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香港企業の退職金

150ハンドルネームでお願いしますw:2015/06/01(月) 17:41:01 ID:tvgtcRJo0
■重慶大厦からスタート

卒業した1964年当時は就職難だった。大手商社に片っ端から履歴書を送るが、次から次に戻ってくる。遊びに熱を入れ過ぎたため、大学の成績はとても自慢できる代物ではなかった。ある商社の面接では、担当者から「君はいったい、大学で何をしていたのか」とまで言われた。

それでもなんとか、大阪船場の繊維専門商社である河越商事に入社。貿易部に配属され2年勤めたが、放慢経営で同部門の存続が怪しくなってきた。そんな折、貿易部の先輩から「会社を辞めて新しいところへ移るが、お前も一緒に来ないか。来るなら入社と同時に、香港に赴任させてもらえる」と誘われる。海の向こうなら、たとえ沖縄でもどこでもよかった。その気になった。

移った会社は三黄貿易。福島に本社がある三黄通運が親会社だった。社長の小谷さんは、西宮の屋敷の豪勢さでは松下幸之助と並ぶ人で、海外大好き。運送会社の名刺では「大八車を押す人夫の親方」といったイメージがあり、トレーディング・カンパニーの名刺欲しさに貿易会社を設け、どうせやるなら大きくいけとばかり、広く採用の門戸を開いた。その中に荻野さんも交じった。

先輩の約束通り、転職して半月の1966年、荻野さん24歳のとき、香港に赴任した。肩書は駐在員事務所長。当時も今も貧乏旅行者が泣いて喜ぶ尖沙咀の名物安宿、重慶大厦(チョンキン・マンション)最上階の一室を月額500HKドルで借り、住宅兼オフィスとした。「インド系の人が多く、ビル全体がいつも香辛料の匂いに包まれていましたね」。

■帰国命令に反発して独立

日本で生産されたメリヤス糸を香港のニットメーカーに販売するのが、荻野さんの主な業務。重慶大厦で8カ月暮らしたあと、ネイザンロード沿いの新築ビルに移転して仕事も軌道に乗り、「さあ、これから」と思った矢先、本社から帰国命令。従来のメリヤス糸の輸出は打ち切り、これからは香港や欧州のニットメーカーから製品を輸入して日本国内で販売することにしたため、香港事務所を閉鎖して日本に帰ってこいという。

荻野さんには「この香港事務所は自分が立ち上げて利益を生むまでに育てた」との強い自負と未練があり、本社命令には「それはないでしょ」と反発。いったん帰国して辞表を出し、「退職金代わりに香港事務所を僕にください」と頼み込んで了承してもらった。

会社を辞めようと思ったのには、もうひとつ理由があった。小谷社長は姓名判断や風水などを信じることで定評があったが、荻野さんはあるとき、上司から「社長の話によると、お前は姓名判断で、長のつくポジションには好ましくないため、昇進させないほうがいいと出ている」と言われた。これを聞き、いつまでもいる会社ではないな、と思っていたところへの帰国命令は、退職への引き金になってしまった。


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