板情報 | 学問/人文/科学 ]

riozメモ

スレッド作成:
タイトル:
名前: E-mail(省略可)
内容:

1 : 雑多な事(6) / 2 : ARS総合....639690668(1) / 3 : 全と無(6) / 4 : 哲学らしいことなど(20)
  (全部で4のスレッドがあります)

掲示板の使い方 / 新着をメールで受信 / 過去ログ倉庫 / スレッド一覧 / リロード




1 雑多な事 (Res:6)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1名無しさん :2011/08/22(月) 17:11:55
を書いていきます。

2名無しさん :2011/08/22(月) 17:12:59
一生懸命な事を非難するのは、自分が一生懸命になれない人だ。


3rioz ◆OVMO3/8CTk :2011/09/11(日) 14:46:12
ヒトが否定されると反発をするのは、それまでそれを信じていた時間が、
無駄になると感じてしまうからだ。
それを信じていた期間が長ければ長いほど、反発の度合いは強まる。
無駄な時間を過ごしてきたと考えてしまうのだ。


4名無しさん :2012/01/13(金) 17:23:56
真に平和であるということは、平和を作るのではなく、争いを無くすことだ。
平和という概念があるから争いという概念も生まれる。争いが裏にある以上、平和とはいえない。


5rioz :2012/06/09(土) 12:00:34
犯罪衝動を抑制できないのは良心が抑制されているからだ。
同じ抑制をするのなら、犯罪衝動を抑制したほうが健康的と言える。


6rioz :2012/07/19(木) 11:48:49
ヒトの思考や行動の動機は自分の都合がいいか悪いかである(自己都合論)


名前: E-mail(省略可)
全部読む 最新50 1-100 メール受信 掲示板トップ リロード


2 ARS総合....639690668 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 2
1フォルスカーター ◆hislJKU9sQ :2012/04/29(日) 03:44:29
ttp://bbs.aqbb.net/?ars99
ttp://ikushio.info/ars99/

ARS総合来ました(。・ω・。)

名前: E-mail(省略可)
全部読む 最新50 1-100 メール受信 掲示板トップ リロード


3 全と無 (Res:6)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 3
1名無しさん :2011/11/11(金) 19:49:06
について

2rioz :2011/11/11(金) 19:55:54
全とはどのようなものだろう。
全知全能という言葉がある。全てを知り全てをなしえることだ。全てとは何か。

現実世界は有るという事が前提としている世界だ。様々な物で溢れている。
物質が無くても空白、空間が有るともいえる。何かしらは存在するのだ。
有というものだけでは全てとは言えない。無というものを含んでいないからだ。
有と無を含めて全と言える。無とは何か。


3rioz :2011/11/11(金) 20:07:00
現実世界は有が前提としているので、無の世界は我々では知覚できないのではないかと
考えた。まったく別の無という世界があるのだろうと考えていたのだ。その世界では有の世界も
知覚できないのだろう。
無の世界。どのような世界だろう。

現実では、部屋の中に荷物が有ればはっきりと有ると言える。部屋がからっぽなら無いと言えるが、「無が有る」とも言える。
前者を有中の有、後者を有中の無とする。
無の世界ではどのような事になるのか。

「無の中の無」とは無いということすら無いということになる。
「無の中の有」とは何だろう。無が前提の世界に何があるというのか。


4rioz :2011/11/11(金) 20:12:54
最初、無の世界は知覚できないから理解するのも困難だと思っていた。
しかし有と無を対比したとすれば現実世界も対比されるものがあると考えた。それは精神世界と言える。
精神世界、つまり思考の中では確かに何も無い。無を前提としている。考えれば思考したものが有る。
これは無中の有と言えるのでは無いか。考えることをしなければそれこそ何も無くなってしまう。無中の無と言えるのではないか。


5rioz :2011/11/11(金) 20:23:01
しかし精神世界の有中の有を考えたとき、それはイメージしたものが物質化することを意味する。
現実世界でイメージが物となるのだ。これは一番最初に考えた、現実世界での有中の有とはそぐわない。
現実世界の物質はイメージする前から存在していたからだ。つまり精神世界の無は現実世界にとっての有に対するものではないということになる。
精神世界の有中の無はどうか。イメージが五感を通して感じられるものだと考える。空間には何もないが確かに感じられるということだ。

これで精神世界の4つのパターン。有中の有、有中の無、無中の有、無中の無は揃えることができた。


6rioz :2011/11/11(金) 20:30:41
ここで現実世界の有と無を考えると、物質に対するものはエネルギーだと気づいた。
物理学でも物質とエネルギーは変換できるとされている。確かにエネルギーは形が無い。

有中の有、有中の無は空間があるということを前提としていた。現実世界にとっての無とは空間の無い事か。
となると現実世界にとっての無中の有は空間は無いがエネルギーは有るという事になる。無中の無は空間もエネルギーも無いということになる。

にわかに想像しづらいが、しかしここまで含めないと全というものは理解できないのだろうとは思う。


名前: E-mail(省略可)
全部読む 最新50 1-100 メール受信 掲示板トップ リロード


4 哲学らしいことなど (Res:20)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 4
1名無しさん :2011/08/04(木) 13:58:31
いろいろ書いていきます

14rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/11(木) 12:29:42
自然から派生したヒト(生物全てとも言える)は自然そのままのメカニズムを内に格納しており、
サーカデアンリズムやホメオスタシスなどがその代表と言える。
自然のメカニズムは肉体だけでなく精神世界にもがっちり組み込まれている。
内分泌系は体内の無機質やPHなどが偏らないように、常に相反する作用を持ったホルモンをバランスよく
分泌して一定の値を保つようになっている。
同じように感情も、一方的に偏らないようにバランスを保つ働きを持っている。
喜怒哀楽で例を出すために簡単なイメージで喜⇔怒 哀⇔楽とする。
ある一定まで喜びすぎるとバランスを保つために怒りたくなってくる。
その為ちょっとした事にでもむしゃくしゃしたり、また、怒りすぎると急に優しくなったりするのだ。
哀⇔楽の例だと、哀しくてさめざめ泣いていても、落ち着いたころにちょっと面白いことがあると
ゲラゲラ笑ったりするのだ。
この時、先に書いた球体が大きければ激しく感情が動くことになるだろうし、小さければ感情がほとんど
動かなかったりする。
大きいほうがヒトとして楽しいだろうが、小さいヒトはより中心に近いという意味があり、いわゆる悟りに近しいと言える。
この感情のバランスをとる働きが悪くなると心身疾患になる。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


15rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/11(木) 13:00:18
仮に、球体の上下をプラスとマイナスに分けてみる。上部にはプラスの感情や価値観を、下部にはマイナスの感情や価値観を、それぞれ対極の位置に置いてみる。
ヒトの意識は常に一つ。二つ以上の思考が出来ても、高速で往復しているだけだ。そしてその一つの意識は球体を漂っている。
楽しい人は楽しい所に、悲しい人は悲しい所に移っている。中心から離れれば離れるほど、その感情は大きくなる。
感情が大きく動く分、それはある意味では楽な状態とも言える。思考が働きにくく夢を見ているのと同じだからだ。
多くの場合、ヒトは考えずに行動できる。食事や通勤など習慣化されたものなら尚更だ。いちいちその行為について考えない。
大抵は昨日の楽しかった事や今日の予定に感情を揺らしながら生活している。これが夢を見ている状態なのだ。
未来や過去のイメージであり、現実を見向いていない。
それはそれで幸せな状態とも言える。一生を夢見て幸せならそれも一つの人生だろう。
このようなヒトは哲学とは無縁なのだろう。哲学とは精神的な苦痛を無くすものだと考えている。
苦しい時や困難な時に、哲学は道を示してくれるのだ。


16rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/12(金) 17:36:27
さて、大抵のヒトは夢の中で生きている。幻想の中で生きる事は楽しいからだ。
ある人はお金、ある人は異性、ある人は食べ物の夢を見ている。
常に頭に棲みつき、思い入れが強いほど離れる事が困難になる。
しかし時には苦痛になる事もある。この状態は心の平衡する力が働き、楽が苦になったと言えよう。

精神世界でいう覚醒した状態とは、この夢から覚めている状態に他ならない。


17rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/12(金) 18:04:24
覚醒するとどうなるか。夢を見ることがなくなり、常に現実を意識するようになる。
普段、気づかなかった事にも気づく事が出来る。雑音とも言える無駄な感情も無くなるので、あらゆる作業が
はかどるだろう。
精神的な苦痛も無くなる。その代わり、楽も無くなる。あらゆる価値観が消滅するので苦や楽といった基準も無くなるからだ。

無感情な人になるだけかと思われるかもしれないがそうではない。むしろあらゆる感情が制御され、感情によって自身が左右されることが無くなる。
楽しんだり苦しむ事は出来るが、決してそれによってぶれる事は無いだろう。
ただ、心底から楽しみ、苦しむ事は無いだろう。


18rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/14(日) 12:14:59
宇宙儀のモデルをイメージしているが、ある一部が突出すると強力な個性となりうる。
そのような個性がいくつかあると、あたかも人格が多数あるように見えるだろう。
多重人格とはこのような状態なのかもしれない。


19rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/14(日) 12:34:35
苦を取り除くには楽も取り除かなければならない。
苦だけを取り除く事は、楽が存在する限りは不可能なのだ。


20rioz ◆yJyV0By3AI :2011/08/14(日) 12:43:00
中心地点は、あらゆる感情や価値観からも干渉されずに物事に気づき、見ることが出来る、悟りの場であると書いた。
日常でも、ふと、その場に入る事がある。いわゆる我に返るという状態だ。誰でも経験はあるだろう。
現実の空間に気づき、冷静に自分の位置や状態を見つめられる。特に感情も動かず、在るものを在ると感じられる、
いわゆる覚醒した状態だ。
哲学とはこのような状態でないと体感できないらしい。頭だけの理解でわかったような気になるよりかは一つの実感が勝るだろう。
夢を見ている状態が悪いというわけではないが、生きている実感が沸かないのではないかと思う。未来や過去のことばかりのイメージで
現実を見ていないとすれば、長く生きていたとしても実際に生きたと意識できた時間はそう多くはないのではないかという意味だ。


名前: E-mail(省略可)
全部読む 最新50 1-100 メール受信 掲示板トップ リロード