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仏が迹、衆生が本。仏は本、衆生が迹。自由に論議いたしましょう

119沖浦克治:2013/06/08(土) 22:10:30 ID:lHNUoBrE0
続きです。

 『第一妙法蓮華経随喜功徳の事
 御義口伝に云く随とは事理に随順するを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百麈点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり、然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり、然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、』
 (御義口伝巻下)

 無作三身ですが、そのままで仏だと拝せます。
 信心し、戦い唱題をして行くうちに、自然の内に本来の仏の境涯になってしまう。
 以前先生が言われました。

 『諸君たちは何があっても創価学会の信心を貫きなさい。
 そうすると、60歳ぐらいで自然に天職とも言う人生に入ります。
 なろうとしなくても勝手にそうなっちゃう。
 無作と言うんです。』(趣意)

 私共にとって久遠元初とはこう言うことなんだと思います。
 自然にそうなる。
 ですので、背伸びする必要もありませんし、あの人の様になりたいと思う必要もありません。
 キチンと信心していると自然に久遠元初の仏の姿を減じる。
 人間革命、と言う行為を通じてそうなるのです。
 境涯革命です。
 自然になるのですから、普通にしていればいい。

 NETでハンネで異なる人格を演じるなどは、愚の骨頂です。
 そんなものは、無作ではあり得ません。


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