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ご意見、ご連絡スレ

1メビウス@管理者:2010/11/10(水) 00:24:44
当サイトへのご意見、また著作権上の問題などを発見されましたらここへお書き下さい。

46雨野:2012/04/17(火) 22:55:30
>>44
 不勉強なので、永井(あるいはウィトゲンシュタイン)について誤解しているかもしれませんが、心の私秘性、あるいは私秘していること自体が言えないことのあたりの発想については、そう誤解していないと思います(これが存在論的独我論の意味ですよね?)。僕が理解できないのは、このような立場がありながら、なぜ>>45の③のような現象を認めたうえでの素朴実在論があり得るのか? ということです。つまり私秘性の立場に立てば、他者の意識というものは単なるこの私から類推したものにすぎなくなるはずですし、僕はその立場をとるだけで十分と考えます。
 また、永井が素朴実在論の成立条件に触れないのは、まさにメビウスさんのおっしゃったような歴史的条件があるからでしょうが、その歴史的条件を踏まえるならば、永井が意図したかどうかに関わらず素朴実在論の成立条件に言及しているとみなさざるを得ないと思うのですが、いかがでしょう。

47メビウス@管理者:2012/04/18(水) 19:39:29
>>46
>なぜ>>45の③のような現象を認めたうえでの素朴実在論があり得るのか?

それは科学哲学で言うところの「道具主義」の立場でしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%B7%E4%B8%BB%E7%BE%A9

永井やチャーマーズは明確に道具主義を主張しているわけではありませんが、
著作を読めばそのような立場であることは明らかです。

心の哲学者でもヒラリー・パトナムなどの物理主義者たちは科学的実在論の立場を
取っていますが。

48竜野息吹:2012/09/26(水) 16:51:45
「心」の定義により、文学、心理学、哲学の領域で
どのような問題を解決できますか?という問いに
答えていただけるでしょうか。
特に、個人的に心の哲学の分野では「心」の定義を示すこと
が目指されると思うのです。
「心」の定義が、社会では実際にどのような問題を解決できるのかと
想定することが、必要と思います。
「心」とは何か、
人によりまちまちな答えを理解することは大事なことです。
歴史的に人々が「心」という存在もしくは実在にどんな
考えを持っていたのか検証することは
とても参考になります。
しかし、実際に現代社会で「心」の定義がどんな局面で
どんな手段で役に立つか、具体的に想定することが重大です。
お暇なときで結構ですのでお返事待っております。
どうかよろしくです。

49メビウス@管理者:2012/09/29(土) 15:47:11
ちょっと板違いな気もしますが、関連する部分だけお答えします。

哲学では心(心理現象)というものについては大きく分けて二つの立場が存在します。
これは唯物論と観念論という分け方ではなく、人格の同一性問題における
デレク・パーフィットの考えで、還元主義と非還元主義になります。

非還元主義とは素朴心理学的な立場で、自我や魂という主体があって、
その主体が認識や思惟作用を行っているとし、その作用の過程を心理現象とみなしています。
これはデカルト主義とも呼ばれています。

一方、還元主義では自我や魂のような主体の存在を認めず、心理現象とは個別的に
生起する知覚(クオリア)にすぎないとみなします。デイヴィッド・ヒュームが
その代表です。無主体論ともいいます。

還元主義の立場では昨日の私と今日の私は同一の存在者とはみなせません。
単に類似の存在者であるといえるだけです。この考えを延長すると今の私と
今の他者とは絶対的に異なる存在者ともいえなくなるので、必然的に
功利主義的な道徳観に至ります。(パーフィットなど)

一方、非還元主義の場合は私と他者とはそれぞれ別の自我・魂であるゆえ、
絶対的に異なる存在者とみなしますので、利己主義に陥りやすいのが事実です。
大半の人は素朴心理学を前提に生きているのでこの立場です。
それゆえ、その利己主義を制御するための社会科学理論が必要でしょう。
ホッブスが見たように、放置すると弱肉強食の世界と化しますから。
社会主義や、社会民主主義、中道左派などがその難点を克服しようとする試みでしょうね。

53名無しさん:2014/04/25(金) 18:07:35
知覚因果説のページ内
>知覚に傷害が生じることが開明され
「傷害」ではなく「障害」もしくは「障碍」、「開明」ではなく「解明」ですね

54メビウス@管理者:2014/04/25(金) 22:45:28
>>53
ご報告感謝します。
修正しました。

55名無しさん:2014/05/29(木) 09:06:51
Giulio Tononiという脳科学者が唱えている、IITという説があるのですが
この学説についてどう思われますか?
意識を情報の統合時に感じる感覚として数学的に記述可能に定義した学説のようです

ttp://en.wikipedia.org/wiki/Integrated_information_theory

56メビウス ◆4lggoO1oV6:2014/05/31(土) 14:06:15
>>55
私は現象主義なのであまり興味ないのですが、茂木健一郎がいう「錬心術」ぽいですね。

57名無しさん:2014/06/12(木) 06:47:25
メビウスさんは脳科学の知見には興味はないのでしょうか?

58メビウス ◆4lggoO1oV6:2014/06/12(木) 19:34:22
そもそも「知覚因果」というものを信じてないので。
しかし脳科学が無駄なことをやってるとは思いません。
心と脳の関係を整合的に説明するのが脳科学の第一の役割ですから。

59名無しさん:2014/06/30(月) 00:31:17
海外の哲学フォーラムとか見ると唯物論的、物理主義的な見方が支配的ですし
チャーマーズが実施した哲学者アンケートでも多くの哲学者が物理主義を採用してますが
これについてはどう思われますか?

60メビウス ◆4lggoO1oV6:2014/06/30(月) 19:36:19
現代の心の哲学は自然主義を前提としていますので、物理主義が優勢なのは当然だと思います。
サールやチャーマーズのような二元論者でも、私(や大森荘蔵)のような者からすると
物理主義者に見えます。

心の哲学者は多かれ少なかれ物理主義的傾向があるということです。

61メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/02/13(金) 21:15:04
まとめwikiについて、脚注が表示されないという報告を頂きました。
たぶんatwikiが特定のブラウザには対応していないのだと思います。
ちなみに私はIEとFirefoxで正常に表示されることを確認しましたが、
スマホのChromeでは脚注および画像も一部しか表示されませんでした。

62横山信幸:2015/04/25(土) 14:35:44
メビウスさん、初めまして。
ていねいでよく分かる記事ばかりでとても勉強になるサイトですね。僕のような哲学を独学したいと思っているものにはまことにありがたいです。僕は独我論と実在論の関係性に興味をもっていてウィトゲンシュタインに傾倒しています。日頃は「独今論者のカップ麺」というブログに考えたことをまとめたり大阪哲学同好会で討論したりしています。大阪哲学同好会の掲示板でクオリアについての討論が行き詰まっていたところ、ここの掲示板なら話ができるだろうと案内してくださる方がいたので来場し書き込みさせていただきました。
僕は、クオリアはナンセンスでそれがあるとか無いとか言うことには意味がないというかんがえです。
討論の相手をしてくださらないでしょうか。よろしいならどこに書き込めば良いのか教えてください。

63メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/26(日) 19:49:07
クオリアという語をどのように定義するかという問題がありますが、私はサールや茂木健一郎と
同様に「意識」と同じ意味に定義しています。
この定義からすると自分の経験は全てクオリアなので、クオリアはナンセンスという主張自体が
矛盾だということになります。
ただし経験主義的な立場からすると、自分が経験できるのは自分のクオリアだけであり、
原理的に経験できない他者のクオリアについて語るのはナンセンスだということは出来ると思います。
このような独我論的観点からウィトゲンシュタインや大森荘蔵は最終的に行動主義に近い立場を取った
のだと思います。
ただし現代の心の哲学におけるクオリア論争というのは自然主義、つまり実用的実在論を前提にして
いるので、当然他者にも意識・クオリアがあるということを前提に議論がされています。
この前提からすると、必然的に客観的な存在者と主観的な存在者という存在者たちの性質の差異を認める
ことになります。そこから物理的な存在者と異なる、または物理的なものに還元できない非物理的な
存在者があるかもしれないということなり、心の哲学とはその存在者の存在可能性をめぐって、
つまり認識ギャップが存在ギャップにつながるか否かという議論になっています。

64横山信幸:2015/04/26(日) 21:57:12
メビウスさん、回答ありがとうございます。

僕がナンセンスだと考えているクオリアは、チャーマーズのいう「現象的意識」の質感のことで、一切の物理的作用を働かせ得ず一切の機能を持たないような、意識の一面のことです。
そのような定義付けでの「クオリア」の話を考えたいのですが、ここでその風呂敷をひろげさせてもらっても良いでしょうか。このスレッドでこのまま進めて良いですか。

65横山信幸:2015/04/26(日) 23:46:32
前提1.¬(「xがある」に真理条件がある) ⇔ ¬(「xがある」に真理値がある)
前提2.Pに真理値がある ⇔ ((Pは真)∨(Pは偽))
前提3.¬(P∨Q) ⇔ ¬P∧¬Q
推論4.2・3より、¬(Pに真理値がある) ⇔ ¬(Pは真)∧¬(Pは偽)
推論5.1・4より、¬(「xがある」に真理条件がある) ⇔ ¬(「xがある」は真)∧¬(「xがある」は偽)
前提6.「xがある」は真 ⇔ xはある
前提7.「xがある」は偽 ⇔ xは無い
推論8.5・6・7より、¬(「xがある」の真理条件がある) ⇔ ¬(xはある)∧¬(xは無い)
前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能
前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ ¬(Rは真理条件がある)
推論11.9・10より、任意のyについて、¬(「yの非機能的クオリアがある」は真理条件がある)
結論12.8・11より、任意のyについて、¬(yの非機能的クオリアがある)∧¬(yの非機能的クオリアが無い)


いかがでしょうか。この推論は正しいでしょうか。

66横山信幸:2015/04/26(日) 23:54:31
否定記号が表示されませんでした。代わりに〜をつかぃます。


前提1.〜(「xがある」に真理条件がある) ⇔ 〜(「xがある」に真理値がある)
前提2.Pに真理値がある ⇔ ((Pは真)∨(Pは偽))
前提3.〜(P∨Q) ⇔ 〜P∧〜Q
推論4.2・3より、〜(Pに真理値がある) ⇔ 〜(Pは真)∧〜(Pは偽)
推論5.1・4より、〜(「xがある」に真理条件がある) ⇔ 〜(「xがある」は真)∧〜(「xがある」は偽)
前提6.「xがある」は真 ⇔ xはある
前提7.「xがある」は偽 ⇔ xは無い
推論8.5・6・7より、〜(「xがある」の真理条件がある) ⇔ 〜(xはある)∧〜(xは無い)
前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能
前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ 〜(Rは真理条件がある)
推論11.9・10より、任意のyについて、〜(「yの非機能的クオリアがある」は真理条件がある)
結論12.8・11より、任意のyについて、〜(yの非機能的クオリアがある)∧〜(yの非機能的クオリアが無い)


以上です。正しい推論でしょうか。

67横山信幸:2015/04/27(月) 00:06:46
すみません。また表示されませんでした。notを否定記号として使わせてもらいます。


前提1.not(「xがある」に真理条件がある) ⇔ not(「xがある」に真理値がある)

前提2.Pに真理値がある ⇔ ((Pは真)∨(Pは偽))

前提3.not(P∨Q) ⇔ notP∧notQ

推論4.2・3より、not(Pに真理値がある) ⇔ not(Pは真)∧not(Pは偽)

推論5.1・4より、not(「xがある」に真理条件がある) ⇔ not(「xがある」は真)∧not(「xがある」は偽)

前提6.「xがある」は真 ⇔ xはある

前提7.「xがある」は偽 ⇔ xは無い

推論8.5・6・7より、not(「xがある」の真理条件がある) ⇔ not(xはある)∧not(xは無い)

前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能

前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ not(Rは真理条件がある)

推論11.9・10より、任意のyについて、not(「yの非機能的クオリアがある」は真理条件がある)

結論12.8・11より、任意のyについて、not(yの非機能的クオリアがある)∧not(yの非機能的クオリアが無い)


以上です。これで表示できたでしょうか。正しい推論でしょうか。

68メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/27(月) 19:54:12
チャーマーズの論点からずれてると思います。
上に書いたように、意識・クオリアは物理的な存在者と異なった認識のされ方をしているため、
どうしても物理的なものと異なる、または物理的なものに還元できない存在者である可能性があります。
一旦この可能性を認めると、必然的に「心」と「物」を峻別する実体二元論の可能性が生じます。
そして実体二元論の可能性を認めると、心的なものだけが存在する可能世界、逆に物的なものだけが存在する
可能世界が否定できなくなります。
要するにチャーマーズのゾンビ論証とは、還元主義的な物理主義に対して、心的なものは物的なものに還元できない
ことを示すために認識のギャップを強調したものなのです。
なお実体二元論や、ゾンビ論証の前提である心と物が相互作用しない心身並行説・随伴現象説は、節約の原理に
反しているだけであって、論理的に不可能というわけではありません。

あと真理条件を問題にされてるのは検証不可能なものを排除しようとする論理実証主義の方法かもしれませんが、
「検証不可能なものは存在しない」とは言えないので思考可能性論法に対する反駁にはなりません。
実は哲学者でも検証原理や言語ゲームの観点から思考可能性論法を批判する人が一定数います。
「思考可能性は形而上学的可能性につながる」というチャーマーズの論点を理解されていない。心の哲学専門の
学者ではないので、誤解されやすい部分なのだと思います。

69横山信幸:2015/04/27(月) 20:20:18
僕はチャーマーズこそが言語ゲームを理解していないと考えています。検証できないものをどうやって意味のある言語ゲームに乗せられるのでしょう。言語ゲームに乗せたことにするという儀式をなしているに過ぎないか、密かに「クオリア」として扱っている対象の中に検証可能なものを潜り込ませているだけの話であるはずです。言語ゲームの構造をなすには原理的に検証可能性が必要だからです。でも、このことの論証は、また別に書かせてもらいます。
その前に、昨日の僕の論証を否定されるなら、どの前提を否定されるか、どの推論を否定されるかを詳しく教えていただけませんか。その方が反論しやすくなるので助かります。

70メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/28(火) 19:56:15
検証原理そのものが否定されていると私は言っています。
なお現代心の哲学は行動主義から始まりましたが、これは言語ゲームの影響も受けています。
実際言語ゲームとは言語活動、つまり「行動」の研究の一種ですから行動主義と親和的です。
しかし行動主義は肝心の意識ではなく、意識に基づいた行動を研究しているので的外れだという
批判が頻出して現在は廃れています。現代心の哲学は論理実証主義の検証原理を批判し、
自然主義やホーリズムを主張したクワインの方法論に基づいています。科学者は検証不可能な理論的対象を
科学という言語ゲームの俎上に載せて行っていました。この方法同様に意識・クオリアについて語る
のならば、検証不可能でも思考可能性や類推論法を用いて語り研究しようというのが現代心の哲学であって、
チャーマーズだけでなく物的一元論者もこの方法論は共有しています。

哲学と科学ではゲームのルールが異なる。言語哲学と心の哲学でもルールが異なる。それらのゲームには
家族的類似があるだけ。「哲学的ゾンビ」という語は言語哲学では無意味かもしれませんが、
心の哲学においてはチャーマーズ支持者も批判者も有意味に使用しています。

71横山信幸:2015/04/28(火) 21:57:16
メビウスさん、

ていねいな返答ありがとうございます。おかげでメビウスさんの意識と行動主義と検証原理に対する立ち位置が少し分かりました。でも、僕の質問に対する回答としてはあまり理解できませんでした。
僕の提案している推論の意図は、検証原理そのものを認めさせようとするだけのものではありません。検証可能性が無い対象の存在非存在を語ろうとするとそれは必ずナンセンスになるというアイデアについて、その文法的システムを論証形式で分解して捉え、そこに間違いや問題があるのならどこにあるのかをはっきりできるようにしよう、という企画を立ててそれについて質問したつもりだったのです。

>検証原理そのものが否定されていると私は言っています。

というお答えでは僕が前提と推論を分解したどこに問題があるとされているのか全然分かりません。
それとも僕のその企画意図の論点はあまり興味が持てないですか。

72メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/29(水) 20:01:15
検証可能性が無いものを語るのはナンセンスだと文法分析で証明する、という試みの意図がわかりません。

重要なことですが、検証可能性がないのは「非機能的クオリア」だけでなく意識・クオリア全てです。
他我とは原理的にアクセス不可能なものだから、他人の意識やクオリアの有無にも真理条件はないのです。
第三者が検証可能なのはクオリアに基づいている(と思われる)他人の行動だけですが、
「行動があるならクオリアもあるはずだ」と主張するならば心脳問題についての論点先取で、
暗に「同一説が正しい」あるいは「随伴現象説は間違いだ」という形而上学的判断を前提にしていますから。
この辺の問題はゾンビ論証とつながります。
そもそもゾンビ論証の問題性とは何なのかということについては、信原幸弘編『シリーズ心の哲学Ⅰ 人間篇』の
第三章「クオリアと意識のハードプロブレム」で簡潔に解説しているので読まれるといいと思います。

73名無しさん:2015/04/29(水) 20:45:37
メビウスさんが「クオリアがある」と言えるとお考えになっていることに対して反論したい、というのがその意図です。
「「非機能的クオリアがある」という命題の真偽が原理的に検証不可能である」などという前提を受け入れれば、「クオリアはあるでも無いない」という結論を受け入れなければならないはずであるが、メビウスさんがその結論を受け入れないのであれば、その前提を受け入れないのか推量方法を受け入れないのかどっちかであるはずです。その受け入れられない部分がどこなのかを教えてもらって、その受け入れられない部分が確実な前提であったり確実な推量であったりすることをさらに僕が証明していくことができれば、メビウスさんが勘違いしているってことをはっきりさせることができるでしょう。
そういう意図です。

信原「心の哲学」は名著だと評判ですので、また機会があれば読みたいと思います。紹介ありがとうございます。ただ、今はデリダにかかりっきりになっていて他書を読む余裕がありませんので、またいつか読ませてもらいます。

74横山信幸:2015/04/29(水) 20:48:18
すみません。署名を忘れていました。
また、「クオリアはあるでも無いない」というのは「クオリアはあるでも無いでもない」の書き損じでした。
失礼しました。

75横山信幸:2015/04/29(水) 21:24:43
さきほどは、僕が正しような物言いで僕の意図を言いましたが、もちろん僕が間違っていてもその間違いがはっきりすれば僕とすれば万々歳です。
僕の証明方法の間違いをメビウスさんから指摘してもらえて、僕がそれに気づくことができれば大収穫ですので、それはそれでとてもありがたいです。
そういう意図でもあります。

76横山信幸:2015/05/01(金) 21:26:46
もしかして、メビウスさんが他我の話をされたのは、他者のクオリアは検証不能だとするけれども自分のクオリアは検証可能とされるということなのでしょうか。
僕が前提9でクオリアが検証不能だとしたのは、他者も自分も区別せず、不可能だと考えたものです。

>前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能

そのような意味だとしたら、メビウスさんはこれを間違いだとされるのではないですか。

77メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/03(日) 19:58:46
何を主張されてるのかわかりませんが、カントが言ってるように感覚は本性上
判断しないので、クオリアは現れた時点で帰属先人物が決定しています。したがって、
たとえば「自分が検証不可能な自分の痛み」なんて矛盾概念でしかありません。

たぶんクオリアは物的なものに作用するという前提で書かれてるのだと思います。
確かに走りたいと意識すれば身体は走るのだから、心的なものは物的なものに作用する
(心的因果)と素朴に思うのですが、この世界が心的因果の存在しない心身並行説的、
あるいは随伴現象説的なものだと仮定しても論理的に矛盾はないのです。
ゾンビ論証とは心的因果が存在しない可能性を論じることによって、物的なものと
心的なものは存在論的に異なることを示そうとするものです。

78横山信幸:2015/05/03(日) 21:03:01
僕の主張の主旨は、
「非機能的クオリア」は定義的に一切の物理作用を持たないので「クオリアがある」と語る身体活動の原因にはなり得ないこと、それゆえ、「非機能的クオリア」の存在の検証が不可能であることです。

随伴現象仮説を仮定することは許されているとすることは可能かもしれません。しかし、随伴している物理現象を検証することでもって、随伴している非機能的クオリアを検証したことにすることはできませんよね。

僕は、随伴現象説というおとぎ話が不可能だと主張しているのではありません。原理的に検証不可能なおとぎ話でしかないと主張しています。

79横山信幸:2015/05/03(日) 21:34:25
書き足します。

>感覚は本性上判断しない

とカントが言ったのだったら、その感覚や印象は僕のいう「非機能的クオリア」とは別物です。判断しないでも語り得るのだとしたら、それは機能をもっていると言わざるを得ないからです。

80メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/04(月) 19:44:25
繰り返しますが思考可能性論法とは形而上学的可能性を示すものだから検証可能性は必要条件ではありません。

>語り得るのだとしたら、それは機能をもっていると言わざるを得ないからです。

平行説や随伴現象説では、クオリアに機能がなくても身体はそのクオリアについて言語活動可能です。

勘違いしてると思いますが、チャーマーズを含め本気でゾンビの存在や随伴現象説を信じている学者などいません。
ゾンビが思考可能であるならば心と物は存在論的に異なる可能性がある。異なるのならば随伴現象説が可能であるが
それは節約の原理に反する。ならば心と物はなぜ、どのように相関するのかを議論しているのが現代二元論者です。
非機能的クオリアや随伴現象説は議論を進めるための一段階に過ぎず、それをナンセンスだと批判するのは論点錯誤です。
ちなみに物的一元論者は心的なものが存在論的に異なる可能性を認めたくないので、ゾンビは形而上学的・物理学的に
不可能であるとの論証を試みています。検証不可能というだけで却下できるなら誰も議論してません。

81横山信幸:2015/05/04(月) 22:04:08
なるほど、思考可能性論法とは形而上学的可能性を示すものだから検証可能性は必要条件ではない。
それって、「思考可能性論法」とは、僕のいう「おとぎ話」をしているだけだから、現実世界を話すための検証機能なんかは必要ないってことですよね。

だから、クオリアに機能が無くても身体はそのクオリアについて検証が不要な「おとぎ話」を語りえるってことですね。

でも、ウィトゲンシュタイン等の哲学においては「語りえる」というのは一般に、世界を有意味な(恒真でも恒偽でも無く、世界と比較することによって真偽が測れるような)命題で持って表現し得るってことですよね。
その意味の「語りえなさ」においてでは、「クオリアは語り得ない」と言えますよね。
随伴現象説のクオリアについて、クオリアを確かめることによって、クオリアの存在や非存在の真偽を測ることは、原理的にできないですもんね。

82メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/05(火) 20:09:18
クオリアが機能しない身体による言語の意味の実質がどうであろうと、それは思考可能性論証の眼目とは
関わりが無いので論点錯誤です。
意識が身体に作用しないのはナンセンスだとか、おとぎ話だなんて子供でも主張できますが、そこに
形而上学的可能性を見出して、心身の存在論的な差異の有無や相関関係の内実を議論するのが哲学者です。
なおウィトゲンシュタインにおいては語の意味とは用法であり、カブトムシの箱の比喩が示すように
私的言語に反対していることから、クオリアなど内在的性質の比較検証は前提していません。

なお肝心なことなので再び書きますがクオリアは語りうる必要などありません。語りえないことや検証
できないことは存在しえないことに直結しないので、思考可能性論法に対する反駁にはなりません。

83横山信幸:2015/05/05(火) 21:47:56
>語りえないことや検証できないことは存在しえないことに直結しない

その通りだと思います。「語りえず、検証できないこと」は存在することもしないことも言えないナンセンスです。
ですから、クオリアについて語ったり論じたりできるということは、現実世界とは何のかかわりもないような空想世界が可能だってこと以上の何物でも無い意味だと理解しました。
その理解で正しいですか。

84メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/06(水) 20:07:09
まだ思考可能性論法の眼目を理解されていないようなのでこれ以上の説明は無駄と思い断念します。
以下に読書案内だけしておきます。

信原幸弘編『シリーズ心の哲学Ⅰ 人間篇』第三章
金杉武司『心の哲学入門』pp.67-74

上の二冊を読んでから哲学的ゾンビについて再考されるのが良いと思います。
なお、思考可能性論法をめぐるより仔細な議論を知りたければ、

ジョン・サール『MiND 心の哲学』第三章
鈴木貴之『意識のハード・プロブレムに挑む』第1章と第2章

以上を読まれるといいでしょう。

85横山信幸:2015/05/06(水) 20:50:30
討論のお相手をしていただけなくなるのは大変残念です。

僕が理解できていない可能性ももちろんありますが、メビウスさんが間違っている可能性も十分にあると僕は考えています。
それを、僕が間違っている点を指摘することもしないで、議論を無駄だとしてしまって切り上げるのは、哲学的態度としては残念なものに思います。
できれば、考え直してくださいませんか。、

86横山信幸:2015/05/06(水) 20:55:17
失礼ですが、僕の指摘について、そのどこが間違っているのかをメビウスさんが見つけられないのではありませんか。そして、そのことを、僕の理解不足のように言われているだけなのじゃないですか。、

87横山信幸:2015/05/06(水) 22:35:19
サール「心の哲学」4章を読み返しましたが、やはり、サールの不理解はなはだしく、僕の問題にしたい論点は語られていないと感じました。「唯物論は存在論的に主観的な現象は存在しないと断定する。ところが、私たちはこの意見が間違っていることを知っている。というのも、私たちはつねに主観的な現象を経験しているからだ。」
結局、ここの部分にサールの本意は凝縮されているようですが、物理的に還元できない主観的現象が存在することがホントに語り得ると無邪気に考えている勘違いに問題があることに、彼は気が付いていません。有名な「中国語の部屋」にしてもその勘違いを、ややこしい言い方で主張しているだけに過ぎません。その勘違いは、僕のサイトの「サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15>」http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-09dd.html
で詳しく指摘していますので、もしよろしければお読みください。
鈴木貴之『意識のハード・プロブレムに挑む』第1章と第2章は読んでいませんが、そこには、僕の言う「クオリアはナンセンスだ」に対する答えが載っているのでしょうか。
僕の考えている論点と違う論点を語られて、僕の論点がずれていると言われても困ってしまいます。

88横山信幸:2015/05/06(水) 22:52:43
思考可能性論法とは、現実世界とは何のかかわりもないような空想世界が可能だってことを主張する以上の何物でも無いような論法である。
結局、僕の主張とはこういうことになるみたいですが、間違っていますか。

無駄だと言わないで、回答していただけませんか。

89メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/07(木) 20:04:07
サール批判は的外れ。前述したように心の哲学は自然主義です。この立場ではクオリアを「語りうる」必要はなく
「示す」ことができれば良い。この方法論を理解されていない。ちなみにS.クリプキも言語哲学者ですが
サール同様の主張をしていますし、そもそもチャーマーズのゾンビ論証とはクリプキの可能世界意味論を
ベースにしています。またサールと立場を異にするH.パトナム、D.ディヴィッドソンらも思考可能性論法は
使用しており、この論法は現代分析哲学の思考ツールとして広く承認されています。

>僕が間違っている点を指摘することもしないで、議論を無駄だとしてしまって切り上げるのは、哲学的態度としては残念なものに思います。

間違いは多数指摘しています。私のレスを再読して下さい。思考可能性論法が何たるかも既にくどいほど書いてます。
なお文章を読めば勉強量はすぐわかります。心の哲学における主要なトピックの論点をあらかじめ把握することも
せずに議論を挑む態度こそ無神経だと思います。少しは相手の迷惑を考えて下さい。
なおサール本読解の正誤は別にして、資料のクロスチェックは研究の基本です。先に紹介した四冊は思考可能性論法に
ついての「最低限」レベルですので、もっと本を読まれるのがいいと思います。

90名無しさん:2015/05/07(木) 23:07:24
心の哲学における主要なトピックの論点をあらかじめ把握することもせずに議論を挑んでしまい無神経だと思います。少しは相手の迷惑を考えて下さい。

91名無しさん:2015/05/07(木) 23:22:24
心の哲学における主要なトピックの論点をあらかじめ把握することもせずに議論を挑んでしまい無神経にご迷惑をおかけしました。

上の打ち間違いも僕です。すみません。

メビウスさんのご説明をすべて読み返しました。
思考可能性論法とは結局、クオリアが語り得ないunsinnであるがゆえに、その偽までもが立証不可能になるということを利用して、クオリアの存在を許すような世界像が可能であることを示した論法である。そういう理解で正しいですか。

92横山信幸:2015/05/07(木) 23:24:15
繰り返しすみません。また署名忘れです。

93メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/08(金) 20:06:56
>>89に一部表現の間違いがあったので訂正します。
>H.パトナム、D.ディヴィッドソンらも思考可能性論法は使用しており、
これは「思考可能性論法」でなく「思考可能性論法と類似の思考実験」の間違いでした。

>>91
思考可能性論法・ゾンビ論証とは何かをより正確に言うと、「クオリアが欠如したゾンビが思考可能であるゆえに、
ゾンビは形而上学的にも可能であると主張し、そのことにより心と物が存在論的に異なる可能性を示すもの」です。

物的一元論の立場では物理的なものが全てを決定するのだから、物理状態が同じでありながら心的状態が異なること
はありえないので、ゾンビは「思考可能」ですらありません。ゾンビの思考可能性は物理主義の間違いを示唆します。
したがって物理主義者はゾンビ論証に対し、思考可能なものでも形而上学的に不可能な事例を挙げたり、心と物の
同一性がアポステオリに確かめられる可能性を論じたりして反論しています。
心の哲学者にとってゾンビ論証は検証不可能という理由で退けられないのです。

94横山信幸:2015/05/08(金) 23:20:08
>物的一元論の立場では物理的なものが全てを決定するのだから、物理状態が同じでありながら心的状態が異なることはありえないので、ゾンビは「思考可能」ですらありません。

に対する質問です。
メビウスさんのその説明が正しいならどんなナンセンスな対象を想定しても物理主義を否定できてしまうのではないかという疑問が湧きました。
例えば、あらゆる物理的存在と一切の相互作用を持たない存在者αを考えます。実在するニュートリノなる物質は物理的相互作用能力が非常に弱く、その多くは地球さえ貫通してしまうほどだそうです。しかしそれでもニュートリノは微かな相互作用能力を持っているのでそれは観測可能で、確実に物理的な実在者だといえます。それに対してここで考えるαは完全に一切の相互作用を持たないものとするわけです。だから、完全に観測不可能で、検証不可能です。さらに定義からして一切の物理的対象と一切の相互作用を持たないのですから、このαはもはや物理的存在でさえ無いはずです。さてそこで、

物的一元論の立場では物理的なものが全てを決定するのだから、物理状態が同じでありながらαが存在したりしなかったりするような異なる想定が想像可能になることはありえないので、αは「思考可能」ですらありません。αの思考可能性は物理主義の間違いを示唆します。

メビウスさんの説明が正しいならこの推論も正しくなるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。正しい推論だと言えると思われますか。

95メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/09(土) 19:53:13
物理的なものが全てを決定するとは心身問題の脈絡で物的一元論という立場から言ってるのだから、
物理状態が心的状態を決定するということです。この物と心の関係を付随性と言います。
ゾンビ論証の意義とは付随性が成立しない可能性を示唆できることです。
αはクオリアの類比になっていません。そもそも物理学も物理主義も観測可能な対象しか存在しない
とは言ってませんので前提からして誤解してます。


なお正直言って迷惑ですので書き込み禁止の措置を取らせて頂きます。
心の哲学の基本的な概念やトピックをいちいち説明している時間がないのでご了承ください。
あとは先に紹介した四冊を手始めに独習して下さい。


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