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引っ越し

1作者:2022/07/27(水) 23:20:06
今回、teacupの閉鎖に伴い、こちらに引っ越しすることにします。

70あべ:2022/09/30(金) 23:35:13
連投すいません。
山大前の通りはおっしゃる通り現在の金ちゃんラーメンの所でT字路になっており、
その先には借家が数件立っていた様な記憶があるのですが間違いでしょうか?
角の原田薬局(今は閉店)は同じ場所ですが、その向かいの渡辺ヒーティングの看板が
T字路側に有ったような気がするのですが、これも間違いかな?
(もしかしたら金ちゃんラーメンが渡辺ヒーティング?)
現在ローリエ菓子店の南向いの民家の塀に沿って熊野神社に行く細い道が有ったのですが、
就職で離れている最中に道路拡張となり、帰省したらその細い道が無くなって
何処から熊野神社に行ったら良いのか分からなくなった思い出が有ります。
前田町から流れる笹堰の水が電電公社のアパート手前で熊野神社の方向に枝分かれし、
前述の民家脇の細道をくねくねと歩くと再び水路と合流する景色は、
今思えばトトロの映画に出るような近郷の村の景色で貴重なものだったと思います。
山形市内で残ってほしかった景色の一つでした。
今願っているのは下条五差路から斜めに入る道路の沿道の家並みの景色です。
七小付近で東に曲がり、踏切を渡って相生町に抜ける風景は、
個人的な我儘ですが、願わくばずっと残って欲しいと思います。
今の大手町大通りに出た所辺りにあった銭湯や
昔の天童に向かう細い旧国道宮町の街並みも、
今では思い出せなくなってしまいました。

71出稼ぎ中の山形県民:2022/10/02(日) 08:32:30
あべ様 ありがとうございます。まだ南原町以南が自然であった頃の様子を知ることができました。
前田町方面から下り、電電公社の社宅を越えて市立図書館に行ったりしていましたが、現在は迷子になりそうなのでそのルートには立ち入りません。
渡辺ヒーティングは私もなんとなく覚えていましたが、地図で確認したところ現在の金ちゃんラーメンの場所でした。
ヌーベルの件もありがとうございました。みつますと映画館が同居していたということですね。
昔の状況を知り、現在の姿と繋げることは有意義です。

72熊ぱんち@神奈川:2022/10/12(水) 15:43:59
七日町の物産館

今「山形県 物産館」で検索すると、「ぐっと山形」か、「山形県観光物産館」
が出てきますが、以前は七日町に物産館があったような気がします。作者さんが
本文で書かれていた、商工会館の1階だったような。場所と展示(即売)物から
見て、はやりそうなものですが、はやっている感じのない、渋い施設でした。
やっぱ商工会館と運命を共にしたのでしょうか。個人的には結構好きでした。

73たっきゃん:2022/10/16(日) 20:15:15
旧商工会館に入った記憶はないのですが、前のバス停待合広場?から地下に入ったレストランにはよく行った記憶があります。
階段入り口にウエイトレスを描いた立て看板があり、テーブルはボックス席で、他席から見えにくいのがよかったです。牡蠣フライ定食みたいなセットメニューが600円ほどでしたか・・
コーンポタージュが先に出され、少しだけ(笑)裕福な気分になれましたが、もうなくなっているでしょうね。

また深夜に自転車で前の歩道を走っていて警官に止められ、横の交番で調書を取られたことがありました。
歩道走行が違反だったようですが、自転車を調べていたので、盗難車でないか疑われたようです。
関西から来た山大医学生だとわかると、急に態度が変わってお茶を出してくれました。
冗談でしょうが家庭教師をする気はないかと聞かれ、丁重にお断りしたのを思い出しました。昭和49年頃のことです。

74熊ぱんち@神奈川:2022/10/17(月) 14:59:18
>たっきゃんさん

七日町交差点からわずかに旧県庁(文翔館)側に行ったところ、バス停でいうと
「市役所前」の道路向かい、JAビルの並びに、いまでも「商工会館」があります
(たぶん建て替わった)んで、たっきゃんさんと私の記憶はたぶんあっている
かと思います。ただ「物産館」は、忽然と消えています。レストランに至っては
記憶がありません。なんかショーケースみたいなのはあったかもですが、その辺
から記憶がおぼろげに。。。

#山形の「洋食屋さん」って、十一屋さんの2階ぐらいしか知らなくて、そのうえ
入ったことすらなかったりして(笑)。

確かにおまわりさんに声かけられそうな感じはわかります。山形で自腹で洋食が
食えるくらいには出世した(老化ともいう)ので、十一屋さんくらいは行っとく
かなあ。

75熊ぱんち@神奈川:2022/10/17(月) 15:09:07
うわっ。

七日町御殿堰の改修工事で、十一屋七日町店も2023年春まで休業!!!
できあがるころにはまた、「消えた山形」が増えるんだろうか。なんか
私の脳内にある七日町と違うところになっちゃうんだろうか。

76あべ:2022/10/18(火) 01:22:40
「チロル」は皆さまにとって洋食屋でしょうか?それともファミレスでしょうか?
酒の話ですいませんが、
「チロル」の生ビールにおつまみが1品付くのを今年知りました。
自分が行った時は厚切りのコールドミートでした。
お通しでは無くビールの金額に入っているのでうれしかったです。
2杯目は酎ハイにしたので分かりませんでしたが(おつまみ付くと書いてあるのはビールのみ)、
2杯目以降もおつまみが付くならチョイ飲みとしては十分です。
街中華飲みがTVで流行しましたが、
洋食屋飲みも一人ならアリかと思います(グループだと他の方に迷惑かな?)
ファミレス飲みも平日昼割とかありますが、
ドリンクバーをお子様がちょろちょろ歩くので落ち着きが悪いです。。。

77あべ:2022/10/18(火) 01:30:25
連投すいません。
山交ビル西隣の朝日生命ビルの上にもレストランがあったかと思います。
最上階(11階?)だったか2階だったかあやふやですが、
ファミレスやデパートの大食堂よりはちょっと良い雰囲気だったような気がします。
梅月堂もそうでしたが、
家族そろって「外食するぞ!!」という時の選択肢でした。

78出稼ぎ中の山形県民:2022/10/18(火) 06:40:05
梅月堂のレストランでシェフをしていた人が、その後、緑町で「シトロン」という洋食屋を営業していました。
遊学館と緑町交番の間、山川蕎麦屋の向かいです。
学生にもどうにか手の届く値段で、A定食・D定食等のセットメニューを食べることができました。
玉葱のスープが旨かったです。
山形を離れてから、ネットニュースで「惜しまれつつ閉店」の記事を見ました。現在は住宅になっています。

79たっきゃん:2022/10/18(火) 22:59:27
梅月堂の2階か3階にあったレストランはいつごろ閉店してしまったのでしょうか?
古い写真にも七日町のモダンなシンボルとして、この建築は必ず写っているほど有名だったのに・・
学生の時、友達の卒論が詩人の立原道造でした。戦前に立原が来形した折に梅月で昼食をとったそうです。
"明治製菓のような"店と日記に書いているよ、案内した神保光太郎は彼女の卒業校の校歌の作詞者だよ、と食事した時に聞いたのを懐かしく思い出します。
料理は勿体ないほど美味しかったのですが、貧乏学生には高価すぎ、汚れたジーンズで入るのも気恥ずかしい敷居の高さもあり、数えるほどしか行けなかったのが残念でした。

80出稼ぎ中の山形県民:2022/10/19(水) 06:55:00
梅月堂について、建築関係のサイトでは、1937年完成・1997年倒産となっています。
シトロン自体は昭和の終わり頃には既にあったはずなので、シェフが交代した後も経営が続き、
恐らく倒産まで継続したのではないかと推測します。
もともとの梅月堂所有者である佐久間氏は、もともと小姓町遊郭で菓子製造業を営んでおり、梅月堂を始め、
のちに丸久デパート(後の松坂屋)を開業した人物でした。
梅月堂をデザイン・建築した会社は七日町のあちこちの再開発に関わっているようです。
(AZ七日町・セブンプラザ跡・富岡楽器店周辺等)

81たっきゃん:2022/10/19(水) 23:21:55
出稼ぎ中の山形県民様
 情報有り難うございました。梅月はもう20年以上も前に閉めていたわけですか・・
オーナーが丸久の開設者と同一だったとは驚きです。古い丸久は記憶になく、丸久松坂屋しか知らないのですが、そうか!梅月堂の向かいですね。
そこの何階かにゲームコーナーがあり、時々行きました。インベーダーやギャラクシアンが出てくる何年も前でした。
電子ゲームの萌芽期で、球を打ち返すだけの単純なテレビゲームを興奮してやったものです。
カーレースは幻灯機(死語ですね)で映したような画面をみながらハンドルを回す、甚だアナログっぽいゲームでした(笑)。

82出稼ぎ中の山形県民:2022/10/21(金) 06:38:32
今まで気づかなかったのが我ながら恥ずかしいのですが、
「山形市都市計画道路見直し計画」で検索したら、市当局による数十年単位での道路拡張計画が
びしっと出てきました。
進捗状況や実現可能性の度合いも図示してあるので、今度時間がある時に熟読してみたいと思います。
梅月堂の現在の建物も、道路拡張により改築されていたそうです。

83出稼ぎ中の山形県民:2022/10/22(土) 07:19:46
市の道路整備決定路線を読みました。市街地では以下の通りです。
286号線の松山交差点以西、市民会館の東端・西端の通り、シネマ旭跡から大手町までの通り、
小姓町大日堂前からシネマ旭跡を通って旧県庁の通りまで、千歳橋〜落合スポーツセンター前の通り、
緑町交番前〜旧山新ビル前、相生町から馬見ヶ崎橋を通って沼の辺まで、
第二公園南端の山長のある通り、薬師公園西端〜二口橋、奥羽本線東沿いの山形駅から286号線まで。

84あべ:2022/10/22(土) 13:54:09
出稼ぎ中の山形県民様
山形市都市計画道路見直し計画みました。
熊谷自転車から旭座角を曲がってまつのや旗点迄の拡張は、優先順位が高い事が確認できました。
松見町ヤマザワから千歳公園迄の薬師堂上桜田線(小立街道)って戦前から計画が有り、
昔は「11m(巾)道路」と呼ばれていましたが、その後「20m道路」に変更なりました。
千歳倉庫ビルから北側も道路拡張用の空き土地が結構ありますが、空き土地に直接入る公道が無いので
宅地販売するには周辺の住宅の協力が必要ではないでしょうか。
北高〜工業高間はあからさまに空き地が沢山あり(釣り味も解体中?)ここも宅地販売するのでしょうか。
自分が小学生の頃は六中前と隆勝寺から逸見魚屋迄の2カ所が既に11m巾ぽかったかと記憶しています。
それ以外は昔のままで、特に隆勝寺から今のローソン迄は細すぎてY字型の一方通行でした。
今でも北行きの一方通行が残っています。
喫茶店りぶるの押し釦信号裏の旧道十字路は、朝晩通勤の車がすれ違い大変でよく渋滞していました。
この頃西蔵王行きの山交バスは梅そばから南に曲がって平清水へ直行する旧道を走っていしたが、
今は100円バスが20m道路を走っています。
「小荷駄町」「六中前」のバス停も、40年前は梅そば〜南原太助寿司間に存在し、
小荷駄町はたんの文具より北側、六中前はローリエ菓子裏より南側にありました。
「山商前(市立図書館)」は自転車屋の前、
「三日町」は現在とほぼ同じ鍋倉製材所下の旧家前、
あと「三日町角」が玉にしき酒店前にありました。
1日3往復の路線なので主に山商六中通学用だったのでしょう。
今では1時間に2本べにちゃんバスが走り大変便利です。

85出稼ぎ中の山形県民:2022/10/22(土) 18:32:01
あべ様
梅そば〜太助間だと狭い感じがするのですが、それでもバスが走っていたのですね。
平成4年に「ハーブ通り」という名前で現在のたんの文具店〜シャルマンまでの通りが開通するまでは、
梅そばから太助まで一本道でしたね。286号のちょっと北側を夜自転車で通っていたら、
道路の中央に男が寝ていて、死体かとおもって「うわ!」と叫んだら、男はガバっと起き上がって
猛ダッシュで道路北側に走っていきました。酔っぱらって寝ていたのかもしれません。平成2年ぐらいの話です。
そのたんの文具店のちょっと北側に、現在は「ガトーフレイズ」があるのですが、
昭和63年から平成3年までは「18COCOA」という名前の喫茶店で、大航海時代風のインテリアが飾ってあり、ココアだけでも
10種類以上あり、ちょっとしたデートコースでした。
以前この掲示板で聞いたところ、あかねが丘に昔「18世紀」という喫茶店があり、
その店が引っ越してきたのではないかと推測しているのですが、ご主人から話を聞く前に
閉店してしまったので謎です。
ローリエ菓子店は確か宮町だかどこかから転居されてきたのですよね?平成4年頃まではありませんでした。
逸見魚店前の通りは以前は自転車でスイスイ渡れたのですが、今では車でさえ渡れない不便な道路になってしまいました。
私がいた頃は逸見魚店の北側はアパートで行止りでした。信号も確か途中で付けられたように思います。

86熊ぱんち@神奈川:2022/10/27(木) 17:06:04
なんとなく山交ビルのHPを見ていたら、なんと、「ドムドムハンバーガー」って、
まだ山交ビルにあったんですね。ドムドムハンバーガー自体が「絶滅危惧種」と
揶揄されたり、本家?のダイエーがなくなっちゃったり、サフラーも大幅に事業
縮小する中、「どっこい生きてるドムドム」という感じがしました。

東北全体でも、仙台市利府のイオン、北上市江釣子、そして山交ビルの3店だけ
になっていたとは知らなんだ。なんかどこにでもあったような感じだけど。

87あべ:2022/10/28(金) 01:30:42
熊ぱんち@神奈川様

サフラーは地元資本のお店ですが、ドムドムは山交ビル以外は直営だったのですね。
直営店は今でも首都圏に出店しているのを見て驚きました。
ドムドムは改築前の山形駅待合室奥にもありました。
ドムドムになる前の食堂と立ち食いソバが伯養軒の経営でしたので、
伯養軒がフランチャイズ経営していたのでしょうか?

昭和小僧の世代の方々は
ドムドム(それより前はぼんぬーる)のある地下テナント街はご存じかと思いますが、
今の若い方は山交ビルに寄っても地下街を利用しない方が多いのでは無いでしょうか?
最近はビル一階西側にターミナル側からも直接入れるトイレができ、
ヤマザワドラッグの飲み物や菓子パン等の軽食も充実しているので、
100均やアニメショップ、高速バス等の利用者は
ヤマザワで買い物する必要が無ければ、わざわざ地下に行かずに済んでしまいます。

ビル西側交差点角の出口も居酒屋専用口となってからは、
地下にふらりと入る事も出来なくなり、地下の利便性が減ったと思います。
山形市は扇状地なので西出口から出入りすれば、階段の歩数も少なくて済みました。
地下テナント街突き当りの第2駐車場への階段は逆に地獄です。
ダイエー時代、買い物の最後に食料品で両手がふさがっているのに、
あの一直線の階段は辛いものでした。
1階までエスカレータで上がって構内(の端)横断する方が楽でした。

最近地階テナントの居酒屋がまた変わった様です。
場所的には1等地ですが、先ず西口階段へ踏み込む前に自動ドアが有る為、
周辺のテナントビル地下と違い店内をちらっと覗くにも障害だと思っています。
(ドア無ければ冬など風雪入ってビルが冷えてしまいますが。。。)
夜間はヤマザワを通らずとも
フードコート〜西出口間を通り抜けできるラインに変更し、
フードコートも夜は町中華メニューやチョイ飲みを出す様にすれば、
そば、町中華、居酒屋テナントが連なる「ミニ山交横丁」となるので、
テナントの認知度も高くなるかと思うのですが。。。

88熊ぱんち@神奈川:2022/10/28(金) 08:58:06
>あべ さん
山交バスの郊外路線が壊滅的に縮小した今、バスで仙台に買い物に行った人が
わざわざ山交ビルで地下へ降りてってお買い物...ということにもならないで
しょうから、厳しいとこなんでしょうけど、個人的にはヤマザワは、段ボール
をくれるし、買ったものを発送するのも格安で引き受けてくれるので、「米」
(はえぬきとかつや姫とか)を買って家に送り、手ぶら帰宅ってのはやった
ことあります。

お茶の志鎌園さんも撤退したようですし、ドムドムさんや十一屋さんには
頑張ってほしいものであります。

※居酒屋ができたのはちょっと驚いた。

余談ですが、伯養軒は、元仙台ホテル食堂部で、今はJR東日本とコラボして
いるとこが多いかと思います。かつては山形駅の立ち食いそばも、伯養軒の
お店とキヨスクだったか森弁だったかのお店があったかと。味も微妙に
違った。

89出稼ぎ中の山形県民:2022/10/28(金) 20:12:27
山交ビルの地下(私にとってはイコール「ダイエー」の地下)のフードコートは本当に長時間粘りました。
そのフードコートと食品売場の境に納豆餅のパックが売ってあり、一寸高かったのですが
大好物なので奮発して買いました。最高でした!あの餅の滑らかさ、醤油の濃淡のバランス、自宅では真似できません。
今も売ってるのでしょうか。というよりフードコートはまだ存在するのでしょうか。
山形を離れてからも、ダイエーホークスが初優勝した時は車を飛ばしてきてダイエーで写真を撮ったり、
出稼ぎ先の福島が原発事故で、全世帯避難まであと数キロまできた時は子供を連れて遊びに来たりしました。
時々放射線の低い所で体を休めるのが良いという話だったので、ダイエーの地下で「安全な」食材を買いこんで、
仙台屋に泊まって一家で貪り食いました。一寸震災の話になるとトラウマで饒舌になるのですが、あの時は本当に
精神的にひどかったんです!山形生まれ育ちの俺が何でこんな目に遭わなくちゃいけないのか!と。
こんな所に住みたくて住んでるんじゃないのに!と。
しかし同時に避難民を一番(石を投げることもなく)受け入れてくれた我が故郷山形には感謝し、
また周囲からも山形を代表して何故か感謝されました。
震災以来久しぶりに家族で深呼吸できてぐっすり眠れた仙台屋は、更地になってしまいました。

90あべ:2022/10/29(土) 15:36:43
出稼ぎ中の山形県民 様
1号炉爆発前日の色々なネット(予測)情報を見て
自宅の換気扇全部をガムテープで目張りし、
親が呆れ返っていた事を思い出しました。
丁度妻が6か月でしたのでかなりナーバスになっていた時です。
宮城の笹谷地区の魚が放射線限度超えで食べられないのに
何で蔵王ダムの水が安全だと発表しているのかとか
信用できない日々でした。
そんな中、まだ山形市内停電中の東原生協は、
入口にテーブルを置いて人海戦術で営業を続けていました。
電気復旧後は仙台から買い出しの人も訪れる事が多く、
仙台稲荷タクシーが駐車場に止まっているのを見かけました。
店内でも仙台からのお客様優先の放送が流れていました。
山形の生協は本社が荘内なので仕入れに関しては
地震の影響が少なかったようです。
新潟からの食料品なんかも一時期あったような気がします。
庄内浜の魚類が多いのも安心感を感じました。
今はどこの産地でも気にせず食べられるようになりましたが、
子供が幼稚園に入る位までは結構神経質になっていた事も
久しぶりに思い出しました。
当時は子供の成長に被害が出ないか毎日悩んでいたのですが、
今ではコロナで度々の学級閉鎖や人の多い所に行くのを怖がる子供が、
家に閉じこもりがちになってしまった精神面の方が心配です。
西蔵王の公園とかだったら
人と離れてのんびりできて連れていくにはいいな〜と思ったんですけど、
「熊に注意」なんですね、
あそこで出会ったら自分の車以外に逃げる場所ありません。
馬見ヶ崎川ジャバプール隣の公園にも熊注意の札が遊具にはってありました。
人が多い所はコロナ、人が居ない所は熊、何処に行ったらいいのやらです。

91あべ:2022/10/29(土) 16:17:37
連投すいません
熊ぱんち@神奈川 様

伯養軒って、かつて仙台駅前にあった老舗のあのホテルだったんですか!知りませんでした。
仙台駅構内の今は1階(かつては3階今の牛タン通りができる前)にある理髪店ですが、
仙台ホテルにも店を構えていた有名店(創業100年以上で仙台市から表彰受けている)で、
今も駅ステーションにふさわしい良い雰囲気のお店で私のお気に入りです。

山形駅もかつてのステーションデパートは地元店テナントが多かったのですが、
建て替えて直後はミニ仙台デパートみたいな雰囲気で余り好きではありませんでした。
現在は1階の食料品売り場が(地下が無いので1階がデパ地下)、
かつての大沼や十字屋のデパ地下高級食料品店の役割を果たしており、
精肉、野菜は地元の有名店が入っています。
たまに閉店時間ギリギリに行くと高級な寿司や牛肉弁当がお得に買える時があり、
最終の100円バス乗る前に寄ってみたりもします。

七日町のマンション(元セブンプラザの所)の通りに面した1階の
食料品店街も揃ったようですが、未だ利用した事がありません。
あの黒塗りの統一感が「観光客いらっしゃいませ」の雰囲気を醸し出し、
自分は近寄りがたさを感じてしまいます。
(近くの屋台村なんかは地元も観光客も関係無く入りやすいんですが。。。)

向かいの十一屋菓子店は更地で、御殿堰関連の土地と菓子店との間が
工事用のシートで塀のように仕切られていますが、
仕切られた堰側の土地がすべて歩道になるとしたらかなりのスペースです。
菓子店は結構狭い店になってしまうのではないでしょうか?

92熊ぱんち@神奈川:2022/10/31(月) 14:05:42
あくまでも記憶ベースですが、「伯養軒」は、「みかど」(いまは函館の駅弁屋
だけど、かつては神戸のホテル)や、「聚楽」(飯坂温泉のは今でもあるけど、
新潟地区で列車食堂もやってた)、京都の都ホテルなどと同じように、その土地
を代表する名宿が、駅の食堂や列車食堂をやってたんだと思います。私も一度
だけ、なくなる前の仙台ホテルの前を通ったことがありますが、横浜の「ホテル
ニューグランド」をモダンにしたような感じだったと記憶してます。

#「もりべん」こと「森弁当部」も、もとは駅前旅館の弁当部だったかもしれない。
若干記憶があいまい。

93熊ぱんち@神奈川:2022/10/31(月) 14:34:46
鉄道ついでに。。。

鶴岡市にある庄内交通湯の浜線の旧善宝寺駅が、年内をめどに取り壊しになる
ようで、7月23日に法要が営まれました。善宝寺のHPから、現状と法要の模様を
知ることができます。

たぶんですが、県内の私鉄あとで現在形をとどめているのは、高畠線の高畠駅
(登録有形文化財なので、まず取り壊しにはならない)と、この善宝寺駅だけ
だと思います。(山形鉄道(長井線)は除く)。間沢もなくなっちゃったし。

94出稼ぎ中の山形県民:2022/11/02(水) 06:37:38
線路沿い、山形駅の南側に「森旅館」はありましたが、その弁当部ですか?
森弁当部も幸町なので、場所は確かに近いです。

95たっきゃん:2022/11/03(木) 20:43:38
私事で恐縮ですが、初めて山形市に来たのが49年前の奇しくも今日(11/3)でした。
予備校で京都に下宿中でしたが、10月末にあった新設医学部入試の合格証と11/5に入学式を行う、との速達が来て、あわてて出てきたのです。
観光案内所で、駅前すぐ右手にあった森旅館を紹介され、下宿を決めるまで2日間宿泊しました。
1年余りして、森弁当部のバイトに雇われました。帳場や部屋はそのままでしたが、旅館は廃業し弁当部だけになっていました。
私は駅ホームの軽食スタンド要員だったので直接入っていませんが、旅館の奥が弁当部の調理場だったと思います。

96出稼ぎ中の山形県民:2022/11/04(金) 08:40:32
森旅館は「ヤマコミ」のHP「セピア色の風景帖47回」で画像を見ることができます。
私の大学卒業時(平成4年度)にも、たっきゃん様の当時のまま佇んでいました。
歩道ギリギリまで建物の壁があり、旅館の真裏が線路、正面が寺で斜め向かいがガスタンク、南側は五日町踏切まで小規模店が隙間なく林立していました。
中学校時代の美術の先生が「古くて汚い建物ほど素晴らしい絵になるのだ」と力説していましたが、
駅の東側も西側も、当時はそんな雑多でphotogenicな風景に満ち溢れていました。
当時の地図では、道路を挟んで向かい側にも「森旅館・森弁当部」と記載があります。
現在の森弁当部は同じ幸町でも少し南側、道路の東側の路地裏です。
駅(周辺含む)を新しくした頃に立ち退きとなってしまったものだと推測します。

97熊ぱんち@神奈川:2022/11/04(金) 15:47:31
皆様、ありがとうございます。おかげさまでうろ覚えが確証に変わりました。

やっぱり老舗ホテルや旅館と、駅弁って密接に関連していたんですね。
「紅花軒」は、お肉屋さんとかスーパーとか、そういう流れっぽいけど。

98出稼ぎ中の山形県民:2022/11/05(土) 07:57:36
紅花軒はもともと精肉店のようですね。肉屋の飲食店といえば、
菅井鳥肉店の「チキンハウス」(閉店)、金澤屋の「しゃぶきん」(閉店?)を思い出します。

99たっきゃん:2022/11/05(土) 23:42:35
森旅館の写真(第76回でした)を拝見しました。うーん、入り口が写ってなくて残念、しかし看板が懐かしいです。
毎夜ここで短い白衣に着替え、駅の南側通用門から一番ホームのスタンドに通ったなあ・・
帰りは夜もふけ「賑やかだった町も、今は声を沈めて、何を待っているのか♪・・」と歌いながら十日町、七日町を行くと、無人のアーケード街に声が響いたのを懐かしく思い出します。

肉屋の飲食店といえば、梅月の交差点をずっと西に降りていった道筋の北側に精肉店があり(名前失念)、その2階で宴会が出来て、しゃぶじゃぶなどを腹一杯頂けました。
また三日町か、もっと南だったか、国道筋に食べ放題店の「OK牧場」ができ、1000円?で肉を必死に食いまくったのも思い出です。

100出稼ぎ中の山形県民:2022/11/07(月) 20:38:16
たっきゃん様
梅月堂の交差点から西進した北側の精肉店は、旅籠町1丁目10-31、
1階が「阿部精肉店」2階が「焼肉栄」ではないでしょうか。精肉店も焼肉屋も現在営業中です。
「OK牧場」は住宅地図のどこかで見た記憶があるのですが、時間ができたら探してみます。

101たっきゃん:2022/11/08(火) 22:28:22
出稼ぎ中の山形県民 様
 調べて頂き有り難うございました。当時の外観はもう覚えていませんが、場所から考えご指摘の阿部肉屋さんに間違いないと思います。
2階宴会場はお肉のショーケースがある店舗内から階段を上り、福家食堂の別館2階のような座敷だったように思います。
OK牧場は、筆者が卒業した昭和54年以降にできた筈です。アイスなどデザートも食べ放題の嬉しいバイキングでした。

追記:先程まで天王星が皆既中の月に隠れるのを愛用の望遠鏡でみており、感動しました。
思いだすのは1975年、見事な尾をひいたウエスト彗星が上ってくるのを馬見ヶ崎で酒を飲みながら眺めたこと、
花小路への道すがら「白鳥座が変や、見慣れん明るい星があるわ!」と話していたら、20世紀で最も明るくなった新星の極大期だったことです。

102あべ:2022/11/09(水) 21:46:36
OK牧場ですが、三日町交差点の緑屋下駄屋西2軒目です。
今は「そば製麺工場」の看板がある所です。
小学生の時1回行った記憶が有ります。
味は…余り良い印象が無かった様な…
そもそも子供の頃は焼き肉をお店で食べる事が無かったので、
三日町通りの三河屋より数軒東に有った焼肉大吉(だったかな?)も
何の店なのか分かりませんでした。

103熊ぱんち@神奈川:2022/11/10(木) 13:04:08
>出稼ぎ中の山形県民さん たっきゃんさん
「セピア色の風景帳」76回 拝見しました。「森旅館」も、駅前通りにあったん
ですね。「むらきさわ屋」というのも出てきましたが、のちの「ビジネスホテル
むらきさわ」で、今も「山形むらきさわビル」に名をとどめているわけでありま
すね。「王城ビル」や「タイガー駐車場」のように、名前は記憶にとどめておこ
うという配慮でありましょうか(山形むらきさわビルは現存します)。

104たっきゃん:2022/11/10(木) 20:45:10
あべ様
「OK牧場」の位置をお教え頂き有り難うございました。車を使い出してからの場所の記憶はどうもあやふやです。
店の肉(2-3種類あったかな)の味はともかく、一杯食えてよかった感だけが残っています。
私が子供の頃も恐ろしげな(笑)ホルモン焼の店はありましたが、家族で行けるような焼肉店は平成以後の話かと思います。
モツ煮込みやジンギスカンは山形で初めて食べました。前者は「駒鳥」が美味しく、後者は花小路の「おばちゃん」が安価で腹一杯食えました。
強面の大将と違って、笑い顔のおば(あ)ちゃんは朗らかで野菜も大サービス、いつも学生で一杯でしたが、昭和51-2年頃に閉店しました。

105熊ぱんち@神奈川:2022/11/16(水) 13:48:50
>たっきゃん さん

山形は日本におけるジンギスカン発祥地の一つ(諸説あり)で、蔵王では「シロー」
(かつては蔵王スキー場中森ゲレンデにあった)など、知られた店も現存します。
私が知っているのは花小路の入り口近く、その名も「蔵王みそラーメン」が、ジン
ギスカンもやっていたような気がします。

煮込みですが、七日町デフォは、「もつ煮込み」ではなく「牛煮込み」(スジ肉や
テールを煮込んだもの)で、場所によっては「テールシチュー」などともいわれる
高級品(?)です。「駒鳥」は、間違いなくこっちでした。なんにせよ、山形恐る
べし。

106出稼ぎ中の山形県民:2022/11/17(木) 06:20:51
「ジンギスカン鍋」は、色々な情報を見ると、
1、日露戦争に向け防寒着に使用するため綿羊を大量飼育し始めた
2、満州で軍人が羊料理を知り帰国した
3、化学繊維の輸入等により綿羊業が衰退し、食用をメインにした
この3点がキーワードになるようです。恐らく自然発生的に各地で始まったのでしょうが、
山形鋳物の伝統を活かし、兜型の「鍋」を発明したのは山形で間違いないようです。

107たっきゃん:2022/11/17(木) 20:49:46
熊パンチ@神奈川、出稼ぎ中の山形県民 様

煮込みとジンギスカン鍋(ジ鍋)について文化史的な情報を有り難うございました。
そうか、牛煮込みだったのか・・おいしいはずです。駒鳥でバイトをしていた先輩に、煮込みがお勧め!と教えられたのが最初です。

ジ鍋は山形が発祥地、も驚きです。ずっと北海道だと思っていました。
「おばちゃん」ではいつも貧乏学生数人で肉をすぐ食ってしまい、サービスで追加してくれた野菜ばかり食った記憶が・・
後に札幌ビール園でジ鍋を食べたとき、肉が有り余るほどあって、さすが本場は違うと思っていました(笑)。
が、思い起こせば、蔵王での部活やスキー合宿の打ち上げ時、旅館の夕食はたいていジ鍋(ビール1本付き!)だったなあ。
蔵王がジ鍋の本場だから、と今になって初めて知りました。羊牧場も多いのでしょうか?

108出稼ぎ中の山形県民:2022/11/17(木) 22:24:49
物心ついた頃から蔵王に通っています。生きた羊を初めて見たのは蔵王の牧場でした。
私の「初めてのおつかい」は町内の羊肉でした(米沢市)。
羊と戯れ、羊を喰らう牧場は今も蔵王にあるようです。
たっきゃん様の「蔵王合宿ジンギスカン」のお話、私も部活の地獄の夏合宿を思い出しました。
懐かしい!

109熊ぱんち@神奈川:2022/11/18(金) 14:15:09
>出稼ぎ中の山形県民さん
「はじめてのおつかい」は、もしかして「行方?」
 #なんだかわかんない方には「なんのこっちゃ」ですが。

>たっきゃん さん

蔵王は、上の台を中心に、いまでも「夕食はジンギスカン」ってとこ多いです。
「ジンギスカンロッジ」なんてとこもありますし、民宿でも出すとこあります。
数の増減に対応しやすいし、体が温まり、ビールにも合うし、単価が安いし。

でも山形市街地で、「ジンギスカン!」ってとこ、あんまないですね。焼肉屋が
ついでにやってるとこみたいなのが多いのかしらん。ま、ほれ、山形牛もあるし。

110出稼ぎ中の山形県民:2022/11/19(土) 07:13:50
熊ぱんち@神奈川 様
その通り、東2丁目の「行方」です。1階が肉屋、2階がジンギスカン会場で、
肉をテイクアウトし、キャベツ・味噌と一緒に深めのフライパンで煮る「義経焼」を専らとしていました。
絶望的に米飯に合います。

111出稼ぎ中の山形県民:2022/11/21(月) 06:38:03
一昨日ちょっと山形市内を散策したところ、七日町の「みつます」から東に少し上った所の
「ごりら」及びその西向かいの建物がなくなっていました。戦後の「七日町マーケット」の生き残りとして
どっしりと風格を漂わせ、多くの方が思い出の文章を書いていたのですが。
以前は車などほとんど通らなかった三鴻深瀬前も、逸見魚店前も、5小前も、横断するのに恐怖を感じる交通量と道幅です。

112あべ:2022/11/21(月) 21:29:37
出稼ぎ中の山形県民様
上山方面から市役所方面の通勤車は
松見町ヤマザワ
→六中前→千歳山マンションT字路左折
→三鴻深瀬方面か東北電力左折方面
の流れが主流っぽいです。
山交バスの回送も
清住町車庫
→篠田陸橋
→千歳山マンションT字路右折
→上山、中桜田方面
の送り込みが多いです。
逸見魚屋の押し釦信号無しの横断歩道は
危険なものになってしまいました。
特に南進の車からは東側(小野寺クリーニング)の
歩行者が見え辛く無視する方も多いです。
第2公園東側の112号線押し釦信号と同じ位の
扱いが必要と思うのですが、
死亡事故が起きない限り設置されないのかと思います。

113あべ:2022/11/21(月) 21:39:29
熊ぱんち@神奈川 様
たっきゃん 様
昭和末期〜平成の市内中心部の人間にとって、
ジンギスカンと言えば旧山交本社(現ベガスベガス)の
アサヒビール園がトラウマです。
食べ放題で1皿目は美味しいラム肉ですが、
2皿目から不味いマトン肉を出されて
「2度と行くもんか」と皆不評でした。
あれが無ければジンギスカン(羊肉)の悪いイメージが
定着しなかったかと思います。
就職で京浜地区での生活で、
丁度ジンギスカンブームで各種店舗が出たときに、
お替りでも美味しいラム肉が食べられた事にショックを受けましたので。。。
(羊肉ソーセージとかも旨かった。。。)
ああいう店が市内中心部に沢山あれば、
違った展開になったかと思います。
今でも羊肉食べるには蔵王半郷や蔵王駅前のイメージが有り、
行くにはちょっと気合が必要です。

114熊ぱんち @神奈川:2022/11/22(火) 17:31:18
>あべ さん
そうでした。ありました。アサヒビール園。蔵王にもあったけど、そういやどっちも
なくなっちゃいました。

東京はジンギスカン発祥地説のもう一方の有力候補なので、侮れない店もありますが、
なぜか北海道がらみの店が多いのが、ジンギスカン発祥の地論争を混とんとさせて
います。

とはいえ。

なんか早かったなあ。アサヒビール園の寿命。アサヒのホップは福島産だと聞いて、
個人的にはひいきにしてたんですが。ちなみに私は、サッポロビールとサッポロ
ビール園がデフォですが。ここもジンギスカンが有名ですね。山形関係ないけど。

115たっきゃん:2022/11/22(火) 19:57:22
私がいた頃は山交本社だったので、アサヒビール園は知りません。
当時(昭和49年頃)、吹田のアサヒビール工場勤務の義兄から聞いた話ですが、
アサヒは山形産ホップを買っており、このため山形県の公式行事ではアサヒビールが使われているはず、と。
お前もアサヒを買ってくれよ!と言われたものの、近くの酒屋の店頭にはキリンやサッポロしか置いてありません。
アサヒないんですか?と尋ねたら、瓶ならある、と店主が奥に引っ込み、古そうな瓶ビールのホコリを拭きながら出てきました。
以後、山形でアサヒを買うのはやめました(笑)、スーパードライが出る前の話ですが・・

116出稼ぎ中の山形県民:2022/11/22(火) 20:16:54
あべ様、現在の交通情報ありがとうございます。
自分がいた頃は逸見酒店北側がアパートで行止りで、クランク前にも信号が無くて済んでいました。
三鴻深瀬前も里見洋服店とか丸正焼肉とかがあり、七日町方面から泥酔してちんたら帰宅できていました。
第二公園南側を拡幅する都市計画があるようです。既に「ブックスべにばな」や「龍上海」もなくなり、
由緒ある私娼窟跡の情緒溢れる雰囲気が拡幅によって消滅してしまうのでは、と危惧しております。
熊ぱんち@神奈川様、現在、国内ホップの生産量は岩手5割、秋田3割、山形2割で、
山形市史によれば、山形が日本一だった時期もあったそうです。幼少期にはそこら中にホップ畑がありました。

117出稼ぎ中の山形県民:2022/11/23(水) 06:38:34
かつて東原町1丁目の街道沿い、病院の隣に「サンドリヨン」というパン屋がありました(1979年〜2021年3月)
地域で愛されたパン屋だったのですが、山形県出身の彩坂美月氏による短編集
「みどり町の怪人」に舞台の1つとして登場していました。
「埼玉県の田舎のとある町」と述べられていますが、実際のサンドリヨンの向かいは緑町だし、これは確定だな、
紹介してくれてありがとう、と思いました。八文字屋の郷土作家コーナーにあります。
数年前の「ビエンナーレ」の時には市内の店を多く舞台にした短編集が出版されたそうですが非売品で入手不可です。
花小路商店街は花小路文学賞を立ち上げ、HPに作品を掲載しています。
他に何か市内を物語る小説はありませんか?

118山を見上げていた:2022/11/24(木) 20:37:10
自分は最近の若造と最近の子供と、今の老害と現在の老害を兼任してます。
ヤマコービルの地下のドムドムですが、何回か買い物してお世話になりました。
外側から見るだけで、買い物をしないで通り過ぎることが多かったですが、
たまに買ってすぐその場で食べたり、
別の場所へもっていって食べることもありました。
山大医1期生は学年の途中で1年生が始まって相当大変だったと思います。
山大医の1期生は2年生くらいまで小白川キャンパスのようですが、
一般教養のあと2年生から実習で飯田キャンパスをつかわなかったのでしょうか。
1期生と80年代では大違いで、
1980年入学生は1年生の一般教養から飯田キャンパスだったでしょうか。
80年代前半、昭和50年代なら後半スーパーの物価。
伝説の85円ランチ言いたくないサンプルランチの時代、
スーパーで食パンの立方体1個100円しないで買えたのでしょうか。
蔵王牧場
滝山地区谷間の村からさらに上る必要があるのですが、
牛の放牧場は今もあります。80年代は牛を放牧していて、
500mlの紙製の牛乳パックの乳飲料など、
加工食品で乳製品の原料として大量の牛乳を、
放牧場から近くの工場に出荷していたと聞きました。
平成も元年からずいぶん経って2002年か2003年。
「山形ってなんにも無い」とかいう人に、
自分は「道路があって両脇に田んぼがあって、遠くに見える山がある」
と言ってました。
バイパスの建設は良いのですが、
自分の見解では『町の中心部の道路は昔のままの方が良い』です。

119たっきゃん:2022/11/27(日) 17:47:00
山を見上げていた 様
S48年11月から始まった教養課程(小白川)は普通に2年間継続され、3年目の後期(S50年秋)に飯田に移りました。
基礎研究棟と講義・実習棟のみが完成し、臨床研究棟や附属病院はまだ建築中でした。
元々田んぼだった構内は舗装もされてなく、雨の時は泥沼で、通路として地面に板を橋のように渡してありました。
南木佳士の小説「医学生」は山大の数年前に新設された秋田大医学部が舞台ですが、そこに描かれた状況とそっくりでした。
周囲にはうどん屋力松と山銀支店だけがぽつんと立ち、小白川と違ってどこにも行けず、隔離されているような気分でしたが、
近くのスケート場は、学務課で割引優待券がもらえ、講義がないときに時々滑りにいきました。

120熊ぱんち @神奈川:2022/11/28(月) 11:55:39
>山を見上げていた さん

その1980年関係者(医学部ではない)ですが、まだかなりの教養課程は小白川で
こなしていたように思います。医学部関係の方も存じ上げていますが、一緒に
小白川の生協食堂でお昼ゴハン(85円定食や、いわんやサンプル定食ではあり
ません^^;)をご一緒した記憶はあります。

今はなき「りょうこく」のパン(8枚切りの食パンの4枚分)が、70円だったの
は覚えています。それから考えると、一斤120円から140円というところでしょ
うか。半斤で2食分。。。というビンボー話しか記憶に残ってません。カレー
(何の肉が入っていたかはいまだに謎とされる(大汗))が170円、かけそば/
かけうどんが100円で、カップラよりもこっちを選んだとか。。。あ、目から汗。
170円とか

121出稼ぎ中の山形県民:2022/11/29(火) 06:14:26
山形市史によれば、山形の医師不足に対応すべく県や市が医学部創設を運動し、
文部省による山大医学部認可が年度途中になり、その年の秋に入試と合格発表したとありましたが、
こちらの掲示板で、その当時の現場の声を知ることができました。
小白川については、平成元年から2年にかけて山大学館食堂がリニューアルしましたが、
薄い麦茶の匂いのする水と、肉の風味だけする玉葱カレーは伝統が引き継がれました。

122熊ぱんち @神奈川:2022/12/05(月) 13:21:36
新学寮が平清水にあるのは旧青年師範学校、駅の近くに「おんりょう」があるの
は、旧付属小中学校というのはわかったんですが、医学部が飯田にあるのは、
「なんでだろう?」という感じになります。山形市史によると、桜田推しと飯田
推しがあって、結局飯田になったようなんですが、単にその辺しかまとまった
土地がなかったんでしょうか。それこそ「おんりょう」のあたりに作れば、通院
とかにも便利そうだけど、民業圧迫とか、そういう不思議な力が働いたんです
かねぇ。

123出稼ぎ中の山形県民:2022/12/06(火) 21:16:48
山形市史によれば、広大な土地を必要としていたので、既に建物が建っている区域では
立ち退き問題が生じて無理だったと推察します。
昭和46年8月医学部設置決定、47年3月地主との仮契約完了、48年9月設置法案改正、
同年10月入試と、大変目まぐるしい展開でした。たっきゃん様が1期生ですね。
中桜田での土地買収が価格の点で難航し、その隙に飯田が勝ち取ったということのようです。

124出稼ぎ中の山形県民:2022/12/06(火) 21:25:08
昭和50年代に「大学病院」にうちの祖父が入院してたことがあるので、
もしかしたらたっきゃん様にお世話になったかもしれませんね。
皆「大学病院」と言ってました。バス停も「大学病院前」でした。
山大に入ったら「医学部」と呼ぶようになりましたが。

125山を見上げていた:2022/12/06(火) 22:38:16
≪たっきゃん≫さん、≪ドクターエッグ≫を見る限り、1年生が一般教養で、2年生から実習が始まっています。
ただし、昔は一般教養が今より重視されていて、今は一般教養が削られたのかもしれないです。
学年の途中で1年生が始まったとはいえ、3年生の前半まで教養課程とは意外です。
≪出羽≫の秋田は1970か1971年、それも学年の初めからキッチリ≪秋田大学医学部≫があったようです。
医師免許の試験に出ないほうが多い一般教養のほうが削られやすいと思ってました。
≪平成以前の物価≫≪熊ぱんち @神奈川≫さん
平成最初か、80年代までの物価は知らないですが、平成4年か5年の物価なら知ってます。
実は平成4年か平成5年は食パン1キューブというか1斤120円か100円。
1斤の食パンが100円を割り込むこともあったぐらいです。
80年代、それも前半は外食と、そしてパンも高かったのかと思います。
古い人間の言うことほど、自炊、ついでに弁当かパンでも買うと高いから自炊と言うことが多い気がします。
山大の学食は外食なのに安いものでまともに食べられたら異常と思ってるのでしょう。
≪出稼ぎ中の山形県民≫さん≪山大の学生だった人全員≫の皆さん。
実は私、たぶん山大の学食、注文どころか踏み入れたことすら全く無いかもしれないです。
≪飯田、というより蔵王飯田を知っています。≫
医学部のことも山大のことも詳しく知らないし、真実も正解も知らないです。
そしてもっと大事なことは表向きの説明は正解とウソが混じってると思ってください。
≪ハワイドリームランド≫ネットでは誰もが調べられると思います。
ここ≪消えた山形≫には蔵王飯田の≪ハワイドリームランド≫が詳しく載ってますが、
よそではあまり≪ハワイドリームランド≫を詳しく扱うサイトを見かけないです。
休暇センターと蔵王工業は隣り合ってますが、休暇センターは旧滝山村の中桜田。
蔵王工業は旧蔵王村の蔵王飯田にあったと思います。
蔵王飯田はそれだけ誘致しまくってると思います。
山形市街地には昔から済生館があって、山大に医学部を作らずとも方法はいくらでもあったはずです。
山形市街地では大学病院を作るのには手狭だと思います。
作るのなら白山か、最低でも鉄砲町より南に離れたほうがまとまった敷地がとりやすいです。
休暇センターは大学病院を誘致し損ねた代わりと邪推します。

126たっきゃん:2022/12/11(日) 00:38:08
出稼ぎ中の山形県民 様 
 蔵王飯田に医学部が出来るまでの道のりは、色々あったわけですね。
当時、山形、旭川、愛媛で医学部が新設され、10月に同時入試がありました。
その経緯も知らない田吾作の私は、新幹線に乗れる、東京以北に初めて行ける、と先輩に誘われ、
観光気分で受験したので、合格とわかってから慌てました(医学は全く志望外でした)。
特急「やまばと」が山形駅に着く直前、広大な田んぼの中に骨組みだけの建物が見え、かなり不安でした。

山を見上げていた 様
 半年遅れの入学なので、私も教養期間が短くなると思っていましたが逆でした。
教養部の教官は学校の先生と一緒で、しっかり長期休暇はとり、2年を1.5年に短縮するのは無理です。
医学部の教官は診療や研究で休みはなく、学生も長期休暇を削られ、4年の教育を3.5年でこなして卒業しました。
大学病院は教官数も患者数もまだ少なく、お産や救急実習は、米沢市立病院や県立中央病院(霞城公園前)で受けました。

127名無しさん:2022/12/11(日) 08:03:55
一般的に誤解されることが多いですが、教師に夏休みという制度はありません。
年休の範囲内で盆休みを3〜4日とるだけです。休日出勤の振替を促されますが、
部活・面談・研修・補習授業等が毎日あるので、振替したのに学校で仕事する事も。
生徒の夏休み期間は半日部活した後デスクワークです。授業は教師の業務の1割か2割でしかありません。
それ以外の時間は企画書作成・他部署との交渉(難航することも)・膨大な事務処理・突発的な事件への対応、
ついでに、TVで見る、高校生の「転校」もほぼ無理です。定員を満たしていればそもそも入れないし、
各学校で開講科目が違うので、「年度途中からは無理です。来春新入生として受験して下さい」
となります。どうしてもの受け皿として、通信制や特殊な私立高校があるのです。

128たっきゃん:2022/12/11(日) 17:58:14
学校の先生の多忙さを知らなくて、大変失礼しました。ただ、
子供時代はもう60年前になります。筆者は小学校の門前に住んでいました。
宿題か自由研究で、職員室の裏庭にあった百葉箱を開けて、気温や湿度と、気圧だったか、
自記記録計の数値をノートするために、夏休みの間、定時に日参しました。
日直の先生はおられたのでしょうが、目の前の職員室を覗いても、いつも人影はなく、
子供心に先生は宿題もせず休めていいなあ・・と思ったものです。おおらかな時代でした。

129あべ:2022/12/11(日) 19:07:05
6小の大先輩方がラジオ番組で絶賛されていた
カフェクルーのブラックカレーを食べて来ました。
休日の散歩コースの途中に位置するのですが、
いつも日中は駐車場が満杯で中々入ることが出来ず、
今日は夕方散歩でたまたま店内が空いていました。
カレーは噂通りの美味しさで満足しましたが、
夜の定食メニューが結構充実しており、
こちらも気になるのでまた訪問したいと思います。
散歩コースの経路で早い時間に夕食が取れる店は
南高前十字路「しみずや」
山大前「北京飯店」
五小前「やぶ家そば」
七日町通り「チロル」
市役所南通り「キッチン友」
等々…素敵な店が沢山あります。
(がっつり飲む時は又別の店になりますが…)
旧市街暮らしは、
歩いて帰れる範囲で生活できるのが魅力です。
80年代以前は山形市以外の主要市部もそうだったと思います。

130出稼ぎ中の山形県民:2022/12/14(水) 06:39:32
東原に在住していた30年前は「やぶ家」や「清水屋」に時々行きました。
清水屋は改築し新しくなっているようで、その並びにあった「鳥龍」や「あすなろ」は姿を消してしまいました。
やぶ家は当時若奥様風の方が給仕係で、風邪ひいてタンメン食べに行った時に人と料理の温かさが身に沁みました。
卒業後何度か行ってみたのですが、あの方とは再会できていません。代替わりしたかもしれません。
内装は基本的に当時のままで、かつて奥の小上がりが子供部屋みたいに散らかっていたのが整頓されていました。
あちこちの蕎麦屋にラーメンがあるのは戦後の食糧難でそば粉が入手できなかった際の創意工夫だそうです。

131あべ:2022/12/14(水) 20:31:28
出稼ぎ中の山形県民様
「戦後の食糧難でそば粉が入手できなかった際の創意工夫」
知りませんでした。
今は県外のお客さんがメインの東原「梅そば」ですが、
立て直す前(昭和40〜50年代)はここのラーメンが絶品だと家族は言ってました。
親戚等が訪れた時の「中華(そば)をごちそうする」の出前です。
六中前(丁字路から火葬場方面に一軒目の角)の寿町支店のも美味しかった記憶が有ります。
鍋焼きうどんや鳥そば(今はやりの谷地風では無く、昔ながらのカシワ肉の物)を頼む時は
三日町の石山そばでした。
昭和の時代は自宅近くの店から出前を取るのが普通で、
上記の3軒どちらも店内で食べた事がありません。
気軽に外食するようになったのは80年代以降でしょうか。
自分の所だけなのかな?他の家庭はどうだったんでしょう?

132出稼ぎ中の山形県民:2022/12/17(土) 06:47:43
あべ様
私も米沢で町内の食堂からの出前ばかりでした。池波正太郎に言わせると江戸時代から皆それが当然で、死ぬまで町内から出ない人もいたそうです。
私のいた町内のラーメン屋は3つのうち2つがヨークベニマルの侵略に遭い消えてしまいました。
梅蕎麦の蕎麦は細くてすすれるタイプですね。山形は太いのと細いのと対極が存在するようです。
支店があったとは知りませんでした。私がいた頃は塾か何かでした。
以前「山川蕎麦」と表記されており、「シトロン」があった向かい(旧県庁・遊学館前の通り)にも同名の店がありますが、両者は関係あるのでしょうか?
ついでに、大手門近くにあった「やぶ屋」と地蔵町の「やぶ家」は漢字も違うし別物でしょうか?

133あべ:2022/12/18(日) 11:16:36
出稼ぎ中の山形県民様
上町の「竹ふく」蕎麦屋さんは梅そばのご兄弟の方のお店です。
五日町踏切の道を西に進み、クランクを越えた先にあります。
私はこちらのお店の麺が好きです。
三日町〜上町も「そば街道」ですね(庄司屋、三津屋)。
又、「酒街道」でもあります(男山、出羽桜分店→三津屋の近く)
八日町には「あぢやま醤油」もありますし…どれも水に左右される商売ですね。
山形市の水道って昔は線路の東側が松原の浄水場、西側が見崎の浄水場でしたので、
西側の水(あかねケ丘陸上競技場とか)は余り美味しくなかったのですが、
今は日時によってミックスされているそうなので、
東側でも美味かったり不味かったり、夏場は冷たかったりぬるかったりです。
醸造のお店は今でも井戸水なのでしょうか?

134出稼ぎ中の山形県民:2022/12/19(月) 06:24:48
奥羽本線ができる前までは、山形扇状地の下流である五日町あたりで湧水が豊富にあり、
甘酒屋・ところてん屋等があったそうです。三津屋敷地内に当時の井戸が残されています。
奥羽本線の小さな地下道から東側へ出た辺りの、幸町の神社付近は「吹張清水」という地名でした。
小姓町遊郭ができる前まで遊女屋が散在した所の1つです。
あぢやま醤油は風雅ですね。春は花も咲くし。以前、業務用の値札も付いてないでかい袋に入った漬物を売ってもらいました。

135出稼ぎ中の山形県民:2022/12/31(土) 11:24:51
先日、羽前千歳駅前の「エンドー」、南原の「シャルマン」「ローリエ」、双葉町の「ひろや」、十日町の「佐藤屋」、城西の「プリンセス」、寺町の「武田米穀店」、観光物産会館内の「花の種」等を訪問しました。
後継者が先代を支えつつ、様々なアイディアでお店を盛り上げている様子を見て、嬉しく思いました。
ちょっと嶋北や南館まで足を延ばしたら、県外資本の店舗で溢れ、タイムスリップ状態でした。それこそ日本中どこにでもある風景のようです。
みつますで買い物したいと思いつつ山形を後にしました。
令和になってから、香澄町の「修ちゃんラーメン」「宝来寿司」「シバタモデル」、旭銀座の「ごりら」、南高前の「あすなろ」、東原の「サンドリヨン」「松福亭」「チキンハウス」、木の実町の「仙台屋」、旅篭町の「丸八」、本町の「高嶋養蛇所」、五日町の「トヨタ糸店」、あこや町の「錦産業ビル」、十日町の「芳紅庵たかはし」等
消えた山形入りとなってしまいました。
老舗料亭六曜会「亀松閣」「四山楼」「揚妻」「嘯月」「千歳館」「野の村」のうち3つは廃業。
高そうですが、生きているうちに1回は行ってみたいと思います。

136名無しさん:2023/01/06(金) 13:32:30
>出稼ぎ中の山形県民さん

料亭や料亭文化というのも、珍しくなさそうで実は仙台には一軒も現存しなかったり
しますし、老舗料亭の「あげつま」も、私的にはうなぎ屋さんという印象だし、
だとすると、「染太」と何が違うんだろ?という気がしてます。

前から不思議なのは、「白ぎく」って、やっぱり料亭のように思うんですが、
こういうのには名前が載らないような気がします。なんか「格」とか、往時は
芸者さんが呼べるとか呼べないとか、そういうすみ分けがあったんですかねえ。

私もどこでもいいから一度は行ってみたいのですが、料亭というところで何を
していいやらさっぱりわからないので、「見果てぬ夢」ですかねえ。

137出稼ぎ中の山形県民:2023/01/07(土) 08:38:10
私も白菊の前を通る度に気にしていました。小姓町の萬代とかもシブいですよね。
以下、ざっくりと調査結果です。
庭があれば料亭と呼ばれる。白菊も料亭。ただし創業昭和27年なので比較的新しい。
揚妻:秋元家の来形時に付随し土着、雑穀商として創業。後に旅籠や下宿も兼ね、山形市で初めて淡水魚を扱う。
四山楼:伊藤博文が命名。
野々村:明治6年創業だがそれ以前は旧県庁付近で仕出し屋をしていた。
千歳館:明治9年創業、花小路建設の中心となった。
亀松閣:明治14年創業、明治天皇宿泊。
嘯月:市南大火からの復興のため明治28年創業。
七日町旅篭町の料亭は自由民権運動の舞台となった。(あまり贅沢できずオムレツとか食べていた)
嘯月・野々村は全国組織の役員も務めた。
ということで、上述の古い料亭は相互協力し山形の産業振興に取り組んできたということで、名前がよく挙がるようです。
全国で料亭がかなり消えているらしく、数軒でも残っている山形県は優等生だそうです。

138あべ:2023/01/07(土) 22:30:25
個人的な話で恐縮ですが、
揚妻で結納をしました。
こじんまりとした部屋で、
儀式の後、桜湯を頂き、
その後ウナギでたかな?・・・もう忘れました。
自宅で家族病人を2人も抱え結婚式も新婚旅行もできず、
儀式らしい儀式はこれだけで、
それでも付いて来てくれた家内に今でも感謝しています。
名無し様も、あの小部屋でウナギ昼食なら、
敷居が低く宜しいんじゃないでしょうか?
千歳館で親族の法事をした時は、
脇に着物を着た店の方が張り付いて、
お酒のお替りを待ってるようで
落ち着きが有りませんでした。

139出稼ぎ中の山形県民:2023/01/08(日) 07:27:17
まとまりのない文になりますが、
揚妻行ってみたいです。寺に囲まれていて優雅な雰囲気だと感じます。
流石に寺町の寺が「消えた山形」入りすることは無いだろうと思いますが、江戸時代には領主の転勤に伴いあちこち移動させられたり廃寺になったりもあったかもしれません。
地蔵町通りの終点(駅前通りとの交点)は寺だったと何かで見たことがあります。
ところで平成初期には揚妻の南隣が喫茶店だったように記憶するのですが、現在は駐車場のようです。
廃業した千歳館や大沼デパートの用途は未定と聞きましたが、気になっております。

140熊ぱんち:2023/01/17(火) 16:06:29
「あげつま」をチェックしていて、「やっぱ酒込みで諭吉さん一人くらいは覚悟
しなきゃだな」と思いつつ、緑町の郵便局の隣に「たい焼き わかば」を発見。
山形のたい焼き屋の老舗だそうですが、失礼ながら全く記憶がありません。

大福まんじゅうとか、三浦だんご屋の印象が強いせいなのか、まったく意識の外に
ありました。東京のたい焼き屋の支店だそうですが、「消えた山形」の皆様はよく
ごぞんじなお店なのでしょうか。

そういえば「あんぴん」っての(まあ、「大福」なんですが)も、見かけなくなっ
たような。「甘味処」も、消えつつある風景なのかな。

141作者:2023/01/18(水) 14:06:15
>>140
わかばのたい焼きは昔から有名でした。
山形には あじまんがあるので必ずしもみんなタイの形は求めないようですが。

142f4:2023/01/18(水) 20:52:07
NHKニュースで、2023年末でホテルキャッスルが閉館するという話題を知りました。あー、また一つ山形の風景が消えていくと思う次第。
だけども、老朽化とかいろいろあるんでしょうね。

143熊ぱんち@神奈川:2023/01/19(木) 14:16:02
>作者さん

おお、ありがとうございます。私的にも「大福まんじゅう」「あんぴん」がメイン
で、たい焼きってあまり意識してませんでした。「あじまん」は、公式サイトによれ
ば、昭和40年天童生まれだそうですから、三浦だんご屋とか、旭銀座の渋谷食品店
の方が年代がいってそうですね。

144熊ぱんち@神奈川:2023/01/19(木) 14:32:08
>f4さん

線引きが難しいのですが、山形市にあって、チェーン系じゃない地元系の
シティホテルって、あとは山形国際と山形グランドくらいでしょうか。
#オーヌマホテルとか、早々に退場した感じ。

ここでしばしば話題に出てくる、駅前地元系の旅館から始まる地元ホテルの
系譜も、チェーン系の(ビジネス)ホテルに巻き込まれるんですかねえ。

145f4:2023/01/20(金) 17:05:33
熊ぱんち@神奈川さん

たしかにそうかもしれません。

このほか、グリーンホテルもいつの間にか閉店していました。山形市保健所・山形市民会館近くのホテルです。
うーん・・・。

146出稼ぎ中の山形県民:2023/01/21(土) 06:57:52
米沢では菓子屋で売っている甘い餅は「あんびん」と書いてあり、日本全国そうだと思ってました。
大福という名称を知ったのは30歳近くなってからです。あんびんは「餡餅」だと推測します。
「あじまん」もそうです。
たい焼きについて:小白川ヤマザワから少し東に上った十字路にありました。味もチョコとかクリームとかレパートリーがあったと記憶しています。
1個90円〜120円ぐらい。北進すれば福祉センター(旧1中)・南進すれば山大北端にぶつかる十字路です。空っぽになった建物だけは今も残っています。
斜め向かいは焼鳥屋でした。
ホテルについて:キャッスル成立当時のグランドホテル(山新グループ)とのいざこざについては「消えた山形掲示板」で拝見していました。
在学中はよく待ち合わせの目印にし、卒業後は何度か宿泊しました。私がいた時代は、
北東が藤田菓子店、南東がロッキーハウス、南西がキャッスル、北西が壁画でした。
調べによれば、もともと八千代交通グループが建設したのですが、数年前に東京の不動産屋に売却されていたとのこと。
丸八・大沼・シベール・みつます等、似たような話だと思い、危機感を持ちました。
ともあれ、あの暗い暗い西口が東口の経済を圧迫する日が来るとは想像できませんでした。

147山を見上げていた:2023/01/31(火) 00:17:13
羊肉の最近
最近、サイゼリヤ冬限定で羊ポトフ、600円くらいでありました。
ハンバーグが400円でドリンクバーも200円ですが。
ヒツジは牛豚より高いようです。
昔は羊をたくさん飼ってたのでしょうか。
西蔵王の牧場は1983年はもう牛を飼ってた気がします。
羊肉より牛乳だったと思います。(私の記憶では)
井戸水、湧き水
昔、昭和の最後までは、水道局か保健所に検査してもらって、
合格すると井戸水か湧水を水道水代わりに使って良かったと思います。
規制と規則はだんだん厳しくなってく一方の気がします。
出羽と医大
秋田はもともと出羽ですが、山形市は陸奥国だった時代もあります。
秋田の医大2期生の小説は良いとして、
ドクターエッグは劣化コピーに感じました。
ネットで小説の医大生の断片だけ見れました。
ウィキペディアの秋田大学医学部は、
元の組織があり、学年初めから第一期を始めたし、
少し山大より昔の時代からあったようです。
大人の事情を推定すると、
山大医学部の飯田の校舎の建設が間に合わないので、
一般教養を2年間みっちり取り組んだ可能性があります。
6年間の残りが3年半、
建設が遅れた飯田で4年分勉学するのは大変だったと思います。
いばら木
モッズの近くのガソリンスタンドの裏、いばら木。
まだ潰れてないでしょうか。
山形さいぐ
昭和の最後ぐらいまで、
元蔵王村、元滝山村の年寄りが山形中心部へ行く時、
「街さいぐ」と言わずに「山形さいぐ」と言ってました。

昔は寺と神社が優先で、その他が退く側だったと思います。
信仰だけだと江戸時代まででも寺が退く側になったと思います。
明治からは尋常小学校が優先で、寺と神社は第2優先ぐらい。
地域とか子供と密接なモノが優先だと思います。

148出稼ぎ中の山形県民:2023/02/14(火) 06:28:10
大沼デパートを解体する方向で決まったというニュース、
そして御殿堰を中心として七日町旅篭町の本格的な街作りを進めるというニュースを見ました。
千歳館もそこに含まれるそうです。
古い物を存続させ、活かしてくれることを願っています。
嘯月や丸八はマンションになってしまいましたが。

149あべ:2023/02/26(日) 10:46:07
今日のラジオ番組で庄司屋裏付近が「吹張」の地名で有る事が改めて分かりました。
只、「元のでん六辺りまで」というのが分かりませんでした。

150出稼ぎ中の山形県民:2023/02/28(火) 06:29:59
創業者の鈴木伝六氏は元々鈴木製麩所の次男であったと何かの本に書いてありました。
鈴木製麩所は現在と同じ場所に創業されているはずですが、でん六の創業場所が不明です。
もしかすると近所であったかもしれません。
かつて五日町踏切を渡ってすぐ右折すると東ソーで突き当りましたが、
(その突き当り付近のアパートに私は住んでいました)
踏切から東ソーまでの旧町名は字吹張です。ちょっと調べてみます。

霞城の吹張口は古地図によると

151出稼ぎ中の山形県民:2023/02/28(火) 20:45:05
霞城の吹張口は現在ビジネスホテル等があるクランクあたりですが、
「字吹張」は吹張口周辺だけでなく、もっと広い地域であったようですね。

152作者:2023/02/28(火) 22:11:00
>>148
市長の話では、御殿堰を中心とする歴史ある空間の整備とのことでしたが、歴史的建物風に作った新築物件。
一方で丸八や細谷牛肉店などは撤去対象。
歴史とは雰囲気のこと?!
大沼跡も結局マンションの予感。

153出稼ぎ中の山形県民:2023/03/04(土) 18:11:44
1、作者様に賛成で、建物の価値は長年使われてこそなので、観光目当てで作ったばかりのハリボテではしょうがないですね。
永井荷風は「ぼく(さんずいに墨)東奇譚」の中で玉ノ井の古く猥雑な町並みを銀座と比べ、
「浅薄に外観の美を誇らず、見掛け倒しでない事から、不快の念を覚えさせる事が遥に少ない」と述べています。
2、ホテルキャッスルがいつの間にか首都圏の会社に買収されており、あと10か月で閉業と聞きました。
3、でん六は1961年に吹張工場から移転したとHPにあり、私が覚えているのは清住町のみです。
創業地は現在でいうとどの場所にあたるのか、往時をご存じの方はいらっしゃいませんか?

154熊ぱんち@神奈川:2023/03/07(火) 12:56:11
「国指定文化財等データベース」という、文化庁がやってるHPがあるんですが、
その中で、山形県の登録有形文化財(建造物)は195件ありました。高畠線の
高畠駅とか、フラワー長井線の羽前成田駅は知ってたんですが、ここでしば
しば話題になる、七日町の市島銃砲火薬店も「登録有形文化財」だったんです
ね。あとは千歳館とか。でも、印象としては思ったより少ないかな。。。
という感じであります。確かに、丸八やたら漬けとか、何とかすれば何とか
なったのかもしれないのにな。と思いました。

155熊ぱんち@神奈川:2023/03/07(火) 13:00:34
そういえば旭銀座の郵便局って、この手の文化財指定を受けていたような気がし
ます。県とか市とかも、こういう文化財を指定するとかで保存に動けないもの
かなあと。

156出稼ぎ中の山形県民:2023/03/10(金) 21:34:14
紹介頂いた文化庁のHP見ました。私の庭(と認識している)宝幢寺清風荘、通称もみじ公園も登録されていました。
登録されている建造物を見ると、同じような未登録のものが市内のあちこちに沢山見られます。
そういう意味で山形は文化財レベルの建造物がごろごろしているようです。
登録されるかどうかは世界遺産のようにPR次第なのかな、という気がしてきます。
文化財を破壊すると罰則があるはずなのですが、丸八の店舗も確か登録有形文化財だったはずです。
壊して良い根拠はあったのでしょうか?

157熊ぱんち@神奈川:2023/03/13(月) 13:45:47
山形市にある指定文化財(国・県・市指定、国は重文だけ)は、山形市の
ホームページにあるようです。例えば、旧県庁は国指定、旧山形師範学校
(山形北高)講堂は県の指定とかになっています。北高も、文化財指定と取り
壊しが微妙なタイミングになっていて、文化財になったので取り壊しを免れた
のか、取り壊し残りが文化財になったのか、微妙であります。

>出稼ぎ中の山形県民さん
確か、登録有形文化財は「壊しちゃダメ」という法令はなく、管理も所有者
任せ(ということは所有者の意思次第で壊せる)だったと思います。という
ことは、あの、緑青をふいたようなプレートがもらえるだけなのかな?
とにかく、重要文化財とはその辺の扱いが違ってるみたいですね。

158出稼ぎ中の山形県民:2023/03/17(金) 06:53:17
熊ぱんち@神奈川様 ありがとうございます。文化財でも油断できないということですね。

159通りすがりの人:2023/03/22(水) 11:15:33
時々楽しく拝見しております。
関東方面へ就職していたので帰省のたびに景色や道路の変わっていく地元に驚いていたものです。
話しは変わりますが、高校生まで下条町に住んでいましたが小さい頃に下条五差路の近くにあった
パチンコ屋に帰りの遅い父親を迎えに言った記憶があります。
そのパチンコ屋を覚えてる人に出会ったことがないのですがわかる方はいらっしゃいますか?
たしか店名は「パチンコ112号」だったと記憶しているのですが。
そのころは、ヤマザワ下条店の112号挟んで東南にあった小売店の長屋?の一番手前にOK牧場という1000円で食べ放題の
焼肉屋もありました。宣伝カーが市内を走り「オー、ケー!オー、ケー!OK牧場〜!・・・」と大音量で。
記憶にあるのは、ジョイ下条店や、隣の永野書房やレコード屋、道路を渡って南側路地裏に個人経営のハルピンそば屋?とか
信号十字路にあった森谷のパン?もっと北に来て今もある修ちゃんラーメン、そしてとんかつ五島?、ジョイの北側路地に食堂万里
112号をもっと北に来て小出屋食堂、現在もあるアクセス山形、さらに五差路にきて例のパチンコ屋、隣は鮒忠?の焼き鳥屋台?が
あったと記憶しています。そのころは、おつかいに行かされた肴町にも個人店舗が多かったと思います。
肉屋、三浦魚屋、八百屋、雑貨屋、金物屋など。店名は魚屋だけしか覚えていませんね。肴町商店街?入口のアザミ理容店はよく行きました。
懐かしく思いだします。とりとめもなくだらだらと書いてすみません。。。

160パチンコ店のみの返事です:2023/03/23(木) 16:26:10
>>159
下条五叉路近くのパチンコ店は「パーラー国際山形北店」のようです。今の国道112号線は下条五叉路で西方向に変わるのです。
店の前は通っていないけれど近くを通っていたのでそう名乗っていた可能性はあります。

全国のパチンコ店の場所を都道府県ごとにまとめた「ここって昔はパチンコ屋?(ここパチ)」というサイトがあるのでGoogle検索してみて下さい。
(なんと「ここパチ」にはこちらのサイトから昔の山形市のパチンコ店の店舗のいくつかの画像ページがリンクされてます)

161通りすがりの人:2023/03/25(土) 07:52:35
貴重な情報ありがとうございます。

サイトを見て確認した結果、残念ながら年代と場所が違うパチンコ屋の
情報のようでした。

昭和50年代で場所は下条五差路から112号を南進して100〜200m位の所、左側の
現在のすし街道の有るあたりだったと思うのです(建物は全く違います)。

162もこ:2023/03/26(日) 15:06:03
>>159
あったあったパチンコ屋。
現在のすし街道のところ。あそこは結構入れ替わり激しかった。
確かスーパー庄司?(間違ったらごめん)ができて、撤退した後にパチンコ屋ができたけど、すぐつぶれた。

163もこ:2023/03/26(日) 15:30:21
パチンコ屋といえば、昭和40年ころ、北山形駅東口にも2軒パチンコ屋があり、新装開店の時は飛行機からビラを撒いて宣伝していた。
色とりどりのビラで、みんなで喜んで拾い集めた。飛行機のビラ撒きはたまにしかなかった。

164あべ:2023/03/26(日) 15:35:06
旭銀座通りの道路拡張が進んでいます。
花屋さんと飲食店ビル、旧山新販売所などが次々に取り壊され、
旧ミューズ映画館も間も無くでしょうか?
大黒屋と旧サフラー東向いの角の建物は完全に更地になりました。
映画館街が入替の時間になると沢山の人々が建物から出てきて、
狭い通りが人と車でごちゃごちゃになるあの懐かしい風景も、
昔の話になってしまいましたね。
取り合えずサフラーでバーガーを食べるか、
それともジャスコの上まで我慢して歩くか等考えながら、
美弥古蕎麦の前を混みあいながらダラダラ歩くのは楽しかったです。
そんな混んでいる時間帯にトラックやバスが通る時は、
春休み漫画祭りの時などはちょっと危なかったですが…。
現在は週末の天童南駅ホームがそんな感じですね。
車を持たない十代の若い子たちが狭いホームにぎっしり並び、
到着したたった2両の電車にぎゅうぎゅう詰めに乗り込んで、
それでも「買い物や映画などを楽しんできました!」と、
皆ニコニコ顔な様子を見ると、
今は今で若い子たちも「街へお出かけ」を楽しんでいるのだなと感じます。

165通りすがりの人:2023/03/26(日) 23:23:02
旭銀座通りの道路拡張は
今後どうなっていくのか気になります。
廃業した「のゝ村」とかもいずれはなくなるのでしょうか。
シネマ通り北側が取り壊し進んでいますが南側もそうなるのでしょうか?
まつのや旗店やあし野もなくなるのか?四山楼側じゃなく「のゝ村」側に広げるのでしょうかね?

サフラーバーガーでは当時知り合いがアルバイトしていてよく買いに行きました。
懐かしいですね。あと、ミューズになる前の山形シネマプラザの時代
そこで「死霊のはらわた」をみたような?記憶がイマイチぼんやりしてますね。
隣?のゲーセンでよくムーンクレスタを遊んでいました。

シネマ旭は自分がよく映画を見に行っていたころは山形東映劇場でしたね。

166熊ぱんち@神奈川:2023/04/06(木) 16:12:30
>通りすがりの人 さん
旭銀座というと、旗艦店の丸久(松坂屋)と、映画、料亭、個人商店が立ち並ぶ
独自の賑わいがあったんですが、松坂屋の閉店とともに地盤沈下が始まったよう
な気がします。
まつのや旗店の立地とか店構えは前から気になっていたので、去就が注目され
ます。旭銀座のバス停も賑わいがなくなってきたようで、あとは大枚はたいて
料亭でも行ってみるか。なんて言ってみたい。

167出稼ぎ中の山形県民:2023/04/09(日) 08:31:34
今は山形に住んでおらず様子がわかりませんが、
私が学生だった平成初頭、夜の旭銀座はギラギラと明かりが灯り、
八百屋・花屋・煙草屋等の個人商店も遅くまで開店していました。
坂の頂上の突き当り(専称寺の向かい)には喫茶店がありました。
十日町の藤田菓子店にかけられた映画看板で公開中の映画を知り、
時々シネマ旭かフォーラムに通う。当時フォーラムは大手町の江川米穀店裏でした。
全国的に書店が減っており、「本以外の物を増やす」→「本以外の物が中心となり、
本の質も量も低下する」→「書店ファンの足が遠のき閉店する」という
負のスパイラルに陥っているようです。八文字屋は大丈夫でしょうか?
リニューアルしたという郁文堂書店は営業していますか?

168熊ぱんち@神奈川:2023/04/10(月) 11:10:19
作者さんのHPにも記載がありますが、
古書店→十日町~東原町の項
銭湯→市内その他 の項
玩具店→市内その他 の項
も、消えてしまいました(新世代の古書店は除く)。次は書店そのものかなと
いう気はちょっとしてます。古書店じゃない書店もだいぶ減りました。
本離れというのもあるかと思うのですが、コンビニとかamazonとかの台頭も
あるのかなと個人的には思っています。コンビニでちょっと雑誌みたいなの
読んで、それでおしまいという感じ。立ち読みがてらのぶらぶら街歩きが
楽しかったんですけどねえ。

169出稼ぎ中の山形県民:2023/04/18(火) 21:31:10
作者様、「仙台屋」の記事を拝見しました。動画には我が家族が震災後に逃げてきて
泊まった部屋も紹介されており、心に沁みました。当時は本当に福島が大変で、
山形にたどり着いて初めて深呼吸できました。
仙台屋には数回泊まりました。奇をてらわず、媚びず、かつ謙虚で落ち着く雰囲気でした。
道路拡張のため更地になったことは、実に残念です。あの通りには他にも高嶋養蛇所や丸八など、
思い出深い建物が多くありました。


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