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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

601よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/03(金) 05:50:58 ID:o/dFDFeI0
縄文後期の集落裏付け 豊中の内田遺跡 大阪
2012.2.2 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120202/osk12020202030002-n1.htm

 豊中市桜の町の内田遺跡で、縄文時代後期の土坑(穴)2基と古墳時代後期の竪穴住居2棟、掘っ立て柱建物4棟が見つかった。昨年12月から行われていた第10次調査で発見され、縄文時代後期には同遺跡周辺で集落が営まれていたことが確実となった。また古墳時代の須恵器生産に関わると考えられる建物群が見つかり、短期間に多くの建物が立ち並ぶ集落であったことが確認された。

 内田遺跡は古墳時代後期〜終末期(6世紀後半〜7世紀初頭)に千里川の河岸段丘上を中心とした集落で東西400メートル、南北350メートルに広がる遺跡。

 昨年10月に同地への共同住宅の建築に先立って行われた試掘調査で、古墳時代の遺構などが確認されたことから発掘調査を行うことになった。同市内では縄文時代の遺物は出土していたが、住居など人間の暮らしの痕跡が残されていることは少なく、野畑遺跡(西緑丘)以外に集落として特定された遺跡がなかった。

 今回発見された土坑はごみを廃棄するために掘られた穴とみられ、一定期間居住した集落跡であると推定される。

 また昭和61年の初調査で同遺跡周辺から古墳時代の建物群が見つかるとともに須恵器を廃棄した穴も多く見られ、須恵器生産に関連する集落であることも判明。須恵器を焼くためには燃料のまきが大量に必要なため、新たに窯を築く場を求めて次第に山奥に入っていったと考えられている。

 福永伸哉・大阪大学大学院文学研究科教授は「今回の確認で千里川流域に縄文時代の人の活発な活動域があったことが明らかとなった」と話している。

 現地説明会は、2月4日午前10時〜午後3時に同遺跡で行われる。雨天決行、申し込み不要。問い合わせは同市地域教育振興室((電)06・6858・2581)。

602よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/03(金) 05:55:13 ID:o/dFDFeI0
願い込め「火渡り修行」 箕面・帝釈寺 大阪
2012.2.3 02:05
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120203/osk12020302050003-n1.htm

 箕面市粟生外院の帝釈寺で2日、節分会(え)があり、焼けた護摩木(ごまぎ)の残り火の上を素足で歩く「火渡り修行」に参拝者らが挑んだ。

 厳しく冷え込み、雪が舞う境内に設けられた護摩壇に火がともされるとほのおが大きく上がり山伏らが祈祷(きとう)。参拝者らは「家内安全」「厄除」などと書かれた護摩木を火の中へ投げ入れた。

 このあと火渡り修行。長さ5メートルほどにならした残り火の上を、小さな子供からお年寄りまで、さまざまな年齢層の参拝者が素足で次々と進んでいき、今年一年の無病息災を祈った。修行に臨んだ女性(18)は「熱かったけれど、周囲の人たちが健康で幸せに過ごせるようにと願って渡りました」と話していた。

603よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/03(金) 22:07:18 ID:b9dl4Xe.0
節分:復興豆まき−−大阪・成田山不動尊
http://mainichi.jp/kansai/news/20120203ddf041040013000c.html

 節分の3日、大阪府寝屋川市の成田山不動尊(成田山大阪別院明王院)で恒例の豆まき式があった。今年は東日本大震災の被災地復興への祈りも込め、集まった参拝客1万8000人(主催者発表)に向けて福豆がまかれた。

 境内には、NHK連続テレビ小説「カーネーション」に出演中の女優の尾野真千子さんや松井一郎・大阪府知事らが登場。「不動明王がいる境内に鬼はいない」とする言い伝えから、「福は内」だけの独特の掛け声で豆をまいた。不動尊はこの日3回行う豆まき用に約1トンの落花生を準備。福豆の販売も行い、売り上げの一部を震災の義援金として寄付するという。【牧野宏美】

604よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/04(土) 23:08:37 ID:oo.UD1I60
「福よ来い」祈り込め 尾野真千子さんら豆まき
2012年2月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120204/20120204037.html

 節分の3日、大阪府内各地で豆まきや巻きずし丸かじりなどの恒例の行事が行われ、参拝者らが厄よけや交通安全など、思い思いにことし一年の願いを込めた。

 寝屋川市の成田山不動尊の節分祭では、NHK連続テレビ小説「カーネーション」に出演している尾野真千子さんや松井一郎府知事らが特設舞台から豆をまき、交通安全や被災地の復興を祈願した。

 同祭は、落語家やお笑いタレント、関西政財界の関係者らが福豆をまくことで毎年多くの人が集まる。不動明王を祭る境内に鬼はいないという考えに基づき、「福は内」のみの掛け声が特徴だ。

 今年も日本一大きな「千升大福升」に山盛りの落花生約2トンを用意。「カーネーション」人気で例年より多い計約3万3千人が訪れた。境内を埋め尽くした来場者は、帽子や紙袋を使って「福」を受け止めていた。

 松井知事は「福を感じることが増える大阪府にしたい」とあいさつ。尾野さんは「人が多くてびっくりした。役名で声を掛けられ、自分も福をもらえた」と笑顔。同じドラマ出演者でいずれも大阪府出身の黒谷友香さんと田丸麻紀さんは「大阪で豆まきができて光栄」と話していた。


堂島薬師堂節分お水汲み祭り:竜勇ましく−−大阪・北新地
http://mainichi.jp/kansai/news/20120204ddn041040007000c.html

 節分の3日、大阪市北区堂島1の「堂島アバンザ」周辺で、早春の風物詩「堂島薬師堂節分お水汲(く)み祭り」があった。商売繁盛を祈る「竜の巡行」などがあり、多くの参拝者でにぎわった。

 祭りは曽根崎新地の伝統行事「節分祭」と、地域活性化を目指して始まった「堂島薬師堂お水汲み祭り」を一つにしたもので、今回8回目。一年の厄を払い、福を招くとされる。

 参拝者に奈良・薬師寺の水を清めた「お香水(こうずい)」が振る舞われたほか、北新地の芸妓衆が舞を披露。華やかに着飾った北新地の飲食店に勤める女性ら約150人が北新地一帯を練り歩き、祭りを盛り上げた。【三上健太郎】

605よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/04(土) 23:24:22 ID:oo.UD1I60
内田遺跡:縄文時代後期の土坑2基を確認−−豊中 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120204ddlk27040353000c.html

 豊中市教委が、同市桜の町3の内田遺跡で進めていた発掘調査で、縄文時代後期(今から4000年ほど前)の土坑2基が見つかった。縄文時代後期にすでに集落があったことを示す資料といえ、同市地域教育振興室は「千里川周辺に散在する他の縄文期の小規模遺跡と合わせ、縄文人が短期間で集落を移転させていた生活実態が浮かび上がる」としている。

 内田遺跡は古墳時代後期(600年ごろ)に千里川の河岸段丘上を中心に形成された集落で、東西400メートル、南北350メートル。遺構の発見により、同じ場所に縄文期にも集落があった可能性が高まった。

 発見された土坑は、大きさや、中から出土した土器が破片だらけであることなどから、ごみを廃棄するために掘られたものとみられる。このため、一定期間縄文人が生活したと推定され、集落跡であったと考えられるいう。

 4日には現地説明会を開催する。午前10時〜午後3時。雨天決行。【高橋隆輔】

606よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/05(日) 06:12:56 ID:FrDQZGeA0
昭和初期のバスツアー復活 大阪・富田林、正成ゆかりの地
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819A91E2E6E2E3828DE2E6E2E0E0E2E3E09391EAE2E2E2

 現在の近鉄南大阪線や長野線を戦前に運営していた「大阪鉄道」が1935年に企画し、人気があったバスツアーが今月下旬と3月上旬に計4日間、復活する。

 大阪府千早赤阪村が生誕地とされる南北朝時代の武将、楠木正成ゆかりの地を巡るコース。同府富田林市と同市観光協会が、昭和初期のパンフレットを基に再現する。

 パンフレットは地元郷土史家の松本浩さん(66)が2005年、古本屋で見つけた。新たなツアー名は「復権 楠公遺蹟めぐり」。2月24、29日、3月2、7日に運行する。〔共同〕

607よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/05(日) 11:03:21 ID:FrDQZGeA0
秀吉の家臣・片桐且元の裁許状見つかる 加古川 
http://www.kobe-np.co.jp/news/touban/0004792444.shtml

 豊臣秀吉の家臣で「賤ケ岳の七本槍」の一人に数えられる武将片桐且元(通称・市正、1556〜1615)が、草を刈り取る権利をめぐる加古川地域での争いで下した裁許状が、兵庫県加古川市の旧庄屋宅から見つかった。市内で安土・桃山時代の文書が見つかるのは珍しいといい、同市は「新たな史実を明らかにするものではないが、秀吉や家臣団を研究する上で貴重」とする。(武藤邦生)


 裁許状は旧庄屋宅の蔵に保管されており、同市文化財調査研究センターの職員らが調査。肥料にする草を得る場所をめぐり、益田村(同市東神吉町升田)と平村(同市平荘町)の間で起きた争論の裁定が記され、天正14(1586)年8月6日付で益田側に示された。

 草は当時、田畑に敷き込んだり、焼いて灰にしたりし、貴重な肥料となったため、しばしば草場争いが起きたという。両村で問題となった草場について、裁許状は益田側に「苅可申候」と刈ることを許可。ただし境界を越えて草を刈った者は成敗される、とした。

 末尾に「片桐市正」と、もう一人が連署し、花押もあることから、写しではなく原本とみられる。且元は秀吉没後、豊臣秀頼の後見役になり、昨年の大河ドラマ「江」では俳優三田村邦彦さんが演じた。当時は秀吉の命で、この地域の代官的な立場を担っていたらしい。

 この争いでは、相手の平側に示された裁許状も写しの存在が確認されている。ただし、「苅可申候」の部分が「益田之者ニからセ可申候」(益田の者に草を刈らせること)となるなど、裁許状が下された先によって微妙な違いもある。

 同市は「双方への裁許状が明らかになるのは珍しく、400年以上前の争論が立体的に把握できる」としている。

608よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/05(日) 11:07:30 ID:FrDQZGeA0
江戸時代の堂島、先端マネー術…豪商日記に記述
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120205-OYO1T00084.htm?from=top

コメ権利担保に借金、再買い付け

 世界初の先物市場として知られる江戸時代の大阪・堂島(大阪市北区)の米市場について、取引を支えた金融の仕組みを示す240年前の史料が大阪市内で見つかった。米の買い取り証書を担保に両替商がお金を貸し、小さな元手で大きな取引ができる仕組みを作り上げていた。関連史料は戦災で大半が焼失しており、専門家は「当時の金融機能が分かる初の史料だ」と評価している。

 両替商などを営み、明治期に大同生命保険(大阪市)の創業にかかわった大阪・堂島の豪商・加島屋(広岡家)が戦後、大同生命へ寄贈した史料約2500点の中から見つかった。表題は「御用(ごよう)日記」。1772年に加島屋当主の広岡久右衛門(きゅうえもん)が作成した。B5判程度の大きさで158ページにわたり墨で書かれている。


 他の史料と併せて読み解くと、堂島周辺には各藩が集めた年貢米を保管する「蔵屋敷」が約100か所あり、卸売業者「米仲買(こめなかがい)」を集めて競争入札をしていた。米仲買は競り落とした米を現物では引き取らず、藩から米10石(1・5トン)当たり1枚の保管証「米切手」を受け取った。米仲買は約1300人おり、米切手は堂島米会所で売買された。相場が上がっている時に米会所で米切手を売れば、もうけが出る仕組みだ。

 競争入札は年貢米の収穫後、10〜12月に集中し、米仲買は1年分の買い付け資金をこの間に一気に調達する必要があった。

 御用日記によると、その仕組みが用意されていた。米仲買が米切手1枚(平均600匁(もんめ)、現在の60万円相当)を加島屋に担保として差し出すと、時価が600匁ならば約8%割り引いた550匁を貸した。金利は月0・45%程度だった。

 仲買が米切手1枚を加島屋に持ち込んで550匁を借りれば、自己資金50匁ほどを追加するだけで新たに米切手を1枚買える。担保にした代金との合計650匁で2枚の米切手を入手できることになる。仮に2枚目の米切手が米会所で700匁で売れたら、50匁のもうけが出る。これを短期に繰り返してもうけを増やし、担保に入れた米切手も取り戻した。最終的には米切手は現物の米に替えて消費者に販売していた。

 御用日記を調べた高槻泰郎・神戸大学経済経営研究所講師(日本経済史)は「当時の大阪で経済活動の大動脈である金融の仕組みがすでに完成したことに驚いた。米市場を支えた資金の流れが初めて分かったと言える」としている。

(2012年2月5日 読売新聞)

609よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/05(日) 20:59:46 ID:koYZ1tos0
東洋紡、南海、三和銀…大阪財界の生みの親は維新の志士 藤田伝三郎に学ぶ
2012.2.5 07:00
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120205/bsg1202050700000-n1.htm
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120205/bsg1202050700000-n2.htm

 大阪商工会議所の第2代会頭を務めた明治期の関西財界のリーダー、藤田伝三郎(1841〜1912)とその一族の財界人脈にスポットを当てたユニークな特別展が、藤田の出身地、山口県萩市の萩市博物館で開かれている。後の財閥、企業グループにつながる会社「藤田組」を設立するなどし、日本の近代化にも大きく貢献した藤田。特別展は当時の写真や資料とともに、「気骨の人」といわれた藤田の企業家精神も伝えている。

 藤田伝三郎は、幕末に萩の酒造家に生まれ、長州藩の奇兵隊に身を投じた。明治時代には大阪で維新政府の軍関係の仕事を請け負い、明治14年に藤田組を設立、京都・大津間鉄道や琵琶湖疎水の建設工事などを行った。大阪市都島区の太閤園と隣接する藤田美術館は、藤田の大阪本邸跡だ。

 また大阪紡績(後の東洋紡)、阪堺鉄道(同南海電鉄)、北浜銀行(同三和銀行)などの創設にも関わった。まさに“大阪経済界の生みの親”だ。さらに秋田県の小坂鉱山開発や、岡山県の児島湾干拓事業を成功させるなど日本の近代化にも貢献した。

 明治11年に大阪商法会議所(現商工会議所)を五代友厚らとともに設立したのも藤田で、五代に続き第2代会頭に就任した。吉田松陰の親戚で大阪の戦後復興に尽力した萩市出身の杉道助も後に大商会頭を務めており、大阪経済界は萩市に足を向けて寝られないともいわれた。

 同館学芸員の樋口尚樹副館長によると、大阪などでの藤田の事業を支えたのは、長州藩出身の政治家、井上馨の紹介による藩主毛利家からの融資だったという。

610よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/05(日) 21:00:42 ID:koYZ1tos0
>>609

「藩の産業振興策で稼いだ資産を、藩会計とは別に“特別会計”として毛利家資産に積み立てていた。幕末に藩の戦費にも使われたが、明治維新後もかなりあったようだ」と樋口さんはみる。

 同展では、藤田とその一族が設立した企業から、ゆかりの写真や資料など171点を出品。藤田の立像や実業家としての歩みを紹介したパネル・書簡、大阪本邸で撮影した写真などを展示している。

 樋口さんは「井上馨と一緒に写っている藤田一族の写真を見ると、藤田が気概と気骨が感じられる企業家だったことが分かる。萩の出身者は政治家ばかりが有名だが、経済界で活躍した人もいることを知ってほしい」と話す。ただ、「藤田は写真が嫌いだったようで、自身の写真はあまり残っていない」という。

 藤田の事業はその後、おいにあたる久原房之助と、房之助の義兄の鮎川義介が継承発展させ、日立製作所、日産自動車、日本水産など、日本を代表する名だたる大企業の基礎を作った。同展には、こうした企業に関する資料や写真も多く出品されている。

 日産自動車所蔵の「ダットサン14型ロードスター」は、昭和10年に最初に製造された乗用車で、同年萩市で開かれた産業大博覧会にも出展され、市内で乗車会が開かれたという。



 特別展は、4月10日まで。同館は年中無休。観覧料は大人500円、高校大学生300円、小中学生100円。問い合わせは同館((電)0838・25・6447)。

611よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/05(日) 23:02:49 ID:koYZ1tos0
ザビエル像が300年間潜んだ大阪の隠れ里 キリシタン遺物史料館(大阪府茨木市) 古きを歩けば(17)
http://www.nikkei.com/news/article/g=96958A9C93819A91E0E1E2E0958DE0E7E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;m=96948D819791E18D8D8D8D8D8D8D
http://www.nikkei.com/news/article/g=96958A9C93819A91E0E1E2E0958DE0E7E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;df=2;m=96948D819791E18D8D8D8D8D8D8D
http://www.nikkei.com/news/article/g=96958A9C93819A91E0E1E2E0958DE0E7E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;df=3;m=96948D819791E18D8D8D8D8D8D8D

 大阪北部、茨木市の山あい。小さな棚田が連なる山裾の道を行くと家々の並ぶ一角が現れる。千提寺(せんだいじ)地区。戦国時代から江戸時代にかけ、禁じられる中で信仰を続けたキリスト教徒が住んでいた集落だ。隠れ里という先入観があるせいだろうか。家々は、ひっそりした山中でもとりわけ目立たぬような場所にあるように思えた。

■墓碑に発見した「マリア」の名

 この地はキリシタン大名として知られた高槻城主・高山右近の領地だった。布教を許した織田信長、宣教師を追放し信仰を禁じた豊臣秀吉、禁教令を出し信者を厳しく弾圧した徳川幕府……。権力者に翻弄された山里の民の信仰をうかがわせる遺物や旧跡が点在する。

 千提寺が隠れキリシタンの里だったことが知られたのは大正8年(1919年)2月。地元の元教師が千提寺地区にある雪の積もった丘陵(寺山)で「マリア」と刻まれた墓碑を発見したのがきっかけだった。以後、同地区や北に少し離れた下音羽地区の民家の屋根裏や土蔵などから、キリシタン遺物が次々に見つかった。墓碑は寺山の隣のクルス山(名前の由来不明)や下音羽の曹洞宗の寺・高雲寺からも発見された。

 明治維新でキリスト教禁教が解かれてから40年以上が経過していたが、住民には当時でも発覚への恐怖があったようだ。「知れたらお縄になる」と心配した家もあったという。多くの遺物が見つかった東家は、それらを木製の櫃(ひつ)に入れ、わかりにくい場所にくくり付け、当主だけに伝えてきた。教科書にも載る有名な「聖フランシスコ・ザビエル像」(重要文化財、神戸市立博物館所蔵)は「あけずの櫃」と呼ばれるこの中にあった。

612よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/05(日) 23:05:13 ID:koYZ1tos0
>>611

 発見された遺物は、聖母マリアらを描いた絵画、キリスト磔刑(たっけい)像などの彫刻、金属製のメダルなど。一部は現在、茨木市が千提寺地区に建設したキリシタン遺物史料館で公開されている。史料館で案内役などを務めるのは、東家の満理亜さん(62)と同じく多くの遺物が見つかった中谷家の早苗さん(55)。2人にとって遺物は歴史資料であると同時に、先祖からの貴重な伝承品でもある。

■京都所司代が暗黙の承認?

 「遺物から考えると、単なる信者だったとは思えません。宣教師をかくまっていたのでしょうか」と東さん。「歴史を知ると、きちんと後世に伝えていかねばならないなと思います」と中谷さん。隠れキリシタンに関する謎は多く、今も研究は続く。茨木市文化財保護審議会委員で考古学研究者の井藤暁子さん(66)は遺物の質と量から、江戸初期にかけては治める側と治められる側の間に暗黙の承認があったかもしれないと推測する。

 キリシタンの有力者を庄屋などの村役人にして地域をまとめさせ、京都所司代だった板倉勝重・重宗親子が禁教や弾圧を強くはせずに済ませた可能性だ。貴重な遺物の数々を知ると、確かに「日本の中でなぜこの地で残ってきたのか」という疑問が膨らんでくる。

■ザビエル像を巡る宿縁

 ザビエル像を巡っては近年、因縁めいた巡り合わせがあった。この絵の入手に執念を燃やした神戸の資産家・池長孟(はじめ)の子息、潤氏(74)=カトリック大阪大司教、日本カトリック司教協議会会長=が2010年11月、千提寺地区を訪れ、住民にミサやザビエル像についての講演をしたのだ。「若い頃、突然この道に進もうと決めたのです。幼い頃から父の収集した美術品に触れていたこともキリスト教に関心を持った要因です」と池長さん。東家が「断腸の思いで手放した」(満理亜さん)絵が日本のカトリック教会のトップになる若者に啓示をもたらしたのだろうか。

【アクセス】名神高速茨木ICから車で約20分。
 この地域では近く、新名神高速道路の建設工事が始まる。寺山やクルス山で見つかり現地に置かれていた3つの墓碑は史料館に“一時避難”という形で移され、展示されている。道路が完成すれば地域の景観は一変するだろう。「ここがどんな歴史を持った場所なのか、多くの人に知っていただきたい」。東さんと中谷さんは口をそろえた。

(文 編集委員 堀田昇吾、写真 上間孝司)

613よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/11(土) 16:23:33 ID:9bE6.2LU0
裁縫技術向上を祈願 大阪天満宮で「針供養祭」
2012年2月9日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120209/20120209018.html

 古くなった針を供養する「針供養祭」が8日、大阪市北区の大阪天満宮内にある吉備社で行われた。参拝者が持参した針を針塚前に置かれたこんにゃくに刺し、針の供養を行うとともに裁縫技術の向上を祈願した。

 大阪和服裁縫協同組合、日本和裁士会大阪府支部の主催。同社での針供養は1926年から毎年行われ、例年約1500人が参拝する。

 この日はまず、大阪天満宮の神職による祝詞の奏上などの神事が執り行われた。その後、着物姿の女性の参拝者らが古くなった針をこんにゃくに刺して手を合わせた。境内では同祭に合わせて裁縫用具や和装小物の販売なども行われた。

 同組合の岡村博之理事長は「先輩方が続けてこられた針供養祭を絶やさずに続けていきたい」と話していた。

614よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/11(土) 16:28:19 ID:9bE6.2LU0
楽しく歴史散策 「とらとうちゃん」と行くまち歩きツアー
2012年2月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120210/20120210021.html

 玉造を「勝手に盛り上げよう」というちゃめっ気たっぷりのマスコットキャラクター「とらとうちゃん」と戦国時代の武将・真田幸村ゆかりの地を訪ねるまち歩きツアーが5日、大阪市内で開かれた。参加者はマスコットが歩くまちの風景とともに歴史散策を満喫した。

 同ツアーは、上町台地の建物や空間を公開する大型イベント「オープン台地in OSAKA」の一環。アートディレクターの藤田ツキトさんの企画で、事前予約の歴史愛好家やとらとうちゃんファンら20人が参加した。

 JR玉造駅を出発し、天王寺区の三光神社で史跡「真田の抜け穴」を見学。後半にはとらとうちゃんとともに電車に乗り込み天王寺に移動し、茶臼山一帯を散策した。

 とらとうちゃんはツアー客を誘導したり、写真撮影に応じたりと大活躍。通行人や買い物客との交流にも汗を流し、人気を集めていた。

 羽曳野市から参加した津村元さん(49)は「とらとうちゃんも玉造に着実に浸透しているようでうれしい。歴史のロマンも感じることができて良かった」と喜んでいた。

615よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/11(土) 16:39:03 ID:9bE6.2LU0
樹齢200年など20品種50鉢 大阪天満宮で大盆梅展
2012年2月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120211/20120211029.html

 大阪市北区天神橋2丁目の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で「大盆梅展〜天神様と梅〜」が始まり、樹齢約200年の梅の古木などが会場を飾り、訪れた人を魅了している。3月4日まで。

 梅をめでた菅原道真にちなんだ行事「てんま天神梅まつり」の一環として開かれる恒例行事。20品種約50鉢を展示している。

 畳敷きの参集殿内には樹齢約200年の「鶯宿(おうしゅく)」や「天草野梅」、同100年の「大和野梅」などが並び、訪れる人がじっくりと見入っている。同宮所蔵の「天神画像掛け軸」や大阪府指定文化財の「御迎え人形」も併せて展示されている。

 入場受け付けは午前9時半〜午後4時(午後4時半閉場)。22〜26日は夜間拝観として午後7時半まで入場を受け付ける(午後8時閉場)。拝観料は大人500円、小学生300円。

616よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/11(土) 16:54:41 ID:9bE6.2LU0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/239 紹鴎の森 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2012/02/09/20120209ddlk27070401000c.html

 ◆大阪市阿倍野区−西成区

 ◇先人の恩受け継ぐ 天満宮勧請、紀州街道の元に

 「岸の姫松」が残る府立住吉高校から、さらに西へと歩を進めると、阿部野神社に行き当たる。これまで何度も触れてきた北畠顕家を祭っている神社で、境内には銅像と、「花将軍 北畠顕家」という題名の歌の歌詞まで掲げられている。

 南北朝時代、南朝について戦場の花と散った美丈夫の若武者は、いつの時代もモテるようだ。同じく南朝の若武者で、戦場の露と消えた楠木正行(まさつら)は四條畷市の四條畷神社に祭られている。死後、神様となった2人をほふったのは北朝の高師直(こうのもろなお)だから、大変な敵役だ。

 大阪案内人の西俣稔さんが、玉垣の一角を指さす。懐かしい名前があった。「大屋政子」。派手な衣装と甲高い声で「うちのお父ちゃんなあ」と言うてた。「うちのお父ちゃん」は帝人社長の大屋晋三。「天下茶屋の政子ちゃん」と呼ばれていたそうで、生まれはこの辺りなのだろう。

 阿部野神社から下っていくと、阪堺電車の天神ノ森駅。西成区になる。天神ノ森というからには、天神さんがあるはず。しばらく歩くと、天神森天満宮が現れた。ここは「安産の神様」。境内に「子安石」が鎮座する。古来から信仰を集めた霊石だといい、豊臣秀吉も淀君のご懐妊の時に安産祈願をしたと伝わる。この石の周囲にある小石を持ち帰ると御利益があるとされ、出産後は小石を元の場所に戻してお礼参りをするという。

 鳥居の脇に、大きな石塔が二つ並んでいる。「天下茶屋あだ討ち供養塔」。岡山藩士の林重次郎、源三郎の兄弟が、父を闇討ちにした当麻三郎右衛門を追って艱難辛苦(かんなんしんく)、母は病没、兄重次郎は返り討ちに遭う。かたきを追って9年、1609(慶長14)年4月7日、弟源三郎が父と兄の恨みを、ついに天下茶屋で晴らした。返り討ちもあって世間の同情を集めた「天下茶屋のあだ討ち」は、歌舞伎や浄瑠璃となって人気を博した。

 西俣さんが着目するのは、石塔の裏に刻まれた文字だ。1829(文政12)年建立の石塔に「大阪」とあるのだ。確か、江戸時代の表記は「大坂」で、明治になって「大阪」に変わるのではなかった? 「土へんは『土に還る』といって縁起が悪いとされ、厄災など悪い時代の時は大阪を使っていたんです」と西俣さんの解説。

 神社の前を通る道が旧紀州街道。境内にはこんもりと木が茂り、森閑としている。昔はもっと緑深く、「天神ノ森」と呼ばれていた。「別名、紹鴎(しょうおう)の森です」。戦国時代、天神ノ森は交通の障害となっていて、東の熊野街道か西の勝間(こつま)街道に迂回(うかい)せざるを得なかった。この辺りに茶室を構えていた茶人、武野紹鴎が私財をなげうって森を開いて道を通し、天満宮を勧請した。これが紀州街道となる。人々はこの功績をたたえて「紹鴎の森」と呼ぶようになったという。

 この連載で歩いてきた道々には、人名が冠せられた橋や町がいくつもあった。そこには、恩人を忘れまいとする人々の情が込められている。この森もそう。私たちも先人の思いを受け継いで、こういう名前を残していかなくては。【松井宏員】

617よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/11(土) 16:58:48 ID:9bE6.2LU0
堺刃物まつり
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005774511.html

約600年の歴史がある大阪・堺市の伝統産業、刃物づくりの魅力を知ってもらおうという催しが、きょうから堺市で開かれています。この「堺刃物まつり」は地元の刃物業者でつくる団体が毎年この時期に開いてるもので、今回で25回目です。
堺市北区にある堺市産業振興センターにはプロの料理人が使う包丁や家庭用の包丁、それに植木の枝切りに使うはさみなど、300種類を超える刃物が通常より2割以上安く販売されていて、大勢の人たちでにぎわっています。
このうち、家庭で使う刃物を安い価格で研ぎ直すコーナーでは熟練の職人たちが研磨機や、といしを使い、預けられた刃物を1つ1つ丁寧に磨き上げ切れ味をよみがえらせていました。
また、80年前まで行われていたふいごや金づちを使った刃物づくりを体験できるコーナーも設けられていて、訪れた人たちは伝統産業の魅力を改めて確認していました。
堺市に住む68歳の男性は「自分ではうまく研ぐことができないので来ました。ここで研いでもらうと1年間は切れ味が持つので重宝しています」と話していました。この「堺刃物まつり」は、あすも開かれます。

02月11日 12時40分

618よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/14(火) 05:25:58 ID:GodMSqiU0
大阪市電の起点 歴史にスポット キララ九条商店街、17日にイベント
2012.2.14 02:10
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120214/osk12021402100003-n1.htm

 大阪市電の“発祥の地”を知っていますか−。同市の市電が花園橋−築港桟橋間で開業した歴史にスポットを当てた催しが17日、かつて花園橋停留所のあった付近の「キララ九条商店街」(大阪市西区)で開催される。

 市電は明治36年、大阪港と都心を結ぶ交通手段として開業。日本初の公営電気鉄道だった。以降、路線が延長され、60年以上の間、市民の足として活躍してきた。

 しかし今では、同商店街付近に市電の起点があったという歴史を知る人も減り、九条新道交差点に「大阪市電創業の地」の碑がひっそりとたたずむのみ。そこで、同商店街の店主らでつくる「九条新道3丁目振興組合」が、「市電と関わりの深い町の歴史を若い世代や新しい住民にも伝えたい」と催しを企画した。

 会場では当日、午前10時から計5回、市電についての説明会を開催。市交通局の職員が車両模型などを使って市電の歴史や運行当時の町のにぎわいなどについて解説する。また、広島県の広島電鉄が買い取った旧市電車両の写真パネルも展示されるという。

 同組合の芝本勝利理事長は「町の歴史を知ると地元への愛着も増すのでは。これを機に商店街に足を運んでくれる人が増えればうれしい」と張り切っている。問い合わせは同組合((電)06・6584・0700)。

619よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/14(火) 05:29:09 ID:GodMSqiU0
「白鳥伝説」歌い継ごう 羽曳野市民合唱団、26日に初舞台 大阪
2012.2.14 02:10
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120214/osk12021402100004-n1.htm

 世界遺産の暫定リストに記載されている古市古墳群(羽曳野、藤井寺両市)にまつわる伝説を歌い継ごうと、羽曳野市の有志らが市民合唱団を結成した。都市開発の波から古墳群を守るとともに古墳に眠る古代の英雄の魂を鎮めようと、歌声を響かせる。合唱団は26日、同市のLICはびきので開かれる古代史フォーラムで初舞台に立つ。

 日本書紀などには、日本武尊(やまとたけるのみこと)が「東方遠征の帰りに能褒野(のぼの)(三重県亀山市)で亡くなり、琴弾原(ことひきはら)(奈良県御所市)に降り立ったあと埴生野(はにゅうの)(羽曳野市)に飛び去った」と記されている。その飛翔の様子から「白鳥伝説」と呼ばれ、同古墳群の中にある日本武尊の墓とされる前方後円墳は「日本武尊白鳥陵」と名付けられている。

 都市開発が進む同市では白鳥陵の周りにも住宅が立ち並ぶ。文化財を取り巻く環境の保全が課題となるなか、歌で伝説を語り継ぎ、古墳群の存在をアピールしようと市民らが「シグナス混声合唱団」を結成した。

 歌い継ごうとしている歌は、作曲家の三枝成彰さんらが手がけた楽曲「ヤマトタケル」。参加費千円。問い合わせは主催のNPO法人「フィールドミュージアムトーク史遊会」((電)080・5328・1137)。

620名無しさん:2012/02/14(火) 20:00:47 ID:8ceuOVv60
羽曳野という地名自体が日本武尊の神話に由来しています。羽曳野が市制化する
時、当初予定の市名であった南大阪市を即時否定して羽曳野市としたのは大変良かった
と思います。

621よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/15(水) 05:48:29 ID:G5slulOE0
ものづくりの伝統 脈々と 出土鋳型基に銅鐸復元 東大阪
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120215-OYT8T00064.htm

破片わずか3個から

 東大阪市弥生町の鬼虎川(きとらがわ)遺跡で約30年前に出土した弥生時代中期の銅鐸(どうたく)鋳型のかけらを参考に、同市内の鋳物業者が、銅鐸(高さ31センチ、重さ3キロ)を復元した。ものづくりのまち・東大阪市のルーツを感じてもらおうと市教委が企画した。17日まで同市役所1階で展示している。(浦野親典)

 市教委によると、同遺跡では1981年に鋳型の破片が3個出土した。約2000年前のものとみられ、石製で、つなげると長さ約15センチ、幅約7センチ。銅鐸のすそ部にあたる。

 同遺跡ではこのほか、銅剣や腕輪などの複数の鋳型も出土し、青銅器製造の拠点だった場所として知られる。96年に島根県の加茂岩倉遺跡で出土した「12号銅鐸」(国宝)が、鬼虎川遺跡の鋳型で製造される銅鐸と特徴が類似することも判明しており、弥生時代に河内で製造した銅鐸が出雲に運ばれたとされている。

 銅鐸の復元は、文化財の復元作業を手がける同市内の鋳物製造会社「上田合金」が手がけた。

 市教委の委託を受けて同社では「12号銅鐸」や、鬼虎川遺跡出土の銅鐸のかけらを参考に復元図を作成。木型を製作した後、鋳物用の特殊な砂を木型に押しつけたうえで、炭酸ガスを吹き付けて鋳型を完成させた。

 鋳型の中に、銅やスズを混ぜ合わせて高熱で溶かした合金を流し込んだ。12号銅鐸は厚さ3〜4ミリで、高度な技術が必要だったという。上田富雄社長(76)は「穴が開く可能性もあった。古代の技術レベルは高い」と感心している。

 市教委の芋本隆裕次長は「銅鐸は技術を大切にする東大阪の原点とも言える。まちの魅力をPRするために活用したい」と話している。

(2012年2月15日 読売新聞)

622よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/16(木) 20:56:45 ID:Msh.lAJM0
大阪天満宮の七不思議を探る 18日からボランティアガイドが紹介
2012.2.16 02:10
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120216/osk12021602100000-n1.htm

 大阪天満宮(大阪市北区)にまつわるさまざまな謎をボランティアガイドが紹介する「大阪天満宮七不思議めぐり」が18日から境内で開かれる。昨年初めて実施し、参加者から「新たな一面を発見できた」と好評だったため、再び企画した。

 ボランティアガイドが参加者とともに約1時間かけて境内を歩き解説する。大阪天満宮文化研究所の高島幸次研究員が「七不思議」を選定し、ボランティアガイドが説明できるよう指導した。

 「七不思議」のひとつが火除けの石垣。寛政7(1795)年に戎門の西側に石垣が築かれたが、天保8(1837)年の大塩平八郎の乱では、東側から火が迫ったため天満宮も類焼。江戸時代に少なくとも7回火災に見舞われたため、明治以降は北側にも石垣が設けられた。その結果、明治42(1909)年のキタの大火や第二次世界大戦の空襲では類焼を免れたという。

 「七不思議めぐり」の開催日は18、19、25、26日、3月3、4日。定員先着20〜30人。午後3時に大阪天満宮表門に集合。無料。

623よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/16(木) 21:31:26 ID:Msh.lAJM0
475種類を味見せよ!!日本一の梅酒決定戦
http://www.ktv.co.jp/news/date/20120215.html

日本一の梅酒とリキュールを決める大会が大阪天満宮で開かれています。
475種類のお酒が味見し放題です。

梅の花が咲くのが待ち遠しいこの季節。
しかし、もっと待ち遠しいものを求める人たちが、大阪天満宮に集まりました。

【参加者】
「毎年来てるんですけど、この1年が待ち遠しくて」

梅酒とリキュールの日本一を決める「天満天神梅酒大会」。
今年で6回目の開催となり、過去最多となる475の銘柄が出品されています。
東日本大震災で蔵が半壊した福島県の酒蔵から日本酒ベースのヨーグルトリキュールなどが出品された他、中には、ちょっと変わった梅酒も・・・

【記者】
「ゴーヤの梅酒を飲んでみます。少し苦くて、お酒も強いですが、梅酒好きには、オススメできそうです」

好きなだけ梅酒やリキュールを試飲することができるとあって、お酒好きの参加者たちが、ハイペースでコップの中身を空けていきます。

【参加者】
「おいしいよ、ここから、一個ずつ飲んできている。これだけ呑めたら幸せ」

大会は2月21日まで開かれていて、来場者の投票をもとに3月4日に「日本一のお酒」が発表されます。 .
(

624よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/19(日) 12:27:33 ID:iIrjJCXM0
刀装具、名品の数々 「装剣奇賞」展にぎわう
2012年2月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120219/20120219030.html

 刀装具や根付の細密工芸に関する初の本格的な手引書「装剣奇賞(そうけんきしょう)」が1781年に大阪で出版されて230年の節目を迎えた記念展示が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。15日に開幕し、最初の週末を迎えた18日は大勢の愛好者らでにぎわった。

 装剣奇賞の著者は大阪の町人、稲葉通龍。もともと刀剣や刀装具を扱う商人だったが、商いの対象を深めるため、商売を後進に譲って調査、執筆に専念したとされる。

 「大阪の偉人でありながら埋没した存在になっていた」として、同博物館は通龍に焦点を当て、装剣奇賞に掲載された作家の手による刀装具、根付、絵画など約110点を展示。金工の名門・後藤家が手掛け、大阪の豪商・鴻池家に伝来した刀装具も紹介している。

 「細密工芸の華」と題した記念展示を担当する同博物館学芸員の内藤直子さんは「昔の日本人の手先の器用さは今では再現できない。その細密な作品に注目してほしい」と説明。内藤さんは、4月1日に関連する講演会も開く。

 同博物館によると、年配者を中心に来場があり、梅の花が見ごろの大阪城を訪れる途中に立ち寄る人の姿も。八尾市の女性(62)は「これだけきれいに残っているのが不思議」と名品の数々を眺めていた。

 4月2日まで。火曜休館。

625よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/19(日) 13:09:03 ID:iIrjJCXM0
盆梅見頃 香り堪能
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120219-OYT8T00061.htm

 学問の神様・菅原道真をまつる大阪天満宮(大阪市北区)で、鉢植えの梅を楽しむ「大盆梅展〜天神様と梅〜」が開かれている。会場となった書院造りの参集殿には甘い香りが漂い、来場者が見頃を迎えた花や、枝ぶりをじっくりと眺めている。

 梅を愛したとされる道真をしのぼうと、毎年開催。奈良県桜井市の盆栽業者の協力で、樹齢約200年の野梅など約60鉢を並べた。紅白それぞれに色づいた梅の古木2本に流木を組み合わせて2匹の竜に見立てたものなどが注目を集めている。

 神戸市東灘区、会社員城戸秀雄さん(59)は「寒い季節にあって美しい花を咲かせる梅のパワーはすごい。私も見習いたい」と話していた。

 3月4日まで。入場の受け付けは午前9時30分〜午後4時(22〜26日は午後7時30分まで延長)。拝観料は中学生以上500円、小学生300円。問い合わせは大阪天満宮(06・6353・0025)へ。

(2012年2月19日 読売新聞)

626よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/19(日) 21:44:38 ID:Hu8P8qxs0
川端康成「初掲載」の雑誌発見 大正期、恩師の葬儀つづる
http://www.kobe-np.co.jp/knews/0004827235.shtml

 日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した小説家川端康成(1899〜1972)が、旧制中学時代に執筆した文章を掲載した大正6(1917)年刊行の雑誌を、熊本市の尚絅大の宮崎尚子助教が19日までに見つけた。

 川端は、初めて雑誌に掲載された自分の文章と紹介、川端文学の研究に役立つ貴重な資料といえそうだ。

 見つかったのは、大阪市にあった出版社が発行した家庭雑誌「団欒」の大正6年3月号。大阪府立茨木中学の恩師を追悼する「生徒の肩に柩を載せて 葬式の日、通夜の印象」と題した文章で、同中5年生だった川端が、同級生とひつぎを担いだ葬儀などの模様を記した。

627よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/20(月) 22:14:49 ID:CAVPZLkc0
日韓台コラボ てんま天神梅まつり水墨画奉納式
2012年2月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120220/20120220020.html

 「てんま天神梅まつり」が開かれている大阪市北区の大阪天満宮で19日、水墨画奉納式が行われ、水墨画のライブペインティングと琴伝流大正琴、朝鮮民族楽器のコラボレーションパフォーマンスが本殿正面で披露された。

 「境内に絵でも梅を増やそう」と、NPO法人アジア文化芸術連盟の李鴻儒代表が水墨画奉納を提案、毎年行っており今年で9回目。李さんの水墨画制作に合わせ、琴伝流大正琴の前垣友紀さんらが、韓国の伝統楽器、チョッテ(笛)とチャング(太鼓)の「男寺党(ナムサダン)」と演奏を披露。韓国の楽器で日本の「赤とんぼ」、大正琴で韓国の「アリラン」を同時に披露する趣向を凝らした演奏で、パフォーマンスは大いに盛り上がった。

 30分ほどでえとにちなんだ力強い竜と梅の絵が描かれると参拝者からは大きな拍手が送られた。李さんは「音楽のイメージが絵で浮かび上がるのを楽しんでもらえたら」、前垣さんは「台湾、韓国、日本のコラボができて良かった」と話していた。

628よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/21(火) 21:37:47 ID:gQE57xZ60
推古天皇陵、謎秘める2つの石室 23日に初の立ち入り調査
2012.2.21 19:21
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120221/osk12022119330006-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120221/osk12022119330006-n2.htm

 初の女性天皇で飛鳥時代の第33代・推古天皇(554〜628年)と息子の竹田皇子を葬ったとされる大阪府太子町の推古天皇陵で23日、考古学研究者らによる初の立ち入り調査が行われる。宮内庁の調査で2つの横穴式石室があるとされているが、詳細は分かっておらず、今回の立ち入り調査で被葬者をめぐる謎解明の一歩へ期待がかかる。

 推古天皇陵は東西63メートル、南北55メートルの長方形で、7世紀前半の築造とされる。同庁による約20年前の調査で、墳丘南側に横穴式石室の一部とみられる幅2〜3メートルの巨石が3・5メートル間隔で東西に2つ並んでいるのを確認。石室が2つある可能性が高まった。

 古事記や日本書紀によると、推古天皇は奈良・大野岡の竹田皇子の墓にいったん埋葬。この墓は奈良県橿原市で2つの横穴式石室が見つかった植山古墳とほぼ確定され、その後に現在の推古天皇陵に移されたという。

 推古天皇陵でも、植山古墳と同様に2つの石室が並んでいれば、被葬者の信憑(しんぴょう)性は学術的により高くなる。ただし、石室とみられる東西2つの巨石は、宮内庁の調査では表面を覆う落ち葉などを除去しただけで本格的な発掘ではなく、石室の規模や副葬品などは不明。東西どちらが推古天皇の石室かなどは、謎のまま。今回の立ち入り調査で、石室の状況が少しでも分かれば研究が進む可能性もある。

 陵墓問題に詳しい大久保徹也・徳島文理大教授(考古学)は「宮内庁によって確認された石材が石室の一部かどうかなど、現地で詳しく観察できれば、被葬者に迫るヒントが得られるかもしれない。トップクラスの古墳を直接観察できる意義は大きい」と話す。

 23日の調査は、日本考古学協会などの研究者が墳丘1段目を歩いて観察するもので、発掘や測量はできない。同日は約1キロ離れた聖徳太子の父の用明天皇陵(太子町、一辺60メートル)でも立ち入り調査が行われる。

 陵墓は原則的に宮内庁関係者以外は入れないが、平成20年から研究者団体の要請を受けて立ち入り調査を許可。これまでに神功(じんぐう)皇后陵(奈良市)、国内2番目の巨大前方後円墳、応神天皇陵(大阪府羽曳野市、全長約420メートル)など計5カ所で行われている。

629よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/22(水) 05:07:17 ID:gQE57xZ60
スマホに往時の難波宮 AR技術で再現“記念撮影”も 大阪歴史博物館
2012.2.22 02:05
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120222/osk12022202050002-n1.htm

 ■4月アプリ配布

 かつて「難波宮(なにわのみや)」にあった大極殿や倉庫群などの建造物をスマートフォンやタブレットPCなど多機能情報端末の画面上に再現するシステムを、大阪歴史博物館(大阪市中央区)が導入し、報道関係者に21日公開した。今年4月以降、このアプリケーションソフトのダウンロードが可能になるという。

                   ◇

 AR(拡張現実)技術を活用した「難波宮展示ガイドシステム」。かつて600〜700年代に難波宮が存在した場所に立地する同館の館内と、隣接する難波宮史跡公園内で利用できる。遺跡を対象にしたAR技術の活用は、全国でも珍しいという。

 利用方法は、館内の場合、所定の位置に表示されたARマーカーを端末で読み込み、かつて建物が存在した方向に端末をかざすと、端末の画面に復元された建物の画像が浮かびあがる。

 また、難波宮史跡公園でも、大極殿の基壇に向けて端末をかざすと、大極殿が画面上に“出現”するだけでなく、基壇上で大極殿の内部も体感できる。

 また、聖武天皇や鑑真ら難波宮ゆかりの人物と“記念撮影”できる機能も備えた。

 同館の積山洋学芸課長代理は「想像が難しい往時の姿を、現代の技術を駆使して示すことで利用者の理解を助け、現在と過去との結びつきを実感してほしい」と話している。

630よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/23(木) 23:16:15 ID:X2EnvB/c0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/241 天下茶屋公園 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120223ddlk27070402000c.html

 ◆大阪市西成区

 ◇阿倍氏の氏寺なぜここに 枯れた大木は霊木?

 天下茶屋跡から天神森天満宮前へ戻る。かつて紹鴎(じょうおう)の森と呼ばれた森を切り開いて付けられたという旧紀州街道を北へ約30メートル歩くと、天下茶屋公園がある。

 この辺りの地名は岸里東。大阪案内人の西俣稔さんが「地名ネタいきましょか」と語る。「岸里、敷津、粉浜、津守」と大阪市南西部の地名を指折り数えて、「古代、海べりだったから、岸や津、浜が付いてるんです」。地名が、遠い昔の地形の記憶を伝えているわけだ。

 西俣さんの天下茶屋公園のお目当ては、石だ。もちろん、ただの石ではない。真ん中に丸い穴が開いただ円形の石は、府指定有形文化財「阿倍寺塔心礎」だ。文化財だけど、公園の中に無造作に置かれているから、思わず上に乗りたくなる。ああ、文化財を踏んづけてしまった。

 塔心礎とは、塔の芯柱の礎石のこと。中央の直径約60センチ、深さ約13センチの穴は柱を立てる柱穴で、その真ん中にある直径約10センチの小さい穴は、舎利、つまりお骨を入れる穴だ。

 阿倍寺とは、豪族「阿倍氏」の氏寺ともいわれる奈良時代のお寺だ。ここに阿倍寺があったのかというと、そうではなく、今の阿倍野近鉄の南側の阿倍野区松崎町にあった。なのに、なんで約2キロも南西のここに礎石があるのか?

 しかも、礎石のすぐそばには、茶色く変色した見上げんばかりの石碑があって、人を恐れぬハトの群れが止まったりして遊んでいる。「明治天皇駐□遺址」と刻まれているが、□の字は見たこともないから読めやしない。西俣さんも首をひねるばかり。

 その西側には、柵で囲われた枯れた大木がある。灯明台が据えられているところをみると、たぶん霊木として信仰されているのだろうが、はて? 枯れた幹には、とうに過ぎた季節を惜しむように、セミの抜け殻が二つ残っていた。

 この公園には謎が多い。多すぎる。しかも、文献に記されている、この公園にあるはずの碑が見当たらない。見過ごして先を急いでもいいのだが、気になる。とりあえず、市の公園管理事務所に電話したら、公園の近くに住む寺田靜雄さん(81)を紹介してくれた。

 寺田さんは前の岸里連合振興町会長で、天下茶屋跡の邸宅を所有していた芽木家とは親戚筋にあたる。しかも天下茶屋跡愛護会と天下茶屋公園愛護会の会長として、両方の清掃などに当たって、案内もしているので、謎解きにはうってつけの人だ。

 芽木家と寺田家は、互いをよく知る天下茶屋の名家。芽木家は空襲で邸宅が焼けたあと、泉州に越したという。その芽木家の珍しい名前の由来を、寺田さんはこう語る。

 「河内から出て来て、紹鴎の森に住んでいたんやけど、住吉大社や堺にいてた千利休に会いに行ったりする豊臣秀吉さんに、道を通せと言われたそうです。最初は抵抗したそうやけど、太閤はんが『おまえは木の芽のように芽が出るやっちゃ』と。まあ、おだてられて、芽木いう名前をもろたと聞いてまんのやけど」

 オモロイ話ですな。当時は武士以外は名字などないから、名字を付けてやって心をくすぐるという秀吉の人心掌握術はさもありなんと思わせる。ただ、ほかの文献では、紹鴎の森の呼び名のもととなった茶人、武野紹鴎が道を付けたとなってますけど……。「紹鴎が道付ける金も必要もおまへんわ」と寺田さん。寺田家の前を通るのがその道で、秀吉の時代は住吉街道と呼ばれ、次第に南へ南へ、紀州まで延びたので紀州街道と呼び名が変わった。

 天下茶屋公園の数々の謎を解き明かすのは次回。【松井宏員】

631よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/23(木) 23:17:43 ID:X2EnvB/c0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

大阪町人の救民記録   
2012年2月22日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120222/20120222038.html

仁風便覧

 小説の題材を江戸時代の事蹟(じせき)に求めた鴎外は、考証のため「武鑑」を蒐集(しゅうしゅう)したが、江戸時代の弘前の医者が自分と同じく武鑑を蒐集していたことに親しみを覚え、史伝「渋江抽斉」を書いた。大阪では「難波丸」「難波丸綱目」がこの類の資料で、地誌としても名所案内としても役立つが、商人に特化したものが本欄第7回で紹介した「商人買物独(ひとり)案内」である。

 来阪する仕入れ客が便利なように業種別、イロハ順に商工業者を記載した「江戸時代のタウンページ」は、同種のものが明治時代まで発刊されたが、掲載料負担が掲載条件と推察でき、「武鑑」と違って掲載情報の偏りは否めない。

 今回紹介する「仁風便覧(じんふうべんらん)」は、天保の大飢饉(ききん)に際しての大阪他兵庫の一部の施行(せぎょう)者名を町ごとに一覧にした本である。何を商う、どんな人物かは分からないが、掲載人数は9600余名、単純に比較すれば「独案内」の2000軒を優に超える。

 天保の飢饉(天保4〜7年)では大阪も大打撃を受けたが、豪商たちが救民のため施行を行った。施行者やその額、内容を記した1枚刷りの番付が出版され、誰がどれくらい御救に貢献したのかが一目瞭然となった。

 この「仁風便覧」は、天保8(1837)年8月、大塩の乱後に出版されたが、実は天保5年の施行の記録を幕府の意向によって出版したもので、施行者名を公開して施行を奨励することを意図した。施行者には無料かと思いきや、価格は銀八匁(もんめ)と町触れにある。

 天保8年2月、大塩平八郎は天保の飢饉での幕府の救民対策の不十分さ、上方米の江戸廻送(かいそう)を批判して武力蜂起した。大阪の豪商が施行に消極的なことも非難した。大塩の乱で大阪三郷の5分の1が焼けたが、その町も天保5年に施行している。数多く出た施行番付も大塩にはアピールしなかったのか。

 大塩焼け(火災)で焼け出された人のため御救い小屋が造られ、町人が施行し、また番付が出版された。天保8年の施行については「仁風便覧」中に予告があるが、同様の本は出版されなかった。

 (大阪商業大学商業史博物館専門職員・岡村良子)

632よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/25(土) 21:55:25 ID:stFeFhaA0
■推古天皇陵 初の民間人調査入る
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE120223223000542858.shtml

 日本で最初の女帝推古天皇を埋葬したとされている大阪の陵墓に考古学者ら民間人が初めて調査に入りました。

 23日午後2時半過ぎ、大阪府太子町にある推古天皇陵に考古学者ら16人が民間人として初めて足を踏み入れました。

 推古天皇陵は7世紀前半に造られたとみられる長方形の陵墓です。

 日本書紀などによると当初は、奈良県の植山古墳に竹田皇子とともに埋葬され、その後いまの場所に移されたと見られていて、陵墓内に植山古墳と同じような2つの石室があれば推古天皇が葬られている信ぴょう性が高くなります。

 23日は石室1つを確認できたということで今後、飛鳥時代の謎を解くきっかけになると期待されています。
(02/24 00:02)

633よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/26(日) 03:03:21 ID:stFeFhaA0
直木三十五の暮らし感じて
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120225-OYT8T00050.htm

 直木賞の由来となった作家・直木三十五(さんじゅうご)の生まれ故郷にある「直木三十五記念館」(大阪市中央区谷町6)は命日にあたる24日、昨年取り壊された直木の旧宅(横浜市)の所有者から備品約40点を譲り受け、展示を始めた。

 記念館が譲り受けたのは、トイレに張られていた黒色のタイル、オリーブ色の革張りの椅子など、いずれも旧宅が建築された昭和初期のもの。入れ替えながら15点前後を常時、展示する。

 椅子を眺めていた横浜市戸塚区、会社員坪井達也さん(56)は「直木が実際に座ったかと思うと歴史を感じる。直木賞のルーツを知る手がかりになった」と感動した様子。記念館運営委員の山根秀宣さん(46)は「名前は有名だが、どんな作家だったか知る人は少ない。譲り受けた品を見て、直木の息吹を感じてほしい」と話している。

 開館は午前11時〜午後5時。水曜休館。入場料は一般200円、小学生以下100円。問い合わせは同記念館(06・6767・1906)へ。

(2012年2月25日 読売新聞)

634よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/26(日) 14:32:50 ID:rMMmLjbw0
よみがえる江戸期和時計 泉南 山田家住宅、きょう公開
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120226-OYT8T00046.htm

 江戸時代の庄屋屋敷で、国登録有形文化財の「山田家住宅」(泉南市新家)にある、350年以上前の江戸時代前期に作られたとみられる「和時計」が修復され、新たな時を刻み始めた。26日午前10時〜午後4時、同住宅で一般公開される。

 山田家は代々、庄屋を務めた豪農。時計は高さ約30センチ、横10センチ、奥行き10センチで、ひもで垂らした重りで歯車を回して動く。明治時代に旧暦から新暦に切り替えられて以降は使われなくなっていた。

 住宅を所有する山田洋二さん(70)らが、「貴重な時計なのに動かないのは寂しい」と、和時計の修復に取り組む沢田平さん(76)(大阪市東成区)に修理を依頼。沢田さんは時計を分解し、無くなっていたネジなどを作ったり、サビを磨いたりして、3か月かけて調整した。

 山田さんは「屋敷も時計も江戸時代のものなので、当時の暮らしぶりを想像してもらえるはず」と期待。沢田さんは「日本が誇るハイテク技術のルーツである和時計を見て、歴史に思いをはせてほしい」と願っている。

 3月以降も同住宅の一般公開(12月を除く毎月第4日曜)の際に、見学できる。

(2012年2月26日 読売新聞)

635よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/27(月) 22:54:17 ID:VggRuJrM0
難波宮跡に往時の姿 仮想体験ソフト開発
2012年02月26日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001202270002

 7〜8世紀に大阪の中心部にあった難波宮(なにわのみや)跡にスマートフォン(高機能携帯電話)など端末のカメラを向けると、画面上の現実の風景に古代宮殿がCG映像で浮かび上がる展示ガイドシステムを、大阪市博物館協会が開発した。4月から一般利用される予定。

636よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/27(月) 22:58:37 ID:VggRuJrM0
地元紙にみる「カーネーション」時代
2012年02月26日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001202270001

 NHK連続テレビ小説「カーネーション」の舞台となっている岸和田市で戦前に発行された地元紙5紙が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で展示されている。現存する戦前の地方紙は貴重という。

 現在の新聞と同じ大きさか一回り小さいタブロイド判(縦40・6センチ、横27・3センチ)などの大きさで2〜4ページ。1925(大正14)年から1937(昭和12)年までに発行された。

 25年発行の南海自由民報は、約1年後に実施予定の市議選について「新顔連が多く激戦になる」と予想する記事を掲載。ほかの紙面には市内屈指の大企業だった岸和田紡績の社長「甚さん」を批判する記事や、花街で働く女性の紹介記事があり、「カーネーション」の時代の世相がうかがえる。

 岸和田市内では地元で発行された同様の新聞が20紙ほどあったとみられ、飯田直樹学芸員は「広告が多いものもあり、現在の新聞とは違う機能を持っていたのでは」と話す。

 3月26日まで。常設展の入場料は大人600円、高校・大学生400円、中学生以下無料。問い合わせは大阪歴史博物館(06・6946・5728)へ。

637よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/27(月) 23:09:09 ID:VggRuJrM0
「大大阪」築いた市長・関一 没後80年前に足跡脚光
2012年2月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120227/20120227032.html

 大阪商工会議所の大阪企業家ミュージアムが15日開いた講演会で焦点を当てた先人は、大正・昭和初期に大阪市長を務めた関一(1873〜1935年)。「大阪の世論が日本の政策を定める鍵を握るかどうかは大阪に“健全なる世論”が起こるかどうか、そこが問題だ」との関語録を紹介した講演は、昨年12月に就任した橋下徹市長が「大阪都」構想を進める現在にあって、問題提起の場になった。「大大阪」を築いた関の足跡が、没後80年を前に脚光を浴びつつある。

■健全なる世論

 「大阪への関心が全国的に高まることに対し、大阪で暮らす私たちがどう応えるかが問われている」

 講師を務めた大阪市史料調査会調査員の松岡弘之さん(35)は、関が言及した“健全なる世論”に着目し、「(現在の大阪は)複雑で難しい問題がゴロゴロ転がっている。だからこそ多くの人々がより良い大阪の在り方を探らなければいけない」と続けた。

■新たな時代
 大阪企業家ミュージアムが仕事帰りの市民を迎えるため水曜日の夜に開くナイトミュージアム講演会は、主に電鉄や工務店の創設者など企業家の精神を紹介し、歴代市長を題材にしたのは今回が初めて。

 「新市長主導のもと、大阪は今、新たな時代の扉を開こうとしています…これからの大阪を考えるきっかけになれば」と同ミュージアムが受講者を募ったところ、初めて定員80人を満たす応募が寄せられた。

 当日は、静岡県に生まれ、東京高等商業学校(現・一橋大学)の教授だった関がそれまで無縁だった大阪市の助役に転じ市長に就任した背景や、市役所内で関を支える人物の有無を尋ねる受講者の声が上がるなど、関心の高さをうかがわせた。

■メッセージ
 御堂筋の整備や地下鉄の導入など全国の都市行政をリードした関の「大大阪時代」は、大阪商工会議所が7月1日に開く「なにわなんでも大阪検定」のテーマでもあり、市民が関の足跡を振り返る機会は増す。

 昨年の大阪ダブル選挙を経て変革の機運が増す大阪にあって、関の足跡をどう捉えるか。

 『関一の手帖』(大阪市史料調査会発行)の編集、解題も手掛けた松岡さんは、この日の講演を次のように締めくくった。

 「関は没後80年弱を経て、今を生きる私たちを試しているというか、“俺の言葉”をどう読み取ってくれるのかを見ているように思います」

638よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/27(月) 23:21:36 ID:VggRuJrM0
世界発信へ助言続々
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120227-OYT8T00099.htm

上方伝統芸能演者ら外国人と交流会

 大阪市中央区徳井町の山本能楽堂で、外国語の指導助手などとして関西に長期滞在する外国人と、上方伝統芸能の演者らの交流会が開かれている。外国人に日本の伝統文化を楽しむ機会を提供するとともに、日本語がわからなくても理解しやすい方法をアドバイスしてもらい、海外からの観光客らを呼び込むのが狙いだ。能楽堂の関係者らは「交流を深め、上方伝統芸能のすそ野を広げたい」と意気込んでいる。(安田弘司)

 交流会初回の先月中旬。夜、大阪、兵庫両府県に住む18か国出身の約40人が能楽堂に集まり、桟敷席に座った。舞台には、能楽師の林本大さん。「上を向くと喜びで、うつむくと悲しみを表します。手をかざすと、泣いていることになります」と、顔を上げ下げしながら説明し、日本語が堪能な参加者の一人が通訳した。このあと、酒の妖精が主人公の「猩々(しょうじょう)」が披露された。

 ほかに、落語家や講談師、芸妓(げいこ)らが演じる舞台があり、それぞれの演目について、出演者が歴史や特徴などを解説。演目が終わるごとに出演者と参加者の意見交換の時間が設けられ、参加者は「一つの動作ごとに説明をつければわかりやすい」「謡を英語に訳してはどうか」などと、活発に注文を付けた。

 2年前に米国テネシー州から来日、和泉市の小中学校で英語指導助手をするケイリー・カストロヴェールデさん(25)は「伝統文化に興味があったが、どこに行けば鑑賞できるのかわからなかった。歴史がある上方芸能は宝物のようだ」と話した。



 交流会を提案したのは、自治体や国の「外国青年招致事業」で来日した外国人の支援・交流団体会長で、大東市の英語指導助手、マシュー・クックさん(32)。昨秋、能楽堂で開かれた外国人向けの公演を鑑賞した。事前に英語での説明があり、舞台の横で字幕が流れたが、「語学指導助手らは滞在期間が1〜3年のことが多く、これだけでは理解できないだろう。出演者と直接、話をできないか」と考えたという。

 能楽堂では日頃、能や狂言、文楽、上方舞、落語などの上方伝統芸能を紹介している。外国人のファンも一部いるが、一般の外国人観光客にはなじみが薄いといい、能楽堂側も「どうすれば外国人に広く興味を持ってもらえるか、何がわかりにくいのかを知ることができる」と提案を快諾した。

 交流会は今後、毎月1回程度開かれる予定だ。能楽堂事務局長の山本佳誌枝さん(48)は「私たちだけでは気づかないような助言を頂いてありがたい。英語での説明や字幕などの工夫を重ね、上方の伝統芸能を世界に広めたい」と話している。

■山本能楽堂 1927年に建設され、戦災で焼失したが、50年に再建された。現在は、公益財団法人「山本能楽堂」が運営する。木造3階建てで、能舞台、桟敷席があり、国の登録有形文化財。

(2012年2月27日 読売新聞)

639よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/29(水) 05:42:18 ID:2H.zCFlk0
七夕伝説歌ってつなごう 交野・星田妙見宮 宮司らでオリジナル曲
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120229-OYT8T00042.htm

4年後に創建1200年祭 市民1000人の合唱計画

 七夕伝説の残る交野市の神社・星田妙見宮が2016年に創建1200年を迎えるのを記念し、佐々木久裕宮司(60)と知人の信田隆司さん(65)が伝説を織り込んだ記念の歌3曲を作った。節目の年に祭りを開き、星空の下で市民1000人に歌ってもらう計画で、佐々木宮司は「郷土の歴史や伝説を皆で共有し、後世に残したい」と意気込んでいる。(中田敦之)

 「平安(いにしえ)の天地(あめつち)ゆるぎ 降りたまう」と神社の起こりを厳かに歌う「千年の杜(もり)」、天女と人間の男性との悲恋を描く「交野の天女ものがたり―天の川羽衣伝説より」、「空には星が輝いて 笑顔の君を照らしてる」と軽やかに唱和する「妙見さんの七夕まつり」の各曲。近くに住む信田さんが佐々木宮司らから09年に記念祭の話を聞いて、「歌を作ろう」と提案し、ピアノ伴奏をつけて昨年11月に仕上げた。

 信田さんは、佐々木宮司に交野や妙見宮の歴史を教わり、平安時代の歌集などの文献を参考に歌詞を創作。定年退職後に作曲や編曲を学んでおり、「伝説をたたえ、守り続けたいという願いを込めた」と話す。

 東大阪市出身の佐々木宮司は、コンピューター関連会社を経営していた30年前、妙見宮を初めて参拝。社殿は荒廃していたが、山の中の厳粛な雰囲気に感動し、「復興しよう」と神主の資格を取り、1996年から宮司を務める。途絶えていた七夕祭りを再開させるなどしてきた。

 創建記念祭は16年7月に開かれる。妙見宮の境内で、神楽などを奉納し、ペンライトを掲げた浴衣姿の市民らが3曲を歌う。1月末に、歌を吹き込んだCDを作っており、今後、市民コーラス団体などに協力を依頼し、歌い手を募る。

 佐々木宮司は「天地、自然をおそれつつしむ気持ちが、交野の伝説や言い伝えを生んだ。歌を通じ、郷土愛を育んでほしい」と話している。

星田妙見宮 816年、弘法大師が修行に訪れ、空から星が降った妙見山(162メートル)の山頂に建てられたと伝えられる。佐々木宮司によると江戸時代の学者・貝原益軒の著書で「牽牛織女(けんぎゅうしょくじょ)の社」と紹介された。

(2012年2月29日 読売新聞)

640よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/01(木) 21:52:01 ID:zPMy.ybM0
行ってみよっと:大阪歴史博物館(大阪市) 古代人の気分堪能 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120301ddlk27040360000c.html

 ◇難波宮に思いはせ

 大阪城の足元に、にょっきりと建つビル、大阪歴史博物館(大阪市中央区、13階建て)。名前からくるイメージとこの姿が、どうもそぐわない、とずっと思っていた。行ってみて最後にわかった。なぜ、こんなのっぽビルにしたのか−−。

 開館は01年。古代から現代までの大阪の歴史と文化を紹介している。くまなく回るのはきっと大変。「大極殿を復元したフロアが見応えあります」と同館広報担当者の言葉に、難波宮をテーマに回ることにした。この付近は、難波宮の宮殿が置かれたところでもあるし。

 見る前に、少し予習−−。難波には過去2回、都が置かれた。前期難波宮と後期難波宮と呼ばれ、前期は7世紀半ばの孝徳天皇の時代、後期が8世紀前半の聖武天皇の時。都が置かれた際、一番重要な建物となるのが大極殿。外国の使者が天皇に謁見(えっけん)したり、国家的儀式が行われる場だ。

 これぐらいを頭において、エレベーターで一気に10階へ。朱塗りの柱がドーン、ドーンと立つ。直径70センチ、高さは約6メートル。後期難波宮の大極殿を、原寸大で復元している。

 「怖ッ」と思ったのは直立姿勢で整列している官人や女官たち。リアルな人形なのだ。装いなどは「中国の壁画などを参考にしています」と学芸員の伊藤純さん(55)。

 人形の顔をのぞき込む。丁寧にメークしている。いつの時代も、女性が求めるのは美。よく見れば、地位が高いほど、ヘアスタイルもファッションも凝っている。ひがみ、ねたみ、あっただろうな……。みんな小柄なところが愛らしい。男163センチ、女152センチ。原始・古代の出土人骨の平均身長を採用しているとか。

 室内が暗くなり、エキゾチックで緩やかな音楽をバックに映像が流れ出す。744(天平16)2月26日、大極殿で催されている遷都の儀式だ。

 終わると、窓の幕がスッと上がる。まぶしい! と同時に大きな窓から57メートル下の地上に見えたのは、史跡難波宮跡の中にある、ホンモノの大極殿跡だ。1200年以上前の世界にどっぷり浸った直後に、ヒョイと今ある姿を目に飛び込ませる。この演出、見事!

 次は「遺構見学ガイド」に参加する。参加者5、6人に、ガイドしてくれるのは伊藤さん。「足元を見てください」。1階の床の一部がガラス張りになって、その下に発掘調査の跡を残している。「これは前期難波宮が置かれたころの建物の柱跡です」。発掘調査で、こうした柱跡がわんさと見つかった。

 1階の床のタイルにはたくさんの丸い模様がある。まさにそれが、柱跡。フロア続きのNHKの入り口近くには丸が一列に並んでいる。「これは建物でなく、塀の柱だったのでしょう」。なるほどーと参加者がうなずく。

 細い階段を下りて、地下へ。ちょっとミステリアスな気分。地下通路からガラス越しに室内を見る。部屋の中は全て発掘跡。天井から円柱のちょうちんがぶら下がる。ちょうちんは、1階フロアの丸い模様と同様、柱に見立てたものだ。

 昔の土木作業も大したもんだが、保存した現代人の根性もすごい。この遺構の上にビルを建て、下には駐車場をつくったのだから。この遺構、月1回業者がきてメンテナンスをしており、ひび割れなどを防いでいる。年間数百万円かかっているとか。

 博物館前の外の広場に出る。「ここに難波宮よりも古い古墳時代中期の遺跡が見つかりました。16棟の倉庫跡でした」。広場の舗装に、黒っぽく四角く色が付いているのは、倉庫跡を表示したものだ。

 さて、これで冒頭の疑問が解決。「この遺跡を壊さないため、建物をここまで広く建てられなかったのです」(伊藤さん)。面積が小さくなった分、上に高いビルとなった。

 広場に、高床式倉庫1棟が復元されて建つ。のっぽビルの横で今は目立たないが、「古墳時代には、この高さが権力を見せつけるものだったかもしれません」と学芸員の岩佐伸一さん(40)。柱跡が、いろんなことを語っている。【三角真理】

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 ◇大阪歴史博物館

 9時半〜17時(金曜は20時まで)。火曜休館。電話06・6946・5728。常設展の入館料大人600円、高大生400円、中学生以下無料。遺構見学ガイド(無料)は毎日6回。

641名無しさん:2012/03/02(金) 22:39:27 ID:A1CWVErY0
条坊制が難波宮で、日本最初に布かれていたことはほぼ確定だそうですね。

642よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/04(日) 08:17:56 ID:mCkC.vkk0
大阪大空襲:67年前、父が写した“地獄” 京都の男性宅に未発表写真11枚
http://mainichi.jp/kansai/news/20120303ddn012040067000c.html

 太平洋戦争中の大阪大空襲の被災状況を伝える未発表写真11枚が京都市内の個人宅で見つかり、大阪国際平和センター(ピースおおさか、大阪市中央区)で展示されている。第1回大空襲(1945年3月13日)の直後に写真愛好家が撮影していた。ピースおおさかは「きわめて珍しい角度から撮影した写真があり、被災状況を知るうえで貴重な資料だ」としている。【平川哲也】

 写真は宮澤堂(たかし)さん(82年に74歳で死去)の撮影。京都市山科区の長男潔さん(70)宅にネガが残っており、古い写真から市民生活の変遷を研究する大阪府立大の中村治教授(環境思想)を介して、ピースおおさかに持ち込まれた。

 このうち、旧そごう(現大阪市中央区)が写る1枚は、ねじ曲がった鉄骨や焼け焦げた立ち木から空襲のすさまじさが伝わる。

 潔さんは「何にでもレンズを向けた父は数千枚の写真を残しているが、ほとんどは京都の風景や家族の写真。その中にこうした貴重な写真が残っているとは……。多くの人に見てほしい」と話している。

    ◇

 ピースおおさか(06・6947・7208)は4日午後1時半、平和祈念行事「大阪大空襲 決して忘れない」を開く。この写真についての解説講演もある。入館料250円。

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 ■ことば

 ◇大阪大空襲

 大阪市内への空襲は1944年末から終戦直前まで50回以上続いた。最大規模の第1回大空襲は20平方キロ以上の範囲に無数の焼夷(しょうい)弾が投下され、死者は約4000人とされる。

643よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/04(日) 16:12:08 ID:SzSPBpfA0
大阪にもあった清水寺 「舞台」や「滝」京都とそっくり
2012/3/2 7:00
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A9C93819B9AE0E1E2E2978DE0E1E2E0E0E2E3E09393E082E2E2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A9C93819B9AE0E1E2E2978DE0E1E2E0E0E2E3E09393E082E2E2;df=2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5

 清水寺は言わずと知れた京都を代表する観光名所だが、実は大阪にも清水寺がある。同じなのは名前だけではない。境内には見晴らしの良い「舞台」があり、情緒豊かな滝が流れ落ちるのも共通するという。大阪の清水寺の歴史を調べた。

 大阪市営地下鉄の四天王寺前夕陽ケ丘駅から5分ほど歩く。出入り自由の境内を進むと、一気に視界が開けた。こぢんまりした見晴らし台が西向きに張り出す。足元に住宅街が迫り、その向こうにオフィスビルやマンションなど。左手遠く、小さく見えるのは通天閣だ。欄干には「清水寺 舞台」とのプレートが。

■江戸期に「建立」、当時は観光名所

 石段を下ると、崖の上から細々と流れ落ちる3条の滝。京都・清水寺で「清水の舞台」と並んで有名な「音羽の滝」を模したと一目で分かる。傍らの説明書きには「玉出の滝」とある。大阪市内で唯一の天然の滝で、水源は近隣の四天王寺という。飲料には適さない、とも。

 健代和央住職に聞いた。この清水寺の創建時期は不明だが、中興の祖とされる江戸期の延海阿闍梨(あじゃり)が観音様のお告げを聞き、1640年に京都の清水寺にそっくりの寺院として再建した。その際、京都の清水寺から千手観音を移して本尊としたという。1615年の大坂夏の陣で荒れ果てた境内を整備する目的もあったと伝わる。

 「江戸期は付近に高い建物が無く、すぐ近くに海が迫っていました。今以上に見晴らしが良く、大阪で有数の観光名所だったそうです。今でもきれいな夕日が見られますよ」と、健代住職。

644よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/04(日) 16:13:15 ID:SzSPBpfA0
>>643

 さらに詳しく知りたいと、大阪歴史博物館(大阪市中央区)を訪ねた。八木滋学芸員が「それなら当館にいい展示がありますよ」と教えてくれた。9階で江戸期の大坂の様子をジオラマで再現しており「堂島米市」や「天満青物市」などと並んで「新清水寺」を紹介している。

 江戸期には新清水寺と呼ばれていたらしい。ジオラマによると、当時の「舞台」は木材を水平と垂直に組んだ「懸造(かけづくり)」だった。現在の京都の清水寺と同じだ。3条の滝の下では落水に打たれる人も描かれている。

 「大阪の清水寺は江戸期以降、何度か姿を変えてきたようです」と八木学芸員。江戸期の旅行ガイドと言うべき「摂津名所図会」に記された清水寺は崖の上に舞台が張り出すが屋根はない。明治期の写真では舞台の上にも建物が建つ。現在は舞台だけの鉄筋コンクリート製だ。

■「清水寺」名乗る寺、全国に90も

 京都の清水寺にも確認してみた。加藤眞吾学芸員は「大阪の清水寺との関わりを示す文献は当寺では見当たりません」とのこと。一方で「大阪の清水寺の伝承も尊重すべきだと考えています」

 加藤学芸員によると、全国に「清水寺(きよみずでら・せいすいじ)」と名乗る寺院は90ほどもあるという。「多くは当寺と同じく、清らかな水が湧く場所に由来して創建されたと思われますが、当寺を模して建てられた寺院も多いと聞いています」

 記者は生まれも育ちも大阪だが、不覚にも大阪の清水寺のことは知らなかった。京都府よりも数が多いと言われる大阪府の寺院。知られざる名所というべき寺院はまだ多いのではないか。後日、健代住職の言葉通りの美しい夕日を眺めていると、そんなふうに思えてきた。

(大阪・文化担当 田村広済)

645よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/06(火) 05:21:08 ID:Jkhf7apo0
100年前の響き軽やか
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120305-OYT8T00042.htm

堺 古民家ホールでピアノ演奏

 堺市堺区錦之町東の古民家を改装したホール「堺テクネルーム」で4日、100年前に作られたオーストリア製のグランドピアノを使ったコンサートが開かれ、ひな祭りや春にちなんだ曲を、約25人が楽しんだ。

 ホール周辺の旧市街の町家にひな人形を飾る行事に合わせて開催。ピアノは同ホールが約10年前に購入したもので、1世紀前の音を伝えてきたが、今月中に弦と、弦を振動させるハンマーを取り換えて大阪市内のレストランに運ぶという。

 ピアニスト土岐友季子さん(26)(豊中市)が、エルガーの「愛の挨拶(あいさつ)」やメンデルスゾーンの「春の歌」など春を感じさせる3曲を披露。締めくくりには童謡「うれしいひなまつり」を、高校、大学で一緒に音楽を学んだ、鍛冶職人水野七菜子さん(26)(堺市堺区)の歌声とともにこぢんまりとした室内に響かせた。

 100年を経たピアノについて、土岐さんは「軽やかで昔を感じさせる和音の響きが魅力」と話していた。

 コンサートは11日にも午後1時、2時、3時から各回15分開かれる。コーヒーとお菓子付きで500円。問い合わせは堺テクネルーム(072・221・2731)へ。

(2012年3月5日 読売新聞)

646よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/06(火) 22:06:18 ID:6AvloOXI0
大阪大国技館の時代 歴史博物館が企画展
2012年3月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120306/20120306023.html

 11日から大阪府立体育会館で行われる大相撲春場所を前に、中央区大手前4丁目の大阪歴史博物館で、「生誕100年記念 双葉山と大阪大国技館」展が開かれている。2年ぶりの春場所の開催を控え、相撲ファンでにぎわっている。26日まで。

 本場所での69連勝など「相撲の神様」ともたたえられる第35代横綱、双葉山にスポットを当てるともに、双葉山が横綱になった1937(昭和12)年に現在の城東区に建設された「大阪大国技館」に関連する資料12点を展示している。

 大阪大国技館は関目国技館とも呼ばれ、収容定員は2万5千人と現在の両国国技館(約1万千人)を上回る規模だった。しかし、戦争により4年間に7回の準本場所が開かれただけで、戦後間もなく解体された。

 会場には、大阪大国技館の完成を記念して作られた国技館を模した「たばこ盆」をはじめ、国技館が完成した年の場所で撮影されたと思われる、双葉山の土俵入りの写真などを展示している。

 淀川区内にあった「双葉温泉」の屋根に設置され、銭湯の名前の由来となった双葉山をかたどった鬼瓦もあり、訪れる人の目を引いている。

 同館の飯田直樹学芸員は「巨大な国技館が大阪にあったことが、大阪が昔から相撲熱の高かったことの証拠だと思う。双葉山や昭和10年代の相撲人気のすさまじさの痕跡が鬼瓦として残っていることを感じてもらえれば」と話している。

 火曜日休館。常設展の入館料大人600円、高大生400円が必要。

647よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/07(水) 05:42:36 ID:6AvloOXI0
峯ケ塚古墳 副葬品20点公開 17日、羽曳野ウオーク&清掃 大阪
2012.3.7 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120307/osk12030702010001-n1.htm

 豪華な副葬品が多数出土して注目を集めた峯ケ塚古墳(羽曳野市)の発掘調査から20周年を記念し、普段は非公開の副葬品約20点が17日、古墳近くの峰塚公園管理棟で特別公開される。

 峯ケ塚古墳は、古市古墳群の中で石室などの主体部が調査された唯一の古墳。全長96メートルの前方後円墳で、これまでの調査で石室から約3500点の副葬品が見つかった。今回はそのうち、装飾品の魚佩(ぎょはい)や装身具の三叉形垂(さんさたれ)飾り、ガラス玉などを特別展示する。

 この展示は、古市古墳群(藤井寺市、羽曳野市)を清掃しながら巡る「第3回ウオーク&クリーン 墓山古墳の陪冢(ばいちょう)群と峯ケ塚古墳の至宝」の中の企画。イベントの参加者に対し、特別に公開する。

 コースは約3・7キロで、羽曳野市役所から墓山古墳、仁賢天皇陵古墳、峯ケ塚古墳などを巡る。

 問い合わせ、申し込みは、羽曳野市世界文化遺産推進室((電)072・958・1111)。

648よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/07(水) 21:58:42 ID:mvtQL/YE0
浪華紙魚百景  大商大商業史博だより

明治の大阪名所ガイド
2012年3月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120307/20120307050.html

新撰大阪往来

 東京スカイツリーがオープン間際である。天望(展望ではない)回廊からの眺めはさぞかしであろうが、所在地の墨田区は在原業平ゆかりの場所として、また、永井荷風の『※東綺譚(ぼくとうきだん)』の舞台としても有名だ。今回、墨田区にとって無敵の観光名所が加わることになる。

 どっこい、浪花にも空にそびえる?通天閣があるではないか。ビリケンさんもいるし、村田英雄の「王将」で歌われるように新世界がその裾野を守っているぞ、と言いたいところだが、高さが足りぬ、華やかさに欠ける。

 もとより、名所とは文学的な背景から、歴史的事象、地形的な特性などによるものが多いが、近年、不景気故か?都市部に集中する建築物がそれに取って代わろうとしている。すなわち、何もなかった所にこつぜんと現れる建築施設は商業の流れを誘発し、人を呼び、時に町をも形成する。

 さて、われらが大阪である。ここに取り上げるのは1874(明治7)年発行の名所案内『新撰大阪往来』だ。本文は七五調の文語体で「明治紀元辰の年。四海に仰ぐ王政の。昔に復る歴代は。無辺無経の各国に。肩をならべる知識のみち」といかめしいが、巻頭には市中略図とともに大阪造幣寮と心斎橋鉄橋が色鮮やかな木版で紹介されている。早くも明治7年にして、大阪名所は文明開化による西洋建築が選ばれているのが面白い。

 心斎橋は、1622(元和8)年、長堀川の開削に貢献した岡田心斎に由来するというが、1873(明治6)年、木橋からドイツ輸入の鉄橋に架け替えられた。橋脚がない珍しい構造に対して「無智の鄙人(ひなびと)は見てもわからず聞てさえ。その理を得ぬ寄工なり」と驚いたという。

 図版の心斎橋は北詰めから南を望み、道頓堀ののぼりから四天王寺の塔が見えているが、まげに着物のご婦人連や、こうもり傘に洋装ステッキのカップル、人力車が入り乱れて明治の開化風情が濃厚だ。スカイツリーを仰ぎ見る現代人のごとく、橋脚なしの鉄橋を物珍しげに渡る人々の姿は、新名所となった明治の心ぶらを今日に伝えている。

 (大阪商業大学商業史博物館主席学芸員・明尾圭造)

 ※はサンズイに墨

649よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/07(水) 22:17:13 ID:mvtQL/YE0
丸萬本家:魚すき、150年の歴史展 創業時の道頓堀で /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120307ddlk27040374000c.html

 かつて道頓堀に店を構えていた魚すきの「丸萬(まるまん)本家」(現在は堺筋本町で営業中)の創業から現在までの150年の歩みをたどる「ひさしぶりにもどりまし展−丸萬本家リターンズ」が大阪市中央区道頓堀1の中座くいだおれビル内「いちびり庵」で開かれている。11日まで。入場無料。

 丸萬本家は幕末の1864年創業。タイやサワラなどの魚を秘伝のだしに漬け込み、すき焼きのように炊いてとき卵をつけて食べる魚すきは、ほかにない魚の鍋料理として浪花名物となった。十日戎(えびす)で今宮戎神社に参拝した帰りは、丸萬で魚すきを食べる人が多かったという。

 空襲で焼け、戦後はミナミの鰻谷に移転して営業していたが、96年に店主が亡くなって閉店を余儀なくされた。客からの再開の要望を受け、先代の弟で、一時は店で働いていたことがある後藤隆平さん(80)が、息子の英之さん(49)と07年に再開。店構えは創業時のものを再現したという。

 同展は、道頓堀時代の店の写真や、店で作っていたマッチのデザイン、空襲にも焼けずに残り、今も店で使われている鉄鍋や皿、とくりなどが展示されている。

 後藤隆平さんは「街の変遷とともに店も変遷しました。そんな歴史とともに、魚すきという食文化ももっと知っていただければ」と話している。

 丸萬本家は大阪市中央区瓦町1。電話06・6201・4950。【松井宏員】

650よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/08(木) 05:22:23 ID:qghafOFc0
堺の孫太夫山古墳周濠跡 仁徳天皇陵と類似の埴輪片出土
2012.3.8 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120308/osk12030802000003-n1.htm

 ■「陪塚」の可能性高まる

 堺市堺区の孫太夫山(まごだゆうやま)古墳の周濠(しゅうごう)跡から、埴輪(はにわ)片などが見つかり、市が7日発表した。製造技法が隣接する仁徳天皇陵古墳(5世紀中ごろ)から出土した埴輪と似ていることなどから、市は、仁徳天皇の家臣か副葬品などを埋葬した「陪塚(ばいづか)」だった可能性が高まったとしている。

                   ◇

 孫太夫山古墳は、仁徳天皇陵の拝所から約30メートル南にある帆立貝(ほたてがい)形の前方後円墳で、今回の調査で全長が約56メートルと判明。出土した埴輪片は、円筒埴輪と朝顔形埴輪で、多くは復元すれば直径約20センチの小型のものとみられる。

 市文化財課によると、埴輪の表面の特徴が仁徳天皇陵古墳から出土した埴輪と類似。木べらで表面を平らにする工程で、木べらの動きを止めた際にできる線の間隔が共通しているという。

 こうしたことから、同課は築造時期も仁徳天皇陵古墳に近いと推測。「仁徳天皇陵の主軸上にあることから以前から陪塚とされてきたが、今回の調査結果によりその可能性が高まった」と説明した。文献によると仁徳天皇陵の陪塚は少なくとも15基あったという。

 市は、百舌鳥(もず)古墳群の世界文化遺産登録に向けて平成19年から各古墳で発掘調査を行っている。現地説明会は10日午後1時〜4時。午後2時と3時に担当者が説明する。JR阪和線百舌鳥駅から西約500メートルの大仙公園内。問い合わせは市文化財課分室((電)072・273・6101)。

651よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/08(木) 06:28:23 ID:qghafOFc0
百済寺跡北西に建物跡  枚方市教委 「付属院地」規模判明
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120308-OYT8T00056.htm

 枚方市教委と同市文化財研究調査会は7日、同市中宮西之町の国特別史跡・百済寺跡(8世紀後半)の北西部で、築地(ついじ)で区画された掘っ立て柱建物跡(東西約12・5メートル、南北約10・5メートル)が出土し、寺の運営に必要な施設とされる「付属院地」と判明したと発表した。

 同寺跡で付属院地が見つかるのは、寺の修繕などを担う北東部の修理院跡(すりいん)に続き2例目。だが、今回は柱跡が多数あり、市教委は「建物の正確な規模がわかり、貴重」としている。

 市教委によると、建物跡は寺の中心にある金堂から約50メートル北西で、母屋1棟の両脇に庇(ひさし)がついた様式。柱跡は7か所あり、2007年度に出土した4か所と合わせて計11か所が確認された。柱穴はいずれも直径約1メートルだった。寺務所だった可能性が高いという。

 現地説明会は10日午後1時、2時、3時からの3回(各回30分)。雨天決行。問い合わせは、枚方市文化財研究調査会(072・858・2852)。

(2012年3月8日 読売新聞)

652よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/08(木) 23:07:26 ID:D5mg1aXE0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/243 天下茶屋公園 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120308ddlk27070414000c.html

 ◆大阪市西成区

 ◇謎解けてすっきり ほこらの灯に時間の流れ

 天下茶屋公園の「謎解きの巻」といこう。ようやく、ここまでたどり着いた。三つの謎とは、(1)阿倍野の阿倍寺の礎石がなんであるの(2)明治天皇ナンタラの石碑はなに?(3)枯れた木がなんで祭られているの?

 江戸時代、是斎屋(ぜさいや)という薬屋があり、明治になって橋本兄弟が住んだ、というところまで明かしてきた。さらにその後を、高津神社の神職だった高津久右衛門が引き継いだ。地元の旧家の主で天下茶屋公園愛護会の会長などを務めてはる寺田靜雄さん(81)は「私らが小学校時分、高津の家を見学に行ったほど立派なもんやったんです。池もあってね」と述懐する。「その高津さんが、明治天皇が来たことをいつまでも残しておきたい、と屋敷に碑を建立したんです」

 明治天皇は住吉大社参拝の帰りの休憩などに、明治元年と明治10年の2回、橋本邸を訪れている。これを記念したのが、見たこともないから読めやしない漢字交じりの「明治天皇駐□遺址」の石碑(謎の(2))だ。□は「蹕(ひつ)という字で、「天子が行幸するときに、その道の通行人をおさえて封じこめる」という意味だ。

 「駐蹕遺址(ちゅうひついし)」の碑は1919(大正8)年の建立で、裏面には儒学者、藤沢南岳が漢文で由来を記している。南岳は通天閣の命名者でもある。「残念ながら、高津邸は空襲で焼けて、石碑も火をかぶったんでボロボロになったんです」と寺田さんが解説してくれる。

 石碑の西にある枯れた大木(謎の(3))は楠(くすのき)。「白龍(はくりゅう)さんがいると言いまんねん。誰がおまつりしたかはわかれしませんねん」と寺田さん。白龍とは白ヘビのことで、大阪では「みぃさん」と呼ばれる。こんな言い伝えがある古木はいっぱいあるが、今もお参りする人がいるという。

 高津邸は空襲で焼けて、そのあとが公園になった。庭にあったという池は、寺田さんの記憶では「25〜30年前まで公園にあった」そうだが、虫がわいたりするので埋め立てられたという。

 これで謎の二つは解けた。残るは一つ。阿倍野の地名の語源となった豪族、阿倍氏の氏寺だった阿倍寺の礎石だ。寺田さんによると、これも高津家が一枚かんでいる。

 阿倍野区松崎町の阿倍寺跡とされる所には、松長大明神というほこらがある。「その横手に、誰も寄りつかん不気味な所があって、昭和の初めの水害で、そこから礎石が出てきたんです。大明神の近くには高津さんが土地を持ってたので、礎石は高津邸に持ってきた。高津神社の神官におはらいしてもうて」。これですべての謎が解けた。といっても、解いてくれたのは寺田さんだが……。公園の歴史からも、土地の移り変わりが見えてくる。

 その松長大明神を探して、すっかり様相が一変した阿倍野を歩いた。JR天王寺駅と近鉄の間の陸橋も取り払われて、どうにも落ち着かない。あべの筋を南へ歩き、路地を東へ入ってうろうろ。

 ビルの陰に、石鳥居と常夜灯、朱色の木柵に囲われた小さなほこらがあった。なかなかの構えだ。ほこらの裏にはこけむした石垣が積まれた穴がある。「阿倍寺跡推定地」の碑もあった。寺田さんが言うように、1935(昭和10)年にこの辺りから礎石や瓦が見つかって、阿倍寺跡と考えられるようになった。

 ほこらには卵と赤飯が供えられ、灯明台にはろうそくが揺れている。大昔から連続している時間を感じることができた。【松井宏員】

653名無しさん:2012/03/08(木) 23:15:35 ID:D5mg1aXE0
孫太夫山古墳 仁徳陵と同時期
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003511711.html

堺市にある「孫太夫山古墳」について市が発掘調査を行った結果、古墳が作られた時期は、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理している古墳と同じ5世紀なかごろと見られることがわかりました。
「孫太夫山古墳」は、全長56メートルの前方後円墳で、大阪府や堺市などが世界遺産への登録を目指している「百舌鳥・古市古墳群」の1つですが、作られた時期などはよくわかっていませんでした。後円部分は宮内庁が管理していて、それ以外の場所で堺市が去年11月から発掘調査を行った結果、小型の円筒埴輪などの破片が多数見つかりました。
この古墳のすぐ近くには、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理している古墳があり、5世紀なかごろと見られる似た特徴の埴輪が出土しています。
このため堺市は、2つの古墳は同じ5世紀なかごろに作られたと見られるとしています。
またこの古墳の周囲を囲む濠の跡も確認されました。
堺市文化財課の十河良和調査第一係長は「この古墳は世界遺産登録を目指す古墳群のひとつなので、今後も調査を続け資料の蓄積を続けたい」と話しています。
今月10日には現地説明会が行われることになっています。

03月08日 06時59分

654よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/09(金) 22:40:16 ID:tIwUNxJQ0
堺・孫太夫山古墳:5世紀半ば製造、仁徳陵と同時期の埴輪 円筒など「陪塚」裏付け /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120309ddlk27040322000c.html

 堺市は、同市堺区の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に隣接する孫太夫山(まごだゆうやま)古墳の調査で、仁徳陵が作られたのと同時期の小型の円筒埴輪(はにわ)や朝顔形埴輪の破片が出土したと発表した。同古墳は仁徳天皇の副葬品などを埋葬した陪塚(ばいづか)とされていたが、今回の調査は、それを裏付ける資料となりそうだ。【内田幸一】

 調査は、仁徳陵をはじめとする百舌鳥古墳群の世界遺産登録に向けた一環。

 調査では、古墳の周(しゅう)濠(ごう)の堆積(たいせき)層から円筒埴輪などの破片が出土した。埴輪は直径20センチ程度とみられる。表面の整形の方法から、5世紀中ごろのものとみられるといい、仁徳陵が作られた時期と一致することが分かった。

 前方部の正面では転落した葺(ふ)き石も発見され、前方部の範囲がはっきりし、前方部が短いホタテ貝の形に似た前方後円墳であることも裏付けられた。

 市文化財課は「仁徳陵の陪塚である可能性が高いことが判明した。また古墳の形状や位置から計画的に築造された可能性も高い」としている。

 現地説明会が10日午後1〜4時にある。小雨決行。問い合わせは072・273・6101。

655よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/09(金) 22:44:56 ID:tIwUNxJQ0
演奏:西洋古楽と邦楽が共演 あす、17日−−大阪歴史博物館 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120309ddlk27040349000c.html

 西洋の古楽と邦楽のコラボレーションが相次いで開催される。10日午後2時「ほうがくdeバロック」と17日同「和洋の再会」。いずれも大阪歴史博物館(大阪市中央区)で。

 バロック音楽とは、17世紀初めから18世紀半ばまでヨーロッパで演奏されていた音楽。「ほうがく−−」では、ヘンデル「メサイア」や鹿児島おはら節などが演奏される。鎖国により交わることのなかった二つの音楽が300年の時を超えて交流する。出演は赤坂放笛さん(バロックオーボエ)ら。

 「和洋−−」では、オペラ「アルミード」と能「黒塚」などが演奏され、それぞれ独自に発展してきた和洋の音楽の違いを聴く。出演は能楽笛方森田流、左鴻泰弘さんら。

 いずれも1000円。問い合わせは、そう楽舎(0745・55・2478)。【宮辻政夫】

656よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/11(日) 13:06:26 ID:ZvjjRegk0
新発見の写真11枚展示 第1次大阪大空襲
2012年3月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120311/20120311040.html

 大阪市内中心部を焼き尽くした第1次大阪大空襲から今月13日で67年目となるのを前に、この空襲後の町の様子を撮った写真11枚が見つかり、大阪国際平和センター(ピースおおさか、同市中央区)で展示されている。被災したビルや寺、橋などが鮮明に映っており、歴史資料として「非常に貴重」と注目を集めている。

 写真の所有者は京都市在住の宮澤潔さん(70)で、撮影者は父・堂(たかし)さん(1908〜82年)。古写真を歴史資料として活用する作業を進めていた大阪府立大人間社会学部の中村治教授の目に留まり、昨年12月にピースおおさかに持ち込まれ、分析が進められていた。

 堂さんは望遠鏡の製造を手掛ける技術者で、プライベートでも写真を多く撮影。今回見つかった写真は電気科学館(西区新町、89年閉館)から撮ったと思われるものがあり、同館には当時、望遠鏡があったことから、潔さんは「父は自分の望遠鏡のある場所を訪れては写真を撮っていた。ここの望遠鏡にも携わっていて気になっていたのではないか」と推測する。

 ピースおおさかによると、写真からは、御津八幡宮(中央区西心斎橋)の焼けた灯籠や、無残ながれきの山の中で残った旧そごう(同区心斎橋筋)、空襲直後のためか回収されずに残っている垂れ下がった電線などが分かる。

 電気科学館から撮った写真では、旧西横堀川に架かる新町橋を正面に、後方には焼け残った難波神社の鳥居や難波別院(南御堂)の焼け跡が見える。ピースおおさかでは、堂さんが撮った同じアングルの空襲前の写真も合わせて展示している。

 中村教授は「大阪は産業都市として知られるが、空襲前の写真からは風情ある町の様子がよく分かり、空襲後の写真と見比べることで戦争が何を奪ったがはっきりする」と評価する。

 4日にピースおおさかで開かれた平和祈念イベントでは、大阪電気通信大工学部の小田康徳教授が11枚の写真をテーマに講演し、「焼け跡の写真から、空襲のひどさだけでなく、その後の人の暮らしにつながっていくということも含めて理解してほしい」と解説。

 会場には潔さんも駆け付け「電気科学館は子どものころに父に連れて来てもらい、初めてプラネタリウムを見た場所。まさか父があそこでああいう角度から写真を撮っていたとは知らなかった」と思い出話を披露した。

 展示会場を見て回った潔さんは「自由奔放で、新しいものが好きで、ものすごい多く写真を撮っている父だった。67年もたった今、その写真が何かの役に立つのであれば本当にうれしい」と話していた。

 第1次大阪大空襲 1945年3月13日深夜から14日未明にかけて、B29爆撃機が大阪の空に襲来した。ピースおおさかのまとめによると、その数は274機。市内中心部(当時の浪速区、西区、東区、天王寺区など)を焼き尽くし、被災戸数は13万6107戸、被災者数は50万1578人に上った。B29爆撃機100機以上による大阪大空襲はその後、終戦前日の8月14日まで計8回に及んだ。

657よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/11(日) 13:14:32 ID:ZvjjRegk0
なにわの宮新作万葉歌:最優秀賞に小山さん
http://mainichi.jp/enta/art/news/20120306dde018040061000c.html

 古代の宮殿跡である難波宮(なにわのみや)跡(大阪市中央区)出土の木簡に万葉仮名で書かれた「春草のはじめ」で始まる短歌「なにわの宮新作万葉歌」をNPO法人大阪府高齢者大学校が募集し、このほど優秀作品の授賞式があった。

 「なにわの宮新作万葉歌」は毎日新聞の提案に大阪市などが応えて2007〜09年に3回にわたって全国公募された。7世紀半ばの古代人が残した言葉に続けて現代人が短歌を完成させる試みで、今回は西日本各地から89首の応募があった。過去の公募と同様、優秀作品には副賞として、作品を記した木簡模造品が贈られた。

 受賞作は次の通り。(敬称略、◇は「春草のはじめ」)

 <最優秀賞>大阪市、小山外志代(74)「◇のよろこび湧き出づる身籠りしとふ子よりの電話」<優秀賞>滋賀県野洲市、本荘育緒(63)「◇に啜(すす)る白粥(しらかゆ)の椀(わん)のぬくもり心安らぐ」<佳作>大阪府茨木市、熊野治子(72)「◇に遠き外(と)つ国に嫁ぎゆく娘(こ)よ幸多かれよ」▽大阪府松原市、北川寿子(61)「◇の季節巡り来て春の日射しに手をかざしたり」▽大阪市、三原后代(72)「◇の空に凧(たこ)さがす興じし子らはすでに父となり」▽大阪府寝屋川市、峰松朱実(70)「◇の年よ古希となるわれに学びの春始まりぬ」【佐々木泰造】

658よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/14(水) 21:02:23 ID:ajGJmZjU0
第1次大阪大空襲から67年 国民学校生が供養
2012年3月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120314/20120314021.html

 太平洋戦争末期の第1次大阪大空襲からちょうど67年に当たる13日、同空襲で全焼した大阪市西区の和光寺に当時の堀江国民学校6年生が集まり、空襲の犠牲者を悼み静かに手を合わせた。

 同校の6年生は、島根県に集団疎開していたが、卒業式のために大阪へ戻り、式前日の空襲で被災。一帯は焼け野原になり、同寺境内には引き取り手のない遺体約150体が埋葬されたという。

 2008年にあらためて卒業式が行われて以降、卒業生が3月14日に供養のため自主的に集まるようになった。今年は昨年に続き、東日本大震災の犠牲者の冥福も祈った。

 当時、旧西長堀川へ逃げて助かったという瀬戸寛治さん(79)=大阪市北区=は「布団をかぶったが足元の隙間から火の粉が吹き込み、もうだめだと何度も思った」と振り返る。

 空襲で焼け出され西区に戻ることはなかったという長浜末子さん(79)=交野市=は「あかんたれだった私がここまで生きてこれたのだから、震災の被災者の人たちも決して諦めないで」と話していた。

 大阪大空襲は、1945年3月から8月にわたった、米爆撃機100機以上による8回の空襲。3月13日深夜から14日未明の第1次では、300機近くの爆撃機が襲来、焼夷(しょうい)弾で大阪市の中心部を焼き尽くした。


空襲後写真また発見 京都に次ぎ尼崎から5枚
2012年3月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120314/20120314022.html

 第1次大阪大空襲(1945年3月13日深夜〜14日未明)後の大阪の町の様子が分かる写真が大阪国際平和センター(ピースおおさか、大阪市中央区)に相次いで持ち寄られている。同センターは京都市内で見つかった写真11枚を譲り受けて公開。これを知った兵庫県尼崎市の市民が新たに5枚の写真を提供した。

 空襲被災の写真は、当時の状況を知る上で貴重な資料だが、同センター所蔵は115枚(新たな16枚を含まず)と決して多くはない。似たアングルを1枚と考えれば「100枚に満たなくなるほど」(同センター)。その大部分が第1次大阪大空襲によるもので、それ以降の空襲後の写真はない。

 公開した11枚は、所有者である宮澤潔さん(70)=京都市=の父親が撮ったもので、被災した大丸や旧そごうがはっきりと分かる。古い写真から暮らしの変容を調べる大阪府立大の中村治教授の調べで分かり、昨年12月にピースおおさかに持ち込まれた。

 宮澤さんは「父の写真は京都で家族を撮ったものが多く、空襲後の大阪の写真があり、これだけ注目を集めるとは思わなかった」と驚く。

 これを報道で知った大阪市中央区出身の中澤潔さん(72)=尼崎市=が、「以前からあるのは分かっていたが重要とは思っていなかった」という写真10枚を同センターに提供。「空襲後の写真は父がもらったもので、自分が若いころは50枚ぐらいあった。残ったのはこれだけだが、何かの役に立てば」と話す。

 同センター専門職員の常本一さんによると、中澤さんの写真は旧御津国民学校(大阪市中央区、現在のビッグステップ)の屋上から撮ったもので、同センター所蔵の「池島写真」と呼ぶ一連の提供写真に当たると判断。10枚のうち5枚が同館にはない角度からの写真で、「池島写真」を補完する貴重な資料になるという。

 うち2枚は、氏子の寄贈により難波神社(前川壽宮司、同区)にもあることが本紙取材で分かった。所有者が複数いることから、常本さんは「撮影者が何かの節目に地域の人に配ったのだろうが、今も残っているのは少なく、貴重だろう」と推測する。

 常本さんは二つの提供写真が大阪府外から出たことに着目。大阪府内ではこれまでも写真が見つかるたびに報道などで話題となってきたが、一般からの写真提供は2010年3月から止まっており、「もっと府外に目を向けるなど、探し方を工夫し、広く提供を呼び掛けながら探していきたい」と話している。

659よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/15(木) 21:40:34 ID:25hoNyPQ0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/244 安養寺−旧勝間街道 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120315ddlk27070427000c.html

 ◆大阪市西成区

 ◇近松浄瑠璃、おさんの墓 「こつま」は「舟」、昔は海岸か
 天下茶屋公園の謎も解けたし、案内してくれた寺田靜雄さん(81)に、そろそろお別れしようかと思ってたら、公園の向かいのお寺を指して「うちと縁があるんです」とおっしゃる。

 安養寺の創建は1689年。西国巡礼中の女官が寺田家に泊めてもらったのをきっかけに、庵(いおり)を結んで念仏修行、遂に出家し寺を開いた、という。

 安養寺にお邪魔してみた。墓地の中に、瓦屋根にガラス戸付きのほこらに納められた墓石がある。なにやら特別なお墓のよう。説明書きを読むと、近松門左衛門の「心中天網島」で、遊女小春と心中する紙屋治兵衛の妻おさんの墓だ。

 大当たりした近松の浄瑠璃だが、1720年に起きた実話の心中事件で、登場人物も実在した。おさんは夫の一周忌を済ませると出家し、晩年をこのお寺で過ごした。墓石には「宝暦九年」(1759年)とある。自分と子どもを捨てて遊女との死を選んだ夫の菩提(ぼだい)を、39年も弔った貞女である。

 その隣のひときわ大きい墓には「猪名川弥右衛門墓」とある。大坂相撲の力士で、浄瑠璃「関取千両幟(のぼり)」のヒーローでもある。徳島出身で1849年没。実は、猪名川の墓はもう一つある。池田市の西光寺で、こちらでは池田生まれとなっている。孤児だったのを酒どころ池田の杜氏(とうじ)が助け、長じて怪力の持ち主となり、相撲取りとなった−−。ひょっとして別の猪名川なのかもしれない。大正時代まで猪名川という名跡が大坂相撲にはあったというから。

 ここで久しぶりに大阪案内人の西俣稔さんと合流し、先へと進む。南へ歩き、南海の高架を越えた所に赤レンガの建物が現れた。「明治44年にできた変電所です」と西俣さん。その横を阪堺電車がガタゴトと通っていった。

 路地を折れて南海岸里玉出駅に出る。玉出本通商店街の中で立ち止まった西俣さんが、魚屋さんと電器屋さんの間を横切っている道を指す。「これが旧勝間街道です」。天神森天満宮の回で、茶人、武野紹鴎(じょうおう)が森を開いて紀州街道を付けたと紹介した。それまでは森を迂回(うかい)して、東の熊野街道か西の勝間街道を通らなければならなかった。

 勝間とは、最近見直されているなにわ伝統野菜の勝間なんきんで名前を耳にする。この辺りの古い地名だが、由来は何なんです?

 「こつまとは、かごのこと。昔はかごのことを堅間(かたま)と言ったんです」。信じないわけではないが、一応辞書で確かめてみる。「竹で目を細かく編んだかご。別名勝間(かつま)」と出てくる。さらに言えば、古代、竹で編んだかごのような舟を「堅間」とか「勝間」と呼んだようで、「昔は海にたくさんの舟が浮かんでいた光景がここから見えたのでしょう」と西俣さん。

 「米」や「とうふ」の看板が架かる旧勝間街道を、2人の老婦人がゆっくりと歩いていた。【松井宏員】

660よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/17(土) 04:53:27 ID:fCPF23Ss0
東成・生野で堤楢次郎絵画展 26日から 大阪
2012.3.17 02:07
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120317/osk12031702070001-n1.htm

 ■「共生」前の鶴橋描く

 大阪・鶴橋で生まれ、生涯この地を愛した日本画家、堤楢次郎(ならじろう)の絵画展「大正と昭和の鶴橋・猪飼野の世界」が大阪市の東成区役所(26日〜30日)と生野区役所(4月2日〜26日)で開かれる。

 堤楢次郎は明治29年生まれ。18歳のころから鶴橋や猪飼野を描き、昭和58年に87歳で亡くなるまで約350点の作品を残した。

 「鶴橋、猪飼野といえば日本人と韓国・朝鮮人らが共に暮らす『多文化共生の街』として知られますが、楢次郎が描いたのはそれ以前の風景」と話すのは、絵画展を主催する猪飼野探訪会副代表で小学校教諭の小野賢一さん(60)。「田園地帯から住宅、工業地帯に変わりゆく東成や生野の様子がよくわかる」と説明する。

 小野さんが楢次郎の作品に出合ったのは11年前。地元の歴史をテーマにした総合学習の教材作りの中で楢次郎の存在を知り、そこに描き出された100年前の鶴橋の色や息づかいに魅せられたという。

 昨年11月には、楢次郎の作品を管理する孫の條治さん(61)の協力を得て楢次郎の作品集「鶴橋・猪飼野画集」を自費出版した。

 今回の絵画展では、この中から旧平野川や桃谷駅を描いた作品など約20点を展示する。小野さんは「歴史資料としても価値が高い絵画。多くの人に楢次郎の存在とその作品を知ってほしい」と話している。

 作品展に先立ち25日午前10時から東成区役所で、大商大・商業史博物館の明尾圭造主席学芸員による記念講演を開催。同日午後1時からは町歩きイベント「描かれた東成・生野区を歩く」も開く(要資料代)。問い合わせは小野さん((電)072・852・8124)。

661よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 08:58:34 ID:JWXB0S1E0
海の時空館で企画展 大阪港の発展、電車で学ぶ
2012.3.18 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120318/osk12031802040000-n1.htm

 大阪港の発展とそれを支えた市電の歴史を紹介する企画展「海をめざした鉄道〜なにわの海の鉄道もけい展」が17日、大阪市住之江区の市立海洋博物館「なにわの海の時空館」で始まった。4月8日まで。

 築港発展の歴史を市電や地下鉄がどのように支えてきたかを知ってもらおうと企画した。記念切符をメーンに懐かしい写真や絵はがき、市電双六など約100点を展示。“魚釣り電車”とも呼ばれ人気があった2階付き電車「大阪市電第5号車」など、路面電車から最新の地下鉄までさまざまな車両模型も並んだ。

 実際に模型を走らせる「鉄道模型デモ運転ブース」も設けられ、親子連れらが楽しんでいた。

 午前10時〜午後5時、月曜休館(26日は開館)。入館料は大人600円、中学生以下無料。

662よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 09:00:26 ID:JWXB0S1E0
小松左京の夢たどる 吹田市立博物館で写真展 大阪
2012.3.18 02:04
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120318/osk12031802040001-n1.htm

 小説「日本沈没」などで知られるSF作家で昨年7月に亡くなった小松左京さんの足跡をたどる「小松左京写真展 宇宙に翔(はばた)く夢」が17日、吹田市立博物館で始まった。4月22日まで。

 興味深いのは、小松さんがテーマ館サブプロデューサーを務めた日本万国博覧会(大阪万博=昭和45年)の理念やアイデアを練るために文化人類学の梅棹忠夫さんらと立ち上げた「万国博を考える会」の議事録やメモなど11点約100ページの資料。小松さんの家の段ボール箱から見つかった。

 昭和39年の議事録(手書き)で小松さんは「ばかばかしい大きなスケールの話にこそ、ユニバーサル(万国共通)な理念がある」と巨大イベントを大阪で開催する夢や意義を語っている。

 このほか映画「日本沈没」に自ら出演した一場面をはじめ少年時代、阪神大震災の現地取材の様子、晩年の講演会の写真などが展示されている。

 18日は石毛直道・国立民族学博物館名誉教授らのフォーラム「小松左京を語る」がある。月曜と祝日の翌日が休館。問い合わせは同博物館((電)06・6338・5500)。

663よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 13:53:22 ID:3aHauWEY0
戸開式:生駒山に春呼ぶ−−東大阪・慈光寺 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120318ddlk27040225000c.html

 修験道の開祖・役小角(えんのおづの)(役行者(えんのぎょうじゃ))が生駒山中に開いたと伝えられる東大阪市東豊浦町の慈光寺で17日、生駒山に春を告げる「戸開(とあけ)式」があった。役行者が使っていたとされる2匹の鬼や行者らが護摩をたくと、信者らは安全や無病息災を願って手を合わせた。9月下旬の戸閉(とじめ)式まで、生駒山は修行や行楽のシーズンに入る。

 同寺は約1300年前、山中を荒らし回っていた2匹の鬼「前鬼(ぜんき)」「後鬼(ごき)」を役行者が改心させ、修験道場として創建したとされる。戸開式は修行者の遭難を避けるため、大正時代から毎年続けられているという。

 この日は修験道の修行に使われる開山堂の扉を行者らが開ける儀式の後、鬼や山伏姿の行者らが登場した。副住職の槙尾基希さん(30)は「現在では修験道の儀式は減ったが、安全を願う思いは同じ。今後も続けたい」と話していた。【稲生陽】

664よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 15:04:21 ID:3aHauWEY0
大坂冬の陣の布陣図発見、合戦直後に作成か
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120317-OYT1T00493.htm?from=main8

 1614年の大坂冬の陣の布陣を描いた絵図が東京都内で見つかった。

 豊臣家が滅びた大坂夏の陣(1615年)の絵図は江戸後期に写されたものが多く残るが、冬の陣図は珍しい。戦いの直後に描かれた可能性もあるという。

 この絵図は縦37センチ、横27センチで、表題部分は欠けている。東京・神田の古書補修業者が古書を分解中、裏紙として使用されていたのを発見した。

 徳川秀忠を示す「将軍様」、家康を示す「御所様」のほか、布陣する武将名と兵数、大坂城の堀の位置や、中之島や日本橋など地名が記されている。また、豊臣側に、実際には徳川側で参戦した武将「杉原長房 4万人」との記述があり、誤記とみられる。

 出版文化史に詳しい大東急記念文庫(東京)の村木敬子学芸員は、陣立ての描き方や紙の古び方などから、一枚刷りの「冬の陣図」としては、「大坂城之図」(江戸東京博物館蔵)に次ぐ古さである可能性が高いと指摘。入手した安土堂書店の八木正自代表(大阪青山短大非常勤講師・日本文化史)は、〈1〉速報用に絵を簡素に描写〈2〉紙を縦に使用――しているため、「瓦版」の先駆けのようなものと判断。「社会が少し落ち着いた江戸時代の攻城戦だったので、市民は遠巻きに戦見物しており、戦況を知らせれば売れると思って刷ったのでは」と推測している。

(2012年3月18日13時10分 読売新聞)

665よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 15:10:56 ID:3aHauWEY0
梶井基次郎「檸檬」の原型…幻の自筆稿見つかる
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120317-OYT1T00526.htm

 近代日本文学を代表する短編小説「檸檬(れもん)」の原型となった挿話を含んだ、梶井基次郎(1901〜32)の小説「瀬山の話」の自筆原稿74枚が見つかった。

 専門家らも長年見ることがなかった幻の原稿で、実践女子大学が東京・神田の古書店から購入、今年中にも公開を予定している。

 「瀬山の話」は、梶井が東京帝大文学部英文学科に入学した1924年(大正13年)、仲間と創刊した同人雑誌「青空」第1号に掲載するために書いたが、作品はまとまらず、この物語の一部の「檸檬」を短編小説に書き直して載せた。

 梶井が31歳で没した翌年、友人の文芸評論家・淀野隆三氏が「瀬山の話」を校訂し、遺稿として雑誌「文芸」(改造社)に掲載。自筆稿は、67年に亡くなった淀野氏が当初は保管していたとみられるが、その後所在がわからなくなった。

 自筆稿は、400字詰め原稿用紙に万年筆で書かれ、随所に推敲(すいこう)の跡がある。

(2012年3月18日13時10分 読売新聞)

666よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/18(日) 15:17:18 ID:3aHauWEY0
五穀豊穣など願い 住吉大社・祈年祭
2012年3月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120318/20120318028.html

 大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で17日、五穀豊穣(ほうじょう)と産業の繁栄を祈る「祈年祭」が執り行われ、参列者らが玉ぐしをささげるなどした。

 祈年祭に先立って境内の種貸社で神様から稲の元種を頂く神種(かむざね)祭もあり、授かった元種の御利益を得て祈年祭が執り行われ、約80人が参列した。

 雨のため、第一本宮から屋内の神楽殿に斎場を移して、コメやタイなどをはじめ海の幸、山の幸がささげられ、真弓宮司が祝詞の奏上を行った。その後、同大社の太田重彦責任役員らが代表して玉ぐしを奉納した。

 また昨年は東日本大震災の直後だったため中止となった直会が祈年祭の後、吉祥殿であり、真弓宮司が「皆さんのご健勝と繁栄を願います」とあいさつ。同大社は昨年、鎮座1800年記念大祭の節目を迎えたこともあり、太田責任役員が「皆さんこれからも支援と協力を」と呼び掛けた。


「神馬塚」の由来紹介 案内板お目見え、除幕式
2012年3月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120314/20120314025.html

 住吉大社(真弓常忠宮司)の馬をかつて放牧していた大阪市東住吉区山坂1丁目の「神馬塚」に由来などを記した案内板がお目見えし、除幕式が行われた。近隣住民ら約40人が参加し、完成を祝った。

 住吉大社では、1月の「白馬(あおうま)神事」などに古くから神の使いとして馬を使っている。同地域には昭和初期まで「神馬」が飼育されており、たてがみや遺骨が埋葬されている場所を「神馬塚」として丁重に祭っている。数年前から地域住民らの間で「神馬」に関するイベントなどが行われ、地域の歴史資産として知られるようになった。

 案内板は馬を奉納している団体「神馬講」などが提供。木製で、富山県の彫刻師、南部白雲さんらが製作し、1月に大社に納められた。神馬をイメージしたたくましい馬が躍動的に掘り込まれ、中央部に由来が記されている。

 「神馬講」メンバーの大阪府燃料卸売業協同組合の西脇利一副理事長は「地域の人にこの場所がますます愛されるようになればうれしい」と言い、日ごろ塚の掃除などを行っている近くの「うどんや風一夜薬本舗」の末廣美沙取締役は「できるだけ地域の方にこの場所を紹介し、活性化につながっていけば」と話していた。

667よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/19(月) 05:43:57 ID:nFVyyoPE0
「子持ち」の勾玉出土 寝屋川の讃良郡条里遺跡 大阪
2012.3.19 02:08
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120319/osk12031902080003-n1.htm

 古墳時代中後期(5〜6世紀)に集落が広がっていた寝屋川市新家の讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡で、宝物や祭祀(さいし)道具だったと考えられている「子持ち勾玉(まがたま)」が出土し、同市教委が18日発表した。子持ち勾玉は遺跡などから単独で出土することが多いが、500個以上の小さな玉も同時に出土。市教委は「古墳時代の祭祀を考える重要な資料になる」としている。

 子持ち勾玉は、大きな勾玉に突起状の「子」が付随したデザインで、全国で数百個の出土例があり、同市内でもこれまでに数個が出土。今回見つかった子持ち勾玉は滑石製で全長6・7センチ、重さ69・1グラム。上部にひもを通す穴がある。

 周辺からは、ひも穴のある小玉や、穴が2つ開いた板状の「双孔(そうこう)(=穴)円板」も出土。市教委は「見つかった勾玉の重量を考えると、装飾具として身に着けたのではなく、草木に掛けるなどして祭祀に使ったのではないか」と話している。

 現地説明会は24日午後1〜3時。京阪寝屋川市駅から京阪バス「楠根南町」下車。駐車場はない。当日の問い合わせは現地事務所((電)072・812・2855)。

668よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/20(火) 06:32:24 ID:lUGMc4lg0
豊臣再興を期す金箔瓦発見 京都・石清水八幡宮
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120320-OYO1T00094.htm?from=main4

 武家の信仰を集めた京都府八幡(やわた)市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で、豊臣秀吉の子・秀頼(1593〜1615)が改修した回廊(重文)の屋根瓦に金箔(きんぱく)が施されていたことが、市教委の調査でわかった。権威の象徴とされる金箔瓦が寺社で使われるのは珍しい。改修は、関ヶ原の戦いで豊臣方が敗れた6年後で、市教委は「捲土重来(けんどちょうらい)を期す秀頼の意図が読み取れる」としている。

 市教委によると、八幡宮に残る古い瓦を調べたところ、かつて回廊周辺などで見つかった3点の破片に金箔が付着しているのを確認。焼成具合などから、1606年に秀頼が回廊を改修した時のものとみられる。

 金箔瓦は城郭で多用され、織田信長が安土城(滋賀県近江八幡市)で使ったのが最初とされる。秀吉や各大名も居城に使用。権勢を示す狙いがあったという。秀頼が改修したのは豊臣家が力を失いつつあった時期で、9年後の1615年に徳川家康に滅ぼされた。

 永井規男・関西大名誉教授(建築学)の話「秀頼は豊臣家の威光を示そうとしたのだろう。緊迫した時代背景を表している」

(2012年3月20日 読売新聞)

669よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/20(火) 06:50:40 ID:lUGMc4lg0
「きれいに撮れてる?」 文楽写真展を人形訪問
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120320-OYT8T00056.htm

 人形浄瑠璃文楽の人形遣い、吉田簑二郎(みのじろう)さん、簑紫郎(みのしろう)さん、簑次さんが19日、読売新聞大阪本社1階ロビーで開催中の本紙夕刊連載「点描 文楽の素顔」の写真展を訪れ、文楽人形と共に観覧した。

 「赤姫」と呼ばれる女形の人形を携えて訪問した簑二郎さんらは、会場で来場者らに、首(かしら)の種類や内部の仕組みなどを解説。主(おも)遣い、左遣い、足遣いの3人の役割分担による操作などを実際にやってみせた。

 写真展では、2009年10月から12年1月にかけて大阪・国立文楽劇場、東京・国立劇場などで撮影した「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」「夏祭浪花鑑(かがみ)」など計12演目を紹介している。31日まで。入場無料。

(2012年3月20日 読売新聞)

670よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/21(水) 21:21:23 ID:i5v/gWF.0
難波が都でなくなってからも、この夕陽を見に貴族たちは訪れたそうです。


沈む夕日に手合わせ 四天王寺で日想観法要
2012年3月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120321/20120321025.html

 「春分の日」の20日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で西門石鳥居の向こうに沈む夕陽を拝む「日想観法要」が行われ、参詣者らは僧侶とともに般若心経を唱えて夕日に手を合わせた。

 弘法大師・空海が同寺で真西に沈む夕日を見て、西方に極楽浄土を見いだす修行を始めたことに由来する行事。毎年春分・秋分の日に行っている。

 彼岸参りの参詣者らは極楽門前に集まり、僧侶の導きで読経して極楽浄土を観想する“修行”を行った。少し日が落ちるのが遅く、読経が終わってしばらくしてから鳥居に入った太陽は黄金色の優しい光を発していた。

671よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/22(木) 21:38:51 ID:cT6DLH2E0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

明治期の大阪電話事情
2012年3月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120321/20120321049.html

明治36年3月改電話番号簿

 先日、新聞でシンガポールと日本を最短ルートで結ぶ光ケーブルが設置され、情報の行き交う速度が千分の5秒短縮されるという記事を見た。事業主はNTTコミュニケーションズ。担当者の談話では、千分の1秒の情報遅れで数百万ドル損をすることもあり、約3600億円かけたこのプロジェクトにはそれだけの意味があるのだという。

 遠隔地間の通信方法としては、日本では延享2(1745)年にはじまる堂島の旗振り通信があった。通信内容は米相場や油、金の相場だが、慶応元(1865)年、欧米の艦隊が開港を迫って大阪湾に向かった時、旗振り信号でその急を京都所司代に知らせたという。

 戦争と経済が情報の速度を問うのは今に限らない。公衆電報の取り扱いは東京・横浜間が明治2年(1869年)12月、大阪・神戸間は翌年だが、電話はその二十数年後、明治23年東京・横浜間で電話交換を開始、大阪・神戸間に至っては明治26年である。

 明治13年ごろには電報の便利さが一般に知られたが、その後インフレや不況が重なり、政府には新たに電話事業に割く財政の余裕がなかった。だが、大阪では、公的機関での直通電話の導入は早く、特に警察電話の発達が目覚ましかった。一般電話も既に機が熟していたのか、申込者が殺到、設備が追い付かず加入できない人も多かった。

 日清戦争勝利後には、第1次電話拡張計画に乗って加入者数は神戸を含めて7952人と当初の10倍以上となった。今回紹介する電話番号簿は拡張計画の終了ごろ、明治36年3月発行のものである。34年には加入者は繊維業、金属製造販売業が大きな比重を占め、当時の大阪の産業の特質がみえるが、36年には飲食関係が伸び2位になった。

 同月、大阪では第5回内国勧業博覧会が開催される影響だろうが、このことは加入者第1号が既に予告していたのかもしれない。加入申込者と異なる住所への設置を申し込む男に、申込担当者がその理由を尋ねると、その男は小指を立てて「これの家だんねん」と言ったという。「欲と道連れ」の欲に色が付いている−−これを大阪らしいとはあまり言いたくないのだが。

 (大阪商業大学商業史博物館専門職員・岡村良子)

672よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/22(木) 21:42:06 ID:cT6DLH2E0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/245 生根神社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120322ddlk27070429000c.html

 ◆大阪市西成区

 ◇商いの神様「勝間南瓜」 浜村淳さんの句碑も

 旧勝間(こつま)街道が横切る玉出本通商店街を西へ抜け、国道26号を渡ると間もなく、生根(いくね)神社が現れた。つかの間、国道の喧噪(けんそう)を忘れる。

 大阪案内人の西俣稔さんが指すのは、境内の「こつま南瓜(なんきん)塚」だ。旧勝間村の特産だったカボチャは、小ぶりで身はよくしまり、うまいと評判を取った。生根神社では、古くから冬至に「こつま南瓜祭り」が執り行われている。勝間南瓜への愛情の表れだ。無病息災を祈願するもので、今も多くの人々でにぎわう。当日は蒸した勝間南瓜を食べることができる。水気が多いのが特徴だという。

 塚のそばに「勝間南瓜石」がある。この石をなでると、「中風除(よ)け、ぼけ払い、生気、才気、商魂」によいという。生根は「しょうこん」とも読めることから商人がありがたがったとか、カボチャは中に種を抱えているから、利益が逃げないと縁起をかついだとか。ともかく商いの神様として、商都・大阪を支えてきたわけだ。

 吉見友伸宮司(43)によると、カボチャに似た形の南瓜石は戦前からあったが、戦災で失われた。1986年に氏子さんが塚を奉納した時に、南瓜石も復活させたのだそうだ。

 勝間南瓜には商売ばかりでなく、色っぽい含意もある。僧侶で作家の今東光の小説「こつまなんきん」は、南瓜の話ではない。主人公、お市のあだ名がこつまなんきん。小柄な女性の代名詞で、今東光は「女は小柄にとどめを刺すというところから、こつまなんきんという渾名(あだな)は一種の色気を含んだ雰囲気を持った代名詞となったほどだ」と記す。没落した河内の旧家の娘に生まれたお市は、その色気を武器に男を翻弄(ほんろう)しながら、宗教の教祖となったり河内音頭の芸人となったりして世を渡っていく。映画にもなった。

 境内をぶらぶらしていたら、朝のMBSラジオでおなじみ、「ありがとう」の浜村淳さんの句碑を見付けた。

 「いざうたえ だいがく音頭に 夏の月」

 吉見宮司に尋ねると、「当社には『だいがく』というのがありまして、雨ごいの神さんなんですが、浜村さんは毎年、だいがくが出る7月の夏祭りに、福笹(ふくざさ)の授与に来られてるんです。もう35年以上も」。

 だいがくとは「台楽」とも書く。御神灯や鈴を飾り付けた高さ20メートルもあるやぐらで、昔はこれを担いで、太鼓を打ち鳴らしながら村を練り歩いたという。明治の頃はこの周辺に6基あったが、戦災で焼失し、現存するのは生根神社の1基だけで、府の文化財に指定されている。

 浜村さんは一昨年、福笹授与35年の節目に、神社の求めに応じて句を奉納したのだ。浜村さんにうかがうと、「日本の祭り」というテレビ番組の司会をした時にだいがくを知り、興味を持って夏祭りに足を運んだのがきっかけで、毎年参加するようになった。

 「だいがくというものが面白い。優しい優美なものではないんです。なんともいえないデザインで、これを若い男の子たちが音頭に乗せて揺すりまくるんです。頑張って生きていこやないか、という浪花のパワーをひしひしと感じるんです」

 生根さんとだいがくに「ありがとう」なんですね。【松井宏員】

673よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/22(木) 22:14:02 ID:cT6DLH2E0
「愛珠幼稚園」園舎を公開 来月21日 建物解説やピアノ演奏も 大阪
2012.3.22 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120322/osk12032202060004-n1.htm

 国重要文化財建造物の「大阪市立愛珠(あいしゅ)幼稚園」園舎(同市中央区)が4月21日に一般公開される。学芸員による古い園舎の解説のほか、明治期に購入されたドイツのイルムラー社製グランドピアノの演奏が行われる。

 愛珠幼稚園の園舎は明治34(1901)年に完成した国内最古の現役幼稚園施設。学校建築では珍しい御殿風の建築で、内部は採光と通風を良くするなどの工夫が見られる。

 公開時間は午後1〜4時で約30分に1回、建物解説とピアノ演奏がある。入場無料。問い合わせは市教委文化財保護担当((電)06・6208・9030)。

674よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/23(金) 21:46:05 ID:JG2WaV8E0
霊気強い?デコボコ勾玉
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120323-OYT8T00051.htm

寝屋川・四條畷 讃良郡条里遺跡

 寝屋川市と四條畷市にまたがる讃良(さら)郡条里遺跡の古墳時代(5〜6世紀)の集落跡で、祭祀(さいし)の道具とされる「子持勾玉(こもちまがたま)」が、両市教委と府文化財センターの発掘調査で見つかった。小さな玉や二つの穴があいた円盤も一緒に出土し、寝屋川市教委は「集落内での祭祀の様子を知る上で重要な発見」としている。

 子持勾玉は側面などに小さな突起があることが名前の由来で、玉としての霊気を増すためと考えられている。発掘されたのは一つ。濃い緑色の滑石製で、長さ6・7センチ、幅2・8センチ、重さ69・1グラム。上部にひもを通す穴(直径6ミリ)があいていた。

 小さな玉は500個以上見つかり、円盤(直径2〜3センチ)は10個以上あった。いずれも滑石を用いていた。

 遺跡からは弥生時代の集落や水田も見つかっており、24日午後1時〜3時に現地説明会が開かれる。

 小雨決行。問い合わせは、寝屋川市教委文化スポーツ振興課(072・838・0188)。

(2012年3月23日 読売新聞)

675よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/24(土) 04:52:00 ID:qtdVaeR.0
満開の桜の下で 能の魅力感じて 来月7日、中大江公園でお茶会 大阪
2012.3.24 03:47
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120324/osk12032402220000-n1.htm

 満開の桜の下、能の舞と野だてを楽しむ恒例の「桜まつりお茶会」が4月7日、大阪市中央区の中大江公園で開かれる。園内に舞台が設けられ、「羽衣」が上演される。

 この催しは、同公園の近くにある山本能楽堂が「花見とともに古典芸能にも親しんでもらおう」と平成20年、中大江校下社会福祉協議会が主催する桜まつりで能の演目を上演したのが始まり。昨春は東日本大震災のため中止された。

 当日は園内のあずまや付近に畳を敷き詰めて舞台を作り、観世流能楽師の山本章弘さん(51)らが羽衣伝説をもとにした人気曲「羽衣」をダイジェストで披露する。

 山本能楽堂は、能楽に触れたことのない若い世代にも伝統文化に親しんでもらおうと「ストリートライブ能」を開くなど普及活動に熱心。「美しい桜の下で能楽の魅力を身近に感じてほしい」と話している。

 開演は午前11時45分。入場無料。雨天の場合は中大江小学校で行う。問い合わせは中大江校下センター((電)06・6910・7986)。

676よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 11:53:04 ID:u.4oTJaA0
16−17世紀の甲冑並ぶ 「日欧のサムライたち展」
2012年3月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120324/20120324040.html

 大阪城とオーストリアのエッゲンベルグ城の友好城郭提携3周年を記念した特別展「日欧のサムライたち−オーストリアと日本の武器武具展−」(24日〜5月6日、大阪歴史博物館)の内覧会が23日、報道関係者らを招いて大阪市中央区の同博物館で開かれた。16〜17世紀にかけての日本と欧州の甲冑(かっちゅう)などが展示されている。

 2006年にオーストリア・シュタイヤーマルク州グラーツ市のエッゲンベルグ城の一室に飾られていた絵画が、豊臣時代の大阪城と城下町を描いたびょうぶであることが判明したのを記念し、09年に大阪市と同州立博物館ヨアネウムとの間で、二つの城の友好城郭提携が締結されている。

 今展では同州立博物館から、男性の衣服の意匠を参考に作られた「貴人の四分の三甲冑」をはじめ、当時のエッゲンベルグ城の様子を伝える版画など46点を出展。大阪城天守閣が所蔵する豊臣時代のものとされる「色々威二枚胴具足(いろいろおどしにまいどうぐそく)」や「長篠合戦図屏風(びょうぶ)」など38点が展示されている。

 期間中は火曜日休館。観覧料は特別展のみの場合大人千円、高校・大学生700円。

677よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 12:30:20 ID:u.4oTJaA0
鶴橋・猪飼野 原風景淡く
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120324-OYT8T00039.htm

大正、昭和の日本画家 堤楢次郎氏

 大正から昭和時代の鶴橋、猪飼野地区(大阪市生野区などの平野川沿い)を描いた日本画家、堤楢次郎(ならじろう)氏(1896〜1983年)の作品約300点が見つかった。今は見ることのできない当時の町並みや、住民の生活を水彩などで柔らかなタッチで描いている。25日から、東成区役所などで絵画展や講演会が開催される。(梶多恵子)

 堤氏は、鶴橋、猪飼野周辺の風景を精力的に描いたことで知られるが、地元の小学校に寄贈した作品など、20〜30点しか公表されていなかった。

 堤氏の絵に興味を持った大阪市立小の教諭で、郷土史を研究している小野賢一さん(61)が、同市生野区内の堤氏の孫の條治さん(62)宅を訪ね、約300点が保管されていたことがわかった。

 作品は、今は埋め立てられた大正時代の旧平野川や周辺の民家、桃谷駅(現・JR桃谷駅)に停車する蒸気機関車や大阪砲兵工廠(しょう)の建物など、当時の日常が描かれている。堤氏は作品の裏に、「絵を見るのではなく大正時代の鶴橋を見てください」と記したメモを残していた。

 大阪市史編纂所の堀田暁生所長は「人々や民家のたたずまいなどの当時の様子を知ることができる貴重な資料」と評価している。

 作品の一部は、東成区役所(25日〜30日)、生野区役所(4月2日〜26日)で展示されるほか、3月25日には、午前10時から東成区役所で講演会と、描かれた地域を歩くフィールドワークが行われる。無料。問い合わせは、小野さん(072・852・8124)。

(2012年3月24日 読売新聞)

678よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 12:31:57 ID:u.4oTJaA0
意外なええもん 富田林で再発見
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120325-OYT8T00084.htm

駅周辺でツアー

 富田林市中心部の商店街を巡る「ええもん・ええとこ再発見ツアー」が24日、近鉄富田林駅周辺で行われた。午前と午後の2部に計24人が参加、重要伝統的建造物群保存地区として観光客に人気がある寺内町周辺を歩き、街の魅力に触れた。

 地元のまちづくり協議会が初めて企画。「健康と自然を見直すスローライフツアー」のテーマで行われた午後の部では、有機栽培の栗を使った天津甘栗販売店や創業55年の電器店など7店を10人が訪れた。

 生花店では店主が「花束の注文を受けた場合はどんな場面で使うか尋ね、どんな花にするか考える」など、気配りをしていることを説明。自然食品販売店では大豆を原料にした肉のような味の食品を試食した。

 同市出身の吹田市千里山、関西大3年東祥平さん(21)は「古い街並みが好き。何気なく通り過ぎがちな道沿いに面白い店がたくさんあることがわかった」と話していた。

(2012年3月25日 読売新聞)

679よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/25(日) 12:43:46 ID:u.4oTJaA0
28古墳の出土品ずらり 開館1周年の特別展 大阪・今城塚古代歴史館
2012.3.25 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120325/osk12032502020002-n1.htm

 「大王の陵墓」といわれる今城塚古墳(国史跡)の出土品を展示する高槻市郡家新町の市立今城塚古代歴史館で、開館1周年記念特別展「阿武山古墳と牽牛子塚(けんごしづか)古墳−飛鳥を生きた貴人たち」が開かれている。5月13日まで。

 阿武山古墳は高槻市の山間部で昭和9年に発見され、ミイラ化したほぼ完全な遺体1体と玉枕、金糸、絹織物などが出土した。その後の研究で遺体は「大化の改新」(645年)の立役者のひとり、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の可能性が高いとされる。

 同古墳発掘時の写真や副葬品のガラス玉製の玉枕(復元)のほか、鎌足が仕えた斉明天皇の陵墓とされる奈良県明日香村の牽牛子塚古墳など大阪、奈良両府県の28古墳の出土品や資料300点以上が展示されている。

                   ◇

 開館1周年記念イベントが25日に同歴史館と今城塚古墳公園で行われる。同市出身の男子フィギュアスケート選手、織田信成さんが「一日館長」を務め、8万2千人目の来館者に記念品が贈られる。

 問い合わせは同館((電)072・682・0820)。

680よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/27(火) 21:40:43 ID:M4Yi7uZM0
能の会:能楽シテ方観世流・寺澤幸祐さん、長男と共演 31日、大阪能楽会館で公演 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120327ddlk27040438000c.html

 能楽シテ方観世流、寺澤幸祐(こうすけ)さんと小鼓方大倉流、久田陽春子(やすこ)さんの「能の会」第2回公演が31日午後1時、大阪能楽会館で開かれる。2人とその長男、寺澤拓海さん(12)が「烏帽子折(えぼしおり)」で共演する。

 「烏帽子折」は元服する牛若を描く。当時は元服して成人になると烏帽子をかぶるので牛若が烏帽子屋を訪れると、主人(幸祐さん)は源氏ゆかりの者で祝福する。その後、盗賊の熊坂長範(幸祐さん)一味が牛若を襲うが、みな牛若に切られる。牛若の役は能の子方(子役)卒業の大役。陽春子さんは小鼓を打つ。

 幸祐さんは「牛若は出ずっぱりで1曲通して緊張感を持続するのが難しい」と話す。陽春子さんは「研さんの会ですが、次世代へのステップの場になれば」と言い、拓海さんは「牛若のように堂々とやりたい」と元気いっぱい。

 他に、東日本大震災の被災者鎮魂の意味を込めた半能「高砂」(井上裕久さん)などを上演する。5000〜8000円。問い合わせは事務局(0797・22・0375)。【宮辻政夫】

681よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/03/27(火) 23:21:13 ID:M4Yi7uZM0
大阪万博へ 燃えた討論
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120327-OYT8T00060.htm

小松左京さん宅に議事録

 1970年の大阪万博開催に先立つ60年代、作家や芸術家、学者ら関西の文化人有志を中心に自由な立場で討議を重ねた「万国博を考える会」の議事録が、昨年7月に亡くなったSF作家小松左京さんの府内の自宅で見つかった。万博のテーマ「人類の進歩と調和」が打ち出された過程に迫る貴重な資料。吹田市立博物館で開催中の「小松左京写真展――宇宙に翔(はばた)く夢」で公開されている。(西田朋子)

 発見されたのは、青焼き印刷の冊子や手書きメモ類など計10点(約100ページ)。非公式の集まりである同会については、小松さんらが回想記で言及しているが、詳細な中身は知られていなかった。

 それによると、大阪万博の開催決定より11か月早い64年6月に、小松さんらが「準備会」として活動を開始。同年10月作成の趣意書には漫画家の手塚治虫さん、SF作家の星新一さんらも名を連ね、「民衆の知恵を結集し、見本市の規模を超え(開催後に)国連本部を誘致するくらい雄大なことをしないと人は集まらない」とある。

 メンバーの一人で、当時、京都大学人文科学研究所助手だった評論家の加藤秀俊さんは、「大阪開催の博覧会が、東京の官僚に指導されるのは関西文化にとってまことに心外。大阪は民間主導で、という機運と切迫感があり、関西の学界の知恵を集めた『考える会』が発足した」と振り返る。

 65年3月の「考える会」では、候補地として千里丘陵のほか大阪南港、琵琶湖畔、神戸港などを挙げ、来場者3000万人を見込んで新空港を含む交通網整備などの必要性を指摘。同年10月の「第1回総会」では、後にテーマ館展示プロデューサーに就任する芸術家・岡本太郎さんが「個人が部品化、分業化された近代社会において、未来に向けて個人を超えた芸術・作品を作り上げるとすれば、それは博覧会」と発言した。

 こうした議論を踏まえ、人類学者の梅棹忠夫さんらメンバー有志が徹夜を重ね、翌月パリで開催される国際万国博理事会に向け、「テーマと基本理念」の草案をまとめたという。

 吹田市立博物館の小山修三館長(国立民族学博物館名誉教授)は「学問は広く世界とかかわるべきだ、という60年代の刺激的な空気とメンバーの熱い思いが伝わってくる。現代の関西文化の原点を、多くの人に知ってもらえれば」と話す。

 4月22日まで。無料。開館は午前9時30分〜午後5時15分。4月2、9、16日は休館。問い合わせは同館(06・6338・5500)。

 大阪万博

 正式名称は日本万国博覧会。世界77か国と国際機関、都市、企業などが116の展示館を出展。70年3月15日〜9月13日の会期中、約6422万人が訪れた。原始から未来に向かう生命の素晴らしさを表現するテーマ展示館は、地下展示場から高さ70メートルの「太陽の塔」内部を通り、大屋根の空中展示場を観覧する構造だった。

(2012年3月27日 読売新聞)

682よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/01(日) 13:53:10 ID:hlQdgRgU0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

有名両替屋の所在地
2012年3月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/120328/20120328046.html

手形便覧

 天王寺界隈(かいわい)の古書店の目録に「手形便覧」が掲載された。その本屋を訪れ、店主にその話を向けると、「皆、よう知ってますなぁ」。午前中に4、5人から引き合いがあったが、最初の注文者の手に落ちたという。この言葉に精気を失い、私は黙り込んで数分後に店を後にした。もう40年は経過しただろうか。思い出すといまだに惜しい気がする。

 古書店は、平等を期するために、目録を市外に早く、市内は遅れて発送する。目録が届くと同時に血眼になって目を通す。他人よりも早く目的の史料を見つけると、直ちに発注しなければ史料を入手することはできない。

 目録買いが難しいのは、現物を見ずに資料の保存状態や内容、金額の妥当性を考慮して判断をしなければならないことだ。常に古書と向き合っていても知らない本はいくらでもある。当時の私は若くて、この本の存在を知らなかったのである。

 「手形便覧」は大阪の両替屋の名前と住所を記した横長の冊子(三切本)で、寛政11(1799)年に初めて刊行された。手形取り扱いの便宜に供するためのもので、内容は若干異なるが、十人両替、本両替、南両替、銭両替、遣来(やりくり)両替屋などの代表的な店名と町名が記載され、有名両替店の分家・別家も一目でわかる。これ以後は一紙もので「大阪両替屋所附」=文政11(1828)年=「大阪両替手形便覧」=天保14(1843)年=等がある。

 大阪には多くの手形が回っていた。大手形・預かり手形・振出手形・振差紙・約束手形・為替手形等、種別も多い。金や手形を江戸や地方とやりとりするのには飛脚を使う。

 ここに挙げた「大阪両替手形便覧」=安政4(1857)年=は、「山」形に「中」と書かれた島屋佐右衛門の商標があり、正月の刊期からみて、「お年玉」として関係者に配布したようである。

 島屋は江戸の京・大阪宛ての定飛脚問屋で、大阪の組合店が元禄14(1701)年に作った江戸の飛脚宿であり、金銀逓送を行った。本店は江戸瀬戸物町で、上州・奥州・函館・越後などに出店を展開した。明治期には陸運元会社に参加、のちの内国通運会社(現在の日本通運の前身)になった。

 (大阪商業大学商業史博物館元学芸員・小田忠)

683よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 05:57:41 ID:j3dAegs.0
日欧の戦いの歴史紹介 歴史博物館で特別展 大阪
2012.4.4 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120404/osk12040402030002-n1.htm

 16〜17世紀の日本とオーストリアの“戦い”に関する資料を集めた特別展「日欧のサムライたち」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。東西の戦いの歴史や戦闘方法などを分かりやすく比較、紹介している。5月6日まで。

 大阪城とオーストリアのエッゲンベルグ城の友好城郭提携3周年を記念し、同博物館と大阪城天守閣が合同で企画した。

 見どころは、同時代の日本と欧州の武器や武具の比較展示。オーストリアからは、州立博物館ヨアネウムなどに所蔵される神聖ローマ帝国時代の甲冑(かっちゅう)や長槍(やり)、銃などの武器・武具や、当時のエッゲンベルグ城や戦闘の様子を描いた版画など46点が並んだ。

 日本側からは、大阪城天守閣などが収蔵する、室町時代から江戸時代にかけての合戦図屏風(びょうぶ)や、真田幸村らが用いたと伝える甲冑など38点が紹介されている。

 特別展の観覧料は大人千円、高校・大学生700円、中学生以下無料。火曜休館。問い合わせは同館((電)06・6946・5728)。

684よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 21:16:53 ID:9efkOlQI0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/246 江戸川乱歩寓居跡 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c.html
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c2.html

 ◆守口市

 ◇時の流れに建物消え 近くに説明板あれば

 前回まで阿倍野から玉出へと歩いて、ふと気付けば、この連載も8年目に突入した。この間に、残念ながら消えてしまったものもある。歌の文句じゃないが、「時の流れを恨むじゃないぞ」などとつぶやきながら、しばし、そんな所をたどってみる。

 連載16回目(06年1月)で取り上げた守口市の「江戸川乱歩の家」。地下鉄谷町線・守口駅2番出口を上がってすぐの所に、古びた洋館があった。名探偵・明智小五郎と怪人二十面相の血湧き肉おどる推理小説を生み出した江戸川乱歩が、1924(大正13)年から2年間、住んでいた家だった。明智小五郎が初めて登場する「D坂の殺人事件」はこの時期に書かれており、名探偵が生まれた家でもあった。

 久しぶりに訪ねてみると、マンションと洋風の民家に変わっていた。一昨年に建て変わったようだ。産婦人科医だった大野正さんが所有していて、80年に乱歩が住んでいたことがわかってから、資料を集めては訪ねてくるファンを案内していた。取材した時は亡き夫に替わって奥さんが、この家を守っていた。

 その頃は既に開放されていなかったが、家の中を見せてもらった。2階が乱歩の書斎で、ここで天井の節穴を眺めていて着想したのが、節穴から毒薬をたらして人を殺すという「屋根裏の散歩者」だった。大阪生まれの推理作家、芦辺拓さんは取材で本当にこの家の天井裏に入ってほこりだらけになったという。

685よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 21:20:48 ID:9efkOlQI0
>>684

http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c3.html
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120405ddlk27070418000c4.html

 老朽化が激しく、国道脇という一等地でもあって、一昨年に建物は解体し、建て替えたという。資料類は保管しているそうだ。それは致し方ないが、守口市にはひとつ注文をつけたい。地下鉄の改札を出た所の地図にも、元寓居脇の遊歩道の標識にも「江戸川乱歩居住跡」などとあるのだが、当の場所の表示も説明もない。大野さんが作った説明板があることはあるのだが、物陰に隠れていて人目に触れない。

 何も残っていないし、今は一般の方が住んでいるから、場所を明示するのは難しいかもしれない。しかし、すぐ近くの遊歩道の起点に、ちょっとした緑地のような空間があるので、そこに「乱歩寓居跡」の説明板を据えることくらいはできるだろう。何もなしでは、大野さんご夫婦が守ってきた厚意が報われない。

 芦辺さんは当時の取材に「行政が関わって、書斎を再現するなど保存すべき」と語っておられた。それができなくなったいま、せめてできることをしてほしい。【松井宏員】

686よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/05(木) 21:58:41 ID:9efkOlQI0
巨大な仁徳陵、見えた! 50年ぶり、堤の樹木伐採
2012.4.5 16:18
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120405/osk12040517330011-n1.htm

 仁徳さん、すっきり−。日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵(大山古墳、堺市)で5日までに墳丘の“目隠し”となっていた堤防の樹木が一部伐採され、木立の間から巨大な前方部のシルエットが見えるようになった。

 管理する宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所によると、伐採は少なくとも50年ぶり。「見えない天皇陵」の大変身に、市民や春休みで訪れた親子連れには「墳丘がいかに大きいか初めて分かった」「圧迫感がなくなり、すっきりした」と好評だ。

 3重の周濠に挟まれた二つの堤防にはカシなどがびっしりと生えており、これまでは内側の堤防(内堤)上にある拝所から、前方部のごく一部が見えるだけだった。

 伐採したのは、拝所周辺の約120本。枝が広がりすぎたものや倒れそうな古木を同事務所の陵墓職員が慎重に見定め、間引くように切った。

687よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/06(金) 05:33:33 ID:Xer6aqs20
国立文楽劇場前で除幕式 高津の「二ツ井戸」復元 大阪
2012.4.6 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120406/osk12040602000000-n1.htm

 織田作之助の小説「夫婦善哉」にも登場する文楽発祥の地、大阪市中央区の高津(こうづ)地区にかつてあった井戸「二ツ井戸」が同区の国立文楽劇場前に復元され、5日、除幕式が行われた。

 町の歴史と文化を再評価することで町の魅力を高めようと、同地区の住民らで組織する二ツ井戸復元実行委員会などが企画した。

 二ツ井戸とは、長方形の石の井げたの真ん中を石板で仕切った井戸のことで、2つの井戸が隣接していたことからこう呼ばれた。江戸時代の文献にも記載されている由緒ある井戸で、当時は近隣住民の生活用水として利用され、明治5年からしばらくは「二ツ井戸町」という町名にもなったが、明治22年の道路拡張の際に埋設された。

 復元された二ツ井戸は縦約1・1メートル、横約1・9メートルと当時の約8割の大きさ。実行委員長の金田(かなた)次郎さん(68)は「地域の歴史遺産、観光遺産として後世に伝え続けたい。町おこしのきっかけとともに、ミナミの新たな魅力になれば」と話していた。

688よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 06:49:06 ID:LWSczBNs0
弥生期復元建物 暴風雨で倒壊 和泉の史跡公園
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120407-OYT8T00048.htm

 和泉市の池上曽根史跡公園で、弥生時代(約2000年前)の姿をイメージして復元された掘立柱建物(約20平方メートル)が、3日の暴風雨で倒壊していたことがわかった。市教委は修復を検討する。

 市教委によると、3日午後1時30分頃、住民が市教委に通報した。建物は10本の柱(直径約20センチ)で茅葺(かやぶ)き屋根を支えていたが、全ての柱が根元から折れ、横倒しになっていた。市教委は周囲にロープを張り、近づけないようにしている。

 池上曽根遺跡は弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落跡で、1976年に国史跡に指定された。同公園は2001年5月に整備され、5棟が復元された。他の4棟は倒壊していない。

(2012年4月7日 読売新聞)

689よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 06:55:37 ID:LWSczBNs0
我が国最古の寺、四天王寺。
四天王寺の悠々たる時の流れの中で見る桜は、また一味違うのかもしれません。
時間のある方は日曜日の今日、行かれてみては如何でしょうか。


極楽もうすぐ満開 四天王寺
2012年4月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120407/20120407036.html

 6日の大阪市は最高気温11・7度と平年を6度余り下回り、3月上旬並みの肌寒い一日。それでも各地のサクラはようやく花開き、確実に春の足音を刻んでいる。

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺では、境内のサクラが見頃に。一般公開している極楽浄土の庭(本坊庭園)に並ぶ約100本のサクラは、週末から来週初めにかけて満開のピークと予想されている。

 中心伽藍(がらん)と六時礼讃堂の西側、参詣客らの休憩所となっている和労堂前の丸池周辺に並ぶサクラも七分咲きとなっており、記念撮影する観光客や写真愛好家の姿が見られた。

690よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 10:03:42 ID:.Am/9SmU0
岸和田城周辺がリニューアル
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003682731.html

桜の名所として知られる大阪・岸和田市の岸和田城周辺に観光客を呼び込もうと、新たに芝生の広場や石畳の道などが整備されました。岸和田城は、誰が建てたのかはわかっていませんが、豊臣秀吉の天下統一の際は大阪南部の拠点として重要な役割を果たしました。
現在の天守閣は昭和29年に再建され、桜の名所として知られています。
岸和田市は、観光客を呼び込むため、国や府から補助を受け4億円あまりをかけてお城周辺の広場や歩道を新たに整備ました。
このうち、「二の丸広場」には、新たに芝生エリアが作られたほか、無料の休憩施設や飲食店を併設した「観光交流センター」が新築されました。
このセンターは内装工事を終えた後、5月ごろにオープンするということです。
また、以前は砂利道だった天守閣への入り口やお堀沿いの歩道が石畳の道となり、訪れた人たちが快適に散策できるようにしたということです。
岸和田市観光課の中島剛さんは、「岸和田城は花見のシーズンになるとお客さんも多く、桜がたくさん咲いていますので、これからのシーズンにぜひ来ていただきた」と話していました。

04月08日 08時00分

691よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 18:41:22 ID:o6TNPu4U0
関西パワースポット、春はピクニックがてら「すみよっさん(住吉大社)」へ
http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/googirl/2012/04/post-1118.html

 長く寒い冬が終わり、春の訪れを感じることが増えた今日この頃。「暖かくなったら何しようかな」、「春になったらどこにいこう・・・」そんな楽しいことを考えることも多くなりましたね。そこで今日は関西の人にお友達とぜひ足を運んで欲しいスポット&オススメのまわり方をご紹介したいと思います。

「住吉大社」に行ったことはありますか?

 大阪の人々に「すみよしさん」、「すみよっさん」などの愛称で親しまれている「住吉大社」。商売繁盛をお願いする大阪商人たちがよく訪れる場所でもありました。今でも初詣には毎年200万人の人が訪れる場所でもあります。
 商売繁盛以外にも境内にはたくさんのお社や文化財があり、恋愛成就から勝負運や交通安全などを願うことができると、現在は若い女性たちの間でパワースポットとしても有名です。

女友達といくならまず美味しいお買いものを!

 仲の良い女友達と住吉さんにいくのならば、まずはお昼前になんば高島屋地下入り口で待ち合わせしましょう。まずはここでピクニックの準備です。住吉大社の向かいには「住吉公園」という大きくのどかな公園が広がっています。せっかく暖かい気持ちの良い気候になったのですから、外でおいしいご飯を食べてピクニック気分を楽しみましょう!
 高島屋デパ地下にてお昼ご飯に最適なお惣菜を買って行きます。焼きたてのパンでできたサンドウィッチ?それとも春野菜を使ったサラダ?揚げたてのコロッケ?もちろんスイーツも!なんでも揃っちゃいます。思う存分買ったら、南海線で住吉大社駅へと向かいます。25分ほどで到着です。

住吉公園にてお弁当広げてピクニック!

 駅についたらホームの自販機やコンビニでお茶を買って、目の前に広がる住吉公園へ。緑が多くベンチも多い公園ですから、軽く歩けばお昼ごはんを広げる場所はすぐに見つかるでしょう。そこで買ってきたお惣菜を友達と喋りながら食べるとピクニック気分満点!このあと行く住吉大社10 件で何をお願いするか相談してもいいですね。

692よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 18:43:39 ID:o6TNPu4U0
>>691

住吉大社で「五所御前」GO!

 お腹が満たされたら住吉大社へ!その広さにびっくりするはず。国宝でもある御本殿はもちろん、川端康成の小説の舞台になった住吉大社の「反橋」など見所たくさん!しかしせっかく女友達と訪れたのだったら、「五所御前」に行きましょう。
 別名「高天原 (たかまがはら) 」とも言われる杉の木があります。そこには石が敷き詰められており、その石の中には「五」・「大」・「力」の漢字が書かれている石があります。この石を3つ集めると、「五大力」=体力・智力・福力・財力・寿力が得られるのだとか。たくさんの石の中からこの文字が書いてある石を一つ一つ探すのはなかなか大変!ですがここは友達と力を合わせて探し出し、3つの漢字を揃えましょう。わいわい言いながらだと探す作業も楽しいもの。
 この見つけ出した3つの石は授与所で袋を買ってその中に入れると、お守りとして持つことができます。300円で買え、小さい巾着のようで可愛いお守りなのでいい記念になります。

 ほかにもいろんな周り方ができる住吉大社。パワースポットでパワーをチャージしたい人はもちろん、大阪に住みながらもまだ行ったことがない人や、女友達とどこかお出かけしたい、そんな人にもオススメです。

▽ 住吉大社駅とその周辺のグルメ・お土産・みどころ・イベント情報[あきない住吉参り]

ライター:宮野茉莉子
証券の営業を経て、現在フリーライター&子育て中。読書、写真、旅、お酒、哲学が好き。「哲学=アート。自由▽ オリジナリティー▽ 実験的に物事を考える。がモットー。

693よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/08(日) 19:45:43 ID:WDtcA4bc0
>飛鳥時代に聖徳太子や斉明天皇などが道後温泉に訪れたという伝説にちなみ、朱、緑、黄色を基調に
>四天王寺(大阪府)や


「飛鳥の湯」松山市に提言へ 道後温泉第3の外湯
2012.3.28 02:04
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120328/ehm12032802040001-n1.htm

 ■本館の2倍以上、露天風呂も

 松山市の道後温泉周辺の観光関連業者や住民などで作る団体「道後温泉誇れるまちづくり推進協議会」(宮崎光彦会長)は27日、松山市の子規記念博物館で臨時総会を開き、道後地区の活性化を目指して道後温泉本館、椿の湯に続く第3の外湯「道後 飛鳥の湯」の建設を松山市に提言することを満場一致で決議した。同市への提言は30日に行われる見込み。

 「飛鳥の湯」は敷地面積約2840平方メートルで、道後温泉本館の2倍以上。近隣のホテル椿館別館の敷地(同市鷺谷町)が第1候補地にあげられている。

 建物は飛鳥時代に聖徳太子や斉明天皇などが道後温泉に訪れたという伝説にちなみ、朱、緑、黄色を基調に四天王寺(大阪府)や法隆寺(奈良県)など、飛鳥建築のイメージを取り入る。

 温泉は男女合わせて176平方メートルの内湯と285平方メートルの露天風呂があり、女湯の内湯では古代の入浴着をもとにデザインした「湯帳」を着て入浴するスタイルも新サービスとして盛り込まれる。建設や土地の所有・借地は同市、運営管理は指定管理制で民間に委託し、経営は道後温泉本館、椿湯と複合させて行うことなども提言する予定。

 宮崎会長は「飛鳥の湯は道後温泉本館の改修工事に伴う代替施設ではない」としたうえで「100年後も誇れる道後温泉のシンボルとして、早期実現を目指したい」と力を込めた。

694よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/10(火) 02:25:35 ID:ivC1zZaU0
百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録へ PRピンバッジ 大阪
2012.4.10 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120410/osk12041002010004-n1.htm

 ユネスコの世界遺産暫定一覧表に記載されている巨大古墳群「百舌鳥(もず)・古市古墳群」について、堺市は世界文化遺産への登録の重要性をPRするピンバッジを作製し、9日に販売を始めた。

 同古墳群は、堺市の百舌鳥古墳群と、羽曳野、藤井寺両市にまたがる古市古墳群からなる。バッジは縦が最大で1・7センチ、横2・5センチ。百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵をモチーフにし、「堺」の文字も配したデザインで、「百舌鳥古墳群のあるまち堺」をPRしている。

 価格は1個500円。市内の観光案内所や市産業振興センター、堺伝統産業会館のほか、東京・有楽町の大阪百貨店堺産品展示販売コーナーなどでも扱っている。市は売り上げの一部を、市の世界文化遺産登録推進基金に積み立てる方針。

695よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/12(木) 06:00:32 ID:zpjtFojM0
春の大古本祭り28日から テーマは「1960年代」 大阪・四天王寺
2012.4.12 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120412/osk12041202060000-n1.htm

 関西の古書店29店が出店する「春の大古本祭り」が28日〜5月3日、大阪市天王寺区の四天王寺境内で開かれる。古書を身近に感じてもらおうと、関西古書研究会と同寺が毎年春と秋の年2回開催している。

 今回は「リメンバー1960年代」をテーマにさまざまなジャンルの古書約50万点が並ぶほか、昨年秋の古本祭りで好評だった「災害支援チャリティー本コーナー」も開設。

 注目されるのは、1881年に発行されたケイト・グリーナウェイのマザーグース絵本や、飛行船ツェッペリン号から撮影された戦前の映画「空中世界一周」のポスターなど。19〜20世紀のイラスト入り雑誌も多数出品されるという。

 午前10時〜午後5時(最終日は午後4時まで)。問い合わせは大仙堂書店((電)072・994・8852)。

696よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/13(金) 05:25:27 ID:OYy9pwDE0
世界遺産へ民間推進協 百舌鳥・古市古墳群 大阪
2012.4.13 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120413/osk12041302020002-n1.htm

 百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界遺産登録を目指して関係の府、堺市、羽曳野市、藤井寺市で構成する「登録推進本部会議」が12日、府咲洲(さきしま)庁舎(大阪市住之江区)で会合を開いた。「オール大阪」での登録推進の機運を盛り上げるため、民間団体による協議会を設立することなどが決まった。

 「本部会議」は昨年5月に発足。会合は2回目となる。府と3市の関係者らが出席し、平成24年度の事業として、情報発信のためのホームページの作成、国内外向けのDVDの作製をすることを決定。また、ユネスコに提出する登録推薦書の作成に取りかかることなども決めた。

 民間団体による協議会は、5月末までに設立する計画。経済団体や観光団体などに加入を求めることを検討するという。

697名無しさん:2012/04/15(日) 14:44:16 ID:DOQMvGnM0
四天王寺や住吉さんで見る桜は染井吉野以外がいいですね
できれば当時の品種であればよりいいと思う
全国どこでも一種類の桜を見るのもいいのですが、
当時の都に想いを浮かべるにはそうでない桜がいい

698よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/15(日) 19:38:26 ID:Ynx27Ruk0
「夏の陣」など11点 大阪城収蔵の屏風展示
2012年4月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120415/20120415026.html

 花見客などでにぎわう大阪市中央区の大阪城天守閣内3階展示室で、「テーマ展 世情−大阪城天守閣収蔵風俗屏風(びょうぶ)にみる」が開かれている。重要文化財の「大坂夏の陣図屏風」「南蛮屏風」など11点を展示。天守閣の学芸員が屏風内に描かれた人々の様子をピックアップし説明を加えるなど、桃山時代から江戸時代にかけての当時の人々の様子を知り、楽しめる内容となっている。

 「大坂夏の陣図屏風」では、徳川家康や真田幸村なども登場し大坂城の南方で繰り広げられた戦闘の様子が描かれた右隻とは対照的に、左隻には大坂を脱出する敗残兵や町民などの様子が細やかな描写で表現されている。

 また「大坂市街・淀川堤図屏風」の中の天満橋上でけんかする男女の姿や「吉野花見図屏風」の酔っぱらって動けなくなった男性の姿など、当時の人々のさまざまな姿を楽しむことができる。

 富山市から会社の仲間とともに観光で訪れていた城川実さん(79)は「屏風がこうして残っているのがすごいと思う。(人々の様子も)時代が変わると感覚が違いますね」と話していた。

 5月6日までの午前9時から午後5時(入館は閉館の30分前まで。28日〜5月6日は午後6時閉館)。

699よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/17(火) 05:14:30 ID:IMxFL1wU0
更紗 エキゾチック花模様 堺の博物館
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120416-OYT8T00097.htm

代表3産地の40点展示

 木綿の布に花などの文様を染め出したインド発祥の更紗(さらさ)を集めた企画展「和更紗―堺・京・長崎―」が、堺市堺区の市博物館で開かれている。6月3日まで。

 和更紗は、日本で江戸時代後期に庶民に広まった。会場には代表的な産地だった堺、京都、長崎で当時作られた異国情緒あふれる色とりどりの約40点が並ぶ。

 くっきりとした柄の京更紗、赤色が印象的な長崎更紗に対し、堺更紗は藍色を多用。大柄な花模様も特徴で、白の花びらに「霰(あられ)」と呼ばれる点描が入っており、来客用の布団や座布団に使われたという。

 宇野千代子学芸員は「歴史や技法、模様の面白さを比べながら楽しんで」と呼び掛けている。月曜休館(30日、5月21日は開館)。問い合わせは堺市博物館(072・245・6201)へ。

(2012年4月16日 読売新聞)

700よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/04/18(水) 05:29:05 ID:FKftKj6o0
竹内街道歩き、楽しみたい人たちへ お役立ちマップ改訂版 大阪
2012.4.18 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120418/osk12041802010002-n1.htm

 ■トイレやコンビニ網羅

 7世紀ごろから大阪と奈良を結び、日本最古の官道とされる「竹内(たけのうち)街道」の全行程を網羅したウオーキングマップが完成した。トイレやコンビニエンスストアの位置など最新の“お役立ち情報”が詰め込まれ、同街道歩きを楽しみたい人たちをサポートする。

 関西の歴史文化の魅力を発信する歴史街道推進協議会(本部・大阪市北区)が、街道沿いの魅力を再発見してもらおうとこれまでに製作したマップの改訂版。今回は地域のボランティアガイドが中心となり、より詳しく正確な情報を集めた。

 竹内街道は、難波〜飛鳥京間を結ぶ官道として飛鳥時代に整備された。距離は約35キロ。

 マップは、堺市〜松原市▽松原市〜羽曳野市▽太子町〜奈良県葛城市−の3部構成。街道沿いにある駅や交差点などの基本情報に社寺や史跡などの歴史的スポットを加え、トイレやコンビニなどを記号で図示。「ここ(羽曳野市の峰塚公園)から見る二上山の遠景はおすすめ」などの“ひとことガイド”も盛り込んだ。

 また改訂版では新たに、周辺地域の祭りやイベントの時期や内容を写真入りで紹介している。

 同協議会やボランティアガイド団体で配布しているほか、「歴史街道」のホームページからも無料でダウンロードできる。1万部を製作。問い合わせは同協議会((電)06・6223・7745)。


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