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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

642よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/04(日) 08:17:56 ID:mCkC.vkk0
大阪大空襲:67年前、父が写した“地獄” 京都の男性宅に未発表写真11枚
http://mainichi.jp/kansai/news/20120303ddn012040067000c.html

 太平洋戦争中の大阪大空襲の被災状況を伝える未発表写真11枚が京都市内の個人宅で見つかり、大阪国際平和センター(ピースおおさか、大阪市中央区)で展示されている。第1回大空襲(1945年3月13日)の直後に写真愛好家が撮影していた。ピースおおさかは「きわめて珍しい角度から撮影した写真があり、被災状況を知るうえで貴重な資料だ」としている。【平川哲也】

 写真は宮澤堂(たかし)さん(82年に74歳で死去)の撮影。京都市山科区の長男潔さん(70)宅にネガが残っており、古い写真から市民生活の変遷を研究する大阪府立大の中村治教授(環境思想)を介して、ピースおおさかに持ち込まれた。

 このうち、旧そごう(現大阪市中央区)が写る1枚は、ねじ曲がった鉄骨や焼け焦げた立ち木から空襲のすさまじさが伝わる。

 潔さんは「何にでもレンズを向けた父は数千枚の写真を残しているが、ほとんどは京都の風景や家族の写真。その中にこうした貴重な写真が残っているとは……。多くの人に見てほしい」と話している。

    ◇

 ピースおおさか(06・6947・7208)は4日午後1時半、平和祈念行事「大阪大空襲 決して忘れない」を開く。この写真についての解説講演もある。入館料250円。

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 ■ことば

 ◇大阪大空襲

 大阪市内への空襲は1944年末から終戦直前まで50回以上続いた。最大規模の第1回大空襲は20平方キロ以上の範囲に無数の焼夷(しょうい)弾が投下され、死者は約4000人とされる。

643よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/04(日) 16:12:08 ID:SzSPBpfA0
大阪にもあった清水寺 「舞台」や「滝」京都とそっくり
2012/3/2 7:00
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A9C93819B9AE0E1E2E2978DE0E1E2E0E0E2E3E09393E082E2E2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A9C93819B9AE0E1E2E2978DE0E1E2E0E0E2E3E09393E082E2E2;df=2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5

 清水寺は言わずと知れた京都を代表する観光名所だが、実は大阪にも清水寺がある。同じなのは名前だけではない。境内には見晴らしの良い「舞台」があり、情緒豊かな滝が流れ落ちるのも共通するという。大阪の清水寺の歴史を調べた。

 大阪市営地下鉄の四天王寺前夕陽ケ丘駅から5分ほど歩く。出入り自由の境内を進むと、一気に視界が開けた。こぢんまりした見晴らし台が西向きに張り出す。足元に住宅街が迫り、その向こうにオフィスビルやマンションなど。左手遠く、小さく見えるのは通天閣だ。欄干には「清水寺 舞台」とのプレートが。

■江戸期に「建立」、当時は観光名所

 石段を下ると、崖の上から細々と流れ落ちる3条の滝。京都・清水寺で「清水の舞台」と並んで有名な「音羽の滝」を模したと一目で分かる。傍らの説明書きには「玉出の滝」とある。大阪市内で唯一の天然の滝で、水源は近隣の四天王寺という。飲料には適さない、とも。

 健代和央住職に聞いた。この清水寺の創建時期は不明だが、中興の祖とされる江戸期の延海阿闍梨(あじゃり)が観音様のお告げを聞き、1640年に京都の清水寺にそっくりの寺院として再建した。その際、京都の清水寺から千手観音を移して本尊としたという。1615年の大坂夏の陣で荒れ果てた境内を整備する目的もあったと伝わる。

 「江戸期は付近に高い建物が無く、すぐ近くに海が迫っていました。今以上に見晴らしが良く、大阪で有数の観光名所だったそうです。今でもきれいな夕日が見られますよ」と、健代住職。

644よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/04(日) 16:13:15 ID:SzSPBpfA0
>>643

 さらに詳しく知りたいと、大阪歴史博物館(大阪市中央区)を訪ねた。八木滋学芸員が「それなら当館にいい展示がありますよ」と教えてくれた。9階で江戸期の大坂の様子をジオラマで再現しており「堂島米市」や「天満青物市」などと並んで「新清水寺」を紹介している。

 江戸期には新清水寺と呼ばれていたらしい。ジオラマによると、当時の「舞台」は木材を水平と垂直に組んだ「懸造(かけづくり)」だった。現在の京都の清水寺と同じだ。3条の滝の下では落水に打たれる人も描かれている。

 「大阪の清水寺は江戸期以降、何度か姿を変えてきたようです」と八木学芸員。江戸期の旅行ガイドと言うべき「摂津名所図会」に記された清水寺は崖の上に舞台が張り出すが屋根はない。明治期の写真では舞台の上にも建物が建つ。現在は舞台だけの鉄筋コンクリート製だ。

■「清水寺」名乗る寺、全国に90も

 京都の清水寺にも確認してみた。加藤眞吾学芸員は「大阪の清水寺との関わりを示す文献は当寺では見当たりません」とのこと。一方で「大阪の清水寺の伝承も尊重すべきだと考えています」

 加藤学芸員によると、全国に「清水寺(きよみずでら・せいすいじ)」と名乗る寺院は90ほどもあるという。「多くは当寺と同じく、清らかな水が湧く場所に由来して創建されたと思われますが、当寺を模して建てられた寺院も多いと聞いています」

 記者は生まれも育ちも大阪だが、不覚にも大阪の清水寺のことは知らなかった。京都府よりも数が多いと言われる大阪府の寺院。知られざる名所というべき寺院はまだ多いのではないか。後日、健代住職の言葉通りの美しい夕日を眺めていると、そんなふうに思えてきた。

(大阪・文化担当 田村広済)

645よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/06(火) 05:21:08 ID:Jkhf7apo0
100年前の響き軽やか
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120305-OYT8T00042.htm

堺 古民家ホールでピアノ演奏

 堺市堺区錦之町東の古民家を改装したホール「堺テクネルーム」で4日、100年前に作られたオーストリア製のグランドピアノを使ったコンサートが開かれ、ひな祭りや春にちなんだ曲を、約25人が楽しんだ。

 ホール周辺の旧市街の町家にひな人形を飾る行事に合わせて開催。ピアノは同ホールが約10年前に購入したもので、1世紀前の音を伝えてきたが、今月中に弦と、弦を振動させるハンマーを取り換えて大阪市内のレストランに運ぶという。

 ピアニスト土岐友季子さん(26)(豊中市)が、エルガーの「愛の挨拶(あいさつ)」やメンデルスゾーンの「春の歌」など春を感じさせる3曲を披露。締めくくりには童謡「うれしいひなまつり」を、高校、大学で一緒に音楽を学んだ、鍛冶職人水野七菜子さん(26)(堺市堺区)の歌声とともにこぢんまりとした室内に響かせた。

 100年を経たピアノについて、土岐さんは「軽やかで昔を感じさせる和音の響きが魅力」と話していた。

 コンサートは11日にも午後1時、2時、3時から各回15分開かれる。コーヒーとお菓子付きで500円。問い合わせは堺テクネルーム(072・221・2731)へ。

(2012年3月5日 読売新聞)

646よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/06(火) 22:06:18 ID:6AvloOXI0
大阪大国技館の時代 歴史博物館が企画展
2012年3月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120306/20120306023.html

 11日から大阪府立体育会館で行われる大相撲春場所を前に、中央区大手前4丁目の大阪歴史博物館で、「生誕100年記念 双葉山と大阪大国技館」展が開かれている。2年ぶりの春場所の開催を控え、相撲ファンでにぎわっている。26日まで。

 本場所での69連勝など「相撲の神様」ともたたえられる第35代横綱、双葉山にスポットを当てるともに、双葉山が横綱になった1937(昭和12)年に現在の城東区に建設された「大阪大国技館」に関連する資料12点を展示している。

 大阪大国技館は関目国技館とも呼ばれ、収容定員は2万5千人と現在の両国国技館(約1万千人)を上回る規模だった。しかし、戦争により4年間に7回の準本場所が開かれただけで、戦後間もなく解体された。

 会場には、大阪大国技館の完成を記念して作られた国技館を模した「たばこ盆」をはじめ、国技館が完成した年の場所で撮影されたと思われる、双葉山の土俵入りの写真などを展示している。

 淀川区内にあった「双葉温泉」の屋根に設置され、銭湯の名前の由来となった双葉山をかたどった鬼瓦もあり、訪れる人の目を引いている。

 同館の飯田直樹学芸員は「巨大な国技館が大阪にあったことが、大阪が昔から相撲熱の高かったことの証拠だと思う。双葉山や昭和10年代の相撲人気のすさまじさの痕跡が鬼瓦として残っていることを感じてもらえれば」と話している。

 火曜日休館。常設展の入館料大人600円、高大生400円が必要。

647よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/07(水) 05:42:36 ID:6AvloOXI0
峯ケ塚古墳 副葬品20点公開 17日、羽曳野ウオーク&清掃 大阪
2012.3.7 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120307/osk12030702010001-n1.htm

 豪華な副葬品が多数出土して注目を集めた峯ケ塚古墳(羽曳野市)の発掘調査から20周年を記念し、普段は非公開の副葬品約20点が17日、古墳近くの峰塚公園管理棟で特別公開される。

 峯ケ塚古墳は、古市古墳群の中で石室などの主体部が調査された唯一の古墳。全長96メートルの前方後円墳で、これまでの調査で石室から約3500点の副葬品が見つかった。今回はそのうち、装飾品の魚佩(ぎょはい)や装身具の三叉形垂(さんさたれ)飾り、ガラス玉などを特別展示する。

 この展示は、古市古墳群(藤井寺市、羽曳野市)を清掃しながら巡る「第3回ウオーク&クリーン 墓山古墳の陪冢(ばいちょう)群と峯ケ塚古墳の至宝」の中の企画。イベントの参加者に対し、特別に公開する。

 コースは約3・7キロで、羽曳野市役所から墓山古墳、仁賢天皇陵古墳、峯ケ塚古墳などを巡る。

 問い合わせ、申し込みは、羽曳野市世界文化遺産推進室((電)072・958・1111)。

648よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/07(水) 21:58:42 ID:mvtQL/YE0
浪華紙魚百景  大商大商業史博だより

明治の大阪名所ガイド
2012年3月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120307/20120307050.html

新撰大阪往来

 東京スカイツリーがオープン間際である。天望(展望ではない)回廊からの眺めはさぞかしであろうが、所在地の墨田区は在原業平ゆかりの場所として、また、永井荷風の『※東綺譚(ぼくとうきだん)』の舞台としても有名だ。今回、墨田区にとって無敵の観光名所が加わることになる。

 どっこい、浪花にも空にそびえる?通天閣があるではないか。ビリケンさんもいるし、村田英雄の「王将」で歌われるように新世界がその裾野を守っているぞ、と言いたいところだが、高さが足りぬ、華やかさに欠ける。

 もとより、名所とは文学的な背景から、歴史的事象、地形的な特性などによるものが多いが、近年、不景気故か?都市部に集中する建築物がそれに取って代わろうとしている。すなわち、何もなかった所にこつぜんと現れる建築施設は商業の流れを誘発し、人を呼び、時に町をも形成する。

 さて、われらが大阪である。ここに取り上げるのは1874(明治7)年発行の名所案内『新撰大阪往来』だ。本文は七五調の文語体で「明治紀元辰の年。四海に仰ぐ王政の。昔に復る歴代は。無辺無経の各国に。肩をならべる知識のみち」といかめしいが、巻頭には市中略図とともに大阪造幣寮と心斎橋鉄橋が色鮮やかな木版で紹介されている。早くも明治7年にして、大阪名所は文明開化による西洋建築が選ばれているのが面白い。

 心斎橋は、1622(元和8)年、長堀川の開削に貢献した岡田心斎に由来するというが、1873(明治6)年、木橋からドイツ輸入の鉄橋に架け替えられた。橋脚がない珍しい構造に対して「無智の鄙人(ひなびと)は見てもわからず聞てさえ。その理を得ぬ寄工なり」と驚いたという。

 図版の心斎橋は北詰めから南を望み、道頓堀ののぼりから四天王寺の塔が見えているが、まげに着物のご婦人連や、こうもり傘に洋装ステッキのカップル、人力車が入り乱れて明治の開化風情が濃厚だ。スカイツリーを仰ぎ見る現代人のごとく、橋脚なしの鉄橋を物珍しげに渡る人々の姿は、新名所となった明治の心ぶらを今日に伝えている。

 (大阪商業大学商業史博物館主席学芸員・明尾圭造)

 ※はサンズイに墨

649よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/07(水) 22:17:13 ID:mvtQL/YE0
丸萬本家:魚すき、150年の歴史展 創業時の道頓堀で /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120307ddlk27040374000c.html

 かつて道頓堀に店を構えていた魚すきの「丸萬(まるまん)本家」(現在は堺筋本町で営業中)の創業から現在までの150年の歩みをたどる「ひさしぶりにもどりまし展−丸萬本家リターンズ」が大阪市中央区道頓堀1の中座くいだおれビル内「いちびり庵」で開かれている。11日まで。入場無料。

 丸萬本家は幕末の1864年創業。タイやサワラなどの魚を秘伝のだしに漬け込み、すき焼きのように炊いてとき卵をつけて食べる魚すきは、ほかにない魚の鍋料理として浪花名物となった。十日戎(えびす)で今宮戎神社に参拝した帰りは、丸萬で魚すきを食べる人が多かったという。

 空襲で焼け、戦後はミナミの鰻谷に移転して営業していたが、96年に店主が亡くなって閉店を余儀なくされた。客からの再開の要望を受け、先代の弟で、一時は店で働いていたことがある後藤隆平さん(80)が、息子の英之さん(49)と07年に再開。店構えは創業時のものを再現したという。

 同展は、道頓堀時代の店の写真や、店で作っていたマッチのデザイン、空襲にも焼けずに残り、今も店で使われている鉄鍋や皿、とくりなどが展示されている。

 後藤隆平さんは「街の変遷とともに店も変遷しました。そんな歴史とともに、魚すきという食文化ももっと知っていただければ」と話している。

 丸萬本家は大阪市中央区瓦町1。電話06・6201・4950。【松井宏員】

650よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/08(木) 05:22:23 ID:qghafOFc0
堺の孫太夫山古墳周濠跡 仁徳天皇陵と類似の埴輪片出土
2012.3.8 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120308/osk12030802000003-n1.htm

 ■「陪塚」の可能性高まる

 堺市堺区の孫太夫山(まごだゆうやま)古墳の周濠(しゅうごう)跡から、埴輪(はにわ)片などが見つかり、市が7日発表した。製造技法が隣接する仁徳天皇陵古墳(5世紀中ごろ)から出土した埴輪と似ていることなどから、市は、仁徳天皇の家臣か副葬品などを埋葬した「陪塚(ばいづか)」だった可能性が高まったとしている。

                   ◇

 孫太夫山古墳は、仁徳天皇陵の拝所から約30メートル南にある帆立貝(ほたてがい)形の前方後円墳で、今回の調査で全長が約56メートルと判明。出土した埴輪片は、円筒埴輪と朝顔形埴輪で、多くは復元すれば直径約20センチの小型のものとみられる。

 市文化財課によると、埴輪の表面の特徴が仁徳天皇陵古墳から出土した埴輪と類似。木べらで表面を平らにする工程で、木べらの動きを止めた際にできる線の間隔が共通しているという。

 こうしたことから、同課は築造時期も仁徳天皇陵古墳に近いと推測。「仁徳天皇陵の主軸上にあることから以前から陪塚とされてきたが、今回の調査結果によりその可能性が高まった」と説明した。文献によると仁徳天皇陵の陪塚は少なくとも15基あったという。

 市は、百舌鳥(もず)古墳群の世界文化遺産登録に向けて平成19年から各古墳で発掘調査を行っている。現地説明会は10日午後1時〜4時。午後2時と3時に担当者が説明する。JR阪和線百舌鳥駅から西約500メートルの大仙公園内。問い合わせは市文化財課分室((電)072・273・6101)。

651よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/08(木) 06:28:23 ID:qghafOFc0
百済寺跡北西に建物跡  枚方市教委 「付属院地」規模判明
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120308-OYT8T00056.htm

 枚方市教委と同市文化財研究調査会は7日、同市中宮西之町の国特別史跡・百済寺跡(8世紀後半)の北西部で、築地(ついじ)で区画された掘っ立て柱建物跡(東西約12・5メートル、南北約10・5メートル)が出土し、寺の運営に必要な施設とされる「付属院地」と判明したと発表した。

 同寺跡で付属院地が見つかるのは、寺の修繕などを担う北東部の修理院跡(すりいん)に続き2例目。だが、今回は柱跡が多数あり、市教委は「建物の正確な規模がわかり、貴重」としている。

 市教委によると、建物跡は寺の中心にある金堂から約50メートル北西で、母屋1棟の両脇に庇(ひさし)がついた様式。柱跡は7か所あり、2007年度に出土した4か所と合わせて計11か所が確認された。柱穴はいずれも直径約1メートルだった。寺務所だった可能性が高いという。

 現地説明会は10日午後1時、2時、3時からの3回(各回30分)。雨天決行。問い合わせは、枚方市文化財研究調査会(072・858・2852)。

(2012年3月8日 読売新聞)

652よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/08(木) 23:07:26 ID:D5mg1aXE0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/243 天下茶屋公園 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120308ddlk27070414000c.html

 ◆大阪市西成区

 ◇謎解けてすっきり ほこらの灯に時間の流れ

 天下茶屋公園の「謎解きの巻」といこう。ようやく、ここまでたどり着いた。三つの謎とは、(1)阿倍野の阿倍寺の礎石がなんであるの(2)明治天皇ナンタラの石碑はなに?(3)枯れた木がなんで祭られているの?

 江戸時代、是斎屋(ぜさいや)という薬屋があり、明治になって橋本兄弟が住んだ、というところまで明かしてきた。さらにその後を、高津神社の神職だった高津久右衛門が引き継いだ。地元の旧家の主で天下茶屋公園愛護会の会長などを務めてはる寺田靜雄さん(81)は「私らが小学校時分、高津の家を見学に行ったほど立派なもんやったんです。池もあってね」と述懐する。「その高津さんが、明治天皇が来たことをいつまでも残しておきたい、と屋敷に碑を建立したんです」

 明治天皇は住吉大社参拝の帰りの休憩などに、明治元年と明治10年の2回、橋本邸を訪れている。これを記念したのが、見たこともないから読めやしない漢字交じりの「明治天皇駐□遺址」の石碑(謎の(2))だ。□は「蹕(ひつ)という字で、「天子が行幸するときに、その道の通行人をおさえて封じこめる」という意味だ。

 「駐蹕遺址(ちゅうひついし)」の碑は1919(大正8)年の建立で、裏面には儒学者、藤沢南岳が漢文で由来を記している。南岳は通天閣の命名者でもある。「残念ながら、高津邸は空襲で焼けて、石碑も火をかぶったんでボロボロになったんです」と寺田さんが解説してくれる。

 石碑の西にある枯れた大木(謎の(3))は楠(くすのき)。「白龍(はくりゅう)さんがいると言いまんねん。誰がおまつりしたかはわかれしませんねん」と寺田さん。白龍とは白ヘビのことで、大阪では「みぃさん」と呼ばれる。こんな言い伝えがある古木はいっぱいあるが、今もお参りする人がいるという。

 高津邸は空襲で焼けて、そのあとが公園になった。庭にあったという池は、寺田さんの記憶では「25〜30年前まで公園にあった」そうだが、虫がわいたりするので埋め立てられたという。

 これで謎の二つは解けた。残るは一つ。阿倍野の地名の語源となった豪族、阿倍氏の氏寺だった阿倍寺の礎石だ。寺田さんによると、これも高津家が一枚かんでいる。

 阿倍野区松崎町の阿倍寺跡とされる所には、松長大明神というほこらがある。「その横手に、誰も寄りつかん不気味な所があって、昭和の初めの水害で、そこから礎石が出てきたんです。大明神の近くには高津さんが土地を持ってたので、礎石は高津邸に持ってきた。高津神社の神官におはらいしてもうて」。これですべての謎が解けた。といっても、解いてくれたのは寺田さんだが……。公園の歴史からも、土地の移り変わりが見えてくる。

 その松長大明神を探して、すっかり様相が一変した阿倍野を歩いた。JR天王寺駅と近鉄の間の陸橋も取り払われて、どうにも落ち着かない。あべの筋を南へ歩き、路地を東へ入ってうろうろ。

 ビルの陰に、石鳥居と常夜灯、朱色の木柵に囲われた小さなほこらがあった。なかなかの構えだ。ほこらの裏にはこけむした石垣が積まれた穴がある。「阿倍寺跡推定地」の碑もあった。寺田さんが言うように、1935(昭和10)年にこの辺りから礎石や瓦が見つかって、阿倍寺跡と考えられるようになった。

 ほこらには卵と赤飯が供えられ、灯明台にはろうそくが揺れている。大昔から連続している時間を感じることができた。【松井宏員】

653名無しさん:2012/03/08(木) 23:15:35 ID:D5mg1aXE0
孫太夫山古墳 仁徳陵と同時期
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003511711.html

堺市にある「孫太夫山古墳」について市が発掘調査を行った結果、古墳が作られた時期は、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理している古墳と同じ5世紀なかごろと見られることがわかりました。
「孫太夫山古墳」は、全長56メートルの前方後円墳で、大阪府や堺市などが世界遺産への登録を目指している「百舌鳥・古市古墳群」の1つですが、作られた時期などはよくわかっていませんでした。後円部分は宮内庁が管理していて、それ以外の場所で堺市が去年11月から発掘調査を行った結果、小型の円筒埴輪などの破片が多数見つかりました。
この古墳のすぐ近くには、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理している古墳があり、5世紀なかごろと見られる似た特徴の埴輪が出土しています。
このため堺市は、2つの古墳は同じ5世紀なかごろに作られたと見られるとしています。
またこの古墳の周囲を囲む濠の跡も確認されました。
堺市文化財課の十河良和調査第一係長は「この古墳は世界遺産登録を目指す古墳群のひとつなので、今後も調査を続け資料の蓄積を続けたい」と話しています。
今月10日には現地説明会が行われることになっています。

03月08日 06時59分

654よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/09(金) 22:40:16 ID:tIwUNxJQ0
堺・孫太夫山古墳:5世紀半ば製造、仁徳陵と同時期の埴輪 円筒など「陪塚」裏付け /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120309ddlk27040322000c.html

 堺市は、同市堺区の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に隣接する孫太夫山(まごだゆうやま)古墳の調査で、仁徳陵が作られたのと同時期の小型の円筒埴輪(はにわ)や朝顔形埴輪の破片が出土したと発表した。同古墳は仁徳天皇の副葬品などを埋葬した陪塚(ばいづか)とされていたが、今回の調査は、それを裏付ける資料となりそうだ。【内田幸一】

 調査は、仁徳陵をはじめとする百舌鳥古墳群の世界遺産登録に向けた一環。

 調査では、古墳の周(しゅう)濠(ごう)の堆積(たいせき)層から円筒埴輪などの破片が出土した。埴輪は直径20センチ程度とみられる。表面の整形の方法から、5世紀中ごろのものとみられるといい、仁徳陵が作られた時期と一致することが分かった。

 前方部の正面では転落した葺(ふ)き石も発見され、前方部の範囲がはっきりし、前方部が短いホタテ貝の形に似た前方後円墳であることも裏付けられた。

 市文化財課は「仁徳陵の陪塚である可能性が高いことが判明した。また古墳の形状や位置から計画的に築造された可能性も高い」としている。

 現地説明会が10日午後1〜4時にある。小雨決行。問い合わせは072・273・6101。

655よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/09(金) 22:44:56 ID:tIwUNxJQ0
演奏:西洋古楽と邦楽が共演 あす、17日−−大阪歴史博物館 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120309ddlk27040349000c.html

 西洋の古楽と邦楽のコラボレーションが相次いで開催される。10日午後2時「ほうがくdeバロック」と17日同「和洋の再会」。いずれも大阪歴史博物館(大阪市中央区)で。

 バロック音楽とは、17世紀初めから18世紀半ばまでヨーロッパで演奏されていた音楽。「ほうがく−−」では、ヘンデル「メサイア」や鹿児島おはら節などが演奏される。鎖国により交わることのなかった二つの音楽が300年の時を超えて交流する。出演は赤坂放笛さん(バロックオーボエ)ら。

 「和洋−−」では、オペラ「アルミード」と能「黒塚」などが演奏され、それぞれ独自に発展してきた和洋の音楽の違いを聴く。出演は能楽笛方森田流、左鴻泰弘さんら。

 いずれも1000円。問い合わせは、そう楽舎(0745・55・2478)。【宮辻政夫】

656よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/11(日) 13:06:26 ID:ZvjjRegk0
新発見の写真11枚展示 第1次大阪大空襲
2012年3月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120311/20120311040.html

 大阪市内中心部を焼き尽くした第1次大阪大空襲から今月13日で67年目となるのを前に、この空襲後の町の様子を撮った写真11枚が見つかり、大阪国際平和センター(ピースおおさか、同市中央区)で展示されている。被災したビルや寺、橋などが鮮明に映っており、歴史資料として「非常に貴重」と注目を集めている。

 写真の所有者は京都市在住の宮澤潔さん(70)で、撮影者は父・堂(たかし)さん(1908〜82年)。古写真を歴史資料として活用する作業を進めていた大阪府立大人間社会学部の中村治教授の目に留まり、昨年12月にピースおおさかに持ち込まれ、分析が進められていた。

 堂さんは望遠鏡の製造を手掛ける技術者で、プライベートでも写真を多く撮影。今回見つかった写真は電気科学館(西区新町、89年閉館)から撮ったと思われるものがあり、同館には当時、望遠鏡があったことから、潔さんは「父は自分の望遠鏡のある場所を訪れては写真を撮っていた。ここの望遠鏡にも携わっていて気になっていたのではないか」と推測する。

 ピースおおさかによると、写真からは、御津八幡宮(中央区西心斎橋)の焼けた灯籠や、無残ながれきの山の中で残った旧そごう(同区心斎橋筋)、空襲直後のためか回収されずに残っている垂れ下がった電線などが分かる。

 電気科学館から撮った写真では、旧西横堀川に架かる新町橋を正面に、後方には焼け残った難波神社の鳥居や難波別院(南御堂)の焼け跡が見える。ピースおおさかでは、堂さんが撮った同じアングルの空襲前の写真も合わせて展示している。

 中村教授は「大阪は産業都市として知られるが、空襲前の写真からは風情ある町の様子がよく分かり、空襲後の写真と見比べることで戦争が何を奪ったがはっきりする」と評価する。

 4日にピースおおさかで開かれた平和祈念イベントでは、大阪電気通信大工学部の小田康徳教授が11枚の写真をテーマに講演し、「焼け跡の写真から、空襲のひどさだけでなく、その後の人の暮らしにつながっていくということも含めて理解してほしい」と解説。

 会場には潔さんも駆け付け「電気科学館は子どものころに父に連れて来てもらい、初めてプラネタリウムを見た場所。まさか父があそこでああいう角度から写真を撮っていたとは知らなかった」と思い出話を披露した。

 展示会場を見て回った潔さんは「自由奔放で、新しいものが好きで、ものすごい多く写真を撮っている父だった。67年もたった今、その写真が何かの役に立つのであれば本当にうれしい」と話していた。

 第1次大阪大空襲 1945年3月13日深夜から14日未明にかけて、B29爆撃機が大阪の空に襲来した。ピースおおさかのまとめによると、その数は274機。市内中心部(当時の浪速区、西区、東区、天王寺区など)を焼き尽くし、被災戸数は13万6107戸、被災者数は50万1578人に上った。B29爆撃機100機以上による大阪大空襲はその後、終戦前日の8月14日まで計8回に及んだ。

657よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/11(日) 13:14:32 ID:ZvjjRegk0
なにわの宮新作万葉歌:最優秀賞に小山さん
http://mainichi.jp/enta/art/news/20120306dde018040061000c.html

 古代の宮殿跡である難波宮(なにわのみや)跡(大阪市中央区)出土の木簡に万葉仮名で書かれた「春草のはじめ」で始まる短歌「なにわの宮新作万葉歌」をNPO法人大阪府高齢者大学校が募集し、このほど優秀作品の授賞式があった。

 「なにわの宮新作万葉歌」は毎日新聞の提案に大阪市などが応えて2007〜09年に3回にわたって全国公募された。7世紀半ばの古代人が残した言葉に続けて現代人が短歌を完成させる試みで、今回は西日本各地から89首の応募があった。過去の公募と同様、優秀作品には副賞として、作品を記した木簡模造品が贈られた。

 受賞作は次の通り。(敬称略、◇は「春草のはじめ」)

 <最優秀賞>大阪市、小山外志代(74)「◇のよろこび湧き出づる身籠りしとふ子よりの電話」<優秀賞>滋賀県野洲市、本荘育緒(63)「◇に啜(すす)る白粥(しらかゆ)の椀(わん)のぬくもり心安らぐ」<佳作>大阪府茨木市、熊野治子(72)「◇に遠き外(と)つ国に嫁ぎゆく娘(こ)よ幸多かれよ」▽大阪府松原市、北川寿子(61)「◇の季節巡り来て春の日射しに手をかざしたり」▽大阪市、三原后代(72)「◇の空に凧(たこ)さがす興じし子らはすでに父となり」▽大阪府寝屋川市、峰松朱実(70)「◇の年よ古希となるわれに学びの春始まりぬ」【佐々木泰造】

658よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/14(水) 21:02:23 ID:ajGJmZjU0
第1次大阪大空襲から67年 国民学校生が供養
2012年3月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120314/20120314021.html

 太平洋戦争末期の第1次大阪大空襲からちょうど67年に当たる13日、同空襲で全焼した大阪市西区の和光寺に当時の堀江国民学校6年生が集まり、空襲の犠牲者を悼み静かに手を合わせた。

 同校の6年生は、島根県に集団疎開していたが、卒業式のために大阪へ戻り、式前日の空襲で被災。一帯は焼け野原になり、同寺境内には引き取り手のない遺体約150体が埋葬されたという。

 2008年にあらためて卒業式が行われて以降、卒業生が3月14日に供養のため自主的に集まるようになった。今年は昨年に続き、東日本大震災の犠牲者の冥福も祈った。

 当時、旧西長堀川へ逃げて助かったという瀬戸寛治さん(79)=大阪市北区=は「布団をかぶったが足元の隙間から火の粉が吹き込み、もうだめだと何度も思った」と振り返る。

 空襲で焼け出され西区に戻ることはなかったという長浜末子さん(79)=交野市=は「あかんたれだった私がここまで生きてこれたのだから、震災の被災者の人たちも決して諦めないで」と話していた。

 大阪大空襲は、1945年3月から8月にわたった、米爆撃機100機以上による8回の空襲。3月13日深夜から14日未明の第1次では、300機近くの爆撃機が襲来、焼夷(しょうい)弾で大阪市の中心部を焼き尽くした。


空襲後写真また発見 京都に次ぎ尼崎から5枚
2012年3月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120314/20120314022.html

 第1次大阪大空襲(1945年3月13日深夜〜14日未明)後の大阪の町の様子が分かる写真が大阪国際平和センター(ピースおおさか、大阪市中央区)に相次いで持ち寄られている。同センターは京都市内で見つかった写真11枚を譲り受けて公開。これを知った兵庫県尼崎市の市民が新たに5枚の写真を提供した。

 空襲被災の写真は、当時の状況を知る上で貴重な資料だが、同センター所蔵は115枚(新たな16枚を含まず)と決して多くはない。似たアングルを1枚と考えれば「100枚に満たなくなるほど」(同センター)。その大部分が第1次大阪大空襲によるもので、それ以降の空襲後の写真はない。

 公開した11枚は、所有者である宮澤潔さん(70)=京都市=の父親が撮ったもので、被災した大丸や旧そごうがはっきりと分かる。古い写真から暮らしの変容を調べる大阪府立大の中村治教授の調べで分かり、昨年12月にピースおおさかに持ち込まれた。

 宮澤さんは「父の写真は京都で家族を撮ったものが多く、空襲後の大阪の写真があり、これだけ注目を集めるとは思わなかった」と驚く。

 これを報道で知った大阪市中央区出身の中澤潔さん(72)=尼崎市=が、「以前からあるのは分かっていたが重要とは思っていなかった」という写真10枚を同センターに提供。「空襲後の写真は父がもらったもので、自分が若いころは50枚ぐらいあった。残ったのはこれだけだが、何かの役に立てば」と話す。

 同センター専門職員の常本一さんによると、中澤さんの写真は旧御津国民学校(大阪市中央区、現在のビッグステップ)の屋上から撮ったもので、同センター所蔵の「池島写真」と呼ぶ一連の提供写真に当たると判断。10枚のうち5枚が同館にはない角度からの写真で、「池島写真」を補完する貴重な資料になるという。

 うち2枚は、氏子の寄贈により難波神社(前川壽宮司、同区)にもあることが本紙取材で分かった。所有者が複数いることから、常本さんは「撮影者が何かの節目に地域の人に配ったのだろうが、今も残っているのは少なく、貴重だろう」と推測する。

 常本さんは二つの提供写真が大阪府外から出たことに着目。大阪府内ではこれまでも写真が見つかるたびに報道などで話題となってきたが、一般からの写真提供は2010年3月から止まっており、「もっと府外に目を向けるなど、探し方を工夫し、広く提供を呼び掛けながら探していきたい」と話している。

659よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/15(木) 21:40:34 ID:25hoNyPQ0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/244 安養寺−旧勝間街道 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120315ddlk27070427000c.html

 ◆大阪市西成区

 ◇近松浄瑠璃、おさんの墓 「こつま」は「舟」、昔は海岸か
 天下茶屋公園の謎も解けたし、案内してくれた寺田靜雄さん(81)に、そろそろお別れしようかと思ってたら、公園の向かいのお寺を指して「うちと縁があるんです」とおっしゃる。

 安養寺の創建は1689年。西国巡礼中の女官が寺田家に泊めてもらったのをきっかけに、庵(いおり)を結んで念仏修行、遂に出家し寺を開いた、という。

 安養寺にお邪魔してみた。墓地の中に、瓦屋根にガラス戸付きのほこらに納められた墓石がある。なにやら特別なお墓のよう。説明書きを読むと、近松門左衛門の「心中天網島」で、遊女小春と心中する紙屋治兵衛の妻おさんの墓だ。

 大当たりした近松の浄瑠璃だが、1720年に起きた実話の心中事件で、登場人物も実在した。おさんは夫の一周忌を済ませると出家し、晩年をこのお寺で過ごした。墓石には「宝暦九年」(1759年)とある。自分と子どもを捨てて遊女との死を選んだ夫の菩提(ぼだい)を、39年も弔った貞女である。

 その隣のひときわ大きい墓には「猪名川弥右衛門墓」とある。大坂相撲の力士で、浄瑠璃「関取千両幟(のぼり)」のヒーローでもある。徳島出身で1849年没。実は、猪名川の墓はもう一つある。池田市の西光寺で、こちらでは池田生まれとなっている。孤児だったのを酒どころ池田の杜氏(とうじ)が助け、長じて怪力の持ち主となり、相撲取りとなった−−。ひょっとして別の猪名川なのかもしれない。大正時代まで猪名川という名跡が大坂相撲にはあったというから。

 ここで久しぶりに大阪案内人の西俣稔さんと合流し、先へと進む。南へ歩き、南海の高架を越えた所に赤レンガの建物が現れた。「明治44年にできた変電所です」と西俣さん。その横を阪堺電車がガタゴトと通っていった。

 路地を折れて南海岸里玉出駅に出る。玉出本通商店街の中で立ち止まった西俣さんが、魚屋さんと電器屋さんの間を横切っている道を指す。「これが旧勝間街道です」。天神森天満宮の回で、茶人、武野紹鴎(じょうおう)が森を開いて紀州街道を付けたと紹介した。それまでは森を迂回(うかい)して、東の熊野街道か西の勝間街道を通らなければならなかった。

 勝間とは、最近見直されているなにわ伝統野菜の勝間なんきんで名前を耳にする。この辺りの古い地名だが、由来は何なんです?

 「こつまとは、かごのこと。昔はかごのことを堅間(かたま)と言ったんです」。信じないわけではないが、一応辞書で確かめてみる。「竹で目を細かく編んだかご。別名勝間(かつま)」と出てくる。さらに言えば、古代、竹で編んだかごのような舟を「堅間」とか「勝間」と呼んだようで、「昔は海にたくさんの舟が浮かんでいた光景がここから見えたのでしょう」と西俣さん。

 「米」や「とうふ」の看板が架かる旧勝間街道を、2人の老婦人がゆっくりと歩いていた。【松井宏員】

660よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/17(土) 04:53:27 ID:fCPF23Ss0
東成・生野で堤楢次郎絵画展 26日から 大阪
2012.3.17 02:07
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120317/osk12031702070001-n1.htm

 ■「共生」前の鶴橋描く

 大阪・鶴橋で生まれ、生涯この地を愛した日本画家、堤楢次郎(ならじろう)の絵画展「大正と昭和の鶴橋・猪飼野の世界」が大阪市の東成区役所(26日〜30日)と生野区役所(4月2日〜26日)で開かれる。

 堤楢次郎は明治29年生まれ。18歳のころから鶴橋や猪飼野を描き、昭和58年に87歳で亡くなるまで約350点の作品を残した。

 「鶴橋、猪飼野といえば日本人と韓国・朝鮮人らが共に暮らす『多文化共生の街』として知られますが、楢次郎が描いたのはそれ以前の風景」と話すのは、絵画展を主催する猪飼野探訪会副代表で小学校教諭の小野賢一さん(60)。「田園地帯から住宅、工業地帯に変わりゆく東成や生野の様子がよくわかる」と説明する。

 小野さんが楢次郎の作品に出合ったのは11年前。地元の歴史をテーマにした総合学習の教材作りの中で楢次郎の存在を知り、そこに描き出された100年前の鶴橋の色や息づかいに魅せられたという。

 昨年11月には、楢次郎の作品を管理する孫の條治さん(61)の協力を得て楢次郎の作品集「鶴橋・猪飼野画集」を自費出版した。

 今回の絵画展では、この中から旧平野川や桃谷駅を描いた作品など約20点を展示する。小野さんは「歴史資料としても価値が高い絵画。多くの人に楢次郎の存在とその作品を知ってほしい」と話している。

 作品展に先立ち25日午前10時から東成区役所で、大商大・商業史博物館の明尾圭造主席学芸員による記念講演を開催。同日午後1時からは町歩きイベント「描かれた東成・生野区を歩く」も開く(要資料代)。問い合わせは小野さん((電)072・852・8124)。

661よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 08:58:34 ID:JWXB0S1E0
海の時空館で企画展 大阪港の発展、電車で学ぶ
2012.3.18 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120318/osk12031802040000-n1.htm

 大阪港の発展とそれを支えた市電の歴史を紹介する企画展「海をめざした鉄道〜なにわの海の鉄道もけい展」が17日、大阪市住之江区の市立海洋博物館「なにわの海の時空館」で始まった。4月8日まで。

 築港発展の歴史を市電や地下鉄がどのように支えてきたかを知ってもらおうと企画した。記念切符をメーンに懐かしい写真や絵はがき、市電双六など約100点を展示。“魚釣り電車”とも呼ばれ人気があった2階付き電車「大阪市電第5号車」など、路面電車から最新の地下鉄までさまざまな車両模型も並んだ。

 実際に模型を走らせる「鉄道模型デモ運転ブース」も設けられ、親子連れらが楽しんでいた。

 午前10時〜午後5時、月曜休館(26日は開館)。入館料は大人600円、中学生以下無料。

662よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 09:00:26 ID:JWXB0S1E0
小松左京の夢たどる 吹田市立博物館で写真展 大阪
2012.3.18 02:04
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120318/osk12031802040001-n1.htm

 小説「日本沈没」などで知られるSF作家で昨年7月に亡くなった小松左京さんの足跡をたどる「小松左京写真展 宇宙に翔(はばた)く夢」が17日、吹田市立博物館で始まった。4月22日まで。

 興味深いのは、小松さんがテーマ館サブプロデューサーを務めた日本万国博覧会(大阪万博=昭和45年)の理念やアイデアを練るために文化人類学の梅棹忠夫さんらと立ち上げた「万国博を考える会」の議事録やメモなど11点約100ページの資料。小松さんの家の段ボール箱から見つかった。

 昭和39年の議事録(手書き)で小松さんは「ばかばかしい大きなスケールの話にこそ、ユニバーサル(万国共通)な理念がある」と巨大イベントを大阪で開催する夢や意義を語っている。

 このほか映画「日本沈没」に自ら出演した一場面をはじめ少年時代、阪神大震災の現地取材の様子、晩年の講演会の写真などが展示されている。

 18日は石毛直道・国立民族学博物館名誉教授らのフォーラム「小松左京を語る」がある。月曜と祝日の翌日が休館。問い合わせは同博物館((電)06・6338・5500)。

663よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 13:53:22 ID:3aHauWEY0
戸開式:生駒山に春呼ぶ−−東大阪・慈光寺 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120318ddlk27040225000c.html

 修験道の開祖・役小角(えんのおづの)(役行者(えんのぎょうじゃ))が生駒山中に開いたと伝えられる東大阪市東豊浦町の慈光寺で17日、生駒山に春を告げる「戸開(とあけ)式」があった。役行者が使っていたとされる2匹の鬼や行者らが護摩をたくと、信者らは安全や無病息災を願って手を合わせた。9月下旬の戸閉(とじめ)式まで、生駒山は修行や行楽のシーズンに入る。

 同寺は約1300年前、山中を荒らし回っていた2匹の鬼「前鬼(ぜんき)」「後鬼(ごき)」を役行者が改心させ、修験道場として創建したとされる。戸開式は修行者の遭難を避けるため、大正時代から毎年続けられているという。

 この日は修験道の修行に使われる開山堂の扉を行者らが開ける儀式の後、鬼や山伏姿の行者らが登場した。副住職の槙尾基希さん(30)は「現在では修験道の儀式は減ったが、安全を願う思いは同じ。今後も続けたい」と話していた。【稲生陽】

664よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 15:04:21 ID:3aHauWEY0
大坂冬の陣の布陣図発見、合戦直後に作成か
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120317-OYT1T00493.htm?from=main8

 1614年の大坂冬の陣の布陣を描いた絵図が東京都内で見つかった。

 豊臣家が滅びた大坂夏の陣(1615年)の絵図は江戸後期に写されたものが多く残るが、冬の陣図は珍しい。戦いの直後に描かれた可能性もあるという。

 この絵図は縦37センチ、横27センチで、表題部分は欠けている。東京・神田の古書補修業者が古書を分解中、裏紙として使用されていたのを発見した。

 徳川秀忠を示す「将軍様」、家康を示す「御所様」のほか、布陣する武将名と兵数、大坂城の堀の位置や、中之島や日本橋など地名が記されている。また、豊臣側に、実際には徳川側で参戦した武将「杉原長房 4万人」との記述があり、誤記とみられる。

 出版文化史に詳しい大東急記念文庫(東京)の村木敬子学芸員は、陣立ての描き方や紙の古び方などから、一枚刷りの「冬の陣図」としては、「大坂城之図」(江戸東京博物館蔵)に次ぐ古さである可能性が高いと指摘。入手した安土堂書店の八木正自代表(大阪青山短大非常勤講師・日本文化史)は、〈1〉速報用に絵を簡素に描写〈2〉紙を縦に使用――しているため、「瓦版」の先駆けのようなものと判断。「社会が少し落ち着いた江戸時代の攻城戦だったので、市民は遠巻きに戦見物しており、戦況を知らせれば売れると思って刷ったのでは」と推測している。

(2012年3月18日13時10分 読売新聞)

665よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 15:10:56 ID:3aHauWEY0
梶井基次郎「檸檬」の原型…幻の自筆稿見つかる
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120317-OYT1T00526.htm

 近代日本文学を代表する短編小説「檸檬(れもん)」の原型となった挿話を含んだ、梶井基次郎(1901〜32)の小説「瀬山の話」の自筆原稿74枚が見つかった。

 専門家らも長年見ることがなかった幻の原稿で、実践女子大学が東京・神田の古書店から購入、今年中にも公開を予定している。

 「瀬山の話」は、梶井が東京帝大文学部英文学科に入学した1924年(大正13年)、仲間と創刊した同人雑誌「青空」第1号に掲載するために書いたが、作品はまとまらず、この物語の一部の「檸檬」を短編小説に書き直して載せた。

 梶井が31歳で没した翌年、友人の文芸評論家・淀野隆三氏が「瀬山の話」を校訂し、遺稿として雑誌「文芸」(改造社)に掲載。自筆稿は、67年に亡くなった淀野氏が当初は保管していたとみられるが、その後所在がわからなくなった。

 自筆稿は、400字詰め原稿用紙に万年筆で書かれ、随所に推敲(すいこう)の跡がある。

(2012年3月18日13時10分 読売新聞)

666よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 15:17:18 ID:3aHauWEY0
五穀豊穣など願い 住吉大社・祈年祭
2012年3月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120318/20120318028.html

 大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で17日、五穀豊穣(ほうじょう)と産業の繁栄を祈る「祈年祭」が執り行われ、参列者らが玉ぐしをささげるなどした。

 祈年祭に先立って境内の種貸社で神様から稲の元種を頂く神種(かむざね)祭もあり、授かった元種の御利益を得て祈年祭が執り行われ、約80人が参列した。

 雨のため、第一本宮から屋内の神楽殿に斎場を移して、コメやタイなどをはじめ海の幸、山の幸がささげられ、真弓宮司が祝詞の奏上を行った。その後、同大社の太田重彦責任役員らが代表して玉ぐしを奉納した。

 また昨年は東日本大震災の直後だったため中止となった直会が祈年祭の後、吉祥殿であり、真弓宮司が「皆さんのご健勝と繁栄を願います」とあいさつ。同大社は昨年、鎮座1800年記念大祭の節目を迎えたこともあり、太田責任役員が「皆さんこれからも支援と協力を」と呼び掛けた。


「神馬塚」の由来紹介 案内板お目見え、除幕式
2012年3月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120314/20120314025.html

 住吉大社(真弓常忠宮司)の馬をかつて放牧していた大阪市東住吉区山坂1丁目の「神馬塚」に由来などを記した案内板がお目見えし、除幕式が行われた。近隣住民ら約40人が参加し、完成を祝った。

 住吉大社では、1月の「白馬(あおうま)神事」などに古くから神の使いとして馬を使っている。同地域には昭和初期まで「神馬」が飼育されており、たてがみや遺骨が埋葬されている場所を「神馬塚」として丁重に祭っている。数年前から地域住民らの間で「神馬」に関するイベントなどが行われ、地域の歴史資産として知られるようになった。

 案内板は馬を奉納している団体「神馬講」などが提供。木製で、富山県の彫刻師、南部白雲さんらが製作し、1月に大社に納められた。神馬をイメージしたたくましい馬が躍動的に掘り込まれ、中央部に由来が記されている。

 「神馬講」メンバーの大阪府燃料卸売業協同組合の西脇利一副理事長は「地域の人にこの場所がますます愛されるようになればうれしい」と言い、日ごろ塚の掃除などを行っている近くの「うどんや風一夜薬本舗」の末廣美沙取締役は「できるだけ地域の方にこの場所を紹介し、活性化につながっていけば」と話していた。

667よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/19(月) 05:43:57 ID:nFVyyoPE0
「子持ち」の勾玉出土 寝屋川の讃良郡条里遺跡 大阪
2012.3.19 02:08
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120319/osk12031902080003-n1.htm

 古墳時代中後期(5〜6世紀)に集落が広がっていた寝屋川市新家の讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡で、宝物や祭祀(さいし)道具だったと考えられている「子持ち勾玉(まがたま)」が出土し、同市教委が18日発表した。子持ち勾玉は遺跡などから単独で出土することが多いが、500個以上の小さな玉も同時に出土。市教委は「古墳時代の祭祀を考える重要な資料になる」としている。

 子持ち勾玉は、大きな勾玉に突起状の「子」が付随したデザインで、全国で数百個の出土例があり、同市内でもこれまでに数個が出土。今回見つかった子持ち勾玉は滑石製で全長6・7センチ、重さ69・1グラム。上部にひもを通す穴がある。

 周辺からは、ひも穴のある小玉や、穴が2つ開いた板状の「双孔(そうこう)(=穴)円板」も出土。市教委は「見つかった勾玉の重量を考えると、装飾具として身に着けたのではなく、草木に掛けるなどして祭祀に使ったのではないか」と話している。

 現地説明会は24日午後1〜3時。京阪寝屋川市駅から京阪バス「楠根南町」下車。駐車場はない。当日の問い合わせは現地事務所((電)072・812・2855)。

668よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/20(火) 06:32:24 ID:lUGMc4lg0
豊臣再興を期す金箔瓦発見 京都・石清水八幡宮
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120320-OYO1T00094.htm?from=main4

 武家の信仰を集めた京都府八幡(やわた)市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で、豊臣秀吉の子・秀頼(1593〜1615)が改修した回廊(重文)の屋根瓦に金箔(きんぱく)が施されていたことが、市教委の調査でわかった。権威の象徴とされる金箔瓦が寺社で使われるのは珍しい。改修は、関ヶ原の戦いで豊臣方が敗れた6年後で、市教委は「捲土重来(けんどちょうらい)を期す秀頼の意図が読み取れる」としている。

 市教委によると、八幡宮に残る古い瓦を調べたところ、かつて回廊周辺などで見つかった3点の破片に金箔が付着しているのを確認。焼成具合などから、1606年に秀頼が回廊を改修した時のものとみられる。

 金箔瓦は城郭で多用され、織田信長が安土城(滋賀県近江八幡市)で使ったのが最初とされる。秀吉や各大名も居城に使用。権勢を示す狙いがあったという。秀頼が改修したのは豊臣家が力を失いつつあった時期で、9年後の1615年に徳川家康に滅ぼされた。

 永井規男・関西大名誉教授(建築学)の話「秀頼は豊臣家の威光を示そうとしたのだろう。緊迫した時代背景を表している」

(2012年3月20日 読売新聞)

669よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/20(火) 06:50:40 ID:lUGMc4lg0
「きれいに撮れてる?」 文楽写真展を人形訪問
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120320-OYT8T00056.htm

 人形浄瑠璃文楽の人形遣い、吉田簑二郎(みのじろう)さん、簑紫郎(みのしろう)さん、簑次さんが19日、読売新聞大阪本社1階ロビーで開催中の本紙夕刊連載「点描 文楽の素顔」の写真展を訪れ、文楽人形と共に観覧した。

 「赤姫」と呼ばれる女形の人形を携えて訪問した簑二郎さんらは、会場で来場者らに、首(かしら)の種類や内部の仕組みなどを解説。主(おも)遣い、左遣い、足遣いの3人の役割分担による操作などを実際にやってみせた。

 写真展では、2009年10月から12年1月にかけて大阪・国立文楽劇場、東京・国立劇場などで撮影した「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」「夏祭浪花鑑(かがみ)」など計12演目を紹介している。31日まで。入場無料。

(2012年3月20日 読売新聞)

670よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/21(水) 21:21:23 ID:i5v/gWF.0
難波が都でなくなってからも、この夕陽を見に貴族たちは訪れたそうです。


沈む夕日に手合わせ 四天王寺で日想観法要
2012年3月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120321/20120321025.html

 「春分の日」の20日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で西門石鳥居の向こうに沈む夕陽を拝む「日想観法要」が行われ、参詣者らは僧侶とともに般若心経を唱えて夕日に手を合わせた。

 弘法大師・空海が同寺で真西に沈む夕日を見て、西方に極楽浄土を見いだす修行を始めたことに由来する行事。毎年春分・秋分の日に行っている。

 彼岸参りの参詣者らは極楽門前に集まり、僧侶の導きで読経して極楽浄土を観想する“修行”を行った。少し日が落ちるのが遅く、読経が終わってしばらくしてから鳥居に入った太陽は黄金色の優しい光を発していた。

671よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/22(木) 21:38:51 ID:cT6DLH2E0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

明治期の大阪電話事情
2012年3月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120321/20120321049.html

明治36年3月改電話番号簿

 先日、新聞でシンガポールと日本を最短ルートで結ぶ光ケーブルが設置され、情報の行き交う速度が千分の5秒短縮されるという記事を見た。事業主はNTTコミュニケーションズ。担当者の談話では、千分の1秒の情報遅れで数百万ドル損をすることもあり、約3600億円かけたこのプロジェクトにはそれだけの意味があるのだという。

 遠隔地間の通信方法としては、日本では延享2(1745)年にはじまる堂島の旗振り通信があった。通信内容は米相場や油、金の相場だが、慶応元(1865)年、欧米の艦隊が開港を迫って大阪湾に向かった時、旗振り信号でその急を京都所司代に知らせたという。

 戦争と経済が情報の速度を問うのは今に限らない。公衆電報の取り扱いは東京・横浜間が明治2年(1869年)12月、大阪・神戸間は翌年だが、電話はその二十数年後、明治23年東京・横浜間で電話交換を開始、大阪・神戸間に至っては明治26年である。

 明治13年ごろには電報の便利さが一般に知られたが、その後インフレや不況が重なり、政府には新たに電話事業に割く財政の余裕がなかった。だが、大阪では、公的機関での直通電話の導入は早く、特に警察電話の発達が目覚ましかった。一般電話も既に機が熟していたのか、申込者が殺到、設備が追い付かず加入できない人も多かった。

 日清戦争勝利後には、第1次電話拡張計画に乗って加入者数は神戸を含めて7952人と当初の10倍以上となった。今回紹介する電話番号簿は拡張計画の終了ごろ、明治36年3月発行のものである。34年には加入者は繊維業、金属製造販売業が大きな比重を占め、当時の大阪の産業の特質がみえるが、36年には飲食関係が伸び2位になった。

 同月、大阪では第5回内国勧業博覧会が開催される影響だろうが、このことは加入者第1号が既に予告していたのかもしれない。加入申込者と異なる住所への設置を申し込む男に、申込担当者がその理由を尋ねると、その男は小指を立てて「これの家だんねん」と言ったという。「欲と道連れ」の欲に色が付いている−−これを大阪らしいとはあまり言いたくないのだが。

 (大阪商業大学商業史博物館専門職員・岡村良子)

672よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/22(木) 21:42:06 ID:cT6DLH2E0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/245 生根神社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120322ddlk27070429000c.html

 ◆大阪市西成区

 ◇商いの神様「勝間南瓜」 浜村淳さんの句碑も

 旧勝間(こつま)街道が横切る玉出本通商店街を西へ抜け、国道26号を渡ると間もなく、生根(いくね)神社が現れた。つかの間、国道の喧噪(けんそう)を忘れる。

 大阪案内人の西俣稔さんが指すのは、境内の「こつま南瓜(なんきん)塚」だ。旧勝間村の特産だったカボチャは、小ぶりで身はよくしまり、うまいと評判を取った。生根神社では、古くから冬至に「こつま南瓜祭り」が執り行われている。勝間南瓜への愛情の表れだ。無病息災を祈願するもので、今も多くの人々でにぎわう。当日は蒸した勝間南瓜を食べることができる。水気が多いのが特徴だという。

 塚のそばに「勝間南瓜石」がある。この石をなでると、「中風除(よ)け、ぼけ払い、生気、才気、商魂」によいという。生根は「しょうこん」とも読めることから商人がありがたがったとか、カボチャは中に種を抱えているから、利益が逃げないと縁起をかついだとか。ともかく商いの神様として、商都・大阪を支えてきたわけだ。

 吉見友伸宮司(43)によると、カボチャに似た形の南瓜石は戦前からあったが、戦災で失われた。1986年に氏子さんが塚を奉納した時に、南瓜石も復活させたのだそうだ。

 勝間南瓜には商売ばかりでなく、色っぽい含意もある。僧侶で作家の今東光の小説「こつまなんきん」は、南瓜の話ではない。主人公、お市のあだ名がこつまなんきん。小柄な女性の代名詞で、今東光は「女は小柄にとどめを刺すというところから、こつまなんきんという渾名(あだな)は一種の色気を含んだ雰囲気を持った代名詞となったほどだ」と記す。没落した河内の旧家の娘に生まれたお市は、その色気を武器に男を翻弄(ほんろう)しながら、宗教の教祖となったり河内音頭の芸人となったりして世を渡っていく。映画にもなった。

 境内をぶらぶらしていたら、朝のMBSラジオでおなじみ、「ありがとう」の浜村淳さんの句碑を見付けた。

 「いざうたえ だいがく音頭に 夏の月」

 吉見宮司に尋ねると、「当社には『だいがく』というのがありまして、雨ごいの神さんなんですが、浜村さんは毎年、だいがくが出る7月の夏祭りに、福笹(ふくざさ)の授与に来られてるんです。もう35年以上も」。

 だいがくとは「台楽」とも書く。御神灯や鈴を飾り付けた高さ20メートルもあるやぐらで、昔はこれを担いで、太鼓を打ち鳴らしながら村を練り歩いたという。明治の頃はこの周辺に6基あったが、戦災で焼失し、現存するのは生根神社の1基だけで、府の文化財に指定されている。

 浜村さんは一昨年、福笹授与35年の節目に、神社の求めに応じて句を奉納したのだ。浜村さんにうかがうと、「日本の祭り」というテレビ番組の司会をした時にだいがくを知り、興味を持って夏祭りに足を運んだのがきっかけで、毎年参加するようになった。

 「だいがくというものが面白い。優しい優美なものではないんです。なんともいえないデザインで、これを若い男の子たちが音頭に乗せて揺すりまくるんです。頑張って生きていこやないか、という浪花のパワーをひしひしと感じるんです」

 生根さんとだいがくに「ありがとう」なんですね。【松井宏員】

673よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/22(木) 22:14:02 ID:cT6DLH2E0
「愛珠幼稚園」園舎を公開 来月21日 建物解説やピアノ演奏も 大阪
2012.3.22 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120322/osk12032202060004-n1.htm

 国重要文化財建造物の「大阪市立愛珠(あいしゅ)幼稚園」園舎(同市中央区)が4月21日に一般公開される。学芸員による古い園舎の解説のほか、明治期に購入されたドイツのイルムラー社製グランドピアノの演奏が行われる。

 愛珠幼稚園の園舎は明治34(1901)年に完成した国内最古の現役幼稚園施設。学校建築では珍しい御殿風の建築で、内部は採光と通風を良くするなどの工夫が見られる。

 公開時間は午後1〜4時で約30分に1回、建物解説とピアノ演奏がある。入場無料。問い合わせは市教委文化財保護担当((電)06・6208・9030)。

674よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/23(金) 21:46:05 ID:JG2WaV8E0
霊気強い?デコボコ勾玉
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120323-OYT8T00051.htm

寝屋川・四條畷 讃良郡条里遺跡

 寝屋川市と四條畷市にまたがる讃良(さら)郡条里遺跡の古墳時代(5〜6世紀)の集落跡で、祭祀(さいし)の道具とされる「子持勾玉(こもちまがたま)」が、両市教委と府文化財センターの発掘調査で見つかった。小さな玉や二つの穴があいた円盤も一緒に出土し、寝屋川市教委は「集落内での祭祀の様子を知る上で重要な発見」としている。

 子持勾玉は側面などに小さな突起があることが名前の由来で、玉としての霊気を増すためと考えられている。発掘されたのは一つ。濃い緑色の滑石製で、長さ6・7センチ、幅2・8センチ、重さ69・1グラム。上部にひもを通す穴(直径6ミリ)があいていた。

 小さな玉は500個以上見つかり、円盤(直径2〜3センチ)は10個以上あった。いずれも滑石を用いていた。

 遺跡からは弥生時代の集落や水田も見つかっており、24日午後1時〜3時に現地説明会が開かれる。

 小雨決行。問い合わせは、寝屋川市教委文化スポーツ振興課(072・838・0188)。

(2012年3月23日 読売新聞)

675よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/24(土) 04:52:00 ID:qtdVaeR.0
満開の桜の下で 能の魅力感じて 来月7日、中大江公園でお茶会 大阪
2012.3.24 03:47
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120324/osk12032402220000-n1.htm

 満開の桜の下、能の舞と野だてを楽しむ恒例の「桜まつりお茶会」が4月7日、大阪市中央区の中大江公園で開かれる。園内に舞台が設けられ、「羽衣」が上演される。

 この催しは、同公園の近くにある山本能楽堂が「花見とともに古典芸能にも親しんでもらおう」と平成20年、中大江校下社会福祉協議会が主催する桜まつりで能の演目を上演したのが始まり。昨春は東日本大震災のため中止された。

 当日は園内のあずまや付近に畳を敷き詰めて舞台を作り、観世流能楽師の山本章弘さん(51)らが羽衣伝説をもとにした人気曲「羽衣」をダイジェストで披露する。

 山本能楽堂は、能楽に触れたことのない若い世代にも伝統文化に親しんでもらおうと「ストリートライブ能」を開くなど普及活動に熱心。「美しい桜の下で能楽の魅力を身近に感じてほしい」と話している。

 開演は午前11時45分。入場無料。雨天の場合は中大江小学校で行う。問い合わせは中大江校下センター((電)06・6910・7986)。

676よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 11:53:04 ID:u.4oTJaA0
16−17世紀の甲冑並ぶ 「日欧のサムライたち展」
2012年3月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120324/20120324040.html

 大阪城とオーストリアのエッゲンベルグ城の友好城郭提携3周年を記念した特別展「日欧のサムライたち−オーストリアと日本の武器武具展−」(24日〜5月6日、大阪歴史博物館)の内覧会が23日、報道関係者らを招いて大阪市中央区の同博物館で開かれた。16〜17世紀にかけての日本と欧州の甲冑(かっちゅう)などが展示されている。

 2006年にオーストリア・シュタイヤーマルク州グラーツ市のエッゲンベルグ城の一室に飾られていた絵画が、豊臣時代の大阪城と城下町を描いたびょうぶであることが判明したのを記念し、09年に大阪市と同州立博物館ヨアネウムとの間で、二つの城の友好城郭提携が締結されている。

 今展では同州立博物館から、男性の衣服の意匠を参考に作られた「貴人の四分の三甲冑」をはじめ、当時のエッゲンベルグ城の様子を伝える版画など46点を出展。大阪城天守閣が所蔵する豊臣時代のものとされる「色々威二枚胴具足(いろいろおどしにまいどうぐそく)」や「長篠合戦図屏風(びょうぶ)」など38点が展示されている。

 期間中は火曜日休館。観覧料は特別展のみの場合大人千円、高校・大学生700円。

677よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 12:30:20 ID:u.4oTJaA0
鶴橋・猪飼野 原風景淡く
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120324-OYT8T00039.htm

大正、昭和の日本画家 堤楢次郎氏

 大正から昭和時代の鶴橋、猪飼野地区(大阪市生野区などの平野川沿い)を描いた日本画家、堤楢次郎(ならじろう)氏(1896〜1983年)の作品約300点が見つかった。今は見ることのできない当時の町並みや、住民の生活を水彩などで柔らかなタッチで描いている。25日から、東成区役所などで絵画展や講演会が開催される。(梶多恵子)

 堤氏は、鶴橋、猪飼野周辺の風景を精力的に描いたことで知られるが、地元の小学校に寄贈した作品など、20〜30点しか公表されていなかった。

 堤氏の絵に興味を持った大阪市立小の教諭で、郷土史を研究している小野賢一さん(61)が、同市生野区内の堤氏の孫の條治さん(62)宅を訪ね、約300点が保管されていたことがわかった。

 作品は、今は埋め立てられた大正時代の旧平野川や周辺の民家、桃谷駅(現・JR桃谷駅)に停車する蒸気機関車や大阪砲兵工廠(しょう)の建物など、当時の日常が描かれている。堤氏は作品の裏に、「絵を見るのではなく大正時代の鶴橋を見てください」と記したメモを残していた。

 大阪市史編纂所の堀田暁生所長は「人々や民家のたたずまいなどの当時の様子を知ることができる貴重な資料」と評価している。

 作品の一部は、東成区役所(25日〜30日)、生野区役所(4月2日〜26日)で展示されるほか、3月25日には、午前10時から東成区役所で講演会と、描かれた地域を歩くフィールドワークが行われる。無料。問い合わせは、小野さん(072・852・8124)。

(2012年3月24日 読売新聞)

678よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 12:31:57 ID:u.4oTJaA0
意外なええもん 富田林で再発見
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120325-OYT8T00084.htm

駅周辺でツアー

 富田林市中心部の商店街を巡る「ええもん・ええとこ再発見ツアー」が24日、近鉄富田林駅周辺で行われた。午前と午後の2部に計24人が参加、重要伝統的建造物群保存地区として観光客に人気がある寺内町周辺を歩き、街の魅力に触れた。

 地元のまちづくり協議会が初めて企画。「健康と自然を見直すスローライフツアー」のテーマで行われた午後の部では、有機栽培の栗を使った天津甘栗販売店や創業55年の電器店など7店を10人が訪れた。

 生花店では店主が「花束の注文を受けた場合はどんな場面で使うか尋ね、どんな花にするか考える」など、気配りをしていることを説明。自然食品販売店では大豆を原料にした肉のような味の食品を試食した。

 同市出身の吹田市千里山、関西大3年東祥平さん(21)は「古い街並みが好き。何気なく通り過ぎがちな道沿いに面白い店がたくさんあることがわかった」と話していた。

(2012年3月25日 読売新聞)

679よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 12:43:46 ID:u.4oTJaA0
28古墳の出土品ずらり 開館1周年の特別展 大阪・今城塚古代歴史館
2012.3.25 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120325/osk12032502020002-n1.htm

 「大王の陵墓」といわれる今城塚古墳(国史跡)の出土品を展示する高槻市郡家新町の市立今城塚古代歴史館で、開館1周年記念特別展「阿武山古墳と牽牛子塚(けんごしづか)古墳−飛鳥を生きた貴人たち」が開かれている。5月13日まで。

 阿武山古墳は高槻市の山間部で昭和9年に発見され、ミイラ化したほぼ完全な遺体1体と玉枕、金糸、絹織物などが出土した。その後の研究で遺体は「大化の改新」(645年)の立役者のひとり、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の可能性が高いとされる。

 同古墳発掘時の写真や副葬品のガラス玉製の玉枕(復元)のほか、鎌足が仕えた斉明天皇の陵墓とされる奈良県明日香村の牽牛子塚古墳など大阪、奈良両府県の28古墳の出土品や資料300点以上が展示されている。

                   ◇

 開館1周年記念イベントが25日に同歴史館と今城塚古墳公園で行われる。同市出身の男子フィギュアスケート選手、織田信成さんが「一日館長」を務め、8万2千人目の来館者に記念品が贈られる。

 問い合わせは同館((電)072・682・0820)。

680よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/27(火) 21:40:43 ID:M4Yi7uZM0
能の会:能楽シテ方観世流・寺澤幸祐さん、長男と共演 31日、大阪能楽会館で公演 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120327ddlk27040438000c.html

 能楽シテ方観世流、寺澤幸祐(こうすけ)さんと小鼓方大倉流、久田陽春子(やすこ)さんの「能の会」第2回公演が31日午後1時、大阪能楽会館で開かれる。2人とその長男、寺澤拓海さん(12)が「烏帽子折(えぼしおり)」で共演する。

 「烏帽子折」は元服する牛若を描く。当時は元服して成人になると烏帽子をかぶるので牛若が烏帽子屋を訪れると、主人(幸祐さん)は源氏ゆかりの者で祝福する。その後、盗賊の熊坂長範(幸祐さん)一味が牛若を襲うが、みな牛若に切られる。牛若の役は能の子方(子役)卒業の大役。陽春子さんは小鼓を打つ。

 幸祐さんは「牛若は出ずっぱりで1曲通して緊張感を持続するのが難しい」と話す。陽春子さんは「研さんの会ですが、次世代へのステップの場になれば」と言い、拓海さんは「牛若のように堂々とやりたい」と元気いっぱい。

 他に、東日本大震災の被災者鎮魂の意味を込めた半能「高砂」(井上裕久さん)などを上演する。5000〜8000円。問い合わせは事務局(0797・22・0375)。【宮辻政夫】

681よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/27(火) 23:21:13 ID:M4Yi7uZM0
大阪万博へ 燃えた討論
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120327-OYT8T00060.htm

小松左京さん宅に議事録

 1970年の大阪万博開催に先立つ60年代、作家や芸術家、学者ら関西の文化人有志を中心に自由な立場で討議を重ねた「万国博を考える会」の議事録が、昨年7月に亡くなったSF作家小松左京さんの府内の自宅で見つかった。万博のテーマ「人類の進歩と調和」が打ち出された過程に迫る貴重な資料。吹田市立博物館で開催中の「小松左京写真展――宇宙に翔(はばた)く夢」で公開されている。(西田朋子)

 発見されたのは、青焼き印刷の冊子や手書きメモ類など計10点(約100ページ)。非公式の集まりである同会については、小松さんらが回想記で言及しているが、詳細な中身は知られていなかった。

 それによると、大阪万博の開催決定より11か月早い64年6月に、小松さんらが「準備会」として活動を開始。同年10月作成の趣意書には漫画家の手塚治虫さん、SF作家の星新一さんらも名を連ね、「民衆の知恵を結集し、見本市の規模を超え(開催後に)国連本部を誘致するくらい雄大なことをしないと人は集まらない」とある。

 メンバーの一人で、当時、京都大学人文科学研究所助手だった評論家の加藤秀俊さんは、「大阪開催の博覧会が、東京の官僚に指導されるのは関西文化にとってまことに心外。大阪は民間主導で、という機運と切迫感があり、関西の学界の知恵を集めた『考える会』が発足した」と振り返る。

 65年3月の「考える会」では、候補地として千里丘陵のほか大阪南港、琵琶湖畔、神戸港などを挙げ、来場者3000万人を見込んで新空港を含む交通網整備などの必要性を指摘。同年10月の「第1回総会」では、後にテーマ館展示プロデューサーに就任する芸術家・岡本太郎さんが「個人が部品化、分業化された近代社会において、未来に向けて個人を超えた芸術・作品を作り上げるとすれば、それは博覧会」と発言した。

 こうした議論を踏まえ、人類学者の梅棹忠夫さんらメンバー有志が徹夜を重ね、翌月パリで開催される国際万国博理事会に向け、「テーマと基本理念」の草案をまとめたという。

 吹田市立博物館の小山修三館長(国立民族学博物館名誉教授)は「学問は広く世界とかかわるべきだ、という60年代の刺激的な空気とメンバーの熱い思いが伝わってくる。現代の関西文化の原点を、多くの人に知ってもらえれば」と話す。

 4月22日まで。無料。開館は午前9時30分〜午後5時15分。4月2、9、16日は休館。問い合わせは同館(06・6338・5500)。

 大阪万博

 正式名称は日本万国博覧会。世界77か国と国際機関、都市、企業などが116の展示館を出展。70年3月15日〜9月13日の会期中、約6422万人が訪れた。原始から未来に向かう生命の素晴らしさを表現するテーマ展示館は、地下展示場から高さ70メートルの「太陽の塔」内部を通り、大屋根の空中展示場を観覧する構造だった。

(2012年3月27日 読売新聞)

682よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/01(日) 13:53:10 ID:hlQdgRgU0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

有名両替屋の所在地
2012年3月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120328/20120328046.html

手形便覧

 天王寺界隈(かいわい)の古書店の目録に「手形便覧」が掲載された。その本屋を訪れ、店主にその話を向けると、「皆、よう知ってますなぁ」。午前中に4、5人から引き合いがあったが、最初の注文者の手に落ちたという。この言葉に精気を失い、私は黙り込んで数分後に店を後にした。もう40年は経過しただろうか。思い出すといまだに惜しい気がする。

 古書店は、平等を期するために、目録を市外に早く、市内は遅れて発送する。目録が届くと同時に血眼になって目を通す。他人よりも早く目的の史料を見つけると、直ちに発注しなければ史料を入手することはできない。

 目録買いが難しいのは、現物を見ずに資料の保存状態や内容、金額の妥当性を考慮して判断をしなければならないことだ。常に古書と向き合っていても知らない本はいくらでもある。当時の私は若くて、この本の存在を知らなかったのである。

 「手形便覧」は大阪の両替屋の名前と住所を記した横長の冊子(三切本)で、寛政11(1799)年に初めて刊行された。手形取り扱いの便宜に供するためのもので、内容は若干異なるが、十人両替、本両替、南両替、銭両替、遣来(やりくり)両替屋などの代表的な店名と町名が記載され、有名両替店の分家・別家も一目でわかる。これ以後は一紙もので「大阪両替屋所附」=文政11(1828)年=「大阪両替手形便覧」=天保14(1843)年=等がある。

 大阪には多くの手形が回っていた。大手形・預かり手形・振出手形・振差紙・約束手形・為替手形等、種別も多い。金や手形を江戸や地方とやりとりするのには飛脚を使う。

 ここに挙げた「大阪両替手形便覧」=安政4(1857)年=は、「山」形に「中」と書かれた島屋佐右衛門の商標があり、正月の刊期からみて、「お年玉」として関係者に配布したようである。

 島屋は江戸の京・大阪宛ての定飛脚問屋で、大阪の組合店が元禄14(1701)年に作った江戸の飛脚宿であり、金銀逓送を行った。本店は江戸瀬戸物町で、上州・奥州・函館・越後などに出店を展開した。明治期には陸運元会社に参加、のちの内国通運会社(現在の日本通運の前身)になった。

 (大阪商業大学商業史博物館元学芸員・小田忠)

683よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 05:57:41 ID:j3dAegs.0
日欧の戦いの歴史紹介 歴史博物館で特別展 大阪
2012.4.4 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120404/osk12040402030002-n1.htm

 16〜17世紀の日本とオーストリアの“戦い”に関する資料を集めた特別展「日欧のサムライたち」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。東西の戦いの歴史や戦闘方法などを分かりやすく比較、紹介している。5月6日まで。

 大阪城とオーストリアのエッゲンベルグ城の友好城郭提携3周年を記念し、同博物館と大阪城天守閣が合同で企画した。

 見どころは、同時代の日本と欧州の武器や武具の比較展示。オーストリアからは、州立博物館ヨアネウムなどに所蔵される神聖ローマ帝国時代の甲冑(かっちゅう)や長槍(やり)、銃などの武器・武具や、当時のエッゲンベルグ城や戦闘の様子を描いた版画など46点が並んだ。

 日本側からは、大阪城天守閣などが収蔵する、室町時代から江戸時代にかけての合戦図屏風(びょうぶ)や、真田幸村らが用いたと伝える甲冑など38点が紹介されている。

 特別展の観覧料は大人千円、高校・大学生700円、中学生以下無料。火曜休館。問い合わせは同館((電)06・6946・5728)。

684よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 21:16:53 ID:9efkOlQI0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/246 江戸川乱歩寓居跡 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c.html
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c2.html

 ◆守口市

 ◇時の流れに建物消え 近くに説明板あれば

 前回まで阿倍野から玉出へと歩いて、ふと気付けば、この連載も8年目に突入した。この間に、残念ながら消えてしまったものもある。歌の文句じゃないが、「時の流れを恨むじゃないぞ」などとつぶやきながら、しばし、そんな所をたどってみる。

 連載16回目(06年1月)で取り上げた守口市の「江戸川乱歩の家」。地下鉄谷町線・守口駅2番出口を上がってすぐの所に、古びた洋館があった。名探偵・明智小五郎と怪人二十面相の血湧き肉おどる推理小説を生み出した江戸川乱歩が、1924(大正13)年から2年間、住んでいた家だった。明智小五郎が初めて登場する「D坂の殺人事件」はこの時期に書かれており、名探偵が生まれた家でもあった。

 久しぶりに訪ねてみると、マンションと洋風の民家に変わっていた。一昨年に建て変わったようだ。産婦人科医だった大野正さんが所有していて、80年に乱歩が住んでいたことがわかってから、資料を集めては訪ねてくるファンを案内していた。取材した時は亡き夫に替わって奥さんが、この家を守っていた。

 その頃は既に開放されていなかったが、家の中を見せてもらった。2階が乱歩の書斎で、ここで天井の節穴を眺めていて着想したのが、節穴から毒薬をたらして人を殺すという「屋根裏の散歩者」だった。大阪生まれの推理作家、芦辺拓さんは取材で本当にこの家の天井裏に入ってほこりだらけになったという。

685よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 21:20:48 ID:9efkOlQI0
>>684

http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c3.html
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c4.html

 老朽化が激しく、国道脇という一等地でもあって、一昨年に建物は解体し、建て替えたという。資料類は保管しているそうだ。それは致し方ないが、守口市にはひとつ注文をつけたい。地下鉄の改札を出た所の地図にも、元寓居脇の遊歩道の標識にも「江戸川乱歩居住跡」などとあるのだが、当の場所の表示も説明もない。大野さんが作った説明板があることはあるのだが、物陰に隠れていて人目に触れない。

 何も残っていないし、今は一般の方が住んでいるから、場所を明示するのは難しいかもしれない。しかし、すぐ近くの遊歩道の起点に、ちょっとした緑地のような空間があるので、そこに「乱歩寓居跡」の説明板を据えることくらいはできるだろう。何もなしでは、大野さんご夫婦が守ってきた厚意が報われない。

 芦辺さんは当時の取材に「行政が関わって、書斎を再現するなど保存すべき」と語っておられた。それができなくなったいま、せめてできることをしてほしい。【松井宏員】

686よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 21:58:41 ID:9efkOlQI0
巨大な仁徳陵、見えた! 50年ぶり、堤の樹木伐採
2012.4.5 16:18
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120405/osk12040517330011-n1.htm

 仁徳さん、すっきり−。日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵(大山古墳、堺市)で5日までに墳丘の“目隠し”となっていた堤防の樹木が一部伐採され、木立の間から巨大な前方部のシルエットが見えるようになった。

 管理する宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所によると、伐採は少なくとも50年ぶり。「見えない天皇陵」の大変身に、市民や春休みで訪れた親子連れには「墳丘がいかに大きいか初めて分かった」「圧迫感がなくなり、すっきりした」と好評だ。

 3重の周濠に挟まれた二つの堤防にはカシなどがびっしりと生えており、これまでは内側の堤防(内堤)上にある拝所から、前方部のごく一部が見えるだけだった。

 伐採したのは、拝所周辺の約120本。枝が広がりすぎたものや倒れそうな古木を同事務所の陵墓職員が慎重に見定め、間引くように切った。

687よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/06(金) 05:33:33 ID:Xer6aqs20
国立文楽劇場前で除幕式 高津の「二ツ井戸」復元 大阪
2012.4.6 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120406/osk12040602000000-n1.htm

 織田作之助の小説「夫婦善哉」にも登場する文楽発祥の地、大阪市中央区の高津(こうづ)地区にかつてあった井戸「二ツ井戸」が同区の国立文楽劇場前に復元され、5日、除幕式が行われた。

 町の歴史と文化を再評価することで町の魅力を高めようと、同地区の住民らで組織する二ツ井戸復元実行委員会などが企画した。

 二ツ井戸とは、長方形の石の井げたの真ん中を石板で仕切った井戸のことで、2つの井戸が隣接していたことからこう呼ばれた。江戸時代の文献にも記載されている由緒ある井戸で、当時は近隣住民の生活用水として利用され、明治5年からしばらくは「二ツ井戸町」という町名にもなったが、明治22年の道路拡張の際に埋設された。

 復元された二ツ井戸は縦約1・1メートル、横約1・9メートルと当時の約8割の大きさ。実行委員長の金田(かなた)次郎さん(68)は「地域の歴史遺産、観光遺産として後世に伝え続けたい。町おこしのきっかけとともに、ミナミの新たな魅力になれば」と話していた。

688よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 06:49:06 ID:LWSczBNs0
弥生期復元建物 暴風雨で倒壊 和泉の史跡公園
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120407-OYT8T00048.htm

 和泉市の池上曽根史跡公園で、弥生時代(約2000年前)の姿をイメージして復元された掘立柱建物(約20平方メートル)が、3日の暴風雨で倒壊していたことがわかった。市教委は修復を検討する。

 市教委によると、3日午後1時30分頃、住民が市教委に通報した。建物は10本の柱(直径約20センチ)で茅葺(かやぶ)き屋根を支えていたが、全ての柱が根元から折れ、横倒しになっていた。市教委は周囲にロープを張り、近づけないようにしている。

 池上曽根遺跡は弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落跡で、1976年に国史跡に指定された。同公園は2001年5月に整備され、5棟が復元された。他の4棟は倒壊していない。

(2012年4月7日 読売新聞)

689よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 06:55:37 ID:LWSczBNs0
我が国最古の寺、四天王寺。
四天王寺の悠々たる時の流れの中で見る桜は、また一味違うのかもしれません。
時間のある方は日曜日の今日、行かれてみては如何でしょうか。


極楽もうすぐ満開 四天王寺
2012年4月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120407/20120407036.html

 6日の大阪市は最高気温11・7度と平年を6度余り下回り、3月上旬並みの肌寒い一日。それでも各地のサクラはようやく花開き、確実に春の足音を刻んでいる。

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺では、境内のサクラが見頃に。一般公開している極楽浄土の庭(本坊庭園)に並ぶ約100本のサクラは、週末から来週初めにかけて満開のピークと予想されている。

 中心伽藍(がらん)と六時礼讃堂の西側、参詣客らの休憩所となっている和労堂前の丸池周辺に並ぶサクラも七分咲きとなっており、記念撮影する観光客や写真愛好家の姿が見られた。

690よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 10:03:42 ID:.Am/9SmU0
岸和田城周辺がリニューアル
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003682731.html

桜の名所として知られる大阪・岸和田市の岸和田城周辺に観光客を呼び込もうと、新たに芝生の広場や石畳の道などが整備されました。岸和田城は、誰が建てたのかはわかっていませんが、豊臣秀吉の天下統一の際は大阪南部の拠点として重要な役割を果たしました。
現在の天守閣は昭和29年に再建され、桜の名所として知られています。
岸和田市は、観光客を呼び込むため、国や府から補助を受け4億円あまりをかけてお城周辺の広場や歩道を新たに整備ました。
このうち、「二の丸広場」には、新たに芝生エリアが作られたほか、無料の休憩施設や飲食店を併設した「観光交流センター」が新築されました。
このセンターは内装工事を終えた後、5月ごろにオープンするということです。
また、以前は砂利道だった天守閣への入り口やお堀沿いの歩道が石畳の道となり、訪れた人たちが快適に散策できるようにしたということです。
岸和田市観光課の中島剛さんは、「岸和田城は花見のシーズンになるとお客さんも多く、桜がたくさん咲いていますので、これからのシーズンにぜひ来ていただきた」と話していました。

04月08日 08時00分

691よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 18:41:22 ID:o6TNPu4U0
関西パワースポット、春はピクニックがてら「すみよっさん(住吉大社)」へ
http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/googirl/2012/04/post-1118.html

 長く寒い冬が終わり、春の訪れを感じることが増えた今日この頃。「暖かくなったら何しようかな」、「春になったらどこにいこう・・・」そんな楽しいことを考えることも多くなりましたね。そこで今日は関西の人にお友達とぜひ足を運んで欲しいスポット&オススメのまわり方をご紹介したいと思います。

「住吉大社」に行ったことはありますか?

 大阪の人々に「すみよしさん」、「すみよっさん」などの愛称で親しまれている「住吉大社」。商売繁盛をお願いする大阪商人たちがよく訪れる場所でもありました。今でも初詣には毎年200万人の人が訪れる場所でもあります。
 商売繁盛以外にも境内にはたくさんのお社や文化財があり、恋愛成就から勝負運や交通安全などを願うことができると、現在は若い女性たちの間でパワースポットとしても有名です。

女友達といくならまず美味しいお買いものを!

 仲の良い女友達と住吉さんにいくのならば、まずはお昼前になんば高島屋地下入り口で待ち合わせしましょう。まずはここでピクニックの準備です。住吉大社の向かいには「住吉公園」という大きくのどかな公園が広がっています。せっかく暖かい気持ちの良い気候になったのですから、外でおいしいご飯を食べてピクニック気分を楽しみましょう!
 高島屋デパ地下にてお昼ご飯に最適なお惣菜を買って行きます。焼きたてのパンでできたサンドウィッチ?それとも春野菜を使ったサラダ?揚げたてのコロッケ?もちろんスイーツも!なんでも揃っちゃいます。思う存分買ったら、南海線で住吉大社駅へと向かいます。25分ほどで到着です。

住吉公園にてお弁当広げてピクニック!

 駅についたらホームの自販機やコンビニでお茶を買って、目の前に広がる住吉公園へ。緑が多くベンチも多い公園ですから、軽く歩けばお昼ごはんを広げる場所はすぐに見つかるでしょう。そこで買ってきたお惣菜を友達と喋りながら食べるとピクニック気分満点!このあと行く住吉大社10 件で何をお願いするか相談してもいいですね。

692よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 18:43:39 ID:o6TNPu4U0
>>691

住吉大社で「五所御前」GO!

 お腹が満たされたら住吉大社へ!その広さにびっくりするはず。国宝でもある御本殿はもちろん、川端康成の小説の舞台になった住吉大社の「反橋」など見所たくさん!しかしせっかく女友達と訪れたのだったら、「五所御前」に行きましょう。
 別名「高天原 (たかまがはら) 」とも言われる杉の木があります。そこには石が敷き詰められており、その石の中には「五」・「大」・「力」の漢字が書かれている石があります。この石を3つ集めると、「五大力」=体力・智力・福力・財力・寿力が得られるのだとか。たくさんの石の中からこの文字が書いてある石を一つ一つ探すのはなかなか大変!ですがここは友達と力を合わせて探し出し、3つの漢字を揃えましょう。わいわい言いながらだと探す作業も楽しいもの。
 この見つけ出した3つの石は授与所で袋を買ってその中に入れると、お守りとして持つことができます。300円で買え、小さい巾着のようで可愛いお守りなのでいい記念になります。

 ほかにもいろんな周り方ができる住吉大社。パワースポットでパワーをチャージしたい人はもちろん、大阪に住みながらもまだ行ったことがない人や、女友達とどこかお出かけしたい、そんな人にもオススメです。

▽ 住吉大社駅とその周辺のグルメ・お土産・みどころ・イベント情報[あきない住吉参り]

ライター:宮野茉莉子
証券の営業を経て、現在フリーライター&子育て中。読書、写真、旅、お酒、哲学が好き。「哲学=アート。自由▽ オリジナリティー▽ 実験的に物事を考える。がモットー。

693よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 19:45:43 ID:WDtcA4bc0
>飛鳥時代に聖徳太子や斉明天皇などが道後温泉に訪れたという伝説にちなみ、朱、緑、黄色を基調に
>四天王寺(大阪府)や


「飛鳥の湯」松山市に提言へ 道後温泉第3の外湯
2012.3.28 02:04
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120328/ehm12032802040001-n1.htm

 ■本館の2倍以上、露天風呂も

 松山市の道後温泉周辺の観光関連業者や住民などで作る団体「道後温泉誇れるまちづくり推進協議会」(宮崎光彦会長)は27日、松山市の子規記念博物館で臨時総会を開き、道後地区の活性化を目指して道後温泉本館、椿の湯に続く第3の外湯「道後 飛鳥の湯」の建設を松山市に提言することを満場一致で決議した。同市への提言は30日に行われる見込み。

 「飛鳥の湯」は敷地面積約2840平方メートルで、道後温泉本館の2倍以上。近隣のホテル椿館別館の敷地(同市鷺谷町)が第1候補地にあげられている。

 建物は飛鳥時代に聖徳太子や斉明天皇などが道後温泉に訪れたという伝説にちなみ、朱、緑、黄色を基調に四天王寺(大阪府)や法隆寺(奈良県)など、飛鳥建築のイメージを取り入る。

 温泉は男女合わせて176平方メートルの内湯と285平方メートルの露天風呂があり、女湯の内湯では古代の入浴着をもとにデザインした「湯帳」を着て入浴するスタイルも新サービスとして盛り込まれる。建設や土地の所有・借地は同市、運営管理は指定管理制で民間に委託し、経営は道後温泉本館、椿湯と複合させて行うことなども提言する予定。

 宮崎会長は「飛鳥の湯は道後温泉本館の改修工事に伴う代替施設ではない」としたうえで「100年後も誇れる道後温泉のシンボルとして、早期実現を目指したい」と力を込めた。

694よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/10(火) 02:25:35 ID:ivC1zZaU0
百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録へ PRピンバッジ 大阪
2012.4.10 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120410/osk12041002010004-n1.htm

 ユネスコの世界遺産暫定一覧表に記載されている巨大古墳群「百舌鳥(もず)・古市古墳群」について、堺市は世界文化遺産への登録の重要性をPRするピンバッジを作製し、9日に販売を始めた。

 同古墳群は、堺市の百舌鳥古墳群と、羽曳野、藤井寺両市にまたがる古市古墳群からなる。バッジは縦が最大で1・7センチ、横2・5センチ。百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵をモチーフにし、「堺」の文字も配したデザインで、「百舌鳥古墳群のあるまち堺」をPRしている。

 価格は1個500円。市内の観光案内所や市産業振興センター、堺伝統産業会館のほか、東京・有楽町の大阪百貨店堺産品展示販売コーナーなどでも扱っている。市は売り上げの一部を、市の世界文化遺産登録推進基金に積み立てる方針。

695よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/12(木) 06:00:32 ID:zpjtFojM0
春の大古本祭り28日から テーマは「1960年代」 大阪・四天王寺
2012.4.12 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120412/osk12041202060000-n1.htm

 関西の古書店29店が出店する「春の大古本祭り」が28日〜5月3日、大阪市天王寺区の四天王寺境内で開かれる。古書を身近に感じてもらおうと、関西古書研究会と同寺が毎年春と秋の年2回開催している。

 今回は「リメンバー1960年代」をテーマにさまざまなジャンルの古書約50万点が並ぶほか、昨年秋の古本祭りで好評だった「災害支援チャリティー本コーナー」も開設。

 注目されるのは、1881年に発行されたケイト・グリーナウェイのマザーグース絵本や、飛行船ツェッペリン号から撮影された戦前の映画「空中世界一周」のポスターなど。19〜20世紀のイラスト入り雑誌も多数出品されるという。

 午前10時〜午後5時(最終日は午後4時まで)。問い合わせは大仙堂書店((電)072・994・8852)。

696よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/13(金) 05:25:27 ID:OYy9pwDE0
世界遺産へ民間推進協 百舌鳥・古市古墳群 大阪
2012.4.13 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120413/osk12041302020002-n1.htm

 百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界遺産登録を目指して関係の府、堺市、羽曳野市、藤井寺市で構成する「登録推進本部会議」が12日、府咲洲(さきしま)庁舎(大阪市住之江区)で会合を開いた。「オール大阪」での登録推進の機運を盛り上げるため、民間団体による協議会を設立することなどが決まった。

 「本部会議」は昨年5月に発足。会合は2回目となる。府と3市の関係者らが出席し、平成24年度の事業として、情報発信のためのホームページの作成、国内外向けのDVDの作製をすることを決定。また、ユネスコに提出する登録推薦書の作成に取りかかることなども決めた。

 民間団体による協議会は、5月末までに設立する計画。経済団体や観光団体などに加入を求めることを検討するという。

697名無しさん:2012/04/15(日) 14:44:16 ID:DOQMvGnM0
四天王寺や住吉さんで見る桜は染井吉野以外がいいですね
できれば当時の品種であればよりいいと思う
全国どこでも一種類の桜を見るのもいいのですが、
当時の都に想いを浮かべるにはそうでない桜がいい

698よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/15(日) 19:38:26 ID:Ynx27Ruk0
「夏の陣」など11点 大阪城収蔵の屏風展示
2012年4月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120415/20120415026.html

 花見客などでにぎわう大阪市中央区の大阪城天守閣内3階展示室で、「テーマ展 世情−大阪城天守閣収蔵風俗屏風(びょうぶ)にみる」が開かれている。重要文化財の「大坂夏の陣図屏風」「南蛮屏風」など11点を展示。天守閣の学芸員が屏風内に描かれた人々の様子をピックアップし説明を加えるなど、桃山時代から江戸時代にかけての当時の人々の様子を知り、楽しめる内容となっている。

 「大坂夏の陣図屏風」では、徳川家康や真田幸村なども登場し大坂城の南方で繰り広げられた戦闘の様子が描かれた右隻とは対照的に、左隻には大坂を脱出する敗残兵や町民などの様子が細やかな描写で表現されている。

 また「大坂市街・淀川堤図屏風」の中の天満橋上でけんかする男女の姿や「吉野花見図屏風」の酔っぱらって動けなくなった男性の姿など、当時の人々のさまざまな姿を楽しむことができる。

 富山市から会社の仲間とともに観光で訪れていた城川実さん(79)は「屏風がこうして残っているのがすごいと思う。(人々の様子も)時代が変わると感覚が違いますね」と話していた。

 5月6日までの午前9時から午後5時(入館は閉館の30分前まで。28日〜5月6日は午後6時閉館)。

699よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/17(火) 05:14:30 ID:IMxFL1wU0
更紗 エキゾチック花模様 堺の博物館
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120416-OYT8T00097.htm

代表3産地の40点展示

 木綿の布に花などの文様を染め出したインド発祥の更紗(さらさ)を集めた企画展「和更紗―堺・京・長崎―」が、堺市堺区の市博物館で開かれている。6月3日まで。

 和更紗は、日本で江戸時代後期に庶民に広まった。会場には代表的な産地だった堺、京都、長崎で当時作られた異国情緒あふれる色とりどりの約40点が並ぶ。

 くっきりとした柄の京更紗、赤色が印象的な長崎更紗に対し、堺更紗は藍色を多用。大柄な花模様も特徴で、白の花びらに「霰(あられ)」と呼ばれる点描が入っており、来客用の布団や座布団に使われたという。

 宇野千代子学芸員は「歴史や技法、模様の面白さを比べながら楽しんで」と呼び掛けている。月曜休館(30日、5月21日は開館)。問い合わせは堺市博物館(072・245・6201)へ。

(2012年4月16日 読売新聞)

700よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/18(水) 05:29:05 ID:FKftKj6o0
竹内街道歩き、楽しみたい人たちへ お役立ちマップ改訂版 大阪
2012.4.18 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120418/osk12041802010002-n1.htm

 ■トイレやコンビニ網羅

 7世紀ごろから大阪と奈良を結び、日本最古の官道とされる「竹内(たけのうち)街道」の全行程を網羅したウオーキングマップが完成した。トイレやコンビニエンスストアの位置など最新の“お役立ち情報”が詰め込まれ、同街道歩きを楽しみたい人たちをサポートする。

 関西の歴史文化の魅力を発信する歴史街道推進協議会(本部・大阪市北区)が、街道沿いの魅力を再発見してもらおうとこれまでに製作したマップの改訂版。今回は地域のボランティアガイドが中心となり、より詳しく正確な情報を集めた。

 竹内街道は、難波〜飛鳥京間を結ぶ官道として飛鳥時代に整備された。距離は約35キロ。

 マップは、堺市〜松原市▽松原市〜羽曳野市▽太子町〜奈良県葛城市−の3部構成。街道沿いにある駅や交差点などの基本情報に社寺や史跡などの歴史的スポットを加え、トイレやコンビニなどを記号で図示。「ここ(羽曳野市の峰塚公園)から見る二上山の遠景はおすすめ」などの“ひとことガイド”も盛り込んだ。

 また改訂版では新たに、周辺地域の祭りやイベントの時期や内容を写真入りで紹介している。

 同協議会やボランティアガイド団体で配布しているほか、「歴史街道」のホームページからも無料でダウンロードできる。1万部を製作。問い合わせは同協議会((電)06・6223・7745)。

701よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/18(水) 21:26:15 ID:/nZL1Oj.0
何に使った? 亀形土器
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120417-OYT8T00057.htm

泉佐野・諸目遺跡 腹部に穴


 泉佐野市長滝の諸目(もろめ)遺跡で、飛鳥時代〜奈良時代(7〜8世紀)頃の、亀の形をした土器が、府文化財センターの発掘調査で見つかった=写真、同センター提供=。奈良市の平城京などでは亀の形をしたすずりが出土しているが、墨をためるくぼみがなく、腹部に穴があるなど、すずりとは特徴が異なるという。

 市立長南小学校の体育館建て替えに伴い、2月から約1100平方メートルを調査。亀形の土器は長さ約20センチ、高さ約6センチで、甲羅の部分などが一部欠けていた。頭の部分に穴を開けて目や鼻などを表現し、脚を付けた跡も残っていた。

 同センターの担当者は「すずりとしては使えそうになく、類例がない。いったい何に使ったのか」と首をかしげている。同センターによると、亀は神仙世界の使いのめでたい動物とされ、亀形のすずりは、奈良のほか滋賀や福岡などで出土している。

(2012年4月17日 読売新聞)

702よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/18(水) 21:27:20 ID:/nZL1Oj.0
高槻・成合遺跡から弥生集落跡 より安全な高台へ移住か 大阪
2012.4.18 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120418/osk12041802010001-n1.htm

 府内で出土例が少ない弥生時代の翡翠(ひすい)製の勾玉(まがたま)が見つかった高槻市の成合(なりあい)遺跡。付近では昭和20年代に土器片が見つかるなど遺跡の存在は知られていたが、これまで本格的な調査は行われていなかった。今回の調査で弥生時代の建物跡が見つかったが、短期間で廃絶した集落だったと考えられている。弥生時代の集落跡が集中するこの地域の歴史をたどる貴重な発見になりそうだ。

 今回の調査で、弥生時代中期〜後期の竪穴建物跡が8棟分見つかった。数十人が暮らした比較的小規模な集落とみられるが、建物跡はいずれも改築された跡がなく、遺物の出土も少ないことから、調査にあたる府文化財センターは「集落は短期間で廃絶した」と推測している。

 成合遺跡の衰退期は、川を挟んでより高台にある古曽部・芝谷遺跡の出現期と重なる。成合遺跡の集落が安全な場所を求めて移住した可能性があるという。

                   ◇

 現地説明会は21日午後1〜3時(雨天実施)。問い合わせは現地事務所((電)072・689・9265)。

703よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/18(水) 21:33:14 ID:/nZL1Oj.0
弥生集落跡からヒスイ勾玉
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120418-OYT8T00052.htm

高槻・成合遺跡 淀川の水運で流通か

 府文化財センターは17日、高槻市東部の丘陵上にある成合(なりあい)遺跡で弥生時代(約2000年前)の集落跡を確認し、ヒスイ製の勾玉(まがたま)=写真、同センター提供=を発掘した、と発表した。大規模な遺跡を中心に出土する貴重な勾玉で、北摂地方の拠点集落「安満(あま)遺跡」(国史跡)とのつながりがうかがえるという。

 勾玉は長さ1・7センチ、幅1・4センチで、淡い緑色に乳白色が交じっている。ヒスイは新潟県の糸魚川が産出地で、生産遺跡が見つかっている北陸地方で加工されたらしい。勾玉は、安満遺跡(東西1・4キロ、南北0・6キロ)にいったん運ばれ、北約2キロにある比較的小規模な成合遺跡にもたらされたとみられる。

 北摂地方では、弥生時代後期に平野部の安満遺跡が衰退し、北西約1キロの丘陵部にある防御的な性格を備えた古曽部・芝谷遺跡が出現する。成合遺跡の時代はその移り変わりの時期で、高槻市立今城塚古代歴史館の森田克行館長は「弥生集落の変遷がたどれる貴重な発見。勾玉は淀川を利用した流通で運ばれたのだろう」と話している。

 現地説明会は21日午後1時から3時。雨天決行。高槻市営バスの「上成合」バス停下車、東へ徒歩5分。問い合わせは、現場事務所(072・689・9265)。

(2012年4月18日 読売新聞)

704Bristol Airport Hotels:2012/04/19(木) 11:18:52 ID:fR.ID1YY0
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705よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/22(日) 06:52:51 ID:AHkfD0go0
幽玄の夕べ、150人酔う 豊中不動尊で「島熊山桜能」 大阪
2012.4.22 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120422/osk12042202000003-n1.htm

 万葉の歌に詠まれた島熊山の風雅を味わう「島熊山桜能」が20日夕、豊中市緑丘の豊中不動尊で行われ、大勢の能楽ファンが幽玄の世界にひたった。

 千里丘陵の一角にある島熊山は標高が116メートルほどだが昔は急峻(きゅうしゅん)で旅人が通行に難渋したといわれ、万葉集に「玉かつま 島熊山の夕暮れに ひとりか君が山道(やまじ)越ゆらむ」と詠まれた。その島熊山の歴史、風情を語り伝えようと、能楽観世流シテ方の山本博通さんを中心に5年前から「桜能」を始めた。

 本堂前に特設された能舞台でまず、知ったかぶりで威張る人間を笑い飛ばす狂言「菌(くさびら)」が演じられた。

 法師役の大蔵流狂言方、善竹忠重さんと、採っても採っても生えてくるキノコ役の小学生5人のユーモラスなやりとりがあり、子供たちが舞台狭しと跳びはねると大きな拍手がわき起こった。

 続いて、山本さんによる能「羽衣」が演じられた。三保の松原で漁師に羽衣を見つけられた天女が、優雅な舞を演じて羽衣を返してもらい、天へ舞い戻る物語。

 時折降る雨にもかかわらず、詰めかけた約150人からため息がもれた。

706よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/22(日) 21:11:21 ID:agPkcwdg0
心安らぐ和風庭園 川端康成ゆかりの極楽寺に 大阪・茨木
2012.4.22 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120422/osk12042202000001-n1.htm

 ■開園式に60人

 文豪・川端康成ゆかりの極楽寺(浄土宗、茨木市宿久庄(しゅくのしょう))に和風庭園「東心園」が完成し21日、檀家(だんか)や関係者ら約60人が参加して開園式が行われた。

 庭園は、地元の通称「東村」の人たちがいつでも集え、心を安らげることができる場所にと造られた。広さ約500平方メートルで、周囲の田園や里山が借景となっている。

 本尊や観音菩薩などを表す「三尊石」の前に「心」をイメージした池が掘られ、5大陸を意味する「五石」の周りに人間の煩悩と同数の108個の念珠石が埋められている。

 住職の森昭順(しょうじゅん)さんは「五石の周りを歩いて世界平和を祈ってほしい」と話す。

 同寺は戦国時代の16世紀末の開創と伝わる。川端康成は、この寺の近くの祖父方で少年時代をすごした。川端家の菩提寺(ぼだいじ)でもある。開園式では、康成の遠縁にあたる川端億佳(やすよし)さんが総代として司会役を務めた。

707よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/23(月) 05:26:42 ID:WJPJ3BAs0
細川ガラシャ 音楽でしのぶ 29日に終焉の地で 大阪
2012.4.23 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120423/osk12042302030003-n1.htm

 ■来年、生誕450年控え

 戦国武将、明智光秀の娘で細川家に嫁ぎ、キリスト教に改宗した細川ガラシャ(1563〜1600年)が関ケ原の戦いで命を絶ったとされる屋敷跡に建つという「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」(大阪市中央区)で29日、「細川ガラシヤ様に捧(ささ)げる音楽会」が開かれる。

 熊本県のテレビ局が、細川家末裔(まつえい)という元首相、護煕氏の妻、佳代子さんがガラシャの足跡を訪ねる企画を進めており、音楽会もその一環。当日は、佳代子さんも会場であいさつし、来年で生誕450年というガラシャを、音楽などでしのぶという。

 ガラシャは、現在の京都府長岡京市周辺を支配していた細川家の忠興のもとに嫁いだが、光秀が本能寺の変(1582年)で織田信長を討つなどしたため、山里に幽閉されるなど苦難のときを過ごしキリスト教に改宗。関ケ原の戦いでは、大阪の屋敷にいたところを石田三成の軍勢に攻め込まれ、悲劇的な最期をとげたとされる。

 音楽会は同日のミサのあと、午前11時半ごろにスタート。ガラシャの揺るぎない信仰を歌ったとされるシュタウトのオペラ「勇敢な婦人」より「“不変”のアリア」などが披露される。入場無料。

708よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/24(火) 05:45:49 ID:7XSJBIic0
「大阪商人」じゃなくても知りたい「大阪締め」
(1/2ページ) 2012/4/22 7:00
http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A90889DE6E2E7E1E2EAE4E2E3EAE2E6E0E2E3E09393E082E2E2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E4

 春本番となり、歓送迎会やお花見などの機会が増えた。関東出身の記者が気になっていたのが、宴席の中締めなどで耳にする独特の手締め。いつも聞いていた一本締めや三本締めと違い、独特の掛け声が覚えにくい。聞くと「大阪締め」という大阪ならではの手締めらしい。

 大阪のオフィス街の中心地、北浜。土佐堀川沿いのおしゃれな店では、夜が更けるとほろ酔い気分の人たちがテラスに集まってくる。「せっかくだから、あれ、やりましょか」。皆で円陣を組み、手を掲げた。「打ちまぁーしょ」……。独特の口上と手拍子が夜空に響く。

■天神祭では行き交う船が手拍子送り合う

 さっそく「大阪検定」を運営する大阪商工会議所に問い合わせてみた。「一番多く大阪締めに接する機会があるのは天神祭です」と話すのは地域振興部の中野亮一部長。大阪天満宮(大阪市北区)の天神祭は日本三大祭りの1つで、約120万人もの観光客が訪れる。川面に約100隻の船を浮かべる祭りの目玉「船渡御(ふなとぎょ)」で行き交う船が互いに手拍子を送り合う光景を見たことがある。

 まず手を掲げ、手拍子の準備。「打ちまぁーしょ」の掛け声とともに「パン、パン」と2回手を打つ。次に「もひとつせぇ」で「パン、パン」。最後に「いおう(祝う)てさんど(三度)ぉ」の掛け声に「パパン、パン」と打ち返す。これまで関東で聞いたことのある「いよーっ、パン」や、「パパパン、パパパン、パパパン、パン」を3回繰り返す三本締めに比べ、セリフが多いのが特徴だ。

709よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/24(火) 05:48:10 ID:7XSJBIic0
>>708

http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A90889DE6E2E7E1E2EAE4E2E3EAE2E6E0E2E3E09393E082E2E2;df=2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E4

 船渡御は神体や神霊を船に乗せて川や海を渡す神事だ。「神聖なことと関係があるに違いない」とにらみ、生国魂神社(大阪市天王寺区)、通称「いくたまさん」を訪ねた。

■生国魂神社の手締めが発祥

 神主の中村文隆さんが快く応じてくれた。「実は大阪締めの発祥は生国魂神社の例祭で用いられていた手締め。これの短縮バージョンが、天神祭を通じて、今の『大阪締め』になったと言われています」

 生国魂神社に伝わる手締めでは前述の大阪締めに続きがある。「いおうてさんどぉ」の手拍子は「パン、パン、パン」。その後「めでたいなぁ」「パン、パン」「本決まりぃ」「パン、パン」と続く。全部で節が5つなのだ。「川の流れが速く、船がすれ違う時間内に間に合わないので3つに減ったのではないかと言われています」と中村さん。

 江戸時代になるとビジネスの場にも広がった。船場や堂島などの“大阪商人”は商談成立を祝って「ここらで手ぇうちましょか」と言って手締めをしていたようだ。契約を文書に残す習慣が普及していなかった時代。北回り船などの航路に乗って人の口から口へ、北は北海道、南は九州まで伝わった。今でも大阪締めと拍子のよく似た手締めが残る地域があるという。

■大阪証券取引所が復活させる

 とはいえ、大阪締めが以前ほど頻繁に見られなくなっていることを、上方落語協会の小山暁生事務局長は残念がる。司会などで呼ばれた落語家はパーティーや宴席で必ず大阪締めをするが「事前に練習してもだいたい拍子のタイミングがずれてしまう」。伝統を守り伝え、威勢の良い掛け声で関西の証券業界を盛り上げようと、大阪証券取引所は2001年、新年祝賀会で恒例だった三本締めをやめ、大阪締めを復活させた。

 「過去を大切にすることが大阪の未来の発展につながるのでは」と中村さんは話す。様々に変遷しながら、何百年も受け継がれてきた大阪締めを廃れさせてしまう理由はない。もっと手軽に楽しむ機会は見つかるはずだ。さて、私も今回の取材を無事に終えたところで、お手を拝借。「打ちまぁーしょ」……。

(大阪経済部 根本舞)

710名無しさん:2012/04/24(火) 10:11:41 ID:nxo1jDdY0
毎年2億じゃないよな、とりあえず2億か、MKタクシーだよな
関西興銀(韓国系)潰れてそれの営業引き受けた近畿産業信用組合
いい話ではあるが、日本人としては情けない話でもあるわな。


朝日新聞・橋下番 ‏ @asahi_hb
本日最後に、ほっとするニュースを。近畿産業信用組合は23日の決算会見で、日本センチュリー交響楽団に2億円の支援をする方針を明らかにしました。同信組の青木定雄会長は「文化を守るため、継続してやっていく」。大阪府からの補助金がカットされている楽団にとっては朗報ですね。
https://twitter.com/#!/asahi_hb/status/194441648271405057

711よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/24(火) 21:57:01 ID:Aqqsukbo0
>舞楽は15世紀に大阪・四天王寺から伝わったとされる。


能生白山神社で春季大祭
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/34630.html

舞楽に来場者「うっとり」

 国重要無形民俗文化財の舞楽で知られる糸魚川市能生の能生白山神社春季大祭が24日、同神社で開かれた。色とりどりの衣装で舞う11演目が、境内に設けられた舞台で披露され、見物客を魅了した。

 舞楽は15世紀に大阪・四天王寺から伝わったとされる。鉾(ほこ)や太刀を使う「泰平楽(たいへいらく)」など8演目は児童が舞い、竜をモチーフにした「納曾利(なそり)」を含む3演目は大人が担う。

新潟日報2012年4月24日

712よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/26(木) 20:43:23 ID:V9/XseWE0
上方落語:協会の本拠地が大阪・天満に完成
毎日新聞 2012年04月26日 14時48分(最終更新 04月26日 15時00分)
http://mainichi.jp/select/news/20120426k0000e040243000c.html

 上方落語協会(桂三枝会長)の本拠地となる「上方落語協会会館」が26日、大阪市北区天満4に完成した。

 建築家の安藤忠雄さんが無償で設計を請け負った。天満天神繁昌亭や大阪天満宮の近くに建てられた会館は、鉄筋コンクリート3階建て(延べ床面積約260平方メートル)。上部に大きな三角窓と天窓を採用し、自然光を取り入れたデザイン。協会の事務所のほか、上方落語の資料室や落語家の稽古(けいこ)場などを備えた。

 完成式で三枝会長は「こんな素晴らしい大きなものができたのも先輩、師匠方のお陰です」、安藤さんは「大阪を元気にしたいので、少しお手伝いができればと思いました。大阪の職人さんに、うまく造っていただきました」と語った。【油井雅和】

713よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/26(木) 21:32:51 ID:V9/XseWE0
>住吉大社の図で構成されていたが大正時代、37枚に分けられた。


気品漂う紀貫之の肖像画公開
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201204260057.html

尾道市瀬戸田町の耕三寺博物館で国重要文化財「佐竹本三十六歌仙断簡 紀貫之」が特別公開されている。5月6日まで。衣冠姿の紀貫之の肖像に、散る花を雪になぞらえた一首が添えられた鎌倉時代の作品。肖像を藤原信実が描き、和歌は江戸時代に入って狩野探幽が修復したと伝わる。もともと「佐竹本三十六歌仙」は歌人36人の和歌や肖像と、住吉大社の図で構成されていたが大正時代、37枚に分けられた。

714よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/28(土) 05:45:41 ID:pMDwDqig0
俳諧への夢残る 御堂筋
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120428-OYT8T00018.htm

芭蕉終焉の地 (大阪市中央区)

 次々に南へ走り去る車の頭上で、イチョウの若葉がゆったりと風に揺れる御堂筋。大阪市中央区久太郎町。東側道と、中央の4車線を仕切る、幅4・5メートルの緑地帯に、石碑「芭蕉終焉(しゅうえん)の地」がひっそりとたたずむ。

 20センチ四方、高さ1メートルの石柱。南面に〈此附近芭蕉翁終焉ノ地ト傳(つた)フ〉と刻まれている。多くの名句を残した松尾芭蕉(1644〜94)がこの付近で世を去った、と伝える。

 伊賀上野に生まれ、江戸で活躍した芭蕉は1694年9月10日、大阪に入った。仲たがいする弟子の仲裁のためとされている。間もなく病に倒れ、南御堂(難波別院)前の花屋仁右衛門邸に身を寄せ、同年10月12日、51歳で生涯を閉じた。南御堂は石碑から見て、御堂筋をはさんで南西側に立つ。

 かつての御堂筋は幅が狭く、商家が立ち並んでいた。商業の中心地・船場の商人たちが行き交う通りだった。

 石碑の東面には「昭和九年三月 建之大阪府」とある。府が建立した1934年は、幅6メートルだった御堂筋を現在と同じ44メートルに拡幅する工事の最中で、日本初の公営地下鉄・御堂筋線梅田―心斎橋間が開業した翌年だ。地域の歴史に詳しい、近くの坐摩(いかすり)神社宮司・渡辺紘一さん(72)は「街の大改造が行われていた時期で、御堂筋沿いの商家が多数消えた。芭蕉が亡くなった場所がわかるようにと建てたのでしょう」と話す。

 開業当時の地下鉄出入り口は今の緑地帯にあったとの記録もある。船場で生まれ育った米谷浩さん(76)(大阪市住吉区)は子どもの頃、車馬道(しゃばみち)と呼んでいた側道で、馬の引く荷車にこっそり飛び乗って遊んだという。「今のように車が走っておらず、緑地帯にも自由に行き来できた」。石碑は人の営みの中にあった。

 石碑の管理はいつの頃からか、府から大阪市に移った。担当者らが緑地帯の草木を育て、清掃をする。市では最近、御堂筋を全面緑化し、歩行者専用とする構想を検討している。

 石碑の西面には、〈句碑ハ昭和十年三月 難波別院内北築山ヨリ茲(ここ)ニ移ス〉との文字がうっすらと残るが、周りに句碑はない。南御堂によると、俳人らが江戸末期、150回忌に合わせて境内に建てたものを、昭和初期に移した。しかし戦後、御堂筋の交通量が激増し、1962年、句碑だけ再び境内に戻した。

 句碑には辞世の句が記されている。

 〈旅に病(やん)でゆめは枯野をかけまはる〉

 時代とともに碑(いしぶみ)を取り巻く風景は移る。客死した俳人は最期の地で、今も時間を旅しているのかもしれない。

(安田弘司)

  
死の予感 名句生む 俳人・佛教大教授 坪内 稔典さん 68

 俳句研究の第一人者は、芭蕉の句の新たな解釈を試みているという。例えば、有名な〈古池や蛙飛び込む水の音〉。「わびさびの句とされてきたが、荒れた池に、カエルがどぼどぼ飛び込んで、新たな命がよみがえったと読めはしないか」と笑う。「後の世に作られた芭蕉像にこだわりすぎると、本来の句の良さを見失う」との思いからだ。

 芭蕉が諸国を巡った末、大阪を訪れた理由についても新説を掲げる。「体に不調を抱えているのに旅を決行しており、弟子を仲裁するためだけとは思えない。俳諧に対する自らの考えを、文化の中心である上方にも広めたいという夢を持っていたのでは」とみる。その結果、辞世の句や、〈この道や行く人なしに秋の暮〉など、数多くの名句が大阪で生まれた。「新たな刺激を受けながら、突然の病に死を予感し、心の澄んだ状態になった」と解説する。

 俳句を愛し、芭蕉の足跡をたどる人は多い。「石碑のおかげで最期の場所がわかるが、今は容易に近づけない」と、緑地帯にあることを残念がる。「亡くなった場所は、その人の生き様を表すもの。終焉の地を伝える意味は大きいのではないでしょうか」


 ◆交通手段 大阪市営地下鉄御堂筋線・中央線本町駅12番出口から御堂筋東側歩道を南に約90メートル。句碑のある南御堂は、同駅13番出口から南に約150メートル。

 この連載で取り上げる石碑を募集しています。連載へのご意見、ご感想もお寄せください。いずれも読売新聞大阪本社社会部(ファクス06・6361・3001、メールo‐naniwa@yomiuri.com)へ。次回は5月中旬に掲載します。

(2012年4月28日 読売新聞)

715名無しさん:2012/04/28(土) 14:10:28 ID:BrOXFiqU0
>>712
落語の頑張りには頭下がるね、みんな自費で頑張ってる
ワッハ上方や文楽はどうしょうもねえよ

716よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/29(日) 10:14:37 ID:kwElhwiw0
7世紀、泉北に「瓦工場」 陶邑窯跡群 仏教隆盛で生産拠点化? 寺院から受注
2012.4.29 07:05
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120429/wlf12042907050001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120429/wlf12042907050001-n2.htm

 5世紀から10世紀までの約500年間に千基もの窯(かま)が築かれたとされる大阪府南部の大規模窯業(ようぎょう)生産地の遺構「陶邑(すえむら)窯跡群」で、瓦を焼いた7世紀中頃の窯跡が発見されていたことが29日、分かった。7世紀には、寺院にしか瓦の使用がほぼ認められておらず、通常は寺院ごとに瓦が生産されており、同窯跡群は、陶磁器のルーツである須恵器(すえき)の生産拠点として知られていた。だがこの発見で、同窯跡群が、仏教の普及した比較的早い時期から、瓦の生産拠点でもあったことが初めて明らかとなった。

 発掘調査は、大阪狭山市の山本地区で今年1〜2月、ため池の埋め立てに伴って実施された。窯跡は、ため池から出土し「陶器山(とうきやま)310号窯」と名付けられた。平瓦(ひらがわら)や煉瓦(れんが)などのかけら約200点と、須恵器のかけら約千点が見つかった。瓦は須恵器を作るように、丁寧に表面をなでて仕上げられていた。

 同窯跡群は、須恵器の生産が朝鮮半島から伝わった5世紀に開設。食器類や副葬品などを生産し、九州から東北まで全国に供給するようになった。同窯跡群の須恵器は、時代とともに形状が変遷していることから、さまざまな遺構の時代特定の基準となっている。

 瓦ぶきは7世紀、藤原京(奈良県橿原市)の大極殿など“特例”を除けば、寺院にしか許されていなかった。千基あるとされる同窯跡群の窯のうち、これまで約400基が調査されたが、同窯跡群内の7世紀以前の窯から、寺院の建材が出土したのは初。煉瓦は寺院の基礎部分や古墳の石室に使われたとみられる。

 瓦は仏教とともに6世紀中頃、日本に伝来。その後、仏教の普及が進み、7世紀後半には全国各地で寺が建設されるようになった。一般的には、寺院ごとに瓦を焼く窯がそれぞれ設けられていた。同窯跡群のような大規模生産地で、各地の寺から受注生産されていたことは、これまで知られていなかった。同窯跡群では、近畿各地から受注していた可能性もある。

 大阪狭山市教委の学芸員、土江文子さんは「瓦が足りないなど、急な必要があった場合に発注を受け、それに応じて作っていたのでは」と指摘。須恵器に詳しい京都府立大の菱田哲郎教授(考古学)は「この調査結果で(瓦の伝来以降)比較的早い時期に、同窯跡群で瓦を生産する技術があったということが初めて分かった」と話している。

 出土した瓦などは、大阪府立狭山池博物館で同日始まった発掘成果速報展で初公開されている。同博物館は、南海高野線大阪狭山市駅下車、北西約700メートル。

 
陶邑窯跡群

 大阪府南部に位置する、須恵器を焼くために用いられた窯の遺構群。古墳時代から平安時代まで続いたとされる。名称の由来は、「日本書紀」に書かれた古い地名「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたる、とされていることによる。堺市の泉北ニュータウンを中心に、西は和泉、岸和田両市、東は大阪狭山市の、東西約15キロ、南北約9キロにおよぶ泉北丘陵一帯に広がり、日本最大の須恵器生産地跡といわれる。

717よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/29(日) 10:58:53 ID:kwElhwiw0
「猪飼野」の歴史見つめよう あす生野区民センターでイベント 大阪
2012.4.29 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120429/osk12042902000003-n1.htm

 日本書紀に記され、大正・昭和初期には朝鮮半島・済州島から多くの人たちが移住した地「猪飼野(いかいの)」(現在の大阪市生野・東成区の一部)について考えるイベントが30日、大阪市生野区勝山北の生野区民センターで開かれる。歴史、文化、日本と朝鮮半島との交流など多角的な観点で、5世紀からの地域の変遷を語る。

 「王仁(わに)博士 難波津 猪飼の津 1600年のルネッサンス」と題し、地域文化の研究団体・キュリオ勝山(勝山文化研究会)が主催。昨年、同地域に関する2冊の本(『ニッポン猪飼野ものがたり』『王仁博士 難波津の歌と猪飼野』)が相次いで発行されたのに合わせて開催する。

 「ニッポン猪飼野…」の編集を担当した地域歴史研究家、足代(あじろ)健二郎さんが「1600年の猪飼野を考える」のテーマで基調講演。続いて識者8人がパネリストとなって意見交換する。

 当日は午後1時半〜5時。参加費は500円(資料代含む)。問い合わせは康守雄(カン・スゥン)さん((電)090・5045・9756)。

718よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/29(日) 21:58:12 ID:B.qpXmF60
その1冊きっとある 四天王寺大古本祭始まる
2012年4月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120429/20120429029.html

 和宗総本山四天王寺で28日、恒例の「第10回四天王寺春の大古本祭」が始まった。来場者らはお目当ての一冊を探し出そうと、境内随所に出店・陳列された文学、歴史、芸術などの書籍に見入っている。5月3日まで。

 関西一円の古書籍関連30業者が出店。今回は「リメンバー1960年代」を特集テーマとし、各業者が陳列の一部に60年代の書籍を集めたコーナーを作っている。フォークやシャンソン、当時の絵本などが人気だという。

 5年前から同祭を訪れている岡山県笠岡市の高橋常忠さんは、買い求めた文学全集を手に「これだけ多くの古書があれば、他でなかなか無いようなものが見つかる」と話していた。

 また今回は、東日本大震災復興チャリティーコーナーも設置している。収益金を被災地に寄付する予定で、同祭を主催する関西古書研究会の菅哲夫会長は「本を購入し協力いただいたお金が何らかの形で役に立てば」と話している。

719よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/30(月) 19:45:20 ID:KMSxQ7nQ0
>かつて天皇の即位後に浪速の海に向かって行われた儀式にちなみ、

大阪湾背に心と体躍動 踊りの祭典ワールドあぽろん
2012年4月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120430/20120430029.html

 ジャンルを超えた踊りの祭典「第7回ワールドあぽろん」(同実行委員会主催、大阪日日新聞など後援)が29日、大阪市住之江区のアジア太平洋トレードセンター周辺で開かれた。大阪湾を前に約100チームが競演し、心と体を躍動させた。

 かつて天皇の即位後に浪速の海に向かって行われた儀式にちなみ、大阪のベイエリアのにぎわいづくりにつなげようと実施。あらゆる分野の踊りが集結する一大文化芸能祭を目指す。

 会場は六つに分かれ、約3千人が出演。大阪湾を背にした海辺のステージでは、オープニングセレモニーが開かれ、祭典の幕が上がった。

 室内外の各舞台の上では、各チームがよさこいソーランなどの演舞を約5分間隔で次々と披露。大人から子どもまで目いっぱいの力を発揮していた。

 海辺のステージで出演した大学生の多川佳祐さん(21)は「楽しくて仕方がない。踊りの輪がもっと広がっていけば」と笑顔を見せていた。

720よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/30(月) 19:47:11 ID:KMSxQ7nQ0
>同地区には奈良時代の僧・行基が猪名川に橋を架ける工事成功祈願を同総社にした際、無数のコイが集まり、
>その背に乗って工事を完成させたという「鯉伝説」が残っている。


大空に”神の使い” 椋橋総社こいのぼり100匹
2012年4月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120430/20120430031.html

 端午の節句を前に、私立庄本幼稚園(大阪府豊中市庄本町1丁目、川辺豊園長)の園児らが作った長さ約80センチのこいのぼり100匹が、同園のある椋橋総社(川辺豊宮司)の境内に掲げられている。赤や青、オレンジ色など色とりどりのビニール袋で作られたこいのぼりが、「鯉伝説」の伝わる庄本地区の人らを楽しませている。

 同地区には奈良時代の僧・行基が猪名川に橋を架ける工事成功祈願を同総社にした際、無数のコイが集まり、その背に乗って工事を完成させたという「鯉伝説」が残っている。以降、同地区はコイは神の使いとして大切にされ、現在も境内の池には100匹以上のコイが飼育されている。

 同園では地域に伝わるこれらの話を伝えていこうと2005年から毎年、この時期に園児に伝説を語り聞かせるとともに、こいのぼりを手作りして境内に掲げている。こいのぼりは赤、青、黄など7色の色付きビニール袋を使って作られており、気持ち良さそうに泳ぐ姿が見られる。

 川辺園長は「自分たちが作ったこいのぼりが大空を泳ぐ姿に子どもたちは大喜び。地元の人たちからも親しんでいただいていますので、これからも季節の風物詩として続けていきたい」と話している。

 こいのぼりは5月中旬まで飾られる。

721よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/01(火) 22:10:34 ID:M3IY1u2g0
行方不明の右隻みつかり、左右そろって初公開! 大阪城天守閣蔵の洛中洛外図屏風
2012.4.30 19:21
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120430/wlf12043019250020-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120430/wlf12043019250020-n2.htm

 京都のにぎわいや四季の景観を描いた左右1対の風俗画「洛中洛外図屏風(びょうぶ)」で、行方が分からなくなっていた右側の屏風が見つかり、大阪城天守閣(大阪市中央区)で左右そろって初公開されている。

 「大阪城天守閣本」と呼ばれるこの洛中洛外図屏風は、江戸前期の寛永年間(1624〜44年)ごろの制作とみられる。左隻(させき)には二条城などが、右隻(うせき)には内裏や豊臣秀吉をまつる豊国廟(びょう)などがそれぞれ描かれている。

 左隻は大阪市内の民間美術館(平成16年閉館)が所蔵していたが、右隻の所在は長らく分かっていなかった。

 その後、時期は不明だが、右隻がアメリカに流出していたことが判明。秀吉ゆかりの資料などの収集を手がける大阪城天守閣が19年に左隻、20年に右隻を購入した。調査などを終え、今年3月から開催中の屏風絵のテーマ展で初めて左右そろって公開している。

 跡部信主任学芸員は「近年は洛中洛外図屏風が新たに見つかること自体珍しい。離ればなれになっていたペアが長い年月を経て再びめぐりあった奇跡を感じてもらえたら」と話している。展示は5月6日まで。

722よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/04(金) 16:16:11 ID:chYekN0E0
歴史や文化感じて 大阪城前ファミリーフェス始まる
2012年5月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120504/20120504025.html

 大阪城の歴史や文化を身近に感じてもらおうと、大阪市中央区の大阪城天守閣前本丸広場特設ステージで3日、大阪城ファミリーフェスティバル2012が始まった。高校生などのステージイベントに、観光客が足を止めて見入っていた。6日まで。

 毎年ゴールデンウイークにあわせ、観光客、地元住民の両方に楽しんでもらおうと開催している恒例行事。初日は大道芸や歴史トーク&クイズ、大阪市立鶴見商業高、市立大阪ビジネスフロンティア高、市立扇町総合高の吹奏楽部が日ごろの成果を披露した。

 吹奏楽の演奏では、子どもに人気のアンパンマンのテーマソングや懐メロ、大阪らしく阪神タイガース応援歌の六甲おろしなどを披露。来場者は「元気をもらった」「心があたたまった」と笑顔で拍手を送っていた。

 4日は高校生和太鼓の演奏、5日はよさこい踊りの祭典であるメチャハピー祭、6日は本物の火縄銃で迫力満点の演武を行う大阪城鉄砲隊が登場する。入場無料。

723よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/04(金) 16:20:14 ID:chYekN0E0
あす、府内の文化人ら 真田まつりでトークショー 大阪
2012.5.4 02:10
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120504/osk12050402100001-n1.htm

 「大坂の陣」で活躍した戦国武将、真田幸村を顕彰しようとゆかりの和歌山県九度山町で4、5日に開かれる「真田まつり」に、府内の文化人、芸能人、一般住民らでつくる「『大坂の陣』を大河ドラマにする会」が招待され、メンバーらがトークショーを繰り広げることになった。

 真田まつりは、幸村らが九度山に隠棲(いんせい)していたことにちなみ、幸村の命日(5月7日)に近い5月4、5日に毎年開かれている。

 トークショーは5日午前10時半から同町入郷の会場内で行われる。OSK日本歌劇団の桜花昇(の)ぼるさん、講談師の旭堂南陽さん、大阪城天守閣研究主幹の北川央(ひろし)さんらが出演。幸村の魅力をざっくばらんに話すほか、活躍ぶりを南陽さんが講談で披露する。

 まつりの問い合わせは実行委((電)0736・54・2019)。

724よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/04(金) 16:24:05 ID:chYekN0E0
大阪唯一の木造五重塔が完成 富田林の願昭寺
2012.5.2 14:39
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120502/trd12050214410005-n1.htm

 大阪府富田林市の願昭寺に大阪府内では唯一となる木造五重塔が完成し、5日に落慶法要が営まれる。塔の高さは37・27メートルで、設計や施工を担当した大成建設によると、国内の五重塔では10番目の高さ。

 五重塔は開山55周年などを記念して、横手慶隆住職(73)らが発願し、2009年12月に起工、工事は昨年11月に終了したが、東日本大震災の発生から1年もたっていなかったことから、落慶法要開催を自粛していた。

 塔は朱塗りで、心柱は樹齢800年を超えるカナダ産ヒノキを使用した。

 横手住職は「五重の塔が希望の光をみなさんに注ぎ、心の安らぎになることを願っています」としている。

725名無しさん:2012/05/05(土) 23:21:36 ID:3zi6eNFQ0
なぜ大阪にはこんなに寺が多いのか
http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A90889DE6E2EBE5E5E0E5E2E2E3E2E7E0E2E3E09393E082E2E2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E4
大阪市内を歩いていて、1キロ以上にわたって寺院の甍(いらか)の波が続く地域があるのに気づいた。ざっと数えて数十の寺院が門を構えている。住所標記をみると「天王寺区下寺町」。聖徳太子にゆかりの深い四天王寺にも近い。そういえば大阪府は京都府や奈良県より寺院が多い、と聞いたことがある。なぜ大阪には寺院が多いのか、歴史背景を調べてみた

726よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/06(日) 07:09:46 ID:4uFzLL9o0
私は大阪の持つ多面的な顔の一つが『祈りの街』であると思っていましたが、なるほど、これは。
日本国初の首都が置かれたという『歴史の街』という顔、水都という『水の街』、大都会であるという『超高層の街』、交通が集積しているという『交通の街』・・・
大阪とは単純化して語る事の出来ない、日本の中でも世界の中でも稀有な大都市なのです。


なぜ大阪にはこんなに寺が多いのか
2012/5/5 7:00
http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A90889DE6E2EBE5E5E0E5E2E2E3E2E7E0E2E3E09393E082E2E2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E4

 大阪市内を歩いていて、1キロ以上にわたって寺院の甍(いらか)の波が続く地域があるのに気づいた。ざっと数えて数十の寺院が門を構えている。住所標記をみると「天王寺区下寺町」。聖徳太子にゆかりの深い四天王寺にも近い。そういえば大阪府は京都府や奈良県より寺院が多い、と聞いたことがある。なぜ大阪には寺院が多いのか、歴史背景を調べてみた。

■約80の寺が密集

 「下寺町を含む南北1400メートル、東西400メートルのエリアに約80のお寺さんが集中しています。府内では随一、全国でも珍しい寺町ですよ」。天王寺区役所に尋ねると、森茂樹・まちづくり担当課長代理がこう教えてくれた。

 寺院が集まり始めたのは16世紀、豊臣秀吉が大阪城を築いた時期という。城のある場所にはかつて、織田信長と対立し激しく争った石山本願寺があった。同寺は難攻不落の“砦(とりで)”として10年以上、合戦に耐えたが、地形から南側の守りが手薄だった。

 森さんによると「大阪城を築く際、大阪各地の寺をここに移転させて防壁代わりにした、との説があります」。寺の堂宇のような高い天井が弓の取り回しに欠かせなかったといい、江戸時代になっても寺の移転と集積は続いた。


 「一帯が古来、聖地だったことも背景にあるようです」と話すのは下寺町の古刹、大蓮寺の秋田光彦住職。周辺には四天王寺のほか浄土宗開祖の法然が住んだ一心寺など要地が多い。寺院を説得して移転させるのに、うってつけの場所だったわけだ。

 一帯はかつて近くまで海が迫り、台地状の地形と相まって夕日の名所だった。浄土信仰が広がった平安末期以降、夕日を眺めて西方浄土を思い描く修行「日想観」が広まり、大阪湾や六甲の山並みに沈む夕日を求め多くの人が集まったという。

 秋田住職は「大阪は商都とされますが、実は古くから一大宗教都市だったのですよ」と指摘する。現在の大阪の街は、石山本願寺の寺内町から発展したとされる。宗教都市としての面影は、今も寺院の数に色濃く残っている。

727よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/06(日) 07:19:59 ID:4uFzLL9o0
>>726

http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A90889DE6E2EBE5E5E0E5E2E2E3E2E7E0E2E3E09393E082E2E2;df=2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E4

■大阪の寺密度、全国トップ

 文化庁の宗教年鑑(2009年版)などによると大阪府にある寺院数は3289。京都府(3026)や奈良県(1785)を上回り、愛知県(4598)に次いで全国2位だ。寺院の密度でみると1平方キロメートルあたり1.73と、47都道府県で首位に立つ。


 寺院は大阪市に3割強、残りは堺市や八尾市、高槻市など府内に広く分布している。「宗教的自治都市として権勢を誇った石山本願寺は、大阪平野各地に“衛星都市”として寺内町を抱えていました。八尾市の顕証寺や貝塚市の願泉寺、高槻市の教行寺など今に残る寺院も多く、分布に現れています」。京都大学の西川幸治名誉教授(歴史都市論)はこう分析する。

 西川さんによると、当時の門徒の日記に「石山に上洛(じょうらく)する」などと記され、石山本願寺は「首都」とみられていたという。「寺院勢力の強さを身をもって知っていた秀吉は、各地の寺院を移転させた上で小さいままにしました。宗教勢力を再び台頭させたくないが、統治には利用したいと考え、分断を図ったのでは」と西川さん。それが現在までつながっているという。

 確かに大阪は京都や奈良と違い、宗派の本山や観光バスで乗り付けるような大寺院が少ない。「中小企業の街とされる大阪ですが、中小寺院が多い街でもあります。こうした視点で一度、下寺町を歩いて宗教都市・大阪の息吹を感じてほしいですね」。秋田住職はこう話す。

(大阪社会部 船越純一)

>下寺町を歩いて宗教都市・大阪の息吹を感じてほしいですね

 これは本当にお勧めです。
 観光地・観光名所化される寺が多いなか、ここはごく普通で日常が営まれている。
 非常に歴史があり大事な場所なのに。

 地元の人がノンビリと歩き、法事などが営まれ、ネコがあくびをしながら日向ぼっこしている・・・
 『あぁ、いいなぁ、大阪は』と思える。
 
 でもここで注意を。
 街歩きをする時は、地元の人の迷惑にならないようにしましょう。
 ゴミを出さない、交通法規を守るなどなど当然に守らなければいけない事は守りましょう。
 守るべきことを守っていれば大阪は温かく皆を受け入れてくれます。

728よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/06(日) 07:28:03 ID:4uFzLL9o0
7月に「天神祭コレクション」 浴衣作品を募集
2012年5月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120505/20120505029.html

 「なにわ文化サポーター倶楽部」(大阪市港区)は浴衣のコンテスト形式によるファッションショー「天神祭コレクション」(7月21日、JR大阪駅6階『時空の広場』)の作品を募集している。「意匠デザイン」「コーディネート」「クリエーション」の3部門で、厳選された作品はコレクション当日にお披露目発表する。

 同倶楽部は大阪青年会議所の卒業生が中心となって活動しているボランティア団体。主な活動は天神祭の花火協賛金の奉納や船渡御への参加で、「天神祭コレクション」も天神祭を盛り上げるために2010年に第1回を開催。浴衣という日本古来の文化の継承と新たな価値の創造、そして大阪のまちが元気になることを目指して取り組んでいる。

 前回は各専門学校とコラボレーションし、大阪市中央区の八軒家浜船着場で開催。2回目のことしは、募集範囲を学生以外にも拡張し、浴衣の柄を創作する「意匠デザイン」▽浴衣の着方をアレンジする「コーディネート」▽自由は発想で浴衣を創作する「クリエーション」の3部門で募集する。

 中でも注目なのは「意匠デザイン」部門で、JR大阪三越伊勢丹、高島屋、大丸、呉服屋さん.comとコラボレーションして商品化を目指す。応募する作品のテーマは「変わらないのに新しい」(大阪高島屋)と「ステーションシティに遊びに行く浴衣」(JR大阪三越伊勢丹&大丸)の2種。全体に細かい模様が入っている「小紋柄」のデザインのみの受け付けとなる。

 15日(必着)が締め切りで、その後百貨店バイヤーが作品を厳選し、30日〜6月5日に店頭に展示。来客による投票の結果で1〜3位を決定し「天神祭コレクション」当日に発表する。「コーディネート」と「クリエーション」の2部門は5月31日(必着)締め切りで、1次審査で各10作品ほど選出し、「同コレクション」で最終審査を行う。

 天神祭コレクション実行委員長の中井康之さんは「若手がもっともっと元気になれば産業が活性化し大阪も元気になる。『天神祭コレクション』を通して若者のパワーを引き出していきたい」と話している。

 ホームページから応募受け付け。アドレスは次の通り。

http://www.naniwa-bunka.com/ten-colle/

729よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/06(日) 07:33:37 ID:4uFzLL9o0
神島女子が団体・個人制す 住吉大社8 件全国弓道大会
http://www.agara.co.jp/modules/sports/article.php?storyid=230974

 大阪市の住吉大社で1日、第61回住吉大社全国弓道大会(遠的)があり、学生の部女子団体で和歌山県田辺市の神島高校が優勝と準優勝した。同部女子個人でも坂本望選手が優勝するなど神島勢が3位までを独占した。

 学生(高校生と大学生対象)の部男・女、一般の部男・女でそれぞれ団体(1チーム3人)と個人があり、計490人が参加した。60メートル先にある直径1メートルの的に向かって矢を放った。

 学生の部女子団体には23チームが参加。1人4射の計12射で競い、神島の楠あゆみ、谷口亜由美、坂本望選手のチームが9中でトップ。同じメンバーで大会2連覇を飾った。

 また、同校の西野佳苗、芝本真喜子、山本静香選手のチームが8中で2位に入った。 学生の部女子個人は、団体の的中数をもとに争った。4中だった神島の坂本選手と西野選手が参加全選手の中で最高成績となり、的の直径を50センチにして矢を外すまで行う射詰めをした結果、坂本選手が勝った。3位に楠選手が入った。

 学生の部男子個人でも、神島の佃恭平選手が3位に入賞。紀南勢では4位に南部高校(みなべ町)の山本直樹選手が入った。

 神島高校弓道部の山崎涼子顧問は「女子団体は頑張って2年連続優勝と準優勝を果たした。今大会を弾みに次の県高校総体でも頑張ってほしい」と話した。

730よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/06(日) 07:36:35 ID:4uFzLL9o0
>慈恩寺舞楽は、西暦786年の平安時代に、大阪四天王寺の楽人、林越前正照が
>山寺に奉納したのが起源とされている。


古式ゆかしく慈恩寺舞楽奉納
http://news24.jp/nnn/news8872318.html

(山形県)

 慈恩寺舞楽は、西暦786年の平安時代に、大阪四天王寺の楽人、林越前正照が山寺に奉納したのが起源とされている。
 その後、慈恩寺、そして谷地に移り住んだ林家が「林家舞楽」として代々受け継ぎ、現在は慈恩寺や八地八幡宮で毎年、奉納されている。
 5日は鼻が高く赤い面をかぶることから狗舞とも呼ばれる散手の舞や、甲冑を身にまとった4人が日本刀を手に繰り広げる「太平楽など8つの舞が披露され、
 訪れた人は古式ゆかしい舞いを堪能していた。

731よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/06(日) 07:42:36 ID:4uFzLL9o0
>>726>>727に関連して。
大阪のお寺の数が多いのは、それが日常に溶け込んでいるから、という理由もありそうです。


※記事より必要な部分を抜粋
http://www.news-postseven.com/archives/20120423_103831.html

大阪などでは月命日ごとに僧侶が檀家の家を訪れてお経を上げるなど、いまなお寺は身近な存在だが、
東京の寺院のほとんどは葬儀の数の多さにあぐらをかいている。

・・・ここでも東京の傲慢さが出ていますね。

732よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/09(水) 22:46:50 ID:F9VP7OD.0
名建築を見て学ぶ市民講座 大阪・中之島
2012年05月09日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001205090001

 近代建築を見て学ぶ市民講座が8日、大阪・中之島であり、参加者は府立中之島図書館や大阪市中央公会堂などをまわった。


 講座は「仕事や子育てを終えた世代に、文化を学ぶ機会を」と、兵庫県川西市の亀治中(かめじなか)吉男さん(66)らが企画した。この日は、講師で1級建築士の柴田正己さん(67)が、参加した女性6人に、中之島の名建築を解説しながら、「歴史的な建物を後世に伝えていくのも建築家の仕事」と語った。参加した女性(62)は「講師の話を聞いて街を見ると、違う姿が見えてきます」と話していた。講座は秋にも予定している。詳細は、企画会社の澪標(みおつくし)(06・6944・0869)へ。

733よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/09(水) 23:02:53 ID:F9VP7OD.0
四天王寺の名宝公開
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120509-OYT8T00070.htm

聖徳太子の剣など

 四天王寺(大阪市天王寺区)の宝物館で特別公開「珠玉の名宝」が開かれ、寺が所有する飛鳥〜南北朝時代の国宝7件や重要文化財を多数展示している。6月3日まで。

 同館の耐震補強工事完了を記念し、宝物約3000点の一部を公開。聖徳太子が身に着けていたとされる剣「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」(飛鳥〜白鳳時代、国宝)と「七星剣(しちせいけん)」(同)を6年ぶりに同時公開。扇形の料紙に平安貴族らの生活が色鮮やかに描かれた「扇面法華経冊子」(平安時代、国宝)2点のほか、通常は拝観できない秘仏「金銅菩薩半跏像(こんどうぼさつはんかぞう)」(白鳳時代、重文)も間近で見られる。拝観料は大人1000円、高校・大学生500円、中学生以下無料。期間中の開館時間は午前8時半〜午後4時半(入場は閉館の20分前まで、毎月21日は午前8時〜午後5時)。問い合わせは同館(06・6771・0066)。

(2012年5月9日 読売新聞)

734よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/10(木) 22:43:24 ID:LJLPCw6A0
商都・大阪示す資料一堂 江戸期堂島絵図や地誌
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120510-OYT8T00074.htm
 
大商大博物館に新展示室 14日から記念展

 耐震工事のため閉館していた大阪商業大学商業史博物館(東大阪市御厨栄町)が14日、再オープンする。新たに企画展示室が設けられ、これまであまり展示されなかった所蔵品のうち、近世の大阪の様子を伝える貴重な歴史資料を集めた開設記念展「秘蔵の虫干し」が、同日から6月15日まで開かれる。(安田弘司)

 同館の入る谷岡記念館は、1935年建築の旧校舎を移築した建物で、滑らかな白壁やアーチ形の窓など、当時流行したデザインをとどめる。2000年に国の登録有形文化財に指定。補強工事は昨年6月から今年3月まで行われた。企画展示室は、2階の収蔵庫を改装し、約60平方メートル。大型のショーケース5台が並ぶ。

 記念展では、約13万点の所蔵品から、大阪の商業史を研究した同大学の佐古慶三元教授(1898〜1989)の収集品を中心に、江戸〜明治期の史料54点を公開する。

 諸藩の蔵屋敷が立ち並んだ大阪・堂島の江戸初期〜末期の町割(まちわり)の変遷を年代ごとに記録した絵図「堂島沿革図」は5枚組みの4枚を展示。蔵屋敷が増える前の古い町名が見て取れるほか、河川改修や米市の成立時期などもわかる。現代の観光ガイド本のように、名所や名物、有名料亭などを挿絵入りで紹介した地誌、色鮮やかな引札(ひきふだ)(現在の広告チラシ)、銀や銭を量る道具類も展示される。

 明尾圭造・主席学芸員は「秘蔵品から、日本経済を動かしていた大阪の活力を感じてほしい。展示室を生かし、商業大学らしいユニークな企画を打ち出していきたい」と話している。

 常設展示を含め、入館無料。開館は午前10時〜午後4時30分(日曜・祝日は休館)。団体での見学も受け付ける。問い合わせは同館(06・6785・6139)。

(2012年5月10日 読売新聞)

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736よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/11(金) 05:53:06 ID:M8fhdsGA0
新宮遺構?全体像じわり
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120511-OYT8T00070.htm

難波宮跡 発掘調査進む

 大阪文化財研究所が2009年度から行っている難波宮跡(大阪市中央区)東方地域の発掘調査で、奈良時代に孝謙天皇(在位749〜758年)が訪れた「東南新宮」とみられる遺構の様子が明らかになりつつある。昨年度には、建物の土台部分「基壇」の規模が判明し、瓦や基壇の装飾に使う石の破片なども出土。同研究所は「今後も調査を続け、詳細を明らかにしていきたい」としている。

 続日本紀には、756年に孝謙天皇が都のあった奈良・平城京から難波を訪れた際、東南新宮を使ったと記されている。名称から「東南方向にある新たな宮」と考えられ、今回の調査地は、後期難波宮の天皇が住む区域「内裏(だいり)」の東南にあたる。

 09、10年度の調査では、基壇とみられる盛り土や瓦などが出土。さらに昨年度の調査で、基壇の大きさが東西約19・5メートル、南北約14メートルと判明した。建物は塀で区画され、少なくとも二つの区画があったらしい。

 調査区域周辺では、これまでに建物の屋根の両端に置く飾り「鴟尾(しび)」や石敷きなども出土しており、建物の格の高さを裏付けるものとみられている。

 中尾芳治・元帝塚山学院大教授は「基壇は宮殿の建物群の一部と推測できる。今後は中心的な建物の発掘に期待したい」と話している。

(2012年5月11日 読売新聞)

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739よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/12(土) 00:48:35 ID:y0T5at0I0
美しい大阪の街並みを体現する御堂筋。その昔はたった6m幅だった
http://suumo.jp/journal/2012/05/11/18456/?vos=nsuusbsp20111206001

大阪を代表する美しい街路の御堂筋。大阪市の中心部を南北に縦断するこの国道は、日本の道100選のうちのひとつ。北区の阪神前交点から、中央区の難波西口交点まで、全長4027mある御堂筋の沿道には、887本の銀杏の木が植えられており、幹線道路としてのにぎわいだけでなく、美しい銀杏並木の景観スポットとしても親しまれている。

さて、なぜ御堂筋の話かと言えば、実は今日5月11日は今から80年以上前の1937年に、現在の御堂筋が完成した日にあたるから。欧陽菲菲の『雨の御堂筋』、関ジャニ∞の『大阪ロマネスク』、DREAMS COME TRUEの『大阪LOVER』など御堂筋が舞台となる歌も、こじつけるとこの日がないと誕生していないのだ。

御堂筋の歴史をたどると、豊臣秀吉の時代にまでさかのぼる。その当時、天下の台所として発展していた大阪(当時は大坂)には、1596年に南御堂、1597年に北御堂が創建され、沿道にふたつの御堂を持つ道として御堂筋が誕生したという。

1598年からは、秀吉による城下町整備が行われたが、まだそのころは大阪城へと続く東西の道が主要導線で、南北を結ぶ御堂筋は道幅わずか6mほどと、さほど広くもない道だった。

明治期、梅田と難波に駅ができると、南北を結ぶ幹線の重要性が議論されるようになり、1921年にはついに大規模な都市計画事業が打ち出されることに。1930年に着工した工事は、電柱の完全地中化や地下鉄同時開発も行われるという過去に類をみないほど大きな工事であったのだそうだ。

こうして1937年5月11日に完成した御堂筋は幅44m。ゆったりとした歩行空間をもち、銀杏並木の長く続く美しさで人々を驚かせた。1970〜80年代には御堂筋は関西一のビジネスゾーンとして隆盛を極め、1983年から御堂筋パレードがはじまるなど、その存在感を世界にも示すことになった。

現在の御堂筋は、1937年のころよりさらに道幅が広がり、その美しい街並みの文化的価値にも注目が高まっている。2006年からは、大阪フィルハーモニー交響楽団による「大阪クラシック」もスタート。御堂筋に中心にした魅力ある街づくりが円熟期を迎えどのような姿を見せてくれるのか。これからはじまる歴史にも注目したい。

740よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/13(日) 10:51:12 ID:sZv/muKk0
愛用ぬいぐるみなど奉納して 15日、大阪天満宮で「人形祭」
2012.5.13 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120513/osk12051302010002-n1.htm

 大阪市北区の大阪天満宮で15日、ひな人形からぬいぐるみまで愛用していた人形を奉納する「人形祭」が開かれる。節句人形を製造する関西の企業約20社でつくる関西節句人形工業協同組合の主催で、「愛用の人形は要らなくなっても捨てられない。処理に困っている方はこの機会を利用して」と呼びかけている。

 「製造者の立場から最後まで人形の面倒をみたい」と同組合が昨年から始め、今回が2回目。午前9時から午後3時まで奉納する人形を受け付け、午後3時から祭典を行う。

 また、新しい節句人形やひな人形、市松人形などを展示するほか、人形を作る際に出る端切れで作った小物などを販売、売上金の一部を東日本大震災の義援金に充てるという。問い合わせは「小町人形」((電)06・6349・2076)。

741よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/05/13(日) 16:02:34 ID:sZv/muKk0
浪華紙魚百景 

大商大商業史博だより   北新地堂島の移り変わり
2012年5月9日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120509/20120509036.html

堂島沿革図

 大阪の川の多くは埋め立てられた。50年ほど前まであった西横掘川や長堀川はよく知られているが、堂島と梅田の境界を流れていた川があったことはご存じだろうか。

 堂島は、その昔、曽根崎川(蜆(しじみ)川)によって北の曽根崎や梅田から切り離されており、南の中之島との境界を流れる堂島川との間に挟まれた、文字通りの島であった。曽根崎川には蜆橋・曽根崎橋・桜橋・緑橋・梅田橋・汐津橋などの橋が架けられ、「堂島沿革図」にも描かれている。

 「堂島沿革図」は、江戸時代のこの地域の移り変わりを年代の違う5枚の絵図と見開きの序文によって記録した珍しい史料である。そして、最新の絵図年代が天保6(1835)年であることと、史料の中に天保6年までの経年が随所に記されていることから、この史料の成立が同年であることが分かる。

 序文には、平安末期の図に天王寺木場(四天王寺の用材を置いた所)と記載があり、このことから聖徳太子が四天王寺の堂宇を建てた時代にはこの島があったとされること、さらに15世紀半ばの図にはすでに堂島と記載があることが記されている。

 堂島の名をつとに有名にしたのは、堂島新地を舞台にした近松門左衛門の作品である。この新地は貞享2(1685)年に河村瑞賢の曽根崎川改修をきっかけに開発され、さらに元禄2(1689)年に、新地10町が成立したことが「天保六年之図」の内容から明らかである。

 ここに土地繁栄策として遊里がつくられ、その華やかさの陰で「曽根崎心中」に代表される遊女悲哀の物語が生まれた。事実この時期には心中事件が多発し、「曽根崎心中」も実際の事件を翻案したノンフィクションの要素を兼ね備えている。

 「曽根崎心中」下巻の「道行」で、お初と徳兵衛は堂島から梅田橋を渡り曽根崎の天神の森へと死出の旅路をたどる。作中では「梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも。われとそなたは女夫星(めをとぼし)。」の文句によって、この橋は来世での二人の逢瀬(おうせ)を渡す架け橋としてシンボリックに描かれる。

 その後色町は曽根崎へ移り、新地の南岸には米市場ができて堂島は商業地区に変貌してゆく。近代になって、明治42(1909)年の北の大火の影響で大正13(1924)年までに曽根崎川は全て埋め立てられ、堂島は島ではなくなった。その川床が現在の新地本通を中心とする北新地のネオン街となり、その周辺に立ち並ぶ高層ビルの陰にひっそりと立つ橋跡の石碑が、かすかな面影をしのばせる。

 (大阪商業大学商業史博物館学芸員・池田治司)


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