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大東亜戦争

1NAME:2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争

2NAME:2012/10/02(火) 01:45:49
81.仕掛けられた「日中戦争」 ── 盧溝橋事件の真実(2000.11.7)
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/rokokyo.html

支那現政権は日本軍が先制攻撃したと言い、村山富市・元首相も当地を訪れた際、「盧溝橋で往事を反省してきた」等と寝惚(ねぼ)けた発言をしています。

実は事件当時、当の国民党軍も、日本軍同様、銃撃を受けているのです。盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込みましたが、反対に、国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んだ訳です。

事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んだのです。7月8日、つまり、「盧溝橋事件」発生の翌日、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けているのです。これは、どう見ても、お膳立てが良すぎます。

つまり、共産党の工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍が交戦する様にし向けたのです。その証拠に、共産党軍の兵士向けのパンフレットには、

「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」
とはっきりと記述されていました。又、昭和24(1949)年10月1日、「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相も、

「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言しています。共産党自らが「自白」しているのですから、これ以上の証拠はありません。

3NAME:2013/03/27(水) 02:51:07
強まる自虐史観 集団自決「軍強制」 慰安婦「連行」
2013.3.26 22:31
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130326/edc13032622330005-n1.htm

26日に検定結果が公表された高校教科書では、沖縄戦での集団自決について「日本軍が強いた」との表現や、慰安婦について「連行」「強いられた」といった記述がみられ、現行の教科書に比べ自虐的な歴史観に基づく反日的な記述が強まった。いずれも検定意見は付かず、識者から疑問の声が出ている。

 集団自決を記述したのは日本史教科書9冊のうち8冊。実教出版の日本史Bは現行版では、日本軍により「県民が集団自決に追いやられたり…」としていたが、今回は「県民が集団自決を強いられたり…」と表現を強めた。さらに「軍とともに死ぬことを求められたりもした」との記述を「軍とともに死ぬことを強制された」とした。

 清水書院の日本史Bも、現行版は「日本軍の関与のもと…集団自決に追い込まれた人々もいた」としていた表現を「日本軍によって…」と変えた上、「日本兵による命令によっても集団自決をとげた」との記述も加えた。

 平成18年度の検定では文科省が「日本軍が強いた」などと軍命令が読み取れる記述に初めて検定意見を付け、軍強制の記述がいったん削除・訂正されたが、沖縄県側が抗議の県民大会を開くなど強く反発。このため、文科省は訂正申請に応じ直接的な軍命令でなく住民が心理的に追い込まれたとの文意が含まれれば軍強制の記述を容認した。

具体的には「強制的な状況」「強制集団死」といった記述が認められたが、今回の「強いられた」「命令」などは、直接的な軍命令とも受け取れる。文科省は集団自決へのとらえ方は前回と変わっていないとした上で「直接的な軍命令を表現したものではないと判断した」と説明している。

 集団自決に詳しい現代史家の秦郁彦氏は「明らかに軍命令があったと受け取れる表現で、修正を求めないのは検定の一貫性を欠く」と指摘。意見を付けない背景には「政府が米軍普天間飛行場の移設問題を進めるため、沖縄の世論を刺激したくないという考えがあったのではないか」とみる。

 日本による朝鮮半島統治時代の慰安婦については、日本史教科書9冊のうち8冊、政治・経済では7冊のうち6冊が記述した。

 日本政府は19年3月に「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す資料はない」とする答弁書を閣議決定しているが、清水書院の日本史Aは、「日本軍に連行され、『軍』慰安婦にされる者もいた」と記述。現行版の「慰安婦として連行される者もいた」との表現から強めたが、これも検定意見は付かなかった。

 文科省は「明確に強制連行されたとは受け取れない記述なので許容された」と説明している。

 教科書問題に詳しい拓殖大学の藤岡信勝教授は「左翼的思想を持つ教科書執筆者たちは、ギリギリの表現で自虐史観の記述に変えようと狙っており、毅然(きぜん)と検定意見を付けて正していかないと不適切な記述が増えていく」と指摘している。

4NAME:2013/04/10(水) 04:58:33
サイパン島「バンザイクリフ」でピースサイン 日本人のモラルは…
2013.4.9 20:37
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130409/trd13040920430016-n1.htm

第二次大戦で激戦の舞台となり、民間人を含む約7万の日本人が死亡した米領マリアナ諸島の取材で、心痛む光景に出くわした。大戦末期、追い詰められた多くの日本人が「万歳」と叫んで海に身を投じたサイパン島北部の「バンザイクリフ」で、ピースサインをしながら写真に収まる日本人観光客を見かけた。

 高さ約30メートルの断崖の上には、たくさんの慰霊碑が並んでいる。深い悲しみを伝える地として、日本人が訪れることも多い。

 ツアーの一行だろうか。大型バスから降り立った父娘らしき2人が、バンザイクリフを背景に記念撮影をしていた。高校生ぐらいの日本人の少女は、満面の笑みで、両手でピースサインを作っている。

 「幼い子供に万歳させて写真を撮る男性もいましたよ」。私に同行してくれたガイドの日本人女性が、悲しそうな目で語った。約30年間島で暮らし、ガイド歴も長いが、マナーの悪い日本人に見かねて注意することもあったという。

 サイパン島やテニアン島にある日本政府が建立した慰霊碑や旧日本軍の施設跡では、碑文に×印がつけられたり、簡体字を含む中国語で「中国万歳」「打倒日本帝国主義」などと落書きされたりしているのを目撃した。誰の仕業かは不明だが、現地在住の日本人によると、沖縄・尖閣諸島をめぐる日中間の緊張が高まってから落書きが目立つようになったという。日本人たちは「なぜこんなことをするのか、本当に悔しい」と憤っていた。

日本人を誹謗(ひぼう)中傷する落書きをした犯人に対し、私も許せない思いがしたが、バンザイクリフでピースサインをしていた日本人観光客の行動もまた、理解できなかった。

 戦後、サイパン島はリゾート地として発展した。平和な時代だからこそ、美しい海で遊び、買い物を楽しむことができる。

 しかし、バンザイクリフは単なる観光名所ではない。「サイパンを訪れる多くの日本人は、歴史について知らなすぎる」。女性ガイドの嘆きを聞き、私たちにも改めるべきことがあるのではないかと感じた。

 辛い歴史を共有し、真摯(しんし)に見つめてこそ、先人に対する真の慰霊につながるのだと思う。(池田祥子)

5NAME:2013/05/20(月) 09:27:04
米、今だ日本への「戦勝国」意識
「笑ふべし」ではすまない 日米の戦争の歴史観
2013.5.20 03:12
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130520/plc13052003120003-n1.htm

今の憲法が施行された昭和22年5月3日、永井荷風が日記『断腸亭日乗』に書いた「感想」は、有名だ。「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」。荷風とて、占領下の日本が憲法を押しつけられることは仕方ないと考えたかもしれない。

 ▼だが2年前まで米国に敵愾(てきがい)心を燃やし、戦ってきた日本人が、これをありがたく押し頂いている。その姿には「笑ふ」しかなかったのだろう。しかも戦勝国の米国が日本に押しつけたのは、憲法だけではなかった。歴史観や倫理観までがそうだったのである。

 ▼まず先の大戦の日本側呼称だった「大東亜戦争」の使用を禁止した。全ての出版物を検閲し「太平洋戦争」と書き改めさせた。大東亜共栄圏を目指すという日本人の戦争観を抹殺し、米など連合国側による「正義の戦い」だったことを日本人に教えこむ狙いだった。

 ▼さらに日本の新聞に「太平洋戦争史」を連載させるなどして、日本が「侵略国家」であるかのようなイメージをたたきこんだ。「東京裁判」がそうした意図で行われたことは言うまでもない。そして日本人も、戦前の日本を全て悪とする自虐的史観に染まっていったのだ。

▼現代でも日本の政治家らがそうした侵略史観や「従軍慰安婦」に疑問を挟むと、中国や韓国だけでなく米国からも批判の声が上がる。いまだ日本への「戦勝国」意識があるとしか思えない。むろん日米同盟は大切だ。だからと言って歴史観まで縛られていいわけはない。

 ▼もっとおかしなこともある。沖縄の米軍基地問題などで、あれほど「反米」をあおっているマスコミが、歴史問題となると、まるで米国からの批判、非難を「錦の御旗」のように振りかざす。「笑ふべし」ではすまない気がする。

6NAME:2013/05/25(土) 03:15:08
「原爆許す神いない」長崎知事が韓国紙批判
2013.5.24 19:24 [韓国]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130524/plc13052419260018-n1.htm

 中村法道長崎県知事は24日の記者会見で、広島と長崎への原爆投下を「神の懲罰」と主張した韓国紙「中央日報」のコラムについて「非戦闘員を無差別に傷つけるのを許す神様はどこにもいない。韓国にもそういう神様はいないだろう」と批判した。

 長崎県は韓国との交流拡大を目指し、1日にソウル事務所を開設したばかり。中村知事は「交流拡大への思いに変わりはない。被爆国として、被爆の実相を理解してもらえるよう努力したい」と付け加えた。

7NAME:2013/06/01(土) 22:58:09
「侵略認めることが最低条件」みんな・浅尾氏が関係修復で維新に注文
2013.6.1 13:02 [みんなの党]
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-130601X836.html

 みんなの党の浅尾慶一郎政調会長は1日午前のテレビ東京番組で、日本維新の会との選挙協力を解消したことに関連し「維新が党の統一見解として(先の大戦が)侵略だったとまとめることが(関係を取り戻す)最低限の条件だ」と述べた。

 ただ維新は、橋下徹、石原慎太郎両共同代表の意見が異なっていることから、歴史認識に関する党の見解はまとめない方針。小沢鋭仁国対委員長は同番組で「歴史の見解に関しては歴史家に任せる」と強調した。

8NAME:2013/06/07(金) 00:44:32
日本は未来永劫「戦犯国」なのか
埼玉大学名誉教授・長谷川三千子 戦後処理の「知的欺瞞」はぎ取れ
2013.6.6 03:09
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130606/plc13060603100002-n1.htm

「勝てば官軍、敗(ま)ければ賊軍」−誰もがおなじみの古い格言ですが、これはいまなお真理である。6月3日付本欄で、櫻田淳氏はそう喝破しておられます。戦いに勝った者は、自分たちの「歴史認識」を掲げる権利をうる。それに不満があるなら次に勝てばよい。櫻田氏の提案は実に明快です。

 ≪「勝てば官軍」超えた問題≫

 もちろん櫻田氏は、だからすぐにも戦争をせよ、などと言っているのではありません。それは「経済、産業、技術上の優位の維持、さらには対外広報・文化・芸術・スポーツなどを通じた対外影響力の確保という意味の『競争』を含む」のだと氏は述べて、現在の安倍晋三政権が推し進めている「平成版『富国強兵』路線」は、そうした総合的な「勝ち」を目指すものであり、焦って〈歴史認識合戦〉などする必要はないのだ、と説いておられます。まことにもっともな見解といえるでしょう。 ただし問題は、それがいかに途方もなく難しいものであるか、ということなのです。

 まず言うまでもなく、次に勝つための一番の柱となるのは軍事力であって、もし仮に世界最強の軍事力を持つ国になれば、実際に戦争をしなくても実質的に「勝つ」ことが可能となる、とさえ言えるわけですが、戦勝国が敗戦国にそんなことを許すはずがありません。わが国の憲法9条は、まさにそれを妨げるために占領者が与えたものであり、いまも日本はかつての戦勝国である米国に守ってもらって生き延びているのが現状です。最も肝心の軍事力という点で、わが国は「次に勝つ」どころのレベルではありません。

9NAME:2013/06/07(金) 00:47:31
ならば経済という分野ではどうでしょうか。例えば、かつて日本が経済において「独り勝ち」と呼ばれるような好成績を挙げていた時期がありました。しかし、その時、それを本当の「勝ち」につなげて、われわれ日本人が次の世紀の世界のあるべき形を自ら設計すべきだ、などと主張した人間がどれだけいたか? むしろそんな人が出てくるたびに、まわりの人たちは「シーッ、そんな思い上がったことを言うものじゃない」と必死で押さえ込んでいたのではなかったでしょうか?

 ≪敗戦国イコール戦争犯罪国≫

 事実、米国の立場になってみれば、自分たちが守ってやっている国が自分たちの富を存分に吸い上げて経済大国となり、それを鼻にかけて俺様づらをするなど、許せることではありません。経済において「次に勝つ」などということは初めから不可能だったのです。 さらに対外広報ということになれば、わが国にはあらかじめ敗戦国としての地位にふさわしい広報しか許されていないという状況にある−これは昨今、イヤというほど思い知らされたところです。 ならばわれわれは未来永劫(えいごう)「賊軍」の汚名を背負ったまま生きなければならないのでしょうか?

このような窮地に立たされたときに有効なのは、われわれを窮地に追い込んでいる、その考え方の枠組み自体を明るみに出し、検分する、ということです。ここでもそれを実践してみましょう。 実は、いまわが国を悩ませている〈敗戦国イコール戦争犯罪国〉という図式は、昔ながらの(ある意味では健全な常識とも言える)「勝てば官軍」とは次元の異なるものなのです。この図式は今から百年足らず前、第一次大戦の戦後処理において初めて登場してきたものなのですが、それは次のような論理で成り立っていました。

 ≪ベルサイユ条約の条項が元凶≫

 よく知られている通り、第一次大戦は、どうしてこんな大戦争になってしまったのか、歴史学者も首をひねっている戦争です。どこか一国のせいで起こったような戦争ではありません。ところが、戦勝国の英仏両国は、経済が疲弊していて莫大(ばくだい)な賠償金を欲していました。そこで、歴史上にも例(ため)しのない、自軍の戦費一切を支払わせる「全額賠償」を要求します。そして、その根拠として、敗戦国ドイツの侵略がこの戦争の原因だ、戦争責任はすべてドイツにあるのだ、と主張する。これがベルサイユ条約のいわゆる「戦争責任条項」(ウォー・ギルト・クローズ)として確定されるのです。

これはもはや「勝てば官軍」といった無邪気な自己主張ではありません。当時の日米両国はこの途方もない不公正と欺瞞(ぎまん)に反対を唱えたのですが、英仏に押し切られてしまいます。そして、この不公正な図式は、第二次大戦の戦後処理において、もう一度繰り返されることになるのです。 われわれは単に敗戦国として、このような不公正に異議を唱えているのではありません。これは人類史上の汚点であるばかりではなく、21世紀が引きずってはならぬ前世紀の遺物システムだ、というのが重要な点なのです。これは世界全体に根本的な知的欺瞞を強いるものであり、放置すれば、自らの不法な要求を「力」に任せて通そうとする国を防ぐことができなくなってしまうのです。 〈歴史認識合戦〉をする前にやるべきことは、世界の知的欺瞞のベールをはぎ取ることでしょう。(はせがわ みちこ)

10NAME:2013/06/09(日) 01:59:36
ワシントン・古森義久 「靖国参拝は心の問題」
2013.6.8 09:05
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130608/amr13060809060004-n1.htm

「信仰の自由が保障された平和主義の国家で民主主義的な選挙によって選ばれた政治指導者が、戦死者の霊を自分自身が信じる方法で追悼することが、平和への脅威や軍国主義への前進となるはずがありません」 米国ワシントンのジョージタウン大学のケビン・ドーク教授は6月はじめ、日本の国会議員らの靖国神社参拝について語った。日本の文化やナショナリズムの歴史の研究を専門とする同教授の意見は、いわゆる「日本の歴史問題」への米国側の態度が決して一枚岩でないことを証していた。

 ドーク教授は2006年、当時の小泉純一郎首相の毎年の靖国参拝に中国などの反発がぶつけられたときも、参拝は自国を守るために戦死した先人の霊を悼む「人間の心の問題」だとして支持を表明した。 今年4月下旬、靖国神社の春季例大祭に合わせ安倍政権の閣僚3人や超党派の国会議員168人が参拝したことで、政治家の参拝をめぐる論議がまた国際的な波紋を広げた。 米国でもメディアや研究者の間から批判が起きた。オバマ政権は公式には沈黙したままだが、非公式には不満をもらす高官も存在する。ブッシュ前政権の高官たちがまったく日本批判の気配はみせなかったのとは対照的である。

ドーク教授の見解がこの時点でまた注視される契機のひとつは安倍晋三首相自身の言明だった。首相は5月中旬、米外交雑誌「フォーリン・アフェアーズ」編集局長のインタビューに応じ、靖国参拝をやめるかと問われて、教授がすでに述べていた見解を引用して答えとしたのだった。 「ドーク教授は南北戦争での南軍将兵が埋葬されたアーリントン国立墓地を歴代米国大統領が訪れたが、南軍がその保持のために戦った奴隷制の承認を意味はしないと言明しました。靖国参拝についても同じことがいえると思います」 靖国にはA級戦犯の霊も合祀(ごうし)されたが、参拝はその霊の生前の行動への支持をとくに意味はしない、というわけだった。

 ドーク教授はこうした靖国参拝奨励論を「ヤスクニ=戦死者と日本の過去との戦い」(コロンビア大学プレス刊)という米国での近著でも明確に述べていた。日米英の識者たちの参拝への賛否両論をまとめた同書は、靖国についての英文ではほぼ唯一の総合的な本だとされる。ドーク教授は筆者のインタビューに応じて、さらに見解を語った。

 「戦死者の追悼は人間の霊、そして生と死にかかわる神聖な行為であり、それを外部からの圧力でやめることは追悼する側の個人の尊厳を冒すことになります。日本の政治指導者が自国の戦死者の霊に弔意を表することは、日本のいまの外交政策や安保政策にはなんの関係もないでしょう」 「日本の政治家の靖国参拝に対しては日本軍が最も大きい被害を与えたはずの東南アジア諸国からも、長い統治を続けた台湾からも非難は出てこない。日本非難を共産党独裁の正当性につなげる無神論の中国と、日本たたきを民族プライドにつなげる情緒的な韓国からしか参拝糾弾が出てこない点に注目すべきです」

 なお、秋田の国際教養大学で日本のナショナリズムの集中講義をするために訪日したドーク教授は今月6日、安倍首相を表敬訪問したという。(ワシントン駐在客員特派員)

11NAME:2013/07/10(水) 11:31:13
真珠湾 奇襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83#.E9.A8.99.E3.81.97.E3.81.86.E3.81.A1
アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒を手交した。

この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官(2人ともその後外務事務次官を務めた)らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。その為に、「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカのプロパガンダに使われることとなった。

真珠湾攻撃陰謀説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83%E9%99%B0%E8%AC%80%E8%AA%AC
は1941年12月8日(現地時間は7日)の大日本帝国海軍の真珠湾攻撃を、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説である。この説は戦時中の日本や、終戦後のアメリカでも唱えられていた。現代では第31代大統領やマッカーサーなどのルーズベルト非難が明らかになっている。

二度の原爆投下を経て太平洋戦争に完全勝利し、半世紀以上経った2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した際には、このテロを真珠湾攻撃と同様のものだと強調する言論が多く見られるなど、アメリカ人の精神に拭い切れないものを残した。

「ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていた(ただし、諜報局も攻撃目標がどこであるかまでは確信していなかった、との説あり)にも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」とする真珠湾攻撃陰謀説は開戦後60年以上たっても、繰り返し論議される。

ハル・ノートは最後通牒か

ハル・ノートは日本が50年以上かけて築き上げたアジアの占領地及び同盟関係もをすべて放棄せよ、と言う内容 東郷外相は「目もくらむような衝撃に打たれた」『時代の一面』(原書房、1989年)と回顧しており、当時の日本にとっては到底受け入れられない内容であった。開戦後日本はアメリカの最後通牒であったと発表した。ハル・ノートは開戦派と和戦派の争いに決着をつけ、対米戦に一丸となって行くことを決意させた。

ハルノートが戦争を誘発するかもしれないとする認識はハルにもルーズベルトにもあったと思われる。ルーズベルトは「先に日本に一発撃たせる方法はないか」と語ったそうである。この事からルーズベルトは日本と戦争をしたがっていることはまず明白であり、何らかの策を探っていたことが分かるといわれているが、単に戦争の覚悟を決めただけとも考えられる。

12NAME:2013/07/24(水) 21:33:09
極秘、本土決戦に備えた秘密基地
特攻兵器「桜花」 本土決戦に備えた秘密基地が比叡山にあった 写真・スケッチ見つかる
2013.7.24 14:10
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130724/wlf13072414100008-n1.htm

先の大戦末期、本土決戦を想定して比叡山(848メートル)の山頂付近に、極秘裏に建設された特攻兵器「桜花」発射基地の様子を克明に伝える写真やスケッチが、大津市内の古書店で見つかった。旧制京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。戦後間もなく米軍に壊され、公的な資料も存在しない「幻の基地」。専門家は「不明な点が多い基地の全容が分かる極めて貴重な資料。本土決戦に向けた緊迫感も伝わってくる」と高く評価している。

大津市の古書店で発見

 写真は、京都三中(現京都府立山城高校)の生徒が比叡山に登って撮影したとみられ、アルバムに10枚収められていた。写真のそばに「昭和21年9月1日」と記され、この日に撮影したとみられる。大津市内の古書店で県内在住の郷土史家が見つけた。

 幻の桜花発射基地は、戦況悪化で本土決戦が叫ばれる中、大阪湾に襲来する敵艦を特攻専用機の桜花で迎撃するため、20年5月に海軍が建設を始めたとされる。桜花は自力で発進できず、カタパルト(発射装置)を使って機体を空中に飛ばした後、ジェットエンジンで飛行する仕組み。 基地には発射用レールや、機体を方向転換させる回転台などを設置したとみられ、見つかった写真には、琵琶湖に向かって敷設されたレールや桜花を載せる台車に取り付ける噴射装置などが写っていた。 さらに1枚の写真の裏面には、基地全体の配置を克明に記したスケッチも描かれていた。レールや回転台の位置、特攻隊員が宿泊した施設やカタパルトの部材を隠した場所まで詳細に書き込まれていた。

終戦で配備されず…米軍が破壊

 基地は8月15日完成予定だったが、日本がこの日終戦を迎えたため、桜花が配備されることはなかった。また施設は戦後間もなく米軍に破壊され、研究者によると、基地の存在を示す資料としてカタパルトの遠景や回転台の一部を写した写真2枚と、特攻隊員の記憶を頼りにしたメモなどが残るだけだった。また同様の発射基地は、比叡山のほか生駒山や六甲山にも計画されたが、断念された。

 大津市歴史博物館は、終戦記念日に合わせ、8月中にも見つかった写真などを館内で公開する予定で、担当者は「『特攻』がどのようなものだったか、戦後世代の人たちに、戦争の実態を考えてもらういい機会になる」と話している。 近現代の軍事史に詳しい国文学研究資料館の加藤聖文(きよふみ)助教の話 「戦争末期に長野県の山中に築かれた『松代大本営』のように、軍が進めた本土決戦の計画の一端をうかがわせる貴重な資料だ」

13NAME:2013/08/04(日) 18:02:28
高市氏、終戦記念日に靖国参拝へ
2013.8.4 16:44 [歴史認識]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130804/stt13080416460004-n1.htm

 自民党の高市早苗政調会長は終戦記念日の15日に東京・九段北の靖国神社を参拝する意向を固めた。党関係者が4日、明らかにした。超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の集団参拝に参加する。

 高市氏は第1次安倍内閣で沖縄北方担当相を務めていた2007年を含め、例年、終戦記念日に靖国神社を参拝している。 ことし4月の春季例大祭に合わせて靖国参拝した際には「国策に殉じて尊い命をささげて国を守ってくださった方々をどう慰霊をするかは私たち日本人が決める」と記者団に述べ、中国や韓国の参拝批判をけん制した。

14NAME:2013/08/04(日) 21:32:02
村山談話「おかしい」 靖国参拝「やめたら終わり」 自民・高市政調会長
2013.5.12 13:27
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130512/stt13051213290001-n1.htm

自民党の高市早苗政調会長は12日、NHKの番組に出演し、過去の植民地支配と侵略を認めた平成7年の「村山談話」に「国策を誤り」とのくだりがあることに触れ、「当時、日本が資源封鎖されてもまったく抵抗せずに植民地となる道を選ぶのがベストだったのか」と疑問を示した。同時に「当時の国際状況の中で何が正しかったかを自信を持って主張できる政治家は今の日本にはいない。だから、(談話は)ちょっとおかしい」とも述べた。

 ただ「植民地とされた国の民族の誇りを傷つけ、大変な苦難、被害を与えたのは確かなことだ」と、談話に一定の理解も示した。

 高市氏はまた、麻生太郎副総理ら安倍晋三内閣の閣僚による靖国神社参拝に中国や韓国が反発を強めていることに対して「ここで(参拝を)やめたら終わりだ。国策に殉じて命をささげた方をいかに慰霊するかは(日本の)内政の問題だ」と訴えた。

 安倍内閣が東京裁判を受け入れるかどうかについては「国家観、歴史観に関し安倍首相は(歴代内閣と)違った点もあるかと思う」と指摘した。

 高市氏の発言について、公明党の石井啓一政調会長は「菅義偉官房長官が10日の記者会見で、村山談話に関して『全体を歴代内閣と同じように引き継ぐ』とはっきり明言された。安倍内閣の歴史認識は歴代政権と変わらないと理解している。明確に丁寧に海外諸国に説明する必要がある」と述べた。

15NAME:2013/08/07(水) 00:45:57
広島 松井市長の「平和宣言」全文
2013/08/06 16:59
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/674869/

「あの日」から68年目の朝が巡ってきました。1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾によりそのすべてを消し去られた家族がいます。「無事、男の子を出産して、家族みんなで祝っているちょうどその時、原爆が炸裂(さくれつ)。無情にも喜びと希望が、新しい『生命』とともに一瞬にして消え去ってしまいました」

 幼くして家族を奪われ、辛うじて生き延びた原爆孤児がいます。苦難と孤独、病に耐えながら生き、生涯を通じ家族を持てず、孤老となった被爆者。「生きていてよかったと思うことは一度もなかった」と長年にわたる塗炭の苦しみを振り返り、深い傷跡は今も消えることはありません。

 生後8カ月で被爆し、差別や偏見に苦しめられた女性もいます。その女性は結婚はしたものの1カ月後、被爆者健康手帳を持っていることを知った途端、優しかった義母に「『あんたー、被爆しとるんねー、被爆した嫁はいらん、すぐ出て行けー』と離婚させられました」。放射線の恐怖は、時に、人間の醜さや残忍さを引き出し、謂れのない風評によって、結婚や就職、出産という人生の節目節目で、多くの被爆者を苦しめてきました。

 無差別に罪もない多くの市民の命を奪い、人々の人生をも一変させ、また、終生にわたり心身を苛(さいな)み続ける原爆は、非人道兵器の極みであり「絶対悪」です。原爆の地獄を知る被爆者は、その「絶対悪」に挑んできています。

辛く厳しい環境の中で、被爆者は、怒りや憎しみ、悲しみなどさまざまな感情と葛藤し続けてきました。後障害に苦しみ、「健康が欲しい。人並みの健康を下さい」と何度も涙する中で、自らが悲惨な体験をしたからこそ、ほかの誰も「私のような残酷な目にあわせてはならない」と考えるようになってきました。被爆当時14歳の男性は訴えます。「地球を愛し、人々を愛する気持ちを世界の人々が共有するならば戦争を避けることは決して夢ではない」

 被爆者は平均年齢が78歳を超えた今も、平和への思いを訴え続け、世界の人々が、その思いを共有し、進むべき道を正しく選択するよう願っています。私たちは苦しみや悲しみを乗り越えてきた多くの被爆者の願いに応え、核兵器廃絶に取り組むための原動力とならねばなりません。

 そのために、広島市は、平和市長会議を構成する5700を超える加盟都市とともに、国連や志を同じくするNGOなどと連携して、2020年までの核兵器廃絶をめざし、核兵器禁止条約の早期実現に全力を尽くします。

 世界の為政者の皆さん、いつまで、疑心暗鬼に陥っているのですか。威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか。広島を訪れ、被爆者の思いに接し、過去にとらわれず人類の未来を見据えて、信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を決断すべきではないですか。広島は、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する地であると同時に、人類の進むべき道を示す地でもあります。また、北東アジアの平和と安定を考えるとき、北朝鮮の非核化と北東アジアにおける非核兵器地帯の創設に向けた関係国の更なる努力が不可欠です。

 今、核兵器の非人道性を踏まえ、その廃絶を訴える国が着実に増加してきています。また、米国のオバマ大統領は核兵器の追加削減交渉をロシアに呼び掛け、核軍縮の決意を表明しました。そうした中、日本政府が進めているインドとの原子力協定交渉は、良好な経済関係の構築に役立つとしても、核兵器を廃絶する上では障害となりかねません。広島は、日本政府が核兵器廃絶をめざす国々との連携を強化することを求めます。そして、来年春に広島で開催される「軍縮・不拡散イニシアティブ」外相会合においては、NPT体制の堅持・強化を先導する役割を果たしていただきたい。また、国内外の被爆者の高齢化は着実に進んでいます。被爆者や黒い雨体験者の実態に応じた支援策の充実や「黒い雨降雨地域」の拡大を引き続き要請します。

 この夏も、東日本では大震災や原発事故の影響に苦しみながら故郷の再生に向けた懸命な努力が続いています。復興の困難を知る広島市民は被災者の皆さんの思いに寄り添い、応援し続けます。そして、日本政府が国民の暮らしと安全を最優先にした責任あるエネルギー政策を早期に構築し、実行することを強く求めます。

 私たちは、あらためてここに68年間の先人の努力に思いを致し、「絶対悪」である核兵器の廃絶と平和な世界の実現に向け力を尽くすことを誓い、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。

 平成25年8月6日 広島市長 松井一実

16NAME:2013/08/07(水) 02:17:43
米国人の6割「原爆投下は正しかった」、米世論調査
2009年08月05日 10:24 発信地:ワシントンD.C./米国
http://www.afpbb.com/article/politics/2627862/4427553

【8月5日 AFP】米キニピアック大学(Quinnipiac University)が4日に発表した世論調査によると、米国人の約3分の2が、第2次世界大戦中の64年前、米国が広島と長崎に原爆を投下したことは正しかったと考えていることが明らかになった。

 この世論調査によると、当時のハリー・トルーマン(Harry Truman)米大統領が原爆投下を命じたことは間違いだったと回答したのは、回答者のわずか22%だった。 米国は1945年8月6日に広島に原爆を投下し、14万人以上が死亡した。同9日には長崎にも投下され、7万人が犠牲になった。

 世論調査によると、原爆投下を支持する意見は年齢が上がるにつれ顕著に増加しており、55歳以上の回答者では4分の3近くが支持している。一方、18-34歳では50%、35-54歳では60%にとどまった。

 キニピアック大学のピーター・ブラウン(Peter Brown)氏は、「第2次大戦の恐ろしさが記憶に残っている回答者は、圧倒的にトルーマン大統領の決断を支持している。その一方で、冷戦時代の核の恐怖の下で育った世代以下の回答者では支持する意見は少なくなっている」と指摘した。 今回の世論調査は、全米の2409人を対象に7月27日から今月3日までの期間に行われた。誤差はプラスマイナス2%。(c)AFP

17NAME:2013/08/07(水) 03:09:50
国家の自立を考える 68回目原爆の日 編集委員・河村直哉
2013.8.6 15:41
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130806/wlf13080615430020-n1.htm

死者を追悼し、私たちに託されたものを自覚すべきはずのこの月に、今年は不快な、いらぬ湿気が体にまとわりついてくる。隣国による声高な歴史問題の言挙げによって、である。

 ことあるごとに「正しい歴史認識」を持ち出し反日ぶりに余念がない韓国では、あろうことか5月、日本への原爆投下は神の懲罰だとする記事が有力紙・中央日報に載った。原爆の犠牲者をさらに傷つけるもので、醜悪さはここに極まった。厚顔無恥に尖閣諸島(沖縄県石垣市)をうかがう中国首脳は昨年来、日本は尖閣を盗んだ、戦後の国際秩序を守るべし、などと繰り返している。詭弁(きべん)、ないし、でたらめという。2国とも日本の政治家の靖国参拝に横やりを入れているのも周知の通り。

 先の大戦の、海外の犠牲者に思いを至らせることは大切だ。 しかし国内で戦災により犠牲になった同胞、国のために殉じた英霊をまず追悼するのは日本人として当然のことである。

悔恨共同体

 ここでは、これ以上この2国に触れない。領土や歴史問題での言いがかりには筋を通し、しかし対話の門は閉ざさずと静かに構えるのが、東洋の君子国たる日本にふさわしい。だがこうした事態になるに至った日本の戦後に、なにがしかの隙はなかったか。日本が抱える問題を広島に即して2つ、あえて厳しく考えてみたい。

1つ。昭和27年にできた原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。常識的には、日本人が過ちを繰り返さない、と読める。原爆を落としたのは日本ではないから、これはおかしい。

 このような異議申し立てはむかしからあり、文を作った広島大学の教授は、主語は広島市民であるとともに世界市民であるわれわれだ、これは全人類に通じる感情だ、とした。しかしこの考え方は高貴なようでいて、なにかを隠している。世界市民には日本人も含まれる。つまり主語を伏せながら、原爆を落とされた当事国がやはり自らの「過ち」を認める構図になっている。

 この文言は、戦後日本を覆ってきたある傾向をよく表しているのだ。政治学者の丸山真男は、戦争に関し敗戦後の知識人が「悔恨共同体」を形成したと書いた(「後衛の位置から」)。自分たちのあり方はあれでよかったのか、根本的な反省に立った新しい出直しが必要ではないか、そんな自己批判の感情が敗戦後に広がったという。

 丸山をはじめとする戦後のいわゆる進歩的知識人の特徴を筆者なりに簡単にいえば、戦前・戦中の日本への、容赦ない断罪の姿勢なのである。丸山が自著の英語版に添えた序文の言葉でいえば「日本社会の恥部をあばこう」とする「絶望的な自虐」が、丸山のみならず彼らの言説には満ちている。

 それは知識人だけでなく多くの人に共有された。たとえばこれら知識人が活躍した新聞や雑誌は、終戦までの日本の歴史を「絶望的な自虐」でもって書き立て社会問題とした。かの国々が言い募っている慰安婦問題も、日本の一部メディアが国内で騒ぎ出したものなのだ。

18NAME:2013/08/07(水) 03:13:50
戦後の思考停止

もう1つ、考えておきたい。こうした日本の左傾傾向は基本的に、戦争につながるものをすべて非とするがゆえに、戦力の保持を認めない戦後憲法を是とする。戦後まもなくできた平和問題談話会、昭和30年代にできた憲法問題研究会などには進歩的知識人が名を連ね、平和憲法の尊さを訴えた。この傾向は、いまもあちこちで続く護憲運動に連なっている。

 不戦への思い、核兵器廃絶への願いを筆者は否定する者ではない。しかし日本の平和がアメリカの核抑止力をはじめとする戦力の均衡によって保たれてきたことも、戦後の現実である。護憲派はこの点で思考停止して空想の平和を唱えた。核兵器についての議論すらタブー視する風潮もあった。護憲派に限るまい。日本は戦後、自国の防衛について茫然(ぼうぜん)自失してきたようにも思えてくる。

 この傾向は中国や北朝鮮の脅威が増すなか、やっと変わってきている。産経新聞が一昨年に行った世論調査では、政府や国会の核議論に賛成する人が86・7%に達した。日本が今後も日米同盟を基軸にして自国の防衛に当たるべきなのは、いうまでもない。

 ただし、である。通すべき筋は通しておく。原爆を投下したのはそのアメリカであり、これは戦争犯罪である。自国に原爆を落とした相手国の核抑止力に守られて、日本は戦後という年月を安穏と過ごしてきたのだ。

 ことさらに過去を言い募って冒頭のような中国、韓国並みに堕する必要も、反米的になる必要もあるまい。しかし民族の歴史を直視し、自分の国を自分たちで守る構えを持つのは、当然ではないか。これは防衛問題というに限らず、日本という国家、さらに日本人の、精神の自立の問題となる。

昭和27年秋、広島の原爆死没者慰霊碑の前に立つ人の姿があった。東京裁判で被告全員を無罪と判断したパール判事。イギリスの支配に苦しんできたインドのこの知性は、日本の戦争を公平に見ようとした。

 碑文の意味を知ったパールは、怒った。パール著、田中正明編著「パール博士『平和の宣言』」による。 「国民がその良心にゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない。原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない」

19NAME:2013/08/08(木) 20:44:15
「非道」原爆投下の米へ首相牽制 ☆☆☆
原爆問題−自虐のぬるま湯から出て日本が主張すべきこと
2013.8.8 11:50
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130808/plc13080811510011-n1.htm

「私たち日本人は、唯一の戦争被爆国民であります。その非道を後の世に、また世界に伝え続ける務めがあります」 安倍晋三首相が6日に広島市で行われた平和記念式典でこうあいさつし、原爆投下について「非道」という言葉で非難したことに注意をひかれた。式典には米国のルース駐日大使も参列しており、首相は歴史問題でやんわりと米国を牽(けん)制(せい)したといえるからである。

 折しも読売新聞には映画「プラトーン」や「JFK」で知られる米映画監督、オリバー・ストーン氏のインタビュー記事が掲載されていた。ストーン氏はこう語っていた。 「原爆投下は戦争を終わらせるために必要だったというのは幻想だ」「日本の人々も、米国の神話を受け入れず、なぜ原爆が落とされたかを学んでほしい」

 このような見方は米国では必ずしも主流派ではないだろう。とはいえ多様な意見、見解が存在し、かつ堂々と表明されるのは米国らしい懐の深さだといえる。主要紙が平気で「原爆投下は神の懲罰だ」(中央日報)と書く一方で、自国に都合の悪い評論家、呉善花氏の入国は理由も示さず拒否する韓国とは全く違う。

「戦争に負けたから仕方ない」と自虐のぬるま湯に

ただ、日本も韓国を笑ってばかりはいられない。戦後ずっと、原爆投下の理非追及も不当性や被害を訴えるのも控えめで、「戦争に負けたから仕方ない」と自虐のぬるま湯に閉じこもり、問題をあいまいにしてきたことは否めない。

 例えば、広島市の原爆死没者慰霊碑に刻まれた有名な碑文がある。 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」 主語がはっきりせず、まるで日本人が「原爆を落とされるような悪いことはもうしません」と言っているかのように読める。

 実際、東京裁判で被告全員無罪を主張したインドのパール判事が広島を訪れた際にこの碑文を知り、「過ちは誰の行為を指しているのか。原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である」と憤ったエピソードはよく知られている。 広島市のホームページによると、碑文の趣旨は「原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというもの」だそうだが、そう読み取れるだろうか。

 また、長崎市長を4期務めた本島等氏は平成10年8月掲載の産経新聞のインタビューにこう語っていた。 「日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ」

オバマ氏へ「原爆投下、現在もその選択は正しかったかと…」質問を

一般市民が無差別に大量虐殺された日本側がこんな状態では、米国が原爆投下の正当化姿勢を改めることは期待し難い。オバマ大統領が21年11月に来日して首相官邸で記者会見を行った際、幹事社だった筆者はこんな代表質問を用意した。 「過去に日本に2発の原爆が投下されたことについての歴史的な意味をどうとらえ、現在もその選択は正しかったと考えているか」

 「核なき世界」を目標とする大統領も、この質問には一切答えずはぐらかした。防戦一方で勝てるゲームはない。歴史問題をめぐって日本も、たまには相手の痛いところを突くぐらいした方がよいはずである。(政治部編集委員)

20NAME:2013/08/08(木) 21:01:17
「日本への原爆投下の主たる目的はソ連への牽制。軍事的必要性なかった」
8月6日
2013.8.6 03:04 (1/2ページ)[産経抄]
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130806/trd13080603040000-n1.htm

 昨年の原爆忌、広島と長崎で開かれた平和式典に、原爆投下を命じたトルーマン元米大統領の孫に当たるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんが出席して、話題になった。今年の外国人参列者の「主役」は、米映画監督のオリバー・ストーンさんだろう。

 ▼社会派監督として知られるストーンさんは昨年、第二次世界大戦前夜からオバマ大統領の登場までを、独自の視点で追いかけたドキュメンタリー「もうひとつのアメリカ史」を制作した。そのなかで、日本への原爆投下の主たる目的はソ連への牽制(けんせい)であり、軍事的な必要性はなかったと主張している。

 ▼全米で論争を引き起こした番組の脚本は、アメリカン大学歴史学科のピーター・カズニック教授と共作した。カズニックさんは毎年夏、学生を連れて広島、長崎を訪れており、今回ストーン監督も同行したというわけだ。

 ▼1995年、ワシントンのスミソニアン博物館が「原爆展」を企画したところ、退役軍人会などの反対で、事実上、中止に追い込まれたことがあった。そのとき近くにあるアメリカン大学で、広島、長崎の被爆資料の公開にこぎつけたのが、カズニックさんだった。

 ▼「原爆のおかげで戦争が終わり、アメリカ兵だけでなく、多数の日本人の命も救われた」。大多数のアメリカ人が今もこう信じている。誤った歴史観を正すために、お二人には今後も奮闘していただきたい。ただ、気になることがある。

 ▼カズニックさんは、最近の朝日新聞紙上で、核廃絶だけでなく、脱原発、憲法9条堅持、そして米国の軍事政策への反対を呼びかけていた。余計なお世話だ。きょうと9日は、何より原爆の犠牲者を哀悼する日でなければならない。政治を持ち込まないでほしい。

21NAME:2013/08/09(金) 07:04:00
マッカーサー 安全保障 証言
対訳 マッカーサー証言
http://www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。 いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。 彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。 日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。 したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。

※ 昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた質疑応答の一部

22NAME:2013/08/09(金) 07:04:56
日本ほど実直に戦時国際法を守った国ってないんじゃないの?
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-1258.html

民間人殺し過ぎだろ米国。
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/img/c956ace0452d11a85b0b87fc8d17ee5d.jpg/

23NAME:2013/08/09(金) 07:16:39
マッカーサー「自衛戦争」証言
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1951-60/1951_makasa_shogen.html

フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやってきたとき、彼はその恨みを晴らすべく、「日本は悪いものだ」と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法をつくらせて日本を骨抜きにした。 ところが朝鮮戦争が起こって事態は一変する。そのとき彼は初めて東京裁判で弁護側が言ったことがすべて本当だったのだと気づく。そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、なんとか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。 マッカーサーは前年に東京裁判が誤りだったと発言している。

「バターン死の行進」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1942_batan_shinokoshin.html

フィリピンのアメリカ軍総司令官になったダグラス・マッカーサーは、自慢の航空部隊で十分に日本を抑えられると思ったところがコテンパンにやられ、数万の兵隊を置き去りにして自分だけがオーストラリアに逃げた。その置き去りにされた兵隊たちは、バターン半島で食べるものもなく、マラリアに侵されてフラフラになってしまった。放っておけばそのまま死んだわけだが、降参したために日本軍は山の中から基地のある場所まで自分たちの何倍もの数の兵隊を連れてこなければならなかった。日本軍にはトラックがなかったために、仕方なく歩いてもらった。その途中に、多くの死者が出たために「バターン死の行進」と呼ばれ、日本軍の残虐行為と非難されている。しかし、一番残虐だったのは置き去りにして逃げたマッカーサーである。マッカーサーは日本に対する恨みを持ったのだが、それはマッカーサーの逆恨みだった。

24NAME:2013/08/15(木) 20:52:35
気になる「風立ちぬ」への指摘
8月15日
2013.8.15 03:07 [産経抄]
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130815/trd13081503080003-n1.htm

遅まきながら、宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」を見てきた。ゼロ戦の設計者として知られる堀越二郎を主人公にして、作家、堀辰雄の代表作「風立ちぬ」のストーリーを重ねるというアイデアにまず驚く。

 ▼好意的な映画評が多いなかで、ある指摘が気になった。主人公に、戦争に協力することへの葛藤がみられない、というのだ。宮崎監督は、たまたま激動の昭和に生まれ合わせた、飛行機を何より愛する一人の日本人の青春を描こうとした。単なる「反戦映画」にするつもりはないはずだ。

 ▼平成4年に出た『まど・みちお全詩集』のあとがきを読んだときも、似たような違和感を覚えた。この詩集には、「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などのほか、出征直前に作られた、まどさんが「戦争協力詩」と呼ぶ2編も収められている。

 ▼戦後になって、戦前、戦中の好戦的な言動がなかったかのように振る舞った文学者が少なくないなか、まどさんの誠実な態度には感銘を受けた。それなのに、まどさんは自分を責めてやまない。「懺悔(ざんげ)も謝罪も何もかも、あまりに手遅れです。慚愧(ざんき)にたえません、言葉もありません」。

 ▼何がいけないというのだろう。戦闘機の設計者や詩人だけではない。当時の日本人は、それぞれ自分の持ち場で精いっぱい戦った。きのうも書いたように、敗れたとはいえ、その戦いぶりは、戦勝国にとっても大きな衝撃だった。

 ▼国家の再建に失敗すれば、英霊たちに申し訳が立たない。戦後の復興の原動力となったのも、生き残った日本人のそんな思いだった。終戦記念日のきょう、静かに祈りをささげるとともに、あらためて確認しておきたい。現代の価値観だけで、あの時代を生きた人たちを裁くべきではない、と。

25NAME:2013/08/16(金) 14:11:11
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-935.html

明治維新以降の戦争で日本軍は常に国際法を遵守した武士道の戦いをした事を日本人は知らなければいけない。
日本ほど国際法を守った国はありません。真珠湾攻撃においても、戦闘機は軍艦や軍事施設を攻撃してもハワイの一般住民には一切攻撃しませんでした。

しかしアメリカは日本の多くの都市に焼夷弾を投下して町を焼き尽くし、東京大空襲では10万人の市民が一夜にして焼き殺され、そして広島・長崎
の原爆投下で一瞬にして30万人以上の市民が灰にされてしまいました。アメリカの国際法違反も目に余るものがありました。

日露戦争で最初は日本を応援していたアメリカは、ロシアの世界一の海軍力が日本の力であれほど木っ端微塵になるとはよもやおもってもいなかった。負けると信じていた日本が大国ロシアに大勝利した。我に返ったアメリカは突如として日本を仮想敵国とみなし始めた。

つまり日本の想像も出来なかった実力に恐怖を抱きはじめたのです。日本は将来、きっと太平洋でアメリカと戦うことになるだろうという予感
と突然日本の連合艦隊が襲ってくるという根も葉もない恐怖をアメリカの新聞は書き立てました。

いわゆる「黄禍論」がアメリカ社会を津波のように飲み込んでいったのです。日本人は好戦的であり、アメリカ太平洋側まで奪い取る実力があり、
その危険は今や目の前に迫っているというキャンペーンがマスコミによって連日繰り広げられていきました。

アメリカの根底には、「日本の後ろに十数億のアジア人が白人に復讐する為に結束しているに違いない」というとんでもないデマが信じられていました。

ところが当時の日本の社会は不思議と親米一色に染まっていきアメリカ文化を盛んに取れいれていきました。悲しいかな日本の言論界も政界も全く正確にアメリカの実情を判断する能力を持っていなかった。

しかしアメリカのルーズベルトは日本がこれ以上力をつける前に日米決戦に持ち込まなければアメリカが危うい。そこでアメリカ政府は世論を「日
米戦争は仕方のないことだ」というふうに煽り立てる戦略を取ったのです。

そのために蒋介石に資金と武器を与え日本との全面戦争に仕向けたのです。そして日本軍は全中国で暴虐、陵辱の限りを尽くしているというキャンペーンをはり、アメリカ国民に「貧しい、悲惨な中国を日本から救わなければいけない」と信じ込ませたのです。

このようにルーズベルトはありとあらゆる手段を使って日本との戦争になるように持ってきたのです。これは私の推測で言っているのではありません。

その証拠にキッシンジャーは「日本との戦争になるように、戦争を嫌がる国民をその気にさせ、引っ張ってきた、それで世界の自由を救ったんだ。
これは偉大な功績だ」とルーズベルトを称賛しています。

歴史のうねりの中で太平洋戦争はアメリカが100%仕掛けた戦争だということを我々日本人は記憶にとどめておかなければならないと思います。

26NAME:2013/08/16(金) 16:09:19
豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は
「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。
満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。

参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満

27NAME:2013/08/25(日) 05:15:00
スチムソン ハワイ ほっとした
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-311.html
◆解決された大統領の「道徳問題」

真珠湾攻撃の日(時差によりアメリカでは12月7日)の午後2時、ルーズヴェルト大統領はスチムソン陸軍長官に電話で、
「日本はハワイを攻撃した。やつらはハワイを空襲しているところだ。」と述べた。

そしてスチムソンは、この日の日記にこう書いた。

「それはたまらなく面白いことだった。・・・いまやジャップはハワイで我々を直接攻撃することで問題全部を一挙に解決してくれた。
日本の攻撃の報を受けた時、私の最初の気持ちは、不決断の状態が終わり、全米国民を一致団結させるような仕方で危機がやって来たという
ほっとした気持ちであった。」

28NAME:2013/08/28(水) 03:48:35
k.onodera ‏@kmovie 9時間
昭和天皇が第二次大戦における作戦行動にまで細かく口を出してたことは、文藝春秋に載った「昭和天皇独白録」という、昭和天皇が自ら語った内容でもハッキリと裏付けられている。問題は、これら信憑性のある資料を『終戦のエンペラー』ではわざと無視し、全く違う物語を啓蒙しようとしているところだ。

29NAME:2013/08/29(木) 20:04:57
「原爆も国際法違反か」に米無言
シリア化学兵器使用で米国務省に質問飛ぶ
2013.8.29 12:24 [国連]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130829/amr13082912260006-n1.htm

 原爆投下も化学兵器使用と同じ国際法違反か−。米国務省の定例記者会見で28日、ロイター通信の記者がシリアの化学兵器使用疑惑をめぐり、米国による広島、長崎への原爆投下の例を挙げて軍事介入の正当性について追及した。

 米政府はアサド政権による化学兵器使用を断定。この日の会見でハーフ副報道官は国連安全保障理事会による武力行使容認決議なしに軍事介入することを念頭に、多数の市民を無差別に殺害したことが一般的に国際法違反に当たると強調した。

 これに対してロイターの記者は「米国が核兵器を使用し、広島、長崎で大量の市民を無差別に殺害したことは、あなたの言う同じ国際法への違反だったのか」と質問。ハーフ氏はコメントを避けた。(共同)

30NAME:2013/09/15(日) 06:22:58
花うさぎの「世界は腹黒い」
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/2317343/

◆ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)

 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。
(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

 ◆ハミルトン・フィッシュ(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))

 ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。

 ◆ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。

 民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)
 さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256〜7ページ)

 ◆ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)
 
 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)

 1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。
(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

◆グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。

 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。
(1946年デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

 ◆ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)

 チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち
 「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。
(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253〜4頁)

31NAME:2013/09/15(日) 06:26:38
 ◆アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。

 日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。 その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。 (中略)
(日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)

 ◆ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
 
 日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。
 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。
 
 『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。

 そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)

◆朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}

 「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ? 黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか? しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

 ◆ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)

 この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

 ◆スリム中将(イギリス第十四軍司令官)

 たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。
(「敗北から勝利へ」)
 かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

 ◆蒋介石

 ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

 ◆ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)

 これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。
(『神風』)

32NAME:2013/09/16(月) 19:37:41
旧日本軍731部隊が人体解剖を行った証拠を発見した-中国の専門家が主張
サーチナ 8月22日(木)11時4分配信
http://military38.com/archives/31137715.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130822-00000009-scn-cn

旧日本軍731部隊について研究する専門家・楊彦君氏はこのほど、「旧日本軍が人体解剖を行ったことを証明する直接の証拠」を発表した。中国国際放送局が報じた。 ハルビン市社会科学院731問題国際研究センターの責任者である楊彦君氏は2011年11月、米国会図書館で米国が機密指定を解除・公開した日本細菌戦に関する資料を調査し、ペスト菌報告の「Q報告」を含む3部の報告書を発見したと主張した。

 記事は、「Q報告は731部隊が1943年に長春と農安地区のペスト感染者に解剖を行った報告書で、主に心臓、肺、扁桃腺などの器官の感染ルートと感染程度の情報を記録したもの」と報じた。 楊氏によれば、「Q報告」に記載されている解剖例は計57例で、解剖例の基本データには名前(イニシャル)のほか、年齢、性別、過程日数、病型、感染方式などが含まれているという。

 報道によれば、「Q報告」は1948年7月に米陸軍に提出された文書で全744ページ、4部構成だ。第1部は主に心臓と肺の感染データ、第2部は主に扁桃腺、咽頭、気管支、胃、腸、脾臓などの病変記録と状況、第3部は主にリンパ節の病変過程、腎臓とすい臓の解剖データ、第4部は主に副腎、甲状腺、胸腺、睾丸、脳下垂体などの解剖データが記録されている。

 楊氏は、「731部隊は細菌兵器の研究と実験を行うと同時に、医学的に病理解剖と研究も行った。その目的は侵略戦争のためであり、完全に医学論理と人道主義に背くものだ」との見方を示した。 さらに楊氏は「Q報告は731部隊が疫病防止を名目に、細菌感染研究を実施した歴史的事実を暴露するもので、731部隊が中国侵略戦争時に人体解剖を実施した直接の証拠だ」と述べた。(編集担当:村山健二)(写真:ハルビンの関東軍防疫給水部本部(通称、731部隊)跡地/撮影:宮城英二)

33NAME:2013/09/30(月) 22:37:22
硫黄島(東京都)
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-02a0.html

太平洋戦争末期、ミッドウェー海戦で大敗を喫し、劣勢に立たされる日本軍だったが、その後、多くの旧日本兵達が絶対国防圏として死守しなければならないサイパン島が陥落し、B29の飛来と本土の爆撃を許すことになる。この硫黄島は、1944年12月のレイテ攻略で、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり、台湾攻略の戦略的な価値が下がった上に、米陸軍も日本本土への戦略爆撃の効果から硫黄島攻略の意義を唱え、「硫黄島攻略後に沖縄上陸」という基本戦略が秋の日本本土上陸への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃の支援のもと開始された。3月17日、激しい戦闘の後にアメリカ軍が島を制圧し、日本軍守備隊陣地の多くが壊滅した。3月21日に大本営は17日に玉砕したと発表。その後も、生き残りの日本兵からの散発的に抵抗は続き、3月26日、栗林中将(戦闘終結直前に大将へ進級)以下300名余りが最後の攻撃で壊滅し、これにより組織的戦闘は終結した。日本軍に増援や救援の計画は当初よりなく、2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死した。これは損耗率にして96%にのぼる。一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦いであった。この模様は「硫黄島からの手紙」という映画で見た方もいるだろう。舞台全体が壮絶な玉砕を遂げた大激戦の地にどうして私が行ってみたいのか。恐らく今も回収困難な遺骨が多数眠っていることだろう。65年前にここで生きて帰れぬことと知りながら、戦地に赴き、御国の為に立派に命を散らせた若人たち。母を思い、故郷を思い、そして日本の行く末を案じながらあの世へと旅立った兵士たち。さぞかし無念だったことだろう。「同期の桜」や「海ゆかば」を共に歌いながら、挫けぬ勇気を携えて戦場に散って行ったに相違ない。そう思うと、居た堪れない気持ちがこの身を襲う。同じ日本人としてそれを思うと、死ぬ前に一度は訪れて手を合わせて冥福を祈りたい。今夏に靖国神社を訪問し、英霊の御霊に触れ、戦争の悲惨さと平和の有り難みを身に染みて感じとった。今の日本の平和は多くの戦死者たちの犠牲の上に成り立っていることを決して忘れてはならない。

34NAME:2013/10/13(日) 02:45:28
北京議定書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8
日中戦争の端緒となった盧溝橋事件において「なぜ日本が中国の領域深くまで当然のように兵を置いていたのか」という疑問を聞くことがある。日本からすれば『北京議定書に基づく権利の行使に基づいた駐留』だった。辛亥革命後、中国は複数の腐敗した軍閥が割拠し、外国人への襲撃が相次いだこともあり、日本を含む8ヶ国の列強が居留民や領事館等を保護するため各地に駐兵していた。事前通報すれば演習は可能だったとはいえ、『盧溝橋も豊台も議定書で駐留を認められた場所ではない』。盧溝橋事件後、日中両国間で停戦協定が結ばれながらも、廊坊事件、広安門事件など数々の衝突が続く。

35NAME:2013/10/19(土) 02:46:48
戦時中の日章旗返還 「ご家族に」と米司令官
2013.7.27 15:20
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130727/amr13072715220006-n1.htm

米太平洋艦隊潜水艦部隊のコールドウェル司令官が26日、ハワイ・ホノルルの日本総領事公邸を訪れ、親族から譲り受けた第2次大戦中の日章旗を重枝豊英総領事に手渡した。日本兵とみられる氏名が記されており、総領事館などが厚生労働省を通じて家族への返還を目指す。

 日章旗には「贈久保田満君」「武運長久」と書き込まれ、知人らとみられる多数の署名がある。「仁科村長」の署名もあり、総領事館は静岡県仁科村(現在の同県西伊豆町)出身者の可能性があるとみている。

 コールドウェル司令官によると、旗は軍人で日本駐留の経験もあった親族から譲り受けた。親族がどこで旗を手に入れたかは不明という。 司令官は「ぜひご家族に戻してほしい」と依頼。重枝総領事は「保存状態が良く、(氏名なども)はっきりと確認できるので、ご家族、ご遺族が見つかる可能性は高い」と応じた。(共同)

36NAME:2013/10/21(月) 20:16:51
8分半で自虐史観の洗脳が解ける魔法の動画
https://www.youtube.com/watch?v=Yi6t6r7FbjM
fuuta345
なぜ、日本の左翼が「日本は悪い国」と宣伝・洗脳 教育をするのでしょうか? それは、遡ればロシア革命の指導者レーニンが 革命前夜にスイスのベルンに党幹部を集めた会議 で演説した内容に起源があります。 その演説とは・・・・・ 「革命のためには祖国を呪う青年をつくれ。 自分の祖国ほどひどい国はない。 革命せねばという感情をつくれ!」 ・・・・ つまり、青年たちに自分の国を悪く思わせることで 不満を高め、その不満を革命に向けさせることが 革命成功の秘訣であると言っているわけです。 ・・・・ 日本の左翼、日教組はこのレーニンの指令を今でも 忠実に守っていると言えるでしょう。 ・・・・ NHK特集の「日教組」に出てくる日教組杉並支部の 事務局長の部屋にレーニンの胸像が置いてあったのを 覚えている方もいらっしゃいますよね。

37NAME:2013/10/27(日) 07:03:45
特攻に失敗(?)した日本兵が自爆(自決)死した映像
http://www.youtube.com/watch?v=RRBs-YGtqpA

日本兵の頭蓋骨を取り出してオブジェにするぐらいの野蛮さが当時­はあったからね。
白人は有色人種を人間と思っていない時代です。
その白人に果敢に立ち向かったのがアジアで唯一の日本です。
支那は欧米に媚び諂ったアジアの裏切り者。
半島は日本によって支那の奴隷から開放されたが日本に金をせびる­乞食民族。

馬鹿じゃねーの、みんな自爆するために手榴弾持ってたよ。
基本的に、日本軍は降伏を許さないから自決するように命令されて­るんだ。
そうやって命令した上官の多くは戦争終結後も自決してないけどな­!!!
wikipediaから抜粋。
多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示し­­ていたが、戦後は復興が重要と約束を忘れ、守ったのは大西と宇­垣­などわずかであったことを批判する声もある。機体故障などで­やむ­をえず引き返した特攻員を振武寮に隔離し片っ端から「おめ­おめ帰­ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリ­ンチした­ことで知られる第6航空軍参謀倉澤清忠少佐は死の直前­まで拳銃と­軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えな­がら2003­年死の床についた。

38NAME:2013/11/21(木) 02:07:35
「歴史乗り越え」同盟の絆 米太平洋艦隊司令官が海軍墓地で献花
2013.11.20 23:10
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131120/plc13112023110020-n1.htm

ハリー・ハリス米太平洋艦隊司令官(57)は20日、長崎県佐世保市の東山海軍墓地を訪れ、先の大戦で散った帝国海軍の軍人ら18万柱を顕彰した「海の防人之碑」に献花した。 13日にはテリー・クラフト在日米海軍司令官が同墓地で献花を行ったばかりで、日米同盟の絆の強さを改めて示した形だ。 ハリス氏は墓地内を散策し、昭和19年のフィリピン・レイテ沖海戦で米軍に撃沈された重巡洋艦「鳥海」と駆逐艦「藤波」の戦死者約1千人をまつる碑の前では、関係者からの説明に耳を傾けた。 ハリス氏は「日米は敵同士として戦ったが、今では歴史を乗り越え、困難な状態にある友人を助けるため連携している。リンカーン元大統領は『英雄をたたえない国に未来はない』と言った。海軍墓地に英雄がまつられているのを大変うれしく思う」と語った。

39NAME:2013/11/27(水) 23:26:27
ポツダム宣言受諾は無条件降伏? 衆院文科委で論争
2013.11.27 19:22
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131127/plc13112719230014-n1.htm

先の大戦で日本は「無条件降伏」したのか、それとも「条件付き降伏」だったのか−。衆院文部科学委員会で27日、こんな議論があった。下村博文文部科学相は「事実上の無条件降伏だったと思う」とし、西川京子副大臣は「大変大きな問題で、文科省だけで発言していいとは思えない」と答弁した。無条件降伏か否かは、現行の教科書でも記述が分かれており、今後の議論が注目されそうだ。

 自民党の池田佳隆氏(自民)が「戦後レジーム(体制)からの脱却をはかるうえでも、先の大戦で日本が無条件降伏したかどうかは重要な問題だ」と主張し、文科省の見解をただした。下村氏は、事実上の無条件降伏との認識を示しつつも、「(無条件降伏の定義について)一概に答えるのは困難だ」とかわした。 先の大戦で日本が受諾したポツダム宣言には、「われら(連合国)の条件は左のごとし」として、日本の主権の及ぶ範囲などの条件が示されていた。しかし戦後は「無条件降伏」との認識が広まった。

40NAME:2013/12/04(水) 20:58:22
旧日本軍の大型潜水艦「伊400」ハワイ沖で発見 高度技術流出恐れ米が破壊
2013.12.4 11:08
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131204/amr13120411110006-n1.htm

米ハワイ大の海洋調査研究所は3日までに、旧日本軍の潜水艦の残骸をオアフ島沖の海底で発見したと発表した。原子力潜水艦が建造されるまでは世界最大級だった「伊400」で、第2次大戦の終結直後に米軍が押収、高度の技術がソ連の手に渡るのを警戒し、破壊して沈めた。 オアフ島南西沖の深さ約700メートルの海底で同研究所の有人潜水艇が見つけた。

 伊400は全長約120メートルで翼を折り畳んだ攻撃機を3機搭載できた。給油無しで地球を1周半連続航行する能力があったとされ、旧日本軍は当時米国が管理していたパナマ運河などへの攻撃に使うことを検討したとみられている。 現地で調査した米海洋大気局(NOAA)の専門家は「それまでの軍事戦略を変える攻撃能力」を持つ潜水艦だったとしている。 米軍は戦後、伊400など旧日本軍の潜水艦5隻をハワイの真珠湾に移送して能力を調査し1946年に現場海域で沈めた。同研究所は92年からこれらの潜水艦を探す調査をしている。(共同)

41NAME:2013/12/27(金) 21:08:03
橋下氏「侵略戦争と言えばいい」
橋下氏、侵略戦争との「明言必要」
2013.12.27 12:26 [west政治]
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131227/waf13122712280014-n1.htm

 日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は27日、中国や韓国が猛反発している安倍晋三首相の靖国参拝に関し「戦争の評価について、首相がはっきりと自分の考え方を述べないから誤解が生まれている。侵略戦争だったとはっきり言ったらいい」と提言した。 橋下氏は「学術的にはどうであれ、戦後秩序の中で日本の侵略戦争と位置付けられてしまっている。日本の国家運営の責任者はその評価を曖昧にしてはいけない」と指摘。「侵略戦争と表明した上で『命を落とした英霊によって今の日本があるので尊崇の念を表す』と言えば、中韓も反論できない」と主張した。 今回の参拝については「軍国主義や戦争を肯定しているのではないと思う」と述べ、重ねて理解を示した。 市役所で記者団の質問に答えた。

42NAME:2014/01/01(水) 20:02:56
【A級戦犯】 http://kotobank.jp/word/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
平和に対する罪
【BC級戦犯】 http://kotobank.jp/word/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF?dic=daijisen
B級戦犯は、戦争法規または慣例に違反したとする「通例の戦争犯罪」に該当する者、C級戦犯は「人道に対する罪」に該当する者
【東京裁判】 http://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A3%81%E5%88%A4
【太平洋戦争】より
…ところが敗戦後の日本人は,みずからの手で戦争責任を厳しく追及することなく,今日に及んでいる。 連合国によって開廷された東京裁判(極東国際軍事裁判)(1946年5月3日〜48年11月12日)は,(1)国際連盟,不戦条約,国際連合,日本国憲法第9条などに体現されてきた戦争を違法とする世界史の流れのなかで,〈共同謀議の罪〉という犯罪類型を導入し,初めて国家指導者の個人的な刑事責任を追及したこと,(2)〈平和に対する罪〉という新しい構成要件をつくりあげ,それを構成要件の筆頭にすえたこと,(3)〈文明の裁き〉というたてまえのもとに,〈殺人〉と〈通例の戦争犯罪および人道に対する罪〉を第2,第3の構成要件とし,十五年戦争の侵略的性格と日本軍の野蛮な残虐行為を具体的な証拠に基づいて白日のもとに暴露したこと,の3点において画期的な意義を有していた。しかし同時にこの軍事裁判は,(1)戦争の当事者である戦勝国が戦敗国を一方的に裁くという〈勝者の裁き〉であったばかりでなく,裁く側に過去4世紀に及ぶ過酷な植民地支配,アメリカによる原爆投下と都市無差別爆撃の戦時国際法違反,ソ連による日ソ中立条約侵犯と日本人捕虜のシベリア抑留問題などの汚点と弱点があったこと,(2)〈平和に対する罪〉は戦争違法観と指導者責任観とが結合されて第2次世界大戦末期に成立したが,これによって個人を重罰に処したことは法理上問題があり,また〈共同謀議〉という英米法でも問題の多い法概念で1928‐45年の事実を裁くことには無理があったこと,(3)裁判が事実上アメリカの日本占領政策の一環として行われたため,天皇の不起訴,真珠湾攻撃の観点が優越した被告人の選定,A級戦犯の責任追及の途中打切りなどの不十分な結果をもたらしたこと(戦犯),(4)日本の民衆の侵略戦争への荷担の責任がまったく問題にされなかったこと,などの弱さを有していた。…

43NAME:2014/01/04(土) 10:25:30
A級戦犯は存在しない
http://moeai.info/%e9%9d%96%e5%9b%bd%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ab%e5%90%88%e7%a5%80%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8ba%e7%b4%9a%e6%88%a6%e7%8a%af%e3%81%a8%e3%81%af/.html

負けたから仕方ない、甘んじて汚名も受けるとしても、そもそも現在にA級戦犯や他の戦犯は存在するんでしょうか?
A級戦犯の中には絞首刑者と服役後社会復帰された方がいます。
絞首刑者の場合は、死を持って罪を償い名誉を回復できるわけですから、死んだ時点で罪を償えい、名誉を回復したわけです。

44NAME:2014/01/23(木) 03:16:27
井筒監督が「永遠の0」痛烈批判
映画「永遠の0」を痛烈批判した井筒監督 「見た後で自分の記憶から消したくなった」
2014年1月21日 18:03 (J-CASTニュース)
http://topics.jp.msn.com/entertainment/tv/article.aspx?articleid=3058431

上映中の映画「永遠の0」の勢いが止まらない。観客動員数は370万人を突破し、封切後4週連続でランキング首位と好調をキープしている。 この作品に対して「見たことを記憶から消したくなった」と痛烈批判したのが、映画監督の井筒和幸氏だ。何とも辛口のコメントに、原作者の百田尚樹氏もすぐさま反発してみせた。

■「特攻隊を美化している」に「記憶ゼロにして何も喋るな」

 「井筒節」がさく裂したのは、2014年1月16日深夜に放送されたラジオ番組でのこと。共にパーソナリティーを務めるマツコ・デラックスさんらとの映画談議の際に、「見たことを記憶から消したくなる映画」として名指ししたのが「永遠の0」だったのだ。 「特攻隊を美談にしている」と主張。加えて、岡田准一さんが演じる主人公は「生きたい」と考えていたのに特攻隊に志願して戦闘機に乗り込む筋書きを不自然と感じ、「そんなわけない」と語気を強めた。さらに「(実際に特攻隊に)行かない人は何人もいた。それでも『どうしても行かなきゃしょうがなかった』という空気があったという証言はよく語られる……そういう証言に基づく本当の話なら別やけど」と続けた。これに対して「永遠の0」はつくられたストーリーで「ありえない設定」、しかも特攻隊を美化していると監督の目には映ったようだ。

 この発言を複数のインターネットニュースが報じると、原作者の百田氏は1月20日にツイッターで、記事を引用しながら「なら、そのまま記憶をゼロにして、何も喋るなよ」と井筒監督に反撃している。「戦争賛美」という批判は以前にも寄せられていて、2013年8月17日付のツイッターではこう断言していた。 「私は『永遠の0』で特攻を断固否定した。多くの特攻隊員に慕われていると言われている大西瀧治郎中将さえも批判した。それなのに一部の粘着する連中から『百田尚樹は特攻を賛美して肯定する軍国主義者とだ(注:原文ママ)』と執拗に非難される。多くは本を読んでない人だが中には読んだと言う者もいるから唖然とする」 また2013年12月20日付の日本経済新聞電子版のインタビュー記事では、「主人公にあえて『臆病者』『海軍の恥さらし』と言われる人物を選んだのは、小説で『生きる』ということを描きたかったからです」と説明していた。当時の航空兵は戦死率が高く、そこで「とにかく生きて帰る」というキャラクターを据えることで「生きる」ことを問えるのではと考えたそうだ。

■俳優から「アホだと思う」と言われたことも

 もっとも井筒監督の映画作品に対する「辛らつコメント」は、今回だけではない。2007年5月、当時東京都知事だった石原慎太郎氏が製作総指揮した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」が公開された。これも特攻隊員を描いた作品だったが、井筒監督は「戦争の美化」と批判していた。これに怒った主演俳優の窪塚洋介さんが、「この映画を見て戦争賛美だというヤツはアホだと思う」と猛反発している。 「永遠の0」は原作、映画ともこれまで繰り返し非難を浴びてきた。2013年6月18日付の朝日新聞では、作家の石田衣良氏の言葉を借りて「右傾エンタメ」と評し、「骨太な愛国エンタメ」と位置付けた。アニメーション映画監督の宮崎駿氏からは、固有名詞こそ出していないが「嘘八百を書いた架空戦記をもとにして、零戦の物語を作ろうとしているんです。神話の捏造をまだ続けようとしている」と指摘された。 井筒監督の場合は、「永遠の0」に限らず他の映画もバッサリ切っており、辛口トークは「持ち芸」とすら思えるが、何度否定しても繰り返される「戦争賛美」のレッテルをまた張られたことに百田氏もうんざりしつつ、見過ごせなかったのだろう。

45NAME:2014/01/24(金) 00:16:07
A級戦犯は「東方のナチス」 中韓が首相演説に反発
2014.1.23 22:11 [歴史認識]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140123/chn14012322120009-n1.htm

 【北京=川越一、ソウル=加藤達也】中国外務省の秦剛報道官は23日の定例記者会見で、安倍晋三首相がダボス会議で日中関係に言及した際、第1次大戦前の英独関係に触れたことについて、「英独関係を持ち出すならば、日本が近現代史上、中国に何をしたかを直視した方がよい」と述べた。また、「記憶に刻むべきは日本が中国を含むアジア人民にもたらした深刻な災難だ」と強調した。 秦氏は靖国神社参拝に関する同会議での首相の発言に対しても、「参拝が中韓両国の人々の感情を傷つける気持ちはまったくないといえるのか」と反発。いわゆるA級戦犯を「東方のナチス」とし、参拝は侵略の否定が目的だと述べた。「日本の6大紙の中の5紙も参拝への反対を公然と示した」とも主張。暗に本紙を批判したとみられる。

 首相が中国に軍事面での「透明性」を求めたことにも、「中国の軍事の国家防衛の意図、政策は透明だ。透明度を上げるべきは日本だ」と反論した。 一方、韓国外務省報道官も23日の定例記者会見で、靖国参拝に関する首相の発言を「参拝しながら韓日友好を語るのがいかに矛盾しているか、全世界のメディアと知識人が声を上げている。この声が聞こえないのは理解しがたい」と批判。「参拝は日本が犯した過ちを反省していないのと同じだ」と述べた。

46NAME:2014/01/25(土) 23:32:27
首相発言は「戦争狂言」と中国紙
中国紙、日本政府が「火消し」と報道 安倍首相発言で
2014.1.25 21:24
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140125/chn14012521250006-n1.htm

中国国営新華社通信系の新聞、参考消息は25日、安倍晋三首相が日中関係を第1次大戦で対決した英国とドイツを例に挙げて説明したことについて「日本が急いで安倍の『戦争狂言』を火消し」と1面トップで伝えた。 参考消息は国外の報道を翻訳し転載する新聞。欧米メディアの記事を引用し、安倍首相を「痛烈に批判」していると紹介。一方で、日本政府が誤解だと説明しているとの日本の報道も掲載した。(共同)

47NAME:2014/01/25(土) 23:37:49
7割は前方見ずに…ゼロ戦操縦士
前見ながら操縦するパイロットなどいない、7割は「斜め後ろ」見ながら…ゼロ戦乗りをうならす迫真の操縦場面、進化する航空映画
2014.1.25 18:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140125/wlf14012518010019-n2.htm

過去の航空映画について、笠井さんは「パイロットが前方だけを見て操縦している場面が多かったが、あれは間違い」と指摘。「実際は前方を見るのは3割、7割は斜め後方を見ながら操縦します。敵機をいち早く発見するためです」と説明する。「永遠の0」で主人公のゼロ戦パイロット、宮部久蔵を演じる岡田准一さんは、笠井さんのこのアドバイスを忠実に守り、操縦シーンでは絶えず周囲に視線を向けながら操縦桿を操っている。

まるで実機…製作陣の熱意の表れ

 鹿児島・知覧の基地から飛び立った特攻隊を描いた「俺は、君のためにこそ死ににいく」(平成19年)の公開の際、取材した元戦闘機「隼」の操縦士、橋本正雄さんも笠井さんと同様、過去の航空映画の戦闘場面には不満だったという。「空戦中、背もたれに体を預けたまま操縦桿を握るパイロットはいない」と言い、「俺は君の−」については「映画で特攻シーンに引き込まれたのは、初めてでした。前のめりになりながら必死で操縦桿を握る操縦士の姿は、鬼気迫っていました」と語った。 「永遠の0」では実物大のゼロ戦が2機、「俺は君の−」では隼が2機製作されている。その際、機体を監修した橋本さんは「操縦桿を操作するとフラップも動き、実機とみまごう出来でした」とその完成度を認めた。「現代に描くからこそ嘘は許されない」という製作陣の熱意、敬意が元パイロットたちにも伝わったことの表れだろう。

今も光沢を放つ〝魂の断片〟

 一方、「過去の航空映画から、その時代に訴えようとしたメッセージを受け取ることができる」と指摘するのは、昨年6月まで航空自衛隊三沢基地でF2戦闘機の操縦士を務め、現在は北部航空方面隊司令部所属の菊地剛二等空佐(41)だ。 菊地さんが高く評価するのは、昭和19年に公開された「加藤隼戦闘隊」。実在の隼パイロット、加藤建夫陸軍少将をモデルにした東宝作品で、加藤少将を藤田進が演じ、円谷英二が特撮監督を務めた。「まだ精神論が強かった時代に、無線性能の向上による航法技術の重要性を訴えた加藤氏の先見性を、映画はきちんと伝えています。戦時中の公開なのに、これは立派な姿勢です」と菊地さんは解説する。

 笠井さんは南洋上で米軍爆撃機と交戦中に被弾、海に不時着して生還した。この機体がまだ残っていると知り、30年後に現地へ行き、ゼロ戦の垂直尾翼の一部を持ち帰った。 この尾翼片を見せてもらった。超軽量のジュラルミン製の尾翼片には被弾した跡があり、塗装ははがれ落ちている。だが、約70年を経た今も流線形の形状を保ち、光沢を放っていた。 「これこそが堀越氏らの当時の日本の技術の高さを示す証拠。『風立ちぬ』『永遠の0』が現代人に伝えたい〝魂の断片〟が、ここに残されているようでしょう」。そう語る笠井さんの表情に、誇りがにじみ出た。

 映画、テレビ、ラジオ…。われわれの生活を潤し、魅了してやまないメディアの世界。その歴史を、文化部編集委員がたどります。=続く

48NAME:2014/01/30(木) 13:14:23
真珠湾攻撃した飛行士の思いは…
トラ・トラ・トラ 真珠湾攻撃、右目を失い生還した飛行士「英霊を大切にして欲しい」 現代版「永遠の0」94歳の語り部
2014.1.30 11:12
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140130/wlf14013011170015-n1.htm

真珠湾攻撃に参加した城武夫さん=大阪市港区 「恐らく帰れないだろうと、決死の覚悟だった」。70年あまり前の思いが、いまだ胸裏に深く刻み込まれている。第二次大戦で米ハワイの真珠湾攻撃に第1次攻撃隊として参加した元日本海軍飛行士、城(しろ)武夫さん(94)=高松市。飛行士として幾多の戦場を経験し、教官として終戦まで特攻隊員を見送った。今も思い出すのは、若くして戦死した仲間や教え子たちの姿。「後世まで英霊を大事にしてもらうきっかけになれば」と、語り部として講演活動も行っている。

散った仲間が脳裏に…「すまない。語り継いでから逝く」

 昨年12月、大阪市内で行われた講演会。約600人の聴衆を前に、城さんはしみじみと語り始めた。 「あんなに美しい日の出は、見たことがなかった」 昭和16(1941)年12月8日早朝。城さんは、空母「飛龍」から3人乗りの攻撃機で真珠湾に向けて飛び立った。機上で、明るくなり始めた東方の雲の上から朝日が差し込み、緊張が高まった。 湾内にひしめく艦船に向け、低空飛行で攻撃を仕掛ける。激しく水柱が上がり、立ち上る煙が視界を遮る。1隻の戦艦に狙いを定めて魚雷を投下。機上から艦に向かうさまが見えた。「敵も攻撃してくる中で、とにかく必死だった」 15歳で海軍の航空隊予科練習部(予科練)に入隊。訓練を積み、日中戦争に従軍するなどして、15年に飛龍に配属された。

「水戸黄門」俳優や茶道裏千家の千玄室さんも教え子「身を犠牲に祖国を…」

真珠湾攻撃の約3カ月前、地形が似ている鹿児島・錦江湾で低空から魚雷を落とす訓練を繰り返した。だがこのときは相手が米国だとは思っていなかった。 16年11月下旬、択捉島に空母が集結。交渉が決裂した場合、米国が戦いの相手になると知らされた。開戦前夜、遺書をしたためた。 真珠湾攻撃後の17年4月、インド洋の英海軍基地を攻撃中に敵の戦闘機の攻撃に遭った。機体が海上に不時着し、同郷の仲間と、自身の右目を失った。治療のため、飛龍を降りて海軍病院に入院した。 その間、日本海軍の機動部隊はミッドウェー海戦で大敗。飛龍も沈没し、仲間の多くが戦死した。「入院していなかったら、自分もミッドウェーで戦死していただろう」 その後、徳島航空隊で教官として学徒出陣で召集された飛行予備学生を指導する立場に。教え子には俳優の故・西村晃さんや茶道裏千家の千玄室さんもいた。教え子の多くは特攻隊員として出撃。身を切られるような思いで見送った。

 終戦後、世の中の価値観は一変した。戦争の話をするのは避けてきたが、手を振りながら敵陣に突っ込んでいった仲間らの姿がいつも脳裏に浮かぶ。「すまん…」。心の中で、常に頭を下げ続けてきた。一方で、当時を知る者として、確固たる思いがあった。「戦争を否定しても、家族や国のために戦死した人たちのことまで否定するのは間違っている」 依頼を受け、何度か講演してきた。経験を語るのは自らのためではない。「亡き戦友たちの思いを伝えたい。そして英霊を後世大事にまつってもらいたい」。“94歳の語り部”としての使命をかみしめている。

49NAME:2014/01/30(木) 16:42:56
ヒトラーと東条を同列視する愚 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
2014.1.30 03:08
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140130/plc14013003110001-n1.htm

ここで話は一転する。 昨年末の安倍晋三首相の靖国参拝には、中韓が、いや米国までもが敏感に反応した。年が明けると、北京の猛烈な反安倍キャンペーンが国際的に始まった。最も激越なのは、イスラエルの英字紙、エルサレム・ポストへの高燕平・現地駐在中国大使の1月21日付の寄稿、「ホロコーストを二度と繰り返させるな」だろう。

≪嘘も百回言えば真実の世界≫

 表題からはヒトラーのユダヤ殲滅(せんめつ)策を断罪したかのような予断が生まれるが、違う。同稿は本稿の倍近くの長文で、6割以上が日本非難だ。靖国に合祀(ごうし)されている東条英機を「アジアのヒトラー」と呼んだ旨は産経新聞が短く報じたが、その原文全体を読むと非難の執拗(しつよう)さに多くの日本人は驚倒しよう。あの世の東条もヒトラーも、これを読めばやはり呆(あき)れ、「奴(やつ)と一緒にされたのではかなわんな」と苦笑いするだろう。 東条を弁護する必要はないが、両人は大きく違う。『わが闘争』とヒトラーの独裁は、この人物が天才的な悪魔だったことを物語る。東条は天才的軍人でも頭抜(ずぬ)けた悪党でもなかった。敢(あ)えていえば凡庸。魔書の著述もない。時代の弾みで戦時内閣を率いたが、戦争末期には交代、戦後、絞首台に消えた。その程度のことは、普通に歴史書に親しめば誰にでも分かる。問題は、中国のプロパガンダ機構の史実クソ喰(く)らえ姿勢だ。 北京は怒るだろうが、中国のプロパガンダ戦法は何となくナチスのそれに似ている。ドイツ第三帝国プロパガンダの天才、ゲッベルス宣伝相が「嘘は百回も繰り返すと真実になる」と豪語したとか伝えられるが、よもや北京もそう思っているのではないでしょうね。

≪中国宣伝戦ゲッベルスばり≫

 ゲッベルスの嘘は主に国内向けだったが、北京の史実無視プロパガンダは、専ら国際社会向けである。この狡猾(こうかつ)さの意味は重要だ。今日、往時のドイツのナチズムと日本軍国主義の相違なぞ、日独以外の国の普通の市民には分からない。ナチズムとは何かは、勝利した米国さえ理解しなかった。戦後初期の米国のドイツ非ナチ化政策は噴飯物だった。米国はやがてそれに気付いたが、時の経過に連れて、戦前の歴史的体験も歴史的知識も摩耗している。嘘のような本当の話だが、イスラエルにもネオナチがいて政府は悩んでいる。だから真実とは無縁の政治宣伝がよく効く。このことに心すべきだ。 中国は共産党一党支配国家だから、史実クソ喰らえの政治宣伝に国内からブレーキはかからない。国際的には良識ある歴史家以外には、日独両国民だけが事の当否を判断できるにすぎない。が、「東条はアジアのヒトラー」論でドイツが日本擁護の中国批判に立ち上がるはずはない。北京の宣伝で自国が損をするわけではないし、そのうえ、ドイツ国内には他国にはない『わが闘争』自由流通時代の到来という頭痛の種があるからだ。この問題では、われわれには自力対応しかない。 いずれ駐イスラエル日本大使が前掲紙に反論を書くだろう。紳士の外務省では無理だから、私が尋ねる。中国の主張を裏返すと「ヒトラーは欧州の東条」だ。それでよいか。答えが然(しか)りなら、世界から対中ブーイングが起こる。(させ まさもり)

50NAME:2014/02/05(水) 21:28:48
「日本 とパラオ」
http://blogs.yahoo.co.jp/zodiacfumiya/23913859.html

パラオの桜(1)「ペリリュー島の戦い」中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならないと桜花のごとく散った日本軍の武士道精神
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/37636181.html

パラオ共和国は、「中華民国(台湾)」を国家として認めている外交関係を持つ世界23カ国のうちの1カ国で、中華人民共和国とは国交がありません。

有史以前のパラオについては未解明の状態で、近年の遺跡などの調査では、約4000年前から人が住んでいたと推定されています。
1855年(明治18年)、パラオはスペインの植民地になりました。
スペイン人らによって天然痘などが持ち込まれたことや、植民地支配での略奪、殺戮などの結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。
1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却し、この中にパラオも含まれていました。
ドイツの植民地になったパラオでは、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラ整備や、パラオの先住民への教育はほとんど行われませんでした。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まると、ドイツに対して宣戦布告した日本はパラオに海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させパラオを解放しました。
1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」によって、パラオは日本国の委任統治領になりました。
日本政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島になりました。
日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住しました。
最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人約2千人も居住していました。
1920年代のパラオの町並みの写真を見ると、右側の店舗には、韓国人が1910年の日韓併合により奪われたと歴史を捏造している、ハングル文字の看板があります。

日本は委任統治時代にパラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校・病院・道路などインフラの整備も重点的に行ないました。
そして、パラオの首都のコロールなども、近代的な都市へと変貌されました。

日本委任統治時代のパラオは、それまでの白人による植民地支配時代とは違いました。
日本政府は、白人による植民地支配には行われなかった、パラオの住民に疾病に対する予防接種を受けさせました。
また、パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を建て、日本語の教科書を用いた日本語教育を行いました。

パラオには、「ペリリュー島」というパラオ諸島の島があります。 このペリリュー島では、大東亜戦争末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました。

51NAME:2014/02/05(水) 21:31:22
パラオの桜(2)ペリリュー島民を守り抜いた日本兵「ペ島の桜を讃える歌」パラオ国旗の解説、パラオ教科書の「日の丸の旗のもとに」パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア「親愛なる日本の皆様に」
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/37705620.html

ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました。 「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」と。 住民はこぞって日本兵の遺体を葬りました。 そして、日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。

大東亜戦争終結により日本が立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、アメリカによる目に余る反日教育が行われました。 歴史の授業では、米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。 ところが、パラオの年長者が「そんな話しはない」と否定したため、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。

米国より独立後の1997年、パラオで初の「パラオ史」の国定教科書が作られました。 国定教科書では、全462ページのうち36ページもが日本統治時代にあてられて、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルがつけられています。 日本がパラオを統治するようになった経緯だけでなくて、日本の行った学校教育・産業・経済活動などについても詳しく述べられています。 学校教育については、「当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれて、日本人は体罰で非常に厳格なしつけを行った。」と。 としながらも、一年生ですらかけ算の九九を暗記することができたなど、教育水準の高さも語られています。 「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供がなしとげた誇りを分かち合った」と。 身分を問わず、努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても書かれています。

また、日本教育を経験した人の「学校の厳しいしつけが人生に役立った」というコメントも載っています。 産業に関する記述にも、「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と。農業、漁業、鉱山業の発展について、日本の統治時代について公平に評価がなされています。 また、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」と。

現代で言う、福利厚生・労働基準が定められていた事も記されています。 日本統治時代について当然の評価をし、理由なき糾弾もなく、実に冷静な視点で事実のみが教えられているのがパラオの国定教科書です。 パラオ共和国は1981年に憲法を制定して、日系人のハルオ・レメイク氏が初代大統領に就任しました。 1993年にクニオ・ナカムラ氏が大統領に就任し、翌年、1994年に米国より独立して国連に加盟しました。 パラオ共和国が独立した際には、「ペリリュー兵士の歌」が作られ、ペリリュー兵士とは日本兵のことです。 題して「ペ島の桜を讃える歌」、作詞者はオキヤマ・トヨミ氏・ショージ・シゲオ氏、パラオの人々です。 今でも日本を慕って止まない心から、国民の半数以上は姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣もあります。 国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオのペリリュー島民を守り抜いた日本兵を桜にたとえ、その日本兵への感謝の心をつづった歌です。

「ペ島の桜を讃える歌」

1、激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた、強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
2、小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ、山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
3、将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと、父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し
4、日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る、ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
5、今 守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡、古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る
6、平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に、教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る
7、どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは、椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる
8、戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく、必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを

南洋に住むパラオの人々は、桜を見た事はないかもしれませんが、桜を日本人の心だと感じていたのです。

52NAME:2014/02/05(水) 22:39:50
「病的」特攻隊遺書に韓国紙批判
特攻隊員の遺書申請も批判 世界記憶遺産で韓国紙 「軍国主義の病的な極み」
2014.2.5 13:02 [日韓関係]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140205/kor14020513040003-n1.htm

 鹿児島県南九州市が特攻隊員の遺書などを国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録しようとしていることについて、5日付の韓国紙は「歴史を無視する日本の態度に批判が高まりそうだ」(東亜日報)などと報じた。 朝鮮日報は、特攻隊について「日本の軍国主義の病的な極みを示している」と主張。朝鮮半島出身者を徴用して働かせた施設が含まれるとして、韓国が世界文化遺産への登録に反発している「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」に続き、日本が「また、なりふり構わない」動きを見せていると伝えた。

 東亜日報は、特攻隊には朝鮮人隊員がいたとし、朝鮮人の遺書も遺産登録に含まれれば「遺族はもちろん、韓国(全体)の反発が予想される」と報じた。 一方、韓国日報は5日、日本政府が産業革命遺産を構成する長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)の推薦書を1月末、ユネスコに提出したと報道。「韓国など周辺国の反発を懸念し非公開で提出したようだ」との韓国外交筋の話を引用した。

53NAME:2014/02/06(木) 01:42:33
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4453792.html

誰のせいかと聞かれれば、当時の巨大な植民地利権を守りたい列強や、ドイツに占領されたヨーロッパを開放する戦争をしたかった米国、日本と米国を戦わせ、日本軍を弱らせたかった中国と、日本軍を弱らせて東方からドイツ方面に軍隊を動かしたかったソ連などの共産主義者の謀略などがあり、あの時代の巨大なうねりの中で、どうしようもなかった一面があります。
日本の敗戦後、連合国は、言論の自由を奪い、その上で、過去の植民地支配を隠すために、植民地を奪われた恨みを晴らすために、原爆の非道を隠すために、あること無いこと日本を悪者にでっちあげ、日本人を洗脳したのです。あなたは、この洗脳教育の申し子だと思います。 そもそも、アジアなど存在しなかったあの時代をまず考える必要があります。世界はフランス、イギリス、オランダ、アメリカなどの少数の欧米諸国(列強)の植民地と化し、アジアでの独立国は日本とタイだけでした。そして、植民地の争奪戦は続いていて、完全な植民地でなかった中国を列強が狙っていたのです。

一方、独立を維持することが明治維新以来の国家の目標だった日本は、日清戦争の勝利で得た朝鮮の独立で、ロシアに対する防波堤が出来ることを期待しました。しかし、その後、ロシアの植民地になっていく朝鮮の姿に戦慄し、朝鮮が完全な植民地になる前に、シベリア鉄道が完成する前に、ロシアと戦う決意をし、日露戦争となります。日露戦争の日本軍の上陸点は朝鮮の仁川で、ロシア軍を朝鮮から駆逐しながら進軍します。多くの名将達の必死の戦いで勝利を得ます。その後、朝鮮から日韓併合の話が持ち上がり、その反対筆頭の伊藤博文が暗殺されることで、日韓併合が進みます。朝鮮を日本にして、5000校の小学校、多くの保健所、水力発電所などを作成し、朝鮮人の生活レベルを日本人と同じにする努力が行われます。その後、天才石原莞爾の戦略で満州国を作り上げ、朝鮮と同じ事をおこないます。  そして、中国の利権を狙う米国と日本が対立することになったのです。さらに、ドイツがヨーロッパを占領してしまったので、米国はドイツと戦いたかったのですが、米国民が反対でした。そこで、米国は、ハルノートで、満州の利権を米国に譲るか、石油禁輸で日本の戦争能力を奪うことにしました。その結果、日本が米国に戦いを始めることを期待したのです。日本は、熟慮の上(間違った判断でしたが)、植民地になるぐらいならと全力で戦いを開始し、世界の植民地を解放することを戦争の目標としました。そのため日本は、占領地域に原住民による軍隊を作り、その結果、日本の敗戦後、再植民地化のために再上陸してきた連合軍は敗退し、植民地が独立できました。でも、日本は敗北しました。ですから日本は悪者ではありません。虐殺もほとんどが連合国のでっち上げです。あの戦いは、間違ったものでしたが、同時に、世界の歴史を変えた偉大な戦いでもあります。そろそろ、本当の歴史に目を向けるべきです。そして、植民地の無い自由貿易が可能なこの世界で、日本は経済大国になったのです。まさに、今があるのは、あの戦いで無くなられた方々のおかげということも出来ます。

54NAME:2014/02/06(木) 18:24:39
支那事変は日本の侵略戦争だったのでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4393878.html

私としては、中国に日本軍が華北に居たという歴史的事実が、そもそも中国に取って決して喜ばしいことではなかったのではないかと思います。そういう意味では侵略だと確信して
おります。 廬構橋になぜ兵力を3倍にして、夜間軍事演習などしていたのか?これを考えると、中国侮蔑としか言いようがないのですが・・・なぜ他国に日本軍が駐留しているのかを考えると、そもそもが、侵略の延長ではないかと思ったりしています。関東軍が、満州事変を起こして以来、おかしな歯車が回り出したのだと思うのです。
それは、小村寿太郎がハリマン協定を破棄し、日露戦争のご恩を仇で返した報いではないかとさえ思うのです・・・

【何をもって支那事変の始まりとするか】

(1)盧溝橋事件。「最初の一発」は誰が撃ったのか定かではなく、偶発的な戦闘と言えるものです。そもそも日本軍がそんなところにいること自体侵略だという声もありましょうが、これは国際条約である北京議定書に基づいた合法的なものであり、日本を含む8国が駐兵していました。

(2)第二次上海事変。蒋介石はこれを日中戦争の始まりとしている。中国空軍が上海租界に無差別爆撃をかけ、翌日に上海陸戦隊を攻撃したもの。二週間前に通州事件の例もあり、上海の邦人が皆殺しの危機にさらされたため、昭和天皇やすべての文民が陸軍の派遣を望んだ。これを受け陸軍参謀本部は直ちに上海派遣軍を編成した。この件に関しては間違いなく自衛戦争だと断言します。

【近衛の優柔不断が招いた泥沼化】
上海派遣軍の反撃を受けた国府軍は首都南京へ大潰走、敗残軍を掃討する目的で日本軍は南京を攻略する。この戦いで中国の敗北が決すると、蒋介石はドイツを通じて和平交渉を持ちかけてきた(トラウトマン工作)。事変の不拡大を望む陸軍はよろこんだ。ところが首相・近衛文麿(と海相・米内光政)は、こちらが勝ったのだから条件は吊り上げるとして突っぱねてしまう。結果、事変は収集がつかなくなって泥沼化し、国民から無能呼ばわりされた近衛は内閣を投げ出した。近衛は大衆の人気取りを気にする人物で、また当時人気者だったヒトラーにかぶれ、自分の提案を相手国に呑ませようとしたのです。この傾向は第二次近衛内閣でも顔を出す。せっかくアメリカが満州国の承認する了解案を提示してきたのに、これもノーで突っぱねた。こうして日本は日米開戦へと向かっていくのですから、近衛の責任は重いと言わざるを得ません。

当時の日本が、ハリマン協定を受け入れられたかというと、多分日本人の感情として不可能だったと思います。ただ、ハリマン協定を受け入れていれば、アメリカとその後徹底的に対立する事は無かったと思えます

55NAME:2014/02/06(木) 19:28:33
日本から出ている以上、他国を侵略しているというのは単なる事実です。同時に、日本が独立国家としてあり続けるためには、ソ連の南下を抑えることと南方の資源を確保していくことが必要だったのも、単なる事実です。それらができなければ、日本はソ連に侵略され、飲み込まれていたと、当時の人たちは非常なリアリティで認識していたのです。 後者については、東京裁判において、日本が世界を侵略する陰謀を共同謀議していたと決め付けたマッカーサー本人ですら、後に「主として自衛のためであった」と認めていることです。 しかも、当時、侵略は悪事でもなんでもありません。東京裁判を開催した連合国自体、世界中に侵略の手を伸ばし植民地を持っていたということを、忘れないようにしましょう。

何が問題だったかと言うと、海軍陸軍の派閥抗争が戦争中ですら続けられた制度及び人的能力の問題です。この軍部が、さらに政府とも対立し、現役武官大臣制を盾に予算を獲得し、それを豪腕なり策謀で止める政治家がいなかった。 この状況では、中央政府からのコントロールなど利きません。 国会でいくら議員が吼えても、官僚が従わないようなもので、この構造は現代とまったく変わっていません。平時ならこれでなんとかなるのですが、有事には対応しきれません。

だからどうすべきかというと、有事・平時をきちんとわけ、平時に乱を忘れず有事の体制を明確に決めておくべきなのですね。 なお、こういう思考を「反省」と呼びます。過去の誤りの理由を分析し、未来の問題に備えることです。ひたすらシャザイシャザイと卑屈になることを反省と呼ぶのは、愚の骨頂というものでしょうね。

日米開戦の下地を作ったのは、アメリカノルーズベルトです。 そのようにルーズベルトを持っていったのは、ソ連のスターリンです。 ルーズベルトはヨーロッパの利権を失わないためにドイツと戦いたかったのですが、「戦争をしない」という公約で大統領に当選しているので自分から宣戦布告はできません。ヒトラーもそのことはよく承知していて、米国の輸送船はUボートも狙いませんし、米軍からの挑発には決して乗りませんでした。 それで、ドイツと軍事同盟を結んでいた日本に挑発の矛先を向けたというのが最大の柱です。その結果、ABCD包囲陣などによる兵糧攻めが行われ、ハル・ノートが止めとなりました。 そしてこのハル・ノートを起草したホワイトは、KGB のスパイであったことも判明しています。

56NAME:2014/02/08(土) 21:48:12
米政府、百田氏発言は「非常識」
百田氏発言「非常識」 米、東京裁判批判に反論 「地域の緊張あおる」
2014.2.8 12:31
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140208/amr14020812330008-n1.htm

NHK経営委員を務める小説家の百田尚樹氏が東京都知事選の応援演説で、米軍による東京大空襲や原爆投下を「大虐殺」とした上で、第2次大戦後の東京裁判を批判したことについて、在日米大使館(東京都港区)の報道担当官は8日、「非常識だ」と批判した。米政府の公式の統一見解としている。

 担当官は、百田氏の発言について「非常識だ。米政府は、責任ある地位にある人物が(アジア)地域の緊張をあおるような発言を控えるよう努めることを望む」と述べた。 百田氏は3日、都知事選の応援演説をした際、東条英機元首相らA級戦犯を裁いた東京裁判について、「大虐殺」を「ごまかすための裁判」と主張。南京大虐殺に関しても「38年に蒋介石がやたらと宣伝したが、世界の国は無視した。そんなことはなかったからだ」と発言した。(共同)

57NAME:2014/02/10(月) 18:13:48
第二次世界大戦で捕虜となった日本兵の扱いwwww
http://www.fknews-2ch.net/archives/34445633.html

第二次世界大戦において捕虜となった旧日本軍の兵士達が、アメリカ軍(又は連合国軍)の兵士達によって全裸に剥かれるなどの辱めを受けている様子を撮影した貴重な記録写真の数々。(最後に掲載された写真は連合国軍の軍艦上で撮影されたもので、全裸となった日本軍の兵士が数百人にも及ぶ連合国軍の兵士達の目の前で身体を洗うことを強要されている場面であるそうだ。

アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html

一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに沖縄戦がそうだった。 クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。

地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。

しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。

その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。 兵たちが口々に、「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」と、叫んだ。

兵がいっせいに射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。 兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。

◆山里宗富さん

戦前私の近所に照屋松助という頑丈な男がいた。
当時彼は家族と別れて一人で瀬底に避難していたが、その日はたまたま健堅に戻って来て家族とともにウイバルにいた。すこし体のぐあいが悪いということで寝ていたのである。
そこへ突然銃を持った二人の米兵が現れ、妻子に乱暴しようとした。たまりかねた彼は起き上がってきて米兵の前に立ちはだかり、
『私も海軍にいたことがあるが、君たちのように非道なことをしたことはない、ささっさと帰りたまえ』と怒鳴りつけた。
言葉は通じなかったもののその場は何事もなく収まり、米兵らはいったん引き上げたかに見えた。
ところが間もなく米兵らが戻って来て、彼をたたき起こし、銃をつきつけて前へ歩くように命じ、前の原っぱに連れ出していきなり射殺したのであった。

◆末吉カメさん

普通の米兵はとくに悪いことをするようでもなかったので、私達は安心していた。ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。
やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、
若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。事実彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。
そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。
米軍は寛容で親切だったなんてことはまったくなかったのです。自決せず投降して助かった人が幸せだったとはいえないでしょう。
こうした米軍の蛮行を見て戦時中「米軍は女性を陵辱し、男性は戦車でひき殺される」というフレーズが思い出す人もおり、自決した友人達を羨んだといいます。

日本人女性 米・田舎の白人ばかりの店で注文取ってもらえず「私だって、白人ばかりの片田舎でレストランに入ったら完全に無視され、注文すら取ってもらえなかったこともあったよ。アメリカ人の夫を持つ日本人の女友達なんか、『DC界隈ですら、夫と一緒の時と夫がいない時では、レストランでの扱いが違うのよー』って腹立ててるもんね」

58NAME:2014/02/10(月) 18:46:30
アメリカ人の有色人種蔑視
http://www.tamanegiya.com/yuusyokujinnsyubetsi.html

60NAME:2014/02/12(水) 01:39:08
8月15日を振り返って〜戦没者に捧ぐ
https://www.facebook.com/akio.nagai1/posts/433509273367859

●ククリット・プラモード(タイ元首相)
日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。更に8月15日は、我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。 我々はこの2つの日を忘れてはならない。

●バー・モウ(ビルマ元首相)
我々を白人支配から救い出してくれたのは日本だった。我々は大戦終盤に日本を見限ったが、その恩は忘れない。日本ほどアジアに貢献した国はいない。

●サンパス(インドネシア元復員軍人省長官)
特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1,000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。日本ほど誤解を受けている国はいない。

●ブン・トモ インドネシア元情報相
あの戦争は我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。それなのに全て日本に背負わせ日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない。

●ラジャー・ダト・ノンチック(マレーシア元上院議員)
我々は日本軍を歓喜で迎えた。日本は将来の我々の独立のために多くのものをもたらしてくれた。我々は日本から学んだ最大のものは「国を守る術」だった。マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓喜の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。

●中華民国顧問 O・ラティモア
日本が立派にやり遂げた事は欧米の植民地帝国を完全に破壊した事である。

●サンティン(アムステルダム市長)
本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。 日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。

●アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)
第二次大戦において日本人は日本のためよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。 それらの国々とは日本の掲げた短命な理想、大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上のこした最大の業績は、世界を支配していた西洋人が「不敗の神」では無い事を示した点である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。

●グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)
インドは程なく独立する。 その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド国民は、日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。

●ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)
日本には石油がない、錫がない、綿がない、ゴムもない。その供給を全て絶たれたらどんな小国でも戦争を決断する。 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。 (1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

61NAME:2014/02/13(木) 14:28:16
日本の特攻機「桜花」を修復 英博物館、元の塗装に
2014.2.12 08:25
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140212/erp14021208290001-n1.htm

英南西部ヨービルにある英海軍航空隊博物館は、戦時中に日本が米軍艦船への体当たり攻撃に使った特攻機「桜花」の修復作業を始めた。同博物館が11日までに明らかにした。太平洋戦争に関する新たな展示に向け、戦後に塗られたペンキをはがし、もともとあった塗装デザインに戻す計画。 現存する桜花は世界中で十数機しかないとされる。作業の過程では、機体の詳細な調査を行っており、塗装の下に隠れていた技術的仕様に関する日本語の記述も発見された。修復には数年かかる見通し。 同機は戦争の際に英国が入手した。1982年にロンドンの科学博物館から海軍航空隊博物館が譲り受け、30年以上、館内につるして展示してきたという。(共同)

62NAME:2014/02/14(金) 16:21:14
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1388826956/901-1000
924 :名無しさん@3周年:2014/02/14(金) 13:39:46.35 ID:6z+Mi/Kl
大東亜戦争はアメリカの度重なる挑発で戦争になったものであり、日本は被害者であり、戦犯など存在しない。
戦争犯罪者が存在しないのだから靖国参拝はなんの問題もない。
大東亜戦争で日本は中国に一度も負けていない。しかも共産党とは戦闘もしていない。共産党は勝者ではない。
中国共産党は国連の戦勝国でもなんでもない。ただ中国人民を大量虐殺したナチス以上の犯罪者である。
大東亜戦争で日本は朝鮮と一緒になって戦った。もし戦時中、日本に誤りがあれば、それは朝鮮の誤りでもある。
従軍慰安婦問題で日本に責任があるというなら、それは朝鮮にも責任があるということだ。
日韓併合は朝鮮の要請に基づき日本が合法的にいやいや併合したものである。そのおかげで韓国は大発展、国民はみな幸せになった。
韓国は併合に関して、日本に感謝し、礼金と朝鮮に残してきた財産の対価を支払うべきである。

63NAME:2014/02/25(火) 03:14:12
東京大空襲
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.t.htm
幼子を背負ったまま焼かれた母親の背は白い、そして子供は・・・/浅草・花川戸

大規模な実験

アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の畳を日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せて精巧に作り上げられた。これらの実験がクラスター焼夷弾開発の参考とされたことにより、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃で効果的被害を与えることに成功している。

東京大空襲 米軍は実験済みだった
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-03-06/15_01.html

ちなみに第一回の東京大空襲は下町の民家密集地帯を狙って行われた。米軍はいかにして日本人を効率的に焼き殺すことができるかと、砂漠に日本家屋の町を作って実験を繰り返した。ハワイから日系人の職人を呼び、畳やふすままで作らせるほどの徹底ぶり。そして一夜にして12万人の市民を焼き殺した。
http://inagist.com/all/434557571039391744/

日本人はアメリカ人とトモダチになれるのか?1/4 神戸大空襲は、米軍の「無差別」爆撃ではない…「住宅密集地・住民を標的にしたもの」「無差別という言葉、空襲の本質を見失う」 | 軍荼利
http://danshi.gundari.info/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F%EF%BC%91.html
13: 名前をあたえないでください:2013/08/01(木) 16:45:19.29 ID:7oeHalFj

うちの父親は尼崎にいた小学生(当時)だったが
住宅地で人に向けて機銃掃射された
って言ってる
これは誤射じゃないよね

14: 名前をあたえないでください:2013/08/01(木) 16:45:42.60 ID:qD4J3sNj

東京大空襲では住宅地の外側を円を描くように焼夷弾を投下し、住民の避難路を塞いでから円の内側に大量の焼夷弾を投下して民間人を虐殺した。空襲を指示した米軍のルメイ自身も「戦争に負けたら俺は戦争犯罪者だ」と言っていた程だったが、当のアメリカは戦争犯罪だと認めようとしない。空襲による民間人の大量虐殺を正当化するために、中国の南京大虐殺などの捏造された架空の事件を盛んに持ち上げて日本人に罪悪感を植え付けようそしているのが実態。

日本の家屋は木造住宅なので焼夷弾を使った。先端を尖らせ、屋根を突き通り中で
爆発して発火するようになっていた。家屋を焼いて、住民を殺し厭戦気分にさせるため。
それと、今と同じように当時もお隣の国の人達が、日本人を鬼畜のように言っていて
それをアメリカ政府が信じていたから。

この老人の語る無差別爆撃は、行為として口火を切ったのは日本であって、確かに帝国軍も重慶で無差別爆撃をやって、日中の歴史に残る蛮行を働いてしまった。
中国人が今に至るまで日中戦争のことを根に持ってるのも仕方ないといえば仕方ないだろう。

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百田氏の「東京大空襲や原爆は『米軍による大虐殺』」発言は「非常識」「地域の緊張あおる」 在日米大使館が反論
http://military38.com/archives/36235497.html
308:! ninja ! denki:2014/02/08(土) 16:22:00.47 ID:20i1Z7100
どんな理由でも一般人の頭の上に人口の太陽作ったんだ
どう考えたって虐殺だろ

323:名無しさん@13周年:2014/02/08(土) 16:22:51.97 ID:FFbJ9MOy0
よっぽど突かれたくないんだなぁ

608:名無しさん@13周年:2014/02/08(土) 16:35:38.25 ID:4Qitcm6u0
なんでどの国も気軽に日本に内政干渉すんの?

64NAME:2014/02/26(水) 07:35:54
重慶 空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83
1万人規模の民間人犠牲者を出したという事実は、無差別大量殺戮を意図した非人道的行為として東京裁判で弾劾された[要出典]。その一方で、東京など日本の各都市への無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠としても利用された。

要害
防御・戦闘性に富んでいること,またはそうした場所を表す語で,〈要害の地〉〈要害堅固〉などと用いる

自由主義史観研究会(歴史論争最前線)
http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi187.html
教科書が教えない歴史

東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-430.html
日本海軍は敵の根拠地を攻撃すべく首都南京の「軍事政治経済の諸機関」に対する空爆を計画し、各国総領事にこれを予告し、非戦闘員に対する避難勧告を行った。 それに対して「無差別攻撃」であるという批判が起こり、中国政府はこれを徹底的に宣伝材料に利用した。これを無差別攻撃の始まりとする論者もいるが、市民を無差別に攻撃するものではないので、当然のことながら国際法違反とはされていない。

さらに、重慶爆撃を無差別爆撃=戦略爆撃の始まりであるとして、日本が戦略爆撃の先鞭者であると主張する論がある。『戦略爆撃の思想―ゲルニカー重慶ー広島への軌跡』(前田哲男著)がその代表だ。東京大空襲は日本が始めた無差別爆撃という罪業の報いである、つまり無辜の日本人市民が殺戮されたのは日本の責任であるかのような主張である。また同書のサブタイトルから推測されるように、原爆の被爆をすら日本が戦争を始めたことに起因するという根拠のない「原罪意識」が特徴である。 重慶爆撃は敵の戦略及び政略中枢を狙う攻撃であったので、市の主要部を含むものになるのは必然であった。しかも、中国側は市街地に防空砲などの軍事施設をおいていたのである。

しかしながら、これはあくまでも軍政目標を狙った攻撃であり、市民を狙った攻撃ではない。市民に被害が及んだとしてもそれは巻き添えとしてのものである。イラク攻撃に見るように、現在の進んだ技術によるピンポイント攻撃でも巻き添えはなかなか防げない。したがって、これを戦争犯罪とはいわない。一方的に日本を断罪した東京裁判ですら、重慶爆撃は起訴対象には入っていないのである。ちなみに、訴追されているのは、南京・広東・漢口への攻撃に関してのみ。そして8件ほどの事件が証拠として提出されただけで、重慶は対象外であった。

◆米軍に殺された中国の住民

昭和19年7月、ルメイ少将は第20爆撃集団指令となり、重慶を根拠地としたB29爆撃機による中国内の日本軍基地及び攻撃可能圏内にある北九州の軍需工場爆撃を指揮した。 米軍司令部はハンセル21兵団長に、軍事施設・工場などにこだわらず、都市破壊も行うように示唆するが、ハンセルは国際法違反になると考えて、従おうとしなかったという。彼は分かっていたのである。そして昭和20年1月、ハンセルは更迭され、ルメイが兵団長となったのである。

◆原爆に匹敵する史上最大の大量住民殺害

それから2ヵ月後、3月10日の東京大空襲は次のような原則のもとに実行された。 その5ヵ月後、やはりルメイの21航空兵団のB29による広島への原爆投下が行われ、これに匹敵する住民の大量虐殺が行われた。(後に東京裁判で、日本軍が南京で20万人を虐殺したという断罪が行われたが、全くのデッチアゲであることはいまや完全に証明されている。安全区国際委員会の活動記録ともいうべき Documents of the Nanking Safety Zone (『南京安全区の記録』国民党系国際問題委員会監修で上海の英国系出版社 Kelly & Walsh 社から1939年に発行)に、南京陥落時の人口20万が12月中ずっと20万、翌年1月14日に25万と記録されているのを見るだけで、虚偽は明らかとなる。アメリカは自ら犯した民間人殺戮という戦争犯罪を隠蔽できないとでも思ったのだろうか?)

東京大空襲のように、住民集中地区を狙って焼夷弾攻撃によって焼き尽くすことは、意図的な住民殺害であり、しかも史上まれな大量殺害なのであるから、第1級戦争犯罪というべきである。ホロコーストを行ったのは、裁いた側のアメリカ自身なのである。

65NAME:2014/02/26(水) 07:45:53
戦時中歴史資料の世界遺産登録、日中韓が熱い戦い=特攻隊員遺書申請に批判も―中国メディア
配信日時:2014年2月17日 23時57分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=83549

2014年2月17日、国際在線によると、第二次世界大戦中の歴史資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録を目指す動きをめぐり、日本、中国、韓国が火花を散らしている。 来年は第二次世界大戦終結から70年。アジアでは最近、戦時中の歴史資料の世界遺産登録を目指し、各国が熱い戦いを展開している。中国江蘇省南京市は旧日本軍による南京大虐殺の関連資料を登録申請。さらに、中国と韓国の専門家が旧日本軍の従軍慰安婦の関連資料収集で協力し、登録を目指している。これに対し、日本は特攻隊員の遺書の登録に向けた運動を展開している。 特攻隊遺書の世界遺産登録は日本の軍国主義、侵略の歴史を美化するものだとして、中韓から批判を受けている。(翻訳・編集/AA)

66NAME:2014/02/27(木) 03:24:31
「不沈艦だと信じていた」 戦艦大和の生還元乗組員、3月2日に大阪で「“最期”を語る講演」
2014.2.26 21:30
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140226/wlf14022621310019-n1.htm

史上最大の戦艦といわれた「大和」が東シナ海に沈んで69年となるのを前に、当時の乗組員で数少ない生還者の一人、北川茂さん(90)=三重県名張市=が、3月2日に大阪市内で開かれる講演会で、大和の“最期”の様子や思いを語る。「大和が沈んだら日本は終わりだと思っていた」。だが、第二次大戦末期には大型艦の時代は去り、特攻作戦に向かう途中で撃沈され、悲運な末路をたどった大和。北川さんは「ほかに道はなかったのか」と今も悔やみつつ、語り継ぐ使命をかみしめている。

 北川さんは昭和17年、18歳で海軍に志願し、20年2月、大和への乗り組みが決定。敵艦との距離を測り伝える担当で、甲板から高さ25メートル超の場所にある「測距所」が仕事場となった。 「まるで巨大な岩のようだった」。すでに戦闘も経験していたが、広島・呉港で初めて見た大和の威容には圧倒された。「装備も近代的で、全てが他の艦船と比べものにならなかった。大和配属は誉れでした」 戦況が悪化の一途をたどっていた同年4月5日、甲板に全乗組員が集められ、沖縄への特攻命令を受けた。「足が甲板にへばりついたように動けなかった」。隣の兵隊に目を向けると、表情は血の気を失っていた。2日後、鹿児島県沖の洋上で「戦闘用意」の命令が下った。

分厚い雲の合間から次々と敵機が飛来し、魚雷を投下。すさまじい衝撃で艦が揺れ、水柱が上がり、測距所にもしぶきがかかった。左舷に集中して魚雷を受けた艦は傾き、まっすぐ進むこともできなくなった。 船が徐々に沈み、海面が眼前に迫る中、同年兵と恩賜のたばこを吸い、海に飛び込んだ。突き上げられるような2度の衝撃とともにオレンジ色の閃(せん)光(こう)が海中を染めた。重油にまみれた海面に浮かんだときには、大和の姿は見えなかった。

 約4時間後に味方に救出され、翌日の早朝、長崎・佐世保港へ。甲板に出ると朝日が差し込んだ。「太陽を見て、ああ生かしてもらったんだと。あのときの感情は今も忘れません」 生還者は乗組員の1割にも満たない276人。70年近くが過ぎ、そのほとんどが亡くなった。 「特攻の末路以外に道はなかったのか。犠牲が大きすぎた」。北川さんは今も無念さをかみしめる一方、「大和の最期を語り継ぐことは、残された自分の役目。多くの人に聞いてもらえたら」と感じている。 講演会は3月2日午後1時半〜3時、大阪市港区弁天のホテル大阪ベイタワーで。参加費は一般2500円、大学生以下1千円。問い合わせは、ウェーブ産経大阪((電)06・6633・9087)。

 戦艦大和 当時の最先端の造船技術を駆使し、開戦直後の昭和16年12月16日に完成。全長263メートル、幅38・9メートルで、射程42キロの主砲を備えた世界最大の戦艦だった。だが、戦いの主役は戦艦から航空機へと移っており、威力を発揮できないまま20年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途中の鹿児島県沖で、米艦載機の攻撃を受けて沈没。乗員3332人のうち、生還者はわずか276人(8・3%)だった。

67NAME:2014/02/27(木) 04:10:02
特攻の真実
http://www.810.co.jp/book/ISBN978-4-89295-651-5.html

http://anago.2ch.net/test/read.cgi/asia/1359838810/62
62 :日出づる処の名無し:2013/10/17(木) 16:25:34.11 ID:ZtHB57cK
特攻拒否について
一時、三四三空に対し連合艦隊司令部から特攻攻撃の要請があったが、
志賀飛行長が拒否し続けた為最後まで行われる事はなかった。 戦後、志賀が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田(実)が隊舎を訪れ、
志賀に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。

志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったという。

源田氏は若人に特攻を命ずる以上、率先して特攻すべきだった。 当然のことをわきまえていない。卑怯未練の者に命ぜられての戦死では申し訳ない。

大西瀧治郎中将の苦悩
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/oonishi/oonishi.html
大西は「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と答えた。大西の目には涙がいっぱい溜まっていたという。

Kさんの手記
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn010/kanoyako/kanoyak3.html
特攻隊員が出撃直前の表情は数時間後に迫った敵艦必中の責任を思ってか、あるいは肉弾となって散る恐怖心からか顔面蒼白で、しかも眦がつりあがっていたのが今でも脳裏に焼きついている。

神風特別攻撃隊の授業
http://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/17069
特攻隊の中には、自ら一緒に戦いたいと志願した朝鮮の人たちも含まれています。彼らは、今、民族の区別なく、平等に靖国神社で弔われています。

先ほど紹介した「特攻隊」を指揮した「大西中将」です。
大西は特攻隊員達を集め訓示した。豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ顔面が蒼白で引きつっていたという。
大西は涙ぐんで、「しっかり頼む」と言って訓示を終わった。大西中将は、パイロットの1人1人と握手して彼らの武運を祈った。
大西は軍令部次長として内地に帰還した。官舎に独居して妻とは一緒に住まなかった。「週に1度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ。」
「特攻は統率の外道である」 「死ぬときはできるだけ苦しんで死ぬ」この言葉どおり、(終戦の翌日)介錯無しの割腹自殺を遂げ15時間あまり苦しんで死亡した。

68NAME:2014/02/27(木) 05:15:38
特攻拒否について
http://omg05.exblog.jp/20916394
一時、三四三空に対し連合艦隊司令部から特攻攻撃の要請があったが、志賀飛行長が拒否し続けた為最後まで行われる事はなかった。戦後、志賀が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田(実)が隊舎を訪れ、志賀に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったという。 源田氏は若人に特攻を命ずる以上、率先して特攻すべきだった。当然のことをわきまえていない。卑怯未練の者に命ぜられての戦死では申し訳ない。

http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/200908100000/
敗戦時、特攻作戦の責任をとって自殺した将官が2人います。1人は、今述べたように、公式には「特攻作戦の発案者」ということになっている大西滝次郎中将。そしてもう1人は(必ずしも特攻だけの責任をとったわけではないのかも知れませんが)敗戦時第五航空艦隊司令だった宇垣纏中将です。ただし、この2人の自殺の仕方はまったく対照的。大西は1人日本刀で自殺したけれど、宇垣は、何と彗星艦上爆撃機11機を連ねて、特攻に出撃してしまった。戦争が終わった後で、です。出撃した他の搭乗員は敗戦をまだ知らされていなかったようですが。自分一人で特攻の責任をとって命を絶つことは、それなりに意味があるかも知れませんが、戦争が終わっているのに、11機22人の搭乗員を道連れに自殺というのは正気の沙汰ではない。
その一方で、特攻作戦を発案する立場にいて、戦後はそのことについて何も語らず、航空幕僚長まで上り詰めた人物もおります。源田実です。
源田と特攻について、Wikipediaに面白いエピソードがあったので紹介しておきます。
源田は戦争末期、343空(第343海軍航空隊)の司令でしたが、この343空は最後まで特攻を行わなかった。しかし実は司令の源田は特攻をやらせようとして、飛行長の志賀淑雄少佐に断固拒否されたようです。特攻実施を迫る源田に対して、志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったのだそうです。

一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/history/tokkotaico/history.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した―「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。

69NAME:2014/03/03(月) 19:06:44
米紙またまた安倍首相批判 「日米関係に深刻な脅威」 NYタイムズ
2014.3.3 14:58 [米国]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140303/amr14030314590003-n1.htm

 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は2日、安倍晋三首相の姿勢を「ナショナリズム(国家主義)」と指摘し、日米関係の「ますます深刻な脅威になっている」と批判する社説を掲載した。同紙の社説は、これまで数回にわたり、安倍氏の「国家主義」が危険だと訴えている。 2日の社説は歴史問題に対する安倍首相の姿勢が日本周辺の「地域に対する危険な挑発」になっているとした。米国は日米安保条約に基づき日本を守ろうとしている一方、日中の紛争に引き込まれることは望んでおらず、安倍氏が米国の利益を忘れているとした。

 安倍首相が第2次大戦の「歴史をごまかそうとしている」と批判。さらに「彼(安倍首相)と他の国家主義者たちは、いまだに南京大虐殺は全く起きなかったと主張している」との見解を示した。 従軍慰安婦問題をめぐる河野洋平官房長官談話の検証問題にも触れ、慰安婦への「謝罪を撤回する可能性」を指摘した。(共同)

70NAME:2014/03/05(水) 23:22:50
「アンカー」なぜ中韓はいま日本叩きか&河野談話めぐる石原証言の意味と自民が河野洋平を国会に呼びたくない理由
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1526.html

今は中華人民共和国と大韓民国ですが、それは日本に戦争で勝ったんだと。だからいろいろ戦争責任とか言われてるって話になってますが、

で、この訳は国際連合だと教わったんです。ところが、ニューヨークにある国際連合、日本で言う国連の、本部に実際に、初めて行った時から、あれ?国連の幹部と話してると、あ、全然違うなってことが、これ僕にも分かりました。皆さん是非行ってみて下さい。ね。国連本部の少なくとも1階は誰でも入れますから。実はこれは、新しい美しい組織が生まれたんじゃなくて、実は戦争に勝った側を連合軍って言ってますね。そのままなんですよ。United Nationsってのは国際連合じゃなくて、連合軍なんです、連合軍、ね。これAllied Powersって言い方もありますけど、基本的に、正しくはUnited Nationsは連合軍なんです。だから、戦争が終わったので敵味方なくなったんじゃなくて、ものすごい犠牲を出して、アメリカをはじめとした連合国が、勝ったんだから日本やドイツに。勝った以上は、負けた日本やドイツを、ずっと押さえつける権利がある。従って国連憲章も美しいことばかり書いてあるんじゃなくて、日本やドイツが変だと思ったら、勝った側は、国連の決議なんかなくても、日本やドイツに対しては、戦争仕掛けることができると、国連憲章にはっきり、書いてあるわけですね。これ何を意味してるのか。実は第2次世界大戦が終わって、ほぼ70年の、この、戦後の世界っていうのは、連合国の側が、戦勝国の側が、圧倒的に利益・利権を独占するという世界なんですね。で、従って、例えば韓国はどのように行動してきたかというと、本当はこうです」

「はい。これ、世界大戦が終わって、4年経ってなお、韓国は一生懸命、当時の政権が、連合国だったことにしてくれとアメリカに要求しました。アメリカは戦争ばっかりしている困った国ですけど、こういうところは正直に対応するんで、それ違いますと。これ何度も何度もやり取りしてるんですけども、最終的にダレスさんってアメリカ国務省を代表する人物が、韓国の大使と会談して、はっきり、韓国と日本は戦争したことがないと。そして、なおかつ韓国は連合国共同宣言っていうのに署名してない。連合国共同宣言ってのは戦争の最中の1942年のお正月に、私たちは連合国です、さっき言ったUnited Nationsですと、ね。そこに署名をして、日本やドイツと一緒に戦いましょうっていう、その、宣言をしてるわけです。そこに韓国加わってないから、だから韓国は連合国じゃない、すなわち、戦勝国じゃないと、アメリカに言われて、そして韓国は、続けてどうしたかというとこうしたんです」

「中華人民共和国は、1949年10月に建国されました」青山繁晴「はい。もう、これで一発で分かる方多いと思うんですが(一同同意)、戦争が終わったのは1945年ですから、だから、戦勝国は中華人民共和国じゃありませんでした。どこかというと、これです」

日本負けましたと、なったあと、から、内戦が始まって、4年かけて共産党が勝って、この中華人民共和国ができました。従って正確に言うと、中華人民共和国は、戦勝国じゃないんですよ。まあそののち実権握って、その、いわば、中華民国は台湾に閉じ込めてるから、その、国連の安全保障理事…、常任理事国も、中華人民共和国ってことになってますけど、少なくとも、連合国ではなかったのは間違いないんですね。で、従って、これ、中国・韓国の立場から見ると、かつて非常に、戦争にも強かった、日本という国と、連合国として向かい合うんじゃなくて、自分たち独自で向かい合わなきゃいけないんですね。実はその現実がありました。中国はその後、いわば台湾に、中華民国を追いやったから、有利にはなったけれども、根幹のその事実は、歴史の事実ですから変えようがないわけです。で、で、中韓が反日になったのか。違います。むしろ逆ですね。

71NAME:2014/03/05(水) 23:24:23
「まず韓国が中国に先駆けて、60年代の半ばに、日本と正常な関係になり、えー、中国も70年代、をかけて、日本と正常な関係になったわけですよね。だから、反日でも何でもなく、日韓友好、日中友好の歴史が刻まれた。それがどうして、まさしく皆さんのご疑問にある通り、なぜ今、反日なのかっていうのは、実はその理由は、これです」

「中韓が反日の理由、2つめ。日本が主権国家に戻ると、強くなるから」

日本が主権国家に戻ると、軍国主義になるって話をしてるんじゃないんです。えー、軍国主義っていうのは、いちおう仮に定義するとすると、自分の領土を越えて、例えば侵略していく国のことをおそらく言うんでしょうね。で、日本がそれをやる可能性ありますか?(笑)ね。誰が考えても、ま、中国・韓国の、人が教育受けちゃうと、そうなっちゃうかもしれないけど、世界の常識としてそんなことないわけです。そうじゃなくてこれは、強くなるっていうんじゃなくて、その、普通の国になると、日本は、立派に発言権を持ってしまうって意味ですね。じゃあ今、現状はどうなのかっていうと、それがまさしく、えー、この憲法の条文ですね。はい、出して下さい」

えー、9条の一番最後の1行を、今回見ていただきたいんですが、『国の交戦権は、これを認めない』って書いてあるわけです。えー、つまり、主権国家同士は、何があっても、日本は戦えません。相手が国だったら、戦うなとも読めるわけですね。

えー、その時に、小泉さんや、あるいは副長官だった安倍さんの努力もあり、みんなの努力があってようやく北朝鮮は、日本国民を、有本恵子ちゃん横田めぐみちゃんをはじめ、たくさん誘拐したってこと認めました。で、その時普通だったら、いわば責任を軽くするために、北朝鮮にも悪い奴がいて、つまり犯罪者がいて、誘拐・拉致してしまいましたって言うはずが、金正日総書記ははっきり、北朝鮮の国家機関が、日本国民を誘拐したと言ったんですね。相手が国家だったら、何もするなって書いてあるわけです。日本国民が奪われていても、助けに行くなってことですね。だから今、尖閣諸島に、中国の政府の船がたくさん入ってくるわけですね。すなわちこれは、はっきり言うと、日本は、敗戦から70年近く経っているけれども、主権国家と、これ色んな意見ありますよ? でも僕は呼べないと。近畿大学で国際関係論の授業やってますが、その学生諸君と一緒に考えてるのが、えー、いざとなった時に相手が国だったら、北朝鮮のような、はっきり申しますがテロ国家、こないだ国連の報告書にあったように、強制収容所も含めて、ひどいテロ国家であっても、相手が国だったら、日本国民は奪われていても、助けに行くなという、ね、それを主権国家と呼べるのかと」

「それが実は根幹にあって、従って、その、中国・韓国は、こういう、例えばこの、上はともかく、ここ(国の交戦権は、これを認めない)を削除するような憲法改正が行われたら、日本がまともに物を言うようになったら、軍国主義でなくても強いから、自分たちに影響が出ると、いうことで、いわば、守りとしての、反日なんですよね」

はい。最終的に言うと、日本が実は怖いわけですね。で、従って、その、反日っていうのは、もう、すごい攻撃的で、特に韓国はそう見えますよね。非常に攻撃的に見えるけど、攻撃ってのは実は、恐れから来る、守りですから。だからそのことを私たちが、一番深く理解することが、実は、公正な突破口になるだろうと思います。

72NAME:2014/03/24(月) 01:22:07
日本は「ドイツを模範に…」 説教を垂れる中国に問う、困るのはどちらか
2014.3.23 09:52
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140323/chn14032311110002-n1.htm

中国の王毅外相(60)が8日、記者会見で日本に敵意むき出しの説教を垂れた。 「第二次世界大戦後のドイツを模範とすべきだ」 「過去の清算」を強要したつもりだろうが、在アフガニスタンのドイツ連邦軍基地に建つ慰霊碑を知らぬらしい。ならば以下、教えて進ぜる。

コソボで戦後の戦闘初陣

 ドイツは日本同様、第二次大戦の敗戦国。確かに両国は、国際社会の警戒が薄まり、紛争解決に向けた軍事力提供を期待される。反面国内には、敗戦史観を拭わず不安視する国民がいまだにいる。そのギャップの調整に、エネルギーを費やさざるを得ない。故に、極めて慎重に、極めて抑制的に、安全保障上の戦略・諸政策を展開してきた。しかし、安全保障上の歩みの内実や速度は似て非なる。 安倍晋三首相(59)は「積極的平和主義」を国内外で訴え、ギャップを埋めようと腐心する。一方のドイツは、冷戦崩壊(1991年)以降、NATO(北大西洋条約機構)やEU(欧州連合)という集団安全保障の枠組みの変質を巧みに活用。「普通の国=戦勝国」の仲間入りを果たすべく、着実・確実に布石を打ってきた。

例えばコソボ紛争(96〜99年)で、虐殺をやめぬセルビアへの空爆に攻撃機14機を500回投入した。独連邦軍が戦後創軍されて以来、戦闘行為は初陣。しかも空爆にロシアが反対し、国連安全保障理事会の明確な授権を欠く作戦行動だった。それまでの独軍は直接戦闘を避け、輸送など兵站や医療といった間接支援でさえ、国連PKO(平和維持活動)や安保理が承認したNATOの作戦内でしか派兵していなかった。 2001年の米中枢同時テロ後、国際テロ組織やイスラム原理主義勢力の掃討に向け、米国や英国、フランスなど50カ国近くが国連決議の下、国際治安支援部隊(ISAF)をアフガンに派遣。独軍も最大時4500人を送り込んだ。国防相だったペーター・スュトルック氏(1943〜2012年)は言い切った。 「ドイツ防衛には、アフガンのヒンドゥークシュ山脈であっても派兵は必要となる」 独軍はウズベキスタンの、アフガン国境近くに基地まで保有した。スュトルック氏は基地の将兵を激励した。 「戦争を軍事力で止めさせるべき。平和のため、世界中で戦闘準備をせねばならない」

格段に大胆な決断

 国防省報告書《戦争に向けた独軍の準備》でもスュトルック氏は《平和維持と安定化以上の任務を期待する。アフリカでより大規模な役割が期待される》とうたう。 後任国防相のフランツ・ヨーゼフ・ユング氏(65)も国防白書に《独軍は外国への介入軍事力として、徹底的に再編されるべきだ》と記した。 中国の脅威を前にして尚「集団的自衛権は保有すれど行使できない」と、理解不能な“論理”で足踏みするわが国とは、日本史にはない民族浄化は別として脱敗戦国意識が相当違う。 日独の岐路は、イラクによるクウェート侵攻で勃発した湾岸戦争(1990〜91年)だった。独軍は戦闘に加わらなかった。代わりに、地中海での機雷掃海やトルコへ軽攻撃機18機+防空要員700人を派遣。米国への財政・物品支援100.7億ドルのほか、トルコやイスラエル、英仏、エジプト、ヨルダンに莫大な各種経済援助を行った。ところが、東西ドイツの再統一を助けた西側諸国の議会やメディアは、戦闘正面を回避する同盟国ドイツを非難した。 どこかで聞いた話。そう、わが国も1兆3000億円近い資金援助を実施した。だが戦後、クウェートの感謝決議の中に、日本国名はなかった。自衛隊を派遣できず、事実上の傍観を決め込んだ反発は大きかった。そこで日本政府は、PKO協力法を成立させ、自衛隊の海外派遣第一号となる海自によるペルシャ湾での機雷掃海を実現した。

73NAME:2014/03/24(月) 01:22:55
しかし、ドイツの反応は格段に大胆だった。連邦憲法裁判所が94年、NATOや西欧同盟(WEU)の域外での軍事力行使は可能という合憲判断を下したのである。前述したセルビア空爆やアフガンでの対テロ戦はこの判断で可能となる。カンボジア(医療/92〜93年)やソマリア(兵站支援/92〜95年)でのPKO、ボスニア紛争(92〜95年)におけるアドリア海での制裁監視といった、周到且つ慎重な段階を意識的に踏み、内外の反応を見極めた上での繊細な決断は見事というほかない。

アフガンに建つ慰霊碑

 ところで、中国の李克強首相(58)は5日「第二次大戦の勝利の成果と戦後国際秩序を守り抜く」と述べた。日本との戦闘を避け続けた中国共産党が「戦勝国」を気取る。朝鮮戦争(50〜53年休戦)以降現在の海洋侵出まで、「戦後国際秩序」をいちいち壊してきた中国が「守り抜く」と嘘をつく。 片腹痛いが、日本が「ドイツを模範」とし、戦後国際秩序に厳格に従い、集団的自衛権行使や多国籍軍参加に道を開くと、困るのは中国。そもそも独憲法裁判所は、合憲判断を下すにあたり《基本法(憲法)が定める『独防衛』とは国境を守るだけでなく、危機対応や紛争防止など世界中のどこであれ、広義でのドイツの安全を守るに必要な行動》と断じた。この判例以前の「独防衛」は、自国とNATO同盟国の域内防衛に限ると解されていた。判例は安倍内閣が進め、中国が恐れる、憲法解釈変更そのものなのだ。

国際秩序への貢献には、強力な諜報機関も必要だ。ドイツは、総合力においてCIA(米中央情報局)をしのぐ米国防総省国防情報局(DIA)にまで情報提供できる連邦情報局(BND)を持つ。見習おう。 何より、国際秩序を乱す国家に対する抑止力の飛躍的強化は不可欠だ。アフガンに11年も駐留した独軍では60人近い将兵が戦死した。冒頭触れた慰霊碑は、英霊を悼むべく建立された。独国民は第二次大戦後初めて「戦死」という響きを、悲しみとともに現実感を持って受け止めた。ただし、勇敢に戦った英霊はドイツの精強ぶりを再び世界に印象付け、祖国やNATOの守護神となった。 そういえば、ドイツの兵器輸出は米露に次ぐ第3位で、4位の中国を上回る。中国の仰せの通り、ドイツを手本とする分野は目白押しだ。(政治部専門委員 野口裕之)

74NAME:2014/04/06(日) 01:04:57
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7727935.html
日露戦争の勝利で、日本は一等国への仲間入りをした。と日本人は思っていました。しかし実際は日露戦争の勝利で日本は「列強の植民地入りを免れた」に過ぎなかったのです。欧州列強を一等国、植民地にされた国を三等国とするならば、日本は二等国でした。ただ、当時はその二等国といえるのは日本とトルコくらいだったのではないでしょうかね。

日露戦争も勝利とはいったところでロシアから賠償金はとれなかったので、実際は「苦い勝利」に他なりません。和平成立後日本では暴動が発生し、和平交渉をまとめた小村寿太郎は右翼に命を狙われたほどです。しかし、日本海海戦で一方的大勝利を治めたものの、奉天会戦で日本は戦力も、弾薬も使い果たしていたのです。一方、大陸軍国ロシアには装備が優れたヨーロッパ師団がまだまだ用意されていました。実は既に一度日本は弾薬を使い果たしていて、債権を発行してなんとか資金を集めて弾薬を追加で購入したのですが、奉天会戦でそれももうほとんど使い果たしてしまいました。追加の弾薬を購入する金は、もう手に入れる手段も尽きていたのです。

日本海海戦の大勝利でロシア艦隊が消滅したことで、少なくとも海軍は相対的に欧米列強に比すべき実力を示したといってもいいでしょう。しかし、その栄光もたった1年で色あせてしまいました。
イギリスの戦艦、ドレッドノートが日本海海戦の翌年の1906年に就役したからです。現代でも「ド級」とか「超ド級」なんて言葉を使いますが、その語源となったのがこのドレッドノートです。この戦艦の就役で、世界中のそれまでの戦艦は一気に「旧式」となってしまったのです。

その後、大正時代に第一次世界大戦が起きました。日本は第一次大戦にはほとんど参加しませんでした(青島に出兵したり、地中海に艦隊を派遣したりしましたが)し、戦争にあえぐ欧州列強を相手に大儲けをしたのも事実です。しかし、第一次大戦が終わって日本が思い知ったのは、「日本はもう欧州列強には追いつけない」という厳しい現実でした。
第一次大戦は「総力戦」の戦いでした。国の生産力や国力すべてを戦争に投入する時代になったのです。その国力を欧米諸国と比較した場合、日本は資源も生産力も持っていなかったのです。例えばフランスやドイツは自動車を大量に投入しましたが、日本にはそれだけの自動車を生産する能力もなかったし、なによりそれだけの自動車が持てるだけの経済力を国民が持っていなかったのです。

この、「日本には資源がない」という事情が陸軍をして危険な暴走を引き起こした原因のひとつであるといえるでしょう。日本では「大陸進出論」が活発になります。「日本に資源はないが、支那にはそれがある」と。やがてそれは満州事変となり、日本は満州に積極的に進出します。実際問題、満州は中国の中では「寒くてあまり豊かな場所とはいえない」ところでしたが、それでも日本より石炭など資源も豊富だったし土地が広くて農業生産力が高かった。日本の農家ではトラクターで大規模農業なんてできませんが、戦前の満州だったらそれができたのです。当時、最も年収が高かった「憧れの職業」といわれたのが満鉄こと南満州鉄道の社員だったのです。

75NAME:2014/04/06(日) 01:07:12
大東亜共栄圏とは、その満州進出の南方版といったところが実際だったと思います。実際問題、満州事変のときも首謀者だった石原莞爾らは「八紘一宇」のスローガンを掲げましたからね。
日本には資源がない。しかし、南方に資源はある。しかし一方的に搾取するわけにもいかないから、名目上和平的なスローガンが必要であったと思います。
興味深いのは、この大東亜共栄圏のスローガンを考えたのが陸軍の軍人だったということです。実は陸軍は仮想敵国をずっとロシア=ソ連とする「北方論」だったのです。装備もなにもぜんぶといっていいほど対ソ戦を前提にしたもので、南方で戦うなんて太平洋戦争が始まってもこれっぽっちも思っていなかったんです。どのくらい南方に興味がなかったのかというと、真珠湾攻撃以下、フィリピン作戦やマレー作戦、南方作戦がひととおり南方の資源地帯の占領に成功すると、海軍に「あのさ、兵士を引き上げたいんだけど」と言い出して(日本軍お約束である)海軍と激しく対立します。海軍は「なにいってやがるんだ、これからハワイも攻撃するし、オーストラリアにも上陸すっぞ(←でもそんなことができる能力は持ち合わせていない。偏差値50の奴が京大に合格すると言い出すくらい無謀)」といい、陸軍は「冗談じゃねえ。そんな戦力はねえぞ」と言い出して、「じゃ、間を取ってミッドウェー作戦でどうでしょう」となって、以下略です。

福沢諭吉の時代は、幕末から明治にかけてです。幕末の志士が最も危機感をもったのはアヘン戦争でした。当時の中国(清)は、アジアにとっては「比類なき大帝国」だったのです。しかし、その大帝国がアヘン戦争であまりに一方的に敗北してものすごい屈辱的な扱いを受けた。「あの中国でさえ勝てないのだから、日本も攘夷とかいってる場合じゃなくて西洋化(近代化)しないとダメだ」となったのです。それゆえの「脱亜入欧」だったのです。 「アジアの近代化」を掲げなかったのは、なにしろ日本本土の近代化でさえ致命的に遅れ気味だったので、全アジアを近代化させるほどの力はないという自覚はあったと思います。まあ政治的スローガンという側面が大きかったと思いますよ。

76NAME:2014/04/06(日) 01:13:50
脱亜論は別にアジアから脱して欧米の仲間入りしようという主張ではありません。(脱亜入欧とは別個の思想)むしろ、興亜論に対する警鐘みたいなものです。

興亜論というのは、中国・朝鮮と連携して西洋列強に対峙しようという主張です。主な論者は勝海舟、植木枝盛、大井憲太郎らでした。隣国が滅びれば、日本も滅びるという認識のもと、連携作戦で行こうよというのが、幕末〜明治初期の外交姿勢でした。この姿勢はある意味性善説です。日本もこんなに頑張って近代化を進めてるんだから、当然中国・朝鮮もやってるだろうといわけです。でも現実は違っていました。中国や朝鮮は昔ながらの伝統やしきたりに縛られ、なかなか近代化を受け入れようとしない。そんな情勢の中で「脱亜論」は書かれました。(但し、この社説を脱亜論と名付けたのは別の人)つまり、福沢先生は「(興亜論のような)性善説に基づいた外交ではダメですよ。中・朝が近代化をこのまま拒み続けるなら付き合い方を考えなければならないよ」と主張したわけです。
その中に、「脱アジア」だとか「入欧」とかいう思想は入っていません。

よく混同される思想は「脱亜入欧」とうい思想です。「早く近代化しよう」という明治政府の方針と、脱亜論が結びついた考えですが、これは戦後の福沢諭吉研究の中で、混同して論じられるようなったものではないかと最近では言われています。

「大東亜共栄圏」というのは、日米開戦後のアジアに対する外交姿勢を示すものです。このベースには、興亜論があります。興亜論では近代化を待つ姿勢でしたが、積極的に出ていって欧米列強からアジアを開放しようという思想が「大東亜共栄圏」です。つまり、アジアを欧米から開放し近代化を手伝ってあげようってところです。ですが、実態は日本による傀儡政権の樹立であって、興亜論のような平和・共同戦線とはなりませんでした。つまり、脱亜論は興亜論に対する逆説・警鐘であり、「大東亜共栄圏」というのは興亜論が化けて「平和・共同戦線→皇民化教育推奨による同化政策」となったわけです。

77NAME:2014/04/06(日) 01:14:22
日本はなぜ、大東亜共栄圏などという構想を立てたのでしょうか。当時は、日本がそれほどアジアを支配できる見込みがあったからなのでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8395718.html

日本はキチガイだったから、大東亜共栄圏などという構想を立てたのです。当時、日本がそれほどアジアを支配できる見込みはありませんでした。「キチガイ」などという言葉を使うと、一気に下品になるから、使うべきではない。しかし、これと同様の趣旨を上品な言い回しで説いた人は、いわゆる進歩的知識人だけでなく保守派にさえ多い。例えば司馬遼太郎である。明治の頃の日本は良かったが、昭和になって自国を丸ごと賭場に放り込むようなことをやった、と書き残している。何しろ司馬は学徒出陣で軍隊を経験しているからな。 

そのころの日本が妄想の虜(とりこ)だったことは、昭和天皇も戦後に認めている(認めさせられた)。1946年元日の詔書(いわゆる人間宣言)で、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念」と述べた。これこそ、大東亜共栄圏の実相を端的に言い表している。

戦後、日本は妄執から目が覚めたのだが、いまだに覚めてない人もいる。例えば、「大東亜共栄圏は、戦後のアジア各国の独立の契機ともなった」というのは、必ずしも間違いとは言い切れないだろうが、「大東亜共栄圏構想のおかげで」などと恩に着せると、ネトウヨに転落する。 なぜなら、「戦後の世界はアメリカ中心に回っている」という現実認識を欠いて、戦前並みの妄想に耽っているからだ。

例えばインドネシア独立を見よう。敗戦国日本がインドネシアから逃げ去ったあと、オランダが戻ってきて、インドネシアと戦争になった(独立戦争)。泥沼化するとも思われたが、アメリカがオランダに「戦争を続けるなら援助を止めるぞ」と言い渡した。第二次大戦で疲弊した西ヨーロッパ諸国は、戦後、アメリカから莫大な援助を受けていたのである。オランダはそれを打ち切られたくなかったので、しぶしぶインドネシアと戦うのをやめた。これこそ、インドネシア独立の決め手となったのであり、それを知らない日本人が多いらしいのは不思議である。戦後の世界はアメリカが中心だったのだから、「インドネシア独立に関しても、日本よりアメリカの影響力が大きかったのでは」と調べてみる気にならないのは、怠慢ではないか。

そして、戦後の世界は第二に共産勢力中心に回っていた。インドネシア独立に関してもそれが見られる。インドネシアの共産主義勢力が、独立闘争を支えた。そもそも、共産主義のように非道(ひど)いものが、なぜ第二世界(いわゆる東側諸国)だけでなく第三世界(発展途上国)でも勢力を張ったか。彼らは、独立闘争などになると強力な強みを発揮するからである。共産党には、「民主集中制」、「政治将校」などの仕組みがあるのだ。インドネシア独立を果たしたスカルノも、共産党の功績を認め、気配りせざるを得なかった。のちにスカルノは失脚し、代わってスハルトが政権を取ると、インドネシアは反共国家に転じた。

そもそも、日本がインドネシアを侵略する前から、スカルノらはオランダの植民地支配に抵抗し闘争していたのである。その後、日本が引き起こした太平洋戦争が、「インドネシア独立の妨げにはなっても、助けには全くなっていない」と言い切るのは、へりくだり過ぎでもあろう。しかし、「日本のおかげでインドネシアは独立できた」というのはキチガイである。事実はその中間、「一つの契機ではあっただろう」と思われる。

78NAME:2014/06/05(木) 14:38:50
戦後日本の「負けっぷり」の悪さ
英霊の遺骨を放置 日本の「負けっぷり」の悪さ象徴
2014.6.5 09:00
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140605/plc14060509000004-n1.htm

戦場に散り、葬られた夫の亡骸を求め、生後6カ月の赤子を背負い、おびただしい数の穴を一つ、また一つと掘り返す妻…。薩摩武士の妻女・武田ツルが西南の役(1877年)で見せた気迫は、凄絶なのに痛々しい。夫への情愛の濃さが支えたのだろう。同時に小欄は、戦に敗れし者の意地も見る。敗者の意地は「負けっぷり」の良さとして、キラリとした輝きを放つ。だが、大東亜戦争(1941〜45年)後の日本に敗者の意地はない。来年は戦後70年。だのに、祖国の独立と自由のため、尊い命を捧げられた113万柱もの海外戦没者が未だ、ご帰還を果たさずにいる無様は「負けっぷり」の悪さの象徴ではないか。(SANKEI EXPRESS)

113万柱が未帰還

 ベトナム戦争(1960〜75年)後20周年記念の1995年、訪越したウィリアム・ペリー国防長官(86)の第一声は「未だ行方不明となっている将兵の捜索に協力してほしい」だった。米国は遺体・遺骨を確認するまで捜索。その間は「戦死者」として数えず「行方不明者」と呼ぶ。確認されると、星条旗に包んだ棺に納め、衛兵に守られて祖国に帰還。首都ワシントン郊外のバージニア州・アーリントン国立墓地に葬られる。「勝ちっぷり」も「負けっぷり」も見事という他ない。

遺骨収集事業の「人員・予算」の少なさに唖然

内面に秘めた、優しさと強さを兼ね備える「薩摩おごじょ」の逸話に戻る。夫や父、兄弟の生死が判然とせぬ薩摩の女性は戦場を探し回った。ツルも一族の反対を抑え、四男を背負い種子島を出発、鹿児島で下船後は、熊本郊外の戦場まで歩いた。戦場では、雇った人夫を使い、気の遠くなるような数の穴にクワを入れた。出陣に際し着込んだ綿入れの柄が唯一の手掛かり。ツルは遺骨を抱いて故郷に還る。往復37日間の「女の闘い」であった。 ツルや米国の情念に比し、異国や孤島に英霊を放置して恥じぬ戦後日本の様は哀し過ぎる。彼の戦争において、外地で亡くなった大日本帝國陸海軍の将兵や軍属、一般邦人は240万人。内、113万柱の遺骨が野晒しか、海底に眠る。沈没艦艇や国によっては遺骨収集が困難な場合もあるが、即収集可能な遺骨は60万柱近くに達す。 遺骨収集事業は厚生労働省社会・援護局外事室が中心となって行われている。ところが、収集作業の中核となる外事室員はわずか40人。2013(平成25)年度中に国内外に派遣された政府職員は延べ161人で、身元鑑定の専門家やボランティアが延べ310人だった。予算も18億円に過ぎぬ。人員・予算共に年々増加傾向にあって、この程度というから唖然とする。人員・予算を増やせば柱数も増える実態は、過去のデータで証明できる。もっとも少々の人員・予算増で、今の収集ペースを多少向上させたところで、60万柱の収集だけで「ウン百年」もかかる計算だ。

日本とは大違いの米国チーム

79NAME:2014/06/05(木) 14:52:24
米国には捜索統合司令部

 米国はどうか。国防総省はハワイに陸海空軍と海兵隊を統合した《戦争捕虜・戦中行方不明者捜索統合司令部=JPAC》を置く。現役軍人はじめ、過去の戦争当時の布陣・行軍路、戦闘形態を知る退役軍人や戦史研究者、人類学者、法医学者ら四百数十人を抱える。予算規模は60億円前後と潤沢だ。ベトナムやタイ、ラオスなどにも現地事務所を有す。断っておくが「行方不明者」は8万人強と、わが国よりケタ外れに少ない。 JPACは、任務について《全てが還るまで、国家の責務で捜索→収容→送還に尽くす》《あらゆる手段を行使し、未だ行方不明あるいは未処理の米国人家族に対する約束責任を全うする》と明記する。 実際、JPACは2007年、硫黄島の戦い(1945年2〜3月)における最後の《行方不明者》となる軍曹の捜索に、発掘チームの先遣隊として、8人の調査チームを10日間派遣。別組織の米陸軍軍事史研究所でも《ノルマンディー上陸作戦(1944年6月)で全滅した中隊》を追跡捜査している。 東京都小笠原村という施政下の硫黄島に、滑走路下を含め1万3000柱を残したままの、日本の姿勢とはあまりに違う。

戦没者の犠牲の上に成り立つ日本の平和と繁栄

戦没者に対する立ち位置は、今この時も戦闘を続ける米国と、大東亜戦争後は一度も戦わずに済んでいる日本とでは、皮膚感覚が異なる。だからこそ、現在の日本の平和と繁栄が、帝國陸海軍将兵らの犠牲の上に成り立っている史実を心に刻まねばならない。 確かに、米軍の埋葬書は「戦争慣れ」した書式と言ってよい。表には、氏名▽死亡場所・日▽死因▽埋葬地▽隣接する埋葬者の身元が。裏は身元不明者用で、両手の指紋▽身長・体重▽目・毛髪の色▽人種などが記される。身元不明者にもかかわらず、指紋や目・毛髪の色が空欄のままのケースも散見される。両手や頭を吹き飛ばされた悲しい英雄たち…。

敗戦の総括を怠る日本

 埋葬書に記載された名も無き戦士はものを言わぬ。ただ、米国は戦争の度に学習し、将兵の安全を向上させる手段を含め「勝利の方程式」の改定を繰り返す。毎回、幾つもの「解」を引き出すが、将兵に敬意と名誉を与える国家の責任こそ、平和を守る最も重大な国家戦略−との「解」だけは不変だった。民主国家が授ける将兵への敬意と名誉は、戦場に行かせるための“餌”などではない。将兵と一体と成り、国を護らんとする国民の感情より芽生えた「文化」であり「国是」である。

反省ばかりを口する日本

一方、日本は大東亜戦争にまともに向き合いもせず、合理とはほど遠い無意味な反省ばかりを口に出し、なぜ負けたのかを分析する、政府による本格的総括を怠ってきた。従って、安全保障に関し思考停止し、軍の保有や集団的自衛権がもたらす抑止力向上の重要性も理解できない。自衛官を「他人」と位置付け、自衛官との国防上の一体感に乏しいので、自衛官に敬意と名誉で接する「文化」も「国是」も育たない。帝國陸海軍将兵に至っては、戦争責任をなすり付ける対象か「戦争に駆り出された悲劇の道具」とのみ思い込む。靖国神社の英霊を「心ならずも戦死された」と“悼んだ”小泉純一郎氏(72)は後者の類い。「進んでお国のために戦った」軍人がおられなかったら、この国はとっくに滅んでいる。日本国民は、敗戦から何も学んでいない。 「負けっぷり」が悪すぎる。(政治部専門委員 野口裕之)

80NAME:2014/06/13(金) 07:37:17
慰霊の場の政治利用を長崎市助長
政治利用される慰霊の場 市の姿勢が助長 慰安婦資料館の看板も
2014.6.12 22:52 (1/4ページ)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140612/plc14061222520026-n1.htm

長崎市・平和公園に、日本の戦争責任を一方的に追及する長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑が、設置許可の更新もせずに30年以上、放置されていたことが明らかになった。碑の前では設置団体が日本を非難する集会を開いていた。公園用地の所有者であり管理責任もある長崎市は、更新の手続きを設置団体に促すこともしておらず、この姿勢が、慰霊の場であるべき平和公園の政治利用を助長したといえる。(田中一世)

 追悼碑と説明板は、爆心地公園と呼ばれる「平和公園・祈りのゾーン」に「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が建立した。その後、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を紹介する私設資料館「岡まさはる記念長崎平和資料館」の広告看板を説明板近くに無断掲示していた。岡正治氏は守る会の設立者だ。 日本軍が強制連行したとする証拠はない「従軍慰安婦」はもとより、説明板にある「(日本は)武力で威かくし朝鮮半島を植民地化した」「人々の土地を強制的に奪った」などの事項は、専門家の間でも、歴史的事実かどうか意見が分かれている。

81NAME:2014/06/13(金) 22:41:56
『敗戦後論』批判 1  三百十万人の日本人の死は無意味な死なのか
http://www.geocities.jp/akiyoshisato7/1-6.htm

日本における先の戦争、第二次世界大戦も、「義」のない戦争、侵略戦争だった。そのため、国と国民のためにと死んだ兵士たちの「死」は、無意味となる。(『敗戦後論』一〇頁)

悪いことをした子どもをしかる場合でも、なぜそんな悪さをしたのか、の理由を聞かないで、頭からしかることはよくないことだ、ということを、最近の大人は、誰でもわかっています。

それが、善悪をわきまえた大人が、全員でもって、悪いこと、悪い戦争をした、というなら、なおさら、なぜ、そんな悪い戦争を、大の大人がしてしまったのか、を問わなければ、戦争にかかわる問題を、なにひとつ、本質的に解決することへつながらないことは、明白ですよね。

日本をしてそこまで戦争に深入りさせたものは何か。このような形で敗れねばならないのは何故か。敗れたあとに来るものは何か。われわれが学徒兵として、学業半ばに志を曲げて死ななければならないのは何故か。日本人はこの巨大な浪費と、そのあとにくる無残な破局から、何を学びうるのか。(中略)

正義のために戦って死ねば、その死は意味あり、ねじれはなく、後世のものが、その死の意味をひきついで、哀悼してくれる。ところが正義のために、と戦って死んだ戦争が、 実は正義ではなく、侵略戦争という悪だった――つまり、ここで、ねじれが生じる。 だから、その死は意味がなく、無意味となり、後世の者に、先人の無意味な死とねじれた感覚がひきつがれる、と。

つまり、この論理構造から見るならば、ねじれがあったからこそ、無意味な死となった、というわけです。単純化していえば、(正)義ために死ぬことに意味があり、(正)義でない戦争に――侵略戦争に死んだため、無意味となった、と。

典洋さんの指摘は、どうも日本人の感覚からいって、ちがうと思うのです。 「自由のため」「解放のため」と、「義を信じて戦場に向かう兵士。」だいいち、このような兵士が、日本人にいたでしょうか。

日本人は、そんな御題目を、信じるということはやりません。 日本人は、論理的に納得したら動く、という感性とはちがう感性を、伝統的に育ててきたのです。 それは「和」です。まわりの「和」をくずさないために、まわりが闘えというのなら闘うのです。信じているのは、「義」ではなく、「和」なのです。 ですから、日本人が戦争に敗けた後、それが「義」のない戦争だとわかったとしても、「義」と思ったのに、「不義」だった、うらぎられた、とわかったとしても、「ねじれ」は、起こりようがないのです。 つまり、「ねじれ」の前提になる「正義」のため、というのが、はじめからないのですから。

 日本人は、あくまでも「和」のために、 勝利をめざして戦ったのです。 その「和」の頂点にある国家をたばねるシンボルとしての、天皇のために、です。 自分の努力がいたらなかったために、敗けてしまって、陛下に申し訳ない!と涙し、土下座してあやまる他ないのです。(あの八月十五日の、皇居前広場に延々とつづく庶民の土下座の姿の写真が、それを象徴しています。)

組織内のミスはまず隠す、隠蔽する。外向きの体裁をつくろうため、組織内の者は口裏を合わせる。別の言葉でいえば、情報の非公開。が日本では、一般的な感性なのです。

ある若い女子大生が、全然見知らぬ若い男に殺された事件がありました。 その死は、「自然死ではない、不自然な死」です。大岡昇平さんが、戦争による死者を、そう語った同じように。 この女子大生の死は、無意味な死でしょうか。それとも有意味な死でしょうか。

殺した男が、にんげんとしてよみがえり、彼女と遺族の気持ちが、その男のにんげんとしての気持ちにつながることによって、二度とふたたび、彼女と彼女の遺族の悲惨さを繰り返さないようになることによって、ようやく、彼女の無念が、遺族のくやしさが、晴れるのではないでしょうか。

そのあり様を見た、目覚めたる日本人は驚き、このままでいったら自国が侵略されると、危機感を感じ、幕府を倒し、明治維新を通して、国を一つにまとめて、自国を侵略から守ろうと、必死に欧米列強に対抗するための、富国強兵!追いつき追い越せの、努力の連続だったわけです。 ですから、日露戦争で日本が勝利すると、侵略され続けていたアジア人が、はじめて白人に勝った、ということで、日本人はもちろん全員万歳と歓喜するのですけど、アジアの人々も共鳴したのです。

しかし、哀しいかな、父母、祖父母たちは、侵略されまいとする近代化の後発国の悲哀を自らのものとしながら、それを防ぐために、防衛線を拡大するとして、逆に隣国に侵入して、自らが侵略者になるという過ちを犯したのです。

82NAME:2014/06/17(火) 19:23:55
証言…戦艦大和、片道燃料の真実
戦艦大和「片道燃料」の真実…艦長の会話を聞き、大和の最期を見た元測距儀兵の証言(上)
2014.6.17 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140617/wlf14061707000003-n1.htm

夏が近づくにつれ、第二次世界大戦を題材にした映画のテレビ放送が増える。今月は「連合艦隊司令長官 山本五十六−太平洋戦争70年目の真実」、来月は「パール・ハーバー」など続々とラインナップされている。昭和16(1941)年12月、日米開戦。山本長官が指揮する真珠湾攻撃で日本は勝利するが、ミッドウェー、山本長官暗殺などで次第に劣勢へ…。近年の戦争映画は新たな歴史証言などを反映させ、新事実を伝えるが、先日聞いた戦艦大和元乗員の証言には過去のどんな戦争映画でも描かれていない事実が明かされ、愕然とした。沖縄特攻の数少ない生還者の衝撃的な証言を2回シリーズでお伝えしたい。

最新鋭戦艦「大和」の測距儀兵に

 戦艦大和の乗組員だった北川茂さんは現在90歳。三重県で暮らしている。 大正13(1924)年、名張市で生まれた北川さんは昭和17年、海軍入隊後、戦艦「日向」の乗員となる。 「日向の船内は狭く、油臭かった。風呂も1週間に1回しか入れず、いつも掃除ばかりさせられていた…そんな思い出しかありません」と北川さんは苦笑しながら振り返った。 その後、神奈川県の横須賀海軍砲術学校で学び、20年2月、日本海軍の旗艦(フラッグシップ)として建造された最新鋭の戦艦「大和」の測距儀兵に任命される。

 「大和の乗組員に選ばれてとても光栄でした。老朽化した日向と違って、建造されたばかりの大和は船内は広く、とても清潔で、寝室も日向ではハンモックでしたが、大和はベッド。風呂も3日に1度は入ることができ、船内での生活はとても快適でしたね」 測距儀兵とは艦橋の一番上にある測距儀で、敵艦隊の位置を確認、距離を測る担当で、北川さんは若手として他の乗員へその数値を知らせる伝令が任務だった。米艦隊も恐れた大和最大の武器、主砲46センチ砲も北川さんの伝令がなければ発射できない、という重要な役目だ。

恩賜のタバコ、“形見”として親に…最期の特攻、大和は“命”を僚艦に…

83NAME:2014/06/17(火) 19:25:25
すべてが極秘だった

 当時、大和は建造を含め、その作戦行動などすべてが極秘裏に進められていた。北川さんたち乗員にも、その目的は告げられないまま、訓練が行われていたという。厳しい訓練が続く中、3月25日、乗員に上陸許可が出る。 「米軍が沖縄上陸寸前の状況で、大和がいずれ沖縄へ向かうであろうことは乗員みんなが薄々気付いていました。上陸前、乗員は天皇陛下から恩賜のたばこをいただいたのです。私は、やはり沖縄特攻は近い、これが最後の上陸だと覚悟し、三重の両親へたばこを送りました。私はたばこを吸いませんでしたから。恋人もいなかったので誰とも別れのあいさつもせずに…」。北川さんが広島時代、同じ下宿で暮らした仲間7人のうち5人が沖縄特攻で戦死したという。

 つかの間の上陸で、家族たちと最後の別れを交わした乗員たちが上乗し、大和は呉港をひっそりと出港。4月1日、北川さんは大和の艦橋の一番上で、駆逐艦「雪風」など10隻が山口県の三田尻沖で集結する光景を目の当たりにする。 「大和での私の持ち場は艦橋の一番上、ちょうどその真下に艦長が陣取り指揮していました。その会話すべてが私の耳に自然に入ってきました」。北川さんは大和最期の姿を艦橋の一番上、艦長の声を真下に聞きながら“目撃”した一人だった。

物資が枯渇する中、最後の特攻へ

 士官ではない乗員はふだん艦内のエレベーターを使えなかったが、北川さんたち測距儀兵は、トイレ休憩などで船内へ降りる際、エレベーターの使用を許されていたという。トイレは艦橋の下にしか設置されていなかった。 「夜、海上で停泊中、私はトイレに行きたくなりエレベーターで艦橋を降りていきました。すると暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油しているのです」

防衛へ生き残るべき艦も必要…艦長同士の決断

北川さんは驚き、「何をしているんだ」と問うと、駆逐艦の乗員は「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われたんだ」と答えたという。 沖縄特攻に向け、艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということだろう。

 当時、日本海軍には軍艦、戦闘機など兵器はもちろん、燃料もほとんど残っていなかった。資源が枯渇した日本海軍の駆逐艦など護衛艦には、菜種の油などが代替燃料として積まれていたという。菜種の油などは燃料効率が悪く最大船速で海上を走ることができない。 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に臨む準備をしていたのだ。

84NAME:2014/06/21(土) 14:51:44
「日本人は戦うことを悪いことだと教えられ、闘争心を失った」新カリスマ経営者が今度は若者に吠えた 
2014.6.21 12:00
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140621/biz14062112000002-n1.htm

 ビジネス本の世界で、ある経営者が新たなヒットメーカーとして出版業界から注目されているという。富士フイルムホールディングス代表取締役会長兼CEO(最高経営責任者)の古森重隆氏。米巨大企業のコダックを飲み込んだ写真のデジタル化の波や、リーマン・ショック、歴史的な超円高など、さまざまな逆境を乗り越えたカリスマ的な経営手腕に、関心が集まっているためだ。 4万2000部のヒット作品となっている「魂の経営」(東洋経済新報社)に続いて、「君は、どう生きるのか 心の持ち方で人生は変えられる」(三笠書房)が6月18日に発売された。初版は2万5000部と、ビジネス本としては意欲的な出版計画だ。

 デジタル化の波は、米国の大手企業コダックを倒産に追い込んだ。それとは対照的に、富士フイルムは古森氏の強力なリーダーシップのもと、新規事業の創造と不採算部門のリストラを同時に実行する大胆な構造転換を成功に導き、V字回復を実現させた。 経営改革のスピードや大胆さは米国企業が勝る、とされてきた経済界の常識を打ち破った古森氏の手腕に出版業界から熱い視線が集まり、出版のオファーが相次いだのだという。

「魂の経営」のテーマは、「本業消失」と呼ばれる経営の危機から「第二の創業」に至るまでの構造改革を描いた。「車が売れなくなった自動車メーカーはどうなるのか。鉄が売れなくなった鉄鋼メーカーはどうすればいいのか」。そうした「本業消失」に立ち向かった経営者の苦闘をつづっている。 2作目の「君は、どう生きるのか」は、日本の若者にどう働き、どう生きるべきかを説いた書だ。古森氏は「日本人は戦うことを悪いことだと教えられ、ファイティングスピリットを失った。しかし、人生は戦いの連続だ。世界を舞台に繰り広げられる競争に勝つためには、ファイティングスピリットを取り戻さなければならない」とメッセージを送っている。

85NAME:2014/06/28(土) 16:51:30
両陛下、念願のご慰霊 「対馬丸」遺族と生存者 寄り添うお気持ち受け止め
2014.6.27 20:55
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140627/imp14062720550004-n1.htm

先の大戦中、米軍に撃沈され、多くの子供たちが犠牲となった学童疎開船「対馬丸」の悲劇。天皇、皇后両陛下は27日、念願だった犠牲者の慰霊を果たされた。疎開経験のある両陛下は、犠牲となった子供たちと同世代であり、これまでも深く心を寄せられてきた。両陛下からいたわりのお言葉を受けた遺族、生存者は「あれから70年。一つの区切りができた」と話し、悲劇に寄り添う両陛下のお気持ちを受け止めた。 両陛下はこれまで、機会あるごとに対馬丸に言及されてきた。53年ぶりに海底で対馬丸の姿が確認された平成9年、陛下は「對馬丸見出ださる」と題して「疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり」とのお歌を詠まれた。皇后さまも戦後60年の17年、71歳の誕生日に際しての文書で対馬丸に触れられた。 「大変でしたね」。当時、泊国民学校(那覇市)6年生だった堀川澄子さん(81)は27日の懇談で、両陛下からこうねぎらいの声をかけられた。

撃沈された夜、「やられた!」と叫ぶ引率の女性教諭の声で飛び起きた。沈みゆく船体が巻き起こす渦の中にのみ込まれたが、救命胴衣のおかげで海面へ上がることができ、ボートの船員に救助された。「先生」「お父さん、お母さん」「助けて」と叫ぶ声が次第に消えていった情景を思い出すという堀川さん。「懇談は生存者、遺族にとって、節目になりました」と、言葉を詰まらせた。 「生きていれば、陛下と同い年なんだなあって」。思い出を振り返る豊岡君江さん(78)は、天妃(てんぴ)国民学校(那覇市)5年生だった兄の豊岡功さん=当時(11)=を失ったことを両陛下に話した。 気丈夫で活発、友達も多い人気者だった功さん。亡くなった母の生(いく)さんは「自分が無理に(対馬丸に)乗せてしまった」と後悔の念を話していたという。 懇談では、陛下から「私と同じ年ですね」と優しく声をかけられ、両陛下の温かいお心が豊岡さんにも伝わってきた。「胸がいっぱいになりました。母も喜んでいると思います」

 ■対馬丸事件 先の大戦中の昭和19年8月22日夜、沖縄から九州に疎開する学童ら約1800人を乗せた学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県のトカラ列島・悪石(あくせき)島沖を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没。学童約780人を含む約1500人が犠牲となった。平成9年の海底捜索で船体が確認された。

86NAME:2014/07/02(水) 19:53:35
魚雷をわざと命中させ…戦艦大和
戦艦大和「片道燃料」の真実…艦長の会話を聞き、大和の最期を見た元測距儀兵の証言(上)
2014.6.17 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140702/wlf14070207000001-n1.htm

夏が近づくにつれ、第二次世界大戦を題材にした映画のテレビ放送が増える。今月は「連合艦隊司令長官 山本五十六−太平洋戦争70年目の真実」、来月は「パール・ハーバー」など続々とラインナップされている。昭和16(1941)年12月、日米開戦。山本長官が指揮する真珠湾攻撃で日本は勝利するが、ミッドウェー、山本長官暗殺などで次第に劣勢へ…。近年の戦争映画は新たな歴史証言などを反映させ、新事実を伝えるが、先日聞いた戦艦大和元乗員の証言には過去のどんな戦争映画でも描かれていない事実が明かされ、愕然とした。沖縄特攻の数少ない生還者の衝撃的な証言を2回シリーズでお伝えしたい。

最新鋭戦艦「大和」の測距儀兵に

 戦艦大和の乗組員だった北川茂さんは現在90歳。三重県で暮らしている。 大正13(1924)年、名張市で生まれた北川さんは昭和17年、海軍入隊後、戦艦「日向」の乗員となる。 「日向の船内は狭く、油臭かった。風呂も1週間に1回しか入れず、いつも掃除ばかりさせられていた…そんな思い出しかありません」と北川さんは苦笑しながら振り返った。

 その後、神奈川県の横須賀海軍砲術学校で学び、20年2月、日本海軍の旗艦(フラッグシップ)として建造された最新鋭の戦艦「大和」の測距儀兵に任命される。 「大和の乗組員に選ばれてとても光栄でした。老朽化した日向と違って、建造されたばかりの大和は船内は広く、とても清潔で、寝室も日向ではハンモックでしたが、大和はベッド。風呂も3日に1度は入ることができ、船内での生活はとても快適でしたね」 測距儀兵とは艦橋の一番上にある測距儀で、敵艦隊の位置を確認、距離を測る担当で、北川さんは若手として他の乗員へその数値を知らせる伝令が任務だった。米艦隊も恐れた大和最大の武器、主砲46センチ砲も北川さんの伝令がなければ発射できない、という重要な役目だ。

恩賜のタバコ、“形見”として親に…最期の特攻、大和は“命”を僚艦に…

87NAME:2014/07/02(水) 19:54:48
すべてが極秘だった

 当時、大和は建造を含め、その作戦行動などすべてが極秘裏に進められていた。北川さんたち乗員にも、その目的は告げられないまま、訓練が行われていたという。厳しい訓練が続く中、3月25日、乗員に上陸許可が出る。 「米軍が沖縄上陸寸前の状況で、大和がいずれ沖縄へ向かうであろうことは乗員みんなが薄々気付いていました。上陸前、乗員は天皇陛下から恩賜のたばこをいただいたのです。私は、やはり沖縄特攻は近い、これが最後の上陸だと覚悟し、三重の両親へたばこを送りました。私はたばこを吸いませんでしたから。恋人もいなかったので誰とも別れのあいさつもせずに…」。北川さんが広島時代、同じ下宿で暮らした仲間7人のうち5人が沖縄特攻で戦死したという。

 つかの間の上陸で、家族たちと最後の別れを交わした乗員たちが上乗し、大和は呉港をひっそりと出港。4月1日、北川さんは大和の艦橋の一番上で、駆逐艦「雪風」など10隻が山口県の三田尻沖で集結する光景を目の当たりにする。 「大和での私の持ち場は艦橋の一番上、ちょうどその真下に艦長が陣取り指揮していました。その会話すべてが私の耳に自然に入ってきました」。北川さんは大和最期の姿を艦橋の一番上、艦長の声を真下に聞きながら“目撃”した一人だった。

物資が枯渇する中、最後の特攻へ

 士官ではない乗員はふだん艦内のエレベーターを使えなかったが、北川さんたち測距儀兵は、トイレ休憩などで船内へ降りる際、エレベーターの使用を許されていたという。トイレは艦橋の下にしか設置されていなかった。 「夜、海上で停泊中、私はトイレに行きたくなりエレベーターで艦橋を降りていきました。すると暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油しているのです」

防衛へ生き残るべき艦も必要…艦長同士の決断

北川さんは驚き、「何をしているんだ」と問うと、駆逐艦の乗員は「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われたんだ」と答えたという。 沖縄特攻に向け、艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということだろう。 当時、日本海軍には軍艦、戦闘機など兵器はもちろん、燃料もほとんど残っていなかった。資源が枯渇した日本海軍の駆逐艦など護衛艦には、菜種の油などが代替燃料として積まれていたという。菜種の油などは燃料効率が悪く最大船速で海上を走ることができない。 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に臨む準備をしていたのだ。

=(下)覚悟も浮沈艦…に続く

88NAME:2014/07/02(水) 19:55:53
今年1月の「銀幕裏の声」で紹介した、空母「飛龍」に乗って真珠湾攻撃に参加した97式艦上攻撃機の元搭乗員、城武夫さんが5月30日、肺炎のため死去した。95歳だった。セイロン島の英軍基地攻撃から帰還する際、英戦闘機の攻撃で片目を失った。ハンディを背負いながらも戦後を生き抜き、戦争の証言者として、命と平和の大切さを説き続けた。合掌。

特攻を美化するつもりはない。だが若いパイロットたちが日本を守りたい一心で戦ったことは語り継ぎたい…映画『永遠の0』の特攻パイロットは実在した(上)
2014.1.11 12:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140111/wlf14011112000020-n1.htm

89NAME:2014/07/03(木) 19:55:30
日本代表の「お辞儀」に見る日本
サッカー日本代表のお辞儀から見える「菊と刀」の世界、長友の涙が意味するものとは―中国メディア
2014年7月2日 05:40 (Record China)
http://topics.jp.msn.com/world/china/article.aspx?articleid=4936944

2014年7月1日、サッカーワールドカップ(W杯)ブラジル大会で敗戦後、スタジアムのごみを拾う日本人サポーターのニュースが中国のインターネット上で大きな話題となった。これに対し、日本問題専門家の復旦大学教授は、「恩に感謝すること。日本が第2次世界大戦後の廃墟の中から経済・社会面で大躍進し、世界の強国に復興したことは、このことと密接な関係がある」と述べた。新民晩報が伝えた。

コートジボワール戦の試合会場アレナ・ペルナンブーコで、試合に負けた日本代表の選手たちは試合終了後、日本のサポーターに向けて深々とお辞儀をし、謝罪と感謝の気持ちを示した。実は、この一幕に感動させられたのは日本人だけではなかった。中国のネットユーザーが中国版ツイッター・微博(ウェイボー)で、「愛国とは過去の過ちに対して怒ることではなく、自己を正視することだ。それは、他国の優れた点を学ぶことでもある。サッカー日本代表チームの品位は学ぶに値するものだ」と投稿した。非常に誠意ある意見だ。 ブラジルW杯が始まる前、日本代表は自信たっぷりの様子を見せていた。日本の国民も日本代表に注目し、極めて大きな希望を託していた。英国のメディアが実施した調査によると、ツイッター上でW杯についてコメントしたユーザーのうち全体の37%が日本のもので、世界で1位だった。それに次ぐ2位は英国だったが、わずか11%に過ぎなかった。恐らくこういった背景もあって、日本サッカー界のスター選手である香川真司は試合後に次のように語った。「会場全体が日本を応援してくれていたのに申し訳ない気持ちでいっぱいだ」。

この「申し訳ない」という言葉は単なる謝罪の言葉だろうか?この言葉には、「恩に感謝すること」という日本文化の特徴的な要素が反映されている。日本が第2次世界大戦後の廃墟の中から経済、社会を急速に発展させ、世界の強国に復興したのは、このことと密接な関係がある。 日本文化を語る上で避けて通れないのは米国の文化人類学者ルース・ベネディクトの日本人論「菊と刀」だ。この本の第5章には、「過去と世間に負目を負う者」という見出しがつけられている。ルース・ベネディクトの論説によると、日本人は恩に報い、感謝することを非常に重視し、また感謝する対象は明確で、幅広く、具体的だという。実際、日本人の観念によると、人と人との間には恩恵を与える人と、恩恵を受ける人という必然的な関係性が存在する。恩情は一種の債務であり、必ず返さなくてはならない。恩を知り、それに報いるのは人が必ずやり遂げなければならない義務なのである。 日本人は社会は人からなるものであることを非常に明確に理解している。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の言葉によると、「自分が手にする富が増えれば増えるほど、社会の助力を受けているのだから、その恩恵に報いるため、できるかぎり社会のために助力しなければならない。国や社会を忘れることは下等動物との差異がないことだ」とある。このように、日本代表チームがお辞儀をするという行為は、サポーターの期待に応えられなかったことを誠実に謝罪するだけではなく、サポーターに対する深い感謝の気持ちを示したもので、これこそが日本文化を象徴するものだ。

90NAME:2014/07/03(木) 20:02:17
このため、広い意味で言うと、恩に感謝することは日本の核心的な価値観の1つと言える。東京のJR渋谷駅前にある忠犬ハチ公の銅像がこの文化を体現している。日本経済が躍進する中で生まれたパナソニックの創業者・松下幸之助の経営哲学にも、企業は貢献してくれた職員に感謝すべきであり、職員もまた自分の人生の発展に寄与する会社に対して感謝すべきであるという献身の重要性を強調している。 日本サッカーのサポーターのこういった品位にも、同様に文化的記号が現れている。ルース・ベネディクトの「菊と刀」では、日本文化は西欧的な「罪の文化」とは対照的に「恥の文化」であると定義している。簡単に言うと、西欧の人々は主に絶対的な道徳観を持ち、内面的な罪の自覚に基づいて行動を律している。それは、カントの次の言葉にも見て取れる。「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」。一方の日本人は他人の目線を自分たちの行動の規範とする。ルース・ベネディクトの論説によると、「恥を感じることは日本人の生活において非常に重要であり、いずれの日本人も社会が自分の行動に対する評価に対して非常に注意を払う」という。

このため、「人に迷惑をかけてはならない」というのが日本人の基本的な行動基準となる。スタジアムに残されたごみを拾うという行動もまた他の人に迷惑をかけてはならないということから来ている。しかし、日本にはこれに反する「旅の恥はかき捨て」ということわざもある。この意味は、知らない人の場所ではこの規則を守る必要性はないということだ。これもまた、日本人のスキャンダルのほとんどが家の外で起こっていることと関係があると説明できるだろう。 残念なのは、日本代表がブラジルで示した日本文化の象徴である「深く恥じ入ること」や「恥の意識」が、日本が過去に犯した侵略の歴史を深く認識したり、誠実な謝罪をするという面で示されないことだ。このような日本人の「選択性」について、考えさせられる。(提供/人民網日本語版・翻訳/MZ・編集/武藤)

↑ 日本が過去に犯した侵略の歴史???なんのことだろうか。大東亜戦争で、日本はアジアを救ったので、反省や謝罪は不要なはすですが。(笑)

91NAME:2014/07/05(土) 22:46:09
日本国憲法は英文
http://kaigaikiji.com/?page_id=1402

マッカーサー・ノートをうけて、憲法起草の責任者ホイットニー民政局長のもと24名のスタッフが分野ごとに条文を作成、わずか1週間でマッカーサーに提出した。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/nihonkoku_kenpo.html

アメリカがわずか6日間で作り日本に押し付けたもの。 日本国憲法は、当時の日本の国会である帝国議会で審議され、承認されるという手続きを踏んでおり、いかにも日本人が自主的に作り上げた憲法であるような体裁をとっているが、これはアメリカの戦略だった。アメリカ政府は、新憲法が制定される前に、GHQに対して再三にわたり、憲法が押し付けられたものであるという事実を日本国民には覆い隠すよう、また、日本国民が自分たちで自主的に定めたと錯覚するように仕向けることを要求した。

戦後できた日本国憲法は、占領軍憲法で改正しなければならないと、制定前後から日本の指導者の多くが思っていて、マスコミも憲法改正をみな唱えていた(朝日新聞、社会党、共産党ですらも憲法改正を要求していた)。 しかし、吉田茂がサンフランシスコ講和条約締結と同時に日米安全保障条約を結び、アメリカに全面的に依存したため、真の独立はますます遠のいた。吉田の選択が戦後の禍根を生み、日本人の精神を崩壊させ始めた。

対日講和条約によって独立を回復したならば、憲法改正を試みるべきだったが吉田は軍事的・外交的にアメリカに従属する道を選び、日本が真に独立国として再出発する好機を逃した。吉田は防衛をアメリカに依存し、負担を軽減することによって経済的に復活を目指そうとした(吉田ドクトリン)。この方針によって、日本が戦後の食糧危機を脱し未曾有の経済成長へと進んだのは事実だが、経済一本に絞ったために国民の力は経済にすべて結集され、この集中力が日本人の勤勉さや教育水準の高さとあいまって高度成長を実現した。しかし、その代償は大きく、経済優先の路線が日本人の正気を次第に奪っていった。

当時日本に主権がなかったし、何をするにもGHQの承認が必要だった。占領政策の批判は一切禁じられ、違反者は裁判にかけられ重労働の刑に処せられていた。日本側の粘り強い交渉で一部修正が認められたものの、政府案はGHQの作成した原案に沿った内容とならざるを得なかった。

政府案とGHQ案の最も大きな違いは以下の通りGHQ案には「一切の土地や天然資源の究極的所有権は人民の集団代表者としての国会に帰属する」という一文が入っていたがこの部分は削除された。これが削除されなかったら日本の土地は国有制になっていた。 GHQ案では国会は一院制だったが政府案では衆参二院制に修正された。さらに国会の審議過程で一部修正されたが、GHQの草案はほぼ全面的に受け入れるしかなかった。

日本国憲法は連合国の為だけに作られた
http://mekago.cocolog-nifty.com/dpzannex/2014/04/post-af52.html

英文の草案がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から提示され、それを日本語に訳したものが、現在の日本国憲法です。

92NAME:2014/07/06(日) 04:10:50
なぜ太平洋戦争で日本は、大陸で権益の衝突する欧州列強とではなく、アメリカと開戦する運びとなってしまった
http://okwave.jp/qa/q5923172.html

狙えそうな海外市場ってもう中国くらいしかなかったのです。アメリカはフィリピンを植民地にしていましたから、そのルートで中国にも食指を伸ばしていたのです。そうなると、日本と利害の対立が生じるのは当然となります。

日本にとって「死刑宣告」になったのは石油とくず鉄の禁輸でした。当時の日本は石油はほとんどがアメリカからの輸入でした。だから、石油の元栓をひねられると日本はたちまち干上がったのです。なにしろ、もし石油が手に入らなかったら日本海軍は何もしなくても1年後には燃料がなくなってしまったのです。また、くず鉄についてはあまり注目されていないのですが、実は当時の日本は高炉がほとんどなかったのです。

平炉だと鋼鉄を作るにはくず鉄からじゃないと作れないのです。だから、くず鉄がないと大砲はもちろん砲弾も作れないのです。アメリカは、くず鉄と石油を断ち切れば日本は立ち行かないことをちゃんと分かっていました。だから、くず鉄と石油を禁輸したのです。そうなると、日本は兵糧攻めで座して死を待つか、イチかバチかの戦争かの二者択一を迫られたのです。アメリカは窮鼠猫を噛むところまで日本を追い詰めたのですよ。

太平洋戦争って結局仕掛けた日本がわるいんですか?戦争はやらなくても日本が経済的にも政治的にも不利益になる事はなかったんですよね?
ましてや植民地になるなんて事はなかったんですよね?アメリカの最後通告を無視して侵略行為をしなければ経済制裁を受ける事もなく戦争は起こらなかったんですよね?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1269105762

当時弱体化していた中国に武力干渉していた列強も、今後は中国の主権を認めつつ門戸開放、機会均等で平和的に中国市場を開拓していこう、と日本も含めて九ヶ国条約を締結。しかし早速1931年に日本が条約を破って満州を侵略し中国大陸侵略を拡大します。欧米諸国も中国市場を狙っていましたが、大軍隊を送って武力で侵略したのは日本だけです。これがどうしても分からない人たちがいます。しかし日本が中国大陸を侵略している間も石油を始め重要物資はアメリカから欲しいだけ輸入出来ていたのです。

そしてフランスがドイツに降伏したどさくさに北部仏印を侵略した時でもまだ石油は入ってきていた。しかし調子に乗って南部仏印を侵略した時点でアメリカは対日石油禁輸を行います。日本の侵略主義に対してアメリカが「初めて」経済制裁の形で厳重な警告を発しました。

ここで日本が侵略政策を変えていたらまた石油も輸入出来たのですが、日本はアタマに血がのぼってしまいます。山本五十六は言いました、「三国同盟前後の事情、その後の物動計画の実情などを見ると、現政府のやり方は前後不順なり。今更アメリカの経済圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刹那主義にてウカウカと行動するにも似たり」、と。よく言われるアメリカの挑発とか陰謀などはまったくありませんでした。日本陸軍が調子に乗って「小学生の様にウカウカと」侵略を拡大した結果でした。

あのハルノートも、「最後通牒」から程遠いものでした。中国からの撤退も、満州のマの字も書いてないし、大陸での日本の権益にも触れていない。それどころか、日米がお互いに最恵国待遇を与え合って通商を行う協議を始めようとまで書いてある。にもかかわらず、日本側で日本語に翻訳の時に原文に書いてある「暫定的」「拘束力のない」「提案」「草案」を消してしまい、中国からの撤退は書いていない「即時」を書き加えて最後通牒に様にしてしまいました。

93NAME:2014/07/07(月) 01:30:31
ハル・ノート
http://cosmo-world.seesaa.net/article/142255894.html
駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった」とかかれており日本の南方進出が「領土的野心」等では無かった事を証明している。
資源・物資・大陸での正当な権益・アメリカにある日本の資産・これらを放棄しろと言う事は「死ね」と言うのに等しい事である。

うまく説明できないが、東条の二男は三菱重工の社長になっている。
三菱財閥と天皇家の関係、昭和天皇と東条の関係を考えると、東条を処刑するとは考えられないのだ。

ハルノートは太平洋戦争の原因ではない。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n73649

日本政府がハルノートを受け取ったのは昭和16年11月27日。しかし日本海軍機動部隊は既にその前日に真珠湾に向けて出撃していました。また、マレー半島奇襲上陸を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。つまり和平交渉中に、そしてハルノートを受け取る前に強大な攻撃部隊を出撃させていたのです。

ハルノートの中でアメリカの唯一の「要求」は中国・仏領インドシナから軍隊・警察力を引き揚げる事だけです。これは当然ですね、日本がパリ不戦条約、九ヶ国条約を破って満州侵略に始まって中国侵略を拡大し、フランスがナチ・ドイツに負けたどさくさに仏印を侵略していたのですから。

ハルノートを受け入れれば良かった
http://military38.com/archives/34923240.html

ハルノートを受け入れれば朝鮮、台湾、南樺太、南洋の島々は今でも日本の領土です。
>日本がハルノートに応じても、話し合いに応じることも石油禁輸や資産凍結を解除するかどうかもアメリカは明言しなかった
そもそもあれ暫定案であり拘束力もない アメリカ政府の公式な提案じゃないし

94NAME:2014/07/08(火) 23:40:53
日本が植民地にならなかった理由 7月8日
2014.7.8 03:06
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140708/dst14070803060004-n1.htm

19世紀に入ると、欧米列強はアジア諸国を次々と植民地化していった。日本は絶体絶命の危機に立たされる。独立を守るために戦った幕末の英雄たちの物語は、繰り返し語られてきた。

 ▼ただ、元国土交通官僚の作家、竹村公太郎さんは、日本の地形と気候という視点から、もう一つの理由を挙げる。豊富な鉱物資源や広大な土地、奴隷といった、欧米人の欲望をかき立てるものが、見当たらない。

 ▼それどころか日本列島には、「欧米人を恐怖させる自然が嫌というほどあった」。確かに日米和親条約締結後の5年間だけでも、大地震が相次ぎ、コレラが蔓延(まんえん)し、江戸市中は大水害に見舞われている(『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』PHP文庫)。

 ▼13世紀の日本に襲来したモンゴル軍を追い払ったのも、神風と呼ばれる暴風雨だった。だからといって日本列島の過酷な運命に、感謝する気持ちにはとてもなれない。まして自然の猛威は、近年の地球環境の変化を受けて、荒々しさを増している。

 ▼列島の南海上を北上中の台風8号は、猛烈な風と大雨を伴う、7月としては過去最大級の台風だという。しかも梅雨前線の活発化と、速度の遅さという悪条件が重なっている。崖崩れや浸水の被害が、各地で最小限にとどまるよう祈るばかりである。

 ▼太陽を図柄としている日本の国旗は、「星」や「月」のデザインが目立つ世界の国旗のなかで、実は珍しい存在だ。竹村さんによると、夜になってから活発に活動する熱帯の人たちにとって太陽は、「苦しみと死の象徴」でしかない。それに対して日本人は古来、太陽の下で働くことこそ、無上の喜びとしてきた。灼熱(しゃくねつ)の太陽がことさら恋しく思える、1週間となりそうだ。

95NAME:2014/07/12(土) 15:26:15
「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判 [産経新聞]  70年前の911事変
投稿者 中田英寿 日時 2011 年 12 月 08 日 07:42:16: McoerUaxt7HLY
http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/411.html

「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
2011.12.7 22:41 (1/2ページ)[歴史問題・昭和史]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm

【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874〜1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882〜1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。

 真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうとした−などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めて。 ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領のトルーマンの指示で戦後の日本などを視察。46年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥と会談した。

その際、フーバーはマッカーサーに対し、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘。在米日本資産の凍結など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったという。

 マッカーサーも、「ルーズベルトは41年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努力をすべきだった」と批判していた。 著書ではフーバーが「米国から日本への食糧供給がなければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろう」とマッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたことも詳細につづられており、フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなっている。 ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけになってほしい」と話している。

96NAME:2014/07/14(月) 00:34:18
消された「通州事件」
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tushujiken.htm
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:ekuwL2G7AnsJ:www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tushujiken.htm+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

盧溝橋事件の約3週間後に起こった、おそるべき虐殺事件についてご存知でしょうか。北京の東にある通州というところで起きたこの「通州事件」は、今ではほとんど語られません。学校の教科書には全く出てきませんし、多くの歴史書や年表にも殆ど載っていません。若い人たちは、事件の名前すら知らない人が殆どでしょう。
 
 この通州事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、中国人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件です。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名で、中国兵は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で日本人を惨殺したのです。
 
 戦後の東京裁判で、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしました。しかし、ウェッブ裁判長によって、その申し出は却下されました。この事件にふれてしまうと、日中戦争は日本だけが悪いと言えなくなってしまうという判断があったからでしょう。ただ、通州事件の目撃者による口述書だけは受理されました。あまりに残虐な内容ですが、その一部を引用します。
 
 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。
 
 東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」
 
 どうでしょう、これが人間のやることでしょうか。中国の保安隊は、日本人居留民を通州城内に集め、城門を閉じ、逃げられないようにして、一斉に殺戮行為を開始したといいます。決して偶発的な出来事というわけではなく、明らかに事前準備と計画をともなった組織的な行為だったのです。
 
 当然ながら、この虐殺の報は現地の日本軍兵士を激昂させましたし、日本国内にも伝わって、国民の中国に対する怒りは頂点に達しました。
 
 盧溝橋事件は、純粋に軍どうしの衝突であり、それは現地で解決がはかられました。ところが、この通州事件は明らかな国際法違反であり、その殺し方はまさに鬼畜のしわざとも言えるものでした。当時の日本人の反中国感情はこの事件を抜きにして理解することはできないのです。また、この事件に触れずに日中戦争を語ることはできないと思います。

97NAME:2014/07/25(金) 00:14:28
原爆落とされる前に降伏
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8678177.html

1.2発落とされたから降伏した 新型爆弾の脅威を目の当たりにして 早く降伏しないと3発目が落ちる。
2.日本はモルモットだった
3.実際に使う事はないと楽観視していた しかも原爆落とされても「一億玉砕」「徹底抗戦」を唱え続けた
4.天皇が戦争継続に強硬な陸軍のうちの特に強硬派が広島に集合することを知り、あわよくばその勢力漸減を狙った
5.アメリカがそれを認めてくれないと終わらない アメリカは巨額予算を投じて原爆を作った これを使ってから戦争を終える
日本は国体を護持しての降伏をずっと求めてた そこでアメリカは”原爆を落としてから”バーンズ回答をよこした
6.無条件降伏を突き付けて来たので、降伏出来なかった アメリカの思惑としてはマンハッタン計画に掛けた予算分の成果を出さなければならず
7.原爆を使われる前に降伏するための方向性が、ソ連頼みという間違えの上にあったのと、原爆の存在を現実的脅威として判断できるレベル以上に把握していなかった
8.連合国の「無条件降伏」と、日本の「条件付降伏」の折り合いがつかなかったから 無条件降伏通告が届いた頃、軍部・政府では「日本の国体維持」という譲れない条件があり
9.アメリカは曖昧な降伏条件(国体の護持、天皇の地位への保証がない)を出すことで、日本が降伏できないようにして、原爆を使用する準備を そもそも、ポツダム宣言の受諾=無条件降伏 ではない ポツダム宣言の降伏に関する文章には、「Following are our terms」(我々の条件は次の通り)と記されており、それには「日本国政府は直ちに全日本軍の無条降伏を宣言」となっています。 これは、軍隊の無条件降伏=単なる武装解除であって、軍組織の解体や消滅ではありません。 そして、軍=国家・政府 ではない以上、ポツダム宣言によって、日本という国家が無条件降伏したという事にはなりません。
10.終戦や降伏の道やタイミングを絶たれていた
11.トルーマンは、膨大な予算を使用した原爆開発の事実を、議会対策として、投下しなければならなかった 投下の事実を使う為、もう日本しか残っていなかった トルーマン個人が、次期大統領選の為に、戦費全体の1/4とも言われる膨大な予算を、議会に成果報告するために無警告投下を行なった そして、本土上陸作戦で発生する100万人の若者を救ったと情報操作した だから今でも、原爆投下は正当な行為であるとするアメリカ人が多い
12.和平に反対していたのは陸軍 原爆前に政府が強引に終戦しようとすれば恐らく高い確率で陸軍主導の軍事クーデターが起き、最悪の場合は内戦状態に陥っていた 天皇を幽閉して憲法を停止し軍事独裁政権を樹立する、あるいは秩父宮を擁立して新政府をつくるなど 終戦したくても出来ないジレンマに陥っていた重臣たちにとっては、原爆投下は天佑であり好都合なものだった
13.人体実験の前に降伏されたら困りますから終結させる交渉をする気は無かった
14.日本が降伏しようとしたため原爆を落とした 日本の降伏が早ければ、それに合わせて原爆の投下も早まったと
15.何とか戦争を終わりにしたい考えの人たちと、本土決戦までやろうという人たちと最後の最後まで揉めていて、見解の統一ができていなかった

98NAME:2014/07/27(日) 13:13:21
GHQ幹部に共産主義者 英文書
「ノーマンは共産主義者」英断定 GHQ幹部 MI5、35年の留学時
2014.7.27 11:00
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140727/amr14072711000003-n1.htm

日本占領政策に影響

 カナダの外交官でGHQ(連合国軍総司令部)幹部だったハーバート・ノーマンが英ケンブリッジ大に留学していた1935年、英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者だと断定し、第二次大戦後の51年にカナダ政府に通報していたことが26日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。ノーマンは50年代にソ連のスパイ疑惑が持ち上がったが、MI5が既に戦前から共産主義者と断定していたことで、ノーマンが関わり、左翼的傾向が強かった初期のGHQの日本占領政策の再検証が求められそうだ。(編集委員 岡部伸)

 ノーマンはカナダ人宣教師の息子として長野県軽井沢町に生まれ、日本語も堪能で、GHQ内で強い発言力を持っていた。 秘密文書「ノーマン・ファイル」(分類番号KV2/3261)は、英国内のスパイ摘発や国家機密漏洩(ろうえい)阻止などの防諜を担うMI5などの文書のうち、「共産主義者とその共感者」と名付けられたカテゴリーに含められていた。

MI5のガイ・リッデル副長官がカナダ連邦騎馬警察(RCMP)のニコルソン長官にあてた51年10月9日付の書簡では、33〜35年にノーマンがケンブリッジ大学に留学中の共産主義活動に言及。「インド学生秘密共産主義グループを代表してインド人学生の共産主義への勧誘の責任者を務めていたノーマンが35年にイギリス共産党に深く関係していたことは疑いようがない」と記されている。この時期のノーマンは、33年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学して急進的な雰囲気に染まり、社会主義者クラブに参加していたことが知られている。 文書によると、MI5の断定の根拠となったのは、インド国外のインド人を監視するインドの情報機関「IPI」の調査だった。同機関は35年4月、卒業直前のノーマンがインド人学生を共産主義グループに勧誘する責任者を務めたことが断定できる複数の証拠や証言を入手し、MI5に提供。MI5は同年7月、ノーマンを共産主義者と見なしたが、この事実はカナダや米国政府には伏せられた。

ところが、50年に米上院でノーマンがソ連のスパイだという疑惑が浮上。さらに51年5月には、ノーマンと同じケンブリッジ大トリニティ・カレッジを同じころに卒業した英外務省高官のバージェンスとマクリーンが失踪し、同大在学中に共産主義に傾倒した5人によるソ連のスパイ網「ケンブリッジ5」の疑惑が浮上。MI5は、ノーマンはそこにつながる「ケンブリッジ・リング」の1人だという疑いを強め、51年10月に急遽(きゅうきょ)、RCMPに通報した。

 カナダ外務省は50年10月24日に同省高官だったノーマンを尋問したが、ノーマンは「共産党員だったことはなかった」と答え、その後も否定を繰り返した。 作家の工藤美代子氏は「世界有数の情報機関、MI5がケンブリッジ時代のノーマンを共産主義者と判断してカナダ政府に情報提供していた意義は大きい。冷戦時代に『赤狩り』といわれて不当な弾圧として非難されたマッカーシー上院議員の主張は、一般論としては正しかったことが裏付けられる」と語っている。

99NAME:2014/07/28(月) 01:37:35
稲田行革相「百人斬り訴訟」語る
稲田朋美行革担当相講演詳報 いわれなき誹謗中傷、慰安婦問題に断固反論し日本の名誉守る
2014.7.27 23:24
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140727/stt14072723240006-n1.htm

福岡市中央区の西鉄グランドホテルで26日に開かれた九州「正論」懇話会第113回講演会。行政改革担当相として安倍晋三内閣を支える稲田朋美氏が、慰安婦問題や公務員制度改革、クールジャパン戦略などについて語り、「日本を世界中から尊敬される国にしたい」と決意を述べた。

 みなさんこんにちは。日ごろお世話になっている人が福岡、九州には多く、お招きいただき本当に幸せに思います。 私はもともと大阪で弁護士をしていまして、ちょうど30年目を迎えました。弁護士として独立してから5年目のことです。主人が読んでいた雑誌「正論」に教育問題について投稿するようになり、それをきっかけに「百人斬り訴訟」に関わるようになりました。戦時中、中国人の100人斬り競争をやった−という、嘘の記事を基に、2人の日本軍将校が戦後の裁判で処刑されたのです。

 2人の将校、向井敏明少尉と野田毅少尉の遺族らを原告に、朝日新聞や毎日新聞、本多勝一さんらを相手に、(記事で遺族の名誉を毀損(きそん)されたことに対する)裁判を起こしました。最高裁で負けましたが、高裁判決文に「2人の将校が日本刀を抜いて競争した事実はとても信用できない」と書いてくれたのは大きなことでした。こうした経緯があり、産経新聞の正論欄の執筆者に抜擢(ばってき)され、平成17年から書き始めました。

 その記事を読まれた安倍晋三首相と、当時は自民党幹事長ですが、お会いする機会がありました。私は「小泉純一郎元首相の靖国参拝違憲訴訟は全国6カ所で起こされた。法曹界には『憲法教』という新興宗教がはびこっているので、1カ所くらいはおかしな判決を書く。すると(たとえ敗訴しても)原告側は控訴せず、『靖国参拝は憲法違反』という判決だけが残る寸法です」と説明しました。

 安倍首相がそれを覚えていてくれたのでしょう。平成17年の「郵政解散」により、私は福井1区から衆院選に出馬し、当選しました。 私が永田町に行ったのは、日本の名誉を守りたいからです。何も「南京で何もなかった」とか「あの戦争は正しかった」とか言いたいわけではなく、いわれなき誹謗(ひぼう)中傷には断固、反論する。そう思って国会議員になりました。

100NAME:2014/07/29(火) 21:00:56
マッカーサー 安全保障 証言
対訳 マッカーサー証言
http://www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。 いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。 彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。 日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。 したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。

※ 昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた質疑応答の一部

日本ほど実直に戦時国際法を守った国ってないんじゃないの?
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-1258.html

民間人殺し過ぎだろ米国。
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/img/c956ace0452d11a85b0b87fc8d17ee5d.jpg/

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マッカーサー「自衛戦争」証言
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1951-60/1951_makasa_shogen.html

フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやってきたとき、彼はその恨みを晴らすべく、「日本は悪いものだ」と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法をつくらせて日本を骨抜きにした。 ところが朝鮮戦争が起こって事態は一変する。そのとき彼は初めて東京裁判で弁護側が言ったことがすべて本当だったのだと気づく。そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、なんとか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。 マッカーサーは前年に東京裁判が誤りだったと発言している。

「バターン死の行進」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1942_batan_shinokoshin.html

フィリピンのアメリカ軍総司令官になったダグラス・マッカーサーは、自慢の航空部隊で十分に日本を抑えられると思ったところがコテンパンにやられ、数万の兵隊を置き去りにして自分だけがオーストラリアに逃げた。その置き去りにされた兵隊たちは、バターン半島で食べるものもなく、マラリアに侵されてフラフラになってしまった。放っておけばそのまま死んだわけだが、降参したために日本軍は山の中から基地のある場所まで自分たちの何倍もの数の兵隊を連れてこなければならなかった。日本軍にはトラックがなかったために、仕方なく歩いてもらった。その途中に、多くの死者が出たために「バターン死の行進」と呼ばれ、日本軍の残虐行為と非難されている。しかし、一番残虐だったのは置き去りにして逃げたマッカーサーである。マッカーサーは日本に対する恨みを持ったのだが、それはマッカーサーの逆恨みだった。

101NAME:2014/08/02(土) 09:21:36
「殺人者」「我々は日本と友好的すぎた」罵詈雑言で日本を酷評する中共メディアの“ヘイトスピーチ”
2014.8.2 07:00 (1/4ページ)
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140802/waf14080207000002-n1.htm

原爆投下を思わせる「きのこ雲」のイラストを書き込んだ日本地図を載せた中国重慶市にある共産党系の週刊紙報道は、中国の傍若無人ぶりを一層際立たせた。イラストの不見識ぶりだけではない。論評で、日本のことを「血塗られた手は乾いていない」「殺人者」と評し、「われわれは日本と友好的すぎたのではないか」とさえ言い切った。物騒な表現で煽り、さも原因は日本側にあると言い立てて、日本に負のイメージを植え付けるやり方は中国の常套(じょうとう)手段だ。断じて許してはいけない。

「日本の血塗られた手は乾いていない」

 報じたのは、中国共産党のエリート養成機関、共産主義青年団系の重慶青年報。ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は同紙の報道を詳細に伝えている。 広告記事で、「きのこ雲」は広島、長崎近くに描かれ、地図には「日本が再び戦争をしたがっている」と表題がついている。集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更を含む日本政府の閣議決定への批判のつもりだろうが、地図は被爆者への配慮を全く欠いている。だが、それ以上に論評は、隣国に向けたとは思えない傲岸ぶりを示した。

102NAME:2014/08/03(日) 20:46:51
地中海で再評価される日本艦隊
「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年
2014.8.3 18:00
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140803/erp14080318000002-n1.htm

地中海に浮かぶ小島マルタで第一次世界大戦中、英国の同盟国として参戦した日本海軍の功績を評価する動きが広がっている。忘れ去られた史実に光を当てようという試みだ。第一次大戦の開戦からちょうど百年となるのに合わせ、現地を訪れて日本人の足跡を探った。(マルタ 内藤泰朗、写真も)

戦利品はUボート

 マルタの港に停泊する日本海軍の艦船。敵から接収した潜水艦Uボートの甲板に並ぶ水兵たち。マルタの首都バレッタにある国立戦争博物館には、そんなモノクロ写真が展示されていた。「1917〜19年のマルタにおける日本帝国海軍」と題するコーナーができたのは数年前のことだという。 英国はドイツとの戦況が悪化する中、日英同盟を結んでいた日本に地中海への艦隊派遣を要請した。17年3月に駆逐艦8隻を派遣し、6月には先遣隊がマルタに到着した。 英国は当時、同盟国でありながら影響力拡大を図る日本を警戒し、不信感を解いてはいなかった。しかし、博物館にあった解説は、「日本艦隊の艦船数は最大時には17隻に達し、日本の海上支援の意義を否定する英国の見方は今日までになくなった。日本は大戦で重要な役割を果たした」と評価していた。

「誇らしい物語」

 18年春には、ドイツが欧州の西部戦線で大攻勢を開始し、英軍は中東などに展開する部隊を大量輸送する必要が出てきた。日本の艦隊は、788隻の連合国側の輸送船や病院船を護送し兵員70万人を輸送。敵のUボートと35回交戦し、駆逐艦「榊」が魚雷攻撃を受けて大破し、艦長ら59人が死亡するなどの犠牲も出た。 一方で日本艦隊は、Uボートの攻撃を受けた船から7千人以上を救出。人々に感謝され、戦後はUボート7隻を戦利品として日本まで運んだという。

 「日本艦隊の働きがなければ、英国は苦境に追い込まれていたかもしれない。そうした史実が知られていないのはおかしいと思い、コーナーをつくった。日本が地中海で果たした役割を忘れてはいけない」。国立戦争博物館のデボノ学芸員(35)が強調した。 第一次大戦に関連する小説を多数出版している英国出身の作家、C・W・ニコル氏は、編集に当たった「日本海軍地中海遠征記」(片岡覚太郎著)で、艦隊の地中海派遣は「日本人だれもが誇らしく思っていい物語だ」と記している。

薄れる存在感

 日本人水兵たちが眠る旧日本海軍戦没者墓地は、バレッタの港を望む小高い丘にある「英国軍墓地」の一角にあった。

白い慰霊塔には66人の名前が刻まれ、清掃も行き届いていた。第二次大戦の爆撃で破壊されたが、戦後に再建され、今も多くの日本人が訪れるという。昭和天皇も皇太子時代の21年に訪問された。 第一次大戦で戦勝国となった日本はその後、孤立の道を歩んで米国と衝突。第二次大戦では、かつて共に戦った英国やマルタとたもとを分かち、敵同士となった。 父親の代から在マルタ日本名誉総領事を務めるミフスッド氏(70)は、墓地や日本ゆかりの場所を案内しながら、マルタで日本の存在感が薄れ、中国が電力エネルギーや港湾分野に投資して急速に影響力を拡大していると明かした。 「日本と歴史的なつながりがあるマルタに、もう少し足を運んでほしい」。名誉総領事の日本人に向けたメッセージだ。

マルタ共和国 「地中海のへそ」と呼ばれる南欧の小国。人口約42万人。総面積は、淡路島の半分に当たる316平方キロ。地中海貿易で繁栄しイスラム帝国の支配下に置かれたが、16世紀に聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領に。18世紀末にはナポレオン軍が一時占領。19世紀初頭に英領となったが、1964年に独立。英連邦と欧州連合(EU)に加盟。宗教はカトリックが中心。

103NAME:2014/08/10(日) 23:31:37
1945年8月7日、広島への原爆投下を世界はどう報じたか
http://www.huffingtonpost.jp/2014/08/06/hiroshima-atomic-bomb_n_5655699.html

1945年8月7日、広島に原爆が投下された翌日、世界では新しい爆弾(原爆)に関する報道がトップ面で伝えられた。しかし日本では、原爆が投下されたことが暫くの間伏せられていた。 1945年8月7日午前1時30分(現地時間6日午前11時30分)、当時のアメリカのトルーマン大統領は「広島に投下された新型爆弾は、原子爆弾である」との声明を、世界に向けて発表した。広島に原爆が落とされてから16時間経ってからの発表だった。

すぐにアメリカ、イギリスをはじめとする世界のメディアが、トルーマン氏の声明を大々的に報じた。しかし、そのほとんどは連合国の国々によるものであったため、アメリカによる原爆投下を批判するものではなかった。ニューヨーク・タイムズは8月7日、1面から10ページにわたる特集を組んだ。トルーマン氏の声明全文のほか、イギリスのチャーチル前首相(当時)の声明、原爆の威力、アメリカの陸軍士官学校が原爆開発をリードしたことや、原子力兵器は戦争を早期に終結させるといった内容のオピニオンなどが、原爆を支持するような表現で、紙面に盛り込まれた。

イギリス紙のマンチェスター・ガーディアン紙(現ガーディアン紙)は、「アメリカとイギリスは、20億ドルが投じられた史上最大の科学上の賭けで、ドイツとの競争に勝利した」とするトルーマン氏の声明を紹介。「われわれは日本のどの都市であれ、これまで以上に迅速に破壊する態勢をとっている」とし、日本が降伏しなければ「空から破壊の弾雨が降り注ぐものと覚悟すべき」と警告する内容も合わせて報じた。ほかにも、「日本に原子爆弾」という簡単な内容の記事から、「原爆、ジャップを激震」というような刺激的な見出しの記事まで、各紙がトップニュースで広島への原爆投下を報じた。

これらの報道に対し、連合国のメディアに原爆投下への批判がなかったわけではない。一握りではあったが「残忍な行為だ」との意見も出ていた。フランス人の作家・アルベール・カミュが主筆を務めた『コンバ(Combat)』紙では、8月8日の社説に原爆への批判が掲載された。

世界がこんなもんだということは、こんなにちっぽけなものだということは、ラジオ、新聞、通信社が原爆について報じる大合唱のおかげで、昨日からもう世の中の誰もが知っているだろう。数々の熱にうかされたような記事のおかげで、どんな中都市でさえもサッカーボールほどの大きさの爆弾によって、完璧に破壊される可能性があるということがわかった。
 
アメリカやイギリス、フランスの新聞が、原爆について過去から未来まで、開発者のことや費用のこと、平和的使命、破壊効果、政治的影響などについて、素晴らしい論文を掲載しては拡散させていく。しかし我々は、次の一言で要約しよう。“機械文明は、既に『野蛮』というものの最終段階に到達した”と。(中略)もし、日本が広島の破壊によって圧力に屈して降伏するのであれば、それは喜ばしいことには違いない。しかし我々は、科学技術力をもった大国が小国をねじ伏せるような国際関係ではなく、対等で公平な国際関係を目指すことが重要であり、それ以外の結論を求めるべきではない。(コンバ紙「社説」より 1945年8月8日)

一方、トルーマン氏の声明発表を知った日本軍の大本営は、「新型爆弾」によって広島が「相当の被害」を受けたことだけを7日午後3時30分に発表するにとどまった。「アメリカによる虚構の謀略宣伝」との見方や、「国民の心理に強い衝撃を与える」などの理由から、原子爆弾であることは隠すべきだと判断したためだ。 大本営発表を受けて、日本の各紙も8日から広島の状況を詳しく報道しはじめたが、後に軍部の調査によって、投下された爆弾が原爆であることが確認されて緘口(かんこう)令が緩められるまで、各紙の表記は「新型爆弾」に統一されており、原爆の文字は見られなかった。

104NAME:2014/08/13(水) 00:56:27
名誉回復…沖縄集団自決“命令”の「汚名」着せられた梅沢元陸軍少佐、戦後日本の言論空間「日本軍=悪」と闘い逝く
2014.8.12 21:45
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140812/waf14081221450026-n1.htm

戦後69年の夏。今月6日、一人の「帝国軍人」が逝った。先の大戦末期の沖縄戦で座間味島の守備隊長を務めた元陸軍少佐で、住民に集団自決を命じたとする事実無根の「汚名」を着せられた梅沢裕(ゆたか)さん。「日本軍=冷酷非道な悪」という戦後日本の凝り固まった言論空間に抗い、軍人らしく戦い抜いた生涯だった。(牧野克也)

 梅沢さんは合理的な作戦を練る指揮官だった。沖縄戦以前に1人も戦死者を出さなかったことを誇りとし、沖縄戦に際しても「特攻はやらない」と犠牲を少しでも減らす作戦を上層部に提案、認めさせた逸話をもつ。そんな生粋の帝国軍人に理不尽なぬれぎぬが着せられた。 戦後まもなく刊行された「沖縄戦記・鉄の暴風」で、慶良間諸島の座間味、渡嘉敷両島で起きた集団自決は軍命令だった−と初めて記述され、次々と他の文献に引用された。ノーベル賞作家、大江健三郎氏も現地取材を一切しないまま自著「沖縄ノート」(岩波書店、昭和45年初版)に文献を引用し、名指しを避けながらも命令者を「戦争犯罪者」「罪の巨塊」などと指弾した。

真相は全く違う。米軍上陸の前日夜、自決用の弾薬や手榴(しゅりゅう)弾の提供を求めた村の助役ら5人に対し、梅沢さんは「死ぬことはない。避難してくれ」と断った。戦後、現場にいた伝令役の住民も同様の証言をし、5人のうち生き残った女性も弾薬の提供は受けられなかった、と告白した。 しかし昭和33年、隊長の自決命令を報じた「週刊朝日」の記事を初めて読んだ梅沢さんは驚き、苦しんだ。「お国のために戦ったのに、なぜ事実がゆがめられるのか」。それでも沖縄への慰霊の旅を続ける中、苦しい生活だった住民が援護法に基づく遺族補償を得るために軍命令という虚構を心ならずも創作した事実を聞く。ついに平成17年、記述を一向に改めない大江氏らを相手取り、名誉毀損(きそん)訴訟に踏み切った。

 1、2審敗訴、23年の最高裁決定でも上告を退けられた。ただ、最大の争点である自決命令の有無について、司法は「(命令は)証拠上断定できない」「真実性の証明があるとはいえない」と判断したのだ。真実性が揺らいでも名誉毀損が免責されたのは、集団自決への軍の深い関与と当時は軍命令が通説だったことを踏まえ、出版時は真実と信じる相当の理由があるとする「真実相当性」に加え、「表現の自由」を優先したに過ぎない。

兵庫県西宮市で10日に営まれた告別式で、訴訟を取材したジャーナリストの櫻井よしこ氏は「梅沢さんを苦しめたぬれぎぬは完全に晴れている」との弔辞を寄せた。 提訴から丸9年目にあたる今月5日、朝日新聞が朝鮮人慰安婦の強制連行を報じた記事の一部が虚偽だったと認めた。沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会代表の南木隆治さん(60)は弔辞で、慰安婦問題といわゆる「南京大虐殺」、集団自決の軍命令を念頭に、「わが国をおとしめる嘘の歴史は完全に正しく書き改められなければならない。梅沢さんはそのために、最後まで日本の名誉を守ろうと戦い続けてくださいました」とたたえた。 享年97。その誇り高き姿に、日本人の本来あるべき魂をみた。

 【座間味、渡嘉敷両島の集団自決】 沖縄戦開始直後の昭和20年3月下旬、両島に上陸した米軍に追い詰められた多数の住民が手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌や鍬などを使って自決した。死者は座間味島で約130人、渡嘉敷島で300人余りとされるが、正確な人数は分かっていない。

105NAME:2014/08/14(木) 22:31:47
戦場の島の洞窟に「辞世の句」を刻んだ旧日本軍兵士は誰なのか いまなお続く慰霊の捜索
2014.8.14 21:27
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140814/wlf14081421270039-n1.htm

15日、69回目の終戦の日を迎え、戦後70年目に入った。第二次大戦の激戦地、北マリアナ諸島のテニアン島。その洞窟(どうくつ)内の鍾乳柱に旧日本軍兵士が書き残したとみられる「辞世の句」が残されている。「句を刻んだのはいったい誰なのか」。45年前に句を見つけた元徳島戦没英霊顕彰会代表の森茂丸さん(66)=徳島県阿南市金刀比羅神社宮司=は今もなお、句の主を捜し続ける。「遠い異国で散った人々を供養したい。それが私の使命です」と語った。

 辞世の句が見つかったのは、島南部のカロリナス岬近くで地下壕として使われていた鍾乳洞。内部は段差のある4層構造になっており、句は3層目の鍾乳柱に刃物のようなもので刻まれ、現在も当時のままという。 柱には「昭和二十年7月六日書 此の台上ニ戦友散りて久し 我れ敗残乃身を生き長いて九ケ月」の文言の後に「親思ふ心にまさる 親心今日の訪づれ何と聞くらん」と幕末の偉人・吉田松陰の辞世の句の一節。そして「青森県青森市長島町」の地名と名前らしき文字が刻まれている。 45年前、大学生だった森さんは、厚生省(現厚生労働省)から遺骨収集団の一員として島に派遣された際に句を見つけた。昭和54年に徳島戦没英霊顕彰会を結成した森さんは戦没者の遺骨収集と慰霊を続け、10年前に再び洞窟に入り句を写真に収めた。

平成19年8月、「転機」があった。森さんの活動を新聞報道で知った青森県鶴田町の蒔苗(まかない)芳彦さん(65)から「句は私の母の兄が書き残したものでは」との連絡があったのだ。 蒔苗さんによると、母のきみさん(旧姓三橋)ら家族は戦時中、青森県青森市長島町に居住。母の兄、三橋剛(つよし)さんは20歳で出征する前、警察官の傍ら、詩吟や俳句をよく詠み、部屋の床の間には吉田松陰の句の掛け軸を掲げていた。きみさんは生前、新聞報道をみて「戦死した兄ではないか」と語っていたが、昨年5月に98歳で亡くなったという。

 森さんは話の内容から有力な情報だと判断し、調査を始めたが、青森市遺族会や護国神社などへの照会では長島町からテニアン島に出征した兵士の存在は確認できなかったうえ、昭和23年3月の青森県発行の戦死公報では、三橋さんは昭和20年にフィリピンのルソン島で戦死したとされていた。 森さんは「句の主は自決や餓死に追い込まれる直前に書いたのではないか。遠い異国で母親への思いを松陰の句に重ねたのだと思う」と思いをはせた。そのうえで、「青森の部隊が出征した島から別の島へ転戦したという情報もあり、句の主が三橋さんである可能性は捨てていないし、さらに調査を進めたい」と語った。

テニアン島 米自治領で北マリアナ諸島にある面積約100平方キロの島。かつて日本の委任統治領で多くの日本人が生活したが、第二次大戦では戦場となり、昭和19(1944)年に日本軍が玉砕した。大戦末期に民間人を含む多くの日本人が亡くなったほか、東京、大阪への空襲や20年(45)8月、広島と長崎に原爆を投下した米軍爆撃機が飛び立った。

106NAME:2014/08/15(金) 03:39:12
NHK「日本海軍 400時間の証言」第2回 特攻やましき沈黙(4)
http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/200908100000/

敗戦時、特攻作戦の責任をとって自殺した将官が2人います。1人は、今述べたように、公式には「特攻作戦の発案者」ということになっている大西滝次郎中将。そしてもう1人は(必ずしも特攻だけの責任をとったわけではないのかも知れませんが)敗戦時第五航空艦隊司令だった宇垣纏中将です。ただし、この2人の自殺の仕方はまったく対照的。大西は1人日本刀で自殺したけれど、宇垣は、何と彗星艦上爆撃機11機を連ねて、特攻に出撃してしまった。戦争が終わった後で、です。出撃した他の搭乗員は敗戦をまだ知らされていなかったようですが。自分一人で特攻の責任をとって命を絶つことは、それなりに意味があるかも知れませんが、戦争が終わっているのに、11機22人の搭乗員を道連れに自殺というのは正気の沙汰ではない。

その一方で、特攻作戦を発案する立場にいて、戦後はそのことについて何も語らず、航空幕僚長まで上り詰めた人物もおります。源田実です。源田と特攻について、Wikipediaに面白いエピソードがあったので紹介しておきます。源田は戦争末期、343空(第343海軍航空隊)の司令でしたが、この343空は最後まで特攻を行わなかった。しかし実は司令の源田は特攻をやらせようとして、飛行長の志賀淑雄少佐に断固拒否されたようです。特攻実施を迫る源田に対して、志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったのだそうです。

http://anago.2ch.net/test/read.cgi/asia/1359838810/
64 :日出づる処の名無し:2013/10/17(木) 17:11:05.68 ID:32kx+uqE
インタビューで志賀さん本人がそれを否定してる。

実際は、源田司令に対し、軍令部が特攻を出せと圧力をかけてきた際に、「特攻特攻と言う参謀(軍令部航空参謀の寺井義守)から行くべきだ」と言った志賀さんに源田司令も「全くだ」と答えられた。(NHK特集 紫電改 最後の戦闘機にて志賀さん本人が出演して語った。)

そして、源田司令は特攻やむなしとなった際に「私が一番機で行く」と言われ、自分より先に部下を特攻に出すことを認めなかった。志賀さんが死んだ後になって左翼がこの話を改竄して源田司令のネガキャンに利用しただけだ。志賀さんは文章でも映像でも源田さんが特攻反対だったことを証言している。

65 :日出づる処の名無し:2013/10/17(木) 17:21:47.43 ID:32kx+uqE
ではなぜ62のような改竄が志賀さんの死後行われたのか。これを最初に行ったのが佐藤守であり、その義父が特攻の圧力をかけた寺井義守参謀だった。寺井義守は戦後、史料調査会を立ち上げており、佐藤守も参加している。大西瀧治郎に責任を押しつけるために特攻の生みの親として宣伝したのも彼らである。

108NAME:2014/08/15(金) 03:50:30
●特攻の真意
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/history/tokkotaico/history.html

長官は、特攻によるレイテ防衛について、 『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。

フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した。

「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。

109NAME:2014/08/15(金) 16:17:38
最も悲惨な戦場インパールの真実
遺体の山、絶望の敗走「地獄だった」…最も悲惨な戦場「インパール」、生還者が証言する真実
2014.8.15 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140815/wlf14081507000003-n1.htm

参道沿いに樹齢千年以上の杉木立が続き、蝉時雨(せみしぐれ)が降り注いでいた。和歌山・高野山の奥の院。7月20日朝、ビルマ(現ミャンマー)のパゴダ(仏塔)を模した「ビルマ方面戦没英霊納骨塔」の前で、竹中直樹(95)=京都市北区=は約80人の参列者とともに、静かに手を合わせた。 塔には、第二次大戦中にビルマで戦没した日本将兵の遺骨が分骨されている。高野山で営まれる慰霊祭は今回で49回目。毎年参列している竹中は、強い日差しが照り付ける参道を、つえをつきながら一心に歩んだ。

 「みんなあそこで死んでしもうた」。ちょうど70年前、陸軍第15師団(通称・祭(まつり)兵団)歩兵60連隊の兵士だった竹中は、ビルマの山地を歩いていた。「(中国大陸では)負けること知らんかったから喜んで行ったら、とんでもない所やった。地獄やった」。竹中は、大戦で最も無謀といわれたインパール作戦からの数少ない生還者の一人だ。

 昭和19(1944)年3月15日、竹中らはインド東部の都市、インパール攻略のため、チンドウィン川を渡った。その先に、2千メートル級のアラカン山系がそびえていた。 連合軍の補給路遮断が目的だったビルマ戦線。戦局打開を狙ったインパール作戦では英領インドへの進攻を図ったが、当初から弾薬や食料の補給が困難だと反対する声が多かった。1日に必要な糧の10分の1程度の補給能力しかなく、道なき道が続く山岳地帯で地形的にも補給は難しかった。

兵站を軽んじた愚「現地調達」…兵が就寝中に餓死、英軍も逃亡防止で鎖を…

110NAME:2014/08/15(金) 16:19:17
結局、インパールを占領後に現地で糧を得るという方針が取られた。作戦を立案し、熱心に必要性を説いた第15軍司令官、牟田口(むたぐち)廉也(れんや)は、作戦中止を具申したり、独断で退却を始めたりした各師団長を次々と更迭して攻撃を続けた。しかし19年7月、行き詰まりの果てに作戦は失敗に終わる。 退却した竹中は、2カ月ぶりに後方部隊から食料をもらった。「みんな『飯や、飯や』ってね。後ろにいた兵隊が『(戦死した)あいつに一口食わしてやりたかったな』とつぶやいたんです」。補給がない日本軍にとって、戦闘だけでなく飢えと病も深刻だった。

 ビルマへの敗走路には力尽きた多くの将兵の屍(しかばね)が積もり「靖国街道」と呼ばれた。180人いた竹中の中隊は、50人を切った。 朝になると隣で寝ていた兵士が死んでいる。「人が死に、しばらくすると染み出た脂で軍服が真っ黒になる。ハエがたかり、目玉にウジが盛り上がってな。遺族には、そんな死に方をしたなんて言われへん…」

□   □

 竹中も、激しい戦闘で2回にわたり肩などを負傷した。紙に「病院」と記しただけの野戦病院に入院し、草の上に横たわった。幸い足をやられなかったため、再び隊に追いつけた。 そのまま居続けていたら命はなかったと確信している。「『患者を優先的に運ぶから心配するな』と言われても、気休めや。結局はおいてけぼりにされる」

 進軍途中、英軍の陣地で逃亡を防ぐため鎖につながれたままの傭兵(ようへい)らが死んでいるのを見た。「勝てばどんなことをしても官軍、負ければ最後まで賊軍や」。今も強い憤りを感じる。 作戦自体を無謀だったと考える。周囲の反対を押し切った牟田口に対する批判は大きい。「弾も食料も送らずにやれと言うばかり。わしらは『ムチャグチ』って言うてたんです」

「祖国を思い、死んで行った。多くの戦友のため、首相は靖国に…」

戦場では生死は紙一重だった。だからこそ、竹中は死んだ戦友を思う。「みんな国のために死んでいった。大事にすべきやし、首相には靖国神社に参ってほしい。わしは、当たり前やと思います」(敬称略)

 第二次大戦で最も悲惨な戦場といわれたインパール作戦。犠牲者だけでなく、生還者や遺族らも、70年もの間、つらい記憶の中にさらされ続けてきた。負の歴史の断面は、今を生きるわれわれも共有すべきではないか。過酷な戦闘を、失われた多くの命を思う関係者の話から振り返る。=続く

 【用語解説】インパール作戦 第二次大戦時、英軍の反攻拠点のインド・インパール占領を目的に、日本軍が昭和19年3月8日に始めた作戦。太平洋戦線などで劣勢に立たされる中、窮余の一策という政治的側面もあった。陸軍第15師団(祭兵団)、31師団(烈兵団)、33師団(弓兵団)の計10万人を投入。全軍壊滅状態に陥り、司令部は作戦続行に固執したが、31師団の独断退却を契機に同年7月、作戦を中止した。戦闘のほか、飢えやマラリア、赤痢で死者は3万人、戦傷病者は4万5千人に上り、無謀な作戦の代名詞とされる。

111NAME:2014/08/16(土) 16:10:25
「反省」今年も踏襲せず首相式辞
村山氏以降の「反省」、今年も踏襲せず 戦没者追悼式の首相式辞
2014.8.15 19:59
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140815/plc14081519590039-n1.htm

安倍晋三首相は15日の全国戦没者追悼式の式辞で、近年の歴代首相が使用してきたアジア諸国の人々に損害と苦痛を与えたとする「反省」を昨年に続いて踏襲しなかった。一方、新たに平和重視のフレーズを盛り込み、未来志向で世界の恒久平和に貢献する姿勢を訴えた。

首相は、集団的自衛権行使容認の閣議決定に対し「軍拡につながる」などと歪曲(わいきょく)した指摘が多いことを踏まえ、「私たちには変えてはならない道がある。今日はその平和への誓いを新たにする日だ」と平和路線を強調。7月にパプアニューギニアで先の大戦の激戦地を慰霊に訪れたことにも触れ、「いまだふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも決して忘れない」と戦没者の遺骨収集に意欲を示した。

首相の式辞をめぐっては平成5年に細川護煕(もりひろ)氏が初めて近隣諸国の犠牲者に「哀悼の意」を表明。6年の村山富市氏以降はアジア諸国への加害責任と「深い反省」にも言及していた。 一方、伊吹文明衆院議長は追悼の辞で、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺で軍事的圧力を強める中国などを念頭に「わが国を取り巻く国際環境も目まぐるしく変化し、力による現状変更の現実は予断を許さない状況だ」と述べた。

112NAME:2014/08/16(土) 20:13:52
インド:旧日本軍の残虐行為、印紙が報道
http://topics.jp.msn.com/world/topics.aspx?topicid=1999

「人肉食」も…旧日本軍のインド人捕虜への残虐行為、印紙報道 その背景とは
2014年8月15日 11:30 (NewSphere(ニュースフィア))
http://topics.jp.msn.com/world/general/article.aspx?articleid=5454416

日本とインドは、長らく友好関係を築いている。しかし、第2次世界大戦当時、インドはイギリスの植民地であり、連合国側に属していた。このインドの軍隊と、枢軸国であった日本とが、戦火を交えたこともあった。このとき、日本軍が捕虜として捉えた、インド軍将兵に対して行った残虐行為を、インドの英字日刊紙『タイムズ・オブ・インディア』が詳しく伝えている。

【日本軍が捕虜としたインド軍将兵に対する非人道的行為】 1942年2月15日、日本は、当時イギリス領だったシンガポールを陥落させた。このとき、英領インド軍(英印軍)の将兵4万人が日本軍の捕虜となった。そのうち約3万人は、イギリス支配に抗しインドの独立を目指すインド国民軍に入隊した。この軍の設立にあたっては、日本軍が中心となって動いた。

 しかし、入隊を拒んだ1万人は、日本軍の強制収容所での拷問を運命づけられた、と『タイムズ・オブ・インディア』は語る。収容所でのインド人捕虜の扱いは、非人道的なものだった。過重な労働、乏しい食料、絶え間ない暴行。そして捕虜が、生きたまま射撃訓練の標的とされることが、何度もあった、と記事は語る。 船で移送される際にも、寝る場所もないほど船室にすし詰めにされ、水や食料を満足に与えられず、目的地にたどり着く前に多くの者が死んだ、と記事は語っている。

【英印軍の将校らによる、日本軍の人肉食の証言】「しかし、日本軍が行ったあらゆる残虐行為の中で、最も戦慄を覚えさせるものは、彼らが人肉食を行ったことである」と記事は伝える。 英印軍のある将校はこのように告発にする。「Suaidという村で、日本軍の軍医が、周期的にインド人捕虜収容所を訪れて、毎回、最も健康な者たちを選び出した。その者たちは、表向きは任務を果たすためということで連れ去られたが、彼らは決して戻ることはなかった」。さらに日本軍は、インド人捕虜ばかりでなく、ニューギニアの現地人さえも殺害し、食していたと主張する。

 他の将校はこのように告発している。「自分と一緒にウェワク(の収容所)に行った300人のうち、50人だけがそこから出ることができた。19人は食べられた。日本人の医師――ツミサ中尉は、3、4人の小部隊を作り、インド人1人を何かの用事で収容所の外に遣わすのだった。日本人たちはすぐさま彼を殺害し、彼の体の肉を食べるのだった。肝臓、臀部の筋肉、大腿部、下肢、腕が切り取られ、調理されるのだった」。

113NAME:2014/08/16(土) 20:17:06
【その他にも証言、証拠があるという】 記事では、これらの告発内容についての裏付けは伝えられていないが、この他にもさまざまな証言があるという。しかもそれらは、連合国が設置した戦争犯罪調査委員会に対する、宣誓証言として行われたと伝えている。その証言に基づき、何人かの日本人将校とその部下が裁判にかけられた。人肉食によって有罪が宣告され、絞首刑に処された将校の名前を、記事は挙げている。訴えられた日本人は、これらの告発を常に否認したそうだ。

 1992年、田中利幸氏という日本人歴史家が、インド人や他の連合国側捕虜に対する、人肉食を含む、日本軍の残虐行為の明白な証拠を発見した、と記事は伝える(氏は現在、広島市立大学広島平和研究所教授)。その証拠がどのようなものかについて、記事は触れていない。氏は、1997年に『隠された惨事――第2次世界大戦における日本人の戦争犯罪』という本を英語で発表した。その本では、日本軍は食料の貯えが次第になくなったときに人肉食という手段に訴えた、という連合国側の下した判決が反論されているという。人肉食は上級将校の監督下で行われ、権力を表象化する手段として認識されていた、との主張だそうだ。

【英印軍の再評価の試みとも】 このように、日本軍が英印軍の捕虜に対して行った残虐行為の数々が、記事では列挙されている。しかし、記事の狙いは、日本軍の非道ぶりを暴くことだけではないようだ。 インドでは、インド国民軍は、イギリスからの独立に寄与した存在として、特別視されている。戦後、イギリスがインド国民軍将兵を裁判で裁こうとしたため、イギリスへの反感が爆発し、独立への機運が一気に高まった。その後、1947年8月15日にインドは独立を果たした。

 反面、英印軍に対する評価は芳しくないようだ。記事によると、インドのナショナリストが第2次世界大戦を語るときには、ずっと、インド国民軍と邪悪な大英帝国の衝突として描かれてきたという。その構図では、英印軍はイギリスの手先の悪役だ。しかし、英印軍将兵が、日本軍の捕虜となり拷問を受けた際にも、忠誠を守り続けたことは、注目に値する勇敢さだと、記事は語る。 記事は、この勇敢さ、不屈の精神を、英印軍だけのものでなく、インド人一般のものとして捉えようとしている。英印軍将兵の示した忠誠心も、実はイギリスに対する忠誠心ではなく、同胞や上官、自分の所属する部隊に対してのものだった。そして、この忠誠心と、インド国民としての強いアイデンティティーとが結び付いて、彼らをあらゆる種類の困難に耐え抜かせていたのかもしれない、と語る。そしてこのアイデンティティーこそが、英国による支配を揺り動かしたのだろうと、英印軍の中にも、独立に寄与するところがあったとほのめかしている。

 この記事を引用するかたちで、国際ビジネスニュースサイト『インターナショナル・ビジネス・タイムズ』(英国版)と、バングラデシュの『デイリー・スター』が取り上げている。前者は、人肉食を中心に、日本軍が行った戦争犯罪の非人道性に着目して、抜粋して伝えている。後者は、ほぼ人肉食のことだけを伝えている。

114NAME:2014/08/18(月) 22:09:34
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-2001.html
ルーズベルト大統領が戦争を欲していた事は疑う余地は無い
当時の米国は、ヨーロッパ戦線においては英国、アジアにおいては中華民国に多大な支援を行っていました。にも関わらず、ヨーロッパ戦線はヒトラー率いるドイツ軍、日中戦争は日本軍が優勢となっていた。ヨーロッパ・アジアともに、米国が支援した勢力が負けるというのは、避けたいところだった

国内の石油資本などからの突き上げもあったと 戦争が起これば、石油や石油関連製品は飛ぶように売れますから

米国は元々、満州の利権を狙っていたということもあります。植民地支配が流行だった当事(笑)、米国はここを植民地支配すべく動いていた。しかし、日本がそこにどっしりと居座っていたため、目障りだった

115NAME:2014/08/18(月) 23:18:28
「日米開戦」はチャーチルが仕組んだ
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library507.html

ABCD包囲陣に取り囲まれて、石油をはじめとする戦略物資がまったく入ってこなくなっていた。Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはオランダ(ダッチ) 「イギリスを救うためには、この戦争にアメリカを引きずりこむしかない」 だが、当時のアメリカは、とうてい参戦する見込みがない。というのも「第一次大戦のとき、連合国の一員として参戦したけれども、犠牲ばかり大きくて結局は何の見返りもなかったではないか。もうヨーロッパの戦争などごめんだ」という声が国民の間で圧倒的であったからだ。 アメリカが日本と戦争を始めれば、日本と同盟関係にあるドイツはアメリカと自動的に戦うことになる

このときの日本政府の計画では、開戦の30分前にはアメリカ国務省のコーデル・ハル長官に国交断絶の通告を渡すことになっていたようである。実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本の野村(吉三郎)駐米大使、来栖(三郎)特命全権大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである

このとき断交通知が遅れたことについては、戦後長い間「大使館員がタイプライターに不慣れなために予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うのである。  開戦前日(ワシントン時間12月6日)の午前中、外務省は野村大使に向けてパイロット・メッセージ(予告電報)を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にアメリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。

ところが、いったい何を血迷ったのか、この日本大使館の連中は一人残らず、夜になったら引き上げてしまったのである。すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行なわれることになっていたのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。  さて、運命の12月7日(ワシントン時間)、朝9時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これを見た武官が「何か大事な電報ではないのか」と大使館員に連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから

もし彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らかにしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはなかった。

今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説 「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです

当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解 そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになった

116NAME:2014/08/18(月) 23:37:39
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-2001.html
ルーズベルト大統領が戦争を欲していた事は疑う余地は無い
当時の米国は、ヨーロッパ戦線においては英国、アジアにおいては中華民国に多大な支援を行っていました。にも関わらず、ヨーロッパ戦線はヒトラー率いるドイツ軍、日中戦争は日本軍が優勢となっていた。ヨーロッパ・アジアともに、米国が支援した勢力が負けるというのは、避けたいところだった

国内の石油資本などからの突き上げもあったと 戦争が起これば、石油や石油関連製品は飛ぶように売れますから

米国は元々、満州の利権を狙っていたということもあります。植民地支配が流行だった当事(笑)、米国はここを植民地支配すべく動いていた。しかし、日本がそこにどっしりと居座っていたため、目障りだった

117NAME:2014/08/18(月) 23:40:55
通信兵は真っ暗な地下壕で頭上に米軍戦車の轟音を聞きながら、ただひたすら本土からの無線を待った…硫黄島の真実、生還した通信兵の証言(上)
2014.8.14 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140814/wlf14081407000003-n1.htm

「父親たちの星条旗」(2006年)は米軍の視点から、「硫黄島からの手紙」(同)は日本軍の視点から見た硫黄島の戦いをハリウッドの重鎮、クリント・イーストウッド監督が映画化。その苛烈さをスクリーンに甦らせ、現代人に平和と命の尊さを訴えた。「父親−」ではすり鉢山頂上に星条旗を立てた米海兵隊員ら、「硫黄島−」では日本陸軍の栗林忠道中将の人生が描かれる。死傷者の数は日米計約5万人。“画面に写らない登場人物”の中に生還した数少ない日本兵もいる。元通信兵、秋草鶴次さん(87)はその一人。戦闘を振り返って語る秋山さんは時折こらえきれず嗚咽した。死の淵から生還した通信兵の証言を3回シリーズで紹介したい。

行く先も知らずに着任した南洋の前線基地で

 食料も水もない過酷な南洋の孤島での戦いは凄惨さを極めた。日本兵約2万人のうち生存者はわずか4%。「人はどこまで生き延びることができるのだろう。これは自分に与えられた試練だ。自分は今、その耐久試験を受けているのだ。そう思って耐え続けていました」。通信兵、秋草さんは真っ暗な地下壕で、米軍の戦車のキャタピラの轟音を頭上に聞きながら、いつ届くともしれない本土からの無線を待っていた…。

 秋草さんは昭和2年、栃木県生まれ。17年に海軍の横須賀第二海兵団に入隊する。15歳だった。通信兵となるために連日、モールス信号の猛勉強に明け暮れたという。「まさに月・月・火・水・木・金・金。授業は厳しく身体で覚えました」 19年7月28日、秋草さんは通信兵として硫黄島に上陸する。 「実はどこへ着任するのかも、我々兵隊には知らされていませんでした。南洋の島を転々としながら向かった先が硫黄島だったんです。船から島へ上陸したとたん、いきなり米戦闘機からの銃撃を浴びました。いったい何が起こっているのかも分からない状況でした」と秋草さんは振り返る。

日米決戦を賭けた最重要戦略拠点

 第二次世界大戦で劣勢に立たされた日本にとって最後の砦ともいえる太平洋の前線基地が硫黄島だった。米軍との決戦を控え、同年6月、栗林忠道陸軍中将が着任していた。 水がほとんどなく、草木も生えない硫黄島は、名前の通り、地面のあちこちから硫黄ガスが吹き出る猛暑の島。作物が採れないため、水や食料などは持ち込むしかなく、人が暮らすだけでも過酷な環境だったという。 では、なぜこんなところに日本軍は基地を作り、さらに米軍は島を奪還するため、海軍の大艦隊や海兵隊を送り込んだのか。 東京とサイパン島のほぼ中間に位置する硫黄島は日米双方にとって戦略上の重要拠点だった。米軍にとっては日本本土まで爆撃機を飛ばせる中継基地であり、逆に日本にとっては本土空襲を阻止するため絶対に死守すべき場所であった。 島を包囲した米艦隊による艦砲射撃はすさまじく、島の外観が変形するほどだったと伝えられている。軍備に勝る米軍は「島は5日間で陥落できる」と考えていた。

地下要塞のゲリラ戦

 劣勢に立たされた栗林中将が立てた戦略は明確だった。「一日でも長くこの島を守り抜き、その間に日米和平交渉に持ち込む」。裏を返せば、物資も救援もない島で、勝てる見込みのない戦闘を続けるという悲壮な覚悟の末の戦略だった。

 栗林は玉砕を覚悟しながらも持久戦に持ち込む奇策に打って出る。

 750個の地下壕をトンネルで結び迷路のような地下要塞を築き、地下に潜みながら、上陸した米兵に奇襲をかけるゲリラ戦を立てたのだ。そして、部下には「万歳突撃」を禁じた。敵に簡単に命を投げ出すのではなく、できる限り生き延びて島を死守することを徹底して命じたのだ。 海軍の通信員として19年7月、島に上陸した秋草さんは米軍機の空襲を逃れたものの、途方に暮れた。 「島には木も畑もなく、人がいるのかどうかさえも分からない。ここは無人島かと思いました。海軍の基地がどこにあるのかも分からない。道を訪ねようにも人が誰もいないのですから」

 ようやく基地にたどり着いたが、その生活は過酷を極めた。 「食事はカンパン2〜3枚だけ。1週間に1回、ようやく蒸した米をかじれるような食生活でした。食堂もなく、いつも1人で食べていました」 通信室も地下にあり、常に地下壕での生活が続いたという。「暑いので夜は外で寝るのですが、米軍の空襲の度に地下へ戻って寝ました。しかし、床は泥だらけ、それに暑くて、ろくに寝れませんでした」 そして20年2月19日、米海兵隊は硫黄島への上陸を開始する。

118NAME:2014/08/18(月) 23:43:50
すり鉢山の星条旗、翌日日の丸に
爆撃、銃撃、籠城、山頂を奪い合い、毎日「星条旗」倒して「日の丸」を立てた……硫黄島の真実、生還した通信兵の証言(中)
2014.8.18 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140818/wlf14081807000001-n1.htm

日米戦史の中でも最も苛烈な戦いのひとつとして現代まで語り継がれる硫黄島の戦い。日米合わせて計約5万人が死傷。日本兵約2万人のうち96%の兵士が戦死したこの戦いをテーマに、ハリウッドの重鎮、クリント・イーストウッド監督は2本の映画を製作している。 当初は米軍側の視点から描く「父親たちの星条旗」(2006年公開)のみを考えていたが、その準備中、日本側の視点から描く「硫黄島からの手紙」(同)の映画化を決意した。イーストウッド監督は、日米双方の視点から描かなければ伝えられないものがこの戦いにはある−と考えたからだ。

星条旗→日の丸→星条旗…山頂争奪戦に「早晩みんな死んでしまうのに…」

すり鉢山争奪…孤島の日米決戦 双方の視点から

 すり鉢山山頂に星条旗を掲げた米兵士たちは帰国後、米国民にとって英雄として迎えられるが、彼らにとって、その“栄光”は苦痛でしかなかったことが「父親−」では描かれる。 一方、星条旗が立てられる様子を地下壕から双眼鏡で確認し、「ここからが本当の戦争だ」と覚悟する栗林忠道中将ら、地下壕を使ってゲリラ戦を展開する日本兵側の視点から「硫黄島−」は描かれる…。 「星条旗が立てられた翌日、山を見ると日本兵の手で日の丸の旗が立てられていました。しかし、その日のうちに星条旗に変えられていました。が、翌日、山を見ると、また日の丸の旗に変わっていたんです…」 絶望的ともいえるこの戦場から生還した元通信兵、秋草鶴次さん(87)は地下壕の中から、すり鉢山の激しい争奪戦をつぶさに見ていた。 「遠くで、うごめく兵士たちの姿はまるでアリのようでした」。そして絶望の淵で、こんな考えが頭をよぎったという。「遅かれ、早かれ、みんな死んでしまうのだろうに頑張っているなあ…」と。

「電波発信すれば場所を探知されてしまう」

昭和20(1945)年2月19日、米海兵隊、米海軍は硫黄島への上陸を開始する。 この米軍の上陸直前、秋草さんは不思議な光景を目撃していた。「米軍機が上空から何か“白いもの”を撒(ま)いてきたんです。何だろうとよく見たら、殺虫剤のDDTだったんです」

5日で終結のはずが…

 上陸に際し、日本軍から激しい攻撃を受けると覚悟していた米軍は、あっさりと上陸に成功。23日、米兵はすり鉢山山頂に星条旗を立てる。ここまでは、当初、「5日で陥落できる」と目論んでいた米軍の筋書き通りの展開だった。 だが、ここから日米戦史上、最も過酷で凄惨な戦闘のひとつとして語り継がれることになる死闘が始まるのだ。 地下壕に潜む秋草さんたち通信兵にとっては、なおさら辛い戦いだったという。「長い無線を使えないんです。電波を発信すれば敵に場所を探知されてしまいますから」 戦おうにも戦えない。そんな消耗戦のような状況に秋草さんは耐えなければならなかった。

ようやく1機たどりついた特攻の機体は艦砲射撃で…

米軍による攻撃は夜中も休みなく続いたという。「地下壕は暑くて苦しいので、辺りが暗くなる夜に我々は外へ出るのですが、米軍はそれを狙い、地下壕から外へ出たとたん、銃撃してくるのです。真夜中も常に米軍による照明弾が上がっていました」 食料、弾薬、医薬品などの救援物資も届かなかったという。「島に病院はあるにはあったのですが名ばかりで、各隊が持っている包帯や薬などが無くなればそれきりです。補充がないのですから」

島で待った特攻機の最期

 戦闘が続く中、ある日、秋草さんは「日本本土から特攻機8機が硫黄島へ向けて出撃」という無線を傍受する。 しかし途中、「4機が引き返し、3機が行方不明…」という無線を聞く。夜になってようやく島にたどり着いた1機は、米艦隊のサーチライトを浴び、激しい艦砲射撃で被弾。秋草さんは、日の丸の半分が焼け落ちた機体が海面に墜落し、水柱を上げる光景を見て、こう思ったという。 「硫黄島へ向けて出撃した時点で、もう日本へ生きては帰れないことを、あの機体の搭乗員は覚悟していたのです。私があの日見た水柱、あれは人柱だったのです」 米軍が「5日で陥落する」と想定した硫黄島の戦いは、日本軍の粘りで37日間続いた。

119NAME:2014/08/18(月) 23:44:59
【インパール作戦70年(2)】
敗走、血が出る腹を押えていたあいつはどうしただろう、飯さえ食えばおぶれたのに…補給なき戦い、絶望の飢え
2014.8.16 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140816/wlf14081607000008-n1.htm

「そりゃ、ひどうおました。命は一つしかないのに、ひたすら突撃だけやった」。祭(まつり)兵団の歩兵60連隊機関銃中隊員としてインパール作戦に臨んだ西川慶三(93)=京都市北区。胸中に、あの戦闘の凄惨(せいさん)さは「行った者にしか分からない」という思いがあり、だからこそ「なんぼ説明しても分からへんやろうし、想像できひんやろう」と口を閉ざしがちだった。

 天長節(昭和天皇の誕生日、4月29日)までにインパールを攻略せよとの命令を受け、西川らもアラカン山系に踏み入った。山を越えても、また次の山が立ちはだかる。馬の背に武器を積んだが、険しすぎて馬が上がれない。結局、人間が荷を担いで山を越えた。 行軍中、敵はすぐに退散し、順調かと思えた。だが、それはインパールに日本軍をおびき寄せる作戦だった。眼下にようやくインパールの街の灯が見えたころ、圧倒的な敵軍が待ち構えていた。兵器の違いは一目瞭然(りょうぜん)だった。 戦車がそり立つように丘陵の傾斜に迫る。「こんなもん、機関銃の弾でどうして止めるねん」。険しい山々を越えてきた日本軍は大砲を持参していなかった。 戦車に肉薄して下部に爆弾を入れ、爆発させてもびくともしない。一瞬止まるが、すぐに進んでくる。敵の猛攻に前進も後退もできないまま、死傷者だけが増えていった。 弾薬が尽きかけ、何度も無線で後方部隊に応援を頼んだが、返事はない。「お前らはそこで死ねというこっちゃ」と感じた。

 そんな中「勝ち目はないが、俺が戦車を食い止める」と中隊長が告げた。無謀だと止めたが、中隊長は重機関銃を撃ち続け、果敢に敵に向かって進み、戦車砲の直撃を受けた。「砂ぼこりが上がって、中隊長を探したけど何もなかった。横から弾を入れていた同年兵も一緒に死にました」

「まだ生きている兵にガソリン、焼かれる…息を潜めてじっと見ていた」

120NAME:2014/08/18(月) 23:46:15
中隊長は陸軍大将の子息で、陸軍幼年学校から士官学校に進んだエリートだった。「死ぬことをいとわないほんまの軍人や」と今でも思う。中隊長が戦死し、西川は「何もかもがいやになった」という。 人間の所業とは思えないようなむごい光景も目にした。西川が退却して川を渡った際、対岸には歩けない負傷者が残されていた。そこに敵の車両が現れ、敵兵が液体をまき、ライターで着火すると、一気に炎に包まれた。液体はガソリンだった。「まだ生きている兵隊さんが焼かれるのを、息を潜めてじっと見ているだけでした」

 敗走する西川らに、雨期が追い打ちをかけた。作戦開始時に水がなかった川は濁流となり、川幅は数百メートルに及んだ。食料はとうに尽き果て、飢えで体力を消耗し、軍刀も重さに耐え切れず半分に折った。 腰に手榴(しゅりゅう)弾を1個つるし、戦闘で負傷した左足を引きずりながらつえにすがって歩いた。道端には多くの兵隊が座り込んだり、倒れたりしていたが、どうにもできなかった。 作戦開始時に渡ったチンドウィン川を渡り終えたところで意識を失った。「血が出る腹を手で押さえていたあいつはどうしたやろうと、今でも思います。飯さえ食えていたら、おぶっていったが…」。70年の時を経ても悔しさが消えない。

第二次大戦での日本の戦没者数は300万人余り。うち8割が、戦況が悪化した昭和19年以降に亡くなったとされる。中国大陸での戦いでは、重機関銃も突撃も有効だったが、米英など連合軍との戦闘では通用しなかった。「兵器が違いすぎて戦(いくさ)にならない。なんでもっと早く戦争をやめると決断しなかったのか」 西川は毎朝、庭に出て、ビルマに向けて経を唱える。年に数回は自転車で約1時間かけて京都・東山の慰霊碑を詣でる。今月15日の終戦の日にも、慰霊碑に手を合わせる。 「みんな、帰りたくて帰りたくて、たまらんはずや」。西川の悲痛なつぶやきに、ビルマ戦線から生還した兵士たちの思いが重なり合っている。

121NAME:2014/08/19(火) 00:26:56
http://www.inahodou.co.jp/index.8.html
日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結んで枢軸国陣営として、アメリカ・イギリスなどの連合国陣営と対立した。その一方、アジアにおいては、太平洋戦争を「白色人種による支配からの有色人種の解放戦争」として位置づけようとした。日本は自らをアジアの解放者に仕立てようとしたのだ。しかし、アメリカはこの戦争が「有色人種対白色人種」の戦いととられることを避けようとした。アメリカは自分たちが正義のために戦争をしているということを世界にアピールしようとしたのだ。アメリカは「民主主義対ファシズム」の戦いとしてこの戦争を位置づけようとした。そして、自分たちをファシズム支配からの解放者に仕立てようとした。

 しかし、アメリカの同盟国のイギリスやフランス、オランダなどは、アジアに広大な植民地をもつ白色人種の国家だった。そこで、アメリカはなんとしても、中国を自分たちの陣営に引き込まなければならなくなった。もし、中国がアメリカ陣営から離れて日本と手を結んでしまえば、この戦争は日本がもくろんでいる「有色人種対白色人種」の戦いになってしまうのだ。

122NAME:2014/08/19(火) 00:40:03
幽霊のよう…息を呑む敗残兵の姿
【インパール作戦70年(3)】
幽霊のような敗残兵の姿、人間はここまでなるのかと息を呑んだ…極限の戦闘「しまいには人の心はなくなった」
2014.8.17 18:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140817/wlf14081718000008-n1.htm

ビルマ(現ミャンマー)での戦闘で、歩兵168連隊の分隊長を務めた今里淑郎(しゅくろう)(92)=兵庫県宝塚市=には、忘れられない光景がある。 1人の兵士が、木にもたれて手に持った写真を見つめていた。声をかけ、肩に触れると、そのまま横に倒れ込んだ。兵士はすでに死亡し、写真には幼子が写っていた。「気持ちを思えば哀れでね。彼の胸ポケットにしまいました」

 インパール作戦を含むビルマ戦線は、もともと日本と戦う蒋介石の国民党政府に米英など連合軍が軍需品を支援する「援蒋ルート」の遮断が目的だった。 日本軍は昭和16(1941)年の開戦後、間もなく英領ビルマに進攻し、17年5月に全域を制圧した。しかし、圧倒的な兵力をもつ連合軍の激烈な反攻に遭い、終戦まで続いた戦いで、投入した30万人の6割にあたる18万人が戦死したとされる。 極限の戦闘は、兵士たちに無力感と耐え難い記憶をとどめさせた。

 昭和19年夏、ビルマ北部を目指していた今里は、裸同然で飯盒(はんごう)だけを持った人間がふらふらと現れ、次々と倒れて息絶える様子を目にした。インパール作戦の敗残兵だった。「幽霊のような姿で、ここまでなるのかと衝撃を受けた」。日本が勝っているとばかり思っていた中で、現実を突きつけられた。 「いっそ殺してくれ」という悲壮な懇願を聞くこともあった。「水筒の水を飲ませるので精いっぱいだった」。上官から「自決用に手榴弾(しゅりゅうだん)を渡すな」と命じられたが、武器が少ないからというのが理由だった。

精神論、負け戦と知ってて…今も脳裏に「上空、我らの死を待つハゲタカ…」

今里の連隊も20年3月、敵の大戦車団に包囲されて全滅した。補給もない中で「前進を」と精神論が振りかざされた戦地。死線をさまよった末に生還すると、戦後には「なぜ負け戦に行ったのか」と批判めいた声を聞くこともあった。 今里は悔しさを込めて語った。「国の定めに従う、そういう時代だった」

 インパール作戦に参加した黒部邦夫(93)=大阪市城東区=は、羽をばたつかせながら将兵の死を待つハゲタカの姿が頭から離れない。「木の上にいて、兵隊が死ぬと、さーっと降りてくるんや」 当初から補給が問題視されたインパール作戦で、黒部は弾薬や食料の輸送を担当する連隊の一員だったが、弾薬を運んだのは一度きりだった。「上の人たちは『日本人は草食動物だから。山には草がなんぼでもある』と言うたらしいが、そんなばかな話があるか」。憤りは今も消えない。 インパールから敗走する日本兵は現地の雨期にも苦しめられた。山の斜面を滝のように雨が流れる。黒部らは、撤退当初は脱落兵を迎えに行ったが、力尽き、徐々にできなくなった。「しまいには、地獄というか、人の心はなくなった」と黒部はつぶやく。

123NAME:2014/08/19(火) 00:40:37
 過酷なビルマ戦線を体験した兵士たちは、胸中に喪失感と深い傷を負ったまま、70年の歳月と向き合ってきた。 九州出身者で編成された精鋭部隊の第18師団(菊兵団)。皇室の紋章である菊の名が与えられていることが、砲兵の石橋金丸(93)=福岡市東区=には大きな誇りだった。

ビルマ人も避けた「死の谷」あえて進軍…生存2割、「もう誰もおらんばい」

「死は突然襲ってくる。それでも職務を全うしなければならなかった」。強力な部隊だったが、昭和18年秋、敵の進撃を阻止する目的で、地元でも「死の谷」と恐れられたビルマ北部のフーコン谷地へ入り、兵団の8割が命を落とした。 石橋は戦後、運送会社を営むなどして一家4人を支えてきたが、戦地での生々しい記憶については家族にも口を閉ざしてきた。一方で、生死の境をともにした戦友の存在は特別だった。戦後、生還者が集まり戦友会を結成。石橋は長らく事務局長として運営に携わり、毎年慰霊祭を営んだ。 「死んだ戦友を忘れたことはない」。石橋は、戦死した兵士らとともに激動の昭和、平成を生きてきた。

 戦友会の活動は約半世紀続いたが、高齢化で先立つメンバーが相次ぎ、解散した。その後も生還者同士の交流は続いたが、次第に連絡が取れなくなった。今は自宅で一人、手を合わせて亡き戦友を弔っている。 「もう誰もおらんばい」石橋の言葉に、寂しさがにじんだ。(敬称略)

 【用語解説】インパール作戦 第二次大戦時、英軍の反攻拠点のインド・インパール占領を目的に、日本軍が昭和19年3月8日に始めた作戦。太平洋戦線などで劣勢に立たされる中、窮余の一策という政治的側面もあった。陸軍第15師団(祭兵団)、31師団(烈兵団)、33師団(弓兵団)の計10万人を投入。全軍壊滅状態に陥り、司令部は作戦続行に固執したが、31師団の独断退却を契機に同年7月、作戦を中止した。戦闘のほか、飢えやマラリア、赤痢で死者は3万人、戦傷病者は4万5千人に上り、無謀な作戦の代名詞とされる。

124NAME:2014/08/21(木) 10:09:19
天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長
‏@tenseikaikaityo
https://twitter.com/tenseikaikaityo/status/496802432370745344
【過ち】
パール判事はこの碑文を見て
「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時プロパガンダのデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」「東京裁判の影響は原爆の被害より甚大だ」の言葉を残しています。

125NAME:2014/08/24(日) 03:03:51
泣きながら抜いた、遺体に刺さった無数のガラス片…「模擬原爆」は料亭に落ち、庭石が飛んだ
2014.8.23 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140823/wlf14082307000004-n1.htm

米軍が広島や長崎の原爆投下の前後に、訓練のため全国30都市に計49発を落としたとされる「模擬原爆」。重さ4・5トンの強力な兵器で、400人以上を死に至らしめた。 大阪市東住吉区に投下された昭和20年7月26日朝、広野国民学校(現・大阪市立摂陽中学校)の教師だった龍野繁子さん(89)は、着弾地点から約150メートルの町工場にいた。当時21歳。勤労動員で生徒約20人を引率していた。

爆風で飛ばされた庭石

 午前9時前に工場に到着。この日は海軍の制服のボタンを作ることになっていたが、工場主から「先生、今日も材料が入ってこないねん。勉強してください」と言われた。 〈若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨(いかり)−〉と軍歌にも歌われた誇らしいボタンだったが、戦況は厳しく、材料調達すらままならなくなっていた。 2階の空き部屋にいた生徒たちを隣の部屋に集め、「さあ国語にしようか、算数にしようか」と授業を始めようとしたときだった。

バリバリバリ…ドスンという音が間近で響いた。直径1メートルを超える巨石が空から降ってきて、さっきまでいた空き部屋の天井と床を突き抜けたのだ。模擬原爆が落ちた料亭「金剛荘」の日本庭園から、爆風で吹き飛ばされた庭石だった。

背中に刺さった無数のガラス片

 幸い生徒らにけがはなかったが、金剛荘周辺は悲惨な状態だった。 電線には、爆風で吹き上げられた布団や二つ折りになった畳とともに、人の内臓が引っ掛かっている。死傷者の収容所となった小学校の講堂では、トタンの上に、バラバラになった遺体が並べられていた。 自宅に戻ると「トシちゃん」と呼んでいた姉の親友の遺体がうつぶせに寝かされ、姉と母が泣きながら背中に刺さった無数のガラス片を一つずつ抜いていた。

 姉と母の話では、龍野さんが家を出た後、米軍爆撃機B29の飛来を知らせる警戒警報が発令された。結核を患っていた姉に薬を届けに来てくれていたトシちゃんは「(夫が)隣組の組長をしているから、帰らなあかん」と家を出た。爆弾が落ちる直前まで、路上で「警戒警報、きーつけて」と叫んでいたトシちゃん。爆風で体ごと飛ばされ、がれきの中から遺体で見つかった。

封印の記憶を語り継ぐ

 「世の中が落ち着くにつれ、あの日の惨状を思いだすことから逃げていました」。龍野さんは、数年前に友人から体験を書き残すよう勧められたことをきっかけに、封印していた記憶をたぐり寄せ、機会があるごとに当時の様子を語るようになった。 模擬原爆をめぐっては、東住吉区の市民グループ「7・26田辺模擬原爆追悼実行委員会」も、惨状を語り継ぐ取り組みを続けている。 同区田辺にある着弾跡地の碑の前では、今年も7月26日午前9時から、追悼の集いが行われた。

126NAME:2014/09/02(火) 20:14:56
「東京裁判で果たしたパール判事の役割忘れない」 モディ首相
2014.9.2 11:22 [インド]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140902/plc14090211220011-n1.htm

 インドのモディ首相は1日夜の安倍晋三首相との夕食会で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で判事を務め、被告全員の無罪を訴えたパール判事の話題に触れ、その功績をたたえた。 モディ氏はスピーチで「インド人が日本に来てパール判事の話をすると尊敬される。自慢できることだ。パール判事が東京裁判で果たした役割はわれわれも忘れていない」と述べた。

 首相は第1次政権時代の平成19年8月にインドを訪問した際、パール判事の長男、プロシャント・パール氏と面会している。首相の判事への思い入れは強く、両首脳は「歴史」を通じてさらに友情を深めた。 インドのパール判事は東京裁判に対する意見書で、戦勝国が事後法により敗戦国を裁くことに疑問を提起し、原爆投下を批判した人物として知られる。

128NAME:2014/09/06(土) 02:58:52
通州事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

「関東軍の誤爆」冀東保安隊(きとうほあんたい)は日本軍の指揮監督下にあり、日本側は中国第29軍に対し撤退を求める最後通告を行ったが回答はなかったため、壊滅させた この際誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆撃し、数名の保安隊員が死亡 日本側は陳謝し、賠償に誠意を尽くした → 「国民政府によるデマ放送」中華国民政府はラジオ放送を行い「日本軍は29軍に惨敗し29軍は冀東保安隊を攻撃する」と報じ、冀東保安隊は、第29軍首脳部によって買収され、あるいは使嗾され、またあるいはその宣伝に判断を誤り[42]、(冀東保安隊が中国側に寝返る)通州の日本部隊が僅かであることに乗じ、1937年7月29日午前2時、冀東保安第一総隊(2,000名)、第二総隊(2,000名)、教導総隊(1,300名)及び警衛大隊(500名)からなる5,800名による反乱を起こした[43]。

中華民国の軍人、冀東保安隊の指揮官、張慶余(ちょうけいよ)は、29軍の通州攻撃を防ぐために開かれた軍事会議上で分散していた配下の保安隊を通州に集結させることを提案 保安隊の監督を担当していた日本軍中佐も日本人保護のためと認識してこれを了承 保安隊が集結し準備が整うと深夜に通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断すると決起した

日本軍は壊滅、在留日本人385名のうち223名が虐殺 日本軍守備隊は留守部隊 保安隊の装備が遥かに優れていたため日本軍守備隊は死傷者が続出 これは、29軍の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部が一斉に蜂起し日本側を攻撃したものであるとされる

通州事件による日本官民の被害に関しては、冀東防共自治政府が損害賠償をすることになり、同年12月24日池宗墨長官自ら北京日本大使館に森島参事官を訪問の上、賠償金120万円を手交し、事件の解決となった[46]。

ねずさんの ひとりごと 通州事件から学ぶべきこと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1962.html

通州事件では、船津工作といって、邦人被害について日本は全部目をつむる。それまでの支那の要望を全部受け入れる。だから仲良くしましょうという案を、日本は支那に提示しています。

ところがその和平調印の当日、大山中尉虐殺事件が起こり、第二次上海事変にまで至ってしまっています。日本が、仲良くしようと平和を望んだことが、逆に、戦乱を招いてしまっているのです。これは歴史の教訓といえるのではないでしょうか。

逆に、なぜこのとき通州にいた邦人が狙われ、欧州人は狙われなかったのか。ここは、非常に大切なポイントだと思います。「やったらやり返す」という言葉があります。「やり返す」というのは、もちろん暴力行為ですが、やられたから「やり返した」というのは、国際社会では、正当な行為です。欧米人は、やられたら必ずやり返します。実にシンプルな話なのです。だから襲われない。

なぜこの事件が起こったかといえば、それは中国共産党の策謀 欧州の列強各国は意外に手強い。そこで欧州各国の富の源泉となっているアジアをまず共産党の支配下に置く、そのために、まずは混迷の続く支那を共産主義化することを、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定

ただでさえ混乱し、いわば無政府状態となって、さまざまな勢力が新たな王朝を築こうとしている、まさに混迷した情況下にある地域であり、しかもソ連と国境を接し、国土は広大で人口も多く、人が人を殺すことを何とも思わない。悪魔が天使の顔をして入り込むのに、これほど好都合な国は他になかった

129NAME:2014/09/09(火) 00:45:14
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8724552.html
>反戦志向は当然なのですが、そもそも大東亜戦争は悪かったのか。自衛戦争してなければ日本は侵略されていたのだから、自衛が悪いわけが無い。ゆえに日本は反省する必要は無い。つまり、自衛が不要と言う左翼さんは、不要なのです。

大東亜戦争が拡大したのはアメリカの参戦です。その前にアメリカはABCD包囲網で日本に鉄鉱石と石油の輸出を止めました。今のシーレーン途絶よりはるかに過酷です。それでやむなく真珠湾に殴り込みました。少なくとも太平洋戦争は自衛の戦争です。侵略戦争ではありません。フィリピン、シンガポール、ジャワなどを攻めたのは侵略ではなく、植民地宗主国への攻撃です。それらの国の主権も奪わなかったし、資源搾取もしていません。その点で日本は反省する必要はありませんが、戦い方が拙劣だったのは大いに反省すべきです。A級戦犯に罪があるとすればこの点に限ります。

>しかし左翼さんの意見って、中国朝鮮人の意見とまったく重なりますね。中国朝鮮人さんらが日本の集団的自衛権行使に反対するのは、それが彼らの国益に繋がるから分かりますが、日本の左翼は日本人なのですかね。(笑)

ソ連健在の頃、コミンテルンという共産主義拡大を目指した国際組織がありました。日本にも大いに影響を及ぼし、共産主義者や反政府勢力を増やしました。今の左翼新聞や一部大学教授、日教組、労働組合はそれのなれの果てで、いまだにコミンテルンの催眠術が消えていません。彼らの潜在的要求は反政府共産革命です。それが中韓の反日と波長が合っているのです。朝日の従軍慰安婦報道はその一つです。日本国民の気力を萎えさせ、政治権力を奪取するのが目的です。日本人ではありますが、日本の国益は眼中にありません。朝日新聞を見ていればよく分かるでしょう。

130NAME:2014/09/21(日) 01:03:47
フィリピン・マバラカットの神風特別攻撃隊慰霊碑
http://ameblo.jp/zero21nk/entry-11465175050.html

門司親徳(元海軍主計少佐・第一航空艦隊副官)はまた、毎月十万円強、支給される軍人恩給の全額を、フィリピン・ルソン島マバラカット東飛行場跡に建てられた特攻隊慰霊碑を管理する「カミカゼ・メモリアル・ソサエティ」(KAMESO)のダニエル・ディソンをはじめ、特攻隊の慰霊に関わる各団体に寄付し続けた。

フィリピン人有志が建ててくれた慰霊碑だが、その維持管理にかかる費用を、彼らの善意だけに任せるわけにはいかない。 ところが、平成三年六月十五日、ピナツボ山が、二十世紀最大規模ともいわれる大噴火を起こし、クラーク・フィールドをはじめ山麓の一帯は、激しい降灰と火砕流とで大きな被害を受けた。
 いまだ回収されない多くの日本軍将兵の遺骨は火山灰の下に永久に沈み、ディソンの建てた特攻隊慰霊碑も、噴火に続いて起きた土石流で跡形もなく流されてしまった。

客寄せの経済効果のためにつくるような碑なら、つくってくれなくてもいい。これが門司の意見だった。 二つの記念碑は、いまも道路とフィリピン国鉄の線路を隔てて三百メートルほどのところにあり、慰霊祭は同じ日に別々に行なわれている。 「慰霊顕彰してくれるのはありがたいけど、『元祖』と『本家』がいがみ合うようになっちゃ、おもしろくない。なんでもそうだけど、心の問題にお金や商売がからんでくるとみっともなくなっちゃうね」

131NAME:2014/09/21(日) 13:53:12
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7641175.html
最初の一発は真珠湾攻撃だったと云われますが、そんなことはありません。米国人シェンノートを中心とする米国製の最新戦闘機をそろえた「フライイング・タイガース」をシナに送り込んで日本と戦闘させていましたから、これはもう立派な無宣告戦闘行為です。それでも米国との通商を必要とした日本は何も文句を云わず、耐え忍びました。
結論として言えることは、原爆投下に至る主因は、米国の強欲なアジア進出と日本の拙劣な外交です。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とのビスマルクの名言がありますが、東京裁判史観、中韓の易姓革命史観、社会主義者の左翼偏向史観に振り回されている日本は、早くこれらから脱却し、まともな思考を回復する必要があると思考します。

132NAME:2014/09/22(月) 04:25:11
吉田茂 戦後経済復興を優先
http://www4.nhk.or.jp/P3246/26/
脱退という最終決断は、国際協調や経済制裁回避のための苦肉の策だった
焦土と化した日本を、軽武装・経済優先政策で復興させたと評価される吉田茂。それはまた、アメリカに依存した戦後レジームの始まりでもあった。

http://www.mskj.or.jp/report/2810.html
吉田には吉田ドクトリン、経済優先主義という大局的思考があったわけでもなく、マッカーサーの意図に応える中で結果的にそのようになったという論考も存在 しかし当時の状況を考えれば、アメリカ軍の撤退を求めて自立、再軍備するということは現実論としてはありえない話であっただろう。歴史を考えるうえで大切なのは善悪論、二元論で区別をすることではなく、大きな時代の流れを客観的に見つめるなかでどのような結果が生まれていったのかを考えることである。

当時の経済状況の苦しさと考え合わせれば、再軍備よりも経済復興を優先したのである。 日米同盟を機軸に軽武装、経済重視のいわゆる吉田ドクトリンである。

後に吉田はこう語っている。日本はGOOD LOSER(良き敗者)だと。戦後の日本に起きたことは明治の日本においておこったことの再現であり、ある意味では明治の日本において始められたことの完成であったと。明治の日本人は維新において攘夷に敗れ西欧諸国の力を認めた武士達が文明開化を大胆に取り入れた。同じように戦後の日本人は敗戦と占領という自体を男らしく迎え、民主主義と経済発展を成し遂げた。

 作家の渡部昇一先生は日本のことを戦争には敗れたものの、経済発展という目的は達したのであるから、最終的な勝者は日本なのであると語る。歴史という大きな物差しの中ではそのような視点もあってしかるべきであろう。敗戦にうちのめされた戦後日本を救ったのは戦勝国から敗者の実利を引き出した吉田の手腕であった。

戦後を語るうえで天皇制護持という伝統的保守思想が結果として日本の繁栄を招いたことは忘れてはならない事実である。

133NAME:2014/09/22(月) 04:46:30
吉田は戦後、経済発展を遂げた後の日本は日露戦争後の日本と似ているという。日露戦争後の日本は西欧諸国に対抗し、帝国主義の中での国家存亡に勝ち抜くという目的を達成した。しかし新しい目的を探求することなく、目的を失い、誤った方向に迷い込んだとする。戦後の日本も経済発展を遂げた後、日本が背負うべき責任を回避し、そのすぐれた能力に目的を与えないならば同じような危険が存在する。日本人は戦争前から戦争中にかけて、使命感を持ちすぎたため、その反動として何も信じないという極端さがあったのではないか。

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0CCIQFjAB&url=http%3A%2F%2Fwww.nids.go.jp%2Fevent%2Fforum%2Fpdf%2F2003%2Fforum_j2003_09.pdf&ei=4BwfVKSJHYek8AWKuoDYAg&usg=AFQjCNF9AbexWJpe7-gb2ZVWn-hwq6hatw&bvm=bv.75775273,d.dGc
彼の外交路線については1960年代以降日本において再評価され、80年代には「吉田ドクトリン」という表現が定着するに至った。しかし近年の史料公開や研究者による再評価では、従来の吉田外交論はその経済志向の側面を過剰に強調するものであったと見なされ始めている。

http://blog.goo.ne.jp/youteifan6/e/2a074734ba6cba23c241b9d0d9c803b3
日米安保条約は麻生総理の祖父である吉田茂が戦後日本の経済復興を優先するために締結した。国家の自立を損ね対米従属的な条約である事を知った上での決断である。だから他人に締結の責任が及ぶ事を恐れ、吉田はたった一人で条約に署名した。

 それを対等な条約にしようとしたのは岸信介である。日本の戦後復興は既に達成されていたが、なお冷戦体制ではアメリカの「核の傘」に守られる必要があり、安保条約は継続すべきと考えられた。しかし60年安保反対闘争は国民的盛り上がりを見せ、岸は退陣に追い込まれた。その後の日本は「安全保障をアメリカに委ね、経済は戦時中に構築された国家総動員態勢そのままの官僚主導の計画経済」という岸信介らが敷いたレールの上を走り、世界も驚く高度経済成長を成し遂げた。

吉田ドクトリン 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3
経済発展を国家の最優先課題とし外交は低姿勢で行う国家の方針。 ドクトリン (Doctrine) とは、政治や外交あるいは軍事等における基本原則を言う。
国力の全てを第二次世界大戦後の経済復興に充て、その間の国防をアメリカ合衆国に担わせることにあった。アメリカ合衆国は戦後になって日本の軍事費を増加させるよう再三要求したが、吉田率いる日本政府は日本国憲法のうち第9条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めた条文を盾にこれを拒んだ。

貿易および技術革新に焦点をあわせたこの方針をとることにより、日本が急速な経済復興を遂げ世界の大国としての地位を回復することが望まれた。このように、元来吉田がとったこの外交方針は平和主義に基づくものではなく、むしろ明治維新以降の日本で主流となっていた、国際関係に対する現実的なアプローチであった。この方針の元来の目標は、国際情勢をうまく利用し国際社会における日本の存在感を増すことであった。

モンロー主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない。南北アメリカに現存する植民地や属領を承認し、干渉しない。南北アメリカの植民地化を、これ以上望まない。現在、独立に向けた動きがある旧スペイン領に対して干渉することは、アメリカの平和に対する脅威とみなす。

ケインズ理論
http://kotobank.jp/word/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
不況や失業を克服するためには、政府が積極的に経済に介入するべきであるとの立場 経済が不況に陥った場合、モノの価格の低下は確かにモノに対する新たな需要を作り出すかもしれないが、労働者の賃金の低下は労働者の所得を下げ、モノに対する需要をさらに冷え込ませるかもしれない。このことは経済をさらなる不況に陥れるかもしれない 市場機能をもちろん重視するが、市場に任せておきさえすれば経済は円滑に機能するとは考えない。反対に、新古典派経済学は、市場経済を自動的な安定化作用を備えたものとみなす。 一般的にモノの価格が下がれば需要は増えるから、それがモノに対する新たな需要を作り出し経済を回復に向かわせるだろう

134NAME:2014/10/07(火) 14:09:17
大東亜会議
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E4%BC%9A%E8%AD%B0
大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の同盟国や、日本が旧宗主国を放逐したことにより独立を果たしたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。 この会議は重光葵外相によって発案され、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議である。

岸信介 裏取引
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14108570854
近年、米国務省の公文書が公開になりCIAから岸への資金提供や秘密工作が明らかになり噂はどうやら正しかったということが分かりました。
日本の総理大臣はCIAのエージェントつまりGHQによる直接統治は終わってもアメリカの間接統治は続いていた(いる?)ということです。

戦後史の正体 1945‐2012
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106170774/subno/1
A級戦犯として巣鴨プリズンにぶち込まれていたがアメリカへの忠誠と引き換えに、刑務所から出されたそして、首相の座へと登りつめた
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/seito_giminto_history_kishiron_cia.htm

135NAME:2014/10/08(水) 11:38:45
日本 自慰戦争だった ☆☆☆
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8363341.html

マッカーサーは朝鮮戦争が起って、東京裁判での弁護側の主張が正しかった事に気がつきました。

東京裁判での日本の主張は、
「支那事変も満州事変も、その背後にはコミンテルンが動いており、満州を守らなければ満州が共産化し中国も赤化する」
というものでした。
そして、それは、いわゆる「A級戦犯」処刑の二年後、現実のものとなりました。中国は満州も含めて共産主義になったことで、アメリカは事態の重大さに気づき、日本と講和条約を結び協力して共産主義と対抗する方向に変換します。

しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任しました。その後、アメリカは朝鮮半島から共産主義を駆逐できず、38度線まで押し返したところで休戦となりました。

解任前のマッカーサーはハリー・トルーマンとの会談で、朝鮮戦争の戦争犯罪人について↓の発言もしています。「戦争犯罪人などに手を出してはいけない。うまくいくものではない。ニュルンベルク裁判や東京裁判は、戦争の抑止力にはならなかった」実は、東京裁判でもマッカーサーは、「真珠湾の騙し討ち」だけを裁くことを望んでいました。しかし、ドイツでニュルンベルグ裁判がはじまり、それが「戦争責任」を扱った為に、「日本にも同様の審議を行わなければならなくなった」と語っていいます。

136NAME:2014/10/08(水) 11:52:05
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8191496.html
「大東亜政略指導大綱」 (1943.5.31.御前会議決定)の
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム の項目をみても否定的です。南方資源地帯の獲得が帝国の戦争目的ですから、上記のインドネシア領域の領地化は帝国の国益に合致する事は言うまでもなく、やすやす独立などさせることは考えにくいですね。

欧米の植民地支配から、東南アジアやインドを開放する戦争になったというのは、結果論ではないでしょうか。 第一次世界大戦後、経済の資本主義化によって、直接植民地統治をするよりも、政治的には独立させて、経済市場として支配するという考え方がだんだん支配的になってきていました。
 
例えば、アメリカにとって、中国を直接支配するよりも、どの国も中国市場に投資・販売できる方が、有利であるという考え方が支配的でした。 つまり、直接支配すれば、軍事費の負担が増え、民主化・独立への動きが生まれれば、その国の民衆と長期間対峙し、その結果、抵抗運動と将来に渡っての国民感情の悪化しか得る物がなくなります。

のような、政治的には支配せず、経済的に支配する考え方のもとで、アメリカは、1934年『フィリピン独立法』を制定して、1944年にフィリピンを完全独立させることになっていました。(従って、フィリピンの本質的独立は、太平洋戦争によって遅れたことになります。) 結果論ですが、日本の中国侵攻の結果、『自由主義・資本主義中国』が、『共産主義中国』になってしまうという結果を招いています。

137NAME:2014/10/08(水) 12:03:23
☆☆☆
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8195509.html
日本がアメリカと戦った理由ですが、当時の中国は、アジアに残った最後の市場でした。植民地競争に出遅れたアメリカは中国を欲しており、その為に、中国の国民党(蒋介石)に支援を行っていました。一方で、日本の戦争行為を侵略と非難し、↓のような日本へ資源の禁輸や一方的な制裁を行いました。

1938年 航空機の対日輸出に同義的禁輸を実行
1939年 通商条約の半年後の失効を通告
1940年 多くの対日輸出に統制を行う
1941年 米国人が蒋介石の政治顧問になる。フライングタイガース派遣。
1941年7月26日 日本人の在米資産凍結。

アメリカの以上の中国と日本への行為については、中立国としての立場から大きく逸脱しており、真珠湾以前に、この時点でアメリカは既に日本と戦争状態にあったという意見すらあります。 実際、ローガン弁護人(東京裁判の日本側弁護人)は、「これらの経済制裁は武力による戦争行為とかわらず、むしろより激烈なものであり、対中・対日政策は、交戦状態にある他国に対する、中立国の行為として公平なものではない」と述べています。

更にアメリカはその後、最後通牒としてハルノートを出しました。ハルノートについては、誤解している人が多いのですが ハルノートの受諾は、【資源禁輸の解除】ではなく、【資源禁輸の解除の交渉をする為の条件】に過ぎません。それだけの為に、日本は明治以降に得た全ての海外の利権の放棄を要求されていました。そして、禁輸が解除されない場合、日本は戦争どころか、国を守る力すらなくなります。そうなった場合、当時の世界情勢で日本が独立を保つことは不可能です。 以上から、私は、大東亜戦争は、自衛(国防、在外邦人の保護等)の為であり侵略ではないと考えています。

「侵略」については、この類の話題では、他国で戦闘をした=侵略という短絡した安易な思考で結論を出してしまう人がいますが、それは間違いです。私は旧日本軍の↑の行為は↓の理由で国際法上の侵略とは見做せないと思います。

138NAME:2014/10/08(水) 13:52:53
 リットン調査団の訪日はご存知とは思いますが、あのときには調査団の行く先々には厳しい箝口令がひかれました。要するに「よけいなことはしゃべるな」ということです。(のち公開された調査団の文書には「もうちょっと巧く、植民地経営をしたらどうですか」ぐらいしかかいてなかったとのことですが。)

 要するに偏狭な世間知らずが、分けも分からず他人のマネをしようとした結果ではあります。若い力は妥協を許さない行動をつくり出し、結局どろ沼への行軍を行うしかなくなったということです。

139NAME:2014/10/12(日) 14:51:54
※百田氏は南京大虐殺から日本は酷い国だと当初思っていたそうですが、沢山の史実を読むにつれ、日本人はそんな国ではないことに気付いたそうで、それからもかなり戦争時のことは勉強されたそうです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10119898645;_ylt=A7YWPRIKbjlUI3cAaah1_PN7?pos=7&ccode=ofv

:浜園重義氏  海軍航空隊搭乗員で、ラバウル航空隊や空母千歳航空隊などで活躍。撃墜戦果を挙げ、エースパイロットに。 大戦末期に特攻隊に志願。鹿児島から特攻作戦に参加するが、迎撃機の攻撃に被弾し不時着して生還。その後教官をしつつ次の特攻を待つ。若年の航空兵にいつまでたっても合格を出さず、実戦に出さなかった。 自著「水平線」で詳しく書かれています。

:石野節雄氏  海軍特攻隊第5建武隊所属。1945年4月11日に鹿児島沖で戦艦ミズーリに特攻し損傷を与えています。 圧倒的な弾幕射撃を見事にかいくぐっての特攻で、ミズーリ艦長のW・キャラハンはこの果敢な攻撃に心を打たれて、星条旗の上から日の丸を書かせて遺体を包み、礼砲を持って水葬したそうです。 冒頭部分の宮部のシーンとほとんど同じ内容です。

140NAME:2014/10/13(月) 15:32:48
レイテ海戦70年で慰霊 海自艦隊、フィリピンに
2014.10.13 14:58更新
http://www.sankei.com/politics/news/141013/plt1410130018-n1.html

海上自衛隊の練習艦隊(司令部・広島県呉市)が13日、フィリピンの首都マニラに入港した。太平洋戦争で日本海軍の連合艦隊が壊滅したレイテ沖海戦から70年となるのを目前に控え、17日には戦場となった海域で洋上慰霊祭を行う。 練習艦隊司令官の湯浅秀樹海将補は記者団に対し、この時期にフィリピンを訪れたのは意図的ではないとしながらも「(戦場海域を)航行して実習幹部に歴史を感じさせ、今後のことを考えさせる」と述べ歴史から学ぶことの意義を強調した。

 1944年10月下旬のレイテ沖海戦では戦艦「武蔵」が撃沈されるなど、連合艦隊は壊滅。爆弾を搭載した航空機で搭乗員もろとも艦船に体当たりする神風特別攻撃隊が初めて出撃した。(共同)

141NAME:2014/10/13(月) 15:58:38
レイテ海戦70年で慰霊 海自艦隊、フィリピンに
2014.10.13 14:58更新
http://www.sankei.com/politics/news/141013/plt1410130018-n1.html

海上自衛隊の練習艦隊(司令部・広島県呉市)が13日、フィリピンの首都マニラに入港した。太平洋戦争で日本海軍の連合艦隊が壊滅したレイテ沖海戦から70年となるのを目前に控え、17日には戦場となった海域で洋上慰霊祭を行う。 練習艦隊司令官の湯浅秀樹海将補は記者団に対し、この時期にフィリピンを訪れたのは意図的ではないとしながらも「(戦場海域を)航行して実習幹部に歴史を感じさせ、今後のことを考えさせる」と述べ歴史から学ぶことの意義を強調した。

 1944年10月下旬のレイテ沖海戦では戦艦「武蔵」が撃沈されるなど、連合艦隊は壊滅。爆弾を搭載した航空機で搭乗員もろとも艦船に体当たりする神風特別攻撃隊が初めて出撃した。(共同)

142NAME:2014/12/06(土) 21:22:51
真珠湾攻撃から73年…「撃墜は安堵と高揚感。その後、嫌な気分になった」 98歳の元零戦搭乗員、誇りと心の傷とは
真珠湾攻撃から73年「極限の戦いだった」 誇りと心の傷を残した「零戦」元搭乗員 「命がけで守ったこの国の行く末が心配」
2014.12.6 19:54更新
http://www.sankei.com/west/news/141206/wst1412060052-n1.html

「やらなければやられる極限の戦いだった」。第二次大戦中、旧日本海軍の零式(れいしき)艦上戦闘機(零戦(ぜろせん))の搭乗員として、米ハワイの真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などに参加した元海軍中尉、原田要(かなめ)さん(98)=長野市。数々の戦闘の中で、戦勝の高揚感や惨敗による失意、仲間を失った悲しみなど、さまざまな感情を胸に刻んだ。日米開戦の端緒となった真珠湾攻撃から8日で73年。そして来年は終戦から70年を迎える。「みんな自分の命を国のためにささげる覚悟でした」。かなたの記憶が今も鮮明によみがえる。

 開戦の前年に誕生した零戦。世界一の戦闘機との呼び声が高かった。「操作が楽で、微妙なところで舵が利くいい飛行機だった」。原田さんは「零戦が誕生しなければ、日本もハワイ攻撃を考えなかったでしょう」と振り返る。 零戦は、原田さんに戦闘機乗りとしての誇りと、心の傷の両面を残した。

恨めしそうな表情を向けた敵軍のパイロット−。撃墜すると、一瞬だが間近で相手の様子が確認できた。 敵機に致命傷を与える20ミリ機銃の弾丸は、両翼に60発ずつしかない。確実に当てるため、100メートル以内に接近し、時には5メートルほどの距離になることもあった。時速500キロ以上のスピードですれ違うため、熟練した操縦の腕が求められた。

 当時の様子が今も脳裏に浮かぶ。「撃墜すると安堵(あんど)感と高揚感があって、その後嫌な気分になりました。『あの男にも家族がいただろう』と想像したから…」 昭和8年に17歳で海軍に志願し、厳しい訓練を経て12年に戦闘機の搭乗員に。日中戦争も参加、飛行時間は5千時間を超えていた。 零戦の搭乗員として臨んだ真珠湾攻撃は、上空援護の任務で、敵機とは対峙(たいじ)しなかった。「当然真っ先に自分が行くと思っていたので、悔しかった」

143NAME:2014/12/06(土) 21:24:14
その後、日本軍は連勝。原田さんも華々しい戦果を上げた。こうした状況で17年6月、ミッドウェー海戦を迎えたが、日本は空母4隻を失うなど惨敗した。 敵機攻撃のため飛び立ったが、母艦の空母「蒼龍(そうりゅう)」が攻撃を受けたため、別の空母に着艦。短時間で整備を受け発艦した。このとき滑走路は着艦した航空機で埋まり、わずか50メートルの滑走距離で奇跡的に飛び立つことができた。この空母も沈没し、燃料が切れて海上に不時着して漂流したところを味方に救われた。

 機動部隊は壊滅的な打撃を受け、多くの熟練搭乗員を失い、敗戦へとつながっていった。「真珠湾での勝利、零戦への過剰評価が、自信ではなく慢心につながった」と冷静に振り返る。 あれから70余年。高齢にもかかわらず、各地で体験を語る。平成3年の湾岸戦争時、「テレビゲームみたい」と語った若者らの声を聞いたのがきっかけだ。

日本では長らく、平和な歳月が続く。しかし、若者の凶悪犯罪や薬物汚染など暗いニュースが後を絶たない。原田さんは、人知れず心を痛める。「私たちが命がけで守ったこの国の行く末が心配です」(池田祥子)

 零戦 旧海軍の「零式艦上戦闘機」の通称。航続距離が長く、優れた操縦性能を誇った、当時の世界水準を抜いた単座の高性能戦闘機で約1万機が生産された。最近では、零戦の設計者をモデルにした宮崎駿監督のアニメーション映画「風立ちぬ」がヒットするなど注目を集めている。

144NAME:2015/01/01(木) 22:32:30
【日本人の座標軸(24)】
講演後に国旗に敬礼した「零戦パイロット」
2014.12.30 15:00更新
http://www.sankei.com/west/news/141230/wst1412300004-n1.html

百田尚樹さんの小説『永遠の0』が450万部も売れ、映画にもなったことはご存じのことと思う。 0戦(零戦が正しい)パイロットとして空中戦を戦った笠井智一氏の講演を聞く機会に恵まれた。今年、米寿を迎えられたそうだが、背筋はピンとしていて、とても張りのある声で話された。概要は次のとおりである。 《私は兵庫県篠山町の生まれで、篠山中学(現篠山鳳鳴高校)の時、先輩の小谷雄二大尉の講演に感動し、4年で海軍航空隊を志願し、甲種予科練に合格しました。1942年に土浦航空隊に入隊しました。

 ♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨…という日本海軍「若鷲の歌」で知られる海軍航空隊に入隊したんです。その後、操縦士不足のため、戦闘機操縦課程を20日間で卒業しました。グアム・ペリリュー島・ヤップ島・サイパン島沖で戦い、沖縄戦が始まると鹿屋飛行場から米軍機の撃墜に出撃しました。鹿屋を離陸後、エンジントラブルでサンゴ礁の中海に不時着し、必死で泳ぎ、やっとのことで現地人に助けられました。

 皆さん、特攻機が敵艦に激突して沈没させるときは横から激突するとお思いでしょうが、それでは対空砲火にあっておしまいです。標的の敵艦を見つけたら真上から真っ逆さまに突撃するのです》 驚いたのは、数々の戦闘に入った年月日をきちんと覚えておられたことである。両手を使いながら臨場感あふれる講演であった。笠井さんはあとで述べる坂井さんとともに、もう一人の撃墜王であった。

その後、質疑の時間がもたれ、「とても良い講演でした。この話をまとめて出版してください」と要望された方があったが、笠井さんは出版するともしないとも言われなかった。 講演を終えると、演壇の側に立てられていた国旗のもとへ進まれ、国旗に敬礼された後、何かつぶやいておられたのが印象に残った。その時間は1分くらいであったか、感無量と言うか、万感胸に迫るものがあったのだと思った。 この時、アメリカ大統領が就任演説の終わりに星条旗の端を握って、「神のご加護を…」と唱える場面が脳裏をよぎった。と同時に、『文藝春秋』で読んだ石原慎太郎氏の一文を思い出した。

 《太平洋戦争時にゼロ戦乗りの「撃墜王」として名を馳せた坂井三郎さんから聞いた象徴的な挿話がある。氏はある朝、中央線下り電車の中で、二人組の学生の会話を耳にしたそうな。坂井さんの目の前で二人が、「おい、お前知ってるか。五十年前に日本とアメリカは戦争したんだってよ」、「えーっ、嘘っ」、「バカ、本当だよ」、「マジかよ、でどっちが勝ったの?」と。 坂井さんはそれを聞いてショックを受け、次の駅で降りて心を落ち着かせるためホームの端でタバコを二本吸ったそうな。自分が命がけで戦った戦争を、もはや全く知らぬ若者たちがいる》

 講演を聞いたその夜、豊岡の田中勝さんという見知らぬ方から長いお電話があり、興奮気味に「私はノモンハンに行ってました。あなたが書かれた『ノモンハン事件』の記事を切り抜いて大切に保管しています。あなたはもちろん、祝日には国旗を揚げておられるでしょうが、わが家は3世代同居で、国旗は3本揚げています。もしまだでしたらお送りしますよ」と話された。私は「ありがとうございます。私も祝日には国旗をきちんと揚げています」と応えた。

■足立勝美(あだち・かつみ) 兵庫県立高校教諭、県立「但馬文教府」の長、豊岡高校長などを務め、平成10年に退職。24年、瑞宝小綬章受章。『教育の座標軸』など著書多数。個人通信「座標」をホームページで発信。養父市八鹿町在住。鳥取大農学部卒。76歳。

145NAME:2015/01/13(火) 21:37:07
【阿比留瑠比の視線】
米国の傲慢な歴史修正 戦勝国は全てを正当化、敗戦国は我慢…もつわけがない
2015.1.12 14:30更新
http://www.sankei.com/politics/news/150112/plt1501120017-n1.html

戦後70周年を迎える平成27年は、歴史認識をめぐる「歴史戦」の年になる。米紙ニューヨーク・タイムズなどは早速、日本の保守勢力に「歴史修正主義」のレッテルを貼ってきたが、戦勝国の立場にあぐらをかき、歴史を修正してきたのはどちらか−。 そんなことをぼんやり思いながら昨年末の休暇中、高校書道部を舞台にした漫画「とめはねっ!」(河合克敏著)を読んでいて、思わず息をのんだ。

 作中、見開きで大きく紹介されていた昭和20年3月10日の東京大空襲を題材にした元教師の書家、井上有一氏の書「噫(ああ)横川国民学校」(群馬県立近代美術館所蔵)があまりに衝撃的だったからだ。 「アメリカB29夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄」「親は愛児を庇(かば)い子は親に縋(すが)る」「全員一千折り重なり 教室校庭に焼き殺さる」「噫呼何の故あってか無辜(むこ)を殺戮(さつりく)するのか」「倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし」 書幅いっぱいに埋め尽くすように書かれた文字は、積み重なり、苦しみながら焼き殺された人々に見える。自身は一命を取り留めたものの教え子を失った井上氏が、血涙で書いたかのような印象を受けた。

約10万人が死亡した東京大空襲は、非戦闘員の殺傷を目的としており、もとより国際法違反である。米田建三・元内閣府副大臣の調査によると、東京大空襲の「作戦任務」(同年3月9日付)の目標は、軍事施設ではなく「東京市街地」と明記されている。最初から一般住民を標的にしていたことは明らかなのだ。 また、東京大空襲・戦災資料センターが東京都から寄贈された被害者の名簿3万人分のうち、年齢が分かる人について調べた結果がこの空襲の性質を表している。

 それによると、被害者の年齢層で最も多いのは0〜9歳の20%で、次いで10〜19歳の18%だった。実に4割近くが未成年だったのである。これは通常の戦争遂行行為ではなく、米軍による子供の大量虐殺(ジェノサイド)にほかならない。 しかも米国は戦後、こうした自らの罪を日本人の目から隠そうとした。明星大戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏の著書「抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪(ゆが)めたもの」(明成社)によると、連合国軍総司令部(GHQ)は検閲で、例えば米軍の東京大空襲での国際法違反行為を指摘したこんな文章を削除した。 「無辜の一般市民に対して行へる無差別的爆撃、都市村邑(そんゆう)の病院、学校、その他文化的保護建物の無斟酌(しんしゃく)の破壊、病院船に対する砲爆撃等、計(かぞ)へ来らば例を挙ぐるの煩に堪へぬほど多々あつた」(信夫淳平氏「我国に於(お)ける国際法の前途」)

「米国は原子爆弾と中小都市焼爆で日本全土を荒廃し数百万人の非戦闘員を殺傷せしめた」(石原莞爾氏・宋徳和氏対談「満州事変の真相」) 米国は、自分に都合の悪い歴史は堂々と修正し、歴史から抹殺しようとしてきたのである。当時、日本に対する空襲について「史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の一つ」(ボナー・フェラーズ准将)と自覚していたのは間違いない。 焼夷(しょうい)弾を使用した夜間無差別爆撃に踏み切ったカーチス・ルメイ少将の下で、作戦計画作成に当たったロバート・マクナマラ元国防長官は記録映画「フォッグ・オブ・ウォー」(2003年公開)の中でこう赤裸々に証言している。

 「ルメイも私も戦争犯罪を行ったのだ。もし、負けていればだ」 だが、戦勝国は全部を正当化し、敗戦国はすべてを我慢するなどという状態が70年以上ももつわけがない。米国は傲慢になりすぎない方がいい。(政治部編集委員・あびる るい)

146NAME:2015/01/13(火) 21:49:08
【河村直哉の国論】
「歴史修正主義」という日本叩き 真珠湾攻撃73年 民族の歴史を公平に見たい
2014.12.12 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/141212/wst1412120005-n1.html

今年、12月8日は真珠湾攻撃から73年となる。この年、重要書の翻訳が刊行された。日米開戦時のアメリカ大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)と同時代に共和党議員だったハミルトン・フィッシュの「ルーズベルトの開戦責任」(草思社)。原著は1976年の刊行。ひとことでいえば、ルーズベルトが日本に戦争を仕掛けさせたというものである。

プロパガンダ戦として

 本を紹介する前に、現代の状況を見ておこう。昨年から今年にかけて、「歴史修正主義(リビジョニズム)」という言葉に触れる機会が多かったことと思う。たとえば今年3月、ニューヨーク・タイムズ(電子版)は「安倍首相の危険な歴史修正主義」という社説を掲げた。「首相の修正主義的な歴史の利用は、東シナ海や南シナ海の領土紛争での中国の攻撃的な姿勢でもめているこの地域にとって、危険な挑発である」などとするものだった。 ニューヨーク・タイムズは露骨な反日的論調で知られる。この社説は、慰安婦問題で日本が過去に行った韓国女性への謝罪を撤回するかもしれない、などと事実誤認も含んでいたから、日本政府が抗議し、そのくだりが訂正されたものが現在の電子版には載ってる。しかし見出しは変わっていないし、趣旨もそのままである。

 一連の慰安婦問題ではっきりしたように、捏造(ねつぞう)された、誤った歴史は修正されなければならない。しかし、誤っていてもその歴史が都合のいい側には、それを修正しようとする動きに「歴史修正主義」のレッテルを否定的に貼る。このようなレッテル貼りは、日本たたきというプロパガンダ戦の性格をも帯びる。 ニューヨーク・タイムズに限らないのだ。6月の河野談話検証チームの報告に関して韓国・中央日報(電子日本語版)は「日本の歴史修正主義の動きは国際社会で孤立と逆風を招くだけだ」とした。国外だけではない。朝日新聞は終戦の日の前の社説で、首相が昨年の全国戦没者追悼式で「アジア諸国への加害についていっさい言及しなかった」ことに触れ、「歴史書き換えの一歩が潜んでいるのではないか」とした。自社慰安婦報道の検証の後にして、なおこの書きぶりである。重ねて言うが、誤った歴史は書き換えられなければならない。

そもそも、「戦争望んだ」ルーズベルト米大統領の“陰謀”

147NAME:2015/01/13(火) 21:52:42
「戦争望んだ」ルーズベルト

 さてフィッシュの本である。この書物も、ルーズベルト外交に正当性を見る歴史家からは「歴史修正主義」のレッテルを貼られているという。 だが、フィッシュの語る内容は刺激的である。アメリカが日本を追い詰めて開戦に至らせたという見方はこれまでもいわれていたことなのだが、そう主張する元の文章に改めて当たると、「正当性」をもって語られてきた歴史が一方的なものであることがわかる。

 フィッシュによると、ルーズベルトは国民に対しては「外国での戦争で戦うことは決してない」と繰り返しながら、実際は戦争を望んでいた。その理由については推測の形でしか述べられていない。ルーズベルトが展開したニューディール政策が失業者を減らせなかったので戦争によって失業者を救済しようとしたのか、など。しかしルーズベルトが戦争を望んでいたとは、繰り返しフィッシュは断言する。その口調はときに激烈である。

 「あの戦いの始まりの真実は、ルーズベルトが日本を挑発したことにあったのである」 「FDR(ルーズベルト)の行為は反倫理的である。FDRは狡猾(こうかつ)で、抜け目のない政治家だった。ホワイトハウスに居座って、真珠湾攻撃の日は『恥辱の日』などと演説し、すべての責任を日本に被せたのである。今にして思えば、まさにプロパガンダの茶番劇であった」

 「近衛(文麿)首相は和平を希求していた。(略)しかしルーズベルトは近衛との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった」 アメリカ国内には欧州戦線への参戦に反対する声が多かった。真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルトは議会で「恥辱の日」演説を行い、議会も国民も戦争へとなだれこむ。実は共和党の重鎮であったフィッシュも、それまでは戦争に反対であったが、「恥辱の日」演説に対応してルーズベルト支持を訴える演説を行った。

アメリカに「洗脳」された戦後ニッポン

ルーズベルト政権は最後通牒(つうちょう)「ハル・ノート」を突きつけ、日本が開戦を選ばざるをえないことを承知していたが、そのようなことをフィッシュも国民も知らされていなかった。この本でフィッシュは、ルーズベルト演説に対応して参戦を認めた自分の演説を、強く恥じていると書いている。ルーズベルトを難ずる筆致の激しさも、そのような理由によるのだろう。

アメリカによる「洗脳」

 日本の降伏後、アメリカはいわゆるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争の罪を知らしめる計画)により、日本の戦争は悪であったというように日本人を「洗脳」していく。日本人自身による日本の卑下、罪悪視などという、現在になお大きく残る日本の左傾傾向は、そのような由来を持っているのである。 民族の歴史を公平に見ようとすることは、修正主義でもなんでもあるまい。戦後の一方的な偏りを脱して公平に過去を見、非とすべきは非とし、是とすべきは是としたい。それが独立国たるものの態度というべきだろう。またその態度があって、外国との対等な関係も築けるものだろう。フィッシュはいっている。 「日本人はあの戦いを最後まで勇敢に戦った。二度と米日両国の間に戦いがあってはならない」   (大阪正論室長)

148NAME:2015/01/16(金) 21:24:12
日露戦争 誇りにできる歴史がある
『産経新聞』 2013年07月23日
http://ironna.jp/article/541
特別記者 鹿間孝一

 かつて大阪の人々は夏になると、南部の堺市から高石市にかけての海岸に海水浴に出かけた。歌枕の地で高師浜(たかしのはま)と呼ばれ、古くから白砂青松の景勝で知られた。 明治になって新田開発が計画された。明治6(1873)年、たまたま訪れた大久保利通が、伐採される松林を惜しんで、音に聞く高師の浜のはま松も  世のあだ波は のがれざりけり と詠んだ。内務卿の一声で開発計画は中止となり、一帯はわが国初の公立公園に指定された。浜寺公園である。

 大正から昭和の初めにかけて「東洋一の海水浴場」のにぎわいをみせ、人気の別荘地でもあったが、沖合を埋め立てて泉北臨海工業地帯が造成されたため、今はもう海水浴客の姿はない。 南海高師浜駅の駅前に「浜寺俘虜(ふりょ)(捕虜)収容所跡」のレリーフがある。日露戦争で捕虜になったロシア兵の収容所がここにあった。現在は住宅街になっているが、碁盤の目のように整然と区画された道路は収容所の名残である。

 明治37(1904)年2月から1年半に及んだ日露戦争では、約8万人の捕虜が日本に送られた。うち最大時には2万8000人が浜寺に収容された。当時の高石村の人口は約3500人だから、地元はさぞ驚天動地だったろう。 この地が選ばれたのは、陸軍第4師団の司令部が大阪に置かれていたのに加えて、戦時には似つかわしくないが、気候温暖、風光明媚(めいび)が決め手になったという。

 遡(さかのぼ)る1899年、日本も参加してオランダ・ハーグで第1回万国平和会議が開かれ、捕虜、傷病者に対する人道的な扱いが定められた。日露戦争は会議後初めての大規模戦争であり、国際的に注視された。一等国の仲間入りをめざす日本は、とりわけ捕虜の待遇に気を使った。 当初は次々に送られてくる捕虜をテントに収容したが、2万人近い大工や作業員を動員して突貫工事で居住棟を建てた。診療所、礼拝堂、パン工場などが設けられ、日本語教室も開かれた。まだ一般家庭に電気が行き届いていない時代に、収容所内ではどこも電灯がついた。

 運動のために外出も許可され、毎朝隊列を組んで大鳥神社、大浜潮場などへ出かけ、夕方に戻った。地元の住民との交流もあり、親しくなって家に招待される捕虜もいたという。 負傷者のために皇后陛下から義手、義足、義眼が贈られ、ロシア政府からは同盟国だったフランスを介して手当金が支給された。 明治39(1906)年2月までに全員がロシアへ送還されたが、収容中に亡くなった89人は共同墓地に手厚く葬られた。

 余話もある。捕虜の中に、のちに「イスラエル建国の英雄」と呼ばれたユダヤ人のヨセフ・トランペルドールがいた。親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓った。 やがてパレスチナへ渡り、建国闘争で銃弾に倒れるが、「国のために死ぬほどの名誉はない」と言って息を引き取った。これも日本兵から教えられた言葉だった。

 浜寺公園の一角に「日露友好之像」が建っている。平成14(2002)年5月に建立され、碑文には「ロシアの勇猛果敢なる子が永遠に人々の記憶にとどまらんことを!」。当時の小泉純一郎首相、プーチン大統領が署名している。 自虐的に歴史を振り返り、隣国から要求されるまま謝罪を繰り返すより、わずか100年ほど前に、世界に称賛され、胸を張れる史実があったことを覚えておきたい。そして日本人としての誇りをこそ子供たちに教えたい。(しかま こういち)

149NAME:2015/03/04(水) 23:12:21
戦艦武蔵をフィリピン中部海底で「発見」 米MS共同創業者が潜水調査 「菊の紋章、巨大な錨」
2015.3.3 19:51更新
http://www.sankei.com/world/news/150303/wor1503030052-n1.html

【シンガポール=吉村英輝】米マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレン氏は3日までに、太平洋戦争で撃沈された戦艦武蔵の船体をフィリピン中部シブヤン海の海底で発見したと、短文投稿サイトのツイッターで明らかにした。水深約1000メートルの海底で同氏の潜水調査機が見つけたという。

 掲載された船首とみられる写真には、「菊(の紋章)と巨大な錨(いかり)」と説明がついているほか、バルブの写真では「開」「主」などの文字が確認できる。艦載機射出機などの映像も公表するとしている。 海洋安全保障の研究などを行う公益財団法人「水交会」(東京都)は、武蔵の船体発見は「聞いたことがない」とし、関係者による映像の確認が必要とした。武蔵は昭和19年10月24日、シブヤン海で米軍機の攻撃を受け沈没。乗員約2400人中、猪口敏平艦長以下約1000人が死亡した。

150NAME:2015/03/14(土) 00:45:34
戦後70年〜大空襲
【戦後70年〜大空襲・証言(6)】
「このままでは死んでしまう!」びしょ濡れの布団かぶり火の粉の中へ「火だるまになって倒れる人も…」吉田昭子さん(78)=東京都府中市在住
2015.3.13 08:21更新
http://www.sankei.com/affairs/news/150313/afr1503130008-n1.html

東京の空襲というと、京王線幡ケ谷駅(東京都渋谷区)の近くに住んでいた私はどうしても5月25日深夜の「山の手大空襲」が思い起こされるわね。見たことがないほど多くのB29が空を埋めていて、焼夷(しょうい)弾を投下する光景に圧倒されて声を失いました。 当時は8歳と幼かったけれど、空襲の被害を小さくとどめるための建物疎開で渋谷区内を転々としていたし、24日の夜にも表参道周辺で大きな空襲があったことは知っていたから、ついに来たと思ったものよ。

 わが家は子だくさんだったの。上は10近く年の離れた姉から、下はまだ物心つかない妹まで6人の子供がいたけれど、父の方針で誰も疎開はしていなかったんです。父いわく、もし子供だけ残ってしまったらかわいそうだから、危険な状況になったときは家族一緒に死ぬべきなのだそうよ。 そうした事情もあって、空襲となると、私はいつも年の近い兄と弟と手を取り合って逃げていたの。この日もそうだったわね。 B29を見て、まずは自宅前にあった自宅前にあった隣組共同の防空壕(ごう)に弟と逃げ込みました。父と兄は自宅を類焼から守ろうと消火作業をしていて、母も妹をおぶったまま手伝っていました。でも、火の勢いはどんどん増していった。

151NAME:2015/03/17(火) 23:57:54
民主・細野氏「東京大空襲は米軍による残虐行為」 記者から問われて言及
2015.3.17 15:30更新
http://www.sankei.com/politics/news/150317/plt1503170032-n1.html

民主党の細野豪志政調会長は17日の記者会見で、東京大空襲について「10万人以上が短い期間で命を落としたことは、米軍による非常に残虐な行為だと考えている」と述べた。細野氏は10日の記者会見で、東京大空襲が非戦闘員の殺戮(さつりく)を目的とした米軍の無差別爆撃であることには一切言及していなかった。

 17日の記者会見で、無差別爆撃である事実に言及しなかった理由について質問されると、細野氏は「それは当然のことだ」と語った。 その上で当時の状況について「日本は制空権、制海権も完全に失っていた。いかんともし難い状況になっていても戦争を終結できなかった。政府の国策の誤りであることは明らかだ」と指摘した。 細野氏は10日の記者会見で東京大空襲について「国策の誤りを反映した結果だ」と述べていた。

152NAME:2015/03/17(火) 23:59:34
【日本千思万考】
米国が中韓の不当な「歴史戦」に荷担するワケ…「軍国日本=悪」論で自国の「国際法違反」を正当化
2015.3.17 15:00更新
http://www.sankei.com/west/news/150313/wst1503130060-n1.html

中韓問題は米国の問題でもある

 日本を貶める「歴史戦」と対峙するにあたって、忘れてならないのは、アメリカと国連の存在です。 この問題を単に中韓両国の反日政治活動と断じてしまうのは明らかな誤謬です。中韓は女性の人権問題と絡めた巧妙なプロパガンダにより、“戦勝陣営の米国と国連”を抱き込んだこと、そして、戦敗国日本がGHQ占領政策を過剰に引き継いできた左翼リベラリストのくびきに縛られたかのような弱腰外交を繰り返し、正鵠を得た発言もせず、特に米国や国連に対する意見表明を避けてしまったことが、大いなる問題点だと思量します。

欧米の「植民地化」と日本の「満州・朝鮮・台湾併合」は違う-の論議

 米国内の良識派や国際世論には、「米国が原爆投下や首都圏無差別爆撃などによって非戦闘員の日本人を大量焼殺したことは、国際法違反であった」という論議があり、一方では、主としてアジア発で「日本による満州、朝鮮半島、台湾の併合(Annexation)が、当時欧米がアジア・アフリカで展開した植民地化(Colonization)とは異なっていた証拠に、日本はこれら併合地に本国と同一の法を適用し、物的・制度的・人的インフラ整備と教育振興を実行し、大いに経済力と文化民度を上げてくれた」という論議がありました。

 そういえば、日本は第一次大戦後のパリ講和会議で、人種差別撤廃を提案した唯一の有色民族国家でした。この提案は11対5で採決されましたが、奴隷制の歴史を抱えて反対だった米国ウイルソン大統領が無謀な議長特権を行使、全会一致でないとして、この決議を葬ったとされています。ちなみに、日本の満州、朝鮮、台湾「併合」は国際法に則り、列強諸国の承認を受けたもので、それまでの欧米によるアジア・アフリカ諸国への一方的な「植民地化」とは全く異なるものでした。日本の史上には対内対外とも、奴隷制度がなかったことを、国民はもっと誇りに思っていいでしょう。

 第二次大戦後に話を戻すと、「日本は負けこそしたが、アジアからすべての植民地を排除してくれた」とのアジア発の諸論評が相次いだことから、米国の政治家や大戦勝利肯定派には、何としても「軍国日本は悪であった」という論議に乗ることで、自国の国際法違反を正当化する必要性もあったわけです。 その後も、マッカーサーによる「大東亜戦争(米は太平洋戦争)は日本の自衛戦であった」という議会証言がありました。欧米の史家や学識者には、少数ながらも、「日本がアジアを侵略した-というのは、植民地を失った欧米による史実を直視しない作為的な論議であって、日本による併合の仕方に鑑みても、戦前からの主張に見るごとく、“有色民族に対する白人支配からの解放戦”とみる方が妥当である」といった論評もあったようです。 確かに帝国主義・軍国主義日本にも一抹の反省点はあるにせよ、少なくとも、「植民地化侵略戦」ではなかったことは自覚しておくべきでしょう。

内外の“桃太郎”を支援すべし

 もう一点、とても大事な点に触れておきます。日本の対外発信力を強化するためには、政治外交分野はもちろん、英語も日本語も達者なジャーナリストや学識評論家、文化人を多く徴用ないしは支援するべきで、日本のことを正しく評価してくれるフリーの外国人ジャーナリストや弁護士、学者、評論家には、日ごろからコンタクトを取り、情報の受発信をスムースにしておくべきだと考えます。

153NAME:2015/03/18(水) 00:02:31
ちなみに、こうした外国人には、米国人のマイケル・ヨン(ジャーナリスト)、トニー・マラーノ(評論家)、ケント・ギルバート(弁護士)諸氏や、英国出身在日ジャーナリストのヘンリー・ストークスの各氏らがいます。「史実を世界に発信する会」(加瀬英明代表、茂木弘道事務局長ほか、各界の有識者多数が委員、顧問をされています)のような地道な民間事業団体もあります。 特に、ヨン氏は、このところ、米国主要紙誌への寄稿と連邦・地方議会への積極的な働きかけで、日本にとっては、まさに桃太郎というか、正義の味方を独演してくれており、彼らを協力支援するべきです。

朝日は誤った記事すべてを撤回・訂正し、日本人に謝罪せよ

 併せて、アメリカにおける「Interagency Working Group」の調査報告書に鋭意着目して史実を露わにしてほしいものです。 これは、米国の抗日華人ロビー団体が焚き付け、日本の戦争犯罪の実態を調査(移民局、FBI、CIAなど全米省庁を巻き込んだ大調査)したもので、2007年春、米議会に提出されました。そこでは「慰安婦強制連行」や「性奴隷」の証拠は何一つ見つけられなかったようです。 にもかかわらず(中韓が不利な史実から目を背けたのはともかくも)、自国を守るべき、日本の政府・外務省・ジャーナリズムの大半が、その後も「強制連行された」「従軍慰安婦-性奴隷」という虚妄を排除せず、受容を積み重ねてきたことは理解に苦しみます。中でも朝日新聞と英語発信紙の代表格のジャパン・タイムズ紙は今こそ反省し、国際社会へ向けて「誤った記事すべての撤回と訂正」をし、誹謗中傷にさらされてきた「日本人に謝罪」を発信してもらいたいものです。

チャーチルの名言「決して逃げてはならぬ」の姿勢は日本にこそ必要

 この際、周辺国の執拗な言いがかりと米国による戦敗国制裁のくびきに屈せず、捻じ曲げられた史実をただし、身に覚えなき冤罪を晴らし、未来志向の平和主義、人道優先の日本国を世界へ向けて堂々と主張していかねばなりません。 そして、極東軍事裁判(東京裁判)の国際法違反、不公正を自ら検証し、反省している連合国側の多くの重鎮たち(東京裁判当事者だったウェブ東京裁判長、パール・インド代表判事、レーリング・オランダ代表判事、ブレイクニー弁護士をはじめ、フーバー米大統領、プライス米陸軍法務官、ビアード史家、およびリトルトン英軍需生産大臣)らの発言内容をよく吟味することで、戦後日本人が陥った「東京裁判史観に基づく自虐思考」から脱皮すべきだと思います。

すなわち、日本を取り巻く不当な歴史戦という現実に立ち向かうには、われわれ日本人政官民がもっと歴史の真相を見極め、普遍的価値に基づき守るべき伝統と価値観を海外へ向けて堂々と発信し続けることが肝要です。 結びに、チャーチルの名言を引用しておきます。 「迫りくる危険に背を向けて、それから逃げ出すべきではない。それをすれば危険は2倍になる。それに素早く敢然と立ち向かえば危険は半分に減るだろう。何ごとに出合っても、決して、決して逃げるな」

【プロフィル】上田和男(こうだ・かずお) 昭和14(1939)年、兵庫県淡路島生まれ。37年、慶応大経済学部卒業後、住友金属工業(鋼管部門)に入社。米シラキュース経営大学院(MBA)に留学後、45年に大手電子部品メーカー、TDKに転職。米国支社総支配人としてカセット世界一達成に貢献し、57年、同社の米ウォールストリート上場を支援した。その後、ジョンソン常務などを経て、平成8(1996)年カナダへ亘り、住宅製造販売会社の社長を勤め、25年7月に引退、帰国。現在、コンサルティング会社、EKKの特別顧問。

154NAME:2015/03/23(月) 02:09:34
【戦後70年・ペリリュー島激戦】
「参ります。死ぬときは潔く、と両親から言われました」1等兵は地雷持ち…敵の戦車は爆発した
2015.3.22 12:00更新
http://www.sankei.com/life/news/150322/lif1503220022-n1.html

先の大戦でのペリリュー島での激戦から生還した元海軍上等水兵、土田喜代一さん(95)が21日、産経新聞社雑誌「正論」主催の「大東亜戦争を語り継ぐ会」で、壮絶な体験を語った。その要旨は次の通り。

 聞き手のジャーナリスト、井上和彦氏「振り返っていかがですか」 土田さん「去年の9月15日(米軍ペリリュー上陸から70周年の日米合同記念式典)、これが最後と思って孫と行きましたけれどもそのあとに、陛下がペリリュー島に来られるということを知ったもんですから、私はびっくりしたわけです。パラオ、ペリリュー島は非常に来にくいところですけど、こんなところに両陛下が来られるのは大変なことだなあと。1万名近くの軍神、この靖国神社にいらっしゃる1万人の人に会わせたらどんなに喜ぶだろうかと思って、それはもう杖にすがってでも会わせたいような気持ち。両陛下がペリリュー島に来られるなんて、夢にも思っていなかったと思うんですよね。来られるということを聞いて、会わせたらどんなにうれしいことじゃなかろうかと思って、それを私は一目見たいという気持ちで、また行く気になったわけです」

 井上氏「見張り任務をされていましたが、最初にペリリューに米軍が来たときは」

土田さん「私たちは20人ばかりの見張りで、朝昼ずっと、戦闘指揮所の上にのぼって船と空の見張りをしていたわけですが、もうそのころはサイパン、テニアン、グアムで戦う時にペリリュー島の飛行機は全部応援に行って、一つも帰ってこなかったわけです。それで、これはもう、いよいよ最後の時が来たなと、玉砕も覚悟して、死んでもこの島を守らなければいけないということで。それはもう、陛下のため、国のためと思って死ぬ思いで戦ったもんですから。ここで会わせて、陛下も、靖国神社にまつられている人も、喜ぶんじゃなかろうかと思うわけなんですが。陛下からはどんな質問をされるだろうかと、私には頭がくらくらして、わかりません」

 井上氏「米兵とどのように対峙していたのか」

 土田さん「海軍の通信壕から兵が3名、地雷をもって攻撃した。中隊長が『戦車攻撃に出る。3名だ』ということで、すると最初に出たのが陸軍の伍長ぐらい。2番目に出てきたのは海軍の陸戦隊。『もう1人誰かいないか』というところで、死ぬのは覚悟しとったけどちょっと早いな、どうしようかと思っていたら、そのときにパッと手を挙げた小寺亀三郎という1等兵がいた。おそらく実弾を撃ったことがない人間だったが、パッと手を挙げて『小寺一等兵、参ります。両親から死ぬときは潔く死ねと言われました』と言って、出て行った。その後、5人ほどで水を汲みに出て行ったら、戦車が真っ赤に燃えて、敵が死んでいた」

 井上氏「小寺さんの思い出は」 土田さん「いつも、きのうの話のような気持ちがする。70年経っても。今から考えると、つらかったなあと思って、やっぱり涙が出るんです」 井上氏「厳しい戦いのなかで、米兵と30センチぐらいの距離で顔をつきあわせ、そのままお互い後ずさりした、という経験もされていますが」

 土田さん「横穴があって、ここに2人で隠れていた。すると、こちらは急坂なので(がけの下にあるので)絶対に降りてこないという確信があったので、ミハラ兵長、絶対大丈夫ですよ、と言っていた。だがある日、ガサガサ、ガサガサ、という音がする。ミハラ兵長が『土田、敵の声がする』と言う。『こんなところにどうして来るんですか、大丈夫大丈夫』と言っていたら、ガサガサ、ガサガサと。敵も急な坂だから何も持たず素手で降りて来よるわけです。『土田、手榴弾ば投げんか、はよ!土田、早く投げんかい』と兵長は言うけれど、投げてもコロコロとなって(※壕内に戻ってくるだけで)バーンとなるのがオチ。そこで、どこから来るかとこうやって(穴から)顔を上げたら、向こうものぞき込んでいた。白人が真っ赤な顔をして鉄かぶとをかぶっている。お互いものも言わず、後ずさりして、逃げた。別のところでも、私の1メートル半のところに(米軍の)歩哨が立った。あと一歩近寄って見たら私たちが分かる。もうダメだ、と思ったら、助けの神が来た。12時のサイレン。お昼のサイレンが鳴って、英語だから分からないが『おーい、お昼だ』などということを言って、石の上で昼を食い始めた。そのすきに逃げたわけですよ」

155NAME:2015/03/23(月) 02:11:59
土田さん「私とミハラ兵長が水を汲みに行った。すると、向こうからライトが照らされた。ところが敵は、月夜の晩だったから、すぐ足元に伏せた私を通り越して、向こうばかり見ている。私は敵の迷彩服を着て、手榴弾を持っていた。ミハラ兵長は、大木の手前に隠れたようだ。ババババ、と音がして5、6秒したら、『水くれー…』というミハラ兵長の声がした。すると、敵が『もう1人いたはずだ』と。あれが真っ暗闇の闇夜だったら分かってしまったけれど、月夜の晩だったから、照らしても全部明るいから分からなかったんじゃないか。『早く撃て、撃たんかい』と思っていたが、ババババと撃つ音がしたが、(自分には)当たらなかった。すると笑いながらなにか言っていた。日本語なら『いつまでも柳の下にドジョウはいない』みたいなことじゃなかっただろうかと」

 井上氏「19年11月24日に組織的抵抗が終わったが、土田さんたちはその後も1年8カ月、遊撃戦を続けられた。残った34人での生活は」

 土田さん「それはもう、いったい我々はどういうふうになるのだろうか、という思いが、一番心配なことだった。生まれてから現在のことを全部話して、話すこともないぐらいに。おんなじことを2回も3回も。だからなかには小説を書く人もいるし、講談する人もおるし、また昔の恋人のことをやりだしたという感じで、もう話すことがなくなってしまう訳です。だから、将棋が一番の慰めになった。勝っても負けても。板に彫った将棋だった」 井上氏「当時みな20代前半の方々だった。娯楽でなんとか気を紛らわしつつ、そんななかでも戦い続けなければならない。終戦していたわけだが、米軍はどう変わってきていたのか」

雑誌「正論」の「大東亜戦争を語り継ぐ会」で講演する、先の大戦でペリリュー島の戦いから生還した元海軍二等兵曹の土田喜代一さん(左)=21日午後、東京都千代田区(松本健吾撮影)

土田さん「木の枝に札が下がっていた。『戦争は終わった、お前達の帰りを待っている』と。だが、ばかやろう、まただ、とほっておいた。澄川少将(※第四艦隊参謀長で、武装解除の説得にあたった澄川道男少将)が来られたが、最初は分からなくて帰ったようだ。ある日、兵長が一時つかまった。格闘しているところがすぐわかったので、銃を撃つと敵はバッと散ってしまった。兵長は蹴られたり踏まれたりしたが、助かった。その兵長に聞いてみると『相手が、俺は通訳だ、日本は負けたんだ、日本兵を戻すために帰って来ているんだとか、妙な言葉をしゃべったような気がする』と。それを聞いて『戦後だな』と思った。また、大学出の英語が分かる人間が『土田さん、敵は、もう帰ろう、と言っていますよ』と」

 井上氏「壕を出て、置き手紙を残したことについてお話を」 土田さん「ある日、壕のなかに何かが投げ込まれた。タバコとともに『日本は負けた』ということが書いてあった。どうするかと協議した結果、食糧は1〜2年あるが、ガソリンだけ取りにいこうじゃないかと、という結論が出た。で、私が行った。その際、『参謀長が会おうという手紙だから、私に行けというなら命がけで行ってきますがね』と言ったが、真剣だけれども笑い話で言わなければいけないような状況があった。死んだ人もおるからね。うかつに変なことをすれば私らも疑われると思って『言われるならば命がけで私が行ってみますが』と。私は本気だけど、笑いながらでないと撃たれると思った。その後、アンガウル島へ行って、日本が負けたという状況がはっきりした」

156NAME:2015/03/23(月) 02:13:12
井上氏「土田さんが、日本が負けたかどうかを確認するため書き置きを残して壕を出られた。だが集団生活ですから、脱走兵と見なされ、土田を処刑しろということもささやかれていた。そんななかで土田さんが危険を冒してもう一度、壕に戻り、指揮官に話し、みなさんが帰られた。みなさんに銃を置かせるため、土田さんはご家族のお写真や手紙を日本から集め、それを持って行かれたんです」

 土田さん「靖国の1万人の軍神と陛下と、会ってもらいたいですね。両方とも、喜んでもらいたい。そして、また靖国にかえってもらいたい。両方とも喜んで、分かれていったら本当にうれしいなあと私は感じている」

【参加者からの質問】

 --大学生ですが、後世に何を残したいと思っておられますか 土田さん「今の人はなんの原因かわかりませんが自殺者が多いですね。どうしてあんなことをされるかと思って。事情はあったけれども私たちの時代には1人もいなかったですよ、若い人たちの自殺なんかというのは。だから、何を考えておられるかと思って。昔の若者のようにかえってもらいたいですね」

 --そのためにはなにが必要と思われますか 土田さん「昔の人たちの戦闘のことを考えてみて、自分たちはもっと強く生きないといかんなという精神を持ってもらえたらいいんじゃないかと、年寄りながら思ってるんです」

 --土田さんたちが戦われた戦いを、一部で「狂気の戦場」「無駄死に、飢え死に」などと言われたりするが、そんな状況をどう思われますか 土田さん「我々は、その時代は国民のため、陛下のためと思って戦っていたもんですから。みんな、国家のため陛下のために、なんとかして日本がつぶれないようにと、一生懸命に戦ったのが、そういうふうなことはちょっとね…」

157NAME:2015/03/23(月) 02:23:26
【戦後70年・ペリリュー島激戦】
両陛下、生還兵2人に「本当にごくろうさまでした…」 4月にパラオ慰霊のご訪問
2015.3.22 16:44更新
http://www.sankei.com/life/news/150322/lif1503220046-n1.html

天皇、皇后両陛下は22日、先の大戦の戦没者慰霊のため4月のパラオ共和国ご訪問を前に、日本軍約1万人が死亡した同国ペリリュー島から生還した元日本兵2人を皇居・御所に招き、激しい戦いの状況などについて話を聞かれた。天皇陛下は前日からの風邪で熱があるため大事を取って途中退出したが、2人に「本当に長いことごくろうさまでした」とねぎらわれたという。 招かれたのは元陸軍軍曹の永井敬司さん(93)と元海軍上等水兵の土田喜代一さん(95)。「徹底抗戦」の命令を受けていた2人は守備隊が昭和19年11月に玉砕し20年8月に終戦した後も、洞窟などに潜伏。武装解除に応じたのは22年4月だった。

 ご懇談は約45分間に及び、永井さんは海岸での米上陸部隊との攻防を「本当の白兵戦でした」などと説明。「私どもは軍人ですから戦うことは当然のことです」と述べたという。土田さんは、戦友が眠る地へのご訪問に対する感謝を伝えたという。 皇后さまは戦いの様子だけでなく、帰国後の生活や仕事についても詳しく質問し、「お体を大事に」とねぎらわれたという。 ご懇談後の取材に、永井さんは「英霊は静かにお休みになれると思う」と話し、両陛下ご訪問に合わせて島に行く予定の土田さんは「島では宮城(きゅうじょう)=皇居=の方向を向いて飯を食べることもあった。これ以上の光栄はない」と語った。

158NAME:2015/04/09(木) 01:45:49
戦後70年
栄光なき戦艦大和になぜ惹かれるのか
『月刊正論』 2014年4月号  http://ironna.jp/article/1228

戸高一成(呉市海事歴史科学館館長)/上島嘉郎
使われなかった世界一の名刀

 上島 大和ミュージアム(呉市海事科学歴史館)が開館して9年目を迎え、来館者は900万人近いそうですね。地方の都市が運営する博物館としては驚異的な数字です。戦艦大和の10分の1模型が来館者のお目当てだと思いますが、なぜこんなにも「大和」は人気があるのか。百田尚樹さんの『永遠の0』がミリオンセラーになって、映画も大ヒットしましたが、零戦には実際に米軍機を圧倒した輝かしい戦果、栄光があります。坂井三郎、岩本徹三といったエースパイロットの活躍もあった。 ところが、大和は世界最大最強の戦艦といわれながら、赫々たる戦果はありません。昭和19年10月のレイテ沖海戦でサマール島沖の米護衛空母群に主砲を発射し、それなりの損害を与えたとも言われていますが、これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃です。そして翌20年4月、沖縄に向け航空護衛のない海上特攻をして沈められてしまう。零戦と比べて活躍の機会がなかったにもかかわらず、沈没から70年近く経ってもなお、日本人はなぜ大和に強く惹かれるのか。

 戸高 大和には、世界一の名刀なのに有効に使われなかったという可能性への郷愁があるのだと思います。日本人の判官贔屓の心情に合う。判官贔屓の原則は決まっていて、能力のある者がそれを発揮できず悲劇的な末路をたどる、こういう姿に日本人は深い共感と同情心を抱いてきた。歴史上では源義経がそうですね。大変な能力を持ちながらそれを存分に発揮できず悲劇的な最期を遂げた大和もまさにそうです。 それからもう一つ考えられるのが「大和」という艦名です。軍艦の命名には艦種ごとに基準があって、戦艦は原則として旧国名をつけることになっていました。大和、武蔵、長門、陸奥…。金剛、霧島、榛名といった山岳名の戦艦は、当初巡洋艦として計画された艦なので巡洋艦は山岳名という基準にしたがっています。大和はいまの奈良地方ですが、同時に日本国の総称でもある。武蔵だと関東のローカル名という感じですが、大和になると誰もが「ああ、日本の船」だと感じる。そんな違いもあるでしょう。

 上島 私は、戦艦大和最後の艦長・有賀幸作と同郷(現在の長野県辰野町。有賀は旧朝日村出身)なんです。墓のある見宗寺にお参りしたこともあります。戦後の生まれですから生前の有賀幸作を知っているわけではありませんが、少年時代、有賀も私も通った母校の先生から、郷土の先輩として、責任を全うした立派な軍人というふうに有賀のことを教えられて、その頃から格別な思いを抱いていました。 有賀は大和の艦長を拝命したときから「戦死」を覚悟していました。沖縄への海上特攻は、護衛戦闘機なしで進撃し、米航空兵力を吸収して味方航空部隊の米艦船攻撃を支援、さらに沖縄西方海面に突入せよ、という命令でした。有賀は、死に場所を得た思いだったでしょう。「一億総特攻のさきがけ」を受け容れて出撃したのですが、大東亜戦争の・決戦兵器・として建造されたはずの大和は、なぜそのとおりに使われなかったのか。これをしっかり考えないと日本海軍失敗の教訓は得られない。

戸高 明治開国以後、日本は帝国主義の荒波に乗り出して行きました。欧米列強と対峙し国の独立を守るためにはどうしても近代的な陸海軍が必要だった。弱小国は強国に蹂躙されても仕方のない時代でした。良い悪いの話ではなく現実がそうだった。西欧近代と遭遇してから、日本は必死でその文明を摂取した。夷を以て夷を制す、ということです。物真似と言われようが紛い物と言われようが、西欧が産み出した文明の利器と同じ物をつくり出す必要があった。そしてそれをやれたアジアの国は日本だけ、有色人種の国の中でも日本しかなかった。

 戦艦大和の建造が極秘理に開始されたのは昭和12年11月です。大正11年のワシントン海軍軍縮条約で対米英六割の戦艦保有に制限された日本海軍は、条約期限切れの昭和12年からその劣勢を挽回するために、まず2隻の巨大戦艦の建造に踏み切り、その一番艦が大和、二番艦が武蔵、次いで三隻目が計画変更され世界最大の空母になった信濃です。設計が開始されたのは起工から3、4年前だから、明治維新から70数年で世界最大最強の戦艦を建造したことになる。これは驚き以外の何ものでもない。

159NAME:2015/04/09(木) 01:51:45
 上島 ペリーの来航が嘉永6年(1853)で、それからほぼ3年後には、日本人は初めて見た文明の利器である蒸気船を外国人の助けを借りずにつくっています。島津斉彬の薩摩藩、鍋島直正の佐賀藩、伊達宗城の伊予宇和島藩の三藩です。 戸高 先の敗戦までアジアで戦艦を建造できたのは日本だけです。いや現在に至るもオリジナルの戦艦や戦闘機、その時代における第一級の戦艦や戦闘機を全部自前でつくれたのはアジアでは日本だけです。戦前はもちろん戦後の中国にしても、初期はほとんどがソビエトロシアからのライセンス生産です。技術はそれを吸収する側の水準によってその後の展開が決まってくる。それが幕末明治の日本のダイナミズム、面白さのポイントです。戦艦大和も零戦もその延長線上にある。ただそのダイナミズムも、日露戦争に勝って明治末年になると官僚国家の体裁が整ったことが裏目に出るようになります。

 その後の日本海軍は人事と艦隊運用に失敗してしまう。明治時代は目前の困難を乗り切らなければならない状況で、ハードウェアとしての軍艦を導入することに汲々とせざるを得なかった。それは仕方なかったけれど、日露戦争後には艦隊運用のソフトウェアを考えるべきでした。戦闘機や戦艦の「能力」は、カタログデータ(仕様書)のことではない。それを人間が使いこなせること、オペレーションができて初めて能力と呼べる。そのためにソフト面が不可欠ですが、海軍はそれに真剣に取り組むことなく大東亜戦争に突入してしまった。ヨーロッパの海軍が持っていた軍艦を「抑止力」として使うという考え方も薄かった。日露戦争時の秋山真之参謀が上策として語ったのが「戦わずして勝つ」ですが、そのための戦略や外交感覚も身につかず、勝てなくとも負けることもないという「戦争設計」ができなかった。

 上島 大和や武蔵はその存在は秘匿されましたが、時代はまだ大艦巨砲主義でしたから、むしろ世界に公開し、その超絶的な能力を抑止力として使う手はありました。巨大戦艦が時代遅れの「無用の長物」とされるのは、日本軍がマレー沖海戦やインド洋海戦でイギリス艦隊を撃破してからの流れですから、昭和16年なら大和の威力は世界を驚かせるに充分だった。「こんな戦艦と戦うのか」という出血を相手に思わせるだけでも、時間稼ぎや戦意を削ぐことはできたと思います。アメリカも新造艦として戦艦ワシントンが1941年5月、続いてサウスダコタが42年3月、ミズーリが44年6月に戦場に投入されています。日本海軍の戦艦が活躍していないので、戦艦は「無用の長物」とされるけれども、日本の場合は運用が下手だっただけではないかと言える。

160NAME:2015/04/10(金) 23:54:01
【歴史事件簿】パールハーバーの誤算(1) 日米はなぜ開戦に至ったのか…米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から始まった
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e7%b0%bf%e3%80%91%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%8f%e3%83%bc%e3%83%90%e3%83%bc%e3%81%ae%e8%aa%a4%e7%ae%97%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89-%e6%97%a5%e7%b1%b3%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e9%96%8b%e6%88%a6%e3%81%ab%e8%87%b3%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b%e2%80%a6%e7%b1%b3%e3%82%82%e6%ac%b2%e3%81%97%e3%81%9f%e6%ba%80%e9%89%84%e5%88%a9%e6%a8%a9%e3%80%81%e7%a2%ba%e5%9f%b7%e3%81%af%e6%ba%80%e5%b7%9e%e3%81%a7%e3%81%ae%e2%80%9c%e3%81%99%e3%82%8c%e9%81%95%e3%81%84%e2%80%9d%e3%81%8b%e3%82%89%e5%a7%8b%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f/ar-AAaFskf#page=2

今から74年前の昭和16年12月8日、旧日本軍はハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃し、太平洋を舞台にしたアメリカとの戦いに突入する。当時、アメリカの生産力が日本の10〜20倍もあったため日本の軍部の中にも対米戦に消極的な声もあったのだが、なぜ踏み切らなければならなかったのか。その原因は、真珠湾攻撃の36年前に日露戦争の講和を仲介したアメリカとのすれ違いから始まっていた。

ターゲットは満州

 明治33(1900)年6月、欧州列国が相次いで清国に進出する中、山東省で起きた拝外運動「義和団の乱」がまたたく間に北京へと拡大していった。 このため日本など8カ国が現地に住む自国民保護を目的に軍隊を出して乱を鎮めたまではよかったが、各国は兵を引き揚げさせたのに対しロシアは兵を満州に送り込んできた。 そんなロシアに強い危機感を持ったのが日本とアメリカだった。 南北戦争後、欧州にならい支配力を広げたいアメリカはハワイ、フィリピンに続いて狙ったのが満州であり、日本も本土をロシアから守る防衛線として満州が必要だった。

 そしてロシアの進出を抑えるため、明治37年に起きた日露戦争で日本を資金援助したアメリカが、日露両国の講和締結に積極介入したのも、満州の利権が欲しかったからにほかならなかった。 そこで講和締結後、アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンは日本がロシアから得た権益のうち、新京(長春)から大連間を走る鉄道(南満州鉄道)の共同経営を1億円の財政援助とともに持ちかける。 明治36年の国家予算が約2億6千万円という時代の1億円である。首相の桂太郎はハリマンの提案を歓迎して受け入れる。 ところが、ハリマンとすれ違いに帰国した外相・小村寿太郎は反対する。多くの国民の犠牲を払って得た権益をアメリカと分けると他国に足もとを見られるというのが理由だが、最終的には奪い取られるといった疑いを持っていたとみられる。 結局、桂は小村に従うのだが、突然の破棄にハリマンの怒りは収まりがつかなかった。以後、日本とアメリカは対極の立場をとるようになる。

対立深める日米

 こと満州のことになるとアメリカの態度は執拗(しつよう)だった。明治42年、日露両国が握る満州内を走る鉄道の権益を中立化させて自分たちを含む共同管理を提案したほか、清国と満鉄に並走する鉄道建設なども計画するが、失敗に終わる。 それでも諦めないアメリカは大正11年、ワシントンに主要9カ国を集めた軍縮会議を開催すると、日英同盟破棄や清国崩壊後に成立した中華民国への進出の抑制など日本の弱体化を狙った合意を引き出す。 さらに満州を治める張作霖(ちょうさくりん)政権と満鉄に対抗する鉄道建設と同時に、満鉄とつらなる大連港に対抗し、大連と渤海(ぼっかい)湾を隔てた対岸に位置した葫芦島(フールータオ)に貿易港の建設も計画。中国の抵抗もアメリカの支援のもとで強まっていった。

 そんな中、昭和6年に奉天郊外で起きた満鉄爆破事件に端を発した中国との武力衝突(満州事変)に続いて、6年後には北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で中国・国民党軍との紛争が発生するなど戦線は拡大する一方だった。 そんな強気の姿勢を崩さない日本に業を煮やしたアメリカは、「中国でのアメリカの権益が日本軍に侵害された」として14年に日米通商航海条約破棄を通告する。 つまり、資源に乏しい日本にガソリンや鉄など戦争継続に必要な物資の輸出を禁じたことで日本の弱体化を図ろうとしたのだ。

 はじめは動揺を隠せなかった日本だったが、東南アジアの資源地帯に目をつける。当時、協調関係にあったドイツがフランスに勝っち、フランス領インドシナ(仏印=現在のベトナム・ラオス・カンボジア)がパックリ口を開けて待っていたからだ。 だがアメリカにとっても仏印は、中国側に物資を送る輸送ルート上にあったたため、日本軍の仏印進駐を強硬に反対する。

161NAME:2015/04/10(金) 23:54:34
ニイタカヤマノボレ

 昭和15年、日本軍はそんなアメリカのいらだちを知りながら北部仏印に進駐すると、ドイツ、イタリアと軍事同盟を締結。16年には南部仏印に進出したことでアメリカとの対決姿勢はさらに鮮明となった。 そんな状況下、連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、アメリカと戦うならばまずハワイのアメリカ太平洋艦隊を潰し、その後の戦いを優位に進めるしかないとして航空機による攻撃を計画する。 航空母艦(空母)6隻と航空機400機という世界でも類例のなかった機動部隊を編成すると、対米交渉中にもかかわらず、宣戦布告直後の奇襲攻撃を狙って11月22日、ハワイに進路をとった。

 それから10日後にあたる12月2日、荒れ狂う太平洋上を進む空母「赤城」の艦橋内で、機動部隊の指揮をとる南雲忠一中将は依然として定まらない対米交渉の行方を気にしながら、雨と波がたたきつける窓の外をみつめていた。 結果次第では引き返すことも考えられたが、午後5時半、ドアが開き、やや興奮の様子で入ってきた通信参謀が「長官、電文であります」と山口の連合艦隊から送られた電文を差し出してきた。 南雲が「読め」と静かに指示すると、しっかりした口調で「本文、ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」と読み上げた。12月8日に開戦すべしとする内容だった。 ニイタカヤマ(新高山)は、日本が当時、統治していた台湾の山(現在名は玉山)。標高が3、952メートルと富士山より高い、日本の最高峰だった。 電文を聞いた南雲は隣の参謀長、草鹿龍之介少将の方を見て、「うまくいくのかな」と話しかけたともいわれている。

当時の世相映した国策映画「潜水艦1号」

 対中戦争を進める日本は昭和14(1939)年に映画法を制定すると、「海軍爆撃隊」「燃ゆる大空」などといった、娯楽色を廃して軍国主義を強めた映画の製作を強制的に進めるようになる。「潜水艦1号」もそんな1本。 アメリカと対決色を強めていった昭和16年5月に公開されている。明治43年、技術的に未熟の域にあった潜水艇の艇長として乗り込んだ久間勉大尉は沈没事故で生命が絶望視される中、冷静に艇内の様子を記録した精神力は当時の軍人の手本ともされていた。 映画は、そんな佐久間大尉の故郷で育った少年2人のうち、1人がのちに潜水艦の設計士として最新鋭艦を設計し、もう1人が艦長としてその艦に乗り込んで試験航海に臨むといった内容になっている。 まだ戦闘シーンがあるわけではないが、「必ず米英と戦うときが来る」と艦内の居住性を廃して、武器などに重点を置いて新鋭艦開発を進める姿に、当時の緊迫した世相を垣間見ることができる。(園田和洋)

162NAME:2015/04/13(月) 02:44:12
特攻の日本兵、米兵が「日の丸」で覆い手厚く水葬 ハワイの企画展、新たなエピソードも
2015.4.12 21:38更新
http://www.sankei.com/life/news/150412/lif1504120045-n1.html

戦時中、米戦艦ミズーリに特攻して死亡した日本兵は手作りの「日の丸」で覆われ、米兵に手厚く水葬されていた-。米・ハワイの真珠湾に係留されている戦艦ミズーリ記念館で始まった特攻企画展では、関係者も新たに知るエピソードが披露され、日米の出席者が交流を深めた。 企画展開催のきっかけになったのは、昨年12月7日付産経新聞朝刊(一部地域は6日付朝刊)に掲載された本紙写真企画「戦後70年〜記憶の風景」を「知覧特攻平和会館」(鹿児島県南九州市)管理係の桑代睦雄さん(54)が目にしたことだった。

 「特攻機が突入した戦艦と分かっていても、多くの人が詳しい歴史を知らないのでは…」 記事を読んだ桑代さんが疑問を感じ、産経新聞社を通じて戦艦ミズーリ記念館に連絡を取り、「後世に事実を正しく伝える必要がある」と一致。桑代さんが今年3月、同記念館に赴いた。 記念館で桑代さんは、新たな事実も知った。昭和20(1945)年4月11日、鹿児島県の喜界島沖で特攻機がミズーリ右舷後方に突入した際、操縦していた日本兵は艦上で戦死していたが、乗組員は手作りの日の丸で遺体を覆い手厚く水葬、記録写真も残っていたことなどだ。

「双方が憎み合っていないことが分かり、一緒に事実を伝える催しを開きたいと思った」。桑代さんはこう振り返った。 企画展での展示品は遺書や手紙の複製、軍服など19点と隊員の写真約80枚。特攻の傷跡が残る甲板で行われた式典では、戦死した隊員が恋人にあてた「会いたい…」と、つづった手紙が日本語と英語で紹介され、出席者が涙する一幕もみられた。

 式典終了後、南九州市の霜出(しもいで)勘平市長(74)ら日本側関係者は、戦艦ミズーリ記念館のマイク・カー館長(65)から特攻を受けた当時の説明を聞くなどして親交を深めた。 カー館長は「日米が協力して実現した展示を誇りに思う」と語り、霜出市長も「特攻の資料を持つ日本の施設と特攻を受けたミズーリの記念館が協力する意義は大きい。今後もさらに理解を深め事実を伝えたい」と話していた。企画展は11月11日まで。(米ハワイ 鈴木健児)

163NAME:2015/04/13(月) 02:49:36
【月刊正論】
これが戦後の元凶だ! 米占領軍の日本洗脳工作「WGIP」文書、ついに発掘
2015.4.8 03:04更新
http://www.sankei.com/life/news/150408/lif1504080003-n1.html

WGIP(War Guilt Information Program)とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画です。 はじめに何故、私がWGIPを取りあげたのか、という理由から述べます。WGIPが行われたのは今から約70年前ですが、決して過去の話ではありません。むしろ今でも効き目を発揮し、ますます毒性が強まっている、いわば現在進行中の話なのです。

 WGIPが残した毒は、政、財、官、法律、教育等あらゆる分野で、今も枢要の地位を占める人を含む、多くの日本人の思考を今も縛っています。最近も、戦後70年の首相談話を検討する「21世紀を構想する有識者懇談会」の北岡伸一座長代理が、「総理に侵略だといわせたい」などと、およそ信じがたい発言をされました。自民党の三役の一人が、「慰安婦問題は終わっていない」などと、歴史事実を知りもせず、韓国に媚びた発言をする光景には、あきれ返るばかりです。普通の国では起こりえない、自虐的な発想や、非常識な外交対応などが頻発する背景には教育などさまざまな要因があるでしょう。ですがその源流はWGIPによる洗脳にほかなりません。そしてその洗脳から日本人は解放されていないのです。

このままでは日本は、どうかなってしまうのではないか。諸悪の根源を突きとめ、その元凶を絶つ必要がある。そのために多くの日本人にWGIPについてしっかりとした認識を持って欲しいという思いがありました。 WGIPについてはこれまで、江藤淳氏や高橋史朗教授が、立派な著作を残されています。なぜ、私が屋上屋を重ねるようなことをするのかという疑問もあるかもしれない。ですがインターネット上の百科事典とされるウィキペディアにはWGIPについてこう書かれているのです。

《文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』(1989年)において、この政策の名称がGHQの内部文書に基づくものであると主張し、江藤の支持者らが肯定的にこの名称を使用している。しかし、この内部文書そのものは江藤らによって公開されておらず、実在するかどうか明確ではない》 今や一部では存在すら危ぶまれているのです。現資料が紛れもなく存在することを世の中に示したい。それがWGIPの文書を探し始めた大きな理由でした。

ピンポイントで文書を特定する困難

 そのようなわけで文書を探し始めた私はまず私は国会図書館に足を運びました。検索で資料が出ないか、と試みましたがどうにもうまく進みません。自宅でも検索を重ね、目当ての文書がどうやら明星大学(東京都日野市)戦後教育史研究センターに所蔵されていることがわかりました。早速、明星大学に足を運びましたが、2万5千点もの膨大な資料があって、この中から目当ての文書を特定しなければなりません。全ての文書に目を通すことは到底できないし、絞るにしても目録だけで500ページ近くあって、至難のワザでした。

164NAME:2015/04/13(月) 02:53:00
高橋史朗教授や勝岡寛次氏にもアドバイスをいただき、さらに私なりの“読み”を加えながら、丹念に絞り込んでいきました。そしてようやく目指す文書を手にすることができました。ここにその文書のリスト(表1)を示します。「江藤らによって公開されておらず、実在するかどうか明確ではない」というウィキペディアの記述が誤りであることがこれで明白になりました。

日本人洗脳工作の構図

 まず、ブロックダイヤグラム(図1)を見て下さい。文書に入る前に、洗脳作戦の全体的構図を説明し、その中でWGIPとは何かを説明します。 占領下の日本人洗脳作戦において、実際、一番権力を持っていたのは、アメリカ本国の大統領府であり、当時の大統領トルーマンは、極め付きの反日、侮日主義者で、原爆投下については、「獣を扱うには、獣にふさわしい方法でやった」と、日本人を獣扱いしていたと言われています。 それに比べると、日本に進駐してきた軍人は、進駐当時こそ、JAPとか黄色い猿とか言っていた人も、暫く経つと親日的に変わっていった人が多かったようです。特に、海軍の場合は、海軍同志で、戦前から交流の機会が多く、特にワシントン海軍軍縮交渉で知り合った同志は、終戦直後でも、比較的友好的な交流があったようです。

日本で最高権力者として権勢を誇ったマッカーサーですが、最後はアメリカ大統領には適いませんでした。後に、朝鮮戦争での原爆使用の可否で意見が対立し、トルーマンによって解任されています。 日本の中での最高権力組織は、もちろんGHQですが、これは正確には、GHQ/SCAPという名称でした。GHQは、General Headquartersの略で、いわゆる総司令部、SCAPは、Supreme Commander for the Allied Powers(連合国総司令官)の略です。マッカーサーは、両方を兼ねています。 このGHQ/SCAPの下に、WGIPの主役となる、CIE或いはCI&E(民間情報教育局)や、G-2(参謀第2部)、CIS(民間諜報局)或いは、CCD(民間情報検閲支隊)、極東国際軍事法廷(いわゆる東京裁判法廷)などがあり、そして日本政府も、この一翼を担っていたわけです。

 CIEは、日本人を洗脳するために、どのように日本のメディアを操り、どのような情報を流すかを考え実行したわけです。その内容が、私が収集した原資料に繰り返し出てきます。これに対して日本人に知られたくない情報を日本人から隠したのが、焚書(占領軍にとって有害な図書の没収)や、報道の削除や禁止を定めた命令でした。 しかし、いずれの場合でも、占領軍は、日本の一般人に対しては直接実行する方式ではありませんでした。日本政府や日本の報道機関を通じて実施した間接統治であったことが、この作戦の巧妙な所であり、多くの日本人は、それらの思想が、占領軍から押し付けられたことに気づかない。日本政府や日本人自らが行ったと錯覚させられてしまう。そういう巧妙な構造のもとで進められました。

165NAME:2015/04/13(月) 02:54:03
WGIPとは何か

 東京裁判と「日本=戦犯国家」という刷り込みは、どのように行われたのでしょう。前段でも触れましたが、WGIPは、占領軍が行った日本人洗脳作戦の中核をなすものです。そして、そのなかで最優先かつ最重要な案件が、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)です。 そのことは、最初に紹介するCIE文書にも-まだウォーギルトインフォメーションプログラムという言葉はこの時点では使われてはおらず「インフォメーションプラン(Information Plan)」となっていますが-出てきます。

 まず昭和20(1945)年12月21日付で、GHQ/SCAPから出されたものと思われる、CIEの局長あての文書をご覧下さい(写真(1)(2)と英訳)。 これは、日本の占領初期に出されたものです。非常に基本的ですが、その後の作戦の主要部分の根幹を示す重要な文書です。その3ページ分の英文の全訳を示しました。下記にその趣旨を説明します。 この文書の原文には、各ページの上下に、極秘(Confidential)と表示されていて、日本人には見せたくない文書であることを示しています。

 WGIPには、積極的に日本人を洗脳する作戦と、アメリカにとって都合の悪いことを糊塗する作戦の二つの側面がありますが、この文書では、積極的に日本人を洗脳する作戦の基本が書かれています。 この文書は、I、II、IIIの3部からなっており、第I部は、日本の戦争犯罪を定義したものであり、極東国際軍事裁判(東京裁判)における、戦犯訴追の基本をなす、非常に重要なものです。CIE文書の始めに出てくるということは、東京裁判が、WGIPの1丁目1番地であることを示しています。

ここで述べられた、BおよびCは、それほど不当な内容ではありませんが、Aに書かれていること(いわゆるA級戦犯の訴追原因)は、非常に問題があります。これは、一般に事後法で裁いたと批判されていますが、反論する人は、おそらく1928年のパリ不戦条約(Pact of Paris)、別名ケロッグ=ブリアン条約(Kellogg-Brian Pact)を持ち出してくると思われます。このパリ不戦条約も考慮しながら、このA項を考察、批判してみましょう。続きは月刊正論5月号でお読みください

関野通夫氏 昭和14年神奈川県鎌倉市生まれ。39年、東京大学工学部航空学科卒業後、本田技研工業に入社。フランス、イランなど海外駐在が長く、米国ではホンダ関連法人の社長を務めた。平成13年に退職。実務翻訳に従事。

166NAME:2015/04/13(月) 23:10:19
【両陛下パラオご訪問】
「慰霊の旅」の集大成 示された「覚悟」
2015.4.9 22:56更新
http://www.sankei.com/life/news/150409/lif1504090037-n1.html

天皇、皇后両陛下は9日、先の大戦の激戦地だったパラオ共和国ペリリュー島の慰霊碑で戦没者を追悼し、海外での2度目の「慰霊の旅」を無事に果たされた。戦後70年の節目だけでなく、疎開などでご自身も戦争を体験した80代の両陛下にとり、平和への祈りの集大成ともいえるこの旅で「不変」の強い覚悟を自らのお姿で示された。 日本軍約1万人が犠牲になったペリリュー島の最南端に建てられた「西太平洋戦没者の碑」。両陛下は日本から持参した白菊の花束を手向け、深々と一礼された後、海の先に望むアンガウル島にも拝礼された。

 日本軍約1200人が命を落としたアンガウル島への拝礼は、ご訪問直前に天皇陛下のご意向で急遽(きゅうきょ)予定に入れられた。この機会に、より多くの英霊の鎮魂を祈り、思い残すことがないように務めを果たされる強い決意が垣間見える。 疎開体験を原点に、平和への思いを高めてこられた両陛下。沖縄戦の組織的戦闘終結の日(6月23日)、広島、長崎の原爆の日(8月6、9日)、終戦の日(同15日)を「忘れてはならない」4つの日として挙げ、戦後50年の平成7年、広島、長崎、沖縄、東京・下町の戦地を巡る初めての「慰霊の旅」を行われた。

次いで、そのお心は「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々」(8日のパラオ訪問ご出発前のお言葉)に向けられる。戦後60年の17年6月に初の海外での慰霊を米自治領サイパンで果たされた。 だが、側近が「両陛下のお気持ちは不変」と強調する通り、ほかの島々での戦没者への思いも持ち続けられた。サイパン訪問後の17年12月のお誕生日会見で陛下は「心の重い旅でした」と述べられたが、両陛下ともに80代となって迎えた戦後70年の節目はとりわけ重い。

 サイパンから両陛下が年齢を重ねられたのと同じく、生還者や遺族も高齢化が進んでいる。パラオご訪問を前に、両陛下がペリリュー島の戦いの「生の証言」をお聞きになれたのはわずかに2人だった。 パラオご訪問は集大成の一つではあるが、「サイパンの後にパラオ、パラオが終わったら次のことをお考えになる。両陛下の戦没者慰霊のお気持ちに終着点はない」(宮内庁幹部)。9日夜、羽田空港に戻られた両陛下を、その思いを引き継ぐ皇太子さま、秋篠宮さまが出迎えられた。(伊藤真呂武)

167NAME:2015/04/13(月) 23:10:19
【両陛下パラオご訪問】
「慰霊の旅」の集大成 示された「覚悟」
2015.4.9 22:56更新
http://www.sankei.com/life/news/150409/lif1504090037-n1.html

天皇、皇后両陛下は9日、先の大戦の激戦地だったパラオ共和国ペリリュー島の慰霊碑で戦没者を追悼し、海外での2度目の「慰霊の旅」を無事に果たされた。戦後70年の節目だけでなく、疎開などでご自身も戦争を体験した80代の両陛下にとり、平和への祈りの集大成ともいえるこの旅で「不変」の強い覚悟を自らのお姿で示された。 日本軍約1万人が犠牲になったペリリュー島の最南端に建てられた「西太平洋戦没者の碑」。両陛下は日本から持参した白菊の花束を手向け、深々と一礼された後、海の先に望むアンガウル島にも拝礼された。

 日本軍約1200人が命を落としたアンガウル島への拝礼は、ご訪問直前に天皇陛下のご意向で急遽(きゅうきょ)予定に入れられた。この機会に、より多くの英霊の鎮魂を祈り、思い残すことがないように務めを果たされる強い決意が垣間見える。 疎開体験を原点に、平和への思いを高めてこられた両陛下。沖縄戦の組織的戦闘終結の日(6月23日)、広島、長崎の原爆の日(8月6、9日)、終戦の日(同15日)を「忘れてはならない」4つの日として挙げ、戦後50年の平成7年、広島、長崎、沖縄、東京・下町の戦地を巡る初めての「慰霊の旅」を行われた。

次いで、そのお心は「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々」(8日のパラオ訪問ご出発前のお言葉)に向けられる。戦後60年の17年6月に初の海外での慰霊を米自治領サイパンで果たされた。 だが、側近が「両陛下のお気持ちは不変」と強調する通り、ほかの島々での戦没者への思いも持ち続けられた。サイパン訪問後の17年12月のお誕生日会見で陛下は「心の重い旅でした」と述べられたが、両陛下ともに80代となって迎えた戦後70年の節目はとりわけ重い。

 サイパンから両陛下が年齢を重ねられたのと同じく、生還者や遺族も高齢化が進んでいる。パラオご訪問を前に、両陛下がペリリュー島の戦いの「生の証言」をお聞きになれたのはわずかに2人だった。 パラオご訪問は集大成の一つではあるが、「サイパンの後にパラオ、パラオが終わったら次のことをお考えになる。両陛下の戦没者慰霊のお気持ちに終着点はない」(宮内庁幹部)。9日夜、羽田空港に戻られた両陛下を、その思いを引き継ぐ皇太子さま、秋篠宮さまが出迎えられた。(伊藤真呂武)

168NAME:2015/04/13(月) 23:13:52
【戦後70年】
「亡くした戦友、片時も忘れぬ」 語り継ぐ使命感、元特攻隊員は封印した口を開いた 「ようやく…。悔いはありません」
2015.2.15 00:00更新
http://www.sankei.com/life/news/150215/lif1502150018-n1.html

特攻隊員として出撃した福岡県豊前市の末吉初男氏(87)が14日、同県筑前町のめくばーる町民ホールで講演し、「亡くした戦友は片時も忘れたことはない。自分だけ生き残り、申し訳ない気持ちでいっぱい」と胸中を語った。末吉氏が戦争体験を語るのは初めて。戦後70年を迎え、語り継がなければならないという使命感から、重い口を開いた。(大森貴弘)

厳しい訓練受け特攻隊に

 講演会は町立大刀洗平和記念館が、戦後70年企画として末吉氏を説得して実現。県内各地から約300人が集まった。 末吉氏は福岡県岩屋村(現豊前市)に生まれ、門司市(現北九州市)の荷役会社で働きながら、夜は旧制門司中学の定時制に通っていた。戦争が激しさを増す中、陸軍少年飛行兵に応募し、昭和18年10月に大刀洗陸軍飛行学校に入校した。 厳しい訓練の後、19年に台湾の部隊に配属され、20年4月、特攻隊「誠第121飛行隊」として沖縄近海に出撃を命じられた。97式戦闘機4機編隊で飛行中、隊長機にエンジントラブルが発生、全機が石垣島への不時着を余儀なくされた。

「故郷の誉れ」に喜び

 末吉氏は飛行学校に入校が決まったとき周囲から「故郷の誉れ」とたたえられたことに喜びを感じ、「これでやっとお国のために戦える。意気揚々と学校の門をくぐった」という。 また、特攻を命じられても「志願した覚えはなかったが、特に何も思わなかった。それが当たり前。まして、怖いなどとはみじんも感じなかった」と述べ、「考えていたことは一つだけ。戦友に後れを取ってはいけない。今では、なぜそんな心境だったのか、不思議になる」と振り返った。

 本当の苦しみは特攻に失敗し、台湾や日本に戻ってからだった。 石垣島に不時着した後、米軍機の空襲に遭うなど、命からがら1カ月後に台湾に戻ったものの、当時上官から「無事の生還を遺憾に思う」、「戦闘機は1機3万円だ。貴様らはそれを壊して生きて帰った」などと言われ、針のむしろだったという。

再出撃の命令出ぬまま

 その後は機体が足りないこともあり、再出撃の命令は下されないまま終戦を迎えた。軍服を落花生やバナナと交換して食いつなぎ、21年2月、故郷に帰った。 だが、故郷には帰りを喜んでくれる家族の姿はなかった。19年9月に起きた水害で家が流され、両親と妹は亡くなっていた。 「自分の身代わりになってくれたのかと思った。母方の実家に身を寄せ、ひっそりと暮らしていこうと決めた。特攻の死に損ないなんてみっともない」 こんな思いが頭を離れなかったことが、特攻や戦争体験を誰にも話さないことにした理由だ。

友の冥福祈るしか

 ただ、台湾で共に訓練をした多くの戦友の名前や顔は、片時も忘れたことはなかった。16〜18歳という若さで命を落とし、靖国神社に祀(まつ)られた戦友たちに対しては「ただただ、冥福を祈ることしかできなかった」と無念さを滲(にじ)ませた。 今回、体験を話す決意をしたことについては「生き恥をさらしたくないという思いがあり、戦後は家族にすら話したことがなかった。だが、今回、平和記念館の説得で、語り継がなければならないと感じた。あんな悲惨な戦争を二度と起こさないために役立つなら、壇上に立とうと思った」と語った。 末吉氏は約1時間に及ぶ講演終了後こうつぶやいた。 「ようやく、肩の荷が下りたような気がします。もう、いつ死んでも悔いはありません」

母の手紙にすすり泣きも

 会場では、飛行学校に入校した直後に母から送付された手紙の一部が紹介された。 「毎日忘れん初男さんへ(中略)今年はお祭りが大変面白かったですよ。でも青年を見るとあなたを思い出すばかりです。(中略)干し柿でもこしらえて送りましょうか。何でも欲しいときに申してください。何でも送ります」 息子を案じる母の心境が綴られており、会場からはすすり泣く声が漏れた。

169NAME:2015/04/22(水) 06:31:51
しかし日本の戦後教育では、「WWⅡを早く終わらせるために原爆投下はやむをえなかった」と
教育されてきたのでそう思い込んでいますし、天皇もそのような発言をされているのです。
http://blog.goo.ne.jp/55yasuji/m/201411/1

170NAME:2015/05/22(金) 15:27:07
ポツダム宣言「本当に読んでないようだ」 志位氏が皮肉
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%83%9d%e3%83%84%e3%83%80%e3%83%a0%e5%ae%a3%e8%a8%80%e3%80%8c%e6%9c%ac%e5%bd%93%e3%81%ab%e8%aa%ad%e3%82%93%e3%81%a7%e3%81%aa%e3%81%84%e3%82%88%e3%81%86%e3%81%a0%e3%80%8d-%e5%bf%97%e4%bd%8d%e6%b0%8f%e3%81%8c%e7%9a%ae%e8%82%89/ar-BBk6wv8#page=2

「事実誤認がある。本当に読んでいなかったことがうかがえる」。共産党の志位和夫委員長は21日の記者会見で、安倍晋三首相が20日の党首討論の際、第2次世界大戦で米・英・中の三国が日本に降伏を勧告したポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」と答弁したことについて、こんな皮肉を飛ばした。

 志位氏は、自民党幹事長代理だった首相が月刊誌「Voice」2005年7月号の対談で、「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ」と語っていたと指摘。だが、宣言は1945年7月26日に米英中の名で発表され、同8月6日と9日の原爆投下後、日本が同14日に受諾を決定した。志位氏は「(宣言は)二つ原爆が落ちた後に『たたきつけられた』ものではない。事実誤認がある」と述べた。

 20日の党首討論では、志位氏がポツダム宣言について「日本の戦争について世界征服のための戦争であったと明瞭に判定している。総理はこのポツダム宣言の認識を認めないのか」と質問。首相は直接答えず、「その部分をつまびらかに読んでいないので、直ちに論評することは差し控えたい。先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがある」と述べていた。

171NAME:2015/06/01(月) 02:20:00
アメリカ人の6割強が「日本は戦争謝罪の必要ない」 中国、韓国の“執拗な”要求は的外れ?
2015/05/14
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE6%E5%89%B2%E5%BC%B7%E3%81%8C%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%81%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%9F%B7%E6%8B%97%E3%81%AA%E2%80%9D%E8%A6%81%E6%B1%82%E3%81%AF%E7%9A%84%E5%A4%96%E3%82%8C%EF%BC%9F/ar-BBjNkGh#page=2

4月29日、安倍晋三首相が日本の首相として初めて、アメリカの上下両院合同会議で演説を行った。アメリカの議員の琴線に触れるキーワードを散りばめた演説は、党の区別なく絶賛された。 この演説は、日本のメディアでも大きなニュースとなったが、歴史的な出来事にもかかわらず、国民の関心度は低いように感じられた。それは、「政治的無関心」の空気が、日本全体を覆っているからではないだろうか。

 インターネット調査会社のマクロミルが定点観測している「MACROMILL WEEKLY INDEX」のデータから、「政治関心度」を見てみよう。昨年11月第3週時点の65.9ポイントを頂点に減少傾向にあり、安倍首相の演説直前(4月第4週)では、56.4ポイントと9.5ポイント減少していた。 さらに、同データの「政治テーマ」(関心のある国の政策テーマ)を見てみると、「外交・安全保障政策」は今年2月第1週の35.9ポイントから減少傾向にあり、4月第4週で24.1ポイントと、実に11.8ポイントも下げていた。

 政治的無関心が顕著に表れたのは、2014年12月に行われた衆議院議員総選挙だ。小選挙区の投票率は52.66%と、戦後最低を記録した。4月に行われた統一地方選挙の投票率も、前半戦は38の道府県で過去最低を記録、後半戦も市長選、市議選、町村長選などで過去最低が相次いだ。

 安倍政権が長期政権となる可能性が高まった一方、国民の政治的関心はさらに低くなっていきそうだ。安定的な政権が誕生したから関心が低くなったのか、関心が低くなったから安定的な政権が誕生したのか。「卵が先か鶏が先か」のような話になるが、いずれにしても、政治的関心の低下は権力チェックの緩みにつながり、政治的暴走を許しかねない。 我々国民は、安定的な政権の時こそ、政治的関心を高めるように努力しなければならないのだ。

172NAME:2015/06/02(火) 22:57:24
【サイパン戦跡】
自分探し?イスラムに行くより「戦跡巡りをしなさい」
2015.6.2 14:00更新
http://www.sankei.com/life/news/150602/lif1506020013-n1.html

現地のチャモロ人と結婚したバルシーナス米子さんが米自治領・北マリアナ諸島のサイパン島で観光コースから外れた戦跡巡りのガイドを始めたのは十数年前のことだった。日本からやってくる慰霊団を見掛けては「案内してあげたい」と思っていたという。 逸話が映画「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」にもなった大場栄大尉とともに終戦を知らず山にひそみ、3カ月半にわたり抵抗を続けた帰還兵が尋ねてきたこともある。

「麓で(米兵が)映画鑑賞会をしている間に缶詰を盗んだ」「懸賞金が掛けられていたから、大場大尉よりも堀内上等兵の方が有名だった」などと当時のことを淡々と振り返っていくそうだ。 米軍上陸時に奮戦した黒木大隊が使用した十五センチ榴弾砲が、山間部の谷地にある民間私有地に残る。満州から転戦した1915年製の兵器が錆だらけながらも形をとどめ、近くには隊員の名前が刻まれた慰霊碑と「黒木大隊玉砕の地」の碑が建つ。普段は柵に鍵が掛けられ、訪れる日本人は皆無という。

テニアン島に近いアギガン岬にトーチカが1つだけポツンと残る。壁は厚く頑丈な造りだ。迎撃戦の指揮を執る南雲忠一海軍大将に自信満々で披露したが、指揮官は「1つだけあってもしょうがない」と冷たくあしらったという。壁には艦砲射撃を受けた跡が大きく残っていた。 サイパン陥落後は米軍のB29爆撃機の基地となったアスリート飛行場に戦車、高射砲、弾薬庫のほかいつくかの防空壕が残る。中に入ってみた。暗くて狭くて息苦しい。時間帯によっては暑さも相当なものだろう。台風襲来の際は今でも避難所として活用しているという。

「子供が泣くと『出てけ』と言われたそうです」。米子さんの声が防空壕で反響する。「サイパンは民間人を巻き込んだ最初の激戦地だった。帰れない軍人以外の日本人は2万人、チャモロ人やカロニアンの現地人も1000人くらい死んだ。迷惑な戦争だ」「自分探しとか言ってイスラムに行く若者がいるけど、サイパンの戦跡を回ってほしい」。米子さんは強く訴えた。(産経デジタル 長浜明宏)

173NAME:2015/06/05(金) 20:46:34
ブルース・ウィリス、旧日本軍の「重慶爆撃」題材の中国映画に出演へ フライング・タイガース教官役
2015.6.5 17:26更新
http://www.sankei.com/world/news/150605/wor1506050031-n1.html

【ロサンゼルス=中村将】日中戦争中の旧日本軍による重慶爆撃を題材にした中国映画「大爆撃」(仮題、蕭鋒監督)に、米ハリウッド俳優、ブルース・ウィリス氏(60)が、主役級で出演する契約を中国側と結んだ。ウィリス氏の広報担当者が産経新聞に明らかにした。中国は、終戦70年の今年を「抗日戦争勝利70年」としており、今年末か、遅くとも来年初めまでの作品公開を目指す。

 映画は、中国の国有大手映画会社「中国電影集団公司」などが共同で制作。ウィリス氏は中国側と先週契約し、今月2日、中国・上海に向かった。現地での撮影は計8日間という。 米芸能誌「バラエティー」によると、制作費は約9千万ドル(約111億6千万円)で、中国映画としては最高レベルという。一方、中国側では制作費を3億5千万元(約70億円)と伝えている。 今回の映画は、旧日本軍の爆撃で被害を受けた重慶市民を中心にストーリーを展開。ウィリス氏は中国空軍を支援した米義勇航空部隊「フライング・タイガース」の飛行教官役。韓国メディアによると、韓国人気俳優、ソン・スンホン氏(39)も戦闘機の搭乗員を演じるという。

重慶爆撃は1938年12月から43年8月にかけて、当時の中国政府が首都機能を移した重慶に対して行われた。中国は爆撃による死者が市民ら少なくとも「1万人以上」だとして日本の戦争責任を追及してきた。映画にもこうした視点が反映される可能性がある。 ウィリス氏は米アクション映画「ダイ・ハード」(1988年)で主役を演じた人気俳優。同シリーズは「ダイ・ハード/ラスト・デイ」(2013年)まで5作が上映されている。「アルマゲドン」(98年)などでも主役を演じた。

174NAME:2015/06/08(月) 22:28:40
【歴史戦】
GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明
元米外交官、ジョン・エマーソンが米上院小委員会で証言した記録 (英国立公文書館所蔵)
2015.6.8 07:40更新
http://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n1.html

占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至るまで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。(編集委員 岡部伸)  文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)にあった。

 44年11月に米軍事視察団の戦時情報局(OWI)要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と証言。さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)の対日政策に貢献できると思った」と述べている。

エマーソンは後に「(延安での収穫を元に)日本に降伏を勧告する宣伝と戦後に対する心理作戦を考えた」(大森実『戦後秘史4赤旗とGHQ』)と告白した。エマーソンが「対日政策に貢献できる」と証言した「心理戦」は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付けるもので、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分法」によるプロパガンダ(宣伝)だった。

 GHQは、終戦直後の昭和20年9月に「プレスコード」(新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで検閲を実施。10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周知徹底する」との一般命令第4号を出した。さらに、12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送させ、戦勝国史観を浸透させた。

自虐史観、今も日本人に影響 軍国主義者と国民「二分法」駆使

 日本人にさきの戦争への罪悪感を植え付けた連合国軍総司令部(GHQ)の「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」。その原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党による日本軍捕虜に対する「心理戦」にあった。

「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙にいとまがない」

 昭和20年12月8日、GHQの民間情報教育局(CIE)に強要され、新聞各紙が連載を始めた『太平洋戦史』では、「大東亜戦争」を公的に使用禁止し、冒頭から「真実を隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだまされた国民」を二分して対峙(たいじ)させ、日本が非道極まりない国だったと全国民にすり込んだ。それは現在も国民的な「神話」となっている。

175NAME:2015/06/08(月) 22:29:26
 文芸評論家の江藤淳は『閉された言語空間』で、WGIPと規定し、「日本と米国との戦いを、『軍国主義者』と『国民』との戦いにすり替えようとする」と指摘。『軍国主義者』と『国民』の架空の対立を導入して、「大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、『軍国主義者』が悪かったから起(おこ)った災厄」と米国の戦争責任を『軍国主義者』に押しつけたと指摘した。

 『軍国主義者』と『国民』の対立という「二分法」の「洗脳」を1944年11月、延安で学んだのがGHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官を務めたジョン・エマーソンだった。

英国立公文書館所蔵の秘密文書によると、エマーソンは57年3月12日、米上院国内治安小委員会で、初期GHQが民主化のため日本共産党と手を握ったことを認めている。 エマーソンは戦前の36年から41年までと、終戦直後の45年から46年、さらに62年から66年まで3度日本に駐在した日本専門家。占領初期は政治顧問として対敵諜報部に所属した。エマーソンが『戦後秘史4』で大森実に語ったところによると、ルーズベルト大統領のニューディール支持者で大戦中は米戦時情報局(OWI)要員として中国・重慶に赴任し、中国共産党・八路軍の対日心理作戦の成功に注目し、戦後の占領政策を視野に経験に学ぼうとした。

 エマーソンらOWIのスタッフが作成した『延安リポート』(山本武利編訳)によると、野坂らは、天皇批判を軍国主義者に置き換え、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を呼びかける心理工作を繰り返し、贖罪(しょくざい)意識を植え付けた日本軍捕虜を反戦兵士に「転向」させるまで洗脳した。野坂の日本人民解放連盟は八路軍敵軍工作部と表裏一体で、彼らの工作は中国共産党によるものだった。 中国共産党は、反戦日本兵の育成を通じて、徐々に厭戦(えんせん)感と贖罪意識を強め、やがて日本人全体を精神的捕虜にする狙いだった。

中国軍が連合軍捕虜を外部隔離や尋問、集団・自己批判させて共産主義者に強制的思想改造したのは50年に勃発した朝鮮戦争が最初で、「洗脳」の新語が生まれたが、延安では集団批判で日本人捕虜に「洗脳」の原型といえる思想改造が行われた。

 エマーソンらGHQの実務家にとって延安で学んだ「捕虜」洗脳は、占領政策を遂行するためのよき「先例」となった。 GHQは、「洗脳」手法を積極的に取り入れ、東京裁判などの節目で展開し、「悪い侵略戦争をした」と日本人に自虐史観を植え付けたといえる。 (敬称略)

 二分法 「共通の敵を打倒するため連帯できる諸勢力と共闘する」との毛沢東の理論。中国共産党は、戦後一貫して少数の軍国主義者と大多数の日本人民を区分する対日外交政策を取っている。1972年の日中国交正常化の際、中国内の反日感情を抑制するための根拠として使われた。教科書問題や靖国問題でも同じ論法をとっている。(敬称略)

■反日プロパガンダ招いた壮大な「歴史戦」 外交評論家・加瀬英明氏

 「GHQは日本民族から独立心を奪い、精神を破壊して未来永劫(えいごう)にわたって属国とするためにWGIPを仕掛けた。軍国主義者と人民を区分する『二分法』は、毛沢東時代からの中国共産党の教化政策。米国は朝鮮戦争まで中国共産党と太いパイプがあり、エマーソンの証言通り、延安で成功した日本人捕虜に対する手法を占領政策で日本が二度と歯向かわないように利用したのだろう。その結果、自虐史観が蔓延(まんえん)し、『河野談話』『村山談話』のように日本人自身が過剰に自己否定し、中国、韓国の反日プロパガンダを招いた。壮大な『歴史戦』といえる」

【用語解説】「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」 GHQが占領政策として戦争に対する罪悪感を日本人に植え付けるため行った宣伝計画。日本の歴史や文化・伝統を破壊し、日本人自身が日本人を否定して精神を改造するよう誘導、原爆投下や大都市の無差別爆撃などを行った米国の正当化を図った。新聞や雑誌、ラジオを検閲し、占領政策にあうよう書き直させたり、発禁処分にしたりした。検閲に協力した日本人は数千人といわれ、メディアや官界、大学などで活躍した。

176NAME:2015/06/15(月) 23:10:52
【歴史戦】
GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明
2015.6.8 07:40更新
http://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n1.html

占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至るまで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。(編集委員 岡部伸)

 文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)にあった。

 44年11月に米軍事視察団の戦時情報局(OWI)要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と証言。さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)の対日政策に貢献できると思った」と述べている。

177NAME:2015/06/15(月) 23:36:02
中国で意外に多い「ゼロ戦」称賛・・・「最も美しい戦闘機」「米軍の胆を冷やした」など
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A7%E6%84%8F%E5%A4%96%E3%81%AB%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%80%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E6%88%A6%E3%80%8D%E7%A7%B0%E8%B3%9B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%80%8C%E6%9C%80%E3%82%82%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F%E3%80%8D%E3%80%8C%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E3%81%AE%E8%83%86%E3%82%92%E5%86%B7%E3%82%84%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%A9/ar-BBjfSQ7#page=2

中国ではかつての戦争の影響があり、「日本の古い伝統」に対して批判的な見方が目立つ場合がある。例えば武士道だ。実際には「主君への忠誠」、「親孝行」、「弱者を助ける」、「名誉を重んじる」との儒教の影響がみられる倫理観が強いにもかかわらず、「人殺しの原理」程度に認識する人が多い。 ところが、「零式艦上戦闘機(零戦、ゼロ戦)」の語で中国版ツイッター(微博、ウェイボー)で検索してみたところ、批判的な投稿はあまり見当たらない。逆に、「最も美しい戦闘機」「米軍の胆を冷やした」などの評価が目立つ。

 まずは、模型ファンがいる。「零式艦上戦闘機二一型を20機買ったよ」と収集に励んでいるとの自己紹介がある。さらに「初めて金属製の模型を作っていたけど、うまくいかないなあ。(中略)これじゃ何型か分からないよ。ピトー管は左翼につけるのだったかなあ?」と、マニアぶりを披露した人もいる。 零式艦上戦闘機を称讃する声としては「長距離飛行、強い戦闘力。米国と決死の戦い。1940-43年の損害率は零戦1で米軍機が6。米軍は胆を冷やした」、「この機(零戦)に乗る者は英雄中の英雄だった」などがある。

 零戦初の空戦について「1940年9月12日に壁山空戦が発生した。中国空軍の(ソ連製の)I-16とI-15が日本軍新鋭の零式艦上機に惨敗した。撃墜されたのは13機、損害を受けたのは11機だった」と紹介した書き込みもある(日本側記録では27機撃墜など。零戦は13機全機が帰還)。 零戦開発の責任者だった堀越二郎氏を紹介したり、生産した三菱重工業を「本当にすごい」と称賛する声もある。また、宮崎駿監督の「風立ちぬ」にも触れ、「(中国)国内では上映できない。われわれにとって一大損失としか言えない」と評した人もいる。

 中国で「日本の兵器」を称讃した場合、批判のコメントが殺到しそうだが見当たらない。一方で賛同のコメントも少なく、「ゼロ戦ファン」が、自分の思いをそれぞれ書き込んでいる状態だ。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:(C) Christopher Fell /123RF.COM、米国で保存され、ワシントン州で飛行する零戦。2013年6月撮影)

178NAME:2015/06/16(火) 20:57:02
日本は侵略国家か
http://ironna.jp/theme/238

連合艦隊はなぜロシアに勝てたのか
http://ironna.jp/theme/274

179NAME:2015/06/22(月) 04:32:51
【戦後70年】
謝罪マニアに告ぐ 「敗戦国」から脱却せよ 阿比留瑠比
2015.6.21 15:08更新
http://www.sankei.com/premium/news/150621/prm1506210022-n1.html
(1/8ページ)

「もはや戦後ではない」 経済企画庁(現内閣府)が経済白書にこう記述したのは昭和31年、今から60年近く前の話である。当時の鳩山一郎首相の孫で、ルーピー(クルクルパー)と呼ばれた鳩山由紀夫元首相が政界を引退してからも、すでに随分たつ気がする。 昭和60年の施政方針演説で中曽根康弘首相(当時)が「戦後政治の総決算」を訴えてからも、はや30年が経過した。あの時代を象徴したこの言葉も、もうあまり思い出されることもなくなった。

 それなのに、日本はいまだに「戦後」という堅牢な枠に閉じ込められたままだ。今年はメディアや国会で「戦後70年」が強調されており、戦勝国はお祭り気分ではしゃいでいるが、筆者はこの言葉を使うこと自体に抵抗を覚える。 なぜなら70年と言えば、人が生まれて学校へ通い、社会に出て年金受給者となる時間をさらに上回る長い歳月なのである。にもかかわらず「戦後」はいつまでたっても終わらず、日本はいつまでたっても内外で敗戦国、敵国の扱いに甘んじている。

 なんと非生産的で退嬰的な現状だろうか。もちろん、中国や韓国のように、建国の経緯から日本を執拗に悪者にし続けなければ正統性が保てない国もあるが、どうしてそんな相手国の勝手な事情にこっちが付き合わなくてはならないのか。 やはり、安倍晋三首相が第1次政権時代に掲げた「戦後レジームからの脱却」が必要である。これからの日本を背負う世代は、偽善と自己愛に満ちた内向きの反省と自虐の中に閉じ籠もることはやめ、国際社会で自国に自信と誇りを抱き、堂々と前を向いてほしい。

180NAME:2015/06/25(木) 20:57:35
日本サポーターの「旭日旗」没収・・・サッカー女子W杯、韓国人観戦客が発見して運営者に通報=韓国報道
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%97%97%E3%80%8D%E6%B2%A1%E5%8F%8E%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%A5%B3%E5%AD%90%EF%BD%97%E6%9D%AF%E3%80%81%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A6%B3%E6%88%A6%E5%AE%A2%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%81%A6%E9%81%8B%E5%96%B6%E8%80%85%E3%81%AB%E9%80%9A%E5%A0%B1%EF%BC%9D%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%A0%B1%E9%81%93/ar-BBl0IF6#page=2

8日にカナダ・バンクーバーで行われたサッカーの女子ワールドカップ(W杯)カナダ大会の日本女子代表(なでしこジャパン)とスイス代表との戦いで、日本のサポーターが「旭日旗」をスタジアムに持ち込んでいたと、複数の韓国メディアが報じた。 報道によると、旭日旗を見つけたのはカナダ在住の韓国人A氏。親戚と試合を観戦するためにスタジアムを訪れたところ、日本のサポーターが旭日旗を振りながら応援していたという。

 旭日旗を目の当たりにしたA氏は激怒し、すぐさま試合の運営スタッフに「旭日旗は帝国主義の日本が使っていた戦犯旗」と抗議した。報道によれば、この抗議を受けてFIFAの関係者が、旭日旗を没収したとのこと。 A氏は「日本チームの試合でいつも目にしていた戦犯旗がスタジアムから消えてとても嬉しかった。試合は日本が勝利したから悔しかったけど」と残念そうに話したという。

 韓国メディアは記事で、FIFAの規定には政治的活動が禁止されていることを説明した上で、「旭日旗やそれをイメージしたユニフォーム、応援道具がスタジアムに持ち込まれるケースは頻発している。ハーケンクロイツと同じで帝国主義と侵略の象徴物であるにも関わらず、FIFAの対処は寛大だ」とFIFAの対応を批判した。

 また、韓国サッカーファンは、旭日旗について抗議しなかったカナダのサッカーファンにも苛立ちを示している。カナダは太平洋戦争で日本と戦ったのに、なぜ怒らないのか、ということのようだ。 報道によると、韓国のSNSには「カナダの参戦した勇士たちに恥ずかしくないのか」、「欧米人は旭日旗を拒否するどころか好むこともある」、「韓国もスポーツ外交力をつけなければ」などの意見が書き込まれているという。(編集担当:新川悠)

181NAME:2015/06/27(土) 21:56:43
中国外相、「侵略受けた国と和解を」 戦後70年談話の安倍首相をけん制
2015.6.27 17:04更新
http://www.sankei.com/world/news/150627/wor1506270044-n1.html

中国の王毅外相は27日、北京で開かれている「世界平和フォーラム」で講演し「日本の指導者は歴史(認識問題)の被告席に立ち続けるのか、侵略を受けた国と和解するのか、これは日本が解決しなければならない重大な問題だ」と述べ、夏に戦後70年談話を出す安倍晋三首相を強くけん制した。 今年は「反ファシストと抗日戦争勝利70年」であり、「中国を含め世界各国は侵略を美化するいかなる言行にも反対だ」とも語った。(共同)

182NAME:2015/07/07(火) 22:19:54
アメリカ人の6割強が「日本は戦争謝罪の必要ない」 中国、韓国の“執拗な”要求は的外れ?
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE6%E5%89%B2%E5%BC%B7%E3%81%8C%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%81%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%9F%B7%E6%8B%97%E3%81%AA%E2%80%9D%E8%A6%81%E6%B1%82%E3%81%AF%E7%9A%84%E5%A4%96%E3%82%8C%EF%BC%9F/ar-BBjNkGh#page=2

4月29日、安倍晋三首相が日本の首相として初めて、アメリカの上下両院合同会議で演説を行った。アメリカの議員の琴線に触れるキーワードを散りばめた演説は、党の区別なく絶賛された。 この演説は、日本のメディアでも大きなニュースとなったが、歴史的な出来事にもかかわらず、国民の関心度は低いように感じられた。それは、「政治的無関心」の空気が、日本全体を覆っているからではないだろうか。

 インターネット調査会社のマクロミルが定点観測している「MACROMILL WEEKLY INDEX」のデータから、「政治関心度」を見てみよう。昨年11月第3週時点の65.9ポイントを頂点に減少傾向にあり、安倍首相の演説直前(4月第4週)では、56.4ポイントと9.5ポイント減少していた。 さらに、同データの「政治テーマ」(関心のある国の政策テーマ)を見てみると、「外交・安全保障政策」は今年2月第1週の35.9ポイントから減少傾向にあり、4月第4週で24.1ポイントと、実に11.8ポイントも下げていた。

 政治的無関心が顕著に表れたのは、2014年12月に行われた衆議院議員総選挙だ。小選挙区の投票率は52.66%と、戦後最低を記録した。4月に行われた統一地方選挙の投票率も、前半戦は38の道府県で過去最低を記録、後半戦も市長選、市議選、町村長選などで過去最低が相次いだ。 安倍政権が長期政権となる可能性が高まった一方、国民の政治的関心はさらに低くなっていきそうだ。安定的な政権が誕生したから関心が低くなったのか、関心が低くなったから安定的な政権が誕生したのか。「卵が先か鶏が先か」のような話になるが、いずれにしても、政治的関心の低下は権力チェックの緩みにつながり、政治的暴走を許しかねない。 我々国民は、安定的な政権の時こそ、政治的関心を高めるように努力しなければならないのだ。

さて、ここでもう一つ興味深い統計データを見てみよう。アメリカのピューリサーチセンターが4月7日に発表した、アメリカ人の日本に対する印象の調査である。「第二次世界大戦中の行いについて、日本は十分な謝罪をしたか」という質問について、「日本はすでに十分な謝罪をした」が37%、「謝罪は必要ではない」は24%で、合計61%のアメリカ人が、日本について「十分な謝罪をした、あるいは謝罪は必要でない」と答えているのだ。

 普段、我々は中国や韓国が「日本は謝罪していない」と主張するニュースに触れることが多いため、アメリカ人も同様の考えをしていると思いがちだ。しかし、実際はそうではないのである。安倍首相の歴史的演説によって、この数字がどのように変化するか、注目だ。 いずれにせよ、今回の安倍首相の訪米によって日米関係の潮目は変わった。今後の政治の動きに、私たちはこれまで以上に関心を持つべきである。
(文=鈴木領一/ビジネス・プロデューサー)

183NAME:2015/07/08(水) 04:07:10
なぜ織田信長はわずか4千の兵で、3万の今川義元を破ったのか?桶狭間の合戦の謎
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%81%9A%E3%81%8B4%E5%8D%83%E3%81%AE%E5%85%B5%E3%81%A7%E3%80%813%E4%B8%87%E3%81%AE%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83%E3%82%92%E7%A0%B4%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6%E3%81%AE%E8%AC%8E/ar-AAcDm1P#page=2

だが結果は、信長の圧倒的な勝利である。そこで考えられたのは、劣勢の信長が勝ったのは、敵の不意を衝くために「迂回」して「奇襲」したのだ、と。信長は兵を、今川軍の前線を秘匿させながら大きく迂回して、いきなり今川義元の本陣を奇襲した――。 この説を公然と唱え始めたのが、明治期の陸軍参謀本部である。劣勢をひっくり返すには、敵から身を隠し密かに行軍して、今川義元の本陣を衝く。これ以外には考えられない、と明治の軍人たちは真剣に考えたのである。 この考え方は軍人たちに定着していき、やがて大国アメリカの軍事力を叩くには奇襲しかない、として立案され実行したのが真珠湾攻撃である。この奇襲は、結果としてアメリカ国民の戦意を高揚させ、日本がズルズルと敗退する原因になった。

●勝機は、その一点集中

 では、桶狭間の合戦は、本当はどうであったのか。それは信長の側近で右筆(ゆうひつ/秘書)の太田牛一(ぎゅういち)が書いた『信長(しんちょう)公記』に記述されている。 義元の出陣を知った信長は、清洲城を飛び出すと一直線で熱田神宮から自軍の砦(とりで)となる丹下砦、善照寺砦を経て中嶋砦に到達した。今川軍は信長方の砦を攻めるために、各地に分散している。もちろん前方にも軍勢が展開しているため、信長が兵を前進させようとすると、重臣たちはその無謀をたしなめた。

 そのとき密偵の梁田政綱から、義元が桶狭間山の後方の窪地で休息中という報告がもたらされた。中嶋砦からわずか2キロメートルの場所である。信長はすかさず手勢の2000をまとめると、海抜65メートルの桶狭間山を目指すよう指示した。そこに達するには今川軍の前線を突破しなければならない。しかも、そこは湿地で足場が悪いので「死地(しち)」をいわれている場所である。そのため重臣たちは、いたずらに死ぬだけだと必死になって押しとどめようとした。

 だが信長は「死地だからこそ、敵は油断している。真っ直ぐに一気に桶狭間山に登れば、勝機がある」といって聞かない。わずか2キロメートル先に敵の大将がいる。小兵力が大兵力に勝つには、大将の首一点に、その全勢力を向ける。勝機は、その一点集中しかない。これは小兵力が勝つ軍事学の要点である。さらに信長は、将兵を鼓舞する。 「わが眼前の敵は、朝からの砦攻めで疲れきっている。わが方は少数ながら十分な力がある。小軍なりとも決して大軍を恐れるな。運は天にあり。この戦(いくさ)に勝てば武士の面目が立ち、末代までの名誉となるぞ。ただただ励め」

 これに加えて、敵への攻め方も指示する。 「敵が仕掛けてきたら、ただちに引き、敵が引き上げたら押し返せ。もみ合いの中から敵のスキを衝いて、一気に追い崩せ。首は切り取らずに、捨て置きにせよ」 敵の首を取ることは、論功行賞の査定となる。だが、それをしていては時間の無駄となる。前田利家などは、信長の命令に反して首を持ち帰ってきて手柄とした。すると信長は、「この戦いの手柄は首の数とは関係しない」と言い含めて、前線に送り返している。信長は常々、「備えず構えず、機をはかって応変する。この間合いこそ肝要(かんよう)なり」と固定された戦法ではなく、臨機応変こそが勝機につながると考えていた。この点にも信長の卓越した発想と行動がある。

184NAME:2015/07/08(水) 04:08:33
●戦は約2時間で終了

 信長軍は、「死地」で今川軍ともみ合いながら、桶狭間山の山麓に取りついた。中嶋砦から直線で1時間ほどである。このとき信長に幸運が訪れる。突然、豪雨が降りしきり、信長軍の行動を隠したのである。信長軍が山頂に達したとき、豪雨は追尾する今川軍に降りそそいでいた。その後背にいた義元本陣のあたり一帯は、すでに青空がのぞいている。信長は山頂に兵をまとめると、「熱田大明神(だいみょうじん)の助けぞ。すわ、かかれ!」と大音声をあげるやいなや、義元本陣めがけて突進した。

 一方、義元本陣では、昼の酒宴が豪雨のために中断されていた。やがて雷雨がやみ、空が晴れてきた。そのとき背後の桶狭間山から一団が本陣めがけて駆け下りてくる。その先頭は信長軍に追われる今川軍の先鋒であったが、彼らは「敵襲!」と叫ぶ間もなく、本陣になだれ込む。それを追いかける信長軍が突入。今川軍はあわてふためいて、崩れだした。

 武器はおろか、義元が乗る塗輿(ぬりごし)まで放り出して逃げ散る。旗本三百騎といわれる親衛隊が円陣をつくって義元を囲むが、それがかえって義元の位置を知らせることになった。浮足だつ今川方は、みるみる切り崩され、義元のまわりは、ついに50騎ばかり。スキをついた信長方の毛利新助が、義元を組み伏せて、首を打ち落とした。

「大将の首、討ち取ったり!」 新助の勝ち名乗りに今川方の闘志はたちまち潰(つい)えて、クモの子を散らすように、われ先にと逃げ出したのである。 この桶狭間での合戦は、およそ2時間で終わった。今川方で討ち取られた首は、およそ2000であった。信長は兵力を敵の大将に一点に集中させることで「小が大に勝つ」という、まさに戦術の要諦を実行したのである。 (文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)

185NAME:2015/07/19(日) 03:27:09
西村 幸吉さん 証言
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100510_00000

187NAME:2015/07/26(日) 07:08:58
特攻とナチスの虐殺は違う 鹿児島南九州市・知覧、「アウシュビッツ」との連携見直しへ 遺族らから反対意見相次ぐ
http://www.sankei.com/politics/news/150725/plt1507250002-n1.html
2015.7.25 08:00更新

さきの大戦末期、旧日本陸軍の特攻基地「知覧飛行場」があった鹿児島県南九州市が、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランド南部の都市と進めていた友好交流協定について、締結見直しを検討していることが24日、分かった。特攻隊員の遺族らから「ナチスによるユダヤ人差別・虐殺の象徴と、特攻基地を同一視すべきではない」などとする反対意見が相次いでいるためで、市は仕切り直しを余儀なくされそうだ。(南九州支局 谷田智恒)

 南九州市によると、ポーランドの都市は、オシフィエンチム市。アルベルト・バルトッシュ市長から今年5月、「世界平和の発信に向けたパートナーシップを前向きに考えたい」とする親書が届いた。 これを受け、今月8〜12日、南九州市の霜出(しもいで)勘平市長ら4人がオシフィエンチム市を訪問し、友好交流協定を結ぶことを確認したという。南九州市は、国連が定めた「国際平和デー」の9月21日にバルトッシュ市長らを招いて、協定締結式を開くことを決めた。

 この両市の連携を今月15日以降、地元紙などが報じたところ「祖国・家族を守るために命をなげうった特攻隊の基地と、ユダヤ人虐殺の象徴であるアウシュビッツが同質のものとして受け止められかねない」などと懸念する意見が、市に寄せられるようになった。これまで100件を超す抗議の電話やメールなどがあったという。

自民党鹿児島県連にも、特攻隊員の遺族から「命をかけて祖国を守ることを仲間と約束した若者の崇高な思いを、軽率な行いで汚されたくない」などとする投書が届いた。党県連関係者は「地方自治体の取り組みに干渉はしないが、アウシュビッツと異なり、知覧は決して『忌まわしい過去』ではない。違和感を覚えられる遺族の心情は理解でき、国際的に知覧が『日本のアウシュビッツ』と誤解されないか心配だ」と語った。

 数多くの特攻隊員の世話をし、「特攻の母」と呼ばれた故・鳥浜トメさんの孫、明久氏は「戦争の“狂気”といえば共通する面もあるが、アウシュビッツと全く違う。知覧は知覧で良いと思う」と話した。 反対意見が相次ぐ状況を踏まえ、南九州市は庁内で会議を開くなど、計画見直しも含め検討を始めた。

 霜出勘平・南九州市長の話「アウシュビッツ博物館で、知覧特攻平和会館が所有する特攻隊関連の資料展示ができれば、世界中の人に特攻のことを理解してもらえると思って友好交流提携を考えた。あくまで世界平和発信のため、良かれと思って計画したが、色々なご意見があることもわかった。こうした取り組みは多くの賛同を得て進めるべきであり、争いが起こったら意味がない。熟慮を重ね、決断したい」

188NAME:2015/07/26(日) 08:05:11
【歴史事件簿】
ミッドウェー海戦(4) わずか数分で「蒼龍」「赤城」など3空母が被弾・炎上…予想外の展開に動揺広がる連合艦隊
2015.7.24 15:00更新
http://www.sankei.com/west/news/150724/wst1507240007-n1.html

昭和17年6月、ミッドウェー作戦を展開中の南雲機動部隊は索敵機からの「敵空母発見」の知らせに焦りを隠せない。島への第二次空襲のため魚雷装着の攻撃機を陸用爆弾に転換中の突然の出現だった。しかも敵の攻撃機がこちらに向け発艦している最中だという。第一次攻撃隊を収容しながら再び爆弾から対艦用の魚雷へ転換する機動部隊に残された時間は少ない。「赤城」以下4隻の空母は必死の作業を続けたが、そこに…。

ここは「正攻法」で

 「敵空母発見」の知らせは、南雲機動部隊の後方にいた主力部隊の「大和」も受信していたが、「作戦どおり」と比較的冷静に受け止められていた。あらかじめ敵機動部隊用に魚雷を装着した攻撃機を準備していたのだから、むしろ好機とみていた。 ところが、ミッドウェー島を空襲した第一次攻撃隊の要請で第二次攻撃隊の準備を進めていた南雲機動部隊の4隻の空母では必死の作業が続いていた。

 敵空母の発見直後、機動部隊を指揮する南雲忠一中将は、「飛龍」「蒼龍(そうりゅう)」の2隻の空母からなる第二航空戦隊司令の山口多聞少将から、「陸用爆撃を装着したままで、ただちに発進すべし」などとする意見を受ける。 山口少将からすれば、艦載機を満載したままで敵の攻撃を受けることは火薬庫に火を付けるようなものなので、とにかく艦載機を手放したいのと同時に、敵空母の甲板に穴を開けるだけならという思惑があったようだ。

だが南雲中将は、爆弾を装着したままで発進するにしても、ちょうど帰ってきた第一次攻撃隊を先に着艦させなければ、燃料切れで100機近くの飛行機が墜落する危険性もはらんでいたため、まずは収容という頭があった。 しかも爆弾では効果が薄いだろうし、攻撃機を護衛する戦闘機も少ない。このため第一次攻撃隊の収容と並行して爆弾を魚雷に転換する作業を進め、完了したのち敵に向かう-というごくごく当たり前の命令を発したのだった。 その判断の裏には、索敵機が報告する島の北450キロにいるとされる敵との距離から「まだ時間はある」という判断とともに、何度も島から護衛戦闘機もなく攻めてきたアメリカ攻撃機が次々と零戦に撃ち落とされているのを目の当たりにしたこともあった。

急降下で攻めてくるアメリカ機

 とはいえ、アメリカが島から実施した南雲機動部隊への攻撃もやみくもに行ったわけではなく、味方の機動部隊へ南雲機動部隊の正確な所在地を絶えず知らせることにつながった。 しかも、兵装転換に必死の南雲機動部隊の作業をしばし滞らせることに成功したほか、偶然だろうが、第一次攻撃隊の帰還と重なったため、アメリカ機と見間違えて味方機を撃ち落としそうになるなどの混乱も誘発させている。 4日午前8時半過ぎ、南雲機動部隊の各空母の甲板では第一次攻撃隊の収容を開始する。同時に艦内では爆弾から魚雷への兵装転換を行っていた。

通常の兵装転換だと、飛行隊の基礎となる2個中隊にあたる18機をこなすのに2時間前後かかるとされるなど、手間ひまのかかる作業だけに、パイロットも入っての総動員態勢で行われた。 そして1時間ほどで収容を終えてアメリカ機動部隊に向けて北に進路を向けたところで、真上からアメリカ機14機が襲ってきた。アメリカ空母「ホーネット」から発艦したデバステイター(TBD)雷撃機だった。 南雲中将らも、機種からしてミッドウェー島からではなく、味方の索敵機から報告を受けていた空母からの攻撃機だとわかった。

 すぐに対空砲で応戦するとともに上空で護衛していた零戦18機と、「赤城」と「加賀」から発艦した計8機の零戦で迎撃して全機撃墜する。しかし予想よりも早く来たことに、何とも言えない不安感に襲われた南雲中将らだった。 実は、「利根」の索敵機が報告してきた距離は誤りがあり、敵の機動部隊は報告してきたミッドウェー島の北約450メートルよりもはるかに近い約260キロの地点にいたのだった。 最初の攻撃が収まった直後、さらに追い打ちをかけるようにヨークタウンの攻撃機が「飛龍」をめがけ突っ込んでくると、「エンタープライズ」の艦爆隊30機と「ヨークタウン」艦爆隊17機も続けざまに襲ってきた。

189NAME:2015/07/26(日) 08:06:49
黒煙を上げ逃げ惑う南雲機動部隊

 午前10時半前のことだった。やや「飛龍」が突出したかたちで前方を進む南雲機動部隊。ようやく発艦準備も整い、攻撃隊が出撃しようとしたそのとき、次から次に襲ってきたアメリカ機だった。 あまりの急な攻撃だっただけに、対空砲も間に合わずに、「加賀」の甲板に爆弾が命中して、大きな爆発音とともに炎と黒煙が上がった。「蒼龍」も被弾すると、数機の航空機が飛び跳ねて海中に落ちるほどの大爆発が起きた。

 「赤城」への攻撃は護衛の戦闘機が着艦して燃料と弾薬を補給し、発艦しようとした瞬間だった。2発の爆弾が続けて命中。第2次攻撃用の爆弾と魚雷を装備した飛行機で満載状態だったため誘爆を起こし、艦型が分からないほどの黒煙に包まれた。 わずか数分の出来事だった。敵の機動部隊に攻撃を加えることもなく黒煙をあげる3空母。 後方にいた「大和」内の連合艦隊司令長官、山本五十六大将のもとに、機動部隊次席司令官の阿部弘毅少将から「3空母が被弾して炎上」の連絡が入ったのは午前10時50分のこと。

 誰もが負ける戦いではないと思っていただけに、予想外の展開に驚きの声のあとは、言葉を失った山本大将ら大和艦内の連合艦隊幕僚連中だった。 だが、3空母から50キロほど離れて雲の下にいた「飛龍」は敵の攻撃を免れ、無傷だった。 「飛龍で敵空母を攻撃しようと兵力を結集している最中」とする阿部少将の知らせを聞いたときは、絶望のふちにいた山本大将もわずかながら救われた思いをしたのかもしれない。 そして午前11時、山口少将が「われ、航空戦の指揮を執る」と宣言し、小林道雄大尉指揮の第一次攻撃隊24機がアメリカ機動部隊に向け発艦していった。

国策映画の名作「カサブランカ」 アメリカも第二次大戦参戦と同時に映画業界も協力をせざるを得ない状況になる。これまでの巨大市場だった日本やドイツが参戦と同時に敵国となり、利益が見込めなくなったためだった。 そんな中で生まれた映画が、「カサブランカ」だった。フランスがドイツに占領される中、親ドイツ政権が支配するフランス領モロッコを舞台に、かつての恋人を亡命させようとするアメリカ人男性を描いたラブストーリー。

 ミッドウェー海戦直後の1942(昭和17)年11月の公開以来、70年以上もたった今も名作の名をほしいままにしている。 日本でも昭和15年に公開された「支那の夜」が中国大陸を舞台にした日本人男性と中国人女性のラブストーリーで、こちらは世界的に受け入れやすい恋愛モノで日中戦争を正当化した国策映画という見方が一般的に強い。

190NAME:2015/07/29(水) 15:48:15
【特攻 戦後70年】
第2部(1)「今までは国にあげた子やった」気丈な母の思い、32年間封印
2015.7.29 13:30更新
http://www.sankei.com/premium/news/150729/prm1507290008-n1.html

昭和52年5月28日。自宅で長男の三十三回忌法要を終え、墓前で線香をあげようとした瞬間、75歳の母親は長男の名前を繰り返し叫びながら泣き崩れた。 そんな母親の姿はそれまで家族全員、誰も見たことがなかった。三男が駆け寄り肩を貸しながらどうしたのかと聞くと、「今まで日本の国にあげた子供やったんや。天皇陛下にあげた子供やったんや。でも、今日の三十三回忌でやっとわしの子供になったんや」。母親はそうつぶやくと、大声を出して墓石にしがみついた。

 中西時代(ときよ)さん(享年83)。長男の伸一少尉(戦死後大尉)は20年5月28日、陸軍特攻隊第54振武隊の隊員として鹿児島県・知覧飛行場を出撃、沖縄近海で散華した。22歳だった。 中西少尉は和歌山県日高郡和田村(現在の美浜町)出身で6人きょうだいの長男だった。小学校の校長をしていた父親、介造(すけぞう)さん(享年86)の後を継いで教員になろうと和歌山県師範学校へ。18年春、卒業と同時に地元の和田国民学校の教壇に立ち、同年10月に教員資格を取得し正式に教員となったが、1カ月足らずで退職、陸軍特別操縦見習士官に志願した。 当時12歳だった三男の小松雅也さん(84)はある夜、兄と父親が声を潜めて相談していたのを今でも鮮明に覚えている。

「兄が父親に『戦争が激しくなってきた。教師をしているときじゃない。飛行兵にならにゃあ』と迫っていたのです。父親は黙ってうなずいていました」 小松さんは「当時は国のために忠義を尽くせと教えられていたから、兄が飛行兵を志願したのは当然だった」と少尉の気持ちを代弁し、「父親も母親も喜んでいたと思う」と続けた。 陸軍に進んだ少尉は三重県・明野陸軍飛行学校や福岡県・大刀洗航空隊を経て知覧飛行場に配属される。

 少尉は出撃するまでに2回、実家に帰っている。 1回目は19年暮れ。家族がそろうといきなり「特攻隊を志願した」と告白した。介造さんが「そうか」とうなずくと、時代さんが「伸一、お国のためにしっかり手柄立てるんやで」と手を握った。涙はなかった。 小松さんは時代さんの毅然(きぜん)とした態度を鮮明に覚えている。「特攻隊は必ず死ぬのは分かっていたが、それより、息子に国のために役立ってもらいたいという思いの方が強かったのだと思う。兄貴の特攻志願は中西家にとって誇りだった」

年が変わり20年になると、新聞は連日、特攻隊の出撃を報じた。 「伸一もそろそろ突入する時分やろな」 「そうやな。もう突入しているかもな」 家族全員が死を確信していた4月25日夜、少尉が突然、帰ってきた。聞くと、飛行機が故障したため、新しい飛行機を受け取りに明野飛行場に来たので立ち寄ったという。 その夜、両親と少尉は夜が更けるまで話し込んでいたが、特攻の話は出なかった。翌日、小松さんは両親ら3人と御坊駅で兄を見送る。少尉が汽車に乗ろうとすると、時代さんが身を乗り出し大きく手を振って「伸一、手柄立ててようっ」と何度も叫んだ。

 その9日後の5月4日昼ごろ、少尉の操縦する飛燕が自宅上空に現れた。明野飛行場から知覧に戻る途中だった。小松さんは屋根の上から日の丸を振り、時代さんは庭で大きく手を振った。少尉は自宅上空を4、5回旋回した後、西の方向に飛び去った。 6月中旬、中西家に2人の軍人が訪ねてきた。特攻機を護衛した直掩機(ちょくえんき)の搭乗員で、少尉が5月28日早朝、沖縄周辺海域で敵艦に突入して戦死したことを告げた。2人の報告に時代さんが即座に「ありがたい。手柄を立ててくれたの、伸一。ようやった」と小躍りした。

191NAME:2015/07/29(水) 15:51:16
特攻隊を志願したときも、最後の別れをしたときも涙を見せず、特攻隊員として突入した報を聞いたときは小躍りさえした時代さん。32年間、母親の思いを封印し続けた時代さんは、三十三回忌法要で流した初めての涙で、ようやく戦争の呪縛から解き放たれた。

少尉の思い永遠に引き継ぐ

 昭和30年夏、中西家に1通の手紙が届いた。差出人は関東地方に住む27歳の女性だった。手紙には「伸一さんのお墓参りをさせてほしい」とあった。両親は一緒に墓参りをしたが、女性は墓参りの理由を一切、明かさなかった。 数年後、母親の時代さんが墓参りをした際、この女性が墓前で手を合わせて何かを話しかけていた。1時間近くたち、腰を上げた女性に近づくと、「今日は伸一さんと2人で話をしたいことがあったのです」と言ったものの、それ以上は口をつぐんだ。女性はその後、平成20年代初めまで6回ほど墓参りをしたという。 女性が「実は一緒になりたかった」と明かしたのは何年もたってからだった。昭和20年、中西伸一少尉は22歳、女性は16歳。書店で出会い、話をするようになった。当時は単なる憧れだったが、時間がたつにつれて、憧れ以上の気持ちに気づいたという。忘れられない人だから墓参りを続けていると言った。

平成8年5月3日、知覧で開かれた慰霊祭の際、少尉の弟の小松雅也さんらはこの女性を誘い、少尉の遺品を特攻平和会館に納めることにした。合流した女性は「軍服を一晩貸してください」。翌朝、女性は目を真っ赤に腫らしたまま、小松さんらの前に現れた。小松さんは「一晩中、兄貴だと思って、軍服を抱いて寝たんでしょう。切ないです」と振り返った。

 女性は特攻に関する証言集に自分の思いを投稿していた。

 「『どこへ行くの?』私の問いに彼は、『そこだよ』と目で、広げてあった新聞をさした。新聞の一面には、沖縄の決戦の文字が躍っていた…略…『捕虜になってもいい、生きていて』。思ってもいなかった言葉が突然飛び出て、私は一瞬呆然(ぼうぜん)とした…略…後悔しながらも、それが自分の本当の心である事を自覚していた」 「駅までの短い道を、彼は負け戦の無念さ、国家の大事に殉ずる国民の使命感を諄々(じゅんじゅん)と説くのであった。そして、『俺だって、生きていたいよ』と、つぶやく様に言って言葉を終えた。この最後の言葉は今も私の胸の中に、熱い生への執着を絶ち切って死地へ向かった一人の青年の、凝縮された哀(かな)しみとして重く残っている」

192NAME:2015/07/29(水) 15:53:24
女性は証言集の中で少尉から届いた手紙も紹介している。手紙には「もう手紙を書かないで下さい。あなたがいくら書いても、もう私の手には届きません。近日中に出撃します。いつか貴女と一緒に故郷の和歌山へ行こうと思っていました。それが実現出来なくて残念です。さようなら」とあった。 最後に女性は知覧の特攻平和会館に飾られた遺影を前に「お久しぶりねえ」「いつまでも若いのね」と無言で問いかけたと記している。女性の戦後は終わっていないのだ。

 少尉が上空から故郷に最後の別れをした際、一度は教鞭(きょうべん)をとった和田国民学校の上空も舞っている。教え子たちは運動場で手を振り別れを告げた。 当時6年生だった女性がその時の気持ちを、慰霊祭で読んだ弔辞に込めている。 「私たちは夢中に手を挙げて先生先生と声をかぎりに叫んだ。先生も機上からお前たちもしっかりやれよとおっしゃって下さって居る事だろう…略…先生はきっと敵艦上で花々しく戦死された事であらう…略…先生の御たまは永久に私達の心を去りません」

女性は最後にこう結んでいる。 「あの特攻精神こそ、現在の我が国になくてはならぬ正しい正儀(原文ママ)の道です。今日の慰れい祭に當(あた)り、中西先生の生前をしのび恩をあらたにし、お教を固く守って新日本建設にまい進いたします。私達の目の前に見せていただいたあの精神は、言はづともよくわかります。きっと私達も先生の御意志にそいます」と。

「今の平和は兄たちがいたから」

 「知覧の三角兵舎を初めて訪ねたとき、出撃前夜の兄貴の気持ちはどうだったんだろう、母親や故郷を思い出したんだろうと思うと、涙が止まらなくなった」 戦時中は特攻出撃する兄を当然のように応援していた小松さんも、戦後70年がたった今はこう感じる。 「兄たちのおかげで戦後70年間、平和の中で暮らしてきた。これほどありがたいものはない。わしらは恐ろしい戦争体験をしたから、戦争と平和を比較できる。わしらが体験したところへ二度と戻らせたくない。そのためにも、今の平和は兄たちがいたからだと伝えていかないといけない」 中西少尉はほかの特攻隊員がそうであったように、護国の使命感だけでなく、両親、兄弟、恋人、教え子ら自分と関わりのある全ての人の思いを背負って出撃、突入したのであろう。少尉の思いは女性の弔辞にあるように、永遠に引き継がれていかなければならない。

 「特攻」第2部は、特攻隊員を送り出した親族らの思い、復員した元特攻隊員らの戦後70年を伝える。(編集委員 宮本雅史)

193NAME:2015/08/02(日) 04:54:04
日本はアジアを独立に導いた「希望の光」。
【話の肖像画プレミアム】
ヘンリー・S・ストークス(77)=元NYT東京支局長=「反日プロパガンダに惑わされず、誇りある国になってほしい」 
2015.8.1 08:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150801/prm1508010018-n1.html

日本は白人支配からアジアを解放した

 〈半世紀にわたり日本に滞在、日本外国特派員協会で最古参だ。著書「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社)は、「在日外国人記者がはじめて書いた正しい近・現代日本史」(評論家の宮崎正弘さん)などと話題を集め、出版依頼が相次いでいる〉

 多くの読者の皆さまに感謝します。「東京裁判は勝者の復讐(ふくしゅう)劇にすぎない」「いわゆる『南京大虐殺』はなかった」と世界の既成概念に欧米人で初めて挑戦したことに興味を持っていただいた。ただ私は歴史に対して公平でありたかったのです。〈初めて日本に来たときは、戦勝国史観に立ち、「日本は悪かった」「東京裁判は正しく、南京大虐殺はあった」と信じていた〉

 滞日が長くなるにつれて、霧が晴れるように米国が押しつけた歴史観が誤りであることを悟り、歴史的真実がどこにあるか認識できるようになりました。皆さんも反日国家のプロパガンダに惑わされず、歴史の真実を知って、日本が誇りある国になってほしい。〈東京発の欧米特派員の報道には偏向した内容が少なくない。彼らの一部は日本を「肯定」する最長老に「修正主義者」のレッテルを貼った〉

 滞日経験が浅い彼らのほとんどが勉強不足です。昨年5月に私の本について「南京虐殺否定 無断加筆 ベストセラー翻訳者」との捏造(ねつぞう)記事を書いた共同通信の若い米国人記者も、創作小説にすぎないアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」を史実のごとくに信じていました。米東部の名門大学を卒業したエリートですらこのレベルです。 私こそ「リベラル」。人種的偏見や差別に反対で、草の根の声を大切にしています。真実を壊す嘘を受け入れられません。しかし、日本でリベラルといえば、中国や旧ソ連を支持する左翼です。これはおかしい。

 〈「日本は侵略した」と欧米や中国、韓国、日本の学者まで主張する〉それは「連合国側の史観」。敵側の戦時プロパガンダです。確かに日本が欧米諸国のアジア植民地に軍事進攻したことは事実です。しかし、それ以前に侵略して植民地にしたのは欧米諸国です。日本は欧米の植民地を占領し、日本の将兵が宣教師のような使命感に駆られて、アジア諸民族を独立へ導いた。アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。西洋人は世界史を見直すべきです。日本はアジアを独立に導いた「希望の光」。「侵略」したのではなく「解放」し、独立に導いたのです。 アジア、アフリカ、北米、南米、豪州を侵略した西洋は謝罪していません。なぜ日本だけが謝罪しなければいけないのか。白人が有色人種を侵略するのは「文明化」で、有色人種が白人を侵略するのが「犯罪」とはナンセンスです。

 〈欧米人にも同じ主張をする同志が出てきた〉米国人ジャーナリストのマイケル・ヨン氏は私の著書を読んで確信を持ったようです。弁護士のケント・ギルバート氏も賛同してくれました。特派員の後輩たちも続いてくれることを期待します。

194NAME:2015/08/06(木) 21:59:22
「反省」「侵略」を明記=謝罪は踏襲求めず―平和国家の歩み強調・有識者懇報告書
時事通信 8月6日(木)18時52分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000131-jij-pol

戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)は6日午後、安倍晋三首相に報告書を提出した。 報告書は、先の大戦に対する「痛切な反省」を明記。「植民地支配」や「侵略」との表現も記載した。戦後日本の平和国家としての歩みを強調した一方、中国、韓国との和解は「完全に達成されたとは言えない」と指摘。村山富市首相談話にある「おわび」の踏襲は求めなかった。

 報告書を受け取った首相は「先の大戦からわれわれは何を学び、どのような道のりを進んでいくのかを世界に向けて発信していく談話を作成したい」と語った。今後、報告書を踏まえ70年談話の内容を詰める。終戦記念日の前日の14日に公表する方向で調整している。

 報告書は、戦後の日本について、「痛切な反省に基づき、特に1930年代から40年代前半の姿とは全く異なる国に生まれ変わった」と指摘。政府開発援助(ODA)や国連平和維持活動(PKO)などを通じて、日本の「平和主義・国際貢献路線」は国際社会から高い評価を受けているとした。
 ただし、中韓両国との和解は不十分とした上で、「地道に和解に向けた話し合いを続ける」必要があるとした。東南アジア諸国に対しても、「過去を忘れずに謙虚な態度で接することが重要」と強調した。 焦点の「おわび」は直接明記はせず、反省と謝罪を盛り込んだ村山談話や小泉純一郎首相談話の内容を中国側が評価していることを紹介するにとどめた。

 第2次大戦前の日本については、「民族自決の大勢に逆行し、植民地支配が過酷化した」とした上で、「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」と当時の政府や軍の指導者の責任に言及。「満州事変以後、大陸への侵略を拡大した」とも明記した。ただし、「侵略」に関しては、有識者会議の複数の委員から、「国際法上、定義が定まっていない」などとして、報告書への記載に異議があったことにも触れた。北岡伸一座長代理によると、2委員が反対したという。

 報告書は、今後の日本の取り組みについて、「これまで以上に積極的に国際秩序の安定に寄与する必要がある」などと安倍内閣が掲げる「積極的平和主義」の推進を提言。戦後70年に当たって取るべき具体的施策では、近現代史教育の強化や多国間の歴史共同研究の実施などを列挙した。 この後、西室座長は記者会見で報告書の性格について「首相に指示することを意図したものではない。この中から何をくみ取るかは、首相にお任せすることだ」と語った。

195NAME:2015/08/09(日) 23:57:18
対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書
2015.8.9 16:00更新
http://www.sankei.com/life/news/150809/lif1508090026-n1.html

■1時間後に満州・樺太侵攻…日本政府は4時間後に報道で把握

 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。宣戦布告を通告された佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州(中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。(編集委員 岡部伸)

日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯(ひきょう)な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したもの。この文書は英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された。

電報を要約すると、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などと書かれている。外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。

 ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。

 ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。

正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。日本は最後までソ連に宣戦布告していない。

196NAME:2015/08/10(月) 01:47:43
【戦後70年と私】占領政策の真実 間違いに気付いていたマッカーサー ケント・ギルバート氏
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150807/dms1508071550004-n1.htm

70年前の終戦直後、日米関係は、お互いが完全な対立軸からスタートした。 米国は、大日本帝国とは、軍国主義の独裁者が神道という宗教を利用して国民を統率する、非民主的国家であり、世界征服をたくらむ野蛮で好戦的な民族の国だと考えていた。 日本の占領政策、言い換えれば「保護観察処分」は、危険な日本を制度面と精神面の両方から矯正する趣旨で始まった。 東京裁判(極東国際軍事裁判)を通じたABC級戦犯の処罰や、戦争の贖罪(しょくざい)意識を植付ける「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」、日本国憲法第9条も一貫した趣旨に基づいている。

 しかし、朝鮮戦争が起きたころには、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官のマッカーサー元帥は、根本的な間違いに気付いていた。米国が戦うべき敵は日本ではなく最初からソ連であり、日米戦は不必要だったのだ。 強い日本軍が、野蛮で危険なソ連の脅威からアジアの平和を守っていた。米国は間抜けな勘違いのせいで、日本軍を完全に解体してしまった。これが今日まで続く、米軍日本駐留の根本原因である。

 最高司令官を解任されて帰国したマッカーサー元帥はワシントンに呼ばれ、1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で証言した。 「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security(=日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった)」と。 日本が始めた大東亜戦争は侵略戦争ではないという意味だ。戦後体制の大前提を根底から覆す、このマッカーサー証言の存在すら知らない人が日米両国とも圧倒的多数である。

 占領下の日本には「プレスコード」(=GHQによる言論統制。『連合国や連合国軍への批判』など禁止事項を厳格に列記した)があったので、このニュースを取り上げることはできなかった。 しかし、終戦70年を目前にした現在も、日本の首相経験者や与野党の要職者が、「安倍晋三首相は70年談話で日本の侵略戦争をわびろ」などと、無知蒙昧(もうまい)ぶりを披露している。 70年間に、日米ともさまざまな機密文書が公開され、過去の多くの常識が、今では非常識になった。

 開戦前の日米和平交渉の経過や、当時のルーズベルト大統領が議会承認を得ずに「ハル・ノート」という最後通告を日本に突きつけた事実は、米国人にも隠されていた。 ハル・ノートの草案を書いたハリー・ホワイト財務次官補は、後に「ソ連のスパイ」だとバレて自殺した。日米開戦支持の議会演説を行ったハミルトン・フィッシュ下院議員は、すべての真実を知って大激怒。自分の演説を恥じ、「ルーズベルト大統領を許せない」と死ぬまで言い続けた。 戦後70年の節目を機に、日本人のみなさんには、日米関係のみならず、国際情勢全般について、最新情報へのアップデートをお願いしたい。 次回は、政治ジャーナリスト、細川珠生氏

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行う。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい国・日本に告ぐ』(青林堂)など。

197NAME:2015/08/10(月) 02:34:14
【戦後70年と私】俳優・津川雅彦氏 故郷を守れない輩を日本人と呼べるのか?
津川さんは、日本人の劣化を憂えた ★俳優・津川雅彦氏
http://www.zakzak.co.jp/smp/society/domestic/news/20150804/dms1508041550003-s1.htm

55年前、「安保反対」で青春を謳歌(おうか)した連中の成長がない。魅力のない日本人になり下がったのは、成長が止まったから。成長は人格に「期待」と「信頼」という最大の「魅力」を与える。</p><p class="clearfix sentence"> ユーロにおんぶに抱っこで、経済に鈍感になったギリシャ人のごとく。米国におんぶに抱っこされ、自国を守るために他国の青年の血は流させても、自分の血は流したくない卑怯(ひきょう)な日本人に成り下がった。故郷(くに)を守れない輩を日本人と呼べるのか?</p><p class="clearfix sentence"> 東日本大震災の際、東北人は命の危険を目前に「我慢」「忍耐」「礼節」の覚悟を見せ、「誇り高き日本人」と世界を感動させた。</p><p class="clearfix sentence"> 縄文以来、約1万6000年の間、自然を愛する「文化を育ててきた日本人」は素晴らしいと、世界は富士山を文化遺産に認めた。</p><p class="clearfix sentence"> 日本ほど自然が豊かな国はない。四季あり、適度な湿気と肥えた土壌、きれいな川と海、緑いっぱいの山、澄んだ空気! 自然を愛するすごさは、「厳しい自然の猛威」を経験し、「平穏」と「危機」を表裏として覚悟できる人格を育てる。</p><p class="clearfix sentence"> 縄文1万年、平安350年、江戸270年、世界一平和な歴史を築いてきた日本人。たった一度戦争に負けただけで腑抜けになった。</p><p class="clearfix sentence"> 反日的メディアや教育組織の自虐史観に洗脳され、誇りを失った日本人。「私が悪うございました」と戦後70年間謝り続け、いまだに中国と韓国に土下座し、「いい人」を懸命に演じる。マスコミは「そのまま! そのまま! お人好しが素晴らしい」と、GHQ(連合国軍総司令部)に歩調を合わせたごとく扇動する。</p><p class="clearfix sentence"> 人間すべてに差があるからこそ個人の尊厳は守られる。「平等、平等」とバカのひとつ覚えで、子供の運動会では1等賞の名誉を奪い。学校では貴重な個性がイジメに遭う。経済の格差にもこだわる、いじましさは心の大切さを鈍感にする。</p><p class="clearfix sentence"> 縄文土器誕生以来、1万6000年! 文化史上、今ほど程度の低い日本人はいない。</p><p class="clearfix sentence"> 安倍晋三首相は昭和以降、最も実行力と清潔感のある宰相だ。大切に育てなきゃ損するのは国民。なのに、「アンポ」1つで何も見えなくなり、付和雷同して支持率を下げる。いまだ民主党的幼稚な政治を見抜けぬ大衆は、安全保障関連法案で「徴兵制度ができる」「戦争になる」と戦慄(おのの)く。発想が単純過ぎて笑っちゃう。</p><p class="clearfix sentence"> 戦争の原因は、「民族愛対民族愛」「宗教対宗教」「思想対思想」「富対貧」の対決。中国やロシア、北朝鮮の共産国や、韓国やイスラム国の敵意を「安保」で防御はできても、こんな一面的で、愚鈍なお人好したちで日本は本当に大丈夫なのか?

198NAME:2015/08/10(月) 04:18:39
【戦後70年〜昭和20年夏(5)】
抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べた者は死んだ…
2015.8.10 01:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150810/prm1508100011-n1.html

「親父と同じ苦労をして亡くなった仲間がまだ何万人も残っている。その遺骨を一人でも多く帰国させることは使命だと思います」 ロシア極東・ハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレ郊外。針葉樹の森を分け入った一角で、青森県北津軽郡の会津博(74)は、大量の蚊やブヨが周囲を飛び交う中、黙々と土を掘り続けた。 厚生労働省が実施する旧ソ連による抑留犠牲者の遺骨収集事業。会津は4度目の参加となる。 ロシア側の資料によると、かつて付近に第3762野戦病院があり、死亡した抑留者200人余りがここに埋葬されたという。

 冬は凍土と化す厳しい気候。長い歳月を経た遺骨はきれいな状態では見つからない。500平方メートル超の埋葬地を小さく区切って掘り進め、土に不自然な変色が見つかると遺骨がないかを丁寧に確認する。今回は10日間の作業で39柱を収集し、帰還させた。会津はこう語った。 「現場を離れる時はいつも残さざるを得ない遺骨を思って涙が出るんです」

1991(平成3)年から抑留者調査や遺骨収集に協力してきたガリーナ・ポタポワ(76)は、ある埋葬地で日本人女性が慟哭する姿に衝撃を受けた。 「やっとお父さんを見つけた。お母さんは死んだわ。ここに来られて本当によかった…」 その姿は、戦死した父の墓を80年代に見つけた時の自分と同じだった。ポタポワはこう語った。 「『埋葬地に来てやっと私にとっての戦争が終わった』と言われるのが何よりもうれしい。この問題に国籍は関係ありません」

 コムソモリスクには1945(昭和20)年〜49(昭和24)年にかけ、日本人約1万5千人が抑留された。満足な食事も与えられぬ中、日本人はよく働き、ホテル、学校、住宅など432の建物を建築した。 街の中心部のホテル「アムール」は内部こそ改装されたが、今もなお現役。同じく日本人が建てた2階建て集合住宅群に住む元調理師のタマーラ・ボブリク(68)はこう語った。

「この通りの家はすべて日本人が建てたと両親から聞きました。古くはなったが、造りが大変しっかりしており、改修なしで住み続けています」 地元郷土史家のマリーナ・クジミナは「当時を知っている人は、いかに日本人が仕事熱心だったかを知っている。悪く言う人などいない」と説明した。

 45年8月9日午前0時(日本時間)、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍80個師団157万人が満州や朝鮮、千島列島などに一斉侵攻した。日本軍の多くは15日のポツダム宣言受諾後、武装解除に応じたが、悲劇はそれで終わらなかった。 ソ連軍は、満州や朝鮮などから約57万5千人をシベリアやモンゴルなどに連行し、森林伐採や鉄道敷設などの重労働を強いた。飢えと寒さ、虐待などで約5万5千人が命を落とした。 だが、シベリア抑留はロシアでほとんど認知されておらず、抑留者は「軍事捕虜」と称される。この大雑把な認識はロシア人自身が、対独戦とスターリン時代の弾圧で膨大な犠牲者を出したことに根ざす。

199NAME:2015/08/10(月) 04:23:13
クジミナはソ連末期、閲覧可能になったロシア人の弾圧犠牲者の資料を調べる中で「囚人」に交じって日本人が強制労働させられたことを初めて知った。 「極東は辺境なので働きたいという人は少ない。それでも国土維持のための労働力が必要だということで政治弾圧された人々が囚人として送り込まれた。ソ連政府は囚人をただ働きさせるのと同じ発想で日本人を抑留したのではないか」 ロシア政府は、日本人抑留者のうち1万5千人以上に関する資料をなお開示していない。未収集の遺骨は3万3千柱超。戦後70年を経て遺骨収集は年々困難になりつつある。

十字架が並ぶ墓地、木材を積んだ汽車-。見慣れない風景だった。 「こりゃ、だまされた。日本じゃないどこかに連れて来られたぞ」 独立歩兵第62部隊上等兵、前田昌利(93)=宇都宮市在住=は千島列島・幌筵(ほろむしろ)島で終戦を知った。ソ連軍がいつ島に上陸したのかは分からない。交戦で数人の死傷者が出たが、ソ連軍の通訳に「もう戦争は終わった」と言われ、武装解除に応じた。

前田も「おかしい」とは思っていた。数週間前から連日のように米軍機が島の上空を旋回するようになったからだ。赤いマフラーの女性を同乗させ、遊覧飛行する米軍機もあった。 ソ連兵の「トウキョウ ダモイ(帰国)」という言葉を信じ、輸送船に乗り込んだが、ナホトカ港を経由して連行された先はコムソモリスクのラーゲリ(収容所)だった。

 ラーゲリでは、木材の伐採作業や線路の敷設工事を命じられた。重労働もつらかったが、もっと怖かったのは凍傷だった。鼻や耳が白くなり、壊死(えし)して黒くなると切り落とすしかない。仲間と「おーい、白いぞ」と声をかけ合い、互いにマッサージした。 時計などの持ち物はソ連兵に取り上げられた。ソ連の女性兵は、日本人から奪った歯磨き粉をうれしそうに顔に塗っていた。ソ連兵の制服はボロボロ。缶詰にはUSAの刻印があった。「ソ連もよほど物資がないんだな」と思った。

与えられた食事は黒パン1切れだけ。空腹を満たすため、ソ連兵の目を盗んでは野草をゆでて食べた。 ある日、「カエルの卵」を持ち帰った者がいた。飯盒(はんごう)に入れた卵をストーブで炊き、味付けは岩塩。仲間は大喜びで食べたが、前田はなぜか口に入れる気がしなかった。翌朝、卵を食べた者は全員死んでいた。

 ラーゲリでは時折、健康診断が行われ、健康状態のよい順にA、B、C-とランク分けされ、労働内容が決まった。前田は歯肉を傷つけ、女医に血の混じった唾液を見せた。しばらくすると朝鮮に移送された。 朝鮮では船への積み込み作業に従事した。食糧や衣類、家具-。タンスや畳など日本人のものだと分かる品も多かった。 極寒のシベリアよりは格段にましだったが、休む度にソ連兵にムチで尻をたたかれた。街を歩くと朝鮮人から日本語で罵声を浴びた。 「兵隊さん、日本なんて国はもうないんだぞ!」 栄養失調で鳥目となり、夜はほとんど目が見えない。作業の合間に川でヤツメウナギを捕って食べるとほんの少し回復した。

200NAME:2015/08/10(月) 04:28:13
帰国できたのは昭和23年初夏。「船に乗れ」と言われ、着いた先は長崎・佐世保港だった。引揚援護局でわずかな現金をもらってサツマイモを買い、夢中でほお張った。あの甘さと感激は今も忘れられない。

 約57万5千人に上る日本人抑留は明確なポツダム宣言(第9項)違反だが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンの指示により極めて計画的に行われた。 原因は1945(昭和20)年2月、米英ソ3首脳が戦後処理を話し合ったヤルタ会談にある。 ここでスターリンは第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトに対日参戦を約束し、満州や千島列島などの権益を要求したが、もう一つ重要な取り決めがあった。3カ国外相が署名したヤルタ協定だった。

 ドイツが連合国に与えた損害を(1)国民資産(工作機械、船舶など)(2)日常的な生産物(3)労働力-で現物賠償させることを決めた。 問題は「労働力」だった。米英は、まさかソ連が協定を盾に戦後も捕虜らに強制労働させるとは思っていなかったようだが、ソ連は「米英のお墨付きを得た」と受け取った。

英首相のウィンストン・チャーチルは後にスターリンの非人道性に気づき、二の句を継げなかった。7月のポツダム会談で、チャーチルが英国の炭鉱労働者不足を嘆くと、スターリンは事もなげにこう言った。 「それなら炭鉱でドイツ人捕虜を使うことだ。私はそうしている」 スターリンにとって「捕虜=労働力」は「戦利品」だった。対日参戦の目的は領土拡大だけでなく「労働力」確保にもあったのだ。 ソ連は戦後も400万人以上の外国人捕虜を長期間抑留した。最も多かったのはドイツの約240万人、次に日本、3番目がハンガリーの約50万人だった。

 満州国の首都・新京(現長春市)で武装解除に応じた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=は昭和20年暮れ、クラスノヤルスク北の炭鉱・エニセイスクのラーゲリに送られた。

氷点下40度近い極寒地を片道約1時間歩き、1日3交代制で採炭や鉄道敷設作業に従事した。秋元は作業前、いつも「今日もみんな元気で帰っぺな!」と呼びかけたが、毎日のように人が死んでいった。やはり食事はパン1切れ。野良犬、ネズミ、ヘビ-。食べられるものは何でも食べた。 気温が氷点下50度を下回ったある日、公会堂に一時避難するとピアノがあった。小学教諭だった秋元が「故郷」を弾くと仲間たちは合唱を始めたが、途中から嗚(お)咽(えつ)に変わった。「ダモイ(帰国)まで頑張ろう!」。これが合言葉だった。

 第135独立混成旅団伍長、安田重晴(94)=京都府舞鶴市在住=が連行されたのはシベリアの山中のラーゲリだった。 2重の鉄条網に囲まれ、四方に監視塔。丸太小屋には3段ベッドが蚕棚のように並んでいた。暖房はドラム缶製の薪(まき)ストーブだけ。電灯もなく松ヤニを燃やして明かりにした。

201NAME:2015/08/10(月) 04:30:48
食事は朝晩はコウリャンやアワの薄い粥(かゆ)。昼は握り拳ほどの黒パン。空腹をこらえながら木材伐採を続けた。2人一組で直径30〜40センチの木を切り倒し、枝を落として1メートルの長さにそろえ集積所まで運ぶ。1日のノルマは6立方メートル。氷点下30度でも作業は続いた。 夜中に「ザザーッ」という不気味な音がすると誰かが死んだ知らせだった。南京虫(トコジラミ)が冷たくなった遺体を離れ、他の寝床に移動する音だった。

 凍土は簡単に掘れない。遺体は丸太のように外に積まれた。 そんな安田らを乗せた帰還船がナホトカを出航したのは23年5月11日。14日未明、灯台が見えた。「日本だ!」。どこからともなく万歳が上がった。 夜が明けると新緑が広がる京都・舞鶴の山々が見えた。シベリアのどす黒い針葉樹林とは全く違う。「山ってこんなにきれいだったのか…」。全員が涙を浮かべて景色にみとれた。(敬称略)

202NAME:2015/08/13(木) 20:08:59
捻じ曲げられたポツダム宣言
http://ironna.jp/theme/330

203NAME:2015/08/14(金) 21:39:42
【戦後70年談話】
首相談話全文
2015.8.14 18:03更新
http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140016-n1.html

【戦後70年談話】首相談話全文
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%88%a6%e5%be%8c%ef%bc%97%ef%bc%90%e5%b9%b4%e8%ab%87%e8%a9%b1%e3%80%91%e9%a6%96%e7%9b%b8%e8%ab%87%e8%a9%b1%e5%85%a8%e6%96%87/ar-BBlJGpl#page=2

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。 そして七十年前。日本は、敗戦しました。 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

204NAME:2015/08/14(金) 21:43:12
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

205NAME:2015/08/14(金) 21:44:01
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。  平成二十七年八月十四日 内閣総理大臣 安倍晋三

206NAME:2015/08/15(土) 03:54:33
【戦後70年談話】
「外交的にバランス」外交評論家の宮家氏 「日本のあり方示す」ケント・ギルバート氏
2015.8.14 22:14更新
http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140038-n1.html

外交評論家の宮家邦彦氏の話「過去の談話は反省とおわびにばかり重点が置かれてきたが、今回の談話はより総合的で成熟した内容という印象だ。戦争に至る当時の国際環境や、日本がなぜ国策を誤ったかについて丁寧に説明している。『頭を垂れる』『痛惜』という自分自身の言葉を使っており、外交的にもバランスがとれている。保守政治家として知られる安倍晋三首相が、右でも左でもない客観的な内容の談話を発表したことで、歴史認識に関する国論の分裂を修復する第一歩になるのではないか」

 カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート氏の話「成熟した文明国として品格ある内容で、歴史上起きたことを正しく伝えており、近隣諸国に対する礼儀や誠意が伝わってきた。日本がアジアの平和と繁栄のため力を尽くしてきたことは明らかな事実。今後もその姿勢は変わらないことをアピールした点は大国としてふさわしく、これまでの政策に確信を持っていなければできない。謝罪のあり方で難癖をつける国もあるだろうが、今後の日本のあり方もしっかり示しており、前向きな姿勢が感じられるよいものだった」

【戦後70年】
東京大空襲、広島・長崎原爆「米国に謝罪、反省求めず」 政府答弁書を決定
2015.8.14 22:17更新
http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140039-n1.html

政府は14日の臨時閣議で、昭和20年3月の東京大空襲に関し「戦後70年を経た現時点で米国に謝罪、反省を求めるよりも、政府としては、今後も世界の平和と繁栄に貢献していくことが重要である」とする答弁書を決定した。東京大空襲が「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものであったと考える」とも指摘した。

 また、米国による広島と長崎への原爆についても「人道主義の精神に合致しない」と強調する一方、「米国に謝罪や反省を求めるよりも、政府としては、現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要である」とする答弁書を決定した。 いずれも民主党の鈴木貴子衆院議員の質問主意書に答えた。

207NAME:2015/08/18(火) 00:04:42
安倍談話が中国で予想以上の批判を受けた理由
吉田陽介[日中関係研究所研究員]
2015年8月17日
http://diamond.jp/articles/-/76880

「談話には反省とお詫びが入るのでしょうか」。 14日夕方に安倍談話が発表される前、中国人の友人はこう筆者に尋ねた。現在中国の国際地位が向上し、周辺諸国との関係でも中国抜きには考えられないため、日本の国益を考え、恐らく入るのではないかと筆者は答えた。また別の友人は、「直接にお詫びという言葉を使わずにお詫びの気持ちを表明するのではないか」と見ていた。

中国人はなぜ安倍談話に注目したのか。中国には歴史問題という譲れない原則問題があり、それによって日中関係が影響を受けることを憂慮しているからだ。 前にも述べたように、中国の原則問題は歴史問題のほかに、領土問題もある。中国はこれを外交上の「底線(最低ライン)」としており、それを越えた者に対しては果敢に批判を加え、ひいては関係が冷却化する。もし村山談話から後退する談話が発表されたら、中国としては「日本は底線を越えた」として批判し、相応の措置をとるしかなく、それによって両国関係がまた停滞することを憂慮した。 また、中国の安倍首相への警戒感もある。現在の中国の安倍首相の評価は、第一次政権のときの小泉時代に停滞した日中関係を打開した政治家ではなく、「戦争のできる国」をつくろうとしている軍国主義者というものだ。

 中国の一般の人も中国メディアの報道の影響を受け、安倍政権の安保法案は「日本を戦争のできる国にする法案」という認識だ。この政権によって日本は歴史に逆行する動きをみせるのではないかと中国は警戒している。 中国には「ヘビに咬まれた者は、縄を見てもヘビだと思ってしまう」という言葉があるが、侵略された側としては、現在の日本の動きは軍国主義時代に向かうと映るのだろう。それゆえ、中国は安倍政権を警戒し、その政権が発表する談話は日本の歴史観を説明する格好の判断材料となるため、安倍談話に注目したのである。

「頭をちょこっと下げただけ」と安倍総理の謝罪を批判

 安倍談話は筆者のみるところ、国内の様々な声や諸外国との関係を考え合わせたうえでバランスをとり、言葉の使い方にも気を遣った印象だが、中国は談話についてあまり積極的な反応を示しているとは言い難い。 談話発表後、中国メディアも談話について伝えた。例えば、14日午後6時の新華社報道は、「反省」と「お詫び」が盛り込まれていることを伝えたが、これからの世代に「謝罪し続ける使命を背負わせてはいけない」という言葉が入っていることと、日本の侵略と植民地統治について直接に言っていないと伝えた。 「反省」と「お詫び」については多くのメディアが報じ、とりわけ、「謝罪し続ける使命を背負わせてはいけない」というくだりについて、中国は「日本は今後謝罪するつもりがないのか」ととったようだ。

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208NAME:2015/08/19(水) 23:50:50
民主・長島昭久氏 安倍談話は「歴史的な文書となる」
2015年08月18日 15時33分
http://yukan-news.ameba.jp/20150818-69/

安倍晋三首相(60)が8月14日に発表した、戦後70年談話(安倍談話)について民主党の長島昭久衆議院議員(53)がツイッターで自身の見解を述べている。  安倍談話の発表後、民主党や共産党は「反省やおわびについての首相の認識が明確ではない」などとして、国会で首相に説明を要求する構えだが、長島氏は「戦後70年の総理談話は歴史的な文書となるであろう」と評価した。  長島氏は安倍談話の内容について以下の3つの点において特徴的だと述べる。

1、「国際秩序の挑戦者」という国際関係論では重要な文言を使い、過去の反省とともに暗に中国に対する牽制を行っている点。
2、謝罪外交に終止符を打った点。
3、全体として英文調。

 長島氏は談話の中で「この胸に刻み続けます」と繰り返し述べていることを挙げ、世界に向けて発信することを念頭に作成したのだろうと推測。 「少々不満が残った」部分があるとしているが、全体的には「これまでのいかなる歴史談話よりも具体的かつ詳細に反省すべき内容、感謝すべき対象(国および国民)を明記した。そして、その反省に基づいて未来志向の決意を内外に鮮明にした。その上で、歴代政権の歴史認識が今後も揺るぎないことを再確認した」と評価した。

209NAME:2015/08/22(土) 13:28:06
【戦後70年】
今甦る芙蓉部隊(上) 月明かりをも拒否し、暗闇での出撃を繰り返した忍者部隊「戦友の命を背負っていく」
2015.8.22 11:34更新  (1/7ページ)【戦後70年】
http://www.sankei.com/west/news/150822/wst1508220036-n1.html

もはや夜間攻撃しか勝ち目はない-。自爆を前提とした特攻を避け、艦上爆撃機・彗星(すいせい)で最後の最後まで、米軍に立ちはだかった旧海軍の夜襲専門「芙蓉(ふよう)部隊」の獅子奮迅ぶりが、元搭乗員の証言で判明した。月明かりをも拒否し、暗闇での出撃を繰り返した忍者部隊は何を目指したのか。

米軍のジャケット

 元搭乗員は、福岡県小郡市在住の坪井晴隆(89)だ。彗星の操縦士として夜ごと出撃し、沖縄周辺で標的となる敵艦を見つけ、特攻機を誘導するのが主な任務だった。 「戦争の経験は私にとってかけがえのない宝なんです。決して忘れられない人生の一コマでね。戦友はぼろぼろと亡くなった。彼らみんなの命を背負っていくんだ、との気持ちで今、生きているんです」 芙蓉部隊のことを一から説明するのが面倒で、新聞社などの取材を断り続けてきたという。そんな坪井が今年8月15日、自宅応接間で記者の前に現れた。

210NAME:2015/08/22(土) 13:35:20
【戦後70年】
「小野田さんはこっちの動きすべて把握していた」 ルバング島で捜索、岩瀬匠さん
2015.8.22 08:38更新
http://www.sankei.com/west/news/150822/wst1508220026-n1.html

「二度とできないような特別な経験だった」

 元陸軍少尉、小野田寛郎(ひろお)さんのルバング島捜索隊に参加した和歌山県有田川町の岩瀬匠さん(81)は、昭和48年の捜索をこう振り返った。小野田さんの出身地でもある同県海南市の職員として同年2月から2カ月間、「第三次小野田少尉救出隊」として活動した。同市の宇賀部神社には、捜索の目印や出来事を記録した岩瀬さんの「ルバング雑記」の写しが千人針とともに展示されている。

 「小野田さん、出てきて下さい」「同級生の○○です」

 ルバング島で活動した元兵士や同級生らによる捜索隊は、密林内に「海南拠点」「クマノ拠点」などを設け、各所からスピーカーで呼びかけた。前半1カ月はテントで小野田さんが出てくるのを待ち、後半は密林を歩き回って捜索する作戦だった。岩瀬さんは物資の供給役を担い、各地の拠点を行き来した。

 小野田さんの父、種次郎さんも島を訪れ、懸命な呼びかけを行ったが、返事はなかったという。小野田さんは自身の著書で、岩瀬さんらによる2月中旬の捜索についても記述。また呼びかけが始まったが、父の声は聞けなかったと振り返っている。 「小野田さんはこの時、島南部のヤプーサン岬でひっそり隠れていたと後から聞いた。こちらの動きはすべて把握していたんです」と岩瀬さんは打ち明けた。

〈マンゴーの木の下で昼食〉

 〈右の道にワナが仕掛けられ かかる 約100メートル進むと又 ワナあり〉

 〈レーダーサイト着 ワナは兵隊が仕掛けたものらしい〉

 ルバング雑記は現地の様子をこう記す。地下足袋で歩き回ったジャングルは、「グリーンスネーク」という毒蛇がいたが、アリやハチに刺されることが多く、隊員らは苦しんだ。しかし、根っからの山好きだった岩瀬さんは特に苦にならなかったという。「小野田さんが30年近く暮らせる場所だから大丈夫だと思っていた」

 〈珍しい鳥 良い鳴声〉。ルバング雑記では、現地の豊かな自然も記していた。

 2カ月の捜索後、救出隊は密林の麓に「小野田山荘」を建設し、同級生や全捜索隊員の寄せ書きと種次郎さんの俳句などを残し、4月に帰国。岩瀬さんは市への報告書にこう記した。

 〈いつかは彼の心に通じ 救出されるであろうことを期待する>

 小野田さんが帰国したのは、翌年3月。「救出隊は人が多すぎたんじゃないか。一人で探しに来たら会えると確信していた」と岩瀬さん。「出てきはることはわかっていた。本当はもう一度、今度は一人で行かせてほしいと言いたかったが、よう言わなんだ」

211NAME:2015/08/22(土) 22:06:24
卑怯と罵られた日本の真珠湾攻撃。その裏で交錯していた日本人たちの想いとは?
2011年12月10日
http://eikojuku.seesaa.net/article/239776797.html

アメリカ在住の外交官たちは、戦争回避の想いを強く持っていた。 しかし、アメリカ国務長官「コーデル・ハル」氏との外交交渉は、全く思わしくない。
アメリカの求める厳しい条件(ハル・ノート)を日本が飲むことは、まず不可能であった。
それでも、何とかアメリカとの戦争だけは「回避」したい。 そこで、「来栖三郎」駐米特命全権大使は、「裏口工作」に踏み切った。
「国賊となってくれ」来栖氏がそう言って白羽の矢を立てた相手は、「寺崎英成」であった。
「国賊」とはどういう意味か? 寺崎氏は来栖氏の真意を図りかねた。 
来栖氏が寺崎氏に求めたのは、アメリカ大統領ルーズベルトに、「あるお願い」をすることだった。

212NAME:2015/08/25(火) 00:46:30
「真の和解を」“カミカゼ”で父亡くした英国人 特攻隊遺族と対面
2015.8.24 23:06更新
http://www.sankei.com/life/news/150824/lif1508240036-n1.html

第二次世界大戦末期、神風特攻隊の攻撃で父親を失った英国人の遺族が、「真の和解を果たしたい」として望んだ特攻隊員の遺族らとの面会が24日、東京都内で実現した。戦後70年の時を経た念願の面会に、両国の遺族は平和を祈る“友”として歩み出した。(今仲信博) 来日したのは、英中部ノースウィックに住む英海軍の退役軍人、デービッド・ヒンキンズさん(70)。父親のジョージさんは1945年5月9日、乗船していた英空母が沖縄沖で特攻隊の攻撃を受け、戦死した。デービッドさんが生後約5カ月のことだった。

 「カミカゼ」を恨んだこともあったというデービッドさんだが、自らも父親となり、心からの和解をしたいと特攻隊員の遺族を捜し始めた。その様子を本紙が6月20日付の紙面で報じ、フジニュースネットワーク(FNN)が旧日本軍の資料を調べ、英空母への攻撃を行ったのは当時22歳の黒瀬順斎(よしなり)中尉だったことが判明。黒瀬中尉には12歳年下の弟、黒瀬宗義さん(80)=さいたま市在住=がいることも分かり、日本での面会が実現した。

この日、顔を合わせた2人は握手を交し、黒瀬さんが「遠い英国より、お父さまの敵である私たちと面談するため、来日されたことに敬意を表します」と語りかけると、デービッドさんは「平和な状況で友好的な出会いを果たせ、とてもうれしく思います」とこたえた。 黒瀬さんは兄の遺品として、英国の元軍人から送られた零式艦上戦闘機(零戦)の破片を持っていた。デービッドさんに見せると、「この破片を持っていることは信じられない」と驚いた様子。感慨深げに、破片を見つめるデービッドさんに、黒瀬さんは兄との思い出話などを語り、「命を張ってぶつかっていった人たちのことを、戦後に悪く言う人はいなかった」としみじみ振り返る。

 戦後70年の節目に「真の和解」を成し遂げた2人だが、黒瀬さんは当初、面会に抵抗があったという。しかし、デービッドさんの熱意に押され、心が動いた。「『恨みっこなしで、平和な付き合いをしよう』というのがありがたかった」と話す。 デービッドさんは「言葉の壁があるが、今後も手紙を書き合うなどして、この友情を続けていきたい」と笑顔をみせた。

213NAME:2015/08/25(火) 00:47:39
「真の和解を」“カミカゼ”で父亡くした英国人 特攻隊遺族と対面
2015.8.24 23:06更新
http://www.sankei.com/life/news/150824/lif1508240036-n1.html

第二次世界大戦末期、神風特攻隊の攻撃で父親を失った英国人の遺族が、「真の和解を果たしたい」として望んだ特攻隊員の遺族らとの面会が24日、東京都内で実現した。戦後70年の時を経た念願の面会に、両国の遺族は平和を祈る“友”として歩み出した。(今仲信博) 来日したのは、英中部ノースウィックに住む英海軍の退役軍人、デービッド・ヒンキンズさん(70)。父親のジョージさんは1945年5月9日、乗船していた英空母が沖縄沖で特攻隊の攻撃を受け、戦死した。デービッドさんが生後約5カ月のことだった。

 「カミカゼ」を恨んだこともあったというデービッドさんだが、自らも父親となり、心からの和解をしたいと特攻隊員の遺族を捜し始めた。その様子を本紙が6月20日付の紙面で報じ、フジニュースネットワーク(FNN)が旧日本軍の資料を調べ、英空母への攻撃を行ったのは当時22歳の黒瀬順斎(よしなり)中尉だったことが判明。黒瀬中尉には12歳年下の弟、黒瀬宗義さん(80)=さいたま市在住=がいることも分かり、日本での面会が実現した。

この日、顔を合わせた2人は握手を交し、黒瀬さんが「遠い英国より、お父さまの敵である私たちと面談するため、来日されたことに敬意を表します」と語りかけると、デービッドさんは「平和な状況で友好的な出会いを果たせ、とてもうれしく思います」とこたえた。 黒瀬さんは兄の遺品として、英国の元軍人から送られた零式艦上戦闘機(零戦)の破片を持っていた。デービッドさんに見せると、「この破片を持っていることは信じられない」と驚いた様子。感慨深げに、破片を見つめるデービッドさんに、黒瀬さんは兄との思い出話などを語り、「命を張ってぶつかっていった人たちのことを、戦後に悪く言う人はいなかった」としみじみ振り返る。

 戦後70年の節目に「真の和解」を成し遂げた2人だが、黒瀬さんは当初、面会に抵抗があったという。しかし、デービッドさんの熱意に押され、心が動いた。「『恨みっこなしで、平和な付き合いをしよう』というのがありがたかった」と話す。 デービッドさんは「言葉の壁があるが、今後も手紙を書き合うなどして、この友情を続けていきたい」と笑顔をみせた。

初対面で握手をかわす、特攻隊で兄の黒瀬順斎中尉を亡くした黒瀬宗義さん(左)と特攻隊の攻撃で父のジョージさんを亡くした英海軍退役軍人のデービッド・ヒンキンズさん=24日、東京都北区 (大西正純撮影)

214NAME:2015/09/05(土) 15:20:34
中国は日本に「謝罪迫る資格」なし・・・莫大なODAを忘れたか? ドイツもイタリアも侵略の謝罪はせず=仏メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%80%8C%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E8%BF%AB%E3%82%8B%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%97%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E8%8E%AB%E5%A4%A7%E3%81%AA%EF%BD%8F%EF%BD%84%EF%BD%81%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%82%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%82%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AF%E3%81%9B%E3%81%9A%EF%BC%9D%E4%BB%8F%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2/ar-BBm5RzF

フランス国際放送、RFIはこのほど、運営するニュースサイト(中国語版)で、中国が歴史問題で日本に毎年謝罪を迫るのは根拠がないなどの主張を紹介する記事を掲載した。日本が莫大(ばくだい)なODAなどで中国を支援してきたことにも触れた。 記事は、複数の中国人が示した意見を紹介する形で書かれている。まず日本が戦争行為を反省し、永遠の不戦の誓いをしていることは「だれでも知っている」と指摘。一方で、中国人と韓国人が毎日のように「日本の侵略と植民の歴史」を唱えているのは「見劣りがする」と断じた。

 謝罪については、田中角栄元首相が国交正常化のために訪中した際にすでに、「深々と頭を下げた」と指摘。日本は「贖罪のための賠償もした」として、ODAなどによる巨額の対中経済援助を挙げた。 記事は続けて「今の平和主義の日本が、軍拡主義の中国に服従することはない。民主主義の日本が権威主義の中国に服従することはない。国際主義の日本が民族主義の中国に服従することはない」と論じた。

 戦争については、人類の歴史で「日常茶飯事」だったと主張。侵略行為の認定も勝利国によるもので、敗戦国は領土喪失、賠償、一定期間の占領、戦争犯罪者の裁判などが強いられるが、「これらが終了すれば、謝罪や清算はすべて完結したことになる」と論じた。 さらにドイツやイタリアも侵略国であり敗戦国だが、「何度も繰り返して相手国に謝罪するのは見たことがない」、「国際法でもそんなことは定められていない。中国以外の世界中の第二次世界大戦の“被害国”は、そんなことをしない」と論じた。

**********

◆解説◆ 中国では「ドイツは戦争についてきちんと謝罪」が“常識”になっている。しかし、中国でよく例となるワルシャワにおけるブラント首相(1970年当時)の謝罪も、ユダヤ人の迫害に対するもので、ポーランド侵攻を含む戦争発動に対するものではない。 1985年の終戦40周年式典でのフォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説では「われわれ全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされている」と述べたが、「反省」や「謝罪」の言葉はなかった。 イタリアは日独と同盟する枢軸国として第二次世界大戦に加わったが、戦局が不利になると指導者のムッソリーニを排除し(最終的に処刑)、連合国側に加わり日本にも宣戦布告した。このため、他の連合国と同格ではないが、敗戦国扱いは受けていない。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:(C)Liu Junrong/123RF.COM)

215NAME:2015/09/13(日) 23:39:57
戦争を実体験した女性作家 安保法案「反対」の矛盾に疑問 K・ギルバート氏
2015.08.29
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150829/dms1508291000002-n1.htm

先日、満洲で終戦を迎えたときに14歳だった、女性作家のラジオ番組を聴いた。先の戦争を実体験した人ならではの話は、とても興味深かったが、私には論理矛盾が気になった。 ご本人も気付いていない様子だったので、少し指摘してみたい。

 1945年8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲や樺太、千島列島への侵略を始めた。1週間もせずに日本政府はポツダム宣言を受諾した。満洲に駐留する日本軍も武装解除された。彼女は銃が積み上がる様子を窓から実際に見たという。 その後、満洲では中国人やソ連兵による暴動や略奪が相次いだ。家財はおろか、命を奪われた日本人も少なくない。武装解除のせいで日本軍が日本人居留民を守れなくなったからである。

 彼女自身も、ソ連軍将校に強姦されそうになったという。激しく抵抗した後、物置に隠れて難を逃れた。母親も娘を守ろうと必死に抵抗したそうだ。ちなみに母親の行動は正当防衛に当たるが、これは個人レベルの集団的自衛権行使と言い換えることもできる。 彼女は現在、憲法9条を信奉し、反戦平和運動を行っているが、戦時中は「軍国少女」だった。国のために命をささげる覚悟だったのに、国とは一晩で無くなるものかとむなしく感じたそうだ。平穏な日本人居留地の治安が崩壊したことを、「国が無くなった」と表現したのだろう。

 繰り返しになるが、ソ連兵などの暴動や略奪の原因は、敗戦による日本軍の武装解除である。つまり、強い軍隊がいなければ、国は国民を守れないという現実を彼女は実体験として知っている。 それなのに憲法9条を信奉し、国の自衛権を強化する安全保障関連法案に反対する矛盾を、頭の中でどう処理しているのか、不思議である。 学徒動員兵の遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』が反戦平和運動に転向したきっかけと話していたが、あれはGHQ(連合国軍総司令部)の意向を受けたプロパガンダ作品との指摘がある。

 大本営発表の洗脳から、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の洗脳へと自動スライドしただけで、彼女の人生は、ずっと洗脳状態にあるのではないか。 「自分自身の頭でよく考えるべきだ」と、彼女は呼びかけていた。まったくその通りである。まずは自分の頭の中にある古臭い常識を最新版にアップデートしたうえで、彼女自身がもう一度、自分の頭で考えてほしい。

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行う。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい国・日本に告ぐ』(青林堂)など。

216NAME:2015/11/01(日) 00:32:41
当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-category-20.html
その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。これには潜んでいた日本軍も参ってしまつた、その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などがながされたそうです。 「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。投降呼呼び掛けの放送とはうらはらな、人道上許し難い残虐な行為をしだした。

幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ、婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理矢理トラックに積み込まれた。そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫していた。 その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。なんたることをするのだ、小銃だけではどうすることもできず、此方の位置もしれてしまう。この悲劇をただ見守るしかなかった。(この婦女子はその後一人として生還しなかつた) 婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」の投降勧告の意味は。幼い子供が泣き叫び、絶叫する、

「おい、もう我慢ならん。撃て」吉田軍曹が一発撃った、何の効果もなく、敵はもはや無関心。 残酷な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、又火のなかへ付き返す。死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛したり、銃で突きとばしては火の海へ投げ込んでいる。二人の兵隊が滑走路際にいた、泣いている赤ん坊をみつけ、両足をもって、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のようにまたさきにされ殺されてゆく。彼らは、その行為を平然としてやり、大声で笑い得意げになっていた。日本軍は手を出せず、ただ合掌し霊をとむらうほかなかつた。

217NAME:2015/11/18(水) 23:01:19
特攻隊は「テロリストとは違う」「戦友への侮辱だ」 仏報道に88歳元隊員憤り
2015.11.17 20:55更新
http://www.sankei.com/west/news/151117/wst1511170080-n1.html

パリで起きた同時多発テロ事件で、現地メディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」(カミカズ)=カミカゼの仏語風発音=と表現していることに、語源となった神風特攻隊の元隊員から憤りの声が上がっている。命をなげうち、祖国を守ろうとした特攻と、無辜(むこ)の民間人を犠牲にするテロを同一視するような報道に、元隊員は「国のために戦死した仲間は、テロリストとは全く異なる」と反発している。

 「日本をなんとか救おうと、愛国心の一念から仲間は飛び立ち、命をささげた。テロと特攻を一緒にするのは戦友に対する侮辱であり、残念至極だ」 福岡県豊前市の末吉初男さん(88)は17日、産経新聞の取材にこう語った。

 末吉さんは16歳で陸軍少年飛行兵に応募し、昭和18年に陸軍飛行学校に入校した。18歳だった20年4月28日、特攻隊として、4機5人と台湾の飛行場から飛び立ったが、約1時間後、隊長機にトラブルが起きて沖縄・石垣島に全機不時着した。再出撃の命令は出ず、そのまま終戦を迎えた。

 末吉さんは、爆弾を積んだ小型ボートで敵艦隊に突入する特攻に旧海軍が「神風」という言葉を用い始め、国内に広がったと記憶している。鎌倉時代の元寇の際に暴風が起きたことから、「日本が最悪の状況に陥ったときには神風が吹く、国を守るために神様が加勢してくれると信じさせてくれる言葉だった」と振り返る。 戦後70年、亡くなった戦友のことは片時も忘れず、冥福を祈り続けた。 今回、パリの事件を報道で知り、「無差別に人を狙う、こんな恐ろしいことが起こる世の中になった」と残念な思いでいた。 ところが、そんなテロの代名詞に「カミカゼ」が、誤って用いられている。

特攻の攻撃対象は敵艦であり、乗っているのは軍人だ。無差別に一般市民を巻き添えにすることは決してなかった。末吉さんも、敵艦を攻撃するために特殊教育を受けた。 航空母艦を標的とする際、鉄板の甲板に突っ込んでも空母は沈まない。格納している航空機の昇降口を狙うなど、課せられた任務を遂行するために、むやみな突入をしないことは絶対だった。

 「戦友は上司の命令に従い、国を守るため、天皇陛下のためと死んだ。特攻とテロが一緒にされるとは心外でたまらない。戦友に対して申し訳なく、はがゆい思いでいっぱいだ」 自爆テロやテロリストを「カミカゼ」と表現する報道は、2001年9月の米中枢同時テロ以降、見られるようになった。今回テロ事件が起きたフランスでは、「3人の『カミカズ』のうち、1人がフランス人だ」「『カミカズ』が競技場に侵入しようとしていた」などの文言で報じられ、捜査を担当するパリの検事も記者会見で「カミカズ」と口にしている。

 末吉さんは、これまで生き残ったことを申し訳なく思う気持ちから、戦争体験をほとんど語ってこなかった。だが、戦後70年を迎え、ようやく今年、生き証人として自らの経験を語り始めた。 「話を聞く若い世代の中には、これから政治家や指導者になる人もいるだろう。ひとりでも多くの人に、真実を知ってもらいたい」と強調した。(九州総局 高瀬真由子)

218NAME:2015/11/18(水) 23:49:44
【パリ同時多発テロ】自爆テロ犯は「カミカズ」仏報道で「神風特攻隊」を誤解?写真あり
【戦後70年】死のうと思い死ねなかった元特攻隊員 生き残ったことに負い目を感じ生活〈三重発2〉写真あり
【歴史戦】予想された〝中韓の攻撃〟 慰霊に名借りた「日本の地位失墜」運動 世界文化遺産・九州、山口の文化財標的に 写真あり
【戦艦「武蔵」艦長の息子(上)】叔父が「神風特攻隊」と名付けた 猪口勇さん講演写真あり
【戦後70年】「隊員の精神は崇高なもの」特攻隊の魂、創作落語で伝える 三代目桂春蝶さん写真あり
【戦後70年】壁一面の「血書」陸軍少年特攻隊員が残した終戦に揺れる心情 同期が書き主の情報提供呼びかけ写真あり

219NAME:2015/12/18(金) 01:42:41
真珠湾攻撃:憎しみなき殺し合い…空母「瑞鶴」の元整備兵
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83%E6%86%8E%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8D%E6%AE%BA%E3%81%97%E5%90%88%E3%81%84%E2%80%A6%E7%A9%BA%E6%AF%8D%E3%80%8C%E7%91%9E%E9%B6%B4%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%85%83%E6%95%B4%E5%82%99%E5%85%B5/ar-AAg8Wkr#page=2

74年前の1941年12月8日は、日米開戦の火蓋(ひぶた)を切った米ハワイ・真珠湾攻撃の日だ。この攻撃に参加した空母「瑞鶴(ずいかく)」の航空整備兵だった川上秀一さん(97)=岡山県笠岡市=は「米国のような大国と本当に戦争をするのか」という戸惑いと不安、緊張を今も忘れない。緒戦の勝利から敗戦への道を体験した川上さんは「米国人を憎いなんて一度も思わなかった。それでも殺し合わなければならなかった」と振り返る。【高田房二郎】

 ◇「腹いっぱい食べられる」志願した海軍

 川上さんは36年、海軍に志願した。小さな農家の出身で「軍隊なら腹いっぱい食べられる」という考えだった。41年11月下旬。択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に着いた川上さんは、集結した艦船に驚いた。出航時に行き先は知らされず「大規模な訓練か」と考えた。間もなく「ハワイへ向かう。外交交渉が決裂すれば米国と開戦する」と告げられた。

艦隊は奇襲を悟られぬよう北方を進み、僚艦との連絡は手旗と発光信号に限られた。荒波にもまれ船酔いに苦しむ兵士もいた。便所で一緒になった部下は青ざめた顔で「本当に戦争になるのでしょうか。日本は勝てるでしょうか」と尋ねてきた。川上さんは不安を隠して平静を装った。 ハワイ沖に到着し、隊長機の整備を担当した川上さんは「とにかく故障せず、飛び立ってくれ」と念じた。瑞鶴から飛んだ攻撃機などは全て帰還した。「みんな口には出さなかったが、高揚感が漂っていた」と振り返る。

 日本が優勢だった期間は短く、42年6月のミッドウェー海戦を境に戦況は暗転した。川上さんは瑞鶴で約20回の戦闘に参加し、日本の連合艦隊が事実上壊滅した44年10月のフィリピン・レイテ沖海戦が最後の戦いとなった。 瑞鶴は敵艦をおびき寄せるおとり役。猛烈な爆撃と魚雷攻撃で撃沈された。泳ぎが苦手の川上さんは、ふんどし姿で海に飛び込み数時間漂流し、味方のボートに救出された。 その後は国内の航空隊に所属し、三重県で終戦を迎えた。天皇の玉音放送を聞きながら、瑞鶴の沈没時に若い兵士らが「お母さん」と小さく叫び、力尽きていった姿を思い浮かべていた。悔し涙があふれた。

 戦後は土木関連の会社を経営したが、戦争体験を語ることはほとんどなかった。瑞鶴の研究者による聞き取りや地元の報道機関の取材に応じたくらいだ。 90歳を超えた今も戦争の記憶は鮮明で、海軍の履歴表を手に、あの時代をとうとうと語る。しかし、戦後生まれが日本人の約8割となり、戦争体験の風化は確実に進んでいる。 川上さんは「戦争だけは絶対するもんじゃない。勝っても負けても得することは何もない」と言った。

220NAME:2016/01/11(月) 22:51:06
【井上和彦氏講演会詳報】タイ、インド、台湾…「アジアの声」は日本の戦いを高く評価している
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e4%ba%95%e4%b8%8a%e5%92%8c%e5%bd%a6%e6%b0%8f%e8%ac%9b%e6%bc%94%e4%bc%9a%e8%a9%b3%e5%a0%b1%e3%80%91%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%80%81%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e3%80%81%e5%8f%b0%e6%b9%be%e2%80%a6%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e3%81%ae%e5%a3%b0%e3%80%8d%e3%81%af%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e6%88%a6%e3%81%84%e3%82%92%e9%ab%98%e3%81%8f%e8%a9%95%e4%be%a1%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b/ar-CCmKj0#page=2

本紙「正論」欄執筆メンバーでジャーナリスト、井上和彦氏の講演会「日本が戦ってくれて感謝しています」(主催・産経新聞雑誌「正論」、協賛・大阪冶金興業)が10日、大阪市北区中之島の大阪市中央公会堂大ホールで開かれた。詳報は次の通り。

歴史戦

 いま中国が仕掛けている歴史戦、韓国が仕掛けてくる歴史戦、皆さん頭にきますでしょう。でも、韓国や中国の批判で歴史に注目することで、日本の本当の姿がわかってくるという部分がある。これからお話することは、恐らく学校や、あるいは戦後の教育のなかで教えられてこなかったことです。

 まずはタイですが、過去には日本と一緒に第二次世界大戦を戦った同盟国です。だから8月15日に「アジアの声が-」などというなら、タイは(その批判勢力から)省かなければならない。タイ駐屯軍司令官だった中村明人中将は、戦争10年後の昭和30年にタイに赴き、空港で大歓迎を受けている。“侵略”したら、こんなに歓迎されるのか。ありえない。

シンガポールでは

 またシンガポールでは、山下奉文将軍率いる部隊が55日間で1100キロを進撃し陥落させた。その山下将軍の等身大の像が、シンガポールのセントーサ島の博物館にある。“侵略”されたはずのシンガポールにあるのです。 山下将軍は日本軍戦没者慰霊碑を建てただけでなく、敵兵を弔うために全高約13メートルともいわれる巨大な十字架を建てたが、こうしたことはかつてシンガポールの中学校の歴史教科書にも載っていたのです。こうなるとシンガポールも、日本を非難する「アジアの声」から省かないといけない。

モディ首相が感謝

 マレー半島のF機関については知らない人も多いが、兵庫県出身の藤原岩一少佐が率いた組織です。藤原少佐は戦後、陸上自衛隊の第1師団長を務めた方です。F機関は戦争中、英国の植民地政策に反対するインド人を集めた「インド国民軍」の創設に大きな役割を果たしました。 一昨年9月、インドのモディ首相が来日して安倍首相と会談しましたが、その翌日の、とある会談がインドで大ニュースとなりました。モディ首相は、日本とともに英国と戦ったインド独立の英雄チャンドラ・ボースの同僚であった三角佐一郎氏と面会し、ひざまずいて手を握ったのです。

 またフィリピンでは、画家のダニエル・ディソンさんという方が「神風特別攻撃隊」について、自らの命を犠牲にしてアジアのために戦ったと高く評価しています。彼は「カミカゼは白人の横暴に対する最後の抵抗だった」といいます。

飛虎将軍廟

 台湾では「飛虎将軍廟」という神社があり、台湾沖航空戦で敵戦闘機に体当たりして散った操縦士の杉浦茂峰兵曹長を神様として祀っている。台湾の南端、高雄市の東方工商専科学校では、現在も教育勅語を教育に取り入れています。

 インドネシアでもオランダの約350年にわたる植民地統治を日本軍が終わらせ、PETA(郷土防衛義勇軍)を作った。国立英雄墓地には、第二次大戦終結後もインドネシアに残り、独立のために戦った日本兵も葬られています。

第一次大戦の「戦勝国」

 最後に地中海のマルタ共和国。第一次大戦の際、連合国の一員としてマルタ島に派遣された日本海軍の第二特務艦隊は、連合国客船などの護衛任務で連合国から高い評価を得た。特にドイツ潜水艦の雷撃で英国客船「トランシルヴァニア」が撃沈された際は、同艦隊の駆逐艦「榊」が僚艦とともに約3000人の英国将兵を救助しました。国王ジョージ5世はこのことを英国国会で聞き、国会では日本語で「バンザイ」の三唱が起きたといいます。

 「榊」はこの後、ドイツ潜水艦の攻撃を受け、艦長以下59人が戦死します。その方々を祀った石碑がマルタ島にあります。

 第一次大戦で日本は戦勝国だったということを忘れてはならない。皆さん、平成30年、2018年は第一次大戦の戦勝100周年です。そのときに、われわれは戦勝国だった、われわれは世界の秩序と人種平等を訴えた最初の国であるということを言って出ればいいのです。

221NAME:2016/01/17(日) 22:43:20
五十六神話を捨てるとき
http://ironna.jp/theme/474

米軍事アナリストが徹底分析 「五十六神話」完全崩壊
http://ironna.jp/article/2666

山本の構想で仮に太平洋艦隊の侵攻を六カ月遅らせることに成功しても、新造艦計画による米国の物的優位を妨げられるものではない。真珠湾攻撃により全米国人の憤激は頂点に達し、官民あげて戦争目的の完遂に邁進することになった。実際、米国が真珠湾、フィリピンの敗戦によって戦意を喪失して講和するなど論外である。山本は根本的なことを大きく読み違えている。結局、真珠湾が成功しても講和にならなければ、必然的に日本が勝利する見込みのない米国との長期戦となる。 真珠湾攻撃は米国との長期戦を誘発するものであり、その他のありえた日本の可能性のすべてを放棄させた。仮に最後通牒が間に合ったとしても、これは形式要件を有しないものであり事態に影響はない。

日本政府が最後通牒をワシントン時間午後一時に米国政府に手渡すことが遅れたことは書籍や映画で何度も取り上げられており、開戦にいたる重要なエピソードになっている。しかしこの時手渡された覚書は宣戦布告とみなされるものではない。「よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」と結ばれている。交渉が妥協点を見いだせなかったとは振り出しに戻ることであり、次のステップが戦争であると伺わせる言葉は全くない。外交関係の断絶や外交団の召喚にも触れていない。

ルーズベルト大統領も十二月八日の有名な「屈辱の日」のスピーチにおいて、十四部の覚書につき、「この回答は現在の外交交渉を続けることが無用であると思われると述べているが、戦争もしくは武力攻撃の脅しやそれを伺わせるものは何も含まれていない」と述べている。野村、来栖大使も覚書を手渡し戦争勃発と知り驚いたとされる。枢密院の会議を経て帝国政府による英米に対する正式な宣戦布告がされたのは東京時間の十時四十五分(真珠湾時間十五時十五分)であり攻撃開始の七時間後である。最後通牒手渡し遅延のエピソードが定着しているが、ことの本質を惑わすものである。

山本は最後通牒が予定通り通告されたか最後まで気にしていたというが、その指揮下の潜水艦はその前日に米国領海内においてラハイナ泊地の偵察を行い、特殊潜航艇は前夜に領海侵犯し、水上偵察機による領空侵犯が一時間前になされている。

222NAME:2016/01/26(火) 03:40:53
【現代を問う】
日本は自衛のため戦った…主張変えたマッカーサー、証言の周知で戦後自虐教育の是正を
2016.1.25 15:00更新
http://www.sankei.com/west/news/160125/wst1601250005-n1.html

新年を迎え、昭和20年の「大東亜戦争」(注1)の敗戦以後、6年余り日本を支配、統治し、明治・大正・昭和(戦前)の日本を「悪者国家」とし、あの戦争は日本の侵略戦争だったと決めつけた『米国占領軍総司令官・マッカーサー元帥』の1951年(昭和26年)5月3日、米国上院軍事・外交合同委員会での証言がマスコミ、学校教育で周知されることを期待している。

 以下にマッカーサー証言を紹介する。 われわれは日本を包囲しました(注2)。日本は8千万人という膨大な人口を抱え、4つ島にひしめいていました。その半分が農業人口で、半分が工業生産に従事していました。日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接していたいずれにも劣らぬ優秀なものです。

 日本の労働者は、人間は怠けているときよりも、働き、生産しているときの方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳を持っていました。これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働く材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。 しかし、彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。

そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです(注3)。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、日本では1千万から1200万人の失業者が発生し、亡国と化するであろうことを日本政府・軍部は恐れていました。したがって日本が戦争を始めた目的は、大部分が安全保障(セキュリティー)(注4)のためだったのです。

 筆者注・(1)あの戦争を米国は「太平洋戦争」と呼び、日本政府は「大東亜戦争」と命名

 (2)包囲とは、ABCD包囲網のこと。Aはアメリカ、Bはブリテイン英国、Cはチャイナ、Dはダッチ=オランダの頭文字。米国は日露戦争後から日本人への人種差別を強化、昭和14年以後、鉄・クズ鉄など対日禁輸を強め、ついに昭和16年7月に日本の在米金融資産凍結、8月には決定的な「石油」の対日全面禁輸に踏み切った。これは米国の日本への宣戦布告に相当する。

 (3)日本軍は開戦直後の昭和17年に資源を求めて南下したが、略奪・収奪のためではなかった。フィリピンから米国を、インドシナ半島から仏国を、インドネシアからオランダを、シンガポール・マレー半島から英国を撤退させ、欧米の植民地支配から解放し各民族の独立の道を開いた。

 昭和18年、ビルマのバー・モウ総理大臣、タイのワンワイタヤコーン殿下(首相代理)、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、中華民国の汪兆銘行政院長、満州国の張景国総理大臣、インドの自由インド仮政府・チャンドラ・ボース首班らの首脳会議「大東亜会議」(日本の東条英機首相の主催)で、「人種差別撤廃」「互恵精神でアジアの共存共栄」を宣言した。

223NAME:2016/01/26(火) 15:40:38
インドネシアの独立の闘士・スカルノとハッタはまだ独立していないため、正式参加できなかったが、会議直後に来日し昭和天皇より皇居に招かれた。東南アジアやインドは「日本が侵略した」とは言っていない。反対に「欧米を追放してくれて日本に感謝する」と言っている。アジアから有色人種の日本によって、追い出された白人の欧米が「侵略」と決めつけたのである。

 (4)安全保障とは「自衛」という意味。自衛戦争は現在でも国際法で認められている。マッカーサーは戦後6年を経て、それまでの主張を180度逆転し、東京裁判での東条英機元首相の日本は「自衛のために戦った」「あの戦争は米国が仕掛けた」という『宣誓供述』を認めたのである。 このマッカーサー証言を、戦後の「自虐的歴史教育」「日本侵略国家論」「日本の伝統否定」「反皇室教育」を是正するために広く周知するべきである。

 森靖喜(もり・やすき) 昭和16年、岡山市生まれ。明治大学大学院卒業後、43年から金山学園(現・岡山学芸館高校)の教諭、岡山市教育委員長などを歴任。現在は岡山県私学協会長、学校法人・森教育学園理事長、岡山学芸館高校・清秀中学校学園長、教育再生をすすめる全国連絡協議会世話人。専門は政治学。

224NAME:2016/05/11(水) 00:51:27
【オバマ氏広島訪問】
安倍首相発言詳報 「犠牲者の思いに応えるもの」「大統領にとって大きな決意」
2016.5.10 23:01更新
http://www.sankei.com/politics/news/160510/plt1605100055-n1.html

安倍晋三首相は10日、オバマ米大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後の27日に被爆地の広島を訪問することが決まったことを受け、官邸で記者団の取材に応じ、「被爆地から世界に向けて核兵器のない世界について決意を改めて発信することこそ意義のあることだ」と強調し、自らも同行することを明らかにした。発言の詳細は以下の通り。

 「今月27日、伊勢志摩サミット終了後、オバマ大統領とともに被爆地・広島を訪問することを決定いたしました。オバマ大統領の広島訪問を心から歓迎いたします。70年前の原爆投下によって、たくさんの市井の人々が無残にも犠牲となりました。今回の訪問を、全ての犠牲者を、日米でともに追悼する機会としたいと思います。日本は唯一の戦争被爆国として、二度とこの悲惨な体験を、世界のどんな場所であっても再び繰り返させてはならないと、この思いで、核兵器の廃絶を一貫して訴えて参りました。今回オバマ大統領が広島を訪問し、そして被爆の実相に触れ、その気持ちを、そしてその思いを世界に発信することは、核兵器のない世界へ向けて、大きな力になると信じています。そしてその世界を実現するために、オバマ大統領とともに全力を尽くしていきたいと思います」

 --原爆投下について米国側の謝罪は必要だと思うか

「70年前の原爆投下によってたくさんの方々が犠牲になりました。そして今でも多くの方々が苦しんでおられるのも事実であります。そして、その皆さんは、二度とこうした悲劇を繰り返してはならないと強く思っておられることと思います。オバマ大統領は、核兵器を使用した唯一の国として、核兵器のない世界に向けて行動する責任を負っていると常々述べておられます。今回、被爆地から世界に向けて、核兵器のない世界について、決意を改めて発信することこそ、私たちの世代、そしてまた、子供たちや孫たちや次の世代にとって、意義のあることだと思います」

 --つまり謝罪は求めないということか

 「今度、オバマ大統領が実際に被爆地に足を運ぶ。それはアメリカ大統領にとっては大きな決意だったと思います。そして、唯一の戦争被爆国の首相である私とともに、世界で唯一核兵器を使用した国の指導者が、ともに犠牲者に対して哀悼の誠をささげる、このことが、まさに被爆の犠牲となった方々、そして今も苦しむ人々の思いに応えるものだと私は信じております」

225NAME:2016/05/11(水) 00:55:38
【国会議員に読ませたい敗戦秘話】
朝日新聞の「従軍慰安婦」報道を鵜呑みにし、謝罪を繰り返した政治家たちよ 歴史から目をそむけまい
2016.5.10 14:10更新 (1/7ページ)
http://www.sankei.com/premium/news/160413/prm1604130004-n1.html

「歴史から目をそむけまい」

 朝日新聞は1992年1月12日付でこう題する社説を掲載し、「従軍慰安婦」について「挺身隊の名で勧誘または強制連行され、各地で兵士などの相手をさせられた」と断じ、軍や政府の関与を否定する日本政府を非難した上で大上段にこう説いた。 「恥ずかしい体験はだれでも思い出したくないものだ。しかし、戦争という特異な状況のもととはいえ、植民地下の朝鮮から多数の人々を駆り出し、男性には労務や兵役を、女性には兵士の慰安をという役割を強要したのは、たかだか半世紀前のわが国であった。この事実の重みは私たちが負い続けなければならない。歴史から目をそむけることはできない」

 朝日新聞はこれに前後して従軍慰安婦キャンペーンを繰り広げ、「太平洋戦争に入ると主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その数は8万人とも20万人ともいわれる」と主張した。この報道を受け、韓国では激しい日本批判が巻き起こり、直後に訪韓した宮沢喜一首相(当時)はろくに事実関係を調べもせずに計8回も謝罪と反省を繰り返した。

 ところが、論拠となる「朝鮮人女性を『慰安婦狩り』と称して強制連行した」という説は、元山口県労務報国会下関支部動員部長を名乗る吉田清治氏(故人)の完全な作り話だった。そもそも従軍慰安婦というのは戦後の造語にすぎず、朝日新聞が混同した「挺身隊」と「慰安婦」は全く別なものを指す。日本軍や政府が慰安婦の強制連行に関与したことを示す資料も見つかっていない。

226NAME:2016/05/20(金) 23:15:08
日本に好感を持つ中国人が少ない理由「日本はドイツとぜんぜん違う」=中国
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ab%e5%a5%bd%e6%84%9f%e3%82%92%e6%8c%81%e3%81%a4%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%81%8c%e5%b0%91%e3%81%aa%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1%e3%80%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e3%81%a8%e3%81%9c%e3%82%93%e3%81%9c%e3%82%93%e9%81%95%e3%81%86%e3%80%8d%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd/ar-BBteVEz#page=2

公益財団法人・新聞通信調査会は先日、「諸外国における対日メディア世論調査」を発表した。その結果、日本に対する好感度は中国が3割未満だったのに対し、タイは最高の90。8%と、国によって大きく差が見られた。 これを受けて、中国メディアの参考消息はこのほど、「日本に好感を持つ中国人は3割未満、タイは対日好感度で最高位」と題して各国の対日感情に関する記事を掲載した。 同調査は、米中韓英仏タイの6カ国に対して行われた。日本に対する高感度は、タイが90.8%で最も高く、次いで米国が78.6%、英国が69.7%、韓国が32.3%と続き、中国は最も低い27.8%だった。

 中国が6カ国で最も低い数値だった理由として、記事は「歴史問題にある」と分析。この点で日本はドイツと大きく異なっているとした。中国ではドイツに対する好感度が高いが、それはドイツが「第二次大戦中の罪を深く反省し、この歴史に対する批判的な態度を明確にし、欧州各国との和解を実現した」ことにあると論じた。 一方、「日本は戦争犯罪の事実を認めず、歴史を美化し、ごまかしたり言い訳したりしているため、中国人の反感を買っている」と主張。日本は不利な事実を伝えたがらない異常な国家だと論じ、日本は歴史問題や領土問題で中国・韓国と正常な関係を築くことができないので、正常な国家とはなり得ないと主張した。

 最後に記事は、歴史問題と領土問題が日中友好を著しく損ねており、これが中国人の日本人に対する認識と感情に大きな影響を与えていると主張。そのため、日本に対する固定観念が出来上がったのだと論じた。記事では日中関係の低迷のすべての原因を日本に押し付けているが、1980年代のように日中関係が良好だった時期もある。中国における愛国教育や反日を煽るような教育にも日中関係が低迷した原因があると言えるのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

227NAME:2016/05/24(火) 19:38:08
ケリー長官の広島訪問、海外メディアはどう報じたか?
http://www.huffingtonpost.jp/2016/04/12/kerry-hiroshima_n_9667170.html

アメリカのケリー国務長官は4月11日、G7外相とともに広島市の広島平和記念資料館(原爆資料館)を参観し、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。このニュースは、海外でどのように報じられたのか。韓国メディアは厳しい見方で報じているのに対し、英米メディアは訪問の意義を中心に伝えた。

■韓国・KBS「黙祷のとき、少しだけあごを引いた」

KBSは「アメリカ政府は今回の訪問が、謝罪と解釈されることを警戒しています」として、黙祷の時のケリー氏の姿を「あごを少し引いただけで、全体的に厳しい姿勢を維持しました」などと報じた。

■韓国・朝鮮日報「日本の『加害』を希釈」

朝鮮日報は、ケリー氏らは献花の後、「日本の第二次大戦敗戦の象徴格である『原爆ドーム』を訪問した」と記した。記事は、安倍政権が「核軍縮と核不拡散の動きを示すとともに、日米間の強固な結束を国際社会に知らせようと構想したものと見られる」と分析。「第2次大戦に敗戦したことでできた『平和憲法』の改正を模索する状況で、ケリー長官の平和公園訪問が、戦争を起こした日本の『加害』を希釈させ、『被害』を浮上させる結果につながる可能性があるという懸念もある」と報じた。

■アメリカ・ABC「重々しい空気は、児童の歓迎によってたち消えた」

ABCは「(献花)式典の重々しい空気は、約800人の日本の児童が旗を振って歓迎したのでたち消えた」などと書かれたAP通信の記事を伝え、12日午後2時現在、Facebookで1000回以上シェアされている。

記事は、「アメリカ人の多くは、戦争を早く終らせるために原爆を投下したのは正義だと考えている」とする一方、「日本政府や遺族はアメリカに対して謝罪を求めていない」として、71歳の広島に住む飲食店オーナーの「世界の未来や次の世代の平和のことを考えると、(謝罪が)必ず必要だなどとは思わない」というコメントを伝えた。また、「爆心地からすぐそばのところへのケリー長官の訪問は、アメリカの進化を完遂させた」と分析した。

228NAME:2016/05/24(火) 19:39:53
■アメリカ・WSJ「ケリー国務長官は、岸田外相の背中に手を回した」

ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は、「日本とアメリカの両政府はこれまで、大勢の人を殺害した原爆投下について、アメリカが謝罪すべきかどうかを慎重にバランスを取ってきた」と説明。しかし、アメリカ人の多くは、謝罪の姿勢は、どんなものであろうとふさわしくないと考えていると報じた。 一方で、WSJは献花式典のワンシーンを写真に添えた。そこには、献花の後にお互いに背中に手を回している岸田文雄外相とケリー氏がいた。

■アメリカ・NYT「日本人はアメリカが難しいということを理解している」

ニューヨーク・タイムズは、東京財団上席研究員で外交・安全保障が専門の渡部恒雄氏のコメントを紹介した。渡部氏は「一部の日本人は、アメリカ人の謝罪の言葉が聞きたいかもしれないが、日本人のほとんどはそうではない」と説明。日本の保守層が安全保障上の理由からアメリカに謝罪を求めていないことや、リベラル層もアメリカのオバマ大統領が反核のメッセージを伝える目的で広島を訪問すれば、謝罪の言葉がなくても納得するとの考えを述べた。 渡部氏はさらに、「アジアの国々と日本にある謝罪政治とは異なり、ほとんどの日本人は、アメリカの指導者が謝罪することは非常にハードルが高いということを理解しています」と話したという。

■イギリス・ガーディアン紙「核保有国の外相も初めて広島へ」

ガーディアンは、ケリー国務長官と共に、イギリスのフィリップ・ハモンド氏とフランスのジャン=マルク・エロー氏も、核兵器を保有する国の外相として初めて、平和記念公園を訪れたことを伝えた。 また、ハモンド氏が共同通信に語ったという、「私たちはここに来ることで、未来の戦争を回避し、平和的な解決策を見つける責任があることを認識、痛感します」という言葉も伝えた。

229NAME:2016/05/24(火) 19:43:37
被爆者78%、米へ謝罪求めず 広島、長崎の115人アンケート
2016年5月22日 21時40分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016052201001616.html

オバマ米大統領が現職として初めて被爆地の広島を27日に訪問するのを前に、共同通信が広島、長崎で被爆した115人に実施した面接方式のアンケートで、原爆投下の是非に踏み込み謝罪することを78・3%が「求めない」と回答した。「求める」とした人は15・7%にとどまった。 大統領の訪問実現を優先する上で障害となる謝罪を回避したい意向や、太平洋戦争での日本側の加害行為を踏まえ米側だけに責任を求められないとの意見が目立った。一方で、投下を正当化する米国の世論を疑問視する声も多く、謝罪に言及しない米側の姿勢を必ずしも受け入れている訳ではないことがうかがえる。

230NAME:2016/05/25(水) 21:32:48
【オバマ広島訪問】
「原爆投下と違う選択肢あった」米歴史家イアン・トール氏に聞く
2016.5.25 20:24更新
http://www.sankei.com/world/news/160525/wor1605250025-n1.html

オバマ米大統領が27日、広島を訪問する。原爆投下は必要だったのか。太平洋戦争を日米両国の立場から描いた「太平洋の試練」シリーズの著者で歴史家のイアン・トール氏に聞いた。(ロサンゼルス 中村将)

 原爆投下は、多くの米国人の命、そしておそらく多くの日本人の命も救うために、必要だったと多くのアメリカ人は信じている。それに反する史観は、米国では、左翼的な修正主義史観であるというレッテル貼りが行われている。 だが、そうだろうか。史料から考える歴史家たちはむしろ違う結論を導き出そうとしている。私もそのひとりである。機密解除されてきた米国政府の当時の史料は、違う選択肢もあったことを示している。

 例えば、原爆投下の翌日、マッカーサー(連合国軍最高司令官)を運んだ飛行機のパイロットの日記には、「マッカーサーはあきらかにこのフランケンシュタインの登場に、困惑し落ち込んでいた」と記されているし、「ジャップを殺せ」と太平洋の戦いを指揮した南太平洋部隊司令長官のハルゼーですら戦後、「原爆投下はあやまちであった」と結論づけている。 トルーマン(大統領)自身も、1945年7月25日の日記に、原爆の使用を「軍事目標、戦闘員に限定し、女性や子供に対しては用いないことができないだろうか」と陸軍長官に聞いたと、記している。

またさまざまな史料は、当時政権内部では、原子爆弾を米国が所有していることを日本側に事前に通知し、軍事目標に対して使用することで合意していたことを示している。それなのになぜ、事前通告なし、都市に直接投下という結論に至ったのか。 戦後のソ連(当時)に対する牽制(けんせい)のために必要だった、という結論に当時の国務長官とトルーマンの膝づめの会議で急転直下決まった。この会議自体の記録は残っていないが、さまざまな証拠はそれを示唆しているように思える。

 今回、ホワイトハウスは「なぜ、米国は広島に原爆を落としたのか」という問いには踏み込まないことを示唆している。確かに現在の大統領がそれに踏み込むのは賢明ではない。頭を下げ、献花をし、二度とこうしたことを起こさせないと、私たちにかわって宣言する、それだけでいい。 しかし、私たちは、史実に対して、何が起こったかについて、思考停止に陥ることなく、事実を基に考えていく必要がある。原爆投下は必要だったのか-と。(談)

【プロフィル】Ian Toll 1967年生まれ。ジョージタウン大学卒、ハーバード大学ケネディ行政大学院公共政策学修士課程修了。著書に「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで」「太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで」など。

231NAME:2016/05/27(金) 08:06:09
【国会議員に読ませたい敗戦秘話】
広島原爆投下を眼下に見た紫電改操縦士がいた!「これは戦争じゃない。虐殺だ…」
2016.5.25 14:00更新 (1/8ページ)
http://www.sankei.com/premium/news/160523/prm1605230002-n1.html

原爆は戦争ではない。虐殺だ。 1945(昭和20)年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣部隊)少尉、本田稔は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。

 高度5千メートル。抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。 その瞬間だった。猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿は全く利かない。必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。

 「街がない!」 広島の街が丸ごと消えていた。傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべて瓦礫。炎も煙もなかった。 やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」 そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。

232NAME:2016/05/29(日) 21:02:59
【オバマ氏広島訪問】
「よかった」評価が98% 被爆者や米退役軍人ら、慎重意見も
2016.5.29 20:34更新
http://www.sankei.com/world/news/160529/wor1605290031-n1.html

共同通信社の全国電話世論調査で、オバマ米大統領の広島訪問を「よかった」と評価した回答が98・0%に達した。ただ、広島、長崎の被爆者の間には前向きに捉える声もある一方で「きれい事で終わらせてはいけない」などと慎重な見方が少なくない。米退役軍人団体からも「ほろ苦い」との感想が漏れ、複雑な心境をうかがわせた。

 広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の清水弘士さん(73)は、オバマ氏の原爆資料館見学がわずか10分程度だったことに憤る。「一番聞きたかったのは、被害の実態を見て何を感じたのか。用意してきた演説では本当の思いは分からない。きれい事で終わらせてはいけない」と話す。

 一方、米国では、これまで原爆展開催などに猛反発してきた米退役軍人団体が「紛争のない世界は全員が共有すべき展望だ」などと指摘するにとどまり、強い批判は出ていない。米国では30日が今年の戦没将兵記念日。(共同)

233NAME:2016/06/07(火) 22:35:38
「大統領が受けた歓迎、全アメリカ人が感謝」ケネディ氏
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%8C%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E6%AD%93%E8%BF%8E%E3%80%81%E5%85%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%8C%E6%84%9F%E8%AC%9D%E3%80%8D%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E6%B0%8F/ar-BBtPkMN

ケネディ駐日米大使

 いま日米同盟にとって歴史的な瞬間を迎えている。安倍晋三首相と日本の国民全員が心を開いて、オバマ大統領の広島訪問に歓迎して下さった。すべてのアメリカ人は大統領が受けた感情を揺り動かす歓迎に感謝し、日米両国がともに達成したことの大きさを誇りに思う。(東京都内のホテルで)

234NAME:2016/06/09(木) 13:39:40
「広島に来て良かった」オバマ氏側近、専用機から電話
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%80%8C%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%81%AB%E6%9D%A5%E3%81%A6%E8%89%AF%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E%E6%B0%8F%E5%81%B4%E8%BF%91%E3%80%81%E5%B0%82%E7%94%A8%E6%A9%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E9%9B%BB%E8%A9%B1/ar-BBtGEQn
2016/05/31

米国のオバマ大統領が27日に広島市を訪れた後、米国に向かう大統領専用機「エアフォース・ワン」から、側近に「広島の皆さんが歓迎してくれたことを感謝したい」と外務省へ電話させていたことがわかった。同省が31日に開かれた自民党の会合で明らかにした。

 同省関係者によると、オバマ氏が広島市の平和記念公園でスピーチなどを終え、車でヘリポートへ向かう途中、沿道で多くの市民が見送っていたという。それを見たオバマ氏が、「広島に来て良かった」などとお礼の電話をかけさせたという。(小林豪)

235NAME:2016/07/25(月) 23:54:34
アジアを1930年代に引き戻しかねない中国
https://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%921930%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AB%E5%BC%95%E3%81%8D%E6%88%BB%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AD%E3%81%AA%E3%81%84%E4%B8%AD%E5%9B%BD/ar-BBuDIRZ#page=2

1933年、日本は満州侵略を非難された後、国際連盟を脱退した。この挑戦的な行動は世界的な協力がアジアの危機の平和的な解決につながり得るというリベラルな国際主義者たちの希望に打撃を与えた。さらには、明治から大正にかけての数十年に及んだ日本のグローバル化を終わらせ、日本政府は西側の主要国と敵対するという道を歩み始めた。その結果が太平洋戦争である。

 今日、中国が同じような行動を取る可能性はあるのだろうか。先週、オランダ・ハーグの仲裁裁判所が下した裁定に対する中国政府の反応は、85年前の大国間の競争で日本を封じ込めようとした国際連盟を拒絶した日本政府を彷彿とさせる。

 南シナ海の広範な水域で領有権を主張する中国に対してフィリピンは2013年に仲裁手続きを申し立てた。ところが中国政府はこの争いは仲裁裁判所の管轄外だとし、審理への参加も拒否するという過ちを犯した。

 国連海洋法条約の下、中国政府には地形の所有権に基づいて審理を拒否する権利があるが、この裁判で争われているのはそうした地形によって生み出される海洋権益である。中国が批准しているその条約によると、その裁定には拘束力があるという。

 中国政府は主権を主張している南シナ海の地形に関して、昔から島であると述べてきた。したがって中国には排他的経済水域(EEZ)を得る権利があり、さまざまな建設や管理の権利があるというわけだ。ところが、仲裁裁判所は中国政府の主張には何の根拠もないとし、そうした地形はすべて単なる岩礁、あるいは「低潮高地」であると判断した。

 仲裁裁判所はさらに踏み込んで、中国政府が南シナ海の大半の領有権を宣言するのに利用した「九段線」の内側にある資源に対しても、中国が主張しているいかなる歴史的権利について認めなかった。同裁判所が中国にこれほど不利な判断を下すと予想した専門家はほとんどいなかった。

 その裁定は法的問題を明確にした一方で、この争いを引き起こした地政学的な競争の解決にはほとんど役に立っていない。中国政府は判断が下るずっと以前から、それが中国の国益に反するものであれば無視すると明言していた。その裁定に対する迅速かつ完全な非難により、今や中国は国際社会を向こうに回してしまった。

236NAME:2016/07/25(月) 23:55:39
 危険なのは、中国政府が今や同国と国際社会の関係はこれまで以上に悪化したとみていることだ。市民社会に対する習近平国家主席の厳しい取り締まりにより、よりリベラルな中国の出現は疑問視されている。中国の過去数十年に及ぶ世界との関係強化も今やスリクにさらされているのかもしれない。

 中国政府は物議を醸す問題で協力するどころか、近隣諸国を警戒させたり、威嚇したりする政策を一層強化するかもしれない。だとすれば中国は、今や法的判断を後ろ盾とした国際社会がそうした行動にますます反発するということを予期すべきだろう。こうした状況はアジアにより不安で危険な時代をもたらすことになる。

 国際法は第2次世界大戦後の世界秩序の基盤であるという慢心は、衰えることがない国民国家の利権というものにいつも挑戦されてきた。国内の法制度の不完全で混乱した枠組みを世界の舞台に移行させるという遠大な試みは、国際交流の大きな部分を形作ってきた。しかしそれは、地政学的利益を具体化するのには失敗してきた。

 世界的な法制度の正当性は今やその裁定に対する中国の反応によって試されるかもしれない。中国政府は「南シナ海の領土主権と海洋権益がその裁定の影響を受けることはないだろう」と述べている。そうした権益の支配を確立するために中国は何をする気なのか。

 中国は他国の漁船に対する嫌がらせや妨害を継続する可能性が高い。ベトナムは先週、南シナ海のパラセル(中国名・西沙)諸島付近でベトナム漁船が中国船から体当たりを受けて沈没したと主張した。

 中国政府は南シナ海での人工島建設を「決してやめない」と述べ、さらに挑発的な態度を示した。物議を醸したスプラトリー(南沙)諸島での埋め立て活動の再現で、スカボロー礁(中国名は黄岩島)に防御施設や軍事基地を建設するかもしれない。2012年にフィリピン最大のルソン島からわずか210キロしか離れていないスカボロー礁を奪い取って実効支配している中国は今やフィリピンにとって脅威となっている。

 法的な後ろ盾を得たことで、中国の近隣諸国はより強く抵抗するかもしれない。海上軍事衝突の可能性は劇的に高まるだろう。中国も愛国心から同様に強硬な姿勢で権益をあきらめることはないということを示そうとするかもしれない。

 今回の裁定では、米国がこの地域の同盟国やパートナーをより直接的に支援することへの期待も高まるだろう。米国政府に対する「航行の自由」作戦や外国漁船に対する中国の嫌がらせを防止する活動への協力の要請もこれまで以上に増える可能性が高い。そうしたことに対する不満感から中国が国際社会からこれ以上孤立したり、影響力を行使する手段としてあからさまな軍事衝突に向かうことがないように、米国は一貫した戦略を練らなければならない。

 ハーグの仲裁裁判所の裁定によってアジアの海域の覇権争いが解決するということはなかった。それはむしろ悪化した可能性が高く、戦争のリスクも高まってしまった。(筆者のマイケル・オースリン氏はアメリカン・エンタープライズ研究所の日本部長)

237NAME:2016/08/03(水) 13:50:41
日本の国際的評価を高めた「義和団事件」と日露戦争への道
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e5%9b%bd%e9%9a%9b%e7%9a%84%e8%a9%95%e4%be%a1%e3%82%92%e9%ab%98%e3%82%81%e3%81%9f%e3%80%8c%e7%be%a9%e5%92%8c%e5%9b%a3%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8d%e3%81%a8%e6%97%a5%e9%9c%b2%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%b8%e3%81%ae%e9%81%93/ar-BBvaOdj#page=2

近刊『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)が発売4日でたちまち重版・4万5000部突破の気鋭の戦史・紛争史研究の山崎雅弘による新連載です。日本の近現代史を世界からの視点を交えつつ「自慢」でも「自虐」でもない歴史として見つめ直します。『5つの戦争から読みとく日本近現代史』からそのエッセンスを紹介しています。第3回は三国干渉から、日本の国際的評価を高めた義和団事件収束、そして日露戦争への道を解説します。

三国干渉はロシアとの衝突の予兆だった

9ヵ月間にわたり繰り広げられた日清戦争は、新興国日本の存在感を国際社会に誇示する出来事であったのと同時に、日本政府と日本国民に、自国の「強さ」と「弱さ」の両方を思い知らせた事件でもありました。

日本の「強さ」とは、清国との戦争で日本軍が示した戦争遂行能力の高さであり、「弱さ」とは、戦後処理の過程で生じた遼東半島の返還要求(三国干渉)を、日本政府がなす術もなく受け入れさせられたという外交面での無力でした。

日本は「西洋のルール」をきちんと守って清国との戦争を行ったはずなのに、どうして欧州の列強は、理不尽な干渉をしてくるのか。それは、日本がまだ「二流の国」だと彼らに見くびられているからではないのか……。

戦場での連戦連勝にもかかわらず、戦後処理では部分的に「敗北」させられたことに、大きな屈辱感を覚えた日本国民は、これ以降「臥薪嘗胆(あえて自分を苦難に追い込むことで屈辱を忘れず鍛錬に励む態度を意味する故事)」を合言葉に、さらなる「強国」を目指して政府が打ち出した軍備増強政策を支持し、高くなった税金にも我慢して、政府の「富国強兵」政策に協力することになります。

一方、日清戦争における日本軍の勝利は、日本を取り巻く安全保障面での問題を根本的に解決することには繫がりませんでした。むしろ逆に、朝鮮半島をめぐる戦略的なゲームに、新たな「プレイヤー」を引き込むという予期せぬ結果をもたらすことになりました。

そのプレイヤーとは、北の巨大帝国ロシアです。ロシアは、以前から極東方面において南への勢力拡大の機をうかがっており、日清戦争で日本・朝鮮・清国の勢力バランスが大きく揺らいだのを見て、「わが国が南方に進出するチャンスが到来した」と理解していました。

この時、清国と朝鮮もまた、それぞれ異なる理由で、ロシアの登場を「自国にとって好都合な出来事」だと捉えていました。清国は、日清戦争の勝利で勢いに乗る日本が、本格的に朝鮮や満洲に進出してきたら困ると危惧し、ロシアが北から日本を牽制して、大陸への日本の影響力拡大を邪魔してくれたら大いに助かる、というふうに理解していました。

清国の政治を取り仕切る最高指導者・李鴻章は、1896年6月3日、ロシアのロバノフ外相と露清防敵相互援助条約(露清密約)を結び、満洲を横断する鉄道利権(ロシアのシベリア鉄道と極東最大の軍港ウラジオストクを結ぶ「東清鉄道」の敷設権)をロシアに譲渡して、日本がこの地方に進出しづらくなる状況を創り出しました。

238NAME:2016/08/03(水) 13:51:40
義和団事件── 欧米多国籍軍への初参加

そして、2年後の1898(明治三一)年3月27日には、日本が三国干渉で清国に返還した遼東半島の重要な港湾である、旅順および大連の二五年間の租借権と、そこから東清鉄道に通じる鉄道線(南支線)の敷設権が、清国からロシアへと手渡されました。その二年後に東アジアの国際関係を揺るがす大事件が発生します。

1900(明治三三)年2月、「扶清滅洋(清国政府を助け、外国勢力を滅ぼせ)」という、幕末日本の「尊皇攘夷(天皇を尊び、外国勢力を排撃する)」と似たスローガンを掲げる民族主義者の政治結社「義和団」が、清国の各地で欧米利権の排斥運動を開始し、同日には西太后ら清国首脳が北京を明け渡して西安と脱出しました。

義和団に対する多国籍軍の武力行使において、福島安正少将や柴五郎中佐などの日本軍将校は優れたリーダーシップを発揮し、軍事行動の流儀が少しずつ異なる列強の軍隊に、足並みを揃えさせる役割を担いました。前線で戦う日本軍の兵士も、列強の軍人に遜色ない働きを見せ、欧米列強の首脳は日本軍の統率力や軍事的能力を改めて評価しました。

結局、義和団の乱/北清事変は清国の敗北で幕を閉じ、多国籍軍の構成国は1901年9月7日に締結された講和条約に基づき、ただちに撤兵を開始することになりました。

ところが、満洲支配の既成事実を欲するロシアだけは、自国が権利を有する東清鉄道の線路が義和団に破壊された事実を挙げ、「同鉄道の建設修理事業を保護するため」という理由で撤兵に応じず、逆に満洲駐留部隊の規模を増大させるという行動に出ました。

実は、義和団事件が発生する直前の1899年5月にも、朝鮮半島南端の馬山浦にロシアの軍艦が現れ、朝鮮政府に同地の租借を要求する事件が発生していました。この要求は即座に拒絶されたものの、ロシアはなおも朝鮮の利権を求めて威嚇を繰り返しました。

こうしたロシアの行動は、数年後に日露戦争を引き起こす原因のひとつになります。

239NAME:2016/08/14(日) 23:06:16
2万枚のネガに刻まれた戦争 “大東亜共栄圏”の実像
https://www.youtube.com/watch?v=6_u4Svthrl8kanta
a1 か月前
日中戦争で軍部の予算が大幅に増額されて海軍の夢だった対米戦7割の戦力がそろったからだよ
国民は経済的に困窮しても、中国軍相手には無傷の帝国海軍は潤っていた
初期の海軍の快進撃は機動艦隊の活躍もあるけど、アメリカは大西洋と太平洋で戦力を二分する必要があるからアメリカの七割あれば戦えると実は計算された勝利だったのよ

でアメリカもそのことを自覚してるから海軍軍縮条約で日本の戦力をアメリカの6割にとどめるようにしてた

そしてアメリカは大恐慌と孤立主義で軍の再建途中でアメリカの国力を考えるとかなり弱く、スターク案・・・日本軍を圧倒できるのは1944年の予定だった
山本56が一年やそこらなら戦えると言ったのはスターク案を海軍が理解していたから、だから海軍は早期講和!とアグレッシブに攻撃しまくるけど、陸軍はWW1の結果を研究してたから太平洋戦争も総力戦になると分かってた陸軍は持久戦を計画していた

イギリスはドイツが倒してくれると他人任せ

で開戦の原因は・・・無いんだなw
当時の日本軍って下剋上主義と若手の強硬派がジーさん将軍を操ってたり、石油の禁輸にビビったり、ドイツに便乗するだけのハゲタカと好き勝手やってるだけなのね
リーダー不在で好き勝手にやってたら戦争が泥沼だわアメリカと敵対するわ、リーダーが居ないから決断・・・妥協もないわでそのままGOで戦争

240NAME:2016/08/15(月) 01:35:32
オバマ氏の広島演説を批判=カストロ前議長が90歳―キューバ
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%82%aa%e3%83%90%e3%83%9e%e6%b0%8f%e3%81%ae%e5%ba%83%e5%b3%b6%e6%bc%94%e8%aa%ac%e3%82%92%e6%89%b9%e5%88%a4%ef%bc%9d%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%ad%e5%89%8d%e8%ad%b0%e9%95%b7%e3%81%8c%ef%bc%99%ef%bc%90%e6%ad%b3%e2%80%95%e3%82%ad%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%90/ar-BBvBh1p

【リオデジャネイロ時事】キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長は13日、90歳の誕生日を迎えた。5月に広島を訪問した際のオバマ米大統領の演説を批判するコラムを寄稿したほか、卒寿の式典に出席して4カ月ぶりに公の場に姿を見せ、反米主義を掲げる「革命の英雄」の健在ぶりをアピールした。

 前議長は13日の共産党機関紙グランマ(電子版)で、広島で行われたオバマ大統領の演説は「何十万人の住民を殺害したことへの謝罪の言葉が欠けていた」と強調。広島と長崎を無作為に選んだ原爆の投下は「犯罪的な攻撃だ」と厳しく指摘した。コラムは12日付。

 弟のラウル・カストロ国家評議会議長や同盟国ベネズエラのマドゥロ大統領とともにハバナで行われた式典にも出席した。背中は丸まっているが、白いジャンパー姿で元気にマドゥロ氏と談笑する様子などが国営テレビでも生中継された。

241NAME:2016/08/16(火) 22:39:33
【軍事ワールド】「特攻隊」ドイツにも… 独版「紫電改のタカ」に米英爆撃機は震え上がる 大戦末期秘録
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%90%e8%bb%8d%e4%ba%8b%e3%83%af%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%89%e3%80%91%e3%80%8c%e7%89%b9%e6%94%bb%e9%9a%8a%e3%80%8d%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e3%81%ab%e3%82%82%e2%80%a6-%e7%8b%ac%e7%89%88%e3%80%8c%e7%b4%ab%e9%9b%bb%e6%94%b9%e3%81%ae%e3%82%bf%e3%82%ab%e3%80%8d%e3%81%ab%e7%b1%b3%e8%8b%b1%e7%88%86%e6%92%83%e6%a9%9f%e3%81%af%e9%9c%87%e3%81%88%e4%b8%8a%e3%81%8c%e3%82%8b-%e5%a4%a7%e6%88%a6%e6%9c%ab%e6%9c%9f%e7%a7%98%e9%8c%b2/ar-BBvFTe0

「特攻隊」はドイツにもあった-。米の外交専門誌「ザ・ナショナル・インタレスト」(TNI、電子版)は7月、第二次大戦末期のドイツが日本の神風特別攻撃隊(特攻隊)をヒントにした、敵爆撃機に体当たり攻撃する戦闘機隊「エルベ特別攻撃隊」の実態を報じた。大戦末期、敗戦が迫るなかの日本とドイツの航空戦には共通点が浮かび上がる。(岡田敏彦)

爆撃機を迎え撃つ

 日本の特攻隊は、敵艦船に対して生還の可能性が全くない体当たり攻撃を行うものが主だったが、ドイツの「エルベ特別攻撃隊」は事情が異なる。ドイツが参考にしたのは、日本の「震天制空隊」などの敵爆撃機に対する体当たり攻撃部隊だった。攻撃方法は対艦船と同じく、乗機もろとも敵に突っ込む体当たりが基本だが、エルベ特攻隊の場合は体当たり後に壊れた乗機からパラシュートで脱出、生還することとなっていた。

 TNI誌(電子版)などによると、部隊が発足したのは1945年3月。終戦まで2カ月という時期だった。ドイツではジェット戦闘機Me262など革新的な戦闘機が実用化されていたが、あまりにも数が少なく、実用化も遅すぎた。結果、昼は米軍の4発重爆撃機B-17やB-24が、夜は英軍のランカスター重爆撃機が爆撃する状態にあった。

 迎撃に飛び立つドイツ空軍は、昼夜両面の対応に苦闘していた。その迎撃にあたってキーマンとなったのが、後にエルベ特攻隊を発案するハヨ・ヘルマン大佐だった。ヘルマン大佐こそ、対爆撃機戦術を編み出してきた第一人者だったからだ。

対爆撃機の専門家

 ヘルマン大佐は、英軍がレーダー攪乱材「ウインドウ」(現代の「チャフ」の原型)を用いてドイツの夜間防空体勢が壊滅の危機に瀕した際、レーダーに頼らない「目視での」迎撃戦法を立案した。

 闇夜にカラスを探すような難しさだが、それを解決するため、ありったけのサーチライトで爆撃機を照らす方法を導入した。それに加えて実際には、爆撃で燃えさかる都市の炎さえ利用された。炎の照り返しを受けてぼんやり浮かび上がる敵機に対し、あらかじめ空中で待機していた戦闘機が総攻撃をしかけるというものだ。

 この戦闘方法なら、レーダーを積んだ貴重品の夜間戦闘機ではなく、数多い昼間戦闘機を投入できる。地上のレーダー誘導を受けないことから「ヴィルテ・ザウ」(野生の猪)と呼ばれたこの戦法は、後に専門部隊(JG300)が創設され、通常の20ミリ機関銃よりも威力の高い30ミリ機関砲を装備する専用機も作られ、一定の戦果をあげた。こうした戦術を編み出した実績を持つヘルマン大佐が、肝いりで立案したのが「エルベ特攻隊」だった。

242NAME:2016/08/16(火) 22:40:05
一度きりの出撃

 体当たり戦術を取り入れざるを得なかった背景には、大戦末期の日本と同様に、熟練パイロットが激減したという事情がある。

 米英軍のB-17やランカスターは機体の前後上下に迎撃用の機関銃を装備しており、夜間なら闇にまぎれて忍び寄れるが、昼間はこうした機銃の餌食になる危険性が高い。戦闘機で迎撃するにも、有効射程に入る前に撃ち落とされてしまうことも度々あった。もはや撃墜するには、体当たりしかないとの悲惨な状況だった。

 独週刊誌「シュピーゲル」(電子版)などによると、エルベ特攻隊の実現化にあたっては様々な検討がなされた。機体をぶつけるというよりは、プロペラで敵機の翼を切り裂くような戦法が創案された。また、空冷エンジンよりも重い液冷エンジンを搭載した機体で機首から突っ込み、エンジンの質量で敵機に大ダメージを与えるという案も採られた。体当たり後のパイロットは大破した機体からパラシュートで生還するとの方針だった。日本の特攻隊との最大の違いについてTNIは、その可能性はともかく、まがりなりにも生還が前提とされてることをあげている。ただし、日本の震天制空隊など爆撃機への体当たりを目的とした部隊では、やはり生還者は皆無ではない。

 エルベ特攻隊の隊員は志願制で集められ、45年4月7日、1300機を擁する米軍の爆撃機の襲来に対して初の出撃命令が下る。

 183機のBf109戦闘機やFw190戦闘機で構成されたエルベ特攻隊が爆撃機に体当たりするべく飛び立った。シュピーゲル誌(電子版)によると、この攻撃中、ドイツの無線は「連合軍の爆撃で死んだ母や妻、子のことを想起せよ」といった悲壮なプロパガンダ放送を流した。だが、結果は期待したようなものではなかった。

 大戦末期では経験豊富なパイロットは多くなく、離陸での事故も頻発。実際に戦闘できたのは100機程度で、米軍の記録では、撃墜されたのは全部で17機。ただし、この作戦には「エルベ特攻隊」のほかにも多くのドイツ戦闘機隊が参加していた。一方でエルベ特攻隊の被害は甚大で、183機のうち、出撃基地に無事戻ったのは15機。133機が撃墜もしくは修復不能な被害を受け二度と飛べない状態となった。被害の大きさと戦果の少なさ、そして補充する戦闘機がないため、エルベ特攻隊は約10日後に解隊された。

 ちなみにエルベ特攻隊が唯一の作戦を行った4月7日、日本では海軍の戦艦大和が沖縄特攻の「天一号作戦」の途上、米海軍機動部隊の攻撃により坊ノ岬沖で撃沈されている。

エースを集める

 パイロットと機材の不足は日独ともに大戦末期共通の課題だったが、「特攻隊」とは対称的な部隊が作られたのも日独共通だった。日本では源田実大佐の発案により、新鋭機「紫電改」と熟練パイロットを集中配備した第343海軍航空隊「剣部隊」が編成され、松山を基地に防空戦を展開するが、ドイツではさらに強力なエリート部隊が創設された。

 1945年1月、ドイツ空軍の総司令官ヘルマン・ゲーリングと対立し、空軍戦闘機隊総監の職を追われたアドルフ・ガーランド中将は、戦友のヨハネス・シュタインホフ大佐らの支援を得て、その階級とはかけ離れて“格下”の一戦闘機部隊の指揮官として空軍に残った。指揮する戦闘機部隊の名は「JV44」(第44戦闘団)。世界初の実用ジェット戦闘機Me262を運用する部隊だ。

 Me262を高速爆撃機として運用しようとしたアドルフ・ヒトラー総統とゲーリングに反し、戦闘機としての運用を主張し続けたガーランドが、その自説を実証するとともに、連合軍に対し一矢報いようとしたのだ。

 当時は多くのドイツ戦闘機部隊が壊滅的被害を受けて組織的戦闘ができなくなっていた。そんななか、大戦初期で96機を撃墜した伝説のエースであるガーランドの下で戦おうというパイロットたちが次々と入隊してきた。戦争末期の混乱のなか、異動命令なしに転属、つまり勝手に集まってきたのは、名だたるエースばかり。

 50〜100機撃墜を目安に与えられる勲章「騎士鉄十字章」を持っている者が大半で、さらに上位の「柏葉付き騎士鉄十字章」を持つヴァルター・クルピンスキ大尉(197機撃墜)や「柏葉剣付き」を持つゲルハルト・バルクホルン少佐(301機撃墜)、ハインツ・ベーア中佐(220機撃墜)ら、ドイツ空軍の屋台骨を背負ってきたパイロットが勢揃いした。ジェット機への転換訓練に手間取り、燃料不足に苦しむなか、4月から5月7日の部隊降伏までに47機を撃墜し、その幕を閉じた。

243NAME:2016/08/19(金) 01:39:43
ミャンマーは本当に“親日国”なのか?両国の忘れてはならない歴史 - 根本敬 (上智大学総合グローバル学部教授)
http://blogos.com/article/187369/

244NAME:2016/09/12(月) 16:35:50
3つの「選択ミス」が日本を戦争へと走らせた 一番の大きな曲がり角はリットン報告書
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/3%e3%81%a4%e3%81%ae%ef%bd%a2%e9%81%b8%e6%8a%9e%e3%83%9f%e3%82%b9%ef%bd%a3%e3%81%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%82%92%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%b8%e3%81%a8%e8%b5%b0%e3%82%89%e3%81%9b%e3%81%9f-%e4%b8%80%e7%95%aa%e3%81%ae%e5%a4%a7%e3%81%8d%e3%81%aa%e6%9b%b2%e3%81%8c%e3%82%8a%e8%a7%92%e3%81%af%e3%83%aa%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%b3%e5%a0%b1%e5%91%8a%e6%9b%b8/ar-AAiKwPI#page=2


日本は世界から「どちらを選ぶか」と三度、「戦争まで」の10年の間に問われた。それでもよりよき道を選べなかったのはなぜか。『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』著者の加藤陽子・東京大学文学部教授に話を聞いた。

 ──1941年の宣戦布告まで10年間に三度、問われたのですね。

 リットン報告書、日独伊三国軍事同盟、それに日米交渉。つまり1932年にリットン報告書を受け取るかどうか、20日間で急いで三国軍事同盟を結ぶかどうか、1941年4月に始まり太平洋戦争の直前まで行われた日米交渉を妥結して、米国と戦争をしないことにするかどうか。「憲法原理」で譲れない部分の戦いだった。

「憲法原理」で譲れない部分の戦いとは?

 ──憲法原理とは。

 フランスの思想家・ルソーは、戦争がなぜ起こるかを一言で答えてくれている。戦争は、主権や社会契約に対する攻撃であり、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとるものだと。この場合の憲法とは、具体的な条文ではなく、その社会を成り立たせている基本的秩序、憲法原理を意味する。

 私が未練がましく、戦争において「たら」「れば」をしつこく言うのは、現実に歴史上起こったからといって、それがいちばん蓋然性の高いことだったわけではないからだ。

 ──いちばん高くはない?

 すぐに思い浮かべることができるのは最近の自然現象、熊本の地震だ。蓋然性が高かったわけではなく、次に地震が起こる確率は0.3%と学者が言い切れる事例だった。それでも、起こった。戦争は、交渉がいろいろな意味で失敗して起こる。戦争についてもその前に学者が予想していれば、こういう条件があってそれで戦争が起こる確率はコンマ以下だったと言ったかもしれない。

 起こった因果関係を歴史学者が勝手に説明するのではなく、さまざまな可能性を描くのが大事だ。非常に蓋然性は低くても、起こったことの意味の大きさから言えば、事実に驚いたほうがいい。それでも、起こったのだ。そう認識すれば、いずれにおいてもその過程でさまざまに努力を払うべき度合いを高くしようという促しになる。

245NAME:2016/09/12(月) 16:37:31
 ──その際は選択肢をはっきりさせることが必要ですね。

 三度問われた機会にも、選択肢が本当の実態を反映させた形でわかるようにメディアや学校で示されてはいない。そういう時代があったことをいつも頭の隅に置いておけば、「AするためにはBしなければいけない」「もしこうすれば、確実に〜できる」というような選択肢を国家なり政党なりから問いかけられたときにも、批判ができるし、冷静な判断を下せる。

 ──特に政治や外交では選択肢が見えにくい。

 仮に日本が困難な交渉に至り、世論が中国をたたけというような絶望的な方向になったとする。その最後の交渉に外相が行くのを、どうせダメといった気持ちで見るのではなく、むしろ0.3%の蓋然性でも起こったことがあると思い返し、あらゆる選択肢を思い起こすことだ。

 最悪の失敗例を詳細に知っておくことで、その失敗例が歴史上の現実になったこと自体、必ずしも蓋然性が高くて起こったのではなかったことを理解する。その連関をつぶさに知れば冷静に物事を見る目を養うことができる。

リットン報告書が一番の大きな曲がり角

 ──最悪の失敗例として、この三つを選んだ理由は。

 1929年に世界恐慌が始まっていた。この三つはいずれもそれ以降の日本の、経済的な行方を左右する条件を決めていく交渉事だった。中でも1931年の満州事変を契機とするリットン報告書が一番の大きな曲がり角だ。妥結の可能性も高くあり、松岡洋右外相もあれだけ粘る。中国側の報告書に対する本当の反応は、日本側の既成事実に配慮しすぎだと厳しく批判したもので、実際に読んでもらえば、報告書が中国側に一方的に肩入れしたとのイメージは一変するはずだ。そのあたりを丁寧に議論した。

 いずれも日本の憲法原理を問われ、それに答えなければいけない交渉事であり、米国と日本が不倶戴天の関係になっていく流れを促した。日本は第1次世界大戦以降、1920年代に資源を輸入して製品を輸出する大きな工業国として成長していた国。米国と協調できていた。それが1930年代からうまくいかなくなる。東アジア、西太平洋で米国の自由貿易、自由航行を許すのかどうか。両国の憲法原理で譲れない部分の戦いだ。それが戦争直前の10年間に三度にわたり問われたのだ。

 ──近年の中国にも似たことがいえるようですね。

 今も米国、英国、ロシア、中国ほか、あらゆる国にはそれぞれの憲法原理がある。そして、これは譲れないとそれぞれの憲法原理を世界に発信している。その中で中国に、その憲法原理は認められないと、世界からじわじわとシグナルが送られ始めている。10年間をかけて日本はどうするかを問われ、うまく対応できなかった。今、中国もベトナムに問われ、フィリピンに問われ、米国や日本にも問われ、そのような状況が積み重なり始めた。

国家の利害を代表する当事者たちの舞台裏

 ──この本は同時に世界史の中の日本政治経済史になっていますね。

 1930年代の歴史は政治経済が軸で展開する。日本において世界史の一角で国家の利害を代表する当事者が、死活的に命を削って交渉に励む姿が見えてくるだけではない。米国に資産を押さえられる前に横浜正金銀行にある日本円をいち早く下ろしていたとか、禁輸前に米国の国務省から揮発油の「輸入許可手形」をもぎ取るとか、あるいは交渉時に日本は米国の通信暗号を9割方解読していたとか、「切り結ぶ」舞台裏のエピソードに事欠かない。

 ──正統派の歴史書?

 若い人の中にいる「日本を愛したい、でも悪いことをやったというのでは愛せない」と言う人たちに伝えたい。確かに大きな失敗をして、失敗からのリカバリーも本当に大きな負担となった。この三つの交渉事の結果、日米戦争が起き、ドイツと米国の戦争も起こり、アジア、太平洋が日本軍の占領下に置かれて、世界がくまなく戦場になった。そういう大きな戦争を世界でつなげることをやった国だが、その後71年間頑張って文化的なコンテンツも含め幸せだと外からうらやまれる国になった。だから、愛していい国だと教えてあげたい。

 現在、真面目な歴史書が自虐史観やお花畑状態などといわれることもある。実証的に支持されないことを言っていれば職を失う立場にある人間が、まじめに書いているから安心といわれながら、「学説知」と「世間学問知」の間を信頼感で埋める役割を担えればいいと考えている。

246NAME:2016/09/17(土) 22:49:24
敬服に値する・・・日本はなぜ「精緻さを追求する国」になったのか=中国
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%95%ac%e6%9c%8d%e3%81%ab%e5%80%a4%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e7%b2%be%e7%b7%bb%e3%81%95%e3%82%92%e8%bf%bd%e6%b1%82%e3%81%99%e3%82%8b%e5%9b%bd%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd/ar-BBwfTzc#page=2

多くの中国人にとって、日本は複雑な感情を抱く国のようだ。歴史問題による怨恨を忘れることができない一方で、日本の製品やサービスの質の高さ、秩序ある日本社会などは称賛せざるを得ないと考えているらしい。 中国メディアの東方頭条はこのほど、日本は国土が狭く、人口が多く、資源が少ないという不利な条件のもとで「精緻さを追求する国」になったと主張し、中国人にとって敬服に値する国だと伝えている。

 記事は、国土の小ささによって「精緻さ」を身につけたと主張し、例えば農業では小さな耕地であっても、質の高い農作物を生産するための工夫が数多くなされていることを指摘。また、小国であるからこそ、日本人は常に危機感を持ち続けてきたとし、それが日本の発展とイノベーションにつながったのではないかと考察した。

 続けて、日本が中国を侵略したのも国土の小ささを背景とした危機感によるものであり、中国侵略の失敗によって日本はさらに危機感を高めることになったと主張。だからこそ、現代の日本社会では「あらゆることがルールや規則どおりに行われ、ちょっとした違いも許されない厳格さが実現したのだ」と主張。こうした厳格さがあるため、日本社会は製品からサービスまで、あらゆる存在が精緻なのだと論じた。

 一方で記事は、「中国人は自国の大きさをいつも自慢しているが、誇れるのはそれしかない」と主張。自国が大きいゆえに日本人のような危機感を持っていないのが中国人の欠点であるとし、「自国の短所や欠点を見抜き、それを補って余りある強みを確立した日本は、やはり敬服に値する」と主張している。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

247NAME:2016/09/21(水) 15:57:49
マッカーサー 日本人は「12歳」発言
http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/1617647.html

民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べた。

248NAME:2016/10/04(火) 15:21:50
血に染まった島ペリリュー島での戦いに迫る実録映画
http://www.msn.com/ja-jp/movies/story/%E8%A1%80%E3%81%AB%E6%9F%93%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B3%B6%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%B3%B6%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E6%98%A0%E7%94%BB/ar-BBwVr2U

太平洋戦争中に起こった旧日本軍とアメリカ軍の「ペリリュー島の戦い」に迫ったドキュメンタリー映画『追憶』の予告編が公開され、南太平洋パラオ諸島に浮かぶ小さな島で起こった壮絶な戦いの一部が明らかになった。

 1944年11月、70日に及ぶ激戦の末、旧日本軍、アメリカ軍、あわせて1万人を超す命が散ったペリリュー島。昨年4月には天皇・皇后両陛下が訪問され、慰霊碑で戦没者を追悼された。本作は70年前の激闘にアメリカの国防総省や国立公文書館に残る資料や、ペリリュー島で戦った元旧日本兵や元アメリカ軍海兵隊兵士の証言などから迫るドキュメンタリー作品。当時の旧日本軍守備隊を指揮した中川州男大佐について書かれた「愛の手紙 ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯」が基になっている。

 美しい現在のペリリュー島の映像から始まる予告編では歌手・俳優・演出家として活躍している美輪明宏による語りとともに、思わず目を覆いたくなる戦争の映像が次々と映し出される。また、戦いに参加していた元日本兵や元アメリカ海兵のほか、戦いのことを知るペリリュー島の島民も当時のことを日本語で振り返っている。 『天心の譜(しらべ)』などの小栗謙一が監督を務めた本作は、約70年前に確かに起こってしまった戦争の空しさと悲惨さを、現代を生きる日本人に訴えかけてくる。(編集部・海江田宗) 映画『追憶』は11月5日公開

249NAME:2016/10/04(火) 22:47:25
【松代大本営】
大戦末期、本土決戦の最後の砦 移転先として極秘建造された地下壕の全容がついに…天皇御座所予定地跡も
2016.10.3 10:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/161003/prm1610030001-n1.html

先の大戦末期に皇居や政府機関の移転先として建設が進められた長野市の「松代大本営地下壕」のうち一般公開されていない「舞鶴山地下壕」について同市が、近い将来に保存や管理、公開ができないか検討に入った。舞鶴山地下壕の上には「天皇御座所予定地跡」など歴史的に重要な遺跡がある。当時のもようを後世に伝える貴重な史跡の取り扱いの行方が注目される。(長野支局 三宅真太郎)

 舞鶴山地下壕は大戦最中の昭和19年に同市松代地区の舞鶴山に堀り抜かれた。大本営、天皇、皇后両陛下の部屋と宮内省(宮内庁の前身)の移転が予定されていたが、実現しないまま20年に終戦を迎えた。そして22年、地下壕の地盤が固いうえ、通年の気温変化が少ないといった理由で、地下壕と地上施設に中央気象台松代分室(現・気象庁松代地震観測所)が開設された。

 同分室には多い時で十数人の職員が常駐し、地震観測業務が継続されてきた。その間、一般の見学者は内部の一部エリアや展示室に入ることができた。 しかし今年4月、気象庁のシステム更新に伴って解析業務を東京の本庁に移管したため無人化された。これにより施設公開への扉は閉ざされ、一般来訪者が内部に触れる機会は年1回、10月に開催される見学会のみとなった。

 舞鶴山地下壕は今後、観測機器や書類などの整理を終えた後、所管が気象庁から財務省に移り、国有財産として管理される予定だ。同省への移管作業には数年かかるとみられているが、移管後に一般公開される見通しは立っていない。 財務省担当者は「一般的に戦争遺跡には崩落の危険など安全面の課題も多く、財務省として管理して公開することは難しいのではないか」と話す。

 そこで長野市は、同省から譲渡や貸与を受けることにより、将来的に責任をもって保存や管理、公開する道筋を模索することになった。加藤久雄市長は8月24日の定例記者会見で「天皇、皇后両陛下の御座所もあり、非常に貴重な施設だ。市として保存、公開も視野に入れて考えたい」と述べた。一方、舞鶴山の近くにある「象山地下壕」については、市が平成元年から約500メートル部分を管理して無料で公開しており、年間10万人前後の見学者が訪れる。

 松代大本営地下壕の保存活動や観光客向けのガイドを行うNPO法人「松代大本営平和祈念館」の花岡邦明理事長(65)は、産経新聞の取材に対し、「終戦から71年が経ち、直接語ることができる人が減っている中で、当時を物語る戦争遺跡は貴重。市民の学習の場として広く公開してほしい」と語る。

 松代大本営地下壕 先の大戦末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘裏に大本営や政府各省などを移す計画で昭和19年11月から翌年8月の終戦の日までの9カ月間で建設され、全工程の約8割が完成した。長野市松代町の舞鶴山、皆神山、象山に碁盤の目状に掘り抜かれ、総延長は10キロに及ぶ。

250NAME:2016/10/30(日) 23:33:54
【戦後70年】
真珠湾奇襲、英MI5は知っていた 証拠の日記見つかる 007のモデルのスパイ暗躍 情報伝えられたFBI長官は…
2014.12.8 09:30更新
http://www.sankei.com/world/news/141208/wor1412080016-n1.html

73年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃した。当時の日本の最高機密だが、英独の二重スパイが攻撃計画を事前に察知し、英MI5(情報局保安部)が把握していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。MI5のガイ・リッデル副長官は日記に、スパイが奇襲4カ月前に独側から偵察を指示されたリストに真珠湾と米艦隊があったことを「われわれ(MI5)は所有している」と記していた。スパイの回顧録によると、米FBIにも奇襲を伝えたが、ジョン・フーバー長官が握り潰していたという。(編集委員 岡部伸)

 このスパイは、セルビア人のドシュコ・ポポフ。コードネームは「トライシクル」(三輪車)で映画「007」シリーズのジェームズ・ボンドのモデルの1人として知られる。 リッデル日記によると、真珠湾攻撃後の1941年12月17日付に「『トライシクルの質問状』を今、われわれ(MI5)が所有している。これは8月にドイツ人たちが真珠湾について特別に関心を示し、可能な限りのあらゆる情報を入手したがっていたことを極めて明瞭に示している」と書かれていた。

 ポポフの回想録「スパイ/カウンタースパイ」によると、「トライシクルの質問状」は、ポポフが同年7月、ポルトガルのリスボンで独諜報機関のアプヴェール(国防軍情報部)から「米国でスパイ網を組織せよ」との指令を受け、渡された調査リストだった。この中に真珠湾の米軍施設や米艦隊などが含まれていたという。

ポポフは、アプヴェールの同僚から、1940年11月に英海軍が航空機でイタリアの軍港タラントを奇襲した攻撃手法に日本が関心を示していると聞いていたため、日本がタラント海戦に倣って真珠湾を攻撃すると推測したという。 渡米したポポフは、FBIのニューヨーク支部長と面会し「日本が真珠湾を奇襲する可能性がある」と告げた。フーバー長官にも面会して進言したが、フーバーは二重スパイのポポフを信用せず、個人的に握り潰した。さらにフランス人のハリウッド女優、シモーヌ・シモンと交際し、高級ホテルやペントハウスで暮らす豪勢な生活を非難したという。

 「質問状」は書類だけでなく、ドイツが超高細密の印刷技術を使って開発した極秘の連絡手段「マイクロドット」としても手渡された。高倍率の拡大鏡で見ると微細な文字が判明する技術。ポポフはこれをFBIに渡し、英米は初めてドイツの革命的なスパイ技術の存在を知った。 真珠湾を偵察する「質問状」は、明確な攻撃計画ではなく、奇襲の意図も明記していないため、日本の奇襲計画情報を入手して、米国に伝えたというポポフの主張は信頼性に欠けるとの見方もあった。

251NAME:2016/10/30(日) 23:34:30
しかし、その後、情報公開が進み、米国では「ポポフの真珠湾情報はフーバーに伝わったが、ルーズベルト大統領まで上げられなかった」とする論文も発表された。大戦中にドイツの「エニグマ」など世界各国の暗号を解読し、現在は博物館となっているブレッチリーパークでも「ポポフは奇襲4カ月前にリスボンで真珠湾の『調査』情報を受け取り、MI5に報告し、FBIに伝えた。しかし、フーバー長官は、ポポフを嫌い、拒否。FBIのエージェントは敬意を払って関心を持った」とポポフが真珠湾情報を得て英米に伝えていたと公表している。

【プロフィル】ドシュコ・ポポフ セルビアの裕福な家庭に生まれ、ドイツの大学を卒業後、弁護士となった。第二次大戦勃発後、ドイツのスパイとなったが、ナチス嫌いだったため、英MI5に引き抜かれ、二重スパイとなった。ノルマンディー上陸作戦で偽情報をドイツに流して作戦を成功に導いたことにより戦後、英国籍を得て英国王室から勲章を受けた。

 ギャンブル、女性好きで知られ、「007」のジェームズ・ボンドのモデルの一人とされる。コードネーム「トライシクル」は「女性2人とベッドを共にする習性」「部下を2人雇って3人で情報収集」などから命名されたといわれる。「007」原作者のイアン・フレミングはポポフの監視役だった。

【用語解説】MI5 英情報局保安部。英国内での外国スパイや共産主義者などの摘発、国家機密の漏洩阻止などのカウンター・インテリジェンス(防諜)を行う内務省管轄の情報機関。冷戦時代、ソ連のスパイ、キム・フィルビーら「ケンブリッジ5」を突き止め、大戦中は、日独の諜報活動に監視の目を光らせ、二重スパイを送り込み、欺瞞情報を流して勝利に貢献した。英国は他に外務省管轄の通称「MI6」、秘密情報部(SIS)を持つ。

252NAME:2016/11/25(金) 02:07:26
ククリット・プラモード
http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-798.html

しかしながら、 そういったプロパガンダの試みは 度々失敗の憂き目を見た。 なぜなら、 強制労働、 米の供出義務、 軍警察(ケンペイタイ)の恐怖、 殴打、 暴行、 日本人に対するお辞儀の義務 といった 日本の占領下における 苦い現実があったからだ。  -- 中学校教科書 --

この文章を紹介したのは、名越二荒之助という方で、 デビュー作の 「大東亜戦争を見直そう」 の中にある。 (それ以外にない。 したがって、 今 この文章が 盛んに使われているが、 原典は これのみであり、 引用先を 明示しないのは おかしいといえる。)  

ククリット・プラモード元首相について
http://kuruzou.zero-yen.com/khukrit.htm
老境に達して糖尿病が悪化し、車椅子の不自由な生活を余儀なくされていたククリットさんは、しばしば日本の大学から、「本学の名誉博士号をやるから、日本まで取りに来い」と言われ、相当頭にきていた。また、部下であるサイアム・ラット紙の記者さえも、めったにサートン通りの自宅へ招き入れないのに、アホ面をさらした日本の右翼は、あたかも神様に謁見を求めるかのような慇懃無礼さで前触れなく押しかけてくる…ククリットさんを反日家に仕立てたのは、他でもなく、戦後民主主義にかぶれた日本人の無神経さと、先達の遺骨ばかりしゃぶって、一向に自分たちの世代の責務(使命感)に覚醒しようとしない日本人愛国者のレトロ感覚に対する苛立ちだったようだ。

「大東亜戦争が正しかったかどうか、まだわからない。いずれにせよ、日本人は『大東亜共栄圏を作る』といってアジアの民衆を戦争に巻き込んだ。武力戦で英米に遅れをとろうと、日本人が立派な大東亜共栄圏を完成させれば、日本の戦争の正義は貫かれる」 大事なのは、歴史の検証や、ましてや靖国議論などではない。武力戦は終わっても、大東亜戦争には、まだ建設の大いなる作業が残されている。爺さんたちが求めていたのは、現代日本人の「行動」だったのである。

253NAME:2016/12/06(火) 05:48:50
【安倍晋三首相真珠湾訪問】
「傑出した知性示せる」「軽率な言動取らないはず」 識者はどう見る?
2016.12.6 00:06更新
http://www.sankei.com/politics/news/161206/plt1612060001-n1.html

現職首相として初めて米ハワイの真珠湾を訪問すると発表した安倍晋三首相。識者はこれをどう見るか。

 ◇杏林大学名誉教授の田久保忠衛氏(国際政治学)

 「オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の真珠湾訪問は連動しており、日米関係にとって好ましいことだ。ただし、安倍首相は謝罪するべきではなく、あくまで慰霊の訪問に徹してほしい。あらゆる国家には独自の歴史認識があり、自国の歴史観を貫きながら相手の立場も理解することが必要だ。今回の訪問は、戦った国同士がいつまでも禍根を残すべきではないということを行動で示すことになる。日米両国の最高指導者が世界でも傑出した知性を示すことになると思う」

 ◇拓殖大学客員教授の潮匡人氏(安全保障)

 「広島でオバマ大統領が謝罪したようにも、していないようにも見えたように、安倍首相も曖昧な言動をするだろう。開戦の通告が遅れたことは歴史的事実として認められていることだが、侵略戦争を認めるとなれば重大な戦争犯罪に問われることになる。安倍首相は広島と長崎への原爆投下、全国への空襲爆撃の遺族の思いも理解しているはずなので、軽率な言動は取らないだろう。和解から、未来に向けた、さらなる日米関係強化のための一歩になることを期待している」

254NAME:2016/12/28(水) 21:24:25
【安倍首相真珠湾訪問】「訪問に感謝」と90歳代の元米兵ら
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%90%e5%ae%89%e5%80%8d%e9%a6%96%e7%9b%b8%e7%9c%9f%e7%8f%a0%e6%b9%be%e8%a8%aa%e5%95%8f%e3%80%91%e3%80%8c%e8%a8%aa%e5%95%8f%e3%81%ab%e6%84%9f%e8%ac%9d%e3%80%8d%e3%81%a8%ef%bc%99%ef%bc%90%e6%ad%b3%e4%bb%a3%e3%81%ae%e5%85%83%e7%b1%b3%e5%85%b5%e3%82%89/ar-BBxDmt3?ocid=iehp#page=2

【ホノルル=加納宏幸】真珠湾攻撃を経験した90歳代の元米兵らは、強い日差しが照りつける中で安倍晋三首相とオバマ米大統領の演説を真剣な表情で見守った。攻撃から75年を経て実現した日米両首脳の訪問を歓迎。式典が終わると、車椅子に座って、攻撃で沈んだ戦艦上に建つ慰霊施設「アリゾナ記念館」をじっと見つめていた。 海軍の医療要員として攻撃を経験したスターリング・ケールさん(95)は首相の訪問を「とてもうれしい。75年が経ち、日本の首相が来てくれたことに感謝している」と述べた。

 ケールさんは、首相が日米両国の和解に言及したことを高く評価し、首相が日本国民として申し訳ないという気持ちを表明したと受け止めた。

 米軍施設に勤務していたアル・ロドリゲスさん(96)は、演説を終えて近付いてきた首相に「ありがとう」というと、抱きしめられた。ロドリゲスさんは、「訪問を楽しみにしていたので、ありがたいことです。私たちは和解した」と述べた。 元米兵らは記者団から真珠湾攻撃について日本の首相からの謝罪が必要かという質問を受けていたが、いずれも首相が訪問に踏み切ったこと自体を評価し、謝罪する必要はないという認識を示していた。

255NAME:2017/02/07(火) 21:14:35
【銀幕裏の声】
ほとんど特攻、海面すれすれまで急降下…機首引き上げた瞬間に敵艦乗員と目が合った 爆撃グラマンを振り切った男(下)
2017.2.7 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170207/wst1702070006-n1.html

映画「永遠の0(ゼロ)」で岡田准一が演じた零戦パイロット、宮部久蔵は卓越した技術で敵艦の艦砲射撃を交わすアクロバチックな操縦を見せた。「零戦パイロットばかりが命を懸けて戦っていたわけではないですよ」と語る元海軍艦上爆撃機「彗(すい)星(せい)」パイロット、大野徳兵衛さん(90)は急降下爆撃の際、海面すれすれまで高度を落とし敵艦に近づき爆弾を投下、機首を引き上げた瞬間、「艦橋にいる敵乗員と目が合った」と言う。アクロバチックな操縦技術を誇ったのは宮部のような戦闘機パイロットだけではなかった。「爆撃機パイロットの腕も凄かったんですよ。私は10回も不時着していますが…」。米軍機も恐れた“高速艦爆”パイロット、大野さんが戦闘機の護衛なし、彗星だけの特攻の真実を明かした。(戸津井康之)

地面に衝突する! 初めて目にした急降下訓練に茫然

 ラバウルの航空部隊で、九九式艦上爆撃機のパイロットとして激戦をくぐり抜けてきた大野さんは、いったん日本へ帰国。昭和19年5月、鈴鹿の航空基地へ友人と2人で向かった。 日本が開発した最新型の高速艦上爆撃機「彗星」の操縦訓練を受けるためだった。 「基地近くの駅に降り立ち、田んぼのあぜ道に腰を下ろして休憩していたときでした…」 2人の目の前で、攻撃機の急降下訓練が始まった。 機体はほぼ垂直に降下、地面に衝突するぐらいの低高度で機首を引き起こし、猛スピードで駆け抜けていった。 「降下の際はエンジンを絞るので、音が小さいのですが、機首を引き上げるときにはパワーを上げるので、もの凄い轟(ごう)音(おん)が周囲に響きます。壮絶な訓練が何回も私たちの目の前で繰り返されたんです」

 この機体こそ、大野さんたちがこれから操縦訓練を受ける最新型の艦爆「彗星」だった。

256NAME:2017/02/19(日) 14:32:55
【満州文化物語(43)】
やっと再訪できた故郷 引き揚げ者の苦悩
2017.2.19 12:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/170217/prm1702170012-n1.html

「親孝行な」妹の死

 「これでやっと中国に行けるねぇ」 日中の国交が回復、平和友好条約も結ばれた後、ちばてつや(78)はあるパーティーで赤塚不二夫(平成20年に72歳で死去)から声を掛けられた。 「え? なぜ中国?」 いぶかるちばに、赤塚は回りをそっと見渡しながらこうささやいた。

 「実はオレ、中国にいたのよ。満州の奉天なんだ」 「えっ、オレも奉天ですよ」 ちばは驚いた。これまで赤塚からそんな話をまったく聞いたことがなかったからである。 終戦時、奉天で消防署に勤務していた赤塚の父親はソ連軍(当時)によってシベリアへ抑留された。残された母親と10歳の赤塚、3人の幼い弟妹の5人は昭和21年6月、命からがら長崎・佐世保港へと引き揚げてくる。そして、母の実家である奈良・郡山に着いた直後、生後6カ月の末の妹は息を引き取ってしまう。

赤塚はその痛恨事を“親孝行”と書いた。《かあちゃんは泣かなかった…ここまで苦労してきたのは、ただ子供たちをどんなことがあってもこの家まで送り届けなければ、という必死な思いがあったからだ…引き揚げの途中で子供に死なれでもしたら、かあちゃんは半狂乱になったかもしれない…そういう意味では本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった、とぼくは思っている》(『赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ』)

 母子がいったん手を離せば、もう二度とは会えない。迷子は即座に「死」を意味する極限状態。トイレも屋根も食べ物もろくにない無蓋(むがい)列車に揺られ、いつ襲われるか分からない道なき道を歩き、1年もかけてやっと引き揚げ船が出る港町まで着いたのだ。その間におびただしい死を見てきた。「生きながらえることができるなら」とわずかなお金で中国人に幼子を託してしまった親は数知れない。

「余計者」へのいじめ

 引き揚げ者は内地(日本)に帰ってからも苦労が絶えなかった。日本中が廃虚になり、住む場所も食べる物もないところへ、“厄介者”が加わるのだ。赤塚の一家も2間しかない実家に大人5人、子供3人がひしめき合う貧乏生活。代表作『おそ松くん』の登場人物はその時代に地元の悪ガキらと遊んだ記憶がモチーフになったという。

257NAME:2017/02/19(日) 14:45:24
ちばは、引き揚げ時7歳。奉天から両親と幼い弟3人で、父の実家の千葉県の田舎へ来たが、なかなかなじめなかった。地元の子供たちからからかわれ、いじめられる。「だって、食糧難の時代に引き揚げ者なんて余計者でしょ。内地の人からすれば今ごろ帰ってきて『向こうにいてくれたほうがよかった』という話ですよ。(その後も)引き揚げの話はできるだけしなかった」

 昭和20年12月に茨城・神栖(かみす)へ引き揚げた古谷三敏(ふるや・みつとし)も「“満州、満州”って言われ、半年間もいじめられた。僕にもプライドがあるので『何で田舎の人間にバカにされるのか』と毎日ケンカですよ」

 新京にいた北見けんいち(76)は、自宅の2階から緑色のソ連軍の大きな戦車がぞろぞろと入ってくるのを見た。印刷会社勤務の父親は終戦直前の20年8月10日に“根こそぎ動員”で招集され、そのままシベリアに抑留されてしまう。

 それまでは裕福な暮らしだった。母親が経営する食堂は日本の軍人らで大繁盛。2歳のときには満鉄の特急「あじあ」に乗って里帰りしたり、北見を世話する乳母が2人もいて、冬でも温室栽培のトマトを食べていた。結局、父親は4年間シベリアに抑留される。引き揚げは野球の水原茂と同じ船だったという。

 森田拳次(77)の父親はいったんシベリア行きの列車に乗せられながらも、隙を見て脱走。肥だめなどに身を隠しながら、命からがら家族のところへたどり着く。東京へ引き揚げた森田と北見は同じ中学の先輩後輩になった。

涙あふれた自宅再訪

 戦後、満州からの引き揚げ者は、その事実を“封印”して生きてきた人が少なくない。「侵略者の子供」などと謂(い)われなき指弾をされたり、就職や結婚で差別を受けることもあった。 満州や大陸育ちの漫画家たちが、やっと「故郷」を訪問できるようになったのも1980年代以降のことである。それから何度も訪問を重ねた。

 ちばが幼少期を過ごした奉天の自宅は高い塀に囲まれた印刷会社の社宅で、当初はそのまま残っていた。「幼い僕は放浪癖があったのか、塀を乗り越えて1人で街へ繰り出し、よく親を慌てさせた。おいしい食べ物や家畜、石炭の匂いが懐かしくってね」 終戦時4歳だった北見は「覚えているはずがない」新京の自宅付近を再訪したとき「この辺りだ!」と叫んで立ち止まり、泣き出した。近所のお年寄りに尋ねてみたらそこで間違いない。「やっぱり僕にとっては満州が故郷だよね。いとおしさを感じますよ」

やがて彼らは「中国引揚げ漫画家の会」などをつくり、体験を次世代の若者や海外へ伝える活動を始める。自らの体験を漫画に描き、中国でも漫画展をやった。 言い出しっぺは森田だ。「日本と中国は政府レベルでやると角が立つけど、実際に話してみると、中国の若い人たちも日本の漫画が大好き。(作品を見て)涙を流す女子大生もいたんだから。やってよかったと思いましたね」。古谷も「われわれも年齢を重ねて、エンターテインメントだけじゃなくて、そろそろこうした体験を残したいとね」。

 ちばが言う。「今中国とはギクシャクした関係だけど、庶民同士は仲がいい。僕も父に中国人の親友がいてその助けで帰って来られた。どうして国同士になるとうまくやっていけないのかな? 確かに日本人はひどいことをしたかもしれないけど鉄道や病院も残した。そろそろお互い昔のことは忘れて先(将来)のことを考えませんか」=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

 ●古谷三敏 昭和11年生まれ。奉天で育ち、後に北京、北戴河へ。代表作は「ダメおやじ」「寄席芸人伝」など。 ●ちばてつや 昭和14年東京生まれ。奉天で育つ。代表作は「あしたのジョー」「のたり松太郎」など。 ●森田拳次 昭和14年東京生まれ、生後間もなく奉天へ。代表作は「丸出だめ夫」「ロボタン」など。 ●北見けんいち 昭和15年新京生まれ。母親が食堂を経営。代表作は「釣りバカ日誌」など。

258NAME:2017/04/17(月) 21:50:51

1943.11 カイロ会談 カイロ宣言 無条件降伏後の日本に対する処理方針についての宣言。
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-089.html
アメリカ大統領F=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席蔣介石が署名
会談の議題が対日戦争
同月初めに日本の東条英機内閣が、大東亜共栄圏に組み込んだアジア諸国の代表を東京に招集して大東亜会議を開催し、11月6日には「大東亜共同宣言」を発表して、戦争目的を「アジア解放」に置いたことに対抗する意図


1945.2 ヤルタ会談
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-101.html
アメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳による戦後処理に関する会談。
ヤルタはロシアのクリミア半島にある保養地として有名
この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成された

259NAME:2017/05/21(日) 20:07:48
インパール作戦から73年「感無量です」 インド北東部で追悼式典、日本側から40人参加
2017.5.20 21:12更新
http://www.sankei.com/world/news/170520/wor1705200062-n1.html

第二次大戦中、旧日本軍がインド北東部の攻略を目指して惨敗した「インパール作戦」から73年となり、日英両軍が戦闘を交えたインド北東部マニプール州インパールで20日、犠牲者の追悼式典が行われた。

 式典は70年を迎えた2014年から毎年実施。今回は戦地の1つとなった隣接するナガランド州当局者も初めて参加、日本側からは平松賢司大使やインド進出の企業関係者ら約40人が訪れた。

 英国から現地を訪れたマクドナルド昭子さん(66)は、父が旧日本軍の陸軍中尉としてインパール作戦に参加した。「この地で多くの人たちが命を落としたことを考えると、感無量です」と、涙を浮かべた。

 マクドナルドさんは、日英の和解と理解を目指す在英の民間団体、ビルマ作戦協会の代表を務めており「戦争の現場を歩くことは戦争を考える上で重要。今後も訪れたい」と話した。(共同)

260NAME:2017/05/21(日) 23:55:13
「インパール作戦」追悼式典…日本兵3万人死亡
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%ab%e4%bd%9c%e6%88%a6%e3%80%8d%e8%bf%bd%e6%82%bc%e5%bc%8f%e5%85%b8%e2%80%a6%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%ef%bc%93%e4%b8%87%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1/ar-BBBlKnm?ocid=iehp

【インパール(インド北東部)=田尾茂樹】第2次世界大戦中の「インパール作戦」で戦死した犠牲者の追悼式典が20日、インド・インパールで開かれた。日本企業関係者や地元住民ら約100人が参加し、平和への誓いを新たにした。 戦争の悲劇を後世に語り継ぐ活動を行う地元の住民グループ「第2次世界大戦インパールキャンペーン財団」などが主催した。同作戦から70年が過ぎた3年前から、この時期に実施されている。

日本軍は同作戦で連合軍の拠点攻略を目指して英軍と激戦を繰り広げ、日本兵3万人以上が死亡したとされる。インパール郊外には、地元住民らが慰霊碑を設けている。この日の式典では、出席者が慰霊碑に花を手向けて黙とうした。財団設立人の一人、ユムナム・ラジェシュワルさん(40)は「二度と悲惨な戦争を繰り返さないために多くの人に関心を持ってもらいたい」と話した。

261NAME:2017/07/07(金) 23:36:16
【銀幕裏の声】
武器持たぬ米衛生兵は“恐ろしい日本兵”も救助した-壮絶な沖縄戦の真実描く米大作「ハクソー・リッジ」(上)
2017.6.30 10:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄を戦場に日米が最大かつ“最終決戦”ともいえる壮絶な戦闘を繰り広げている。ハリウッド大作「ハクソー・リッジ」は、この戦闘の記録を一人の米衛生兵、デズモンド・ドスの視点から描いた異色作だ。「ドスのような一兵卒の記録は近年になって明らかになるケースが多く、米戦史の第一級の史料になってきています」。こう語るのは米大統領研究者で「アメリカ人の物語」(悠書館)の著者である大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さん。「ドスのような良心的兵役拒否者は米国では少数派。米国といえば戦争ばかりしている国と思いがちですが、少数ながら非戦・反戦の信念を持つ人が昔からいたのです」。戦場で戦うことを拒否したドスが、なぜ映画化される英雄となったのか。戦史の裏に隠された真実とは…。(戸津井康之)

武器を持たない戦争

 「汝、殺すことなかれ」 この教えを忠実に守り、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として育ったドス(アンドリュー・ガーフィールド)は典型的な良心的兵役拒否者だった。だが、友人たちが次々と出征するなか、「自分は武器を持たず、衛生兵として国に尽くしたい」と、両親の反対を押し切り、志願兵として陸軍に入隊する。ところが射撃訓練中も銃を手にすることを拒んだため、上官や同僚たちと対立。命令違反者として何度も除隊するよう宣告されるが、ドスの決意は固かった…。

火炎放射器で焼き尽くす米兵…実際は、日本兵を恐れてた

「南北戦争の時代、良心的兵役拒否者はお金を払うか代役を見つければ兵役を免れることができましたが、それができない人は軍営に行かねばなりませんでした。銃を持つことを拒否し、銃剣で刺された人もいます。あくまで米国で良心的兵役拒否者は少数派で、彼らが権利を獲得する過程には長い戦いの歴史があるのです」と西川さんは説明する。

恐るべき日本兵!?

 1945年4月、ドスが所属する米第77師団は沖縄へ向かう。実戦を前に意気揚々と戦地に到着したはずの隊員たちだったが、先発部隊が6回も日本兵に撃退されている現実を知り愕然とする。 大勢の米負傷兵を荷台に乗せたトラックとすれ違う際、「俺たちは、これからこんな屈強で恐ろしい日本兵と戦うのか…」とドスの同僚らが交わす会話が印象的だ。

 日本でも沖縄戦を題材にした映画がこれまで何作も撮られているが、その中では米兵に島の端まで追われた沖縄の人たちが手榴弾で集団自決するシーンなどが描かれていた。塹壕の中に日本兵を閉じ込め、火炎放射器で焼き尽くす米兵たちの姿は衝撃的で、映画を見た多くの日本人が「米兵は恐ろしい」と感じたはずだ。実際、日本兵はそう思いながら戦っていただろう。

「すぐ腕章を外せ! 日本兵に狙撃されるぞ!」

262NAME:2017/07/07(金) 23:40:58
だが、この見方とは逆に、「ハクソー・リッジ」では米兵たちがいかに日本兵を恐れていたかが描かれていて興味深い。

戦場で問われる勇気とは

 日本兵に撃退された先輩の衛生兵が、戦場に向かうドスにこうアドバイスする。「すぐに赤十字の腕章をはずせ。目立つから日本兵に狙撃されるぞ!」 この戦場では衛生兵であっても米兵に変わりはない-。武器を持たないドスが実戦の戦場で兵士として通用するかどうかが突き付けられる場面だ。

 「ドスは武器を取る以外の戦いがあることを示そうとした。それは、銃を持たない勇気もあるという教訓のようにも思います」と西川さんは解説し、こう続けた。「トランプ大統領はオバマ元大統領と比較すると銃規制に消極的です。だからこそこの映画が今、公開される意味があるのでしょう。戦争映画では、銃を持つ勇気が称賛されがちですが、銃を持たない勇気もあるということをメル・ギブソン監督は描きたかったのでしょう」

武器を持たない衛生兵、ドスの“戦争”が遂(つい)に始まる。彼がハクソー・リッジで見た生き地獄とは…。

263NAME:2017/07/07(金) 23:53:44
【銀幕裏の声】
神様、あともう一人だけ命を救わせて-日本兵も救助した米衛生兵、弾が飛び交う戦場に留まり…「ハクソー・リッジ」(下)
2017.7.5 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄本島に米軍が上陸。日米は最大かつ“最終決戦”ともいえる沖縄戦を展開していた。映画「ハクソー・リッジ」の舞台は日本名「前田高地」。沖縄本島を死守するため、日本兵はこの地に塹壕を築き、米軍の攻撃を何度も撃退していた。そんな激戦地で、アンドリュー・ガーフィールド演じる主人公、米衛生兵のデズモンド・ドスは「戦争は命を奪うが、僕は命を救う」という信念に基づき、銃を手に持たず独自の戦いに挑もうとしていた。難攻不落のハクソー・リッジでドスが見た生き地獄とは…。(戸津井康之)

敵兵も救う信念

 高さ150メートルの断崖絶壁。その崖を登り切った頂上に日本の前線基地があった。のこぎり(ハクソー)の歯のようなギサギザの形状をした崖(リッジ)…。沖縄本島の激戦地となった前田高地を米兵たちはこう呼んで恐れた。 崖の上にロープをかけて、ドスたち米兵が次々とハクソー・リッジをかけ登っていく。

 日本兵はまだ攻撃してこない。米兵士全員が崖の上に登り、隊列を組んで前進を開始しようとした…。その瞬間、塹壕に潜んでいた日本兵が一気に攻撃をしかけてくる。 米兵たちはパニックを起こし、次々と敗走、崖の上から逃げるように降りていく。 だが、多くの味方が敗走していく中、戦場に踏みとどまる男がいた。衛生兵のドスだ。

 彼は、銃撃されて負傷し、身動きがとれなくなった米兵たちに救急処置を行い、一人ずつロープに身体をしばりつけて、安全な崖の下へと降ろしていく。 真夜中になってもドスは救助活動をやめなかった。その数は計75人にものぼった。驚くべきことに救助された兵士の中には日本兵もいた。ドスは戦場で苦しんでいた日本兵にも救急処置を行い、崖の下へ降ろしていたのだ。

ドスも嘆くであろう日本人ドライバーへの暴言

 先月28日、米国の人気自動車レース「インディ500」で日本人ドライバー、佐藤琢磨選手が優勝した。米国が世界に誇る伝統のレース。その長い歴史の中で、日本人選手として初の快挙だった。 この快挙に対し、米紙デンバー・ポストのベテラン記者がこんなツイートを投稿した。「個人的な批判をするつもりはないが、メモリアルデー(戦没者追悼記念日)の週末に日本人ドライバーがインディ500で優勝したことはとても不愉快」だと。 このツイートに対し、批判が殺到。同紙は翌日、この記者を解雇した。

 すぐに同記者は反省文を発表。自分の父が米兵士として日本軍と戦い、父の友人が沖縄戦で戦死したことを説明した上で、「第二次世界大戦での敵国のひとつ(日本)を引き合いに出したのはばかげていた」と謝罪した。 米大統領研究者で大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さんは「実際に日本軍と戦った米軍人のドス本人が沖縄の戦場で、敵兵である日本兵を助けていた事実を考えると、数十年後のこの発言は米国人としてあまりにも恥ずかしいですね」と苦言を呈し、こう続けた。「この記者は、ドスが沖縄戦で取った行動、勇気についてどう思うのでしょう? ぜひ『ハクソー・リッジ』を見てほしいですね」

問われる真の勇気

 「訓練中は銃も手に持てない臆病者だとばかにしていたが、戦場では彼が最も勇敢だった…」

264NAME:2017/07/07(金) 23:54:30
サム・ワーシントンが演じた実在するドスの上官、グローヴァー大尉は後にドスをこう称(たた)えている。 訓練中から度々、ドスと対立し、兵士失格だとしてドスの異動を強く進言していたのがグローヴァー大尉だった。 「ドスが沖縄の戦場で僕の命を救ってくれたのです。皮肉ですね」。もし、彼の進言通りドスを異動させ、一緒に沖縄で戦っていなければ、彼は戦死していたかもしれない。そのことを彼は認め、ドスに感謝の言葉を送っている。 1945年10月、ドスは当時のトルーマン米大統領から名誉勲章を授与される。良心的兵役拒否者として初の表彰だった。

 「軍隊内の人種差別撤廃を大統領令で断行したのがトルーマンです。良心的兵役拒否者も長い間、軍隊内で不遇な扱いを受けており、ドスの表彰も米軍内部の風通しを良くする一環といえるでしょう。信仰や人種を問わず平等に扱うという考え方はアメリカをアメリカたらしめる理想ですから」と西川さんは言う。

 味方の兵士が姿を消し、いつ狙撃されるか分からない戦場に踏みとどったドスが、一人、また一人と次々と負傷兵をロープにしばり、崖の下へと降ろしていく。 75人を救助する間、ずっと彼は心の中でこうつぶやいていた。 「神様、あともう一人だけ。私に命を救わせてください…」 人間の真の勇気とは何か-を、見る者の胸に突き付けてくる、かつてない戦争映画の傑作が生まれた。

265NAME:2017/08/11(金) 22:29:26
【戦争を考える】日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%82%92%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%80%91%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8b%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ae%e6%ae%ba%e5%ae%b3%e3%82%92%e8%a8%bc%e8%a8%80%e3%81%97%e3%81%9f98%e6%ad%b3%e3%80%8c%e3%82%84%e3%82%8a%e6%ae%8b%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%80%8d/ar-AApOuiY#page=2

沖縄戦経験者の元日本兵、飯田直次郎さん(98)は、昨年ごろから、住民に対し悪行を働いた海軍の軍曹を殺害したことを証言し始めた。日本兵による日本兵の殺害に関する証言は極めて珍しい。 &copy; 週刊女性PRIME 教師になりたかったが徴兵され「人殺しの練習ばかり」で夢破れたと話す飯田さん

飯田さんは1944年、東部第六二師団下田部隊に入隊し、沖縄へ向かった。 それまでは教育部隊に所属、中国戦線に6年半、派兵された。いったん本土へ戻ったときに結婚。半年後に再び派遣されるが、このとき、妻は身ごもっていた。「いつ召集がくるかわからないから、妻も覚悟のうえだったはず。それが当たり前でした」 沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。飯田さんが沖縄に派遣されたのは、アメリカ軍の潜水艦攻撃が激しくなったためだ。「最初は台湾に行くはずでしたが、途中の下関で船が止まって、別の部隊が台湾へ。そのため、私たちの部隊は沖縄に行くことになったんです」

 このころ、すでに飯田さんは“日本が負ける”と思っていたという。なぜか。「最後に来た部隊は竹槍(たけやり)を持っていました。銃がないんです。“ああ、これはダメだな”とあきらめました」 11月末、飯田さんらは那覇に上陸した。識名の守備軍として配備されたが、那覇は10月10日の大空襲ですでに廃墟になっていた。 その後、飯田さんは沖縄戦最後の激戦地・摩文仁村(現在の糸満市)に移動。ここで「佐々木」という海軍の軍曹を殺害した。いったいどういうことか。

 ’45年6月ごろ、飯田さんは、一緒に逃げてきた日本海軍兵や周辺住民と過ごすなど交流があった。「食糧が少なく、餓死した人も多い。でも、住民とは仲よくやっていました。部隊には軍から鯨の缶詰の配給がありましたから、それを住民にも配った。私たちは住民からサツマイモなどをもらって。イモの葉っぱは常食でしたよ」 しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。

「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」 ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」 そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。

 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」 飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。 この佐々木殺害の件について、飯田さんは2年前から証言するようになった。 関係者がほとんど亡くなっているということもあるが、「やり残したこと」として、記録に残すことを決めた。

「本当は誰にも話さず、心に秘めて亡くなろうと思ったんです。日本人同士の争いは恥ではないかと。でも、そのことを知っている人はもう私しかいない」 飯田さんは戦後2年たって実家へ戻った。その後、これまでに37回、沖縄へ行き慰霊の旅を続けている。

 戦友から寄付を募り、部隊が全滅した場所に慰霊碑も建てた。 飯田さんはアメリカ軍から逃げる牧港付近で、背後から撃たれた。火炎放射器によって100人ほどいた兵隊はほとんど焼死。生き残った飯田さんは、そのときの銃弾がまだ身体の中にある。傷は、沖縄戦の悲劇を物語り、日本兵による日本兵の殺害は、貴重な証言となっている。「沖縄ではいろんなことをした。嫌な思い出は残っているけど、いい思い出は何もないよ。戦争は勝っても負けてもよくない」 取材・文/渋井哲也 ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)

266NAME:2017/08/16(水) 00:13:03
【終戦の日】
「祖国のため命かけた大叔父の生きた証しを」インパール戦で戦病死したはずが実は特務機関に? 足跡追うも手がかりなく…
2017.8.15 16:30更新
http://www.sankei.com/west/news/170815/wst1708150055-n1.html

「大叔父は戦地でどんな最期を迎えたのか」。東京都練馬区の澤井園子さん(48)は、戦後72年がたった今もその足跡を追い続けている。大叔父の神居達(かみい・とおる)さんは、第二次大戦時にビルマ(現ミャンマー)で多大な犠牲者を出した「インパール作戦」で戦病死したとされたが、その後、別動隊にいた可能性が浮上し、最期の様子が不明となった。それから8年間にわたり調査を続けているが、真実は謎のまま。過ぎゆく時間を感じながら、大叔父の生きた証しを探している。

「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろすも…

 澤井さんの祖父の弟である神居さんは、軍歴を記した兵籍簿などによると、昭和16年に立命館大を中退し、18年4月に召集され、陸軍歩兵60連隊の機関銃中隊の一員としてインパール作戦に参加。19年5月にインド・アッサム州から約700キロ離れた軍司令部があるビルマ・メイミョーに搬送され、7月に26歳で戦病死したとされる。

 一方、平成16年12月、64歳で亡くなった澤井さんの母は生前、「大好きだった叔父さんが戦死したビルマへ慰霊に行きたい」と口癖のように語っていた。 「母には親孝行ができなかった。せめて代わりに供養しよう」。澤井さんは、育児に一段落ついた21年から大叔父の足取りを追い始め、22年2月に戦友会のメンバーとともにビルマを訪問。大叔父が亡くなったとされる地で手を合わせ、「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろした。

生還者の誰もが「知らない」と

 ところが、ここから大叔父の謎をめぐる“彷徨(ほうこう)”が始まった。 慰霊訪問後、澤井さんは大叔父が所属したとされた機関銃中隊の生還者2人と面会したが、いずれも大叔父のことを「知らない」と断言した。 その後、複数のビルマからの生還者にも会ったが、下士官だった大叔父が軍司令部がある地に運ばれて亡くなることは「あり得ない」と指摘された。軍医将校だった生還者には「別の支援ルートがあった特務機関に所属していたのならあり得る」と教えられた。

 調査を進めると、大学で大叔父の1年先輩だった人物が、日本軍の対インド工作を担った特務機関「光機関」に所属し、ビルマに派遣されていたことが判明。その人の日記に、光機関から大学の後輩を5人ほど選んで連れてくるよう要請を受けたとの記述があり、大叔父のビルマ入りの時期と重なっていた。 また、大叔父の死亡者調書を作成した人物が、光機関の将校だったこともわかった。光機関の生還者の手記には「敗戦時に全機関員の軍歴を改竄(かいざん)した」との記述があった。 大叔父は英語に堪能で、ビルマに赴く前、家族に「通訳をする」と話していた。澤井さんは、大叔父が光機関に所属し、日本軍とインド国民軍をつなぐ任務に就いていたのでは-という仮説を立てたが、確証は得られない。

手がかりが年々少なくなっていく中で

 調査を始めて8年。旧日本軍関係者や戦史の専門家ら100人以上に会ったが、大学の専門家に門前払いされるなど、調査は簡単には進まなかった。一方で「素人の私がここまで来れたのは、多くの方の優しさとご縁があったから」との思いもある。 澤井さんは大叔父の調査過程をブログ「ミャンマーに思いを寄せて」に公開してきたが、知り合った旧軍関係者もほとんどが亡くなり、手がかりは年々少なくなっている。 「大叔父は祖国のために命をかけたのに、『そんな人はいない』と存在すら認められていないことになっている。だから、何とか身内の私が大叔父の生きた証しを見つけたいんです」

267NAME:2017/08/16(水) 00:15:43
【終戦の日】
反天連デモに抗議の声200人 「帰れ!」「つぶせ!」靖国神社近くで飛び交う罵声
2017.8.15 20:10更新
http://www.sankei.com/affairs/news/170815/afr1708150018-n1.html

72回目の「終戦の日」を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた東京都千代田区の日本武道館からほど近い九段下の交差点に、右派系団体のメンバーら約200人が集結した。毎年8月15日に靖国神社近くで「天皇制いらない」などとシュプレヒコールを上げてデモ行進する反天皇制運動連絡会(反天連)のメンバーに抗議する、いわゆる「カウンター」と呼ばれる人たち。英霊を慰める終戦の日、靖国神社近くではシュプレヒコールや怒号が飛び交った。 午後5時ごろ、九段下交差点を通りかかった反天連のデモ隊約80人は口々に「天皇制反対」「安倍はやめろ」とシュプレヒコールを繰り返しながら前進。これをかき消すように交差点そばの歩道に陣取った「行動する保守運動」のメンバーら約200人が「帰れ」「反天連つぶせ」「国賊」などと怒号を上げて抗議した。

 警視庁は一時、交通を遮断し、歩行者をくぎ付けにする方法でデモ隊を通過させた。デモ行進の際、所々で「行動する保守運動」以外の右翼団体の関係者らが怒号を浴びせる中、大きな混乱もなくデモ隊はデモを終えた。 日本第一党の桜井誠党首(45)は「数の問題ではないが、今回の反天連のデモ隊は前年より減って70〜80人ほどだった。私たち抗議運動は当初、数十人で始めたが、今はこれだけの人が抗議の声を上げるようになった」などと演説すると、沿道から「桜井」コールが起こった。(WEB編集チーム)

268NAME:2017/09/02(土) 21:33:59
GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/ghq%e3%81%ab%e5%90%9b%e8%87%a8%e3%81%97%e3%81%9f%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%81%ae%e6%84%9a%e5%b0%86%e3%81%b6%e3%82%8a/ar-AAqKZFS?OCID=HPDHP

連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。

仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。 しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。 1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。 直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。 
この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。 一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。 10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。 “Where is Kim Buck Tooth?”(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)

269NAME:2017/09/02(土) 21:34:46
ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。 中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。 マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。 1950年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。 体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。 このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。 マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。 度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。

宇山卓栄(うやま・たくえい) 1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。(写真=時事通信フォト)

270NAME:2018/01/14(日) 00:49:22
私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなしに攻めて戦争を起こした」「日本は残虐な悪い国だ」ということを新聞でも、テレビでも繰り返し教わってきました。でも、今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の常識とは真逆とも言える証言が、47年公開を禁じられたフーヴァー元大統領の回顧録から次々と浮かび上がりました。

ハル・ノート、原爆投下、終戦…アメリカではこの証言をもとに、歴史の見方が、世界の見方が少しずつ変わり始めているのに、日本の大手メディアはいっこうにこの事実を大きく取り上げてくれません。太平洋戦争に隠されたその大嘘の数々とはどのようなものだったのか?
http://www.worldforecast.jp/lp/fukota/fb.html

271NAME:2018/02/17(土) 01:27:40
チャーチル元英首相、見誤った日本観 マレー作戦を予測→日本軍を過小評価しシンガポール陥落
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%81%e3%83%ab%e5%85%83%e8%8b%b1%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%80%81%e8%a6%8b%e8%aa%a4%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%a6%b3-%e3%83%9e%e3%83%ac%e3%83%bc%e4%bd%9c%e6%88%a6%e3%82%92%e4%ba%88%e6%b8%ac%e2%86%92%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%bb%8d%e3%82%92%e9%81%8e%e5%b0%8f%e8%a9%95%e4%be%a1%e3%81%97%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%ab%e9%99%a5%e8%90%bd/ar-BBJbR1e?ocid=iehp#page=2

【ロンドン=岡部伸】日米開戦の発端となった1941年12月8日の真珠湾攻撃とほぼ同時にマレー半島に日本軍が上陸し、わずか55日間で南下した後、シンガポールを陥落させてから15日で76年を迎えた。当時のチャーチル英首相が、マレー作戦をはじめ日本の軍事作戦を予測する情報がありながら日本軍の実力を過小評価し、「大英帝国史上最大の悲劇であり、大惨事」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)を招いたことが、英国立公文書館所蔵の英内閣合同情報小委員会報告書などで示されていた。チャーチルの誤った日本観が英国による植民地支配の終焉の始まりとなったといえそうだ。

 同報告書によると、米ワシントンで日米交渉が佳境に入った1941年11月18日に同小委員会が開催され、「日本の意図」として、「日本政府は英米と戦火を交えるリスクを冒す決断に至っていないが、交渉が決裂すれば、英、米、オランダと戦端を開く進攻作戦を行う判断を迫られる」と日本の軍事作戦を予測した。

 進攻先として、「aタイbマレーc蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)dロシア(ソ連)沿海州」を挙げた上で、「日本は対英、おそらく対米開戦の予備的作戦として最初にタイに進駐する。タイ占領後、マレーさらに日本が最も不足している石油を求めて蘭印に進攻するだろう。日本の石油備蓄量は9カ月から12カ月分だからだ」と石油資源獲得目的で英領ボルネオから蘭印に進むと予測。一方、伝統的な敵であるロシア(ソ連)への進攻(北進)に対しては、「圧倒的な優位性がないため、極東ロシア軍が弱体化するまで据え置かれる」と否定した。

 さらに米国側が事実上の最後通告となるハル・ノートを出した2日後の同11月28日に開催した同小委員会では「日本軍が取る可能性のある軍事行動」と題して、「マレーと蘭印作戦を進めるため、タイへの進駐はほぼ確実。ワシントンでの交渉決裂直後に実行されるかもしれない」とタイ進駐が差し迫っていることを予測した。

272NAME:2018/02/21(水) 02:42:41
なぜだ! 日本の侵略を受けた東南アジア諸国が日本を恨まない理由=中国メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%a0%ef%bc%81-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%be%b5%e7%95%a5%e3%82%92%e5%8f%97%e3%81%91%e3%81%9f%e6%9d%b1%e5%8d%97%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e8%ab%b8%e5%9b%bd%e3%81%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%82%92%e6%81%a8%e3%81%be%e3%81%aa%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBJlC3W?ocid=iehp#page=2

中国では歴史問題を理由に日本に対して反感を持つ人が数多く存在する。このような反日感情は中国や韓国で非常に根強く残っているが、東南アジア諸国では中韓ほどの反日感情は存在しないと言えるだろう。 中国メディアの今日頭条は18日、東南アジア諸国も中国と同じように日本に侵略されたというのに、なぜ日本を恨まないのかと疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、日本の閣僚が靖国神社に参拝したり、歴史教科書の内容を改定したりすると、中国や韓国では激しい反発の声があがると紹介する一方、反発の声は主に中韓からしかあがらず、東南アジア諸国からはほとんど聞こえてこないと指摘した。

 続けて、中国や韓国が日本による侵略に対して反発するのは当然のこととして、なぜ東南アジア諸国は反発しないのかと疑問を投げかけつつ、これは東南アジア諸国が当時置かれていた背景と大きな関係があると主張。そして、東南アジア諸国は日本による侵略を受けた時、欧米の植民地だったとし、「この点こそ中韓と大きく違っている点だ」と論じた。

 さらに記事は、日本は「欧米を追い出し、東南アジアを解放する」という名目で東南アジアに侵攻したがゆえに、当時の東南アジア諸国では日本が歓迎される存在となったと指摘。さらに、日本は欧米の植民地支配より東南アジアを上手に統治したため、恨みが生まれるどころかむしろ一種の感謝すら生じたと主張。これが東南アジア諸国で中韓ほどの反日感情は存在しない理由だと論じている。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

273NAME:2018/04/18(水) 03:43:33
ヤルタ密約 チャーチル英首相、ソ連対日参戦1カ月前に情報漏らす ソ連への千島割譲、英連邦4カ国に
2018.4.17 22:51更新
http://www.sankei.com/world/news/180417/wor1804170043-n1.html

【ロンドン=岡部伸】ソ連に対日参戦の見返りに日本領土だった南樺太と千島列島を割譲するとした「ヤルタ密約」を3巨頭の一人として署名したチャーチル英首相がソ連侵攻1カ月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4カ国首脳に密約内容を極秘に明かしていたことが、英国立公文書館で見つかった英外交電報で分かった。

 同年2月に交わされたヤルタ密約は、ロシアがソ連時代から、日本固有の領土である北方領土の領有を主張する最有力根拠としてきたが、北方四島を含む千島列島のソ連領有に懸念を抱いたチャーチルが英連邦主要国に警戒を促したことをうかがわせる。 電報は1945年7月5日付。チャーチルから英自治領省(ドミニオン・オフィス)経由でカナダ、豪州、ニュージーランド、南アフリカ4カ国の首脳あてに送られた。

 駐重慶カナダ大使が中国政府筋から得たとする「ソ連は対日参戦の見返りに、クリール(千島)、南樺太、南満州鉄道、旅順、大連を得る」との情報について、カナダのキング首相が6月27日付で照会したものにチャーチル自らが回答した。電報は、ソ連の対日参戦の条件として(1)ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持(2)南樺太の「recovery」(回復)(3)千島列島の「acquisition」(獲得)-を明記。 そのうえで「われわれ3人はソ連の要求が日本が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した」などと米英ソ3首脳の密約を説明している。

 ヤルタ会談直後、チャーチルは、密約の流出を懸念して同年3月、英連邦諸国に伝えないように外務省に指示していた。しかし、戦後処理を話し合う同年7月17日〜8月2日のポツダム会談に向けて、トルーマン米大統領らが出発する直前に、英連邦主要国に、情報提供していたことになる。 チャーチルは当時からアジアでの共産主義浸透をもくろむソ連を警戒しており、豪州やニュージーランドに密約を事前説明することで、降伏勧告を含む対日政策で英連邦の結束を促したとみられる。 また電報原本には、千島列島の獲得が記述された左部分に赤線がひかれており、千島列島の扱いについて英政府内で重要な懸案として論議された形跡を示唆している。

カリフォルニア大学サンタバーバラ校の長谷川毅名誉教授(日露関係史)は、「英国は、日本に降伏を迫る上で、米国が主張する国体の否定(皇室解体)を和らげることを望んでいた。一方で、豪州やニュージーランドなどは過酷な和平条件を日本に要求しており、英連邦諸国をいかに説得するかの板挟みにあったのではないか」と指摘している。

【用語解説】ヤルタ密約 1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミア半島ヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相による連合国3カ国首脳会談が開かれた。ルーズベルトはソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられ、ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定、東西冷戦幕開けのきっかけにもなった。

274NAME:2018/04/18(水) 03:45:53
ヤルタ密約 背景に透けるチャーチルの微妙な立場 戦後は一転「歴史的過ち」と批判
2018.4.17 22:52更新
http://www.sankei.com/world/news/180417/wor1804170044-n1.html

チャーチル英首相が英連邦主要国に、米英ソ3首脳によるヤルタ密約の内容を“漏らしていた”ことは、チャーチル自身の密約に対する微妙な立場をうかがわせている。実際、チャーチルは戦後、署名したものの自身を頭越しにした米ソ首脳の独断と釈明し、大西洋憲章とカイロ宣言で定めた「領土不拡大の原則」に反した歴史的“過ち”と認めている。

 密約をめぐって、英外務省は大戦終了約半年後の1946年2月、全在外公館に「ルーズベルトが米大統領の権限を越え、米議会の批准を得ずに署名しており、(南樺太と千島列島などの領土移転を決めた)合意の有効性について米国内で議論が起こるかもしれない」と疑問を呈し、「論議に巻き込まれないように注意すべきだ」と警告を発していたことが、英外交電報で判明している。

 また、米国内でも53年に当時のアイゼンハワー大統領らが、ルーズベルトが独断で決めたとして密約の無効を訴えたことで、同じく英政府にはからず独断で署名したチャーチルの責任を問う声も表面化した。 このため、チャーチルはイーデン外相あてに、「米ソ首脳が頭越しで決定した。自分はその場におらず、連合国の結束を乱したくなかったので署名した」と釈明する書簡を書いている。

英国はこれまで、ソ連・ロシアが北方四島を含む千島占有の根拠としてきた密約が米ソ主導で結ばれたこともあり、北方領土問題に対する立場も明瞭にしてこなかった。 日本の外務省は、こうした英国の姿勢について平成18(2006)年2月の国会答弁で、「わが国の認識を否定するものではない」とのみ答えている。 (ロンドン 岡部伸)

275NAME:2018/05/07(月) 22:40:15
ヨシツネ @yoshitunekodomo
私の父は自衛官だった。
小学4年生だった私は授業中、担任女性教師から
「大野君のお父さんは自衛官です。自衛隊は人を殺すのが仕事です。しかも憲法違反の集団です。みんな大きくなっても大野君のお父さんのようにならないようにしましょう。」と言われたことがある。
大野敏明
0:45 - 2018年5月6日
http://seikeidouga.blog.jp/archives/1070808498.html

276NAME:2018/05/31(木) 00:05:03
特攻隊員の最期、73年経て特定 米艦炎上の映像見つかる
http://a.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A%E5%93%A1%E3%81%AE%E6%9C%80%E6%9C%9F%E3%80%8173%E5%B9%B4%E7%B5%8C%E3%81%A6%E7%89%B9%E5%AE%9A-%E7%B1%B3%E8%89%A6%E7%82%8E%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%98%A0%E5%83%8F%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%8B/ar-AAxRV9K?ocid=iehp#page=2

鹿児島県の鹿屋基地から零式艦上戦闘機(ゼロ戦)で出撃した特攻隊員の西口徳次中尉=当時(23)=が1945年4月、沖縄近海で米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドに突入した直後に同艦が大破、炎上している状況を記録した約2分半の映像が見つかった。27日、京都市内で開かれた慰霊祭で上映され、遺族らが73年を経て最期の様子を目にした。

 西口中尉の妹前田かよ子さん(80)=兵庫県芦屋市=は「まさか今になって見られるとは。見つけてくださりありがたい」と見入った。 遺族から依頼を受けた大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」が、米国立公文書館で映像と関連資料を発見した。

1945年4月29日、西口徳次中尉が搭乗した戦闘機の攻撃を受けた米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドの映像。艦橋部分(中央)から煙が上がっている(豊の国宇佐市塾提供)

277NAME:2018/06/04(月) 19:14:26
「昭和の大戦」への道   渡部昇一・著
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library507.html
https://kabukachan.exblog.jp/18225842/
★ なわ・ふみひと の ひとくち解説 ★
  この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとりと言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または気づいていないふりをしている)点です。
  太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。
  このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。
  当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。
  つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。
  アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。
  結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。

278NAME:2018/08/04(土) 04:22:35
【正論】大戦の検証通じ日本の姿考える 学習院大学学長・井上寿一
2018.8.3 11:00更新
http://www.sankei.com/column/news/180803/clm1808030005-n1.html

8月15日は先の大戦の戦没者を慰霊する日である。戦没者数およそ310万人、そのなかで未帰還遺骨の概数は100万柱以上に上る。戦禍がもたらした犠牲に言葉を失う。 なぜ開戦は回避できなかったのか。回避できなかったとしてもなぜ早期に戦争を終結しなかったのか。犠牲者数を最小限にとどめることはできなかったのか。 以下では日米開戦から戦争終結までの時期を対象として、これらの疑問を考える。

 ≪「万一の僥倖」に賭けた陸軍≫

 日米開戦は回避可能だったのか。戦後の日本外交史研究は、この疑問を解く目的で出発したと言っても言いすぎではない。 1960年代初めには日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部が研究プロジェクトの成果を発表している。それ以来、今日までの膨大な研究の蓄積によって、日米開戦外交の全体像が明らかになっている。 そこへ今年、研究の新たな画期となるような著作、牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』が現れた。同書はすでに複数の書評があるので、内容紹介は必要最小限にとどめる。

 開戦の前年、陸軍の秋丸次朗中佐の下に集まった経済学者たちが、戦争経済に関する報告書をまとめる。 同書はこの秋丸機関の「幻の報告書」を読み解く。「確実な敗北」と「万一の僥倖(ぎょうこう)」の両論併記の報告書に対して、陸軍は「万一の僥倖」の方に賭けた。

 陸軍の選択はそうだったのかもしれない。しかし実際の日米交渉は違った。日本側が最後の外交カードとした「乙案」(南部仏印から北部仏印への移駐と引き換えに石油供給を再開して開戦を回避する案)は、「確実な敗北」の回避策だったからである。 「乙案」をめぐって暫定協定が成立すれば、東南アジアは雨期に入る。状況は膠着(こうちゃく)する。ヨーロッパでは対ソ連戦争でドイツが劣勢に陥る。外交史研究が指摘するように、こうなればあらためて開戦を決定することはむずかしくなる。

279NAME:2018/08/04(土) 04:23:42
≪早期終結の戦略はなかった≫

 ところが暫定協定案に対するアメリカの返答はハル・ノートだった。アメリカにとってハル・ノートは最後通告ではなかった。交渉の余地は残されていたものの、日本は11月末までに外交交渉でまとまらなければ、12月初旬の武力発動を決めていた。ここに日本は対米開戦に踏み切った。

 真珠湾の奇襲攻撃は成功する。問題はそこからだった。 陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐(当時)は戦後、次のように指摘している。「初めからハワイを奇襲したついでに、なぜハワイを取ってしまわなかったのか」。ハワイを占領すれば、それをてこに戦争終結をめざすことができた。 岡田は重ねて言う。「あのとき一挙にハワイをすぱっと取ったら、だいぶ異なった情勢が生まれたのではないか」。しかし実際には予防戦争としての早期終結の戦略はなかった。

 真珠湾攻撃から約半年後、日本はミッドウェー海戦で敗北する。2カ月後から始まったガダルカナル島攻略作戦では壊滅的な打撃を受けた。それでも日本は戦争を続ける。 どこかで決戦を挑み、戦果を上げて和平に持ち込まなければならなかった。しかし陸海軍の戦略の統合が進まず、決戦の天王山は移動した。

 先の大戦で最大の犠牲者が出たのは、戦争の最後の年である。前年までに戦争が終結していれば、東京大空襲も沖縄戦も広島・長崎の原爆投下もソ連の対日参戦もなかった。しかし和平構想を持たずに戦争を始めた日本は、1944(昭和19)年までに戦争を終結することができなかった。

≪反実仮想し歴史の教訓を学べ≫

 「万一の僥倖」に賭けた結果は日本の国家的な破局だった。その代わり、戦後は平和と民主主義の時代が訪れる。 しかし開戦直前の武藤(章)陸軍省軍務局長のように、「国体変革」に至るまで敗北しても、日本民族は「再び伸びる」と予測できたのは、きわめて例外的だっただろう。

 対する「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」による戦争回避は310万人を救うことができた。その代わり日本が先進民主主義国になるには、実際よりもはるかに長い年月を要しただろう。 大政翼賛会から政党内閣の復活への転換に限っても、その過程は曲折が予想される。アジア諸国の独立も遅れたにちがいない。欧州諸国がアジアの植民地を手放す意思はなかったからである。

 他方で第二次欧州大戦が独伊の敗北に終わる。ほどなくして米ソ冷戦が始まる。1920年代の日米協調関係が冷戦状況のなかで復活する。そうなれば現実の戦後日本と同様の日本が形成される。 8月15日は国民一人一人がこのような反実仮想による戦争の検証作業をとおして歴史の教訓に学びながら、戦没者を慰霊する日となることを願う。(いのうえ としかず)

280NAME:2018/08/07(火) 00:03:02
47年隠され続けた太平洋戦争の正体
太平洋戦争で最も得した国
http://www.worldforecast.jp/lp/fukota/adw_lptest3.html?utm_expid=.GjFxD-zNSD2zhBR366NqDA.0&amp;utm_referrer=https%3A%2F%2Fgoogleads.g.doubleclick.net%2Fpagead%2Fads%3Fclient%3Dca-pub-9745878946796737%26output%3Dhtml%26h%3D100%26slotname%3D6484497368%26adk%3D465469005%26adf%3D3492283990%26w%3D670%26lmt%3D1533566068%26loeid%3D201222032%26rafmt%3D12%26guci%3D2.2.0.0.2.2.0%26format%3D670x100%26url%3Dhttps%253A%252F%252Fblog.with2.net%252Frank1510-0.html%26flash%3D30.0.0%26wgl%3D1%26adsid%3DNT%26dt%3D1533567365886%26bpp%3D27%26bdt%3D1303%26fdt%3D39%26idt%3D246%26shv%3Dr20180801%26cbv%3Dr20180604%26saldr%3Daa%26abxe%3D1%26correlator%3D3724105942613%26frm%3D20%26pv%3D2%26ga_vid%3D542308252.1374864911%26ga_sid%3D1533567366%26ga_hid%3D1233738848%26ga_fc%3D0%26icsg%3D181456861871%26dssz%3D42%26mdo%3D0%26mso%3D0%26u_tz%3D540%26u_his%3D3%26u_java%3D1%26u_h%3D1080%26u_w%3D1920%26u_ah%3D1048%26u_aw%3D1920%26u_cd%3D24%26u_nplug%3D3%26u_nmime%3D5%26adx%3D68%26ady%3D803%26biw%3D1463%26bih%3D609%26scr_x%3D0%26scr_y%3D0%26eid%3D21060853%252C21062171%252C62710016%252C62710018%252C201222022%252C368226401%26oid%3D3%26rx%3D0%26eae%3D0%26fc%3D528%26docm%3D11%26brdim%3D179%252C267%252C171%252C95%252C1920%252C%252C1496%252C813%252C1480%252C609%26vis%3D1%26rsz%3D%257C%257CeEbr%257C%26abl%3DCS%26ppjl%3Df%26pfx%3D0%26fu%3D272%26bc%3D1%26ifi%3D11%26xpc%3DkTqTUqdJFO%26p%3Dhttps%253A%2F%2Fblog.with2.net%26dtd%3D306

1946年(昭和21年)5月3日、東京。

元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーと連合国軍最高司令官マッカーサーは「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日間にも渡って話し合った。そのとき、日本人なら誰も思いもしないようなことをフーヴァーは口にした…

「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。気が狂っていると言っても精神異常なんかじゃない、ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかった…その欲望の結果が日米戦争になったんだ」

その言葉を聞いて、マッカーサーははっきりと同意した…

私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなしに攻めて戦争を起こした」「日本は残虐な悪い国だ」ということを新聞でも、テレビでも繰り返し教わってきました。しかし今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の常識とは真逆とも言える証言が、47年公開を禁じられたフーヴァー元大統領の回顧録から次々と浮かび上がりました。 上記のマッカーサーとの会話も、この回顧録からのワンシーンです。回顧録ではその他にも、ハル・ノート、原爆投下、終戦などについて常識を覆す内容を投げかけています。

アメリカではこの証言をもとに、歴史の見方が、世界の見方が、少しずつ変わり始めているようです。しかし、日本人にとってこんなに重要な内容なのに、日本の大手メディアは全く取り上げてくれません。日本人が知らない太平洋戦争の本当の筋書きとはどのようなものだったのか? この講演録では、回顧録をベースにひとつひとつの事実を丁寧に読み解くことで、「日本が戦争を起こした」という教科書通りの太平洋戦争に含まれる多くの矛盾点、戦争の真実を次々と明かしてくれます。 読み終わった後には、きっとあなたの「太平洋戦争のイメージ」は全く変わっていることでしょう。それだけでなく、アメリカと日本を見る目が変わり始めることでしょう。

藤井厳喜氏はこう言います。「テレビ・新聞など日本のメディアには語られないところに真実は存在している。それどころか、私たちに真実が知られないように巧妙に隠され、間違った情報が拡散するように仕組まれている…」 ぜひ、この講演録からあなた自身で「何が真実なのか?」を判断してください。

【目次】日本人が知らない太平洋戦争の大嘘

はじめに・・・1ページ
反日プロパガンダは、日本の国そのものに対する攻撃である
「反日中毒が蔓延している」と反骨のフランス人ジャーナリストが喝破した
序章フーヴァー大統領の『フリーダム・ビトレイド』が明らかにしたルーズベルトの裏切り
フーヴァーの勇気ある告発――ルーズベルトは誰のために戦争を始めたのか
ルーズベルト神話は、いまだアメリカ社会に根強く生きている

281NAME:2018/08/07(火) 00:03:33
第1章 日米関係前史
両国は衝突する運命だったのか? ・・・22ページ

日本の鎖国を終わらせたのはアメリカだった
ハワイ王国を乗っ取ったアメリカ 
若き東郷平八郎は、ハワイの亡国とどう向き合ったか
英露ふたつの大国がぶつかったのが、日本だった
アメリカが、日本を仮想敵国とした戦争計画「オレンジ・プラン」を作っていた理由
対日感情を大きく変えた移民排斥運動
日米は、どこかの段階でぶつからざるを得ない運命にあった
南北戦争勃発で生じた日米関係の空白
カラカウア王が日本に持ち掛けた仰天計画
ロシアとイギリスのグレート・ゲーム
アメリカはなぜ、日英の蜜月関係を終わらせたかったのか
日米関係はずっと悪くなかった
日本人にとって衝撃的な出来事だった、排日移民法の成立
アメリカは、日本がチャイナの利権を独占するのが許せなかった

第2章 日米戦争を起こしたのは誰か?
『フリーダム・ビトレイド』でフーヴァーは何を伝えたかったのか・・・58ページ

日本に対する宣戦布告なき戦争が、静かに始まっていた
スターリン、チャーチル、?介石には、ルーズベルトとの深い関係があった
ルーズベルト家は、チャイナ貿易で財を成した家系だった
かくして、アメリカは開戦に踏み切った
「戦争を始めたいという狂人の欲望」が日米戦争を引き起こした
日本の知らない裏側で世界はつながっていた
なぜ、海軍は三国同盟を防げなかったのか
ついに一緒の船に乗った! 安堵して眠りについたチャーチル
アメリカを侵略する共産主義の脅威
「赤狩り」という極端な政策がアメリカで吹き荒れた理由
アメリカ国民よ、今こそ目を覚ませ
フーヴァーは、アメリカンドリームボーイだった
歴史から消し去られたフーヴァーの功績
世界経済を立て直すための経済サミットを、ルーズベルトが潰してしまった
ルーズベルトのニューディール政策は、大不況を克服することができたのか
なぜ、ルーズベルト大統領は戦争を望んだのか
チャイナとキリスト教宣教師の奇妙な関係
ヨーロッパの戦争でアメリカン・ボーイズを死なせるな
フーヴァーとマッカーサーの会談で何が話されたのか
最大限譲歩した和平交渉は、拒絶された
三国同盟締結は、日本を滅ぼす道だった
日本はハワイではなく、極東ソ連を攻撃して挟み撃ちにするべきだった
議会にアメリカの宣戦布告を求めたルーズベルトの欺瞞
フーヴァーは、共産主義の脅威と戦うことに生涯をかけていた
アメリカ国民は本当の歴史を知らされていない
チャイナは、あらゆるものが戦争の手段となる「超限戦」を仕掛けている
フーヴァー大統領への期待と失望
世界経済を立て直すための経済サミットを、ルーズベルトが潰してしまった
フーヴァー研究所を創設して、アメリカの保守主義を支える

282NAME:2018/08/07(火) 00:04:06
第3章 原爆を落とす必要があったのか?
日本は終戦のために水面下で動いていた・・・128ページ

無条件降伏の要求が、戦争を無駄に長引かせ、より残酷なものにした
広島・長崎への原爆投下がなくても、日本は降伏していた
日本に無条件降伏を呑ませるための切り札
徹底抗戦を叫ぶ陸軍統制派は、社会主義革命を望んでいた
イギリスは、伝統的な外交政策バランス・オブ・パワーに徹すべきだった
第二次世界大戦は、世界の構図をどう変えたのか
第二次世界大戦の本当の勝者は誰か
チャイナを労せずして得た毛沢東
ルーズベルト大統領3つの大罪
原爆投下は、新世界におけるアメリカの覇権を誇示するものだった
トルーマンが、ソ連対日参戦の前に戦争を終わらせたかった理由
和平を訴える「近衛上奏文」のもうひとつの危機感
日本は、大局観に基づく知恵を持っていたか
余りに大きかったイギリスの勝利の代償
最大の犠牲者を出したソ連が、第二次世界大戦で得た最大の成果

終章 日米がもし戦わなかったら?
世界地図は全く異なるものになっていた・・・160ページ 

日本はイギリスとの戦いだけなら勝機があった 
大英帝国の運命を握っていたのは、ドイツではなく日本だった
ヨーロッパは、ナチス・ドイツとソ連の支配が温存された
チャイナは分断国家となっていた

終わりに
ヤルタ協定を徹底批判したブッシュ・ジュニアの演説・・・168ページ

国内外の大企業・投資家からも信頼される国際政治学者
藤井 厳喜 氏 ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ代表取締役

ハーバード大学大学院博士課程修了。日本のマスメディアでは決して報道されない、欧米政府が扱うレベルの政治・経済の動向、そして市民レベルの情報も踏まえて、文化、思想、宗教など多方面から分析し未来を的確に見抜くその予測能力は、内外の専門家から高く評価されている。

著書は第1作の『世界経済大予言』(1984年)以来、年間数冊のペースで出版され70冊を上回る。また、秘匿性の高い年間20万円の会員制レポートは35年間毎月発行され、「正確な情報が命」とも言える大手金融機関や大企業、個人投資家を中心に「世界情勢を読み解くバイブル」として高い評価を得ている。

また、国連集会に派遣団として参加したり、1999年には米ブッシュ政権との架け橋として、リチャード・アーミテージ元米国務副長官、ロバート・ゼーリック世界銀行総裁(共に当時は民間人)らに掛け合い、外交の裏側を取り仕切るなどの国際的・政治的な活動も行ってきた。

その一方で、「朝まで生テレビ」「バイきんぐ」「ニュース女子」「虎ノ門ニュース」などのテレビ出演やラジオのニュースキャスターを歴任。タレントや根拠の薄い発言しかしない学者では伝えられない世界の真実を、お茶の間にも届けるべく情報発進に努める。 さらに現在は、地上波では伝えきれないような「日本人にとって価値ある真実」を広める活動をダイレクト出版と協働で行っている。

283NAME:2018/08/09(木) 12:33:27
9回出撃して9回生還 隠された特攻隊の真実
2018/08/09 07:00
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/9%e5%9b%9e%e5%87%ba%e6%92%83%e3%81%97%e3%81%a69%e5%9b%9e%e7%94%9f%e9%82%84-%e9%9a%a0%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%89%b9%e6%94%bb%e9%9a%8a%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f/ar-BBLGgom#page=2

太平洋戦争末期、爆弾を抱えた飛行機で米軍の戦艦に体当たりする旧日本陸海軍の自爆攻撃「特別攻撃隊」に関する書籍が相次いでベストセラーになっている。究極の犠牲精神と美化されることもあった特攻隊の「虚像」が関係者の証言などで明らかになってきた。戦後73年、いまなぜ特攻隊が注目されるのか──。

*  *  *

 特攻隊として出撃すること9回。その度に生還したパイロットがいた。しかも急降下爆撃で戦果をあげて。本来なら上官は称賛してしかるべきであろうに「次こそは必ず死んでこい」と激怒したという。なんとも衝撃的なエピソードが語られるのは、『不死身の特攻兵軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)。作家の鴻上尚史さんのノンフィクションで、昨年11月発行以来、増刷を重ね18万部を突破した。

 同じく12月に刊行され、「体当たり戦法」も含めて戦争の実態を明らかにした吉田裕著『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)も13万部を数える。鴻上さんが読んで『不死身の特攻兵』を書くきっかけになったという、大貫健一郎・渡辺考著『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(朝日文庫)など、特攻隊に絡む書籍の文庫化や復刊も相次いでいる。

「特攻隊」が多くの人に鮮烈な印象を与えたのは、昭和20(1945)年5月11日、日本陸軍第六航空軍と海軍特攻機64機が出撃した沖縄戦で、嘉手納湾に停泊していた米空母バンカー・ヒルに2機の特攻機が体当たりし、黒煙を上げる映像だろう。 米側の資料では、ヒルの乗員402人が戦死、戦傷者264人。ほかに駆逐艦エヴァンスに4機が命中するなど、前年10月から始まった「特攻」の中で、最も被害が甚大だったといわれる。

 一般に「カミカゼ」と言われるが、昭和19(44)年10月25日、レイテ(フィリピン)防衛戦に投入された海軍初の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」は、劣勢に追い込まれた日本軍の起死回生の作戦だった。零戦に250キロ爆弾を装備して敵艦に体当たりする。 海軍に遅れはするが同年11月12日には、陸軍初の特攻隊が出撃している。

 陸海軍ともに初期の特攻隊には、戦果を重視しベテランパイロットを投入。とくに海軍初の特攻では関行男大尉の体当たり攻撃により、米軍「護衛空母」を撃沈させたことの戦意発揚効果は大きかった。 しかし、特攻は機とともに飛行士の命を失うもので、回数を重ねるにつれ飛行時間が少なく「離着陸がやっと」の少年飛行兵や予備学生らの若い操縦士が充てられ、ガソリンの欠乏から操縦訓練さえ満足にできないまま出撃していったという。

 若い操縦士が選ばれたのは、ベテランを「本土決戦」に残そうとした狙いもあったとされるが、選出する側が身内であるエリート士官に配慮した面が大きいとされる。古参兵のなかには「俺を選んだら許さんぞ」とすごむ者もいたといわれる。 特攻機が不足するに及んでは、誰が見ても不向きと思われる爆撃機や練習機までも投入。整備兵をして「こんな子供たちをこんなぼろ飛行機で」と悔しがらせたほどだった。

284NAME:2018/08/09(木) 12:34:25
 無謀な作戦の背景には戦況の悪化はあるものの、作戦立案において「体当たりは、爆弾を落とすよりも簡単だろう」といった空戦の経験のない参謀たちが中枢を占めたことがあげられる。 その効果に関しても当時、現場のパイロットから疑問が投げかけられていた。命中しても甲板を炎上させるだけで、大破撃沈には至らない。急降下爆撃による爆弾投下が有効と意見を呈するベテランパイロットたちに対して、しかし「命が惜しいのか」と一考されることはなかった。

 栗原俊雄著『特攻──戦争と日本人』(中公新書)によると、8月15日の敗戦までの特攻隊員の戦死者は海軍2431人、陸軍1417人(戦死者数は諸説あり)。対して、撃沈した米軍艦船は合計47隻。しかし大半が小型駆逐艦や輸送船などで、標的とした正規空母、戦艦の撃沈はゼロだ。

 戦後こうした特攻は「志願」によるものか「命令」されたものか、議論を呼んできた。 命じた側は共通して志願だという。しかし近年、生還した特攻兵による証言が相次ぎ出てくるようになり、断ることのできない「志願」だったことが明らかになってきた。『不死身の特攻兵』に出てくる佐々木友次さんは一例だ。

 奇妙なことに命じた側の上官の多くは、出撃の際に異口同音「私もあとに続く」と演説した。けれども言行一致させたのはごくわずか。「最後の一機には、この冨永が乗って体当たりをする決心である」と佐々木さんらをあおった陸軍第四航空軍の冨永恭次司令官は敗色濃厚と見るや、特攻機にもつけなかった護衛機に守られて前線離脱している。その行動にはあぜんとさせられる。

 こうした「命じた側」の多くは悪びれもせず「特攻は志願だった」「現場で自然発生的に生まれた」と語ることで、自身の「責任回避」を図ってきた。

&copy; Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 レイテ湾への出撃を前にした万朶(ばんだ)隊=1944年11月5日 (c)朝日新聞社

 戦死を報告し「軍神」となったはずの操縦士たちが帰還。扱いに困った軍は、生還した特攻隊員だけを集めて寮に幽閉し、「なんで貴様、帰ってきたんだ。そんなに命が惜しいのか」と追い込んでいった。戦後長く隠蔽(いんぺい)されてきた事実を追跡した『特攻隊振武寮』の解説で、取材を行ったNHKディレクターの渡辺考さんは、「命じた側」の沖縄特攻作戦の司令官で陸軍第六航空軍の菅原道大(みちおお)中将と倉澤清忠参謀の戦後の様子を紹介している。

 菅原元中将もまた「最後の1機で必ず、俺も突入する」と訓示した上官のひとりにして、戦後、特攻は命令ではなく自発的行為だったと言明し続けてきた。 その菅原元中将は90歳を過ぎ、認知症の進行した晩年、「刀を持ってこい、腹を切る」「拳銃はどこに隠した」と家人らに命令口調になることが幾度もあった。そして83年12月、亡くなるひと月前、息子に「二十歳前後の若者がなんで喜んで死んでいくものか」とつぶやいたという。 倉澤元参謀は戦後、印刷会社を興し、菅原元中将同様、特攻隊の慰霊祭などにはこまめに出席するいっぽうで、家族には特攻の話をしなかった。そして常にピストルや軍刀を側に置いていたという。

 慰霊祭に出席している倉澤元参謀を見つけた、「貴様らは人間のクズだ」「ひきょう者!」と罵倒を浴びた「振武寮」の元特攻兵たちが「私たちを覚えていますよね」と呼び止め謝罪を求めるや、彼は慌てて首を振り、「覚えがない。どちらさんでしょうか。私はあなたたちを存じあげない」と顔を真っ青にして否定したという。亡くなったのは2003年である。

 なお、「特攻」に関してはすでに真珠湾攻撃の際にその萌芽はあった。あまり知られてはいないが、生還の望めない2人乗りの特殊潜航艇が使われていた。 鴻上さんは著書の中で、特攻は「命令した側」と「命令を受けた側」、さらに「命令を見ていた側」の三つの立場があるとし、それを理解したうえで、命じた側の保身のために「嘘」が構築されてきたことを明らかにしている。そのことの意味は大きい。(朝山実)※週刊朝日  2018年8月17-24日合併号

285NAME:2018/08/09(木) 20:05:28
「後に続く」はうそ、特攻隊の真実

286NAME:2018/08/09(木) 21:44:28
繰り返す人種差別の歴史=米、トランプ政権下で分断加速-強制収容の日系人が警鐘
時事通信社
2018/08/09 14:44
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e7%b9%b0%e3%82%8a%e8%bf%94%e3%81%99%e4%ba%ba%e7%a8%ae%e5%b7%ae%e5%88%a5%e3%81%ae%e6%ad%b4%e5%8f%b2%ef%bc%9d%e7%b1%b3%e3%80%81%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%97%e6%94%bf%e6%a8%a9%e4%b8%8b%e3%81%a7%e5%88%86%e6%96%ad%e5%8a%a0%e9%80%9f%ef%bc%8d%e5%bc%b7%e5%88%b6%e5%8f%8e%e5%ae%b9%e3%81%ae%e6%97%a5%e7%b3%bb%e4%ba%ba%e3%81%8c%e8%ad%a6%e9%90%98/ar-BBLGFEb#page=2

【ワシントン時事】米政府が第2次大戦中の日系人強制収容の過ちを認め、公式に謝罪した「市民の自由法」成立から10日で30年。日本人の血を引くという理由だけで「敵性外国人」のレッテルを貼られ、仕事や財産を奪われた日系人。その差別の歴史は、トランプ政権下で繰り返されつつある。「二度とないように」。元収容者の切実な願いは、人種・民族の分断が加速する米社会にむなしく響く。

 ◇有刺鉄線からの解放

 対向車のほとんどない一本道の両脇には、見渡す限りトウモロコシが青々とした葉を茂らせていた。米東部ニュージャージー州にある人口約4万6000人の町シーブルック。「今も多くの日系人が暮らしているんですよ」。日系3世のスタンリー・カネシキさん(82)は笑顔を見せる。

 大戦末期、徴兵で働き手を失ったシーブルックの野菜加工工場は、日系人の元収容者を積極的に採用した。日系人約2300人が新たな生活を求めて移住。欧州や中南米からも多くの移民が集まった。 1日12時間労働で、時給は35〜50セント。「風呂やトイレは共用で、居住環境は収容所と大差なかった」とカネシキさん。それでも「有刺鉄線の囲いから解放された自由は何物にも代え難かった」と振り返る。

 ◇強まる移民規制

 レーガン元大統領は1988年、市民の自由法に署名し、日系人の強制収容を「重大な過ち」と認めて謝罪。生存している元収容者に各2万ドルの補償金を支払った。 それから30年、米社会における強制収容の記憶は薄れつつある。トランプ大統領は一部イスラム圏の国民の入国を禁止。アフリカや中米諸国を「便所のような国」と侮蔑し、さらなる移民規制を模索する。こうした風潮は社会にも拡散し、ヘイトクライム(憎悪犯罪)は増加の一途をたどる。 日系3世のアイリーン・カネシキさん(78)は「日本に対する恐怖から日系人を一律に敵対視し、権利を剥奪した戦争中と同じだ」と指摘。「米国は移民で成り立つ国。シーブルックはその良い例だ」と語る。

 ◇政権の無関心

 トランプ政権は2019会計年度予算教書で、日系人収容所跡地と米先住民墓地の保存事業に交付される補助金を廃止した。さらに、国定史跡の見直し・縮小も進める。 2015年に国定史跡に指定されたハワイ・オアフ島のホノウリウリ強制収容所も、将来の見直し対象になる可能性は否定できない。日系4世のハナブサ下院議員(民主党)は補助金廃止を「政権の宗教・人種差別に対する無関心さの表れだ」と批判する。

 首都ワシントンの連邦議会議事堂近くの公園には、2羽の鶴が自由を求め、体に巻き付いた有刺鉄線から脱しようともがく様子を表現した高さ約4メートルの銅像がある。日系人収容の歴史を伝える記念碑だ。 日系の故ダニエル・イノウエ元上院議員の言葉も刻まれている。「いかなる人々に対しても二度と起きてはならぬことの教訓として引き継いでいかなければならない」。 &copy; 時事通信社 米日系人強制収容所について語るスタンリー・カネシキさん(右)とアイリーン・カネシキさん=2日、東部ニュージャージー州シーブルック

287NAME:2018/08/10(金) 20:47:24
原爆投下でチャーチル英首相が7月1日に最終同意署名 1945年の秘密文書
2018.8.9 22:49更新
http://www.sankei.com/world/news/180809/wor1808090046-n1.html

【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中の1945年7月、英国のチャーチル首相(当時)が米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1カ月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定に、チャーチルが深く関わっていたことを裏付ける資料として注目されそうだ。 同館所蔵ファイル(CAB126/146)によると、原爆開発の「マンハッタン計画」責任者、グローブス米陸軍少将が45年6月初め、英国側代表のウィルソン陸軍元帥を通じて英政府に日本に対する原爆使用を許可するよう求めた。

チャーチル英首相が新兵器で復権もくろむ ソ連の伸張に対抗

 打診は、米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定めた43年8月の「ケベック協定」に基づく。 英政府内で検討を重ねた結果、チャーチルは容認を決断し、45年7月1日、「オペレーショナル ユース オブ チューブ・アロイズ」(米国が日本に原爆を使用する作戦)に署名した。英首相官邸はこの最終判断を同2日付で公式覚書とした。

同4日、米ワシントンで開かれた原爆開発の相互協力を協議する「合同政策委員会」の席上、ウィルソンが英政府として公式に「日本への原爆使用に同意する」と表明したことが分かっている。同ファイルによると、ウィルソンは米側に、チャーチルがトルーマン米大統領と近く直接協議を望んでいるとも伝えた。

 また別のファイル(PREM3/139/9)によると、7月24日のポツダム会談でチャーチルは、44年9月にトルーマンの前任のフランクリン・ルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。

 トルーマンは翌25日、原爆投下指令を承認、投下命令が出された。その結果8月6日、人類史上初のウラン原爆が広島に、9日にはプルトニウム原爆が長崎にそれぞれ投下された。 チャーチルが最終容認した背景には、英国が米国に先行し原爆開発に積極的に関与してきたことがある。

 30年代から亡命ユダヤ人科学者によって核分裂や核融合反応で放出されるエネルギーを利用した新兵器研究が進められ、40年にウラン235単独で爆弾が製造可能という理論をまとめた。41年10月、英独自の原爆開発計画「チューブ・アロイズ」が始動。米国に開発推進を訴え、42年8月、「マンハッタン計画」が始まった経緯がある。

さらにファイル(PREM3/139/9)によると、チャーチルが44年9月、米国内のルーズベルトの別荘を訪れた際に結んだハイドパーク協定で、2人は「原爆が完成すれば、熟慮後、おそらく日本に使用される」などと合意した。原爆完成後はドイツではなく日本へ投下することが米英で密約され、翌10月、米国は原爆投下の最終準備に入った。

 ■ケベック協定 1943年8月、ルーズベルト、チャーチルの米英首脳はカナダ・ケベック州で原爆の共同開発を密約。(1)兵器(原爆)を互いに対し攻撃するため使用しない(2)第三国に使用する場合、互いの同意が必要(3)両国の同意がない限り、英原爆開発計画「チューブ・アロイズ」に関する情報を流さない-などと結んだ。(2)は英側の事実上の拒否権となった。

288NAME:2018/08/12(日) 07:01:54
真珠湾の日・謎の演習命令
http://www.prideandhistory.jp/book-archive/book1/section1/chapter3/clause3/000244.html
日本海軍が秘策に秘策を練った真珠湾奇襲につき、ワシントン大学で私の担当教授アレックス・エデルスタイン博士から興味深い話を聞いた。彼は、真珠湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の航空母艦(3隻)の水兵であった。
1941(昭和16)年12月5日、金曜日の朝の話。「俺たち、大声で上官に文句を言ったんだ。」『日曜日は外出禁止だ』と命令されたからだ。その上、『明日、土曜日の朝から演習がある』とのありがたいご命令をもいただいた。俺には美しい彼女がいたんだ。週末しか逢えないのに! それも、空母3隻だけに演習命令だ。「土曜日、パール・ハーバーからずっと離れた海原へ一晩かけてお出掛けしましたネ。パール・ハーバーに帰ってきて、俺たち水兵は、助かったと思ったと同時に、なぜ空母だけを助けたんだと不思議に思ったよ」ルーズベルト大統領は、日本が真珠湾へ向かっていることを知っていて、製造するのに時間と銭がかかり、戦略上重大な機動力を持つ空母だけは隠しておいたのだ。

289NAME:2018/08/16(木) 13:11:12
真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」
「太平洋戦争は、軍部の暴走といった単純な話の帰結ではない」
https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-yoko-kato_n_13349530.html
2016年12月07日 00時55分 JST | 更新 2017年11月18日 23時16分 JST

太平洋戦争の開戦から12月8日で75年を迎える。改めて、なぜ日本は戦争へと至ったのだろうか。

日本近現代史が専門の加藤陽子・東京大学教授は近著『戦争まで』で、1941年の太平洋戦争の前に、世界が日本に「どちらを選ぶのか」と真剣に問いかけてきた交渉事は3度あったと指摘する。「満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)」「日独伊三国同盟(1940年)」そして「日米交渉(1941年)」だ。

日本は、真に問われていた選択肢が何であったのかをつかめず、本来はあり得た可能性や回避可能な選択肢をみすみす逃した。ただ、「世界」の側が常に正しかったとも言えない。「世界」から選択を問われた日本がどんな対応をとったのか、それを正確に描くことは「未来を予測するのに役立つ」と加藤氏は語る。「太平洋戦争は軍部の暴走といった単純な話の帰結ではない」と言う加藤氏に、その意味するところを聞いた。

■1つ目の岐路:満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)

――1931年9月、柳条湖事件をきっかけに、日本は中国東北部を占領し、翌年に建国された満州国を承認しました。

この時期、陸軍は農村部で講演会を開き、農村不況にあえいでいた農民を動員していました。満州事変後の1カ月で165万人を集めたといいます。「満州に行けば旦那になれる」「子どもを高校にやれる」といった軍の説明に、「戦争になれば景気がよくなる」と喜ぶ農民の声などが記録されていました。 本来は、重い軍事費が生活関連予算を圧迫していたのですが、一部の農民の目には「自らの要求を聞いてくれるのは軍部なのだ」といった誤った幻想が広がっていったのです。

では、社会の上層部の人々はどうだったかといえば、彼らとて軍にはノーと言えませんでした。一つにテロの脅威があった。32年に三井財閥の総帥、団琢磨(だん・たくま)が白昼、三井本館前で射殺された「血盟団事件」をご存じでしょうか。団は、満州事変調査のため来日したリットン卿と会った翌日暗殺されています。 このようにまずテロによる萎縮が指摘できますが、他に見ておくべき要因として、社会の上層部の人々と一般国民との間に「共通の言葉」がなかったことも大きかった。

――「共通の言葉」とは?

「共通の認識」と言い換えてもいいでしょう。例えば満州事変が起きた時、軍部は「これで中国がこれまで守ってこなかった日本の条約上の権利が確保できる。これは良いことなのだ」と主張します。しかし、これに対し「いや待てよ」と考えた人もいたはずです。 南満州鉄道(満鉄)の上げる利益は5000万円でしたが、中国全体の貿易で日本は10億円の利益を上げている。「満州問題で中国と喧嘩するのは経済合理性に合わない」などと経済人は考えたでしょう。ただ、こういう判断ができる人がいても、それを説得的に一般の国民に説明する手立てがなかった。

石橋湛山や清沢洌(きよさわ・きよし)などリベラルな言論人が、日本にとっての経済合理性から「小日本主義」「満蒙放棄論」などを主張していたことはよく知られています。しかし、彼らが記事を書いていた経済雑誌「東洋経済新報」などは、普通の国民が読むような雑誌ではありませんでした。この雑誌の広告欄には、三菱銀行や三井銀行など金融資本の総本山といった会社が並ぶ、そのような高級誌でした。 2つの階層が文化的思想的に交わっていなかったといえる。これは日本の教育の問題でした。社会の階層間をつなぐ、文化的な中間的な装置を欠く社会は、強固な決意を持ち、既成政党や財閥打破を掲げて国民を動員しようとした軍部のような存在の前に極めて脆弱でした。

290NAME:2018/08/16(木) 13:11:44
――農民は新聞などをあまり読まなかったのでしょうか。

いえ、日本の新聞購読者数は同時代の他国と比べて非常に多かったと思います。ラジオ契約数も31年に100万だったものが、41年には600万となり、普及率も46%ほどになる。2軒に1軒ラジオがあった計算です。 1920年代生まれの方から聞いた話をご紹介しましょう。その方は農村部に住んでいて、太平洋戦争の開戦直後のラジオ放送を近所の人たちと聞いていたのだそうです。ただ、その時ふと、不思議に思ったと。

真珠湾攻撃では2人1組が搭乗した特殊潜航艇「甲標的」5基が参加し、9人が戦死したのですが、この時、大本営は戦死者9人を「九軍神」と称えました。ただ、私に話を聞かせてくれた方は、「2人1組が5基で参加して、軍神9人...あれっ?1人はどこに」と不思議に思ったそうです。1人は捕虜になっていたのですが、これは当時は伏せられている。 放送や紙面が軍国一色になった時代には、この方のように、かなり注意深く見聞きしないと、真理にたどりつくのは容易ではないということでしょう。検閲は当然ありましたが、新聞やラジオが率先して政府の議論を先取りすることなど多々ありました。

――満州事変の解決提案「リットン報告書」は、日本を追い込む内容だったのでしょうか。

まず、リットンに率いられた調査団は、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリアといった5大国委員から構成されていたことが大事です。すべて植民地を持った経験のある帝国でした。彼らは日中の全面衝突を回避し、東アジアの貿易が拡大し、自らの国の権益も安全に保たれればよい...その線での解決案を目指したはずです。 報告書は「張学良政権への復帰は認められない」と書く一方で、「現在の満州国そのままの存在も認めない」と書き、一見すると日本側に厳しいように見えます。しかし、将来この地域につくられるべき仕組みは「過激なる変更なくして現制度より進展」させうるとも書いていた。つまり「満州国の制度からスムーズに移行しうる制度だよ」と。 さらに、日本にとって好条件もあった。具体的には「新政権を現地に作るための諮問委員会メンバーの過半数を日本側とし、また外国人顧問のうち充分な割合を日本側が占めてよい」ともいうのです。

――満州国が日本の傀儡だと分かった上で、リットン報告書はかなり妥協していますね。

ただ、このあと日本は自らの首を締める愚を犯しました。1932年の1月、第一次上海事変が起こされます。満州事変から国際社会の目をそらすためとして、上海共同租界内で日本人僧侶が中国人に襲撃されたといった事件を日本側が作為し、これをきっかけに中国側との軍事衝突が起きます。

――中国との紛争を抱えている状態で、さらに日本は紛争を増やしたわけですよね。なぜそんなことを...。

満州事変に注がれている世界の目を逸らすためと言われていますが、この通説は余り説得的ではありません。 満州事変が起きた時、中国は、国際連盟規約第11条によって連盟に提訴しました。この11条での提訴の場合、紛争処理は理事会が担当します。まさに、1931年12月に理事会が派遣を決定したリットン報告書のラインで処理される訳です。 しかし、この後に上海事変が起こされると、中国は日本を規約第15条で提訴し直します。これは、国交断絶に至る恐れのある大きな紛争が起こった場合の規約です。11条と違って15条による提訴の場合、日本は最悪の場合、連盟の全加盟国から敵国と名指しされ、経済制裁を下される可能性も覚悟しなければならない条項でした。 担当する部署も、理事会ではなく、総会となります。出先の陸軍などはこのような連盟規約の構造を充分に知っていたのでしょうか。そうは思えません。

理事会と異なり、総会には加盟国全てが含まれます。15条での提訴では、紛争の解決案を書くメンバーも、リットンらの5大国委員ではなくなるわけです。上海事件後の日中紛争は、「19人委員会」が担当することになりました。ここには、グァテマラやパナマといった国も含まれる。確かに、日本側が憤っていたように、日中間の歴史的経緯について知らないと思われる中南米諸国なども関与することとなったのです。日本側は怒りますが、そもそも窮地に陥る根本的な要因を作ったのは日本側でした。

291NAME:2018/08/16(木) 13:11:55
――結局、日中間の紛争に関与する国が多くなってしまった。

当時の連盟を支えていたのはイギリスでしたが、第一次世界大戦で敗北したドイツの復活を恐れるヨーロッパ諸国の安全保障上の懸念は、イギリスの対日態度にも影響を与えました。当初は日本に宥和的な態度をとっていたイギリスも変化していったのです。この「19人委員会」が書いた日中紛争解決案は、リットン報告書よりも日本に対して厳しい内容でした。

――日本側はどう対応したのでしょうか?

意外かも知れませんが、全権の松岡洋右は粘りに粘って交渉しました。ただ、主たる交渉の向かう先が本国の外務大臣、内田康哉であったことは悲劇でした。イギリスの仲介や中国政府内の対日妥協派の態度に望みをかけていた内田外相は、連盟の「19人委員会」がまとめた解決案に妥協すべきだとの、松岡全権のもっともな要請を拒絶し続けたのです。 33年1月、松岡は「物は八分目にてこらゆるがよし」とし、「脱退のやむなきにいたるがごときことは、遺憾ながらあえてこれをとらず」と述べ、妥協を内田に薦めます。しかし、内田は、日本側が強硬に主張し続ければ、イギリスと中国は最後に日本に屈服するとして、最後まで妥協を許しませんでした。

――なぜ内田外相は、二国間協議でいけると楽観的だったのでしょうか。

中国の国民政府内に、汪兆銘など対日妥協派がいたのは事実です。この勢力に内田は賭けたといえる。ただ、外相としての内田が時代遅れとなっていたのも事実です。 内田の外相デビューは第二次西園寺公望内閣の時、明治から大正の変わり目の頃でした。2回目の外相は原敬内閣時代、大正半ばのこと。1930年代の中国の動静にどれだけ内田が通じていたか疑問です。軍事と政治の双方の権力を握っていたのは蔣介石でした。

――いわば、蔣介石の独裁ですよね。汪兆銘に実質的な権力はなかった。

そうです。そして、満州における政治と軍事の実権は、張作霖の子息である張学良がなおも握っていたはずです。蔣介石にとっては、満州(東三省)に対し、実質的に関与できるのは外交権しかない。ですから蔣介石からすれば、連盟の「公理」に訴えること、つまり中国の外交権を代表する者として満州問題を扱うしかなかった。連盟に対する蔣介石のスタンスを内田は理解していなかったと思います。

当時の日本政府もジャーナリズムも、32年10月に公表されたリットン報告書に対し、中国側に肩入れしたものという評価を下し、その内容を精査せず徹底的に批判しました。私が惜しいと思うのはそこで、リットン報告書が展開していた日本側への妥協的な選択肢を見ていなかった。 日本側は、「リットン報告書が満州国の存在を認めている」との根拠のない楽観的な下馬評を信じていたため、実際に報告書が出た時には狼狽し、文書の正確な含意を読み取ることができませんでした。

292NAME:2018/08/16(木) 13:12:27
■2つ目の岐路:日独伊三国同盟(1940年)

――2つ目が、第二次世界大戦が勃発した翌年に日本・ドイツ・イタリアが結んだ日独伊三国同盟ですね。

この同盟は39年9月から始まった第二次世界大戦と、37年7月から始まっていた日中戦争にアメリカが介入しないよう、日独伊3カ国がアメリカを牽制するために40年9月に結んだ条約です。 日本がこの時期、ドイツ・イタリアと同盟を結んだインパクトは非常に大きなものでした。日本を結節点として、ヨーロッパとアジア太平洋が結ばれることになったからです。アメリカが大西洋と太平洋とで牽制されることを意味しました。

交渉が一気に加速したのは、ドイツが日本に急接近したためです。当時のヨーロッパでは、40年6月にフランスがドイツに降伏したことで、ドイツと交戦している国はイギリスだけとなりました。そのイギリスが7月、ヒトラーからの和平を拒絶したため、ドイツは日本との同盟締結で最後の圧力をイギリスに加えようと図り、特使スターマーの派遣に至ります。

――三国同盟については、日本ではよく「快進撃を続けるドイツと結ぶことで『バスに乗り遅れるな』」と、勝ち馬に乗ろうしたという文脈で語られる思います。

たしかにそれは間違いとは言えませんが、当時の政策決定者の視点が抜けています。 日本がドイツとの同盟を選んだ理由は、大西洋と太平洋でアメリカを牽制するためにあったのではありません。むしろ、ドイツが電撃戦で降伏させたオランダやフランスが東南アジアに持っていた植民地の処分問題が日本側の念頭にあった。オランダ領東インドの石油、フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)の米などは、総力戦を支える資源として重要でした。 三国同盟調印の2カ月間前(1940年7月)、外務省と陸海軍の担当者が参集し、何を話し合っていたかといえば「ドイツの勝利で第二次世界大戦が終了してしまった場合どうなるか」ということです。

会議には、大臣・次官ではなく課長級、軍で言えば佐官級の40歳前後の人が参集していましたが、彼らの頭には、日本がいまだ参戦もしていないうちに、ドイツの勝利で第二次世界大戦が終わってしまったら、ドイツが敗北させた宗主国(オランダやフランス)が持っていた植民地、つまり、東南アジアや太平洋の植民地が、ドイツに獲られてしまうという危機感だけがありました。 第一次世界大戦後に、連合国の一員であった日本が、英仏と共に何をやったかといえば、敗戦国ドイツが持っていた植民地を山分けした訳です。むろん、名前は、植民地ではなく委任統治領という名称にしていましたが。

293NAME:2018/08/16(木) 13:12:48
――ということは、日本が三国同盟で牽制したかったのはアメリカではなく...。

日本が警戒していたのは、ドイツでした。ドイツの東南アジア進出を牽制したいがための同盟締結だと言えます。陸海軍の軍人たちがいかにドイツ側を警戒していたか、その発言も残っています。

――――この頃から日本は「大東亜」という言葉を使い始め、三国同盟にも「大東亜における新秩序建設」という言葉があります。この「大東亜」って何を意味するのでしょうか。

「大東亜新秩序建設」という言葉が、なぜ使われ始めたか。東北学院大学教授の河西晃祐さんは「植民地宗主国を抑えたドイツによる、東南アジア植民地の再編成の可能性を、参戦もしていない日本が封じるための声明として」という見解を唱えています。来たるべき講和会議に、ドイツ・イタリアの同盟国として日本が乗り込む時、このような声明が有効だというのでしょう。鋭い見方ですね。

――となると、「大東亜」という言葉は三国同盟を結ぶにあたって、日本の勢力圏をドイツにアピールするために作られたような言葉っていう解釈でしょうか。

そうなります。軍事同盟に必須な三要件といえば、第一に勢力圏、第二に援助義務、第三に仮想敵国です。ドイツの勢力を東南アジアから排除するには、勢力圏を設定しうる同盟を締結するのが一番便利、といった発想でしょうか。そのための「大東亜」という用語でした。

――大急ぎも大急ぎで、三国同盟はたった交渉開始から20日間でつくられるんですよね。

この時期の出来事の時系列を整理しておきましょう。1940年9月7日、ドイツはイギリス本土への空爆を開始します。いわゆるバトル・オブ・ブリテンです。 先ほども述べましたが、同じころドイツは日本を同盟に誘いイギリスに最後の圧力をかけるため、スターマーを日本へ送ります。スターマーは、すぐに日本側と同盟交渉を始めました。

そして9月19日に御前会議、26日に枢密院(天皇の諮詢に応えて重要国務を審議する機関)での条約承認、翌27日にはベルリンで三国同盟の締結と動きます。驚くべきは、来日から条約締結までわずか20日間だったことですね。枢密院での審査はたった1日です。

――ドイツのアジア回帰を牽制するため、急いで三国同盟を結びましたが、結局ドイツはバトル・オブ・ブリテンでイギリスに勝てなかった。

日本は、大戦がドイツの勝利で終わることを危惧し、そこから発して「大東亜」という概念を作り上げ、勢力圏設定のための同盟を構想し、イギリスを屈服させるためのバトル・オブ・ブリテンに間に合うよう同盟を締結した。 日本が南方の石油資源と基地を手に入れたいというのはわかります。しかし、これは「小」なる価値ではなかったでしょうか。手に入れたい価値と、そのための対価(アメリカを仮想敵国とすること)が、余りにも引き合わないことになぜ気づかなかったのでしょうか。 ドイツの勝利がすぐに確実に起こると思われていた。起こりうべきことが起こらない、起こるベからざることが起こるというのは、昨今では想像しやすいかもしれません。2016年6月のイギリスのEU離脱、同年11月のトランプ米大統領誕生などはその最たるものです。

294NAME:2018/08/16(木) 13:13:22
■3つ目の岐路:日米交渉(1941年4月〜11月)

――そして3つ目ですが、戦争回避のラストチャンスとして日米交渉があった。

日独伊三国同盟の締結からおよそ半年経った1941年4月、アメリカのハル国務長官と駐米日本大使の野村吉三郎との間で、日米交渉が始まりました。最終的には7カ月後の11月26日、アメリカから「ハル・ノート」(日本側提案に対するアメリカ側回答)が手渡され、その内容が予想以上の厳しさだったことから、日本側は開戦を決意し、対英米開戦(1941年12月)に踏み切ります。

当時、ハルとルーズベルト大統領は、戦争回避のための対日交渉を2人の専権事項として進めていました。当時のアメリカは対ドイツ戦を単独で戦うイギリスを支援するため、また大西洋方面での防衛強化のため、太平洋での日本との対立を当面回避する必要がありました。また日本にとっては、泥沼化した日中戦争終結のため、蔣介石との和平をアメリカに仲介させようという目論見があったのです。 

また、日米両国には、交渉しなければならない懸案がありました。それはアメリカが1941年3月に制定した武器貸与法から生じてきた問題です。 この法律によってアメリカは、イギリスに対するあらゆる武器援助が可能となりました。ただ、このようなアメリカの行動が、三国同盟を発動させてしまわないかという問題が浮上してきたのです。

三国同盟はその第3条に、日本・ドイツ・イタリアのいずれか一国がアメリカ(名指しはしていない)から「攻撃」された時、武力行使を含めた援助義務を三国に生じさせます。「攻撃」にいかなる行動が入るのかがわからなければ、日本もアメリカも安心して艦艇を航行させられません。日米双方とも、不用意な暴発を防ぐために、三国同盟第3条の中味を検討するための交渉が必要でした。

――日米とも衝突は避けたかったけど、実際には戦争へと至りました。なぜでしょうか。

いくつかの答えがあります。一つには、最も有望視された近衛文麿首相とルーズベルト大統領の洋上会談計画が、日本国内の国家主義勢力に漏れ、極めて効果的な批判がなされ、つぶされたからです。彼らは近衛首相のことを、「ユダヤ的金権幕府を構成して皇国を私(わたくし)」する勢力の傀儡だと批判しました。 日米交渉をつぶしたかった国家主義者たちは、幕末維新期における幕府が天皇の条約勅許を待たずに開国した非を思い出させるような口調で非難します。近衛の対米交渉は屈服にほかならず、そのような政府は「討幕」すべきだと批判したのです。 また、1930年代を通じて反米・反英的な言葉を弄することを政府から教えられてきた新聞や雑誌などは、急に当局が「反米的なことは書くな」と通達しても、すぐには動けなかった。政府の意に反して、ハルやルーズベルトに対する批判が日本側の新聞紙上に執拗に載り続けました。

――それでも「ハルとルーズベルトに日本は追い詰められた」という話が未だに残っているように思います。

現在では日米双方の記録が明らかになっていますので、ハルやルーズベルトが1941年8月あたりまで近衛首相との洋上会談を含めて乗り気であったことは確かなのです。しかし41年7月、日本軍が南部仏印(フランス領インドシナの中南部)に進駐すると、その日本側の行動自体が交渉に大きな影響を与えました。

日本側は自らが用いる「進駐」という言葉に自ら惑わされました。フランスのヴィシー政権側や仏印総督側から交渉の結果、許可された「進駐」なのだと自認してしまったのでしょう。でもこれは、この地域の飛行場や港湾を制圧することを目的とした作戦行動でした。日本側は「進駐」であって戦争行為だとはつゆほども思ってない。しかしアメリカ側から見れば、万単位の部隊が飛行場と港を制圧すれば、それは「侵略」に他ならない訳です。

295NAME:2018/08/16(木) 13:13:41
――日米交渉中にもかかわらず、なぜ日本は南部仏印に進駐したのでしょうか。アメリカを刺激すると気付きそうですが...。

これには南部仏印に進駐する1年前、1940年9月に日本が行なった北部仏印(フランス領インドシナ北部)への進駐時の、アメリカの対応がカギとなります。フランスのドイツ降伏を受け、日本は北部仏印へ進駐します。日本はフランス側と交渉をした上で進駐しました。 この時、アメリカはどう対応したかといえば、日本へ圧力はかけたものの、ある意味、計算された圧力のかけ方を選んだ。日本側はアメリカから戦略物資である石油や屑鉄(鋼材の原料)を輸入していましたが、その輸入を許可制にしたのです。

許可制や禁輸といえば一見強硬ですが、この時アメリカは日本の飛行機が用いない「オクタン価87以上の航空機用ガソリン」と「潤滑油」のみを禁輸としました。ハルがいた国務省などは、「厳しい経済制裁や禁輸を日本に課せば、それは日本に南進や開戦の口実を与えるだけだ」と考えていたのです。 日本側は、1年前の北部仏印の時のアメリカ側の対応から類推し、南部仏印への対応を甘く予測しました。しかし、41年7月の日本の南部仏印進駐に対しては、対日輸出の全面禁輸という方策に出たのです。

――なぜこの時は全面禁輸になったのでしょうか?これまでのハルやルーズベルトの姿勢とは異なります。

実はここが面白いところで...。40年7月に日本が北部仏印に進駐したとき、ルーズベルトやハルに対して、財務省のモーゲンソーなど対日強硬派からは、「敵国日本に、なぜアメリカにとっても必須の航空用ガソリンなど輸出し続けるのか」といった批判が出ました。そのため、オクタン価での制限などの措置が取られた訳です。 ところが41年7月、日本の南部仏印進駐時には、アメリカ国内状況に変化が起きていた。41年夏、ルーズベルトとハルはワシントンを離れていました。

この2人の不在時に暗躍したのが、先のモーゲンソーです。彼は対日強硬派が影響力を持ちうる、外国資産管理委員会という機関に、禁輸に関する職務を専管させるようにしてしまいます。 ハルの国務省とルーズベルト大統領は、この委員会が対日資産の全面凍結と全面禁輸を実施していたことを、日本の野村大使からクレームがつけられるまで、なんと知らなかったのです。アメリカ側にも官僚制の対立があり、対日態度の差異による権力闘争があったということです。

――こうして3つの失敗を見ると、日本側の見通しの甘さというか、目算の甘さというのが如実に目立つ気がします。

見通しが甘いということではアメリカ側も同様で、日本側に強硬に出た理由は「資源に乏しく劣勢の海軍力しか持たない日本が、英米に対する戦争を始めるはずがない」と考えていました。アメリカ側の抑止の失敗が、日本の開戦決意でもあった訳です。日本側の失敗を反省するのは大事なのですが、ここで正しい反省の仕方をしないと、また同じ失敗を繰り返すだけです。

私がこの3つの岐路に関して詳しく分析した理由は、「国や個人が選択を求められる場合に重要なのは、問題の本質が正しいかたちで選択肢に反映されているのか」という点をチェックすることだと思うからです。 当時の軍部やジャーナリズムが誘導した見せかけの選択肢ではなく、世界が日本に示した本当の選択肢の形と内容を明らかにしつつ、日本側が対置した選択肢の形と内容について正確に再現することです。実のところ、太平洋戦争への道を回避する選択肢はたくさんありました。

――かつて加藤さんは「8月15日というのは、日本人が戦後歩んできた平和を噛み締める日だ」と定義していました。では、開戦の日となった12月8日は、国民にとってどんな意義がある日でしょうか。

太平洋戦争の奇襲攻撃という側面については、国民はやはり関与できてなかった。国民の多くは対英米強硬論に与しつつ、同時に「戦争はぎりぎりのところで回避されるのでは」との希望的観測をも抱いていたのではないでしょうか。そのような意味で12月8日は、「国民が国家の行く末に十全に関われなかった」ことを噛み締める日だと思います。 「軍部の失敗」という総括は、現在、戦前期の軍部と同様の組織がない以上、実のところ痛くもかゆくもない総括です。そうではなく、社会に溢れている見せかけの選択肢を「本当の選択肢は何だったか」と置き換えて考える癖、言い換えれば「歴史に立ち会う際の作法」というもの、これが3つの失敗の事例から学べるものだと思います。

296NAME:2018/08/16(木) 13:14:29
「戦後70年の価値観が揺らいでいる」歴史家の加藤陽子氏、太平洋戦争からTPPとトランプ現象を紐解く
https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-precept-yoko-kato_n_13353792.html
2016年12月08日 00時28分 JST | 更新 2016年12月22日 22時03分 JST

2016年は太平洋戦争開戦から75年、日本国憲法公布から70年と、戦後日本にとって節目の年だ。1年を振り返れば、7月には参院選の結果、憲法改正が現実味を増し、8月には天皇陛下が譲位の希望を示されるなど、戦後の枠組みが大きく変化する予兆を感じさせる年となった。

戦後生まれが総人口の8割を超え、私たちがこれまで経験したことのない大きな時代のうねりを前に、歴史からなにが学べるのだろうか。近著『戦争まで』で日本が太平洋戦争へと至る過程を論じた歴史家の加藤陽子・東京大学教授は、「戦前と比べ、安価な中等教育の機会を等しく付与した戦後社会は立派なもの」と評価する一方、TPP協定を例に、「国際舞台において、日本は賢明な狡猾さも身につけてよいのでは」と語る。その真意とは…。

■「TPP」と「満州事変」を比較してみると…

――太平洋戦争の開戦から75年、あの時代と比べて日本は変わりましたか。

もちろん大きく変わったと思います。というのも、人口の過半を占める女性への公的な高等教育の道が開かれるようになり、普通選挙権をはじめとする女性の政治的権利も拡大された。政治に関われる国民の数が倍になったのは画期的なこと。また、少数のエリートを育成していればよかった高等教育制度も変わりました。 終戦工作に従事し、のちに東大総長となった南原繁は、1947年2月の時点で「従来の制度によれば、国民大衆のこの方面における教育の門はきわめて狭く、大衆を支配するための少数者の養成に当てられた感がある。軍国主義や官僚主義が容易にそれによって注入された」のだ、と反省の弁を述べていました。

297NAME:2018/08/16(木) 13:14:48
――過去の選択の失敗から、今の私たちは何を学べば良いでしょうか。

過去の例から学べるのは、こういうことです。私たちは日々、判断するのが極めて難しい問題に対し、答えを出せと日々迫られています。そのような悩ましい時、ちょっと立ち止まって、「この問題の本質は、正しいかたちで選択肢に反映され、私の目の前に示されているかどうか、少し冷静に考えてみよう」といった態度が身につくのではないでしょうか。 TPP(環太平洋パートナーシップ)協定を例に説明しましょう。アメリカ大統領選で勝利したトランプ氏は、大統領就任当日に離脱すると言っています。にもかかわらず、日本は大統領選の直後にTPP承認案を衆院本会議で可決しました。

アメリカの方向が判明した後でも、なぜ日本は急ぐのでしょう。2015年の11月、政府が発表した「総合的なTPP関連政策大綱」では、こう謳っていました。「世界のGDPの約4割(3100兆円)という、かつてない規模の経済圏をカバーした経済連携。人口8億人という巨大市場が創出される」と。自由で公正な一つの経済圏が構成されるのだから、その巨大市場に日本が打って出ない手はないと。 この話法は、あたかも日本の進出を待ちうける「空白地帯」が世界に用意されているかのようですね。しかし、医療、保険、農業などの国内産業に対して、この協定がどう影響するのか具体的な絵は見えてきません。

政府が私たちに示す選択肢が、「世界のGDP4割、人口8億の沃野に打ってでるか、それとも国内に引きこもるか」だとしても、その見せかけの選択肢の文句に惑わされることなく、問題の本質を正確に表示した選択肢を自ら頭に描き、ニュースを聞く必要があります。 協定が発効するには、「6カ国以上で、かつGDPの合計が全体の85%以上になる国が批准」(アジア太平洋資料センター事務局長内田聖子氏)する必要がありますから、日米両国が批准しなければTPPは発効しません。 この事実を前提として、なぜ日本政府が国会承認を急ぐのか、それを問うような態度を是非とも歴史から身につけたいと思います。「日米両国の批准がなければ発効しない協定が、アメリカの不参加にもかかわらず、承認を急がされるのは何故なのか」という形に、問いの形を変えていけばよいのです。

TPP協定の正文は、英・仏・スペイン語で、30章からなる膨大なものでした。協定文の日本語訳の誤訳問題も起こりましたが、関係各省庁では、関連分野について、必死で検討がなされてきたはずです。 その省内のプロの官僚たちが、TPPを議論・検討する過程で出てきた問題点を、国会の論戦を通じてでもよいから国民の前に正直に示すべきだ、というのが歴史から学べる教訓の2つ目です。司(つかさ)司(つかさ)で検討尽くされたはずの、本当にテクニカルな協定の問題点を、国民の前に明らかにした上で、国会論議を行っていただきたい。 日本の霞ヶ関の官僚は公正さや能力という点で、世界で最も安価で信頼できる「ブレーントラスト」の塊だと思います。官僚レベルで析出された問題点を、今度は政治家が、法や政治の言葉に書き換えてゆく、そのようなフィードバックがあってよいはずです。

――官僚制の良いところを活かして欲しいと。

霞ヶ関批判は楽ですし、人々から人気がありますね。しかし、日本のような公平な試験任用によって支えられている官僚制度を持つ国も、あまりないのでは。ですので、今回のTPP協定に登場する附属書の留保の内容や「投資家と国家間の紛争処理(ISDS)」の問題点など、省庁を挙げた議論のとりまとめを、国民に前に示していただきたい。 30章からなる協定全文の日本語訳が揃ったのも遅かった。交渉過程が秘密だったのですから、合意に至った後は国内に向けて早急に公開しなければ、国会での議論など間に合いません。1940年9月にたった20日間の協議で締結されてしまった日独伊三国軍事同盟も、枢密院の審査にかけられたのは、協定本文だけで、附属文書などは、審査の対象になっていなかった。拙速は、歴史に照らして何一つよいことはありません。

298NAME:2018/08/16(木) 13:15:06
――日本が国際情勢の中で、リアルタイムでどういう状況に置かれているのか、今も昔も国民には見えにくい。

まさにそこです。TPP交渉と満州事変後の国際連盟での議論を比べたりすれば、お怒りになる方もでそうですが、1932年11月から、国際連盟での満州問題論議を任された日本全権団のことを思い出してみましょう。 日本の外務本省が、全権に与えていた指示は、実は穏やかなものでした。日本の既得権益を守る条約関係を継承する、日本軍を満州国に置けるよう認めさせるよう努めよ、と。ただ、連盟が日本を侵略国呼ばわりした場合、あるいは、日本と満州国が結んだ「日満議定書」の運用を拘束するような決議を行なった場合のみ、極力争えと指示していました。リットン報告書が出たとたん、排撃すべしと声高に叫んだ朝野の雰囲気と外務省の方針は、本当は異なっていた。

しかし、そのような外務本省の方針は、国民の前には隠されていたのです。むろん、外交交渉には秘密がつきものです。しかし、国の意図するところを、秘密にすべきところは守りつつ、方向性を国民に正確に伝えることはできたはずでした。 ですから、先に述べたような問いを立てつつ、状況の変化を待つ。そうせずに、「日本が参加することで、アメリカにも参加を促す」のは無謀です。

――日独伊三国同盟が20日間で作られたという話を考えると、TPPもアメリカが脱退すると宣言している状況で急ぐのはどうか…と思ってしまいます。

歴史は一回性ですので、容易な比較をしてはなりませんが、待つことの重要性を示唆するにはよいかもしれません。バトル・オブ・ブリテンの結果など、やはり待てばよかったと言えましょう。三国同盟締結があと一月遅れていれば…と思います。 詮方ない話ですが、1941年12月8日の真珠湾攻撃についても、この日は、まさにドイツ軍が初めてソ連軍の反撃によってモスクワ近郊から後退した日でした。独ソ戦は既に1941年6月に開始されていたのですから、ソ連軍の反攻を見きわめて対応して欲しかった。

――ちょっと狡猾な気がしますね(笑)

そうですね。ただ、賢明な狡猾さというものも歴史的にはあってよいと思います。 たしかに、気象条件や石油の備蓄量から、アメリカへの奇襲攻撃が可能な下限は決まっていたでしょう。ただ、ではなぜ奇襲攻撃で開戦しなければならないかと詰めて考えれば、それは、軍需物資をまさに敵国アメリカに依存する日本にとって、対英米戦とは短期決戦以外になかったからです。 1923年の帝国国防方針では、直近の第一次世界大戦の教訓は活かされず、持久戦争必至の総力戦時代に日本が生き延びる方策は、緒戦の圧勝による敵の戦意喪失しかないとの硬直した戦略が選択されてしまいました。

ならばもし、緒戦の圧勝が不可能な場合はどうするかという、次の手を柔軟に考えてもよかったのではないか。その中には、できるだけ戦争に参加しないように待つ、という選択肢があってもよいはずですね。日露戦争の実戦に参加し、のちに批評家に転じた水野広徳は、1929年の著作で、「戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代においては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐが如き他力本願の国防は…戦争国家として致命的弱点」を持つのだから、日本は戦争する資格のない国、と喝破していました。

299NAME:2018/08/16(木) 13:15:25
■天皇陛下の譲位への対応は「国会」で

――8月には天皇陛下が自ら、譲位を望むお気持ちをビデオメッセージで出されました。加藤さんはどう感じましたか。

私は1960年生まれなので、終戦の玉音放送は歴史上の世界なのですが、固唾を飲んで見守るという表現が実感として初めてわかりました。 昨年あたりまで、安倍内閣が成立させた安全保障関連法案がらみで、日本国憲法第二章「戦争の放棄」「平和主義」にばかり目が向いていたのですが、このメッセージによって、新たに気づかされたことがありました。圧倒的な武力で日本を打倒したアメリカ占領当局が目指したのは、「象徴天皇制」と「平和主義」、2つの柱だったということです。

憲法第9条の意義については、憲法制定当時から現代に至るまで、それこそ入念に議論がなされ続けてきましたが、象徴天皇制、特に象徴とは何かという問いについては、迂闊なことに戦後の一時期を除いては考えられてこなかったといえる。昭和天皇と今上天皇の存在それ自体に、国民は安心しきっていたというのが正直なところでしょうか。 しかし、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」天皇の地位については、平和な戦後を長らく生きてきた国民の側からも、改めて考えなければならない、と気づかされました。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』や『戦争まで』でも論じましたが、戦争の究極の目的は、相手国の基本的な社会秩序(=憲法)に手を突っ込んで書き換えることにあります。戦前期の国体(=天皇制)を、アメリカ側は見事に書き換えた。 しかし、日本国憲法第二章の戦争放棄に関する条文に比べ、第一章の天皇に関する条文については、1946年時点の宮内省、枢密院、政府内の守旧派の影響力も強く、アメリカ側の思惑は貫徹しなかったのではないか。日本側の思惑に主導され、憲法第2条には「国会の議決した皇室典範の定めるところ」と定めますが、実際のところ法律である皇室典範に何が書かれたかというところまでは、掴めていなかったのではないか。戦後の精神に従って、新皇室典範が定められたかといえば、そうではない部分もあった。

現在の皇室典範は、厳密に言えば、「"国会"の議決した皇室典範」ではないのです。新憲法が、大日本帝国憲法の修正手続きで出来たように、皇室典範も、貴族院・衆議院からなる"帝国議会"という旧来の制度下に成立したのです。ただ、当時の帝国議会議員は真面目であって、「現在の議院は国会ではないのだから、新憲法が施行された後に国会が出来てから皇室典範を議論してはどうか」と述べる議員もいました。

また、皇室典範が議論された帝国議会の議論で興味深いのは、新しい憲法には、女性が天皇になってはいけないと書いてないということで、意外にも、女性天皇について容認する考えが委員会レベルでは多かったことです。1946年の第91回帝国議会の皇室典範案の審議では、「新憲法の精神からも、ただ女性であるということで皇位継承資格がないとする理由はなく、女性も皇位継承資格を有するようにすべき」といった議論もあった。当時は、憲法の規定に従おうという姿勢が顕著に見られたのです。

――終戦直後の議会は風通しが良かった。

憲法に書いてないということは、女性天皇は禁じられていない、との原則的な議論でした。今回の譲位への対応も、戦後の議会における空間を思い出す必要がありそうですね。今度こそ「"国会"の議決した皇室典範」を、改正法として、国権の最高機関である国会が定めればよいのです。

――終戦直後の議論が、天皇陛下の譲位へのヒントになりそうです。

そうです。帝国議会も国会も議事録は完全に残されておりますし、デジタルで誰でもアクセスできます。内閣側も、国民の意見を代表しているとは言いがたい有識者を呼ぶことなどせず、まずは国会で皇室典範改正案の議論をすべきです。

300NAME:2018/08/16(木) 13:15:43
■揺らぐ「戦後70年」の価値観

――参院選では改憲の現実味が増し、都知事選では敗北した鳥越俊太郎氏が「日本のリベラルは現実に負けている」と指摘しました。アメリカ大統領選では、右翼的な発言を続けたドナルド・トランプ氏が勝利しました。こうした現状を加藤さんはどう感じますか。

おそらく、戦後70年間続いてきた、欧米の普遍主義的な価値観の優位性が崩れたのだと思います。欧米は自らを利する自由貿易主義を掲げ、武力を用いてでも、地域主義的な経済圏を打破してきた訳ですが、彼らの行動に理があったのは、そこに、敵対者をも利する普遍主義的な価値観や自らを律する政治的公正さがあったからです。しかし、現在のイギリスやアメリカは、それらをかなぐり捨て、自国の利益を固守するような振る舞いを始めています。

ただ、ここで地に落ちたのは、欧米流の普遍主義です。戦前期であれば指弾された、不満足国家としてのロシアや中国が、今後、自らが主導する秩序や論理を、なんらかの普遍主義的な思想で包んで世界に提示してこないとも限りません、そこは見所だと思います。

第二次世界大戦後というのは、フランスの経済学者ピケティがいうように、連合国であれ枢軸国であれ、極めて珍しいレベルの格差のない社会が生まれた時代でした。2000万の人間が犠牲となった大戦の後ゆえに誕生した、教育や賃金という側面で格差の少ない社会が、大戦後70年で終わりを告げたということです。 今後は、戦争という、最も残酷な平等創出装置を経ることなく、いかに格差の少ない社会にしていくか、その工夫が世界の人々の双肩にかかってきているのだと思います。

――日本でも7月の参院選で憲法改正が現実味を増し、戦後70年の価値観が揺らいできています。そもそも、日本が敗戦と新憲法によって得たものは何でしょうか。

日本国憲法は、連合国に敗北し、国家の基本的な秩序(=国体)を書き換えられた日本が、再び世界へ出ていくための、いわば「搭乗券」でした。1952年の独立回復前に、日本が旧植民地を含めたアジア地域との貿易を再開し、飢えずに生きていくには、日本国憲法という搭乗券が必要でした。 さらに戦後の価値で重要だったのは、憲法11条の「基本的人権の享有」と13条の「個人の尊重」でしょう。戦前との比較で特に肝に銘じたいのは、13条「すべて国民は、個人として尊重される」の、「個人」の部分です。この「個人として」という意味は、たとえ国家が「戦争をやる」と意思決定をしたとしても、それに従わず、国家に対峙する自由が認められているということです。

戦前期の日本を顧みますと、英米に比し、武力で劣っていただけでなく、総力戦時代に国民の総力を真に結集しうる議会制度や民主的な制度を日本は欠いていました。個人として尊重されることの重さを尊重したい理由は、そこにあります。

――自民党の憲法改正草案では、13条の「個人として尊重される」の「個人」の部分が、単に「人」となっています。加藤さんは「戦争は、憲法を書き換えること」と述べましたが、それを変えようということは太平洋戦争の結果を否定することになるのでは…。

論理必然的にはそうなります。朝日新聞による2015年春の世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか「自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか」という問いに、「いまだ不十分だ」と答えた人が65%もいました(2015年4月18日付朝刊)。憲法を変えるのであれば、戦争の結果できた憲法ですから、その戦争自体について再定義しなければならなくなると思います。

301NAME:2018/08/16(木) 13:16:21
――「戦争の再定義」というのは。

1937年の日中戦争から45年の敗戦までのあの戦争の位置付けを、もう一度考え直すということです。今でも、「日本は英・米・蘭から経済封鎖を受けたからやむにやまれず開戦を決意した」という説明がなされることがありますが、防衛戦争だったとの説明の仕方は、実のところ太平洋戦争中の1943年に、東條英機内閣の外相に就任した重光葵が意図的に採用したものでした。

太平洋戦争の再定義自体が、1943年〜44年の戦争中になされ始めたことが興味深いのです。もともとは英米側が1941年8月に戦争目的や戦後世界を語った声明に「大西洋憲章」がありました。それに匹敵するような論理を日本側も準備するため、またイタリアの降伏を目の当たりにして、戦後になされるかもしれない戦争裁判において、いかに説得力ある申し開きをするのか、そのための合理化が必要だったと思います。

事実、重光の主導で日本は1943年11月、欧米の植民地であったアジア諸国の指導者を集め、大東亜会議を開きました。「被支配民族の解放という英米の戦争目的は口先だけだが、日本側は確かに多くの国を独立させたではないか」と胸を張りました。しかし言うまでもなく、日本が太平洋戦争を開始したのは、東南アジアの植民地を独立させるためではなく、後付けの論理でした。

防衛戦争としての太平洋戦争イメージは、実のところ戦時中の再定義に起源を持つものでした。 これと似た理解として、2015年の「安倍談話」の、世界がブロック化したために日本側は戦争に追い込まれていったとの理解があります。この問題点は、『戦争まで』の第1章で論じておきましたので、ご興味がある方はご覧ください。 太平洋戦争は、戦争の渦中において既に再定義の試みが開始されていた戦争でした。そのことを噛み締め、今の私たちこそが、いま一度、あの戦争を再定義してみるべきでしょう。

302NAME:2018/08/16(木) 16:48:19
生き残った兵士たちを監禁… ミッドウェー海戦大惨敗を隠すために国がしたこと
2018/08/15 07:00
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%ae%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%85%b5%e5%a3%ab%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%82%92%e7%9b%a3%e7%a6%81%e2%80%a6-%e3%83%9f%e3%83%83%e3%83%89%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%bc%e6%b5%b7%e6%88%a6%e5%a4%a7%e6%83%a8%e6%95%97%e3%82%92%e9%9a%a0%e3%81%99%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ab%e5%9b%bd%e3%81%8c%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8/ar-BBLWq8Z?ocid=iehp#page=2

「あの戦争」から73年。今年4月に総務省が発表した資料によると、戦後生まれが日本の総人口の82.8パーセントを占め、「平成」生まれも25.6パーセントと4分の1を超えた。 「戦争を知らない世代」が増えつづけていくことは、本来ならば喜ばしいことに違いない。それだけ「平和」が続いてきたということでもあるからだ。

『96歳 元海軍兵の「遺言」』の著者であり、戦争体験の語り部活動を続けている大阪市の瀧本邦慶さん(96)は、1941(昭和16)年11月、千島列島の海にうかぶ航空母艦「飛龍」の中で20歳の誕生日をむかえた。そのまま約2週間後のハワイ・真珠湾攻撃に向かい、翌42年6月のミッドウェー海戦にも身を投じた。敗戦の知らせを聞いたのは、「餓死の5分前」まで追いつめられた南太平洋の小さな島でだった……。

■17〜23歳、青春時代=戦争

 瀧本さんは、1921年11月23日、香川県の農村でうまれた。そして17歳の初夏、海軍を志す。20歳の徴兵検査まで待たなかったのは、「大きくなったら兵隊さんになる。お国のために死ぬ。それこそ男子最高の名誉である」と信じていたからだ。それが当時の常識でもあった。両親も、学校の先生も、地域の人も上から下までそう思っていた。「これはおかしい」と疑問を感じるきっかけなどなかった。心の奥底はいず知らず、みんながみんな同じことを考え、同じ方向をめざしていた。子どもの戦死を親が言祝(ことほ)ぐ時代だった。

 最終階級は下士官。下っぱ兵の目で見た戦場に「かっこいい物語」は一つもなかった、とふりかえる。 ミッドウェー海戦で沈みゆく空母飛龍からほうほうの体で逃げだしたとき、無数の戦友の死体を見た。「手も足も頭もばらばらにちぎれている戦友の姿をようけ見ました。体がまっぷたつに壊れたもん。五つにも六つにも壊れたもん。足がなくて焼け死んどるもの。腰から下が吹き飛ばされておるもの。飛びちっている手や足。助けを求める声はありませんでした」

303NAME:2018/08/16(木) 16:48:33
■監禁、そして死地へ

 大惨敗のミッドウェー海戦から帰ってきた瀧本さんを待っていたのは、病棟への監禁だった。「なんでやと。罪人あつかいやないか。俺ら、そんな悪いことした覚えはないわ。そう思とりますやん。こんなばかな話はないと腹がたちました」 理由は新聞報道で知った。「我が方の損害」として空母1隻喪失、同1隻大破という大本営発表が書かれていた。

「びっくりですわ。大本営はこんな大うそをついておるのかと。こっちはそこに行っとったわけやから。この目で見とったわけやから。虎の子の4隻をたった1日で失ったことを知っておるわけですから」 事実を漏らされないようにと監禁されたに違いなかった。

 それから送りこまれたトラック諸島では、戦友や部下が次々と餓死していった。「やせてやせて、本当に骨と皮になって、ほんで死んでいくんですよ。人間の姿ではありません」「1日が終わると、『ああ、きょうも生きのびたな。死なないでよかったな』と思う。われわれはいったい何のために、誰のために戦争をしているのか。もう戦争などまっぴらごめんだ」

「このころの戦闘行為とは、ただただ生きることだけでした」

 仲間が餓死すると、近くの山に埋めにいく。穴を掘る体力などない。地面をかきむしって遺体を入れ、穴からはみでているところは土を乗せて薄くならした。それで終わり。「なんと申し訳ないことを死者にしたのかと思う。思うけれど、その時はそれどころじゃないんですわ。遺体の処理をしながら、あ、俺はいつやろかと、そんなことを考えながらやっとるわけです。あすは自分の番や。だから堪忍してくれと心の中で手をあわせて、ほいでかえってきた」 それまで上官から繰りかえし聞かされたのは「貴様ら、よく聞け。いったん戦地に行ったら階級の上下は関係なしに一緒に死ぬんやぞ」ということだった。 嘘だった。

 戦後73年となる今も瀧本さんが声に怒気と殺気を込めて語るのは、やはりトラック諸島でのできごとだ。 木の葉を海水で煮て食らうしかない日々。餓死していく下っぱ兵たちを尻目に、非常用の備蓄食糧に手を出して食べている上官たち。どうにも我慢ならなくて瀧本さんは分隊長に食糧の開放を願いでる。

「一発でことわられました」

「われわれ下っぱが草を食って命をつないでいるときに、士官どもは銀飯を食べとるんですよ。銀飯ですよ、銀飯。こっちは草くうとるんや」 みずからにも餓死が迫りくる中、瀧本さんはこう考えるしかなかった。「こんなね、南のね、ちっぽけな島で骨と皮になってね、のたれ死んでね、ヤシの木の肥やしになるだけなんて、こんな死にかたは納得できない」

「ここで死ぬことがなんで国のためか。こんなばかな話があるか。こんな死にかたがあるか。何が国のためじゃ。なんぼ戦争じゃいうても、こんな死にかたに得心できるか。敵と戦こうて死ぬならわかる。のたれ死にのどこが国のためか」 (朝日新聞大阪社会部・下地毅)

304NAME:2018/08/16(木) 16:55:45
台湾で「郷土の守護神」として篤い信仰を集めた零戦パイロット
2018/08/16 07:00
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e5%8f%b0%e6%b9%be%e3%81%a7%e3%80%8c%e9%83%b7%e5%9c%9f%e3%81%ae%e5%ae%88%e8%ad%b7%e7%a5%9e%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e7%af%a4%e3%81%84%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e3%82%92%e9%9b%86%e3%82%81%e3%81%9f%e9%9b%b6%e6%88%a6%e3%83%91%e3%82%a4%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88/ar-BBLZ9dh?ocid=iehp#page=2

祖国を護るために身を捧げた多くの軍人たちの生き方は、我々に多くのことを語りかけてくる──。 台湾南部・台南市郊外で「飛虎将軍」として廟に祀られている日本人がいる。 零戦パイロットとして台湾に赴任していた杉浦茂峰は、太平洋戦争後期の1944年、米軍による台湾南部への空襲に反撃する際、命を落とした。その杉浦が、台湾で「郷土の守護神」として篤い信仰を集めている。

「飛虎とは戦闘機のことで、将軍というのは神格化された勇士を意味するものです。杉浦氏が祀られるきっかけとなったのは、善戦むなしく撃墜された際、集落への墜落を避けるように飛び去ったことに由来します」と語るのは台湾在住の作家・片倉佳史氏。 飛虎将軍廟は大願成就や勝運に御利益があるとされ、毎朝夕には「君が代」「海ゆかば」が祝詞として流され、煙草が供えられている。

●取材・構成/浅野修三(HEW) ※SAPIO2018年7・8月号

305NAME:2018/08/16(木) 17:22:57
橋下徹"あえて言う。負けたからよかった"
橋下 徹
2018/08/15 11:15
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%a9%8b%e4%b8%8b%e5%be%b9%e3%81%82%e3%81%88%e3%81%a6%e8%a8%80%e3%81%86%e3%80%82%e8%b2%a0%e3%81%91%e3%81%9f%e3%81%8b%e3%82%89%e3%82%88%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f/ar-BBLWrXq?ocid=iehp#page=2

第二次大戦に敗れたからこそ、戦後の日本人は世界的にも珍しいほどの自由を手に入れることができた。日本は戦争に負けてよかった。橋下徹氏が、政治家時代には決して公にすることができなかった本心を今明かす。プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(8月14日配信)より、抜粋記事をお届けします――。

戦前社会は、とてもじゃないが我慢できない!

広島、長崎の原爆死没者慰霊祭が終わり、来る8月15日は、終戦・敗戦の日を迎え、全国戦没者追悼式が行われる。僕はひねくれた性格なのか、世間で当たり前のように言われることに関し、逆の視点からも考えてしまう。(略)

僕も知事、市長の時には大阪の戦没者追悼式に毎年参加し、追悼の辞を述べ献花をしてきた。一時、安倍晋三首相の追悼の辞の類が毎年同じ文章だと批判されたけど、追悼の辞の類は毎年変えるものではない。そもそも安倍さん自身が全て考えて作成するものではない。僕も追悼の辞や挨拶の類は、担当部局に作成を任せていた。通常の記念式典では、事前に用意された紙は読まずに、その場で自分の言葉で挨拶を述べていたが、追悼式の類では、事前に用意された紙をしっかり読み上げていた。そして、もちろん毎年同じ文章である。

追悼の辞では、戦没者の皆様に感謝を述べる。今の世で僕たちがこのように生きていけるのも戦没者の犠牲があってのことだ。そして二度と同じ悲劇が起きないよう平和に向けてしっかりと活動していくことを決意する。これは全くその通りで、当然何の疑問も湧かない。

僕が深く考えてしまうのは、では、先の大戦である太平洋戦争がなかった方がよかったのかどうかである。これは戦没者の皆さんや、特にご遺族の方々には大変不謹慎な物言いにもなるので、言い方を慎重にしなければならないことは十分承知している。ゆえに政治家時代には発言しなかった。でも社会人になって問題意識を持ってから、ずっと自分なりに考えてきたのだが、やはりあの大戦で日本が負けたことは、戦没者の皆さんやご遺族の皆さんに大変感謝し、大変申し訳ないと思いつつも、全体として僕にとってはよかった、という結論に達している。実は、このような考えを戦没者追悼式の追悼の辞に入れようかとも考えたのだが、それはやはり止めた。

こう言うと、自虐史観! 弱腰! 売国奴! と猛烈な非難を浴びるだろう。特定の思想団体からは、激烈な抗議を受けるだろう。先の大戦で日本は勝つことができたはずだ! と主張する人から、先の大戦は避けるべきだったと主張する人まで、あの大戦で負けた方がよかったという人はいないだろう。 僕が自分なりに調べたところでは、どう考えても、戦前の日本社会は嫌だ。特に軍部が歯止めなく増長してきた昭和初期から大戦突入に至るまで、もちろん戦時中の軍部のあの態度振る舞いも含めて全てにおいて、とてもじゃないが我慢できない。

306NAME:2018/08/16(木) 17:23:36
アメリカにもあるプライバシー監視などの政府からの圧迫

誤解がないようにしないといけないのは、日本の国を守るために命をかけて戦って下さった個々の兵士の皆さんには本当に感謝している。だけど自分たちの保身を第一にし、組織の権益を守るために汲々とし、いかに自分が責任を負わないようにするにはどうすればいいかだけを考えていた軍指導部に対しては腸が煮えくりかえる。そう言えば、森友学園問題での財務省の公文書改ざんや国会での虚偽答弁の組織行為はこの軍指導部の行動様式に通じるところがあるね。さらに軍指導部だけでなく現場においても、特に唯一の本土決戦となった沖縄戦では、軍が沖縄県民を犠牲にしていた事例が山ほど判明している。(略)

だいたい戦前の日本が良かった! と言っている自称インテリたちは、文句言いが多い。今の日本政府や地方自治体に対して、それこそ野党政治家に対してもボロカスに文句を言っている。あんたら、戦前の日本だったら、監獄にぶち込まれているよ! 政府や軍(自衛隊)に遠慮することのないこの日本がどれだけ素晴らしいか。(略)

先進国のアメリカやイギリスだって、政府には怖さがある。諜報機関を持ち、国民のプライバシーはかなり監視されているのが現実だろう。 しかし日本には諜報機関がなく、盗聴を許す法律の範囲で厳格なルールに従って盗聴が行われるくらいだ。しかも盗聴の年間件数は微々たるもの。もちろん日本政府も色々と情報収集しているのであろうが、日本国民は日本政府にビクビクせずに暮らしている。

僕も戦前に暮らしていたらどうなっていたか。いまと同じ調子でやっていたら監獄にぶち込まれていただろう。でもそんな軍の強い社会においては、ビビッておとなしくしていたかもしれない。 たぶん、今、威勢のイイことを言って、戦前の社会を肯定する人たちは、戦前の社会体制の下ではおとなしくいい子ちゃんになっているパターンが多いと思う。 

こんな今の日本と戦前の日本を比べて、戦前の方がいいというのは僕には理解できない。戦前の日本の方がいい、という人たちは、紙一枚で軍に入らされ、上官からは暴力を受け、戦地に送り込まれても、また何か政府批判をすればすぐに監獄に入れられて拷問を受けてでも戦前の日本の方がいいと言うのかね。

307NAME:2018/08/16(木) 17:23:52
民間人になったから言える戦没者への「御礼」

太平洋戦争が避けられていたら、軍は残っていただろう。ましてや戦争に勝っていたらどうなっていたか。当然、明治憲法下の政治行政がそのまま残る。もちろん、その後の時代の変化に伴って、日本の政治行政の仕組みも徐々に変わり、最終的には今と同じほどの自由を国民が享受することになるだろうが、それにはもっともっと長い年月がかかるだろう。敗戦を経験することで、我々は猛スピードで、今の自由を享受することができた。このスピードのために300万人以上の犠牲が必要だったと言い切れるのか、ここが悩みだ。

確かに300万人以上とも言われる犠牲者が出たことを、簡単に肯定するわけにはいかない。しかし、あの太平洋戦争に負けたことが、今のように国民が世界でも珍しいくらい広く大きな自由を享受することができるようになった決定的要因なのではないか。 こういうことをいうと、「橋下お前は、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に洗脳されて自虐史観に陥っている。お前はアメリカなどの戦勝国に感謝し続けるのか、原爆投下を肯定し続けるのか」と批判されるだろう。

だから悩み考え続けてきた。まだ多くの人を説得できるだけのものを持ち合わせていない。戦勝国に感謝はしたくないし、原爆の投下も肯定したくない。戦没者に対して、皆さんが亡くなられてよかったです、とも言いにくい。だけどあの大戦があったからこそ、敗戦があったからこそ、戦後このスピードで今の自由があるとも感じている。あのまま戦争を避けていたり、戦争に勝っていたりしたら、日本の政治行政は、せいぜいトルコ程度の民主主義にしかなっていなかったのではないか。(略)

僕は今は民間人の立場で、戦没者の皆さんに感謝と哀悼の意を表したい。そして「戦争があり敗戦があり、戦前の政治行政システムがぶち壊されたからこそ今の自由を享受できています。戦前の政治行政システムを命をかけてぶち壊して下さり、ありがとうございました」と知事・市長のときに追悼の辞に加筆しようとした言葉を、民間人となった今、述べさせてもらいます。やっぱり、どのように考えることも、何を言っても、政府をどのように批判しても自由な今の日本社会は、戦前の社会に比べてはるかに素晴らしい!(略)

(ここまでリード文を除き約2900字、メールマガジン全文は約8900字です)※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.115(8月14日配信)を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで! 今号は《【今考える敗戦の意義〈1〉】戦争がなかったら、勝っていたら今の「自由」を享受できたか!?》特集です! (写真=iStock.com)

308NAME:2018/08/19(日) 01:04:48
戦争で奪われた家族と日常「空襲よりも、その後がつらい」 語り始めた男性
2018/08/17 10:30
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%a7%e5%a5%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%ae%b6%e6%97%8f%e3%81%a8%e6%97%a5%e5%b8%b8%e3%80%8c%e7%a9%ba%e8%a5%b2%e3%82%88%e3%82%8a%e3%82%82%e3%80%81%e3%81%9d%e3%81%ae%e5%be%8c%e3%81%8c%e3%81%a4%e3%82%89%e3%81%84%e3%80%8d-%e8%aa%9e%e3%82%8a%e5%a7%8b%e3%82%81%e3%81%9f%e7%94%b7%e6%80%a7/ar-BBM23nR?ocid=iehp#page=2

約2千人の名前が刻まれた大倉山公園(神戸市中央区)、神戸空襲の慰霊碑前で、兵庫県西宮市の古川輝男さん(78)は73年前の記憶をとつとつと語り始めた。「真っ黒な空から赤い火が星のように落ち、逃げる人の波があちらこちらに動いてね。水を求めた人が、生田川や防火用水に首を突っ込んだまま亡くなっていた」 1945(昭和20)年6月5日朝、神戸市東部や阪神間が焦土と化した空襲では4千人以上が犠牲になったとされる。古川さんら一家は葺合区(現在の中央区)の春日野道で被災。母よ志(し)みさんと兄2人が命を落とし、2014年に碑へ名前が加えられた。市民団体「神戸空襲を記録する会」の記録によると母は当時46歳。古川さんは5歳だったが、あの時感じた恐怖心は頭を離れない。

 「さぁみんな、朝ご飯やで」。あの日、6人きょうだいを呼ぶ母の大きな声が聞こえた。精米所で働く父は家にいなかった。直後、米軍機の爆音がし、サイレンが空襲警報の発令を知らせた。朝食を食べずに外へ飛び出し、一家で近くの防空壕(ごう)に駆け込んだ。 だが、そこに焼夷(しょうい)弾が直撃。よ志みさんはすぐに、出口近くにいた末っ子の古川さんを壕の外に放り投げて助けたが、自身は大やけどを負い4日後に息を引き取った。1番上の兄清次(きよじ)さん、3番目の兄良造(りょうぞう)さんも壕で犠牲となった。父は数日後に2人の遺骨を探したが、見つかったかどうかは分からない。

 幼くして亡くした母の記憶は断片的だが、白いかっぽう着姿で縫い物にいそしむ姿は強く印象に残っている。花を生け、卵を確保するため数羽の鶏の面倒も見ていた。良造さんは音楽が好きで、軍歌が推奨された当時もレコードでクラシック音楽を聴かせてくれた。 空襲後は生き残った父や2人の姉、2番目の兄と現在の神戸市北区へ移り、父の兄が暮らす家を間借りした。よ志みさんの遺体は近くに墓標を立てて土葬した。家でいつも構ってくれた母を失い、日中はほとんど1人で過ごした。近くの山や川へ行っては、草や木の実で空腹を満たし、寂しさを紛らわせた。

© 神戸新聞NEXT/神戸新聞社 「火の海の中、たくさんの遺体をまたいで逃げた。5歳の出来事でも忘れられない」。神戸空襲の慰霊碑前で当時を振り返る古川輝男さん=神戸市中央区

 終戦の数年後には長屋を借りて家族5人で暮らし始めた。父は精米関係の仕事を続け、上のきょうだいも働きに出て家計を助けたが、とても裕福な暮らしとは言えなかった。 1946年に入学した国民学校(後の小学校)には、わら草履で通った。学年が上がるにつれてゴム製の履物が普及したが買ってもらえず、子どもながらに足元で貧富の差を感じた。学校帰りに遊んでいても、友人らが母親に「おやつの時間やで」と呼ばれると別れ、人けのない自宅へ帰った。

 「うらやましいな」。そんな境遇を恨んでも、むなしさが募るだけ。姉が洗濯や炊事を担い、いつしか母のいない生活が当たり前となった。 「経験を話しても、母や兄が戻るわけではない」。古川さんは長年、戦争体験をあまり口にしなかった。気持ちに変化が生じたのは「神戸空襲を記録する会」が2013年に建てた慰霊碑だ。新聞記事で完成を知り、同会が犠牲者名簿を地道に作り碑の建立まで至ったことに感銘を受けた。

 「おかげで3人の生きた証しができた。私は戦争を体験しているのに何もしていなかったと、初めて目が覚めた」。古川さんは14年に同会会員となり、中学校などで自身の体験を語り始めた。 「空襲よりも、その後の生活を思い出す方がつらい」と、古川さんはつぶやいた。子どもが平凡な暮らしを奪われ、寂しさに打ちのめされる戦争を二度と繰り返してはならない。「一人一人が自分の幸せだけじゃなくて、互いを思いやる心を持てば平和につながる」。淡々とした口調が熱を帯びた。(田中宏樹)

309NAME:2018/08/29(水) 07:34:40
「真珠湾攻撃忘れないぞ」 米大統領、会談時に安倍氏へ圧力
共同通信社
2018/08/29 05:44
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e7%9c%9f%e7%8f%a0%e6%b9%be%e6%94%bb%e6%92%83%e5%bf%98%e3%82%8c%e3%81%aa%e3%81%84%e3%81%9e%e3%80%8d-%e7%b1%b3%e5%a4%a7%e7%b5%b1%e9%a0%98%e3%80%81%e4%bc%9a%e8%ab%87%e6%99%82%e3%81%ab%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%b0%8f%e3%81%b8%e5%9c%a7%e5%8a%9b/ar-BBMA1Bb?ocid=iehp

【ワシントン共同】米紙ワシントン・ポスト電子版は28日、トランプ大統領が6月にホワイトハウスで安倍晋三首相と会談した際「(第2次大戦の)真珠湾攻撃を忘れないぞ」と前置きした上で、難航している通商問題の協議を始めたと伝えた。異例の発言の背景には、対日貿易赤字の削減を目指し圧力を強める狙いがありそうだ。

 米国では真珠湾攻撃は「卑劣なだまし討ち」との見方が強い。日本側の弱みと見なしてトランプ氏が通商交渉で譲歩を引き出すために、あえて日米首脳会談で触れた可能性がある。 同紙によると、トランプ氏は真珠湾攻撃に言及した後、米国の対日貿易赤字について激しく非難した。

310NAME:2018/08/31(金) 02:45:00
https://www.youtube.com/watch?v=doPlKvTdIbA&amp;t=90s
オランダがとった政策はインドネシアにいろんな言語を使わせ教育を一切しなかった。それによって反乱する事を防ぎたかったからだ
一方日本は言語を統一させ教育を受けさせた。もしこれを侵略戦争などと言う奴がいるのであれば是非英霊の前で同じ事を言って見てほしい。

これだけは言えるのが、日本を孤立させようと日本を悪く言い続けている人が世界にいて、親日国と思っている国を含め、過去の日本のイメージはよくありません。それは日本が反論しないから、声をあげないから今日の結果があります。
私は「親日国」に住んでいますが、皆さんが思ってるより親日国ではないです。日本のテーマが出るたびに日本の悪口を言ってる人もよくいますし。
日本人は「○○友好!」とか言ってヘラヘラしないで、もっと冷静に対応した方がいいです。本当に。
あと、海外住んでわかったんですが、日本人って外国人に妙に変に優しいですが、日本人と同じように接した方が印象良くなると思いますよ。外国人だから〜って許す範囲極端に広くすると調子乗ってああいう反日精神が簡単にできて世界に日本の悪口を広めていくと思ってます。

コメント読んでたら、ホラをバラ撒いてる人もいるようなので、
ソース(信用度の高い情報)のある話を信じるようにしましょうね皆さん。
日本語がおかしい人が何人か混じっているようです。
左翼、在日、朝鮮人、中国人スパイなんかもいるでしょうから。
「私の知り合いは日本を友好的に見ていない」←ソース自分ww
「オランダより日本が嫌い」っていう自作自演とか(´・ω・`)

日本人は世界で一番素晴らしい人種、しかし今の日本人と昔の日本人とでは、泥雲の差がある。
台湾の戦争経験者の方の言葉です。
日本人として胸に刺さります。

インドネシアの教科書には、次のように書かれているそうです。「インドネシアにおける日本軍の支配は短期間であったけれど、長期間のオランダの植民地支配よりもはるかに過酷であった」「日本はインドネシアの天然資源と労働力を徹底的に搾取した。」「日本は農産物と労働力を徹底的に搾取した。人民は極度の貧困に苦しんだ。飢餓と疫病が至る所で発生した。」「物資や食料の大規模後な徴発を行なった。軍隊への大規模な食糧徴発は当然のことながら人民に厄災をもたらした。「日本政府による食糧の徴発は稲や他の収穫物を取り上げるという方法で行われた。複数の収穫物から、人民にはその20パーセントの保有が許可され、30パーセントは農業組合(Noyo Kumiai : 原文ママ)を通じて政府への提供が義務付けられた。残りの50パーセントは、村の格納場所へ納められた。」

「日本占領政府期における労働力の搾取は、インドネシア社会のあらゆる階層に対して行われた。都市部や村落部出身者、教育を受けたものや文盲を問わず、全員が日本の必要に応じて搾取された。中でも労務者(Romusha: 強制労働者)が最も悲惨な状況に置かれた。彼らは日本によって、主に飛行場、防御用堡塁、線路などの軍事施設を建設するため強制的に徴用された。労務者の大半が村落部の出身で、学校へ通っていない者や最高でも小学校卒業者が多かった。こうした住民を数多く抱えるジャワ島では大規模な労務者徴用が可能となった。何千もの労務者がジャワ島外へ送られただけではなく、マラヤ(マレーシア)、ビルマ(ミャンマー)、シャム(タイ)などの国外へ送られた者もいた。

「労務者の待遇は非常に劣悪なものだった。健康は保障されず、食料は不十分だったにもかかわらず、彼らには過酷な労働が課せられた。その結果、数多くの労務者が作業地で亡くなった。こうした悲しむべき状況は人々の口から口へ、全村民へと広がった。」こうして400万人ものインドネシアの人達が亡くなったといわれています。

311NAME:2018/08/31(金) 02:45:18
宇宙戦艦ヤマト、ボルテスV、北斗の拳などのアニメは、暴力と恐怖に支配された世界に正義の戦士たちが現れて、あるものは傷つき、あるいは敗北して命を落としながらも、次々と悪党を打ち破り、最終的に正義の戦士たちが勝利を収める物語だが、実際には日清戦争からベトナム戦争終結までに日本軍が辿った道のりを舞台を変えて描いたものである。ベトナムにおいても、700名以上の日本兵が残留して、1946年にベトナム初の士官学校を創設して、ベトナムを再び植民地にする為に戻ってきたフランス軍を1954年に打ち破り、フランス軍の後を引き継いでやってきたアメリカ軍を1973年に打ち破り、カンボジアでの大虐殺を止めさせたベトナムに懲罰の名目で侵略してきた中国軍を撃破した。これらの功績により、1986年にベトナム政府は残留日本兵に勲章を授与し感謝の念を表明した。日本は同じように日清戦争で1895年に朝鮮を清の奴隷から解放してやり、下関条約の第1条で朝鮮の完全独立を清に認めさせ、1897年に朝鮮は独立門を建立した。日韓併合では朝鮮人を正式に日本人にしてやったにもかかわらず、南北朝鮮では事実と正反対の大嘘を学校で教え、朝から晩まで毎日反日活動に血道をあげている。数ヶ月前の韓国保健部の調査で国民の91%が認知障害を持っていることが報道されたが、これで、朝鮮人の91%が事実と捏造を反転させてしまう脳神経回路を持っていることが判明した。事実捏造反転脳神経回路を持つ連中に何を言っても全く通じない、と言う科学的事実を日本政府はまず認識しなければならない。

312NAME:2019/01/25(金) 14:40:50
日本は大東亜戦争で、っ戦いには負けたが、戦略的には大勝利したという人がいます。
その証拠にアジア諸国は独立し白人たちは再びアジアに戻ってこれなかったではないかと。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11111154271

313日本を護る会:2019/03/04(月) 21:06:01
第80回定例会の案内

梅の便りが聞かれる今日この頃ですが皆様にはお元気でお過ごしのことと存じます。
今回の講師は、大阪市立大学名誉教授の山下英次氏にお願い致しました。特に先の大東亜戦争に焦点をあて、当時の世界情勢を踏まえて、日本が戦争に突入せざるを得なかった状況等に関してのお話です。
今迄もいろいろな方が取り上げられた命題ですが、通常の戦史家とは一味異なる観点からのお話になると思われ、大変興味ある、重要なテーマであると思います。
是非多数の皆様にご参加頂きたくご案内申し上げます。




1 講師 : 山下英次 大阪市立大学名誉教授・経済学博士 、国際歴史論戦研究所(iRICH)所長

2 演題 : 「第2次大戦とはどのような戦争であったのか」-日本は何故大東亜戦争を戦う事になったのか

3 講師略歴 : 1947年東京生まれ、1970年慶應義塾大学経済学部卒業。旧東京銀行に入行し調査部、 国際投資部、海外部などに勤務後、1988年大阪市立大学に移籍。同大学大学院経済学研究科教授を経て、現在、国際通貨研究所(IIMA)客員研究員。アパ日本再興財団の懸賞論文「真の近現代史観」で4回入賞(2014、2015、2016、2018年)。

4 著 書:『国際通貨システムの体制転換』(東洋経済新報社、2010年)、『ヨーロッパ通貨統合—その成り立ちとアジアへのレッスン』(勁草書房、2002年)など

5 日時 平成31年3月13日(水) 受付開始 午後6時00分〜 開 演 午後6時30分〜

6 場所 銀座 カフェ ジュリエ (Cafe Julliet)
東京都中央区銀座5-13-16東銀座三井ビル1F  03-3543-3151
東京メトロ 東銀座駅4番出口徒歩1分
(東銀座駅出口4番三原橋交差点から昭和通りを歌舞伎座とは反対方向へ54メートル)

7 参加費 2、500円 会員は2,000円(いずれも1,000円の寄付を戴ける場合)、学生は1,000円、高校生以下は無料
講演終了後(午後8時半頃)に軽い懇親会(1時間程度、会費2,000円)を講演会場で行います。お時間のある方は是非ご参加下さい。
講演会及び懇親会に御参加希望の方は、3月7日(木)までに原則としてメールにてお申し込みください。
*FAXにてお申し込みの場合はご記入後、本ページを切り取らずに送信して下さい。

2月7日(木)の定例会に参加します。 懇親会( 出席 、欠席 ) どちらかに○印
ご 氏 名
ご 住 所
電話 Fax:
E-mail
 ★★連絡先★★
NPO法人日本を護る会事務所
FAX:03-3985-1008
e-mail: awake-japan@googlegroups.com
HP: http://awake-japan.sakura.ne.jp/

314NAME:2019/07/01(月) 23:44:29
在留邦人危うし 中国軍精鋭が日本人街に襲いかかった 
2019.6.30
https://special.sankei.com/f/society/article/20190630/0001.html

第136回 上海事変 「今こそ対日戦争に踏み切るべきだ」

 蒋介石が抱えるドイツ軍事顧問団団長、ファルケンハウゼンがこう進言したのは、盧溝橋事件が起きる1年以上も前、1936(昭和11)年の春頃といわれる。 同じ頃、ナチス・ドイツは日本と防共協定を結んだが、ドイツ国防軍は日露戦争でロシアと組んで以来、伝統的に日本を仮想敵国とみなしていた。第一次世界大戦で山東省の租借地を奪われてからはその傾向が強く、国民党政府に顧問団を送って軍事力の強化に努めていたのだ。

 蒋介石は、ファルケンハウゼンの進言を直ちに入れることはなかったが、将来の決戦に備え、上海近郊の非武装地帯にトーチカ群など堅固な陣地を構築した。いざという時、ここを拠点に上海駐留の日本海軍を撃滅し、救援に駆けつける日本陸軍も撃破するという、ドイツ仕込みの作戦である。盧溝橋事件後、北京周辺での戦況が不利になった蒋介石は、いよいよこの作戦を実行する時だと判断したようだ。

× × ×

 直接のきっかけは盧溝橋事件の1カ月後、37年8月9日に起きた大山事件である。その日、海軍特別陸戦隊第1中隊長の大山勇夫と1等水兵の斎藤與蔵が車で上海の陸戦隊本部に移動中、中国保安隊に銃撃され、2人とも死亡した。大山の遺体には無数の機関銃弾があったほか、銃剣などで陵辱されたあとがあり、頭部は二つに割れ、顔面の半分が潰されていたという。

 中国側は、最初に大山が保安隊員を射殺したので銃撃したと偽り、日本側がさらなる紛争防止のため保安隊の撤退を求めても、かえって保安隊を進出させ、12日以降は完全武装の正規兵を続々と派遣。上海は、たちまち一触即発の状態となった。

 上海地域の在留邦人を保護するのは、海軍第3艦隊の担当だ。それより前、日本政府は揚子江沿岸の邦人の引き揚げを決定、上海在住の婦女子2万人を帰国させたが、まだ1万人が租界に残っている。 中国軍が乱入すれば、通州の残虐事件が再び起きることだろう。

 12日夜、邦人保護の大海令(※1)が発せられた。 「第三艦隊司令長官ハ現任務ノ外 上海ヲ確保シ 同方面ニ於ケル帝国臣民ヲ保護スベシ」 このとき、上海周辺に集結した中国軍は第87、88、36師で、背後には第15、118師などがひかえ、総兵力は約15万人に達した(※2)。 対する海軍陸戦隊は5千人弱。初年兵にいたるまで、全員が死を覚悟したに違いない。

× × ×

315NAME:2019/07/01(月) 23:44:46
 戦端を開いたのは中国軍だ。時に13日午後4時54分。日本人街のある虹口地区の北、八字橋付近に埋設された地雷が爆発したのを合図に、中国軍第88師の部隊約2000人が攻め込んできた。 海軍上海特別陸戦隊司令官、大川内伝七の命令が飛ぶ。

 「全軍戦闘配置につけ」 敵の第88師はドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製の武器を手にした精鋭中の精鋭だ。「一挙ニ海軍陸戦隊ヲ潰滅(かいめつ)セントスル作戦指導振リハ洵(まこと)ニ猛烈執拗ニシテ我ヲシテ応接ニ遑(いとま)ナカラシメ、我ガ租界第一線ノ如キモ再三ノ危殆(きたい)ニ陥リタリ」と、軍令部編集の「大東亜戦争海軍戦史」が書く。この日の八字橋付近の激戦は5時間以上にわたり、陸戦隊は午後11時、ようやく敵を撃退した。

 翌14日午前3時、新たな中国軍が北部の陸戦隊陣地を襲う。左翼の小隊が包囲され、陣地を突破されそうになったが、駆けつけた増援部隊が奮戦、死力を尽して守り通した。 北部地区を突破できない中国軍は、攻撃の重点を共同租界の東部に移す。とくに17日午前8時からの攻撃は熾烈を極め、一部が租界内に侵入、東部地区の陸戦隊は窮地に陥った。 激戦16時間。戦況不利とみた中隊長の菊田三郎が敵部隊の真っ只中に斬り込む。「中隊長を死なすな」と下士官兵が続く。壮絶な白兵戦だ。手榴弾が飛び交い、彼我の肉片が散った。何とか中国軍を押し戻したものの、菊田は戦死した。

× × ×

 東京では、戦端が開かれた13日に陸軍部隊の派兵を急遽(きゅうきょ)決定したが、どんなに急いでも上海に上陸するのは23日以降だ。現地で最高指揮権をもつ第三艦隊司令長官の長谷川清は、とてもそこまで持ちこたえられないと、軍令部に打電した。 「本十六日ノ激戦ニ依リ陸戦隊ハ可成リノ損害ヲ蒙リタリ。士気ハ依然旺盛ニシテ死力ヲ尽シテ戦線ノ維持ニ努メアルモ敵ノ兵力集中情況ニ鑑ミ、毎日此ノ程度ノ激戦ヲ予期セラルルニ付テハ疲労ト兵力ノ損耗トニ依リ後六日間ノ維持ハ極メテ困難ナリ…」

× × ×

 陸戦隊を救ったのは、鹿屋海軍航空隊と木更津海軍航空隊だ。鹿屋空は台湾の台北基地から、木更津空は長崎の大村基地から、当時は世界でも異例の渡洋爆撃を敢行。悪天候などで多くの犠牲を出しながらも南京などの飛行場爆撃に成功し、制空権を握った。 在留邦人が不眠不休で陸戦隊を支援したことも忘れてはなるまい。男は土嚢(どのう)づくりを、最後まで残った婦女800人は炊き出しなどに従事した。 23日未明、待ちに待った陸軍の救援部隊が上海の外港、呉淞(ウースン)に上陸した。陸戦隊は上海を守りきったのだ。 しかしこの後、陸軍部隊が大苦戦を強いられる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)



(※1) 海軍軍令部総長が天皇の裁可を受け、指揮官に対して発する命令
(※2) 中国軍の兵力には諸説あり、防衛研修所の戦史叢書では、12日夜の段階で海軍陸戦隊に直接対峙したのは第87、88師と武装保安隊の計約3万人としている

【参考・引用文献】

○阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)
○田嶋信雄著「ナチズム極東戦略」(講談社)
○中村粲著「大東亜戦争への道」(展転社)
○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 中国方面海軍作戦〈1〉」(朝雲新聞社)
○海軍歴史保存会発行「日本海軍史」6巻
○軍令部編「大東亜戦争海軍戦史 本紀巻1」(防衛省戦史研究センター所蔵)
○昭和12年8月14〜25日の東京朝日新聞、東京日日新聞、読売新聞

316NAME:2019/07/22(月) 20:44:12
東京大空襲:日本中を震撼させたB29の次もあった!
日本が夢想した超大型爆撃機「富嶽」級を実戦配備させた米国
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55685

毎年、3月になると東京大空襲の体験談を目にする機会が増える。昭和20年3月10日、約300機の「B-29」が隅田川両岸の人口密集地を焼き払い10万人の犠牲者が出た。 一般市民が暮らす人口密集地を攻撃目標とする神経も恐ろしいが、何千キロも離れた場所からそれを実行できる米国の国力も恐ろしい。 爆弾6.6トンを積んで、マリアナ諸島から日本まで片道2500キロの距離を往復できる爆撃機を300機揃える――。 そんなことは当時の日本にはとうていできなかったし、押し寄せるB-29から日本を守ることもできなかった。

 しかし、日本には太平洋を越えて米国本土を空襲するため、B-29を圧倒的に凌ぐ爆撃機を製造する計画が存在した。 中島飛行機の創業者中島知久平により構想された「富嶽」である。 B-29は当時の最先端の航空機であったが、マリアナ諸島から日本を空爆し戻るのがやっとだった。東北地方や北海道は攻撃圏外であった。

 一方、富嶽は日本から離陸し、米国本土を空爆して、そのまま大西洋に抜け、ドイツ占領地域に着陸するというB-29でも不可能な壮大な作戦をすることを想定していた。 現在の大型旅客機でもそれほどの距離を飛べるものは限られる。

富嶽は大日本帝国の妄想に終わる

 B-29が2200馬力のエンジンを4基搭載し、航続距離約9000キロ、最高時速は600キロ弱、最大爆弾搭載量9トン、全長は30メートル、全幅が43メートル。 対する、富嶽は5000馬力のエンジンを6基搭載し、航続距離約2万キロ、最高時速780キロ、最大爆弾搭載量20トン、全長は43メートル、全幅が63メートル。 確かに、富嶽が実現すれば、B-29を圧倒する爆撃機になる。しかし、想定数字をあげつらったところで、B-29に対抗する航空戦力も整えられない大日本帝国が実際に作れるわけがなかった。 例えば、5000馬力のエンジンは絶望的であった。

 日本も2000馬力級の「誉」というエンジンを完成させ、戦争末期に実践投入まで持ち込んでいる。「疾風」や「紫電改」といった戦争末期に完成した新型戦闘機に搭載している。 小型軽量で大馬力の誉は、確かにカタログ数値では非常に優秀なエンジンだった。 しかし、日本の工業力では安定して量産することができなかった。また、故障多発を克服できなかった。日本の新型戦闘機は、襲いかかる米軍機に対抗できる数が揃うことはなかった。 一方、米国は2000馬力級のエンジンの大量生産に成功したうえ、トラブルも実戦に耐えるほどに抑え込むことができている。

 2000馬力級のエンジンを積んだグラマン「F6F」戦闘機は「ゼロ戦」をバタバタ撃墜したし、そんなエンジンを4基積んだB-29の大編隊も実現してしまった。 その米国でも5000馬力のエンジンを実現できていない。2000馬力のエンジンも十分にモノにできていなかった大日本帝国。それなのに5000馬力のエンジンができるわけがなかった。 エンジンに限らず、当時の日本には質的にも量的にも超大型機を作る能力はなかった。

 高空を長距離飛行するのに必要なターボチャージャーや与圧室も作れない、大型機を大量生産するだけのアルミニウムもない、工場のキャパも足りない。航空機のエンジニアは戦争中は仕事が激増し過労死寸前・・・。 実際、日本が実用化できた爆撃機はエンジン2基で与圧装置もなし、マリアナ諸島まで往復できないのでB-29の基地も特攻でしか攻撃できない、爆弾も1トン程度しか積めないというものだった。

 富嶽の実現どころかB-29に圧倒的に劣るものであった。そんな質的に劣る爆撃機すら、B-29と同じ数が揃うことはなかった。 日本の航空産業の実力を考えれば、富嶽など絵に描いた餅でしかなかった。 富嶽開発プロジェクトは開始から1年もたたずに断念されてしまう。国家の非常時にこんな妄想膨らませて遊んでいるわけにはいかなかったのだろう。 大日本帝国にとって、富嶽などは、現実逃避的な妄想に過ぎなかった。

317NAME:2019/07/22(月) 20:44:29
米国では富嶽を実現

 しかし、日本には妄想に過ぎなかった富嶽。米国は何と実際にそれに匹敵するものを戦争中に開発し、終戦直後に完成させていた。 その名は「B-36」。 B-36は3500馬力のエンジンを6基搭載し、最高時速は後期型では700キロ近くに達し、航続距離1万5000キロ、最大爆弾搭載量32トン、全長49メートル、全幅70メートル。 日本が全くかなわなかったB-29を圧倒的に超えている。妄想計画だった富嶽に対する個々の項目の単純比較では優劣があるが、十分に対抗できそうな内容である。

 富嶽は設計すら固まらなかったのに対し、B-36は終戦5日後の1945年8月20日に機体が完成しロールアウトしている。 もっとも、さすがの米国も3500馬力のエンジンは開発に手間取り初飛行は翌年になった。そして、量産に入り1948年から実戦配備をしている。 米国の航空産業は、戦争に勝つために差し迫った開発や生産をこなしたうえで、当時の世界水準を圧倒するB-29すらはるかに超える超大型機の開発を行っていたのだ。 戦時中の日本の航空産業では、性能が向上していく米軍機に対抗する機種の開発、軍からの改造の要望への対応、一機でも多くを生み出すための生産など、大量の仕事に忙殺され、もう限界という状態だった。

 当時の体験談を読むと、技術者は過労で倒れることがあり、生産現場は過重労働で疲れ果てていた。 ヘトヘトになるまでの努力をしても、戦闘機のような小型機すら米国の生産数に遠く及ばないし、ゼロ戦の後継機も満足に作れなかった。 大戦末期には米国では標準になっていた2000馬力級エンジンの安定供給も果たせなかった。B-29を防ぐだけの戦闘機も配備できなかった。 現に存在している米国の航空戦力に対抗することすらできていない状況で、とても、富嶽のような米国の水準を圧倒的に超える巨人飛行機の開発まで手が出るわけがない。

一方、米国は単純な数の比較で4倍以上の航空機を製造し、大日本帝国の航空戦力を圧倒した。 米国の航空機生産実績には数千機のB-29を含む、大量の大型機を含むことを考えれば、その差は数の差にとどまらない。 米国はそのうえで、B-36という日本であれば妄想でしかない超大型機を開発する余力を持っていたのだ。恐るべきことである。 こんな国力のある国と戦って勝てるわけがない。3年10か月戦っただけでも立派なものと言えるだろう。

318NAME:2019/07/22(月) 20:44:42
B-36は役には立たなかったが・・・

 米国がB-36の開発を始めた理由は、英国がドイツに負けてしまった場合、大西洋を超えてドイツを空爆できる爆撃機が必要になると考えたからだ。 「こんな爆撃機が欲しい」というレベルだった富嶽に対し、米国では超大型爆撃機の実現が、第2次世界大戦初期の一時期においては必達目標だったのだ。 しかし、ドイツはあと少しのところで英国を降伏させることはできず、太平洋戦争が始まる頃にはその心配はほぼなくなっていた。 それでも、B-36は優先順位を下げられつつも開発は継続された。

 ここで不要不急として中止にならなかったことも驚きであるが、優先順位が下げられた状態で開発しても、戦争終結後すぐに完成していることはもっと驚きである。 第2次世界大戦後、核兵器の時代になり、米国の勢力圏からソ連を爆撃できるB-36は核戦力の主力として重宝されることになる。しかし、戦後すぐに航空機のエンジンはピストンエンジンからジェットエンジンに移り変わる。

 B-36は強力なエンジンを持つとは言え、第2次世界大戦の飛行機と同じピストンエンジンのプロペラ機。時速200〜300キロの速度差のあるジェット戦闘機にはすぐに撃墜されてしまう。 結局、B-36は配備されてから約10年経った1959年にはすべて退役してしまう。その間、朝鮮戦争があったが、B-36は一度も実戦に出ることはなかった。 B-36は確かに当時の世界最大の航空機であったし、この飛行機の実現のための技術開発は米国航空産業の資産になっただろうが、決して活躍した航空機ではない。 よって、B-36の知名度はあまり高くない。また、メーカーのコンベアーもジェネラルダイナミクスを経て、ロッキード・マーチンの一部になり、名前が残っていない。 しかし、あまり役に立ったようには見えないにしても、米国版富嶽のB-36は大日本帝国では妄想に過ぎないものを実際に実現してしまう恐るべき米国の底力の象徴ではあった。

319NAME:2020/08/29(土) 14:58:09
入隊後、真っ先に教えられた切腹の仕方 15歳で特攻志願、「死にたくない」と後悔
8/26(水) 10:32配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc0cf88bf7923d23c9216ec5d3f867578bbf73c3

「咲いた花なら散るのは覚悟、みごと散りましょ国のため」。15歳で志願して軍人となり特攻要員として訓練を受けた長野市の武井敏雄(たけい・としお)さん(90)がよく歌った「同期の桜」の一節だ。勇ましい歌詞とは裏腹に、悪化する戦況下、若すぎる軍人の脳裏に芽生えたのは「死にたくない」という特攻志願への後悔だった。「もう誰にも自分と同じ経験はさせたくない」。75年前の惨状を語った。(共同通信=櫛部紗永)

 ▽12歳で経験した軍事訓練

 1930年、東京の日本橋や浅草に店を構える衣料問屋の次男として生まれた。生まれつき体が丈夫で、走るのが速く、体育が得意だった。千葉県の八幡尋常高等小学校に入学。小学6年生では全校生徒の代表として体育部長を務め、体操では号令をかけた。太平洋戦争が始まったのはそんな育ち盛りの頃。41年12月、担任の教諭から「本日、日本はアメリカ、イギリスを相手に戦争を始めました」と聞かされた。物心ついた時から戦争は身近だった。

翌年、旧制江戸川中学校に入学。兵器庫がある学校で、軍事訓練を12歳で初めて経験した。毎朝30分間の朝礼は校庭で歩行訓練、陸軍士官学校出身の将校による「教練」の授業では竹やりで敵を倒す練習をした。毎週日曜日は学外訓練として、約30キロの道のりを夜通し歩くこともあった。深夜の線路を戦車が走り抜ける姿や騎馬隊の見学―。「いま考えればあり得ない景色ばかりだった」

 14歳の頃には、勤労動員で魚雷製造工場へ。作り出す爆弾も多かったが、落とされる焼夷弾も多く、空襲は増える一方だった。東京大空襲直後の惨状はいまも、まぶたの裏に焼き付いたままだ。

 ▽焼け焦げた遺体

 45年3月9日午後10時ごろ、東京都に隣接する千葉県市川市の自宅で家族だんらんしている時だった。突然、警戒警報もなしに空襲警報が鳴り響いた。遠くの空には爆撃機。急いで庭の防空壕に逃げ込んだ。警報が解除され外に出ると、西の空が真っ赤だった。

320NAME:2020/08/29(土) 15:00:25
翌朝、中学へ自転車で向かった。黒く焼け焦げた遺体であふれかえった通り、水ぶくれした遺体でびっしりと埋まった防火用水。いつもの通学路は変わり果てていた。空襲が激しかった両国では、国技館が骨組みだけに。たまらず家に引き返すと、遺体を無造作にトラックに投げ込む兵隊に遭遇した。錦糸町の菓子屋前では、道に流れ出した水あめを舐める人たちもいた。「幼心に日本は完全に負けたと思った」

 ▽真っ先に教えられた切腹の仕方

 父の希望で「食べ物に困らない」職業軍人を目指し、陸軍特別幹部候補生に合格。浜松市にある航空技術の教育部隊に入隊した。45年4月、大勢に見送られて東京駅を出発した。中学の同級生から胴上げされ、送別会で渡された日の丸には、親友がナイフで自分の指を切り、血で「タケイガンバレ」と書いてくれた。

 入隊して真っ先に教わったのは切腹で、上官は刀を腹に刺す手本を示した。「敵に殺されるくらいなら、自決くらいしっかりやれ」。銃を抱えてほふく前進、剣で相手を突き殺す練習―。基礎訓練は朝から晩まで続いた。「同期の桜」は骨休めに何度も歌わされた。

その後、特攻要員になることを承知で操縦士を志願。華々しさに憧れたが、日に日に悪化する戦況を感じ取るにつれ、「命を懸けて特攻隊員になりたかったわけじゃない」と悔いた。仲間からは、爆弾を持って戦車に体当たりする自爆訓練を繰り返していると聞いた。「生きて帰れない」。初めて特攻が怖くなった。 45年7月、部隊は滋賀県日野町に疎開。飛行訓練にたどり着く前に玉音放送を聴いた。部隊長からは「自分の意思で帰れ」と告げられた。長野県中野市に疎開し中島飛行機の関連工場で戦闘機を製造していた家族の元へ。母親は涙を浮かべ抱きしめてくれた。

 ▽戦争を若い世代に語り残す

 46年に長野県の旧制須坂中学校を卒業。その後、父が新たに創業した食品会社の商売を手伝い始め、現在は会長を務める。「子どもに食べる楽しさを知ってほしい」と、駄菓子を多く扱う。いまでは地元の人にテレビ広告で馴染みの店だ。 戦争で得ることは何もなかった。「命を捨てても戦争に勝て、という教育に従い、大勢の若者が無駄死にした。こんな恐ろしい教育は二度と繰り返してはいけない」。いまは戦争のむごさを若い世代に語り残す責任を強く感じている。

過去には、長野市の中学校が行う平和学習に招かれ、自身の人生を語った。「人の命以上に大切なものはない」。うなずく中学生の姿に確かな手応えと、わずかな希望を感じた。憲法改正、特に9条については「軍事大国化を助長しかねない」と懸念を持ち、世界的に社会の分断が進んでいることには不安を感じる。 8月15日正午、長野市の自宅で、全国戦没者追悼式のテレビ中継を見た。75年前を思い返し、窓の外に目をやると「力強く復興した日本」が見えた。「平和な世の中が続きますように」と強く願いながら手を合わせた。

 ▽取材を終えて

 物腰が柔らかく、穏やかで優しい人柄。「言葉で表現できないほどの惨状」を、時間をかけて丁寧に教えてくれた。「鮮明に記憶に残っているのですね」と言うと、「本当は忘れたい。いつか僕が教訓として語り残す必要がないくらい平和な世の中になれば、忘れられるかな」と本音を漏らした。 取材中、「若者たちが、国ではなく、自分のために生きられる社会が続いてほしい」と繰り返す武井さん。当たり前の価値観が、当たり前に尊重される平和な世が続くことを願ってやまない。

321NAME:2020/08/29(土) 15:56:50
習近平の中国がなぞる大東亜共栄圏の「失敗の本質」
8/24(月) 6:01配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0b60399818df93f76810cfb80e1b3ef64c515b2

大東亜住民と帝国の関係における不成功は、国力を数十倍も上回る米国に日本が無謀な戦争を仕掛けたという表面上の「失敗の本質」よりも、はるかに深刻なしくじりである。なぜなら、たとえ米国に力で押されても、共栄圏内の住民が日本の行動を心から受容して歓迎しておれば、米国は真の意味で日本に勝利できなかったからだ。実際には、ほとんどの地域において日本人は「侵略者」と見なされ、その結果、日本を破った米国が「解放者」と見られるようになった。

そして現在、共存共栄をモットーに実行される中国の一帯一路共栄圏や「中華民族の偉大な復興」も同じような根源的な矛盾を抱えており、現地住民の民心把握に失敗するという傾向が明確に現れていることは興味深い。

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科学的根拠が明示されない日本の感染症対策の咎

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322NAME:2020/08/29(土) 15:57:14
(岩田太郎:在米ジャーナリスト)
※「中国切腹日本介錯論」(1)「『大日本帝国』と同じ轍を踏む習近平と中国共産党」、(2)「中国が先制攻撃を仕掛ける可能性が高いワケ」、(3)仮面を捨てた中国、世界を自分色に染めるそのやり方も併せてお読みください。

中国国旗と習近平国家主席の写真を燃やすインド民衆。中印国境の係争地帯で軍が衝突、インド人兵士に多数の犠牲が出たことに対する抗議。中国の膨張主義はさまざまな摩擦を生み出している(写真:ロイター/アフロ)

■ 戦中から指摘された共栄圏「失敗の本質」

 中国共産党が熱心に学び、「中国夢」や「中華民族の偉大な復興」のビジョンの参考にする大東亜共栄圏構想は、壊滅的な日本の敗戦で失敗に終わった。だが、開戦間もない頃から、共栄圏の構造的な欠陥が一部の識者によってすでに指摘されていた。

 ケインズ経済学の立場から『東洋経済新報』の石橋湛山らとともに緊縮財政に反対してリフレ政策を唱え、後に転向の上で軍部に接近、日本の排他的な経済ブロックを建設することを強く主張した経済評論家の山崎靖純(せいじゅん)は、近衛文麿の私的政策研究団体である昭和研究会の常任委員であった。

 その山崎が、緒戦連勝の余韻が残る昭和17年(1942年)半ばに「大東亜建設に就て反省すべき諸点(特に現地において痛感するもの)」と題した大東亜省設置に関する内部文書(外務省外交史料館蔵)で、以下のように述べている。

 「新しい人倫協同の“関係”を成立せしめることが何よりも最大の利益なりと云ふ明確な認識を欠ける為に(中略)現地の生産活動は甚しく妨げられ、住民は生活希望を失つて自棄状態となり、日本の労働生産力を不必要に現地に奪はれ、大東亜全体の労働生産を甚しく低下せしめ、住民をして日本指導の新秩序を甚しく誤解せしめる結果を伴つて居る」

 山崎はここで早くも、大東亜戦争の「失敗の本質」を見抜いている。すなわち、日本が大東亜共栄圏内の住民の人心掌握に失敗し、その結果として圏内各国との協働体制を築けず、人々の希望を失わせ、所期の経済目標を達成できないことで日本によるアジア新秩序建設に疑念を抱かせているということだ。

 大東亜住民と帝国の関係における不成功は、国力を数十倍も上回る米国に日本が無謀な戦争を仕掛けたという表面上の「失敗の本質」よりも、はるかに深刻なしくじりである。なぜなら、たとえ米国に力で押されても、共栄圏内の住民が日本の行動を心から受容して歓迎しておれば、米国は真の意味で日本に勝利できなかったからだ。実際には、ほとんどの地域において日本人は「侵略者」と見なされ、その結果、日本を破った米国が「解放者」と見られるようになった。

 この「心の戦い(心理戦・政治戦)に負ける」という共栄圏の構造的な欠陥は、中国共産党が推し進める「中国夢」や「中華民族の偉大な復興」にも顕在化し始めており、この先に悪化の一途を辿るだろう。

 この稿では一次史料を活用し、日本人にとっては極めて耳の痛い大東亜共栄圏の失敗の実例に迫る。そして、次回にはそれらの失敗と「一帯一路」「中華民族の偉大な復興」を対比させ、「中国夢の失敗」という歴史の必然性を論じ、共栄圏における失敗に学ぶことで、覇権的に膨張する中国の切腹(自滅)を日本が介錯する役割を果たせることを示す。

323NAME:2020/08/29(土) 15:57:39
■ 大東亜共栄圏の理想と現実

 日本の大東亜共栄圏は非常に高い理想を掲げていた。企画院が昭和18年(1943年)に発行した『大東亜建設の基本綱領』と題された宣伝物は、「大東亜経済建設において我が国の要求が全面的に貫徹されなければならないが、さうするとそれは欧米の植民地支配と何等異なるところがないではないか」と自問する。

 その答えとして、「大東亜経済建設は大東亜の民衆は勿論(もちろん)、ひろく全世界の人類に英・米支配とは異る何ものかを與へ(あたえ)なければならない。ここに大東亜共栄圏といふスローガンが高く掲げられ、共存共栄の旗印のもとに新しき道義的な経済秩序の樹立が要請される所以がある」と解説。「大東亜広域経済にあつては利己に非ず(あらず)して共栄が、搾取に非ずして共存が支配しなければならない」と説く。

 そして、「日本の要求は(すなわち)大東亜の要求」であるため、日本は収奪的にはならないと主張する。では、現実はどうであったか。

 前述の山崎靖純は、「法外の価格を以て物資を強制買い上げ」「事実は現地住民の財産没収になりつつある」「主要なる商権を日本人が独占」「通貨(交換)比率に非常な無理を生じ」「日本側商社との半強制的な合弁の形式を以て、事実は現地住民の財産横領にも等しい結果」など、共栄圏の理想が完全なる看板倒れであったことを報告している。

 また、戦前に大阪商船の社長を務め、逓信(ていしん)大臣兼鉄道大臣などを経て昭和17年(1942年)1月にフィリピンの比島方面軍最高顧問に就任、昭和18年(1943年)10月に駐比特命全権大使に任ぜられた村田省蔵が、米軍のフィリピン再占領後の昭和20年(1945年)4月に、避難先の台湾で認め(したため)た「対比政策批判」(村田省蔵著『比島日記』巻末収録)には、以下のようなくだりがある。

 「裏附物資の伴はざる軍票を発行し何等の制限なく一切の支払に充てたること(中略)終(つい)には悪性インフレーシヨンに導くこと当然なり(中略)軍票は遂に貨幣たるの機能を失い、物々交換随所(ずいしょ)に行はれ、民衆ために塗炭(とたん)の苦に陥り餓殍(がひょう、餓死者の死体)途(みち)に横はる(よこたわる)に至る」

 「民衆需要の食糧につき切実なる考慮を払はざりしこと(中略)中央現地共に若し重点を少しく比島の民心把握に置き、作戦と密接な関係あるに思い致さば、此の問題に対する解決自ら(おのずから)他に在りしなるべし」

 「産業の開発に関し(中略)此等計画の多くは気候風土、土質慣習等を無視せる杜撰(ずさん)なるものなりしため(中略)徒(いたずら)に嘲笑の話題を残せしに過ぎず」

 「華僑をして経済機構より離脱せしめ(中略)華僑なき経済市場は混乱そのものと化し去りたり」

324NAME:2020/08/29(土) 15:58:04
■ 失敗の本質は人心掌握の失敗

 このように大東亜共栄圏経済において、「日本の要求は大東亜の要求と同じ」という前提そのものが誤っていたため、当然の結果として共栄圏建設は日本の利己的な搾取と無意味な現地経済の破壊に終わり、各地の生活者にもそのように認識されたのであった。

 これは日本人が直視しなければならない歴史の現実だが、軍事的な敗北以上に、現地の住民を心服させられなかったという心理的・政治的な敗退が大東亜戦争の「失敗の本質」であることがわかる。

 事実、日本占領下でフィリピン大統領を務めたホセ・ラウレルは昭和20年(1945年)3月、村田大使に対して「日本は比島人の心理を握む(つかむ)に失敗せり」と率直な分析を披露している。村田は「対比政策批判」の中でフィリピン人民衆がますます日本に背くと予想し、「之は独り比島のみならず程度の差こそあれ、必ずや普く(あまねく)圏内一般に通ずる」と看破している。

 この認識は、日本の敗戦後の昭和21年(1946年)に、高名な経済学者であるジョン・ケネス・ガルブレイスなどで構成された米戦略爆撃調査団が提出した報告で、日本の中国支配の失敗を分析した次の一文にも共有されている。

 「(日本は)日中戦争を軍事的勝利で、あるいはより重要なことなのだが、政治的勝利で終結させることができなかった」

 この報告書の邦訳は昭和25年(1950年)に、『日本戦争経済の崩壊』と題されて出版されたが、昭和16年(1941年)夏の開戦前夜に総力戦研究所と並んで「日本必敗」の予想を上申した秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)の中心的人物であった有澤廣巳(ひろみ)東京大学教授が序文を寄せ、「私は、これは日本帝国主義の『病理解剖』だと言いたい。(中略)日本の敗因のすべてがここに解剖されている」と述懐している。

 その有澤は、民間研究機関の国策研究会内で戦中に設置された「大東亜問題調査会」において憲法学者の鈴木安蔵とともに嘱託を委任されていたのだが、同調査会では「いやしくも新秩序をスローガンとする日本として帝国主義的形態は採るべきではないが、しからばいかなる形態を良しとするのかについては、学問的にも政策的にも五里霧中というほかはない」という状況で、住民の心理掌握という根源的・戦略的な問題が最後まで解決できなかったのである。

325NAME:2020/08/29(土) 15:58:28
■ 大東亜共栄圏の理想を自ら破砕

 理論上の問題だけではない。寛大さや民度に欠ける日本人は、占領地の住民との良好な関係を築くことに失敗した。これこそが、日本の敗戦を真の敗戦たらしめた原因である。村田省蔵は、「対比政策批判」の中で、次のように報告している。

 「(ラウレル大統領曰く)比島民衆は此三年間多数の日本人と初めて接触し、残忍なる民族との観念を懐くに至れり。日本が掲ぐる被圧迫民族解放の理想は、我等の共鳴措かざる(おかざる)所なるも、軍の行ふところは民衆の生活を顧みず、却って之を不安ならしめ、其(その)結果軍に対する不平不満の声は漸(ぜん)を追ふて全国に溺漫(できまん)す。殊に憲兵及び守備隊の苛察(かさつ)横暴に対する反感は、政府要路の者に至る迄浸潤し、今や到底救ふ可らざるに至れり」

 村田大使も、自身の観察に基づき、次のように問いかける。

 「昼間法規を無視し警官を憚らず(はばからず)横行闊歩(かっぽ)放縦自在の行動に出でしは何人(なんぴと)なりや。言語不通のため偶々(たまたま)意に叶はざれば(かなわざれば)直(ただち)に鉄拳を喰わせ、私刑を加へたるは何人なりや。鉄拳なればまだ可なり比島人の最も嫌悪する平手打を行ひ、終世恨を懐かしめたるは何人なりや。相手の如何(いかん)を問はず、時に衆人環視の裡(うち)に在て婦女子に対して又然り」

 「而も(しかも)其行動の粗野なる甚しきは白昼越中褌(えっちゅうふんどし)一つで大道を闊歩せしものあり、予はこれをマニラ、セブの両市に於て親しく目撃せり、我指導者階級にして比島側の高官巨商と交歓するに当り、孰れ(いずれ)が文化高き東洋一等国民なるかを疑はしむることあり」

 こうした現実は、「大東亜戦争における皇軍の大戦果は、(米・英・蘭をもつて東洋人より一段優る優越者なりと観ずる)妄想を完膚なく破砕し、大東亜の指導者たる皇国の卓越性を、原住民の眼前に立証した」(『大東亜建設の基本綱領』)ことが、束の間の「夢」に過ぎなかったことを物語る。

■  寛大さや品性の欠如、傲慢で自壊した日本

 また、山崎靖純もこう分析していた。

 「(日本人の)文化的・人倫的信念の欠如は(中略)『劣等感』的現象を伴つて居る。即ち、威張ること、抗日転向者を無暗(むやみ)に疑ふこと(彼等が転向する筈はないと自分が自分の文化を疑つて居る事)」

 日本の陸海軍や民間人の戦中の失敗を見れば、寛大さや品性の欠如、傲慢が人心掌握失敗の原因であり、それは日本人自身の自信のなさや劣等感、大東亜共栄圏構想の真理性に対する疑いに起因していたことがわかる。

 そして現在、共存共栄をモットーに実行される中国の一帯一路共栄圏や「中華民族の偉大な復興」も同じような根源的な矛盾を抱えており、現地住民の民心把握に失敗するという傾向が明確に現れていることは興味深い。

 これは、利己的で収奪的な「中華民族の偉大な復興」を一義的な目的とする中国の利益が、一帯一路参加国の利益と一致しないという単純な原因に解が求められる。真の目的が収奪であるため、どれだけ美辞麗句で取り繕っても民心は勝ち取れないのである。(続く)

326NAME:2020/10/14(水) 14:37:27
【戦後75年】 特攻同然に変更「突っ込みます」 サイパンに散った兄17歳
2020/10/14 11:05
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%88%a6%e5%be%8c%ef%bc%97%ef%bc%95%e5%b9%b4-%e7%89%b9%e6%94%bb%e5%90%8c%e7%84%b6%e3%81%ab%e5%a4%89%e6%9b%b4-%e7%aa%81%e3%81%a3%e8%be%bc%e3%81%bf%e3%81%be%e3%81%99-%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%91%e3%83%b3%e3%81%ab%e6%95%a3%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%85%84%ef%bc%91%ef%bc%97%e6%ad%b3/ar-BB19ZMqo

太平洋戦争末期、銃撃隊から急遽、特別攻撃に加わって、17歳で亡くなった少年がいた。「海軍第1御楯(みたて)特別攻撃隊」の高橋輝美飛行兵長。本土に対する爆撃を阻止しようと、B29の発進基地サイパン島を攻撃、未帰還となった。「戦闘機乗りとして、お国のため、家族を守るためにもっと活躍したかったはず」と、残された妹が、戦後75年が経った今もなお、輝美さんの死を悼み、慰霊を続けている。  (高橋義春) 

サイパン復仇攻撃

 香川県常磐村(現香川県観音寺市)出身の輝美さん。農家の三男として生まれ、旧制中学に入学するも昭和18年春、16歳で志願兵として山口県の岩国海軍航空隊に入隊。筑波(茨城県)、大分、台湾などを転戦後、19年11月26日、千葉県の館山基地から硫黄島(給油中継地)に向けて飛び立ち、翌27日、サイパン島に集結していたB29爆撃機を攻撃し、戦死した。

 “サイパン復仇(ふっきゅう)攻撃”ともいわれたというこの作戦。当初の予定では、隊員らは敵爆撃機を銃撃した後、反転し北に位置するパガン島に着陸し、潜水艦による救出を待つはずだったが、上官の一声で特攻同然の作戦に変わった。

 当時の偵察機の電信員がまとめた記録によると、作戦の打ち合わせ終了後、参謀の1人が、零戦隊員らに「パガンに戻るためには、零戦の燃料搭載量ではサイパン上空で5分間しか戦闘行動ができないが、どうするか」とたずねた。「突っ込みます」。隊員らは異口同音に返答したという。

327NAME:2020/10/14(水) 14:37:46
攻撃隊の最年少隊員

 戦闘機(零戦隊)11機による襲撃。しかも全弾撃ち尽くしたあとの捨て身の体当たり戦法は「4機破壊炎上、6機大破、23機損傷」(米側記録)したという。編成時は銃撃隊だったが、特攻同然だった同隊の戦功を全日本軍に知らせるさい、「第1御楯特別攻撃隊」と名付けられた。

攻撃隊の最年少だったという輝美さん。海軍入隊後、手紙で家族の面会を断る代わりに、ほぼ毎月のように父親の喜市さんらあてにハガキを送ったほか、貯金を家族に送金していた。

 《自分の事は何んにも思わないで下さい。どうせ御国の為に打ち捨てた命ですから…。散ったならば喜んで下さい。きっと御家の名を汚さないような立派なる働きをしますから…》 銃撃隊員から特攻隊員となった輝美さんの手紙の一部には、死を覚悟した決意がつづられていた。

 家族のもとに戦死の通知が届いた20年4月、村葬の際、母親のイワさんは参列した記者らの質問に「荒鷲の母です。私は泣きませぬ」と、日本軍の飛行隊の愛称「荒鷲」を名乗って気丈に語ったが、葬儀後、仏間で身をよじるようにして泣いていた。

 輝美さんの妹、岡本喜美子さん(78)=堺市中区=は四男の高橋治さん(90)=滋賀県在住=や姉たちから当時のそんな母の様子を聞かされて育ってきた。輝美さんの出征当時はまだ乳飲み子(8人きょうだいの末っ子)だったが、「最後の最後まで私を背負って、可愛がってくれていたことを母からよく聞かされた」と振り返る。

慰霊は今も続く

 「抗(あらが)うことのできない流れの中にあったとはいえ、兄はなぜ、若くして死を選ばなければならなかったのか」。輝美さんの記憶はまったくないが、戦死の状況を知った小学生のころから遺影を片時も放さず手もとに置き、兄を偲び続けている。 岡本さんは、輝美さんを慰霊する旅にも出かけ、広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)や千葉県館山市の海上自衛隊・館山航空基地(旧館山海軍航空隊基地)などを巡ってきた。

 輝美さんの月命日にあたる平成12年11月27日に訪れたサイパン島では、現地の戦没者慰霊碑に郷里(観音寺市)の地酒や有明浜の小石などを供えて冥福を祈った。透き通った海を見て「こんなきれいなところに兄が眠っているんだと思うとなぜか胸がいっぱいになり、涙があふれてしかたがなかった」と振り返る。

 サイパン島周辺を船で巡る慰霊の際、海中に残る零戦の残骸を見て、「サイパンの 零戦沈みし海原に 亡き兄偲び 鎮魂の旅」という歌を詠んだ。 「戦争さえなかったら」。若くして命を散らした輝美さんをはじめ、多くの戦死者を悼み続ける岡本さんの口癖だ。今も戦没者の魂を慰霊し続けている。

328NAME:2021/08/15(日) 05:19:59
SNSでつなぐ特攻の記憶 「肉声伝える使命」
2021/08/14 20:14
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%ef%bd%93%ef%bd%8e%ef%bd%93%e3%81%a7%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%90%e7%89%b9%e6%94%bb%e3%81%ae%e8%a8%98%e6%86%b6-%e3%80%8c%e8%82%89%e5%a3%b0%e4%bc%9d%e3%81%88%e3%82%8b%e4%bd%bf%e5%91%bd%e3%80%8d/ar-AANjJlF

15日で終戦から76年。戦争体験者らは高齢化し、記憶の継承は年々難しくなっている。元軍人や遺族つくる戦友会でも同じだ。「史実を知ることが平和につながる」と、SNS(会員制交流サイト)で肉声や記憶を伝える組織も出てきた。活動が功を奏し、会員数を伸ばした戦友会もある。

「自己犠牲することは苦しいけど、納得して『棺』となる自分の飛行機に乗るという考えでおりました」。2年前に96歳で死去した元特攻隊員、江名武彦さんが動画投稿サイト「ユーチューブ」で語る。特攻作戦や当時の心境を明かし、「戦友を思うと彼らの鎮魂と慰霊に一生を尽くさなければいけない」と話した。

元特攻隊員や遺族らでつくる「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」(東京)が、数年前に行ったインタビューを昨年、投稿した。今後も投稿を続け、次世代への記憶の共有を模索する。 顕彰会の石井光政事務局長(70)は「特攻について中身まで知る若者は少ない。存命の当事者がほとんどいない中、動画を通じて肉声を伝える使命感があった」と言う。

顕彰会はピーク時には約3700人の会員がいたが、現在は約1400人に減少した。存命する元隊員らは一人また一人と鬼籍に入っていく。20歳前後で戦場に散った特攻隊員は未婚だった人が多かったことも、継承のハードルになっている。

「若い世代が『利他の精神』で亡くなっていった英霊たちのことを、完璧に理解することは難しいと思う。動画でその一端に触れ、少しでも思いをはせてもらえれば」。石井事務局長はそう話した。 先の大戦の激戦地、南太平洋・ソロモン諸島での戦闘に従事した軍人や遺族の戦友会「全国ソロモン会」は、約10年前からSNSでの情報発信を続けてきた。

ツイッターやインスタグラムで遺骨収集などの活動を紹介したところ、この5年間で20〜30代の若い世代を中心に新たに約50人が入会した。祖父や曽祖父が当事者だった人もいるが「戦地で何があったかを学びたい」と、入会を決めた若者も少なくないという。

全国ソロモン会では昨年までに、戦地を知る会員が全員亡くなった。若い世代との接点を持つ意義は、今まで以上に大きくなっている。発信する情報がソロモン諸島の風景や市場の様子など多岐にわたるのは、「敷居が高い」と思わせないための工夫だ。

同会の崎津寛光(かんこう)事務局長(49)はこう話す。「世代交代のときが来てしまったが、史実を知ってもらい平和につなげることが戦友会の役目。英霊たちの存在が、今日の日本につながっているということを知ってもらいたい」(石橋明日佳)

329NAME:2021/08/15(日) 06:22:11
「彼らの犠牲があって今がある」元特攻隊員、千玄室さん
2021/8/14 16:07
https://www.sankei.com/article/20210814-CDZCV7ATWFPDFPKSGEH2V55BYA/

15日で終戦から76年。茶道裏千家前家元の千玄室さん(98)は学徒出陣し、特攻隊員だった過去を持つ。今も亡き戦友の存在を胸に刻み、「彼らの犠牲を忘れないでほしい」と願う。過去を正しく知り、未来に継承することが、今を生きる人の責務だと考えるからだ。

同志社大2年だった昭和18年、海軍に入隊。戦況が不利になった20年3月、配属されていた徳島航空隊でも特別攻撃隊が編成されることになった。 ある日、上官から1枚の紙を渡された。そこにあったのは「否・希望・熱望」の3つの選択肢。千さんはその日のうちに、「熱望」に二重丸を書いて提出した。「死にたくねえなあ」とこぼす同期もいた。

「死ぬ覚悟はできていました。でも当時は20、21歳の青二才。『死』の本質は分からなかった」。トルストイの「戦争と平和」を読んだり同期と語り合ったりしたが、死の意味について誰もが納得する答えを導き出せた仲間はいなかった。

同期約3300人のうち、400人超が特攻などで散った。出撃を前に涙ながらに「お母さん」と叫んだ声、敵艦に体当たりするときの「ツー」という最期の電信。強烈な体験は今も脳裏を離れることはない。

沖縄への出撃命令を待ちながら終戦を迎えた千さん。「生き残ったことはじくじたる思いだった」と話す。

戦後、当時の上官に会う機会があった。「私になぜ待機命令が出たのですか」。そう尋ねた千さんに上官は「天命だと思いなさい」と答えた。以来、自分に課せられた意義を問うようになったという。

平和は、願ったり叫んだりしてもやってはこない。どうすれば次の世代につなぐことができるのか。重みを痛感する毎日だ。「彼らの犠牲があって、今があることを忘れてはいけない」。涙を浮かべて訴えた。

330NAME:2021/08/16(月) 02:42:40
血で染まった甲板、母親の目の前で冷たい海に消えた子供たち…1700人もの命はなぜ奪われてしまったのか
早坂 隆 2021/08/15 17:10
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e8%a1%80%e3%81%a7%e6%9f%93%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f%e7%94%b2%e6%9d%bf-%e6%af%8d%e8%a6%aa%e3%81%ae%e7%9b%ae%e3%81%ae%e5%89%8d%e3%81%a7%e5%86%b7%e3%81%9f%e3%81%84%e6%b5%b7%e3%81%ab%e6%b6%88%e3%81%88%e3%81%9f%e5%ad%90%e4%be%9b%e3%81%9f%e3%81%a1-1700%e4%ba%ba%e3%82%82%e3%81%ae%e5%91%bd%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%a5%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b/ar-AANkNY5

「助けて!」北の海に響いた子供の絶叫、千切れた手足はカマス袋に…「北海道にたどり着けなかった」人々を襲った「不条理な暴力」 から続く

 2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦直後、樺太(サハリン)から引き揚げる途中の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が旧ソ連軍の潜水艦に相次いで攻撃を受け、1700人余りが犠牲となった三船遭難事件も、その一つである。  昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『 大東亜戦争の事件簿 』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。

 第二号新興丸の航海士だった中沢宏は、船が留萌港に入ってからも、すぐには下船せずにそのまま船上に残っていた。その時、中沢は不意に遠くの海上から砲声を聞いた。艦橋から双眼鏡を覗(のぞ)くと、日本の船舶が自分たちと同じように潜水艦に襲撃されている光景が目に入った。 この船が「泰東丸」であった。 泰東丸は本来、貨物船である。しかし、大泊港に避難民が溢れている状況を受けて、引揚船に転用されたのだった。

泰東丸が大泊港を出港したのは、21日の午後11時頃である。泰東丸は三船の中で最も軽量な約880トンという小型船だったが、そこに約780人もの人々が乗船していた。 船倉には米などの食糧が大量に積まれていた。南樺太からの引揚者の受け入れ先となっていた北海道でも、食糧不足が深刻化していたためである。 積荷を満載した泰東丸には、乗客のための空間はほとんどなかった。そのため、引揚者たちは甲板にゴザを敷くなどして過ごしていた。泰東丸も稚内には寄らず、小樽に直行する予定だった。

331NAME:2021/08/16(月) 02:43:00
出航から一夜明けた朝、海上の「異様な光景」

 この泰東丸の乗客たちが異変に気づいたのは、出航から一夜明けた22日の午前9時頃である。その異変とは、海上に大量の浮遊物が漂流している異様な光景であった。浮遊物の中には、リュックサックや子供用の水筒なども混ざっていた。 それらは攻撃を受けた第二号新興丸からの漂流物であった。そして、ついには傷ついた遺体までもが、いくつも発見されるようになった。第二号新興丸の悲劇など知る由もない泰東丸の乗客たちは、深刻な不安と恐怖に駆られた。 そんな泰東丸の前に潜水艦が出現したのは、午前9時40分頃のことであった。場所は留萌小平町の沖西方約25キロの辺りである。甲板にいた乗客たちから、「潜水艦だ!」との声が次々とあがった。

破壊されたボイラー、血で染まった甲板、乗客たちは海へ…

 すると、その潜水艦はすかさず泰東丸に向かって砲撃を開始。泰東丸の周囲に複数の水柱が立った。 船長の貫井慶二は、すぐにエンジンの停止を機関室に命令。さらに、白いシーツやテーブルクロスを白旗として掲げ、船として戦う気がないことを明確に示した。特設砲艦である第二号新興丸とは異なり、泰東丸には13ミリ機銃が船首に一丁装備されているだけで、反撃する能力などは有していなかった。 白旗を提示した船舶への攻撃は、国際法で禁じられている。しかも、戦争自体がすでに終結しているはずであった。 しかし、潜水艦からの砲撃は継続された。そしてついに、一発の砲弾が泰東丸の船腹を直撃。船体は大きな衝撃に包まれ、破壊されたボイラーから蒸気が一挙に吹き上がった。 その後、延べ十数発もの砲弾が泰東丸に撃ち込まれ、機銃掃射も行われた。まったく無抵抗の船への攻撃は一向に終わらなかった。 貫井船長は「全員退船」の命令を発したが、甲板は人々の血潮で紅く染まった。乗客たちは意を決して海に飛び込んだ。潜水艦はやがて姿を消した。

母親の目の前で力尽きた子供たち

 4人の子供の母親である鎌田翠は、母子5人で板切れに摑まって波間に浮いていた。しかし、力尽きた子供たちは1人、また1人と暗く冷たい海中へと消えていった。子供たちが抱えた恐怖、そして母親の無念はいかばかりだったであろう。 泰東丸の船体は、右舷側に大きく傾斜。最後は横倒しになるようなかたちで、轟音とともに沈んでいった。沈没の際に生まれた激しい渦によって、船体の周囲にいた人々は引っ張り込まれるようにして運命をともにした。

 船首に備えられていた機銃とその台座も漂流していたが、そこには十数名もの人々がしがみついていた。人々は胸まで海水に浸かりながら、立ち続けているような状態だった。 その中に1人の憲兵がいた。その憲兵は背中に重傷を負い、別の人にずっと寄りかかっていた。しかし、やがてその憲兵は、「もうこれ以上、迷惑はかけられない」と言い残し、自ら手を放して暗い海中に沈んでいったという。

 その後、漂流する生存者たちを救出したのは、たまたま近くを通りかかった機雷敷設艇「石埼(いしざき)」だった。石埼の乗組員たちは、一人でも多くの人命を助けようと懸命の救助活動にあたった。 泰東丸における犠牲者の数は、667名とされている。死亡率はほかの二船と比べても圧倒的に高い。 船長の貫井もその1人であった。

332NAME:2021/08/16(月) 02:44:53
我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こた母親の遺体

 以上が留萌沖で起きた「三船殉難事件」の実態である。 このような事件の発生を知った地元の漁師たちの中には、「こんなことが許されてたまるか」とすぐに船を出して、漂流者の救助にあたった者たちもいた。自身が攻撃される危険も考えられたが、(放っておけない) との思いからの行動だった。 漁師たちは遺体の収容にも努めたが、それらの中には我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こしている母親の姿もあったという。

 これら三船の殉難事件により、じつに延べ約1700人もの人々が犠牲となった。 改めて記すが、これは終戦後の話であり、しかも船はいずれも民間人を乗せた引揚船であった。 事件発生の一報は、札幌の第五方面軍司令部にも伝えられた。第五方面軍司令官・樋口季一郎陸軍中将は、すぐさま事件の詳細に関する徹底的な調査を命令。さらに大本営に事件の発生を伝え、連合国側を通じてソ連に「戦闘停止」を求めるよう要請した。 樋口からの要請を受けた大本営は、フィリピンのマッカーサー司令部に状況を伝えた。しかし、マッカーサー司令部からの返答はなかったとされる。

潜水艦の正体

 戦後の日本社会において、この事件が十分に語り継がれることはなかった。独立回復後も、日本政府の対応は緩慢だった。 昭和37(1962)年、留萌市の海を見渡す丘の上に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたが、これは地元の人々や引揚団体の募金活動によって建てられたものであった。

 昭和42(1967)年、北海道は厚生省(当時)の依頼に基づき、三船の遭難者名簿を作成。しかし、名前や年齢といった基本的な項目に間違いが多く発見されるなど、杜撰(ずさん)な作業と言わざるをえない内容だった。 昭和49(1974)年には、厚生省が泰東丸の捜索を防衛庁に依頼。海上自衛隊の掃海艇が投入されたが、船体を発見することはできなかった。翌年以降も捜索は継続されたが、昭和54(1979)年を最後に厚生省はこの計画を断念した。 そのあとに独自の活動を続けたのは、樺太からの引揚者などから成る社団法人・全国樺太連盟であった。

 昭和56(1981)年には、地元の漁船が一隻の沈没船を発見。その後、全国樺太連盟が海中調査を進め、その沈没船が泰東丸である可能性が高いことを公表した。しかし、現在に至るまで、同船は海底から引き揚げられていない。 総じて同事件に対する日本の国家としての姿勢には不満が残る。詳細に関する徹底調査や、船の引き揚げ作業、ソ連(ロシア)側への抗議など、いずれも不十分と言わざるをえない。歴代政府は、抗議どころか、潜水艦を「国籍不明」と位置付け、曖昧な姿勢をとり続けてきた。

 しかし、平成4(1992)年、秦郁彦拓殖大学教授(当時)の調査により、ソ連国防戦史研究所の回答を得た結果、三船を攻撃した潜水艦がソ連軍に属したものだったことが立証された。公式の文書によって、三船を攻撃したのはウラジオストクを拠点とするソ連海軍第一潜水艦隊所属の「L-12」ならびに「L-19」であると確認されたのである。 ちなみに、潜水艦L-12の艦長であったコノネンコという人物は、ウラジオストクに帰還後、ソ連国内で「英雄」とされ、今に至っている。

333NAME:2021/12/10(金) 01:07:05
太平洋戦争「アジア栄えさせるため」 元議員の学長、高校講演で発言
朝日新聞社
2021/12/09 21:06
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%a4%aa%e5%b9%b3%e6%b4%8b%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e6%a0%84%e3%81%88%e3%81%95%e3%81%9b%e3%82%8b%e3%81%9f%e3%82%81%e3%80%8d-%e5%85%83%e8%ad%b0%e5%93%a1%e3%81%ae%e5%ad%a6%e9%95%b7%e3%80%81%e9%ab%98%e6%a0%a1%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%81%a7%e7%99%ba%e8%a8%80/ar-AARDUZ9

元自民党衆院議員で文部科学副大臣などを務め、現在は九州国際大学(北九州市)学長の西川京子氏(76)が、10月に熊本県立高校であった講演会で太平洋戦争について「アジア全体を栄えさせ、独立させるための戦いだった」という趣旨の発言をしていたことがわかった。9日の県議会一般質問で取り上げられ、県教育委員会の古閑陽一教育長は事実関係を認め、「政府見解や学習指導要領とは一部異なる内容があった」との見解を示した。 九州国際大は朝日新聞の取材に、「学長が不在で取り次ぐことができない」としている。

 県教委や高校によると、講演会は10月8日、県立御船高校の創立100周年記念行事として行われ、全生徒約490人らが体育館やオンラインで聴いた。西川氏は約1時間の講演の中盤で、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼称した上で、その正当性を主張したという。

 講演会は同窓会や保護者会、学校職員でつくる実行委が主催。当初は元プロ野球選手を講師に予定していたがキャンセルとなり、同窓会長への一任で西川氏が選定された。学校は事前に講演内容を把握していなかったという。

 県教委は共産県議の指摘を受け、11月から同校を通じて教職員計約10人への聞き取りを実施。西川氏の発言は、日本のアジア諸国への侵略や植民地支配を認めて公式に謝罪した「村山談話」や、日本がアジアの人々に多大な損害を与えたなどとする中学校の学習指導要領と照らし、「説明が不十分だった」と判断した。

334NAME:2022/01/04(火) 07:26:57
「豪州兵と斬り結んだ白兵戦」
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100510_00000
[6] チャプター6 銃剣で突き合う白兵戦

ああ、その後で、退路を遮断して、それで大砲を撃ちかけた、逃げてくる、逃がすまいで、それをこう撃ち倒していると。両方撃ちあうと向こうもたまらんから引き返す、で、また出てくる。また撃ち返す。引き返す、また出てくる。これをもう4回繰り返したんですね。でも、4回目にはこっちもパーに。夕方近くなったからね。こっちも極端に言うと、磨り減ってなくなって、皆やられた。そういうことです。ただいえることは、これは余談になりますが、わたしの小隊長が自分の陣地から4、5m前へ進んだところで、向こうに撃たれて死んだわけです。その死骸を誰もやろうとしないから、わたしがこわごわ死骸を引っ張りに行った。ところが、それに対してオーストラリア兵は見えているはずです。当然、わたしが。ということは、戦後わたしそこに行って巻尺で、自分でいた穴、小隊長埋めたところ、それから敵の幕舎、そういったものを全部巻尺で計って、地図を作ったんです。それで見ると、なんとわたしのいた場所と敵の幕舎の間は26mしかないんです。それで幕舎逃げるわけない、幕舎から前に出てますから、向こうさんがそれよりもっとわたしたちに近いほうにいるわけです。で、小隊長も4、5m前に出ているから、少なくともその距離は20mもないはずです。だから見えているはずです。ジャングルの中だけれどね。だけど、一発も撃って来なかったんです。撃たれたらイチコロです。わたしも撃たれたらもう、そのときはそのときだと覚悟決めて行ったわけです。だけど、撃ってこないということは、「ああオーストラリア兵は武士道精神があるんだな」と、そう思ったんです。その証拠に、小隊長の負傷体を引っ張ってきて、それで中隊の指揮官に連絡とって、衛生兵に来てもらって、それで衛生兵と二人で小隊長の着ている服を全部脱がして裸にして、どこやられたか調べて、で、衛生兵は傷口を死んでいるのにきれいに消毒して、包帯をまいて、それから二人でまた服を着せて、それから埋めるのはお願いします、って言って衛生兵の上等兵は本部に引き返したんです。引き返したと同時にものすごく撃ってきたんです。だから向こうは見ていたんです、小隊長を埋めて、始末するまで。埋め終わると同時に、ものすごく撃ってきました。まぁそれで、わたしもやられたんです。

335NAME:2022/07/24(日) 23:58:52
武田邦彦氏が指摘。多くの日本人が知らない対米戦争の「事実」
2022.07.19
by 武田邦彦『武田邦彦メールマガジン「テレビが伝えない真実」』
https://www.mag2.com/p/news/545833

先の参院選に参政党の比例代表候補として出馬した中部大学元教授の武田邦彦さんは、遊説をしていて多くの日本人がさまざまな「事実」を間違って覚えていて、そのために意見がまとまらないと感じたそうです。そこで、今回の『武田邦彦メールマガジン『テレビが伝えない真実』』では、日本とアメリカの戦争について、改めて武田さんが認識している「事実」を伝えています。戦争が始まった理由については、白人相手の外交の初歩とも言えることへの不理解があったとし、ウクライナ戦争での対ロシア外交にも通じる問題だと指摘しています。

「戦争」ではなく「虐殺」だ。日本人が知らないアメリカ戦争の事実

参議院議員選挙を経験してみると、ほとんどの日本人が「事実」を間違って覚えているので、意見がまとまらない。もしかすると日本人の真面目さと長い間の日本の歴史から言って、「本当のこと」をみんなが理解していれば、争いのない、勢いのある日本になるのではないか!と思った。 今回はその第1回で、「日本とアメリカの戦争」について簡単にまとめてみたい。

(1)なぜアメリカとの戦争になったのか?

多くの日本人が、なぜアメリカと戦争になったと考えているかというと、イ)日本が軍国主義だったから、ロ)真珠湾攻撃をしたから、と思っている。でも本当はもっと簡単な理由だ。

戦争になったのは、イ)アメリカも日本も中国を狙っていた、ロ)日本が先に中国に進出した、ハ)アメリカが中国の鉄道の利権をよこせと言ったのを日本が拒否した、二)日本はアメリカから石油の77%、鉄鋼の70%を買っていた、ということだ。

アメリカは「金がすべて」の国だから、お金さえ渡せば問題は無くなる。ところが日本人は「正義」が頭をよぎるので、「日本人が血を流して満州を取ったのだ」、「北中国(北支)も日本が戦って取ったのだ」と思っていたから、アメリカからの横やりに腹を立てた。

白人相手の外交は「損得」で決まり、決まった後「正義」の衣をかぶせる。そんな初歩的なことも当時の日本人には分からなかったのだ。それは今でも同じで、国際紛争や外交の問題が起きると、すぐ「正義」で頭が熱くなってしまう。

ウクライナ戦争もそうだ。ロシアがウクライナに侵入したと報じられるとカッとなる。カッとなってロシアを激しく非難するものだから、事実が次第に明らかになって、本当はウクライナが仕掛けたことが分かっても、振りかざした拳(こぶし)を下ろすことができずに、「ロシアが悪い」に一辺倒になり、円は安くなるし、石油は高くなってしまう。オッチョコチョイなのかもしれない。

アメリカとの戦争も同じだった。アメリカが欲しがったのは、中国の鉄道利権だけで、その他は日本でよいという感触だった。それは中国利権の一部にしかすぎず、戦争などになることはなかった。その前に日本は満州国の問題で国際連盟を脱退しているが、もともとアメリカは国際連盟には参加していないのだから、それも問題はない。

日本は正義とか恩とかを問題にするけれど、アメリカ人は歴史も浅く、「お金」がすべてだ。表面上は「正義、自由」などと言うのでついついそれに気を取られるが、実際のアメリカの行動はお金だけだから、本当はわかりやすい。

336NAME:2022/07/24(日) 23:59:05
(2)戦争はアメリカだけが相手ではなかった

これも日本の教育が間違っていて、先の戦争はアメリカとやりアメリカに負けたと思っている日本人が多いが、実際には、戦ったのはアメリカとイギリス、オランダ、それに白人側に寝返った中国(白い中国という)だった。

そして、イギリス、オランダには完勝し、中国には圧倒的に優勢だった。アメリカとは戦争の後半、太平洋の海洋戦で敗れ、劣勢になったが、最終的な勝敗は不明のまま終わった??というと、ほとんどの日本人はびっくりするし、なにか誤魔化そうとしていると思う。洗脳とは恐ろしいものだ。
(3)アメリカとの戦争は終わらなかった

「戦争」とは「軍隊と軍隊」が戦うものであり、「軍隊が丸腰の市民を殺す」のは戦争ではなく、虐殺である。アメリカとの戦争は、1945年3月のルソン島(フィリピン)と硫黄島の戦いが最後で、4月1日に始まった沖縄戦は「戦争」と呼べるものではない。

つまり、軍隊と軍隊が戦う普通に言う「戦争」は3月17日の硫黄島の日本軍玉砕が最後で、そのあとは日本軍とアメリカ軍の戦闘は部分的なもので、アメリカ軍は日本軍を攻めなかった。

3月10日の東京大空襲から、アメリカ軍は日本軍とは戦わず、もっぱら日本の婦女子(非戦闘員)を標的にして襲った。このようなことは日本ではほとんどないが、ヨーロッパのように残虐な民族では時々起こっている。その多くは宗教的なものを含んでいて、例えば十字軍によるコンスタンチノーブル荒凌や聖バルテルミーの虐殺などが有名──でも戦争ではなく虐殺に分類されている。戦争は残虐にならないようにルールがある。

(『武田邦彦メールマガジン『テレビが伝えない真実』』2022年7月15日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)

337NAME:2023/03/31(金) 01:38:57
アジアを奮い立たせた勝利 「太陽の国が、明るい光を与えた」
2018/8/5 07:00
https://www.sankei.com/article/20180805-DNA3PKZDBVJAPIDOHMM3RK6L3I/3/

ロシア皇帝ニコライ2世がアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋(あっせん)を受け入れ、日露講和のポーツマス条約が調印されたのは、日本海海戦からほぼ3カ月後の9月5日である。

 近代戦で初めて、有色人種の国家が白色人種の大国を独力で打ち破ったのだ。日本の勝利は、欧米列強の植民地だったアジア諸地域の人々に、独立への勇気を与えたといえるだろう。

 インドネシアの高校歴史教科書(2000年版)には、こう書かれている。 「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。(中略)太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである」(※3)

 一方、欧米列強では、フランスやドイツなどで日本を脅威とする黄禍論が高まった。ことに日露の仲介役を務めたアメリカは、日本に肩入れすることで満州利権に食い込む思惑もあったが、あてが外れたため次第に日本をライバル視する傾向が強くなる。講和から36年後、セオドア・ルーズベルトと同じファミリーネームをもつ米大統領が日本に強烈なしっぺ返しをするのだから、歴史は皮肉なものだ。

 日本国内でも、勝利の余韻は長く続かなかった。講和条約でロシアから賠償金を取れなかったことに国民は猛反発し、暴徒が内務大臣官邸などを襲う日比谷焼打事件が発生。巨額の債務の穴埋めと国民の批判をかわすため、政府は以後、対外強硬路線に傾くようになる。

 日露戦争の勝利により、日本は列強の一員として歩み出した。しかしそれは、新たな国際摩擦への一歩でもあった。 裕仁親王、4歳の夏である--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

338NAME:2023/05/13(土) 22:17:46
太平洋戦争で旧日本軍が「緒戦に連戦連勝を重ね、後半に至り増長し始めた」という説明は事実でしょうか?
自衛隊上がりの方など、そう仰っている方を結構見かけます。

しかし、アメリカの強大さなど旧日本軍とて百も承知だったはず。そんな単純に増長するほど旧日本軍は愚かだったのでしょうか? (もちろん、アメリカ相手に真珠湾攻撃という結果的に奇襲となる形で戦争を仕掛けたこと自体は愚かだったと思います)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1181534011

アサノ ヒカリさん 2012/2/16 12:51

「緒戦に連戦連勝を重ね、後半に至り増長し始めた」についてですが、戦争後半と言うより戦争序盤の昭和17年春頃は日本中が戦勝気分に浮かれていました。無理も無い事です・・・実際に占領地はどんどん拡大し、戦果もほぼ間違いの無い物でしたから。実際にはアメリカに対しては日本は大きな脅威を持っていました。それは開戦以前の幕末の「ペリー来航」以来ずーとだったのです。しかし覚悟して実際にやってみたら「何だ!結構弱いじゃないか」と初戦で思ってしまったのです。そして日本の開戦にあたっての戦略眼はけっして間違った物ではありませんでした。開戦から約半年の間に北はアリューシャン南はビスマーク諸島、西はシンガポールまで勢力下に収めたからです。実に地球の面積の十分の一広さが日本の勢力下になったのです。

増長していたのは陸軍より海軍の上層部でした。国民の間にも「勝利」に浮かれる気分が蔓延し、それまで反戦派だった知識人にも軍を賛美する人も出て来たのでした。 しかし、アメリカの強大さなど旧日本軍とて百も承知だったはず。についてですが開戦直前の「総力戦研究所」いわゆる「総研」の戦争の推移に関する報告書では「敗戦」は予見されていました。その報告会の席上では居並ぶ戦争指導者達は黙って聞いていたそうです。 そんな単純に増長するほど旧日本軍は愚かだったのでしょうか?についてですが決して日本の兵士達が愚かな訳ではありません。軍の上層部があまりにも頑迷で無知だったのです。愚かだったのは軍を指揮する者達であって将兵は世界に比類なき程に勇敢で優秀だったのは当時の敵国も認めている事です。

何故アメリカ相手に戦ったか?それは当時の状況を知らなくてはいけません。私自身は「自衛戦争」とか「戦うも亡国戦わないのも亡国、されば戦って亡国の道を」とも言いません。 歴史を詳しく知る必要があります。もしあなたが他の会社の人間に「お前の会社の全て俺達に渡せ、そこで得た収入も全部だ。後は家に帰って自給自足で生活しろ」と言われたらどうしますか?驚きより怒りが先に立つ筈です。そうなんです!明治建国以来に築いた権益を全て放棄しろ!と言われたら「ハイそうですか」とはなる訳が無いのです。欧米諸国はアジアに植民地を築き膨大な権益を得ているのですから「お前に言われたく無いよ!」ってなりますよね? 奇襲となる形で戦争を仕掛けたこと自体は愚かだったと思います。についてですが、もしハワイを攻撃しなかったら戦前の構想の様に「艦隊決戦」になって日本は早々に敗北したでしょうね。

339NAME:2023/05/13(土) 22:18:01
ID非表示さん 2012/2/20 21:30(編集あり)

日英同盟が破棄されて以降、日本は単独で陸軍は世界最大の陸軍国ソビエトを、海軍は世界最大の海軍国米国をそれぞれ仮想敵国とせざるを得ない状況になりました。

昭和10年頃以降、陸軍は、満ソ国境で急速に増強されるソ連軍と対峙し、彼我の戦力格差が年々拡大する事態を憂慮し、しかも、兵力的に優勢を維持できない事実も認めざるを得ませんでした。海軍も、米国の大建艦計画を前に陸軍と同様の状況でした。陸海軍とも、自軍を取り巻く軍事バランスが我に不利であることは百も承知であり、帝国国防方針では先制攻撃、短期決戦を戦争ドクトリンとし、国家総力戦、総力戦は務めて避ける事としておりました。つまり、仮想帝国に対して陸海軍とも、国家総力戦、長期戦となった場合に勝算はないことを重々承知していたのです。

太平洋戦争を開戦するに当たり、陸海軍が持った明確な作戦計画は第一期作戦(南方資源地帯の占領)だけで、その後の計画は不明瞭でした。「戦いつつ国力を増強し、長期不敗の態勢を構築し、ドイツと共同で英国の脱落を図り、講和に持ち込む。」という具体性に欠けるものでした。これは最初から米国本土を占領して敵を降伏させるという軍事力がないことを確信していたからです。

第一期作戦は予想以上の成功裏に終了し、陸軍は作戦兵力のうち、占領地の治安維持に必要な兵力以外を懸案事項であった支那事変解決のため、ビルマおよび大陸へ転進させました。これより以降、太平洋戦争は帝国海軍対米国となったのです。海軍は第二期作戦(ミッドウェー、フィジー・サモア。ニューカレドニア攻略作戦など)を実行に移しました。目的は米国艦隊主力の撃滅および豪州を離脱させる事でした。その緒戦であるミッドウェー、ソロモン、ニューギニアで躓き、この時点で、日本の帝国国国防方針が破たんしたのです。

帝国国国防方針は攻勢のみを想定し、守勢の文字は全くありませんでした。これ以降、日本は有効な戦争ドクトリンのないまま敗戦の深みにはまっていくことになったのです。太平洋正面は海軍の担当でしたが、この区分けは攻勢時のみ機能しましたが、海軍が攻勢作戦不能となり守勢に回ると要地防衛戦が主体となっていきます。そこで、陸軍部隊が泥縄式に準備もなく派遣されました。陸軍は南方の戦場も、海上機動も、対米戦も想定しておらず、米軍に対する認識も欠いていました。

たしかに、陸軍主流は米軍をなめていた節があります。これは、第一次世界大戦で観戦武官が報告した米軍の戦闘能力は極めて低いもので、それはその時点では事実でしたが、これが陸軍の米国陸軍に対する強い印象として刷り込まれ、その後の米軍の進化を見過ごす事につながりました。しかし、日本陸海軍は終始増長はしていなかったと思われます。むしろ、自らの非力さと敵の強大さに怯えていたとするのが真実ではないでしょうか。それ故に、身の丈以上に乾坤一擲の攻勢作戦、短期決戦にすがったのでしょう。

陸軍については蓋を開けてみれば、全くの別世界で戦う羽目になり、持てる力すら発揮することなく潰えていったのです。力こそ正義が国際ルールだったあの時代に、昭和期の大日本帝国は独力では、その首都を占領して城下の誓いをさせる事が出来ない強大な国を敵として向かわなければならない悲しい定めから逃れる事は出来なかったのです。これを愚かな姿と笑えるでしょうか。

340NAME:2023/08/10(木) 03:12:33
未来の子供たちに謝罪の宿命を背負わせてはいけない=安倍首相
2015年8月14日7:58 午後8年前更新
ロイター
https://jp.reuters.com/article/abe-ww2-press-idJPKCN0QJ12X20150814
8月14日、安倍晋三首相は午後発表した戦後70年の安倍首相談話について、「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。写真は、会見する安倍首相のテレビニュース画面、14日撮影(2015年 ロイター/Thomas Peter)

[東京 14日 ロイター] - 安倍晋三首相は、14日午後発表した戦後70年の安倍首相談話について、「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。

先の大戦への「おわびの気持ちを引き継いでいく」と述べるとともに、「戦争とかかわりのない未来の子供たちが謝罪を続けないといけない宿命を背負わせてはいけない」と訴えた。

今回の談話で焦点である「植民地支配」や「侵略」「おわび」と言った文言について、1995年の村山富一首相談話や2005年の小泉純一郎首相談話とは異なる形で表現された。安倍首相は「戦後80年、90年、100年に向けて、日本が目指すべき国家像をできるだけ多くの国民と共有できるように談話を作成した」と説明した。 

また「おわびの気持ちは戦後の内閣が一貫して持ち続けてきた」とし、「私の内閣でも引き継いでいく」と強調した。 「侵略」については、談話のなかで「事変、侵略、戦争」との語を列挙した点に触れ、「どのような行為が侵略かは、歴史家に判断をゆだねるべき」と述べるにとどめた。

中国に対して「安倍談話をありのまま受け止めて欲しい」と指摘。「中国とは関係改善していくことで一致している」「中国に対して日本の対話のドアは常にオープン」と強調し、機会があれば日中首脳会談を実現したいとの意欲を強調した。 安保法案について「特定の国を想定したものでない」とした。同時に「ウクライナや南シナ海、東シナ海などで、力による現状変更は許すことできない」とも指摘した。

341NAME:2023/08/10(木) 03:12:49
2015年8月14日6:43 午後8年前更新
戦後70年談話、「謝罪の宿命背負わせてはならない」
https://jp.reuters.com/article/abe-statement-postwar-idJPKCN0QJ0UH20150814

[東京 14日 ロイター] - 安倍晋三首相は14日、戦後70年談話を発表。先の大戦に関わりのない子孫やその先の世代には、「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とする一方、「謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と強調した。

焦点の1つだった「おわび」の表現については、歴代内閣がこれまで「痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた」ことを踏まえ、こうした立場は「今後も揺るぎない」とした。 過去の行いについて「事変、侵略、戦争」の3つを挙げ、今後いかなる武力の威嚇や行使も二度と用いてはならないとの決意を表明。罪もない人々に「計り知れない損害と苦痛」を与えた事実を直視し、戦争で命を失った人々に対する「痛惜の念」を表した。そのうえで、植民地支配から永遠に決別することを誓った。

<不戦のメッセージを強調>

安倍首相は記者会見で「最も重要なのは不戦のメッセージ」と強調した。 焦点だった「植民地支配」や「侵略」「おわび」などの文言について、今回の談話では1995年の村山富一首相談話や2005年の小泉純一郎首相談話とは異なる形で表現された。首相は「戦後80年、90年、100年に向けて、日本が目指すべき国家像をできるだけ多くの国民と共有できるように談話を作成した」と説明。

また「おわびの気持ちは戦後の内閣が一貫して持ち続けてきた」とし、「私の内閣でも引き継いでいく」と述べた。 「侵略」については、談話のなかで「事変、侵略、戦争」との語を列挙した点に触れ、「どのような行為が侵略かは、歴史家に判断をゆだねるべき」と述べるにとどめた。

中国に対しては、「安倍談話をありのまま受け止めて欲しい」と指摘。「中国とは関係改善していくことで一致している」「中国に対して日本の対話のドアは常にオープン」と強調し、機会があれば日中首脳会談を実現したいとの意欲を強調した。

安保法案について、安倍首相は「特定の国を想定したものでない」と語り、同時に「ウクライナや南シナ海、東シナ海などで、力による現状変更は許すことできない」とも指摘した。

今回の談話では、国際秩序への「挑戦者」となってしまった過去を胸に刻み、今後は「積極的平和主義」の旗を掲げ、世界の平和と繁栄に貢献する考えを示した。 また、女性の人権についても触れ、戦場の陰で「深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも忘れてはならない」とし、21世紀は女性の人権が傷つけられることのないよう世界でリーダーシップを発揮することも盛り込んだ。 また、戦後50年の村山談話と同様、唯一の戦争被爆国として「核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指す」方針も示した。

342NAME:2023/08/10(木) 03:13:19
2023年8月9日(水) よる11時〜
BS朝日「レジェンドキュメント 〜今、このドキュメンタリーを見よ!〜」
https://newscast.jp/news/3839016
https://www.bs-asahi.co.jp/legendocument/lineup/prg_049/

#49 宿命と、忘却と〜“たった70年前”の戦争〜
2023年8月9日(水) 戦争を引き起こした
石川県かほく市の坂本信一さん、93歳。胸の内には、痛恨の思いがある…
1944年9月、中国共産党が宣伝工作に来ているとの情報を得て、集落で中国人の若い男を捕まえた。中隊長は青年をスパイとみなし、坂本さんに処刑を命じた。軍隊生活で人を殺したのは、初めてだった。
亡き妻の墓前で彼の胸にこみあげる思いとは。
殺害体験を語る全国の証言者を通して、語り継がれなかった戦争を考える。

【初回放送】北陸朝日放送:2016年3月27日

343NAME:2023/08/16(水) 00:13:09
タイ国王の「友好の絆」忘れるな ジャーナリスト・井上和彦
2016/11/22 09:46
https://www.sankei.com/article/20161122-2JZDG7FWJBIQNFRD7OLHAXK3EY/

タイのプミポン国王が10月、88歳で逝去した。70年前の1946(昭和21)年に即位。日本の戦没者へひとかたならぬ思いを寄せ、皇室との深い関係を築いてきた国王だけに、惜しまれてならない。日本がアジアに果たす役割を高く評価し、日本を支持してきたのがタイである。両国がいかに親密な関係にあったかを、現代史から探ってみたい。

 ≪列強のアジア進出に共に戦う≫ 《日本国及「タイ」国ハ相互ノ独立及主権ノ尊重ノ基礎ニ於テ両国間ニ同盟ヲ設定ス》。昭和16年12月に締結された「日泰攻守同盟条約」(日タイ軍事同盟)の第1条である。その成立過程では、日本軍のタイ進駐が先行したため両軍の間で小規模な戦闘もあったが、条約締結後は同盟国として大東亜戦争を戦った。タイ政府は、翌年1月に米英に対して宣戦布告し連合軍と戦闘状態に入っている。しかし、こうした事実は今ではほとんど忘れられているようだ。

 大東亜戦争前夜、アジア全域は欧米列強の植民地であり、独立国は日本とタイだけだった。欧米列強の侵略を阻止・追放するには日本とタイが共闘することが不可欠であり、つまり日タイ同盟は「最後の防波堤」だったのである。

タイは同盟締結前から日本を支持してきた。満州国をいち早く承認し、満州国をめぐる問題についてリットン調査団が提出した報告書の同意確認でも、42カ国が賛成したなかで棄権票を投じている。

 またタイは、日本がABCD包囲網で兵糧攻めにあっていたとき、生ゴムと綿を日本に供給した。この決断をしたのが当時のピブン首相だった。同盟が締結されるや、ピブン首相は中国国民党の蒋介石に対して「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」という勧告の電報を打っている。(『アジアに生きる大東亜戦争』展転社)

 ≪「身を殺して仁をなした日本」≫ タイ国民の中には、同国に進駐した日本軍を「占領軍」とみなした人もいたようだ。しかし、後に首相となるククリット・プラモード氏は、自らが主幹を務めたサイヤム・ラット紙に戦後、次のように書き記している。 《日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである》

344NAME:2023/08/16(水) 00:13:59
タイには『クーカム』というドラマがある。戦時下の日本海軍士官とタイ人女性の恋愛小説(邦題『メナムの残照』)をもとに1970年にテレビドラマ化されて以来何度もリメークされ、映画化されている。もし日本軍とタイの人々との関係が良好でなければ、このようなドラマが制作されることはなかっただろう。

 防衛面でも戦前からタイには日本から兵器供与が行われていた。タイの発注を受け、潜水艦4隻を含む多くの戦闘艦が日本で建造された。昭和12年に横須賀で建造されたメークロン号などはその後長くタイ海軍で使われ、いまも完全な姿で保存されている。また戦時中、一式戦闘機「隼」や九五式軽戦車なども供与されていた。 だが昭和20年8月15日、日本は無条件降伏した。このときタイは速やかに日本との同盟を破棄し、締結した協定をすべて無効とする行動に出た。タイが王室と独立を保ち続けるためには苦渋の選択だったに違いない。

 ≪靖国神社に鎮魂の誠をささげた≫ 連合軍はタイに戦犯裁判の実施を通告した。タイは自国が独自に裁判を行うとして、ピブン元首相ら10人を逮捕・抑留した。しかし翌年3月、戦争犯罪人の処分に関する法律は無効であるとして全員を釈放している。(前掲書)

それから約10年を経た昭和30年、戦時中タイ駐屯軍司令官だった中村明人元中将がタイに招待され、国民から大きな歓迎を受けた。タイの人々が日本へ寄せていた思いの表れだった。 昭和38年5月、プミポン国王が来日し、天皇陛下と会見した。プミポン国王は靖国神社参拝を希望したというが、日本の外務省が難色を示したため、代わって中村元中将が参拝した。社報『靖國』(38年7月号)に掲載された中村元中将の手記によれば、NHKホールで開かれた歓迎音楽会の休憩時間にプミポン国王が中村元中将を別席に招き、靖国神社と千鳥ケ淵墓苑に参拝してもらいたいとの意向を伝えたのだという。

 同年6月4日にはプミポン国王からの生花が神前に供えられ、鎮魂の誠がささげられた。この日のことは『靖國神社百年史』にも記されている。 プミポン国王は日本との関係を重視し、戦没者に対しても敬意の念を忘れなかった。現代に生きる日本人は、プミポン国王が守り続けた両国友好の絆を維持していかなければならないだろう。(ジャーナリスト・井上和彦 いのうえ かずひこ)

345NAME:2023/09/13(水) 03:04:01
「日本の歴史」⑥昭和篇 「昭和の大戦」への道 渡部昇一・著 WAC 2010年刊
http://nawa-fumihito.com/library039.html

「日米開戦」はチャーチルが仕組んだ

 盧溝橋(ろこうきょう)から始まったシナ事変(日華事変)はずるずると拡大していったが、その一方で、日本を取り巻く国際環境はますます悪化していった。気がつくと日本は、ABCD包囲陣に取り囲まれて、石油をはじめとする戦略物資がまったく入ってこなくなっていた。Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはオランダ(ダッチ)である。オランダは今のインドネシアを植民地にしていた(当時、インドネシアは蘭領東印度諸島と呼ばれていた)。最近の研究によると、この包囲陣を画策したのは、どうやらイギリスのチャーチル首相であったようである。

 第二次欧州大戦は1939年(昭和14)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって始まった。 ちなみに、ドイツに宣戦布告したのはイギリスであった。イギリスはポーランドとの条約にもとづいてドイツと開戦した。ヒトラーは元来イギリスと戦うことは欲していなかった。しかしひとたび戦端が開かれると、ドイツ軍の圧倒的な強さに、イギリスは風前の灯といったありさまであった。チャーチルが首相になったのも、連敗につぐ連敗でチェンバレン首相が政権を放り出したからであった。 このような状態を見てチャーチルが考えたのは、「イギリスを救うためには、この戦争にアメリカを引きずりこむしかない」ということであった。 だが、当時のアメリカは、とうてい参戦する見込みがない。というのも「第一次大戦のとき、連合国の一員として参戦したけれども、犠牲ばかり大きくて結局は何の見返りもなかったではないか。もうヨーロッパの戦争などごめんだ」という声が国民の間で圧倒的であったからだ。ルーズベルト自身、「絶対に参戦しない」という公約で大統領に当選している人である。 そこでチャーチルは、まず太平洋で日米戦争が起こるようにしむけるという迂回作戦を採ることにした。アメリカが日本と戦争を始めれば、日本と同盟関係にあるドイツはアメリカと自動的に戦うことになる――それが、チャーチルのシナリオであった。 もちろん、放っておいても日米戦争が起こるわけではないし、アメリカが日本に宣戦布告するということもありえない。あるとすれば、日本がアメリカに戦争をしかけるようにするしかない。そこでチャーチルは、アメリカやオランダを説得して、ABCD包囲陣を作ったのである。 戦略物資(つまり近代工業に必要な物資)、中でも石油がなくなれば、日本は“何か”を始めるはずだと読んだチャーチルの計算は正しかった。昭和16年(1941)12月8日、ついに日本は真珠湾攻撃を行なう。

346NAME:2023/09/13(水) 03:04:27
 “泥縄式”に始まった対米戦争  [TOP]

 日米開戦は、このような経緯によって始まったことである。何も日本が好戦的だったり、侵略的だったから戦争を始めたのではない。むしろ、海軍などはギリギリまでアメリカと戦争はしたくなかったのである。また陸軍は、元来、アメリカを仮想敵国と考えたことがなかった。 昭和天皇が終戦直後に側近に語られた記録が残されているが、それによると「この戦争の遠因はアメリカの移民禁止にあり、引き金になったのは石油禁輸だ」という主旨のご発言がある(『昭和天皇独白録』文藝春秋)。これほど簡潔で明瞭な――疑う余地がない――史観は聞くこと稀である。事実、ただでさえ世界経済がブロック化しているところに、石油まで入って来なくなっては、戦争を始めるしか選択肢は残されていなかったのである。 むろん、このような状態に追い詰められるようになった原因の一つには、軍の暴走を政府が押さえられないという憲法上の欠陥があったわけだが、それでも、東京裁判が言うような「戦争遂行の共同謀議」というような事実は、どこにもない。 東京裁判では、「狡猾(こうかつ)な日本の指導者が集まって、世界に戦争をしかける密議を凝らしていた」というような言われ方をした。そういうイメージは、今なお日本人の間にも強い。だが、当時の日本の状況は、何度も繰り返すように「共同謀議」どころの騒ぎではなかった。 何せ海軍が対米戦争突入の研究を始めたのは石油禁輸の問題が出てからであり、真珠湾攻撃の図上演習は作戦開始の3カ月前からようやく始まったというありさまである。まさに“泥縄式”である。それまでの帝国海軍は、小笠原沖あたりでアメリカの円形に配置した大海軍と決戦するというような、迎撃戦型の海戦を主として研究していたのである。 それなのに今日でも日本のイメージが悪いのは、やはり真珠湾攻撃が“スニーク・アタックsneak attack=こっそり忍び足で近づいて行なう卑怯な攻撃)となってしまったことが、最も大きいであろう。 日本が真珠湾を奇襲攻撃したというニュースは、それまで戦争に消極的だったアメリカ世論をいっぺんに変えてしまった。一夜にして、日本を叩き潰すことがアメリカ人にとって“正義”になったのである。今でも日米関係で何か問題が起こると、「やはり日本は油断がならない。真珠湾を忘れるな」という雰囲気になるのは、このときの記憶が生々しいからである。

347NAME:2023/09/13(水) 03:05:17
 日本の外交官が「奇襲攻撃」にしてしまった  [TOP]

 いまだに真珠湾攻撃は日本にとってマイナスの要素になっているわけだが、これが最初から奇襲攻撃をするつもりで行なわれたのであれば、まだ諦めもつく。小狡(ずる)い日本人という悪評も甘受しよう。しかし、現実には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。政府も連合艦隊も、ちゃんと開戦の通告をやってから真珠湾に最初の一発を落とそうと思っていたのである。 ところが、これは予定どおりに行なわれなかった。それは、すべてワシントンの日本大使館員の怠慢に由来する(以下の記述は徳岡孝夫「誰が一二月八日を国辱の日にしたか」〈『文藝春秋』昭和61年1月号〉によるところが多い。なお、この事実は私自身も、当時のことを知る外交官に聞いて確認した)。 真珠湾攻撃に当たって、海軍軍令部総長の永野修身は宮中に参内し、昭和天皇に「戦争はすべて堂々とやって、どこからも非難を受けぬように注意いたします」と奏上した。また、連合艦隊をハワイ沖に送り出すに当たって、山本五十六長官は「くれぐれも偏し討ちにならぬよう」と念を押したという。 このときの日本政府の計画では、開戦の30分前にはアメリカ国務省のコーデル・ハル長官に国交断絶の通告を渡すことになっていたようである。 「たった30分前では奇襲と同じではないか」という議論は成り立たない。というのも、この当時は、すでに開戦前夜のような状況が続いていた。すでに対日石油禁輸は実行されていたし、アメリカにある日本資産の凍結が行なわれていた。また、アメリカ側の事実上の最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」が日本に渡されていたからである。 このような状況であるから、アメリカ側も「いつ日本は宣戦布告を出してくるのか」と待っていたのである。その後の研究では、外務省の暗号は解読されていた上に、機動部隊の動きも知られていたという。だから、日本が開戦の30分前に断交通告を出してきても、彼らは驚かなかったはずである。もちろん、完全に合法的である。
 ところが、この予定は大幅に遅れ、実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本の野村(吉三郎)駐米大使、来栖(三郎)特命全権大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである。 ルーズベルトは、日本側の失態を最大限に利用した。アメリカ国民のみならず、世界に向けて「日本は奇襲攻撃をしてから、のうのうと断交通知を持ってきた。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングは見たことがない」ということを印象づけたのだ。 このとき断交通知が遅れたことについては、戦後長い間「大使館員がタイプライターに不慣れなために予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うのである。

348NAME:2023/09/13(水) 03:05:30
開戦前日(ワシントン時間12月6日)の午前中、外務省は野村大使に向けてパイロット・メッセージ(予告電報)を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にアメリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。 何度も言うが、当時はすでに開戦前夜のごとき状況である。日米交渉の当事者であるワシントンの外交官たちは、そのことを十分知っていたはずである。 ところが、いったい何を血迷ったのか、この日本大使館の連中は一人残らず、夜になったら引き上げてしまったのである。すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行なわれることになっていたのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。 さて、運命の12月7日(ワシントン時間)、朝9時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これを見た武官が「何か大事な電報ではないのか」と大使館員に連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。同じ日本人として痛憤に耐えない。 しかも、彼らのミスはそれだけに留まらない。 あわてて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。しかも、この文書を現地時間の午後1時にアメリカに手渡せと書いてある。 大使館員が震え上がったのは言うまでもない。ところが、その緊張のせいか、あるいは前夜、当直も置かずに送別会をやったという罪の意識からか、電文をタイプで清書しようと思っても間違いの連続で、いっこうに捗(はかど)らない。そこで彼らがやったのは最悪の判断であった。ハル長官に電話して、「午後1時の約束を、もう1時間延ばしていただけないか」と頼んだのだ。 いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っているのであろう。外務省は、「現地時間の午後1時に渡せ」と指示してきているのだ。それを独断で1時間も遅らせるとは、どういうつもりであろうか。 要するに彼らはエリートかもしれないが、機転が利かないのだ。「外交文書はタイプで清書しなければならない」という国際法など、どこにもない。タイプが間に合わなければ、手書きのまま持っていって、とにかく指定された午後1時に「これは断交の通知です」と言って渡すべきだったのだ。きれいな書面が必要なら、あとで持ってきますと、なぜ言えなかったのか。あるいは断交だけを口頭で伝え、あとで文章を渡してもよかったのだ。

349NAME:2023/09/13(水) 03:05:48
 現に、コーデル・ハルは戦後出版した回想録(The Memories of Cordell Hull, 1948)の中で、次のように書いているのだ。 「日本政府が午後1時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前(本当は数十分前=渡部註)に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間どってまごまごしていた。だから野村は、この指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正1時に私に会いに来るべきだった」(訳文は『回想録』朝日新聞社〈昭和24年〉を用いた) いやしくもワシントン大使館にいるような外交官といえば、昔も今も外務省の中では最もエリートのはずである。そのような人たちにして、この体たらくとは。

350NAME:2023/09/13(水) 03:06:02
 真相を隠し続けた駐米大使たち  [TOP]

 しかも、これには後日談がある。 だいぶ昔の『タイム』誌で読んだのだが、あるとき、2人のオランダ海軍の軍人が正式な任官を前にして、生涯の誓いをしたという。それは、「どんなことがあっても、お互いのことを褒めあおう」ということであった。 閉鎖的な組織の中での出世の原則は、「同僚から足を引っ張られない」ということに尽きる。外部からの評価などあまり関係ない。要は、仲間内での“受け”がいいかということが大事なのだ。この2人は誓いを守った。その結果、めでたく両人ともオランダ海軍のトップの座に就いたという。 この話と似たようなことが、開戦のとき一緒に送別会をやって大失敗をやらかしたワシントン駐在の外交官たちの中でもあったらしい。すなわち、「あの晩のことは、一生涯、誰も□にしない」という暗黙の掟ができあがったと見える。 その誓いは守られた。このときワシントンの大使館にいた人は、みな偉くなった。その中には戦後、外務次官になった人もいるし、国連大使になった人もいる。勲一等を天皇陛下からいただいた人もいる。 あの『昭和天皇独白録』を筆記した寺崎英成という人は、あの晩、送別会の主役であった人物である。もちろん、断交通知が遅れたことについて、彼だけを責めるつもりはない。しかし、真珠湾攻撃がなぜスニーク・アタックと呼ばれるようになったのかは、当然知っていたはずである。ところが彼もまた、その真相を誰にも話さなかった。そして、話さないまま、天皇の御用掛になった。 言うまでもないことだが、昭和天皇は最後まで日米開戦を望んでおられなかった。閣議が「開戦やむなし」という結論になったときも、「和平の可能性はないか」ということを重臣に何度も確認しておられたという。 このようなお考えであったから、天皇はきっと真珠湾攻撃がスニーク・アタックになったことを残念に思っておられたはずである。「暗号解読に予想外に手間取り」という言い訳を聞かされて、やむなく納得しておられたのだ。
ところが、その真相が違うことは、目の前にいる寺崎本人が誰よりもよく知っていたのである。何という皮肉な話であろうか。 もちろん、寺崎にしても、天皇に対して真相を隠しつづけることは苦痛であったと思う。それは想像にかたくない。だが、やはり寺崎たち関係者は、事実を自ら公表すべきであったのだ。
 もし彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らかにしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはなかった。 駐米大使をはじめ、当時の関係者たちがペンシルヴァニア・アベニューにずらり並んで切腹して天皇と日本国民に詫びるということでもやっていたら――読者は笑うかもしれないが、明治の外交官であれば、そのくらいのことはやったであろう――そのニュースは世界中を駆け巡り、真珠湾奇襲についての悪評は消えていたはずである。 「そうすれば、この間の戦争も、もっと早期に終わったかもしれない」というのは、かつて駐タイ大使であった岡崎久彦氏の意見である。この見方に私も賛成である。 アメリカにしても、もともとは広島・長崎に原爆を落とすところまで対日戦争に深入りする気はなかったはずである。彼らにしても、ある程度日本を叩いたら、さっさと有利な条件で講和をしたほうが得策だったはずである。 もし、この戦争が“スニーク・アタック”で始まっていなければ、彼らとて岡崎氏の言うごとく「早く手を打とう」と考えた可能性もあろう。だが、現実にはアメリカの世論は反日ムード一色である。とても早期講和などと言い出せる状態ではない。戦争が真珠湾攻撃で始まったことは、アメリカの選択肢をも狭めたのである。

351NAME:2023/09/13(水) 03:06:17
★ なわ・ふみひと の ひとくち解説 ★  この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとり(だった)と言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または、タブーなのであえて知らないふりをしている)点です。 太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。 このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。 当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。 つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。 アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。 結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。

352NAME:2023/12/12(火) 21:51:03
「首を斬る快感」を語るおやじが許せなくて 武田鉄矢さんと父の物語
聞き手・後藤遼太2023年12月7日 11時00分
https://www.asahi.com/articles/ASRCX624QRC8UTIL026.html?iref=com_rnavi_arank_nr01

「中国の匪賊(ひぞく)のヤツらを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を切り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんはおやじの横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。

彼の夢は、大日本帝国の勝利だったんです。敗北によってアメリカの時代がやってきて、それに対する不満と怒りが渦巻いていたんでしょう。おやじの戦後は、皇居前で正座したまま、その姿勢のまま終わっていったんじゃないですかね。

 ところが、母は進駐軍の将校…

353NAME:2024/03/11(月) 16:00:41
「バーン」靖国神社に落ちた爆弾、生き残った8歳 メラメラ燃える自宅は「美しかった」 #戦争の記憶
https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/pacificwar2.html


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