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香港企業の退職金

1ティァオヨウユィー:2008/04/16(水) 17:25:39 ID:/eYmOJ9U0
初めてスレ建てます。皆さん、日本から社命を受けて駐在されている方々が多いのかも知れませんが、私は香港の現地採用です。中国工場の主要顧客の撤退に伴って一方的な解雇通達を受けてしまいました。そこで、ご存知のかたがおられたら教えていただきたいのですが、香港の労働基準法のようなもので一般的に退職金というものは計算方法もしくは規定があるのでしょうか?お世話になった会社に後ろ足で砂をかけるつもりはないのですが、逆に石を持って追いかけられるようなこともしていないので交渉時の情報として知っておきたいのです。クレクレで申し訳ありませんがご存知の方、もしくは関連WEBをご存知のかたがおられましたらご教授いただけないでしょうか?
宜しくお願いいたします。

146ハンドルネームでお願いしますw:2014/12/19(金) 12:53:53 ID:Kl4.VOa20
お前らマジレスで答えて欲しいんだけど

自分を高く評価しすぎて底辺の仕事を嫌ってるやつ多いだろ

そして景気が悪くて就職できないのは政治家が悪いって思ってるだろ

こんな状態なら生活保護貰った方がマシだと思ってるだろ?

147ガガミラノ 腕時計 レディース:2015/05/08(金) 20:53:29 ID:ZTinbifU0
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148ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/01(月) 17:38:12 ID:.Y.zVcrU0
アジア日本人群像http://news.nna.jp/free/interview/gunzou/gunzou10.html
荻野正明さん(香港):ファッションで世界に挑む

香港ドリームをかなえた日本人
荻野 正明さん
10年ぶりの再会。前回は香港でインタビューしたが、今回は東京。6月28日、恵比寿駅に近い瀟酒(しょうしゃ)なビルのオフィスを訪れた。長身で物静かな印象は、当時も今も変わらない。変わったといえば、頭の白さとノーネクタイか。「シャツの一番上のボタンを外せばラフに映りますが、かけていれば見苦しくなりませんよ」。世界のファッション業界の最先端を行く人の発言だけに拝聴する。自然体で、叩き上げ特有の気負いはまったく感じられない。30年近く前に香港で誕生した極小会社を、年商300億円の企業グループに育て上げた。しかし、見た目にはとてもその総帥とは思えない。どこにそんなガッツとパワーがあるのだろう。疑問を解くためには、やはりこの人の人生に分け入り、内側をのぞき見る必要がある。

フェニックスグループ・ホールディングス会長の荻野正明さん、58歳。現在はイタリアの田舎町に居を構え、そこを拠点に香港と日本を行ったり来たり。インタビュー前夜に香港から東京入りし、3日後にはイタリアに戻るという過密スケジュールの中で、本紙のために時間を割いてもらった。香港ドリームをかなえた日本人、荻野さんの物語を2回に分けて紹介しよう。

■世界ブランドをつくりたい

イタリアに腰を下ろしたのは昨年の6月から。一応、来年6月までの2年間と決めている。ファッションの本場で日本人の手による世界ブランドをつくるのが目的だ。

フェニックスグループは数年前にミラノに進出したが、ファッション生産はフィレンツェ周辺が中心であるため、そこから約40キロほど南のアレッツォに着目。比較的廉価なビルをアトリエ兼オフィス用に購入した。アレッツォは帝政ローマ時代からの古い町で、14世紀の大詩人ペトラルカの生誕地でもある。

アレッツォの行政区の中にテラノーヴァという地区があり、ベルギーで先に開かれた会議では、テラノーヴァをEUのファッション産業の拠点とすることが決議された。ちなみに世界のファッション業界で今をときめく『プラダ』の本社も、このテラノーヴァにある。

フェニックスグループは、その『プラダ』と十数年前にアジアでの販売代理店契約を交わしていた関係から、『プラダ』の協力を得て、〈デビュー前〉を意味する『アンテプリマ』ブランドの開発と生産に取り組むことになった。奥さんの荻野いづみさんは、靴やバッグ、洋服のデザイナー。『アンテプリマ』を国際ブランドに押し上げて、世界に認知させる夢を実現するべく、夫婦で現地に移り住むことにした。

企業のグローバリゼーション、つまり世界戦略はファッション関連のアパレル業界でも叫ばれて久しいが、荻野さんによると、日本の企業はこの方面でどうしようもなく遅れており、世界の現状や動きについてあまりにも疎い。知らないからうまくいかない。「僕もフランスに行き、イタリアに住んでみて、グローバリゼーションと口では簡単に言えるものの、実際には大変だということを身をもって体験した。しかし、誰かが実行に移し、それを後続の人たちに伝えなければいけない。その先陣役を今、やっているところです」。

149ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/01(月) 17:39:35 ID:.Y.zVcrU0
■アジアとはまったく違う

会長自らが乗り込んだものの、当初はトラブル続き。荻野さんによると、イタリアでのビジネスはアジアとは根本的に違う。ビジネス環境でいえば、イタリアが左端にあるとするなら、香港は右端にあり、その中間に日本が位置しているような感じという。

高税率のイタリアには、労働者に手厚い社会保障制度がある。10万円の給与の場合、年金を含む社会保障費はほぼ同額となり、会社負担額は合わせて20万円になる。日本では13万円ほどか。香港の社会保障費は限りなくゼロに近い。そうした手厚さにもかかわらず、イタリア人は3人がかりで日本人1人の仕事量しかこなせない。

現地オフィスの立ち上げ時にファクス機を注文した。2週間目にようやく持ってくると、注文品とは機種が違う。ところが配達員は我関せず。店に電話すると、さらに2週間してから今度はまったく別の品物が届く。万事この調子で、アジアでは考えられないことばかり。「最初の1年間は人の手配や設備の調達などに追われる中で、しっかりイタリアの社会勉強をさせてもらいました」。

荻野さんによると、イタリアは中国に似た人治国家であり、コネ社会でもある。イタリア人が同胞のことを「どうしようもない連中」と蔑む言葉を日々耳にするにつけ、荻野さんは「イタリア人ほど自分の国を悪く言う民族はないのではないか」と思わざるを得ない。国よりも県、県よりも町、町よりも家族、家族よりも自分。イタリア人に愛国心を問うのは野暮というものらしい。

そうした国民性や風土の中で、なぜ世界に冠たるファッションが生まれるのか。

「そのことはよく考えるんですが、これぞという答えをまだ持ち合わせていません。ただ言えるのは、イタリア人は個人の生活を豊かにするためなら、どんな犠牲も惜しまない。8月のバカンス休暇には貯金を全部はたきます。個人生活を重視する国民性から出てきたのが料理であり、ファッションなのではないでしょうか」。

■語学とマージャンの才

荻野さんは大阪の東住吉区生まれ。3人兄弟の末っ子。父親は高等小学校卒で転職を重ね、終戦時は難波の高島屋に勤務していた。母親は同志社大英文科卒の当時のモダンガールで、恋愛結婚だった。

天王寺高校から神戸外大のロシア語学科へ。学生時代はパチンコとマージャンに明け暮れた。肝心のロシア語はあまりに難解なため敬遠していたが、ある日、高名なロシア人教授の個人面談を受けた。てっきり絞られると覚悟していたところ、「あなたはいい耳を持っていますね。がんばりなさい」と逆に励まされた。ところが、ロシア語とはその後も無縁。30年以上になる長い香港暮らしでは英語と広東語を使い分け、今はイタリア語で生活する。語学の才能はそれなりにあったのだろう。

マージャンの腕は学生の域を脱していた。時間を決めて漫才師などと卓を囲む。ほとんど負けなし。卒業して最初に入った会社では、給料分とほぼ同額を毎月マージャンで稼いだ。香港赴任後、パーティーに招かれると、決まってマージャンに誘われる。広東式のルールもすぐ覚えた。「日本人でパイが握れるおもしろい奴がいる」との噂が広まり、しょっちゅう引っ張り出された。広東語はその場で修得する。香港で独立しての数年間、仕事が途絶えたときはマージャンで食いつないだ。荻野さん自身、「自分は本質的にバクチ向きの人間ではない」と否定するが、芸が身を助けるとは、こうしたことをいうのだろう。

150ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/01(月) 17:41:01 ID:tvgtcRJo0
■重慶大厦からスタート

卒業した1964年当時は就職難だった。大手商社に片っ端から履歴書を送るが、次から次に戻ってくる。遊びに熱を入れ過ぎたため、大学の成績はとても自慢できる代物ではなかった。ある商社の面接では、担当者から「君はいったい、大学で何をしていたのか」とまで言われた。

それでもなんとか、大阪船場の繊維専門商社である河越商事に入社。貿易部に配属され2年勤めたが、放慢経営で同部門の存続が怪しくなってきた。そんな折、貿易部の先輩から「会社を辞めて新しいところへ移るが、お前も一緒に来ないか。来るなら入社と同時に、香港に赴任させてもらえる」と誘われる。海の向こうなら、たとえ沖縄でもどこでもよかった。その気になった。

移った会社は三黄貿易。福島に本社がある三黄通運が親会社だった。社長の小谷さんは、西宮の屋敷の豪勢さでは松下幸之助と並ぶ人で、海外大好き。運送会社の名刺では「大八車を押す人夫の親方」といったイメージがあり、トレーディング・カンパニーの名刺欲しさに貿易会社を設け、どうせやるなら大きくいけとばかり、広く採用の門戸を開いた。その中に荻野さんも交じった。

先輩の約束通り、転職して半月の1966年、荻野さん24歳のとき、香港に赴任した。肩書は駐在員事務所長。当時も今も貧乏旅行者が泣いて喜ぶ尖沙咀の名物安宿、重慶大厦(チョンキン・マンション)最上階の一室を月額500HKドルで借り、住宅兼オフィスとした。「インド系の人が多く、ビル全体がいつも香辛料の匂いに包まれていましたね」。

■帰国命令に反発して独立

日本で生産されたメリヤス糸を香港のニットメーカーに販売するのが、荻野さんの主な業務。重慶大厦で8カ月暮らしたあと、ネイザンロード沿いの新築ビルに移転して仕事も軌道に乗り、「さあ、これから」と思った矢先、本社から帰国命令。従来のメリヤス糸の輸出は打ち切り、これからは香港や欧州のニットメーカーから製品を輸入して日本国内で販売することにしたため、香港事務所を閉鎖して日本に帰ってこいという。

荻野さんには「この香港事務所は自分が立ち上げて利益を生むまでに育てた」との強い自負と未練があり、本社命令には「それはないでしょ」と反発。いったん帰国して辞表を出し、「退職金代わりに香港事務所を僕にください」と頼み込んで了承してもらった。

会社を辞めようと思ったのには、もうひとつ理由があった。小谷社長は姓名判断や風水などを信じることで定評があったが、荻野さんはあるとき、上司から「社長の話によると、お前は姓名判断で、長のつくポジションには好ましくないため、昇進させないほうがいいと出ている」と言われた。これを聞き、いつまでもいる会社ではないな、と思っていたところへの帰国命令は、退職への引き金になってしまった。

151ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/01(月) 17:45:05 ID:tvgtcRJo0
写真
前の会社から香港事務所を譲り受け、従来からのメリヤス糸の輸入販売を地道にコツコツとやっていれば、軍資金は乏しいながらも、なんとか食っていけるだろうとの読みはあった。自分の意思で独立したわけではなかったため、気宇壮大な気持ちや「独立すればこうしよう」といった夢はなかった。

ところが、現実は厳しく、独立すると同時に、当初は手堅いと考えていた大口の商談がキャンセルされた。溺れるものはワラをもつかむ。「そのあとはなんでもやりましたよ」。3年間は綱渡り。いつ潰れてもおかしくない状況の中で、時計の針の輸出にまで手を出した。荻野さんを含めて実質4人。みんな食うために必死だった。前の会社にメッセンジャーボーイとして入った当時17歳の香港人社員は、この苦しかった時期を無給で踏ん張った。

■不死鳥はカメの歩み

1971年に現在のフェニックスグループの母体となるフェニックスHK社を立ち上げる。それまでの取引先に親しまれていた関係から、漢字表記には三黄の名を残したが、英文表記は「Phoenix」ならぬ「Fenix」とした。そのほうが発音しやすかったからだ。不死鳥を意味するフェニックスの社名は、荻野さんが思案してつけた。

そうこうするうち、ニット関連のビジネスが上向いてきた。業務をセーターの輸出販売1本に絞り込み、欧米向けはやらずに日本向けのみに特化した。次第に客筋からの信用度もアップ。「フェニックスさんは品質と納期が守れる」と言われるようになった。

香港ビジネスはテンポの速さ、変わり身の速さで定評があるが、荻野さんはビジネスの基本を誠実さに置き、それにこだわった。このため、業績の伸びはカメの歩みのように緩慢であったが、一方では堅実このうえなく、創業以来、現在に至るまでマイナス決算は一度もなし。ただし利益も小幅。荻野さんは「この会社は大儲けできないけど、潰れにくい。香港のビジネス環境の中では非常に珍しいんじゃないでしょうか」と言う。

結果として、カメの歩みがよかった。日本のバブルが香港にも波及していた頃、株や不動産に熱を上げる日本人も少なからずいたが、身のほど知らずの大金とその使い道は、かえって身の破滅の導火線になる。荻野さんは、会社で必要な不動産は購入したが、個人的な投資対象としては買わなかった。理由は簡単。自由に使える大金を持たされていなかったからだ。「会社がボロ儲けしていれば、当然手を出していたでしょう。人間、何が幸いするかわかりませんね」。

■年商300億円企業に

フェニックスグループは現在、持ち株会社のフェニックスグループ・ホールディングスを含めて30社で構成される。中核はニット製品を扱う香港の2社で、その下に子会社や孫会社がある。縫製工場は上海や広東省のほか、ベトナムにも設けられ、染色部門を含めると20工場を数える。工場従業員は約6千人。

荻野さんを今回訪ねた東京のオフィスは、サイド・フェーム・ジャパンの社名。フェニックスグループの全額出資企業で、奥さんの荻野いづみさんが世界ブランドにしようとしている『アンテプリマ』の日本での販売会社だ。国内では現在、九州地区を含めて15店鋪を出店。東京オフィスが本部機能を果たしている。このサイド・フェームは、日本以外に香港、台湾、シンガポール、イタリア、フランスにも現地法人を持つ。

グループ内で異色なのは、小売部門のシティ・スーパーだ。身売りした香港西武の日本人スタッフがフェニックスグループに合流。アッパーミドルクラスを主な顧客対象にしてスーパーのチェーン展開に乗り出し、現在香港内に3店鋪。スーパーに本屋を併設するなどして大当たりした。年内には台湾に進出する計画だ。

これらすべての事業を合わせると、年商は300億円ほどになる。グループ企業間の取引額を加える商社方式の計算だと400億円になるか。「それにしても、この10年で会社の規模は一気に拡大した感じですね」と問うと、荻野さんは〈サテライト・カンパニー〉という経営方式とその実践が背景にある、とタネ明かししてくれた。

152ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/01(月) 17:47:59 ID:tvgtcRJo0
■サテライト・カンパニー

「惑星は太陽を中心にして回っているが、各惑星には求心力と遠心力が働いており、それぞれバランスを保ちながら軌道から外れないようにしている。太陽系のこうした運動を企業経営に取り入れたのがサテライト・カンパニーです」。

求心力と遠心力。子会社は親会社に依存しながらも、親会社から離れてもっと大きくなろう、別の道に進もうとする。そのバランスをとるのはむずかしいが、荻野さんの考え方はこうだ。人にポジションと責任とそれに見合った報酬を与えるならば、必ず120%の力を発揮する。親方総取りでは、会社は発展しない。太陽が地球という惑星を持つように、地球も月という衛星を持つ。組織をガチガチに縛らず、均衡を保ちながら自由にやらせるならば、より大きくなろうとする子会社は孫会社を抱え、孫会社はひ孫会社を抱えるようになる――。フェニックスグループは、荻野さんのこうした企業哲学のもとで発展、拡大してきたと言えそうだ。

たとえば1975年設立のフェニックス・パートツー。紳士物セーターを扱っていた部門の責任者に、「独立して社長としてやってみるか」と声をかけた。聞けば3万5千HKドルほど融通がきくという。「それじゃあ、資本金を10万HKドルにしよう。君が35%を持って、フェニックスが65%を出資しよう」。荻野さんは名目上のトップとなったが、設立3年で社長ポストを譲る。この会社は一貫して高利益を計上し、現在に至り、資本金は3500万HKドルにまで膨張した。元責任者は、今では威風堂々たる社長だ。

独立時に荻野さんと苦楽を共にした元メッセンジャーボーイは、今では香港のビクトリアハーバー沿いの高級ビルに腰を据え、グループの中核企業の社長を務めている。荻野さんの良きパートナーでもある。

153ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/01(月) 17:48:59 ID:tvgtcRJo0
■インターネットの功罪

会社の規模拡大は、通信技術の発達にも大きく関係する。

荻野さんが大学を出て就職したての職場では、貿易業務にみんなソロバンを使っていた。コピー、ファクス、計算機など、なにもなしのOA機器皆無時代。通信手段は基本的に手紙であり、香港と大阪本社間は航空便でも4日かかった。返信を受け取るのはだいたい10日後。急ぎのときは電報を使ったが、料金が高くつくため、「詳しくは手紙で、返事を待ちます」などとは打てず、「イサイフミ、ヘンマツ」とした。

国際電話を使うときは、課長の許可が必要。緊急時に香港から大阪本社に電話して10分話すと、荻野さんの当時の国内給料3万5千円の1週間分が飛んでしまう。だから、手紙がやはり通信の主流だった。万事のんびりしていた時代。テレックスはその歯車の回転を速めたが、これは文章送信だけで図面などは送れなかった。

インターネットの登場は、まさに革命と言える。いくら使っても料金同一という画期的な通信手段は、これまでのすべてのデータ送信上の問題を解消させた。加えて、携帯電話の爆発的な普及。国際電話や航空運賃の値下げに伴い、人は大挙して海外に出向き、情報は国境を超えるようになった。結果として、経済規模が大きくならないはずはない。荻野さんはソロバン時代を振り返りながら、「人間の暮らしにゆとりをもたせるため、便利さを追求する目的でつくられたものが、かえって人間を追い立てるようになった」と言う。

その一方で、荻野さんは時代に追走するため、55歳でパソコンを独習。毎日2時間キーボードを叩いて基本をマスターした。イタリアの田舎町に居ながらにして、アジアを鳥瞰し、グループ企業全体の動きを見ている。「グループ各社のトップの優秀さとネット社会の到来。僕はこれでラクができるようになりました」。

■人生、道なかば

数年前からネクタイをしなくなった。香港上海銀行の頭取と会うときもノーネクタイ。董建華行政長官やパッテン前香港総督を囲んで会食したときも、ノーネクタイを通した。記念撮影では荻野さん以外、全員が典型的なビジネスマン風のネクタイ姿だった。

若くして結婚した女性とは「価値観の相違」から別れた。一粒種の娘は荻野さんが引き取った。43歳のとき、友人の紹介で今の奥さんと出会い、5年後に再婚する。東京人の奥さんも息子を抱えていたため、子供は2人に増えた。ボストン大学を卒業した娘は現在、ハーバード大学の博士課程を目指すかたわら一時帰国し、早稲田で英語講師を務めている。息子のほうは、グラフィックデザイナーからネットビジネスに入り、友人らと組んでホームページ作成の会社を立ち上げた。

そして荻野さん夫婦は現在イタリア暮らし。5月から6月にかけては、家の近くの清流でホタルの大乱舞を見た。野生のウサギやキジ、クジャク、シカなどが人間と共存し、歩けば歴史の足音がする生活環境の中、二人三脚で、日本人の手によるファッションで世界に挑んでいる。

座右の銘は「知足」。つまり、足るを知る。不平不満は「足りない」と思う心から生じる。「カネ、名誉、地位、能力――。足りないと思えば、人間はいつも不幸です」。

最後に、人生の達成感を聞くと、「ビジネスで言えば、90%はやれたでしょう」。世界ブランドのファッションをつくる仕事は残っているが、会社のベースと企業理念は設定済みなので、あとは任せる考えだ。「ビジネスを離れた人生で言うなら、道なかばというところ。やっと半分まで来たかなと思いますよ」。

(大住昭)

154ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/08(月) 09:06:18 ID:LmkwGNUA0
株式投資してるから円安の方がいいんだが。。。

今の為替レートはまじで日本経済にとってヤバいと思う。

日本経済は円安になればなるほど良いわけでなく、昔に比べるとメーカーでさえ、
現地雇用、現地調達、現地生産、現地販売、現地納税なんで、実はそこまでうまみはない。
単に棄損された円建てで強引に会計上利益を押し上げているだけ。

一方で輸入、中小、内需はどんどんボロボロになる。
これだけのコストアップインフレに給料が全くおいついてない。

つまり、どこかで株式相場は大暴落すると思う。実態経済とのかい離が凄い。
これをまさに実態のないバブル経済というんだろうね。

どこで売り抜けるか。毎日考えてるよ。

156ハンドルネームでお願いしますw:2015/10/10(土) 01:36:11 ID:.zabMrxw0
稼いだことのない奴の意見はこうだわ。
年収1000万稼ぐのは、暇なく忙しく働いてないとダメってこと。
しんどいぞ。
年収400万円の世界はいい。休みがゆっくりとれて、体が楽。
両方体験してるから分かるんだ。
でも、日本人がアホなのは、年収にこだわること。
年収より、資産だよ。

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