛んできても、着弾して爆
発する前に全て打ち落とすことができれば人類は核の恐怖から
解放されることになるはずです。いいぞ、もっとやれー、って
なりませんか?
ところが話はそう簡単にはいかないのです。
核抑止戦略は恐怖の均衡などと呼ばれることがあります。こち
らが即死級のパンチを出せば必ず相手も同時に即死級のパンチ
をぶち込んでくる。だからジャブの応酬はしても即死級パンチ
だけは互いに出せない。こうした状態を作り出したのが核抑止
戦略ですね。
確かに人間不信ともいえる嫌な戦略なんですが、実はこれが冷
戦期の核戦争を実際に抑止していた。がからこれが冷戦期にお
ける現実解であり、最適解だったのだといえるのではないでし
ょうか。
もしこういう体制が構築できてなければ、第二次世界大戦後に
も何度も気楽に核兵器が使われてきたかもしれません。
ところがミサイル防衛は核ミサイルを撃ち落とすのだから、核
戦争を無意味にするのかというと、狭い範囲で見ればそういう
見方も可能なのですが、広い視野で見れば深刻な問題が生じて
いるのがわかります。それは核抑止戦略が成り立たなくなる、
という大問題です。
だって相手の即死級パンチもカットできますよ、ってわけです
から。相手の即死級パンチはカットしてこちらの即死級パンチ
をぶち込めば勝てる!ってなもんです。ミサイル防衛の瞬間か
ら恐怖の均衡による抑止なんて成り立っていません。
そうしますと核ミサイルの恐怖から私たちを守ってくれるはず
のミサイル防衛が逆に心理的には致命的な核攻撃へのハードル
を下げるという奇妙な状況が生まれてしまいます。
これは技術の進歩によって必然的に生まれた状況ですね。です
からミサイル防衛がいけないとは言えません。技術の進歩によ
って当然に開発された防御手段であり、新しい防御手段が生ま
れれば、またこれを破るべく新しい攻撃手段が編み出されてし
まいます。矛(ほこ)と盾(たて)際限のない開発競争が続い
てしまいます。
問題は単純な米中露の核の均衡による抑止戦略が成り立たなくなり
つつあるのに、それに代わるべき良い方法論が見出せていないとこ
ろにあります。考えてみますと冷戦期の米中ソによる三すくみ状態
の核の均衡は、「核戦争の抑止」という観点だけからみれば安定し
た時代だった、といえるのかもしれません。
なぜ今現在にこの核の均衡戦略が破れつつあるのか、というと一つ
はミサイル防衛が可能になったことが原因なのは先ほど申し上げた
通りです。北朝鮮の核兵器開発およびその運搬手段としての長距離
ミサイル開発が当時の小泉首相にミサイル防衛導入を決断させまし
た。
投入当初は果たしてこの技術はモノになるのだろうか?と疑問
に思えるほど難しい技術です。なぜならこれは宇宙から秒速数
キロもの猛スピードで降ってくるミサイル弾頭を地上から狙っ
て撃ち落とそうというものだからです。
ところが技術の進歩は恐ろしいですね。なんとこれを高い確率
で打ち落とすことが可能になってしまったのです。これらを打
ち落とす主役になるのは海上自衛隊のイージス艦に搭載された
SM3系のミサイルです。基本的には海上自衛隊は常時1隻以上
の弾道ミサイル防衛役のイージス艦を展開しています。これは
2隻で日本全土をカバーする能力があります。
海上自衛隊は現在8隻のイージス艦を配備しいずれも弾道ミサ
イル防衛能力を持っています。ところが8隻では不足するので
す。
どうしてかというと、艦船というものは運用が難しくて、その
能力をしっかりと発揮するためには実際の任務に就く船の三倍
の余裕がないといけないのです。つまり、2隻のイージス艦を
常に弾道ミサイル防衛に振り向けようとすると、実際にはそれ
専用に6隻用意しないと能力を発揮できません。
なぜなら一年中同じ船が任務につけるわけではなく、実際には
任務ー補修ー教育・訓練 のサイクルを守らないといけないか
らです。
これを守らないとどうなるかというと、性能低下、故障の頻発、
重大事故の発生を招いてしまいます。従って実際に使える船の
数は保有艦船数の三分の一に過ぎません。海上自衛隊の主力艦
は32隻ですので常時使える艦船数はせいぜい10隻程度というこ
とになります。
現在海上自衛隊にはソマリア沖・アデン湾に海賊対処のために
常に2隻の護衛艦を交代で派遣中です。そうしますとミサイル
防衛と海賊対処で4隻を数られ、尖閣周辺に一隻取られ、残り
の何隻かでその他の任務をこなさなければなりません。
艦船のやりくりにかなり余裕がなくなってしまいます。
そこで海自の艦船を使わなくて良いようにと陸上にミサイル防
衛能力のある基地を二ヶ所作り対応しようとしたのですが、河
野防衛大臣の時にまるで素人のような杜撰な計画と対応で迷走
し、結局陸上基地を断念する決定を下してしまいました。
これは河野大臣の責任であり、彼の人を動かす能力に問題があ
ることを示したものと思われます。報道されたような担当者の
杜撰な対応が本当なら、それは時間と予算もなく明確な指針も
与えらないままに言葉で結果ばかりせっつかれた時に人がとっ
てしまう行動であると思います。
新年おめでとうございます。
先ほど京都の上賀茂神社に初詣を済ませまして、もう一つ元旦
お勧めの上醍醐寺参拝はどうしようかとルートを調べてみまし
たら、片道徒歩5時間ほどだったのでこれはスルーすることに
しました。
そもそも上が勧める上醍醐寺とは何?と調べてみますと、なん
とこれは修験道や真言密教ゆかりの寺だったんですね。
修験道は役行者が開祖なのですが、行者没後百年余りにして行
場である大峰山は荒れ果て修験道は絶えようとしていたそうで
す。それを復興したのが醍醐寺開山の理源大師聖宝なのだそう
です。
理源大師という方は讃岐(香川県)出身の方なのだそうです。幼い
時に出家して弘法大師空海の実弟である真雅という方の弟子にな
って真言密教を学んだそうですから空海の孫弟子ということにな
りますね。
さて密教にしても役行者の修験道にしても、これは意識エネル
ギー世界の探求や駆使がその本質であると私は思います。私の
中の六つの課題のうちの六つ目は意識エネルギーの働きの理解
だということでした。今回上醍醐寺に行ってみるようにお勧め
があったのは意識エネルギー世界の先達とつながりを作るよう
な意味があったのかもしれません。
上醍醐寺は無理ですが明日は醍醐寺を参拝してみようと思いま
す。
明けましておめでとうございます
お勧めって何かと思ったら後ろの人からのオススメっすか。いいなぁ五人称意識。
自分も近場の神社に顔出してこようかな。冬至に参ったばかりだけど。
ヴォータンスレ曰くお賽銭は500円で十分らしいがどうなのだろう
こんばんは。
年末年始は自分自身のエネルギーの調整にしくじって修正に時
間がかかりました。先ほどようやく終わったと思います。
さてGoogleマップの経路検索では醍醐寺から上醍醐まで徒歩
15kmと出てしまって、これは無理と思っていたのですが、地
図を拡大してよく調べると2kmのルートがありました。そこ
で予定を変更して3日に上醍醐に行くことにし、2日は八坂神
社にご挨拶してまいりました。
私への参拝お勧め候補は神社が上賀茂と八坂、寺院が東寺、知
恩寺、上醍醐、天龍寺、大徳寺だったのです。最初の計画より
時間がなくなったので他の寺院は行けず、宿泊地も近く理源大
師が気になる上醍醐を選んだのです。
名前忘れですね。iPadからだと毎回名前を入れないといけな
いのでつい入れ忘れてしまいます。
さて、醍醐寺は修験道の本山みたいなものなので天狗とか烏天
狗みたいなのがあっちにもこっちにもいるみたいな雰囲気だっ
たらやだなぁと思っていたのですが、行ってみると意外と綺麗
な感じの気がするところでした。まぁ居たとしても私には見え
ませんし途中の山道もそれほど悪い感じもしません。
もっとも最初道を間違えてお寺には続いていない本当の山道を
しばらく進んでしまったのですが、こちらの道の方が山の気は
すごく綺麗で爽やかに感じました。
さて1時間半の山道を歩いて山上の開山堂に着きますと檜皮葺
(ひわだぶき)の広い屋根からは昨晩積もった雪が今日の暖か
い日光に照らされて溶け、音を立てて降っています。
大師にご挨拶して帰って参りました。イメージの中の理源大師
は四角いお顔で親しみやすくかつ活力のありそうな仕事師って
感じでした。いま画像を検索してみると雰囲気は似ていますが、
彼の画像・彫像の中に多くある垂れ眉って感じではなかったで
すね。
今回はご縁作りが目的ですが、ご縁作りの時には意識でお願い
するだけでもいいんでしょうが、やはりその方のゆかりの土地
や物を通じてというのがスムーズなんだろうと思います。
>99
こんばんは。
上賀茂はね、一段格が高い感じがしましたよ。土地のエネルギ
ーを感じてみようと意識すると、足元から気が上がってきます。
でもここでやらかしちまいました。
財布の中を見ると500円玉が一枚と、100円玉が何枚かと十円
玉が入ってたんですよ。でヴォータンではないですが、お賽銭
どうしようか。100円にしようか500円にしようかと迷って。
確かエネルギーが足りなくなるので神社のお賽銭は100円以上
にしておけ、ってな話だったと記憶しております。
それで境内の摂社末社もたくさんあることだからここは100円を
と思ってお賽銭を入れたんです。ところが賽銭箱を見ると10円玉
が転がってるんです。どうも100円と間違って10円玉を入れてし
まったようなんです。これはいかんわ、って思って御神酒で500
円、境内の末社に100円と残りの貨幣を使って、まぁ神社の維持
費としては相応の金額を納めさせて頂いたと思うんですが。
後から考えるとなんで最初に本殿の方で500円玉を使わなかった
か、ってことなんですが、これは謎にケチってしまいました。い
けませんねぇ。
こんばんは。
改めて時事的なことは時事スレでやるとして、話を本筋に戻し
てゆきたいと思います。
さて、存在とは何か、自分とは何かと考えた時そこに時間と空
間を考えないといけなくなります。なぜかというと、ごくごく
短い時間を考えたとしましょう。そうするとごくごく短い時間
が過ぎるとはどういうことか、あるいは時間が過ぎないとはど
ういうことかを考えてもよいと思うのですが、もし時間が全く
過ぎてないとすれば、それは何も変化が起こっていないという
ことと同じです。
何も変化が生じてない。あらゆる物質が、いや物質だけでなく
宇宙を飛び回る無数の光ですら、一箇所にとどまって動くこと
がなく、あらゆる力すら変化することがなかったとしたら、そ
れはまさに時間が動いてない、時が止まっている、と言えるで
しょう。
しかしもしそのような状態があるとすれば、それは実は何も存
在しないのと変わらない、と言えるのではないでしょうか?な
ぜなら、全てが何も変化しないのであれば、全てのものが互い
に関係がなく繋がっていないことになります。他の存在がある
のか、自分があるのかすらも知覚できないということです。
それは真の意味での虚無と何ら変わらないと言えるでしょう。
それゆえ、存在する、我がある、と言えるためには実は全ての
存在が常に変化し続けなければならないと言えると思います。
時間のあらゆる瞬間瞬間がその直前の瞬間とは何かが違ってい
る。どこかが違っていなければ時間が経ったとは言えないし、
また存在しているとも言えないのではないか、ということです。
もしある一瞬と次のある一瞬が全く同じ空間があったとしたら、
実はその空間は虚無であるので現実にはそのような空間は存在
し得ないのだ、と考えられます。
そう考えますとこの空間が存在する、とはどういうことか。そ
れはどんなに空間を細かく小さく区切っていってもその小さな
空間の中でのこの一瞬と、その直前の一瞬の状態が何か一つは
変化しているはずだ、ということになります。
こんなふうに考えを突き詰めてゆきますと、どうも時間にして
空間にしても、どこまでもどこまでも小さく区切ることができ
る(このことを時間や空間が「連続である」と言います)とす
るとどうもおかしいのではないか?と思えてきたのです。
存在とは何か?という疑問をいろいろな方面から考えてゆきま
すと、どの方面から考えてみましても私には時間や空間には最
小単位があるはずだ、という方向に向かっていってしまうので
す。
湯川先生は物理学の追求から空間の最小単位として「蘇領域」
という考えを打ち出されたそうです。先生の理論で時間がどの
ように扱われているか知りませんが、私には時間に最小単位が
あるとしか思えません。時間の最小単位とは空間が変化するタ
イミングであり、空間の変化とは空間が振動している、という
ことになります。
つまり全ての空間は非常に精妙な振動を続けており、この振動
こそ存在の証である、と言えるのではないか。そう考えたわけ
ですね。
なるほど。
10年以上前に121が語っていたことについて、
当時は否定的な立場だったが・・・
むしろそっちの方が基本形というべきか。
観測者ありきというのもあるのだが、
レスや相手が居ないと存在意義を喪失しかねないか居ない
ま、たまには見てるよ。
時間、というものを真面目に考えようとすると、
それがホントに実体として存在するのか
疑問に思えてくるんだよなあ、個人的に。
物体の位置情報が変化してゆくことから逆算して、
その経験的事実を説明するために編み出された概念
でしか無いんじゃないかと疑ってしまうよ。
時間なんてものが、ホントに実在するのかねえ…
そういや、お釈迦様は
時間の最小単位は「刹那」(10の18乗分の1)である
と説いていた(らしい)ことを思い出した。
…どうやって観測したんだよ。
こんにちは。
9日に自分自身のエネルギーの調整を元に戻せたかと思ったの
ですが、その後また大きく乱れてしまいました。
昨晩遅くやっとまた元に戻せました。元に戻ると体内の気の流
れがよくなるので気分がとても軽くすっきりとします。逆にい
うと気の流れが悪いと気がつかない間に頭がスッキリとせずな
んとなく重い感じがします。ずっとストレスを受けているよう
な感じですね。
このようなことは意識しないと分かりにくいことですし、普段
自分の体調や気分の辛さの原因に意識エネルギー(気?)が大
きく関与しているとは知らないのはないでしょうか。
さらにもっと知られていないのは、自分という存在が多くの
他の存在と結びついているという事実です。
我というのは我一人で成り立っているのではないのだ、とい
う知識は現代では「環境」の学習で学びますし、またそもそ
も「社会」という教科が自分と他者との結びつきのありさま
や仕組みを学ぶ教科ですよね。
ただ社会が人と人との関係を学ぶのに対して環境は地球を中
心として物質や動植物、そしてエネルギーとの関係を学ぶと
ころがより進んだところだと思います。
ただこうした社会や環境の学習で学ぶ「我」と「他者」との
結びつきはあくまで物質的な関係でしかないのです。多くの
人にとっては社会や環境での学びは単なる知識でしかなくっ
てなかなか「結びつき」そのものを実感することは難しいと
思います。
人は思い考え行動する存在でして、そうした人としての営み
を他者との結びつきの面でより切実に学ぶ場は精神医学や法
学、そして経済学の分野ではないでしょうか。これらの分野
は物質的な存在としての人と関わりだけではなく、精神的な
存在としての人の関わりが問題とされてくるのです。
法学や経済学では主に「利害」と「契約」いうフィルターを通
して他者との関係性を観察し考察します。だからその切実さは
「社会」や「環境」から得られる結びつきの実感の比ではあり
ません。
しかしここにおいても「我は我一人で生きているのではないの
だ」という実感が得られるかというと、それは難しいのではな
いか、と思われます。
宗教的なバックボーンや高い倫理性があれば良いのですが、
「利害」を軸に他者との関係性を考えてゆくと、他者を利用し
て自分さえ良ければ良いのだという考えに落ち込む可能性があ
るからです。このバックボーンの有無が中国と欧米諸国や日本
との違いだと思います。
訂正です。
>108 「蘇領域」→「素領域」
投稿するときはちゃんと読み返さないとですね。
「自分一人で存在するのではないのだ」という言葉はこうした
学問からはその実感が得られにくいのです。ましてや「彼・彼
女が我であり、我が彼・彼女である」などという実感が学問か
ら得られるかといえば、それは無理‥ってなっちゃいませんか?
ええ、私としてはそういう実感が欲しいんですよ。でなきゃ、
意味がありません。
では我と彼・彼女が隔てられた感覚をなくすにはどうしたら良
いのか?ということになるのですが、その秘密は意識エネルギ
ーの世界にあることを発見したのです。
つまり、「我は自分一人で存在するのではない」という言葉は
本当に存在のあり方としてその言葉通りで、そもそも人は意識
エネルギーで様々な存在とつながった状態で存在するのです。
ですからもしエネルギー的に他の存在と切り離された状態で存
在する人がいれば、それは状態異常を起こしていることになり
ます。初めから他の存在と繋がった状態が本来の姿なのだ、と
いうことに意識エネルギーの実践の中から気がつくことができ
たのです。
今日では質の良いスピリチァル情報が簡単に手に入るようにな
っています。しかしなぜかこのことを語っている方は私の知る
限りではおられません。
ちょっと前の時代では考えられないほど大量に良質の情報が
溢れている現代なのですが、それでもスピリチュアルの世界
において語られてない、まだ明かされてない情報は私の知る
限りでも沢山あります。
今後必要に応じてそうした情報についても明かしてゆくこと
になると思います。ただ、そうした知識には使い方によって
は大変危険になってしまい混乱を生むことになるので、やは
りもっともっと時代が進むまでは明かせないことも多いと思
われます。なぜならそれらは「力」についての情報だからで
す。
そして、存在というものは様々な他の存在とエネルギー的につ
ながり、いわば「エネルギーコンプレックス」つまりエネルギ
ー的な複合体として存在する。つまり私自身が私は単独の私で
なく、「私たち」というエネルギー複合体なのである、という
事実もそうしたあまり明かされてない事実の一つであろうと思
います。
それでは「我」は一体いかなる相手とエネルギー的複合体を作
っているのかなのですが、それはまず家族であり、そして友人
であったり彼・彼女であったりペットであったりまた愛用品で
あったりすることもあるのです。
そしてそのエネルギー的なつながりは、つながりを意識し相手
に愛情を注ぐことでつながりが強くなり、意識しなくなり愛情
を注がなくなったり注ぐ回数や内容が薄くなったり怒ったり反
発したりすることで次第につながりが消えていってしまうもの
なのです。まるで一つの生き物のように、本人の気持ちのあり
方、相手の気持ちのあり方、繋がりを意識する強さや回数、そ
して行動に応じて成長したりやせ細っていったりするするもの
なのです。
このようなことは人の気持ちのあり方として当たり前のことを
言っているに過ぎないだと思われるかも知れません。
しかしここで私が言っているのは、それは単に家族や恋人や友
人の間の心理的な問題ではなく、人間の意識が目には見えない
がエネルギー的な構造を作り出し互いに結ばれているのだ、と
いうことです。
意識はいわばエネルギーを素地として構造を作り出し、維持し、
消滅させるのです。
こんばんは。
さて私は知恵と力と愛の統合を目指しているわけです。
統合を目指すというと、言葉はかっこいいわけですがそれほ
ど難しいことをしてるわけじゃありません。
考えてみますと知恵を追求する、ってごく普通の生き方です。
学生なら勉強することがそれに当たりますし、社会人なら何
事につけ、どうすれば良いのか、どういう選択と行動が正し
いのか、常に迫られてるようなところがあるわけで。これは
意識するとしないに関わらず知恵を求めて生きているわけで
すね。
ただ私と違う場合があるとすれば、それは求める目的が他人
様の評価だったり、お金の獲得だったりする場合が多いのか
もしれません。
しかし仕事に真摯に取り組み、常にどうして物事を解決し前進
できるか考え続けている多くの方々は、すでにそうしたお金の
ためとか他人の評価とかいう動機を捨ててしまって責任感と義
務を原動力に組織や全体の調和を目指している場合が多いもの
です。
私の場合は存在の本質・己の本質が知恵と力と愛の統合の中に
あることを信じただ単に己の追求、存在の追求を続けています。
しかし己の追求、存在の追求は必ず全体の調和につながること
をも信じておりますので、その意味では私の動機は家庭や企業
や組織の中で真摯に知恵を追求され続ける諸姉諸兄と相通じて
いるものと信じております。
そうした追求の結果、「知恵」と「愛」については自分なりの
見解を持つようになったのですが、未だよく解らないのが「力」
すなわちエネルギーなんです。
私は理屈から先に考えてしまうタイプなのですが、エネルギー
については今ひとつわかりません。
それは一体どうやって創造され、どうすれば浄化することがで
き、どうやれば消滅させることができるのか。そもそもエネル
ギーとは一体何なのか。とてもとても納得できる見解に至らな
いのです。
理屈で考えて解らなければ体験して研究観察するしかありませ
ん。通信からのお勧めもあり、意識エネルギーの体感、駆使、
観察、考察を繰り返す、というサイクルを続けております。
その過程で0感なのに色々とスピ的な体験も重ね、意識エネルギー
についての知見を増やしてきたのです。
その結果私はほとんどの方が物の見方が逆転していることに気がつ
くようになりました。エネルギーを軸に物事を観察すると、モノの
見え方が従来とは全く異なってきたのです。
また心のあり方についての多くの先人先哲聖者と呼ばれる人々の教
えがエネルギー的にその通りであり、想像以上に合理的であること
にも気がつきました。彼らの言葉は空しからず、単なるお題目でも
気休めでもなくエネルギーの駆使のあり方そのものである、という
ことなのです。
同時にまた力の追求は大変な危険を伴うものであることをも
改めて認識しないわけにはいきません。
以前155スレで私の地域でこの時代に実際にあった天狗の力
くらべ・念力合戦のような実話を紹介したのですが、あんな
ものはまだまだ可愛いものです。力の追求を志す者の動機が
自己顕示にあるとすれば、それは犯罪者にわざわざ危険な凶
器を与えるようなことになりかねないからです。
エネルギーの駆使、力の駆使を志すものはまず動機を正す必
要があります。そして善と悪、己の中にある偽りの自分と真
実の自分を深く理解する必要があります。
それは自分の心の中に悪想念が湧き上がり、制御できなくなり
そうな時にどう対処するか、という問題があるからです。
これは自分の本質と偽りについて深く洞察し、心動かされない
自分であることが必要になってまいります。ただ単に悪を否定
し善を追求するという姿勢だけでは対処できないことなのです。
悪を嫌がり排斥するよりも、むしろ自分とは何か。我とは善と
悪の混合物である現実を、責めるのではなくまず認めることが
必要になってくるのではないでしょうか。その上でそもそも悪
とは何なのか?ということですね。
悪とは如何なる想念であるのか?
それはなぜ、何を動機とし、何を我にもたらしたいと願ってい
るのか?我と他者との間にどのような関係性を作り出そうと想
像し、何をどう行動し、その行動の後に実際にはどのような関
係性が作り出されてしまうのか?
守りきれない己を守る心が悪想念を生み出すのか?自分の思う
ようにいかない現実が悪想念をもたらしたのか?より多くを求
める心が悪想念を生み出そうとするのか?そもそも我とはその
ような想念によって庇(かば)ってもらう必要がある存在なの
か?
このように責めるためでもなく、もちろん言い訳するためでも
なく、あらゆる角度から、斟酌(しんしゃく)することのない
ありのままの考察を加えてゆけば、己の心の中の善悪を深く理
解することができるようになることでしょう。
そして例え己の中に突然の悪想念の渦が立ち込めて渦を巻いた
としても、動揺することなく立ち続けることができるようにな
るのではないでしょうか。
逆に言えばそのような過程を経ず、知情意の発達とバランスを
欠いた意識がただ力のみを目指すとすれば、それはその意識や
関係する存在にとってかなり危険なことになってしまう可能性
が高いということです。
さてそういうわけで、私はこれまでに得た力に関する知識や見
解についてはその全てを公開することはできず、慎重に語って
ゆこうと思っております。
しかし今ここを訪れている第十グループ、「力のグループ」の
人々にとっては必ずしも全てを語る必要はないとも思っており
ます。なぜなら第十グループは過去世において力の駆使や危険
性についても十分の経験を積んできた人々であるからです。
そのため一旦彼ら彼女らが己の中の力と向き合おうと決めれば
私が経験したように一を聞けば十がわかるはずだからです。
ところで第十グループの人々は必ずしもこのスレに集っている
わけではないし、むしろすでに偉大な力を駆使している人々が
スレ外部にもたくさんいらっしゃることも知っていただきたい
と思います。そのような人たちともいずれ接点を持ってゆくこ
とになると思っております。
さて第十グループにおける私の役割の一つは存在と力と愛の関
係性について整理し、できるだけわかりやすく説明してゆくこ
とにあります。
力、エネルギーについてはまだまだ学ばないといけない部分が
多いとは思うのですが、いま分かる範囲で説明することから始
めたいと思っています。
さて、意識エネルギーの性質を考えてみると次の二つのことが
言えるのではないかと思います。
一つ目はまず「想い」が最初にある、ということです。
存在が「想い」(イメージ)を持つ時にその想いは形を結ん
でいます。そうしますと存在の内部や周囲に存在する意識エ
ネルギー粒子はそのイメージに注がれるエネルギー(想い)
に反応してイメージ通りに集中し整列することができるよう
になります。
二つ目に、形は構造を作り、構造は機能を発揮し、また構造に
はエネルギーが蓄えられる、ということです。
意識エネルギーの話は結局この二つの話に集約できるのではな
いか、と思っております。
これだけではあまりにも抽象的なので、次回は例として私が防
護結界を作った話をしてみます。
その後は再び存在と時間と空間に関する私の見解の続きをご説
明したいと思っております。
では今晩はこれで失礼します。
おはようございます。
8年くらい前の話になります。母が突然おかしなことを言い始
めました。「裏口から人が勝手に家に入ってくる」と言うので
す。
一体何のことだろう?母は思いつくままに言葉を喋る人なので
ちょっと要領を得なかったのですが、どうも生きている人のこ
とではないようです。あ、これはその様子が見えてるんだ、と
確信したのは、居間に座りながら「あ、今裏口の戸をすり抜け
入ってきた」と言った時でした。
その頃私の家の場はかなり荒れておりました。弟が時々拾ってく
る猫が増え過ぎて、猫屋敷になり、あまり家族が出入りしなくな
った2階の部屋は猫の糞が散乱して手がつけられない有様でした。
私はそんな場の雰囲気が嫌だったこともあり、何年か前から
生活の拠点を今の近所にあるアパートに移して寝泊まりは別
にし、夕食だけ実家で取るようにしていたのです。
しかし放置していた実家の霊的雰囲気は想像以上に悪くなっ
ていたようです。母親は昔から霊感のようなものがあり、よ
く夢の話をするのですが、その夢には予知夢だったりするも
のもありました。しかし霊視まがいの話を聞くのは初めてで
した。そしてその時話す夢の内容も、家の周りを悪い人たち
がウロウロして入る隙を窺っている、というような内容の夢
を時々見ているらしいのです。
これは放置していてはマズイと思った私は家に防護結界を張る
ことにしました。とりあえず勝手に侵入してくる存在たちを遮
断しなければなりません。
やり方は簡単です。エネルギーのシールドで家を覆ってしまえ
ばよいのです。その時に害意のある存在は遮断し、害意のない
ものだけ出入りを許可する条件をつければ良いのです。
まず深呼吸しながらエネルギーが体内に充満するようイメージ
します。多分その時は具体的には太陽のエネルギーをイメージ
したと思います。心中に天空に光を放つ太陽をイメージするか
直接太陽に向かってそのエネルギーが充満してゆく様を吸気と
共にイメージします。
今はそうでもないのですが、この時は丹田に集めた太陽のエネ
ルギーを十分に練り練りします。自分のエネルギーと馴染ませ
てゆく、そして固体化するイメージでしょうかね。馴染ませた
イメージは背骨の周りを回転させながら上昇させ骨を通して掌
(てのひら)まで流し、手のひらから流してゆくイメージです。
手のひらをコテにして左官作業で家の周りにエネルギーのシー
ルドを塗ってゆく感じです。その時に害意のないものだけの通
過を許可する念を入れながら塗っていったわけですね。
今はそうでもないと言うのは、今はあまりネリネリしなくても
直接エネルギーを流してゆくことも多い、って意味です。
これは髭氏もTwitterでおっしゃってました。なぜか髭氏と私
はTwitterの発言が連動していることがあるのです。
さて30分か小一時間かけて作業は終了して丹念に家の周りを
塗り終えました。
その後しばらくして母親に確認してみたのですが、その日以降
謎の存在が家に入り込むことは無くなったそうです。もちろん
私がそんな作業をしたことは秘密なんですけどね。
想いがエネルギーを集め、エネルギーは形を作り、形は構造と
なって機能を発揮する。そしてそれらは想いに従うのだ、とい
う一連の考え方はご理解いただけたでしょうか?
そして我々の体はこうしたエネルギーの受け皿であり、集中点
であり我々の意識が常時こうしたエネルギーを(意識すること
なく)駆使しているのだ、という現実があります。
多くの人々はこうした現実に気づいてはいないのですが、現に
意識エネルギーは誰もが無意識に駆使し、そしてこの意識エネ
ルギーこそが物質的現実を生み出す原動力であると言ってよいと
思うのです。
いま我々が置かれている3次元物質世界の現実、それを作り出
す原因は想いにあり、それを作り出す原動力は意識エネルギー
であり、意識エネルギーが物質的エネルギーをコントロールし
て3次元物質世界を作り出している、私はこのような見解を持
つようになったのです。
例えてみれば、3次元物質世界という工事現場があります。
そこではあっちでもこっちでもたくさんの作業員が重機を使っ
て作業しております。その作業員にあたるのが一人一人の想い、
想念ですね。
そして重機にあたるのが物質的エネルギーなんですが、この
重機は作業員が操作しているわけです。作業員の操作はスイ
ッチやレバーを通じて制御回路を流れる電流に変換され制御
信号としてモーターやエンジンに伝えられてゆきます。
こうして制御信号に操られた重機は作業員の思いのままに動
いて様々な土木建築物を作り出してゆきますよね。この制御
信号にあたるのが意識エネルギーではないでしょうか。私は
このような見方をしてほぼ問題ないのではないか、と考えて
います。
こんばんは。
と書き込んだ途端に携帯の緊急地震速報が鳴りまして、日向灘で
地震だそうです。
この辺りが揺れるまでは時間があるし、この辺はいくらくらいの
震度になるかしら?と通信で訊いてみると、震度2程度だという
ことなので、備えるほどでもないかと揺れるまで待ちました。
そうしたら実際には上へ下へ前へ後ろへ横へとかなり気持ち悪い
揺れが続いたので、これは震源近くの人たちは生きた心地しなか
ったかも、と思いました。
日向灘は何十年に一度の間隔で震度5がありますね。
おはようございます。昨晩は地震を確認しようとYouTubeを
開いてしまい投稿できませんでした。
>110、>111、>134
ということで、時間と空間と存在に関する私の考えを、今日か
らまた改めて説明してゆきたいと思います。
空間に最小単位があるのではないか、という考えに辿り着いた
経緯の一つは>104のあたりで説明いたしました。何かが存在
する、と言えるためには常に微小な変化、すなわち振動が起こ
り続けていないといけないのではないか?という考えを述べま
した。
もう一つの考察は「ゼノンのパラドックス」として知られてい
る話についての考察です。
ゼノンは古代ギリシャの哲学者だったそうですが、彼が有名な
パラドックスを提起していたのです。どんな話かというと、一
般には「飛んでいる矢は的に当たらない」というような、誰も
が一度は耳にしたことがあると思うお話として理解されていま
す。
もっとも正確にはちょっと違うのだそうで、「飛んでいる矢」の
お話はゼノンのパラドックスをわかりやすくまとめたもののよう
です。
一般に言われて広まっているようなお話に従って考えてゆきま
す。彼はこういう感じで言ったというのです。
「矢が的に向かって飛んでいるとする。矢と的の間には距離が
ある。矢が的まで半分の距離を飛んだとする。まだ半分距離が
残っているではないか。」
「さらに矢が飛んで残り半分の距離の半分を飛んだとする。確
かに矢は的に近づいたがまだ半分の半分の距離がある。まだ矢
は的に当たらない」
「さらに矢は飛んでその残りの半分の距離を詰めたとする。し
かしやはりまだ距離を詰めたのと同じ距離が残っている。どこ
まで行ってもこの繰り返しなのだから一体矢はいつ的に当たる
ことができるのか?」
実際にゼノンがそう言ったというのではなくて、これはゼノン
の論法をわかりやすくまとめて説明するための言い方なのだそ
うです。誰もがきっと一度は聞いたことがあるお話ですね。
さてこれはもちろん事実と違うので、バカバカしいとお考えに
なるかも知れません。しかし、哲学的にはこれはまだ解決され
ない問題の一つなんだ、と先ほど開いた哲学サイトには書いて
ありました。数学の得意な人なら、ああ連続とか収束の話だ、
と思うかもしれませんし、等比級数だよねという方もいらっし
ゃるでしょう。
連続とか収束っていうとこれは微分積分につながってくる話で
す。現代文明は微分積分を道具として発展しておりますのでそ
ういう意味では文明の根幹にも関わる話になってまいります。
これは単純な話でして、もし空間が連続しているとするならば、
つまりいくらでも空間を小さく切り分けることができるとする
のならば、必然的にこのパラドックスに嵌(はま)ってしまい
ます。矢は的に近づき続けるけれども的そのものに接触する瞬
間を観測できない、という話になりかねません。
いや、それは時間の進み方を限りなく遅くしてゆくからでしょ
ってツッコミ乙なんですが、それでもやはり的に当たる瞬間っ
てどうなの?近づいてゆく時と何が違うの?って考えるとよく
わからなくなってしまいます。
これはこのように言う事もできるでしょう。
矢が的に近づいてゆく瞬間がある。この時矢と的の間には空間
が存在する。
矢が的に当たる(接触する)瞬間がある。この時矢と的の間に
は空間が存在しない。
矢と的の間に存在する空間は、矢が的に当たった瞬間に消滅す
る。つまりある瞬間には空間が存在し、次の瞬間には空間は突
然消滅している。
もし空間が連続だとすると明らかにこれはおかしい説明になっ
てしまいます。
しかし空間が不連続であるとすればどうでしょう?つまり空間
がすんごく小さな粒々でできているとしたら。
空間には最小単位があるのだとしたらどうでしょうか。
電光掲示板で文字が流れていく(ように見える)
やつが街中にあるけど、あんな感じか?
至近距離で見るとライトの粒々の1つ1つが
バトンリレーみたいにして光の文字を瞬間瞬間
伝えていくみたいな。
…光が「想い(エネルギー)」で
電球が「空間の最小単位」と見立てれば、
空間がエネルギーによって励起され、毎瞬毎瞬、
位置情報を飛び飛び(離散的)に変えていくイメージ
に近いと思うのだけれど。
>>151 追記
ここで1つの電球を注視してみると、
電球はついたり消えたりをピカピカ繰り返しているだけで、
光の文字が「流れている」なんて現象は"起こっていない"と見なすこともできると思う。
現実世界で言えば、この世界には
空間が"励起されている状態"か"励起されていない状態"かの2種類しかなく、
それぞれの空間の粒が2種類の状態を交互に繰り返して明滅しているだけで、
実際には物体が「流れている」とか「移動している」というのは俺ら人間から見た見方でしかなく、実際は幻想なんじゃないか、とまで言えるのかもしれない。
※励起(れいき)
=原子・分子などが外部から光・熱などを与えられて低いエネルギー状態から高いエネルギー状態に移ること
長文スマソ
こんばんは。続きです。
時間や空間が連続しているのだ,と考えるならば時間や空間を
いくらでも拡大したり縮小して考えることが可能なはずです。
しかし時間や空間をいくらでも拡大して考えることができるの
ならば,この場合明らかにおかしいのです。
なぜなら,矢が的に向かって近づいている時に,矢と的との間
には空間が広がっています。
ところが矢が的に当たった時には矢と的の間には空間が存在し
てはいけません。そうすると,矢が的に当たった瞬間には矢と
的の間にあった空間はどうなったのでしょうか?突然消えた,
というしかありません。
これは次のように言い換えることも可能です。つまり,
物体はある位置に限りなく近づいてゆく時に,凄く近くまで
来ると突然「距離」を飛び越えてひょいと向こう側に行って
しまう。
しかしこのことをさらによく考えてみると,物体は途中経過
の位置を無数に過ぎてきているんですよね。そうしますとそ
の途中経過のポイントを通るときもそれぞれ近づいてはひょ
いとそのポイントに飛び移り,次のポイントに近づいてはひ
ょいと次のポイントに飛び移りを繰り返していることになり
ますよね。
つまり物体が移動するとは,義経の八艘飛び(はっそうとび)
のように,物体が船(位置)から船(次の位置)へとひょい
ひょい飛び移ることである,といえてしまうのですね。
>151。>152
はい,その通りですね。私たちは毎日パソコンやテレビの画面
に物体や人物が映し出されたり動き回るのを見て楽しんでいる
わけですが,それは二次元平面空間に配置された無数の粒々の
エネルギー状態の変化を,光として捉えて楽しんでおります。
そこにモノや人の実態があるのではなく,ただエネルギーの状
態の変化が映し出されているに過ぎません。
これと同じようなことがこの三次元物質空間にも言えるのでは
ないか、ということですね。つまり物質がある位置ポイントに
限りなく近づいていくとき、ギリギリまで近づくとある瞬間に
ひょいと向こう側に飛び移ってしまってこれ以上は近づけない
ギリギリの距離がある、というわけです。
そしてこの、これ以上近づくことのできないギリギリの距離こ
そが空間の粒々の直径、つまり空間の最小単位の大きさである、
といえると思うのです。
おはようございます。
外に出たら半月がかかっていて,そういえば今日は下弦の月
の日だったなあと空を見上げました。調べてみると今晩23時
が下弦だということです。
家事を片付けた後,しばらく月の呼吸をしていました。月の
呼吸というと大層ですが,なあに美しい月を見ながら意識を
美しさ清浄さに合わせてゆき,呼吸と共に月の清浄さが自分
自身を染めてゆくのをイメージする,というか自分自身が清
浄さそのものに変容してゆくのをイメージするだけです。誰
でもできる簡単な方法ですね。おすすめです。
本当なら過去の意識の浄化までやりたかったのですが,それは
時間がかかります。今日は予定があっていきなり朝から忙しい
ので,それは今晩に回すことにしました。
過去の意識の浄化といってもこれも大層なことではありません。
過去の意識の浄化にはいくつか方法が考えられるんですが,真
正面から突破しようとすれば過去の辛い経験や消化できない経
験を思い出して,それを第三者の目であらゆる角度から見つめ
直してゆく。理解と赦しに至るまで徹底的に見つめ直す,とい
う方法があります。
これはこれで大切な方法で,自分の視界を広げるためにも良い
方法だといえます。しかしこれ結構面倒臭いんですよね。
第一時間がかかってしまいます。
それに過去の意識に縛られて浄化がなかなか進まない場合もあ
り得ます。つまりうまく反省ができないことも多いんです。
そこでそもそも理論的に浄化とは何かと考えてみますと,もう
一つの方法が浮かび上がって参ります。それが私が月の浄化の
呼吸,太陽の浄化の呼吸と呼んでいる方法です。いや,月や太
陽に限らず清浄な存在ならなんでもいいので,水の浄化の呼吸
でも水晶の浄化の呼吸でもいいんですけどね。
その方法は先ほどご紹介した月の呼吸(月の浄化の呼吸)と同
じで,月や水や水晶のような清浄な存在,汚れを浄化する存在
をイメージして,あるいは直接それらに相対して,それらのエ
ネルギーが自分の全ての存在を浸し浄化してゆき自分自身が汚
れのない存在へと変容してゆくのを眺めるだけなんです。
呼吸と共に静かに清浄の気が体内に,魂の隅々にまで満ちてゆ
き,自身が清浄の気に染まって変容してゆくのをイメージする,
って感じですかね。もし水晶をイメージするなら,浄化力の面
で矛盾が生まれてはいけないので,水晶の場合は巨大な水晶山
塊をイメージするといいかもです。
そして過去の意識の浄化の場合は,一通り上記のような方法で
現在の意識の浄化を終えると,今度は意識の中で過去の年代を
指定します。
私の場合だと,例えば2000年の意識,とか自分自身に指定す
るのです。そして過去の意識をテープかC Dに記録されたデー
タのイメージで2000年の1月1日の部分から始めて月の光を探
照灯やレーザービームのスポットライトを当てていくようなイ
メージで一年分浄化してゆくのです。私はCDではなくて記録
テープのイメージなので,記録テープを一年分ビーって回しな
がら光を当てて浄化変容させてゆくイメージなんです。
これ,割と簡単だと思うんですよ。やってみるとわかりますが,
結構スッキリするものです。一年分を何回も,満月のエネルギ
ー,上弦の月のエネルギー,下弦の月のエネルギー,新月のエ
ネルギー,太陽のエネルギーというふうに何度もエネルギーを
込めてひとまとめに浄化してゆく方法ですね。
私の場合だと上記のように満月,上弦,下弦,新月,太陽をワ
ンセットにして,一生分まずワンセット仕上げたいと思ってる
んですが,なかなか機会を作れません。とりあえず今のところ
は試行的に満月と太陽のエネルギーでの浄化を19年分やったと
ころで止まっております。
そしてもう少し要領をいえば,テープやCDに機械的に光を当
てるというだけでなく,光を当てている間,その過去の自分の
時間をイメージしながら当てる,ってことでしょうか。過去の
過ぎ去った時間といっても,自分の中では今と変わらず生き生
きとした時間として再現可能なんです。まぁ文学的な表現とな
りますが,過去の全ては今という時間の一点の中に実在してる
んだ,ってことになりますね。その実在する過去の生き生きと
した自分の意識と体に,浄化の光,エネルギーを注ぐ,ってい
うイメージになります。
ここまで言えば皆さんなら後はやればわかると思います。
おすすめの方法ですので是非やってみてくださいね。
私も仕事が終わって帰宅して一息つくのがちょうど23時頃な
ので,今晩何年分か挑戦してみるつもりでおります。
さて,存在と空間と時間の話ですが,話は少し進んできている
ところですが,実はまだまだ序盤なんです。考察を進めてゆき
ますと思わぬ展開となって参りますので改めて時間をとって説
明いたします。では失礼。
おはようございます。
昨晩、自分の心の動きを観察していてこんなことに気づきまし
た。それは心の中に不意に浮かんでくる言葉についてです。
誰しもあると思うのですが、自分が考えてもいない言葉が不意
に浮かんでくる、という経験をして戸惑うことがあると思うの
です。それがその場に全くそぐわない酷(ひど)い言葉だった
りするとなおさらそうで、あれ?自分の心って一体どうなって
るの?と思ってしまいますよね。
昨晩、月のエネルギーを感じている最中にそんなことがありま
して、その時の自分の心を観察していて一つの見解に辿(たど)
り着きました。
それは、突然人を小馬鹿にするような言葉を心がひょいと呟
(つぶや)いたのです。どんな言葉だったかというと、もう
すっかり思い出せないんですが、例えば京都ですと「いちび
りさらすな」なんて言い方をします。そんな感じの雰囲気の
言葉だったと思います。
今は全く思い出せないほど何の影響もないのですが、その瞬
間はその言葉の影響が後を引いて心の中で何度も言葉が思い
出されて消えてくれません。地味にダメージになっています。
で、これはどういうことだろう?と疑問に思って観察してみ
たのです。
観察してみてまず気づいたのは、この言葉には感情が込められ
ていて、その感情がエネルギーを与えている、ということでし
た。
なるほど、感情はエネルギーを与えるのか。
とすれば、エネルギーを放出する方法は感情を込めることなの
かな?
そもそも私は人を攻撃したり馬鹿にしたり貶めたりするような
タイプではありません。なのになぜこのような言葉が自分の心
から出てきてしまうのだろう?よく観察してみると、どうもそ
れは人が誰か(私に対してなのか、第三者に対してなのかちょ
っとよくわかりませんでしたが)に対して放った言葉のようで
した。
そしてそれは今まで何度も聞いた言葉でもありました。聞くた
びに嫌だなぁと感じることが多い言葉なんですね。
そうしますと、その言葉を聞くたびに聞き流していたようでも
私の感情が動いています。言葉に込められた感情のエネルギー
は単なる情報として相手の伝わるのではなくて、その情報を聞
いた相手の心に反応を起こしているわけです。相手の心と同じ
ような感情を起こして相手の心に染められてしまうか、それに
反発し否定する感情を起こして打ち消してしまおうとするか、
どちらかの感情が誘導されております。
これを物理的なエネルギーの概念を使って表現すると、感情が
相手の心、感情に作用して動かした、つまり感情が「仕事」を
しており、感情とはエネルギーである。意識に作用するのであ
るからこれは意識エネルギーである。と判断できることになり
ます。
まぁ、「感情はエネルギーである」という言い方はちょっと乱
暴ではありまして、もう少し事実に即して言えば感情の込めら
れた言葉は相手の感情を動かすエネルギーを持っている、とい
うのが正確でしょう。
しかしここでさらによく自分の心を観察してみると、感情を込
めた言葉を発したり念じたりすると意識エネルギーを消費して
おります。その証拠に精神的に疲れて休憩した句なったり仮眠
したりしたくなってきます。
また逆に感情の込められた言葉や意識を向けられるだけで、同
じ現象や逆の現象、つまり疲れたり凹んだりする意識エネルギ
ー不足現象や、元気になるエネルギー充填(じゅうてん)現象
も体験します。
そうすると感情のこもった言葉や念を媒介として私たちはエネ
ルギーをもらったり取られたりしていることがわかります。
相手を貶(けな)したり否定する言葉や念で意識エネルギーを
奪われ、相手を応援するような感情のこもった言葉や念で意識
エネルギーをもらっているワケです。
そうしますと基本的には言葉(心の中の言葉である念も含めて)
には感情によって発信されていると言えそうです。
ただ単に情報を伝達しようとするだけの言葉もあるわけですが、
その場合はこうしたエネルギーのやり取りは起こらないようで
す。しかし逆に情報のやり取りだけの言葉は面白味がないと感
じてしまいますよね。実は私たちは日常でのこうしたエネルギ
ーのやりとりが基本的に楽しくて大好きらしいのです。
他者と関わる、ということにはいろんな側面があるんですが、
その一つにこうした言葉や意識によるエネルギーのやり取り、
エネルギーの循環という側面に気づく必要があります。
悪意を伴ったものでない限り、日常の他者との間の意識エネ
ルギーの循環はゲームのように楽しい体験であると言えるの
でしょう。
そしてそのエネルギーのやり取りの窓口になっているのが感
情である、ということを昨晩認識できたのです。
感情をこめることで効率的に意識エネルギーを送信し、感情
を込めることによって意識エネルギーの効率的な受信が可能
になるはずです。
言葉や念にエネルギーを与えるのは感情なのだ、ということに
気づくと、それまで突然私の心中に浮かび上がって私を悩まし
ていた悪意ある言葉は影響力を失って霧消してしまいました。
今ではそれが一体どんな言葉だったのか、何となくのイメージ
でしか思い出せません。
存在と時間と空間に関する話の続きはまた今晩時間があれば再
開します。
>>161
過去の恥ずかしかった記憶が唐突にフラッシュバックして、
布団被って「うわァああアアアア!」したくなる自分にとっては
これで浄化されると言うのなら有難い。
質問があるのだけれども、
月光や陽光を当てる対象としてイメージする過去のテープというのは
その時期のシーンが具体的に思い出せなくても効果ありますの?
たとえば抽象的に「ハイ、テープのこの部分は2000年の1月3日ねー。ピカー(照射)」
って勝手に決めて浴びせてしまうのでおk?
…自分、小さい頃はおろか数年前のシーンすらロクに記憶に留めておらんのですわ。
恥ずかしかった数瞬の記憶を除いて。
こんにちは。
あまり時間が取れませんので、昨日気づいたことだけ。
以前から度々申し上げたことなんですが、自分自身の浄化が
進んだりエネルギーの状態が良いと大変頭がすっきりした感
覚がする、という体感があります。これは何も私だからそう
感じる、というのではなくって、誰でも同じなんだと思いま
す。
つまり体の中でも頭というのは大変敏感なセンサーであって
エネルギーの器である肉体のエネルギー状態を、敏感に反映
して重さや軽さ、しんどさや爽やかさとして感知できるんだ
思います。
>174
すみません、投稿するとき気づいてなかったので。いま貴方様
の投稿を読みました。これは次回の投稿でお答えします。答え
はイエスなんですが、ちょっとしたコツをお教えします。
続きです。
実は先週末からまたエネルギーバランスをちょっと崩していた
んです。私を取り巻くさまざまな関係性のエネルギーが、少し
偏ってしまって必要なところに教師供給できてないままの状態
でした。不足したところに補充したいのですが、まとまった時
間と体調とのタイミングが合わなくて数日そのままになってお
りました。
エネルギー関係のワーク(作業)をするときには基本的な条件
として肉体的精神的にできるだけ調和のとれた状態で始めるこ
とが望ましいのです。もし調和の崩れた状態で始めると、気が
つかないうちに偏った方向にのめり込んでしまっていることが
あるからです。
そうした事態を避けるため、十分な睡眠と休息、食事の摂れて
いる状態で始めます。
また自分の周りの空間、視界に入る範囲だけでもできるだけ清
潔に掃除したり片付けておくのも大切です。
そうした環境の中でゆったりした心持ちで居られる時に取りか
かるのが理想ですね。
さて私の場合は忙しかったり睡眠不足だったりで意外とエネル
ギー補充修正のための時間を取れないままだったのです。
そして一昨日やっと大きな修正ができ、引き続き昨日残りのも
う一つ大きな修正を終えました。あと少し小さな修正を加えれ
ばベストな状態に戻ります。
なぜ一昨日昨日と修正に取りかかれたかというと、なんとイン
ターネットを遮断されたからなんですね。つまり、YouTube
の見過ぎで睡眠不足に陥ってまして、そもそもそれが原因で
日々のエネルギーワークが乱れ、エネルギーバランスに悪影響
を与えていたんです。
そして一昨日、大きな修正を終えると途端に頭の中がすぅーっ
と爽やかに清々しくなって参りました。
普段はエネルギー状態が頭の感覚や精神状態に大きな影響を与
えているなんて実感できないのですが、こうして浄化やエネル
ギーのバランスの回復をしたときには瞬間的に頭の状態が変わ
りまして、普段の自分の頭の感覚と浄化された感覚の違いの大
きさが実感できます。おォーッ凄い!ってなっちゃいます。
そこでこの爽やかな自分の頭の状態を凄いだけで終わらせるの
ではなくて、ついでによく観察してみたんです。そうするとあ
る事に気が付きました。
それは二つありまして、先ほどまでの自分の頭の状態は何かが
詰まったような感覚の状態だったということが一つです。
もう一つは今は頭にまるで窓が開いて白いレースのカーテンが
窓からヒラヒラしているくらいに爽やかなんだけど、窓は頭の
上半分に開いている。額から下、脳幹部はまだ詰まった感覚が
残っている、ということです。
そこで残りの頭半分、つまり脳幹部とか頭部顔全体が浄化され
た状態ならどんなにスッキリすることだろう?気になりました。
いや頭部だけでなく、全身・頭のテッペンから足のつま先まで
すっきりしたらどんなに気分がいいだろう?ってことですよ。
これをさらによく考えてみますと、おそらく私たちは体全体が
詰まった感覚が普通の自分の体調だと考えて、そこを基準にし
て体調が良いとか悪い、気分が良いとか悪いと「ほざいて」い
る、としか思えないですね。そしてきっと、私たちが赤ちゃん
で生まれ落ちたときには、体を動かすのはまだ色々不自由なん
だけど、気分はすごく、風が吹き抜けるように爽やかなのが基
準だったんじゃなかろうか?赤ちゃんやまだ幼児の間は割とそ
れが普通の状態だったのではないだろうかと推理するんです。
さて、インターネットの件で昨日プロバイダーに電話して確認
してみました。以前も一度繋がらなくなったことがありまして、
その時は電源を落として再度終端装置と無線LANを繋ぎかえた
ら復活しました。ところが今回はそれでも復活できません。
ひょっとして代金が引き落としできてなくって回線を切られた
のかもと思って郵便物やメールを確認してもそれらしい連絡は
ありません。連絡して確認してみたところ、信号はちゃんと行
っている、というのです。
私としては想定外だったのですが、原因はTVのWiFi設定がキャ
ンセルになっていたことでした。再設定してYouTubeを復活さ
せることができました。
もちろん私はテレビのWiFi設定はいじっていなかったので、
ネットが繋がらなくなったのは本当にある日突然、スイッチ
を入れたら「ネットがつながりません」状態になっていたの
です。
あまりにYouTubeで夜更かししてしまって問題があるので、
強制力が働いてしまったようですね。
こんにちは。
金曜日は意識エネルギーのバランスが取れた状態、すなわち
浄化された状態が超爽やかな感覚、気分をもたらした、とい
う体験をお話ししました。
それで思うんですけど、悟りってこういう状態を言うのでは
ないか?と思うんです。
悟りとは何か、あるいは悟りというものがあるならぜひ体験
してみたいものだ、と考える方は多いと思います。では悟る
にはどうすれば良いのか?そして悟りとはどのような状態な
のか、を明確に語っている方は?となるとこれが少ないよう
です。
「悟りとは宇宙と一体となる体験を言うのだ」という意見もあ
れば、「悟りとは何ものにもとらわれない心の状態になること
なのだ」という意見もあるようです。また「悟りとは全ての疑
問や悩みを解決する究極の知恵に至ることなのだ」と思ってい
る人もいるようですし「悟った人は素晴らしい超能力を発揮で
きるようになるのだ」と考える人もいるようです。
いろいろな見方や考え方があるのですが、残念ながら悟られた
人というのは同時代にそんなに存在するわけでもありません。
悟られた、といわれる昔の方の文献を読んでもよくわからない
ことが多いですね。
すみません、仕事があって中断しました。
さて続きです。
私は悟りとは本人の理解度の段階、物事の見え方の段階である
と考えております。だから悟りにはさまざまな段階の悟りがあ
る、という考えであります。
そしてその理解度とは、「我」と「他者」との関係性の理解が
その本質であろう、と思うわけですね。
そうしますと我と他者との関係性の理解にはどのようなものが
あるかというと、まず我自身をどのように捉えるか、という問
題があります。
これを自身の体験からエネルギー的な見解を通して考えるな
らば、
「自分自身のエネルギーをどのようなものとして設定するの
か」
というエネルギーの基本設定の問題であると言い直すことが
できるでしょう。
意識というものは自由に想像できる。自由に思うことができ
るのが意識の本質なのですが、実は想像は創造でもある。
意識エネルギーの活用とは全て想像、心の中でイメージや言
葉を「思う」ということによってなされから「想像」は「創
造」であると言えるのです。
私たちは心で思うことは自由なので、何を思っても良いのだ、
と考えがちなのです。しかし体との対話を通じて意識エネル
ギーの体験を重ねてまいりますと少しそれとは見解が変わっ
てまいります。
つまり想像することは自分自身の現実や社会を創造してゆく
ことになるので、下手な想像は避けた方が良い。少なくとも
何かモノや人や関係をぶっ壊すような破壊的な想像、妬(ね
た)んだり僻(ひが)んだりしたいびつな感覚のする想像、
恨んだり依存したりするようなジメジメした感覚のする想像、
そういう想像はしない方がいいのではないかと思えるわけで
す。
では自分自身をどのようなものとして考えるのか、という話
になるのですが、なかなか人間は自分をありのままの意識と
して受け入れることは困難なようです。他人に「人間とはこ
ういうものだ」とか「お前はこういう者なんだ」というふう
に決めてもらわないと落ち着かないようなところがあるみた
いですね。
そこで宗教や親の出番です。「お前は本質的に罪深い存在な
んだ。なぜなら神様の言いつけを守ることのできないAさん
とEさんの、子孫だからな。」これ、某宗教の考え方ですね。
いやいや、先祖の不始末を子孫になすりつけるなよ、とは思
うのですがこんな考え方でも受け入れてしまえば効力を発揮
します。
「私たちは多くの人様のお世話になって生きていけてるんだ
よ。だから大きくなったらお前も人様にご恩返しできる人に
なるんだよ」
これは昔の日本の爺婆(じじばば)様の教えですね。
感謝と報恩という人のあり方を教えてくれた良い爺婆様です。
一見良く見えてそこから引き落とす。その落差を利用するっ
ていう悪辣(あくらつ)な輩(やから)も世の中にはおりま
す。「あなたの運命は素晴らしいものがあります。一つ思い
を実現する素晴らしい力を秘めた存在、それがあなたです」
これが実は昨日投稿できなかった原因なんです。元教え子が
SNSで知り合った占い師さんから言われた言葉なんだそうで
す。
その占い師さんは「名前と生年月日や住所、手相などを教え
てもらったら無料であなたのことを占ってあげますよ」って
言ってきたそうです。個人情報の特定につながる情報はでき
るだけ伏せたいと思って、生年月日と生まれた時間、場所だ
け教えたんだそうです。
そうすると、まず「あなたは素晴らしい運命をお持ちです」
と持ち上げてきたのです。
危険!アゲ注意!ですね。
おはようございます。
さて、アゲて落として不安にさせるのは詐欺師のいつもの手の
一つです。ではこの詐欺占い師はどんな話で私の元教え子の自
己認識を狂わそうとしたのか、なのですが、私はこの手の話は
聞いても細かい内容を覚えられないんです。あの人がどう言っ
た、こう言ったという話としては記憶できないんですね。
だからこの話も下げて不安にして縋(すが)らそうとした話、
としか記憶できていませんでした。
それで、昨日もう少し詳しく手口を紹介しようとしたのですが
思い出せずに行き詰まって続きが書けなくなってしまいました。
困っていたら当の元教え子から電話がかかってきました。
話題は金曜日の占い師さんのこととか、本題の「私の王子様」
問題です。金曜日に彼女を絶望の淵(ふち)に追いやって、
手玉にとって搾取してやろうとしていた占い師さんから、今日
追い討ちの電話がかかってきたんだそうなんです。
彼女は金曜日に占い師の言葉を「すごく当たっている」と錯覚
してしまって自分に絶望したんですね。それで大泣きして手が
つけられず、心配した家族が私に救援を頼んできたんです。
しかし金曜は時間が取れなかったので土曜仕事が終わって一旦
帰宅してそれから17時前に彼女に会いに行って夜遅くまで話を
聞いてきたのです。
その時聞いた占い師の手口はどうだったか、電話で確認してみ
ると、占い師さんはこういったそうです。
「あなたは素晴らしい運を持っているんだけど、13、14、15歳
の頃に大変辛い経験をした。そのことが原因でいまのあなたの
運勢は逆転してとても悪くなってしまっている。本来、良い運
命というは守護霊がついてその守護霊様の力で良い運命が開け
るんだけれども今のあなたには守護霊がついていない。だから
このままだと良い出会いもありませんよ」
まぁこんなことを色々言われて絶望して、声を上げて大泣きし
たのだそうです。
バカだろ、君は守護霊さんとお話しできるやないか、何騙(だ
ま)されとんねん!とツッコんだんですけどね。
そうなんです、彼女は私とお勉強しているうちにいつの間にか
守護霊さんと心の中でお話ができるようになっちゃったおなじ
みのAちゃんなんですよ。
そしてよくよく考えると「これは怪しい」と本人が気がついた
瞬間に、守護霊さんからも「いや、居るし!」と直接ツッコミ
が入ったそうなんですけど。
ところが不思議なことにAちゃんはいつも何かと守護霊さんと
対話しているのに占い師の「あなたは守護霊が離れている」っ
て言葉を信じちゃったのです。
そうしてAちゃんが「これは怪しい」と気づいたのは守護霊さ
んをめぐる占い師の発言じゃなかったのです。占い師のその次
に送ってきたメッセージを読んだからなんです。それにはこん
なふうなことが書いてあったそうです。
落ち込んだ運気を上げる方法は一つしかありません。それには
会社の社長などの社会的成功者の勢い盛んな運気を吸収するこ
となのです。運気を吸収する方法はそうした成功者に抱いても
らうことです。あなたが幸福になりたいと思うなら、成功者を
紹介しますよ、ですって。
自己評価が低くて自己嫌悪の塊のようなところがあるAちゃん
なんですが、実はその裏返しのようにその本性は異常にプライ
ドが高いんです。占い師の最後の嵌(は)め込みトークは、そ
のプライドをカチンと刺激する発言だったのですね。占い師さ
ん、最後で焦ったようですね。
そこで今日占い師さんから届いた「どうですか、決心はつきま
したか」というメッセージに「そのようなことは良くないと思う
ので自分の力で努力して運命を変えてゆきます」と真っ当な返
信を送ったのだそうです。そうしたら即時に相手にブロックされ
て、Aちゃんは「勝った!」って実感があったのだそうです。
>193 「追い込みの電話」→「追い込みの連絡」
さて、このAちゃんの事例を考えてみますと、あまりにも変だ
と思いませんか?
占い師さんの言動もまぁ変と言えば変なんですが、それ以上に
Aちゃんの自己認識の頼りなさですよね。
彼女は最初、無料で占ってあげますよ、という申し出に何か裏
があるんじゃ?と疑ったそうなんです。そこでどこかに落とし
穴があるんじゃないかという疑いの気持ちで話を進めていった
んだそうです。なのにコロリと騙されてしまいました。そして
「貴女にはいま守護霊がいなくなっています」という事実と違
う自己認識をいったん受け入れて大泣きしてしまったのです。
自分が何かにつけ守護霊と通信しているにも関わらず。
これから二つのことが言えると思うんですよ。
一つは人間は目に見えず、手で触れない存在に対してはリアル
な実感を持つことが難しい、ってことです。こちらのテーマは
今回の主題ではないのですが、一応説明します。つまりご自分
の周りにいる家族や友人や第三者の存在を信じない人はいない
わけでして、それを信じられないと言うなら既に心を病んでる
方ですね。
ところが心の中の善なる存在である守護霊や指導例の存在とな
ると、通常は目に見えません。自分の心の中の想いだったり、
言葉として浮かび上がったりはするのだけど、確固とした実在
感を伴わない。見えないし、聞こえないし、触れられないから
です。
なかでも、実在感に与える感覚として視覚、触覚の役割は割と
決定的なものがあると思います。やはり見えない、触れられな
いと頼りないんですね。声だけ、聞こえるだけじゃなかなか難
しいのです。
Aは守護霊さんの声が聞こえるわけですが、それはまぁテレパ
シー的に頭の中で聞こえて来て日常会話ができるようです。聞
こえない人からすると、いいなぁ、私もそんなふうに通信でき
たらいいのに、と思うかもしれませんが、それでもやはり見え
ない触れないと実在感が足りないのでしょうね。
このことは実は逆に考えると、実在感を感じるためには、見え
て触れれば良いことになります。
これは意識エネルギーを駆使するうえで非常に重要な方法論で
あると思います。しかし今日はそれについてこれ以上の説明は
致しません。ただ、意識とは何かを考えたときに識とは思い考
える存在であるのですが、この思い考えるということと感じ知
覚するということ、そして言葉とは切っても切れない深い関係
にあるのだと思います。
さてこのAちゃんの事例から言える二つ目のことは、人間の自己
認識は思っている以上に頼りなくって、特に一人でいるときはま
あまあ安定してるとは思うのですが、人に対すると途端(とたん)
に頼りなくなってぐらついたりすり替わったりしてしまう、とい
う事実です。
Aちゃんの場合も騙(だま)されないぞと眉に唾(つば)をつ
けて聞いていたのに簡単に相手に騙されて、自分は守護霊も逃
げ出す運の悪い存在なのだ、といつの間にか自己認識を180度
曲げさせられていたのです。
人間ってチョロいですね。
でもまぁ自分に当てはめてみると、なかなか怖い話じゃありま
せんか。
そして現実社会では、よく観察してみるとこうした自己認識の
書き換えが色んな人によってしょっちゅう行われている、とい
うことに気づきまして唖然(あぜん)としてしまうのです。
おはようございます。
ちょっと話が本筋から横道にそれてまして、ほんのちょっと
思ったことを語るつもりが長くなってしまっています。
それは悟りとは何だろう、って話で私は悟りとは物事(自分
と世界の)理解度、見え方であろうと思うとお話ししたとこ
ろでした。
そして自分と世界の見え方は、自分と人との関係性によって
変わってくるのだ。では自分と人との関係性はどうやって決
まってくるかというと結局自分自身をどのような存在として
考えるか、自分自身の設定に行き着くのではないか、つまり
私のいう第一人称意識の問題が本質ではないか?このような
趣旨でお話をしております。
ところがここで大きな問題があります。
というのは人の第一人称意識はコロコロ変わってしまう。つま
り人間って自分をしっかり持つことが案外難しくって、すぐに
周囲や人に影響されていつの間にか自分自身の設定を書き換え
られていることも多いものです。そして家に帰って一人になっ
てふっと元の自分に戻ってああ悔しい、とかなったりします。
Aちゃんの例はこれに近いですね。
ああ悔しいとなればいいんですが、そのまま設定が書き変わっ
て小さな自分意識になってしまうこともあります。そういうと
きはわかっていても自分ではどうすることもできないことがあ
るので厄介です。
かといって自分を守ろうとしてガチガチに固めると、これまた
別の問題が浮上してしまいます。人が寄り付けないようになっ
ちゃいますから。
私は11年前の155スレで、意識は他者の意識との関係性の中で
進化・深化してゆくものではないだろうか、そして他者との関
係性というときにはまずベースとなる自分自身の自己認識が大
切であろうと考えこれを第一人称意識と名づけました。
次に自分と相対する他者である「相手」との関係性によって生
じる意識を二人称意識、そしてそれ以外の多数の人、つまり人
様世間様との関係性から生じる意識や認識を三人称意識と名付
けました。
そして世の中はこの「人の目」、相手からどう思われるか、人
からどう思われるかを基準として善悪良否を判断する人が多い
ことを指摘しました。
そのこと自体には普通の日常生活を送る上で大きな問題となる
ことはありません。ところが人間が生きている現実は人の中だ
けではないわけです。つまり人間は自然界の中であらゆる存在
との共存関係を持っているので、あまりに人間の意識や活動が
人間中心に偏りすぎると(つまり一人称意識、二人称意識、三
人称意識の活動ばかりに偏ると)次々と問題が発生してしまい
ます。
こうして起こったのが公害や環境問題ですね。自然や環境全体
を考慮して活動する必要に迫られたのです。
そうしますと人の目ばかり人の考えばかりを気にして生きてゆ
くだけではいけない。自然・環境・地球のことも考えながら生
きて行かなければならない、というふうに社会全体が変わって
まいります。これが四人称意識というやつです。
四人称意識とは自分の気持ち、相手の気持ち、人様の気持ちだ
けでなく自然界の客観性を取り入れた意識となります。個人で
いえば論理的な意識、全体を見る公平な意識ということになり
ますし、集団的に言えば地球・環境意識の高まりなどがこれに
あたります。
ここまでは目に見えて耳に聞こえ肌で触れられる存在を相手に
組み立てられた意識であるわけです。ところが存在には目で見
えず、耳で聞こえず、肌で触れても触れる実感のない存在も無
数にいるわけです。でも存在する、っていうやつです。
そうした存在の中で人間にとって一番身近で深い関係のある存
在といえばやはり守護指導霊であり、先祖の魂だったり幽霊と
いうような霊的存在な訳です。人間はこの存在を認めることで
根本的な見方の変化が生まれてまいります。だって死んだら終
わりだと思っていたら、死んでも終わらん話となってしまうの
です。
学校は高校、大学、大学院終わったもう学校の勉強は終わりだ
と思っていたら、魂から見るとこの世がそもそも人間にとって
の幼稚園、小学校だったって話ですからね。もう人生設計を根
本的に見直さないといけません。
今まで人生80年、90年と思っていたところを、死んだ後のあの
世での生活も考えてこの世の生き方を考える必要が生まれますし、
そもそも自分とは何か、何を目的に生きているのか根本的な疑問
すら考えないではいられないことでしょう。それは物事を考える
ときに「生きている間だけ」という時間の制約が外れることを意
味しているんですね。
このように目に見えない魂の存在を理解することによって生ま
れる認識、意識を私は五人称意識、と呼んでおります。
私の分類によれば物質的な世界認識は四人称意識が最後であり、
五人称意識からは目に見えない意識世界についての飛躍的な理
解が必要となる世界です。それは物質的認識の世界観とは隔絶
した世界観であるとも言えるでしょう。
そしてこの四人称意識と五人称意識との間にあるギャップをど
うやって乗り越えたらいいのか、四人称意識から五人称意識に
はどうやれば進むことができるのか、これが私の大きなテーマ
であるわけです。
国家レベル、最終的には人類レベルでどうすれば五人称意識、
そしてその次の六人称意識、七人称意識に進めるのか。それを
サポートしてその取っ掛かりを作ろうってのが私の仕事になる
わけなんですが。まぁそんなのを一人でどうこうやっていたっ
てどうなるものでもありません。そこは数の力が必要でして。
なので私も皆さま同様その One of them としてネットや身近
な人々との関わりの中で活動しているわけであります。
ちなみに私が第六人称意識と呼んでいるのは小は素粒子から大
は宇宙、目に見える木石から目に見えないイデアまで、あらゆ
る存在と交信対話することで生まれる意識のことを呼んでおり
ます。
また第七人称意識とは愛と慈悲そのものの意識のことですね。
話がまた横にそれていってはいけません。第一人称、自己認識
のお話でした。人の自己認識は強固なようでコロリとひっくり
返ったりぐらついたりすることがある、という話です。
それではどのようなときにグラついたりひっくり返ったりする
かというと、一つは自分が物事を思い通りにできなくなったと
感じたとき。もう一つは人の言葉によってではないでしょうか。
Aちゃんの場合は占い師のトークで一度はひっくり返り、プラ
イドで逆転したのです。
自分が物事をうまくできなかったとき、自己認識が変化してし
まうことがあります。すっかり自分がダメな存在であるかのよ
うに落ち込んでしまうことがありますね。
また逆に自分が思っていた以上に物事をうまくできたときには
すごく自分が偉い者みたいに錯覚してしまうことも、よくある
ことです。中高生の子供さんが自分のことを「凄くない?」っ
て同意を求めるやつですね。
しかしこの手の、私って凄い!とか、俺ってダメだ‥という自
己認識は、割と表面的な自己認識であると思います。もっと深
いところの自己認識を変えるにはどうすれば良いか?世間で一
般的に用いられている方法には二つありますよね。
一つは「罵(ののし)る」、もう一つは「嘲(あざけ)る」で
す。似ているのですが、この二つのやり方は違います。
「罵る」方は、お前はアホだ、馬鹿だ、間抜けだ、卑怯だと罵
詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせて、相手をああ、俺ってそう
なのかと錯覚させて落ち込ませて従わせる方法です。会社では
よく使われる方法ですね。学校でもよく使われます。なにしろ
一学期に2回はテストで点数で馬鹿でアホで間抜けなことを、
多くの生徒は自覚させられますから。家庭でも常にこれをやる
親がいまして、毒親っていうんです。
嘲るって言うのは、謎のカースト制度を設定しまして、その設
定の中でお前は底辺だよって態度を取ったり言葉で匂わせたり
することですね。容姿のことを「だっさー」と冷たく距離を置
いた態度で言えば、相手をこの罠(わな)にはまらせることが
可能になります。相手は挙動不審になっちゃいますね。
もちろんこれには嘲る方の人がダサくない格好と態度と言葉使
いができることが条件です。
攻撃された方がのほほんとした性格の方で、攻撃されても何も
思わないような人だと攻撃は無効化されてしまいます。ところ
が言われてうわぁとか劣等感を感じたりした途端、ゴソっと相
手にエネルギーを取られることになります。
攻撃者が優越感を持つと、ゴソッと剥ぎ取られたたエネルギー
は攻撃者に吸収されてしまうんですね。いい気分を味わえるわ
けです。信じられないことに、このいい気分を味わいたいため
に自分の子供を攻撃する親もいるんです。
人間のクズですね。
これをさらによく観察してみましょう。そうするとエネルギー
の出入りの鍵になっているのは感情であることがわかります。
もう一つは人間は無意識にエネルギーを求めて行動しているの
だということにも気が付きます。この場合のエネルギー獲得の
原理は「奪う」です。
人間の行動原理はエネルギーの獲得なのではないか?という仮
説が立つわけです。そしてエネルギーの獲得方法として、「相
手から奪う」が手っ取り早いやん、って多くの方が実行してい
ることもわかります。
ところがエネルギーの循環を観察してみますと、日常はもっと
別の有力な方法も使われていることがわかります。それは二人
の間でエネルギーをうまく循環共鳴させる方法です。この方法
を「愛」と案づけましょう。私が「愛」の定義をエネルギーの
交流であるとしている理由です。
テスト
>218 「案づけましょう」→「名付けましょう」
前回投稿からずいぶん経ってしまったのですが、実は7
日からまたエネルギーバランスを崩してしまいました。
念のため投稿は控えていました。気がつかずに変なこと
を書いてしまう可能性があるからです。
ようやく原状回復できたのですが、今度はホスト規制に
引っかかってしまって投稿できませんでした。残念なが
らiPadからの書き込みはできなくなってしまったようで
す。
幸いにPCは回復できたので今後はPCからの投稿になるわ
けです。
本日はちょっと遅いので明日、というか17日から投稿
再開いたします。ご質問の答えもずいぶん引っ張ってお
りますので順次お答えしていきたいと思っております。
では失礼します。
こんにちは。>218の続きです。人はエネルギーを求めて
生きているのではないか、という仮説をご紹介しました。
エネルギーとは物質的エネルギーはもちろんなですが、
ここで言っているのはもうちょっと広い概念でエネルギ
ーを考えておりまして、主として意識エネルギーのお話
です。
なぜ人は意識エネルギーを求めるのかと申しますと、率
直に言って意識エネルギーを獲得すると気分が良いから
です。これは皆さん色々体験があるのでご理解頂けると
思うのですが、実はこの気分良さは獲得したエネルギー
量に応じて何日も何週間も持続しております。
意識エネルギーを獲得するとその瞬間グイと自分が大き
くなったような気がして気分が良い、というのは誰しも
経験してると思うのですが、その気分良さが持続してい
ることに気がついている人は案外少ないかもしれません。
よくご自身を観察してみると、なんとその日一日だった
り、その後何日間だったり、あるいは何週間と多少嫌な
ことがあってもへっちゃらで気分良いまま過ごしていた
りするんですね。
では意識エネルギーの獲得はどうやってるのかというと、
世間的には大きく二つあるのが観察できます。「剥奪」
と「共感・循環」です。
要は他人をぶん殴って(比喩です)、他人が「ぎゃぁ!」
と言えば(比喩です)その瞬間に他人様からゴールド
(意識エネルギー)がぴょんと飛び出してご自分の懐に
入ってくる、って仕組みでして。まるっきりゲームの○
○オそのものです。
猫姫様がいつも指摘していたやつであります。
「剥奪」の方法には他にも色々あるようですがこれ以上
は控えます。
もう一つの方の「共感・循環」はこれも人が元気になる
方法として一般的でして、本質的には「循環」なのだと
思います。
女性がお得意な共感であります。共感することでエネル
ギーが通じ合って、通じたエネルギーをお互いに循環さ
せてゆく事でなぜかどんどんエネルギーが増強充填され
ていってしまうという謎システムであります。
ホントに謎。
謎なんだけど現実にこれでお互いがエネルギーを獲得し
てしまうのでこれは最も好まれるエネルギー獲得方法だ
と思います。
女性だとこれは友人などとの際限のないおしゃべりのよ
うな形で実施されることが多いようです。
また家族や友人や恋人などの間でもこの方法は良く利用
されております。男性は会話を情報交換という側面から
見ることが多いと思うのですが、そういう立場からは女
性のおしゃべりは「何で彼女たちはあんなに無駄口を叩
いて飽きることがないんだ?」というような見方をして
しまうことがあると思います。
でも実際は情報交換が主目的とは限らないということな
んです。そこに意識エネルギーの交換がなければならな
い。きちんと言葉に意識エネルギーが乗って相手に循環
していかないといけない。でなければ女性にとっては話
する意味が無い。
想い・言葉を発するときに感情が動いていないといけな
いんです。感情が意識エネルギーのゲートの役割をして
いるからです。男の人は女性と話すときに「何か聞かれ
てかれているから正しく情報を伝えれば良いんだ」と思
って極力理性的・知性的に話していこうとすることがよ
くあります。
しかし、これでは女性はエネルギーが入ってこず循環が
出来ないので怒ってしまうのです。
つまり女性がそこで求めているのは貴方の情報ではなく
貴方の意識のエネルギーであり貴方の気持ちが動き、変
化を感じ取ることだった、と考えられるのです。
こんにちは。
私事ですがあまりにも度々エネルギー的な問題が起こっ
て書き込みがしにくくなってしまうので、これはどうし
たことかと考えておりました。
色々工夫することで回復する度に送信能力は向上する傾
向にあるので、自分の潜在意識が能力向上を狙ってわざ
と問題を起こしているのだろうか?と考えることもあり
ました。
しかしそれにしてもやはり何かがおかしい。よく考えて
おりますとYouTubeに違和感を感じるようになりました。
そこでメディアと意識エネルギーの動き方を調べてみた
ところ驚きの結果が出ました。
それはYouTubeのエネルギー要求量が他の映像系メディ
アと比べて桁違いに多いとうことです。NHKや民放テレ
ビでも視聴すると何らかのエネルギーを捧げるといいま
すか、視聴者からテレビ局や制作者側にエネルギーの流
れが生じているようです。ところがYouTubeを視聴した
場合はその量がNHKや民放、NetFlixやアマゾンプライム
動画等と比べて100倍程度ものエネルギー量となるら
しいのです。
その大きな違いを生んでいるのは、NHKは受信料を、ま
たアマプラやNetflixはサブスク契約で対価を支払って
おり民放の場合は対価としてCMを視聴しております。
ところがYouTubeの場合は広告の入る動画もあるのです
が基本料金は無料です。このことが動画制作者・公開者
の側にエネルギーを集める強い吸引力を生み出している
ようです。その結果、タダより高いものは無い状態を生
み出しているようなのです。
私の場合はついついいろいろな動画を見て時間が過ぎて
ゆくために視聴時間が多すぎてエネルギーが取られ過ぎ
になってしまい、エネルギー不足になってしまったよう
なのです。
そこで早速対策を取ることにしました。YouTubeの時間
を必要最低限に減らしました。結果としては上手くいっ
ているようです。今後安定して投稿が可能になると思い
ます。
世の中はいまロシアのウクライナ侵略で大変なことにな
っております。これはかつてのアフガン侵攻などとは違
って世の中の仕組みをかえてゆくかもしれない歴史的な
事件となると思われます。私達とも大きな関わりがある
ので時間があれば時事板で説明したいと思います。
では失礼。
こんにちは。
時事板で説明したとおり、ロシアのウクライナ侵略の歴
史的な意味についてはすでに多くの賢人が言及している
ようですので一旦措(お)いておきます。
>227 の続きです。日常でエネルギー循環がどのような形
でなされているのか、というお話をしている途中でした。
私達が精神的肉体的な活動を続けてゆくためにはエネル
ギーが必要です。そして実はエネルギーには様々な種類
があります。私達はそれを学校の科学や物理の授業で位
置エネルギー、運動エネルギー、熱エネルギー、電気エ
ネルギー……などと習ってきました。
これらは物質的エネルギーですね。物質世界で様々な現
象が起きるのはこの物質的エネルギーが循環を繰り返し
ているからです。しかし物質的エネルギーだけがエネル
ギーなのではありません。人間意識、そして意識世界に
おける様々な現象もまたそこにエネルギーの存在と循環
があることを表しています。
そしてこの意識エネルギーについては人々はあまり深く
は考えていないのです。学問の世界においてはそんなも
のは想定すらされておりません。
知らない、知られていない、ということは意識エネルギ
ーの存在を知っている人にとっては凄く有利な立場を取
ることができるのです。どうしてかというと、気づかれ
ずに自分に有利な動きができるからですね。ステルスな
んです。あれ?っと気がつくのはもうやられてしまった
後なので、物理攻撃と違って一体誰にどうやられたのか
もわからないままなんですね。
つまり意識エネルギーを悪事に活用している人々も案外
たくさんいるのです。
一方で社会全体としてそれらの活動を中和できるだけの
ライトワーカーの方々も存外にたくさんいらっしゃいま
す。
意識エネルギーは人間の意識活動を成り立たせているエ
ネルギーです。意識は目に見えないのでなかなか意識エ
ネルギーの存在や働きに気づけないのですが、人間の意
識は肉体と密接な関係がありますので意識エネルギーは
肉体を支配するエネルギーでもあります。
全ての現象を作り出すのはエネルギーなので、エネルギ
ー抜きに物事を理解しようとしてもなかなか難しく納得
できないことが多くなってしまいます。
しかしいったん意識エネルギーの存在を認めてよく観察
してみますと、案外するするといろんなことが分かった
り納得できるようになります。
意識エネルギーはこの広大な宇宙の全ての空間に充満し
循環し続けております。そしてこの意識エネルギーが私
達の意識の中を滞りなく循環してゆけば私達はとても気
分が良いわけです。
一方、そのエネルギーの流れが滞ったり欠乏したりする
と、なぜか何も行動する気が起きなくなったり、気分が
陰々滅々(いんいんめつめつ)として落ち込んだり、あ
るいは気持ちがとても辛く苦しくなってしまったりを体
験することになってしまいます。
私は明治期の文学を読みますと、よく「今日はなんだか
気分が良い」みたいな描写があるのですが、読む度にこ
れは一体何のことを書いてるんだろうと不思議でした。
いまになって考えて見ると、その「今日は気分が良い」
とか「今日も気分が晴れない」という描写は明治期の都
会のインテリ青年の意識エネルギー欠乏状態による憂鬱
を表す表現であったのだろうと思われます。
田舎者の私には縁のない精神状態だったので理解不能だ
ったわけです。
私が言う「意識エネルギー」はある意味では一般に言う
ところの「気」とか最近よく聞く「レイキ」などという
ものと同じだと思います。
ただ厳密に同じ概念かというと少し違うかもしれないと
いうか、多分もう少し広い一般的な概念として言ってお
りますので細かく見てゆくと「気」や「レイキ」とは違
いが出てくるのかもしれないと思います。
そこで一応今後も「意識エネルギー」という言い方を使
わせて頂きます。
物理学で言うエネルギーは「仕事をなし得る能力」とし
て定義化されておりましてその仕事はJ(ジュール)と
いう物理単位で評価されます。
私のいう意識エネルギーはこのエネルギーの概念を拡張
したものです。従って意識の仕事量として計測可能だと
思うのですが、現代の科学では意識の仕事を定義する方
法がありません。しかしいずれ科学が進歩すれば定義が
可能になり、意識のエネルギーを計測することが可能に
なることでしょう。
意識のエネルギー量を測るということはですよ、異世界
転生して冒険者ギルドに登録に行くじゃないですか。す
ると魔力計測をされるわけですよね。ああいうことが将
来は現実に出来るようになるのだろうってことですね。
実際異世界転生漫画の魔力の概念は私の考える意識エネ
ルギーに極めて似ており、その活用法についても、漫画
のように物質的現象を起こせるわけではないのですがき
わめて似ていると言えるのです。
さて剣と魔法の異世界に行きますとね、魔法には水とか
火とか様々な属性があるんだそうですね。意識エネルギ
ーにも実は様々な種類があります。物質的エネルギーは
相互に変換が可能なように意識エネルギーも相互に変換
が可要とは思うのですが、種類毎に様々な使い分けがで
きるのですね。
例えば私は金属のエネルギーを使って単純な浄化機構を
作り、試してもらったことがあります。金属のエネルギ
ーですから構造を作るのに適しているんですね。
周囲の空間の邪気を浄化して綺麗な気だけ供給するよう
な空気清浄機のような機能を設計して意識エネルギーで
作り、自分では作っても分からないのでそれを師匠に装
着してもらってどう働くか試してみたのです。そうしま
すと二、三日でクレームが入りました。
その機構を背中に装着して背中から清浄な気が供給され
るような考えだったんですが、なんと「強すぎてしんど
い」って言うんです。どうも自動で周囲のエネルギーが
集まって浄化され、しかも増幅されていたようです。
結局その実験はそこで中止いたしました。
さてこの話を聞くといろいろ疑問をお感じになると思う
んです。まずそれは魔方陣のようなものか?と疑問に思
うでしょう。
ちょっと似たところはありますが魔方陣というよりは霊
的な機械というか、機構というのが適切だと思います。
それは155の話であって我々には関わりの無い遠い世
界の話ではないか?という疑問もあると思います。
そうではなく、やり方を知れば多分誰でも出来ます。し
かし教えません。危険だからです。
何が危険かというと、案外簡単にできてしまうものなの
で、あまりこのような魔術的な知識が詳しく広まってし
まうと自分の欲望実現のために使おうと熱心になる人た
ちがたくさん出来てきてしまうからです。
ではなぜこんな知られたくない話をするのか?というこ
とになるのですが、実は意識エネルギー、私達の日々の
想いのエネルギーは簡単にこのようなことができる大き
な力を持っており、そのような力を多くの方が無節操に
垂れ流しているってことなんですね。
私達は文字や言葉は人の目に触れ耳に聞こえて相手に分
かるので慎重になるものです。慎重になることを忘れて
増長したり増上慢になった発言をすれば今時すぐに炎上
してしまいます。
ところが心の中の想念は人に伝わらないから何を考えて
も自由だと思っている人が多いのですが、そんなことは
ありません。日々の考えるエネルギー、想いのエネルギ
ー、この意識エネルギーは構造を作り、機能を生み出し
て物質的精神的現象を起こしてしまうのです。つまり
「仕事」をしてしまっています。
あるいはまた日々の考えるエネルギー、想いのエネルギ
ーは周囲のエネルギー体や意識に命令して破壊的な想い
には破壊的な現実を、円満は想念には円満な現実を作り
出すように現実を調整していきます。これも意識エネル
ギーの「仕事」ですね。
さてもう一つの疑問が有ると思うんですね。師匠に清浄
なエネルギーが増し増しで流れ込んだのなら、師匠ムキ
ムキ無敵になるんじゃないの?って疑問ですね。なんで
しんどいんですか?って話です。続きは次回に。
霊感即ち霊的感覚(霊的視力や霊的聴力など)のある方
は少ないのですが、霊能即ち霊的能力は誰でも持ってお
りまして、皆さん当たり前のように駆使しているわけで
す。駆使していても当たり前すぎて駆使している事実に
気づかないだけなんですけどね。
それでは私達の駆使する霊的能力にはどのようなものが
あるかというと、思うだけ、心に想像するだけで様々な
現実を作り出す、という創造的能力があるわけです。こ
れが私達の持つ霊能の根本だと思います。
こう申しますと、いや私の人生全然思うとおり想像する
とおりにはなっていないんですけどどうしてですか?っ
て反論もあると思いますが、そうじゃありません。
まず人間って、自分が何を思い考えているかってことは
あまりよく分かっていないことが多いようです。つまり
あまりにも自分自身に関する観察や理解が自己中心で客
観性に欠けることが多いのですね。
このことは本人の頭の良し悪しとはあまり関係が無いよ
うです。あたまのいい人であっても自分自身のことがよ
く理解出来ていない人がたくさんいらっしゃいますし、
その逆の場合もあります。
特に私が思いますのは、怒りんぼの人ですね。実際は怒
りんぼのくせに、自己認識としては俺は優しい人、私は
親切な人、と錯覚している人が多いようです。怒りとい
うのは物事を破壊する想念ですからね、そりゃ上手くい
かなくなることも増えてくると思います。
どうして自分が怒りんぼと気づいていないかというと、
実際に大声を上げて騒いだり相手を罵(ののし)ったり
というように形に表してないからですね。人間は自分自
身のことであっても形に表れた現象、行動だけで判断し
たり理解したりしているようです。
自分自身についても見えない部分、ステルスには弱いん
ですね。心の中の見える部分、見えない部分というのは
次のようなことです。言葉に出して喋ったり書いたりし
たことは目に見える部分です。しかし音声や文字にする
前の心の中で考えた言葉、想いはステルスですね。まず
自分自身が心の中で何を呟き語っているか、このことに
ついて無頓着(むとんちゃく)な人が結構いるようです。
この心の中で一人で語る、呟(つぶや)く、喚(わめ)
いていることをきちんと自分で把握できている人ももち
ろん普通にいらっしゃいます。
しかしそのように自己の内面に目を向ける人であったと
しても、そもそもなぜそのような心の中の言葉やつぶや
きが出てきたのかについてまで注意を払う人になると、
これは激減してしまうようです。なぜならその部分こそ
本当の意味でのステルスじゃないですか。
私達の意識が、何かを体験する。その体験は言葉になら
ない体験そのもの、衝撃そのものなんだ、と仰ったのは
明治大正時代のインテリ青年に衝撃を与えた名著「善の
研究」のなかで西田幾多郎先生のお言葉ですね。
我々は一秒一秒この身体を通して見たり聞いたり感じた
り様々な体験をして参ります。それらの体験は一つ一つ
が人を感じ社会を感じ自然を感じる体験なのですが、体
験そのもの正確に言葉にすることはとても出来ないこと
です。
とても出来ないことなのですが、私達はさまざまな体験
を「あんなことを言われた、こんなことを聞いたり見た
りした」というふうに言葉にして認識していきます。こ
れが私達の意識の性質ですね。
そして実は私達が体験を言葉として認識した瞬間に、私
達にとってその体験の意味・善悪が決まってしまうので
す。
例えば遊園地のジェットコースターに乗る体験をしたと
しましょう。その体験自体を言葉にすることは難しいの
です。だってですよ、それを言葉にしようとしますとで
すよ「最初○○m/sの加速度で動き出してその瞬間手
すりをつかんで右方向○○度の角度にやや身体をねじっ
て下を見ていた私の身体は○○の方向にちょっと押され
るような力を感じてその瞬間私はなぜだかうわっと心の
中で呟いて……」みたいな感じで最初の一秒だけでもそ
の体験を全て描写しきることは困難を極めます。
そこで「動き出したときうわっと思った」と言葉にしま
す。
そうしますと私にとってのジェットコースターが動き出
したときの体験が確定するんですね。
そして頂上まで登り切ったコースターがいよい猛烈な速
度で下降を始め右に左に様々な加速度体験をすることに
なります。さんざん猛スピードで走り回ってやっと停止
位置に戻ってきまして降りたときに私達はまたこのジェ
ットコースター体験を心の中のつぶやきだったり、友人
や家族に声をかけて言葉にするわけです。「ああ、面白
かった」とか「ああ怖かった」とか。
そして「楽しかった、また乗りたい」とか「怖かった。
もうこりごり」とかいうふうに人によってジェットコー
スター体験が意味づけられてゆきます。同じ体験をした
のになぜ人によってその体験の意味が違うのだろうか、
不思議に思いませんか?当たり前だと思いますか?
私はこの違いは選択の違いだと思うんですよね。
「面白い」と言葉にした人は、実は別に「面白い」と思
わなくってもよかった。「つまらん」でもよいし「素敵」
でも良いし「アホらし」でも良いし「危険だ言いつけて
やる」でも良いし「うちに一台ほしい」でも良かったん
じゃないの?
きっと貴方にとってジェットコースターに乗ったときの
体験は「楽しい。また乗りたい。また来たい」で確定し
てると思うんです。でなきゃUSJやディズニ-ランドが
あんなに流行ってるわけが理解出来ないですもの。
まぁ私は「怖い、乗りたくない」派なんですけどね。
このように同じ体験であっても、その体験を言葉として
確定したときに人によって全く別の意味を持つ体験とし
確定・定着してしまう可能性がある。綺麗なお姉さんに
ムチでしばかれたときに「痛い!やめて!」になるのか
「シビれる!もっと!」に分かれてしまう、みたいな。
我々はこのように個人的な体験だったり集団的な体験だ
ったり様々な体験を繰り返しています。それはいまシリ
アやウクライナの国民が体験しているような大変な体験
だったり私達日本の国民が体験しているようなジワッと
大変な、それでもなんとかなるさと安心感のある体験だ
ったり色々なんですが、実はそうした体験をどう感じど
う行動するかは個々人の選択に任されているわけです。
よく考えると私達は一瞬一瞬止むことの無い体験の連続
の中にいるんですね。そして一瞬一瞬それらの体験をど
う受け止めるか意識の選択をしているのが現実です。
これが「選択の自由」ということの意味です。
仏教では「受想行識」と申しますが、「受」というのは
この私達の様々な体験を指している、ということがいえ
ます。私達は日々一分一秒様々な体験をし続けている。
それは毎日一向に変わらないような体験に見えたり、あ
るいは目まぐるしく変化するスピード感にあふれた体験
だったり、それぞれの人の置かれた立場によって違う体
験をすることになるわけですが、どちらにしろ体験、即
ち「受」が途切れることはない。
そして「受」があれば意識は「想」、即ち思い、考える。
言い換えると体験があると私達はそれを心の中だったり
また誰かを相手に「言葉」にして発するのです。言葉に
することによって意識はその体験の意味を決定し、その
瞬間に意識エネルギーは「仕事」を始めるのですね。
したがいまして一瞬一瞬私達がどのような想いを選択す
るのか、どのような言葉を心の中で呟きまた外部に吐き
出すのかが私達の創造力の行使そのものであるといえる
でしょう。
私達にとって選択の自由こそ創造力の根源であるといえ
るといえると思います。
そして面白いことに世の中を観察しておりますと、いか
にしてこの選択の自由を奪おうか必死になっている人た
ちもいるんですね。いやいやうっかりすると自分自身が
いつの間にか人の選択の自由を奪おうとしていることが
あるので笑えません。要警戒です。
こう考察してきますと選択の自由を奪う想念や行為は本
人は良いことをしているつもりのことも多いのですが霊
的にいって非常に罪深いものだといえますね。
どういうふうに選択の自由を奪おうとするかというと割
とお決まりのフレーズがあるんです。その一つが「○○
するのが常識でしょ」とかいう言い草ですね。確かに常
識は大事なのですが、その言葉の裏に「お前は勝手な思
いをするな、私の想いに従え」って圧があるんです。こ
ういう風に言われると二人称関係が成り立っていますの
でうっかり聞き過ごすと大変で相手の術中にはまってし
まいます。よく対処を考えてみないといけませんね。
さらによく気をつけたいのは、これ、ついつい自分もや
ってしまいがちになることなんですよ。要は相手のやり
方、考え方が気に入らないと(つまり相手が間違ってる!
と感じたり思うとき)、ついつい相手を自分の思いどお
りに思わせよう、従わせようとしたくなるんですね。つ
まり相手に強制したくなるんです。
そしてうっかりすると上と似たような言い方をしてしま
うことがあるんですね。対話と強制は似ているけれども
全然違います。原則として強制してはいけないんです。
それは相手への尊敬を欠くことになるからです。
「○○するのが常識」と言葉は同じ言葉を発していても、
対話しているときと強制しているときとは根底にある想
いが違うのです。さらに言うなら、「○○するのが常識」
という言い方はほとんどの場合相手を咎(とが)める意
識があるから出てくる言葉です。強制してなくて、相手
に良くなって欲しいと思っての言葉だとしても「咎める」
とは「間違っている、許さない」っていう意識ですよ。
そういう意識から出た言葉は抵抗や衝突を生んでしまい
ます。なぜなら「許さない」という相手という存在を否
定するエネルギーが入っているからですね。
存在の否定、あるいは存在の差別はダメな思想なんです。
だって存在は平等なんです。人間は平等だって言います
けどね、さらに進んで言えば存在は平等なんじゃないの
かい?で、この世界において人間が全権をになってるわ
けなんですけど、そりゃ全ての存在が協力してくれてる
だけなんじゃないのか?
まぁその疑問は措(お)いておくにして、人間は平等だ
っていうのは本質的な原理だと思うんですよ。この問題
はまたあらためて考えてみることにしていまは引き続き
観察と考察を進めてみましょう。
人間は自信の存在を否定されるのは本当に嫌なんですね。
そして存在を否定されるのは本当に嫌だし最大の侮辱に
なるので、相手の存在を否定する行為をしてはいけない
というもっとも基本的なマナーが、案外分かっているよ
うで理解されていないように思われます。
どういう場合かというと、上の立場の者がしばしばやっ
ちまうんですね。親とか教師とか上司さんですね。指導
しているつもりで無意識で強制やってることがあります
ので上の立場に立つ人は要注意です。
横道にそれてしまいました。私達が生きてゆくというこ
とは「受想行識」のサイクルを回してゆく事に他ならな
いのですが、私達がこの三次元物質世界にいる最大の意
味はこの「受」という体験をするためではないのか?と
も思えるのです。
「受」という体験によって私達は想念の「選択の自由」
を駆使します、「受想行識」の「想」の部分ですね。そ
してその選択そのものがすでに創造的行為でもある、と
いうことなのです。
私達は自分自身をふり返り理解しようとしたときに実際
に発せられた言葉や行為を中心に自分を理解しようとし
がちであります。
そしてその前段階としてあった「想念の選択」という問
題はステルスとなってあまり気がつかれなかったり無視
されたりすることが多くなっています。
さらに深く考えてみますと上の例だとなぜジェットコー
スターに乗る体験に対して私は「怖い、乗りたくない」
という想念を選択したのか?という疑問が出てくるわけ
ですよ。ここに更に深いところにステルスの存在がある
ことに気づきません?
さて話は一旦休憩であります。
>246 の続きです。師匠はエネルギーがどんどん自動で
流れ込んできたんならいいんじゃないのか?なぜしんど
いんだ?って話の続きをしておきます。
そりゃ貴方、エネルギーは単純に多ければよいってもん
じゃないんだってことですね。
エネルギーを受け止める器は身体であるわけですよ。同
じ身体と申しましても鍛えた身体と鍛えてない身体には
その能力に大きな違いがあるようにエネルギーの受け止
め能力にも違いあるわけです。
もちろん師匠のエネルギーの器は大きいはずなのですが、
意図しないエネルギーが常時流れ込むのはきついという
ことなのです。
それとエネルギーの大きさの問題もありますね。例えば
私達にとって秋や春の穏やかな日光のエネルギーは心地
よいのですが、少し強い夏至の頃の太陽のエネルギーは
疲れます。同じ事が言えて、意識エネルギーの強さにも
やはり適切な範囲があるということですね。何事も適度
を超えると苦痛にしかならないということのようです。
では今日はこれで失礼して続きは又他日。
こんにちは。
立憲民主党という政党の党首殿がウクライナのゼレンス
キー大統領がらみで以下のような発言をしたそうです。
「ゼレンスキー大統領による日本の国会での演説。
他国指導者の国会演説は影響が大きいだけに、オンライ
ン技術論で論ずるのは危険。
私は日本の国民と国益を守りたい。だから国会演説の前
に『首脳会談・共同声明』が絶対条件だ。
演説内容もあくまで両国合意の範囲にすべき。それが当
然だ。」
これが人の心から選択の自由を奪おうとする「強制仕草」
というものでよ。
「でよ」ってなんだよ。「ですよ」の誤記ですね。
こういうふうに「絶対」とか「当然」とかいう言い方は
相手の人を支配しようとするときに使われる呪いの呪文
なんですよ。人の心の自由を奪って自分の考え通りに動
かしてやろうってときの魔法の言葉なんですね。「○○
するのが常識」「○○が当然」「○○が絶対だ」「人は
みんな○○と言っている」「○○がルール」。共通して
いるのは全部自分の頭で考えさせないようにしようとす
る言い草なのです。
このような言葉を投げかけられますと、それが対面であ
ってもSNSであっても、それを受け止めた瞬間にエネル
ギー関係が生じてしまうのです。受け止めた「私」自身
と相手もしくは相手の言葉のエネルギーとの間に紐で結
ばれるかのようなエネルギー関係が生じてしまいます。
これが二人称関係ですね。
要は「相手」と認識した瞬間にそこに関係性が生じる。
それはエネルギー的な関係であって、単に気のせいとか
気にかかるなどというものではなく、そこにはエネルギ
ー的な実態があるのだ、というのが私が意識エネルギー
経験から得た見解であります。
そしてこの二人称関係を利用して上手く人を支配しよう、
うまく人を利用しよう、自分の思いどおりに人を動かそ
うと考えるような人が周りに多ければ多いほど、生きて
ゆくのが心がしんどくなる。
逆に相手のことを尊重してくれるような人が多ければ多
いほど楽しく幸せに生きてゆく事ができるわけです。
だってですね、利用しよう、支配しようというのは相手
が自分のエネルギーをかすめ取って使おうとしてる行為
なんです。しかも自分のエネルギーをかすめ取るために
自分の存在の尊厳を否定しようってわけですよ。
人間の尊厳の根本はどこにあるのかと追求してゆくと、
この意識の選択の自由に行き着くと思うのですね。意識
が「個の意識」であるためには自分自身の「選択の自由」
がなければなりません。それを否定する「強制仕草」
「押しつけ仕草」の言葉は、自己の存在を否定しにかか
る残酷な言葉である、といえると思うんです。
自分を否定されればされるほどしんどくなるのは当然で
すよね。
ところがそのような残酷な言葉、根源的な罪の言葉を吐
くご当人は、往々にして自分は正しいことをやっている
と錯覚していることが多いものです。
立憲民主党党首殿も「日本の国民と国益を守りたい。だ
から……」と仰ってます。ご自分が倫理的にどんなに悪
の言葉を吐いているのか、微塵(みじん)も自覚はされ
てないようです。こういうイキった言い方は、あたかも
悪をただす正義のヒーローみたいに映って一部の人には
受けるのですが、よく考えて見ると人間理解の底が浅い
といえます。
なぜこんな言い草が出てくるかといえば、やはり「自分
が正しい!」っていう強烈な自己主張なんじゃないでし
ょうか?お前達は間違ってるんだー!っていう咎(とが)
める気持ちがあるからなんじゃないでしょうか?
私達がふり返ってみて、この党首さんのような言動を果
たして一度も無かったかどうか?「一度もそのような言
い草をしたことのなかった人だけこの党首を責めなさい」
と、もしイエス先生に言われたとしたら、きっと沈黙す
るしかないんじゃないか?あたしも散々心中で人を罵っ
たり、現実の言葉で「絶対」とか「当然」とか決めつけ
てたりしてたようなしてなかったようなムニャムニャむ
にゃなんですね。
ではそのような言動や心中のつぶやきをしたときに一体
どうしてそのような無慈悲な言葉がこころから出てきて
しまったのかを反省してみましょう。
そうしますと、意識エネルギーが確定されて心の中や口
から言葉として吐き出されるわけですが、その直前に
「はっ!」とか「あっ?」という気持ちがあって、その
「はっ!」とか「あっ?」を言葉にすると同じ「はっ!」
でも人によってどう言葉にするかの選択の違いが出てく
るのであります。個性による選択の違いがあるんですね。
同じように心の中で「はっ!」と感じる体験をしてもあ
る党首さんは「○○が絶対条件。○○にすべき。それが
当然」などという言葉を選択してSNSに投稿されますし、
別な党の党首さんだと全く異なる言葉になります。
例えば国民民主党の党首さんは
「ウクライナのゼレンスキー大統領のオンライン演説、
日本の国会でもやったらいいではないか。前例が無い
との理由で断るなんてあり得ない。モニターかスクリ
ーンを持ち込めばいい。前例にないことが起こってい
るのだから、柔軟に対応すべき。議員運営委員会で問
題提起したい。」
と発言してらっしゃいます。どうですか?立憲民主党
の党首さんの固い雰囲気と比べてこちらは随分柔らか
い印象ですね。強制する雰囲気がないですね。
こんばんは。
しばらく重荷に感じていたいくつかの仕事をやっと終え
る事が出来ました。霊的な仕事ではなくリアルのほうの
仕事です。また暫くの間は書き込みが出来るようになっ
たと思います。
さて、私自身はここ一年ほどエネルギー的関係性につい
て認識を深めております。そろそろ皆さんに発表してご
意見、ご批判を仰ぐ時機なのかなぁと思っています。
思い返してみますと、これまでエネルギー的なさまざま
な現象の話をしてきたように思います。ですからまぁす
でに助走はつけてきた、という感じでしょうか。
そしてふり返って考えてみますと意識エネルギーの問題
を理解するのに何が難しいかというと、目で見えない、
手で触れられない。つまり感覚の問題なんですね。
では意識エネルギーは通常での感覚では捉えることがで
きないのか?それは特殊な能力の持ち主だけが知ること
の出来る世界なのか?霊能者、霊能力の持ち主と呼ばれ
る人たちだけに許された世界なのか?というと全然そん
なことはありません。
意識エネルギーは誰でもが感じ、誰もが駆使できる、い
や、現実に駆使している能力である、といえます。
0(レイ)能力者の私が意識エネルギーを感じ、駆使で
きているのだから、これはもう皆さんもみんな感じるこ
とができ、駆使することができる力であることには間違
いありません。
ただ、手に触れることができない、目に見えないために、
みんな見過ごしてしまっているのですね。
意識エネルギーの存在になかなか気づけない、あるいは
気づいても駆使できないその原因は、手に触れ目に見え
るエネルギーと比べて、それが「微弱である」という一
点に尽きます。
そのためにエネルギーの流れや現象との因果関係を追う
のが難しい、といった問題があります。
私自身は2012年以来、「体との対話」というテーマの中
で意識エネルギーを追い続けてきましたので、ある程度
の知識と経験を蓄積することができました。まだまだ未
熟で知らないことだらけではありますが、それでも世間
ではまだあまり知られていない知識や、まったく語られ
ていないことについてもある程度知ることができ、語れ
ることが出来るようになってきたと思います。
世の中はいろいろと不穏なことが続いておりまして不安
を感じている方も多いと思います。しかしまぁ私は人間
誰しも死ぬときは死ぬのだし、死なぬ時は死なないもの
です。死ぬときにしんどい思いをしたとしたら、それは
まぁ嫌なんですけど、死んでも魂がなくなるわけもない
しあの世は心のままに快適なようです。
ぶっちゃけ私なんぞは小さいときはこんな不自由で空も
飛べない物質世界は嫌だ、早く死にたい、と思っていた
クチです。人間は我が儘なものなので、あの世があると
確信してしまうと「楽したい」と思ってしまうものなの
ですね。
ですから「あの世なんて無いんだ、死んだら終わり。生
きてるうちに楽しまなくっちゃ」という意見もあるんで
すが、そういう人たちにとっては多分そう考える方が人
生正しく生きられるのかもしれません。あの世があって
天国なんだよ、なんて考え方が迂闊(うかつ)に広まっ
ちゃえば楽をしたくて自殺者続出、なんて事態もありえ
ますからね。
あの世があるのが真実にしても、一気に世の中の考え方
を変えてしまうと危険です。生きるとはどういうことな
のか、まずはこの世における生の価値を理解しながら徐
々に方向転換ができたらと思います。
時事問題を考えるスレ >367 の続き
さて現代のように沢山の人々が大変な目に遭っていると
き、我々はどのように感じ思っているでしょうか。
真面目な人ほど、現実に向き合えば向き合うほど心が暗
くなる、という現象に悩まされていないでしょうか?ま
るでそう考えたり感じたりしない人は無責任で人間とし
て許されない人ででもあるかのように。
私はそのような考えは思考の罠(わな)、感情の罠であ
ると思っています。
そしてたとえ世界が業火に焼かれ覆滅(ふくめつ:ひっ
くり返って滅亡すること)に至るとしても、心は揺るぐ
ことなく愛と希望と感謝の中にいたいと思っています。
それは大変な立場の人たちに同情心を持たないとか、加
害を続ける人たちを許容して見ないふりをするとかいう
ことではありません。
大変な立場の人たちにはできる限りの援助をすることが
望ましいのはいうまでもありません。しかし出来ない援
助までしようとすることはありません。今これが自分に
出来る範囲の援助であると思えることをすれば良い、と
思っています。
世界にはあまりにも酷い現実、不条理というものが、あ
ちらにもこちらにもあります。あちらにもこちらにもあ
りながら、これまで私達の多くはその事実に気づきもし
なかったり、知っていてもあまり気に留めずに過ごすこ
とが出来ました。
なぜならそうした不条理や悲劇は、あまり私達の周囲で
語られたり報道されたりすることが少なかったからです。
もちろん日々のニュースの中には非道不条理な犯罪につ
いてもしばしば報道され、それらのニュースに怒りを覚
えることはあったでしょう。
しかしそれは犯罪という非日常の世界の出来事であり、
それらの事件に怒りを覚えたり被害者に同情するにして
も、ある意味TVや劇場でのドラマを見ているかのように
少し距離を置いた感覚で受けとめることができていたの
ではないでしょうか。
しかし現代は戦場の生の映像がそのまま茶の間まで届い
てしまいます。そうすると私達の意識はそうした戦場の
悲惨な現場と私達自身の間との距離感を失って、いつの
間にか重苦しい雰囲気にのまれやすくなってしまう恐れ
があるのです。
そうすると、「大変だ、なんとかしなくちゃ」などとい
う、何に焦っているのかわからない焦りのような気持ち
が心の中に起こってきたりします。
また戦場の悲惨な光景が心の中に焼き付いて、嫌なのに
忘れることが出来なくなったりします。そこで、これは
いけない、となんとか愉快なことを思い出そうとするの
ですが、愉快なことを考えようとすればするほど反対に
悲惨な光景が心のより深い部分まで浸透してしまうよう
な感じがしたりします。
こうなりますと実は精神的にはあまりよろしくない状況
になってしまいますね。
そういう場合は自分の心のメンテナンスを意識して行う
ことが大切だと思います。
それではこのような場合にはどのようにメンテナンスし
ていけばよいかというと、まず「大変だ大変だ」と思う
なら、何か具体的な行動を一つでもよいのでしてみるこ
とが大切なのではないでしょうか。
例えばウクライナ支援の赤十字の募金に応募するとか、
あるいは想念の支援、祈りの支援というのもアリですね。
そのように自分として具体的に出来る支援を一つしてみ
る。
そうしていま自分に出来る無理のない支援行動を一つし
たならば、あとは世界の多くの支援の意識にお任せして
日常生活に戻ることが大切だと思います。心の中に無限
ループの変なエネルギーを溜め込まないことですね。
もちろん、支援を継続してゆく事も良いでしょうし、そ
のほか自分が直面している別の多くの課題に向き合って
ゆく事も良いのです。
こんばんは。
極端にならない、行き過ぎないということは心の在り方
としてとても大切なことだと思います。
人の意識の基本的な働きには、物事を拡大したり縮小し
たりするレンズのような働きがあります。そのためにど
んな些細な事であっても一大事のように感じたり考えた
りしてしまうこともあります。逆に本当に大切なこと、
大変なことなのにどうでもよいように感じて投げやりに
対処してしまうこともあります。
このように知らず知らず極端に走って失敗してしまわな
いためにも、自分の心が行き過ぎた方向に走ってしまっ
ていないか、時々振り返ってバランスを意識することが
とても大切だと思います。
現在のように感染症パンデミック、想像を絶する残虐な
戦争、そして経済制裁から波及する今後起こりうる経済
混乱、さらに大規模な自然災害の多発……。不安な事件
が何重にも起こるとつい人間の意識はマイナス方向にバ
ランスを崩しやすくなってしまいますね。
ですからここでよく考えて心のバランスをとってゆくこ
とが大切だと思います。
大変だ大変だというけれど、そもそもこうした事態が自
分にとってどれほど関りがあるのか。それともよく考え
てみると自分自身の世界にはそれほど直接の関りはない
のではないか。
もし関りがあるようであれば、そこでできる対策や対処
をすればよいのです。
またそれほど直接の関りがないのであれば、当事者たち
は大変でしょうけれども無理のない範囲で支援して、自
分の生活にしっかり責任を持ってゆくことではないでし
ょうか。
まじめな人だと、このような現実的な対処は何か罪悪感
を感じてしまうかもしれないと思います。しかし実際は
こうした対処は罪悪感を持たないといけないような種類
のものではなく、むしろ霊的にも適切な対処であると私
は思います。
なぜなら心の中の気分、喜びや悲しみや不安や穏やかさ
などは、現実を作ってゆく強力なパワーだからです。
混乱した現実を生み出し広げないためにも、自分の心は
しっかりとバランスをとって自らの裡(うち)に平和と
穏やかさを確立してゆくことが先決だと思うのです。
この話は「自分軸を確立する」みたいな言い方で多くの
方により語られているように思います。実は私が空間の
話から存在の話をしているのも、実はこのあたりの道理
を説明したいという思いがあるのです。
ただ、いきなり道理を説明したところで表面をなでただ
けのよく分からない話になってしまうので、存在の話か
らしております。
ところで自分軸といえば最近気になったことがありまし
た。金曜日に乃木神社の前を通ったのです。日露戦争の
旅順攻略戦で有名な乃木希典大将を祀った神社ですね。
乃木さんがなぜ神社に祀られているかというと、彼があ
る意味非業の死を遂げたからです。旅順攻略戦で多くの
犠牲者を出した事で乃木さんは強く自分を責めていたと
いいます。戦争後彼は犠牲者遺族の家を一軒一軒回って
遺族に赦しを請い、仏壇に手を合わせていったという話
も聞いたことがあります。
乃木さんは生きていた当時はあのロシア陸軍を倒した英
雄ということで世界的に評価され尊敬されていました。
しかしその心の内は真逆で戦争が終わり日本に帰ったあ
と、多くの将兵の命を失った責任を取って自殺しようと
考えていたそうです。
それを止めたのは明治天皇で、その後乃木さんは学習院
院長として、後進の教育に精魂を傾けます。
そして乃木さんの薫育(くんいく)のもと育った生徒達
の中には昭和天皇、当時の皇太子裕仁親王もいました。
その明治天皇が崩御すると乃木さんは奥様と共に正装し
て壮絶な殉死を決行してしまいます。この事件は当時の
日本社会に大きな衝撃を与えました。明治天皇の言葉に
よっていったんは思いとどまった自決でしたが、心の内
では最後まで自分を責め続けていたのですね。
やがて乃木さんの死を悼み、また慕う人々によって大正
12年には東京赤坂に乃木神社が造営され鎮座したそう
です。
私が前を通った乃木神社はもちろん東京ではなく、乃木
さんゆかりの地の一つにある乃木神社です。その神社の
前を通ったとき、乃木さんは自殺したわけで、通常であ
ればそのまま天上界に戻ることはない。神社に御祭神と
して祀(まつ)られ、多くの人の崇敬の念を受けて果た
して彼は天上界に還(かえ)ることができているのだろ
うか、いま現在、彼は神としての役目を果たしているの
であろうか?という疑問でした。
さてそんな疑問を抱いたまま帰って、その夜久しぶりに
YouTubeをチェックしました。YouTubeの視聴をメインで
行っていたインターネットテレビでのYouTubeが、謎の
強制禁止をくらってしまっているのでYouTubeからは遠
ざかっていたのです。その日はふとチェックしたくなっ
て久しぶりにパソコンを使って視聴してみたのです。
そうすると私も時々視聴している文太ママさんの動画が、
ちょうどアップされたばかりでした。
「霊視 日露戦争・大将 乃木希典氏」というタイトル
です。
なんというタイミングでしょう。あるあるですね。
おはようございます。
結論から言うと文太ママさんとその娘さんの見立てでは
乃木さんは天上界には還っておらず、また自身が神と祀
られていたことも知らなかったようだ、という内容でし
た。
その原因はもちろん乃木さんのあまりにも強い責任感と
多くの将兵を失った失った事に対する自責の念にありま
す。多くの若者のご両親やご兄弟などへの、申し訳ない
という気持ちが彼を自決したその時に立ち止まらせ苦し
め続けていたようです。ご自分を罰し続けずにはいられ
なかった、ということですね。
私達は責任感がとても大事な価値観であると教わってい
ます。
責任感のない人を見ると非難してしまいます。実際、無
責任な行動をされると多くの人が迷惑してしまいます。
ですから単純に、「責任感のある人は善。責任感のない
のは悪」と決めつけてしまいがちです。
ところが物事を片寄りなく広い目で見回して考えてみる
と、単純に「責任感は善」とは言いがたい例がたくさん
出てきてしまいます。
例えばブラック企業に勤めていて、お年寄りなどにいら
ないものを高く売りつける電話営業をやらされているよ
うな人もいます。そうしますと「今月のノルマは20人
で売り上げ2000万円!三人一組のチーム売り上げ目
標6000万円」などと決められて、朝から晩まで必死
で電話営業しています。
顧客を捕まえないと社内で仲間に大変な迷惑がかかりま
すし、会社からも責められますので責任があります。必
死に電話をかけて客を釣り上げようとします。
責任感ではあるのでしょうが、これは善と言いうるでし
ょうか?
いや、そんな犯罪みたいな組織の中での責任感と言われ
ても、それはちょっと違うんじゃないの?と反論するか
もしれません。
ところが心の世界では、こんな変な世界で芽生えた責任
感であっても、あるいは皆様が日々背負っている社会人
としての立派な責任感でも、同じようなところがあるん
です。
もう一つ例を挙(あ)げてみましょう。
それはいま現在のプーチンのロシアです。戦場に送られ
た兵士の役目はプーチン曰(いわ)くでは「ウクライナ
を支配するナチを殲滅してウクライナの人民とロシア系
住民を解放すること」でしょうね。
そうすると責任感あるロシアの兵士はどう行動すべきか、
ってことですよ。
市民を片っ端からとっ捕まえて「おめぇナチだろ!白状
しろ」って拷問にかけて自白させなくてはなりません。
自白しなくても状況証拠で十分です。みんな後ろ手に縛
って一発です。情けをかければどっから火炎瓶や対戦車
ミサイルが飛んできて戦車ごと蒸し焼きにされるかわか
ったものではありません。仲間の苦しむ姿や故郷で家族
が悲しむ姿は見たくありませんからね。
でも客観的に見れば悪逆非道(あくぎゃくひどう)悪魔
の手先になってんですものね。
さすがにこれはおかしい、言ってることとやってること
が違いすぎる、と悩む兵士も少なくありません。そこで
ウクライナ側に逃亡したり投降したりする兵士も出てき
ます。
しかしそうすることで確実にロシア軍の同僚兵士達は一
層危険にさらされることになります。仲間を裏切った、
と烙印を押されますし、実際その通りです。
果たしてこれは善であると言いうるでしょうか。
このように広く例を集めて考えて見ますと、責任感が善
である、と言い切ることは出来ないように思われます。
一般的な社会では責任感は善と考えられ、実際に社会を
支える精神的なインフラと言ってもよいと思われます。
しかし責任感が絶対的な善かというと、そうとは言い切
れない。
実際、乃木さんの例のように責任感故に自分を責めて長
く苦しむ例もあるだろうし、責任感あるがゆえにおかし
な集団の中で都合よく使われてしまうこともある、とい
えるのです。
そうしますと責任感は善の場合もあるし悪の場合もある、
としか言えなくなってしまうと思うのです。
よく考えて見ますと私達の心の中には何か絶対的な善を
求めるところがあります。
そりゃそうです。絶対的な善の基準はこれであり、この
基準に外れたらアウトーッ!と宣言できるのなら、割と
生きてゆくのが楽ですもん。考えたり悩まなくてもよい
ですからね。
ところがこうして何かこれこそが善の基準だ、と思うも
のをみつけて、その善を追求してまいりますとこの責任
感の話のように次第にアレレのレ?という事態になって
しまうことが多いようです。
善とは何か?私は以前西田幾多郎先生の「善の研究」を
少しご紹介したと思うのですが、それでは西田先生以前
はどうだったかというと、善の研究を熱心にやったのは
儒学の人々でした。
特に江戸時代は儒学を根本思想の一つとしておりました
ので皆熱心に学んでおりました。
そこで問題になった一つは儒学の徳目である「忠」と
「孝」が矛盾する事例です。忠というのは主君に従い盛
り立てることですね。「孝」とは親に従い、親を安心さ
せ幸せにすること、といってよいと思います。
この二つが矛盾して対立したとしたら一体どうすればよ
いのか。
こんにちは。
「忠ならんとすれば孝ならず孝ならんとすれば忠ならず」
これは後白河法皇を攻めようとする平清盛をいさめた、
息子平重盛の言葉だと伝えられています。
江戸後期の日本外史という本で描かれて、広く知られま
した。親の清盛の言葉に従おうとすれば主君に弓を引く
ことになってしまい、主君を守ろうとすれば親に手をか
けなければならなくなってしまう、という重盛の矛盾し
た立場を表した言葉でした。
このようにそれだけ一つ取り上げて見てみれば、忠にし
ても考にしても悪い事とは思えない徳目です。ところが
時と場合によってはそれが矛盾してしまう。その時にど
うするのか。
面白いことに忠孝が矛盾したときの解決法は、なんと国
によって違うのですね。例えばこれが中国や朝鮮だと、
「孝」が優先するそうです。ところが日本では「忠」の
ほうが優先されたそうです。
大事な仕事があるときに親が危篤になってしまった。し
かしどうしても職を放棄するわけにはいかずに親の死に
目に会えなかった、という話は日本人ならよく分かりま
す。
それは組織や職務に忠実だったということですね。
ところが日本では共感を得られて当事者の苦しい胸の内
を理解して涙できるのですが、そのような話は中国人や
韓国人には共感を得られるかどうかわからないようです。
なぜなら韓国では、ある軍の司令官が親が死んだときに
軍務を放棄して帰郷してしまい、結果戦争で大敗したと
いう話が美談として語られているのだそうです。
(この話や日中の忠孝の話は黄文雄さんの「日本人の道
徳力」を参考にさせて頂いております)
こんばんは。
18日にルーターとインターネットの接続が切れてしま
いました。どうしても復旧できなくてPCからの書き込み
が出来なくなってしまいました。
タブレットはずっと規制がかかったままなのでやはり投
稿できません。
ネットは使えないのですが、なぜかインターネットテレ
ビでのNetflixの視聴だけは出来るのです。通信状況を
見るとDNSサーバーとの通信が遮断されていることにな
っているのですがなぜなんでしょう?Netflixの配信方
法はDNSサーバーを通してない、なんてことは無いと思う
のですが。よくわかりません。
もちろんAmazonのprime videoやYouTubeは視聴できな
いんです。ともかくこの間はNetflixの配信で映画とか
アニメを見ておりました。おかげで桐谷美玲さんという
女優さんの顔を覚えました。桐谷さんと大地真央さんの
「UNDERWEAR」というNetfrixオリジナル作品が面白くて
全部見てしまって。考えさせられる作品でした。
さて昨日改めて通信の仕組みや機器のことを学習して十
何度目かの挑戦をしてみたところ、ようやく復旧に成功
しました。早速いろいろ投稿したいところなんですが、
大学関係が忙しくて水曜日まではあまり投稿できません。
大学関係というのは、暫く前から学生さんのお手伝いを
しているのです。その関係で私もいろいろ期限付きで勉
強をする必要に迫られております。
水曜からは、またまとまった投稿ができると思うのです
がモヤモヤした話ではなくもうちょっと率直なお話を進
めてゆければと思っております。
では失礼。
こんにちは。
今日は夕方にいつもの霊能者さんにお会いする予定にな
っています。
昨年の10月頃からお会いして確認したいと思い続けてい
たのですが、なぜか何度連絡を取ろうとしても連絡がつ
きませんでした。
これは避けられてるか、まだ時期でないかどちらかだね。
ともかく時期が来るまで待つしかありません。どうも時
期が来たような気もするのでまた電話してみたら、よう
やく連絡が付いて予約が取れました。
確認したいことはいくつかあるんですが、その一つは私
と関わりのある人が私と居ると太陽が見える、という現
象です。その人は一体何を見ているのか?気になるのは
その人の見る太陽が日によって変わることで、穏やかな
光だったり強烈な光だったりと様々なのだそうです。そ
こまではまぁいいんです。私が問題だと思うのは太陽の
光の色です。
白い光だったり、オレンジだったり、薄い黄色だったり
濃い黄色だったり。あるときは虹の七色が渦巻いて吹き
出すように見えたとかでなんじゃそりゃ?ですがまぁい
いです。
問題なのは紫がかった光だったり、紫の光だったり、紫
がかった太陽だったり、全面紫の太陽だったりすること
があることです。色の意味を調べれば分かりますが、他
の物事と同様色の意味にも二面性があります。つまり良
い方の意味と悪い方の意味です。そして紫の悪い方の意
味は病気ですね。
その方が見ている太陽は、何かのエネルギーを現してい
るだろうことは間違いありません。その方自身か、私の
エネルギーか、あるいは何らかの霊的エネルギー存在か、
また可能性としてはそれらのエネルギーが何かと干渉し
て二次的に引き起こされた現象なのか?
要は病的なエネルギー現象が起こっているのであれば困
るし対処しなければ、という話です。以前この現象の話
をしたときに、紫の太陽を「見てみたい」と仰ってる方
がいらっしゃいましたが、私としてはそれが病的なエネ
ルギーである可能性も視野に入れないといけないので、
なんとも答えようがなかったのですね。
その頃からこの問題を確認しなければと霊能者さんには
電話を入れていたのですが、何度電話しても繋がらない
ままだったのです。
そのほかにもいくつか確認したいことがございます。
私自身の問題で言えばチャクラの機能状態の確認。これ
も以前に書いたことがありますが、通信によれば私の第
一チャクラ、第三チャクラ、第五チャクラなどには問題
がありました。これらの状態確認ですね。
それから属性の問題。通信によれば私は多属性と言うこ
とになるのですが、その確認です。
そして自分のエネルギー状態、出入力状態を正確に把握
できているかどうか、等々です。
自分以外のことで言いますと、人の意識のエネルギーシ
ステム、エネルギー循環について。
波動と感情の関係。
波動、エネルギー、情報の関係をどのように考えている
か。
このあたりは浄化の技術と深く関わってくると思います。
その浄化についても相談相手になって頂きたいと思って
います。
それからエネルギーの創造について。
広域浄化の方法論も時間があれば議論したいと思ってい
ます。異世界漫画でいうエリアヒールってやつですかね。
夜遅く帰ってくることになると思うんですが、帰ってき
たら差し支えのない範囲でできるだけ報告させて頂きま
す。
では失礼。
こんにちは。
帰宅が予定より遅くなり、帰って食事して一休みと思っ
たら眠ってしまっていました。遅くなりましたが報告で
す。
まず最初に私が一番危惧していた紫色の太陽の件です。
霊能者さんの答えは意外なものでした。暫く目を瞑(つ
ぶ)って通信しているふうでしたが、太陽ではなく、
「波長が合って光りそのものを見ている。」というも
のでした。
色が黄色だったりオレンジだったり白色だったり紫だっ
たりするのはその光の三原色のどれと波長と合っている
のか、合い具合だというのです。
「光そのものを見る」「光そのものと波長が合う」とはどういう
ことなのか?と尋ねてみたのですが、霊能者さんもそれ以上はよ
くわからないと言います。
私はこの答えを聞いて面白いものだなと思いました。私自身はそ
の太陽とみえているものは私自身のエネルギーか、あるいは相手
の魂のエネルギーか、もしくは何か霊的な存在なのか、などと想
像していたのです。私の想定の中に「光そのもの」という選択肢
がそもそもありませんでした。
ですから自分で通信で訊いてみてもどうしてもはっきりした答え
が導けなかったのです。
確かにいま「太陽と見えていたものは光りそのものだったのか」
という訊き方をしてみると「Yes」が出ます。
そして紫の光について危惧したことについても、どうも
特別警戒しなければいけないと言う性質のものではない
ようです。ただ、このへんはまだ少し曖昧で結論を出せ
ません。
>323 で「最初に」と申しましたが、報告の最初が紫の
太陽の件というもので、最初に霊能者さんにした質問は
別件です。
私が霊能者さんに最初にした質問は「自己評価、自身の
エネルギー量の評価を正確に出来ているか」という質問
でした。
この質問に対する答えも意外でした。正確に評価できて
いるときと出来ていないときがある、というのです。
「なんか最近、うーんって思う事ってなかったですか」
「去年からちょっと気になっていることはあるんですけ
ど…」
「評価が出来ているときと出来ていないときが多分出て
きているのでは?地震のせいですかね」
「うーん。そういえば、評価できる、出来ない、と言う
よりも、繋がりにくい?繋がっていたと思ったら実はよ
く繋がってなかったというようなことがありますね。そ
れはちょっと目立ちます。」
「なんか自分も、入院して薬のせいかなと思っていたん
ですけど、凄く繋がりにくいと感じることが多々あって」
実は霊能師さん去年の九月から入院してたんだそうです。
私は10月頃から自分の状態を外部の目でチェックしたい
と思ってこの霊能師さんに何度も電話していたのですが、
入院中だったために電話連絡が一切取れない状態だった
ようです。
「12月に退院して1、2、3、この三ヶ月、なんか繋がった
と思ったら繋がってなかったり、それがままあったので、
こんな状態では(人生相談の)仕事できないかもと思うの
があったし、ゆっくり療養しようというのもあったし両方
で」仕事を休んでいたそうで、4月になって仕事を再開し
たばかりなんだそうです。
ですからなんと私も霊能師さんも今年に入ってから同じ
事を感じていたことになりますね。
一体原因は何なのかということになりますが彼女は
「なんか地球さんとか、太陽さんとか、その辺がちょっ
とおかしいことないかな、ちょっと今までと違うのかな
って」感じているんだそうです。
そう言われて思い当たるのはロシアのウクライナ侵略だ
ったんですけど、うーんどうでしょう、この現象とつな
がりがあったりするんでしょうか。
「そんな感じで繋がったつもりがつながってなかったり
することもあるので、ちゃんとできてないときもあるか
な、です」
「繋がったり繋がってないときがあったとしてもエネル
ギー量の大体の把握は出来ていますか」
「あったとしても、捉えていると思います」
ということでしたので、一安心です。この間思った以上
に数字がレベルアップしてしまっていたので、冷静な確
認がしたいと思っていたのです。
二つ目の質問が紫の太陽の質問で、これは先に紹介した
とおりです。
三つ目の質問が私のチャクラの状態です。これは現在第
五チャクラ以外は問題が解消されててきちんと機能して
エネルギーが通過しているという話でした。まだ第五チ
ャクラには問題が残っているようです。ですが
「ここが(第三チャクラが)動きがイマイチだったのが
ちゃんと動いているので大丈夫だと思います」
とのことなので、第五チャクラの問題も解消されてゆく
ことと思われます。
第一チャクラから第七チャクラまでの状態は分かったの
ですが第八チャクラから第十三チャクラまでは身体から
離れてしまうので、身体から離れたチャクラの状態は彼
女には情報を拾えないのだそうです。
その次の質問は私自身の属性の問題です。一体何属性な
のか。
「自分自身で繋がった感覚では多属性かなと考えている
んですが」
「属性、属性?」
属性という概念はあまりご存じないようです。
「分類は何個に分かれているんでしょうか」
とお聞きなので五行の木火土金水の範囲の属性について
判別して頂きました。
「木はどうですか」
「木はあります」
……
「水だけがない」
ということで五行の中では木火土金の四属性は持ってい
るようです。この四属性と水属性がないことは私の通信
で聞いた内容と同じです。
そのほかの属性についてはよく分からないということの
ようでした。そもそも彼女は属性という概念がないよう
で「(情報を)拾いにくい」ということでした。
そこでこの件に関してはここまでです。
属性というのは正確に言えば気の属性ということですよ
ね。そして自分の気の属性には「水」がないということ
は通信で訊いていたことなのですが、こうして改めて人
から指摘されることで水属性がないことの意味を考えさ
せられました。
自分の性格や対人関係におけるモノの見方感じ方、関係
の作り方全てに、水属性の欠落が影響を与えている。も
し自分に水属性があるならば、人と関係の作り方は今と
は全然違ったものになるだろうと凄く明確に分かった気
がしました。
こんばんは。
さて、今回私がまた霊能者さんに意見を聞きに行って自
分自身をチェックしたいと思った理由は二つあります。
一つには昨年秋から送信能力の数値が急激に上がってき
て、「そこまでの数字はなかなか達成できないのではな
いか」と思っていた数字まで到達してしまったというこ
とがあります。
そうなるとこの数字は本当なのか?正確に自己評価でき
ている数字なのか外部からの意見を聞いて確認しておき
たいと思ったのです。
二つ目には霊能者さんとの間で最初に話題になった問題
なんですが、奇妙な「繋がりにくさ」の問題です。
私の記憶でもやはり今年に入ってから、繋がっているは
ずなのに次の瞬間にはつながりが外れる、という現象を
しばしば確認しています。そのため何かを通信して訊く
度に、その前後に何度も通信状態の確認を入れています。
確認方法は単純で、「自分は男か」「自分は女か」とい
うようにすでに知っている明らかな事実を質問してみる
のです。訊いてみて事実と違う解答が帰ってきたらそれ
は正常な通信が出来てないということになります。
たいへん面白いことなのですが、通信がリンク切れして
いるとこうした単純な質問には事実と反対の答えが返り
ます。
四つ目の質問は人のエネルギーシステムの問題です。
人のエネルギーの循環の仕方、吸収の仕方について見解
をお伺いしてみました。
私の観察するところでは、人からエネルギーをもらって
循環させてゆくタイプ、自然などからエネルギーをもら
うタイプ、自分の中からエネルギーを汲み出すタイプと
大きく三つに分かれるように思われます。
人からエネルギーをもらうタイプには、例えばアーティ
ストの素晴らしいパフォーマンスの中からエネルギーを
もらうなんてのも一般的なようですね。
音楽を聴く、なんてのもそうしたアーティストからエネ
ルギーをもらっている一つの形態になるかと思います。
そう考えると、芸術、アートというものの存在価値につ
いてものの見方が変わってきますね。
特に多数の観客・聴衆・視聴者を前に演じるアーティス
ト達は、社会全体の成り立ちの中で意外に重要な役割を
担っているのかもしれません。なかでも地球人は音楽大
好きですね。皆さんの周りにもきっといると思うのです
がいつも音楽を聴いていなければ気の済まない人もたく
さんいらっしゃいます。
つまり彼らは大量の意識エネルギーを音楽を通して供給
してもらっているのだ、ということができますし、見方
を変えると彼らは常に音楽でエネルギーを補給し続けな
いといけないほどエネルギー的にひ弱である、ともいえ
そうです。
そんなひ弱な彼らにも心ゆくまでエネルギーの補給でき
る場がライブですよ。
何年か前にある霊能者さんのブログが目に付いたので読
んでみるとライブを霊視した話がありました。それは何
かの催しで、プログラムの一つに某音楽グループの演奏
があったのだそうです。
演奏の時間になるとそれまで会場にいた冴えないおっさ
ん風の人たちがステージに上がり、演奏を始めます。
霊視しているとライトが当たり演奏が始まったとたん、
ステージの下から巨大な光がズドーンと吹き上げて演奏
の場を包んで、ナンじゃこりゃー!?っとなったそうで
す。
冴えないおっさん達の姿はどこにもありません。巨大な
霊光の中で演奏し歌う彼らの姿は最高にかっこ良くて、
これ本当にさっきまでの冴えないおっさん達なの?とめ
まいがしたそうです。
これを考察してみると、この音楽グループは音楽の演奏
を通して何らかの巨大エネルギーと通じることができて
いるんですね。下からの光ということですので地球のエ
ネルギーと通じているのでしょうか?いわゆるグラウン
ディングというやつができているのでしょう。
そうしますと彼らは音楽の演奏を通して無意識に地球か
ら巨大なエネルギーを頂き、それを音によって人々に循
環させていっていることになります。
ではこの演奏を聴いた人々はどうやって彼らアーティス
トを通じて放射される地球のエネルギーを受け取ってい
るのかというと、感情の働きによるのです。感動した、
心がジーンとした、心がぐっときた、というのは感情を
通してエネルギーが流れ込んできたり、逆にエネルギー
を放出したときに起こる現象です。多くの場合、私達の
魂・霊体を通してのエネルギーの出入力には感覚を伴っ
ています。「感動」とはその感覚のことを呼んでいるの
ではないでしょうか?
更に考察を進めてみますと、私達の身体は物質的エネル
ギーに適応した身体です。音楽家の演奏のうちの物質的
エネルギー、すなわち音の物理的エネルギーの状態変化
を私達の意識に伝えてくるのは私達の肉体です。
音の物理的エネルギーとは音の高さや大きさ、メロディ、
リズムなどですね。
しかしただ音の物理エネルギーが私達の肉体に伝えられ
るだけでは感動は起こらず意識エネルギーの循環はされ
ないはずですね。私達が感動するということは意識エネ
ルギーに適応した身体である意識体が反応する必要があ
ります。
そして私達の意識体である魂・心が反応するとはどうい
うことでしょう?それは意識エネルギーに反応してエネ
ルギーを取り入れたり放出したりしてエネルギーの循環
を調節する機能が、魂・心にはある、ということになり
ます。
機能があれば構造と領域があるはずです。私達の魂・心
にはエネルギーを内部に取り入れたり放出するための構
造、領域があるのだ、ということになるはずですね。そ
の構造が第三チャクラであり、その心の領域が感情と呼
ばれる領域と言えるのではないでしょうか。
こんばんは。
霊能者さんとの属性のやりとりを書いてみて、いくつか
疑問に思ったので、改めて属性について訊いてみました。
その結果、疑問の一つだった属性の変化について解答が
ありました。でもちょっとアレな内容なので、また改め
て霊能者さんに合ったときに内容確認してから報告しま
す。
さてその前に分かったような気になって話している属性
ですが属性って何なの?って話ですよね。
それにはまず「気って何なの?」という質問が前に来る
と思うんです。大学の講義では、先生は「気は小さい粒
々である」って教えていました。
いま思うとたぶんその先生の話は正しいです。気とは素
粒子よりも一段階か二段階小さな粒々で、それら粒々が
互いに結合したり分離したりして活発に活動している状
態が、つまり「気」と呼ばれているものの正体だと思い
ます。
素粒子が結合して117種類もの原子を作り、それら原
子同士が結合して無数の分子をつくることでこの物質世
界は形作られています。同じようなことが「気」にも言
えるのでしょうか。つまり気の粒子が結合した気の原子
や気の分子のようなものが物質世界と重なって存在して
いると想像できるのです。
そして互いに重なって存在している気の世界と物質世界
なのですが、両者の大きな違いは意識に反応するかしな
いかです。物質の方は、ウーンエイヤッと念を込めても、
針一本すら動かすのは難しいことです。ところが気の世
界ときたら、やってみるとすぐ分かるのですが、凄く敏
感に意識に反応してくれます。
それ故に我々の想念によって私達の意識・身体の周りに
は気の気の空間と言いますか、いわば気の身体のような
ものが構成されるはずですね。それを霊視すればオーラ
として見える、ということなのだろうと考えています。
そうしますと人や存在の持つ気はその存在の意識に反応
して様々な姿や性質を帯びるようになると言えます。そ
の性質を分類したのが属性で、実際に属性の名前が示す
ような霊的形態や性質を示すだろうと思われるのです。
例えば火属性の人を霊視すると炎が見えたり、また霊的
な穢れを(霊的に)焼いて浄化出来たりするのかもしれ
ません。これはあくまで理論的な考察であって、実際の
所は霊視の出来る方に確認してもらわないと断言できな
いことではあります。
ただ、これは多分可能でありまして、私自身が自分の意
識を浄化するときは水の浄化、光の浄化、磁力の浄化の
ほかに、炎の浄化も使っております。水や光の浄化の場
合は月の光や太陽の光をイメージ(月の気や太陽の気を
借りる)したり、泉や渓流の水のイメージ(水の気を借
りる)して浄化しますし、火の浄化の場合は直接燃える
炎をイメージして邪気を焼き切る感じです。
邪気を焼き切るイメージってのは結構時間がかかる感じ
がしたのでこれまではあまり使っておりませんでした。
しかし炎の浄化も慣れてくれば大変早くできると通信は
言っているので今後は工夫して練習してみたいと思って
います。
こんばんは。
>348 「ただ、これは多分可能でありまして、」
すみません、編集の過程でうっかりカットしたままにな
り、意味がよくつながらない文になっていました。
何が可能かというと、「「火」属性を使ったエネルギー
の浄化」です。
意識やエネルギーをどうやって浄化してゆけばよいのか、
という問題は私の大きな研究課題の一つです。ユートピ
ア社会を確立してゆくためにはどうしても必要なことだ
からです。
意識の浄化については質問を頂いておりますが、その前
にいくつかの概念を整理しておかないといけないと思い、
回答は後回しになっております。今回の霊能師さんとの
コンタクトの報告の後に、具体的な浄化方法についての
話にも入っていけるかと思います。
さて、>343 の続きです。
私達の意識や魂がどのようなレベルの大きさの粒々から
出来ているのかは存じませんが、それらが気よりもずっ
と小さな粒々で出来ていることは間違いないと思われま
す。
原子や分子から出来た身体(=肉体)←幽体(半物質的
身体)←気で出来た身体(オーラ?)←霊体…←存在の
中心。
いま通信で確認したところではどうもこんな感じになる
ようです。
つまり私達の存在の中心に行けば行くほど細かい粒々で
構成された身体があり、自分という存在は中心の存在の
一粒の周りに、より大きな粒子(荒い粒子)で構成され
た身体が何重にもタマネギの身や皮のように取り囲んで
存在している。その一番外側の身体が肉体である、と私
自身はこんなイメージを持っています。
そして空間の一粒がエネルギーを得て「我在り」という
思いに目覚め「在りたい。したい。」という思いを持つ
ときに、周りの空間の粒々がその思いに従って形を作り、
存在を作り出すのだろう、と考えているわけです。
存在は意識であり空間も大きな意味の存在ではあるので
すが、「我在り」という思いを持たなければ思いなくし
てただ在るだけ過ぎません。即ちこれが「無意識」です
ね。ここでいう無意識とは意識が存在しないのではなく
て、「思い・想い」が無い状態をいうのです。
こうした存在に関する見解からいくつかの別な見解を導
くことが出来ます。
しかし存在の意識に関するいくつかの見解については詳
しく発言するにはまだ早いようでストップがかかってし
まいました。時期がくればあらためて詳しく論じてみた
いと思います。
なぜストップがかかるかというと、一つはあまり常識と
違う発言をすると誤解させて正しく伝わらない恐れがあ
りますね。
そしてもう一つ、こちらの方が多分一番の理由になって
いると思うのですが、すぐに知識を悪用してしまう人々
が出てきてしまうことです。
>336
霊能者さんへの第四の質問は人のエネルギーシステムで
した。今晩この話を済ませる予定だったのですが、もう
時間が遅くなってしまいました。詳しくは明日以降とし
て、自分の中でエネルギーを湧き出させるタイプ、人か
らのエネルギーを循環させるタイプ。自然からエネルギ
ーを供給されるタイプという基本的な三つのタイプに関
する見解には相違ないようでした。
私がへえっと思ったのは、現代人は人以外からエネルギ
ーをもらうという観念が薄い、という指摘でした。
時間ですので続きは明日以降に。
こんばんは。
土曜日は知り合いから個人的に霊的な(私の視点から見
ると霊的な問題に見えるということで、相談者は霊的な
問題とは思っていません)相談が二件続きました。
興味深いのはその二件の相談に関連があったことで、二
つ目の相談が最初の相談の事件の原因になっていたこと
です。「こんなに早く原因判明しちゃうの?」って、何
かが加速してる感にビックリしてしまいました。
具体的な話はまだここで発表すべきではないそうなので
すが、そうですね、夏以降なら詳しくお話出来るかもし
れません。
それは生き霊がらみのお話。私達の心や思いが、いかに
現実世界と密接に絡み合ってどのようなメカニズムで影
響を及ぼし合っているかというお話です。
いまここでまだ詳しくお話出来ないのは、一つにはまだ
問題が完全に解決していないこと。二つには説明するた
めに必要な概念、つまり心とは何かという話までにここ
での話が進んでいないことにあります。
心とは何か?私達一人一人が心の発見をなしとげるまで
は、話はなかなか進まないです。
そして私が昨年からここで試みているのは、心とは何か、
これを分かりやすく説明したいということなんです。
心なんてあなた、そりゃ貴方の心ですよ、なんてことに
なるんですが、こんな簡単なことがわかったようで分か
っていないのが私達の現実なんじゃまいか?
まさしく自分のまつげは見えない。身近過ぎるものはか
えって見えていない、良くわかってない、ってことです
ね。
皆さんもいろんなところで散々人から聞いたり、本で読
んできたりしたと思うんですよ。
「心が大切だよ」「心を大切にしなさい」って。
でもそのたびに私は思いました。心が大切な事はよくわ
かる。大切な事はよく分かるんだけど、でもその心って
何?って。皆さんは「そりゃ貴方、これが心だよ!」っ
て自信を持って説明できますか?
自信を持って説明できるのなら、きっと貴方は心をおわ
かりになってることでしょう。あれ?そう問われると…
と怯(ひる)むなら、私のお仲間ですね。
私はずっと「心が大切です」というときの「心」って何
のことを指しているのかが理解出来ませんでした。そし
て心とは何かを理解したいと、小さいときからずっと思
い続けてきました。しかし何十年考えても、本を読んで
も回答は掴めませんでした。
もう一つ私にはよく分からない言葉がありました。
それは「愛と慈悲」という言葉のうちの「愛」って言葉
です。これも小さいときから私を悩ましてきた言葉の一
つです。慈悲はまぁわかる。でも愛って何?
要は私には価値観の根本にある部分が何なのか、よく理
解出来てないままだったのです。
学校に行き出してもよく分かりません。
大学に行ってもよく分かりません。
実社会に出てもよく分かりませんでした。
こうした問題がようやく紐解け始めたのは、私が「身体
との対話」、即ち意識エネルギーの体感を始めてからで
す。私達の身体はエネルギーの受け皿であり、私達存在
の意識が思いの力によってエネルギーを自在に動かし循
環させているのが存在の実相であることが理解出来てき
てからです。
「愛とは何か」この問いに関する私の現時点での答えと
して、私は存在と存在との「エネルギーの循環」と考え
ている、というようなことを述べたと思います。
では「心とは何か」という問いに対して、現時点での私
はどう答えるべきでしょうか?
残念ながら「心とは○○である」とは答えられないので
す。ただ、「いま貴方は喜んでいますか?感謝していま
すか?怒っていますか?妬んでいますか?憎んでいます
か?」もし喜んでいたとしたとしたら、それが今の貴方
の心です。もし怒っていたとしたら、それが今の貴方の
心です。
そして実は「心とは何か」についての問題は、そもそも
今自分が喜んでいるのか、悲しんでいるのか、妬んでい
るのか、憎んでいるのか、感謝しているのか、……、そ
れがよく分かっていない人が大半であるということです
ね。
人をよく観察していると、優しい言葉の裏に皮肉を込め
ていたり、優越感を持っていたり、怒りを持っているの
があるのが分かることがあります。皮肉を込めているの
は人をやり込めようとする心ですし、優越感を持ってい
るのはその人の今の心が差別する心である、ということ
です。
このように、自分自身が「いま自分の心はどうであるの
か」という問いかけを続けることによって、実は自分の
心が自分自身が思っている自分の姿と、このようにして
自分に問いかけたときの自分の姿が大きく違っていてビ
ックリすることがあります。
そこで気づいたことの一つが、学校教育は間違い探しが
多いことです。間違いをたくさん発見した人、間違わな
い人が賢い人ということになっていますね。そうします
と頭の良い人は間違いの多い人を貶(けな)す心になっ
てしまっていたり、馬鹿にする心になっていたりしがち
だということです。
それは学校教育という場が、「頭が良いことが良いこと
だ」という設定を、教師や生徒や父兄の意識の中に植え
付けているからですね。
心の価値観を大切にした教育ができていればいいのです
が、そうでない場合には人の間違いを咎(とが)めたり
貶(けな)したり馬鹿にする心を育ててしまうことがあ
ります。そうしますと馬鹿にされたり貶されたりした人
と、馬鹿にしたり貶したりした人との間に簡単にエネル
ギーの受け渡しが生じてしまうのです。
これはエネルギー的な観点から言えば、エネルギーの収
奪ですね。
エネルギーを奪われた方からすると精神的・肉体的疲労を伴
うストレスを感じます。
ところが面白いことに、それと同じだけのエネルギー量が貶
したり馬鹿にしたり、あるいはそういう仕組みを作った学校
制度に流れ込むことになります。
つまり、多くの場合、貶したり馬鹿にした人が、凹んだ相手
の分まで元気になる、生き生きしてゆくという現象が生じて
しまいます。そして貶されて凹んだ分と貶して元気になった
分を合計するとプラスマイナスゼロになるという。
なんと物理学のエネルギー保存の法則が意識エネルギーにお
いても成り立つ、と言えるのです。
イジメの原理も全く同じなんですね。虐(いじ)められ
て心震わす人が居る一方で、虐めた側はこうして元気に
なって気分良くなるんですよ。
だから麻薬みたいなもので、なにか外からか内側からか、
大きなきっかけとか力が働かないとなかなかイジメって
無くならないわけです。
ただ、虐めた側がいつまでも美味しい思いができるのか
というとそうは参りません。表面的には美味しい思いを
する代わりに良くない世界とつながりを太くしてゆきま
すし、相手からの恨みのエネルギーが注がれこともあり
ますからね。
特に恨みのエネルギーは怖いですね。すぐに生き霊なん
かが出来て相手の運命を暗転させることもあります。
相手のエネルギーが強くて相手にダメージが行かないと
きには不思議なエネルギー現象が起きます。相手のエネ
ルギーグループの一番弱いところに現象化してしまうの
です。家族とか、一味の弱っちいやつとかですね。
これの大規模になったのが「末代まで祟(たた)ってや
る」ってなって家に付く呪い・祟りです。日本で有名な
のは800年前に源平の戦いがありまして、源氏と平家の
家同士・血族同士の霊的対立、戦いが何百年も続いてい
たと言われています。
このように心というものは想いのエネルギーを生み出し
想いのエネルギーは存在の粒子を動かし循環させ様々な
現象を現実化させてゆきます。
学校教育の例で言いますと、「頭が良いことは良いこと
だ」という想いが様々な現象を生み出すわけです。その
生み出される様々な現象の中には、素晴らしく学問に秀
でて知識を得て活用する人々がいる一方で、勉強が難し
くて劣等感に悩んだり、周りから馬鹿にされたりする人
々が生み出される、ということがあります。
このように光と闇が生まれて二分されてゆくわけですね。
で、私は思うんですけど、こういう光と闇に分かれてゆ
くようなシステムは、そもそもがなんかおかしいのでは
ないか?全部光ではあかんのか?ってことです。
そこでよく自分の心を見直してみると、自分の心の中に
は対立する心、間違いを許せないとする心=許せない心、
相手の間違いを非難する心=非難する心、相手が過ちを
主張するのを許せないと憤(いきどお)る心=怒りの心
などを発見したわけです。
こうした心では正しいことに頑張ろうとすればするほど
光と闇の二つに分かれてゆきますね。
これは正しい、これは間違っている、こうした判別する
心、これを分別心(ふんべつしん)とでもいうのでしょ
うか?この分別心から私の怒りの心が生まれている、っ
て事に気がついたわけです。
怒りの心が人への非難になり、間違っていると否定する
心になり、許せぬという心になり、指摘する心になり、
自分が正しいと思うことを強制させようとする心になり、
と様々に姿を変えて自分の思いや行動を支配していた、
ということに気がついたのです。
まぁ、きっとこの分別心がエデンの園の「善悪の木の実」
ですよ。
では心の在り方はどうあれば良いか、実はこうあれば良
し、と具体的に言えるようなもんでもありません。どう
してかというと「こうあるべき」と設定した途端にその
設定の枠の中に心を嵌(は)めこんじゃうからなんです。
どう考えても何かにはめ込んではいかんでしょう。
そこで我が心をもう一度考え直してみることですね。そ
うしますと我が心、思いの底には想いがあり、想いは見
聞き触れる五感の縁によってかき立てられ呼び覚まされ
て活発化し具体的な思いの言葉として形を取っているこ
とが分かります。
その時に私達は五感で受け取る感覚をそのまま受け取っ
ているかというと、実はそうではない。もう五感で受け
取る段階でフィルターにかけて決めつけて見ていること
が多いんです。なぜかというと、よく自分の心を観察し
てみると、物事をそのままありのまま受け取ることは私
達には耐えきれないことが多いんですよ。
なぜ耐えきれないかというと、自分の価値観や都合が悪
くなるからです。自分自身を保っていられなくなるから
です。そこで自分を守るために決めつけるんですね。
とここまで話してきてなんなんですけど、時間が押して
るんで今日はこれまでです。これからレポートに取り組
まないといけません。
多分今晩は帰ったらすぐ寝るので続きは明日以降に。
こんにちは。
私についてのいわば心の発見について報告したい、と思
いながら書いているんですが、なかなか前に進めないも
のですね。今日もこのあと予定が押しているので投稿で
きないと思います。
心とは何か、という疑問は長い間私の心中に在り続けた
問いかけです。しかし心を追求すればするほど、スルリ
と手の中をすり抜けてゆくように心とはつかみ所のない
相手でありました。
それはなぜかといま考えて見ると、実は心は多重構造を
しているといえるから。私は零感で見ることはできない
のですが、きっと見る人が見れば複雑な構造が見えるは
ずです。
よく「心が大切だ」という時の心とは、心の中心辺りの
ことを行っていると思うのですが、私達が通常「心」と
いう言葉を使うのはごく表面的な分別心や感情の分野辺
りをごっちゃにして使っているように思われます。
しかし心の深いところに繋がっているのは感情の分野の
方でしょう。昨年はこの問題が気になって追求を続けて
おりました。
そして私としては一定の結論を得たわけですね。この部
分の説明を終えますと、いくつか頂いたまま棚ざらしし
ておりますご質問についてもかなり的確にお答えできる
ようになるのではと考えております。
こんばんは。
16日は満月でしたのでこの機会に過去の意識浄化を行
いました。
やり方は以前にも書いたことがあって、詳しい方法を説
明するようにとのご依頼も頂いてるのですが、詳細はま
だもう少し自分自身で検証した後にしたいと思います。
今のやり方は過去の意識を満月の呼吸で4回、太陽の呼
吸で4回、一年分ずつ浄化してゆくやり方です。
月の光と太陽の光のイメージだけで果たして浄化できる
のか、と疑問に思われるかもしれません。しかし私の理
論的な考察では可能なはずで、その実証実験をしている
ところなんですね。
そして今回4年分浄化してみたのですが、なるほど細か
く自分の意識の動き方を観察してみると、浄化前と浄化
後で確かに変化があったんです。
それは大変気づきにくい事なんですが、よく自分の意識
を観察していると、人間ってなにか物事に触れたとき、
例えば何かテレビからニュースが流れてきたりしたとき
にまずパッと想念が動くじゃないですか。
そうしますとニュースってたいてい良くない事件であり
まして、アナウンサーの声が耳に入った瞬間、ニュース
のタイトルやテロップが目に入った瞬間にもう意識が反
応します。
その事件について内容などを細かく考える以前にパッと
心に「思い」、というか心の「言葉」が出て参ります。
その浮かんでくる心の言葉はどんな言葉か思い返して観
察しますと、浄化前は貶(けな)したり、咎(とが)め
たり、怒ったりする言葉が多かったのです。
ところが浄化後はそれが変わったことに気がついたので
す。
浄化後にテレビを見ていて、ニュースを聞いても淡々と
受け止めていて、否定的な心の言葉が出なくなったので
す。特に意識してそうしようとしているわけでもないの
に、自然とそうした「言葉」が心に浮かんでこなくなっ
たのです。
代わりにこれまでよりも俯瞰(ふかん)的に、余裕をも
ってニュースを聞けるようになったように思います。
そうしますとやはりこの方法で浄化はできているのかな
と思えますね。まだこの方法による過去の意識の浄化は
あまり手を付けていないので、暫くは浄化を優先して全
部済ませてしまいたいと思っています。
全部浄化を済ませてその反応を検証し、更に霊能者さん
の意見も参考にしたうえでこの件に関するご質問に答え、
方法を説明したいと思います。
とりあえず報告まで。
こんばんは。
相変わらず少しずつ過去の意識の浄化を進めています。
本当に少しずつなのですがまぁ気長にやっていきたいと
思っています。
さて、>355 の続きです。
霊能者さんは、「現代人は人以外からエネルギーを頂く
という観念が薄い」というのです。
では人以外からというと、一体どこから?
私なら主に自然界からと考えてしまいます。まず地球や
太陽や月、星ですね。ところが霊能者さんの指摘するの
は神社でした。「神仏からエネルギーを頂けるのだ」と
いうことを認識して欲しいというのです。
私はその話を聞いてああなるほど、そういう考えもあっ
たか、とある意味感心しました。
私は神社やお寺詣りは嫌いではないのですが、そこで神
仏にお願い事をする、というのは大嫌いです。願い事が
嫌いなので神前仏前では感謝の祈りか天下太平を祈るか
のどちらかにしています。そのために神仏にエネルギー
を頂きに行く、と言う発想はありませんでした。
そう言えば昔の人は神仏の加護を得て事を為す、という
意識の人が割と多かったように思います。
アレが欲しい、これが欲しいと神仏にクレクレするのは
どうかとは思います。しかし神仏のエネルギーを頂いて
目標に向かって努力すること、そして神仏には助力の感
謝をする、という循環はクレクレとは違うと思います。
ですから、ああ、そういうのも大切だよなぁと素直に思
いました。
神仏と人との間のエネルギー循環ということですね。
こんなところが四つ目の質問である、人のエネルギーシ
ステムについての質問で出てきた話です。
霊能者さんへの五つ目の質問は広域浄化に関する質問で
す。私は広域浄化が出来るようになりたいと思っていて、
とある取り組みを続けています。
具体的な内容はまだここでは話すことが出来ません。な
ぜかというと、必ず同じ事をやり始める方が出てきてし
まって、それが善の方に行けば良いのですが必ず善の方
向に向かうという保障がないからです。
そこで曖昧な言い方なんですが、とある取り組みをして
いる、ということで話を進めさせて頂きたいと思います。
さてその試み、「とある取り組み」は成功しているかど
うか、というのが質問の内容です。その取り組みに必要
なエネルギー量を通信で訊いてみたところでは、今の私
の能力からすると桁違いのパワーが必要とされるような
のです。にもかかわらず私には成算がありました。
「○○をしてるんですかぁ」と霊能者さんは私の取り組
みを聞いて随分変わったことをしていると感じたようで
す。
そして彼女の答えは「今年一年やり続けることが出来れ
ば……」でした。寝る時間ですので続きはまた明日。
こんばんは。
霊能者さんの言葉は「今年一年やり続けることが出来れ
ば来年にははっきりする」でした。
さて、間が空いてしまいましたし霊能者さんとのお話は
これくらいにしておきたいと思います。
ところで明日七日は上弦の月です。実は先月満月の日辺
りから意識のΟSバージョンアップでもあったのか、と
思うような感じがしてます。急に出力が上がった感じと
幾ら寝ても寝足りない感じです。皆さんはどうですか?
どうてすか、と訊かれても、
変化無しですたぶんとしか答えられない一般ピーポーな自分です。
俺がレスしたいのは>>383 で、
御成敗式目第一条を挙げたいということだけですわ。
「神は人の敬に依りて威を増し、
人は神の徳に依りて運を添ふ」
徳、というものが現代スピリチュアルの愛に相当するエネルギーとするのなら、
これはまさしく神からエネルギーを頂く心を説いていると思う。
鎌倉時代の人々、少なくとも国を担う上層の人々にはそうした意識が確かにあったことがわかる。
片や現代は意識エネルギーの奪い合い。
一体どうしてこんなことになってしまったんだ…
>388
なるほど。御成敗式目にはそんなことが書かれていたん
ですね。おそらくそれがその当時の価値観だったのでし
ょうね。
現代は確かにそのような神と人とが敬神と神徳の循環で
進んでゆくような心が忘れられている状況だと思います。
それは外国から様々な考え方が入ってきたことが原因で
すね。そうした外国の思想は主に教育の場を中心に人々
の心の中で大きくなってきたように思われます。
ではこれは嘆くべき事なのかというと、私は日本的な考
え方がそれほど根っこの弱いものだとも思わないので楽
観的です。
よく考えてみますと日本的な考え方にはとても良い点も
多いのですが、一方で欠点のようなものもたくさん挙げ
ることができると思います。欠点というより、苦手な部
分と言った方がよいでしょうか?外国が得意として日本
が苦手な分野もあるんです。
明治以前だと、日本の苦手な部分はインドや中国から多
くを取り入れて現在では日本的価値観の根幹の一つとな
っております。
それと同じで今はまだかつての日本的価値観とは馴染ま
ないのですが、いずれ欧米的な価値観も深く日本的なも
のと融合してゆくことになると信じております。
日本の土地柄は融合の場ですね。
いわば東洋の価値観の精髄のようなものが、元々日本に
あった縄文的ななにかと融合統合されて、日本らしさを
作っていると思います。
明治以降、この地に入ってきた西洋的な価値観も、いず
れその精髄がこの地において融合され、統合されて新た
な日本らしさを作り出してゆくのではないでしょうか。
それがまぁ、私の言うユートピア文明-こころとモノの
統合の文明であります。即ち、存在とは意識である、こ
んなことは100年前に言っても理解しがたい話です。
それが現代なら理解可能なのですから。
面白いもので、自分や他人をよく観察しておりますと、
あるとき急に、いままでよく分からなかった色々なこと
が分かるようになってきたり、出来るようになったりし
ていることがあります。特に子供の成長段階ではしばし
ば観察されることのようです。いままでやってもやらせ
てもどうしても上手く出来なかったことがある朝急に当
たり前のように出来るようになっている、という不思議
現象です。
発語なんかもそうですね。この現象を「OS更新」と呼ん
でるお母様方もいらっしゃるそうです。
子供の時代のOS更新は分かりやすいのですが、大人にも
確かにそうした現象があります。
しかし自分自身では案外気がついてなかって、しかしよ
く考えてみるといつの間にか考え方が変わってすっかり
理解の幅が拡がっていたりすることがあります。何が変
わったかというのは人それぞれなのかもしれませんが、
先月満月辺りにもそこそこの規模でそうした現象があっ
たように思われます。
しかしまぁスマホのアップデートと同じで、対象機種や
対象OSによって更新が有る人と無い人に分かれるみたい
な気がするんですね。
そういうのを言い換えるとアセンションって言葉になる
のかもしれないですね。
でも本当に気がつきにくいです。よく考えてみて始めて
あれ、そう言えばなんか違う気がする、ってくらいのも
のですね。
ではこんばんはこれで失礼。
こんばんは。
こんなこともあるんだという、ちょっとした報告です。
以前から気になっていた方に声をかけてお話を聞いてみ
ました。
その方はお顔を見ると、ああ、これは心の中に何かとて
も溜め込んでいるものがあって、でも話せないモノを抱
えているんだな、と私には伝わってきて、ちょっと心が
苦しく思えるのです。
そこで一度食事でもどうですかとお誘いしてみたのです。
そうすると意外にもOKを頂きまして、なんだかすぐに
誰にも話せなかったらしい話をあれこれお聞きすること
が出来ました。
その方はどうも小さな時からお母様との関係で悩んでい
て、特に高校進学では苦労したようです。いまもなかな
か自分の気持ちを理解してもらえない思いがあるようで
した。
それが水曜日の昼間のことだったんです。
そしてその夜、床に入ると、なんだか身体に異常を感じ
るのです。身体の右側が、何か鋭いモノでこすられるよ
うな、切られるような感覚がしたり、チクチク何かが肌
に刺さるような感覚がするのです。
あれ?これは何だろう?なにかエネルギー的な問題でや
らかしたのかな?とか、色々考えて見て通信で確認して
みたのですが、エネルギー的なやらかしではないようで
す。
そこでこれはひょっとして水曜日にお会いした方の身体
感覚を私が感じてるんじゃなかろうか?と思ってライン
してみました。
身体の表面がチクチクするというか、カミソリでちょ
っと切られるみたいな感覚がすることがありませんか?
すると驚きの返事が返ってきました。
カミソリで切られるというより、身体の中に鎖がある感
じがします、と言うのです。
なんじゃぁそりゃ?っと思ったのが木曜日のことです。
その方は疲れたときや嫌なことがあったときは、胸から
チャリチャリという鎖の音が聞こえる、というのです。
そんなことがあるんだ!と本当に驚いてしまいました。
同時に、きっと誰にも言えないけれど、同じような症状
で悩んだり苦しんだりしている人が、本当はたくさん居
るんだろうな、とも思いました。
木曜日はそれでちょっとショックを受けたまま投稿する
気にもなれず寝てしまいました。
さて昨日金曜日はその鎖について、朝から色々通信をし
て訊いてみました。先方の話では物心ついたときからも
うその鎖の感触があって、縛られてる感じがしていたの
だそうです。
まずその鎖とは物質的な存在ではありませんが、私の立
場からすれば空想的な存在でも妄想でもあり得ません。
物質よりも更に細かい意識に感応しやすい粒子から出来
ている、実際に形と構造を持った半物質的存在、即ち幽
質とか霊質と呼ぶべき存在です。
もしそれが幽体を縛っている鎖なら幽質で出来ているは
ずですし、霊体を縛っている鎖なら霊質で出来ているは
ずです。
さてここで幽体とか幽質とかいう考えを持ち出したので
すが、私の認識では人間は複数の身体を持っているはず
です。まずこの目に見える、物質で出来た肉体ですね。
しかしこの目に見える物質的肉体の中には魂が入ってい
るのはご存知の通りです。
ところがその魂とはどんなモノかとなると、人々の見解
は分かれてくるのではないでしょうか。
私はざっくり言うと中心に我在りと認識した存在の粒子
が在り、その粒子の周りに「我在り」という思いに応え
た存在の粒子が集まって魂の核を作っているはずだと考
えています。
魂の核が更に周囲に多くの存在の粒子を集め、意識エネ
ルギーの循環を始めます。意識エネルギーの循環がなけ
れば核を維持できませんからね。
そして大きくなった魂の核は意識エネルギーの循環を生
み出す構造を作ります。これが魂である、といってよい
と思います。個性を持った意識存在ですね。
意識は常に感じ、考え、そして記憶してゆきます。その
ため、魂は感じ、体験するための身体が必要になります。
なぜ身体が必要かというと、もし身体が無くってあらゆ
る事を感じるままになってしまったら、意識は耐えられ
なくって存在できないじゃないですか。
例えばですよ、もし百人の人が考えたり思ったり願った
りしている想いや言葉が同時に自分の心のなかにはっき
りと飛び込んできたら、とても我慢できませんよ。ああ
うるさい!静かにして!って叫ばないといけません。も
し人類70億人の思いや考えや感覚が一度に入ってきた
ら、もう意識はぶっ壊れて自分を保つことが不可能じゃ
ないですか。
そうしますと、意識が「我在り」として個性を保ち続け
るためには、自分の周りに膜を張ることが必要です。
そして感じることを制限し、自分独自の体験をできるよ
うにする必要があります。身体というのはそのための結
界としての働きをしている、といえます。
さてこの世界には物質界の上位に幽界があります。もし
この鎖が幽体を縛っている鎖なら、それは幽質で出来て
いなければならない。では幽質と物質の質量とかの違い
はどのくらいだろうか?こんな所から鎖について訊いて
みました。
そうしますと幽質と物質の質量では7桁くらいの違いが
あるのだそうです。ところが霊質と幽質の質量の違いは
もっとずっと小さくて1対70くらいの比率なのだそう
です。
通信での質問と回答は続きます。
さてその鎖の大きさは?→長径が1cm。
その色は?→銅色。
では、素材は?→銅。
巻き数は?→4周。
巻かれた時期は?生まれたときから?→3歳後半。
鎖を留めている方法は?→小さな南京錠。
通信によると私が当初想像したよりずっと細い鎖のよう
です。
さて通信の答え合わせのため、相手の方にラインでどん
な鎖なのか分かるか訊いてみました。
そうすると、細い鎖だと言います。
どうやら正確に通信できているようなので、通信結果を
送って感想を聞いてみました。すると大変驚かれました。
なぜかというと、小さな南京錠で鎖が留められていると
いうのは実感していたからだそうです。
さてこうなると、次の問題はどうやって鎖を切るかです
ね。切り方を考えるために更に詳しく通信してゆきまし
た。その結果、首に1周半巻いてそこから下に鎖を降ろ
しお腹に2周巻いてまた首に戻って南京錠で留めており、
全体に緩く巻いている、という状況であるらしいことが
分かりました。
それを又相手に送って確認したところ、これも相手の感
覚と合っていることが分かりました。
素材が銅であるからには切ることはそれほど難しくはな
いようです。
ここまでが現在までの状況でした。明日はどうするかで
すね。
とりあえず今日はこれで失礼して、また変化があったら
報告します。
405>相手の方にラインでどんな鎖なのか分かるか訊いて
みました。→相手の方にラインでどんな鎖か分かるか聞
いてみました。
こんばんは。
日曜日の晩に魂が鎖で何重にも巻かれていて、精神的に
苦しいときや肉体的に疲れたときには胸の辺りでチャリ
チャリ鎖の音が聞こえる、という方の鎖の解除に取り組
みました。
私自身は最近またエネルギー的なバランスが崩れてきて
いるのでまずそのバランス調整をする必要があります。
エネルギー的なバランスというのは、人は色々な人やも
のとエネルギー的なつながりを作ってエネルギーの循環
行っているものなのですが、そのバランスが最近少しあ
ちらに片寄ったりこちらに片寄ったりしてしまっている
のです。
19時過ぎからバランス調整に入って、21時過ぎには
まぁいいでしょうという状態になったので、作業を開始
しました。作業時間には制限があり、21時半までに全
てを終える必要があります。
というのは大変不思議なことなのですが、私が遠隔でエ
ネルギーを送ろうとしても21時半を過ぎると向こうに
エネルギーが伝わらなくなってしまうのです。私の場合
は2014年頃からそんな状態になってしまいました。
どうも太陽の光の影響力が私の送信能力と関係している
ようなのですが、詳しい理由は分かりません。
それでまず、解除作業をするための条件作りの作業の方
に21時過ぎまでかかって、それからいよいよ肝心の解
除のための作業に取りかかったわけです。
それでワイヤーソーを作って鎖と身体の間に通してギコ
ギコ挽(ひ)いて挽き切ろうという作戦でしたので、ま
ず意識エネルギーでワイヤーソーを作らなければなりま
せん。
ところが意識でワイヤーソーを作ると言いましても、設
計はどうするか、素材はどうするか、手順はどうするか、
いろいろ考えなければいけません。
そこで設計は0.5mmほどの鋼線三本を縒(よ)り合わ
せたものに片方は固定式のT字型ハンドルを付け、もう
片方は首と鎖の間に差し入れることを想定しているので
差し込みやすいようにハンドルが自由に曲げられる仕組
みを設計しました。そして設計通りに心の中でイメージ
ングして、そのイメージにエネルギーを充填して物質化
と言いますか、幽質化してゆきます。
もう少し具体的に言いますと意識の中で光の球をイメー
ジし、呼吸と共に光の球を操って形を造形してゆくので
す。
そして形がちゃんと幽質化(霊質?)したかどうかは手
応えといいますか、出来たという実感に頼るわけです。
出来たワイヤーソーの刃にあたる縒った鋼線に樹脂を塗
って、そこに石英の細かな粒を結晶化させて生成させま
す。石英は土中にいくらでもありますので、石英の気を
呼吸で第一チャクラから吸い上げ手から流し出して樹脂
の表面や内部に多数の石英の細粒が結晶化してゆくイメ
ージです。
こうして完成した長さ50cmほどのワイヤーソーを、手
に持って、今度は相手の方を目の前に等身大でイメージ
します。その時間帯は座ってテレビを見ているとのこと
でしたので、向いている実際の方角に合わせて相手の座
った姿をイメージしたのです。
そしてまず相手の腰の辺りに巻き付いている鎖をイメー
ジし、鎖と身体の間に片方の折りたんだ取っ手ごと滑り
込ませ通します。それから通したワイヤーソーの両方の
取っ手をつかみ、力をかけて手前にゴシゴシ引いて鎖を
引き切ってゆきました。
ゴシゴシやって一応手応えを感じるところまでやって、
次は同じように首の鎖を切っていきました。そしてまあ
終わったかなと感じるところで時計を見るともう21時
半を過ぎていました。ワイヤーソーの作成が面倒で時間
がかかった割りには中途半端だった感覚はあるんですが、
時間ですので仕方ありません。一応通信で確認してみる
と、直後は鎖が切れている、と言う反応だったのですが、
暫くすると切れていないという反応に変わってしまいま
した。
さて月曜の朝です。少し仮眠が取れましたので再度鎖切
りに挑戦します。
今度はワイヤーソーは面倒なので光の呼吸で切ることに
しました。頭上に太陽をイメージし、虫眼鏡のように太
陽の光を一点に集光して鎖を消滅させるイメージです。
そんなに面倒もなく手応えがあったので作業を止め、通
信で確認してみます。
今度の通信の答えは「成功」で安定しているので、相手
の方に成功みたいですと連絡のラインを入れました。
夜になって相手の就寝時間前になって、ラインで連絡が
来ました。
今日は結構疲れたのだがチャリチャリ音が鳴っていない、
という報告です。
どうやら鎖切りは成功していたようです。
こんばんは。
さて、私がやっている意識エネルギーの利用の仕方を上
で一例紹介したわけです。あまり細かく紹介したわけで
はないのですが、基本的には呼吸とイメージで気(意識
エネルギー)をコントロールしてゆくわけです。なんで
そんなことが出来るのかというと、そもそも意識の粒子
は人間の想念に常に反応する、という原理を使っている
わけです。
それは皆さんの日常の想念についても言えることですの
で、実は皆さんも私と同じような創造行為を四六時中行
っている、というのが実態なのです。
ただ皆さんと私の大きな違いは二つありまして、皆さん
方のうち多くの方はそういう話-つまり想念は現実を作
り出す創造作用なのだ-という話はご存知だと思うので
すが、はっきり言ってあまり信じてないと思います。
しかも信じたとしても、やれ引き寄せだとか、願望実現
だとか、変な欲望の想念に振り回されてはいないでしょ
うか?そして、なんだか上手くいったような気がしたと
きもあったのだけど、どうもいまひとつなんだよねえ、
なんて思ってる方が多いのではないでしょうか?
想像は「創造」である。
これは水が上から下に流れ、太陽が東から出て西に沈む
のと同じような、ごくごく単純な事実なんです。
そうすると、目に見えない世界、想念の世界-即ち「空」
の世界と、色がついて目に見える世界、手に触れること
の出来る世界ー即ち「色」の世界は連続体であり表裏一体
である。つまり「色即是空 空即是色」であり、色と空
は本来区別できない、即ち「色不異空 空不異色」であ
る、と言えることになります。
この話を始めると般若心経の解説になってしまいます。
実は最近般若心経や、仏教の世界では大乗仏教を祖だと
いう扱いになっている(実際の歴史的には大乗の祖とい
うわけではないはずですが)インドの龍樹(りゅうじゅ)
について気になりましてネットで調べております。改め
て般若心経を読んでみますと、ちょっと書いてることが
変です。最初の方は調子が良いんですが、最後の方にな
って変なのが混じってるんじゃないでしょうか?
般若心経の要点は、物質世界にある人間として、物質的
な世界と目に見えない世界の調和を言っているだけなん
です。
般若心経については、いずれまたこのスレか別に専用ス
レで説明したいと思っています。
さて、魂?霊体?幽体?についた鎖の解除作業が完全に
成功したか否(いな)か、については今後相手の方を十
日から二週間ほど観察して、最終的に判断したいと考え
ています。最終結果はまた報告します。
それにしても面倒なワイヤーソーの創造による鎖の破壊
よりも、単純な光の集中で鎖を破壊できたらしいことは
驚きでした。
では今日はこれで失礼します。
こんにちは。
仏教の空の思想について気になりまして、暇を見つけて
は何人かの論者の文章を読んでみました。
読んだ文章は松岡正剛氏、坂部明氏、畝部俊也氏他数人
とWikipedeaなどのネットの解説です。
また私が気になっている名前、龍樹と無着と世親の三人
についても、Wikiなどで調べてみました。
そうすると、龍樹の仏教史における立ち位置は知ってい
たのですが、無着と世親は仏教における唯識論の祖であ
ることを知りました。「唯識論」などというと難しそう
に聞こえるのですが、要は意識の探求ですね。
チマチマと読んでおりましたので、時間がかかったわけ
です。
そこで分かったことですが、「空」という言葉が大変誤
解されていること、そして仏教は釈迦の教えに始まり、
やがて大乗へと発展してゆくわけですが、残念なことに
中途半端なままで終わってしまっていまだに完成に至っ
たとは言えないのではないか、という残念な事実です。
そのために「空」や「無」と「虚無」の混同が起こった
りして、155スレで出てきた不思議な勘違い霊のような
事が起こってしまうようです。
なぜ中途半端なまま終わらざるを得なかったかというと、
やはり「知の壁」が行く手に立ち塞がって、個人として
はその壁を乗り越える人はもちろんたくさん居たのだけ
ど、どうしても「仏教」という集団としてその壁を乗り
越えるまでには至らなかった、いやそれどころか下手す
ると仏教全体が知の壁に飲み込まれそうになって、法を
残すことが困難であったという事情があったようです。
そのために何人かの方が法を残すべく大変な努力をして
大乗の教え、空の教えを降ろしてきた、という事情があ
ったようです。
空の思想を徹底的に述べた者は龍樹です。彼の著作、そ
の文章はそれほど量は多くないようなんですが、後世に
とても大きな影響を与えました。
簡単に言えば彼は全ては「空」である。実在ではない、
と言い切ったのです。
そのために龍樹は全ての実在を否定して何が言いたかっ
たのか?みたいな疑問が学者や後世の人々には残されて
しまうのですが、彼が言いたかったことは簡単です。お
わかりの方も多いとは思いますが、要は彼は「実在は限
定することが出来ない」「限定することができるものや
認識は全て実在を捉えているとはいえない」という単純
な事実を示そうとしたにすぎません。
この認識こそ、「知の壁」を超える認識なんですね。
大乗仏教はこうした認識を持つ人々によって降ろされ、
構築された教えのようです。
そして日本に入っている大乗の各種経典は、こうした
認識を持った八人ほどの人々によって書かれた経典で
あるということです。
龍樹は経典の作者ではないのでこの八人の内には数え
られないのですが、やはりこうした経典作者と同じ問
題意識、認識を持ち、仏法守護の念で「中論」を初め
とする様々な著作を残していったようです。
では時間です。失礼します。
おはようございます。
一昨日は「仏教は中途半端なままで終わってしまってい
まだに完成に至ったとは言えない」という言い方をした
のですが、釈迦の教え自体は確かにそれだけで完成して
いるはずですね。人間が悟りに到る方法、道を示してお
ります。
では何が問題なのかというと、確かにお釈迦様が生きて
いる間は正しい指導ができて間違いは少なかったと思う
のです。しかし死後時代を経るに従って正しい教え、教
えの心が分からなくなっていってしまうのです。
その原因は何かというと、やはり人の理解度は様々であ
り、意見が対立してしまうからですね。
そうしたときに人々は何を基準に誰が言うことを正しい
と判断するのか、ということになるのですが、最終的に
は頭の良い人々の言う言葉、意見が正しいとされてゆく
のはやむを得ないことです。
なにしろ悟りとか心の綺麗さというのは、目で見ても全
然分からないものです。また悟られた方が居たとしても
その方が自己主張の少ない方だと、周囲から軽く見られ
たり馬鹿にされることすらあります。
また自我の強い方が悟りばかりを求めて修行しますと容
易に憑依現象を引き起こしてしまい、良識在る人々の眉
をひそめさせてしまうことになります。
今日でもよくあるように、そういう方に限って「自分は
悟った聖者だ」と盛んに宣伝し、不思議な超能力的な現
象を見せつけたりするものです。
そうしますとまともな人間は「悟ったと称する人間は胡
散臭いものだ」になり、やがて悟りそのものまで胡散臭
い扱いを受けるようになってしまって何のための仏教か
その本質が分からなくなっていってしまいます。
そのため割と確かに客観的に見える学問的な知識が重視
されるようになります。知識が豊富で何でもうまく説明
できる頭の良い僧侶が指導者として立つようになってき
ます。
必然的にこのような経過をたどってしまうことは避けら
れません。
従って釈迦時代に仏教は完成した教えとしてあったこと
は確かだと思うのですが、釈迦没後の凄く早い時代から
その本質は次第にわからなくなり忘れられていってしま
うのです。
そうすると教団仏教と言ったら良いのでしょうか、本来
の自然な心の在り方まで規則で型にはめルールによって
教団を維持したり、釈迦の教えを知的に学ぶことが重視
されるような形態に移行してしまいます。
こうなると本来釈迦が目指した人間の解放、悟りはとて
も遠いものとなってしまいます。
どうして釈迦の教えが正しく後世に引き継げなかったか
と考えてみますと、二つ理由があると思います。
一つは釈迦の正しさの基準の問題です。
釈迦は悟りに至る道として八正道、すなわち正しく見、
思い、語り、業を為し、生活し、精進し、念じ、禅定す
る、という心と行いの八つの在り方を示し、その正しさ
の基準として「中道」という言葉を示します。しかし、
中道とは何か、正しさの基準とは何かと考え出すとこれ
が多くの場合よくわからなくなってしまうのです。
なんで釈迦は「中道とはこうやで」ってパキパキ教えて
くれなかったのか?っていうと、これは龍樹の時と同じ
なんです。心の基準は「こうだ」と言葉で限定できるも
のではないからです。その時その時、自分の心の中で、
「これは偏(かたよ)っていないか?中道であるのか?」
と問いかけて己の納得を求めていくべきものですね。そ
して同じような問題であっても、その方の理解度や体験
でその答えは変わってくるはずなのです。ですから、
「これが中道だ」とか「中道からいうとこれ以外の回答
はないのだ」などとは言えないからです。
つまり、八正道を実践してゆけば、おのずからその人の
考え方も変わり、正しさの基準も変わり、昨日はこれが
中道であり正しいことなのだと思っていたものが、今日
はいやそうではなくてこっちが中道なのだ、という風に
進化してゆくべきものなのです。
しかし人は正しさや中道にも固定して変わらない岩のよ
うなものを求めるのですね。ですからなんだかつかみど
ころのない中道とか八正道の「正」しさなどはすんなり
とは受け入れられないのです。
もう一つの問題は、時代や文明がまだ釈迦の言葉を素直
に理解できるまでに進んでいなかった、と言えるかと思
います。やはり人間への理解、地域の文明や文化を地球
規模で学ぶことができ、人類の歴史を俯瞰的に眺めるこ
とができる現代人であればこそ、釈迦の言葉の正しさも
分かり、その後の大乗の主張も理解できるということが
あると思います。そして今の時代であればこそ、釈迦の
八正道も中道も正しく理解でき、実践できる時代に入っ
ていると言えると思います。
以上のようなことが、私が「仏教が中途半端で未完成で
ある」と言った理由なんです。未完成というのは、仏教
は八正道が実践されて初めて完成と言えるからです。
そして八正道の実践は当然のごとく大乗の教えを含むの
で、仏教は本来個人の完成と社会の完成を目指すもので
あります。ただしその完成とは彫像のように物質的固定
なものではなく、常に成長し発展してゆく躍動的な姿の
ことを指すのだ、ということですね。
ということで、私自身の準備もだんだん整ってきている
ように思いますので、次回からいろいろたまっていたご
質問に回答しながら釈迦の仏教-八正道と大乗仏教につ
いて説明してゆきたいと思います。
私はお釈迦様の回し者というわけではないのですが、私
自身の魂はわりと仏教をめぐって転生しております。ご
く初期の大乗仏教にも関りを持つようです。したがって
私の魂の仏教クエストの回答としても、空についての誤
解を正し真意を伝えていきたいと思っております。
では失礼。
こんにちは。
先週木曜日から土曜まで大阪に行ってきました。
例によって京都の友人のサポートです。ただ働きという
か、完全に持ち出しなんですけど、実はその分得るとこ
ろが多かったです。
もともとこの方と私とはものの考え方とか感性とか、そ
れ以前に同じ事を体験して同じ話を聞いてお互いに話し
ても、互いに理解や記憶が違っていたりするので、まっ
たく合わない、すれ違いの多い方なんです。ところがそ
ういう方のほうが、時として大切なものに気づく縁とな
ることがあるものです。
以前、2012年だったかにこの方と会ったときには、意識
の設定の問題に気がつくことができました。今回は更に
細かく、言葉のエネルギー、言霊のエネルギーの働きを
観察することが出来ました。
そして昔からよく「心はいつも明るく正しくないといけ
ない」とか「損得ではなく心を大切にしないといけない」
とか、神道では「明(あか)く直(なお)き心」が大切
だなどと言いますが、その意味が一層はっきりと理解出
来ました。
どのくらいはっきりかというと、あれ?これちょっとし
た悟りじゃね?って程度にですね。
こうした悟りと言いますか、新しい気づきや体験も踏ま
えて以前から頂いていた質問にお答えしていきたいと思
います。
といっても頂いていた質問自体を忘れていますので、今
晩時間を作って読み返してからになります。当時の質問
者の方は改めて分かりやすく再質問して下さると助かり
ます。
では失礼します。
おはようございます。
(一番目の)業務連絡スレ 119>東宮の内親王で……
ご質問の件ですが、愛子様のことですよね?
私は皇室ウォッチャーではないのでよく分からないので
すが、私の記憶にあるかぎり、愛子様の雰囲気が特に変
わったような感じをうけたことはありません。激やせと
いうのも始めて聞いた話なので、へぇ、そんなことあっ
たの?という感じです。小さいときに(たぶん小学生の
頃)愛子様の記憶の中の印象と現在の愛子様との印象に
ついても、私には特に変わった感じは受けません。
ただ119氏が人格の統一感を感じられないというのなら、
一つ心当たりがあるのが、愛子様の知的な成長が著しい
ということでしょうか?学校の成績はずっと大変優秀で
いらっしゃったと週刊誌などで読んだ記憶があります。
子供は特に小学校から中学校に移るあたり、中学校から
高校に移る辺りで知的にも精神的にも急に成長するもの
です。それは身体の成長もありますし、教育の内容も特
に中学と高校とでは急にレベルの違う内容になったりし
ます。
周囲で話される会話や読み書きする内容が急に大人びた
内容になり、また大人びたものを要求されるようにもな
ります。それに対応して子供の意識も急速に大人びたも
のに変化していってしまいます。
愛子様が見ていてまるで人格が変わったかのように感じ
るとしたら、こうした思春期特有の急速な成長と変化を
目の当たりにしてそのようにお感じになった可能性が高
いと思います。その変化は多分貴方自身も自分の事とし
て体験してきた経験をお持ちなのではないでしょうか?
(一番目の)業務連絡スレ 121>壁にぶち当たってめ
り込んでいる、子供の教育相談をしたいです〜
どうぞ。分かることならお力になれると思います。でも
分からないことは別の専門家のお力を借りて下さいね。
同 122>宇宙人についてですが、……
これは多くの方がすでに答えを出しておられまして、多
くの答えは共通していると思います。また共通するそれ
らの答えで問題ないと思います。
「地球人に変装して紛れ込んでいる」と言う意見の方も
いらっしゃいますが、そうした例はとても少ないと思い
ます。一番多いのは、魂として地球に転生してきた例で
はないでしょうか?流行の異世界転生ですね。
といっても社畜の宇宙人が母星で交通事故に遭(あ)っ
たり神様の手違いの埋め合わせで地球に転生するのでは
なくて、当人が地球に興味を持って転生無双したかった
り、あるいは犠牲的精神で転生してくるのだと思います。
理由は地球のアセンションの体験と地球文化の魅力、そ
して地球の宇宙文明参加のための地均(じなら)しだと
思います。
ちなみに、私が感じるのはAmazonのジェフ・ベゾスとか
テスラのイーロン・マスクは地球人とは異質の気をまと
っているように感じまして、宇宙人由来の魂だろうなと
思っています。
(一番目の)業務連絡スレ 123>私は、もともと人付
き合いが好きなほうではない…
私もあまり好きではありません。ナカーマですね。
まぁ。あまり人付き合いを避けすぎて世捨て人みたいに
なっては確かに困りますので、そこまでいくと人として
問題になりますね。何事もほどほどに。逆に世間とある
程度距離を置くことで学べることも多いものですよ。
ですからあまり堅苦しく考えずに、苦手な時期は苦手な
ように、人付き合いが楽しくなったときは楽しいなりに
自分の気持ちに対して柔軟に対応されてはいかがでしょ
うか。
(一番目の)業務連絡スレ 125>……死後の世界があ
るのだと納得させてくださいな。
なんで死後の世界が在るのだと納得したいんですか?
ですか?(大切な質問なので二回申し上げました。)
死ねば納得できるじゃないですかぁ。
冗談は置いておいて、そんなもの納得しなきゃならんと
いうものじゃないんですよ。人によっては、あの世なん
て無いんだ、今が全てなんだ!という信念を持って生き
ることを強く念じ願って生まれてくる人だっているよう
です。あの世があるからと信じたばかりに失敗した、っ
て過去世のトラウマの有る人だっているようですから。
ですから貴方があの世をどうしても確信することができ
ないんだ、ってんなら別にそれでもいいんじゃないです
かい?
何か困りますか?それとも貴方の意識がそれでは耐えら
れませんか?
在っても無くっても、貴方にとってやるべき事は何ら変
わらないんじゃないですか?
貴方のご質問を読んでると、あの世があるかないかの問
題は貴方にとって本当に大切な問題ではなくって、貴方
の意識が人に向いているから出て来てるんじゃ無いかし
ら?って思えます。
誤解しないで聞いて頂きたいんですけど、人の意見はそ
の人の自由なので人様には自由に思って頂いて良いんじ
ゃないでしょうか?
「質問」で検索して出てきたレスに返事してたんですが、
この辺はすでに皆返信してたんですね。
次からもっと手を抜かずにチェックしてみます。すみま
せん。
(一番目の)業務連絡スレ125氏に追加で答えておきます。
かなり長くなります。
地上界の理不尽に対しての疑問は理解出来ます。
この原因は一つには無知が原因です。全ての存在は互い
に結びついており、お互いを苦しめてはならないという
法理があります。ところが人間はその法理を知らずに自
分さえ良ければよいいという考え方に走りがちです。
その考え方はどこから生まれるかと言えば、感覚の問題
から生じています。即ち、もし私達が他人の感じる感覚
を共有するならば、自分さえ良ければ良い、などという
考えが生じようもありません。
ところがこうなりますと、今度は個の「我」の存在が極
めて難しくなってしまうのです。
つまり「我(われ)」が「我(われ)」で在るためには
ある程度感覚を制限してゆく必要がある、という根本的
問題があります。
この感覚の問題は、幽界、霊界、神界と意識世界の上段
階に行くほど共有出来る程度が拡がり、一瞬で相手の気
持ちが分かるようになる、と言われております。私はそ
のような意識世界に出入りする霊的体験がないのですが、
この地上界においてもある程度意識の理解が進むと他人
の気持ちや感情が分かりやすくなるものです。
つまり意識世界の上段階に行けば行くほど、相手の人や
存在を、自分を尊重するが如くに尊重するような人ばか
りなので、真の平和と愛の世界が拡がっていると言える
ようです。
まぁ上段階と申しましても半端モノはどの世界にもいる
ものですので、変に頭で悟ってドヤって勘違いして権威
を振り回す困ったちゃん達も特定の階層にはいらっしゃ
るようです。しかしそのような者達はどれほど偉ぶった
としても、真の知恵と愛と力に目覚めた者とは言えませ
ん。
真の菩薩や如来、大神と言われる存在ではないというこ
とです。
お釈迦様は「地上界は苦の世界である」というようなこ
とを言われたと思います。ではその苦はどこからやって
きたのか、とその原因を探って参りますと、この「自分
さえ良ければよい」という意識にあり、こうした自己中
心的な意識がどこから生まれてきたかと更に探ると、存
在が個に目覚め、個として存在し続けるためのある意味
必要な条件である感覚の制限、即ち「受想行識」でいう
ところの「受」の制限をせざるを得ない、という事情が
あるからだと言えます。
このように「苦」の原因を追及してゆくことを「苦集滅
道」のうちの第二段階である「集」と申します。
ところで「受」を制限すれば必ず「苦」がもたらされる
かといえば、原理的にはそんなことはありません。「受」
即ち相手の心や感覚が直接体験できなくても、相手の言
葉や表情や態度や雰囲気などを介して、二次的に相手の
心や感覚を体験するのはふつうのことですね。
更に波長が合ってゆけば自分の心や身に起こったかのよ
うに相手の感情や考えや感覚を体験することもあります。
このように意識はいったんは「個」として感覚を制限し
自分と他者との間に壁を設けて他者に飲み込まれないよ
う自己を守り自分を確立しようとするのですが、自分と
いうものがしっかりしてゆけば逆に自分と他人との垣根
を緩めて「自他一如」、即ち我と相手が一つであるかの
ような関係性を作ろうとするものです。
夫婦関係、友人関係、仲間関係などがそれですね。更に
中にはとても深い魂の結びつきを作る場合もあります。
しかしながらいずれの場合も「個」としての尊厳は尊重
されなければなりません。
このように「受」の制限はあるものの一般的なコミュニ
ケーション手段を使って互いに協力し、調和した社会を
作り出し、「楽」を作り出すのが本来の人間の在り方だ
と言えると思います。
ところが現実には「苦」の社会ができているのではない
か?現代社会は文明が発達し社会福祉が充実し、かつて
の時代とは比較にならないほど物質文明は栄えておりま
す。それなのに日本はまだ良いのですが、あちこちで戦
争があったり、また新しい戦争が起こったり、そうした
被害者の地獄のような苦しみを思うと「一切皆苦」とい
う仏教の言葉も真実味を帯びます。
文明が発達し文化が爛熟したかと思うと無情にも大災害
や戦争が全てを泥土に埋め、あるいは灰にしてしまう。
このような繰り返しを見ておりますと一体人間とは何な
のか、人生には何の意味があるのかと気持ちが落ち込ん
でしまうこともあるでしょう。
しかし物事には全て原因があり、また意味があるのです。
それでは本来ならば豊かなコミュニケーションによって
調和したユートピア社会が築かれていても良いはずなの
にいつまで経っても人間社会が「苦」から抜け出せない
原因はどこにあるのでしょうか?
続きは後ほど。
こんばんは。
今日は多くの人にとって残念な日になってしまいました。
今の日本では本気で狙われたら防ぐことはなかなか難し
いのが現実なのですが、多くの方が指摘するように奈良
県警の警備には大きな問題がありました。
奈良県警は彼が命を狙われる可能性に思いが至っていな
かったようです。そんなことは万一にもあり得ないと思
っていたのでしょう。警護対象の命が狙われたらどう動
くか、というようなシミレーションは全く行われていな
かったのでしょう。
さて、スレ違いになってしまいますので、安倍総理の追
悼はこれ以降時事問題スレでさせていただきます。
火曜日に大変面白い漫画を見たんですよ。
その方は人から喜ばれるのがうれしくて、いろんな親切
とか努力を積み重ねてきた方なんですが、そうした生き
方がだんだん苦しくなってしまったのです。(例によっ
て私の記憶力ではあまり細かく詳しく正確には覚えてな
いんで、まぁそんな感じの話、程度に聞いて頂きたいん
ですけど)何もする気が起きなくなって、仕事を辞めて
実家で養ってもらっていたそうなんです。
実家で小さくなって過ごしていたんだけど、あるときカ
ナダに行きたくなって必死にアルバイトしてお金をため
たそうです。必死にというのは、我々が想像するような
一生懸命でっていうのではなくて、仕事するのがしんど
くて死にそうにつらくなるから必死なんです。
それでカナダに行って過ごしたら、何物にも束縛されな
いのですごく楽しかったそうなんです。
そして以前、占い師に「あんたは毎日出勤して朝から夕
方まで時間通りきっちり働くような仕事は向いてない。
そんなことをすれば死んでしまう」と言われたことを思
い出したそうです。
その後その方は漫画家になったそうなんですけど、この
話の何が気になったかというと、この人にとっての「苦
しみ」の話でした。
私はこの漫画がとても興味深いと思って紹介しようと思
って火水木ともう一度探してみたんですがどうしても見
つかりません。
紹介した内容はかなりいい加減になっていると思うので、
もしご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
おはようございます。
仏教とはなにか、というと大変難しいことのように思わ
れがちです。しかし実際は釈迦の仏教はそれほど難しい
ことを言っているのではなく、むしろ小学生や園児であ
っても理解出来ることを教えたものと思われます。
そこでざっと釈迦の教えた仏教の真意を探ってみたいと
思います。
釈迦はまずこの世は苦しみで満ちている、としました。
その様子を「四苦八苦」という言葉で表しています。こ
れはこの世の不条理を言い表した言葉であります。
四苦八苦とはなにを言うかと申しますと、まず「生」
「老」「病」「死」の四つの苦しみを挙げております。
こう言いますと「老」「病」「死」の苦しみは分かるけ
ど「生」の苦しみって何ですか?という話になるので、
それはね、と続けて親切に解説しております。それを漢
文お経の言葉で説明すると難しそうになるのですが、言
ってることは相変わらず簡単です。
つまり、好きな人といつまでも一緒に、と思っても必ず
何かの形で別れは来るよ。
これが「愛別離苦(あいべつりく)」の苦しみですね。
次に、人々を悩ますのは、どこに行っても嫌なやつ、肌
の合わない人、話の合わない人間が居るって事実ですね。
これは陰キャやってたらもちろん、陽キャさんでも避け
られません。これも人生にとっての大きな苦しみなんだ
よ、ってことでこれには「怨憎会苦(おんぞうえく)」
という名前が付いております。
次に欲しい欲しいお金が欲しい欲しい欲しい彼氏彼女が
欲しいと思っても、なかなかお金も貯まらないし彼氏彼
女も現れません(ただしイケメン美女さんは除く)。こ
ういうのを「求不得苦(ぐふとっく)」と名付けていま
す。
さらに人間というのは自分の心の中さえ自由にはならず
に自分に振り回されるものです。思い通りにいかなかっ
たり人と比べてみてキーってなったり、落ち込んで鬱に
なったり。あるいはなんだかんだと妄想が湧いてきたり
と自分の心と身体に付き合うのはなかなか骨が折れます。
こういうのを「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」と言って
おります。
こうした生きていく上でよくある人間らしい苦しみ四つ
を生老病死の四つに加えて合計で八つになるので八苦で
す。だから四苦八苦とは四苦を詳しく説明したもので、
人生苦しみがばかりだよね、って意味です。
こう説明しますとお釈迦様とか仏教というものが随分と
人生というものを悲観的に捉えていたように感じるかも
しれません。
しかし実際は全く逆なのです。
仏教の教えるのは、人間の解放と自由なんです。
人間は肉体を持って生まれてしまうとなにも分からなく
なってしまいます。それは生まれたとたんに魂としての
自分の記憶が潜在してしまい思い出せなくなってしまう
からです。
これは過去に縛られずに新しい人生の試みを出来る反面
わけも道理も分からなくなってしまい、苦しみの連鎖の
中に引きずり込まれる危険も併せ持っています。
このあたりの事情は今日のスピリチュアル的な視点から
みれば非常に分かりやすいのではないかと私は思います。
輪廻転生する度に着々と学んで向上してゆけばよいので
すが、その逆の例があまりにも多い、ということです。
そもそも何のために生きているのかすらも分からずにイ
キったり凹んだりして生きている、そのような例が非常
に多かったわけです。
お釈迦様はそのような人生は「苦」であり、貴方たちの
生き方は現に「苦」のなかにある。ではそのような苦の
輪廻から離れるにはどうすれば良いのか、という方法を
説いたのです。
それを、人生というものは救いようのないものだ、と誤
解した人もいるようなのですがそうではありません。人
間本来の在り方に目覚めれば(悟れば)、素晴らしい世
界を展開できるのだ、というのが本来の趣旨であるわけ
です。そのような本来の人間性に目覚めた人々によって
建設される社会が私がいうユートピア文明ですね。
では苦の輪廻から離れるにはどうしたらよいのか、その
教えが「苦集滅道」と言われているわけですが、漢字に
すると難しそうなのですがこれも本来の意味は簡単です。
君たちは元気な者はイキって生き、おとなしい者は他人
をうかがって生きてるけど、そんな生き方は本来の生き
方ではなくて現に苦しみの中にいたり苦しみの連鎖が待
ってるよ。
これが「苦」の意味です。
ではどうすれば苦の中から抜け出せるかというと、まず
苦を作っている原因を調べましょう。
これが「集」の意味ですね。
原因が分かったら次は取り除けば良いですね。
これが「滅」です。
苦しみの原因を取り除いたら本来の人生を謳歌しようぜ。
これが「道」であります。
仏教の教え、お釈迦様のおしえというものは本来こんな
簡単な誰でも出来て誰でも悟りに至れる教えなのです。
だがだがしかーし、坊主も多いし仏教を研究したり関心
を持つ者も多い。また神仏を家の祀る者も多いわりに、
誰もここらへんに悟った者を見かけないのは一体全体ど
ういうわけだい??ってことですね。
教えが盛んなわりには悟った人の話がでてこないのは、
りゃあなた口先だけ盛んで誰も実行してないって事です
よ。
いけませんね〜。
仏(ほとけ)の教えが真実であるならば、本来は悟りな
んて当たり前のことであるはずです。例えば現代の日本
の社会ならば、10%くらいの悟った方がいてもよいくら
いなのだ、と通信は言います。
それでは実際に現在の日本には、この人達は悟られた方
々だといってもよいほど心穏やかな方々はどの程度いる
と言えるのでしょうか?これも通信によりますと0.5%
程度、200人に一人くらいの割合になるそうです。人口
から計算すると日本全体で60万人ほどの数になりますね。
この数字を多いと見るか少ないと見るか、意見は分かれる
と思いますが、ユートピア指向の視点で見るとまだ圧倒的
に少ないのです。社会全体がその意見を認識し、その影響
を受けるようになるまでには最低でも3%くらいの数が必
要だと思います。即ち人間としての価値観に目覚め、誰に
強制されるわけでもなく誰に褒められることを期待するで
もなく、黙々と己の為すべき道に精進する人々が、350万
人とか360万人ほども出てこないと日本全体の人々の意識
が変わってゆかないのではないか、ということです。
まぁこのくらいの数になりますと、世間話として「あの
人は悟った人だねぇ」と言うような話がふつうに人々の
間で語られるようになるのかな、と思います。
ただしここでいうここで言う悟りといいますのは、人間
平等の価値観を確立し、物事の道理、在り方をわきまえ
て、人々と争うことなく押しつけることなく己の為すべ
き道に精進している人々、というような意味になります。
そうして常に心安らかな境地にあって揺らぐことなけれ
ば、それは立派な悟りの境地にあるのだ、と言いうるで
しょう。
さてこのように本来は仏教は平易な道で、この文章を読
んでる貴方や貴方の周囲にだって、悟られた方々がたく
さん居ても良いはずなのだ、と申し上げましたが現実に
はまだ少ないのが実態です。
それはなぜなのかと仏教の歴史をふり返ってみるといく
つかの問題に気がつきます。
いつも言っているのは「知の壁」の問題なのですが、今
日は別な観点から仏教の在り方を見て参りましょう。そ
うしますと「苦」「集」「滅」「道」の「苦」と「集」
まではよいのですが、「滅」の辺りに問題があるのでは
ないかと思われます。
人生はさまざまな苦しみに満ちている、そう言われると
まぁそうかなと、これは理解出来る。
苦しみには原因があって、突き詰めてゆくとそれは人々
の自己中心的な心と行いにあるといえる。これもまぁ言
いたいことは色々あるが、分からないでもない。
だとしても、いったいどうやってそれらの原因を滅せよ
というのか?どうやったら自己中心の心がなくなるって
言うんですか?ってことですね。
私の仏教理解は、一つは仏教用語の漢字の意味から、も
う一つは私自身の心の中にある道理から語っているので
すが、仏教の歴史をふり返って問題点を考えるとなると
それだけでは追いつきません。そこでネットで少し仏教
の歴史をたどると共に、現代仏教ではこの苦集滅道の言
葉についてどう理解されているのか、調べてみたいと思
います。
ちょっと話は戻っちゃうんですが、「苦」についてもう
少しお話しておく必要があります。それは仏教の「苦」、
つまり「人生が四苦八苦の苦しみに満ちている」という
お話は当時の無学文盲の人々にも分かりやすく教えるた
めの言葉である、ということですね。実は現代人が直面
している「苦」の問題をはっきりと示すためにはあまり
向いてない、ピンと響かないところがあるのです。
「四苦八苦」という言葉だと現代人が直面している生き
づらさなんかがどうもうまく表現できないと思うのです。
お釈迦様の時代とは文明も文化も生活もすっかり変わっ
てしまっておりますので、いつまでもお釈迦様の時代の
感覚で教えを説いていてもだんだん感覚的にずれてきて
しまうのです。
つまり仏教、即ち悟りへの道は何も変わっていないのだ
けど、その説明や表現は時代に合わせてアップデートし
てゆく必要があります。それが出来てなければ仏教は精
神を失って死んでいる、と言われても仕方ありません。
つまり「四苦八苦」というような言葉もこれは真理の言
葉というよりも、人々に分かりやすく伝えるための方便
の言葉である、という方が近いのです。
苦について本質的な事を申しますと、私の経験からは意
識エネルギーが滞りなく流れている状態がよろしく、こ
の流れに問題が生じると苦しみとして感じられます。
また意識エネルギーが精妙であると心穏やかで快適であ
り、粗雑であると大変苦しいということができます。こ
のよう意識エネルギーという概念は「苦集滅道」という
悟りへの道を考えるときに大変有効で話が分かりやすく
なると思います。
仏教関係者の方には大変恐縮ですが、残念ながら今の時
代に仏教の教えで人々を救えているか、と自問してみる
と恐らく救えていないですね。
それはどうしてなのかというと、仏教の伝える本質は時
代によって変わることはないのだけれど、その表現や問
題意識など、時代や社会に合わせて変えていかねば伝わ
りにくくなる部分、いわば方便となる部分がアップデー
トできてないからです。
そのために仏教の教えが生きた人々を救う力を失って、
単なる知的な興味の対象になってしまっております。
仏教宗派のサイトをいくつか調べてみたのですが、そう
したサイトをいくら読んでみても、ああ救われた、心の
悩みが解決したという人はゼロでしょう。
単にネット上にホームページを開設して、お経の解説を
したからといって、仏教が近代化したわけでも現代化し
たわけでもないのです。現代人に寄り添って、人々の悩
みを解決できてこそ近代化・現代化した生きた仏教であ
ると言うことができます。
つまり現代人にとって「苦」とは何か?まずそこから始
めないといけない。
そしてそしてまたそれら現代的な苦の原因についても、
単なる「自己中心のこころ」で片付けてしまってはいけ
ません。そう言われてしまうと結局「じゃぁ私が悪かっ
たんですね」という話にしかなりません。解決しないの
です。
そこで改めて現代人の「苦」とその原因について、いく
つかをとりあげて考えてみましょう。現代人の「苦」に
ついて、上手いこといった人がいるんですよ。それは大
阪の木村泰子さんという方です。彼女は苦しみを「息を
吸うのがしんどい」と表現されました。すっごくわかり
やすいですね。
こんにちは。
木村泰子さんは大阪の大空小学校という小学校の初代校
長をお務(つと)めになった方です。
この方の教育については関西テレビだったと思いますが
取材して「みんなの学校」というドキュメンタリーを作
り、映画にもなっています。YouTubeで予告編が公開さ
れていますので興味のある方はご覧になって下さい。
この学校はいわゆる問題児とか障害児と呼ばれるような
子供を排除せず受け入れてすべて同じ教室で教育してい
ました。(木村さんが去った今もそうなのかは私にはよ
くわかりません)
授業中に教室を飛び出す子。すぐに友達を殴る子。自閉
症で言葉を出せない子……。こうした他の学校なら問題
児として支援学級や支援学校に入れられたりするような
子供も大空小学校ではみんな同じ教室で学びます。教師
の一人一人が、子供の一人一人に向き合って学びの場を
作っていった、そんな小学校を作った方です。
他の学校だとシッチャカメッチャカになりそうな話なん
ですが、大空小学校ではそれがうまく回ってゆくんです
ね。どうしてそんなことが可能だったかと言えば、それ
は木村校長先生のぶれない信念のおかげですね。
木村先生は人間平等という考え方が徹底されているよう
です。主義主張ではなくてそれが彼女にとっての当たり
前なのでしょう。
主義主張は「相手」があるんですよ。
「自分」という存在が、それに対立する「相手」という
存在に対してに対して主張するんです。
そうしますと、主義主張というものは、互いに対立する
二人の人間、または二つの陣営が存在する、という設定
をしていることがわかります。
そして次にはその設定の中でストーリーが展開すること
になるわけですね。
どんなストーリーかというと、そりゃもう決まってます。
「正義の味方、正しい主張の俺様・私嬢が、間違って迷
惑な事ばかりやったり言い立てたりする困ったちゃんを
粉砕する。正義は勝つ。私は勝利する。」ざっとまあこ
んな感じだったり「相手は私の主張に感服して臣従する」
てな感じのストーリーで決まりです。
どっちにしても私勝利のストーリーが普通ですね。
つまり、人間って、何かを主張した瞬間、そこまでもう
意識の中で展開しているんです。
こんばんは。
事情があって投稿を控えておりました。
一ヶ月半ぶりですか?久しぶりに書き込みをするとなん
かドキドキしますね。
さてさていろいろ話がぶっちぎりのままで申し訳ないの
ですが、以前の話に戻ります。必要があって去年の12
月17日の投稿を読んでおりました。
内容は軍事の話です。ロシアのウクライナ侵略と第三次
世界大戦の関係についての話です。
内容はちょっと予言めいていまして、ロシアはウクライ
ナ侵略をするが第三次世界大戦は避けられる、という話
です。
予言めいていると言っても、国際情勢を観察していれば
必然の結論であります。当時ロシアの侵略を明確に警告
していた日本の「専門家」はメディアでは見ませんでし
た。2月24日のロシアによるウクライナ侵攻が始まる
と、「予想外!」などと弁解している学者・専門家の人
たちが多かったのですが、彼らは「専門家」と呼ばれて
いるのですから頭はいいのだと思うのですが判断力が欠
けているのです。
判断力は頭の良さや知識ではありませんね。幾ら頭が良
くて知識があっても、机上の知識ではいけません。経験
にもとづく血の通った知識でなければ正確な判断は出来
ないものです。
それでは私はどうしてロシアのウクライナ侵略は避けら
れないと確信したかというと簡単です。ロシアはそのず
っと前からウクライナ国境に演習名目で兵力を集中して
おりました。兵力集中には時間がかかるものなのでロシ
ア国内からtwitterでたびたび鉄道による兵器輸送の写
真があげられておりました。
最初は戦車や装甲車などの輸送が多かったのですが、そ
のうち軍用救急車の輸送が混じりだしたのです。これで
私はロシアの侵攻を確信しました。状況ウォッチしてい
た人々の中には私と同じ判断をした人も多かったと思い
ます。
そしてもちろんプロであるアメリカの軍事情報関係者も
同じ判断をしていたと思います。ロシアによる侵攻が避
けられないという警告は12月にはすでにアメリカから
ウクライナ側に伝えられていたと思います。
おはようございます。
英米のプロの方は正確な判断をしておりました。もちろ
んロシアの怪しい動きに対して必死に情報収集活動をし
ていたことと思われます。
しかし最終決断を下すのはプーチン大統領であり、また
戦争計画を知っていたのは上層部のごく一部の人だった
ことでしょう。情報の扱いや謀略に関してはロシアはプ
ロでありますから情報漏洩しないよう厳しく秘密を守っ
ていたことと思われます。ですから英米の判断も状況証
拠による判断であったことと察することが出来ます。
ではなぜアメリカは正確な判断が可能で国際関係論など
の日本の大学の専門家たちが軒並み判断を誤ったのか?
かえって私や在野の軍事マニアのような人たちのほうが
なぜ正しい判断を下せていたのか?それが疑問ですね。
これを考えてみますと私は人間のものの考え方にある大
きな欠陥に気がつきました。
人間は事実をありのままに見るよりも、自分が心の中に
ストックしてあるストーリーに従って物事を解釈しよう
とするのではないか?ということです。専門家や先生と
呼ばれる人ほど事実を見ようとしてないのです。
頭の良い人たちは多くのストーリーを知っており、また
自分でも新しいストーリーを創作します。つまり「理論」
ですね。人間の行動や国家の行動までも、そうした理論
に基づいて説明しようとします。
経済活動などに関してはある程度こうした理論も成功し
ていると言えそうです。しかし成功しているほうだと思
われる経済分野ですら、過去の経済の動きに関しては割
と上手く説明する人が多いのですが、現在・将来の経済
については人によってすっかり予想が違ってきてしまい
ます。
それはやはりストーリーに頼った物事の理解の仕方に問
題があるのではないでしょうか。つまりご自分のストー
リーにあった事実だけを大きく取り上げて判断してしま
うのです。そしてストーリーに合わない都合の悪い事実
は大変低く見てしまうとか、無かったことにして済ます
こともあるようです。
専門家の大学の先生なのにそんなことするはずがない、
と普通は思うのですが、ウクライナ侵略戦争を見ており
ますとやっちまっている専門家がたくさんいらっしゃる
ようです。
つまり、私達の目から見れば明らかにロシアは負けてい
ます。ロシアは一年後の敗戦と将来の国力衰退に向かっ
てまっしぐらに突き進んでいます。ところが立派な肩書
きの先生方の中に全然違った見え方をしてられる先生方
もたくさん居るらしいのです。
彼らにとってはウクライナの快進撃はロシアが懐深く誘
い込んでいるだけだったり、決定的な反撃のための準備
で撤退しただけだったりするようです。そしてウクライ
ナが早く停戦したりロシアに降伏すれば、ウクライナの
国民は破壊と殺戮から救われて幸せになれるのだそうで
す。
私はこの件に関しては、具体的に名前を挙げて誰がどう
言っているかを説明する気はありません。ただ、知性と
いうものが、実は私達が思っている以上に頼りにならず
判断を誤るものだという教科書的な見本だと考えていま
す。
そうなんです。人間は差別意識を持っています。差別意
識の中でもなかなか説得力のある差別に能力主義、とい
うのがあります。つまり能力のある人間が上で、能力の
無い人間は下だ、という上下意識です。その能力の一番
に来るのは頭の良さ・学校の成績ではありませんか?
頭の良い人が素晴らしい、良い学校を出た人が素晴らし
い、逆にFランなどと言われる大学を出た人はどうしよ
うもない、などという差別意識・序列意識ですね。
ところがこうした頭の良さ、知性というものは実は判断
力そのものではないんですね。頭の良くない人の方が素
晴らしい判断力を示し世の中をうまく回せる場合も多い
のです。
ところが残念なことに社会の仕組みはまだ判断力の有る
人にポストが与えられるようにはなっておりません。頭
の良い人・良い大学を出た人がポストを得やすい仕組み
です。
かといって、頭が良いことが悪いことだと言いたいわけ
ではありません。
頭の良い人は、とかくストーリーにこだわって現実その
ものを見ていない、見たくない人が多いのですね。そも
そも人間は現実そのものを見るのは苦手なところがある
からです。多分、容量オーバーを起こしてしまうのだと
思われます。
現実とは関係者全ての体験や想いを総合したものですか
ら、人間の小さな認識力で現実そのものを受け止めよう
としても、それは確かに難しいことです。そんな大きな
現実を受け止めようと格闘するよりも、頭の中で現実に
似せて作ったおもちゃ(ストーリー)を手にして、ごっ
こ遊びをしているくらいの方が、肉体人間にはお似合い
だ、とも言えてしまいます。
しかし、頭の良い人たちが物事を既成のストーリーで見
るごっこ遊びを止めて、現実そのものを見ようとし始め
ると、随分大きな変化が、意外と早く起きると思うので
すね。
英米の情報当局者や、私も含めて日本でも一部の軍事マ
ニアはロシアの侵略についてかなり正確な判断をしてお
りました。英米当局者の警告はウクライナ政府・軍にも
伝えられ、キーウを守り切りロシアの電撃侵攻を食い止
めることが出来ました。
もしストーリーの色眼鏡で現実を見ていたならば、今頃
ウクライナは消滅し世界は第三次世界大戦へとまっしぐ
らに進んでいたことでしょう。その道を塞(ふさ)いだ
のは、妄想せずに淡々と今在る現実を見続け、そして今
の現実が次にどのような新たな現実をもたらすのかを読
み続けていた努力があったからです。
そういう意味ではオバマさんの時代はロシアに妄想のス
トーリーを描いていたのです。オバマの時代にロシアは
ウクライナを侵略しクリミア半島を盗ってしまいました。
アメリカはこのとき妄想に陥ってロシアに毅然とした態
度を取れず、曖昧な現状追認をしてしまいました。それ
現在のロシアのウクライナ侵略に直結しております。
ロシアの狙い、プーチン氏の目的についてあれこれ言う
人たちがいます。NATOの拡大を阻止するためだとか、ウ
クライナ国内のロシア系住民の保護だとか言っておりま
す。
しかし現実を直視するなら、そのようなストーリーをも
てあそんでいられないはずです。プーチンの目的は単な
国盗りですね。頭の中が戦国乱世なんです。
日本の戦国乱世はまだ良いんです。庶民も迷惑かけられ
ることはあるんですが、所詮は武士階級の序列決定戦で
すからね。多くの人々にとっては他人事みたいなところ
もあるんです。しかし大陸の戦国乱世はもっとずっとえ
げつないところがあるんです。それは民族の興亡という
性格が出ることがあるからです。
そしてプーチンの戦争、キンペーちゃんの戦争はまさに
そういう所があるので厄介なのです。プーチンの目的は
ロシア民族のために肥沃なウクライナの土地を奪うこと、
これに尽きます。
「ウクライナ人はウクライナから出て行け」、これが本
音です。
そして恐ろしいのは中国も同じ心性を有している、とい
うことですね。これを「中華意識」と呼んでおります。
中華意識のことを、アメリカ中心の世界から中国中心の
国際秩序に変えること、くらいに思っているかもしれま
せんけどね、そんな温(ぬる)いもんじゃないですね。
きんぺーちゃんがチベットやウイグルでやってることは
「チベット人はチベットから出て行け」「ウイグル族は
ウイグルから出て行け」ですね。なにしろチベットやウ
イグルには豊富な資源がありそうですからね。資源は漢
民族のために使わなきゃ!ですよ。
これだけでも天地は悲憤慷慨(ひふんこうがい)して七
日泣き止まず、って具合になってもおかしくない話なの
に、ますます強欲に海底資源も俺のもの。フィリッピン
もベトナムもインドネシアも日本もみんな海から出て行
け、ってやってますからね。
これに金ちゃんを加えると戦国トリオです。この戦国ト
リオが無双し始めると世界は大変困ったことに追い込ま
れることになるのです。多分、普通に戦術核が使われる
ような戦争がうち続き、あちらでもこちらでも恐ろしい
数の人々が犠牲になって世界は疲弊していったと思われ
ます。
ところがそのようなルートを遮断したのが小泉・安倍と
続いた政権の仕事でした。中国の傍若無人に対して「自
由で開かれたインド太平洋」というスローガンのもとに
西側諸国を結集させ一見ソフトに見える対抗軸を作りま
した。
中国を直接刺激しないように一見ソフトですが中身はど
んどん充実してゆきます。数年前ならばウソでしょうと
しか言えないような軍事的連携が次々と実現されてゆき
ました。昨日はドイツ空軍が自衛隊と共同訓練のために
ユーロファイタータイフーン戦闘機3機や輸送機、空中
給油機などを茨城県の航空自衛隊百里基地に派遣してき
ました。
もちろん初めてのことで、この記念すべき戦闘機はなん
と空軍トップのインゴ・ゲルハルツ中将自らが操縦して
の飛来です。これに対して空自もトップの井筒航空幕僚
長が戦闘機を操縦して迎えに上がっています。
ドイツは中国との強い経済関係を重視してきたのですが
2020年にインド太平洋戦略を見直しました。その一
環として昨年は日本にフリゲート艦を派遣してきました。
また空軍はこの8月にはドイツ本国から24時間でイン
ド太平洋地域に兵力を展開する「ラピッド・パシフィッ
ク2022」という演習を行いました。その後シンガポール
やオーストラリアなどと演習を繰り返し、ようやく昨日
日本に到達したのです。このあと30日まで自衛隊と協
議や演習を行う予定だそうです。
このような各国との防衛協力は日米安保の枠組みには止
まりません。これはインド太平洋での(早い話が海洋に
おける)中国の軍事行動(戦争行為)を阻止するための
ものです。
日本の従来の軍事戦略は日米安保を軸として専守防衛に
徹する、というものであくまでも受け身の軍事戦略でし
た。ところが現在の日本の軍事戦略は(中国発の)侵略
戦争の阻止、即ち戦争防止という性格が強くなっている
のです。戦えば必ず貴方たちは負けますよね?だから戦
争はしないで平和にやりましょう、と言える状況を作っ
ているわけですね。
そしますと日本はいつのまにか外交方針を大転換して、
受け身の外交から平和構築のための外交に大転換して
いるのがわかります。大きな絵を描いて、各国を巻き
込んでその絵の実現を図る、という外交ですね。中国
の正体に次第に気がついてうろたえていた西側諸国を
うまく「自由で開かれたインド太平洋」というスロー
ガンに結集させることに成功したわけです。こうなる
と中国はうかつに戦争しようとすると西側全体を敵に
回さなければいけなくなる。再び西側を分断するのは
かなり難しい状況に置かれているのです。
このように中国が戦争でき無い状況を作り出したのは小
泉・安倍の政権の功績でしょう。
27日は安倍元総理の国葬でした。菅元総理の弔辞は心
のこもったものでYouTubeで視聴して感動しました。安倍
さんが亡くなってあらためて気がついたのは、この方は
本当に心の温かい方だったな、ということでした。
このような方だったからこそ、彼らは安倍さんが邪魔だ
ったのでしょう。だからあらゆる手を使って引きずり降
ろそうとし、命まで奪ったのでしょう。
アラサーちゃんお久しぶりです
菅さんの弔辞には涙がこぼれてしまいました
何故に安倍さんの尊い命が奪われなければなかったのか
ずっと考えていました
いつになったら戦争をしなくてもよい世界になるんですかね?
悲しいなー
>512
>涙が
こんにちは。本当でしたね。
>513
>いつになったら
それは人の心の中から争いの心がなくなったときです
ね。
意外と人の心の中は平和ではないことが多いのです。
こころとは何か?人間とは何か?まずこの答えを見つ
けることが大切なのかな、そしてようやくこの疑問に
納得を得つつある、私はそんなところですね。
さて、業務連絡スレの過去スレから、頂いている質問に
全部答えるつもりでいまして、最初の業務連絡スレの
125番の質問から読み直していたのですが…。過去ス
レが読んでて面白いんですよ。それで「あーぁ、そうだ
ったのかぁ」「そういえばそうだったよなー」なんてね、
あらためて勉強にもなりました。
それでですね、一度答えてる質問もあるようなんですが
確認が面倒なので改めて今の時点での回答を付けてゆく
事にしております。明後日からになります。
さて、この間いろいろありまして。
個人的には八月は地味に進歩が大きかったです。そのか
わり調整が大変でした。そのために書き込みが出来ませ
んでした。
ちょうど一週間前の木曜日に、年に二回くらい状況確認
に訪れている霊能者さんにカウンセリングしてもらった
んですよ。
お前自分で通信すればええやん?って思われるかもです
が、適切な第三者の目を通すことは大切な事なのではな
いかと思っております。それで半年に一回くらい、その
方からはどう見えるか、アドバイスをもらいに行ってる
んですね。
私は8月になんだかステップアップした感覚があったの
ですが、これがどこまで行くのか。現在送信能力が今年
の初めと比較して三倍近く上がっているように感じるの
だけど、自分の肉体的な能力アップの限界はどこまでな
のか?そんな質問をしました。
私は今の二倍も行けば限界かな?と思っていたのですが
意外にも「100倍。100と言っている!」という答
えをもらってしまって。
まだまだ先は長いんだなと思い知らされたわけです。も
うちょっとで物質化できるんじゃないかと思ってたんで
すが全然そんなレベルじゃなかったようです。
その方とは一時間の相談時間の予約だったのですが、た
またま時間があったようで三時間あれこれ話し込んでし
まいました。
この件でもそうなのですが、これまでの生活とは少し違
った面が出てきているのです。
それは人と話す機会が多くなりつつある事です。これま
でスピリチュアルな話題はネットの世界でしかしてこな
かったのですが、私の物事の理解度が上がってきたから
でしょうか現実世界とこころの関係を対話の中で説明し
やすくなってきました。そして実際に対面で説明する機
会が増えてきたのです。
ですからこれまでのようなネットでの仲間作りから対面
での仲間作りに、今後は広げてゆく事になるのかな、と
いう感じがしています。
それでは今日は失礼します。
さて業務連絡スレ(1番スレ)125番から参りましょ
うかね。ダブってる部分があるかもしれないですが、気
にせずやっていきます。
>125
まあ否定的に見えてしまうかもしれないが、覆してほし
いと思う。
特に覆す必要を感じません。その方がそう思われ、貴方
がそう思われるなら、それはそれでいいのではないでし
ょうか。ご友人の方がどう思われようと、貴方がどう思
われようとそれは貴方やご友人の思索と探究の結果とし
ての、現時点での貴方たちの悟りであります。
そして私の悟りはまた別の所にあり、それは私の思索と
探究と行動の中に生まれたものであります。
それは貴方たちの心の中ではなく、私の心中、魂の中に
存在するものなのです。
私や貴方たちが更に前進を進めてゆくときに、貴方たち
の悟りと私の悟りが互いに響き合うこともきっとあるに
違いありません。それで良くはありませんか?
>(業務連絡1番スレ)125
全ての生命と存在、例外もなく死・消滅は免れえない。
しかも自覚あるなしに関わらず、その生は辛く過酷なも
のでしかない。
京都帝国大学の西田幾多郎先生は大先生であります。彼
は当時(明治44年)ベストセラーになった「善の研究」
によって、人間は自分の体験をああだった、こうだった
と言うけれども、実は体験そのものは言葉に出来ないも
のであり、純粋な経験そのものである、ということを説
きました。
貴方様は先生のこの「純粋経験」という言葉の意味はよ
くおわかりのことと存じます。
「純粋経験」などと申しますと小難しく感じるものです
が、実はそれほど難しい話をしているわけではありませ
ん。私達は感覚を通じて一秒一秒様々な体験をしていま
す。しかし私達の意識はそうした体験の全てを自覚出来
るわけでもないのです。その一部だけを取り上げて「痛
い」だの「快い」だの「甘い」だの「辛い」などと認識
しています。
私達が何かを体験した、経験したと思うときには実際に
は自分が感じたことの一部だけを取り上げて、さらに自
分の感じ方や考え方を加えて「○○を経験した」「△△
を体験した」と言っております。
例えば遊園地のジェットコースターがありますね。私な
んかはあの感覚がヒヤッとして嫌なので「怖い体験をし
た」となるのですが、不思議なことに世の中の多くの人
がジェットコースターに乗るとヒヤッとして「面白い体
験をした」と言うんですよ。
同じ体験をしているのに不思議ですね。
実はよく考えてみますと、体験した瞬間に私達はなにか
モヤモヤした感じを感じるのです。そしてそれを「怖い」
とか「面白い」と言葉にした瞬間、想いを発した瞬間に
その体験は意味を持って確定してしまうのです。そうで
はありませんか?
私はこの現象を「意識の不確定性原理」と名付けましょ
う。
このモヤモヤしたエネルギーに方向付けるもの、それは
「想い」であり「言葉」でもあるわけなんですが、この
場合、「面白い」という言葉を選ぶのか「怖い」という
言葉を選ぶのかは完全に私達自身に選択の自由があるの
です。
そして私達がどちらの言葉を選ぶかで、その後の私達の
現実が異なって参ります。私だったら東京ディズニーラ
ンドは行かない、って未来になっちゃうんですね。これ
を言葉の「創造作用」と呼びましょう。
>(業務連絡1番スレ)125
ヤベえw長すぎるwww中略
貴方に対するお答えが長くなってしまうのも必然ですね。
仕方ないので今晩はここまでにしておきます。貴方への
お答えだけで残りのレスを消費してしまうかもしれない
ですね。
では失礼します。おやすみなさい。
おこなの?おこなの?
これはサボってばかりの生徒に対しての呼び出しなの?
5年半前か。
術後1年ほどで、再発すらも検査しようが不明な時期だったな。
死ってのは、ある種の開放であるという認識は変わってないね。
前進も後退も転進すらもしていない状態で、
これが年齢からくる肉体や知性の停滞や縮退なのかわからない。
155の言うように一瞬の接触による影響に期待しましょうか。
こんにちは。
>527
おや、おひさです。
さて、実は先月から月の光のチャクラの浄化を試みてお
ります。かなり上手くいっているようですので報告して
おきます。
やり方は単純で、以前、過去の意識の浄化するにはとい
うテーマで月の光を使った浄化の話をしたことがあると
思います。その時はこの方法で効果があるか、またあら
ためて報告します、と伝えておりました。基本的にはそ
れと同じ方法です。
虚空に白く輝く月を想像します。
その月の光の清らかさに浸ります。
息を吸うことで月の光を自分のチャクラに導き照射しま
す。
チャクラをスポット的に、あるいは全体を月の光で洗い
流すように照射します。
呼吸と共に月の光が強くチャクラを照らして浄化してゆ
く事をイメージするのです。
基本はこれを繰り返すだけです。
一行目二行目は月の光の設定ですね。設定をしっかりし
てから実施します。
今日は10時半から2時前までベッドに横になったまま
途中休憩を挟んで続けておりました。目標は各チャクラ
の浄化を100%終えることです。
その結果
第六チャクラ97%→100%
第五チャクラ98%→100%
第四チャクラ99%→100%
第三チャクラ96%→100%
第二チャクラ99%→100%
と浄化に成功したようです。
もちろん自己申告なので、改めて霊能者さんとコンタク
トを取ってみて第三者の評価を得てみたいと思います。
第一チャクラと第七チャクラはすでに100%を達成し
ております。第四チャクラも100%を達成してたので
すが、時の経過で汚れてしまったようです。まだメンテ
ナンス浄化が必要みたいです。
さてチャクラ浄化の基本的な考え方は>529の通りな
のですが、私は常に工夫と実験が好きなので様々な方法
で効率化を試みております。今回使った方法は次のよう
なやり方です。
まず虚空に清浄さの化身のような月を描くのですが、次
に月と我の間の空中に長手を広げたくらいの大きさの凸
レンズを浮かべます。
そうすると月は凸レンズの大きさに拡大されます。そし
てそれを集光して小さなスポット光を作って、これでチ
ャクラを照らして浄化してゆくのです。
チャクラの方にも工夫します。チャクラを具体的にイメ
ージするのはちょっと難しいと思うのですよ。いろいろ
なチャクラの図像はあるのですが、あんなの想像するの
は困難ですよね。
そこでチャクラのイメージを丸い玉としてイメージする
のです。
水晶の玉のような丸い玉ですね。しかし残念ながら浄化
されてないと透明な水晶としてはイメージ出来ないです。
自然と不透明な、表面が何かで覆われたようなイメージ
になってしまうんですね。
そこでその不透明な玉に強力に集光した月の光をスポッ
トで照射して曇りを消し去るというか、光で磨き出すと
いうか、水を注ぐかのように光で洗い流す、そんなイメ
ージです。
水晶玉を心の中で回転してまだ磨き終わってないところ
も丹念に光を照射して浄化して参ります。まぁ、こんな
ことを先月から何度か繰り返して、ああ、これいけるや
ん!って感触でした。
昨晩は上弦の月でしたので晩の間は上弦の月で浄化した
のです。日が改まったので面倒くさいので満月浄化に戻
しました。
上弦の月、下弦の月、新月のエネルギーをどう捉えるか、
どう理解して浄化するか、という問題があります。満月
なら単純なのですが、月の光は毎日変化するもので、月
の浄化も満月、新月、上弦、下弦のエネルギーを使うよ
うに、と霊能者さんからアドバイスを頂いていたのです。
私が月の光の浄化法を相談したときの霊能者さんのお返
事なのですが、つまりはそれは私の背後の指導霊団から
頂いたアドバイスということですね。
では上弦の月、下弦の月、新月はどう理解したら良いの
か。光と闇の対立なのか?ここのところがよく分からな
かったので、浄化は基本的には満月浄化と太陽浄化の二
本立ててやっておりました。
昨晩改めて考えてみましたら、月の影の部分って、光と
闇ではなくて、目に見える部分と存在するけれども目に
見えない部分を象徴してるんですね。
即ち上弦、下弦の月は霊肉一如の象徴だと捉えることが
出来るのです。
従いまして新月は、目には見えないけれども目に見える
世界を成り立たせているエネルギーの象徴と捉えること
が出来ます。
このように理解が整いましたので今後は浄化の効率、精
度、深度が一層向上してゆく事と思われます。
月の光の浄化で過去の意識の浄化が可能なのか?という
ご質問を、以前頂いてそのままになっておりました。
この件はまだ私自身が検証中です、というか、チョロリ
とやってみた程度であまり過去の意識の浄化まで進んで
いないのでまだ結論を出せないのです。
しかし今のところは多分効率的な浄化が可能であろうと
いう感触・見通しでおります。
意識の浄化にご関心のある皆さんは是非月の浄化を体感
してみて下さい。
>527
おこなの?おこなの?
昨日昼寝するときに(日曜の夜はあまり良く眠れなかっ
たのです。そして私は夜は忙しいのですが昼間は少し時
間があります)心の中で「尾籠(おこ)。尾籠(おこ)」
って言葉が起こってくるんですよ。それで、「なんでお
こなの?めこじゃだめなの?めこじゃだめなの」って返
してたんですけど、犯人は貴方だったんですね。
こんばんは。
業務連絡1番スレ>125
人間がなぜ死後の世界語れるのか。それは本来はあり得
ない
なぜ語れるかは簡単です。少なからぬ人がちゃんと覚え
ていたり、思い出したり、死後の世界に住む住人達と通
信していたりするからです。
「本来はあり得ない」のではなく、単に覚えてなかった
り忘れているだけなのです。
たとえば、貴方は一歳の頃の自分を覚えていますか?覚
えてないですよね?
「君は昔女性のおっぱいをわしづかみにして舐めたり吸
ったり所構わず大小便したり奇声をあげたり、本当にと
んでもない人だったね」
なんて言い方をされたらこいつは何を言ってるんだと怒
りたくなるでしょう。しかし考えて見たら本当にそんな
とんでもないことを私達はやってきてるわけですね。
で、言い方はむかつくけど、よく考えたらその通りだね、
って言えるのは小さい頃の写真があったり、小さい頃の
話を聞いたり、周囲の小さい子供の行動を直接見ていた
り映画やテレビなどの動画で見た経験があるから言える
のです。
ところがもしそうした経験が無かったらどうでしょう?
貴方が隔離されてそのような乳児幼児を直接にも間接に
も見る機会が無いまま育てられたとしたら、あなたは早
い段階でそのような乳児や幼児の頃の体験はすっかり忘
れ去ってしまいます。
そして厳しくこの世の礼儀作法を仕込まれて育ったとし
たら、「お前は小さい頃……」などと言われると、何言
ってるんだ!そんなわけあるか!と激怒するんじゃ
ないですか?
だから貴方が死後の世界をあり得ない、と感じてしまう
のも、貴方が単なる忘れんぼさんであるからに過ぎない
のですし、また覚えてくることを選択しなかった、とい
うことでもあると思います。
そして存在が「消滅は免れえない」というのも、単にあ
なたの経験不足、見聞不足からの結論ではないでしょう
か?あの世を覚えていないにしても、霊能者などは世の
中に掃いて捨てて余るほどいらっしゃるわけですから、
本気で存在が消滅するものなのか存在は実在するものな
のか調べようと思えば違った結論が出るはずです。
それはまたあまりにも視覚を絶対視する見解であるとも
言えるでしょう。人間が存在を確認するための感覚は、
視覚だけでは無いのですよ。そしてここでは私は体感の
重要性を指摘しているのです。
業務連絡一番スレ>125
では何故死後の世界や輪廻転生があるとするのか。
そうしなければ絶望しかないからだ。
すでに述べたように死後の世界や輪廻転生があるとする
のは、妄想でも希望でもなく、単純な「体験」と「記憶」
であります。それを理解されない頑固さんには絶望です
ね。
業務連絡一番スレ>125
みじめで辛く過酷なだけでしかない「生」に、そして苦
しみでしかない「死」を迎えようとする人に対しての救
済的な意味で、
苦しみには意味があり死後の世界があるのだと説得して、
僅かでも苦しみを減らすだけの効果だけだと。
「みじめで辛く過酷なだけ」というのは、あなたが人生
というものに対して為した貴方自身の解釈であり、また
設定でもあります。全然そうは思っておられない人々も
きっとたくさんいらっしゃるでしょう。
そして貴方が人生をそのように辛いものだと解釈したと
いうことは、実際に肉体的もしくは精神的に辛い体験を
した、ということを暗示しておりますね。
肉体的、そして精神的な苦しさを体験してしまいますと
人間というのはしばしばその辛さに飲み込まれるもので
あります。しかし人生とは「辛く過酷なものだ」と結論
づけるのは早計であります。
貴方自身、人生において楽しかった、うれしかった、感
動した、気分良かった、面白かった、気持ちよかった、
快かったと、様々な楽しみの時の体験を重ねてきたので
はありませんか?
なのになぜ「辛く過酷なもの」と結論づけてしまうので
しょう?そこに疑問を持ったことはありませんか?
人間は創造力を持っておりますので、「辛く過酷なもの」
と設定してしまうといくらでも辛く過酷な現実を作り出
すことが可能であります。
本当にウクライナさんやウィグルさんや戦場に肉の楯と
して死ぬために狩り出されるロシアの兵士さん達は過酷
で気の毒であります。しかし貴方の嘆きや過酷なイメー
ジも、こうした現実を作り出すエネルギーの渦のかけら
を作り出していることはご存じですか?
そんなわけねえずら、と貴方は思うかもしれません。し
かし貴方の「おこなの?」という書き込み、その発した
想いすら私の意識に「おこ」という想いを起こさせまし
た。私はその「おこ」が「尾籠(おこ)」なのか「男子
(おこ)」なのか、なぜ「おこ」なのかと怪しんでおり
ました。
私の場合は貴方の想いのエネルギーをこういう形でキャ
ッチして私の意識に反応を起こさせた。即ち貴方の想念
は「仕事」をしたことになります。
このようにあなたの嘆きや過酷なイメージも、人類レベ
ルで集合すると、大きな現象を引き起こしてしまうこと
が可能です。
さてなぜあなたはご自分の人生に楽しいときも苦しいと
きもあったはずなのに、貴方自身の認識としては人生を
「辛く過酷」と設定してしまうのか。
私思うに、貴方は半端な楽しみ喜びしか体験していない
のではないのか?
つまり単に貴方のモノの見方が苦しみの方に片寄ってい
るから、という考え方も出来るのですが、それ以前に実
は体験として楽しみと辛さ、快と苦がバランスが取れて
なかったのではないかと疑うのです。
辛さや過酷さが仮初めのものに思えるような確かさを確
信出来ていないのではないか?というわけですね。
ではどうしたらそうした人生の辛苦や過酷さが仮初めだ
ったりスパイスにしか思えないほどの揺るぎなさを得る
ことが出来るのでしょうか?わたしはここで二つの点に
注意したいと思います。
一つ目は「苦しみには意味がある」のか?って問題です。
だって、苦しみって単に苦しいだけですやん。
苦しみには意味があるのか?
苦しみに善悪はなく、ただ苦しいという体験が在るだけ
じゃないですか。皆さん体験してみてそう思いません?
そして体験してみて言えることは、そんなしんどいこと
は自分も嫌だし人にも背負わせたくないよね、と。
苦しみからは早めに手を切るのが賢い、ってことですよ
ね?だからお釈迦様も苦しみから離れるのが大切だ、っ
ておっしゃったんじゃないですか?
「苦しみに意味がある」という言葉は深く人生を洞察す
る言葉としてはアリといえばアリです。でもこれは一歩
間違うと苦しみの引き寄せになっちゃいます。
奇妙ですね、投稿ボタンを押したのに別画面になって肝
心の投稿が消えてしまいます。
これは邪魔が入っているのか、それとも125氏が閉口
してるのか、あるいはもう今日は寝なさいということか。
寝なさいということにしておこう。
125氏、悪気はないんだけど長すぎてごめんね。
さて続きです。
昨晩消えてしまった投稿はやはり思い出せなくなってい
るので改めて端的に申し上げましょう。
人間はしばしば快楽は悪いことだという概念を持ってし
まいます。例えばキリスト教だと七つの大罪なんて申し
ましてね「怠惰」「暴食」「色欲」はやばい罪なんだそ
うです。
やばい罪ってことはですね、寝るのが大好きとか、食べ
歩きが好きとか、異性の側に近寄りたいとかは全てアウ
ト、地獄へゴーアウェイされる、って事らしいのです。
そんな馬鹿なことがありますかい?こりゃトンデモハッ
プン歩いて二日の暴論だ。だってこの三つだけに限って
言えば夜も寝ないでゲームして人と顔も合わせず一日二
食のカップラーメンで過ごして人から話しかけられたり
視線を向けられるだけでキョドってしまって心臓バクバ
クするようになると天国への招待状が届く、って意味に
なるじゃないですか。(なんとこの状態で三つだけでな
くて、「傲慢」と「嫉妬」と「憤怒」と「強欲」もクリ
アして七つの大罪クエストコンプリートですよ)
まぁ確かにそのような生活を続けていると、別な意味で
の天国への招待状が発行されちゃいそうです。
前にも申し上げたことがあると思うのですが、感覚は存
在にとって基本的な存在条件じゃないですか。そして
「快」の感覚は適切なエネルギー吸収や放出の感覚であ
る、と私は思います。
存在とはなにかを意識エネルギー視点で見るようになり
ますと存在とはエネルギー循環の核であることがわかり
ます。存在は本来「快」の感覚を通してエネルギーを授
受して循環させ、「苦」の感覚によってその行き過ぎや
欠乏を調節していることがわかります。
従って快楽は悪いことだ、という認識は人間の存在の根
幹を脅かす危険性を秘めた言葉であります。
ところがこれに対して「快楽こそが人生だ」と申します
と、今度は行き過ぎてしまってやはり人間の存在の根幹
が脅かされてしまいます。
快に向かうべきか遠ざかるべきか、どうすべきかわから
ない、という話になってしまうのですね。どうしてこん
な話に陥ってしまうのかと申しますと、実は最初の言葉
である「快楽は罪だ」と言う言葉にどう反応するかによ
って話は大きく変わってしまうのです。
どういうことかと申しますと、人間は例えば「快楽は罪
だ」と言われると三つの反応がありうるのです。
一つは素直な反応で、「おや、そうなんですね。快楽厳
禁快楽厳禁。
でも快楽現金なんちゃってウへへへへ」ってやつでして
ああ、ダメなんだぁ、でもやっちゃうよね、こんな悪い
僕ちゃん私嬢を神様罰して、いや罰は怖いから教会様な
んとかして。ってやつですね。
二つ目の反応は元気の良い人で、「快楽は罪だぁ?そん
なわけあるか」って反発する人たちですよ。
この二つの反応は実は紙の表裏のようなものですね。実
は物事の在り方というのは「快楽は罪だ」という言葉を
聞いた瞬間に、人間はその設定を受け入れるか受け入れ
ないかの二択を迫られるのです。そしてよく考えてみる
と、「へぇそうなんだ」という反応も「何言ってるだ」
という反応も、どちらもその設定を存在させ存続させて
しまう反応なのです。単純な受容も反発も、設定を存続
させ人の心を縛るエネルギーになってしまうのですね。
三つ目の反応の仕方は、「ふーん(はい終了。撤収)」
ってものです。
三つ目の反応はうるさくあれこれ設定し、人間を縛り付
けようとする意図に対してエネルギーを返さない対応で
す。要は「あ、これは人間を縛り付けてしまう考えや」
と見抜いてしまえば興味も関心も無くなりますよね。そ
うすると人を縛り付ける設定は立ち枯れてしまうのです。
設定というのは創造なんです。創造の根源は人の意識に
よる想像なんですね。想像に言葉という形を与えたもの、
それが創造行為の原点であります。
言葉は心の中のモヤモヤエネルギーに形を与えたもので
あり意識エネルギーの一形態なんですよ。
そうしますと実は人間というのは日々様々なシチュエー
ションにおかれて言葉を発する機会を与えられておりま
す。こうしたシチュエーションは人間にとって創造行為
を促してるって言えるんです。日々言葉による創造を促
されているのです。そして創造に対しては結果が返って
きます。結果が返ることで自分が創造したものの意味を
考える機会が与えられよりよい創造行為が可能になる。
これが人生が上手く回った場合ですね。
でも人生なんてそんな上手く回るとは限らないですよね。
その原因を考えますと、まず生まれたときの設定の違い
の問題がありますね。最近よく言われる親ガチャなんて
のもその一つです。また自分の肉体的条件もそうですね。
身体が強いか弱いか、容姿が整ってるかそれほどでない
か、知的能力は高いか低いかなど、様々な設定要因があ
ります。それに埋め込んできた人生イベントというのも
あります。何らかの目的があって、さまざまな愉快だっ
たり不愉快だったりする出会いを用意していたり、場合
によっては事故や病気を用意していたりすることもある
ようです。
このように自分の人生というものは高いところに立って
俯瞰してみると一目瞭然なんだろうけれども、肉体の地
平からはなかなか分かりづらいところがあります。それ
故にサポートに何人もの霊人が付いているのでありまし
て、こうしたサポーターというかヘルパーさんとの緊密
な情報交換は地上生活を送る上での大切な条件であると
思います。
このように人生がなかなか思ったように回らない原因に
は一つにはご自身の人生の設定の問題があったのですが
もう一つとは他者との関係性の問題があります。
普通皆さんが気にするのはこちらの方ですね。人間関係
ってやつです。
それで人間関係がなぜ問題になってくるかと考えてみま
すと、話は単純で、相手が自分の事を分かってくれない。
自分が相手のことをわかっていない。
ほとんどの原因はこのどちらかではないでしょうか?
では今日はこれで失礼。
こんばんは。
ちょっと読み返してみたのですが、昨日の投稿は言葉の
使い方わりと厳密なところとルーズなところが混ざって
しまっています。
例えば、>557 「設定というのは創造」というのは「創
造」と言う言葉についてルーズな使い方をしています。
「設定というのは、人の創造行為に枠や方向性をはめて
しまうこと、言い換えると人の言葉に枠や方向性を与え
てしまうこと」と言うのがより正確な表現です。
また「創造の根源は人の意識による想像」というのもや
はりルーズな表現ですね。「創造の原点は『想い』、
『想像』であり心におもい描くこと」だとでもするのが
適切でしょう。
また「想像に言葉という形を与えたもの、それが創造行
為の原点であります」という表現も「私達が心の中に思
い描いた影のようなものを、私達は言葉で表現します。
この言葉で表現する、という行為によって、私達の心の
中に沸き起こっていたモヤモヤしたエネルギーが言葉に
よる方向性(ベクトル)を与えられて外界に飛び出すの
です」
「それはエネルギーが、『言葉』として目には見えない
けれども感じられる音の身体を与えられ、あるいは『文
字』として目に見える身体を与えられ、あるいは目に見
えずなかなか人には感じてもらえない想念として身体を
獲得した瞬間、ということができます。
このようにして抽象的な意識エネルギーが人の意識とそ
の選択により、具体的で直接作用する形のエネルギーへ
と変換されて人の世に循環してゆくのです。」
とでも変えた方が良いでしょう。
ちょっと理屈っぽい言い方になるんですけど、たぶんこ
の方が正確に伝わるのかな、最初の言い方ではきっとあ
まり伝わらないのだろうなと思いますので修正いたしま
す。
>527以降の表現についても明日見直してみます。
ではおやすみなさい。
こんばんは。
>552
七つの大罪クエストコンプリート→七つの大罪克服コン
プリート
>547
私思うに、貴方は半端な楽しみ喜びしか体験していない
のではないのか?
これはちょっと失礼な言い方になってしまったかもしれ
ないのですが、このままでは説明不足なのできちんと説
明したいと思います。
例えば味覚について考えてみましょう。貴方は、食物の
味の違いが分かりますでしょうか?と私が誰かに問いか
けたとしたら、貴方はその意味が分かりますか?
「もちろん分かるよ」と言うのか、それとも「ん?お前
は何を言おうとしてるんだ?」と疑問を持たれますか?
例えば味覚という一つの感覚について考えてみましょう。
実は私達が真剣にものの味を味わおうと追求してゆきま
すと、つまり真剣に美味しいものを食べる体験をしてみ
ようと追求してゆくと、舌で感じる感覚には全然違カテ
ゴリーの二種類の味があることに気がつきます。
一つはどちらかというと調味料で作られた味、とでもい
うべきもので、確かに美味しいんだけど「飽きる」感じ
がしてしまう味覚です。
>566,567 名前入れ忘れです。
もう一つは「滋味(じみ)溢(あふ)れる味」とでもい
うべきもので、味にエネルギーがある、味そのものに力
を感じるような味なんですね。
ではどういうものが「飽きる」味なのかというと、私の
体験では加工食品、それから都会のスーパーで売られて
いる野菜、鮮度の落ちた食品ですね。
というのは我が家は農家でしたので、我が家で作ってい
た野菜と比べまして都会のスーパーで売られている野菜
は規格は揃っているのですが味に力が無いので、あまり
食べたいという気持ちが起こらないことが多かったです。
それで私は自宅で我が家で作っていた野菜を食べていた
頃は毎食生野菜にマヨネーズをかけてカレー皿一杯食べ
ていました。無理して食べていたのではなくて、美味し
くて食べていたのです。
ところが都会で学生生活をするようになりますと野菜が
まずくてとてもそんなに生野菜サラダを食べる気分では
なくなってしまいました。すっかり野菜生活から遠ざか
ってしまいました。
その後サラリーマンを辞めて地元に帰ってからは私自身
も野菜を作るようになります。
そうするとまた美味しい野菜が豊富に手に入るようにな
りましたので生野菜サラダが復活しました。
その後、食べ物の味に敏感になりました。味の何に敏感
になったかというと食べ物のエネルギー、食べたときの
食べ物の力に敏感になったのです。
それで、それまで美味しく頂いていたお菓子やケーキな
どの加工食品があまり美味しく感じられなくなってしま
いました。
そうしますと、味覚には二種類あるということがわかり
ます。一つは物質的な感覚、化学変化の感覚としての味
覚です。
もう一つはエネルギー的な感覚としての味覚ですね。
この両者の違いは、物質的な感覚は味が薄っぺらい。食
べたてるときは「うまい」とは感じるのだけど食べても
食べても満足が薄いです。物足りなくなって、スッカス
カなのに味の刺激が強いとその刺激を求めてしまう、悪
い意味のクセになる感じですかね。
エネルギー的な感覚のほうの味覚は味が濃い。太い感じ
です。
で、私が言いたいのは、業務連絡1番スレの125氏は、
刺激としての感覚体験はあっても、エネルギー的な感覚
体験の経験が不足してんじゃないの?ってことです。
私が言う、身体が教える「快」「苦」というときの「快」
とは、結局このエネルギー体験としての「快」であろう、
そして肉体的な刺激としての「快」は見せかけの「快」
でしかなくて、あまりに刺激の方の「快」を追いかけて
ゆきますとエネルギーの裏付けがないので結局「苦」に
反転してしまうのではないでしょうか。
これは味覚で説明したのですが、視覚、聴覚、嗅覚、触
覚全て同じ事が言えまして、五感と申しましても私達は
実は単なる刺激としての感覚とエネルギー的な感覚の両
方を受け取る能力があります。そういう意味では五感で
はなく十感といってもいいのではないか。
そして刺激としての感覚をのみ意識しますと、そこには
エネルギーがないので存在の根っこがありません。
エネルギー的な意味での五感の感覚をしっかり体験して
ゆく事で存在の根っこがこの現実世界の中に張り巡らさ
れてくる実感があるのではないでしょうか?
さて、私達が感じる五感の感覚には物質的な刺激の感覚
と同時に、なにか非物質的な感覚も、同時に感じている
のではありませんか?という話をしております。
五感ではなくて、人間は十感を使って生活している、と
いうのが正確ではないのか?ただ、物質的な刺激に比べ
ますと、この非物質的感覚はちょっと物質的感覚の方に
マスクされやすくて気がつきにくいんですね。物質的感
覚のほうが主張が強いわけです。
人間関係でも、陽キャの人の言い分や存在感にばかり気
を取られて、陰キャの人への気遣いが疎かになる、みた
いなところがありますよね?
ところがクラスの中には陰キャの人も静かに座っている
わけですよ。そして賑やかな陽キャの人は陽キャの人で
付き合っていると楽しいわけですけれども、陰キャの人
に目を向けてしっかりと向き合って仲良くなってみると、
案外このタイプの方が陽キャにはない魅力をたくさん持
っていることに気がついたりするものです。
それなのに、陰キャの人は居ない扱いをしてしまうと本
当に居るのか居ないのかわからない。あれクラスにあん
な人居たっけ?居たけどあの人のことはなにもしらなー
い!なんてことになってしまいます。
五感十感の話も同じです。
五感しかないと思っていると、陽キャしか居ないクラス
のように感じてしまって、確かに楽しいのは楽しいのだ
けど同時に底の浅い人間関係、底の浅い物質世界体験を
しているのかもしれないですね。
ところがクラスの中には陽キャも陰キャもいることに気
がついて陰キャの方の友達も作ってみましょう。すると
彼らは意外と物事を深く考えたり感じたり理解したりし
ているものです。そうしますと陽キャの友達だけでは得
られなかった人生の深みとか物事の深い見方を知ったり
理解出来るようになったりします。
このように物質的な五感だけに目を向けて生活している
場合と、それにプラス五感した合計十感で生活している
場合では物事の感じ方、そこから得られる理解度とか認
識度が変わってきますし、当然人生の手応え、充実度、
生き方も変わってくるものです。
それでは五感+五感の合計十感とは何を言っているのか、
改めて説明してみましょう。私は最初に味覚のことから
説明いたしましたので、再度味覚から説明し直してみま
す。
味覚についての私の体験から私自身の認識を申し上げる
と、味覚には単純な物質的刺激としての味覚と、それと
は別にその食品の持つ生命力というかエネルギーを感じ
ているような種類の味の二種類があります。
通常私達はこの二種類の味を同時に感じております。
同時に感じているには居るのですが、後の方のエネルギ
ーとしての味覚の方は、まるでクラスの片隅にぼっちで
座っている陰キャのような扱いを私達はしがちなのです
よ。
だから居るのは知ってるというか感じているんだけど、
居ない扱いなんですね。
しかし感じてはいるんだから、もう少しこの意識エネル
ギー的な味の方に注意を向けてみましょう。そうすると
実は物質的な感覚としての味覚が強いだけでは私達はあ
まり味覚に対して充実感を持つことが出来ないことが分
かります。
物質的な味覚に片寄っている食品といいいますと、砂糖
をたくさん使用した工業製品の菓子なんかが代表なんで
すが、それらは食べて確かに甘い美味しいとはなるので
すが、なんと言いますか私の体験では本当のところの満
足感に欠けるのです。
なんと言いますか、味に厚みがない。細い。一袋食べて
も必要な満足感に到達しないのでついお腹いっぱいまで
食べてしまいそうになる。それでも十分に必要な(意識)
エネルギーが確保されてない。こんな風に食べてもむし
ろ不足感を感じてしまうので大量消費しそうになる。
営業的にはこれで正解なのかもですが、不健康でありま
す。食べても止まらない依存性が出てきてしまうのです。
意識エネルギー的な方の味覚を意識し始めますと私には
この工業製品のお菓子の味の薄っぺらさがちょっと嫌に
なってきてしまったのです。
そしてエネルギー的にもっとしっかりした、満足感のあ
るお菓子はないのか?と探し始めるようになりました。
いまのところあまり良い報告は出来ないのですが、手作
りの和菓子みたいな方向に行くのかもしれないですね。
スーパーに売ってるようなお菓子は和菓子にしても洋菓
子にしても工業製品ですのでそこまでエネルギーの大き
なもの有るのかな?という感じです。それよりも果物に
注目しています。果物も品による差は大きいのですが、
しっかり手応えのある味のものを感じやすいです。
このように味覚に限って見ても、私の場合味についての
考え方が変わり、食品を買うときの基準や購買行動が変
わって参りました。また、エネルギーの高い食品にはど
んなものがあるのか、トライしてみようという楽しみも
出てきます。
とりあえず量があれば良い、安ければ良い、甘ければ良
いみたいな食事の基準が随分変わってきたのです。
このように味覚一つにしても、食事への認識、理解度、
満足度、行動などが随分変わって参ります。
とりあえず今朝はここまでにします。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚についてはまた後ほど検討して
みましょう。
それぞれの感覚について特徴があります。
私達は色々なことをごっちゃにして理解しているところ
があります。ごっちゃにしながら決めつけて判断してい
るところが多いと思うのです。
125氏はあの世があるならそれを自分にも信じざるを
得ないようにして欲しい、とご希望なのだと思うのです
が、そのご希望は少し微妙だなと私は思います。
なぜかと申しますと私達は物質的世界に住んでおりまし
て、それはいわゆる霊界とは違う世界だと想定されてい
るわけですが、はたしてそうでしょうか?
確かに私達は物質的世界に住んでおりまして今まさに物
質的体験を重ねている最中ではあります。しかしその物
質的体験とは実は半分霊的体験でもあるのだ、なぜなら
私達の五感は物質的感覚と同時に霊的感覚をも感じてい
るのだから、ということを強く申し上げたいと思います。
ふむ。
つい最近、知り合いの住職から説法を聴いた。
お経をあげる、と言う。唱えるとか読むもあるけどね。
ただ読んで声を発するのではなく、過去や未来に思いを馳せてリンクできるように
言葉を音叉のように共鳴させるつもりで、「お経をあげる」のだというような話だった。
まるで>>584 にリンクするような話だと思わないか?
五感は物質的感覚と同時に霊的感覚を感じ取る受容器官ならば、
声を発する、リズムをとって音を発する。
音って何だろうね。
こんばんは。
10日朝6時は満月でした。
私は意識の浄化は満月のイメージを使ってしております。
イメージですから、別に満月が実際に出ている必要は無
く、心の中で満月の清らかな姿と感覚を感じればそれで
いいのです。
しかし、やはり実際に満月を姿をきちんと見ておかない
と、段々イメージが弱々しくウソっぽくなってしまうの
です。
それで満月の日はできるだけ中天の満月を見て、目に焼
き付けるように心がけおります。
残念ながら9月15日の満月は雨天で姿を見ることが出
来ず、8月も確か雲の中でしたから久しぶりの姿を見る
機会になります。
9日夜から満月浄化を始めて、チャクラの浄化と開花を
図りました。10日夜は月のエネルギーを体内に蓄積す
るワークと、過去の意識の浄化を試みました。今回は平
成元年度1年分に取り組んでみました。
過去の意識の浄化については以前にも説明したことがあ
りますが、月の光の浄化と日の光の浄化を試みています。
月の光は満月、上弦、下弦、新月と三つの浄化があるの
ですが、今回は満月浄化です。
結果として今回チャクラの調整も過去の意識の浄化も上
手く行ったのではないかとの自己評価です。
次の機会は18日の下弦の月の日になりますね。
今回の過去の意識の満月浄化は1年分が1時間半かかり
ました。この計算で行くと五種類のエネルギーで最低5
回浄化でワンセットになります。一年分は7時間半、ほ
ぼ一日がかりの大仕事になります。
手帳に浄化の記録ページを作って、何月何日に何年分を
何のエネルギーの浄化したか分かるようにして管理して
おります。先はかなり長いですね。
さて続きであります。
>585
音って何だろうね?
音は不思議です。
私は色々考えてゆきますと、存在とは、意識とは、その
本質は鳴り続ける音のようなものではないのか?と直感
的に感じております。
そこで音について研究しようとスピーカーを買ってみた
のですが大して研究が進まないうちにまず低音スピーカ
ーが壊れてしまいました。次にアンプが壊れてしまって
まだ更新ができておりません。
さて、抽象的な「音」の話は措(お)いておいて、いま
は具体的な聴覚の話を進めましょう。>585はお坊さ
んのお経の話でしたね。お坊さんのお経と申しますと私
もいくつか体験がございますので、一番スレ125氏に
ならってまずその体験からお話しさせて頂こうかと思い
ます。
ただ時間も遅いので日が昇ってからということで今晩は
これで失礼させて頂きます。
最初に断っておくと、俺は125氏ではない別の人。
色の感覚器官・空の感覚器官
感覚器官にもこの2種類があるという話と理解した。
色の器官は分子同士の化学反応を司り、
空の器官は目に視えないエネルギーを受け取る。
面白い。
空の器官でエネルギーをふんだんに浴びて、エネルギー的な骨太の「快」を味わい尽くすのなら、生きることに前向きになれるっていう主張も、そうだろうなと思う。
ただ、俺の個人的な主観は125氏寄りだ。
でも霊界とかは在ると思ってる微妙なところ。
その所感を文字にしてみたらポエムと化したけど、
折角書いたから投下させてちょ。
(>591つづき)
創造神、迷惑なんだよ、( ゚д゚) 、ペッ
勝手に世界も俺たちもこしらえやがって。
頼んでないだろ。
創造神が勝手な思いで始めたこの世界、
本来何の意味もない、生きなければならない義務もない、義理もない、
生きる理由なんてない
肉体の維持機能に追いたてられるまま、こき使われてるだけだな、俺は。
唯物論の言うように
死が消滅であったら、どんなに楽か。
その場合、死は救いであり、解放なんだ。
死は解放となる。
輪廻し、あの世があるのなら
俺たちは死なないと言うのなら
永遠に続く生なんて、むしろ何の罰なんだ
永遠の命なんて、苦痛が過ぎる
疲れる 果てしない
消え去って楽になりたい
生きている責任に潰れる
生という重荷を降ろしたい
死が永久的な消滅であるなら、むしろそうであった方が俺は救われる。
ホッとする。
だが、一方でこうも思う。
分子をいくら集めても
そこから「意識」が発生する気がしない
物と心は別物で、
物を組み立てたところで心が生まれるとは思えない
いくら精緻なシステムを構築しても
内側からの視線(=意識)は生まれ得ない
システム自身は意識を生まない
意識とは別のところからやってきて「宿る」ものだ
物質世界からは生まれ得ない、創り出せない
俺たちが意識を持ち、内側から世界を眺めているという事実、それ自体が、
即ち物質ではない世界が存在することの証左であると思う
意識とはこの世の物ではない
俺たちは、この世の物ではない
俺たちは、物質ではない
>591
こんばんは。
591さんの考えと私の考えは少し違うのです。591
さんは私の主張を、「我々は肉体的な感覚器官と同時に
霊的な感覚器何(霊体の備える五感)を駆動して、それ
らを同時に感じている」と理解されているように見受け
られるのです。
しかし、私の考えは我々の肉体の五感、つまり眼球や耳
や鼻や舌や皮膚は、物理的な刺激と同時に霊的な刺激に
も弱い反応をしている、という認識です。
これは考察しますと、霊的な刺激の中には、大変物質世
界と近い種類の刺激も含まれているのだ、とも解釈でき
ます。
これをまた別な表現を試みますと、みんな大好き「波動」
という言葉を使いまして、「霊的領域には物質的波動世
界と極めて近い波動領域が存在していて、肉体の感覚器
官はそうした波動領域の一部の刺激を感受することが出
来るのかもしれない」という言い方ができると思います。
そして私の実感で言いますと、この霊的な刺激に対する
感覚は物質的刺激と比べますと弱いのでマスキングされ
てしまうことが多いのです。つまり、「目に見えるもの
しか無いのだ」という風に思わされてしまうと、あって
もなかなかその存在に気づけない。
私達は表向き、目に見える物質世界だけが存在していて
霊的な世界は無い扱いの設定になっております。しかし
一方では霊的な世界も在るんじゃないか、いややっぱり
無いんじゃないか?霊的な世界は無いはずなんだけど、
やはりそれでも霊が憑いてる、なんて脅されると怖いで
すし深夜のお墓も怖いものです。こんなふうに霊的世界
の存在に対してははっきりしない態度を維持していてい
ます。
「ある」とはっきり言うと笑われたり引かれたりするか
もだけど、かといって無いものとして押し通して生活す
るには怖い場面がある。
しかも、誰かが亡くなると、いままでほとんど強要されて
いた「あの世はありません」と言う態度をとり続けている
と今度は逆に白い目で見られてしまう。あの世は当たり前
にあります、あの世でも幸せに過ごしてね、とハラハラ涙
を流さないと常識を疑われる。そんな精神分裂のような世
界に住んでいるのです。
考えて見ますと世間の建前である「物質的な世界が全てな
んだ」というモノの見方は、肉体的な目、耳、鼻、舌、皮
膚の感覚という肉体的五官の感覚の世界が絶対だとする立
場に立っております。
一方、近しい人や推しの人が亡くなった時の悲しみ悼
(いた)む心は人の心の素直な部分から出た反応であ
ります。
それは世間の建前には背くのだけれども、それが人と
しての素直な気持ちなのだから、と社会的に理解され
ていて、正当性を与えられております。
でも本当でしょうか?
どちらかが正しければどちらかが間違っているに決ま
ってます。
こんな精神分裂のような態度を取る社会、大人の世界
なんて嘘っぱちだーーーッ。って誰かに反抗されても
仕方ありません。
しかしですね、五官が感じる五つの感覚には実は物質的世
界の感覚成分と霊的世界の感覚成分が混じっているのだ、
というふうな考えに立ちますと、モノの見え方は全く異な
って参ります。
世間の建前は物質的世界の感覚成分に対応した対処の仕方
であり、また故人を偲(しの)び冥福を祈る感覚は霊的世
界の感覚成分に対応したそれぞれ自然な対処の仕方である、
と理解出来るのです。
ただ問題は、私達が自分自身の感覚を素直に信じていな
いことですね。そして色々な場面で、様々な設定によっ
て、感じ方考え方がねじ曲げられ操作されてしまってい
ることだと思います。
私がこのことに気がつくようになったのは、身体の感覚
に意識を向けたからでした。身体との対話ですね。
さて591氏の投げかけた様々な疑問についてここで対
話を始めてしまいますと一番スレ125氏に向けたお話
が途切れてしまいます。そこで591氏のお話はまた次
の機会にすることにいたしましょう。
では失礼。
かなり冷え込んできましたねー
これから鍋の美味しい季節ですが
出来立て熱々が食べられるっていいですよね
ところで、アーユルヴェーダでは出来立てを食べるのが最上とされ、
作り置いたものはプラーナのない生きていない食べ物なので食べない方がいいそうです
単純に腐ったりなど衛生面の問題もありそうですが
確かに出来立てを食べるのと作り置きしたものを温め直して食べるのとでは、同じ料理でも何か違う気はします
>600
こんばんは。結局私が感じているのは「気」の知覚につ
いてのことだと思うのですが、仰るとおりできたての料
理と時間が経った料理では何かが大きく違うかんじがし
ますね。
これは「プラーナ=気」と考えることで良く理解出来る
のではないでしょうか?
作り置きすると気が抜けてしまった料理になる、という
ことだと思います。気、即ち意識エネルギーであります。
結局私達の身体は物質的な刺激に対して化学的な反応を
起こし、様々な変化を生じます。私達の意識はそれを感
じますと、綺麗だ、汚い、美しい、うるさい、良い匂い
だ、臭い、美味い、まずい、すべすべだ、ざらざらだ、
などと感じます。
そうした五官の感覚に対して今度は好きだ嫌いだの感情
が生まれ、いい気分だ嫌な気分だのムードが生じますね。
そうしますと次は、ああしたいこうしたい、ああしなけ
ればこうしなければという欲望や、あれはなんだこれは
何だろうと見たい知りたい感じたい人間本来の好奇心が
湧き起こって参ります。
この物質的な化学変化と同時に、私達の身体は気の変化
に対しても敏感に反応し、また様々な化学変化を誘発さ
れているのではないか、ということです。
私はこれまで物質的世界と意識世界は連続体である。断
絶しているように見えるのは落差が大きいだけで実際は
断絶しているのではなく連続しているのだ、ということ
を何度か申し上げました。
そもそも本当に断絶しているのであれば相互の行き来は
不可能であり互いに感知することは適(かな)わなくな
ります。
ところが実際には、例えば霊能者と呼ばれている一群の
人々がいらっしゃいましてあの世とこの世を結んで人々
の良き相談相手になっていたりします。
また私達自身やその近しい人々が様々な霊的体験をして
いたりするものです。
これはどういうことかというと、本来繋がっているから
通じることが出来るのであって、実際は我々が思ってい
る以上にあの世とこの世は近い関係になるのではないで
しょうか。
つまりあの世とこの世は紙一重、というより重複してい
ると言って良いかもしれません。
つまり、「気」というものを通じてあの世とこの世は重
複しているのだ、そのような理解が出来るのではないで
しょうか?
そして私達の五官は物質的な刺激と同時の気の刺激をも
感じ取ってその感覚を私達の意識に伝えているのだ、こ
のように考えることが出来ると思います。
そう考えますと例えば故人の霊前に好きだったものをお
供えする、などの行為の意味が良く理解出来るようにな
ります。
即ち私達は物質的なタンパク質や脂質、炭水化物などの
持つカロリー、即ちエネルギーを摂取することができ、
それによって肉体を維持しているわけです。
しかしこれらの食品には同時に気のエネルギーも含まれ
ており、こうした気のエネルギーの摂取も私たちの健康
な肉体維持のための必須な栄養素として重要なのだ、と
考えることが出来るのです。
つまり気が満ちた新鮮な素材で調理した、調理し立ての
新鮮な食物を食することが健康維持の一つの重要な要件
になってくるのではないか?ということですね。
ではこの気がどこで入ってくるかと考えますと、まず食
物自身の生命力としての気があります。そして調理した
り、その食材や食に携わる人々の気というものもあるの
です。
こうした両者の気が最高の状態でバランスを保っている
のは、良い食材を新鮮な状態で調理したての料理である、
ということができますね。そうした料理は本当に美味し
くて命を養う感じがするものです。
一方で、良くない材料だったり何日も経って気が抜けて
しまったような料理だと味はあっても本当のおいしさが
欠けています。食事というより餌になっているようです。
こうして気というものを通して食事を見直してみますと、
食材に対しても、生産者や輸送などの中間業務に携わる
人々、そして調理する方々に対してもものの見方が変わ
ってくると思います。
例えば「食べ物に感謝する」といいますが、その感謝の
意味づけが従来とは変わって参りますし、また食に携わ
る生産者、中間業者、調理者全てが幸せな気や元気な気
に包まれていることが望まれてくる、と思います。
社会の在り方にも関わってくることなんですね。
なかなかお坊さんの読経の話までたどり着けないんです
が今晩はこれで失礼します。
こんにちは。
以前は時々ゆで卵を作って保存食的に冷蔵庫に保管して
取り出しては食べる、と言うようなことをやっておりま
した。
600氏のおかげで新鮮な食材を調理後すぐに食べるべ
き、という認識を得たので今日は必要な分だけ(2個)
をゆで卵にして、暖かいうちに食べてしまいました。
お前は食べ物と気について解説しているくらいだから、
そのくらい不断から当たり前にやっているのだろう?と
思われるかもしれませんが、そういうものではありませ
ん。
実は人間の意識の性質を観察しておりますと、理屈の上
では確かにそうなんだけど、具体的に言われるまでは認
識できていない、ということは多いと思います。
これが自分にとって当たり前のことでも、人によっては
言われるまで分からない、あるいは言われても理解出来
ない、というよくある現象になって現れていると思いま
す。
私も食物の気について、考えて見るとなるほど詳しく考
察は出来るのだけれども、ではふだんからその考察通り
の食事を出来ていたかというと全く反対だったのです。
食事と気の関係について認識がなかったからです。
そうしますと、具体的にこれはこうだよ、あれはああな
るんだよ、と一つ一つ手に取るように説明して下さり、
教えて下さる方によって私達は一つ一つ新たな認識を得、
知識を増やしてゆく事になります。
私も600氏が、食事は作りたてを食べるのがいいんだ
よ、と教えてくれたことで食事と気の関係の認識に至り、
今までのの自分の食生活の悪かった部分を認識すること
が出来、新たな知識として早速実行実践することで珍し
く美味しいゆで卵を頂くことが出来た、という流れにな
ります。
食べてみますと、今までしばしば食べていた一週間前に
茹でて冷蔵庫に保管しておいた冷たいゆで卵とは、確か
に雲泥の差なんですね。
なるほどうまさが染み渡る。いわば死んだゆで卵と生き
たゆで卵の差というのでしょうか、ちょっとわかりにく
くて気がつきにくいかもしれないのですが生きる活力が
感じられるんです。
気がつきにくいけれども、この差は大きいのかな?いつ
もいつも気の抜けた死んだ食材を食べているのと、気の
満ちた食材を食べているのではその人の精神や運命まで
違いが出てきそうな感じがあります。
そうしますと私はいままで食事を作る面倒くささを省く
代償に、食事から得られる気、活力を差し出していたの
だ、ということになりますね。あまり割りの合わないト
レードをしていたことになります。
今食べたゆで卵は活力と言いますかね、気が溢れている。
エネルギーがある。エネルギー(気ですから意識エネル
ギーですね)は私の心の状態、意識の状態を変化させ
る能力のことです。どんなに方向に変化させたかという
と心の熱、とでも言いますかね、生きる喜びってでも言
いますかね。
エネルギーは喜びなんですね。食べる喜びですよ。それ
がある。
人生の活力、喜びって、どこから湧いてくると思います
か?
一つは適切な食事や睡眠、運動ですよ。食事や睡眠、そ
して運動によってエネルギーを吸収し循環させてゆく、
この体験が喜びなんですね。
もうひとつは人間関係ですよ。人と人との間でエネルギ
ーを正しく循環させてゆく、この体験がやはり喜びなん
ですね。人と人ですから具体的には親子関係、兄弟関係、
隣人関係、友人(男女関係含む)関係になりますね。
そしてもう一つは自然とのエネルギー循環なんですよ。
つまり、肉体のエネルギー循環、相手とのエネルギー循
環、そして自然とのエネルギー循環、この三つの循環が
滞りなければ人は充実を感じて幸せでいることが出来る
と思います。
これらの循環がスムーズであるためには、やはり多くの
知識が必要になってくるわけですし、そうした知識を教
え合うことは大きな愛の行為である、といえると思うの
ですね。
それはそんな大げさなことではなくて、600氏のよう
なさりげないつぶやきが、すでに大きな愛の行為になっ
て私の前進を促していた、ということであります。
こんばんは。
ゆで卵の続きです。
ゆで卵なんていつでも食べてるようで実は暖かいゆで卵
をたべたのは随分久しぶりです。それまで何も思わずに
食べていたわけですが、今回その食べてみて本当に美味
しいなと思いました。
そしてこのゆで卵を食べたときの食事による意識エネル
ギーがどれだけの間私の意識に変化を与え続けられるか、
観測してみました。そうすると、私の体感では強い変化
を約3時間観測することが出来ました。
その後弱い変化に移ったのですが、その持続時間は四、
五時間程度であったようです。
その後菓子を食べたのでそれ以降の影響の観測は出来
なくなってしまいました。
このような問題意識を持ったことも、意識エネルギー
の観測を試みたこともこれまではなかったことなので
とりあえず報告だけしておきます。
600氏の鍋の話が思わぬ展開となってしまいました。
こんばんは。
意識エネルギー(または「気」)の性質については、実
はあまりにも身近すぎるために私達にはかえってよく分
かってないところがある、と思うのです。
意識エネルギーと名付けるとなにか特別なモノとか、普
通の人にはよく分からない特別な人だけが感知できる私
達とは無関係な霊的な話、というふうに考えてしまうか
もしれません。
しかし実際はそうではありません。
一秒一秒過ぎてゆく日常の中で常に私達が感じ動かされ
て、一喜一憂している生活体験そのものなのです。
ところが日々体験しながら、ただ目に見えない触れられ
ないと言う理由で見過ごされ、気づかれずにきた分野で
もあります。
そして不思議なことに、意識の世界ではたとえ存在した
としても、存在して機能しているだけではダメなんです
ね。存在を認めてもらわないと、始まらないんです。
ですから、意識エネルギー、「気」の存在に気づくとい
うことは、「気づかないモノに気づく」、あるいは「気
づかない存在に気づく」という意識体験である、という
ことが出来ます。
そしてその意識体験、つまり「気」の存在、見えないエ
ネルギーの世界に気づくという体験は、物質文明から精
神的文明へと飛躍してゆくキーとなるでしょう。
なぜなら物資的利害によって組み立てられた現代文明の
価値観のなかに、「心」の価値観を導入することになる
からです。その「心」の価値観とは、より私達の存在の
本質に近く、私達多くの人々の意識体験に裏打ちされて
多くの人々からの納得の得られる価値観であることでし
ょう。
現代文明、物質文明は「知性」文明だということができ
ます。
これは私も以前から繰り返し申し上げてきたところです
し、またこれまで多くの人々によって指摘されているこ
とでもあると思います。
ではそれと対立する概念はというと、「霊性」の文明と
いう言葉を考えることが出来ますよね?しかしながらこ
の地球上にある霊性の文明というものを考えると実際の
ところはどれもなかなか上手くいかなかった、それほど
素晴らしい社会を作れたわけでもなかった、と言えるの
ではないでしょうか?
霊性に注目した社会というと、例えばインドネシアやイ
ンドなどのアジア諸国の文化とか、エジプトやアフリカ
諸国の文化とか、アメリカのインディアンの社会とか、
ケルトやポリネシアの人々の文化などが思い浮かぶと思
うのです。
しかしそれらの社会はあるいは自然の脅威に翻弄された
り、迷信が横行したり奇妙な社会制度が発達したり、ま
たは文明が発達することなく停滞の中に安住していたり
した歴史がありました。
結果として物質文明によって駆逐されていったわけです
ね。
それは「霊性」、即ち目に見えない存在達がおり、その
存在達との交流・交信を重視したとしても、それだけで
は人間の幸せを実現することは出来ないことを示してお
ります。人間の幸せと申しますか、大きく出ればこの星
の幸せですね。この星とその星の上に住む全ての存在達
の最大幸福です。その降伏を保障する最低限の条件がい
わゆる「持続可能性」ということになるのでありまして、
今後も末永くこの星、地球の環境を維持してゆくことが
できるのか?というような話になるのです。
しかしながら、これは本当に最低限の条件の話ですよね。
地球環境を持続させ、あるいはさらに進んでかつてのよ
うに美しく豊かな環境を復元し、その環境の元で人々や
生き物がより幸せに暮らすにはどうすればよいのか?
これが現在の私達一人一人に突きつけられている、集団
としての人類の課題ですよね。
その回答とそのための取り組みとは複雑多岐にわたる、
ということになるのでしょう。しかし実はこれを集約し
てゆくと割と単純に一つの理念に到達するのです。
それはある意味手垢にまみれた言葉のようにも思われる。
でもいくら使い古されて汚れがついたかのように思われ
ていたとしても、実際にその言葉を口にしたり心に思い
浮かべる度に新鮮な輝きを伴って私達の心によみがえっ
てくるような言葉であります。
「愛」ですね。
そこまではいいんですが、じゃぁ「愛」って何?地球に
「愛」?何をしたらいいと言うの?ってなったときには
ハタと困るわけです。
ん?何をしたら良いんだろう?家庭ゴミをちゃんと分別
すれば良いのかな?……なんてね。
そこに思い浮かぶ「愛」のイメージは例のイメージです
よ。
中高校生が夏休みや冬休みの宿題で、環境ポスターを描
かされたりしますが、その時に良く出てくるのが地球を
グルッと取り囲んで人間や動物が手を取り合っているイ
メージがありますね。あれですね。
私だけじゃないですよね?「愛」って何?ってなったと
きに、せいぜいそんなイメージしか出てこない、っての
がまぁ普通なんじゃないでしょうか?
つまり答えの言葉は分かっている。でもその言葉の意味
もなぜそれが答えかも分からない!って状態です。
実はその答えを導くものが意識エネルギー、即ち「気」
の認識なんです。以前、「愛とはエネルギーの交流であ
る」という私の愛の定義のお話をしたと思います。
私は意識エネルギーの循環、あるいは気の循環という認
識を得ることによって「愛」の理解と納得が大変進んだ
のです。その結果どうなったかというと、「愛」が単な
る言葉としての「知識」から「行動」へと進化しました。
霊と身体、目に見えない世界と現実世界、知性と霊性、
これらを結ぶのが意識エネルギーの世界であります。
意識エネルギーが見える世界と見えない世界を結ぶキー
となる、と申しました。
なぜなら意識エネルギーは見える世界にも見えない世界
にも存在して実際この両者を自在に繋いでいると思われ
ます。
ですから意識エネルギーは、何か特殊な能力を持った一
部の人だけの所有物というのではないのです。誰もが実
は毎秒毎分経験しつつある、ただ指摘する人がいないの
で気がつかない、そんな力であるわけです。
ですから1番スレ125氏も、なにも私に見えない世界
の存在を確信させてもらう必要なんてナッシングなので
す。
ご自分で意識エネルギーを自覚し、意識エネルギー体験
を深めてみれば揺るぎない確信に至ることでありましょ
う。
そのために125氏がいままで物質体験だと認識してお
られた体験の中には、実は意識エネルギー体験の成分が
たくさん混入していたのだ、ということを更に実例を挙
げて説明させて頂きたいと思います。
ということで次から聴覚と意識エネルギー体験について
お話したいと思います。では失礼。
こんばんは。
今週は大変忙しくて、なかなか時間を作ることができま
せん。毎日遠方へと行ったり来たりしております。
月曜くらいからは多少落ち着きそうですが、恐らくそれ
までは投稿は難しいのではないかと思われます。
話の途中で申し訳ないのですが、状況報告しておきます。
こんばんは。
昨晩大阪から戻ってきました。某NPO法人を訪問して、
メンバーの皆さんや活動について学んできました。この
法人は10数年前に設立され、障害者の支援や社会の在
り方を良くしてゆくために自分たちの出来る活動をやっ
ておられます。
メンバーの皆さんの心が綺麗なのと、メンバーの人たち
が誰も取り残されずに活動されているのを見ると、ちょ
っと感動するものがありました。
NPO法人という一つの組織の中で、愛の実践が具現化さ
れているさまを見ることができたのです。
というのは、社会的な活動をしたり福祉的な活動をした
りするグループはというと、ともすると中心になる人た
ち数人だけが輝いていたり、グループになじめない人が
いたり、なんだか押しつけがましかったり、なかに一人
二人取り仕切っている人がいてその人の機嫌を損ねては
いけなかったりとか、もろもろ面倒くさい事もあるもの
です。
ところが一泊二日で訪問したこのNPOは一緒に居るとメ
ンバー全員が主役という感じが伝わってくるんです。
何の主役かというと、自分が自身の人生の主役なんだ、
という感じで、指示されたり命令されたりではなくご
自分の意志で動いている、というふうに見えます。そ
れだけ意思疎通がスムーズなんだと思います。見てい
て気持ちいいのです。
この気持ちよさ、そして一人一人の存在が自然な形で
尊重されている状態はどこから出てくるのだろう、と
考えますと、おそらくは彼らの「社会をもっと良いも
のにしてゆこう」という目的意識から出てきているの
でしょう。
この体験についてはまた機会があれば詳しく報告した
いと思っております。
さて、聴覚と意識エネルギーについて、いくつかの私自
身の体験をもとにしてお話してゆきたいと思います。
私達は通常言葉で喋らなければ相手の意志を知ることは
難しいです。
ではその言葉はどうやって学ぶのでしょうか?言葉を知
らない状態で生まれたのに、どうして分からない言葉の
意味が分かるようになるのでしょうか?
人が口から出す音の意味をあれこれと想像してみて、状
況や人の反応から、推理の果てに言葉の意味にたどり着
いているのでしょうか?
私達は当たり前のように言葉を喋っているわけですが、
考えてみるとこれも不思議なことですね。
私達が言葉を学ぶ過程について、多分155スレに書い
たことがあると思うのですが、私自身の小さいときの体
験があります。
というのは私は小さい頃、大人と子供の意識の差異がと
ても不思議で、あまりに不思議なために自分が大人にな
ってゆく過程のことを大人になっても忘れないようよく
観察しておこうと思っていたのです。言葉を覚えること
についても不思議ですから自分自身の体験を観察してい
たわけです。
大人と子供の意識の差異というのは、幼い頃の私から見
ると大人の知識と知恵の量が半端ないので、全く自分と
は違った生き物・存在に思えたのです。そして年を重ね
て身体が大きくなったとしても、果たして自分が周りの
大人のように何でも知って対処できるような存在になれ
るのだろうか?あまりにも差がありすぎるので、とても
将来自分がそのようになれるとは思えませんでした。
今晩はここまでにして次回はまた明日に。
こんばんは。
時間が取れないので少しだけ。
さて、当時子供だった私が大人達が知らない言葉(単語)
を話すのを聞くと、当然辞書に書いてあるような言葉の
意味はわかりません。つまり、ある単語を別の単語を使
って説明するような事はできません。しかしその言葉が
使われているのを聞くと、何となくむずむずするような
その言葉のイメージが湧くのです。
そこでその言葉の意味を母親や父親に聞いてみますと、
別な言葉で言い換えた説明が返ってきます。
母親や父親の説明する言葉(単語)の意味は、たいてい
は私の感じたムズムズモヤモヤを解消してくれるわけで
す。こうして私は少しずつ語彙(ごい)を増やしていっ
て、使えたり読めたりする言葉の数が増えていったわけ
です。
しかし時にはなんか変だなぁ?ムズムズとは違う感じの
説明だなぁと感じることもあります。そういうときはそ
の言葉を自分の中で使ってみることがありました。そう
すると自分としては、「その言葉を説明しなさい」と求
められると難しいのですが、ちゃんと文脈の中で使える
のです。
ですから、意味を言葉で説明する、というのは難しいの
ですが、その言葉の原始的なイメージとでも言いましょ
うか、それはちゃんと理解出来ているのです。そして使
いこなせるのですね。
こうした言葉のイメージというのは、あれこれ考えて思
い浮かぶ、というのではないんです。聞いた瞬間にモヤ
っとして、手に掴(つか)めそうだけど掴めない感じで
イメージが湧いてきます。
それではこのイメージを浮かべる能力はどこから来てい
るのでしょうか?
文脈の中で類推しているのでしょうか?
それとも一種の霊的能力で、言葉を発する相手の意識が
伝わってきているのでしょうか?
私はどちらでも無いと思います。
文脈の中の類推でない理由は、文脈と言うには足りない
ほどの短い言葉、話を耳にしても同じような現象が起こ
るからです。
相手の意識を読んでいるのではない理由は、私は本当に
相手の気持ちに鈍いところがあったので、相手の意識が
伝わってくる現象とは考えにくいのです。
これに関しては、私は万人が持っている普遍的な能力で
はないか?みんなが持っていて、人が言葉を覚えるとき
の必須の能力なのではないか?と考えています。
つまり、人は霊能力を求めなくても、五官の感覚、この
場合は聴力なのですが、通常の聴力と発声で、言葉を介
して意識エネルギーをやりとりしているのではないか?
言葉を覚える、という誰もが経験した現象は、その一つ
の事例なのではないか?と思うわけです。
今日はここまでにして、明日は声と意識エネルギーの、
別の事例を説明します。
こんばんは。
ちょっとまだ忙しいので落ち着いて書き込み出来ないの
ですが、とりあえず報告しておきます。
前スだったかでご質問のあった、意識の浄化を図るのに
月の呼吸は有効なのか?という問題についてのご報告で
す。有効だと思うので実験の結果は後ほど報告します、
と以前お伝えしていました。
また、途中経過として、上手くいっているように思う、
と経過報告を入れたと思います。
>642
前ス→このスレの174氏
過去のテープを月日指定するだけで実際にその時の意識
を浄化出来るのか、と言う内容でしたね?イエスです。
これは、一昨年初夏頃からだったでしょうか、意識の浄
化に取り組み始めました。それ以来週に何回か時間を作
って月の呼吸と太陽の呼吸での浄化作業です。
ところがそれだけでは意識の表面は浄化出来ても内面の
浄化までは難しいことに気がきました。そこで意識の中
の過去の記憶を「意識の記録テープ」としてイメージし
てそのテープの浄化を図る、と言う方法を考えたのです。
それで、一年分のテープをクルクル回しながらを30分
から一時間ほどかけてイメージの月の浄化の光や太陽の
浄化の光やらを当てて綺麗にしてゆきます。
またこの応用で、チャクラの浄化もしてみました。
その結果なんですが、まだ過去十年分くらいの浄化しか
手を付けてないと思いますが次のような効果を体験して
おります。
①エネルギーの送受信中に雑念がなく集中できるように
なった。
②相手に対して否定的な心の言葉や怒りの心の言葉があ
まり湧かなくなった。
③たとえ否定的な心の言葉や怒りの言葉が湧いたにして
も自分で心の中で距離を置いて見ることが出来るように
なり、それらの言葉に支配されなくなった。
①②③どれもとても大きな変化だと思っております。詳
しくは後日説明します。
では失礼。
こんにちは。
満月の度に何かが更新されてパワーアップしているよう
な実感があります。今回の満月でも送信能力がかなりア
ップした感覚です。
前回、能力者の方に相談したときに、送信能力を100
倍アップする必要がある、と言われました。単純に計算
すると3倍アップを4回ほど繰り返して81倍なので、
当面これが目標です。それで、多分前回能力者の方に言
われてから今日までに3倍程度のアップに成功したと思
うので、また近々確認に行こうと思っております。
なにが能力アップのきっかけになっているかというと、
やはりものの見方の小さな変化だと思います。
空間というのは隔てるものだ、とか、力は外から吸収す
るものだ、とかの思い込みを少し変えてみて、空間があ
っても存在と存在は本当に隔たっていないといけないの
だろうか?(いやそうではない)。などと考えて送信し
ますと送信能力がアップしています。
力は外から吸収しないといけないものだろうか?(いや
そうではない)。と考えて内からエネルギーが湧き上が
ってくるイメージで送信しますとやはり送信能力がアッ
プしているようです。
で、ちょっとまた横道にそれた話になってしまうのです
が、エネルギーワークの実践をしておりますと意識のエ
ネルギーについて考える機会が多くなりました。私達の
意識、心とは何か、我とは何かと考えていきますと、結
局それは「我在り」というエネルギーの活動なんですね。
それではそのエネルギーは具体的にどう働いているのか
というと、我々の意識体の中にエネルギーは蓄えられて
いるわけですよ。食事や睡眠、人や自然との接触などに
よってもエネルギーは蓄えられていきます。そのエネル
ギーは形を持ち、目的を持って外部に放出されます。
エネルギー自体は本来は形がないのですが、放出される
ときには何らかの目的を持ち形を取ります。
そこはどのようになるかと申しますと、人が言葉を思う
ことによって目的を持ち形を取って放出されるわけです。
言い換えますと、人の思いの言葉はエネルギーに目的と
形を与えて放出する行為である、と言えるのですね。
人は常に心の中で様々な言葉を呟いているものです。子
供だろうと大人だろうと、心の中が静かな人は案外少な
いと思います。つまり子供だろうと大人だろうと、常に
人はエネルギー放出してる事が多いのです。
さてこれが、「言葉の力」の本質であろう、と私は思い
ます。
仏教の八正道では「正語」という言葉があるのですが、
まず人は己の心の中で正しく呟くこと。いやそもそも呟
かないことを学ぶべきではないでしょうか。
実は心の中でいつも誰かと戦って言い争ってやり込めて
いる人も少なくないんです。まず心の中のそういう争い
の想念、心の中の争いの行為から離れることが大切でし
ょう。
「言葉」とはエネルギーに形と方向性を与えて放出する
力であり、行為である。そのように考えられるのです。
そして心の中のつぶやきを少なくし、滅してゆくには、
心の浄化が有効ですよ、ということを申し上げておりま
す。まぁ心の中のつぶやきを滅するのは積極的な方向性
(というか動的な方向性)と消極的(というか、静的)
な方向性の二つがあるのですが、浄化は静的な方向性の
手段です。月光浄化、日光浄化については上で説明いた
しました通りです。
さて私事になるのですが、今後直接人と会って語り合う
機会が増えてゆくだろうということを申し上げておりま
した。実際10月に入ってからそういう機会がとても増
えました。
実は明日も東京へ行って人と会うことになっております。
人とのつながりを増やすサイクルに入っているんですね。
そしてこれが私の今のテーマの一つである「平等心」の
追求と理解にも大いに役立ってくれるのです。
いずれ差別心と平等心(これが文明の乗り越えるべき壁
なんですが)についても語る機会が来ると思います。
今日はこれで失礼します。
こんばんは。
金曜、土曜と今一緒に勉強している学生と一泊で八王子
を訪問して参りました。目的は八王子にお住まいのMさ
んに顔つなぎしてお友達になることです。
Mさんは三十年ほど前に家を飛び出して八王子で生活を
始めたのですが、脳性麻痺の障害があります。田舎で親
に面倒を見てもらう生活から一転して始めた一人暮らし
には、まだ障害者には優しくなかった時代ですから本当
苦労があったようです。そんな苦労は分かったうえで、
それでも親に養われるままの生活のには未来がない、と
見抜いて真剣に悩んで飛び出したのですね。
先月は大阪のMさんとTさんを訪問しました。彼らは脳性
麻痺ではないのですがやはり障害を抱えています。しか
し八王子のMさんも、そして大阪のMさんやTさんも、自
分の周りから着実に社会を変えてゆこうと活動されてい
る方なのです。実際にその活動はゆっくりとだけれども
確実に社会を良い方向に変えてきているのです。
その一つがバリアフリー活動です。いまは様々な建築物
や公共施設で当たり前になってきたバリアフリーの考え
方、段差の解消や駅などでのエレベーター設置の推進で
すね。
今回の旅行でもお年寄りやベビーカーを押すお母さんや
など多くの方が駅のエレベーターを利用していて行列が
出来ているのを見ました。こうしたバリアフリー化は一
つは高齢化社会への対応として進められてきた面もある
のですが、障害のある当事者達が交通事業者や行政と交
渉の場を持って五年、十年、時にはそれ以上の時間をか
けて何度も強力に要請してきた結果でもあります。
そうした努力と執念が、「お金がかかる」として消極的
だった事業者の態度を変えてきたのですね。
最初は事業者側には「一部の障害者のためだけになぜこ
んな投資をしなければいけないのか」という意見の人も
いたようです。そう考える気持ちもわかります。
もちろん、「障害のある人にも使いやすい交通や施設で
あるべきだ」と考える事業者側の人もたくさんいたわけ
です。
しかし事業は利益を出すことが求められます。利益を出
すどころか、一見すると手間とお金が飛んでゆくとしか
思えないバリアフリー化はなかなか事業者側が決断する
までには時間がかかったようです。
「障害者が我が儘言っているだけだ」というような意見
もあったようなのですが、しかしエレベーターができあ
がってみると決してそうではなかったことが明らかにな
ってきます。足腰の弱い方やベビーカーの方はもちろん
ですが、特に女性にとっては大荷物の時に喜ばれる設備
でした。
結局、障害者に優しくすること、障害者も健常者と同じ
ように社会の一員として普通に暮らしてゆけるよう気を
配り社会を整えてゆく事、それは社会全体が快適なもの
になることに繋(つな)がっていたんですね。
これは大変興味深い事例であると思います。
いわゆる社会的弱者を大切にする、ということは社会全
体にとってもとても大切な事ではないでしょうか。
社会的弱者というと、乳幼児、お年寄り、障害者。最近
はLGBTとかも入るのでしょう。
LGBT運動には拒否感を持つ人も多いと思います。
物事には光の面と闇の面がありまして、まぁ闇ではなく
てせめて陰くらいにして欲しいんですが、LGBTにもそれ
をお金や地位の手段にしようとしている人たちもいます。
そんな輩(やから)には私もやだなぁとは思います。
しかし素直に考えて見ますとLGBTで何がいけないんです
か?と私は思います。
ホモでもレズでもバイセクシャルでも別にいいじゃない
か人間だもの。
それで乳幼児やお年寄りを大事にする社会というのは普
通にこれまで私達が培ってきた文化だと思うんですが、
実は障害者に目を向けるようになったのは比較的最近の
ことなんです。具体的に言うと1970年代以降、障害
当事者が社会に向かって声を上げ始めたのです。かつて
無かった挑戦でした。
それまで障害者がどれだけ差別されてきたか、というこ
とですね。
日本社会の差別問題には部落差別と並んで障害者差別が
大きな問題として長い間あったのです。部落差別の問題
は大正の時代に全国水平社が結成されましてすでに百年
を迎えております。この間強力な差別反対運動を実施し
てきて、全国の生徒さんは必ず人権教育を受け人権作文
を提出します。この人権というのがいまはいじめ問題を
テーマにすることも多いようなんですが、少し前までは
部落差別問題のことでして、障害者差別の問題は顧みら
れてなかったと思います。
障害者に対する差別心は全くないという人も多そうです。
しかし差別心はあるけれど認めたくない人も多そうです
ね。
私はと言うと差別心はありました。脳性麻痺の人を見る
と気持ち悪いと感じていました。
五官の感覚で見れば動きは変だし言葉は言葉になってな
かったりしますし、中にはヨダレを垂らして平気な人も
います。
そうすると心はそれを気持ち悪いと受け取るのです。
学生の頃に通学路の路上で道具を広げて脳性麻痺の人が
仕事をしておりまして、そこを通る度にちょっとあの人
避けたいよなと思いながら歩いていました。
それは五官の感覚だけで判断していたからです。
もしその人とお話しする機会があれば、五官の感覚だけ
の判断ではなく、五官を通しての意識エネルギーのやり
とりが始まりますのでその人の本質、即ち人柄や魂を感
じることが出来たでしょう。ですからその人のことを嫌
だな避けたいという気持ちは起きなかったかもしれませ
ん。逆に友達になりたいと思っていたかもしれません。
もっとも相手の本質を感じてもっと気持ち悪いと感じて
しまった可能性もあるわけなのですが。
こんにちは。
ちょっとまた脱線するんですが、先ほど昼食を作ろうか
なと思っていたときにこんな句を得ました。
百年千年一瞬の間
(百年も千年といっても、目を一回瞬(またた)く程度
の時間に過ぎない)
万年億年欠伸に過ぐ
(一万年とか一億年と言っても意識・魂にとっては口を
大きく開けてあくびをして手を挙げて大きく伸びをする
程度の時間だ)
少年老い易(やす)く老年は過ぎるに疾(はや)し
(ブイブイいわせていた若者もすぐに足腰の弱った老人
となってしまい、その老人に許された時間もアッという
間に過ぎてしまってこの世とはおさらばだ)
生まれ生まれ生まれ生まれて死に死に死に死に
(何度も何度も何度も生まれては死にの輪廻を繰り返す)
只暫時人間に身を潜めんと欲す
(まぁしばらくの間だけ、地上界で人間生活を楽しんで
みましょうか)
これは何だろうと思ったのですが、漢詩のようであって
絶句でも律詩でもないですね。韻律だってちょっと合っ
てるのかなと思うところもあるけど後半なんて絶対合っ
てないと思います。
私の漢文漢詩の知識は大学受験生程度ですのです。いく
らインスピレーションを送ってもらっても受け手の知識
が低いのですからまぁこんなもんでしょう。
それでどっかで見たような文句もたくさん並んでいるわ
けですが。
しかしその意味といいますか、詩句の作者のものの見方は完
全に違います。
例えば元ネタの「少年老いやすく学なり難し」という言葉は
仏教的な無常観を下敷きにして、過ぎ去った年月や二度戻ら
ない若さへの、若さの無駄遣いを哀惜(あいせき:悲しみ惜
しむこと)する表現として知られていると思います。
ところが上で得た句は全然違います。そもそも人生なんて、
魂・意識にとってはアッという間に過ぎてゆくものなんだ。
地上に居る時間はそれほど短いものなのさ。それが当然で
当たり前なんだ、って言ってます。
そして元ネタで言うと、人生は短く貴重なんだから、一
瞬も休まず勤勉に努力して目標達成!って方向性なんで
すけど、上の句は違います。まぁモチツケ、魂にとって
は一億年だって背伸びする程度の時間じゃないか、あく
せくするのが人生じゃないぞ、って言うんですね。
なんで急にこんな句が浮かんできたのかしらと考えてみ
ると、どうも老荘系の方(方々?)が新たに指導霊団に
加わるようです。それで挨拶でこんな句を送ってきたよ
うです。
「生まれ生まれ生まれ生まれて」という句も元ネタは弘
法大師空海作の割と有名な漢詩でして、その詩の最初の
句は「三界の狂人は狂せるを知らず」で始まる割と陰な
詩なんです。読んでいると身体や心が固くなりそうな詩
です。
ところが上の老荘の方の句は同じ句を使って全く違った
方向性を示しております。フラットな感じの陽?って雰
囲気ですね。読んでみると弘法大師の詩とは違って、そ
んなに固くならないで心と体をまずほぐしましょう、っ
て感じであります。
同じ言葉、句であっても、心の持ち方、見方によって意
味や方向性が全く違ってくるのはおもしろいですね。
そしてモノの見方が大切だ、というのは実はこの点にあ
ると思います。モノの見方とか心の持ち方というのは、
私の立場から言えば実はすでに結論・結果を含んでいる
んです。
生まれ生まれ生まれ生まれるという事実は一つ、更に申
し上げれば世界は一つなのですが、それを見る人の見方
によって、仏教的な立場の弘法大師の見方と老荘の方の
立場の見方は全く異なり、そこから出される結論も違っ
てくるのです。
片一方は「諸君!目を覚まして物事を正しく理解せよ!」
だし、
もう片一方は「モチツケ。一発欠伸でもして背伸びでも
してみようぜ」ですからね。
どうしてこんな句が浮かんできたのかというと、魂の年
齢について調べていたのがきっかけです。
私の教え子に、性格は悪くはないのですがどうも道理の
理解力の表面的な子がいます。話していると物事の理解
が表面的で内面的な深さが足りず、原因と結果のつなが
りの理解が思いつきレベルです。
「これはどうしてですか?」「これは○○という理由が
原因だと思います」
「どうしてこう(先ほどの「これ」と同じ内容)なん
ですか?」「それは○○が原因(先ほどの○○と同じ)
だと思います」
「これはどうしてですか?」「○○が原因だと思います」
「これは何でですか?」「○○が原因だと思います」
と言う具合に、同じ問題についての会話を六回くらい繰
り返しました。六回くらい、原因についての私の考えを
繰り返したのですが、その時は彼は理解出来なかったよ
うです。彼自身が自分で回答を持っていたので私の考え
を受け付けられなかったというよりも、恐らく因果のつ
ながりが良く理解出来なかったようです。
これは不思議なことだなぁ。原因は何なんだろう?ひょ
っとして彼の魂が若すぎるのではないかしら?
こう思って彼の魂の年齢を訊いてみました。そうすると
七千万年くらいという答えでした。
魂にも年齢があるのかというと、私はあると思います。
存在についての私の考えは前に申し上げた通りですが、
存在とはそもそもが意識です。その存在はある意味自己
というものについて無意識状態なのだけれども、あると
き「個」に目覚めるわけですね。「それが我在り」の想
いです。
「我在り」の想いはやがて存在としてしっかりしてゆき
魂を作るまで成長してゆきます。そして物質世界と非物
質世界の間で輪廻転生してゆくようになるわけです。
ところが魂が成長してゆきますと、分裂することも可能
なことに気がつきます。あるいは新たな生命を創造する
ことも可能なことに気がつきます。つまり魂の系統が生
まれるわけです。霊統ですね。私の考えではそうなりま
す。
そうしますと魂がどのような成り立ちで生まれたかはと
もかく、生まれた瞬間があり年齢があることになります。
そこで彼の魂の年齢を訊いてみたわけですが、それが7
千万年という回答でした。
この7千万年って長いのか短いのか。もちろん、「人類
の祖先は○百万年前の猿人」とかいってる人達からした
ら十分長いでしょう。しかし私はスピリチャリストです
からね、そう長いとは思えません。たった7千万年かぁ、
そりゃ仕方ないね、って感じです。
さてそこで今度は自分の魂年齢が気になってくるのは人
の常ですね。もちろん訊いてみました。そうすると、百
億年以上らしいのです。
ではこの百億年って長いのか短いのか。
「無尽蔵」っていいますけれども私の魂には百億年あま
りの分の経験しか蓄えられてない、と考えるとたいした
ことが無いような気がします。百億年の間セッセとあら
ゆる事を極めてきたとしていたならば、きっともっとデ
キるヤツになってたはずです。百億年遊んでたのではな
いか?
そんなことを考えていると浮かんできた句が先ほどの漢
詩のような句なのです。
百億年だろうと千億年だろうとあくせくすることないぞ、
自分のペースで歩け、ってことでしょうか。
さてそれではこの百億ってどの程度の話なの?百億年の
道理を弁(わきま)えた人ってどのくらい居るの?って
のが気になって参ります。
そこで現代日本人の魂で百億年以上の魂年齢の人はどの
くらい居るかを訊いてみたのですが、ほぼ4分の1くら
いなのだそうですよ。
そういう話だいすこ。魂の年齢と霊格レベルを説明するってスレ思い出した。
そこでは魂年齢をざっくり区分してるんだが、若い順に
①乳児期→②幼児期→③若年期→④成人期→⑤老人期→⑥超越期→⑦無限期
と呼んでた。
内容的に155氏の人称意識段階ともある程度対応するように感じる。
俺の勝手な予想だけど、それぞれ
①一人称→②二人称→③三人称→④四人称→⑤五~六人称→⑥七~八人称→⑦九人称
くらいじゃないかと思ってるんだがどうだろう。
>678
人称意識の概念とどう対応するのかと言われると、さあ
どうだろう?となってしまうのですが、やはり魂年齢と
ものの道理の理解度はある程度比例するように思います。
それは私の周りの人々の魂年齢を訊いてみての感想です
ね。亀の甲より年の功ってヤツでしょうか。
例えば魂年齢が62億年の人だという方は、周囲の人の
人助けに熱心でした。ただその周囲の人達が具体的に解
決に向けて前進できているのかどうかというとちょっと
疑問です。具体的な解決とか前進というよりも一緒に熱
く怒ったり嘆いたり諭(さと)したりする感じですかね。
そうしますと周囲の人達は大変元気をもらえるようです。
また魂年齢が52億年という方は常識的な善人でした。
人に迷惑をかけず、他人の悪口は言わず、コツコツと努
力して、といったような人生を歩んでおられます。
同じ52億年という方は駆け引きに長じておりました。
他人に自分がどう思われるか、自分をどう思わせるか、
一対一の関係性、つまり二人称意識ですね、それを突き
詰めるような考え方をいつもしておられます。その方は
支配階級で生まれて実績を上げられた過去世があるよう
なんですね。
そしてこの方の現在のテーマは、「あまり恵まれない容
姿で生まれてどうやって相手を心から自分に夢中にさせ
るか」ってことなんですよ。もちろんご自分の自尊心を
1ミリも損なうことは許されません。なかなかハードな
テーマのようにも思えますね。
この方はLINEの応答の一字一句にも気を遣い、相手の気
を読んでどう誘導するかいつも考えています。話を聞い
てるとへぇ、そこまで考えてるのか、駆け引きのプロや
ん!って思えますね。
で、昨晩はこの方に呼ばれて「失恋したから来い」って
いうのでご自宅に参上してどういういきさつだったかの
説明をしてくれるのをコタツで肘(ひじ)つきながら聞
かせてもらってきたわけです。
それによるとLINEで自分を好きかどうかはっきりしろ、
って相手に迫ったようなんですね。
相手の方は自分の初めてを捧げた方ですよ。どの男性も
自分が処女だとわかると「二十歳を過ぎて処女はきつい
わ」などと言われるものですから求められるままに捧げ
たそうですよ。
真面目な男性がそんな話を聞くと、「そんなつまらない
男の言い分に乗るなんて!」とか憤慨するかもしれない
んですが、実際はよくある話なんですね。
どうしてかというと、これは深く考えてみないと納得で
きない話だと思うんですが、そもそもが男女が結びつい
て安定するというのが予定されているからなんですよ。
つまり男女という性が分かれた、つまり一つの存在のエ
ネルギー(空=0)が陰陽の二つの存在のエネルギー
(1+(-1))に分かれた瞬間から元の空、即ち合体
へと向かうのは当然なんです。
合体と申しましても肉体の合体、エネルギーの合体(融
合)、意識の合体色々あるようです。それら全てをひっ
くるめまして少し広い意味でセックスと申し上げましょ
う。
そうしますと大変面白いと思うのは、極めて物質的我欲
的な考えをする人達の生きる目標は上手いもの食べて美
男美女とセックスすることらしいですよ。ところが誤解
を恐れずに言えば、スピリチュアルな立場に立ちまして
も気の高いもの(美味しいもの)を食べまして素晴らし
いセックスをすることは超重要であると言える、という
ことなんです。
このように表面的にはとてもよく似ているのです。
ところが我利我欲の人々の求めるものと、スピリチュア
ルな人々が性や食に求めるものは根本的な違いがあるの
ですね。
私はその違いは肉体に関する見解の相違だと思います。
つまり我利我欲の人の肉体に関する見解は、「これが全
てであって、自分そのものであるのだ」とする見解では
ないでしょうか?
しかしこの見解は肉体というものをすごく限定して一番
肝心な部分を無かったことにしてしまう見解であると思
います。
私の肉体についての見解は「幽体や霊体などと同じよう
に「我」という存在の容れ物であって、「我」が物質世
界での体験をすることを可能にしてくれる乗り物なのだ」
というものです。
だから我利我欲の人の肉体に関する見解と、私やスピリ
チュアルな立場の人との見解の差は、結局は「我」とは
何か、という見解の差だと思います。
つまり「我」「自分」とは何か。それは物質的な、目に
見えなくなったら消滅するもの、目に見えている間だけ
存在するものなのだ、と限定するのが我利我欲の人の見
解なのではないでしょうか。
もちろん私の見解は「人が死んで目に見えなくなるのは、
単に物質的世界から半物質的世界や非物質的世界に移動
しただけであって存在そのものが無くなることはないの
だ。転居したに過ぎないのだ」というものですね。
この見解の違いから生まれてくる差は大きいです。例え
ば物質的見解の我利我欲の人だと、セックスに求めるも
のはその場の興奮だったり刺激だったりしますね。
ところが生命の永遠性を信じる人だと、セックスを全く
別の種類の体験として捉える可能性があるんですよ。そ
れがエネルギーの交流です。
そしてエネルギーの交流が起こると何が起こるかという
と、次の三つが考えられるのです。
一つはエネルギーの安定です。
二つ目はエネルギーの増幅・強化です。
三つ目に、可能性としてエネルギーの創造が在りうるの
ではないか?
三つ目は私としてはまだ予想にしか過ぎませんから実証
できるものなら実証したいのですが、そのためにはまず
お相手を探さないといけないですね。募集中なんですよ。
人は本能が有りますので、誰しもセックスに惹かれない
ではおれないはずです。中には過去世からの厳しい修行
の結果本能に対する欲求がそもそも湧かない、という人
にも逢ったことがあります。
ところがこうした本能を脱却した人が聖人なのか、みん
なにお勧めなのかというと、実際は全くお勧めできませ
ん。一見、本能に動かされないなんて、へぇー凄いな憧
れるぅってなりそうなんですけれども、実際にこの物質
世界にそれを落とし込んでみるととんでもありません。
憧れるようなものではありません。
この話は以前にも少ししたと思いますし、又機会があれ
ば改めて詳しくお話します。
結局この世を生きてゆくに当たって、(そしてあの世で
も同じと思うのですが)健全な本能は必要ですし祝福さ
れているんだと思います。
それは健全な魂の発展、社会の発展に不可欠なんですね。
だから過剰な本能分野の抑圧は本当に危険だと思ってい
ます。
そうしますと、まぁ理想としては素晴らしい理解し合え
るお相手と出会ってそこで初めての契りを交わすってい
うストーリーもよろしいのですが、現実の三次元物質世
界は手探りで体験してゆく世界です。まず体験したいと
いうのも十分すぎるほどアリだと思うんですね。
そういうわけでこの女性も相手が求めるままにまあいい
かと、幾分の躊躇と期待をこめて初めての関係を持った
わけです。
ところが関係を持ってみると意外な心の変化に驚いたそ
うです。なんといつの間にか彼のことが大好きな自分を
発見したそうです。
こんばんは。
いろいろと忙しいので今晩もあまり投稿はできません。
明日には上の続きを投稿できると思います。
さて少しだけ。今レベル上げにいそしんでるんですが、
どうも自己評価では上がりすぎのようなので、また霊能
者さんに確認に行く必要がありそうです。
霊能者さんと言えば先月必要があっていつもの方とは別
な人にコンタクトをとりました。チャクラについて見解
を得ましたのでいつもの霊能者さんに会った後、一緒に
説明したいと思っています。
昨日、一昨日と投稿しようとしたのですが、何となくま
るの日圭さんの「ヘミシンクとミディアムな暮らし」を
見たくなって読み込んでいました。
私は彼のブログの中の「狐」氏との問答が好きなので時
々そのために読んでいたのですが、今回は10年程前の
少し古い記事の中から高次意識との対話の部分を読んで
みたくなったのです。
そうしますと以前はよく分からなかった高次意識体の話
が大変よく分かるようになっておりました。
では出かける時間になりましたので失礼します。明日の
晩、若しくは明後日早朝に投稿します。
こんばんは。
怪我で入院している母親を見舞いに行ったついでに、例
の霊能力者さんに連絡を取ってみました。予想通り時間
を取って頂けたのでますこの件を軽く報告します。
今回例の霊能力者さんに会って確認したいのは二点です。
一つは前回9月22日にお会いしたときと比べて、自己
評価では送信出力が三倍増くらいしているのですが、こ
れが霊能力者さんからはどう見えるか?
同じように見えているかそれとも私の自信過剰なのか?
二つ目は浄化の話です。以前少しここでもお話したと思
いますが、この二ヶ月の内に何度か月の浄化に挑戦して
みたわけです。
意識の中で大きなレンズを想像して月のエネルギーを集
中し、意識の汚れを光で浄化してしまう、というやり方
をお話したと思います。私の考えではやり方は矛盾して
なければどういうやり方でも良いと思うので、その時々
に様々なやり方を工夫しております。その時はレンズで
光を集中する、という方法をやってみたわけです。
その時に浄化対象にしたのは私の七つのチャクラでした。
七つのチャクラをそれぞれの場所にある水晶の玉のよ
うな、玉の形をしたエネルギー、と想像します。
そうしますとその玉が透明になっていないので、透明に
なったと感じるまでビームを絞って表面を綺麗にしてい
ったり玉の中を綺麗に透明にしてゆきます。
こうしたやり方で七つのチャクラ全てが透明になった、
という感覚が得られるまで浄化をやってみたのです。
それまで私のチャクラは機能不全気味でして、例えば第
七チャクラなどは大変大きく開いている、と師匠から言
われていたのですが他のチャクラは色々だったのです。
後ろの人に訊いてみると、特に第一チャクラ、第三チャ
クラ、第五チャクラがあまり機能していませんでした。
そしてチャクラが一つ完全に開くには通常5年10年か
かる、などと師匠には言われていました。そこで呼吸の
エネルギーワークの時にもそれらのチャクラをできるだ
け意識してワークをするようにしておりました。
しかしいつまでもこの状態ではいけないな、と思いまし
て、よしチャクラを全開できるような状態に整備してお
こうと決めたのです。そこで月の浄化の呼吸でチャクラ
の浄化を始めたわけです。
その結果、数日のワークで全てのチャクラの浄化を完了
できた感覚がありました。
その後チャクラをイメージしてみて何となくまた曇りが
あるな、と感じるとそのチャクラをまた月の浄化の呼吸
で光を当てクリアな感覚になるまで続けてみる、という
ことをしていたのです。
自分としてはこれで多分必要なときには各チャクラを全
開で使用できるようになっているだろう、と考えていた
のです。
しかし単なる思い込みかもしれません。そこで私のチャ
クラの状態が霊能者さんからはどう見えるか、確認した
かったのですね。
ところが数週間前に別な霊能者さんとコンタクトを取る
機会が出来ました。それは私の元教え子(>680 辺りの
話題の人とは別人です)が失恋で毎日泣き暮らしており
まして元の鞘に収まるにはどうしたらよいか、霊能者に
訊きに行くって言うので同行したのです。
元教え子ちゃんはカウンセリング費用8千円にびびって
います。月末なのであまりお金がなかったんですね。そ
こで、私も一緒に行って半分費用を負担するから、一つ
その人に質問したいのだが、と尋ねてOKをもらったので
す。
もちろん私の聞きたいのはチャクラの状態の件ですね。
百%フル稼働できるかどうかを確認したいのです。
ところが念のため道中密かに後ろの人に訊いてみますと、
その霊能者さんでは正しい答えは出せない、と残念な内
容の通信をされてしまいました。
こんばんは。
ちょっと読んでいて話がややこしくなったらいけないの
で、ここで霊能者さんに名前を付けて区別しておきまし
ょう。私が何度か状態の観察をお願いしているいつもの
霊能者さんを霊能者Rさんとしましょう。そして今回教
え子ちゃんと向かっている霊能者さんは占い師をしてい
るので霊能者Uさんとします。
さて、私の通信によればこれからお会いするUさんは私
のことを正確には判断できないというのです、それでは
霊能者として問題があるのか?というとそういう問題で
はないのだそうです。
よくわからないまま霊能占い師Uさんのところに向かい
ます。暫く車で走って目的地に到着し、先約の方の鑑定
が終わるまで待ちます。10分ほど待って先約の方が終
わったのでいよいよ教え子ちゃんの番です。占い方法は
タロットカードを使ったものです。私は時間はかからな
いので後で良いです、先に教え子ちゃんを時間をかけて
鑑定して下さい、とお願いしました。
別室で待っているといつしか教え子ちゃんが泣き始める
声が聞こえました。アラアラと思っているうちに4、5
0分ほど過ぎて彼女の鑑定は終わり次は私の番です。
さあ貴方は何を聞きたいのかしら?というUさんに私の
目的を告げます。私のチャクラは100%機能するよう
になっていると自分では思っている。だが、実際のとこ
ろどうだろうか?占って欲しい。そう聞くとUさんはあ
きれたような顔で私を見て「そう来たか」と言いました。
そして実は自分は霊能力を使って占うのは10年ほど前
に止めている。なぜなら負担が大きいので。今はタロッ
トカードを使っている。これなら負担は少ないのだ。し
かし貴方の頼みは霊能力を使わないといけない、と言う
のです。
へぇ?そんなもんかね?タロットでも問題ないと思うの
だが?と私は不思議に思いながら聞いています。彼女の
話だと、時々チャクラのことを気にして聞いてくる人は
他にもいるのだそうです。
彼女は私を立つように促して両手を広げて頭の両脇から
私の身体の周りを手でなぞるように動かします。そして
うん、開いてない、と確認するように言いながら両手を
両肩に沿って下に降ろしててゆきます。
そして次の瞬間突然「ハートのチャクラが開いている!」
と驚いたような声を挙げました。
そして彼女は「開いてる!開いてる」「愛のチャクラが
開いてる!」とまるで子供がはしゃいでいるかのようで
す。「これは貴方が彼女を連れているからよ」「彼女の
ことをとても愛してるんだわ」「ええわかってるわ。嫌
らしい意味でなくて純粋に愛してるのよ」と喜んで教え
子ちゃんのところにも報告に行ってしまいました。
さてこれでお察しですね。きっとこれまで彼女に僕は私
はチャクラが開いてますかと尋ねた人は何人か居たこと
でしょう。でも全員討ち死にしてるに違いありません。
突然「貴方の教師はチャクラが開いてるのよ」とUさん
から報告された教え子ちゃんも、何のこっちゃと戸惑っ
たことでしょう。きっとチャクラなんて言葉は知らなか
ったでしょうからね。
しかし私は「なーんだ」って思って彼女のはしゃいだ言
葉を聞いておりました。Uさんの言う通りだとすれば、
これでチャクラが開いてるっていうわけか、なんだチョ
ロい話だな、って思ったのです。
いやいや、これが愛のチャクラが開いた状態だというの
なら難しくもなんともない。世の中の人はみんな愛のチ
ャクラ全開にすぐなれるやーん、って感じたからですね。
普通に親しみを持って人と付き合う、その人のためにち
ょっと動く、決めつけない押しつけない、それだけでも
うチャクラ全開だ、っていうんですからね。
ところで私の守護・指導霊はUさんの事を「チャクラの
ことを質問してもUさんからは正確な答えは出ない」と
伝えてきていました。
かといって、Uさんが占い師として、あるいは悩み事の
相談相手・悩める人々の羅針盤のような役割を果たす人
物として不適切かというとそんなことはない、ちゃんと
仕事している、という評価です。私は鑑定してもらうま
でその意味が分かりませんでした。
ところが鑑定してもらって「彼女は正確に判断できない」
というその意味が理解出来ました。
UさんはUさんなりに鑑定していてその鑑定は正しいの
だと思います。ところがUさんのいう「チャクラが開い
ている」とか「閉じている」という概念と私が考えるチ
ャクラの概念が少し違っているようなのです。
Uさんがいう「チャクラが開いている」というのは、今
現在チャクラが開いて活動しているかどうかを意味して
いるようです。
しかし私のチャクラの概念では、チャクラは必要のない
ときは閉じており、必要なときだけ開くもの、という概
念なのです。
そして私が鑑定して欲しかったのは、今現在チャクラが
開いているかどうかではなくて、チャクラを開いたとき
に100%完全に開くことが出来る状態になっているか
どうかだったのです。なぜなら私のチャクラは例えば第
三チャクラだと半分程度しか開けていないと感じていた
からです。それが10月の満月の日前後の月光の浄化で
完全に開くことが出来るようになっているかどうかを鑑
定して欲しかったのです。
ところがUさんと私ではチャクラについての認識が異な
っているので、私の知りたいことが分かるはずがありま
せん。
そもそも私の考えではチャクラが開きっぱなしというの
は色々問題がある、という認識です。特に頭頂の第七チ
ャクラや股間の第一チャクラは上下にエネルギーが流入
・流出するポイントなのでダダ漏れにならないように必
要時以外は閉じているべきであると考えています。
それなのでエネルギーワークの時は頭頂のチャクラを蓮
の花が頭頂から伸び出してクワッと開いてエネルギーや
情報を受けるイメージ、又蓮の花が閉じてシュッとつぼ
みに戻ってそのまま頭頂から頭部に納めるイメージをし
たりすることがあります。
守護・指導霊の通信内容もこれで納得できたわけです。
しかしそれでは私の本当のチャクラの状態はどうなの?
と。これはもういつもの霊能者Rさんに聞くのが正解だ
と思っていつRさんを訪ねようかと考えておりました。
たまたま22日に入院している母親と面会できることに
なり、病院に行った帰りにRさんと連絡を取ってみたの
です。予想通り1時半から約1時間、時間が空いている
とのことでした。二ヶ月ぶりの訪問ですね。
では続きはまた明日。
こんばんは。
明日の明日の時間になってしまいましたが続きです。
さて霊能者Rさんを訪問しますといつも通り「今日はど
のような…?」と始まりましたので「定期検診を受けに
来ました」と申します。Rさんは「定期検診…」と苦笑
いです。そこで、「全回お会いしたときに送信能力を百
倍に引き上げるように言われましたが、あれから自己認
識では3倍程度能力アップしたように思うのです。確認
して頂けますか。」と伝えます。
Rさんは目を瞑(つぶ)って精神集中を始めますが無言の
時間がいつになく長く過ぎてゆきます。
ようやく出てきたのは「もっと伸びている」ということ
です。どうやら三倍以上能力アップしているようです。
そして、ありえないほどのスピードで力が伸びている。
もうこうして自分のような所に来て他人に鑑定してもら
う必要は無いのではないか?と言います。
いえ、それは困ります。目標の百倍に到達するまでは3
倍アップをあと三回繰り返さないといけません。しかし
3倍アップしたといっても私自身には全然その実感が無
いのでやはりあと3回Rさんに鑑定をお願いするしかあ
りません、と申し上げました。
Rさんは「分かりました。それでは年内を目標に…」と
言いかけて途中で言葉を切って「俺さんはいつ頃の完成
を目標にしているのですか」と聞き直してきました。
私は何となく3倍を3回だとまだ一年はかかるかなと思
っていましたので、「来年の10月頃かなと思います」
とお返事しました。するとそれではいけないというので
す。
「来年春くらいまでを目標にして下さい。これからは時
間の流れが一層速くなる。確かに1秒の時間も1分の時
間もこれまでと変わらないのだけれども、これからは自
分が思っている以上に早く時間が過ぎてゆく。」
だから10月までと思っているととても間に合わなくな
る。春先頃を目標にして下さい、というのです。
「何に間に合わなくなるの?」と疑問には思いましたが
あえて聞くこともなかろうと、この疑問は心に留めてお
くだけにしました。
そして彼女はタロットのようなカードを取り出して、こ
の中から三枚を引いて下さい、といいます。次に1枚引
いて下さい、といいます。示してくれた三枚のカードに
は「楽しみましょう」などのアドバイスのようなことが
書かれています。
最後に引いた一枚が一番重要なカードらしくて私にとっ
て本質的なことが書かれているらしいのですが、それに
は「何事も意識」と書かれておりました。
なるほどね、しっくりくる言葉です。
そして彼女はこの「何事も意識」というカードと最初に
引いた三枚のカードの中の「まず自分を信じる」という
カードの二枚を渡してくれました。
そしてこの「まず自分を信じる」という言葉はあとで理
解出来ることがありますよ、と言います。
もう一つ聞いておかなければならないことがあります。
それは私のチャクラの状態です。
そこで、「満月の度に機能アップしているような感覚が
する。月光の浄化をしてチャクラが全開可能な状態にな
っていると自分では感じるのだが、どうか?」と聞いて
みました。
すると前回はまだ全てのチャクラが十分に機能できると
いう状態ではなかったのですが、今回は私の実感通りで
大丈夫だということのようです。
以上で今回霊能者Rさんを訪問した報告を終わりたいと
思います。Rさんとは他にもいくつか雑談のような形で
話をしたのですが、今回は録音記録を取っていなかった
ので私の能力では雰囲気くらいしか覚えていなくて、細
かいお話をご紹介出来るほどの記憶がございません。
最近凄くスピリチュアルな方面で力を発揮するようにな
った人々がいるとか、一生懸命人の面倒を見てあげても、
全然感謝も何もなく逆にとんでもない行動をする人がい
る、などという雑談系のお話でした。
次回は >691 の続きのお話です。
こんばんは。
十日前は毎日投稿しようと思ってたんですよ。ところが
ところが、やはりそうそう上手くは物事が運ばないです
ね。またまた私自身がエネルギー的に乱れが生じちゃっ
たんです。原因は前回以降急速に私のエネルギーが上が
っているようなんです。自分自身では特に大きな体感の
変化はないんですが、評価を訊いてみると急速にアップ
しているという評価になるのです。
そうしますと、私は自分でエネルギーのバランスを図っ
ている領域があるのですが、そのバランス調整がとても
難しくなっているのです。
その領域というのは将来の文明転換起動に備えての下準
備として西日本を中心にエネルギーを蓄積させて起動を
可能にしようと志しています。
日本は広いので東日本や北日本は誰か他にしかるべき方
がいるだろうと考えます。だから自分は四国を中心にそ
れと近い九州、中国、近畿圏の一部位を自分の活動領域
と定めて進めているのです。
あ、これ、今思ったのですが明治維新の頃のエネルギー
分布と似ていますね。
ともかくそのためには出来れば一日二時間くらいこの作
業のために時間を割きたいのですが、これがなかなか上
手くは参りません。
というのは一日で能力が大きくアップしたりしているの
で、今日作業したエネルギー量と昨日作業したエネルギ
ー量、そして一昨日作業したエネルギー量の間に大きな
差が出たりして自分の中で決めた許容限界を超えたエネ
ルギーの偏(かたよ)りが領域内に生じてしまうのです。
それでこの偏りの解消に毎日四苦八苦して時間を取られ
てしまいます。
もう一つはどうもエネルギーアップが大きいとなぜか他
の作業をやる気が起きなくてとにかく時間があれば寝て
しまうんですね。
それともう一つは人と関わる時間がかなり増えてしまっ
た、ということもあります。これは以前にも予想した通
りになっているのですが、文明転換起動に向けて当然な
るべくしてなっている、するべくしてやっているという
ことですね。
さてそんなわけで11月22日に霊能者Rさんを訪問し
たときと比べて自己評価ではすでに3倍以上の能力アッ
プを果たしているようです。あらためて数日中にまたR
さんを訪問して、自分の評価の客観化を図ってみたいと
思っています。
さてお待たせしましたが >691 の続きです。
いま読み直して見ると魂の年齢の話題とセックスの話題
でしたね。魂の年齢に繋がるような話としては仏教の話
の中にこんなのがあります。とある菩薩様が悟りを開こ
うと決意してひたすら禅定に取り組んだ、というのです。
ところが幾ら座禅をしても一向にその菩薩様は悟れない。
とうとう何億年も何千億年も数え切れないほどの年月を
過ぎても悟れない。どうして彼は悟れなかったのか?と
いう質問に、仏様は「彼が悟らなかったからである」と
答えたそうです。
これはお話ではあるのですが、魂の年齢とその精神性と
の関係で言えば似たようなことが言えるのではないか?
と私は思います。つまり、幾ら魂の年齢が長い(つまり
魂として多くの経験を積んでいる)としても、その人が
何を求めて生きるかによって獲得した能力や知恵や精神
性は異なってくるのではないか?
極端な話として、地上界と地獄界と幽界や霊界との間で
無限に輪廻してなかなか抜け出せない、などということ
もあるのではないか?ということですね。
更に恐ろしい可能性として、何度も地上界に生まれる度
に巧妙に立ち回って生きる術(すべ)を身につけること
も可能でしょう。しかしながら彼や彼女が慈悲や愛に関
心が無く、自分の事にしか興味が無いのであれば何回生
まれ変わっても悟るなどということはあり得ません。
なぜなら愛と慈悲に生きることこそ悟りだと言えるはず
だからです。
従って生きることに幾ら巧妙であっても、愛と慈悲から
ますます遠ざかるような生き方、輪廻の仕方は大変危険
であると思います。
禅宗の公案の影響、いわゆる禅問答の影響だと思うので
すが、悟りというと大変難しい問答にもスパッと切り返
して答えることが出来る不思議な知恵というか能力とい
うか、世界に対する認識のように思われることが多いと
思うのですが、それは禅宗の悪い影響だと思います。
別にとんちが幾ら効いても悟りと言えるはずがありませ
んし、幾ら難解な認識を得たとしてもそれで悟った、仏
になったというのはちょっと違うのではないか。
もし人の知り得ない難しい認識、深遠な認識・知識に到
達したとしても、その人の他者との関係性が変わらなけ
れば、それはつまり額から上だけが悟って後は迷いの中
にあるのと変わらないような気がします。
禅宗の公案などというものは人の認識の転換を促すため
の一つの方法論に過ぎません。目に見えるものが全てだ
という考え方に陥って全くその事に気づいていない人達
に向かって、目に見えないものを「さあ示せ!」と迫っ
ているようなものではないでしょうか?
また目に見えないものが真実だと申しますと頭のいい種
類の人間というのは難しい論理や理屈に没頭してしまう
ものです。難しく矛盾のない理論を構築することに夢中
になってしまうのです。
そしてこれこそ矛盾のない理論が出来たと思うと自分が
悟ったような錯覚に陥ってしまうのです。
しかしそのような中に本当に悟りがあるのか?仏の心が
あるのかどうか?仏典には、真実のさとりというものは
「難思」と、つまり幾ら頭で考えても判るものではない
というふうに書いてあります。
ところがそう言われると今度はうーん、考えても判らな
いのなら、なんか突然の直感で閃かないとダメか…など
と考えて無念無想で直感ピカーッを求めて座禅に取り組
んだりします。
幾ら言われても、どう言われてもちょっとずれた方向に
向かってしまうのが人間ですね。
そもそも人間の身体は頭はてっぺんにチョコンと帽子で
隠れるくらいの大きさしかありません。あとは目、鼻、
口、耳、手足、そして胴体のほうがずっと多いじゃあり
ませんか。
あれこれ理屈で考えたり、理屈がダメなら頭の中を無念
無想にして…ってのはあまりにも頭に片寄った悟りの求
め方です。頭だけが人間じゃないぞ。
こう言われるとまたまたずれた反応をしてしまうのが人
間です。
それなら身体を使って…と始めるのがなんとなんと口に
お経を唱え手に印を結んでひたすら立ったり座ったり頭
を床に擦り付けたりを繰り返して○○回しました!とか
毎日あちこちのお堂やお寺を走り回って口に経文を唱え
手に数珠を揺らして念々ってやってみました!とか言い
出すのであります。
もちろんそれは全身を使ってるには違いないのだけど、
これが悟りへの道だ、悟りの方法論だと言われると
「そーじゃなーい!!!」って叫びたくなってきません
か?
もちろんそのような行為を幾らしたとしたとしても、悟
りに直接結びつくわけではないのです。ずれた方向の努
力を百億年やってみても、判るのはこの方向性じゃダメ
だって事くらいです。
でも人間はダメだってことをなかなか認められなくって、
いやあともうちょっとで出来るんだ、まだ少し自分の努
力が足りないんだと理由づけて間違った方向性の努力を
続けてしまうのです。
そのような方は自分とじかに向き合うことが出来てない
のですね。自分に向き合ってみれば、他者に対する思い
と行為がいかに大切かはすぐ判ることです。
そもそも自分というのは自分一人で存在しているのでは
ありません。自分とは他者を意識することが出来るから
存在することが出来る。根本的な話をすればそういうこ
とになりませんか?
155スレで感覚遮断の話をしたと思うのですが、もし
自分だけで他者が存在しない世界が在ったとしたら、そ
れは感覚遮断の実験の世界ととても似通ったことになる
と思うのですよ。
何をしても、何を働きかけても何も返ってこない世界。
働きかけようにも働きかけたことすら知ることが出来無
い世界。何も聞こえず何も見えず何も触れることも出来
ない世界。
そのような世界に置かれたとしましょう。そうすると想
像の世界の中では自分の意識は何もない何も感じられな
い世界の中でひたすら孤独で気が狂いそうになるのでは
ないか?などと考えるのですが現実はそうではありませ
ん。なんと意識はどんどんとりとめが無くなっていって
しまいやがて自分自身を保つことが出来なくなって無意
識に返ってしまうのです。
これってどういうことでしょう?
自分って存在はあらゆる他者との関係性の中で「自分自
身」「我あり」という意識を保っていられる。これはつ
まり自分とあらゆる他者とは紐で繋がれている、といえ
るのではないか。
「我」と「彼」、いや「我」と「全ての存在」即ち「宇
宙」とは本質的に一つである、あるいは一つに繋がれて
いるということになるのではないか?
まぁそういう見解にならざるを得ないのですね。
このように自分という一つの存在は全ての存在と繋がり
ながらこの宇宙に存在出来ているわけですから、「一即
一切」であり「自他一如」でもあります。
仏教の言葉の中にはこのように本当の自分という存在に
目を向けさせようとした言葉が多いのです。
我々はこの小さな肉体が自分自身だと思い込んでいるわ
けですが、それは間違っていて自分というものはあらゆ
るものと繋がりながら存在している。
しかし理屈としては判っても、日常生活の中でそれを実
感出来るかというとちょっと難しいところがある。
それはこの肉体的五官は、人間同士、人間と他の存在が
互いに隔たっているように訴えかけてくるからです。
五官というのは差異の情報を届けてくるので自分と他者
との差異にばかり意識が行ってしまい「繋がっている」
感覚にはなかなかなりにくいところがあります。
ところが女子は繋がっている感覚が得意ですね。それは
女子の会話のなかにある「共感力」ですよ。女子はなぜ
こうもいつも仲間同士でチュンチュンチュンチュン雀の
ようにおしゃべりをして止まないのか?それは彼女らが
情報交換する中でつながりの体感を大事にしているから
ですね。
こんばんは。
本日確認のためにいつもお願いしている霊能者のRさん
にお会いしてきました。
この前が二週間前に確認してもらったばかりだったので
今回は全然間が空いてないのですが、自己評価ではこの
二週間に意識エネルギーの送信能力は3倍以上アップし
ていると思われるのです。自分を疑うわけではないので
すがあまりにも早いので確認しておくのが無難です。
結果は能力がアップしているが、睡眠不足などの問題が
あって安定していない、との評価でした。
こんにちは。
今年も最後になりました。
私にとってこの一年はエネルギーのバランスを取るのに
四苦八苦の一年でした。そのために投稿したくても、自
分の意志とは裏腹になかなか投稿できない日が多かった
一年でもありました。
エネルギオーバランスに苦労した原因は急速な能力の伸
長です。まるで成長期のように一日一日能力が伸びてゆ
くのです。そして能力が伸びてゆくのに身体が追いつい
ていかないのか、眠たいというわけではないのだけど、
とにかく寝たくなってしまうのです。
エネルギオー→エネルギー
そして、エネルギーのバランスが崩れているので、「こ
んな状態で投稿してもなぁ。バランス回復できてからに
しよう」ということになってしまうのです。
そしてやっとバランスが回復した、と思った翌日にはま
たバランスを崩してしまう、この繰り返しでした。
しかしこうした繰り返しの中にも、大きな学びがありま
した。私が現在取り組んでいるのは意識エネルギー、つ
まり一般には「気」と呼ばれる分野の力なのですが、そ
の根本は非常に単純なのではないか、という見解にたど
り着いたのです。
「こころ」とは何か?という問題は非常に大きな疑問と
して常に私の中にあった問いかけなのですが、その疑問
が紐解け始めたのです。
「こころ」とは今この瞬間の私の「心」だ、今私が怒り
を覚えていたら、それは「怒りのこころ」の中にあるの
だ、という単純な事実が理解出来てきたのです。
当たり前っちゃ当たり前なんですけど、その当たり前が
なかなか判らなかった。自分自身の想念の根底、様々な
思いと想いが次々と湧きおこったり、自分であれこれ考
えたりするのですが、その根底にはしばしば「怒り」が
あったのだということが判ってきた。
そして人の「こころ」というものは非常にストレスに弱
くて、肉体的にはとても強そうに見える人でも心の中は
必ずしもそうでもないのだ。常に自分を庇おうとしてい
るものなのだ、ということが見えるようになってきたの
です。
人間の苦しみ、その苦しみの根源の一つが割とはっきり
と理解出来るようになってきたのですね。
そうしますと今まで自分の持っていた価値観。アレが悪
い、これが悪い、こうするべきだ、ああするべきだ、と
いう心の中の批判、判断、ジャッジというものの底が見
えてきました。
他者をジャッジしたり批判したりする必要なんて何もな
かった。それは自分の正しさ、正義を擁護(ようご)す
るためにしていたことだったのだ、ということがはっき
り判ってきました。意見が違うからと行って対立する必
要なんて一つも無かったのです。対立はお互いの弱さを
隠すために、庇うためにやっていたことだった、とわか
ってきたのです。
これが正しいはずだと自分が頭で作った正しさとか、人
から教えられた「こうするのが正しいのよ」という正し
さなんかは実際の所はあまり意味が無かったのです。
それはしばらくの間の雨宿りのために必要な他人の軒先の
ようなもので、そこで人間が長く住まうための家ではなか
った、ということですね。
そして他人の軒先で遠慮して雨宿りしなくても、自分の心
の中には王国のような立派な宮殿が在るんじゃないのか?
外に探すのではなく内に見つけるべきではないのか?とい
うことですね。
意識エネルギー=力の追求によって導かれた回答はそのよ
うな認識だったのです。
私は地球、月、天、太陽のエネルギーをイメージして、
頭頂や足の裏、股間から取り入れ、頭頂のチャクラ、胸
のチャクラ、丹田のチャクラに蓄えて、それを更に様々
な人や場所に循環させる、というエネルギーワークを毎
日のように続けてきてはそのエネルギー量を評価する、
という作業を毎日延々と続けてきたわけです。
確かにそれはイメージすればエネルギーの流れを感じる
ことはできる。しかしそれは本当に地球や太陽や天や月
のエネルギーなのだろうか?それは実は自分の内にある
エネルギーなのではないだろうか?
こう認識することで実はエネルギー量が増えてしまうの
です。かといって、いま自分の内のエネルギーだけを認
識しても、何というか枯れてしまうと言うかいつの間に
か弱まってしまったりする。そうしたときには再びリア
ルの太陽や月や地球や天からイメージを繋ぐことで回復
したりする。このような体験を繰り返しながら、自分の
内と外が繋がっている、内は外であり、外は内である、
互いに繋がっている、というような認識が生まれて参り
ました。
また同様に他者は我であり、他者と我は繋がっている、
という認識にも至って参りました。
このような認識、実感に至ったのが2022年でした。
そしてこのような認識に至るとほぼ同時にいきなり他者
との関わりが増えてきたのです。人との関わり、それは
我と人との意識エネルギーの交流であり、「愛」の試験
と実践でもありますね。
人と関わるのは面倒くさいことです。しかしその面倒く
ささを受け入れなければ「愛」の実践はありえませんし
見方によれば面倒くささも楽しさだったりするのでしょ
う。これを面倒くさいと感じてしまうのは多分修行者と
しての生活が多かった私の過去世の悪癖なのでしょう。
2011年に例の地震をきっかけに155スレが始まり
ました。このスレのテーマは「智惠」でした。
智惠とは何か。それは見えない世界との対話によって生
まれる知識である。これが155スレのテーマであった
のです。
2012年、155スレを終えて、このしたらば掲示板
で再び皆さんとお会いしたとき、皆さんとの対話に導か
れて、次のテーマである「体感」、即ち「力」「意識エ
ネルギー」の認識の問題に進みました。
そして今年、力から愛へとテーマが変わるべき地点に到
達したようです。
私は以前、文明の段階として、知の文明があり、現代は
知の文明の行き止まりに来ているのだ、ということを申
し上げました。これは何も私だけがそう言っているので
はなくて文明を観察している多くのかたが同じ事を仰っ
ておられます。なんなら大学の国語の入試問題なんかに
も良く出てくるテーマの一つでもあります。「文明論」
ってやつですね。
そして知の文明の行き止まりを乗り越えるために、考え
出されたのが「環境」という概念です。環境というのは
人間は人間だけの都合を考えてちゃいけない、人間は地
球の一部として他の多くの生き物や鉱物と共存している
のだから他の生物や鉱物全体のことを考えなければいけ
ない、っとまぁこんな考えであります。
この考えをもとにして二酸化酸素削減だとか野生動物保
護だとかがクローズアップされ、その流れで太陽光発電
の推奨だとか電気自動車の推進だとか、プラスチックゴ
ミの削減でスーパーのレジ袋がもらえなくなったりして
います。
こうした環境政策は「SDGs(持続可能な開発目標)」
というスローガンで呼ばれているわけですが、それは結
局行き着くところまで行き着いた知の文明をどう方向転
換したら次の文明に行き着くのか、という試みの一つで
もあります。
しかしこの方向転換は単純ではありません。なぜなら
SDGsも知の世界から出てきた考えなので、私の見解で
はそこに限界がつきまとうのです。一つの政策を推し進
めてもそれだけではモグラ叩きのように解決できない新
たな問題を生み出してしまう恐れが強いと思います。
ではどうすれば知の文明の行き止まりを解決して次の持
続可能な文明へと転換できるのか、ということになるの
ですが、そこに必要なのは愛の理解である、というのが
私の見解なのです。
そこで私の掲げるスローガンは次のようになります。凄
く単純なスローガンです。
「知から愛へ」
これだけですね。
ところが「知」から「愛」に至るのは乗り越えられない
壁があるのです。この壁は目に見えずして厳然として存
在し人生の旅人を阻む壁であります。
壁無くして在り、門無くして在る、人の魂の進化に立ち
塞がるこの関所のことを無門関と申します。
見えなくして在るこの関所は三つあり、その一つ目の門
には「智惠」と書かれた額が掲げられています。
智惠の関門をくぐって進むとすぐ再び次の関門がより高
く聳えております。智惠の関門は一階建てだったのです
がこの関門はより高く二階建てなのです。その額は「力」
です。
「力」の関門をようやく過ぎると最後の三つ目の関門が
迫ってきます。
しかしなんとこの関門には本当に何もなくただ一文字の
額だけが道の真ん中頭上高くに浮かんでいるのです。
その一文字とはもちろん「愛」なのです。
というわけで人生の旅人155もようやく今この「愛」
の関門をまさに潜(くぐ)ろうとしているところなので
す。
私は2011年に智惠とはいかにたやすいことかを語り
ました。智惠に繋がるとは何も難しいことではなく、だ
れしもが普遍に持っている真我(とかハイヤーセルフと
か守護指導霊などと呼ばれているわけですが)との通信
能力であることを示しました。
真我と通信するには何も難しいことはありません。ただ
心を落ち着けて自分の中に真なる存在があることを認め
心の対話をすればよいだけなのです。
それは特別な人だけが持っている特殊能力・超能力では
なく、80億人人類がいれば80億人が持っている普遍
能力だということです。
次に2012年に力の世界とは体感の世界であることを
示しました。
体感もまた超能力でも何でも無く万人億人が普遍的に持
っている能力なのです。ただ、この能力には少し難しい
ところがあり十分に理解し、馴染み、使いこなすにはど
うしても時間が必要だと思います。
私自身はこれに十年を要し、さらに今後この力を使いこ
なしてゆくなかで力即ちエネルギーへの理解を深めてい
きたいと思っております。
そして来年2013年、まぁ明日からなのですが、来年
は「愛」がいかにたやすいものかを明らかにしてゆきた
いと思います。
いろいろと今まで頂いている質問にも丁寧に答えてはい
きたいし、途中になったままのお話も完結させていきた
いとは思っているのですが、先に急ぐ話(=愛)もあり
ますので仕方ありませんね。残ったお話はまた後に語る
べき機会があると思いますのでその時にお話しいたしま
す。
それではこれで今年の最後の投稿とさせて頂きます。智
惠と力と愛のトライアングルの完成の年2023年を皆
様と共に迎えましょう。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
ずっと以前、話題になったことがあるアトランティス文明の絶滅の件ですが、
これじゃないかと思われる考察が出てきました。
リンク貼っときます、、、
ttps://www.youtube.com/watch?v=E-qWNcEjijQ
確かに、この隕石の落下による津波で消えたのなら、そうかもしれないですね。
おめでとうございます。
今年は一体何が控えているのかいろいろ疑問ではあるの
ですが、昨年からエネルギー送信能力のレベル上げを急
かされております。昨年9月の20日頃にいつもお世話
になっている霊能者さんに当時の私の状態をチェックし
てもらいに行きました。それは8月頃から急に私のエネ
ルギー送信能力がレベルアップした実感があったので、
それが単なる私の勘違いでないかどうかの確認に行った
のです。そうしますとレベルアップは事実なのだが、ま
だまだ足りない、現状の100倍の能力を獲得するよう
に、と伝えられました。
それからあれこれ送信能力のレベル上げに工夫を凝らし
また毎日送信の実践を重ねてきました。そうすると、遠
い先の夢物語のように感じていた100倍増強も、やっ
てみると案外可能なように思えるようになってきました。
そうして11月中旬頃には3倍以上の能力アップに成功
した、との自己評価に達しました。
そこでまた確認のためにいつもの霊能者Rさんを訪問し
ますとOKを頂きました。
そこからまた能力向上の訓練に励んだのですが、12月
に入り更に3倍の送信能力を獲得したとの自己評価に至
りました。
9月から11月22日の3倍あまりの能力アップ確認ま
で約2ヶ月。
次は12月8日の能力3倍アップの確認まで二週間あま
り。これで3.3倍×3.3倍で約10倍の能力獲得し
たことになります。能力向上の期間が異常に短縮してい
ます。
さて、年末、そして新年を迎えましてまた急激な能力伸
長を迎えました。3日には12月8日時点の3倍に、更
に1月7日には約5倍の能力向上に至ったという判断に
至りました。そこでまた霊能者Rさんの予約を取って、
本日訪問して確認して頂いたのです。
その結果やはり12月8日時点での能力と比べると5倍
向上しているといえるようです。
前回は3倍になるのに約二週間、今回は5倍になるのに
約一ヶ月かかっています。ここまでで
3.3倍×3.3倍×5倍=50倍
ということで約50倍の能力アップを達成。あと現状の
二倍にまで引き上げれば目標達成となります。2月3日
節分までが目標期間となるようです。
以上がとりあえずの現状報告となります。
さて年末年始は京都に滞在しておりました。
そこでいろいろ考えたりしていたのですが、無門関の愛
の関門の先には何があるのか無いのか。そうすると愛の
関門の次にはなんと慈悲の関門があったのです。
愛の関門を通る関所札は「平等」と書いてあります。
智惠の関門を潜る関所札には「無知の知」と書いてあり
ます。
力の関門を通るには関所札が二枚いるようです。1枚目
の札には「信」と書いてあります。二枚目は「感」と書
いてあります。
では慈悲の関門はどうか。
慈悲の関門には関所札は要らないようです。しかしここ
には二人の仁王様が立っているのです。そして旅人の荷
物を剥ぎ取って捨てさせているのです。
その荷物を見てみると「押しつけ」と書いてあります。
また別の荷物には「慈悲魔」と書いてあるものもありま
す。また英語で「paternalism」って書いてある荷物も
ありました。
旅人はそれらの荷物を後生大事に抱えていて大切にして
いて、取られるのが嫌で引き返す者もいるようなのです
が、立派そうに見えたそれら荷物を近くでよくみるとな
んと只のガラクタでしかないのです。
>758
>アトランティス文明の絶滅
私もYouTubeの古代文明ものは好きで時々見ます。
近年1万年以上前の古代の遺跡が次々発見されていると
いうことでワクワクしますね。正式な調査と報告が待ち
遠しいです。
そうですね。古代文明は私たちの魂の記憶に必ずあるはずなので、
明らかになってくるのがワクワクしますね。
さて、私個人について言えば昨年秋からテーマは「愛の
実践」に移っているようでして、「愛」といえば対人関
係です。人と人との関係はどうあるべきか、というやつ
で私がもっとも苦手とする分野ですね。で、このテーマ
になったというのは、なんだか急に人と関わりを持つ機
会が増えてきたんです。もちろんそれは人生の選択です
から、実際に関わりを持とうと持つまいと、それは私自
身が決定する問題なんですが、今回は以前と違って関わ
りを持ちたいという気持ちが強まってきた。そして思い
切って実行に移したというわけですね。
例えば彼氏に捨てられて気持ちがズタボロでなんとかし
て、って要請に応えるとか、学生と指導教官とのトラブ
ルの解決に動くとか、修士論文に困ってる学生の支援と
か、公的機関への申請で困っているのでどうしたら良い
だろうって人を手伝ったりとか。
以前だったら傍観していただろうなということにも積極
的に動くようになったのです。まぁやってることがハタ
から見たら謎だったり、利用されてるだけという評価に
なったりするかもなんだろう、という自覚はあります。
しかし私自身で言うと「受想行識」の「受」と「想」の
問題がわりとまぁ整ってきた。「受」の問題でいうと、
人の考えや行動をジャッジするのでなく、単にあるがま
ま見ることが、まぁ割合と可能になってきた。「想」の
問題で言うと、これも同じなんですが、あまりジャッジ
しないので反発したり言い訳したり批判や非難しなくな
ってきた。
そうすると今度はそれに応じた行動が必要になり、行動
により、体験によって新たな認識が獲得されてゆくはず
です。
つまり私にとっては愛の行動が必要とされ、それにより
愛の認識が深まってくる、愛の真意が理解されてくる、
という流れになるのではないでしょうか?
実際にいろいろ行動していますと、その体感からいろい
ろ思うところが出てくる、新たな認識に至ってくるんで
すね。そうして気がついたのは、人間は相手があること
で意識が安定している、って事実です。
これは凄く単純な事実であって、何を今更と思う人も多
いことかと思うのですが、私にとっては新鮮な発見であ
り、永年の謎のいくつかが紐解ける感じがしました。
というのは私は小さいときから「真理とは何か」とか、
「国家や社会の在り方はどうあるべきか」みたいなこと
ばかり考えていまして、私の思考の相手が真理とか自然
とか国家とか社会とかという抽象的な相手ばかりだった
のです。こういう子供もいることはいるのですが、数が
少なくてあまり子供らしい子供ではなかったのです。
じゃぁ人間は相手にしてなかったのかというと、私の相
手をする人間は家族とか私の相手をしてくれる近所の親
族とかだったので、特に私から相手を意識する必要も無
く相手の意識が私の意識が私を包んでいてくれたのです。
最初から与えられていたために、新たに人間関係を作る、
相棒を作る、という体験がなかった。そのために相棒の
作り方、友達の作り方が判らなかったのです。
このことは自分が小学校に入ったときに深刻な問題を引
き起こしました。私は小学校に入ったとき、周りの子供
達がすでにお互いに知り合い同士、友達同士であって、
その中に私がぽつんと見知らぬ一人の子供として放り出
されていることに気がつきました。
私の近所には同学年の子供がいませんでした。また私は
当時イキがって「幼稚園には通わない」宣言をしていま
した。従兄弟に幼稚園に行かない、って子がいましてそ
れがカッコ良いと思ったものですからまねをしたのです。
私が頑強に幼稚園を否定するので親もそれを受け入れた
のですが、小学校に入ってみますと同級生はみんな幼稚
園の元同級生同士、すでに知り合い友達同士なのです。
そこにまるで溶け込めない転校生状態で私が入学してし
まったのです。
しかも私の興味と彼らの興味は全く会わないので、友達
を作りたくても何を話したら良いのか、どう話せば会話
が続くのか判らない状態でした。
こんな状態でも興味を持ってくれる相手が出てくるもの
で、小学校の時には三人、中学校の時には一人が話しか
けてきてくれて友人になってくれました。
しかし人間関係の苦手さは永年の私のコンプレックスと
して続いたのですね。
ところが今回人と関わる機会が与えられ、実際に関わっ
てみると、何とそれまでどうしても獲得できなかった会
話のスキル「どうでも良い会話」のスキルを獲得出来て
しまったのです。
ほら、友達同士ってよく「どうでも良い会話」をしてる
じゃないですか?アレって何だかわかりますか?
あれは「どうでも良い会話」の言霊にお互いのエネルギ
ーを乗せて、エネルギーの交換をして意識の安定化を図
ってるんですよ。
エネルギーの交換は楽しいんですね。そして意識が安定
するのですよ。だから親しい友達になると楽しいおしゃ
べりが止まらなくなるんです。
会話はエネルギーの交換なんです。
こうして意識エネルギーの観点から言えば、愛はエネル
ギーの交流循環である、友から向けられたは言葉は愛の
エネルギーであり、会話は愛の行為であり、友は愛のエ
ネルギーを与え合い循環させる対象である、という認識
が成り立つのです。
私が児童・生徒・学生の時代を通じて、楽しく会話する
同級生達を見てうらやましく感じたのも当然だったわけ
ですね。そこには人の愛があり、残念ながら学校におけ
る私には人からの愛のエネルギーの供給循環が薄かった
わけですからね。
>758
古代文明には愛やエネルギー(即ち力)についての智惠
も隠されており、それは古代文明を体験した貴方自身の
魂の中に蔵されている、と言えます。己の中の内在され
た智惠の体験を発見し解放させてゆく、それもまた地上
界での生活の楽しさの一つですね。
発見と魂の解放。生きることを楽しみましょう。
>771
>相手の意識が私の意識が私を包んでいてくれた→相手
の意識が先に私の意識を包んでいてくれた
>773
>近所には同学年の子供がいませんでした。→近所には
同学年の子供がいませんでした。だから小学校に入った
とき、同じ学級に誰も知り合いがいなかったのです。
>774
>しかも私の興味と彼らの興味は全く会わないので、→
しかも私の興味と彼らの興味は全く合わないので、
>777
>友から向けられたは言葉は愛のエネルギー→友から向
けられた言葉は愛のエネルギー
こんばんは。
ようやく意識エネルギーの出力目標を達成することが出
来ました。といっても主観的判断なので、改めて来週月
曜日にいつもの霊能者さんのところを訪問して確認して
もらおうと思っています。
ところがあくまで主観的な数値判断(つまり通信が伝え
てくる出力量)でして、出力が昨年8月頃の100倍にupし
ている、といわれましても何か特別な現象があったとか、
明らかに体感が変わったということはありませんでした。
では何も特別な変化はなかったのか?といいますと一つ
大きな変化がありました。それは送信中に雑念が起きな
くなってきたこと、そして「送信」とか「送信能力」に
ついて疑念がなくて、ただ淡々と送信することができる
ようになってきたことです。
例えば送信中に相手の姿が見えるだとか、流れているエ
ネルギーが視覚として光の帯のように見えるだとか、そ
んな感じの霊能力があればエネルギーの「送信能力」や
エネルギー「送信」という現象について疑念を差し挟む
余地がなくなります。しかし残念ながら私にはそんな能
力はありません。
ですから「本当に送信対象にエネルギーは届いているの
かな」とか、「送信しているように錯覚しているだけで
実際は送信なんてできてないのじゃないかしら?」など
と疑念が起こってくるものです。
私は霊能者のように「霊視」などは出来ないのですが、
霊能力がないかというとそんなことはありません。実は
人間はみんな結構偉大な霊能力を備えていて、この万人
が備えている霊能力のことを私は「万有霊力」と呼んで
おります。しかし万有霊力では霊視や霊聴などのいわゆ
る五官を超えた超能力的な現象を体験することは難しい
のです。
では万有霊力はたいしたことのない霊能力なのかという
と、全然そんなことはありません。非常に強力な能力な
のですが、みんなそのような能力を持っていることを知
らないのです。だからみんな使いこなせてないだけです。
つまり「封印された能力」ということなのですね。
ではこの封印を解くのは難しいのか?というとこれもま
たそんなことはなくて、超簡単です。自分が使いこなせ
ることに気がつくだけで今すぐ使うことが可能になりま
す。私の送信能力も、この万有霊力に基づくものです。
霊能力者の方はこの万有霊力を目で追えるので、非常に
判りやすく使いやすい。逆にわれわれ普通人は目で確認
できないために万有霊力を使おうとしてもすぐに疑いの
念が起こってしまう、というわけです。
しかし送信能力向上してゆくと、この疑いが次第に減っ
てきた。起こらなくなってきたのです。
能力UPを果たして起きた変化はこのくらいですね。
あ、もちろん送信中は気の集まる掌がビリビリするだと
か、身体の中を気が通る感覚がする、だとかはあるので
すが、これは万有霊力に伴って誰にでも起こる現象に過
ぎません。
普通、その程度の体感ではなかなか信じる気になれない。
やはり人間は目に見えるものを求めて目に見えるから実
在する、見えないから実在しない、と判断する傾向があ
るんですね。しかし万有霊力のガイドとなるのは、体感
なので、みんな自分に素晴らしい霊能力が備わっている
とは気がつかないのです。備わっていても目に見えない、
身体でしか感じられないからですね。
さて、私としては期限とされた2月3日までに万有霊力の
出力UPを達成したので、その後は活用方法を研究してゆ
きたいと考えています。研究成果が出ましたら追い追い
ここで発表してゆきます。
さて今週はいろいろ忙しいので来週の頭まで、暫く投稿
できません。
よろしくお願いいたします。
こんばんは。
昨日、いつもの霊能者さんを訪問して、仕上がり具合を
確認して頂きました。
その結果、私自身の認識と同じく、目標を達成している
との評価でした。
その場で今年のエネルギーについて色々興味深い話をし
て頂きました。次回にそのお話も報告しようと思います。
もう一つ報告なのですが、私自身が自分の人生の目的と
いうか、課題を納得いたしました。そうするとなんと、
それが後ろの人達からすると「覚醒」した、という評価
になるのだそうです。え、これが覚醒かよ?っていう感
じです。
その話も面白いのですが、何しろ今日は朝から全然時間
がありません。詳しい話はまた明日にでも少し報告でき
ると思います。
とりあえず報告まで。では失礼します。
こんにちは。
ここしばらくはコロナ関連だったり大学関連だったりと
いろいろ人と関わることに時間を取られてしまいました。
昨年夏以降は人との関わりが密になってきまして、ああ
いよいよ愛の実践のテーマが始まっちゃった、と感じて
おりました。
人と関わるとはひたすら人に時間を取られてしまうとい
うことでもあります。だから私のように隠者癖みたいな
ものがある人間にはどうやっていいものかちょっと苦手
なテーマだったりします。
しかし今生ではちゃんと準備が出来てます。家庭教師を
通じて人間とは何かを十分研究する時間がありましたか
らね。
それでこの一週間もなかなか中身が濃くてちっとも仕事
が進んでいません。なにより家庭教師の請求書作りが出
来てないのが困りものです。二月の中頃までは相変わら
ず時間的にはきつい状態が続きそうです。
さてそんなこんなで投稿も全く進んでいないわけですが、
本日はまず一つ。私の「覚醒」の中身をご説明します。
私はこれまで「覚醒する」とは霊的な超能力、いわゆる
神通力を得て過去現在未来宇宙の端からミクロの世界ま
で細大漏らさず認識できるようになることだろうと考え
ておりました。
しかし私にとっての「覚醒」はそのようなことを要求さ
れてはいなかったようです。私は自分の使命というか、
仕事というか、この世において成し遂げたいことが、実
は霊的な超能力無く平凡な能力で生まれて過ごすことで
あったことに納得したのです。
特別賢いわけでもなく、特別霊感を持っているわけでも
なく、特別に容姿に優れているわけでもなく、ごく平凡
な人間として生まれ生活してそこから悟りに到る。その
ような道を選んだ、それが自分の願いであることを自覚
した、というわけなのです。
そうすると、その気づきが後ろの人々からみると「覚醒
した」という評価になるのだそうです。「えっ?それで
いいんかい?」って、まぁ私でなくったって、貴方だっ
てきっとそう思いますよね?
でもやはり覚醒なんだそうですよ。
ところで >788 で明日にでも少し報告できそうと書いた
のですが、ぜんぜんそんな時間は取れませんでした。ま
た時間があるときに霊能者さんとのお話は報告します。
さてなぜ私がこのような自覚に至ったかと申しますと、
その背景には私のモノの見方に矛盾が少なくなった、と
いう事実があるのです。そうして物事を、また人生をフ
ラットに概観することができるようになってきたのです。
その結果、人間の認識の仕組みというか、認識の罠とい
いますか、欠点に気がつくことが出来たのですね。どう
いうことかと申しますと、知性というのは物事を比較し
てその違いを詳しく調べるのです。
ここまではまぁ良しとしてもその次がいけません。意識
は違いを知るとそれに順番、優劣を付けようとしてしま
うのです。
そして優劣の順位の中で上を目指しては苦しみ、下にあ
ることに耐えきれずに苦しむ、という「苦界」の人生を
送りがちになってしまうのです。
これの逆が上にあって威張り、下にある者を見て軽んじ
る、というやつでこれもまた同じく「苦界」にあること
に気づく必要があります。
なぜなら人間は平等だからなんですよ。上にあって威張
れるんなら上等やん?って思うかもしれないですけどね、
それは自分の本質と食い違ってるんですね。
本質と食い違うと人の心にとってのストレスになるんで
す。早い話がちっとも幸せになれなくなってしまいます。
そこで強い刺激で心をマヒさせようとするような生き方
をしてしまうのです。
この辺のメカニズムはとても興味深いですからまたあら
ためて説明することになると思います。
ところで、155、君は平凡な人間に生まれてと云うが、
通信を駆使してちっとも平凡じゃないじゃないか、って
いう反論が出ると思うのです。でもその反論は当たって
いません。
なぜなら私の通信能力は万有霊力を基盤にしているから
で、万人が持っている能力と変わらないのです。つまり
そう反論する貴方も、通信しようとすれば出来るからで
す。
155はときどき難しそうなことを言うので実は頭良いん
じゃないか、と評価して下さる人がひょっとしたらいる
かもですが、それも当たってません。頭の程度はごく普
通。記憶力なんて劣っている方です。考える能力は意思
の力で鍛えただけですのでこれも殆どの人は私程度の学
力は獲得できるでしょうから。
そして実は、頭が良くても悪くても、悟りにはあまり関
係ないのではないか。
悟りとは何か。そりゃあなた、宇宙を丸呑みにするのも
よろしいのですけどそんなことより愛と慈悲ですよ。愛
を悟り愛を行い慈悲を悟り慈悲を行う、これ以外に人間
の悟りの目的がありましょうか。
愛も慈悲も頭の良し悪しとも身体の健康不健康とも全く
関係ありません。
先に私は知恵と力と愛と慈悲の無門の関所という話をし
ました。皆様もそれぞれの人生においてこの無門の関所
にたどり着き、追い返されたか「良し通れ」と言っても
らえたか。
どちらかしかありませんですね。
一度無門の関を追い返された人も、再度挑戦してみまし
ょう。私の言葉や体験が参考になるかもよ。
では失礼。二月後半には投稿しやすくなると思います。
こんにちは。
最近私の意識の中でものの見方に矛盾がなくなってきた
という報告をしたかと思います。
矛盾がなくなってきた理由は物事が筋を通して理解出来
るようになってきたからです。
一人一人の物事の理解度をその方の「悟り」というふう
に理解しますと、私自身の「悟り」が深まってきた、と
も言えると思います。
悟りとはその人自身の人生の成果物ですので他人がどう
こうできるものではありません。ご自分の魂の智惠とし
て獲得するものですね。
しかし幸いに私達はこうして三次元の同一平面上に降り
立っております。その気になれば善悪様々な人々の成果、
成功や失敗の結果を見比べたり比較することで速やかに
自分の悟り・理解を深めてゆく事が可能になります。
そういうわけで私自身の理解の深まりについて申し上げ
ると皆さんの悟りを深めるのにも役立つのではないかと
思います。
そこで私自身の物事の理解について、これまでいくつか
の発見をお伝えしてきたわけです。もちろん皆さんにし
たらそんなことは知っているよとか、もう聞いたことが
あるよと言うことも多かったかもしれません。しかし私
自身にするとそれらはいずれも新鮮な発見であったわけ
です。
例えば、人間はそもそも物事をあるがままに受け取れる
ほど器は大きくないのだ、それ故自分が受け取りやすい
ように物語というパターンに沿って理解しているのだ、
等と言うことはそれまで考えてもみなかった事実でした。
私はなぜ教師や親や上役の人達がすぐに決めつけをする
のか不思議で仕方がなかったしその理不尽に怒りを覚え
ていたのですが、なんと人間の受け入れ能力の問題であ
ったかと気がついて愕然としたのです。なんと彼らは物
事をつぶさに調べるよりも、単純に「善悪」の物語の中
で理解しようとして決めつけていたのですね。
このように一つ一つ意識の仕組みが理解出来るにつれ、
私の納得が増え、怒りが少なくなって参りました。そし
て月の浄化、太陽の浄化により意識を清明に保つという
方法も覚えました。
こうしたことは一つ私が理解する度にここでも報告して
きたと思います。しかしまだいくつか報告してないこと
がありますので、今週はそれについて報告していきたい
と思います。
これも意識の根本的性質だと思うのですが、意識は相手
と特別なエネルギー関係を結ぶという話です。二人称関
係についてですね。
意識は実は自分だけでは成り立たない、というのは155
スレでの感覚遮断実験の話でもしたと思います。これを
よく考えてみると意識には相手が必要だ、という話にな
ります。
続きはまた後で。
こんばんは。
意識は認識する対象や考える対象を持つことで自分自身
が明確になりますよね。何も考える対象が無いとしたら
つまり、見た目ただただぼーっとしてるって事です。
こういうときは感覚がひたすら研ぎ澄まされてゆくか、
意識までもぼーっとしてゆくかどちらかですね。
もしそのまま感覚も一切感じなくなってしまったらどう
なるか。きっともう起きてるのも難しくなって眠ってし
まうんじゃないでしょうか?つまり無意識になってしま
います。
しかし幸い私達の周囲にはいろんな情報が渦巻き、様々
な人に囲まれておりますので意識は忙しく働いて自分自
身を保ち、認識できることになります。
ここで外部と自分、他者と自分との関係性が生まれてい
るわけですね。
そこで私達の接する情報は何で、接する人間は誰かと反
省してみますと、暫く前の時代まではなんと言っても朝
の新聞、それから夕べのテレビが情報のツートップ、そ
れに週刊誌や雑誌、周囲の人々の口コミが続いたでしょ
う。今ならネットが一番の情報源という人が増えてきて
いると思います。
また接する人間は誰かと反省してみますと、高校を出る
までは両親、教師、友人、兄妹辺りになると思います。
大学で一人暮らしをする人だとまずこの中から両親が消
えます。そして学校を卒業して就職しますと仕事の同僚
・先輩・上司の比重が一気に大きくなります。彼氏彼女
を作っている人ならもちろん彼氏彼女の比重もとても大
きいですね。結婚すると旦那、妻君、子供の比重が一気
に上がります。
これらの期間を通じてよく考えてみると、接する人は多
いのですが実際には私達の意識はモブと主要キャラとに
分けて扱っているようです。
それでは私達の意識に登場するメインキャラはというと
六人くらいが普通のようです。それ以上だとかなり多い
し、それ以下だと孤独という問題を抱えているのかもし
れません。
どうも私達は毎日六人くらいの人を相手にあの時ああ言
われたとか、次はこう言ってやろうとかバトルだったり
妄想だったりを繰り返している、ということのようです。
要は彼らが嫌な人だったり好きな人だったりするわけで
す。そして現実の付き合いの中でメインキャラの少ない
人は推しをつくって同じようにバトルとか妄想を意識の
中で繰り返してるようですね。
意識の中での妄想やバトルを全然しなくて、こういった
他人との関係が現実の中で完結している人もいます。
しかし実際にはそのような人は小児には多くても成人の
中に見つけるのはとても少なく、通信によると20人に1
人くらいのもののようです。
それではこのような意識の中での妄想やバトルの行為は
どのような効果をもたらすかと言いますと、自分の意識
の習慣を作り出し自分自身をつくってゆくことになるの
です。
それは自分の運命をつくってゆくという意味でもありま
す。
そうしますとこの意識の中のメインキャラは私達の意識
を作り上げ運命を作り上げる相棒になっていることに気
づきませんか?
メインキャの中にも主人公がいますね。彼女さんだった
り彼氏さんだったり、ご両親だったり、親友だったりが
そうじゃないですか。
そうすると、彼や彼女は貴方自身の鏡に写した分身であ
る。貴方自身を作る一部であり、また貴方自身も彼ら、
彼女たちの一部である、ということができますね。
相手は自分の意識の形作る一部であり、自分もまた相手
の意識を形作り続けているのだ。これが二人称関係の本
質であろうと思います。
私は愛というものを「存在と存在のエネルギーの交流で
ある」と認識しておりました。しかし上のような他者と
の二人称の関係性に気がついたときに、私の愛の認識は
上書きされることになりました。
「彼は我なり。我は彼なり」これが「存在(我)と存在
(彼)とのエネルギーの交流」という愛の認識に上書き
された認識であります。
つまり私のそれまでの愛の認識にはまだ欠けていた部分
があったようですね。そしてこの上書きされた認識をも
ってはじめて相手を真に尊敬する、ということの意味が
理解出来るようになりました。
自分を尊敬できない者は相手をも尊敬できない者である。
自分を真に尊敬する者は相手を真に尊敬できる者でなく
てはならない。
人を真に尊敬する者は自分を真に尊敬する者である。
人を真に尊敬できない者は自分を本当に尊敬することは
できない。
私はこれによって能力によって人を差別するという考え
から完全に離れました。
「知」の価値観に立てば、頭の良い人、能力の高い人が
価値のある人なのです。この考えを覆すことはおそらく
出来ません。しかし、「彼は我なり。我は彼なり」とい
う愛の価値観の中には無差別平等しかありません。つま
り私は昨年末にようやく「愛の関門」を通る関所札を手
に入れたということですね。
こんばんは。
今日は少しだけ。
昨年秋頃から二人称関係、即ち自分自身と、自分に相対
する他者との関係について注目させられておりました。
「I」と「You」の関係ですね。
私がまず気がついたのは、「自分と相手」という関係性
は「自分と第三者」の間の関係性とは比較にならない強
い意識が生じる、ということでした。
つまり、目の前の相手、話をしている相手に対しては強
く意識してしまう、ということです。
誰もが知っている当たり前の事実なんですけど、ではど
うして目の前の相手は強く意識してしまうのでしょうか?
目の前の相手によく思われたい、悪く思われたくない、
それだけが人生の目的というか、生きる標(しるべ)に
なっているような人々もよく見るところです。特に中学
生くらいにはそんな感じの子が多いですね。
意識エネルギー的な体験から言えば、意識を集中するこ
とでそこに強いエネルギーの結びつきが出来てしまいま
す。それは気がつかないうちに意識の働きや行動が相手
に支配されたり逆に支配したりすることもある、という
ことです。
昨年の秋、そして冬、私はこの事実について考え続けて
おりました。
さて、今から出かけないといけないので続きはまた明日。
おはようございます。
意識にとは、「感じ、考えるエネルギー」であると私は
思います。それではこの意識は何を感じ、何を考えてい
るのだろうと自分自身をふり返ってよく観察してみます
と次のようなことが言えると想います。
まず、意識が対象として考えるものは自分自身のこと。
次に目の前の相手(としての人や動物や植物など)。そ
れから第三者、さらに人間以外の物や事、というふうに
自分から周囲へ対象は広がっていきます。
意識にとは→意識とは
想います→思います
「自分」、「相手」、「第三者」、「物や事」という区
別が意識の中はあります。それぞれを自分がどのように
扱っているのかは改めて観察し直してみる必要があると
思っています。その中でも特に「相手」とは良くも悪く
も極めて強い関係性が生じてしまいます。
その関係性を束縛と感じてあまり相手とは強い関係性を
作らないようにする人もいます。また逆に相手と安定し
た強い関係性を作れてないと精神的に不安定になる人も
います。
よく中学、高校辺りで友達を盗った盗られたというトラ
ブルがあります。これは友達同士の二人がいた場合、あ
るいは数人の友達グループがいた時に、新しく別の一人
が加わろうとして起きるトラブルですね。
二人の仲の良い友達の一人にもう一人の子が話しかけて
きて新しい子と親しくなる。そうすると理屈では新しく
三人の仲良しグループが出来れば良いのですが、実際に
は滅多にそういうことは起こりません。たいてい元の友
達同士の一人と新しく入ってきた子が仲良くなりますが、
残ったもう一人ははじき出されてしまいます。
数人のいつもおしゃべりする仲良しグループがあるとき
に、外から新しくグループに入ろうとするときも似たよ
うなことが起こりがちです。そのままグループが拡大で
きれば良いのですが、結局一人が弾き出されてしまった
り、旧メンバーの居心地が急に悪くなったりすることが
あります。
これは人間の意識は一対一の場合に強い関係性を作って
安定する、というエネルギー現象が根本にあるために起
こる現象だと思います。
この「自分と相手」という間には「強い関係性」が生ま
れるのだと申しましたが、それでは具体的にどのような
ことが起こっているかと申しますと、多くの場合は会話
してますよね。そして会話の度に、それは単なる言葉と
いう情報の交換ではなく、気持ちの交換もしていますね。
相手の感情とか意図とかをお互いに感じ取っています。
このようにして自分と相手のエネルギー交換が成り立っ
ています。相手の意図や感情によっては、相手の言葉が
とても気分を挙げてくれたり、逆に落ち込まされたりす
るものです。
例えば相手と自分との間に「A、Bどちらが正しいか」と
いうクイズが出されたとしましょう。
私はAを、相手はBを選びます。
回答はAでした。その瞬間私はやったーっと思います。
ところがこの瞬間をよく観察していると、自分自身の中
に何か力が加わった感じを実感出来るのです。
私と相手が逆になって、私が間違って相手が「ヤッター」
と言うとその瞬間感じなくても良いのに何か負けたよう
な落ち込んだ感覚を感じるものです。
ゲームやクイズでのこういうエネルギーのやりとりは割
と多くの人に意識されていると思います。そしてこうい
う意識エネルギーのやりとりの際の揚(あ)がったり墜
(お)ちたりするジェットコースターのような感覚が楽
しくて人はゲームしたりクイズをしたりしているのだと
私は思います。
このように「相手と自分」との間に生じる強い関係性は
人を結びつけるものであるのですが、同時に強いエネル
ギーのやりとりの関係性でもあります。
こんにちは。
数日前、やっと大学の論文の仕事が終わりまして気分が
楽になりました。
毎日自分のエネルギーを測定すると最近は999999
という数字ばかりが出てきます。数字の意味を調べて、
ああこれは随分投稿を促されてるのかも、と思ったり。
実際投稿をと思うのですが、いざとなると手が止まって
後回しにしてしまいます。今日は夕方まとめて投稿した
いと思います。
こんばんは。
少しおそくなりましたが再開です。
私達の意識の有様を良く観察してみますと次のような事
実に気がつきます。それは私達は「何かを感じることに
よって意識できている」という事実です。
この事実はちょっと気がつきにくいところがあります。
なぜ気がつきにくいかというと、私達は常に何かを感じ
続けているからです。それは肉体の五官によって、常に
見、聞き、味わったり匂ったりし、あるいは暑さ寒さ、
圧力や重さ、快適さや痛みや好不調などを感じ続けてい
るからです。
この「感じる」という働きは肉体を縁として起こる作用
です。様々なエネルギーを肉体が受け取ることによって
「感じる」事が可能となります。
ところでこれを読んでいる皆さんは人間の身体が肉体だ
けではなく何重にもなっていること、何種類もの身体が
重なって存在していることはすでにご存じでしょう。私
達が最もよく知っているのは肉体であるわけなのですが、
そのほかにもエーテル体とかコーザル体とかと呼ばれる
ような何種類もの身体が重なったように存在しているの
だ、と霊感のある方達からは報告されております。
ではその何種類もある身体はどのような関係を持ってい
るのかというと、それは「感応するエネルギー領域の違
い」と考えることが出来るのです。
つまり肉体には肉体が受け取り感じるエネルギー領域が
あり、エーテル体やコーザル体にはエーテル体やコーザ
ル体が受け取り感じることが出来るエネルギー領域があ
る。それぞれは別な領域なのだ、と考えられます。
三次元物質世界で活躍している私達の意識・魂は肉体と
深く結びついています。そのためエーテル体やコーザル
体など高次元の身体の情報は殆ど意識することができな
いのでしょう。
つまり私達の意識・魂は肉体をエネルギーの受け皿とし
て五感の感覚を生み出します。私達はそれを世界の全て
として生きていることになります。
しかし実際の存在のエネルギー領域はもっともっと広い
ものです。エーテル体やコーザル体などが受け取り生み
出す五感(六感?)の世界も実在するわけですね。そし
てそうした世界を感知し意識するには「霊感」が必要で
ある、ということです。
つまり「霊感」とは私達の高次の身体(エーテル体やコ
ーザル体など)が受け取った情報を、物質的な感覚とし
て感じる能力である、といえるでしょう。
このように私達は身体によって常に様々なエネルギーを
感じています。そして実はエネルギーを感じ続けること
によって私達の意識は存在できている、といえるのです。
このことについて次回はもう少し深く考えてみましょう。
それでは今晩はこれで失礼します。
こんばんは。
私達の意識は身体を通して様々なエネルギーを受け取っ
ています。そしてその身体とはこの肉体の他にも高次の
次元の身体であるエーテル体やコーザル体などと呼ばれる
身体があるのだ、ということをお話しました。
これはまた従来言われてきたような、幽体、霊体などとい
う身体のことであるとも考えられます。
このように私達の魂はタマネギの皮のように何層にもなっ
た多くの身体をまとっている、というのが真実でしょう。
そしていま私達は三次元物質世界において、肉体をまと
い、物質的エネルギーを知覚する経験をしているわけで
す。目、耳、鼻、舌、皮膚感覚による快不快を経験して
いるわけです。
こうした三次元の身体経験は人間同士、存在同士が互い
に個別に存在するような感覚を味わえるのです。これは
三次元の独特の感覚と言えるかもしれません。
私と貴方とは別な人間なのだ、別な考えや感じ方をして
いるのだ、貴方と私には別な人生があるんだ、と自信を
持って主張することができます。
このことをもう少し深く考えてみましょう。
もし私達の感覚に幽体や霊体や、更に高次の身体による
感覚が混ざってきたらどうなることでしょう?
それは様々な目に見えないモノが見えるようになる体験
であり、いままで耳に聞こえなかったモノが聞こえる体
験であり、そして触れているはずの無いものの感触があ
ったり、匂いがしたりする体験です。
もし相手の思いの言葉が頭の中に聞こえ、相手の頭の中
のイメージが自分の頭に浮かぶようになったら、いった
い今考えているのは自分なのか相手なのか判らなくなっ
てしまいます。
もしそうなってしまったら、それは統合失調症の人と変
わらないですね。自分が自分である、と思えることが難
しくなってしまう。自分自身がほんとうに在るのかどう
かわからない、自分が本当は何を考えているのかわから
ない、自分が自信を持ってこうだ、と考えることが出来
なくなってしまう、ということなのです。
相手の想いや感覚が分からないからこそ、自由に自分で
モノを考えたり言ったりすることが出来る。そしてその
結果を見て自分でどうすべきか考える、それが三次元物
質世界の体験である、とも言えると思います。
もし相手の思いや感覚が自分の事のように分かるならば
人を愛することは簡単で、かくも愛に迷い愛を見失うこ
とは無いでしょう。また相手に嫌がられることをしたり
考えたりすることも少なくなることでしょう。こうした
世界が幽界や霊界や高次元世界であると言えると思いま
す。
それならみんな天国に行けるか、地獄などという世界は
無いのかというと、ここが人間の難しいところです。相
手の嫌な想いや感覚もダイレクトで感じてしまうと人間
はどうなるかですよ。怒りが湧いてくるのですよ。
こじらせた人間は相手が嫌がるようなことを考えたり思
ったりするものです。そして相手から拒否感や不快感が
返ってくると怒りだして害しようとするのです。
どうしてかというと、みんな自分が可愛いからなんです。
自分の事を褒(ほ)めて!認めて!嫌わないで!と思っ
てるものなんです。自分という存在をとても大切に思っ
てるものなんです。
それなのに相手から拒否され嫌われると、そんな自分に
ケチを付けてくるヤツには罰が必要だ、と考えてしまう
のです
こうして拒否感と怒り、恐怖と服従が支配する社会が出
来上がります。これが地獄界ですね。
しかしよく考えてみると、地獄界に住む人達も自分が愛
されたいのです。そうしますと愛するが故に天上の世界
ができあがり、愛されたいが故に地獄の世界が出来上が
っているということになります。
地獄の世界の住人は愛のクレクレなんですね。愛は与え
るもの、循環させるものなので独占するモノではないじ
ゃありませんか。彼らは与える愛に目覚めるまではなか
なか難しい、といえそうです。
ところで最近三次元物質世界がアセンションしつつある
という情報があちこちで語られております。次元上昇し
つつあるとはどういうことなのか。
それは長い間強固だった物質的肉体の感覚と、高次元の
身体の感覚の壁が次第に薄くなってきていると云い変え
ることが出来ると思うのですね。
それはつまり相手の思いや感覚を敏感に把握し、反応で
きる人が増えている。人の思いや感覚が相手にもよく伝
わるようになってきている、ということではないでしょ
うか?
なんかK福のK学の総裁が亡くなったらしいッスね
アセンションしゆくこの星の環境に、遂に付いていけなくなったのかな?
おお仏陀の魂よ、闇堕ちするとは情けない
彼に下される地獄の沙汰は、いったいどれ程のものになるのでしょうね。フッヘヘw
こんにちは。
ご無沙汰でした。
相変わらずなかなか投稿できない時間が続いてしまいま
した。
まだまだ私が未熟で投稿するより学ぶべきことが多いこ
とが原因です。
さてこの間世間では色々な事件が起こっておりまして、
837氏の仰るような事件もありましたね。そろそろそ
んな時期かなということは判っておりましたが(なにし
ご本人が以前著作で予言しておりましたから)いざ実際
に起こるとひろしさんのYoutube動画に囓(かじ)りっ
つきになってしまいました。
それでひろしさんの話を聞いてなるほどな、って思った
のは、ご本人はこの世的な、頭の良い人、賢い人が良い
のだ、という価値観からどうしても離れることが出来て
なかったんだなぁと理解出来ました。
一種の宗教であります。東大教ですね。
学校教育の作る価値観でもあるし、現代文明=知の文明
の価値観でもあります。
東大がそれほど良いんかい、世の人々からは頭狂大学と
揶揄(やゆ)されているのを知らんのかい?と私などは
思いますけれど。
過去世なんてモノはどれほど偉大であってもこの世に生
まれてきた段階で一旦リセットするモノでして。
だからこそ新しい体験が可能ですし新しい気づきが可能
となります。そこに新たな努力を積み重ねることで魂の
前進ができるものです。特別扱いは無いんじゃないでし
ょうか。
だからこの世で勘違いしちゃうとどんな偉大な魂でもと
んでもない方向に走ってしまうことは歴史が証明してお
ります。
逆にまた今世ではどれほどつまらない人生を送り人に迷
惑をかけるつまらない人物に見えたとしても、実は過去
世においては偉大な業績をあげた人物であったなんてこ
とも良くあることだと思います。
人間の本当の価値、魂の偉大性なんてものは表面的な能
力や地位や性格からは計り知れないところがあると思う
のです。
そしてもっと重要な事は、過去世であろうと現世であろ
うとそれがどんなモノであったとしても、一人一人の価
値は平等に尊敬されるべきものだ、と私は考えます。
「人間は平等だ」なんて一見すごく当たり前の事じゃな
いかと思うのですが、意外にも現実にはそうは考えてい
ない人が本当に多いです。なぜそうなるかというと、人
はあらゆるところで自分の期待を裏切られるからですよ。
小さいときのことを考えてみましょう。人に優しくされ
たい、人から祝福を受けたいと小さな私達は思うのです
が、それは周りの誰かに奪われることが多くて、なかな
か自分の番は回ってこないんです。優しくされ、もては
やされ、愛され、大事にされるのはたいてい自分以外の
容姿が整ったり頭がよい誰かだったりするわけですね。
こうして実績によって埋め込まれてきた劣等感だったり
差別意識はなかなか頑固に自分の心に居座ってしまうも
のです。
こうした意識は学校教育の点数によるランク付けのなか
で更に強固になってゆきます。
なぜかっていうと、殆どの人は勉強しても成績もたいし
て向上しないし、それどころか教科書や教師が何を言っ
てるか分からない人も本当に多いからです。
こうして自分はダメなんだ、あの人達は凄いんだという
知性中心の価値観をしっかり植え付けられてしまう結果
になりがちなのです。
一方成績の良い人たちから見ると、成績のいまいちなあ
の人達は本当にダメなやばい人達だ、と自分を特別扱い
し始める人も出てきてしまいます。K会のO総裁もそうし
た一人だったのでしょうね。「人間平等」という愛の基
本原則を理解出来なかったことは本当に残念なことです。
しかしまぁこれは本当に笑えないことなんです。私は以
前に相模原の障害者殺傷事件に関連して阿部芳久先生の
論文をご紹介したと思います。先生はこの事件に関する
有識者やマスコミの意見を研究したのですが、知的障害
者も健常者も平等なんだと真っ正面から主張する論陣を
張った方は居なかったようです。
これはどういうことかと申しますと、今の日本の多くの人
達も、本音では障害者の命の価値と健常者の命の価値は違
うと考えているのではないか、ということなんですね。
私はこれに憤慨して人間の命の価値、魂の価値は平等なん
だ、とする主張をしようとしたのですが、細かく考えてゆ
くと本当に難しくなるのです。
人間は本当に平等な存在と言えるのかどうか。あるいは本
当は人間の価値は人によって異なっているのではないか。
有名な「トロッコ問題」なんてのもあるのですが理屈、即
ち知性では結論を出しにくい問題なのです。
それで私はハタと気がつきました。
これは理屈で結論を出せる性質の問題では無いのだ。
それは理屈では無く、それぞれがどちらの道を選ぶか、
という問題なのだ。「人間平等」という道を選ぶのか
それとも「人間には価値の上下大小がある」という道
を選ぶのかの選択の問題なのだ、ということなのです。
O総裁は「人間の価値には上下大小がある」という見方
を選択してしまった。そしてその結果ご自分を最高に
して最大の人物である、と錯覚してしまったというこ
とですね。
さて私はいま愛の実践の段階に入っております。
私の魂の経歴を考えると(まあ何となく自分自身で把握
している経歴なんですが)学者とか宗教家とか、真理と
は何かを追求するような生き方をしてきたことが多かっ
たようです。そのため人と人とのぶつかり合いとか関わ
りみたいなものは苦手で、どちらかというとそんな問題
は避けて通りたい派なのです。
ところが真理とは何かを追求してゆきますと、存在と存
在,人と人との関係に突き当たらざるを得ないのです。
そこで人と人との関係を逃げないで正面から相手をして
ゆこうという姿勢に急激に舵を切ったのです。
その結果二月から三月にかけて五人の方を意識してサポ
ート意識するようになって参りました。
正面から相手をすると言うことは、相手を自分の思い通
りにしないということですね。相手をちゃんと受け止め
て相手の寄り添ってゆくということでもあります。
これが本当に時間を取られて面倒くさいのですよ。少し
前の私であれば面倒くさいけれども、だがしかしいまは
面倒くさいと言っていてはいけないのです。
>848
五人の方を意識してサポート意識する→五人の方を意識
してサポートする
相手をちゃんと受け止めてみると、時間は果てしなく取られて
しまうのですが、そこで新たな愛の認識が生まれて参りました。
それは、「相手は自分だ」ということでした。
なぜ「相手は自分だ」という認識が生まれるかと申しま
すと、それは人間の意識の成り立ちや有り様を細かく観
察してみると分かるのです。よくよく観察してみると、
人間の意識というのは自分一人で成り立っているわけで
はないのですね。
人間の意識は常に相手と自分という関係性の中で成り立
っている、といえます。ですから相手という存在はそれ
がどのようなものであれ、自分の意識の片割れだ、一部
分だと言えるようなところがある。また逆に自分の意識
は相手の意識の一部である、と言えるようなところがあ
るわけです。
私自身はこれまでは面倒くさい方は嫌だ、と避けて通る
ような選択をしてきたところも多かったです。しかし面
倒事を避けて通るような選択だけが良いものかどうか。
場合によったらこれは面倒事、この人は面倒な人と分か
っていても丁寧に付き合ってゆくべき場合があるのでは
ないか。相手が自分の一部であり、自分が相手の一部で
あると考えるなら、本当に相手を尊敬するにはどのよう
な行動をしてゆけば良いのか、このような考え方に変わ
って参りました。
そこで私は人から相談や協力を求められることがあるわ
けですが、これまではあまり近づかなかったメンヘラ気
味の人や自己主張の強い人にも友として丁寧に対応して
ゆこうという気持ちになりました。その結果現在五名の
方の支援・サポートをしております。
そうしますとやはり大変で、夜遅くまで、というよりは
朝まで電話の相手をしないといけなくなったりして毎日
大変ではあります。
大変ではありますが自分を相手の意識、智惠や力の一部
になるように意識して応対を続けています。
要は自分が「よかれ」と思う考えや方針を押しつけない
で、相手を尊重して相手の気持ちに添って丁寧に対話し
てゆくのです。
その結果相手の方も時には辛い現実が心に迫った来て泣
き出したり、乗り越える地震と勇気が湧いてきて笑い出
したり、表面的には本当に目まぐるしく大変なのですが、
しっかり観察していると少しずつ考え方や生活や行動が
以前より前進していっているのがわかります。
>853
地震と勇気→自信と勇気
こんにちは。
今晩は満月です。
正確には6日午前3時ということのようですが、今晩の月
は満月と言って良いのでしょうね。
4月20日は新月でした。新月は昼間に月が出るので、
夜空には月の姿が見えません。
あるべきものがなく、あるべき月の姿を慕って夜空を眺
める、新月にはそのような風情(ふぜい)があります。
見えないが故になお恋しい。それはまるで会えない間の
恋人の心情と重なるのかもしれません。
そして夜ごとに少しずつ姿を変えてゆき、15日を隔て
て見る今晩の月は完全な円相をしております。
15日前に心に描き待ち望んだ姿そのままの月の姿なの
です。
それはまるで何かが成就したかのような面持ちがありま
す。
月の満ち欠けの姿は人が一つのものに向けて進み、やが
てそれが成就し、そしてそれが役目を終えてまた新たな
ものに向けての歩みが始まる、そのようなサイクルを示
しているのかもしれません。
さて私は昔、人生の目的とは何か?と自問したことがあ
ります。するとすぐに心の中に答えが返ってきました。
「愛と慈悲である」
慈悲の意味はすぐにわかりました。しかし「愛」って何?
愛の意味が分かりません。
もちろん恋愛の「愛」という言葉は分かっています。
親が子を愛する、という意味も分かっています。
しかし、そもそも「愛」とは何?
これが分かるようで一向に分かりません。
それ以来私にとって「愛」は謎の言葉となりました。
それは分からないはずです。私には魂の歴史の中で「愛
の実践」が欠けていたからです。
愛は男女の愛から始まると申します。
男女というのはお互いに欠けた月のような存在なのです。
欠けた月同士が一つに合わさって満月に成ることを求め
るかのように異性のつがいを求めます。
ところが私は転生の過程ではそのような男女の在り方を
求法の道を妨げるものと遠ざけたり、時には妻子を捨て
たりした過去世もあるようです。
なぜ私が「愛」を遠ざけてきたかといえば、それは性の
問題があります。性の問題は常に酒とヒャッハーがつき
まとうので大嫌いなのです。好き嫌いの感情問題が入っ
てきてしまうのです。
しかしながらこの世の中の諸問題を考えて見ると実は驚
くほど性の問題が深く関与しております。そこで改めて
性とは何かということを研究してみました。性にはいろ
いろ社会的なタブーがかかっておりまして隠されている
ことが多いです。しかしそのようなタブーや社会的な価
値観は一切無視して納得ゆくまで調べてみることにしま
した。
幸いにネットの時代になっておりますので調べようと思
うと社会的に隠されていることでも何でも調べることが
できます。そうして調べてみますと驚くべき事に私の見
方がものすごく偏っていたことが納得できました。
それはどういうことかというと、性は本能の感情が入り
ますのでいかがわしいモノという見方をしていたのです。
多くの性を題材にした映像作品がありますがそれらから
受ける印象もあまりよろしくないモノばかりです。
ところが実写記録的な映像を見てみるとそうした印象が
一気に覆ってきました。
なんと実写記録の映像をたくさん見てみると、「これは
めでたいこと」という想いが自然に起こってくるのです。
今までと真逆ですね。
以前私が教えていた塾で女子中学生が彼氏を作ってセッ
クスするようになりまして、その時はもう彼女は塾を辞
めていたのですがわざわざ訪問して「こんな素晴らしい
ことをなぜいけないというのかわからん。もっとしたら
よいと思う」と発言しました。そのとき周囲で勉強して
いた他の女子中学生は耳ダンボになってるのがわかりま
したが、まぁ私としては同意せざるを得ませんでした。
「せやな」
「愛」の理解の時に一番妨げになるのは「性」の問題か
もしれないと思います。
以前これも一度お話したことがあるかもしれないのです
が、2011年の冬、私は通信で「愛」と「性」につい
て訊いてみたことがあります。
愛の意義を明らかにすることと性の意義を明らかにする
ことではどちらが重要か?
これに対する回答は「性の意義をあきらかにすること」
でした。愛の意義を明らかにすることが100点だとす
ると、性の意義を明らかにしえたときには150点も、
いやそれ以上の価値があるというのです。
その通りだとすると、それでは愛と性とは別々の問題な
のか?という疑問もおこってきます。しかし当面それは
おいておくとしましょう。
私は通信という方法で「智」とは何か?という問題に一
つの回答を出し得たと思います。「智」とは存在の認識、
そして存在との対話である、ということですね。
私達は見える存在、そして生きている人間だけが対話し
うる存在だと思って生きてきたわけですが、実際はそう
ではないのだ。貴方たちが一緒に生活しているペット達
だって意志を持っていて対話可能だし実際に多くの方は
言葉は違え対話していると思います。
そして実は意識してないけれども、私達の守護・指導霊
と呼ばれる意識存在達がいて、彼らと私達は日常的に心
の中で対話しているのだ、ということを申し上げました。
そして彼らの存在を意識することで心の中の守護・指導
霊との対話はより活発化してゆくのだということを示せ
たのではないかと思います。
また守護・指導霊だけでなく、ペットや他の動物や、そ
して植物や鉱物やモノにも意識があって、それらと対話
が可能なのだということですね。これが智惠の本質であ
る、というわけです。
このようなことを2011年から2012年にかけて明
らかに出来たのではないかと思います。
そして2012年から私は意識エネルギーの研究に入り
ました。そのきっかけは私に師匠が出来たからです。こ
れも何度かご紹介したことなのですが、ある夜ネットを
通じて一人の方が語りかけてきました。この方を縁とし
てそれから毎日私はエネルギーの送信方法を訓練するよ
うになりました。
そうして意識エネルギーに関して様々なちょっとした体
験を積んでゆく事で、どうも私には意識エネルギーの駆
使について素質があるらしいことがわかりました。
なぜかというと、特に教えてもらわなくても力の使い方
が分かるからです。恐らく意識エネルギーについての知
識と経験が、すでに私の魂の中には内在されているので
教えられなくてもわかるのでしょう。
こうした経験を経て、なんと性の本質はエネルギー現象
である、という認識に至るようになりました。
つまり私達が「性」と呼んで秘密めかしく扱っている現
象の本質は男性と女性という異なった性質のエネルギー
が循環し調和される際の感覚について述べたものなんだ、
ということです。
つまり性の本質は男女のエネルギー循環であり、エネル
ギー(生命力)の本質に迫る体験である、ということで
す。
言い換えますと、もっと真剣にセックスすべきである、
ということになりまして、先ほど紹介した女子中学生の
言葉に激しく同意、ってことになりますね。
こうして「性」の意義は理解し納得していったので、あ
とはお相手を見つけて実践してゆけばよいということに
なりす。しかし「愛」と「性」が別概念であるならば
「愛」とは何か?という私の初期の疑問は放置されたま
まになってしまいます。
そしてこの疑問は「自分という存在、自分という意識は
相手のと関わりの中で存在している。即ち相手とは自分
である」という認識にによってようやく解消されること
になったのです。
自分と相手との距離感ですね。
これまで私は相手とは自分と相対する別存在として捉え
ていたところがあったのです。
自分とは異なる他人なのだ、という意識ですね。
しかし自分という存在を深く考えてゆきますと、私達は
想い考える存在です。そしてその想いや考えは言葉とイ
メージによってなされます。つまり私達はいつも心の中
で何らかのイメージをもったり心で言葉を発したりして
おります。
そしてこの心で発する言葉とは何か?と考えて見ますと
これは意識エネルギー的な見地で見ますと「音」にイメ
ージ(意識エネルギー)を込めたモノ、ということがで
きます。
つまり、音を発することによって特定の意識エネルギー
を伝えたり、自分自身がそのエネルギー状態になるとい
うわけです。
そうしますと私が「相手」という言葉を使い、「相手」
を意識したときにはどのようなエネルギー状態になって
いるかという疑問が出てきます。
私はこれまで「相手」を意識するときに自分とは別なモ
ノ、別な人、自分と区別する壁を作る相手、として意識
してきたのです。
ですから「相手とは自分ではないものだ」だったのです。
この考え・イメージは実は愛にたどり着けないんです。
私がずっと「愛とはなにかわからん」と感じ続けていた
原因はここにあったようです。
「智から愛へ」というスローガンで真理の追究、法の追
求、自己の追求をしてきたわけですけれども、「智」は
明らかになったけれども「愛」で足踏みしてきたわけで
すね。
なぜ相手と自分に壁を作るイメージがあったかというと
人と接するのが煩わしく感じるところがあるからなんで
すね。
人は思い通りにならないじゃないですか。説明しても分
かってくれないしあれやこれや厄介事を押しつけてきた
りするし、自分が何かやりたいことを邪魔しに来たりす
るじゃないですか。特に、間違ったことを言ったりやっ
たりしているのを見ると許せなくなってしまうじゃない
ですか。
こういうのがすべて煩わしいので人が入って来れない一
線を引いてしまえ、ってわけですね。
ところがこのような人と自分を隔てるイメージが身内と
外の人間という二種類の人間のイメージを生み出し、人
との間に壁を作って「愛」の理解を妨げていたのです。
自分の意識が相手との関係性の中にあり、相手があるな
かで生まれ活動していたことに気づいたときにこうした
考えは崩れてゆきました。相手と自分の間に壁を作って
自分を守る考えではダメだとはっきり分かりました。
人と付き合うのは面倒くさいです。しかし愛とはそもそ
もそのように面倒くさいモノなのだ、ということですね。
悟り(理解)と諦めは似ている、というのはこんなとこ
ろにも言えますね。
「愛とは面倒くさいモノだ」と言えばまるで諦めの言葉
みたいに聞こえるじゃないですか。でも違うんですね。
覚悟の言葉であります。
そこで私も考え方を変えまして、いろいろ助けろ下さい
って言ってくる京都の友達にも面倒くさがらずに対応す
るよう心を入れ替えました。
彼氏と別れて復縁したいと毎晩泣いて電話してくる元教
え子ちゃんにも説教したり突き放したりしないで朝まで
話を聞くようにしました。
そうしてみて分かったことがあります。愛の心を豊かに
持ちましょうなどと言われるわけですけれど、愛の心を
中心にして生きておりますといろいろ頼られたりなつか
れたりするわけですよ。しかし同時に頼られたりなつか
れたりするのはどうも3人程度が限度かなぁと。どう対
応しても時間が足りません。
そこで私は思うのですが、世の中には愛を必要としてい
る人々がたくさんおられます。
需要はたくさんあるわけです。
しかしそれに対して供給は足りているのか?
「お金で買える愛」の供給は十分足りてるように見える
のですよ。しかし無償の愛の供給が足りないように思え
るんです。
そこで私が思うのは、できるだけ多くの方が「愛」に目
覚めて無償の愛を必要とする人々に支援の手を差し伸べ
ていって頂きたいなと。
無償の愛の支援はきっと「愛から慈悲へ」のとっかかり
となることでしょう。
さてそういうわけで今晩は満月で願望成就の予兆を現す
めでたい夜でもあります。
「智から愛へ」、私にとってはこの命題を完成させる
「愛」のピースがようやく揃った、といえる晩でもあり
ます。
そしてここからまた「無償の愛の実践」という実践課題
が続いてゆくのですね。
ずっと一緒にいてくれてありがとうありがとうありがとう大好き
こんにちは。
今晩は実質新月でして、深夜、つまり20日の午前一
時が新月になるのだそうです。
私は新月のイメージが苦手です。新月のエネルギーで
エネルギーワークしてみたいといつも思うのですが、
どうイメージしてよいか分からないからです。
しかしまぁ今晩は改めて挑戦してみようと思います。
いろいろと頼まれ事があったり、エネルギーの調整が
難しかったりで落ち着いて投稿できなかったのですが、
とうこうも出来たら再開します。
お久しぶりです。皆様お元気のことと存じます。
さて、前回の投稿を見ますと2回前の新月の日でした。
実はその後すぐPCのLANが使えなくなりました。モバ
イルからは規制されていてしたらば掲示板には書き込
みできないのでPCの修理が必要になります。
ところがこの間自家用車を始めて私の周辺の様々なも
のが壊れる現象が続いていました。これはすべてを一
新する時期が来ているのだなと判断して、PCも修理で
はなく更新することに決めました。
ところがここからが苦労の始まりです。
私のPCは自作してもう7年前後経つのでしょうか、AMD
のRyzenが出る前の型であるA10プロセッサーというの
を使っていました。
その後いざというときのためにと思い、一枚予備のマ
ザーボードを購入したままになっていました。現行の
マザーボードはLANが死んでしまったようですから今
回はこの予備のマザーを使って組み直すことにしまし
た。
壊れたPCは時々フリーズしたり画面にノイズが入って
うまく起動しない現象が起きていましたし、ネットを
使うと画面が引っかかる感じもします。この際CPUも
新調することにしました。
ケースとドライブ類は流用することにして、Ryzenの
値段のこなれてきたAPUを購入して組み上げてみたので
すが、なんと電源すら入りません。
Ryzenプロセッサーも世代がたくさんありますので購
入したCPUにはBiosが対応してないかも、とは予想し
ていました。しかしまさか電源が入らないとは思って
もいませんでした。
ここからが苦労の始まりです。あれやこれや試行錯誤
してようやく動かしてWindows11にアップグレード
するまでになんと2か月もかかってしまう結果になり
ました。
さてPCをようやく更新することが出来ましたがいったん
触り始めると次々と気になるところが出てきてしまいま
す。特にデータの整理に問題があります。二日ほどかけ
て取りあえずの整理は終えたのですが、今後のことを考
えてきちんと(投稿も含めて)仕事が出来るようにして
いきたいと思っています。
現代人にとっては車やパソコン、スマホなどは自分の一
部のようなところがあるので、その使用状況やデータの
整理状況は霊的な意味でも注意を払うべきで、できるだ
けスッキリと清潔な環境を保ってゆく必要があると思わ
れます。
アラサーちゃんおひさしぶり
コメントはあまりしなくなったけど記事は読んでるから更新続けて下さいね。
ちなみに俺は車は事故しながらなんとか免許維持してるけど、PCやスマホはいまだに使ったことがありまそん。
ひたすらガラケーですわw
こんばんは。お久しぶりですね。
事故っちゃったんですか?お大事にして下さいね。
依頼されていた作業もありましたのでしばらくの間PC
復旧に注力していたのですが、そのためもあって寝不
足になり肉体的なバランスを崩してしまいました。い
まは自身のエネルギー調整が上手くできなくなって回
復まで1週間かかるかもしれません。
それまではあまり投稿は出来ない模様です。
こんばんは。
今年の8月は満月が2回もある少し特別な月になりま
す。2日と31日が満月なのです。
月は地球の周りを楕円形の起動を描いてまわっている
のですが、今月の満月は両方とも月が地球に最も近づ
く時期に当たるのでいつもより大きな月が見られるこ
とになります。2日の月が満月になる正確な時間は午
前四時頃ということでしたので満月浄化の呼吸をしよ
うと狙っておりました。
2日午前3時25分頃、家を出て少し離れた海岸まで
車を走らせました
私は浄化のワークをするときは基本満月をイメージし
て、息を吸うとともに月の浄化の光が全身に吸収され
たり魂の様々な部分を月の浄化のエネルギーがビーム
になって浄化してゆく、というイメージングをやって
おります。その時にまず天空に浮かぶ満月の姿をイメ
ージするわけなんですが、やってみるとこれがなかな
か難しかったりすることがあります。
だから満月の下で浄化のワークをしたいというのは、
そこで満月の姿をしっかり眼に焼き付けておきたい、
という気持ちもあるのです。
さて2日の4時前頃から満月(浄化)の呼吸を始めま
した。小一時間もするうちに月はすっかり西の空に傾
いてゆきます。それにつれて東の空と海面は次第に明
るさを増してきます。そんな海の様子を写真に収めな
がら光の変わってゆく様子に心奪われておりました。
月はどうなった?とふと西の空をふり返ってみると、
先ほどまでの黄色く輝く月の姿は消えて代わりに赤い
月が西の工場の屋根にもう沈もうとしているのです。
カメラを向けると赤銅色をもっと濃くしたような月の
姿が確認できます。
これは珍しい、こんな赤い月は初めて見たわ、と思って
撮った写真を確認してみたのですが、あらためて見ると
ちょっと不安になりそうな色をしておりました。ウサギ
の模様の部分が赤黒く写るのがちょっとね。
夕日が赤くなるのと同じ現象だよな、とは思っていても
やはり気になります。「赤い月が撮れたよ」と友達に自
慢しようと思っていたのですが、だんだんと自粛の方向
に気持ちが変わっていってしまいました。
その日の夜も、一応満月の日ということで、再び海岸
に出かけて満月浄化のワークです。こういうのは日付
が変わるとダメなので夜11時頃に出かけて12時前
まで約1時間のワークです。空には色々な形の雲が出
ていてなんだか乱雑なのですが、月は明るく幸いに雲
にも遮られていません。
そこで取りあえず月の写真を、と思ってiPhonのカメ
ラを通して月を眺めてみると、なんと肉眼では全然分
からなかったのですが薄く雲が前を覆っているのをは
っきりと写し出しているです。
今時のスマホカメラの性能に驚きつつも約1時間の浄
化のワークを終え、海岸の写真を撮っておりました。
月明かりの薄暗い海岸がスマホを通してだとまるで昼
みたいに明るく見えます。それを写真に撮ってみると
2秒ほどの長時間露出になるのですが、自動手ぶれ補
正が効いてほとんどブレの無い明るい写真に仕上がる
のです。
さて海岸から再び月に目を戻すとそこで異様な光景を
見せられて目をそらせなくなってしまいました。大き
く口を開けた細長い雲が右手側から一直線に月に向か
っているのです。
まるで蛇が身体を伸ばしたようだなぁと思いながら眺
めていたその雲は、ちょうど頭に当たる部分がまるで
ゲームのパックマンのように丸く大きくて、パカッと
口を開いて進んできます。その姿がちょうど私の立っ
て居る場所からだと月を飲み込むために一直線に進ん
でいるように見えるのです。
まるで私に見せつけるかのようで、あまりにも不自然
な雲だなぁと思っていると、もう一つ不自然なことに
気がつきました。それは雲の高度です。
どう見てもその雲だけ高度が数百メートルほどしかな
く、他の雲とは明らかに高度が違うのです。
雲を呼び起こすことは意志の力で割と簡単にできるそ
うです。浄化のワークを終えた頃合いに突然湧き出た
不審な雲は、何者かの意図が雲の形に現象化したもの
かもしれない。あるいは月を呑むという形自体が私に
対する一種の呪いのようなものかもしれない…。
そう思いながら成り行きを見守っておりました。
ところが次の瞬間また不思議な現象が起こってしまい
ます。
蛇のような形の雲の頭がまさに月を呑もうとした瞬間、
なんと雲が頭からちりぢりに消え始めたのです。
なんとその雲は直前まで月に近づくことは出来るので
すが、月にタッチしようとする瞬間次々と砕けて綺麗
に消失していってしまうのです。とうとう最後には一
直線に月に向かってきた長い雲の尻尾の先まで月の直
前まで来て空に消え去ってしまいました。
もう空には異様な雲のかけらも残っておりません。
月は相変わらず煌々と輝いておりますし、高空の雲は
相変わらず巻雲のような雲や積雲が残っていますが、
1時間前と比べると随分数が少なくなって、カメラの
目を通しても青い空の部分のほうが大半を占めていま
す。
私はあまりにも作為的で示唆に富んだこの雲の現象を
見て、やはりこれはこれからのことを暗示する現象の
一つなんだろうと思わないではいられませんでした。
全くの偶然とはとても思えないのです。
不自然な雲を起こした存在は何なのか?自然界の存在
なのか、それとも宇宙存在か、あるいは人間か。もし
人間だとしても、それは特定の個人か、集団か、ある
いは人間の想念が集団化して個性を持った妖怪的な存
在なのか。
可能性はいろいろと考えられます。
いろいろ考えられるのですが、そこに出てきた結果は
一つで、「月はきずつかない」ということです。
月は仏教では「真如の月」と申しまして仏性、即ち人
間の本質の光によって一切の煩悩が晴れることをたと
えております。まさにその例え通りの寸劇を見せられ
た感じです。
それではこの寸劇は守護指導霊などの見えない世界か
ら私達をサポートするサポーター集団が励ましのため
に見せてくれたのか?というとそうではないと思いま
す。彼らは一時的にでも人を不安になるように導いた
りはしないからです。
私達の本質、即ち仏性は傷つくことはありません。
しかし現実問題として私達は絶え間なく様々な苦難、
苦労に晒されることが多いのも事実です。そして自
分の中に、煌々とした光が輝いている、なんてとて
も信じられないよ、という思いになることも多いこ
とでしょう。
なぜこんなにも本質と現実がかけ離れてしまうのか。
これが「苦」とは何か?という難問ですね。
この答えに正確な回答を求めようとすると、すっか
り話が長くなってしまうと私は思います。
仏の教えは単純でして、まず人生の苦を認識すること、
次に苦の原因を知ること、次に苦の原因を取り除くこ
と、次に人々を幸せにするために力を尽くすことであ
ります。
すべて物事には原因がある。その原因を理解し、原因
と結果の道理を理解し、良い原因を作り善い結果を作
ってゆくことが大切だ、というわけです。
これは科学的思考そのものですね。つまり仏教の本質
は科学なのです。
といいましても仏教の立場は現代の物質中心の科学で
はなく、心と行いの科学と言えるでしょう。
さてそこで苦の原因を探ってゆくと、実はこれが一筋
縄ではいかないことに気がつきます。あまりにも複雑
でお手上げになってしまってもう気持ちが楽になりた
いために、どこかで悪玉を作り出して、お前のせいだ
ー!ってストレス解放したくなってしまいます。
アメリカのせいだー、政府のせいだー、自民党のせい
だー、ロスチャイルドのせいだー、自由主義のせいだ
ー、共産主義のせいだー、ロシアのせいだー、中国の
せいだー…と相手には事欠きません。
しかしそうした行為そのものがまた苦の原因を作って
いるのです。
なぜ苦の原因を把握するのが難しいのか。
なぜ苦が生じるのかを知ろうとすれば、まず人間とは
何か、意識とはどのようなものを知る必要があります。
ここでまずたいていはダウンしてしまいますね。なぜ
なら人間も心も、その行動は分かりますが、内面は見
えないからです。
見えないものを正確に理解しようとするのはとても難
しいことです。
逆に「見る」という能力がどれほど素晴らしいもので
あるのか、「見ることは知ることである」という言葉
があるように見ることができれば一瞬で理解を深める
ことができるものです。
そのために私達は常に物事の現場に赴いて自分の目で
見る、という努力を怠ってはいけないと思います。
私達はテレビや新聞やネットでの見聞だけで分かった
ように思ってしまうことが多いのですが、実はそれだ
けでは全然足りません。なぜなら他人の目を通したも
のは少なからず他人の理解に染められてしまうからで
す。人の理解力には大きな差異があります。だから他
人の理解を鵜呑みをすることは大きな危険を孕んでい
ると言えるのです。
ここで一つの例を挙げてみたいと思います。2003年の
福岡市での事件です。
これはWikipediaにも掲載されておりまして題名は「福
岡市『教師によるいじめ』事件」となっております。
2003年、朝日新聞が教師による児童への虐め事件とし
て大きく報道したことから騒ぎは始まります。
福岡市の男性小学校教師が、4年生の「アメリカ人を
先祖に持つ」児童に対して人種差別に基づくイジメを
常習的に行い、自殺を強要するような発言さえ繰り返
した、とされるものです。朝日新聞の報道によって教
育委員会は教師を停職6ヶ月の処分にします。身の潔
白を訴える教師の訴えは無視されてしまいます。
やがて週刊誌などが後追い報道をすると新聞、テレビ、
他の週刊誌などのマスコミ各社も獲物にたかるハイエ
ナのように食いつき報道合戦を繰り広げます。そりゃ
こんな話が実際にあったらワイドショーのいいネタで
すもんね。教師側の潔白の主張など顧みられることは
ありません。
週刊誌の報道を待っていたかのように児童の両親など
は約500人の大弁護団を結成して市と教師を裁判所に
訴えます。
500人の弁護団とか。やることがえげつなさ過ぎて、
被告は心折れそうですね。
話の流れからとっくにお気づきとは思うのですが、児
童と両親側の主張、
・「血が汚れている」と暴言を吐かれた
・耳をつまんで振り回してミッキーマウス、鼻をつま
んで振り回してピノキオの刑にされた
・「行き取る価値がないけん死ね」「まだ死なないの
か、死に方教えてやろか」などの暴言
・児童がPTSDになった
などの主張はいくら調べても何も証拠が出てきません
でした。
それどころか大騒動になったことで殺到していたマス
コミ記者の前で、同級生も一緒になって虐めていた話
のはずなのに、PTSDのはずの児童が元気に一緒にサッ
カーをして遊んでいます。
あれおかしいぞ?とさすがのマスコミもこれはやばい
案件と気づいて潮が引くようにそっと報道から撤退し
てゆくのです。気の毒なのは標的にされた教師ですね。
結局10年後の2013年の判決では、イジメの前提条件だ
った「アメリカ人を先祖に持つ」という話さえ根拠が
認められないとされてしまいました。
第一審の福岡地裁では両親側が勝訴して両親の主張す
る教師側の発言や体罰の一部などは認められました。
なぜなら最初両親が学校に抗議した時、学校側は両親
側の機嫌を取って早く問題を収拾したかったようで、
毅然とした主張をしないまま教師に謝らせてしまって
いたからです。
このことが尾を引いて両親の主張の一部が裁判で認め
られることになってしまったのです。
地裁での第一審で要求した損害賠償額は1300万円。途
中5800万円に増額。しかし地裁の判決は220万円の賠
償命令でした。
>905
結局10年後の2013年の判決では→裁判では
両親側はすぐに控訴します。今度は5400万円の賠償請
求です。途中から教師への控訴を取り下げたので教師
側に対する裁判は第一審の判決が確定してしまいます。
裁判所は和解勧告を出しますが決裂、結局高裁は事実
認定は第一審と同様で市に330万円の賠償金支払いを
命じました。2008年のことです。
しかしもちろん教師にとってはこれで終わりとはなり
ません。市が教師に対して行った懲戒処分取り消しの
戦いが残っています。
教師は市人事委員会に教育委員会が行った処分(停職
6ヶ月)の取り消しを求めます。2013年に市人事委員
会は教師に行った懲戒処分の全てを取り消す裁決を行
います。
これをまとめると次のようになります。
ある日突然父兄が学校にやってきて「教師が児童を虐
待して追い込んでいる」というえん罪を着せられます。
学校は事態の早期収拾を目指してとにかく教師に頭を
下げさせます。
父兄の行動はエスカレート。新聞にたれ込んで事件に。
↓
教育委員会は大騒ぎで両親の主張に沿って教師を処分
↓
週刊誌の記事になり父兄の主張に沿ってあることない
こと報道
↓
裁判
↓
よく調べてみると両親側主張は裏付け取れず矛盾ばかり
↓
教育委員会の処分を元に一審では教師側の不法行為を一部認定
↓
マスコミはえん罪と気づいて逃亡
↓
2008年 高裁判決は一審判決を元に賠償金330万円
↓
2013年 市人事院会により教師の実質的名誉回復
裁判で一部事実認定された事案にしても、現実には何
気ない言葉の言葉尻を捉えて差別だと騒いだだけのよ
うで、「アメリカの方と血が混じっているから、ハー
フ的な顔立ちをしているんですね」という発言が裁判
で差別に当たるので賠償責任があるとされてしまった
ようです。
これは最初に学校や教師側が児童の心を傷付けたのか
もしれないと謝罪したのが原因なのです。もしこのよ
うな発言を全て差別と認定してしまうならば世の中口
にチャックするしか無い不自由で苦しい世界になって
しまいます。
つまりこの事件は一教師の苦しみを招いたものなので
すが、実はそれに止まらずマスコミを利用して日本人
全体が自由にモノを言えなくし、日本人全体を苦しみ
に陥れるための罠のような側面があるのです。
もし最初学校側や教師側が単なるお人好しでは無く、
人間に対する深い理解を持って真面目に対処していた
らこのような事態は起こらなかったでしょう。
またもしマスコミの記者が一方的な伝聞や決めつけで
なく、自分で足を運び関係者や当事者に当たっていた
ならばえん罪は防げたのかもしれません。
記録だけをみれば、もしマスコミ各社や学校側が両親
ではなく被害者とされた児童と直接会って話を聞いて
いればえん罪だとすぐ見抜けたのではないかと思われ
ます。
もちろん両親側はなんだかんだと理由を付けて直接の
接触など認めようとしなかったとは思われますが。
この事件のように物事を正確に理解しようとするとな
かなかに難しいことがあるのは事実です。しかし自分
の目で見ることによって一瞬で判断できてしまうこと
が多いのもまた事実なのです。
さてこの場合の苦の原因は何だったかというと、表面
的には
①問題の早期収拾を狙って安易な対処をしてしまった
②ジャーナリストがまず真実ありきでは無く両親の主
張を鵜呑みにした
という原因があり、それでは教師がなぜこのようなえ
ん罪(苦しみ)に逢わないといけなかったのかという
と過去からの因果の巡り合わせ、のような答えが用意
されるでしょう。
しかし私はそれだけで良いのかな?と疑問を持ちます。
つまり、そんな話だけでは納得できねーよ、というこ
とです。
上に挙げた苦の原因は自分に原因を求める生き方です。
確かに原因を自分に求めるのは原因追及の基本のキな
のです。
仏教はこう教えます。
結果には全て原因がある。原因と結果は繋(つな)が
っている。だから自分に生じた結果は自分の作った原
因と繋(つな)がっているんだ。だから悪い原因は修
正し、良い原因を作ってゆく事だ、と。
そしてそのための道、方法として八正道という生き方
を示しております。あるいは受想行識という意識進化
の在り方を教えております。
受想行識という言葉は私に言わせると経験そのものの
ことであり意識進化のサイクルでもあり、これを具体
化すると八正道になると思います。
つまり物事を正しく受け止める「受」という機能は八
正道では「正見」と表現されています。
正見というのは物事を色眼鏡でなく正しく受け止め判
断するという意味ですが、先ほどの福岡の教師えん罪
事件で言いますと、教育委員会やマスコミが児童の両
親の言い分だけを聞いて判断した、というところに問
題があります。父兄が正しいという色眼鏡です。
次に「想」という機能は人間の心の働きの中心を担う
ものです。表面的に言うと思う、考えるということに
なりますので八正道で言いますと「正思」や「正念」
にあたります。
念というのはまぁ常に持っている目的意識と言い変え
てもよいかもしれません。私達は一般的に言って幸せ
になりたいという念を持っています。これが更に細か
くなって、例えば「あの人と結婚したい」「この仕事
で成功したい」「今度のテストで良い点を取りたい」
などという念を持ちがちです。それ自体には問題はあ
りません。
「正思」の「思」というのは私達の常に移り変わって
いる思いや考えのことですね。私達は水が流れるよう
に常にいろんな事を考えていて、この水の流れのよう
な考えの流れによって仕事をしています。
例えば工場で製品の監督をしていて、「うん、正常に
機械は動いているな。おや?あの製品はちょっと違和
感があるな。ちょっと取り上げてチェックしてみよう。
あ、やっぱり製造不良がある…」みたいに想念、思い
は次々流れてゆくのですが、それによって仕事や人間
としての活動が出来ているのです。
更に私達の「思い」、「考え」をよく観察してみると、
そこには大きく二つの種類の考えや思いがあることに
気がつきます。
それは中学英語の「be動詞」と「一般動詞」という話
を思い出して頂くと分かりやすいのですが、I am、
You are、 He isなどと言うときのam、are、isなどの
be動詞なのですが、これは「居る」とか「在る」とか
「存在する」などの意味を表す言葉です。本質的な意
味は「存在する」「〜として存在する」という意味だ
と思われます。
モノやコトの「存在」を示す言葉なのですね。
従って日本語で言うとちょっとカッコ良い「我在り」
って言葉も「オレオレ。オレやん」って言うのもどっ
ちも英語では「I am.」になってしまうと思います。
自分の存在宣言ですからね。
このように存在を定義する言葉はそのモノ自体の存在
だけでなく、そのもモノや人やコトの状態の宣言にも
拡がってゆきます。例えば「I like it.」と言えば私
の心が「それを好きな状態なんだ」と宣言しているこ
とになります。このような状態を表す動詞を一般動詞
のなかでも「状態動詞」と呼んでいます。
このように状態を現す動詞にはliveとかloveもそうな
んですね。「住んでいる状態」だったり「愛している」
状態を表す言葉だったりするわけです。
こうした状態を表す言葉の中でも特別な位置を占める
言葉がbe動詞なんです。これは存在そのものを示す言
葉でありますから意識世界で言えばこの言葉が発せら
れたらそのモノやコトや存在してしまう、つまり創造
の力を持った言葉である、ということが出来るのです。
なのでこれだけ他の動詞と区別して特別に「be動詞」
という名前をつけて意識するのです。
もう1種類の動詞は「動作動詞」と呼ばれています。
これは何かを「する」という動作を現す言葉です。
walkとかrunとかswimとかworkとかいっぱいありますね。
こうして考えてきますと私達の思いや考えというのは
主に2種類に分けることが出来まして、一つは「あれ
はこうだ」「これはああだ」「これがある」「それが
あるんだ」というような存在や状態に関する考えです。
もう一つは「自分はこうしたい」「あの人はこういう
ことをした」「これをこうしよう」などという行為、
行動に関する思いや考えなのです。
そしてよく考えますと、「あれはこうだ」とか「こう
いうときにはこうしないといけないんだ」とか「あの
人はそういう性格なんだからこんな風に言っても伝わ
らないんだ」というような、状態動詞的な考え方は、
私達の思考や行動の枠組みを作ってしまいます。これ
を私は「設定」と呼んでいます。
そして一旦出来たこうした物事の枠組みみたいな考え
方を認識と呼ぶのです。
一旦出来た認識は人によってはなかなか強固になって
容易に考え方を変えることが出来なくなってしまいま
す。
本来、人の考えは水のように柔軟で自在なものですね。
ところが一旦認識が出来上がるとまるで平野や町中に
水路を引いたみたいに決められたところ以外には思考
が流れなくなりがちです。よく自分を見つめ直してみ
ると考えがいつも同じ所をぐるぐるしていることがあ
るのは皆さん覚えがあると思います。
それは認識の限界に達しているのです。このようなと
きにはもっと高い立場とか、別な立場から広く周りを
見渡すように認識を広げてゆく必要があるときです。
さて「苦」と「苦の原因」、苦の原因を突き止めるた
めという視点から見た「八正道」と「受想行識」の話
をしておりまして、「想」のところの途中まで話は進
みました。
私が思いますに「苦」を理解するには、人間とは何か、
意識エネルギーとは何か、存在とは何かというような
理解が欠かせないと思うのです。
こんな話をしてますと話が長くなってしまうし、昔の
環境ではとてもそのような話をしても誰も理解出来な
いのでお釈迦様は仏を信じて八正道に励めというよう
な指導をするしかなかったと思うのです。
しかし新しい世紀に入って通信環境が整備され、スピ
リチュアリズムが大きく発展してきました。そのため
「信じて行え」というような指導方針でゆかなくても
一人一人が徹底的に追求して納得できる時代に入って
きたのだと思います。
現代において指導者の言うことが絶対なので指導者の
言う通りにしなさい、などと指導しているような所は
全て眉唾だと私は思います。
明日以降も引き続き私の「苦」の追求の話を続けたい
と思います。
てすと
おひさ〜
>>私達の本質、即ち仏性は傷つくことはありません。
これに対しては疑義があるね。
全てのものが変化していくのが真理。
物質=エネルギーで最終的にはニュートリノで拡散か、またはBHに閉じ込められるか。
まあ、変化してるだけで傷つかないっていうなら人間じゃなくてもいいじゃん?
全てのものがそうなのだから。
苦、か。
俺の目線から言えば2種類だね。
一つは感覚による直接的なもの。眼耳鼻舌身から得られる生体にとって悪条件による苦。
もう一つは知による苦・比較することで自らの心理によって苦しむ苦。
こんばんは。
何日か徹夜が続いてしまって、日中ある程度は寝るの
ですが睡眠不足になってしまっています。
エネルギーバランスはなんとか維持できているので一
時よりはかなり楽なのですが、土日は改めてバランス
を取る作業が必要だと考えています。
10日金曜日には二ヶ月ぶりにいつもの霊能師さんを訪
問して現在の私のエネルギー状態について第三者とし
ての意見を求めてきました。結果は順調で、送信能力
も伸びているとの判断でした。
前回。確か六月始めに霊能士さんを訪れたときには、
今やっているやり方(送信方法を変えたので)を7月
中には完成して下さい、というようなことを言われて
いたのですが、どうやらそれは達成できたようです。
それは、これまでは意識エネルギーを送信するときは
対象の方角を特定して対象を具体的にイメージし、集
中してエネルギーを送る、というやり方でした。
しかしこのやり方ではいちいち対象の位置を画定する
のが大変です。
そこで、意識に上下左右無しという原理から考えて、
相手と繋がるのに場所を画定するのは必ずしも必要な
いのでは無いか?と考えました。そこで三次元空間的
な位置関係では無く胸の空間から繋がってゆくイメー
ジに変更したのです。
最終的にはそこからさらに図形を応用した送信方法に
今は変わってきています。この方法で自己評価では送
信量が安定して増大していたので、それで正しいか確
認をしに行ったわけです。
第三者(霊能士さん)からの評価も肯定的でしたので、
この件はこれで良しということですね。
今回はその後お互い個人的な情報交換をして帰りまし
た。特に報告するようなことも無いと思うのですが、
少し興味深かったのは、最近霊能士さんを訪れるお客
様の相談内容が今時のスピリチュアルな話題に変わっ
てきて、ついてゆけないという話がありました。
何の話かと思ったら、ツインレイの話なんですって。
私の頭の中にツインレイの男性が語りかけてきて…
って言うんだそうですよ。
いやそれツインレイって…。ただの憑依やん、って思
ったわけですけどね。
ツインレイの話を私が始めて知ったのは2014年か15年
くらいだったと思います。そのサイトは当時すでに更
新は止まっていて、記録だけが残されて公開されてい
ました。その話を読んでみますと、やはり当時私にと
って知っておくべき情報が含まれておりました。
その後YouTubeを見ておりますとある辺りから急にツイ
ンレイの話が増えてきたように感じます。そしてその
話というのはたいていロマンティックな恋愛物語とし
て語られているようです。
私はツインレイの話はそういう恋愛系のお話とは少し
違うと思うんですけどね。
人は何でも恋愛に結びつけたがりますし、恋愛に結び
つけることでお金に変えてゆけますけれども、そうい
うなんでも恋愛という方向性はどうなんでしょう。
やはりちょっと違うんじゃないでしょうかね。
しかしツインレイの話は、性とは何か?という本質の
問題と深い関わりのある話ではあります。性とは何か
という話をしてゆく以上、ツインレイという話題もい
ずれ避けることは出来なくなることでしょう。
>927,>928
仏性は傷つくのか傷つかないのか…。随分細かく難し
いことを考えておられるんですね。私はざっくりして
いるのでそんなことまでは考えないのですが、ただ仏
性のいう言葉の定義の問題もあるように思います。
魂と考えればそれは傷つくことでしょうし、場合によ
れば消滅消失も考え得るでしょうから。
しかし存在の本質と考えれば存在は存在ですので存在
が存在で無いと言うことは矛盾してしまいます。
そして「苦」ですね。
928氏は感覚による「苦」と意識の矛盾による「苦」
の二つの「苦」を挙げて下さいました。
ところが心の苦しみというモノは、本質的には意識の
矛盾から生じているのかもしれないのですが、もっと
直接的にある種の「力」として感じられたり、肉体的
ではなく心に感じる重さやまとわりつく粘さやうっと
うしさ、考えることすらしんどい困難さなどとして感
じられるモノです。それは肉体的なものではないし、
物質的なモノとは言えないのですが、しかし極めて物
質的に感じられるある感覚なのです。
うーん。ちょっと違うんだよね。
意識の矛盾という高度なものではなく、外部からの情報を知という物差しによって、
他者と比較し、自分が幸か不幸なのか、苦か楽なのか、を判定することによって生じる「苦」だね。
判定する際に矛盾によって苦しむということを内包はしている。
外部から感覚器官への直接的な痛みなどの信号による物理的な「苦」。
外部からもたらされた情報を内部の知によって己が苦しみの状態にあるかを判定することによって苦しんでいる
・それは過去現在未来を内包していることを含む「苦」の二つに大別されると考えている。
極論すれば内と外でしかない。
だが、155はそれ以外にもあると言いたいみたいだ。
簡単な例を挙げると、ブータンにおいての幸福度の低下だね。
ブータンは世界的にみても最も幸福度が高い国家だった。
だが、インターネットなどによる情報を知ることで、
自分たちが世界と比較すると貧しく開かれていないということに気が付いた。
すると幸福度が下がってしまった。
生活レベルなどには変化がなかったにもかかわらず。
これが、他社との比較によって生じる苦。
思うに、仏教というのは哲学であり学問でもある。
だから腑分けをしていくことに特化しているといえなくもない。
それが悪いとは言わないが、事細かく説明に走り矛盾を可能な限り無いように体系を組んできた。
まあ、ちょっと「苦」というのは暗くなりがちだから、別のアプローチもしたい。
別に専門家ではないが、生物学的にどういう風に現象を説明し昇華していくか、だね。
眼耳鼻舌身から得られる生体にとって悪条件による苦、
ってのは言い換えれば生命体=人間が危険などを察知して生き延びられるかを判定するための情報源に過ぎない。
いや、重要な情報源だね。
そして外部からの情報を知という物差しによって、他者と比較し、自分が幸か不幸なのか、苦か楽なのか、を判定し、
過去の事例と現在を照らし合わせて、未来にはより「苦」から「苦ではない状態」へ行こうと模索する意識体が人間だという認識でありたいね。
ちょっと補足というか、苦の話っていうと四苦八苦とか仏教用語を連想するわけよ。
それで五感から伝達されてきた直接的な感覚器による苦しみが簡単に連想される。
それで眼耳鼻舌身という言葉を拾ってきた。
経典を読んでると何回も出てくる言葉なんだが、実際は眼耳鼻舌身意って続く時が多い。
意ってのは意識の事でもある。でも意識ってのは感覚器じゃない。
155が好きな「我思うゆえに我あり」。自我の形成に至った推論可能な未来予測のできる思考。
過去の自分、現在の自分、未来の自分において物質的精神的に不利益があると思考したときに発生する「苦」。
そういったわけで、感覚器による苦(眼耳鼻舌身)と感覚器ではない思考したときに発生する「苦」(意)の2つに大別するということになったのよね。
つまり>>923 >>924 への傍証みたいなものってことになる。感覚器ではない思考したときに発生する「苦」(意)=意識なのだから。
これっておもしろいよね。別のルートを辿ったのに行き着いた場所はほぼ同じ。
でも問題はこれからなのよね。
家族連れでにぎわう週末の高尾山レベルなわけよ。
エベレストはおろか富士山にすら到達してない。
エベレストっていやあ山頂付近で道しるべに使われる遺体があるじゃん?
そういうことかなって思うw
こんにちは。
時間の過ぎるのは早いですね。前回の登校日は12日
土曜日でしたからちょうど2週間経ったわけです。
この間937氏から投稿頂いたんですけど、お返事出
来ないままでした。
昨日はいつもの霊能士さんにお会いしてきました。
というのは、ここ数年は送信量のレベル上げに努力し
てきたのですが、ようやく目標レベルに到達したのか
もしれない、これ以上は必要ない、という感じがして
きたからです。
そこで現在の送信方法に問題点が無いかの確認と、本
当に送信のレベル上げが完了したかどうかの確認に行
ったわけです。
送信方法は常に工夫して、体感を頼りに手を替え品を
替えして最適な方法を探しているわけなんですけれど、
今のやり方で問題ないとの答えを頂きました。
また送信量についても、これを上限にしてかまわない
とのことでした。
この霊能士さんは数字の研究をされている方なので、
ついでに現在の送信量について自己評価の数値が毎回
同じになってしまうのだけど、この数字に何か意味が
あるのかを調べてもらいました。
そうすると、この数字は「縦軸と横軸が和合する」と
いう意味になるのだそうです。だから確かにこれ以上
の良い意味は無いので、これ以上の送信量を求める必
要はない、とのことでした。
霊能士さんの判定方法だとどれか一つでも数字が変わ
ってしまうと意味も大きく変わってきてしまうのだそ
うです。だからこの数字で良いのだということです。
そんなわけで確認が取れたので、これからはまた次の
段階だなぁと思っているところです。
ま、返事自体は気分でいいんじゃないのかな?
155は書きたいことがあるんだろ?
それを書き通すことが本道。
こっちはこっちで、つらつらと風の吹くまま気の向くまま。
そういうのでいい。
>942 登校→投稿
そうですね。そう仰って頂けると気が楽ですね。
ところで、私は945氏の考えを読んでみて、みんな
あまり「苦」という問題に気がついてないのかな?と
疑問に思いました。
「苦」という言葉は端的に言えばいわゆる「ストレス」
なんですよ。このストレスがどこから生じるのかと考
えてみますと、想念や行動の在り方、そこから生じる、
あるいは自分の置かれた人間関係、経済的な問題、肉
体的な病気や怪我などを縁として生じてくるモノなん
です。
仏教では真如ーつまり人間の本質、仏性のことですね、
それを虚空に輝く月にたとえております。
人間はいつも目先のことにとらわれて生きている。目
先にある池を見ればそこには月の姿が映っているが、
その月の姿は波で崩れていつもゆらゆらと、とりとめ
がない。肉体を持った人間というのはまさに風に吹か
れ波に揺れる池の月のようなものだ。
しかし目を上げて空を見上げてごらん。天空に輝く月
はどんな風にも雨にもゆらぐことなく、昔も今も煌々
と光を投げかけている。
人間の本質もあの天空に輝く月のようにいつも変わる
ことなく光り輝いているものなのだ。
しかしこの地上に肉体を持った人間はその本質を忘れ、
少しの地上の波風で我を失い、本質が分からなくなっ
て他人と自分を比べ、あるときは嘆き、悲しみ、ある
ときは怒り恨み妬み、あるいは諸々の欲望に駆られて
本来の輝きから遠ざかり苦しみに沈んでしまう。
苦しみから離れ人間本来の輝きを取り戻すためにはど
うすればよいのか。
それにはまず止観により心の波を沈めて自分と世間の
在り方を中道を軸として正しく見聞することだ。そう
すれば、人間は自分一人で生きているのではなく多く
の人々の協力の下で生きているのであり、また多くの
人々の意識と関わることで自分という意識を保ってい
られることも知ることが出来るだろう。
このことに気づけば自ずと感謝と報恩の心が湧き起こ
ってくることだろう。そして人々の悲しみを自分の悲
しみとし、人々の苦しみを取り除き人々に生きる喜び
を与えることを目指すようになるものだ。
そのためには地上の波風を離れて一日の中で幾ばくか
でも止観をして自分をふり返る時間を持つことなのだ。
そうして一日の自分の思いと言葉と行いを、中道を軸
としてふり返り、足りないところを補い過ちは修正す
る勇気が必要だ。このような努力を積み重ねる中で自
分自身も苦しみから離れ、人々をも苦しみから遠ざけ
ることが出来るのだ、とまぁこのように仏教は教えた
と思うのですね。
これが釈迦時代の、本来の心と行いの在り方を教えた
仏教の教えだったろうと思うのです。
わたしもまぁこの釈迦時代と同じ事を申し上げたいの
ですが、この当時は仏性を月に喩(たと)えていたと
思うのですが、私はいつも心に太陽を主義であります
ので、胸にいつも太陽をイメージするようにしており
ます。
白い光の塊なんですが、よく見るとその中心は青い水
素のガスの塊が光を放っている、そんなイメージをい
つも意識するようにしているのです。
これが私の考える仏性のイメージなんですね。
こんにちは。
ご無沙汰しております。
今晩から投稿を再開します。
こんにちは。
昨晩投稿するつもりだったのですが、体調を崩してコタ
ツで寝ておりました。
というのは、マクドナルドでコーヒーとアップルパイを
注文したのですが、ちょっと異常を感じてトイレに移動
しました。案の定暫くすると突然吐瀉(としゃ)してし
まいました。ゴフッという感じで、ミスの入った丼をひ
っくり返した感じで口から水が飛び出しました。
吐いたらしんどくて嫌だなぁと思っていたのですがしん
どいという感じはしませんでした。
続いてもう一度、ゴフッと同じように口から水を吐き
出して胃の中の者を出し切った感じでした。
>954
ミス→水
実は昨日は早朝に浄化の呼吸をしておりました。
その時になんだかこの浄化の一環で下痢か吐瀉をしそう
だなと、予感があったのです。
最近霊感がついてきたのか、割とちょっとした予感みた
いなのが当たることが多いので吐瀉するとしたらしんど
くて嫌だなぁと思っていたのです。予感が当たった事に
なります。
ですから一見、体調を崩したように見えますが、実際は
浄化の一環で悪いエネルギーを排出したと捉えています。
以前、魂の浄化のために太陽と月の光で浄化するという
呼吸の方法を紹介したことがあります。暫くこれをやっ
ていたのですが、正直難しくてだんだんやらなくなって
しまいました。
「そんな簡単な方法で本当に効果があるのか」というご
質問もありましたので、効果があったら報告しなきゃと
思っていたのですがそこまでいかずに中断してしまいま
した。そこでもっと手軽に出来る方法は無いかな?と思
って通信で教えてもらいました。
その浄化の呼吸というのは次のようなものです。
まず自分が落ちつける環境で心を静かにします。そして
ゆっくりと息を吐ききります。
広々とした草原に輝く太陽を想像します(空中の太陽そ
のものを想像してもよいのですが)。息を吸いながらそ
の太陽の光のエネルギーが頭頂から、あるいは全身から
浸透してゆく状態を想像し、浸透してゆく感覚を味わい
ます。しんどくない程度に数秒息を溜めてからゆっくり
と吐き出します。
同じく天からの光のエネルギーを呼吸で吸収し、吐き出
します。
次に月の光のエネルギーを呼吸で吸収し、吐き出します。
これでワンセットです。
これを私は日天月の呼吸と読んでいますが、通信はこの
日天月の呼吸をまず360回しろ、というのです。そし
て16日土曜日頃にようやく半分の180回を達成した
ところでした。
私はワンセットの日天月の呼吸に結構時間がかかります。
11月の初め頃のスタートして180回達成までに1ヶ
月半かかったことになります。このスピードですと一周
360回を達成するのは来年2月初め頃という予想にな
ります。
ところが来年2月に私の魂の浄化は完成かというとそう
ではありません。
通信はこの一周360回の呼吸を更に11回達成しろと
要求しております。
今のスピードからすると浄化の完成は2025年まで待
たねばならないということですね。随分先になってしま
います。
それではここまでやってみて君の日天月の呼吸には何か
効果はあったのか?というと実は明白な効果がございま
した。雑念が圧倒的に減ってきたのです。
実は私には毎日一定時間想念を集中させないといけない
ミッションがあります。私はこれをエネルギー調整と呼
んでいます。この意識を集中している最中にこれまでは
意図しない雑念がぽいぽいと出てきてしまう事が悩みで
した。
想念を集中してもあまり雑念が出てこないのは凄く大き
な進歩だと思います。ですからこの日天月の呼吸は意識
・魂の浄化の効果がありますよ、と私自身の体験から申
し上げることが出来ますし、皆さんにお勧めできるよね、
と思っております。是非皆さんもお試し下さい。
それで次回の投稿では日天月の呼吸についてもう少し詳
しく、どうして日と天と月なのか設計概念を説明したい
と思います。
こんばんは。
さて浄化の呼吸の概念ですが、これは私がこう考えて設
計した、という話ではなく、日天月という組み立てを考
えるとこのように解釈できるという話になります。
まず最初に日(ひ)の呼吸です。この呼吸の意味を私は
次のように理解してます。
太陽の光は万物を生かす力であり、また全ての物事を明
らかにし分かるようにもしてくれます。さらに不浄なも
のを殺菌し乾燥し浄化してくれます。このように太陽の
光を吸収するイメージの呼吸によって生命力を高め理解
力を深め不浄な想念を浄化してゆく意味があります。
次に天の呼吸です。
天から光のエネルギーが射し、頭頂、そして身体全体か
らも天のエネルギーが吸収され浸透されて身体の中を駆
け巡って満たしてゆくイメージで息を吸い込みます。
このイメージングの仕方は日の呼吸でも月の呼吸でも同
様ですね。息はゆっくりゆっくり吸い込みます。
イメージングの仕方はこうでなければならないというこ
とではなく、私は現在こうやっている、という話でしか
ありませんので、あまり堅苦しくお考えにならないよう
にお願いします。
それでは天の呼吸にはどのような意味があるか(もしく
は、どのような意味を付与するか)なのですが、これに
は次の二つの考え方ができます。
一つは天を宇宙と見る考え方です。
もう一つは天を高次元意識と見る考え方です。
こうでなければいけないというものではないと思うので
どちらの考え方であっても問題はなく、自分が親しみの
ある考え方のほうでよいと思います。
天を宇宙である、と考えてみましょう。そうしますと天
からエネルギーが降り注いでくるとは宇宙の高次元の波
動が降り注ぐことを意味します。即ち様々な恒星や銀河
の意識の波動や創造神の創造と維持発展のエネルギー、
愛の波動、慈悲の波動が流れ入って身体全体・魂全体が
満たされてゆく、というイメージになります。
つまりいったん太陽の光によって意識を浄化・白紙化し
たところを慈悲、愛、創造の波動で埋めてゆく、という
作業を意味することになります。
浄化しても、心が空っぽのままになっていてはいけない
ですからね。
もう一つの見方である天を高次元意識とする見方で意味
を考えて見ましょう。
例えば中国では天に「天帝」がいて治めている、といい
ますし、YouTubeで見た動画では地球には最高神として
九次元神霊が存在すると言っていました。天とは神々を
も指導するそうした最高級神霊を指す言葉ということに
なるでしょう。
まぁはっきり言えばイエス様お釈迦様等ということにな
るのかもしれませんが、そうした個人名がどうこうとい
う話ではありません。天高きところに慈悲と愛と力その
ものが人間化したような偉大な存在する、というイメー
ジが大切です。
そういう偉大な個性、光の意識からエネルギーが降り注
いで頭頂や全身からそれを吸収し魂を満たしてゆく、身
体を満たす即魂を満たす、とイメージしてゆきます。
それでは高級神霊の光のエネルギーとは何かと少し具体
的に考えてゆくと私には次のように思えました。
少し難しい話をすることになるかもしれません。
私達の意識・魂は絶え間ない想念エネルギーの活動なん
です。
私達の意識活動は周囲の様々な人の言葉や姿、テレビや
新聞や雑誌などの報道映像や記事などを受けて自分の思
いや考えを心の中で言葉にしてゆきます。あるいは言葉
にならないまま良い感じや悪い感じとして受け止めてゆ
き心・意識・魂の中に蓄積してゆくのです。
そして自分の心の中で言葉とした思いは即そのまま発話
されて家族や友人や他者に向けて語ったり、あるいは文
字として書き留めたり、最近ですとSNSに投稿して発言
したりします。発言できなかった思いは心のつぶやきだ
ったり叫びとして想念の形で波のように発せられるので
す。
このように私達の意識は常に言葉やイメージのエネルギ
ーを外から内へ、内から外へと循環させてゆく活動を続
けております。
物質のエネルギーは物体や空間を通して循環してゆくの
ですが、想念のエネルギーも同様に人の心を媒介とし、
存在の意識を媒介して循環し続けていると言えるのです。
そうして循環したエネルギーは意識の中に記憶を刻んで
ゆきます。良いエネルギーは光の記憶として記憶され良
い循環を生んでゆきます。
さて悪意のある言葉、あるいは悪を語る言葉、不安や恐
怖のイメージのエネルギーの場合はどうでしょうか?意
識の浄化はこうしたエネルギーを無毒化する作業を意味
しているのです。
愛や信頼や実行や共同などなどを根底とした光の言葉が
たくさん蓄えられていると、人に接したり物事について
語るときに出てくる想いも言葉も光の想い、光の言葉で
あって事態は好転してゆくことが多いものです。
逆の場合には事態を悪化させる言葉や想念に支配されや
すくなるので浄化して無毒化してゆく作業が必要とされ
るのです。
さてそれでは天の高級神霊の光のエネルギーとは何でし
ょうか?その根本は想念のエネルギーであります。そし
て、想念のエネルギーは言葉かイメージ(図形)か数で
しょうから、ここはまず光の言葉のエネルギーが降り注
ぐのをイメージするのがよいのではないか?
私はこのような考えに至ったのです。
従って天のエネルギーが流れ入ってくるイメージをする
ときに、もっと具体的に光の言葉、即ち信頼や、育成や
可能や、生成や、自発や、愛や、ありとあらゆる光の言
葉が光の文字になって降り注ぐイメージをしてみました。
こんばんは。
そして明けましておめでとうございます。
と申しましても、元日からいきなりの大地震で、身構え
てらっしゃる方も多いのかもしれません。
友人がLINEで、テレビが地震一色で正月の楽しみが無い、
とこぼしていましたがそうなんですか。テレビはつけて
みようと思わないのでよくわかりませんが、SNSの地震
動画を見ていると倒壊している民家やビルもあって、現
地の方達は本当に大変だと思いますし、どうか怪我など
の被害が少しでも軽くあってほしいものです。
スピリチュアル界隈では2025年問題が囂(かしま)
しいみたいです。Youtubeを見ていると「25年が大変
だ」系の動画がたくさん上がっていて、同じ流れで24
年も大変だ系の予言動画などもたくさんアップされてい
る模様(なお内容は視聴していない)です。
もっとも予言動画などというと大体不吉なことしか言わ
ないものです。人は異常な事柄に好奇心を持つ存在です
から、視聴者数を稼ぐにはタイトルで不安を煽って興味
を持たせるのがいつものやり方ですね。
ですからスピリチュアル界隈(かいわい)は、そういう
不安を煽ってくる要素を含んでいるんだと少し意識して
おいて、あまり不安不安した話はうっかり洗脳されない
ように気をつけた方がよいのかもしれません。
そしてそんな風に不安に洗脳され手しまった場合は、そ
の洗脳された心を浄化するにはどうしたらよいのでしょ
うか?
その方法の一つが月の浄化だと私は思っています。
日天月の呼吸と私が名付けた浄化方法の、三つ目の呼吸
が月の呼吸なのです。
昨年は月の呼吸の説明をする前で投稿が出来なくなって
しまいました。
出来なくなったというのは時間的な余裕のなさが原因な
んですが、無意識のブレーキがかかった部分もあったの
かもしれません。
というのは、この間に呼吸の意味についての考えが少し
変わってきたからです。私自身の日天月の呼吸の浄化も
少し進んできております。ちょうど半周分、180回を
過ぎた辺りできっと何か変化が出てくるんだろうな、と
は予想して楽しみにしていたのです。そして180回目
の浄化を終えたのは12月20日頃でした。
前回の投稿が12月22日でしたから、ちょうどその前
くらいに浄化が半分終わった頃だったんですね。そうし
ますとそのあと何度か魂の浄化に関するらしいイメージ
を見ることになりました。
それを見て実は日天月の呼吸に対する解釈(理解)が少
し変わってきたのです。
それまでの理解は22日に書いたとおりなのですが、日
の呼吸は太陽の光のイメージの呼吸のことです。自身の
魂を太陽の光によって浄化する、光による浄化のイメー
ジです。
次に天の呼吸は天のエネルギーを呼吸するイメージです。
天のエネルギーを吸収する呼吸のストーリーはどういう
ことかと申しますと、次のようになります。
ます光の浄化によって魂は真っ白(又は透明)になって
ゆきます。真っ白な紙やぼーどみたいな感じですね。そ
うしますとそこには色々な形や言葉を書いてゆく事が可
能になります。色々な形や言葉を書くとは、心の中で何
かを思ったり、見たり聞いたりして記憶してゆく事を言
います。これが心のボードに絵や言葉を書いてゆく事に
あたるんですね。
その時に何を思い、何を描くかは本来100%私達自身
の自由なのです。
ところが現実には私自身が統治しているはずの私達の心
の王国が、全然統治者である私達の思うとおりにならな
いのは皆さん悩む所なんじゃないでしょうか?
考えたくないのに嫌な想いや考えが出てきてしまう。思
いたくないのに気がつけば嫌な言葉を心の中で吐いたり
呟いたりしている…。真面目に自分の心の中の世界に向
き合おうとすると、必ず多くの方がこの問題に突き当た
るのではないでしょうか?
それは自分の心の中でまだ癒やされていない闇を抱えて
いるからではないでしょうかね?
またそもそも真っ白なボード(もちろん浄化された心の
ことですよ)を手に入れたとしても、そこに何を書いて
よいか分からないから、「バカ」とか書いてみる、って
事もあるわけですよ。
「愛」という言葉を知らなければ「愛」とは書き込みよ
うが無い、ってことですね。
つまり良きものでボードを埋めようとするならば、良き
ものを学び知らなければならないのです。そのためには
まず良きエネルギーに触れなければならないだろう。天
のエネルギーこそ、その良きエネルギーではないのか?
と考えたわけです。
そして真っ白なボード(つまり私自身の魂)に天の光り
輝くエネルギーや光り輝く言葉の数々が降り注いで吸収
されてゆくイメージの呼吸をしていたわけです。
そうしますと私の魂は光に輝くので魂のボードも黄金色
に輝き、たとえそこに描くことが無くてウンコの絵を描
いたとしても、それは黄金のウンコなのではないか?
「光るもの必ずしも金ならず」ですって?いやいやこれ
は紛(まぎ)れもなく金なんです。ウンコでは無くって
ただ単にウンコに似た形をした金の塊なんです!!
っていうストーリーで天の呼吸をしていたわけです。
しかし描くものが雲小型になってしまうのはいかが
なものか。なんとかならんか。もっとましなモノが
心の中から浮かび上がってくるようにならんか?
そこで必要なのが月の浄化ですよ、となるのですね。
なぜなら月は夜空を照らし浄めるものだからですよ。
夜って暗いじゃですよね。そしてよく見えないじゃ
ないですか。でもね、人の心の中にも暗くてよく見
えない部分、よく見えない領域が、つまり潜在意識
の領域が広大に存在しているんですよ。
私達の想念は直接見たり聞いたりしたものに反応して言
葉を想い映像を描きます。しかし考えているときには直
接見たり聞いたりしたことに反応しているわけではあり
ません。何かについて考えようと思うとそれに関連した
言葉やイメージが心の中から無意識に湧き上がってくる
わけですね。一体その心がどうなっているかわ、まるで
暗闇の夜のようでさっぱり見通すことが出来ません。
つまり私達が考えているときには無意識の働きで心の中
に様々な思い、想念が、浮かんでくるといえるのです。
その無意識世界を浄化するなら、そりゃ月の光でしょ!
つまり月の光のエネルギーによって私達の捉えきれない
心の闇の部分、無意識世界を浄化整理してゆく気持ちで
月の呼吸を行います。
意志を持って月の呼吸を行うというと難しそうに聞こえ
ますが、実際は超簡単です。
呼気と共に月の光のエネルギーが自分の頭頂若しくは全
身から吸収されて魂の内側の無意識の世界を満たし、清
らかになってゆく感覚を味わうだけの話です。お風呂で
さっぱりしたときの感じを思い出すとか、戸外で春の朝
日を浴びて呼吸する爽やかな感覚を思い出すのもいいで
すね。
つまり日(太陽)の呼吸で心を真っ白にし、天の呼吸で
真っ白になった心に光り輝くエネルギーを入れ、月の呼
吸で私達の想念・行動を裏から支配する(支えている)
潜在意識世界を浄化する、これが日天月の呼吸のストー
リーだったわけです。
しかし22日以降、いくつかのイメージを見せられまし
て少しこのストーリーが変わってきたのです。その成り
行きと説明は次回にいたします。
なおもし日天月の呼吸をしてみる方には以上に説明した
ストーリーで浄化なさっても全然問題ないと思います。
私もこれで180回浄化しましたので。では失礼。
さて昨年末、20日以降のことです。三回イメージを見
ました。
イメージというのは肉眼とは違いまして、目を瞑(つぶ)
っていて見える映像のことです。お布団に入ってから、
私の場合はいろいろ考え事をするのが常でして、その日
も何かについて考えておりました。すると頭の中で映像
が見えたのです。
それはなんだか立方体のような光の塊が空中に3列にな
って整列して止まっている映像でした。透き通った青紫
の美しい光のキューブでした。7個か8個、空中に浮か
んで静止していました。
私はこれを見ながら、「なんだか結晶みたいだな。ひょ
っとして魂って結晶化するんかな?」などと思いながら
しばらくの間見てみておりました。
これを見て、魂の要素を整列するには?それには強い磁
場のようなものが必要なのかも…と考えたのです。確か
に部屋でもぐちゃぐちゃになっていたらそれは汚いです
し、部屋をスッキリ整理したら調いますよね?心・意識
も同じでしょうね。
うーん、磁場?意識の中で磁場をかけるにはどうしたら
いいのかな?などと考えながらその日は寝てしまいまし
た。
起きてからもう考えがまとまっていたのですが、それは
天のエネルギーとは、上の方向から下の方向へ流れるエ
ネルギーだ、ということです。
つまり磁場をかけなきゃ、と思っていたのですが、私達
は初めから地球の重力という力の場の中で生活している
のです。だからわざわざ磁場という不安定な方向の力を
考えなくても、地球の重力を意識して、その流れに合わ
せてゆくことで整列の意識を得ることが出来るではない
でしょうか。
つまり天の呼吸とは、天から地へと流れる力の呼吸だと
気づいたのです。
頭の真すぐ上の上、天の中心から地球の中心をめがけて
さあっと流れてくるエネルギーが、自分を包み己の魂を
貫き、魂の全ての要素を調え整列させてゆく、そんなイ
メージの呼吸に変化したのですね。
これが以前のストーリー(昨晩説明したやつですが)か
らは一番変わったところです。
それ以外の、日光による魂の浄化、月光による無意識世
界の浄化のイメージについて基本的には変化しておりま
せん。
二つ目のイメージは日の呼吸に関連するイメージだと思
います。
やはり年末頃、布団の中で考え事をしているときに見た
イメージです。肉眼で見るのとははっきり違いが分かる
のですが、まるで肉眼で見ているように見えるのです。
それは私が手前に居て、私と外界の間にはまるで井桁紋
(いげたもん)の絣(かすり)の模様のような大きな模
様と言いますか、織り目のような黒く太い模様が連続し
ていて外界を遮っているのです。しかしその絣のような
織り目のような黒い模様はもうずいぶんハゲてきて視界
の左半分はほぼ透明になっています。
視界の右半分は上の方は透明なのですが、上の中程から
下のほうにかけては大きめの黒い井桁模様が続いていま
す。でも井桁の真ん中は透明になっていて向こうが見え
るのです。そして視界の下の方もほぼ透明になりつつあ
る、そんな情景でした。
私はこれを見て日光浄化(日の呼吸)の進捗状況を示す
イメージなんだなと受け取ったわけです。
そして改めて黒い部分(黒い想念ですね)の付き方を見
てみると、前回見た映像と合わせて考えれば、どうも心
の闇、黒い想念というものは心の隙間に溜まってゆくも
のなのでしょうね。
三つ目のイメージ映像はまだよく理解出来ないのですが
おそらく月の呼吸に関係する映像なのでしょう。年末の
ある晩にやはりお布団のなかで見た映像です。
それは線だけの映像なんです。空中にたくさんの縦横の
線が回路を描くみたいに出てきました。
一本の線は上から下に向かい右に折れ進んだかと思うと
すぐにまた下に向かい、かと思うと左に折れまた下に向
かい、というふうに走って行くのです。そのような線が
視界のやや右の方ほぼ半分を占めて数十本も走ってまる
で何かの回路を描くか交通網を描くかみたいに表示され
ているのです。
今この意味を考えて見ると、やはりこれは潜在意識の働
きを示しているのかもしれませんね。潜在意識の中には
私達の想念が動きやすい回路というか、道路のようなも
のが出来るのでしょう。
それは荒野を私達が踏み固めて道を作るのと同じ事で何
回も同じ事を思えばそこに潜在意識世界で道が出来ると
いう風になるのだと思います。
そしてそこに二、三十本の糸が見えたということは、私
達の想念生活は実際は割と単純で数十の同じようなパタ
ーンを繰り返しているに過ぎないのかもしれません。
そうしますとそこに新しいパターンを加えるとか、古い
パターンの良くない回路を修正するとか、そもそも良く
ない回路を削除するとかは、私達の意識・魂にとっては
もの凄く創造的な行為といえるのではないでしょうか。
もっとも何が良くて何が良くないのかは慎重に判断する
必要がある話です。自分のこういう所が良くない、嫌だ
から修正したい、と思っていても、実はその部分がある
から自分というものが維持できてる、なんてこともある
かもしれません。
人間が表面意識で「良い」と判断することは実はたいて
いは間違っているのではないか?まぁさすがにそう言い
切ることはできないんですが、そのくらいに思っていた
方が間違いが少ないのではないかと思います。
だからこの日天月の浄化の場合はここをこうしたいとか、
こういう所を修正したいとかいう「意」で物事を限定す
るのではなくて、もっとフワッとした、浄化しようとい
う単純な意志なんです。どういうメカニズムでどう浄化
するのか、という細かいことは自然にお任せなのです。
いやいや、君は昨晩から浄化のストーリーについて話し
てるでしょ?それは細かいことは指定しないでお任せだ、
っていう今の発言と矛盾するんじゃないの?ぜんぜんお
任せになっていないのじゃないの?
まぁこういう疑問は出てくると思います。
浄化にストーリーがなぜ必要かというと、意識は矛盾し
てはダメだからです。そこでざっくりとした浄化につい
ての矛盾しないストーリーがある方が上手くいきやすい
ということです。
ただある程度浄化が進んでくると、こうしたストーリー
も不要になってくるのかな?とは思っています。
さて、こうしたストーリーの元で浄化を続けていたので
すが、やってみるといくつか疑問というか、気づいたこ
とがありました。
それについてはまた次回にお話します。
では失礼いたします。
新スレを立てましたので、埋めがてらの投稿を。
話は今回の地震であります。
自衛隊や消防が集結しつつあるようですが、一刻も早
く救助の手が届くこと、被災者の方々の安心が取り戻
せることをお祈りします。
さて、私の立場からは今回の地震には奇妙な点を感じ
ています。もちろん地殻変動という観点からは東日本
と西日本を分けるフォッサマグナ地溝帯の変動という
話は界隈(どこの界隈や?という話ですが)で語られ
ております。また震源地付近が北米プレートとユーラ
シアプレートの境界付近であることも周知のことです。
しかしこの地震が一月一日という日に起こったこと、そ
してこの正月に向けてこれまで高かった気温が現地でも
急に低下し昨日は平年以下になったこと、更に明日は被
災者を困らせるが如く大雨が予想される事、昨夜11時
過ぎの震度7の誤報、そして今のニュースなんですが、
羽田の旅客機と地震救援に向かった海保機の衝突事故。
こうしたこと全てに人的な悪意が感じられるんですよ。
一部の界隈ではよく某国や某グループによる人工地震説
がまことしやか主張されます。そんな馬鹿な!そんなテ
クノロジーも理論もあるわけ無いんです。嘘ですね。
でもこういう言説が絶えないと言うことは、そこに一分
の真理が含まれていることがあるので注意が必要です。
私の立場で言えば、人は人工地震を起こす技術は持って
いないけれども、人の悪想念は地震の引き金を引くこと
は出来る、ということです。
つまり悪想念を集中して地盤の構造の弱いところに集中
すれば、想像もしない大きな現象を起こすことも可能に
なる、ということです。
なんだか話が人工地震説より怪しくなって参りましたね。
しかし、意識エネルギーを追求して参りますとそうした
話も現実の一つであることが納得できるのです。
そして私自身の感覚からすると、これは被災者の方には
申し訳ないのですが、大変少ない被害に抑えることが出
来たのではないか、と感じています。
そして昨晩の11時の誤報は、第2波の攻撃が防御され
た結果ではないか?攻撃側の意志は震度七の地震を引き
起こそうとしたが、それは上手くいかなくて少し大きめ
程度の地震と誤報を引き起こすに止まったのではないか?
と妄想しております。
まぁ私には霊感が無いので全て妄想なんですけどね。
いやいや、155は通信が出来るのだから、君の妄想を
垂れ流さないで通信の結果を述べてくれ給え、ってきっ
と皆さん思われますよね。私が読者ならそう思いますし、
なんならそう書き込みます。
でも安心して下さい。通信は何も語らないのですよ。
「この件に関しては正確な情報は与えない」って言うの
が通信の結果でした。
なんだかお察しのような気もします。でも155スレの
時の質問にあった日本の防御システムは正常に働いてい
ると思います。これが反日的性格を持った政権の時はう
まく機能しないようなんですがね。
では新スレで。
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