- 1 :名無しさん :2011/08/04(木) 13:58:31
- いろいろ書いていきます
- 14 :rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/11(木) 12:29:42
- 自然から派生したヒト(生物全てとも言える)は自然そのままのメカニズムを内に格納しており、
サーカデアンリズムやホメオスタシスなどがその代表と言える。 自然のメカニズムは肉体だけでなく精神世界にもがっちり組み込まれている。 内分泌系は体内の無機質やPHなどが偏らないように、常に相反する作用を持ったホルモンをバランスよく 分泌して一定の値を保つようになっている。 同じように感情も、一方的に偏らないようにバランスを保つ働きを持っている。 喜怒哀楽で例を出すために簡単なイメージで喜⇔怒 哀⇔楽とする。 ある一定まで喜びすぎるとバランスを保つために怒りたくなってくる。 その為ちょっとした事にでもむしゃくしゃしたり、また、怒りすぎると急に優しくなったりするのだ。 哀⇔楽の例だと、哀しくてさめざめ泣いていても、落ち着いたころにちょっと面白いことがあると ゲラゲラ笑ったりするのだ。 この時、先に書いた球体が大きければ激しく感情が動くことになるだろうし、小さければ感情がほとんど 動かなかったりする。 大きいほうがヒトとして楽しいだろうが、小さいヒトはより中心に近いという意味があり、いわゆる悟りに近しいと言える。 この感情のバランスをとる働きが悪くなると心身疾患になる。 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 15 :rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/11(木) 13:00:18
- 仮に、球体の上下をプラスとマイナスに分けてみる。上部にはプラスの感情や価値観を、下部にはマイナスの感情や価値観を、それぞれ対極の位置に置いてみる。
ヒトの意識は常に一つ。二つ以上の思考が出来ても、高速で往復しているだけだ。そしてその一つの意識は球体を漂っている。 楽しい人は楽しい所に、悲しい人は悲しい所に移っている。中心から離れれば離れるほど、その感情は大きくなる。 感情が大きく動く分、それはある意味では楽な状態とも言える。思考が働きにくく夢を見ているのと同じだからだ。 多くの場合、ヒトは考えずに行動できる。食事や通勤など習慣化されたものなら尚更だ。いちいちその行為について考えない。 大抵は昨日の楽しかった事や今日の予定に感情を揺らしながら生活している。これが夢を見ている状態なのだ。 未来や過去のイメージであり、現実を見向いていない。 それはそれで幸せな状態とも言える。一生を夢見て幸せならそれも一つの人生だろう。 このようなヒトは哲学とは無縁なのだろう。哲学とは精神的な苦痛を無くすものだと考えている。 苦しい時や困難な時に、哲学は道を示してくれるのだ。
- 16 :rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/12(金) 17:36:27
- さて、大抵のヒトは夢の中で生きている。幻想の中で生きる事は楽しいからだ。
ある人はお金、ある人は異性、ある人は食べ物の夢を見ている。 常に頭に棲みつき、思い入れが強いほど離れる事が困難になる。 しかし時には苦痛になる事もある。この状態は心の平衡する力が働き、楽が苦になったと言えよう。
精神世界でいう覚醒した状態とは、この夢から覚めている状態に他ならない。
- 17 :rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/12(金) 18:04:24
- 覚醒するとどうなるか。夢を見ることがなくなり、常に現実を意識するようになる。
普段、気づかなかった事にも気づく事が出来る。雑音とも言える無駄な感情も無くなるので、あらゆる作業が はかどるだろう。 精神的な苦痛も無くなる。その代わり、楽も無くなる。あらゆる価値観が消滅するので苦や楽といった基準も無くなるからだ。
無感情な人になるだけかと思われるかもしれないがそうではない。むしろあらゆる感情が制御され、感情によって自身が左右されることが無くなる。 楽しんだり苦しむ事は出来るが、決してそれによってぶれる事は無いだろう。 ただ、心底から楽しみ、苦しむ事は無いだろう。
- 18 :rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/14(日) 12:14:59
- 宇宙儀のモデルをイメージしているが、ある一部が突出すると強力な個性となりうる。
そのような個性がいくつかあると、あたかも人格が多数あるように見えるだろう。 多重人格とはこのような状態なのかもしれない。
- 19 :rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/14(日) 12:34:35
- 苦を取り除くには楽も取り除かなければならない。
苦だけを取り除く事は、楽が存在する限りは不可能なのだ。
- 20 :rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/14(日) 12:43:00
- 中心地点は、あらゆる感情や価値観からも干渉されずに物事に気づき、見ることが出来る、悟りの場であると書いた。
日常でも、ふと、その場に入る事がある。いわゆる我に返るという状態だ。誰でも経験はあるだろう。 現実の空間に気づき、冷静に自分の位置や状態を見つめられる。特に感情も動かず、在るものを在ると感じられる、 いわゆる覚醒した状態だ。 哲学とはこのような状態でないと体感できないらしい。頭だけの理解でわかったような気になるよりかは一つの実感が勝るだろう。 夢を見ている状態が悪いというわけではないが、生きている実感が沸かないのではないかと思う。未来や過去のことばかりのイメージで 現実を見ていないとすれば、長く生きていたとしても実際に生きたと意識できた時間はそう多くはないのではないかという意味だ。
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