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仏が迹、衆生が本。仏は本、衆生が迹。自由に論議いたしましょう
48
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 21:04:40 ID:AJ3hr85o0
今度は、仏と衆生の本迹を考えます。
個人としての本迹は、本地が仏で、垂迹が人間。
娑婆世界は、この垂迹の人間が集まる世界ですね。
そして当然自分が仏である事は忘れ去っています。
だから不幸が起こります。
救済のために仏が出現して法を説き広めます。
この法を説く仏も、救われるべき衆生も、本地は全く同じ仏です。
仏は自分が仏と悟っている、衆生は忘れていて迷いの状態。
『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
この通りです。
すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。
仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。
こうなります。
現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。
49
:
沖浦克治
:2009/11/28(土) 07:33:19 ID:AJ3hr85o0
仏法と衆生では、衆生のための仏法ですから、人が本、仏法全体が迹ですね。
仏は仏法の中に含まれますので、
仏が迹、衆生が本。
衆生のみにかぎると、本来は仏様ですので、仏としての立場が本、人としての立場は迹になります。
人は本来仏様ですので、自身の命が全て備えた仏であり、三大秘法も全て自身に備わったものだ。
こう決める事が本覚です。
虚空会とか、御本尊様はその説明です。
これが、仏法の基本原則です。
これを外すと、外道になります。
『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
(一生成仏抄)
素直に拝すれば簡単に理解が出来ますね。
所が、複雑に読む職種の人がいます。
日蓮正宗の僧侶と言う生業の方です。
この人たちは、一切衆生と仏を別次元にし、その次元の狭間で受け渡しをすることがご商売です。
イタコですね。
霊界と現世の橋渡し役です。
仏法では霊界はありません。
若退若出が命の本質です。
『又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、』
(御義口伝巻下)
イタコは不要です。
同じく、凡夫のことを人間と言い、仏が本来で衆生が仮の姿。
これが仏法ですから、ご本仏様と、法と、お曼荼羅があれば、誰でも成仏可能です。
すると、僧侶は不要になります。
指導者は必要ですが、僧侶と言う職業にはこだわる必要がありません。
過たず方向を示せるコーチングが必要ですが、仏法は現実社会で開く教えなので、在家しかいりません。
出家は不要です。
曼荼羅至上主義の眺め人は、出家待望論ですね。
邪義です。
50
:
沖浦克治
:2009/11/28(土) 07:38:57 ID:AJ3hr85o0
本迹を整理しておきましょうね。
先ず、ここにAさんと言う衆生がおられる。
この人は、仮の姿で人間で凡夫なんです。
では、この世で悩み苦しみながら生きているこのAさんの、本当の姿、本地って言うのは一体なんだろう?
ソクラテスの言う、汝自身を知れ。
の、汝自身が本地ですね。
池田先生が、今月号の大白蓮華御義口伝講義で明快にお答えです。
『汝自身とは、一念三千の当体、尊極無上の仏の生命なのです』
はっきりしているでしょう。
Aさんの本地は久遠元初からの仏です。
御書にもあります。
『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、』
(御義口伝巻下)
書いてありますよ、これを信受するだけでいいんです。
これも、先生のご講義に書かれてあります。
ところが、これを信受されると困る人がいます。
僧侶と言う職種の人ですね。
いいや、これは大聖人様だけなんだ。
他の人間は違う。
そうして置かないと、自分達の優位性は崩れます。
日蓮正宗と言うところがそれで、寛師と言う人が始めた邪義です。
ところが、御書にはそうは書かれていません。
『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
(御講聞書)
この通りですね。
先生がそう仰せで、御書にもその様に書かれてある。
信受すればいいのです。
そうすると、Aさんは垂迹で人なんですよね、現世では、
本地とは本の事で、仏。
迹は垂迹で、人。
御書にもそう書かれています。
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
大聖人様の文底下種から見れば、衆生と仏が一如(不二)の立場では、人としての姿が垂迹で、久遠からの仏である事が本地で本。
このように仰せです。
51
:
白麦
:2009/12/10(木) 00:29:20 ID:Seomk3Kg0
沖浦さんへ
こんばんは。
>>48
への疑問なのですが、
>>48
こちらの文の、
前半では、
「個人としての本迹は、本地が仏で、垂迹が人間」と、
「本」を「本地」、「迹」を「垂迹」の意味で使われて、
後半では、
「救済されるべき衆生が目的で本。救済する側の仏は迹」
「人間のための法ですから、人が本で、法が迹」と、
「本」を「人」「目的」、
「迹」を「仏・法」「手段」の意味で使われています。
前半と後半の「本迹」の使い方・意味が違うのですが、
「本」「本地」「仏」とは、「目的」「人」
「迹」「垂迹」「人」とは、「手段」「仏」
と、いうことなのでしょうか?
それとも、
「個人」と、「人と仏」と分けた場合では、
「本迹」の意味が変わる、ということなのでしょうか?
私は、
「個人」を「本迹」で立て分ける場合でも、
「人と仏」を「救済される側、救済する側」と分ける場合でも
「本迹」の意味は変わらない、と認識します。
沖浦さんは、
「本地は同じですが、現実の姿は異なります」と言われますが、
私は、
「人間のための法」とは、
「人間の本地(絶対的幸福)を開く為(手段)の、本門(独一本門)の法」
と、認識しているので、
「本地は同じである、現実も師弟不二の関係として同じである、
弟子である私たちも本地を開き衆生の救済の為に働く」
と認識しています。
いかがでしょうか?
52
:
沖浦克治
:2009/12/10(木) 07:51:07 ID:AJ3hr85o0
師弟に本迹があるか?
ありますね。
何故なら、師弟は既に最低2人ですね。
当然あらゆる部分で本迹があります。
貴方自身、私自身にも本迹あるじゃないですか。
複数になれば増えた分だけ本迹は複雑に入り組んで増えます。
53
:
白麦
:2010/01/11(月) 23:23:14 ID:Seomk3Kg0
>>52
沖浦さん
明けましておめでとうございます
創価完勝・青年躍進の年
沖浦さんの実証勝利を祈ります
>師弟に本迹があるか?
>ありますね。
>何故なら、師弟は既に最低2人ですね。
師が「本」で、弟子が「迹」ということでしょうか、それとも
師が「迹」で、弟子が「本」ということでしょうか?
私は、
本地(本来の境地=法華経の行者の命)の師の言うとおりに実践をする、
本地を自身の命に湧現させた弟子は、不二である、と認識します。
いかがでしょう?
54
:
白麦
:2010/01/11(月) 23:29:18 ID:Seomk3Kg0
>>53
訂正
本地(本来の境地=法華経の行者の命)の師の言うとおりに実践をする、
本地を自身の命に湧現させた弟子は、不二である、と認識します。
から
本地(本来の境地=法華経の行者の命)の師と、
その師の言うとおりに実践をして、
本地を自身の命に湧現さている弟子は、不二である、と認識します。
55
:
白麦
:2010/01/11(月) 23:53:59 ID:Seomk3Kg0
>>54
訂正
「本地を自身の命に湧現さている弟子」
から
「本地を自身の命に湧現させている弟子」
56
:
沖浦克治
:2010/01/12(火) 07:49:28 ID:AJ3hr85o0
白麦さん、今年も宜しくお願い致します。
弟子の立場では、自分が本です。
この世の事は全て自分が本ですよ。
内道ですから当然です。
後の理屈は余事ですね。
57
:
岩志九郎
:2010/02/04(木) 09:43:57 ID:np8GijLQ0
池田先生について、こんな記事を見つけましたので転載します。
聖教新聞などに載った記事なのでしょうか。詳しいことを教えてください。
昭和52年に池田先生が千葉の清澄寺を訪れた際のことです。
池田先生は,千年杉に向かい木肌を撫でながら、
「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と
感極まったように大声で語りかけておられました。
清澄寺は、日蓮が幼少の頃に杉の巨木と共に修学したお寺です。
その時の池田先生は後光が射していて、
私は先生が日蓮大聖人の再来だということを実感しました。
私は、この時に先生のそばにいて、学会員で本当によかったと実感しました。
58
:
沖浦克治
:2010/02/04(木) 12:50:41 ID:AJ3hr85o0
岩志九郎さん
警告しておきます。
今後この類の書き込みをすると、アクセス禁止に致します。
大聖人様と先生が同じお方である道理もございません。
59
:
岩志九郎
:2010/02/06(土) 15:00:44 ID:fB2AjbHk0
沖浦克治様
>大聖人様と先生が同じお方である道理もございません。
これについては、当然ながら、私も沖浦様と同じ意見です。
ただ、冒頭の、 >警告しておきます。 >アクセス禁止に致します。
にはびっくりしましたが、なぜ沖浦様の逆鱗に触れたのでしょうか。
創価員で、池田氏を、日蓮上人、仏陀の再来と言ったり、同格と言ったり、
中には仏陀を超えるなどと、神格化して崇める方も多いようですが、実態は
どうなのでしょうか。
私は、沖浦様は創価員の中では数少ない普通人に近い方だと観察していました。
そのような方だから、普通人の社会と円滑に接触することができて、ご一家の
スモールビジネスも着実に発展しているのでしょう。
そのような訳で、これからも普通人との良好な関係を保って頂きたいと思います。
これからもよろしくお願い致します。
60
:
沖浦克治
:2010/02/07(日) 22:02:34 ID:AJ3hr85o0
岩志九郎 さん
池田先生本仏論は創価学会では邪義とされていますし、そう言う事を言う学会員はいません。
そう言うデマをこの掲示板で飛ばす事は禁止です。
若し、そう言う事実があるなら、具体的に書いて下さい。
この次は、貴方の発言の、
>創価員で、池田氏を、日蓮上人、仏陀の再来と言ったり、同格と言ったり、
中には仏陀を超えるなどと、神格化して崇める方も多いようですが、実態は
どうなのでしょうか。
これについて具体的事実をて提示してください。
この件が具体的に示されるまで、他の書き込みは禁止です。
それ以外の事を書けば、アクセスをお断り致します。
ご自分の発言です。
キチンと責任を持っていただきます。
61
:
岩志九郎
:2010/02/11(木) 13:14:04 ID:.UFYC.p.0
沖浦克治様 ご返事、ありがとうございました。
「池田本仏論」でググったところ、約10万件ヒットしましたが、これは未だに池田本仏論が創価内外で盛んに論評されているからではないでしょうか。「池田本仏論」の資料は創価内部から出たものが多く、反「池田本仏論」派は、これらの資料を逆手に取って「池田本仏論」を批判しているようです。
「池田本仏論」をWIKIPEDIAで調べると、
・池田が創価学会会長となった1960年以降、後に離反した福島源次郎など一部の過激な幹部が池田会長を仏であるかのように喧伝。宗門との軋轢を招いた。
・1980年の『聖教新聞』において、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している。
・1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。
と書かれています。
ということは、20年位の間「池田本仏論」がまかり通っていながら、それが容認されていたとことになります。
「池田本仏論」の経緯について、時系列資料がありましたので、以下に転載しますが、この辺りから「池田本仏論」の変遷と創価員の対応の変化を分析して行きましょう。
【会長本仏論】
会長本仏論は、すべて戸田会長逝去(S33.4.2)後の指導であり、言い出しっぺは池田である。下記【池田本仏論】の池田発言等から考えると、池田の本音は、"自分こそが本仏"ということであり、既に逝去した牧口・戸田両会長は池田本仏論の"露払い"として利用されたのであろう。
因みに、戸田会長は生前「私は凡夫である」(『戸田城聖全集』第4巻106頁)と断言している。
◆仏さまは、ウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです(池田大作・S33.9.14/『慧妙』H13.11.1)
◆我々は戸田先生を主人とし、師匠とし、親として……(池田S35.1.22)
◆戸田先生は仏さまであられます(池田大作・S35.4.1)
-----------------------
すなわち、戸田城聖2代会長の没後、創価学会は会長空席の期間が2年間にわたって続いたが、その間に、総務であった池田大作が、組織的にも完全に学会内の全権を掌握し、3代会長への道を確実なものにしていった。
そして、まさにその時期、池田は、「会長先生は仏さま」という宣伝を繰り返して会長本仏論を学会内に浸透(しんとう)させ、その上で、昭和35年5月、自らがデッチ上げた「仏の座」である会長職に就任したのである。(『慧妙』H13.11.1)
◆仏と等しくならしむ、とは、学会員として、会長の身に三業(さんごう)に等しくならしむ、と拝すべきであろう(「教授試験模範解答」『大白蓮華』S38.1)
【創価学会仏】
◆こういう大勢の学会人がいても、将来、将来といってもこれはいつのことになるかわかりませんけれども、経文が、また仏が出て説かれる時には、"創価学会仏"という仏の名前で(経文に)出る、と。"威音王仏(いおんのうぶつ)"とかいろいろあるでしょう。そういう立場で"創価学会仏"という仏になる。(中略)<※「蔵音王仏の威音王という名前も、今で考えれば、創価学会というような名前で、当時あったと考えてよいわけですか」との質問に答えて>そういう代表の仏の人物がいた、とも言えるし、ひとつは教団があった、とも言えるのです(池田大作・S38.10.18/『慧妙』H16.7.1)
【池田本仏論】
◆私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない(池田大作『前進』S40.6)
◆私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう) していなければ、異体同心とはいえない。(池田大作『前進』S40.6)
◆私のそばにいたら私になんでも言えるように境智冥合しなさい。それ以外にないよ。私は信心の指導者だ。私しかいないよ。(池田大作『前進』S40.6)
途中ですが長文になりましたので、続きは後でということで、よろしくお願いいたします。
62
:
沖浦克治
:2010/02/11(木) 18:35:30 ID:AJ3hr85o0
岩志九郎さん
先生はね、何度も自分が本仏でないと言われておられます。
ご本人がそう断言なされておられるのです。
師弟の道で、弟子が師匠に信服随従する事は当然です。
然し、師匠は本仏ではありません。
信服随従と、本仏は無関係ですよ。
境智冥合も、師弟では当然です。
これも、本仏とは無関係です。
それと、池田先生は仏様ですよ。
当然です。
ご本仏は大聖人様お1人。
全く平等に一切衆生が仏様です。
御書にあります。
今後は、こう言う馬鹿げたことを書かない事です。
この件はこれまでといたします。
これ以外の話題をどうぞ。
63
:
岩志九郎
:2010/02/11(木) 23:46:29 ID:WuBvOHW60
沖浦克治様
沖浦様の説では、「本仏」と、「仏」は違うということのようですが、非仏教系の私には、その違いがよく分かりませんので、「馬鹿げたこと」と一蹴しないで下さい。
池田氏自身が以下のように語っているのであれば、過去、現在を問わず、「池田本仏論」を公言した創価員は創価学会の反逆者として破門するべきだと思います。
>1980年の『聖教新聞』において、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」
>「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることを
>よく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している。
>1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、
>「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。
池田氏が上の発言のように本当に謙虚な方であって欲しいものですね。
64
:
沖浦克治
:2010/02/12(金) 06:50:25 ID:AJ3hr85o0
岩志九郎さん、おはようございます
創価学会では、大聖人様以外の本仏論は邪義とされます。
この点を先ず認識しておいて下さい。
紛れの無い事実です。
コレがわからない人は、私共の本仏について沈黙する事。
学会の反逆者として破門(除名)するかどうか?
これは、純粋に、その邪義を唱えた人と、創価学会だけの問題です。
この件は、その2者間で解決する以外ありません。
貴方や、私が浮かれ騒いでも無意味ですよ。
ですので、貴方のご意見は意味がありません。
貴方はこの件で、何の権利も義務も持っていません。
ただのみすぼらしい野次馬です。
池田先生が謙虚であってほしい。
これも大きなお世話です。
貴方は弟子ではありません。
みすぼらしい野次馬です。
他人の晩ご飯のおかずに苦情言う人がいるなら、貴方の同類項です。
極めて情けないですね。
この件はこれまでです。
65
:
名無し
:2010/02/13(土) 19:05:17 ID:0Xi/jdIY0
傍観はいけないかなと思って書きます。名前は…ちょっと伏せます
個人的には沖浦克治さんの
> どうも最近、眺め人さん方が、人本仏迹論だと、私を責めますね。
> 少し対話致しましょうか。
> 但し、礼儀作法を弁え、自己紹介をきちんとする事が条件です。
に、すでに同感です。
いわゆる「唯一(吉田)神道」の神本仏迹説なんてものがありますが、
神が元々の立場だとか、仏はその脇役だとか、
あるいは
仏こそが万人の長、人は下界の下らない住民?=仏本神迹説?
は、基本的にどうかしてると思っています。
イコール、神とか仏とかは、人間としての業を超越しつつも、
かつ人のためになる存在だというイメージが強いです。
例えば釈迦、もしくはジーザス。
そうしたのが信仰としてあつく捉えられ、まがい物は決して反映はしない。
つまり神仏というのは、宗教的意義がどうであれ、人の規範として正しく意識される。
逆に言うと、神仏は、どちらが本か?なんて言う発想は、日本人がよく思いつく妄想なのでは?と思います
かえって、自然を超過したい、自然の条理を無視したい、欲望を満たしたい。そんなことで信仰心を利用するのを、
一般では邪教、仏教では邪宗なんて呼ぶんじゃないかと思います。
長文失礼しました。
66
:
雨煽り
:2010/02/14(日) 09:36:31 ID:NjA8zkPc0
仏とは人間を超越した存在などではありません。
人間そのものです。
衆生を利益する働きを用とします。
仏教で言う神とは、守る働きの事です。
神天上と言って、天上界に住むとされます。
善い働きを善神、悪い働きを悪神とか悪鬼魔民とか言います。
悪神の最たるものが、他化自在天で、第六天の魔王です。
元品の法性が仏、元品の無明が第六天の魔王と現れます。
つまり、仏と言っても、神と言っても、その全ては人間のもつ働きにほかなりません。
そして、その働きは、人間だけでは無く、森羅三千全てにわたります。
神や仏を、人格をもったものと考えるよりは、
その働きの象徴(譬喩)と捉えた方が解りやすいと思います。
「そういう人がいる」のでは無く、「そういう働きをする人がいる」のです。
私達学会員は、自身地涌の菩薩だと思っていますが、
地涌の菩薩として一生成仏・広宣流布の目的を持ち、
地涌の菩薩の働きをするから地湧の菩薩なのです。
当位即妙・不改本位で、凡夫のままです。
67
:
名無し
:2010/02/14(日) 11:14:16 ID:PXXptlnc0
> 仏とは人間を超越した存在
とは書いてませんね。人間としての業を超越しつつもとは書いてます。
> 仏教で言う神とは、守る働きの事です。
> 神天上と言って、天上界に住むとされます。
> 善い働きを善神、悪い働きを悪神とか悪鬼魔民とか言います。
> 悪神の最たるものが、他化自在天で、第六天の魔王です。
仏教の非想処論ですね。
またその件については、「三界」をwikiを調べてみるといいのでは?と思います。
> 元品の法性が仏、元品の無明が第六天の魔王と現れます。
確かに御書にそう書いてありますが、沖浦克治さんの
> どうも最近、眺め人さん方が、人本仏迹論だと、私を責めますね。
> 少し対話致しましょうか。
> 但し、礼儀作法を弁え、自己紹介をきちんとする事が条件です。
からは本題から外れているのでは?
それと根本的解釈として、御書にはこういう言葉もあります。
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(報恩抄)
「其の上諸経の勝劣は釈尊一仏の浅深なり全く多宝分身の助言を加うるに非ず私説を以て公事に混ずる事勿れ」(法華取要抄)
68
:
名無し
:2010/02/14(日) 11:18:16 ID:PXXptlnc0
思うんですが、
> 元品の法性が仏、元品の無明が第六天
元品の法性が「帝釈天」、元品の無明が第六天の魔王と「あらわれる」では?
69
:
沖浦克治
:2010/02/14(日) 19:23:58 ID:AJ3hr85o0
名無しさん
キチンとしたハンドルネームをつけて、自己紹介を自己紹介スレッドでやってください。
この次、このまですと、アクセスをお断り致します。
70
:
雨煽り
:2010/02/17(水) 00:29:10 ID:NjA8zkPc0
成仏を立て分けると、
成仏する当体が「体」で「事」で「本」
成仏させる働きが「用」で「理」で「迹」
御本尊に題目をあげて成仏するのは御本尊ですか?
成仏させる働きがあるのは人ですか?
で、もう一歩奥に進んで、
成仏する姿は、それを見ている人をも成仏に導く(功徳を話す必要性もここにある)
倶体倶用の三身
『迷悟の不同にして生仏・異なるに依って(中略)衆生しらざるなり、』
理解できなくても当然なのですよね。
73
:
沖浦克治
:2010/02/17(水) 06:06:46 ID:AJ3hr85o0
雨煽りさん、おはようございます
理解できなくて当然ですね。
釈迦が久遠実成を説いた時、疑って退転した弟子がたくさんいました。
この、一切衆生本仏論は、一大超過どころではないですね。
天と地がひっくり返るような事です。
74
:
雨煽り
:2010/02/17(水) 08:09:31 ID:NjA8zkPc0
沖浦さん、おはようございます。
日本は邪国で一闡提と五千の上慢の生まれ変わりですが
ほんとにその通りのようで…
理解できないのは悪い事ではないのですから
間違いだ。などと、言わなければいいのに…
と、思います。
75
:
岩志九郎
:2010/03/24(水) 00:11:03 ID:HAj0lUCo0
創価教(学会と言うには無理がありますので)が宗教であるならば、今一度、初心に立ち返って仏教徒は何かを考えて見ませんか。
某掲示板より転載:65 名前:名無しさん [2008/01/28(月) 17:38]
創価学会のよってたつ仏教も、そもそも最初は、みるべき価値のある優れた思想だったのだ。
しかし、その創設者の没後、邪まな考えをもつ人々に悪用されてきたという歴史も共通している。
仏教は、古代インドの原始的な宗教(現代のヒンドゥ教のルーツ)に疑問を持ったブッダが、
オリジナルな人生観をつくったところから始まった。インドには階級制度があった。
王族や僧侶が、特権階級を持つことを正当化するため、輪廻転生の思想や宗教がうまれた。
悪い行い(王族に対する反乱など)をしたものは、低い階級に生まれ変わり、良い行いをしたものは、
来世で高い階級に生まれるというものだ。この輪廻転生という科学的根拠のない
ポイント制度のおかげで、奴隷も平民も不満を口にせず、王族たちのために、重労働した。
しかし、ブッダは、そんなあの世の話は、嘘で、本当は世界は「ありのまま」である事をさとった。
もともと最初の仏教は、ブッダのさとりを勉強する修行者のあつまりだったのだけど、
さとりの内容を自分のためだけに生かす「小乗仏教」と、みんなに広げて行く「大乗仏教」とに
分かれた。どっちが正しいかは問題ではなく、単純に、みんなに広げて行くという戦略をもっている
「大乗」の方が信者の数は増えて行く。また、信者を増やすためには、ブッダ本人が否定した、
あの世の話を取り入れたほうが、大衆受けがいい。それで、仏教は地獄だの極楽だのという
「あの世話」を採用した。創価学会は、仏教の中でも、排他的な日蓮の教義をベースに
して生まれた。日本に伝播した仏教は、政治支配の道具として、本来の哲学的持ち味が
形式化してしまった。日蓮がその事に腹を立て、「他の宗派は間違っている。本来の仏教に戻るべきだ」
と主張した事にはあながち間違いでもない。だけど、他の宗派や政党を攻撃するためには、
悪口も嘘もいいという創価学会の思想は、完全に仏教的にも日蓮的にも間違っている。
創価大学では、こういう仏教の原点についての勉強を学生がしてしまうと、
ボロが出てしまうので、「仏教学部」も「仏教学科」もない
76
:
沖浦克治
:2010/03/24(水) 05:41:17 ID:AJ3hr85o0
岩志九郎さん、おはようございます
その投稿ですが、かなりいい所をついていると思います。
77
:
沖浦克治
:2010/03/24(水) 06:18:53 ID:AJ3hr85o0
岩志九郎さん
貴方の言うことがここにかいてありますよ。
http://www.pegasus-pro.com/jonathan/contribution/doctor-obo1.htm
78
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/24(水) 20:03:28 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ こんばんは!
『海の文化と村の文化』を、読んで100%とは言わなくても殆どが納得でき、自分の根本は間違っていないと再確認されたのではないでしょうか。
諸外国のキリスト教の人達は、宗教的には外道ですが、生命を大切にする事は、日本人より勝っているように私は感じています。
狩猟民族特有の考え方やキリスト教の最後の審判がその様にさせているのかもしれません。
マタギが熊を愛し熊の命と山を大切にするように、漁師が魚の命と海を愛する事と相通じるようにも思います。
私はアメリカしか解らないのですが、ボランティア活動や生活が宗教と結び付いています。
世界広布を考えたとき、我々はもっと自分の生命自体が仏であると確信し話して行く事が大切だと考えています。
仏の当体である自分の生命を輝かせて一生を終われるのは、創価学会しかないでしょう!
79
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/24(水) 20:07:53 ID:JThdDrQw0
そこで、沖浦さんに考えてもらいたい事があります。
確かに、邪義を破折する事は大切な事です。
沖浦さんが、今、行われている事は、すごいエネルギーと精神力と確信が必要だと、私は尊敬しています。
それを、慈悲の言葉に変えることは出来ませんか。(今も慈悲で行っている事は理解しています)
生意気と取らないで欲しいのです。
私からの提案なのですが、今度は、違うネットの世界の掃除をされてはと思うのです。
これは、「創価学会仏」として確信を持っている沖浦さんでこそ出来る使命だと考えられます。
「海の文化とむらの文化」で述べられていることです。
『最悪の時に、自分をその慈悲の心で包む。そこに魂の勝利の姿がある。
その生命で自分を包める人は、もう悲しみは単なる悲しみではない。慈悲の心に包まれたその悲しみは、そのままで、勇気に転ずるであろう。
また、絶望は希望へと転じていくだろう。その生き方の中に本当の意味での人間の魂の勝利の生き方がある。
そういう心で自分を包める人は、また、絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。
でも落ち込んだ自分を、こんな自分は情けないと嫌う人は、そこから立ち直った後で、同じように落ち込んだ人を見ると「かわいそうに」とは思うでしょうが、心の奥底では、「弱い人だな、自分に負けてだらしない人だな」と見るでしょう。
自分を見る目が他の人を見る目なんです。したがって、最悪の自分を慈悲の心で「大好き!」と大きく包みながら、「偉大なんだ」と本当に尊敬できる人は、また、他の人をも尊敬できていくんです。』
その中で特に強調したいのは、
『絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。』
今、この事がネットの中で出来る人は、限られていると思います。
人の痛みが解り、創価学会と自分に確かな確信がなければ、出来えないことです。沖浦さんでなければ出来ないでしょう。
80
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/24(水) 20:13:46 ID:JThdDrQw0
沖浦さんも薄々感じていると思いますが、ネットの中の人達も寂しい人が多いと思います。
環境も変えて行きたい、自分も変革したいと考えているがなかなか出来ない人が多いのではないですか。
『菩薩道というのは違うんです。大聖人は「自他共に喜ぶなり」といわれています。有名な徳勝童子の譬えがありますね。』
『法華経は世間が相手にしない差別された人たちを,実は偉大な存在であると説いたんですね。
非常に革命的な思想でした。本当の意味での人間主義でしょう。』
『困難に立ち往生した自分、大失敗して、また、人からもバカにされて、落ち込んでいる惨めな自分を偉大と見ることは、
難信難解(信じ難く、理解し難いこと)でしょう。しかし、そこに立ってこそ法華経なんです。』
上の言葉を自分の体験を通して、真に理解できる人は少ないと思います。法華経を身を持って読んだ人しか解りません。
ネットの人達も邪義とつき放されたら立ち位置がなくなります。学会人と言えど現場(地域)にはなかなか帰れないでしょう。
その人達が掲示板を読んで、御本尊様に題目をあげてくれる事が第一歩です。
81
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/24(水) 20:25:18 ID:JThdDrQw0
現実の世界も同じです。まちおこしの応援をしていて感じます。
若者が地域から出て行ってしまう(高齢化)、医者がいない(無医村化)、優良企業が育たないし来ない(就職難)など・・・。
この原因も同じ所が根っこになっています。その地域の有力者・権力者達に原因がある時が多いのです。
権力を持つと人は何故かワガママ、傲慢になりがちです。自分だけは特別なんだと周りに解からせたいと・・・。
村の文化は、これに泣き寝入りします。
私は、それで会合等で「貴方達は、この地域の勝者なのです。だからこの地域で生きていく事には、殆ど問題がないし住みやすいでしょう。
しかし、多くの場合に貴方達は、他人を傷つけていませんか。地域から出て行った人、若者、同業者、観光客などを傷つけていませんか。それでは、地域から人は出て行ってしまい、外から人が来ませんよ。有力者である皆さんが謙虚な気持ちで、他人を傷つけない事が地域の発展には重要です。」と話すと、凄い反発を受けます。罵倒される時もあります。
当然と言えば当然なんですが。
沖浦さんだと出て行った人の気持ちを理解してくれると思うのです。
私が、慈悲の言葉と言ってるのは、相手に媚び諂う事や甘い言葉でなく、相手が素直に自分の事を思ってくれているんだなと感じられる、温かな言葉です。
是非、一度検討して頂けませんか。
悪い奴がのさばらない、正直者がシッカリと意見を言えるネットの創価学会正義の世界を創る事に一緒に挑戦して頂けないでしょうか。
お願いいたします!!!
82
:
沖浦克治
:2010/03/24(水) 21:19:55 ID:AJ3hr85o0
高速太郎さん
微力を尽くします。
83
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/24(水) 22:27:27 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ
早速、返事を頂きましてありがとう御座います。
一筋の光を見るような気持ちです。 私も微力ながら、頑張らせて頂きます。 道は険しいと覚悟もしています。
本当に、本当に、ありがとう御座います!!!
84
:
沖浦克治
:2010/03/25(木) 06:53:34 ID:AJ3hr85o0
高速太郎さん
一度お会いしたいと思います。
85
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/25(木) 12:48:07 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ こんにちは!
私も、お会いしたいと思います。
白馬はスキーの季節以外では、新緑の季節が良いですか? 6月位ですかね!
私は、サラリーマンですが年間数える程しか休みません。 反面、仕事に差し障りが無ければ、休みたい時は何時でも休めます。
白馬に一度行ってみたいですネ!
86
:
提 起
:2010/03/26(金) 22:18:41 ID:uOTLaTkQ0
そうですね。 仏法というのはそのまま「法則」ですが、釈迦の説いた「法」とは、形而上学的空想ではありません。
食わなければ死ぬ、ミスしたから失敗する、これがあるから彼がある、という 誰でもが理解できる真理です。
祈ったから合格したとか、入信したから解決したとか、読経したから治ったとか、票を入れたから宿業が消えた、とかいうのは日蓮教だか何だかであって、仏教ではございません。
真理というのは、上記のような、原因と結果の関係性が不確かな「空想信仰」とは異なり、誰でもが知覚できる概念であるからこそ
真理であると言えるでしょう。
87
:
沖浦克治
:2010/03/26(金) 22:44:38 ID:AJ3hr85o0
高速太郎さん、今晩は
では6月にお会いいたしたいです。
88
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/27(土) 01:06:02 ID:JThdDrQw0
>>86
提起さんへ こんばんは!
はじめまして、高速太郎と申します。
>>86
この内容が良く理解出来なかったものですから、この掲示板での提起さんの投稿を探しましたが見つけられませんでした。
私は、掲示板への投稿が、まだ2ヶ月程の新米なので、すみませんが提起さんを存じ上げません。
初めてで良く存じ上げない方に、失礼とは思いますが、教えて頂きたい事があります。
教育界や思想・哲学などの世界で「ソフィスト」の定義とは有るのでしょうか?
現在の学校教育に携わる方達にとって、ソフィスト的な考えは一つの壁ではないかと、私は考えています。
学校(小学校から大学等)の先生達が、そのような壁にぶつかる事はないのでしょうか?
あったとしたら、どの様にその壁を乗り越えているのでしょうか?
86の投稿から、かってに質問の内容に近い処にいらっしゃる方と思いお聞きしました。
場違いの質問でしたら、誠にすみませんがお聞き流しください。 宜しくお願いいたします。
89
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/27(土) 01:08:50 ID:JThdDrQw0
>>87
沖浦さんへ こんばんは!
6月近くになったら、具体的に日取りを決めてください。 楽しみです!!
90
:
沖浦克治
:2010/03/27(土) 06:32:10 ID:AJ3hr85o0
高速太郎さん、おはようございます
では日にちを決め、その日に池田先生のご指導を聞きましょう。
他にも参加者がおられると思いますが、よろしいでしょうか?
91
:
沖浦克治
:2010/03/27(土) 20:13:42 ID:AJ3hr85o0
今日の聖教新聞の6面に、減劫御書が載っています。
普段私が書いて入る事と、同じ事が書かれています。
何故、信受できませんかね?
92
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/28(日) 17:25:49 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ こんにちは!
>>90
これで結構です。 お手数をお掛け致しますが、宜しく御願いします。
今から、楽しみです!
93
:
沖浦克治
:2010/03/28(日) 21:06:37 ID:AJ3hr85o0
高速太郎さん、今晩は
では、こちらで日を決めさせていただきます。
6月、19日(土)20日(日)はいかがでしょうか?
94
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/28(日) 21:54:45 ID:JThdDrQw0
>>93
沖浦さんへ 了解しました。宜しくお願い致します。
95
:
沖浦克治
:2010/03/29(月) 06:03:40 ID:AJ3hr85o0
楽しみですね。
高速太郎さん、お土産は貴方の笑顔ですよ。
96
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2010/03/30(火) 01:30:42 ID:JThdDrQw0
沖浦さん こんばんは!
>>95
了解しましたヨ。 いつも優しい心づかいありがとう御座います。 嬉しいです!
97
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/11/03(木) 06:10:07 ID:fX21BzDw0
おはようございます。
このスレッドで語り尽くされていましたね
98
:
沖浦克治
:2011/11/03(木) 06:28:44 ID:AJ3hr85o0
某男子部員さん、おはようございます
天城さんは、総別が理解できません。
総じては仏は迹で、人が本です。
一切衆生の中で法を説く立場の仏と、説かれる立場の民衆は、人が本で仏が迹です。
これが衆生と仏の総じての比較です。
別しては、個々人はどの人も等しく、久遠の南無妙法蓮華経如来です。
ですので、その仏としての立場が本地で本、娑婆世界にたまたま人間として存在する姿は方便で迹。
こうなるんです。
御書にあります。
『九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」[已上取意]、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
荘周と言う人が、自分が胡蝶になる夢を見てその夢の中で100年経った。
然し目覚めるとそれは夢で一瞬のことで、自分は荘周で、夢で胡蝶になっていた間も、やはり荘周と言う人間だった。
同じく、私たちが生死の凡夫だと思っている時は、荘周が夢で自分は胡蝶だと思っていたのと同じで、本当は久遠からの仏なんだ。
こう言う意味です。
天城さん達は、ここを迷います。
ここがわかるなら、漫荼羅は迹ですよ。
夢から覚める道具が、本なわけありません。
何処まで行っても、本は、夢から覚める私共です。
99
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/11/03(木) 07:20:34 ID:fX21BzDw0
沖浦克治さん、おはようございます
非常にすっきりと心を通過するお話しです。
沖浦克治さんはネット活動を開始するにあたり、
正体不明な、怨嫉者が誹謗してくることは
想定しておられたでしょうか。
100
:
沖浦克治
:2011/11/03(木) 12:50:27 ID:AJ3hr85o0
某男子部員さん、今日は
想定内です。
101
:
某男子部員
◆YQRBqpNuIQ
:2011/11/03(木) 17:22:06 ID:64/BUIEA0
沖浦克治さん、こんばんは
そうでしたか。
ネット活動開始に先んじて、匿名怨嫉者の巣窟である2chを閲覧しておられたでしょうし
102
:
沖浦克治
:2013/05/21(火) 06:27:32 ID:U7nVm6lA0
このスレッドにご意見をお寄せ下さいませ。
103
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/05(水) 20:27:10 ID:???0
天城さんは、総別が理解できません。
総じては仏は迹で、人が本です。
一切衆生の中で法を説く立場の仏と、説かれる立場の民衆は、人が本で仏が迹です。
これが衆生と仏の総じての比較です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
貴殿も全く理解できていないね、其の天城さんと同じだ。
そもそも総別の二義とはどの御書にある文言か? お出し下さい。
104
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/05(水) 21:02:36 ID:???0
貴殿の詭弁は例を挙げれば、「総じて日本国民とは日本国籍を保持する
民衆であるが、別しては私が住む長野県白馬村である」と、声高に
公言しているようなものである。莫迦にされるだけです。
仏法用語の乱用はお止めになることですね。
以上、
105
:
沖浦克冶
:2013/06/05(水) 22:07:54 ID:mez.7hN20
黒川さん、今晩は
少なからず上から目線ですね。
今後もこのスタンスですと、早晩アクセス禁止になりますよ。
106
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/05(水) 23:03:41 ID:???0
貴殿の最近のカキコを見る限り数年前とは色合いが違いますね。
自暴自棄になっているようですね。
さて、余談はさせておき、貴殿の総別の二義の出典御書をお出し下さい。
上の目線も、下の目線もありません。邪義は何処まで行っても邪義です。
107
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/05(水) 23:05:03 ID:???0
自由に論議いたしましょう、でしょ?
108
:
沖浦克治
:2013/06/06(木) 07:00:09 ID:U7nVm6lA0
黒川さん、おはようございます。
私は自暴自棄になったことはありません。
そう言うデマ宣伝はダメです。
アクセス禁止の対象になりますので、今後は注意して下さい。
総別についてですが、四弘誓願を総願、菩薩などの立場の違いによるそれぞれの願を別願とよびます。
総別はここから出ています。
『私に云く二乗作仏無くば四弘誓願満足す可からず、四弘誓願満たずんば又別願も満す可からず、総別の二願満せずんば衆生の成仏も有り難きか能く能く意得可し云云。』
(法華真言勝劣事)
総別の二義は、御書にありますね。
『又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん、』
(曾谷殿御返事)
釈迦仏法のお立場でのご指南です。
対告衆の曽谷さんは、大聖人が御本仏だとは知りません。
釈迦本仏で、法華経が最高で、南無妙法蓮華経もその中の一つ程度の認識です。
この方は、方便品は迹門だから読まない、と言って、大聖人に叱られています。
南無妙法蓮華経からみたら、釈迦の本門や迹門の差は、問題にするほどではありませんが、釈迦本仏論の方は、大きな問題なのです。
それをたしなめるために、大聖人が総別を出して諭されました。
私共は曽谷さんと異なり、大聖人御本仏を熟知しております。
ですので、別に関係ございません。
109
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/06(木) 17:19:01 ID:???0
貴殿は文の上っ面しか見ておりませんね。
御存じの様、大聖人の御化導は五重相対の別があるのです。
誰が対合衆か? その御書は五重相対のどれに当たるのか?
これを無視し、「ここにこうあるから、こうなんだ」という読み方しか
出来ないから、衆生が本などという莫迦な論理展開になるのですよ。
貴殿の挙げた文の前にこうあります。
「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。
又是には総別の二義あり。」
お分かりか? この文証は権実相対にして、種脱相対であります。
権実相対=釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。釈尊の付属です。
種脱相対=日蓮又日本国にして此の法門を弘む。これが文底です。
双方文上にしろ、文底にしろ「付属」のことをお示し遊ばされているのですよ。
※総じては仏は迹で、人が本です。?????
上、付属とは何の関係もあるまい。仏法用語の乱用はお止めになるべきです。
恥をかくだけです。
「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。」
上の文証によれば、貴殿は成仏は出来ぬ、ということですね。
110
:
沖浦克治
:2013/06/06(木) 17:33:01 ID:U7nVm6lA0
黒川さん、今晩は
私共は既に内外相対にしか興味がございません。
種脱や権実は、今全く役にたちませんね。
世界宗教と呼べるものはキリスト教と回教です。
そこへ布教するに、そう言う相対は意味を持ちません。
あの御書を読めば理解出来ますが、大聖人は上行菩薩のお立場です。
釈迦本仏です。
そう言う思想は今、必要ございません。
111
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/06(木) 21:15:25 ID:???0
ほ、ほう、では確認いたしますが、
大聖人は末法の本仏ではなく、日蓮菩薩ということでしょうか??
これは重大な発言ですね。
112
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/06(木) 21:17:23 ID:???0
では、なぜ貴殿は総別の二義を持ち出し、
自分の主張を正当化するのか? これの回答もお願いします。
では、
113
:
沖浦克治
:2013/06/06(木) 21:31:37 ID:U7nVm6lA0
黒川さん、デタラメはいけませんね・
大聖人ご本仏は私が定める所です。
日蓮菩薩などと一度も言いませんよ。
総別の二義は、貴方が持ちだしたのです。
私はどっちでもいいですよ、そういうことは。
114
:
黒川和雄@法華講
:2013/06/06(木) 23:45:25 ID:???0
※大聖人は上行菩薩のお立場です。釈迦本仏です。
再度確認です。上、どういう意味ですか?
貴殿、釈迦本仏ですと言っておりますね。どういう意味ですか?
115
:
沖浦克治
:2013/06/07(金) 05:44:59 ID:U7nVm6lA0
黒川さん、おはようございます。
曾谷殿御返事は、曽谷さんが、釈文不読などと言い出した事に対しての指導です。
大聖人はこの時ご自分が御本仏だとは言われておられません。
更には、上行菩薩ですらなく、その遣いですら無いとお書きです。
『然るに上行菩薩等末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、』
(曾谷殿御返事)
序文にだいたい広めただけだ。
こう言う書き方ですので、この時点でこれを読んで、大聖人が御本仏とわかる人はいませんね。
当然文意では、釈迦本仏です。
大聖人御本仏はもっと後世にならないと出て来ませんし、創価学会が出現しなければ誰もわからなかったでしょう。
戸田先生のお陰で、大聖人御本仏が全国に広まりました。
700年かかっていますね。
当然、鎌倉時代に大聖人が御本仏などは誰も知りません。
私共は、現在の立場で、振り返ってわかるだけです。
116
:
沖浦克治
:2013/06/07(金) 06:45:48 ID:U7nVm6lA0
黒川さん
少し補足しますが、この引用の御文から大聖人御本仏は出てまいりません。
最高に拡大解釈して、上行菩薩再誕までです。
大聖人がストレートにご自身が本仏だと書いている所がありますか?
あるなら、引用して下さい。
学びたいですから。
117
:
沖浦克治
:2013/06/08(土) 21:28:03 ID:lHNUoBrE0
五百塵点劫について私感を述べます。
他の板でご質問を頂きましたが、その方はそう言う話題を対話可能な方ではありません。
ですので、無視してもいいのですが、いい機会ですし、非常に大事な事でもあります。
久遠実成とも呼ばれる長遠の過去の出来事して法華経如来寿量品第十六で説かれています。
法華経以前、釈迦はインドで生まれ、弟子たちともインドで出会い、化導をした、と説かれています。
迹門では大きく変わって、化城喩品第七で
釈迦は三千塵点劫と言う昔に、大通智勝仏と言う仏の十六番目の王子として生まれ、化導をし衆生を結縁をし、その時の縁でインドに共に生まれ、釈迦はインドで成仏をしその時の衆生をインドで又弟子としている。
と説きました。
これまでのこの世だけの結縁を否定したのです。
ですが、釈迦はこの時点ではやはりインドで始めて仏に成ったと言う立場を変えていません。
如来寿量品では、これを否定、
自分は五百塵点劫と言う極めて遠い昔に成仏し、それ以来娑婆世界で説法教化し、弟子たちを化導し続けて来た。
この様に説いたのです。
ですので、菩提樹の下で釈迦が悟ったとされる内容は、
今仏に成った。ではなくて、
元々仏だったと思いだしたのです。
この元々が久遠実成と呼ばれる五百塵点劫です。
大聖人はこれに対して久遠元初と呼ばれる時、既に仏であったと説かれました。
この久遠元初を、久遠五百塵点そのかみ、とも呼びます。
そして、注目すべきは、その久遠元初で既に、一切衆生がご自分と同じく仏であったと説かれた事です。
『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
(船守弥三郎許御書)
この思想が大聖人仏法の真髄とも思えます。
これ以前は、仏も神も、人ではなく人を越えた超絶の存在であって、人はその存在を信じ認められた時だけ、極楽や天国へ行けるとされていました。
所が大聖人は、
そうではない!
お前たちは元々自分と全く寸分たがわない仏なんだ!!
と言われたのです。
凄い事ですね。
118
:
沖浦克治
:2013/06/08(土) 21:47:51 ID:lHNUoBrE0
続きです。
『釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世番番に出世成道し在在処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
ここは、釈迦が凡夫であった、久遠元初に成仏していた久遠の本仏が五百塵点に迹仏の姿として顕れ、三世にわたって衆生を化導して行く働きの面を三世諸仏と言われ、三世は時間的な広がりを、諸仏は空間的なそれを言われたとも拝せます。
更に池田先生は、
『五百塵点劫とか、三千塵天劫とか、別に我々には関係ないのです。
今が久遠元初なんです。
久遠即末法と言うでしょう。
ですから、我々には関係ありません。』(趣意)
五百塵点劫、三千塵点劫などと言っても所詮は釈迦仏法の説明です。
大聖人はそのはるかに上のお立場です。
当然私共もそう言う事は関係無くてかまいません。
『第廿三 久遠の事
御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。』
(御義口伝巻下)
この久遠実成は久遠元初のことで、無作と仰せです。
無作。
非常に大事な事ですね。
119
:
沖浦克治
:2013/06/08(土) 22:10:30 ID:lHNUoBrE0
続きです。
『第一妙法蓮華経随喜功徳の事
御義口伝に云く随とは事理に随順するを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百麈点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり、然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり、然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、』
(御義口伝巻下)
無作三身ですが、そのままで仏だと拝せます。
信心し、戦い唱題をして行くうちに、自然の内に本来の仏の境涯になってしまう。
以前先生が言われました。
『諸君たちは何があっても創価学会の信心を貫きなさい。
そうすると、60歳ぐらいで自然に天職とも言う人生に入ります。
なろうとしなくても勝手にそうなっちゃう。
無作と言うんです。』(趣意)
私共にとって久遠元初とはこう言うことなんだと思います。
自然にそうなる。
ですので、背伸びする必要もありませんし、あの人の様になりたいと思う必要もありません。
キチンと信心していると自然に久遠元初の仏の姿を減じる。
人間革命、と言う行為を通じてそうなるのです。
境涯革命です。
自然になるのですから、普通にしていればいい。
NETでハンネで異なる人格を演じるなどは、愚の骨頂です。
そんなものは、無作ではあり得ません。
120
:
沖浦克治
:2013/06/08(土) 22:11:58 ID:lHNUoBrE0
では、今夜はこのあたりで終わりますね。
121
:
沖浦克治
:2013/06/09(日) 21:49:18 ID:lHNUoBrE0
久遠実成が何故寿量品の肝心なのか?
池田先生が言われました。
『釈迦は久遠実成で成仏したのだから、インドで生まれた時には既に仏です。
19歳で出家して30歳で成道した。
所が30歳以前も仏です。
久遠実成で仏ですから。
では、30以前と以後で全く差がないのか?
あるんです。
30までは自分が仏であることを忘れていた。
30で思い出した。
これだけの差なんです。』(趣意)
先生が講義された内容ですが、するとこの時あらゆる人に成仏の可能性が現実になります。
釈迦は仏であることを忘れていた。
だから自分もそうかも知れない。
然しながら釈迦は、久遠実成で自分がどうやって成仏したのかは明かしません。
我本行菩薩道。と説いていますが、菩薩の行の内容は明かしません。
ですので、この点は生命の起源と似ています。
地球の生命はどうやって誕生したか?
近年宇宙から生命の種が飛来したとの説があります。
これが正しいとして、この説では地球の生命の起源は説明が出来ますが、その地球に飛来した生命の元がどう言う風に生まれたのか?
これは説明出来ません。
ですので、この説では、地球と言う限られた環境に於ける生命の起源は開かせますが、生命そのものの起源は明かせません。
如来寿量品で久遠実成を明かしますが、ではどうやって釈迦が仏に成ったのか?
この点は明かしていません。
菩薩の修業をしてと書かれてありますが、その修業の具体的な内容には触れていません。
大聖人はここを説かれました。
『第廿三 久遠の事
御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。』
(御義口伝巻下)
この久遠実成は久遠元初のことで、無作と仰せです。
元々生命は仏なんだ。
何もしなくてもそのママで仏なんだ。
簡単に言うとこう言うことです。
生命の起源もそうですね。
仏法では、
宇宙がそのまま生命だから、そう言う起源が云々ではなく、元々宇宙ができた時からそれが生命そのものなんだ。
このように説きます。
戸田先生が悟達なさいますでしょう。
『仏とは生命なんだ!!』(趣意)
大聖人は仰せです。
お前たちがそのままで、この宇宙ができた久遠元初と言う時既に仏であって、この宇宙ではそう言う事になっているのだ。
『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
(船守弥三郎許御書)
仏法ではこう言う事になっています。
122
:
スタ
:2013/06/21(金) 21:13:02 ID:???0
こんばんは。今更自己紹介をする必要もないでしょう。
貴方がアク禁解除するならお手合わせ願いたい。
返信お願いネ(^◇^)
123
:
太ちゃん
:2013/06/21(金) 21:30:07 ID:???0
スタさんもネット歴が長くなっているけれど、『自己紹介』は利用者の記帳みたいなものですから簡単にでもやっておいた方がいいですよ。
というか、MSN以来で懐かしいですよ(^^)
お元気そうでなによりです。
124
:
沖浦克治
:2013/06/22(土) 05:54:49 ID:lHNUoBrE0
スタさん、おはようございます。
自己紹介がキチンと出来ない人は、来なくていいのですよ。
125
:
沖浦克治
:2013/06/22(土) 05:55:30 ID:lHNUoBrE0
それと、スタさん、アク禁なのですか?
127
:
沖浦克冶
:2013/06/23(日) 06:35:09 ID:iTPO2GuA0
先ず自己紹介をして下さい。
それがルールの板です。
とりあえずスタさんの投稿は削除いたします。
自己紹介なしで、次に書き込むと、私がアク禁に致します。
129
:
スタ
:2013/06/24(月) 21:46:32 ID:???0
よろしいのか、たずねておるのだよ。
138
:
沖浦克治
:2013/06/25(火) 22:59:33 ID:lHNUoBrE0
スタさん、アクセスをお断り致します。
139
:
沖浦克治
:2013/06/26(水) 05:45:28 ID:lHNUoBrE0
我即宇宙と言う概念があります。
『弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
『然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり』
『今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり、』
明快に説かれてあります。
私共一切衆生の命こそが、南無妙法蓮華経だ!!
寛師はここを迷ったのです。
習い損ないと呼ぶ所以です。
140
:
沖浦克治
:2013/06/26(水) 07:32:06 ID:lHNUoBrE0
富士ボーで、愚かな論争が続いていますね。
法華講の方、自称創価学会員の方、双方ともに御書が読めません。
更には、法華講員の方が、創価学会の開祖戸田先生のご指導が読めないのは仕方ないですが、自称創価の方が全く読めない。
似非創価である所以です。
口決相承について、極めて低レベルの議論がなされています。
『此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、』
(三大秘法禀承事)
同じ事を戸田先生が御書講義で述べられておられます。
『この時私も大聖人と一緒にいたんです。
貴方方もいたんですよ。
いなかったら、冗談じゃない。
ここで戸田の講義なんか聞いていません。』(趣意)
音源を持っております。
私共は、久遠で大聖人、戸田先生、と共に口決相承を受けています。
今更、誰が受けたの受けないの?
アホらしい!
141
:
けんじ
◆BDu0.rUntI
:2013/07/28(日) 16:37:33 ID:1kMhMBfY0
どなたか、唯授一人の血脈について教えて頂けませんか。
142
:
沖浦 克治
:2013/07/28(日) 16:45:31 ID:lHNUoBrE0
けんじさん、今日は
そういうものはございません。
創価学会は大聖人から興師への唯授一人の血脈は認めておりますが、あれは暫くの間の方便でしょう。
唯授一人で本当に仏法が伝わるなら、極端な密教になります。
それは仏法ではありません。
御書には、一切衆生は等しく唯我一人の当体だとあります。
『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
(船守弥三郎許御書)
ですので、師から一人だけの弟子に仏法の極意が伝わると言う思想は、邪義です。
143
:
けんじ
:2013/07/29(月) 01:55:54 ID:bDkxg.jAO
沖浦さん、今晩は
御書で、「本尊並びに血脈の大事は唯授一人の血脈なり」と有りますが、これは後世の人が付け加えたものだそうですね。
本来の仏法に反する思想なんですね。
144
:
沖浦克治
:2013/07/29(月) 06:58:56 ID:lHNUoBrE0
けんじさん、おはようございます。
富士宗学要集で、堀上人がその部分は後世の偽作だとお認めです。
又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし秘すべし、伝ふべし。
法華本門宗血脈相承畢ぬ
弘安五〈太歳壬午〉十月十一日 日蓮花押
編者の曰く日時上人(本山五世)日辰上人(要山永禄三年写)日我上人房山元亀三年比)等古写本(巻頭に其各写真を掲く)によってこれを写し一校を加へ後可と見ゆるぶんには一線を引く、而して各本について識の明らかなるは辰師本(日尊自筆の本にて写すとあり)とす、以下の無数の写本ありと云へども多くは三本を出でざれば校正用に足らざるなり。
145
:
沖浦克治
:2013/07/29(月) 07:05:45 ID:lHNUoBrE0
唯授一人は産湯相承事にもありますが、これは所詮は興師の昨ですので、全ての大聖人門下にはどう言う影響もありません。
大石寺近辺の脆弱な内部規定に過ぎないのです。
後世の誰かが、それを知っていてごまかしに最後に日付と大聖人のご署名を偽作しています。
堀さんがあっさりと、それを偽作だとして公開されました。
聖人の言く、此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決唯授一人の秘伝なり、神妙神妙とのたまいて留め畢ぬ。
弘安五年可壬午十月八日 日蓮在御判
編者曰く房州妙本寺日山我師門下写本等に依つて之を写し一校を加へ延書となす、書末年月御名判に二線を引きたる一行は後人の偽托なるが故なり。
146
:
沖浦克治
:2013/07/29(月) 07:07:47 ID:lHNUoBrE0
唯授一人なんて、仏法にある道理がありません。
私がそう書くと、
沖浦は興師を否定する!!
などと浮かれ騒ぐ人がいますが、愚かですね。
少しでも仏法を理解するなら、そう言う思想は出て来ません。
私が云々ではなく、仏法にはそう言う考え方がありません。
147
:
けんじ
:2013/07/29(月) 19:24:07 ID:bDkxg.jAO
学会の御本尊様に授与書きがどうこうだから、と言う人もいますが、この点についてどなたか
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