- 1:名も無き@冒険者:2012/07/30(月) 21:16:18 ID:pYbWHhLU0
- センゴクの朝倉義景wwwwwwww
1 : 風吹けば名無し : 2012/07/30(月) 15:48:44.71 ID:Cph4593s
姉川の戦いに自らは出馬せず→案の定細川六郎からツッコまれる→包囲網に参戦するもくつろいだまま近江在陣→なにぃ、弾正忠がもう来たと!景健ィなんとかせい!→ 景鏡の謀略にはまり信長と追いかけっこ勝負。一乗谷を失う→人生って最高や!と賢松寺でほっこり→ち〜ん
うーんこの大名
2 : 風吹けば名無し : 2012/07/30(月) 15:49:29.60 ID:+BsgTSS/ 高橋「なおワイは泣いちゃうもよう」
3 : 風吹けば名無し : 2012/07/30(月) 15:50:22.24 ID:yAmtQfCY 鳥居「感動してすまんな」
元スレ:ガンダムMS IGLOOのデュバル少佐wwwwwwww
- 362:名も無き@冒険者:2021/02/28(日) 14:28:25 ID:00bmpWA60
- 2019年8月30日16時 東京新聞
豊臣秀次について、死の約三カ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が(29日までに)見つかった。 書状を精査した東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授は「秀次の切腹に至る経緯の解明につながる貴重な発見だ」と話している。 史料は同編纂所が保管していた文書群から見つかった。秀吉の側近が有力大名の毛利輝元に宛て、政治情勢などを伝えた文禄四年(1595年)の書状とみられ、「殿下様(秀次)の若君を大和の国主にする」と秀吉が述べていたとする記載があった。秀次は、書状が書かれた約三カ月後に謹慎を命じられて切腹し、妻や子どもも処刑された。
通説では、1593年に生まれた秀頼を跡継ぎにしたい秀吉の思惑が、秀次の切腹につながったとされてきた。 ただ村井准教授によると、切腹の理由を直接的に裏付ける一次史料は見つかっておらず、近年は通説を疑問視する研究もあるという。 村井准教授は「大和は京都と大坂に接する重要な土地。秀吉は豊臣政権の安定を考え、少なくとも書状が書かれた時点では、秀次一家をつぶすつもりはなかったのではないか。切腹までの約三カ月に決定的な出来事があった可能性がある」と話している。
- 363:名も無き@冒険者:2021/02/28(日) 14:30:59 ID:00bmpWA60
- 2021年2月2日08時49分 東京新聞より
韮山地域(現伊豆の国市)の代官を務めた江川家で造られ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にも贈られた「江川酒(えがわしゅ)」を復活させる作業が進んでいる。昨年確認された江戸時代の製法書を基に醸造に取り組む伊豆市の万大醸造で一日、三段仕込みの最終段階となるかい入れが行われた。
江川酒は江戸中期の元禄十一(一六九八)年に製造が中止され、「幻の酒」とされてきた。復活すれば約三百二十年ぶり。
一日は江川家四十二代当主の江川洋さん(50)、製法書を確認した江川文庫学芸員の橋本敬之さん(68)が見守る中、杜氏(とうじ)の伊奈静夫さん(73)が、かいを使いタンク内のもろみを丁寧にかきまぜた。今後は温度を調整しながら発酵させる。 仕込みは一月六日に始まり、可能な限り製法書に従っている。現代の日本酒より使う水の量が少なく、通常はどろどろのタンク内もこの日は乾いていた。伊奈さんは「初めて見た。これからどんな酒になるか。ドキドキだ」。江川さんは「復活に意義を感じた取り組みがうれしい。酒を通じて江川家の歴史にも注目が集まれば」と話した。
- 364:名も無き@冒険者:2021/03/06(土) 18:54:10 ID:00bmpWA60
- 2021年3月6日 16時34分 (共同通信)
信長の小牧山城に最古級庭園か 玉石出土「軍事空間にわび」 織田信長が築いた愛知県小牧市の小牧山城(国指定史跡)で、丸い「玉石」を敷き詰めた遺構が出土した。同市教育委員会が6日までに発表した。枯山水のような庭園と推測され、市教委は「庭を設ける信長の城造りの源流」としている。 城郭庭園は、信長が小牧山城から移った岐阜城(岐阜市)に造ったのが最古とされており、定説を覆す可能性がある。 市教委によると、遺構は小牧山の山頂東側で発見。直径5~15cmの玉石が幅2~3m、長さ約9・2mにわたって敷き詰められていた。 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「城郭という軍事空間に相反するわびの空間を作り出している」と指摘する。
- 365:名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 18:00:44 ID:00bmpWA60
- あ
- 366:名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 18:03:03 ID:00bmpWA60
- 橋本外記について
松田尾張守憲秀の部下的(と言っても寄騎に近い)ポジションであったらしい
- 367:名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 21:33:01 ID:00bmpWA60
- 港区/デジタル版 港区のあゆみ
港区史 通史編 原始・古代・中世 中世 第二章 中世後期の港区域 第三節 小田原衆所領役帳
>早雲が最後に拠点として選んだ小田原城主時代に、相模衆一四家を加え、四六家が初代早雲時代以来の譜代衆である。「小田原衆所領役帳」を調えた早雲の孫氏康は、この四六家から、三家老・五家老・二〇将の合計二八家を制定した。この二八家は後北条氏の軍事編成に対応している。後北条氏の家臣団の頂点に立つ三家老は、駿河国興国寺城代松田尾張守・上野国松井田城代大道寺駿河守・武蔵国江戸城代遠山丹波守である。それぞれ後北条氏にとって東西と北方の戦略的に大切な城であるが、北条領の東の備えとしての江戸城の意味がいかに重要であったかがよくわかる。次に位置するのが五家老で、武蔵国川越城代北条綱成・相模国甘縄城代北条綱高・武蔵国栗橋城代富永右衛門尉(えもんのじょう)・伊豆国下田城代笠原能登守・上野国平井城代多目周防守の五人。この五家老は、戦国大名後北条氏の軍制の中心となっており、北条綱成は黄備(そなえ)、同綱高は赤備、富永は青備、笠原が白備、多目が黒備とされ、後北条氏の軍勢の多くが五色の旗指物で五つの軍団に編成されていたのである。二〇将もまた、この五色の旗指物に分けられて当時備(そなえ)と呼ばれた部隊を編成して軍勢の最前面に配置されていた。また、最後方に布陣する大将の周囲を固める旗本衆は、「い・ろ・は・に・ほ・へ・と」「ち・り・ぬ・る・を・わ・か」「よ・た・れ・そ・つ・ね・な」「ら・む・う・ゐ・の・お・く」「や・ま・け・ふ・こ・え・て」「あ・さ・き・ゆ・め・京」「み・し・ゑ・ひ・も・せ・す」の四八組で七つの部隊に編成されていた。
この最後の方、ひらがなの分類だけど、 数グループに分かれているってのは全くもって初見の情報で驚くばかり(小田原旧記にすらそんなことなかったと思うが) しかも
>各々旗指物に、かな文字一字を記していたのである。旗本勢と五色の主力部隊の中間に配置されていたのが、三家老とその軍勢であった。他国衆や一門衆は、浮役寄合衆あるいは浮勢と呼ばれた予備軍で、合戦の状況次第で随時に持ち場を指定されて行動する軍勢である。それぞれの軍勢の集団を備(そなえ)と呼ぶが、最前列に鉄砲と弓を装備した徒歩兵が配置され、次段には鑓、その後方に騎兵が控えて備ごとの指揮官が存在した。当時の戦国大名は大体同じような兵種であったが、近年の研究では東国と西国の合戦には相違があったと指摘されている。「日本の武士は馬に乗って移動するが、合戦の場では馬から降りて戦うのが、西洋と異なる」というルイス・フロイスの記述から、一時は、「武田の騎馬隊などというものは存在しない」「戦国大名の軍勢というのは、在地小領主ごとの小部隊の寄せ集めであるから、兵種ごとの部隊編成だったはずがない」という主張が一般書で行われるに至った。
この前・中・後の布陣の作法についても未知のことだったので驚くばかり
- 368:名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 21:38:26 ID:00bmpWA60
- >367
どうも通常の町史や市史のような文献羅列形式ではないので、 その根拠は参考文献に挙げられた書籍を当たるしかないようである
- 369:名も無き@冒険者:2022/08/11(木) 21:04:18 ID:00bmpWA60
- 諏訪三河守まとめ
北条家臣。 諏訪氏当主(恐らく。可能性大)。鎌倉公方次いで室町時代には古河公方に仕えた小堤諏訪氏の出身とも。 先祖は古河公方か扇谷上杉家に寺尾を本拠地として与えられた。 寺尾城主。江戸衆に属す。 初名は右馬助(介とも)。永禄二年に三河守となった。(三河守は諏訪当主の名乗り)
河越合戦の折、城中の人間の助命を条件に城を明け渡す交渉を連合軍側としてくるよう氏康から命じられる。 これは関東に根を張る諏訪一族のツテがあったとされる。
寺尾城には、馬術訓練のための馬場を設けたという伝承がある。
天正三年に没。戦死とも。
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