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引っ越し
1
:
作者
:2022/07/27(水) 23:20:06
今回、teacupの閉鎖に伴い、こちらに引っ越しすることにします。
115
:
たっきゃん
:2022/11/22(火) 19:57:22
私がいた頃は山交本社だったので、アサヒビール園は知りません。
当時(昭和49年頃)、吹田のアサヒビール工場勤務の義兄から聞いた話ですが、
アサヒは山形産ホップを買っており、このため山形県の公式行事ではアサヒビールが使われているはず、と。
お前もアサヒを買ってくれよ!と言われたものの、近くの酒屋の店頭にはキリンやサッポロしか置いてありません。
アサヒないんですか?と尋ねたら、瓶ならある、と店主が奥に引っ込み、古そうな瓶ビールのホコリを拭きながら出てきました。
以後、山形でアサヒを買うのはやめました(笑)、スーパードライが出る前の話ですが・・
116
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/11/22(火) 20:16:54
あべ様、現在の交通情報ありがとうございます。
自分がいた頃は逸見酒店北側がアパートで行止りで、クランク前にも信号が無くて済んでいました。
三鴻深瀬前も里見洋服店とか丸正焼肉とかがあり、七日町方面から泥酔してちんたら帰宅できていました。
第二公園南側を拡幅する都市計画があるようです。既に「ブックスべにばな」や「龍上海」もなくなり、
由緒ある私娼窟跡の情緒溢れる雰囲気が拡幅によって消滅してしまうのでは、と危惧しております。
熊ぱんち@神奈川様、現在、国内ホップの生産量は岩手5割、秋田3割、山形2割で、
山形市史によれば、山形が日本一だった時期もあったそうです。幼少期にはそこら中にホップ畑がありました。
117
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/11/23(水) 06:38:34
かつて東原町1丁目の街道沿い、病院の隣に「サンドリヨン」というパン屋がありました(1979年〜2021年3月)
地域で愛されたパン屋だったのですが、山形県出身の彩坂美月氏による短編集
「みどり町の怪人」に舞台の1つとして登場していました。
「埼玉県の田舎のとある町」と述べられていますが、実際のサンドリヨンの向かいは緑町だし、これは確定だな、
紹介してくれてありがとう、と思いました。八文字屋の郷土作家コーナーにあります。
数年前の「ビエンナーレ」の時には市内の店を多く舞台にした短編集が出版されたそうですが非売品で入手不可です。
花小路商店街は花小路文学賞を立ち上げ、HPに作品を掲載しています。
他に何か市内を物語る小説はありませんか?
118
:
山を見上げていた
:2022/11/24(木) 20:37:10
自分は最近の若造と最近の子供と、今の老害と現在の老害を兼任してます。
ヤマコービルの地下のドムドムですが、何回か買い物してお世話になりました。
外側から見るだけで、買い物をしないで通り過ぎることが多かったですが、
たまに買ってすぐその場で食べたり、
別の場所へもっていって食べることもありました。
山大医1期生は学年の途中で1年生が始まって相当大変だったと思います。
山大医の1期生は2年生くらいまで小白川キャンパスのようですが、
一般教養のあと2年生から実習で飯田キャンパスをつかわなかったのでしょうか。
1期生と80年代では大違いで、
1980年入学生は1年生の一般教養から飯田キャンパスだったでしょうか。
80年代前半、昭和50年代なら後半スーパーの物価。
伝説の85円ランチ言いたくないサンプルランチの時代、
スーパーで食パンの立方体1個100円しないで買えたのでしょうか。
蔵王牧場
滝山地区谷間の村からさらに上る必要があるのですが、
牛の放牧場は今もあります。80年代は牛を放牧していて、
500mlの紙製の牛乳パックの乳飲料など、
加工食品で乳製品の原料として大量の牛乳を、
放牧場から近くの工場に出荷していたと聞きました。
平成も元年からずいぶん経って2002年か2003年。
「山形ってなんにも無い」とかいう人に、
自分は「道路があって両脇に田んぼがあって、遠くに見える山がある」
と言ってました。
バイパスの建設は良いのですが、
自分の見解では『町の中心部の道路は昔のままの方が良い』です。
119
:
たっきゃん
:2022/11/27(日) 17:47:00
山を見上げていた 様
S48年11月から始まった教養課程(小白川)は普通に2年間継続され、3年目の後期(S50年秋)に飯田に移りました。
基礎研究棟と講義・実習棟のみが完成し、臨床研究棟や附属病院はまだ建築中でした。
元々田んぼだった構内は舗装もされてなく、雨の時は泥沼で、通路として地面に板を橋のように渡してありました。
南木佳士の小説「医学生」は山大の数年前に新設された秋田大医学部が舞台ですが、そこに描かれた状況とそっくりでした。
周囲にはうどん屋力松と山銀支店だけがぽつんと立ち、小白川と違ってどこにも行けず、隔離されているような気分でしたが、
近くのスケート場は、学務課で割引優待券がもらえ、講義がないときに時々滑りにいきました。
120
:
熊ぱんち @神奈川
:2022/11/28(月) 11:55:39
>山を見上げていた さん
その1980年関係者(医学部ではない)ですが、まだかなりの教養課程は小白川で
こなしていたように思います。医学部関係の方も存じ上げていますが、一緒に
小白川の生協食堂でお昼ゴハン(85円定食や、いわんやサンプル定食ではあり
ません^^;)をご一緒した記憶はあります。
今はなき「りょうこく」のパン(8枚切りの食パンの4枚分)が、70円だったの
は覚えています。それから考えると、一斤120円から140円というところでしょ
うか。半斤で2食分。。。というビンボー話しか記憶に残ってません。カレー
(何の肉が入っていたかはいまだに謎とされる(大汗))が170円、かけそば/
かけうどんが100円で、カップラよりもこっちを選んだとか。。。あ、目から汗。
170円とか
121
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/11/29(火) 06:14:26
山形市史によれば、山形の医師不足に対応すべく県や市が医学部創設を運動し、
文部省による山大医学部認可が年度途中になり、その年の秋に入試と合格発表したとありましたが、
こちらの掲示板で、その当時の現場の声を知ることができました。
小白川については、平成元年から2年にかけて山大学館食堂がリニューアルしましたが、
薄い麦茶の匂いのする水と、肉の風味だけする玉葱カレーは伝統が引き継がれました。
122
:
熊ぱんち @神奈川
:2022/12/05(月) 13:21:36
新学寮が平清水にあるのは旧青年師範学校、駅の近くに「おんりょう」があるの
は、旧付属小中学校というのはわかったんですが、医学部が飯田にあるのは、
「なんでだろう?」という感じになります。山形市史によると、桜田推しと飯田
推しがあって、結局飯田になったようなんですが、単にその辺しかまとまった
土地がなかったんでしょうか。それこそ「おんりょう」のあたりに作れば、通院
とかにも便利そうだけど、民業圧迫とか、そういう不思議な力が働いたんです
かねぇ。
123
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/12/06(火) 21:16:48
山形市史によれば、広大な土地を必要としていたので、既に建物が建っている区域では
立ち退き問題が生じて無理だったと推察します。
昭和46年8月医学部設置決定、47年3月地主との仮契約完了、48年9月設置法案改正、
同年10月入試と、大変目まぐるしい展開でした。たっきゃん様が1期生ですね。
中桜田での土地買収が価格の点で難航し、その隙に飯田が勝ち取ったということのようです。
124
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/12/06(火) 21:25:08
昭和50年代に「大学病院」にうちの祖父が入院してたことがあるので、
もしかしたらたっきゃん様にお世話になったかもしれませんね。
皆「大学病院」と言ってました。バス停も「大学病院前」でした。
山大に入ったら「医学部」と呼ぶようになりましたが。
125
:
山を見上げていた
:2022/12/06(火) 22:38:16
≪たっきゃん≫さん、≪ドクターエッグ≫を見る限り、1年生が一般教養で、2年生から実習が始まっています。
ただし、昔は一般教養が今より重視されていて、今は一般教養が削られたのかもしれないです。
学年の途中で1年生が始まったとはいえ、3年生の前半まで教養課程とは意外です。
≪出羽≫の秋田は1970か1971年、それも学年の初めからキッチリ≪秋田大学医学部≫があったようです。
医師免許の試験に出ないほうが多い一般教養のほうが削られやすいと思ってました。
≪平成以前の物価≫≪熊ぱんち @神奈川≫さん
平成最初か、80年代までの物価は知らないですが、平成4年か5年の物価なら知ってます。
実は平成4年か平成5年は食パン1キューブというか1斤120円か100円。
1斤の食パンが100円を割り込むこともあったぐらいです。
80年代、それも前半は外食と、そしてパンも高かったのかと思います。
古い人間の言うことほど、自炊、ついでに弁当かパンでも買うと高いから自炊と言うことが多い気がします。
山大の学食は外食なのに安いものでまともに食べられたら異常と思ってるのでしょう。
≪出稼ぎ中の山形県民≫さん≪山大の学生だった人全員≫の皆さん。
実は私、たぶん山大の学食、注文どころか踏み入れたことすら全く無いかもしれないです。
≪飯田、というより蔵王飯田を知っています。≫
医学部のことも山大のことも詳しく知らないし、真実も正解も知らないです。
そしてもっと大事なことは表向きの説明は正解とウソが混じってると思ってください。
≪ハワイドリームランド≫ネットでは誰もが調べられると思います。
ここ≪消えた山形≫には蔵王飯田の≪ハワイドリームランド≫が詳しく載ってますが、
よそではあまり≪ハワイドリームランド≫を詳しく扱うサイトを見かけないです。
休暇センターと蔵王工業は隣り合ってますが、休暇センターは旧滝山村の中桜田。
蔵王工業は旧蔵王村の蔵王飯田にあったと思います。
蔵王飯田はそれだけ誘致しまくってると思います。
山形市街地には昔から済生館があって、山大に医学部を作らずとも方法はいくらでもあったはずです。
山形市街地では大学病院を作るのには手狭だと思います。
作るのなら白山か、最低でも鉄砲町より南に離れたほうがまとまった敷地がとりやすいです。
休暇センターは大学病院を誘致し損ねた代わりと邪推します。
126
:
たっきゃん
:2022/12/11(日) 00:38:08
出稼ぎ中の山形県民 様
蔵王飯田に医学部が出来るまでの道のりは、色々あったわけですね。
当時、山形、旭川、愛媛で医学部が新設され、10月に同時入試がありました。
その経緯も知らない田吾作の私は、新幹線に乗れる、東京以北に初めて行ける、と先輩に誘われ、
観光気分で受験したので、合格とわかってから慌てました(医学は全く志望外でした)。
特急「やまばと」が山形駅に着く直前、広大な田んぼの中に骨組みだけの建物が見え、かなり不安でした。
山を見上げていた 様
半年遅れの入学なので、私も教養期間が短くなると思っていましたが逆でした。
教養部の教官は学校の先生と一緒で、しっかり長期休暇はとり、2年を1.5年に短縮するのは無理です。
医学部の教官は診療や研究で休みはなく、学生も長期休暇を削られ、4年の教育を3.5年でこなして卒業しました。
大学病院は教官数も患者数もまだ少なく、お産や救急実習は、米沢市立病院や県立中央病院(霞城公園前)で受けました。
127
:
名無しさん
:2022/12/11(日) 08:03:55
一般的に誤解されることが多いですが、教師に夏休みという制度はありません。
年休の範囲内で盆休みを3〜4日とるだけです。休日出勤の振替を促されますが、
部活・面談・研修・補習授業等が毎日あるので、振替したのに学校で仕事する事も。
生徒の夏休み期間は半日部活した後デスクワークです。授業は教師の業務の1割か2割でしかありません。
それ以外の時間は企画書作成・他部署との交渉(難航することも)・膨大な事務処理・突発的な事件への対応、
ついでに、TVで見る、高校生の「転校」もほぼ無理です。定員を満たしていればそもそも入れないし、
各学校で開講科目が違うので、「年度途中からは無理です。来春新入生として受験して下さい」
となります。どうしてもの受け皿として、通信制や特殊な私立高校があるのです。
128
:
たっきゃん
:2022/12/11(日) 17:58:14
学校の先生の多忙さを知らなくて、大変失礼しました。ただ、
子供時代はもう60年前になります。筆者は小学校の門前に住んでいました。
宿題か自由研究で、職員室の裏庭にあった百葉箱を開けて、気温や湿度と、気圧だったか、
自記記録計の数値をノートするために、夏休みの間、定時に日参しました。
日直の先生はおられたのでしょうが、目の前の職員室を覗いても、いつも人影はなく、
子供心に先生は宿題もせず休めていいなあ・・と思ったものです。おおらかな時代でした。
129
:
あべ
:2022/12/11(日) 19:07:05
6小の大先輩方がラジオ番組で絶賛されていた
カフェクルーのブラックカレーを食べて来ました。
休日の散歩コースの途中に位置するのですが、
いつも日中は駐車場が満杯で中々入ることが出来ず、
今日は夕方散歩でたまたま店内が空いていました。
カレーは噂通りの美味しさで満足しましたが、
夜の定食メニューが結構充実しており、
こちらも気になるのでまた訪問したいと思います。
散歩コースの経路で早い時間に夕食が取れる店は
南高前十字路「しみずや」
山大前「北京飯店」
五小前「やぶ家そば」
七日町通り「チロル」
市役所南通り「キッチン友」
等々…素敵な店が沢山あります。
(がっつり飲む時は又別の店になりますが…)
旧市街暮らしは、
歩いて帰れる範囲で生活できるのが魅力です。
80年代以前は山形市以外の主要市部もそうだったと思います。
130
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/12/14(水) 06:39:32
東原に在住していた30年前は「やぶ家」や「清水屋」に時々行きました。
清水屋は改築し新しくなっているようで、その並びにあった「鳥龍」や「あすなろ」は姿を消してしまいました。
やぶ家は当時若奥様風の方が給仕係で、風邪ひいてタンメン食べに行った時に人と料理の温かさが身に沁みました。
卒業後何度か行ってみたのですが、あの方とは再会できていません。代替わりしたかもしれません。
内装は基本的に当時のままで、かつて奥の小上がりが子供部屋みたいに散らかっていたのが整頓されていました。
あちこちの蕎麦屋にラーメンがあるのは戦後の食糧難でそば粉が入手できなかった際の創意工夫だそうです。
131
:
あべ
:2022/12/14(水) 20:31:28
出稼ぎ中の山形県民様
「戦後の食糧難でそば粉が入手できなかった際の創意工夫」
知りませんでした。
今は県外のお客さんがメインの東原「梅そば」ですが、
立て直す前(昭和40〜50年代)はここのラーメンが絶品だと家族は言ってました。
親戚等が訪れた時の「中華(そば)をごちそうする」の出前です。
六中前(丁字路から火葬場方面に一軒目の角)の寿町支店のも美味しかった記憶が有ります。
鍋焼きうどんや鳥そば(今はやりの谷地風では無く、昔ながらのカシワ肉の物)を頼む時は
三日町の石山そばでした。
昭和の時代は自宅近くの店から出前を取るのが普通で、
上記の3軒どちらも店内で食べた事がありません。
気軽に外食するようになったのは80年代以降でしょうか。
自分の所だけなのかな?他の家庭はどうだったんでしょう?
132
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/12/17(土) 06:47:43
あべ様
私も米沢で町内の食堂からの出前ばかりでした。池波正太郎に言わせると江戸時代から皆それが当然で、死ぬまで町内から出ない人もいたそうです。
私のいた町内のラーメン屋は3つのうち2つがヨークベニマルの侵略に遭い消えてしまいました。
梅蕎麦の蕎麦は細くてすすれるタイプですね。山形は太いのと細いのと対極が存在するようです。
支店があったとは知りませんでした。私がいた頃は塾か何かでした。
以前「山川蕎麦」と表記されており、「シトロン」があった向かい(旧県庁・遊学館前の通り)にも同名の店がありますが、両者は関係あるのでしょうか?
ついでに、大手門近くにあった「やぶ屋」と地蔵町の「やぶ家」は漢字も違うし別物でしょうか?
133
:
あべ
:2022/12/18(日) 11:16:36
出稼ぎ中の山形県民様
上町の「竹ふく」蕎麦屋さんは梅そばのご兄弟の方のお店です。
五日町踏切の道を西に進み、クランクを越えた先にあります。
私はこちらのお店の麺が好きです。
三日町〜上町も「そば街道」ですね(庄司屋、三津屋)。
又、「酒街道」でもあります(男山、出羽桜分店→三津屋の近く)
八日町には「あぢやま醤油」もありますし…どれも水に左右される商売ですね。
山形市の水道って昔は線路の東側が松原の浄水場、西側が見崎の浄水場でしたので、
西側の水(あかねケ丘陸上競技場とか)は余り美味しくなかったのですが、
今は日時によってミックスされているそうなので、
東側でも美味かったり不味かったり、夏場は冷たかったりぬるかったりです。
醸造のお店は今でも井戸水なのでしょうか?
134
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/12/19(月) 06:24:48
奥羽本線ができる前までは、山形扇状地の下流である五日町あたりで湧水が豊富にあり、
甘酒屋・ところてん屋等があったそうです。三津屋敷地内に当時の井戸が残されています。
奥羽本線の小さな地下道から東側へ出た辺りの、幸町の神社付近は「吹張清水」という地名でした。
小姓町遊郭ができる前まで遊女屋が散在した所の1つです。
あぢやま醤油は風雅ですね。春は花も咲くし。以前、業務用の値札も付いてないでかい袋に入った漬物を売ってもらいました。
135
:
出稼ぎ中の山形県民
:2022/12/31(土) 11:24:51
先日、羽前千歳駅前の「エンドー」、南原の「シャルマン」「ローリエ」、双葉町の「ひろや」、十日町の「佐藤屋」、城西の「プリンセス」、寺町の「武田米穀店」、観光物産会館内の「花の種」等を訪問しました。
後継者が先代を支えつつ、様々なアイディアでお店を盛り上げている様子を見て、嬉しく思いました。
ちょっと嶋北や南館まで足を延ばしたら、県外資本の店舗で溢れ、タイムスリップ状態でした。それこそ日本中どこにでもある風景のようです。
みつますで買い物したいと思いつつ山形を後にしました。
令和になってから、香澄町の「修ちゃんラーメン」「宝来寿司」「シバタモデル」、旭銀座の「ごりら」、南高前の「あすなろ」、東原の「サンドリヨン」「松福亭」「チキンハウス」、木の実町の「仙台屋」、旅篭町の「丸八」、本町の「高嶋養蛇所」、五日町の「トヨタ糸店」、あこや町の「錦産業ビル」、十日町の「芳紅庵たかはし」等
消えた山形入りとなってしまいました。
老舗料亭六曜会「亀松閣」「四山楼」「揚妻」「嘯月」「千歳館」「野の村」のうち3つは廃業。
高そうですが、生きているうちに1回は行ってみたいと思います。
136
:
名無しさん
:2023/01/06(金) 13:32:30
>出稼ぎ中の山形県民さん
料亭や料亭文化というのも、珍しくなさそうで実は仙台には一軒も現存しなかったり
しますし、老舗料亭の「あげつま」も、私的にはうなぎ屋さんという印象だし、
だとすると、「染太」と何が違うんだろ?という気がしてます。
前から不思議なのは、「白ぎく」って、やっぱり料亭のように思うんですが、
こういうのには名前が載らないような気がします。なんか「格」とか、往時は
芸者さんが呼べるとか呼べないとか、そういうすみ分けがあったんですかねえ。
私もどこでもいいから一度は行ってみたいのですが、料亭というところで何を
していいやらさっぱりわからないので、「見果てぬ夢」ですかねえ。
137
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/01/07(土) 08:38:10
私も白菊の前を通る度に気にしていました。小姓町の萬代とかもシブいですよね。
以下、ざっくりと調査結果です。
庭があれば料亭と呼ばれる。白菊も料亭。ただし創業昭和27年なので比較的新しい。
揚妻:秋元家の来形時に付随し土着、雑穀商として創業。後に旅籠や下宿も兼ね、山形市で初めて淡水魚を扱う。
四山楼:伊藤博文が命名。
野々村:明治6年創業だがそれ以前は旧県庁付近で仕出し屋をしていた。
千歳館:明治9年創業、花小路建設の中心となった。
亀松閣:明治14年創業、明治天皇宿泊。
嘯月:市南大火からの復興のため明治28年創業。
七日町旅篭町の料亭は自由民権運動の舞台となった。(あまり贅沢できずオムレツとか食べていた)
嘯月・野々村は全国組織の役員も務めた。
ということで、上述の古い料亭は相互協力し山形の産業振興に取り組んできたということで、名前がよく挙がるようです。
全国で料亭がかなり消えているらしく、数軒でも残っている山形県は優等生だそうです。
138
:
あべ
:2023/01/07(土) 22:30:25
個人的な話で恐縮ですが、
揚妻で結納をしました。
こじんまりとした部屋で、
儀式の後、桜湯を頂き、
その後ウナギでたかな?・・・もう忘れました。
自宅で家族病人を2人も抱え結婚式も新婚旅行もできず、
儀式らしい儀式はこれだけで、
それでも付いて来てくれた家内に今でも感謝しています。
名無し様も、あの小部屋でウナギ昼食なら、
敷居が低く宜しいんじゃないでしょうか?
千歳館で親族の法事をした時は、
脇に着物を着た店の方が張り付いて、
お酒のお替りを待ってるようで
落ち着きが有りませんでした。
139
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/01/08(日) 07:27:17
まとまりのない文になりますが、
揚妻行ってみたいです。寺に囲まれていて優雅な雰囲気だと感じます。
流石に寺町の寺が「消えた山形」入りすることは無いだろうと思いますが、江戸時代には領主の転勤に伴いあちこち移動させられたり廃寺になったりもあったかもしれません。
地蔵町通りの終点(駅前通りとの交点)は寺だったと何かで見たことがあります。
ところで平成初期には揚妻の南隣が喫茶店だったように記憶するのですが、現在は駐車場のようです。
廃業した千歳館や大沼デパートの用途は未定と聞きましたが、気になっております。
140
:
熊ぱんち
:2023/01/17(火) 16:06:29
「あげつま」をチェックしていて、「やっぱ酒込みで諭吉さん一人くらいは覚悟
しなきゃだな」と思いつつ、緑町の郵便局の隣に「たい焼き わかば」を発見。
山形のたい焼き屋の老舗だそうですが、失礼ながら全く記憶がありません。
大福まんじゅうとか、三浦だんご屋の印象が強いせいなのか、まったく意識の外に
ありました。東京のたい焼き屋の支店だそうですが、「消えた山形」の皆様はよく
ごぞんじなお店なのでしょうか。
そういえば「あんぴん」っての(まあ、「大福」なんですが)も、見かけなくなっ
たような。「甘味処」も、消えつつある風景なのかな。
141
:
作者
:2023/01/18(水) 14:06:15
>>140
わかばのたい焼きは昔から有名でした。
山形には あじまんがあるので必ずしもみんなタイの形は求めないようですが。
142
:
f4
:2023/01/18(水) 20:52:07
NHKニュースで、2023年末でホテルキャッスルが閉館するという話題を知りました。あー、また一つ山形の風景が消えていくと思う次第。
だけども、老朽化とかいろいろあるんでしょうね。
143
:
熊ぱんち@神奈川
:2023/01/19(木) 14:16:02
>作者さん
おお、ありがとうございます。私的にも「大福まんじゅう」「あんぴん」がメイン
で、たい焼きってあまり意識してませんでした。「あじまん」は、公式サイトによれ
ば、昭和40年天童生まれだそうですから、三浦だんご屋とか、旭銀座の渋谷食品店
の方が年代がいってそうですね。
144
:
熊ぱんち@神奈川
:2023/01/19(木) 14:32:08
>f4さん
線引きが難しいのですが、山形市にあって、チェーン系じゃない地元系の
シティホテルって、あとは山形国際と山形グランドくらいでしょうか。
#オーヌマホテルとか、早々に退場した感じ。
ここでしばしば話題に出てくる、駅前地元系の旅館から始まる地元ホテルの
系譜も、チェーン系の(ビジネス)ホテルに巻き込まれるんですかねえ。
145
:
f4
:2023/01/20(金) 17:05:33
熊ぱんち@神奈川さん
たしかにそうかもしれません。
このほか、グリーンホテルもいつの間にか閉店していました。山形市保健所・山形市民会館近くのホテルです。
うーん・・・。
146
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/01/21(土) 06:57:52
米沢では菓子屋で売っている甘い餅は「あんびん」と書いてあり、日本全国そうだと思ってました。
大福という名称を知ったのは30歳近くなってからです。あんびんは「餡餅」だと推測します。
「あじまん」もそうです。
たい焼きについて:小白川ヤマザワから少し東に上った十字路にありました。味もチョコとかクリームとかレパートリーがあったと記憶しています。
1個90円〜120円ぐらい。北進すれば福祉センター(旧1中)・南進すれば山大北端にぶつかる十字路です。空っぽになった建物だけは今も残っています。
斜め向かいは焼鳥屋でした。
ホテルについて:キャッスル成立当時のグランドホテル(山新グループ)とのいざこざについては「消えた山形掲示板」で拝見していました。
在学中はよく待ち合わせの目印にし、卒業後は何度か宿泊しました。私がいた時代は、
北東が藤田菓子店、南東がロッキーハウス、南西がキャッスル、北西が壁画でした。
調べによれば、もともと八千代交通グループが建設したのですが、数年前に東京の不動産屋に売却されていたとのこと。
丸八・大沼・シベール・みつます等、似たような話だと思い、危機感を持ちました。
ともあれ、あの暗い暗い西口が東口の経済を圧迫する日が来るとは想像できませんでした。
147
:
山を見上げていた
:2023/01/31(火) 00:17:13
羊肉の最近
最近、サイゼリヤ冬限定で羊ポトフ、600円くらいでありました。
ハンバーグが400円でドリンクバーも200円ですが。
ヒツジは牛豚より高いようです。
昔は羊をたくさん飼ってたのでしょうか。
西蔵王の牧場は1983年はもう牛を飼ってた気がします。
羊肉より牛乳だったと思います。(私の記憶では)
井戸水、湧き水
昔、昭和の最後までは、水道局か保健所に検査してもらって、
合格すると井戸水か湧水を水道水代わりに使って良かったと思います。
規制と規則はだんだん厳しくなってく一方の気がします。
出羽と医大
秋田はもともと出羽ですが、山形市は陸奥国だった時代もあります。
秋田の医大2期生の小説は良いとして、
ドクターエッグは劣化コピーに感じました。
ネットで小説の医大生の断片だけ見れました。
ウィキペディアの秋田大学医学部は、
元の組織があり、学年初めから第一期を始めたし、
少し山大より昔の時代からあったようです。
大人の事情を推定すると、
山大医学部の飯田の校舎の建設が間に合わないので、
一般教養を2年間みっちり取り組んだ可能性があります。
6年間の残りが3年半、
建設が遅れた飯田で4年分勉学するのは大変だったと思います。
いばら木
モッズの近くのガソリンスタンドの裏、いばら木。
まだ潰れてないでしょうか。
山形さいぐ
昭和の最後ぐらいまで、
元蔵王村、元滝山村の年寄りが山形中心部へ行く時、
「街さいぐ」と言わずに「山形さいぐ」と言ってました。
寺
昔は寺と神社が優先で、その他が退く側だったと思います。
信仰だけだと江戸時代まででも寺が退く側になったと思います。
明治からは尋常小学校が優先で、寺と神社は第2優先ぐらい。
地域とか子供と密接なモノが優先だと思います。
148
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/02/14(火) 06:28:10
大沼デパートを解体する方向で決まったというニュース、
そして御殿堰を中心として七日町旅篭町の本格的な街作りを進めるというニュースを見ました。
千歳館もそこに含まれるそうです。
古い物を存続させ、活かしてくれることを願っています。
嘯月や丸八はマンションになってしまいましたが。
149
:
あべ
:2023/02/26(日) 10:46:07
今日のラジオ番組で庄司屋裏付近が「吹張」の地名で有る事が改めて分かりました。
只、「元のでん六辺りまで」というのが分かりませんでした。
150
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/02/28(火) 06:29:59
創業者の鈴木伝六氏は元々鈴木製麩所の次男であったと何かの本に書いてありました。
鈴木製麩所は現在と同じ場所に創業されているはずですが、でん六の創業場所が不明です。
もしかすると近所であったかもしれません。
かつて五日町踏切を渡ってすぐ右折すると東ソーで突き当りましたが、
(その突き当り付近のアパートに私は住んでいました)
踏切から東ソーまでの旧町名は字吹張です。ちょっと調べてみます。
霞城の吹張口は古地図によると
151
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/02/28(火) 20:45:05
霞城の吹張口は現在ビジネスホテル等があるクランクあたりですが、
「字吹張」は吹張口周辺だけでなく、もっと広い地域であったようですね。
152
:
作者
:2023/02/28(火) 22:11:00
>>148
市長の話では、御殿堰を中心とする歴史ある空間の整備とのことでしたが、歴史的建物風に作った新築物件。
一方で丸八や細谷牛肉店などは撤去対象。
歴史とは雰囲気のこと?!
大沼跡も結局マンションの予感。
153
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/03/04(土) 18:11:44
1、作者様に賛成で、建物の価値は長年使われてこそなので、観光目当てで作ったばかりのハリボテではしょうがないですね。
永井荷風は「ぼく(さんずいに墨)東奇譚」の中で玉ノ井の古く猥雑な町並みを銀座と比べ、
「浅薄に外観の美を誇らず、見掛け倒しでない事から、不快の念を覚えさせる事が遥に少ない」と述べています。
2、ホテルキャッスルがいつの間にか首都圏の会社に買収されており、あと10か月で閉業と聞きました。
3、でん六は1961年に吹張工場から移転したとHPにあり、私が覚えているのは清住町のみです。
創業地は現在でいうとどの場所にあたるのか、往時をご存じの方はいらっしゃいませんか?
154
:
熊ぱんち@神奈川
:2023/03/07(火) 12:56:11
「国指定文化財等データベース」という、文化庁がやってるHPがあるんですが、
その中で、山形県の登録有形文化財(建造物)は195件ありました。高畠線の
高畠駅とか、フラワー長井線の羽前成田駅は知ってたんですが、ここでしば
しば話題になる、七日町の市島銃砲火薬店も「登録有形文化財」だったんです
ね。あとは千歳館とか。でも、印象としては思ったより少ないかな。。。
という感じであります。確かに、丸八やたら漬けとか、何とかすれば何とか
なったのかもしれないのにな。と思いました。
155
:
熊ぱんち@神奈川
:2023/03/07(火) 13:00:34
そういえば旭銀座の郵便局って、この手の文化財指定を受けていたような気がし
ます。県とか市とかも、こういう文化財を指定するとかで保存に動けないもの
かなあと。
156
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/03/10(金) 21:34:14
紹介頂いた文化庁のHP見ました。私の庭(と認識している)宝幢寺清風荘、通称もみじ公園も登録されていました。
登録されている建造物を見ると、同じような未登録のものが市内のあちこちに沢山見られます。
そういう意味で山形は文化財レベルの建造物がごろごろしているようです。
登録されるかどうかは世界遺産のようにPR次第なのかな、という気がしてきます。
文化財を破壊すると罰則があるはずなのですが、丸八の店舗も確か登録有形文化財だったはずです。
壊して良い根拠はあったのでしょうか?
157
:
熊ぱんち@神奈川
:2023/03/13(月) 13:45:47
山形市にある指定文化財(国・県・市指定、国は重文だけ)は、山形市の
ホームページにあるようです。例えば、旧県庁は国指定、旧山形師範学校
(山形北高)講堂は県の指定とかになっています。北高も、文化財指定と取り
壊しが微妙なタイミングになっていて、文化財になったので取り壊しを免れた
のか、取り壊し残りが文化財になったのか、微妙であります。
>出稼ぎ中の山形県民さん
確か、登録有形文化財は「壊しちゃダメ」という法令はなく、管理も所有者
任せ(ということは所有者の意思次第で壊せる)だったと思います。という
ことは、あの、緑青をふいたようなプレートがもらえるだけなのかな?
とにかく、重要文化財とはその辺の扱いが違ってるみたいですね。
158
:
出稼ぎ中の山形県民
:2023/03/17(金) 06:53:17
熊ぱんち@神奈川様 ありがとうございます。文化財でも油断できないということですね。
159
:
通りすがりの人
:2023/03/22(水) 11:15:33
時々楽しく拝見しております。
関東方面へ就職していたので帰省のたびに景色や道路の変わっていく地元に驚いていたものです。
話しは変わりますが、高校生まで下条町に住んでいましたが小さい頃に下条五差路の近くにあった
パチンコ屋に帰りの遅い父親を迎えに言った記憶があります。
そのパチンコ屋を覚えてる人に出会ったことがないのですがわかる方はいらっしゃいますか?
たしか店名は「パチンコ112号」だったと記憶しているのですが。
そのころは、ヤマザワ下条店の112号挟んで東南にあった小売店の長屋?の一番手前にOK牧場という1000円で食べ放題の
焼肉屋もありました。宣伝カーが市内を走り「オー、ケー!オー、ケー!OK牧場〜!・・・」と大音量で。
記憶にあるのは、ジョイ下条店や、隣の永野書房やレコード屋、道路を渡って南側路地裏に個人経営のハルピンそば屋?とか
信号十字路にあった森谷のパン?もっと北に来て今もある修ちゃんラーメン、そしてとんかつ五島?、ジョイの北側路地に食堂万里
112号をもっと北に来て小出屋食堂、現在もあるアクセス山形、さらに五差路にきて例のパチンコ屋、隣は鮒忠?の焼き鳥屋台?が
あったと記憶しています。そのころは、おつかいに行かされた肴町にも個人店舗が多かったと思います。
肉屋、三浦魚屋、八百屋、雑貨屋、金物屋など。店名は魚屋だけしか覚えていませんね。肴町商店街?入口のアザミ理容店はよく行きました。
懐かしく思いだします。とりとめもなくだらだらと書いてすみません。。。
160
:
パチンコ店のみの返事です
:2023/03/23(木) 16:26:10
>>159
下条五叉路近くのパチンコ店は「パーラー国際山形北店」のようです。今の国道112号線は下条五叉路で西方向に変わるのです。
店の前は通っていないけれど近くを通っていたのでそう名乗っていた可能性はあります。
全国のパチンコ店の場所を都道府県ごとにまとめた「ここって昔はパチンコ屋?(ここパチ)」というサイトがあるのでGoogle検索してみて下さい。
(なんと「ここパチ」にはこちらのサイトから昔の山形市のパチンコ店の店舗のいくつかの画像ページがリンクされてます)
161
:
通りすがりの人
:2023/03/25(土) 07:52:35
貴重な情報ありがとうございます。
サイトを見て確認した結果、残念ながら年代と場所が違うパチンコ屋の
情報のようでした。
昭和50年代で場所は下条五差路から112号を南進して100〜200m位の所、左側の
現在のすし街道の有るあたりだったと思うのです(建物は全く違います)。
162
:
もこ
:2023/03/26(日) 15:06:03
>>159
あったあったパチンコ屋。
現在のすし街道のところ。あそこは結構入れ替わり激しかった。
確かスーパー庄司?(間違ったらごめん)ができて、撤退した後にパチンコ屋ができたけど、すぐつぶれた。
163
:
もこ
:2023/03/26(日) 15:30:21
パチンコ屋といえば、昭和40年ころ、北山形駅東口にも2軒パチンコ屋があり、新装開店の時は飛行機からビラを撒いて宣伝していた。
色とりどりのビラで、みんなで喜んで拾い集めた。飛行機のビラ撒きはたまにしかなかった。
164
:
あべ
:2023/03/26(日) 15:35:06
旭銀座通りの道路拡張が進んでいます。
花屋さんと飲食店ビル、旧山新販売所などが次々に取り壊され、
旧ミューズ映画館も間も無くでしょうか?
大黒屋と旧サフラー東向いの角の建物は完全に更地になりました。
映画館街が入替の時間になると沢山の人々が建物から出てきて、
狭い通りが人と車でごちゃごちゃになるあの懐かしい風景も、
昔の話になってしまいましたね。
取り合えずサフラーでバーガーを食べるか、
それともジャスコの上まで我慢して歩くか等考えながら、
美弥古蕎麦の前を混みあいながらダラダラ歩くのは楽しかったです。
そんな混んでいる時間帯にトラックやバスが通る時は、
春休み漫画祭りの時などはちょっと危なかったですが…。
現在は週末の天童南駅ホームがそんな感じですね。
車を持たない十代の若い子たちが狭いホームにぎっしり並び、
到着したたった2両の電車にぎゅうぎゅう詰めに乗り込んで、
それでも「買い物や映画などを楽しんできました!」と、
皆ニコニコ顔な様子を見ると、
今は今で若い子たちも「街へお出かけ」を楽しんでいるのだなと感じます。
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