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仏が迹、衆生が本。仏は本、衆生が迹。自由に論議いたしましょう

117沖浦克治:2013/06/08(土) 21:28:03 ID:lHNUoBrE0
 五百塵点劫について私感を述べます。

 他の板でご質問を頂きましたが、その方はそう言う話題を対話可能な方ではありません。
 ですので、無視してもいいのですが、いい機会ですし、非常に大事な事でもあります。
 久遠実成とも呼ばれる長遠の過去の出来事して法華経如来寿量品第十六で説かれています。
 法華経以前、釈迦はインドで生まれ、弟子たちともインドで出会い、化導をした、と説かれています。
 迹門では大きく変わって、化城喩品第七で

 釈迦は三千塵点劫と言う昔に、大通智勝仏と言う仏の十六番目の王子として生まれ、化導をし衆生を結縁をし、その時の縁でインドに共に生まれ、釈迦はインドで成仏をしその時の衆生をインドで又弟子としている。

 と説きました。
 これまでのこの世だけの結縁を否定したのです。
 ですが、釈迦はこの時点ではやはりインドで始めて仏に成ったと言う立場を変えていません。
 如来寿量品では、これを否定、
 
 自分は五百塵点劫と言う極めて遠い昔に成仏し、それ以来娑婆世界で説法教化し、弟子たちを化導し続けて来た。

 この様に説いたのです。
 ですので、菩提樹の下で釈迦が悟ったとされる内容は、

 今仏に成った。ではなくて、

 元々仏だったと思いだしたのです。
 この元々が久遠実成と呼ばれる五百塵点劫です。

 大聖人はこれに対して久遠元初と呼ばれる時、既に仏であったと説かれました。
 この久遠元初を、久遠五百塵点そのかみ、とも呼びます。
 そして、注目すべきは、その久遠元初で既に、一切衆生がご自分と同じく仏であったと説かれた事です。

 『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
 (船守弥三郎許御書)

 この思想が大聖人仏法の真髄とも思えます。
 これ以前は、仏も神も、人ではなく人を越えた超絶の存在であって、人はその存在を信じ認められた時だけ、極楽や天国へ行けるとされていました。
 所が大聖人は、

 そうではない!
 お前たちは元々自分と全く寸分たがわない仏なんだ!!

 と言われたのです。
 凄い事ですね。


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