- 1 :作者 :2022/07/27(水) 23:20:06
- 今回、teacupの閉鎖に伴い、こちらに引っ越しすることにします。
- 454 :出稼ぎ中の山形県民 :2025/10/13(月) 08:35:08
- 5小北側入口のお店は、正確には駐車場になりました。
山大付近の町並みは、民家の中に地元の人たちのためのお店が混在するという雰囲気でした。 お店の方と話したところ、現在ある中では高瀬商店が一番古いとのことです。 正門から下って突き当たる手前北側には、たこ焼きを売る小さい販売所がありました。 5小北側入口より少し東側にも1軒、お茶や食品を売る店があったようです。
- 455 :出稼ぎ中の山形県民 :2025/10/26(日) 16:59:21
- 山形市は焼鳥屋が多かったという思い出があります。
香澄町や花小路の繁華街以外で、 南高の道を挟んで北側に「鳥龍」と「やきとり名人」、みつます東原店の南隣に「ひろや」、 山大前の「たこ丸」でも焼鳥を売っていました。 東に上がるとヤマザワ小白川店の向かいに「鳥成」と「次郎鳥」、 逆に下っていけばチキンハウス裏の「鳥安」、小姓町公園北側の「鳥久」、 戸田屋正道西側の「鳥春」、駅前通りありかわ家具店隣の「鳥成」、 寿町ヤマザワ隣の「ささどり」、286号太助寿司~鬼がらし間の「こにし」、 シネマ旭斜め向かいの「八起」、五日町踏切沿いの「さいの目」、 三中北側の「福島」と「鳥友」 山形って焼鳥屋が町の重要インフラだったんだなあ、と今振り返って思うのですが、 いくつ残っているのでしょうか?
- 456 :出稼ぎ中の山形県民 :2025/11/08(土) 19:12:09
- 久しぶりに山形の「竜馬」で昼食を、と思って訪問したら、9月1日で閉業と貼り紙があり、
50年間の感謝の言葉で締めくくられておりました。ショックでした。 もともと東原1丁目にあり、近所だったので時々通っていたお店です。 北向きの入口から入ると左が厨房とカウンター席で、右にテーブル席が4つ程度あり、 隙間風が寒かったですが、野菜炒めの美味さを初めて教えてくれた場所でした。 ものすごい皿数と材料で栄養バランスをとらせてくれた「あすなろ食堂」、 鶏肉真っ向勝負でこれ以上ない満腹感を経験させてくれた「チキンハウス」、 求めても叶わない味がまた1つ増えてしまいました。
- 457 :作者 :2025/11/10(月) 06:42:54
- >>456
個人経営店は味の伝承が難しく、店主が続けられなくなった時点で幕を閉じてしまう例が多いですね。 チェーン店はその点強いのですが、個人経営店のような個性に欠けるので両方の存在が望ましいです。 あの店のあれが再び食べたいなあと思い起こすことは今も多いです。
- 458 :熊ぱんち @神奈川 :2025/11/10(月) 14:10:52
- >>456,457
そうですか。竜馬も閉店ですか、双月橋のほうへ移ってからは行く機会を失ってた んですが、小白川時代は結構な頻度で行ってました。小太りの店主は私より年上で しょうから、70代か、へたをすると80代なわけで、なべを振るのもきつかったろう と思います。ここと「松福亭」にはずいぶんと助けられたわけで、小白川、東原 かいわいもどんどん消えてますね。あとはランドマークとしては(幸い行ったこと はないけど)小白川至誠堂病院と冨輪商会くらいでしょうか。小白川交番もないし なあ。
- 459 :あべ :2025/11/10(月) 22:04:33
- 竜馬の閉店は紹介サイト「やまがたぐらし」で知りました。
未だ定食2種類しか制覇していなかったので残念です。 六中学区から竜馬に町中華飲みに(歩いて)行くのは結構気合が必要でして… 正に「いつまでも有ると思うな〇と〇」です。 最近は機会が有れば福家食堂でチョイ呑み(結構飲む?)しています。 日本酒とそばを中心に楽しんでおります。 行きは100円バスがありますし、 帰りの道は緩やかな下り坂(扇状地)ですから、 BSTBSの酒飲み番組宜しくぶらり散歩に丁度良いです。 話変わりますが、 山形法務局~寺町~地蔵前~逸見魚屋~隆勝寺の 東西方向を夜歩いて気付いたのですが、 電柱の街灯の並びが緩やかな山谷になっており、 その尾根辺りに南北方向の昔からの道路が通っているのは、 江戸時代の城下町造りの際、意識してそう造られたのでしょうか? (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 460 :出稼ぎ中の山形県民 :2025/11/11(火) 19:23:23
- 平成28年に集中豪雨で山形市のあちこちが冠水した際、たまたま居合わせたので覚えています。
山形駅構内が水浸しになりました。 ステーションデパート水没は初耳でしたので、詳しく知りたいですね。 あべ様のご指摘の「地蔵町」通りは江戸時代では城下町の最東端、つまり一番山側です。 小白川はまだ山形市に編入される前の村だし、東原に町ができるのは大正時代に山形高校ができてからなので。 鉄道線路を現在の場所に定めた経緯については、七日町衆が汽車の煙を嫌がったからと、ものの本にありました。 山形駅については、古地図を眺めてみたのですが、当時まだ一部残っていた三の丸の堀からも距離があり、 町家も無い場所が選ばれたのかな、と想像します。 その駅の場所から東進すればちょうど古い道がありました。
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