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仏が迹、衆生が本。仏は本、衆生が迹。自由に論議いたしましょう

1沖浦克治:2009/08/18(火) 19:37:59 ID:AJ3hr85o0
 どうも最近、眺め人さん方が、人本仏迹論だと、私を責めますね。
 少し対話致しましょうか。
 但し、礼儀作法を弁え、自己紹介をきちんとする事が条件です。
 
 質問を沢山並べないのと、質問返しは原則禁止ですが、例外はあります。
 その判定は私が致しますね。

 私の掲示板ですのでね。
 それと、この機会にアクセス禁止を全て解除したします。
 クシだけは禁止致します。

 では、どうぞ。

2沖浦克治:2009/08/20(木) 07:05:14 ID:AJ3hr85o0
 逃げ専、天城さん

 ホラホラ、ここここ!!

3小枝田:2009/08/20(木) 23:48:39 ID:Q1PFbMWc0
天城の旦那がここにこれたら
座布団三枚・・いや〜〜五枚進呈ですwwww

4小枝田:2009/08/20(木) 23:51:39 ID:Q1PFbMWc0
天城さん、やまいぬ。さん、こっちで話そうよ。
○かたかの掲示板、またまたぶっ壊れてるみたいだしねwwwww

5沖浦克治:2009/08/21(金) 21:43:43 ID:AJ3hr85o0
恋、小野、プリン、漫才トリオを哂う

 本覚なら、曼荼羅も仏法も必要ない。

 これが、万トリの主張ですね。
 何度教えても理解ができない。
 駄目トリオです。

 人はね、生まれながらに人です。
 ですが、人としての文化の中で育ち、人としての教育を受けなければ、人としての完成はありません。
 これらの条件が人としての成長への必須条件なのです。
 然しながら、チンパンジーを同じ条件下で生育しても、人にはなりません。
 明白な事実です。

 同じく、
 人は本来仏の当体ですが、正しい仏道修行という条件で育たねば、仏としての能力は発揮できません。
 チンパンジーの譬えとは反対に、人が正しい仏道修行で仏の境涯を覚知できるのは、本来が仏であるからです。
 本来が仏の当体でないなら、チンパンジーが人と同じ条件下で育成されても人にはならないように、人は仏の境涯を開く事は不可能です。 
 成仏と言う行為は、元々人が仏であるからこそ可能なのです。
 極めて簡単明瞭な事実ですよ。

 駄目万トリオはこの単純な事実にすら気付かない。
 ここまで仏法の基本概念に迷うのですから、まともな御書の勉強をしなかった証拠ですね。

 あのレベル、御書無理です。

 座談会参加から始めるべきでしょう。

6沖浦克治:2009/08/22(土) 08:17:23 ID:AJ3hr85o0
 法華講員の伽羅さんに少しご説明いたしました。

 伽羅さん、貴方にも勘違いがおありですね。
 御本尊様は通常お曼荼羅ですよ。
 貴方も朝夕拝むでしょう。
 この元になったものがあるんですよ。
 それを、釈迦は虚空会の儀式で、虚空の宝塔。として説いたんです。
 無論、現実に虚空に宝塔が出現はしませんよ。
 物理的に不可能ですね。
 3000年以前、人類にあのような技術があったなら、今頃私も貴方も、アンドロメダ星雲あたりに観光に行ってます。
 でもね、ジャンボジェットでアメリカあたりがせいぜいじゃないですか。

 宝塔のサイズご存知ですか?
 高さ五百由旬(一由旬とは帝王の一日の行軍距離を指し、その長さについて諸説あるが、一説によれば五百由旬は地球の半径ほどの距離になる)、縦広二百五十由旬に達する巨大な宝塔が大地より出現し、空中に浮かんだと説かれています。
 これね、今でも絶対に不可能です。
 更にですよ、地涌の菩薩だけで6万恒河沙集まった。
 貴方方先日、わずか75000人の結集で大変だったじゃないですか。
 この数どうやって集めますか〜??
 不可能ですね。
 地球の全人口の何億倍ですよ。
 無理です。

 宝塔は釈迦の命の例え話です。
 釈迦はね、

 自分だけじゃなくて、お前達一切衆生の命もこれと同じなんだよ。
 仏ってね、遠いところにいるんじゃないんだよ、お前達の命がこう言う宝塔で仏なんだよ。
 これを覚知する事が成仏って言うんだよ。

 このように教えたんですよ。
 大聖人様はもっと進んでおられます。
 宝塔って言っても、衆生には夢見たいなお話で理解できません。
 そこで、このままじゃ宝塔そのものが極楽浄土になっちゃう。
 それじゃ、仏法ではない。
 それで、宝塔を具体的にお曼荼羅としてご図顕なれたんです。
 貴方も私も拝むでしょう。
 あの御本尊様なんですよ。

 釈迦も大聖人様も、私共も、全く差別が無い命を持っていて、それが仏であって、釈迦が仮に虚空の宝塔として譬えた。
 ですが、この時は理論ですね。
 実際に話じゃどう言うものか理解できない。
 理解できないので信じ難いですよ。
 それで、大聖人様は御本尊様として具体的にご図顕なられた。
 ありがたいですね〜。

 本体は、私や貴方の命そのものです。
 それを仮に、お漫荼羅として具体的表現なされ、私共一切衆生の修業のために残しおかれた。
 御書に明確に残っています。
 疑う必要すらございません。

 これがお曼荼羅ですよ。
 伽羅さん、理解できますか?

7沖浦克治:2009/08/22(土) 18:25:30 ID:AJ3hr85o0
 同じく法華講員の、the聖教新聞社さん。に少しご説明を致しました。

 御本尊様を信じるとは、自身の己心を仏と信じることなんですよ。
 鏡を見て身支度するでしょう。
 あれはね、自分自身の姿を確認しているのです。
 でも、一度も鏡を見たことの無い人がいて、初めて鏡を見れば、写っている者が自分だとは最初には理解できません。
 チンパンジーに鏡を見せた実験があります。
 最後には裏まで見に行って、そして興味を示さなくなったそうです。
 人より知能が劣りますので、自分だとは気付かないで、害の無い映像程度の認識で終わったのです。
 人ならば、知能が優れていますので、そのうち気付きます。

 これは自分の姿なんだ。

 御本尊様を信じるとは、我が己心の仏を信じる事なんです。
 お曼荼羅の中に仏様はおられません。
 自身の己心の仏が写っているのです。
 貴方はこの点に迷いがある。

 『問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界百界千如一念三千を知らざるなり。』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 ご本仏様のご指南ですよ、信じる以外ありません。
 お曼荼羅はその手段です。
 ここをキチンと弁えないと駄目です。
 戒壇様とこの御文は直接は関係がありません。
 戒壇様本懐論と、一大秘法が戒壇様とのご主張は、日蓮正宗という極めて小さな宗派の中の、内部規定に過ぎません。
 貴方方がそれを信じる自由はございます。
 ですが、それを世間様に伝えるには、説得作業と言う途方も無い遠い道が必要となりますし、当然、何方が見ても、理解で来得る、明快な論拠も必要です。
 所が、日蓮正宗にはその様な努力も論拠も公平に見てございません。

 戒壇様本懐論は、既に私が破折致しておりますし、ご希望ならば私の板でいくらでも論議に応じます。
 元々戒壇様本懐論と、一大秘法論は寛師によるもので、大聖人様の御書には一言もございません。
 寛師と言う法主が保身のために考え出したもので、この寛師は国家諌暁を一度として行っておりません。
 ですので、立正安国を絶対遺言となされた、大聖人門下の人間ではございません。
 この点を先ずキチンと理解なさる必要がおありですね。

 ついでに申しますが、私共が寛師書写のお形木様を拝む事と、寛師の堕落僧振りには関係がございません。
 末法のご本仏様ご図顕の御本尊様は、書写した人間の人格と言うような些少なものに、お力が影響を受けるよな矮小な物ではございません。
 この点も、正しいご認識が必要でしょう。

 さて、曼荼羅は私共が己心の仏を観じるための道具。

 この点を正しくご認識される事が、貴方にとって大聖人様の仏法理解の第一歩でしょう。

8沖浦克治:2009/08/22(土) 20:16:05 ID:AJ3hr85o0
 恋さんが、馬鹿で愚かなことを言ってますね。
 以下彼の発言です、出所は漫才板です

>『人が本、仏法全体が迹』
ふむ。だから、何なのだろう???

「だから、(戒壇)本尊は不要だ」と言いたいだけなのは分かっているが、
これとて、牽強付会にすぎない。
仮に、そうだとしても、やっぱり『だから何?』となる(笑)
 〜引用終わり〜

 この人全く仏法知りませんね。
 他の世界宗教は全て、人が迹で手段、神が本で目的。
 こうなっています。
 先生のご指導です。
 以下、法華経の智慧 〜二十一世紀の宗教を語る 第五巻 (池田大作著/聖教新聞社 1999.9/20刊)
如来神力品① 地涌の菩薩への「付嘱」―― 広宣流布への荘厳な儀式
全民衆よ!汝自身の尊貴さに目覚めよ!
 より、抜粋引用。

 『名誉会長(池田大作創価学会名誉会長)  「凡夫でしかない」 ―― そういう言い方は、とんでもない間違いです。
 そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
 この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
 然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』 (全集P1358)   
 『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』 (全集P1359)  
 まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。 
“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。 
 仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
 どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、
 実は凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない ――こんな宣言は他にありません。
 まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
 歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。
 そう言えるのではないだろうか。 』

9沖浦克治:2009/08/22(土) 20:28:50 ID:AJ3hr85o0
 恋さん、貴方眺めて邪義、楽しいですか〜〜??
 
 ホラね、お読みなさいね。

 『まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
 歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。
 そう言えるのではないだろうか。 』

 権威のための宗教が、世界中でテロ呼んで多くの尊い人命が失われています。
 これはね、人が神のためにいて、手段なんです。 
 だから爆弾背負って、人ごみで爆発させるんです。
 このままでは、必ず核爆弾持ってそれをやらす宗教指導者と、実行する信者が出ます。 
 ある人が言いました。

 現代社会は、乗客全員が自動墜落装置のスイッチを握る、ジャンボジェット機のようなものだ。

 恋さんね、東京で核テロ起きたら、何百万人が犠牲ですよ。
 東京だけじゃないです。
 何処でやられても、同じなんですよ。
 小さな原子爆弾積んだ車や飛行機で、どこかの国の原子力発電所テロで破壊されたら、人類ほとんど終わりますよ。
 その行為の根本思想が、

 人は迹、神は本だ。

 池田先生がこう仰せなんです。
 戒壇様が不用とか、必要とか、そう言う小さい小さい問題誰が言いますか。

 そう言うことは日蓮正宗に任せておいていいんです。
 創価人は、そう言う事どうでもいいですよ。

 人類を滅亡から救わないとならない。

 戸田先生が仰せでした。
 
 『大ちゃん、300万世帯やれるか? 
 急がねばならんのだ。』(取意)

 どうして戸田先生が言われたか?
 何故池田先生が即時にお引き受けになられたか?

 貴方ね、恋さん、考えなさい。
 本当に貴方って駄目ですね〜〜。

 屁理屈こねて、俺はここまで知ってるぞ!

 そう言うご自慢奥様にでもどうぞ。

10沖浦克治:2009/08/22(土) 22:01:30 ID:AJ3hr85o0
 字の読めないような恋さんに、

 お読み。

 『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』 (全集P1359) 

 ホラね、凡夫(人間)が本(仏)、仏は迹(仏)。って、ちゃんと大聖人様がお書きですよ。
 素直に読めばいいんです。
 それを、貴方は一大秘法が何が何でも戒壇様にしないと困る。
 で、屁理屈ひねくって難癖つけて大恥かいてるんですよ。
 情けないね〜〜。

>★総じていえば、全民衆、一切衆生、すべて仏です。
  有情に限らず、非情もすべて仏、『一念三千は情非情に亘る』です。
★別していえば、法華経の行者であり、御本尊受持し広宣流布に戦う同志です。
★さらに、両重の総別でいえば、大聖人、ただお一人です。

 何処にそう言うことが書いてありますか〜〜??
 捏造専門難癖眺め人楽しいですか〜??

 『然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。』
 (御義口伝巻下)

 大聖人様お一人??
 そう言嘘やめましょうね。

14沖浦克治:2009/08/24(月) 06:19:48 ID:AJ3hr85o0
夕焼けさん、おはようございます

 お疲れ様でございます。
 宜しくご研鑽くださいませ。

15夕焼け:2009/08/24(月) 18:44:10 ID:5Xe6ItNU0
「本」「迹」について (その1)

これは、マグマグ様、天城五兵衛様に捧げます。

わたしの意見の一つは

人の己心の妙法は「本」で御本尊は「迹」というものです。
しかし、御本尊にも同じ己心の妙法が内包されていますから、
御本尊の己心の妙法は「本」で人は「迹」というものでもあります。

この己心の妙法は、

○阿仏房御書に
「己心の宝塔を見ると云う事なり」云々、
「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり」云々

とあるように、妙法蓮華経と考察できます。

もう一つのは、

日蓮大聖人は「本」で御本尊は「迹」というものです。
これは日蓮大聖人を妙法蓮華経如来とするときの相対です。

 ○御本尊七箇相承に
「師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと
・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し
・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影
・今の大曼荼羅なり」云々
○四条金吾殿御返事に
「法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う
仏の御心はこの文字に備れり」云々

さらに、

○小乗小仏要文に
「本より迹を垂るるは」云々
○百六箇抄覚書に
「本従り迹を垂れ迹は本に依る迹は究竟に非ず」云々

とあるように、
日蓮大聖人より、日蓮大聖人によって顕された御本尊は
日蓮大聖人に対して「迹」と考察したのです。

別な角度からみてみると、

 ○草木成仏口決に
「答えて云く草木成仏とは非情の成仏なり」云々
「答えて云く妙法蓮華経是なり
・妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、
有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり」云々

御本尊は非情の成仏で死の仏と拝せます。
そして、日蓮大聖人は有情・非情の成仏で生死の仏、妙法蓮華経如来と拝せます。
在世と滅後からみれば、日蓮大聖人は生の仏、御本尊は死の仏となります。

 ○百六箇抄に
「事の一念三千・一心三観の本迹   
釈迦三世の諸仏・声聞・縁覚・人天の唱る方は迹なり、
南無妙法蓮華経は本なり。」云々
「本化本尊の本迹
七字は本なり・余の十界は迹なり、
諸経諸宗中王の本尊万物下種の種子無上の大曼荼羅なり。」云々

一念・一心が「本」で三千・三観が「迹」。
つまり、御本尊に配されている南無妙法蓮華経が「本」でその他が「迹」ということなのですが。
御本尊を観たときに、その他が「迹」となる宝塔中の釈迦と多宝を、
わたしは、最初に挙げた己心の妙法が妙法蓮華経であり、
日蓮大聖人が妙法蓮華経如来であるなら、
釈迦が「人」で多宝が「御本尊」と拝せるのではないかと気づいたのです。

そう観ると、御書を拝していても、いろいろと見えてくるものがあるのです。
虚空会の儀式の意味、人が本仏なども。

つづきます。

16夕焼け:2009/08/24(月) 18:47:15 ID:5Xe6ItNU0
「本」「迹」について (その2)

話を進める前に、ここで考察している「本」「迹」は、
釈迦・天台の理観の妙法と日蓮大聖人の事行の妙法を
相対していう「本」「迹」では無いことを、誤解を防ぐため付記しておきます。
事の一念三千の当体である御本尊を「迹」とはとんでもないと、
お怒りにならないようお願いいたします。

○四条金吾殿御返事に
「其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、
 諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり
 多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証なり」云々
○本尊三度相伝に
「諸法は境なり実相は智なり、
 宝塔品の時多宝の境・釈迦の智と一塔に座し玉ふ事は境智不二の淵源を表するなり」云々
「多宝已に入滅は是れ死なり、釈迦未だ入滅せず是れ生なり、
 此の動静の二を色心に当つる時心は動なり色は寂なり、
 故に多宝は我等死々の死相、釈迦は我等生々の生貌なり、
 二仏一塔に座すとは即生死即死生なり」云々
「若し理智に約せば釈迦は我等が四陰心躰なり、心には動転の用有る故に釈迦には説法あり、
 多宝は我等が色陰の躰なり色は寂なり故に多宝は法を説かず」云々

草木成仏口決の衣文とあわせ、釈迦が「人」で、多宝が「御本尊」と気づいたのですが、

○百六箇抄に
「本因妙法蓮華経の本迹
 全く余行に分たざりし妙法は本・唱うる日蓮は迹なり、
 手本には不軽菩薩の二十四字是なり、又其の行儀是なり」云々。
「下種の法華経教主の本迹
 自受用身は本・上行日蓮は迹なり、
 我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」云々。

とあり、この「人」は名字即の我等であり、日蓮大聖人にあてて考えられます。
このときの日蓮大聖人は上行菩薩の再誕日蓮であります。

○百六箇抄に
「下種証明・多宝仏塔の本迹
 久遠実成・無始無終・本法の妙法蓮華経皆是真実は本なり、
 久遠の本師は妙法なり、本有実成釈迦多宝は迹なり」云々。

己心の妙法が「本」、釈迦多宝はいずれも「迹」なりと拝せます。
それでわたしは、「人」「御本尊」ともに「迹」と考察したのです。

このときの「本」「迹」は理と事ではなく、体と用の関係です。

つづきます。

17夕焼け:2009/08/24(月) 18:48:44 ID:5Xe6ItNU0
「本」「迹」について (その3)

次に虚空会の儀式に約してみると、
さらに確信をもつようになりました。

今回は煩雑になるので、依文は載せません。
御書中にかならずありますので探してください。

法華経の中で、宝塔品から神力品までの虚空会で、
釈迦の説く法華経が真実であることを証明する為に、
東方宝浄世界からきた多宝如来が、七宝の宝塔に座して大地から湧現します。
多宝は半座をわかち、釈迦が塔中に入り儀式が始まります。

日蓮大聖人は霊山一会儼然未散の真実を示すため、
法華経のなかの二処三会、
二処三会のなかでも虚空会の儀式を末法に移して御本尊を顕されました。
その御本尊を観ると釈迦・多宝は、南無妙法蓮華経を中に左右に配されています。

「半座をわかつ」とは、
我等が受戒を促すということです。

「釈迦が塔中に入る」とは、
我等が信を以って宝塔に入るということです。

「うなづき合う」とは、
我等が唱え、御本尊が唱えるということです。

「広長舌を付けて」とは、
我が霊山の一切諸仏・諸菩薩・人天・その他諸の大衆が唱え始めるということです。

わたしたちには、見えないしまた聞こえないですが、
我等が唱題するとき、御本尊の中の「余の三千」総ては南無妙法蓮華経と唱え、
本有の尊形、南無妙法蓮華経の当体となっているのです。

境智冥合して、我等の五体が霊山となり、胸中の宝塔が開き、
その総在が南無妙法蓮華経の当体となっていくのです。
日々信心するということは、日々虚空会の儀式に居るということなのです。
まさに霊山一会儼然未散ということです。

一応は、我等は、霊山の大衆中なのですが、
名字即の凡夫となるとき、虚空宝塔に入り、東むきに座し、
我が御本尊に向かうことになるのです。

以上。
とりあえずこれまでとします。

追伸

人が「正」で御本尊は「依」とする見方がありますが。
「依」とはよりどころの意ですから、人の依怙依託となる御本尊ということなら、
それは正しい見方だと思います。
譬えれば、水と魚のような関係にあると見ることが出来ます。

18沖浦克治:2009/09/03(木) 12:21:58 ID:AJ3hr85o0
 移動いたしました

247 名前:一学会員 投稿日: 2009/09/03(木) 10:00:31 ID:rpPqhjqw0
沖浦さんの意見を幾つか読みました。

私は、沖浦さんの考えには、学会本部の教学部等と直接相談した方が良いことが多々あると思います。
私からは、個別の教学や学会指導の話はしません。

自由な議論ができる環境は大事ですが、仏法は自他ともの幸不幸に関わる事ですから、意見の内容によっては慎重な配慮が必要です。
和合僧の団結・協調も大事ですから、仮に自由な主張をしても、根幹の法に反する内容を宣伝するようなことになると、罰を受ける事になります。

19沖浦克治:2009/09/03(木) 12:29:23 ID:AJ3hr85o0
 一会員さん

 学会本部の教学部が私に話があるなら何時でもどうぞ。
 門戸は常に開いておりますよ。
 でも、こないでしょうね。

 根本の法に反する内容は、私はしたことがありませんので、そう言う邪義を唱える人を探して注意されればいいでしょう。
 例えば、

 戒壇様本懐論。とか。
 人が迹で、曼荼羅本。とか。
 大聖人様だけは特別だ。とかですよ。

 そう言う邪義を垂れ流す人が、ネットにはまだ存在しています。
 そちらをお相手なさいませ。

 それと、罰が怖くて信心できますか!

 そう言う覚悟のない人はね、ネットで教学なん語っちゃいけませんよ。

20沖浦克治:2009/09/06(日) 20:18:19 ID:AJ3hr85o0
 私が以前書き込んだ内容で浮かれ騒ぐ人がいまだに多いですね。
 以下の書き込みです。

>私が正しいのです。
 私を攻撃するものは、邪儀です。

 これは、人が本、仏が迹だとの創価学会の教えが正しい。
 私が主張することに対して、眺め人がたちが攻撃してきましたね。
 以下、本日の富士ボーでの、8秒着信恥カキ、マグマグさんの書き込みです。

>幼稚で出来損ないの邪義「人本仏迹」が云々され出し、

 この人は邪義ですね。
 なぜならば、人が本であり仏は迹だと明確に説く大聖人様の仏法を否定しているからです。
 この点に関しては私は一歩も引きません。
 貴方方が邪義で、私が正しい。
 こう言い切ります。
 若い時戸田先生に、そう言う毅然とした態度を教わりました。

 『邪義邪宗邪師に対しては、一歩も退かぬ勇気あるべきことである。』
 以上青年訓より抜粋引用

 創価人の私が邪義や邪師に一歩も引きましょうか。
 そう言う軟弱な訓練を受けておりません。
 また、そう言う確信がない人が布教が出来るはずありません。
 私がそう言い切った事で文句のある方々。
 どうぞ、文句は戸田先生にお言いなさいね。

 創価思想はね、人が本、仏は迹。
 はっきりしています。

 それを認めない方は、日蓮正宗へどうぞ。
 創価にいても無駄ですよ。

21沖浦克治:2009/09/07(月) 19:58:31 ID:AJ3hr85o0
 人間革命に載っています。

 マグマグ氏が自らの8秒間着信の大恥をキチンと釈明も謝罪もせず。
 自らのミスを知らん顔して次の難癖を書きなぐる掲示板。
 根底に彼の悪意と、管理人の貴方の品格のルーズさがあるのです。
 既に、貴方も、阿部日氏も、マグマグ氏も、仏法者としての威厳も品格もございません。

 既にここには、悩める友に勇気と希望を運ぶ、功徳の華の咲く書き込みが皆無です。
 創価とは、人類の命こそ尊極の当体であり、ご本仏様と全く変わらない仏である。
 との、最高の価値を人の心の中に創る行為です。
 そして、その具体的な戦いは、人間革命の運動の拡大です。
 本日の人間革命に書かれています。

 「本当の仏法は、絢爛たる伽藍の中で、民衆を額ずかせ、僧侶が教えを説く僧侶中心の伽藍仏法ではない。
 大聖人の仏法は民衆仏法です。
 主役は社会で戦う在家の民衆です。
 事実、皆さんは、立派な社会人として生活され、常識豊に、社会の尊敬と信頼を勝ち得つつ、布教に汗を流し、指導もし、広宣流布を推進してくださっている。
 そして、万人が『仏』の生命を具えているという、生命尊厳の思想を、広く世界に伝え抜いておられる。
 この私達の運動は、前代未聞の仏教運動といえます。
 いわば、創価学会の広宣流布運動こそ、現代における宗教革命の新しき波であり、人間仏法、民衆仏法の幕開けであることを、知っていただきたいのであります」
 〜引用終わり〜

 この通りですね。
 民衆が主です。
 池田先生のご指導です。

 逆らう人、師敵対ですよ。

22沖浦克治:2009/09/11(金) 06:36:22 ID:AJ3hr85o0
 『此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、』
 (顕仏未来記)

 この通りはっきりと本門の本尊とはお題目だと書いてありますよ。
 本尊即ち衆生己心の妙法です。
 南無妙法蓮華経如来と言うのです。

 御書眺め人は読めませんね〜〜。

 何処を読めば、一大秘法が曼荼羅ですか。
 愚かな教学です。

23沖浦克治:2009/09/14(月) 20:19:04 ID:AJ3hr85o0
 先日の本部幹部会での池田先生のご指導です。

 『ニージーランドの先住民マオリの英知の箴言に、こうある。
 「世界で最も大切なものは何か?
 それは、民衆だ!民衆だ!民衆だ!そして、民衆だ!」
 正しい。
 その通りだと思う。』

 以上のように仰せです。
 大切なものは、本、です。
 二つの異なるものがあったとして、大切な方が本、大切でないものは迹。
 道理です。
 民衆が最も大切ですから、民衆が本の中の本ですね。
 これ以上はありません。
 最も大切なんですから。
 民衆とは、人です。
 人が何故最も大切か?
 命の当体だからです。
 その命が世界で最も大切なんです。

 『いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財もいのちにはかへぬ事に候なり』
 (白米一俵御書)

 この、最も大切な財を持つ人が最も大切で、本。
 お曼荼羅は迹。

 これでもまだわからない人。
 お気の毒ですね。

24粛々坊:2009/09/14(月) 21:21:55 ID:VUuZ458.0
だったら今回の本幹指導で「ご本尊に祈りきれ」との恩師指導はどう解釈するんですか。

我々が朝晩拝している御本尊(漫荼羅御本尊)は迹仏なんですね。迹仏に祈りきれと。

どうも沖さんの論は新たな「本迹一致」義のような気がします。

25沖浦克治:2009/09/14(月) 22:30:43 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん

 そのご指導はそれでいいんですよ。
 今日の午前中、生徒の女の子がジムに来てスクワットを見たんです。
 白馬の子ですが、今は兵庫県の大学の4回生です。
 その子は顕彰会員です。
 以前からそれを知っていましたが、私はその人の信じる宗派で人を差別しないのです。
 今日、トレーニング終了して、その子の就職の話になりました。
 いいとこがないそうです。

 おまえさ、顕彰会なんだろう。
 
 と言うと、その子が緊張した顔で、

 そうです。
 
 と返事しました。

 それなら家に御本尊様があるだろう。
 拝めば叶うよ。
 就職も拝んで頑張りなさい。

 と言うと、驚いた顔で、

 御本尊様は命より大切だから、家にはありません。
 長野まで拝みに行くんです。

 と、言いました。
 私も驚いて、

 それならうちの仏間に同じ御本尊様があるから拝んでもいいよ。

 と、言いました。
 物凄く驚いて、複雑な顔をしたんですが、顕彰会って不便なんですね〜。

 粛々坊さん、自宅に御本尊様がいらっしゃる。
 池田先生のおかげなんですよ。
 私達も、顕彰会と同じになる所だったんです。
 素直に感謝して喜べばいいんです。

 でもね、御本尊様は鏡ですよ。
 私共の命を映しています。
 ピアニストのピアノなんです。
 道具なんですよ。
 で一流のピアニストほどピアノを大切に致します。 
 命なんですよ。
 私もミュージシャンの端くれです。
 よく知っていますよ。
 信心があって、御本尊様がもったいなくも道具なんだと知っている人ほど、御本尊様を大切に致します。
 武士の刀です。
 雨の日の傘なんですよ。

26夕焼け:2009/09/15(火) 20:55:54 ID:REshWXck0
日蓮大聖人・御本尊を絶対価値として神格化し、
人を隷属させるために利用し、人を軽んじることは悪であり、僻見であります。
「如我等無異」が日蓮大聖人の心なのです。
池田先生・創価の組織の場合もまったく同様です。
日蓮大聖人・御本尊・池田先生・創価の組織を軽んじていいということでは無く、
人を置き去りにして、悪しく敬ってはならないということです。
仏法の修行・血脈は師弟にあります。師子吼の南無妙法蓮華経なのです。

「人」を傍・迹と蔑むならば、天魔が舌なめずりして喜ぶでしょう。

27粛々坊:2009/09/18(金) 02:12:32 ID:VUuZ458.0
大聖人も歴代の師匠も教義を曲げてまで会話や対話をしなさいとは一言も仰せではありませんよ。

28夕焼け:2009/09/18(金) 06:59:13 ID:REshWXck0
粛々坊さん おはようございます。

ボソボソ言ってないで、
功徳の体験を語りましょうよ。

信心した理由でもいいですから。
創価の信心でわたしはこうなった。
信心してよかった。と。

あるはずですよ。

29沖浦克治:2009/09/18(金) 07:14:59 ID:AJ3hr85o0
粛々坊さん、おはようございます

 『観心とは信心です。
 我が己心の仏界を信じる。
 私共凡夫が成仏と言う境涯に成る為には、信心をしなくてはならない。
 その信心のための本尊だよ。
 本尊の為の人間じゃないよ。
 それを、五の五百歳に初(始)めて置いたよ。
 こう読むんです。
 だから大聖人様はありがたいんです。』(取意)

 池田先生です。
 来年一度私の家で戸田先生と池田先生のご指導など集まって聞く会を開こうか。と思案中です。
 確かに音源はございますが、今まで絶対に公開をしないでまいりました。
 ですが、現在ネットで先生のご指導、大聖人様の仏法、創価の理念を捻じ曲げる発言が未だに横行しております。
 相当掃除をされ片隅に追いやられましたが、未だ漫才板等で顰めいております。
 私にも仕掛け人としての責任の一端がございます。
 ですので、私の持つ音源の情報を一度お集まりいただいた有志の方々に公開し、これらの取意で公表の情報を確認していただくべきか?と考慮致しております。
 多人数は必要ございませんので、10人かそこらで参集し、聞きあって確認する、又、他宗の方でも、当方が信頼できる方にはご参加いただく。
 このように考えております。
 暫くお待ち下さいませ。
 粛々坊さん、貴方はお見えになる必要はございません。
 どうぞ眺め人のままお暮らしくださいませ。

30:2009/09/18(金) 09:23:27 ID:U5u.EwPE0

先生は結果しかみません
求めているのは行動と結果です
先生に報告するのは、勝った、という結果だけで充分なんです。
決意はあくまでご本尊にします。
決意して行動して、結果を出して先生に報告する。
結果を見ただけで、どういう戦いをしたかがわかるからです。

目的は広宣流布ですから、おんなじですよ、やり方手段云々は全て化儀です。
志が同じですから同志ですよ。

自らの行動をまったく書かない人が、いわゆる行動しない人間が、
教学がどうのこうのと、ネットに限らずリアルでも、
やれ信心の素晴らしさだ何だを説いたって、全く説得力はないと思います。
信心の世界では行動できる人が上。結果をだした人が上。
行動して結果をだしたもの勝ちですね。

31粛々坊:2009/09/19(土) 01:15:20 ID:VUuZ458.0
>>29
沖さん、こんばんわ。

それはさぞかし貴重な音源なんでしょうね。他宗の方には聞かせても、学会員
であっても聞かせたくない。

そういう狭量さがナイス!ですね。

32粛々坊:2009/09/19(土) 01:27:44 ID:VUuZ458.0
>>28
夕焼けさん。「功徳を語ること」それ自体は大変素晴らしいことです。

しかし、その功徳も天界レベルではそれまでです。

これは何度も言っているのですが、「諸法実相・本末究竟等」の経文の意義を
わかっていないといけないのです。

大聖人は「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経の
姿なりと云ふ経文なり」

つまり、いまだ功徳をうける途上の方でも立派に妙法蓮華経なのだということです。

ですので例えば宿命と闘っている真面目な会員を馬鹿にしたりしては相成りません。

33:2009/09/19(土) 03:57:00 ID:U5u.EwPE0
24 :粛々坊:2009/09/14(月) 21:21:55 ID:VUuZ458.0
だったら今回の本幹指導で「ご本尊に祈りきれ」との恩師指導はどう解釈するんですか。
我々が朝晩拝している御本尊(漫荼羅御本尊)は迹仏なんですね。迹仏に祈りきれと。
どうも沖さんの論は新たな「本迹一致」義のような気がします。




違うと思います。
言わんとしている事を理解されていないと思います。
沖浦さんが言っているのは この場合 拝する際の本迹です。
拝する目的を考えるとわかりやすいと思います。

23の投稿文も仏道修行という視点で本迹相対してると思います。
仏道修行の本分は人ですから、それを指して人を本と言っているんだと思います。
でなければ、人と法に差別をつけていることになりますから、
そんな基本的な事知らないはずがないと思います。

これは先生の本迹の指導とも矛盾しないと思います。
有名なものに、
学生の本分は学業だから勉強しているときは本、遊んでいる時は迹というのがありますが、
これは勉強と遊びを比較相対しているんじゃなくて、学生の行動を相対しています。
勉強している状態、遊んでいる状態、という行動です。

同様に、仏道修行の本分は人ですから、人を本、
助縁として使う対鏡の為ではないので、迹だといわれてるんだと思います。
人の為の仏道修行、曼荼羅の為の仏道修行、という行動です。

これを指して、人が本、曼荼羅が迹だといわれてるんだと思います。
行動を本迹相対して、行動の本質をあぶりだしている様に見受けられます。
人が本、曼荼羅が迹 という結論のみ書くと 確かに誤解を招きやすいと思いますが、
単に説明が足らないだけで、それはおそらく沖浦さんの人柄かと見ています。
過去の投稿に はっきりと差別はないと書かれていますので、間違いないと思います。

人法一箇の仏法に差別をつけている場合の、批判は間違っていないと思いますが、
そうではなくて、行動の本質をあぶりだす為に、本迹相対されていると思いますので、
批判をされている人は、当人の言わんとしている事を勘違いされていると思います。


以上 個人的な所感です

34:2009/09/19(土) 04:29:54 ID:U5u.EwPE0
31 名前:粛々坊 投稿日: 2009/09/19(土) 01:15:20 ID:VUuZ458.0
>>29
沖さん、こんばんわ。
それはさぞかし貴重な音源なんでしょうね。他宗の方には聞かせても、学会員
であっても聞かせたくない。
そういう狭量さがナイス!ですね。



これも違うと思いますよ。
批判目的の人を断ってるんじゃないでしょうか。
最初から批判する事を目的とする人は お断りという事でしょ?
そもそも、そういう活動を個人でやれるという事自体、すごいです。
個人会館を建てるに匹敵すると思いますよ。
組織内でバリ活扱いというのもうなずけます。

35沖浦克治:2009/09/19(土) 07:24:21 ID:AJ3hr85o0
粛々坊さん、おはようございます

 貴方の発言の根底に悪意がある。
 だから貴方は境涯が開かない。
 この点に気付かない限り貴方は修羅中心の六道輪廻から抜け出せません。
 根底に慈悲をお持ちなさい。
 それが創価人です。
 小野さん、公爵さん、天城さん、阿部日さん、マグマグさん、その他の眺め人がどうして駄目なのか?
 慈悲がないからです。
 自分と違う意見の方々を責める。
 仏敵と罵る。
 然しながら根底には慈悲がない。
 修羅ですね。
 これが貴方方なんですよ。
 悪を責める代表に裁判官があります。 
 時には死刑判決まで下します。

 『慈悲のある裁判官が出ねばならない。』(取意)
 
 戸田先生です。
 天界までしかの喜びがない。
 通常貴方も私もそのほかのほとんどの方々もそうなんですよ。
 でもね、天界すら涌現できないのが、貴方方眺め人ですよ。
 書き込みの何処にも、生きる喜びがありません。
 断定的な他者批判だけですね。

 物凄くもったいないですよ。

36夕焼け:2009/09/19(土) 07:27:28 ID:REshWXck0
粛々坊さん

あなたは、「宿命と闘っている真面目な会員」だということですね。
わたしも、そうです。
それだからこそ、この信心のすばらしさを、人に語るのです。

草創の先輩は、宿命をかかえて、
自分より健康な人、裕福な人、に初心の功徳を語りながら、
「この信心をすれば幸せになれる」とこの信心を勧めたのです。

「貧乏人がなにいってるんだ!」とバカにされながらも、
信心のすばらしさを語り続けたのです。不軽の姿です。
そうやって、薄皮を剥ぐように宿命転換していったのです。

「一文一句たりとも、語らせたもうべし」です。

でも、話したくないのであれば、しかたありません。

37沖浦克治:2009/09/19(土) 07:28:16 ID:AJ3hr85o0
 師匠のご指導を、他人に聞かせるには条件があります。
 求める人にだけです。

 数か月前、壮年部の本部長さんが、

 沖浦さん、戸田先生の講演をお持ちだそうですね。
 私も聞きたいのです。

 お貸しいたしました。
 この人なら大丈夫です。
 私はね、人を見る目を創価でいただきました。
 
 師匠の指導、自分の権威付けのために使ったら、もう罰しかありません。
 眺め人が先生のご指導を引用し、自身の正当化のために使っています。
 あれね、弟子じゃありません。
 だから、罰の生活なんですよ。
 粛々坊さん、そう言うことをキチンと弁えるんですよ。

38:2009/09/19(土) 11:19:50 ID:U5u.EwPE0

56 :沖浦克治 ◆sO4WcF4K2:2008/11/15(土) 06:54:43 ID:AJ3hr85o0
 自分の人生で自分こそが本なんだ。との、確信すら持てない人、負け犬になるでしょうね。
 自分が本、他は全て迹。


同感です。
自分の人生というのは自分の為だから 自分の為の人生というのが本 他は迹
これを指して、自分が本、他は全て迹といわれていると思います。
自分と他人を個別に比較相対しているんじゃなく、
自分の人生という視点から、その本分を本迹相対してあぶりだしているので、
間違いではないと思います。
表現や譬え方は違いますが、先生の指導の主旨と同じ事を言われていると思います。



4 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 11:50:49 ID:AJ3hr85o0
 私の本迹に関する考え方を申します。
 本迹を優劣と同一視してはいけないと思います。
 本迹は立場の相違だと捉えた方が適切であると思っています。


これも同感。
どういうことかというと、池田先生の本迹指導に
学生の本分は学業だから、学んでいる時、勉強している時は本、
休んでいる時、遊んでいる時などの他は迹になるとありますが、
それぞれを個々に比較相対しているんではなくて、
前提として、学生という立場(行動)がありますから、
その本分を相対しているという事です。
例えば、この学生を病人に置き換えた場合、
病人になってしまえば、その本分は、病気を治す事になりますよね。
休んでいる時が本になるじゃないですか。
だから個々に見た場合、相対するべき対象元の相違で優劣が変ってしまうんですよ。
この事を指して、立場の相違だと捉えた方が適切であると言われてるんだと思います。
立場の相違で変化する本分に対して、優劣と同一視してはいけないと言われてるんだと思います。



7 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 20:57:18 ID:AJ3hr85o0
〜中略〜
 曼荼羅は人の信心のためでしょう。
 じゃ人が本で曼荼羅が迹です。
 信心しないと仏になれない、その信心のためには曼荼羅本尊が必要です。
 最初に衆生の成仏と言う大目的があって、仏法は全てがその大目的にしたがって顕われます。
  『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』
   (新尼御前御返事)
 法が絶対で本なら、衆生の機根なんか気にするもんですか。
 サッサと法を説いて、悟れない奴は捨てておけ。
 こうりますよ。
 でもそうじゃないと大聖人様が仰せでしょう。
 疑うことないですね。 
 曼荼羅が本は、日蓮正宗の邪義です。
 人のための宗教なら、人が本、教えが迹。
 当然の道理だと思いますよ。


これも同感です。
信心という視点から、言われているんで正しいと思います。
人と曼荼羅を個々に相対しているんじゃなく、前提に信心という立場がありますから、
人の為の信心と、曼荼羅の為の信心を、相対して、
人が本で曼荼羅が迹、と言われていますから、これは先生の指導の主旨とおんなじです。
曼荼羅に限ったことじゃなくて、本分を外れると全て迹になりますね。

必ず前提に相対するべき対象元となる立場とか行動が書かれてますから、
それを無視しての批判は、智慧がないので現実としての教学ではないし、
机上の教学をやっているので、戦いを知らない人の批判だなと感じています。
応用が利かない、現実に生かせない、俗にいう「ボンボン」とか「あまちゃん」です。


あ〜スッキリした。^^

39:2009/09/20(日) 02:44:55 ID:U5u.EwPE0

101 :蘭太郎:2008/11/16(日) 07:42:57 ID:obDPCy620
沖浦さん、

>本迹と、勝劣を同じで論じると駄目なんです。  勝劣はある意味では絶対的な優劣なんです。

意味が解りません。
五重相対は大聖人様のお説き遊ばされた教判です。そこには明らかな優劣があり絶対的な勝劣です。
治病大小権実違目に曰く、
『法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有りぬべし、所説に八教あり爾前の円と迹門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応勝応報身法身異れども始成の辺は同じきぞかし、今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり、』
小乗小仏要文に曰く、
『玄義の七に云く「若し迹因を執して本因と為さば斯れ迹を知らず亦本を識らざるなり天月を識らずして但池月を観るが如し』
斯く本迹の違いは歴然です、
自説を建てんが為に教判を歪めるのはダメです。
日蓮門下とは言えません。失格です。


これは、的外れかと思います。
沖浦さんは相待妙の立場で、本迹相対してるし、
前述した先生の指導も、相待妙で本迹相対しています。
学生が病人になったり立場や状況が変ると、
勝劣が変ってしまう相対と思えばわかりやすいです。
大聖人は絶待妙という立場から、相対しています。
これは立場に関係なく、法の勝劣が変らないです。
要するに、
本迹相対と勝劣は必ずしも同じ相関関係ではないという事かと思います。

因みに過去の投稿文の中で、誰かが
絶待妙を絶対妙と書いたのに対して「対」の部分を誤字だとの指摘をされた方がいましたが、 
一般では対の字を使いますから間違いではありません。(仏哲1036p)


またまた、個人的な所感です。

40夕焼け:2009/09/20(日) 08:45:26 ID:REshWXck0
日蓮大聖人の心からみれば、

末法の衆生を自分と同じくするために、
どうすればよいのかとの大慈悲から、御本尊を顕わしたのです。
御本尊を崇めさせる為ではありません。

一応は、その一生で御本尊を顕わすことが肝要と為りますが。
真の本懐は、末法の衆生を成仏に導くことです。
そして本懐中の本懐は、一閻浮提広宣流布です、一切衆生の成仏です。
その為の日蓮大聖人の生き方と教えと御本尊なのです。

御本尊第一とは、修行の上での言葉です
題目第一、折伏第一、御書第一。みんなそうです。
末法の衆生より、御本尊が大事などと日蓮大聖人は思っていません。

御本尊は成仏のために、わたしたちの為に、
日蓮大聖人が処方してくださった良薬なのです。
薬は使い方を守り飲むものです。
崇めてどうしますか?

御本尊本懐論は「迹」衆生成仏本懐論が「本」。
戒壇御本尊本懐論は「迹」一閻浮提広宣流布が「本」なのです。

41夕焼け:2009/09/20(日) 09:00:48 ID:REshWXck0
追伸

不思議な時がきたのです。

42沖浦克治:2009/09/21(月) 07:32:46 ID:AJ3hr85o0
 曼荼羅本懐論は、寛師の邪義ですね。
 日蓮正宗では現在も採用いています。

 曼荼羅本懐論のお方は、宗門の方が住みやすいと思います。

43夕焼け:2009/09/21(月) 09:52:23 ID:REshWXck0
沖浦さん。  おはようございます。

四菩薩造立抄に、
「迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人は
いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり」
とあります。
「本」に基づかな「迹」は無いといわれるように、
上行日蓮として、その一生の内の仕事としてみれば、
戒壇御本尊本懐は邪義であるとは思いません。「迹義」であると思います。
しかし、日顕宗の輩が喧伝する戒壇御本尊本懐論は邪義であると思います。

今の宗門は戒壇御本尊を魔殿に隠して、広宣流布の道を塞ぎ、地獄の門を開けています。
戒壇御本尊を全知全能神の如く崇めさせ、法主を聖霊祈祷師として、信徒を傅かせています。
その目的のために戒壇御本尊本懐論を盗んで利用しているのです。
日蓮仏法ではありません。外道の宗です。
日蓮大聖人の本門の道を継いでいるのは創価以外ありません。

44:2009/09/21(月) 18:13:52 ID:U5u.EwPE0
ここにちゃんと書かれてありました。


 117 :沖浦克治:2009/04/03(金) 20:08:10 ID:AJ3hr85o0
 世界一の創価の信心してる自分。
 何かで世界一になったら、人法一箇。 
 これが身で読む教学じゃないかと思って、世界一になりました。
 そうならないで、人本仏迹がどうタラこうタラ。
 これね、身で読んでませんね。
 眺めてるだけの眺め人です。
 せめて自分がなれなくても、何かの世界一育てなさい。
 それが困難なら、世界一育てるお手伝いおやりなさい。
 それで、人法一箇ですよ。


人法一箇と二度も書かれてますね。
天城さんの人本仏迹論や、小野さんの用語の誤りという批判も、
本迹の提起を批判している人、思いっきり的がずれてると思います。

明確に書かれてありますね。
「仏道修行と言う観点では」「幸せになることが目的なら」って。
ちゃんと国土世間が入ってます。
ほら、国土世間が変ると本分が変りますよ。
「衆生の機根にあわない法は、いかに優れていても説かない」って、
「衆生の機根」の部分です。
学生が病人になったら本分が変るのと一緒ですね。
先生の指導も学生という国土世間を入れて相対してるから、
主旨が同じだと思います。
沖浦さんの提起は正論だと思います。
わかる人と、わからない人がいるというのが不思議です。


 568 :沖浦克治:2009/09/16(水) 06:28:26 ID:AJ3hr85o0
(中略)
 仏道修行と言う観点では、修業をする人間が本、そのための法全体が迹。
 要するに主体はどちら側なのか?
 これが基本です。

 286 :沖浦克治:2009/05/14(木) 19:06:59 ID:AJ3hr85o0
 なんども言いますよ。
 仏法は衆生の為の法です。
 一大事因縁といいますし、四弘誓願、とも説きますね。
 その証拠に衆生の機根にあわない法は、いかに優れていても説かない事実があります。
 人が幸せになることが目的なら、そのための手段が法全体なんですよ。
 これを弁えて本迹を考えて見るべきです。
 学生の本分は勉強ですから、遊んでいる時は迹で、勉強する時は本です。
 人間革命にありますね。
 同じように、仏の本分は衆生の救済ですから、曼荼羅が本で威張っちゃうと迹なんですよ。

45夕焼け:2009/09/21(月) 20:00:41 ID:REshWXck0
>43 のつづきです。

三大秘宝は、理の上では御本尊に総在としてあります。
でも、その見方からすれば理の上では人の総在も三大秘宝なのです。
事の上では、御本尊と人が唱える題目と唱える処であり、
我等が修行の淵源が三大秘宝なのです。

大法弘通慈折広宣流布がないと事の本門の三大秘宝は揃いません。
日蓮大聖人から信心の血脈を受継ぎ、この本門の道を行くのが創価であり、
我等の日々の実践なのです。

戒壇の御本尊があれば本門の三大秘宝は揃ってると思い込み、勘違いしているのが、
番人ぼけした宗門・法華講であり、今の邪宗門なのです。
(創価にも一部居るようですが)
七〇〇年あまり、日本で3万人程度の勢力にしかならず、崩壊寸前の姿だったのが、
創価の出現から80年、世界192カ国、1000万世帯の陣容が、なにを物語るのか、
明々白々であり、現証であります。

46沖浦克治:2009/11/03(火) 22:21:04 ID:AJ3hr85o0
 巻頭言に池田先生がお書きですよ。

 『法華経の会座では、七宝に荘厳された巨大な宝の塔が、多宝如来と共に涌現する。
 その宝塔は、一体、何を現しているのか。
 日蓮大聖人は、阿仏房のこの質問に答えて仰せである。
 「末法に入って法華経を持つ男女の・姿より外には宝塔なきなり」
 「然れば阿仏房さながら宝塔・さながら阿仏房・これより外の才覚無益なり」
 ほかでもない、あなたの生命こそが尊極な宝塔なのだよ、と。』

 虚空会の宝塔は私共の命だとご指導じゃないですか。

47沖浦克治:2009/11/24(火) 08:28:33 ID:AJ3hr85o0
 本迹を整理しておきましょうね。
 
 先ず、ここにAさんと言う衆生がおられる。
 この人は、仮の姿で人間で凡夫なんです。
 では、この世で悩み苦しみながら生きているこのAさんの、本当の姿、本地って言うのは一体なんだろう?
 ソクラテスの言う、汝自身を知れ。
 の、汝自身が本地ですね。
 池田先生が、今月号の大白蓮華御義口伝講義で明快にお答えです。

 『汝自身とは、一念三千の当体、尊極無上の仏の生命なのです』

 はっきりしているでしょう。
 Aさんの本地は久遠元初からの仏です。
 御書にもあります。

 『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、』
 (御義口伝巻下)

 書いてありますよ、これを信受するだけでいいんです。
 これも、先生のご講義に書かれてあります。
 ところが、これを信受されると困る人がいます。
 僧侶と言う職種の人ですね。

 いいや、これは大聖人様だけなんだ。
 他の人間は違う。

 そうして置かないと、自分達の優位性は崩れます。
 日蓮正宗と言うところがそれで、寛師と言う人が始めた邪義です。
 ところが、御書にはそうは書かれていません。

 『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
 (御講聞書)

 この通りですね。
 先生がそう仰せで、御書にもその様に書かれてある。
 信受すればいいのです。

 そうすると、Aさんは垂迹で人なんですよね、現世では、
 本地とは本の事で、仏。
 迹は垂迹で、人。
 御書にもそう書かれています。

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 大聖人様の文底下種から見れば、衆生と仏が一如(不二)の立場では、人としての姿が垂迹で、久遠からの仏である事が本地で本。
 このように仰せです。

48沖浦克治:2009/11/24(火) 21:04:40 ID:AJ3hr85o0
 今度は、仏と衆生の本迹を考えます。
 個人としての本迹は、本地が仏で、垂迹が人間。
 娑婆世界は、この垂迹の人間が集まる世界ですね。
 そして当然自分が仏である事は忘れ去っています。
 だから不幸が起こります。
 救済のために仏が出現して法を説き広めます。
 この法を説く仏も、救われるべき衆生も、本地は全く同じ仏です。
 仏は自分が仏と悟っている、衆生は忘れていて迷いの状態。

 『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 この通りです。
 すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。
 仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
 救済する側の仏は迹。
 こうなります。
 現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
 法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。

49沖浦克治:2009/11/28(土) 07:33:19 ID:AJ3hr85o0
 仏法と衆生では、衆生のための仏法ですから、人が本、仏法全体が迹ですね。
 仏は仏法の中に含まれますので、

 仏が迹、衆生が本。
 衆生のみにかぎると、本来は仏様ですので、仏としての立場が本、人としての立場は迹になります。
 人は本来仏様ですので、自身の命が全て備えた仏であり、三大秘法も全て自身に備わったものだ。
 こう決める事が本覚です。
 虚空会とか、御本尊様はその説明です。
 これが、仏法の基本原則です。
 これを外すと、外道になります。

 『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
 (一生成仏抄)

 素直に拝すれば簡単に理解が出来ますね。
 所が、複雑に読む職種の人がいます。
 日蓮正宗の僧侶と言う生業の方です。
 この人たちは、一切衆生と仏を別次元にし、その次元の狭間で受け渡しをすることがご商売です。

 イタコですね。
 霊界と現世の橋渡し役です。
 仏法では霊界はありません。
 若退若出が命の本質です。

 『又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、』
 (御義口伝巻下)

 イタコは不要です。
 同じく、凡夫のことを人間と言い、仏が本来で衆生が仮の姿。
 これが仏法ですから、ご本仏様と、法と、お曼荼羅があれば、誰でも成仏可能です。
 すると、僧侶は不要になります。
 指導者は必要ですが、僧侶と言う職業にはこだわる必要がありません。
 過たず方向を示せるコーチングが必要ですが、仏法は現実社会で開く教えなので、在家しかいりません。
 出家は不要です。

 曼荼羅至上主義の眺め人は、出家待望論ですね。
 邪義です。

50沖浦克治:2009/11/28(土) 07:38:57 ID:AJ3hr85o0
本迹を整理しておきましょうね。
 
 先ず、ここにAさんと言う衆生がおられる。
 この人は、仮の姿で人間で凡夫なんです。
 では、この世で悩み苦しみながら生きているこのAさんの、本当の姿、本地って言うのは一体なんだろう?
 ソクラテスの言う、汝自身を知れ。
 の、汝自身が本地ですね。
 池田先生が、今月号の大白蓮華御義口伝講義で明快にお答えです。

 『汝自身とは、一念三千の当体、尊極無上の仏の生命なのです』

 はっきりしているでしょう。
 Aさんの本地は久遠元初からの仏です。
 御書にもあります。

 『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、』
 (御義口伝巻下)

 書いてありますよ、これを信受するだけでいいんです。
 これも、先生のご講義に書かれてあります。
 ところが、これを信受されると困る人がいます。
 僧侶と言う職種の人ですね。

 いいや、これは大聖人様だけなんだ。
 他の人間は違う。

 そうして置かないと、自分達の優位性は崩れます。
 日蓮正宗と言うところがそれで、寛師と言う人が始めた邪義です。
 ところが、御書にはそうは書かれていません。

 『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
 (御講聞書)

 この通りですね。
 先生がそう仰せで、御書にもその様に書かれてある。
 信受すればいいのです。

 そうすると、Aさんは垂迹で人なんですよね、現世では、
 本地とは本の事で、仏。
 迹は垂迹で、人。
 御書にもそう書かれています。

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 大聖人様の文底下種から見れば、衆生と仏が一如(不二)の立場では、人としての姿が垂迹で、久遠からの仏である事が本地で本。
 このように仰せです。

51白麦:2009/12/10(木) 00:29:20 ID:Seomk3Kg0
沖浦さんへ
こんばんは。

>>48への疑問なのですが、
>>48こちらの文の、

前半では、
「個人としての本迹は、本地が仏で、垂迹が人間」と、

 「本」を「本地」、「迹」を「垂迹」の意味で使われて、

後半では、
「救済されるべき衆生が目的で本。救済する側の仏は迹」
「人間のための法ですから、人が本で、法が迹」と、

 「本」を「人」「目的」、
 「迹」を「仏・法」「手段」の意味で使われています。

前半と後半の「本迹」の使い方・意味が違うのですが、


「本」「本地」「仏」とは、「目的」「人」
「迹」「垂迹」「人」とは、「手段」「仏」

と、いうことなのでしょうか?
それとも、
「個人」と、「人と仏」と分けた場合では、
「本迹」の意味が変わる、ということなのでしょうか?

私は、
「個人」を「本迹」で立て分ける場合でも、
「人と仏」を「救済される側、救済する側」と分ける場合でも
「本迹」の意味は変わらない、と認識します。


沖浦さんは、
「本地は同じですが、現実の姿は異なります」と言われますが、

私は、
「人間のための法」とは、
「人間の本地(絶対的幸福)を開く為(手段)の、本門(独一本門)の法」
と、認識しているので、

「本地は同じである、現実も師弟不二の関係として同じである、
 弟子である私たちも本地を開き衆生の救済の為に働く」
と認識しています。


いかがでしょうか?

52沖浦克治:2009/12/10(木) 07:51:07 ID:AJ3hr85o0
 師弟に本迹があるか?
 ありますね。
 何故なら、師弟は既に最低2人ですね。
 当然あらゆる部分で本迹があります。
 貴方自身、私自身にも本迹あるじゃないですか。
 複数になれば増えた分だけ本迹は複雑に入り組んで増えます。

53白麦:2010/01/11(月) 23:23:14 ID:Seomk3Kg0
>>52
沖浦さん
明けましておめでとうございます
創価完勝・青年躍進の年
沖浦さんの実証勝利を祈ります


>師弟に本迹があるか?
>ありますね。
>何故なら、師弟は既に最低2人ですね。


師が「本」で、弟子が「迹」ということでしょうか、それとも
師が「迹」で、弟子が「本」ということでしょうか?


私は、
本地(本来の境地=法華経の行者の命)の師の言うとおりに実践をする、
本地を自身の命に湧現させた弟子は、不二である、と認識します。


いかがでしょう?

54白麦:2010/01/11(月) 23:29:18 ID:Seomk3Kg0
>>53訂正
本地(本来の境地=法華経の行者の命)の師の言うとおりに実践をする、
本地を自身の命に湧現させた弟子は、不二である、と認識します。

から

本地(本来の境地=法華経の行者の命)の師と、
その師の言うとおりに実践をして、
本地を自身の命に湧現さている弟子は、不二である、と認識します。

55白麦:2010/01/11(月) 23:53:59 ID:Seomk3Kg0
>>54訂正
「本地を自身の命に湧現さている弟子」

から

「本地を自身の命に湧現させている弟子」

56沖浦克治:2010/01/12(火) 07:49:28 ID:AJ3hr85o0
 白麦さん、今年も宜しくお願い致します。

 弟子の立場では、自分が本です。
 この世の事は全て自分が本ですよ。
 内道ですから当然です。

 後の理屈は余事ですね。

57岩志九郎:2010/02/04(木) 09:43:57 ID:np8GijLQ0
池田先生について、こんな記事を見つけましたので転載します。
聖教新聞などに載った記事なのでしょうか。詳しいことを教えてください。

昭和52年に池田先生が千葉の清澄寺を訪れた際のことです。

池田先生は,千年杉に向かい木肌を撫でながら、

「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と

感極まったように大声で語りかけておられました。

清澄寺は、日蓮が幼少の頃に杉の巨木と共に修学したお寺です。

その時の池田先生は後光が射していて、

私は先生が日蓮大聖人の再来だということを実感しました。

私は、この時に先生のそばにいて、学会員で本当によかったと実感しました。

58沖浦克治:2010/02/04(木) 12:50:41 ID:AJ3hr85o0
 岩志九郎さん

 警告しておきます。
 今後この類の書き込みをすると、アクセス禁止に致します。
 大聖人様と先生が同じお方である道理もございません。

59岩志九郎:2010/02/06(土) 15:00:44 ID:fB2AjbHk0
沖浦克治様

>大聖人様と先生が同じお方である道理もございません。
これについては、当然ながら、私も沖浦様と同じ意見です。

ただ、冒頭の、 >警告しておきます。 >アクセス禁止に致します。
にはびっくりしましたが、なぜ沖浦様の逆鱗に触れたのでしょうか。

創価員で、池田氏を、日蓮上人、仏陀の再来と言ったり、同格と言ったり、
中には仏陀を超えるなどと、神格化して崇める方も多いようですが、実態は
どうなのでしょうか。

私は、沖浦様は創価員の中では数少ない普通人に近い方だと観察していました。
そのような方だから、普通人の社会と円滑に接触することができて、ご一家の
スモールビジネスも着実に発展しているのでしょう。
そのような訳で、これからも普通人との良好な関係を保って頂きたいと思います。
これからもよろしくお願い致します。

60沖浦克治:2010/02/07(日) 22:02:34 ID:AJ3hr85o0
 岩志九郎 さん

 池田先生本仏論は創価学会では邪義とされていますし、そう言う事を言う学会員はいません。
 そう言うデマをこの掲示板で飛ばす事は禁止です。
 若し、そう言う事実があるなら、具体的に書いて下さい。
 この次は、貴方の発言の、

>創価員で、池田氏を、日蓮上人、仏陀の再来と言ったり、同格と言ったり、
中には仏陀を超えるなどと、神格化して崇める方も多いようですが、実態は
どうなのでしょうか。

 これについて具体的事実をて提示してください。 
 この件が具体的に示されるまで、他の書き込みは禁止です。
 それ以外の事を書けば、アクセスをお断り致します。
 ご自分の発言です。
 キチンと責任を持っていただきます。

61岩志九郎:2010/02/11(木) 13:14:04 ID:.UFYC.p.0
沖浦克治様 ご返事、ありがとうございました。

「池田本仏論」でググったところ、約10万件ヒットしましたが、これは未だに池田本仏論が創価内外で盛んに論評されているからではないでしょうか。「池田本仏論」の資料は創価内部から出たものが多く、反「池田本仏論」派は、これらの資料を逆手に取って「池田本仏論」を批判しているようです。
「池田本仏論」をWIKIPEDIAで調べると、
・池田が創価学会会長となった1960年以降、後に離反した福島源次郎など一部の過激な幹部が池田会長を仏であるかのように喧伝。宗門との軋轢を招いた。
・1980年の『聖教新聞』において、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している。
・1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。
と書かれています。
ということは、20年位の間「池田本仏論」がまかり通っていながら、それが容認されていたとことになります。
「池田本仏論」の経緯について、時系列資料がありましたので、以下に転載しますが、この辺りから「池田本仏論」の変遷と創価員の対応の変化を分析して行きましょう。
【会長本仏論】
会長本仏論は、すべて戸田会長逝去(S33.4.2)後の指導であり、言い出しっぺは池田である。下記【池田本仏論】の池田発言等から考えると、池田の本音は、"自分こそが本仏"ということであり、既に逝去した牧口・戸田両会長は池田本仏論の"露払い"として利用されたのであろう。
因みに、戸田会長は生前「私は凡夫である」(『戸田城聖全集』第4巻106頁)と断言している。
◆仏さまは、ウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです(池田大作・S33.9.14/『慧妙』H13.11.1)
◆我々は戸田先生を主人とし、師匠とし、親として……(池田S35.1.22)
◆戸田先生は仏さまであられます(池田大作・S35.4.1)
-----------------------
 すなわち、戸田城聖2代会長の没後、創価学会は会長空席の期間が2年間にわたって続いたが、その間に、総務であった池田大作が、組織的にも完全に学会内の全権を掌握し、3代会長への道を確実なものにしていった。
 そして、まさにその時期、池田は、「会長先生は仏さま」という宣伝を繰り返して会長本仏論を学会内に浸透(しんとう)させ、その上で、昭和35年5月、自らがデッチ上げた「仏の座」である会長職に就任したのである。(『慧妙』H13.11.1)
◆仏と等しくならしむ、とは、学会員として、会長の身に三業(さんごう)に等しくならしむ、と拝すべきであろう(「教授試験模範解答」『大白蓮華』S38.1)
【創価学会仏】
◆こういう大勢の学会人がいても、将来、将来といってもこれはいつのことになるかわかりませんけれども、経文が、また仏が出て説かれる時には、"創価学会仏"という仏の名前で(経文に)出る、と。"威音王仏(いおんのうぶつ)"とかいろいろあるでしょう。そういう立場で"創価学会仏"という仏になる。(中略)<※「蔵音王仏の威音王という名前も、今で考えれば、創価学会というような名前で、当時あったと考えてよいわけですか」との質問に答えて>そういう代表の仏の人物がいた、とも言えるし、ひとつは教団があった、とも言えるのです(池田大作・S38.10.18/『慧妙』H16.7.1)
【池田本仏論】
◆私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない(池田大作『前進』S40.6)
◆私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう) していなければ、異体同心とはいえない。(池田大作『前進』S40.6)
◆私のそばにいたら私になんでも言えるように境智冥合しなさい。それ以外にないよ。私は信心の指導者だ。私しかいないよ。(池田大作『前進』S40.6)

途中ですが長文になりましたので、続きは後でということで、よろしくお願いいたします。

62沖浦克治:2010/02/11(木) 18:35:30 ID:AJ3hr85o0
 岩志九郎さん

 先生はね、何度も自分が本仏でないと言われておられます。
 ご本人がそう断言なされておられるのです。

 師弟の道で、弟子が師匠に信服随従する事は当然です。
 然し、師匠は本仏ではありません。
 信服随従と、本仏は無関係ですよ。

 境智冥合も、師弟では当然です。
 これも、本仏とは無関係です。

 それと、池田先生は仏様ですよ。
 当然です。
 ご本仏は大聖人様お1人。
 全く平等に一切衆生が仏様です。
 御書にあります。

 今後は、こう言う馬鹿げたことを書かない事です。
 この件はこれまでといたします。
 これ以外の話題をどうぞ。

63岩志九郎:2010/02/11(木) 23:46:29 ID:WuBvOHW60
沖浦克治様

沖浦様の説では、「本仏」と、「仏」は違うということのようですが、非仏教系の私には、その違いがよく分かりませんので、「馬鹿げたこと」と一蹴しないで下さい。

池田氏自身が以下のように語っているのであれば、過去、現在を問わず、「池田本仏論」を公言した創価員は創価学会の反逆者として破門するべきだと思います。

>1980年の『聖教新聞』において、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」
>「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることを
>よく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している。

>1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、
>「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。

池田氏が上の発言のように本当に謙虚な方であって欲しいものですね。

64沖浦克治:2010/02/12(金) 06:50:25 ID:AJ3hr85o0
 岩志九郎さん、おはようございます

 創価学会では、大聖人様以外の本仏論は邪義とされます。
 この点を先ず認識しておいて下さい。
 紛れの無い事実です。
 コレがわからない人は、私共の本仏について沈黙する事。

 学会の反逆者として破門(除名)するかどうか?
 これは、純粋に、その邪義を唱えた人と、創価学会だけの問題です。
 この件は、その2者間で解決する以外ありません。
 貴方や、私が浮かれ騒いでも無意味ですよ。
 ですので、貴方のご意見は意味がありません。
 貴方はこの件で、何の権利も義務も持っていません。
 ただのみすぼらしい野次馬です。

 池田先生が謙虚であってほしい。

 これも大きなお世話です。
 貴方は弟子ではありません。
 みすぼらしい野次馬です。
 他人の晩ご飯のおかずに苦情言う人がいるなら、貴方の同類項です。

 極めて情けないですね。

 この件はこれまでです。

65名無し:2010/02/13(土) 19:05:17 ID:0Xi/jdIY0
傍観はいけないかなと思って書きます。名前は…ちょっと伏せます

個人的には沖浦克治さんの

> どうも最近、眺め人さん方が、人本仏迹論だと、私を責めますね。
>  少し対話致しましょうか。
>  但し、礼儀作法を弁え、自己紹介をきちんとする事が条件です。

に、すでに同感です。
いわゆる「唯一(吉田)神道」の神本仏迹説なんてものがありますが、
神が元々の立場だとか、仏はその脇役だとか、
あるいは
仏こそが万人の長、人は下界の下らない住民?=仏本神迹説?
は、基本的にどうかしてると思っています。

イコール、神とか仏とかは、人間としての業を超越しつつも、
かつ人のためになる存在だというイメージが強いです。
例えば釈迦、もしくはジーザス。
そうしたのが信仰としてあつく捉えられ、まがい物は決して反映はしない。

つまり神仏というのは、宗教的意義がどうであれ、人の規範として正しく意識される。
逆に言うと、神仏は、どちらが本か?なんて言う発想は、日本人がよく思いつく妄想なのでは?と思います

かえって、自然を超過したい、自然の条理を無視したい、欲望を満たしたい。そんなことで信仰心を利用するのを、
一般では邪教、仏教では邪宗なんて呼ぶんじゃないかと思います。

長文失礼しました。

66雨煽り:2010/02/14(日) 09:36:31 ID:NjA8zkPc0
仏とは人間を超越した存在などではありません。
人間そのものです。
衆生を利益する働きを用とします。

仏教で言う神とは、守る働きの事です。
神天上と言って、天上界に住むとされます。
善い働きを善神、悪い働きを悪神とか悪鬼魔民とか言います。
悪神の最たるものが、他化自在天で、第六天の魔王です。

元品の法性が仏、元品の無明が第六天の魔王と現れます。

つまり、仏と言っても、神と言っても、その全ては人間のもつ働きにほかなりません。
そして、その働きは、人間だけでは無く、森羅三千全てにわたります。

神や仏を、人格をもったものと考えるよりは、
その働きの象徴(譬喩)と捉えた方が解りやすいと思います。
「そういう人がいる」のでは無く、「そういう働きをする人がいる」のです。

私達学会員は、自身地涌の菩薩だと思っていますが、
地涌の菩薩として一生成仏・広宣流布の目的を持ち、
地涌の菩薩の働きをするから地湧の菩薩なのです。

当位即妙・不改本位で、凡夫のままです。

67名無し:2010/02/14(日) 11:14:16 ID:PXXptlnc0
> 仏とは人間を超越した存在

とは書いてませんね。人間としての業を超越しつつもとは書いてます。

> 仏教で言う神とは、守る働きの事です。
> 神天上と言って、天上界に住むとされます。
> 善い働きを善神、悪い働きを悪神とか悪鬼魔民とか言います。
> 悪神の最たるものが、他化自在天で、第六天の魔王です。

仏教の非想処論ですね。
またその件については、「三界」をwikiを調べてみるといいのでは?と思います。

> 元品の法性が仏、元品の無明が第六天の魔王と現れます。
確かに御書にそう書いてありますが、沖浦克治さんの
> どうも最近、眺め人さん方が、人本仏迹論だと、私を責めますね。
> 少し対話致しましょうか。
> 但し、礼儀作法を弁え、自己紹介をきちんとする事が条件です。
からは本題から外れているのでは?

それと根本的解釈として、御書にはこういう言葉もあります。
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(報恩抄)
「其の上諸経の勝劣は釈尊一仏の浅深なり全く多宝分身の助言を加うるに非ず私説を以て公事に混ずる事勿れ」(法華取要抄)

68名無し:2010/02/14(日) 11:18:16 ID:PXXptlnc0
思うんですが、

> 元品の法性が仏、元品の無明が第六天

元品の法性が「帝釈天」、元品の無明が第六天の魔王と「あらわれる」では?

69沖浦克治:2010/02/14(日) 19:23:58 ID:AJ3hr85o0
名無しさん

 キチンとしたハンドルネームをつけて、自己紹介を自己紹介スレッドでやってください。
 この次、このまですと、アクセスをお断り致します。

70雨煽り:2010/02/17(水) 00:29:10 ID:NjA8zkPc0
成仏を立て分けると、

成仏する当体が「体」で「事」で「本」
成仏させる働きが「用」で「理」で「迹」

御本尊に題目をあげて成仏するのは御本尊ですか?
成仏させる働きがあるのは人ですか?


で、もう一歩奥に進んで、
成仏する姿は、それを見ている人をも成仏に導く(功徳を話す必要性もここにある)
倶体倶用の三身

『迷悟の不同にして生仏・異なるに依って(中略)衆生しらざるなり、』

理解できなくても当然なのですよね。

73沖浦克治:2010/02/17(水) 06:06:46 ID:AJ3hr85o0
 雨煽りさん、おはようございます

 理解できなくて当然ですね。
 釈迦が久遠実成を説いた時、疑って退転した弟子がたくさんいました。
 この、一切衆生本仏論は、一大超過どころではないですね。
 天と地がひっくり返るような事です。

74雨煽り:2010/02/17(水) 08:09:31 ID:NjA8zkPc0
沖浦さん、おはようございます。

日本は邪国で一闡提と五千の上慢の生まれ変わりですが

ほんとにその通りのようで…

理解できないのは悪い事ではないのですから
間違いだ。などと、言わなければいいのに…

と、思います。

75岩志九郎:2010/03/24(水) 00:11:03 ID:HAj0lUCo0
創価教(学会と言うには無理がありますので)が宗教であるならば、今一度、初心に立ち返って仏教徒は何かを考えて見ませんか。

某掲示板より転載:65 名前:名無しさん [2008/01/28(月) 17:38]
創価学会のよってたつ仏教も、そもそも最初は、みるべき価値のある優れた思想だったのだ。
しかし、その創設者の没後、邪まな考えをもつ人々に悪用されてきたという歴史も共通している。
仏教は、古代インドの原始的な宗教(現代のヒンドゥ教のルーツ)に疑問を持ったブッダが、
オリジナルな人生観をつくったところから始まった。インドには階級制度があった。
王族や僧侶が、特権階級を持つことを正当化するため、輪廻転生の思想や宗教がうまれた。
悪い行い(王族に対する反乱など)をしたものは、低い階級に生まれ変わり、良い行いをしたものは、
来世で高い階級に生まれるというものだ。この輪廻転生という科学的根拠のない
ポイント制度のおかげで、奴隷も平民も不満を口にせず、王族たちのために、重労働した。
しかし、ブッダは、そんなあの世の話は、嘘で、本当は世界は「ありのまま」である事をさとった。
もともと最初の仏教は、ブッダのさとりを勉強する修行者のあつまりだったのだけど、
さとりの内容を自分のためだけに生かす「小乗仏教」と、みんなに広げて行く「大乗仏教」とに
分かれた。どっちが正しいかは問題ではなく、単純に、みんなに広げて行くという戦略をもっている
「大乗」の方が信者の数は増えて行く。また、信者を増やすためには、ブッダ本人が否定した、
あの世の話を取り入れたほうが、大衆受けがいい。それで、仏教は地獄だの極楽だのという
「あの世話」を採用した。創価学会は、仏教の中でも、排他的な日蓮の教義をベースに
して生まれた。日本に伝播した仏教は、政治支配の道具として、本来の哲学的持ち味が
形式化してしまった。日蓮がその事に腹を立て、「他の宗派は間違っている。本来の仏教に戻るべきだ」
と主張した事にはあながち間違いでもない。だけど、他の宗派や政党を攻撃するためには、
悪口も嘘もいいという創価学会の思想は、完全に仏教的にも日蓮的にも間違っている。
創価大学では、こういう仏教の原点についての勉強を学生がしてしまうと、
ボロが出てしまうので、「仏教学部」も「仏教学科」もない

76沖浦克治:2010/03/24(水) 05:41:17 ID:AJ3hr85o0
岩志九郎さん、おはようございます

 その投稿ですが、かなりいい所をついていると思います。

77沖浦克治:2010/03/24(水) 06:18:53 ID:AJ3hr85o0
 岩志九郎さん

 貴方の言うことがここにかいてありますよ。

 http://www.pegasus-pro.com/jonathan/contribution/doctor-obo1.htm

78高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/24(水) 20:03:28 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ こんばんは!

 『海の文化と村の文化』を、読んで100%とは言わなくても殆どが納得でき、自分の根本は間違っていないと再確認されたのではないでしょうか。

 諸外国のキリスト教の人達は、宗教的には外道ですが、生命を大切にする事は、日本人より勝っているように私は感じています。
 狩猟民族特有の考え方やキリスト教の最後の審判がその様にさせているのかもしれません。
 マタギが熊を愛し熊の命と山を大切にするように、漁師が魚の命と海を愛する事と相通じるようにも思います。
 私はアメリカしか解らないのですが、ボランティア活動や生活が宗教と結び付いています。

 世界広布を考えたとき、我々はもっと自分の生命自体が仏であると確信し話して行く事が大切だと考えています。
 仏の当体である自分の生命を輝かせて一生を終われるのは、創価学会しかないでしょう!

79高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/24(水) 20:07:53 ID:JThdDrQw0
そこで、沖浦さんに考えてもらいたい事があります。

 確かに、邪義を破折する事は大切な事です。
 沖浦さんが、今、行われている事は、すごいエネルギーと精神力と確信が必要だと、私は尊敬しています。
 それを、慈悲の言葉に変えることは出来ませんか。(今も慈悲で行っている事は理解しています)

 生意気と取らないで欲しいのです。
 私からの提案なのですが、今度は、違うネットの世界の掃除をされてはと思うのです。
 これは、「創価学会仏」として確信を持っている沖浦さんでこそ出来る使命だと考えられます。

 「海の文化とむらの文化」で述べられていることです。
『最悪の時に、自分をその慈悲の心で包む。そこに魂の勝利の姿がある。
その生命で自分を包める人は、もう悲しみは単なる悲しみではない。慈悲の心に包まれたその悲しみは、そのままで、勇気に転ずるであろう。
また、絶望は希望へと転じていくだろう。その生き方の中に本当の意味での人間の魂の勝利の生き方がある。
そういう心で自分を包める人は、また、絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。
でも落ち込んだ自分を、こんな自分は情けないと嫌う人は、そこから立ち直った後で、同じように落ち込んだ人を見ると「かわいそうに」とは思うでしょうが、心の奥底では、「弱い人だな、自分に負けてだらしない人だな」と見るでしょう。
自分を見る目が他の人を見る目なんです。したがって、最悪の自分を慈悲の心で「大好き!」と大きく包みながら、「偉大なんだ」と本当に尊敬できる人は、また、他の人をも尊敬できていくんです。』

 その中で特に強調したいのは、
『絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。』
 今、この事がネットの中で出来る人は、限られていると思います。
 人の痛みが解り、創価学会と自分に確かな確信がなければ、出来えないことです。沖浦さんでなければ出来ないでしょう。

80高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/24(水) 20:13:46 ID:JThdDrQw0
 沖浦さんも薄々感じていると思いますが、ネットの中の人達も寂しい人が多いと思います。
 環境も変えて行きたい、自分も変革したいと考えているがなかなか出来ない人が多いのではないですか。

『菩薩道というのは違うんです。大聖人は「自他共に喜ぶなり」といわれています。有名な徳勝童子の譬えがありますね。』

『法華経は世間が相手にしない差別された人たちを,実は偉大な存在であると説いたんですね。
非常に革命的な思想でした。本当の意味での人間主義でしょう。』

『困難に立ち往生した自分、大失敗して、また、人からもバカにされて、落ち込んでいる惨めな自分を偉大と見ることは、
難信難解(信じ難く、理解し難いこと)でしょう。しかし、そこに立ってこそ法華経なんです。』

 上の言葉を自分の体験を通して、真に理解できる人は少ないと思います。法華経を身を持って読んだ人しか解りません。
 ネットの人達も邪義とつき放されたら立ち位置がなくなります。学会人と言えど現場(地域)にはなかなか帰れないでしょう。
 その人達が掲示板を読んで、御本尊様に題目をあげてくれる事が第一歩です。

81高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/24(水) 20:25:18 ID:JThdDrQw0
 現実の世界も同じです。まちおこしの応援をしていて感じます。

 若者が地域から出て行ってしまう(高齢化)、医者がいない(無医村化)、優良企業が育たないし来ない(就職難)など・・・。
 この原因も同じ所が根っこになっています。その地域の有力者・権力者達に原因がある時が多いのです。
 権力を持つと人は何故かワガママ、傲慢になりがちです。自分だけは特別なんだと周りに解からせたいと・・・。
 村の文化は、これに泣き寝入りします。
 私は、それで会合等で「貴方達は、この地域の勝者なのです。だからこの地域で生きていく事には、殆ど問題がないし住みやすいでしょう。
 しかし、多くの場合に貴方達は、他人を傷つけていませんか。地域から出て行った人、若者、同業者、観光客などを傷つけていませんか。それでは、地域から人は出て行ってしまい、外から人が来ませんよ。有力者である皆さんが謙虚な気持ちで、他人を傷つけない事が地域の発展には重要です。」と話すと、凄い反発を受けます。罵倒される時もあります。
 当然と言えば当然なんですが。

 沖浦さんだと出て行った人の気持ちを理解してくれると思うのです。
 私が、慈悲の言葉と言ってるのは、相手に媚び諂う事や甘い言葉でなく、相手が素直に自分の事を思ってくれているんだなと感じられる、温かな言葉です。

 是非、一度検討して頂けませんか。
 悪い奴がのさばらない、正直者がシッカリと意見を言えるネットの創価学会正義の世界を創る事に一緒に挑戦して頂けないでしょうか。
 お願いいたします!!!

82沖浦克治:2010/03/24(水) 21:19:55 ID:AJ3hr85o0
 高速太郎さん

 微力を尽くします。

83高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/24(水) 22:27:27 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ

 早速、返事を頂きましてありがとう御座います。

 一筋の光を見るような気持ちです。 私も微力ながら、頑張らせて頂きます。 道は険しいと覚悟もしています。

 本当に、本当に、ありがとう御座います!!!

84沖浦克治:2010/03/25(木) 06:53:34 ID:AJ3hr85o0
 高速太郎さん

 一度お会いしたいと思います。

85高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/25(木) 12:48:07 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ こんにちは!

 私も、お会いしたいと思います。
 白馬はスキーの季節以外では、新緑の季節が良いですか? 6月位ですかね!
 私は、サラリーマンですが年間数える程しか休みません。 反面、仕事に差し障りが無ければ、休みたい時は何時でも休めます。

 白馬に一度行ってみたいですネ!

86提 起:2010/03/26(金) 22:18:41 ID:uOTLaTkQ0
そうですね。 仏法というのはそのまま「法則」ですが、釈迦の説いた「法」とは、形而上学的空想ではありません。
食わなければ死ぬ、ミスしたから失敗する、これがあるから彼がある、という 誰でもが理解できる真理です。

祈ったから合格したとか、入信したから解決したとか、読経したから治ったとか、票を入れたから宿業が消えた、とかいうのは日蓮教だか何だかであって、仏教ではございません。

真理というのは、上記のような、原因と結果の関係性が不確かな「空想信仰」とは異なり、誰でもが知覚できる概念であるからこそ
真理であると言えるでしょう。

87沖浦克治:2010/03/26(金) 22:44:38 ID:AJ3hr85o0
 高速太郎さん、今晩は

 では6月にお会いいたしたいです。

88高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/27(土) 01:06:02 ID:JThdDrQw0
>>86 提起さんへ こんばんは!

 はじめまして、高速太郎と申します。

>>86
 この内容が良く理解出来なかったものですから、この掲示板での提起さんの投稿を探しましたが見つけられませんでした。
 私は、掲示板への投稿が、まだ2ヶ月程の新米なので、すみませんが提起さんを存じ上げません。

 初めてで良く存じ上げない方に、失礼とは思いますが、教えて頂きたい事があります。

 教育界や思想・哲学などの世界で「ソフィスト」の定義とは有るのでしょうか?
 現在の学校教育に携わる方達にとって、ソフィスト的な考えは一つの壁ではないかと、私は考えています。
 学校(小学校から大学等)の先生達が、そのような壁にぶつかる事はないのでしょうか?
 あったとしたら、どの様にその壁を乗り越えているのでしょうか?

 86の投稿から、かってに質問の内容に近い処にいらっしゃる方と思いお聞きしました。
 場違いの質問でしたら、誠にすみませんがお聞き流しください。 宜しくお願いいたします。

89高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/27(土) 01:08:50 ID:JThdDrQw0
>>87 沖浦さんへ こんばんは!

 6月近くになったら、具体的に日取りを決めてください。 楽しみです!!

90沖浦克治:2010/03/27(土) 06:32:10 ID:AJ3hr85o0
 高速太郎さん、おはようございます

 では日にちを決め、その日に池田先生のご指導を聞きましょう。
 他にも参加者がおられると思いますが、よろしいでしょうか?

91沖浦克治:2010/03/27(土) 20:13:42 ID:AJ3hr85o0
 今日の聖教新聞の6面に、減劫御書が載っています。

 普段私が書いて入る事と、同じ事が書かれています。

 何故、信受できませんかね?

92高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/28(日) 17:25:49 ID:JThdDrQw0
沖浦さんへ こんにちは!

>>90 これで結構です。 お手数をお掛け致しますが、宜しく御願いします。
 今から、楽しみです!

93沖浦克治:2010/03/28(日) 21:06:37 ID:AJ3hr85o0
 高速太郎さん、今晩は

 では、こちらで日を決めさせていただきます。
 6月、19日(土)20日(日)はいかがでしょうか?

94高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/28(日) 21:54:45 ID:JThdDrQw0
>>93 沖浦さんへ 了解しました。宜しくお願い致します。

95沖浦克治:2010/03/29(月) 06:03:40 ID:AJ3hr85o0
 楽しみですね。

 高速太郎さん、お土産は貴方の笑顔ですよ。

96高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/03/30(火) 01:30:42 ID:JThdDrQw0
沖浦さん こんばんは!

>>95 了解しましたヨ。 いつも優しい心づかいありがとう御座います。 嬉しいです!

97某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/03(木) 06:10:07 ID:fX21BzDw0
おはようございます。
このスレッドで語り尽くされていましたね

98沖浦克治:2011/11/03(木) 06:28:44 ID:AJ3hr85o0
 某男子部員さん、おはようございます

 天城さんは、総別が理解できません。
 総じては仏は迹で、人が本です。
 一切衆生の中で法を説く立場の仏と、説かれる立場の民衆は、人が本で仏が迹です。
 これが衆生と仏の総じての比較です。

 別しては、個々人はどの人も等しく、久遠の南無妙法蓮華経如来です。
 ですので、その仏としての立場が本地で本、娑婆世界にたまたま人間として存在する姿は方便で迹。

 こうなるんです。
 御書にあります。
 
 『九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」[已上取意]、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 荘周と言う人が、自分が胡蝶になる夢を見てその夢の中で100年経った。
 然し目覚めるとそれは夢で一瞬のことで、自分は荘周で、夢で胡蝶になっていた間も、やはり荘周と言う人間だった。
 同じく、私たちが生死の凡夫だと思っている時は、荘周が夢で自分は胡蝶だと思っていたのと同じで、本当は久遠からの仏なんだ。

 こう言う意味です。

 天城さん達は、ここを迷います。
 ここがわかるなら、漫荼羅は迹ですよ。
 夢から覚める道具が、本なわけありません。
 何処まで行っても、本は、夢から覚める私共です。

99某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/03(木) 07:20:34 ID:fX21BzDw0
沖浦克治さん、おはようございます

非常にすっきりと心を通過するお話しです。
沖浦克治さんはネット活動を開始するにあたり、
正体不明な、怨嫉者が誹謗してくることは
想定しておられたでしょうか。

100沖浦克治:2011/11/03(木) 12:50:27 ID:AJ3hr85o0
 某男子部員さん、今日は

 想定内です。

101某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/03(木) 17:22:06 ID:64/BUIEA0
沖浦克治さん、こんばんは

そうでしたか。
ネット活動開始に先んじて、匿名怨嫉者の巣窟である2chを閲覧しておられたでしょうし

102沖浦克治:2013/05/21(火) 06:27:32 ID:U7nVm6lA0
 このスレッドにご意見をお寄せ下さいませ。

103黒川和雄@法華講:2013/06/05(水) 20:27:10 ID:???0
天城さんは、総別が理解できません。
 総じては仏は迹で、人が本です。
 一切衆生の中で法を説く立場の仏と、説かれる立場の民衆は、人が本で仏が迹です。
 これが衆生と仏の総じての比較です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


貴殿も全く理解できていないね、其の天城さんと同じだ。

そもそも総別の二義とはどの御書にある文言か? お出し下さい。

104黒川和雄@法華講:2013/06/05(水) 21:02:36 ID:???0
貴殿の詭弁は例を挙げれば、「総じて日本国民とは日本国籍を保持する
民衆であるが、別しては私が住む長野県白馬村である」と、声高に
公言しているようなものである。莫迦にされるだけです。
仏法用語の乱用はお止めになることですね。

以上、

105沖浦克冶:2013/06/05(水) 22:07:54 ID:mez.7hN20
 黒川さん、今晩は

 少なからず上から目線ですね。

 今後もこのスタンスですと、早晩アクセス禁止になりますよ。

106黒川和雄@法華講:2013/06/05(水) 23:03:41 ID:???0
貴殿の最近のカキコを見る限り数年前とは色合いが違いますね。
自暴自棄になっているようですね。

さて、余談はさせておき、貴殿の総別の二義の出典御書をお出し下さい。

上の目線も、下の目線もありません。邪義は何処まで行っても邪義です。

107黒川和雄@法華講:2013/06/05(水) 23:05:03 ID:???0
自由に論議いたしましょう、でしょ?

108沖浦克治:2013/06/06(木) 07:00:09 ID:U7nVm6lA0
 黒川さん、おはようございます。

 私は自暴自棄になったことはありません。
 そう言うデマ宣伝はダメです。
 アクセス禁止の対象になりますので、今後は注意して下さい。

 総別についてですが、四弘誓願を総願、菩薩などの立場の違いによるそれぞれの願を別願とよびます。
 総別はここから出ています。

 『私に云く二乗作仏無くば四弘誓願満足す可からず、四弘誓願満たずんば又別願も満す可からず、総別の二願満せずんば衆生の成仏も有り難きか能く能く意得可し云云。』
 (法華真言勝劣事)

 総別の二義は、御書にありますね。

 『又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん、』
 (曾谷殿御返事)

 釈迦仏法のお立場でのご指南です。
 対告衆の曽谷さんは、大聖人が御本仏だとは知りません。
 釈迦本仏で、法華経が最高で、南無妙法蓮華経もその中の一つ程度の認識です。

 この方は、方便品は迹門だから読まない、と言って、大聖人に叱られています。

 南無妙法蓮華経からみたら、釈迦の本門や迹門の差は、問題にするほどではありませんが、釈迦本仏論の方は、大きな問題なのです。
 それをたしなめるために、大聖人が総別を出して諭されました。

 私共は曽谷さんと異なり、大聖人御本仏を熟知しております。

 ですので、別に関係ございません。

109黒川和雄@法華講:2013/06/06(木) 17:19:01 ID:???0
貴殿は文の上っ面しか見ておりませんね。

御存じの様、大聖人の御化導は五重相対の別があるのです。
誰が対合衆か? その御書は五重相対のどれに当たるのか?
これを無視し、「ここにこうあるから、こうなんだ」という読み方しか
出来ないから、衆生が本などという莫迦な論理展開になるのですよ。

貴殿の挙げた文の前にこうあります。

「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。
又是には総別の二義あり。」

お分かりか? この文証は権実相対にして、種脱相対であります。

権実相対=釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。釈尊の付属です。
種脱相対=日蓮又日本国にして此の法門を弘む。これが文底です。

双方文上にしろ、文底にしろ「付属」のことをお示し遊ばされているのですよ。

※総じては仏は迹で、人が本です。?????

上、付属とは何の関係もあるまい。仏法用語の乱用はお止めになるべきです。
恥をかくだけです。

「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。」

上の文証によれば、貴殿は成仏は出来ぬ、ということですね。

110沖浦克治:2013/06/06(木) 17:33:01 ID:U7nVm6lA0
 黒川さん、今晩は

 私共は既に内外相対にしか興味がございません。

 種脱や権実は、今全く役にたちませんね。

 世界宗教と呼べるものはキリスト教と回教です。

 そこへ布教するに、そう言う相対は意味を持ちません。

 あの御書を読めば理解出来ますが、大聖人は上行菩薩のお立場です。

 釈迦本仏です。

 そう言う思想は今、必要ございません。

111黒川和雄@法華講:2013/06/06(木) 21:15:25 ID:???0
ほ、ほう、では確認いたしますが、
大聖人は末法の本仏ではなく、日蓮菩薩ということでしょうか??
これは重大な発言ですね。

112黒川和雄@法華講:2013/06/06(木) 21:17:23 ID:???0
では、なぜ貴殿は総別の二義を持ち出し、

自分の主張を正当化するのか? これの回答もお願いします。

では、

113沖浦克治:2013/06/06(木) 21:31:37 ID:U7nVm6lA0
黒川さん、デタラメはいけませんね・

 大聖人ご本仏は私が定める所です。

 日蓮菩薩などと一度も言いませんよ。

 総別の二義は、貴方が持ちだしたのです。

 私はどっちでもいいですよ、そういうことは。

114黒川和雄@法華講:2013/06/06(木) 23:45:25 ID:???0
※大聖人は上行菩薩のお立場です。釈迦本仏です。

再度確認です。上、どういう意味ですか?
貴殿、釈迦本仏ですと言っておりますね。どういう意味ですか?

115沖浦克治:2013/06/07(金) 05:44:59 ID:U7nVm6lA0
黒川さん、おはようございます。

 曾谷殿御返事は、曽谷さんが、釈文不読などと言い出した事に対しての指導です。
 大聖人はこの時ご自分が御本仏だとは言われておられません。
 更には、上行菩薩ですらなく、その遣いですら無いとお書きです。

 『然るに上行菩薩等末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、』
 (曾谷殿御返事)

 序文にだいたい広めただけだ。

 こう言う書き方ですので、この時点でこれを読んで、大聖人が御本仏とわかる人はいませんね。
 当然文意では、釈迦本仏です。
 大聖人御本仏はもっと後世にならないと出て来ませんし、創価学会が出現しなければ誰もわからなかったでしょう。
 戸田先生のお陰で、大聖人御本仏が全国に広まりました。

 700年かかっていますね。 
 当然、鎌倉時代に大聖人が御本仏などは誰も知りません。
 私共は、現在の立場で、振り返ってわかるだけです。

116沖浦克治:2013/06/07(金) 06:45:48 ID:U7nVm6lA0
黒川さん

 少し補足しますが、この引用の御文から大聖人御本仏は出てまいりません。
 最高に拡大解釈して、上行菩薩再誕までです。

 大聖人がストレートにご自身が本仏だと書いている所がありますか?

 あるなら、引用して下さい。
 学びたいですから。

117沖浦克治:2013/06/08(土) 21:28:03 ID:lHNUoBrE0
 五百塵点劫について私感を述べます。

 他の板でご質問を頂きましたが、その方はそう言う話題を対話可能な方ではありません。
 ですので、無視してもいいのですが、いい機会ですし、非常に大事な事でもあります。
 久遠実成とも呼ばれる長遠の過去の出来事して法華経如来寿量品第十六で説かれています。
 法華経以前、釈迦はインドで生まれ、弟子たちともインドで出会い、化導をした、と説かれています。
 迹門では大きく変わって、化城喩品第七で

 釈迦は三千塵点劫と言う昔に、大通智勝仏と言う仏の十六番目の王子として生まれ、化導をし衆生を結縁をし、その時の縁でインドに共に生まれ、釈迦はインドで成仏をしその時の衆生をインドで又弟子としている。

 と説きました。
 これまでのこの世だけの結縁を否定したのです。
 ですが、釈迦はこの時点ではやはりインドで始めて仏に成ったと言う立場を変えていません。
 如来寿量品では、これを否定、
 
 自分は五百塵点劫と言う極めて遠い昔に成仏し、それ以来娑婆世界で説法教化し、弟子たちを化導し続けて来た。

 この様に説いたのです。
 ですので、菩提樹の下で釈迦が悟ったとされる内容は、

 今仏に成った。ではなくて、

 元々仏だったと思いだしたのです。
 この元々が久遠実成と呼ばれる五百塵点劫です。

 大聖人はこれに対して久遠元初と呼ばれる時、既に仏であったと説かれました。
 この久遠元初を、久遠五百塵点そのかみ、とも呼びます。
 そして、注目すべきは、その久遠元初で既に、一切衆生がご自分と同じく仏であったと説かれた事です。

 『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
 (船守弥三郎許御書)

 この思想が大聖人仏法の真髄とも思えます。
 これ以前は、仏も神も、人ではなく人を越えた超絶の存在であって、人はその存在を信じ認められた時だけ、極楽や天国へ行けるとされていました。
 所が大聖人は、

 そうではない!
 お前たちは元々自分と全く寸分たがわない仏なんだ!!

 と言われたのです。
 凄い事ですね。

118沖浦克治:2013/06/08(土) 21:47:51 ID:lHNUoBrE0
 続きです。

 『釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世番番に出世成道し在在処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 ここは、釈迦が凡夫であった、久遠元初に成仏していた久遠の本仏が五百塵点に迹仏の姿として顕れ、三世にわたって衆生を化導して行く働きの面を三世諸仏と言われ、三世は時間的な広がりを、諸仏は空間的なそれを言われたとも拝せます。
 更に池田先生は、

 『五百塵点劫とか、三千塵天劫とか、別に我々には関係ないのです。
 今が久遠元初なんです。
 久遠即末法と言うでしょう。
 ですから、我々には関係ありません。』(趣意)

 五百塵点劫、三千塵点劫などと言っても所詮は釈迦仏法の説明です。
 大聖人はそのはるかに上のお立場です。
 当然私共もそう言う事は関係無くてかまいません。

 『第廿三 久遠の事
 御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。』
 (御義口伝巻下)

 この久遠実成は久遠元初のことで、無作と仰せです。

 無作。

 非常に大事な事ですね。

119沖浦克治:2013/06/08(土) 22:10:30 ID:lHNUoBrE0
続きです。

 『第一妙法蓮華経随喜功徳の事
 御義口伝に云く随とは事理に随順するを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百麈点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり、然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり、然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、』
 (御義口伝巻下)

 無作三身ですが、そのままで仏だと拝せます。
 信心し、戦い唱題をして行くうちに、自然の内に本来の仏の境涯になってしまう。
 以前先生が言われました。

 『諸君たちは何があっても創価学会の信心を貫きなさい。
 そうすると、60歳ぐらいで自然に天職とも言う人生に入ります。
 なろうとしなくても勝手にそうなっちゃう。
 無作と言うんです。』(趣意)

 私共にとって久遠元初とはこう言うことなんだと思います。
 自然にそうなる。
 ですので、背伸びする必要もありませんし、あの人の様になりたいと思う必要もありません。
 キチンと信心していると自然に久遠元初の仏の姿を減じる。
 人間革命、と言う行為を通じてそうなるのです。
 境涯革命です。
 自然になるのですから、普通にしていればいい。

 NETでハンネで異なる人格を演じるなどは、愚の骨頂です。
 そんなものは、無作ではあり得ません。

120沖浦克治:2013/06/08(土) 22:11:58 ID:lHNUoBrE0
では、今夜はこのあたりで終わりますね。

121沖浦克治:2013/06/09(日) 21:49:18 ID:lHNUoBrE0
 久遠実成が何故寿量品の肝心なのか?

 池田先生が言われました。

 『釈迦は久遠実成で成仏したのだから、インドで生まれた時には既に仏です。
 19歳で出家して30歳で成道した。
 所が30歳以前も仏です。
 久遠実成で仏ですから。
 では、30以前と以後で全く差がないのか? 
 あるんです。
 30までは自分が仏であることを忘れていた。
 30で思い出した。
 これだけの差なんです。』(趣意)

 先生が講義された内容ですが、するとこの時あらゆる人に成仏の可能性が現実になります。

 釈迦は仏であることを忘れていた。
 だから自分もそうかも知れない。

 然しながら釈迦は、久遠実成で自分がどうやって成仏したのかは明かしません。

 我本行菩薩道。と説いていますが、菩薩の行の内容は明かしません。
 ですので、この点は生命の起源と似ています。

 地球の生命はどうやって誕生したか?

 近年宇宙から生命の種が飛来したとの説があります。
 これが正しいとして、この説では地球の生命の起源は説明が出来ますが、その地球に飛来した生命の元がどう言う風に生まれたのか?
 これは説明出来ません。
 ですので、この説では、地球と言う限られた環境に於ける生命の起源は開かせますが、生命そのものの起源は明かせません。

 如来寿量品で久遠実成を明かしますが、ではどうやって釈迦が仏に成ったのか?
 この点は明かしていません。
 菩薩の修業をしてと書かれてありますが、その修業の具体的な内容には触れていません。
 
 大聖人はここを説かれました。

 『第廿三 久遠の事
 御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。』
 (御義口伝巻下)

 この久遠実成は久遠元初のことで、無作と仰せです。
 元々生命は仏なんだ。
 何もしなくてもそのママで仏なんだ。

 簡単に言うとこう言うことです。 
 生命の起源もそうですね。
 仏法では、

 宇宙がそのまま生命だから、そう言う起源が云々ではなく、元々宇宙ができた時からそれが生命そのものなんだ。
 
 このように説きます。
 戸田先生が悟達なさいますでしょう。

 『仏とは生命なんだ!!』(趣意)

 大聖人は仰せです。

 お前たちがそのままで、この宇宙ができた久遠元初と言う時既に仏であって、この宇宙ではそう言う事になっているのだ。

 『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
 (船守弥三郎許御書)

 仏法ではこう言う事になっています。

122スタ:2013/06/21(金) 21:13:02 ID:???0
こんばんは。今更自己紹介をする必要もないでしょう。

貴方がアク禁解除するならお手合わせ願いたい。

返信お願いネ(^◇^)

123太ちゃん:2013/06/21(金) 21:30:07 ID:???0
スタさんもネット歴が長くなっているけれど、『自己紹介』は利用者の記帳みたいなものですから簡単にでもやっておいた方がいいですよ。

というか、MSN以来で懐かしいですよ(^^)

お元気そうでなによりです。

124沖浦克治:2013/06/22(土) 05:54:49 ID:lHNUoBrE0
 スタさん、おはようございます。

 自己紹介がキチンと出来ない人は、来なくていいのですよ。

125沖浦克治:2013/06/22(土) 05:55:30 ID:lHNUoBrE0
 それと、スタさん、アク禁なのですか?

127沖浦克冶:2013/06/23(日) 06:35:09 ID:iTPO2GuA0
 先ず自己紹介をして下さい。
 
 それがルールの板です。

 とりあえずスタさんの投稿は削除いたします。

 自己紹介なしで、次に書き込むと、私がアク禁に致します。

129スタ:2013/06/24(月) 21:46:32 ID:???0
よろしいのか、たずねておるのだよ。

138沖浦克治:2013/06/25(火) 22:59:33 ID:lHNUoBrE0
 スタさん、アクセスをお断り致します。

139沖浦克治:2013/06/26(水) 05:45:28 ID:lHNUoBrE0
我即宇宙と言う概念があります。

 『弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 『然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり』

 『今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり、』

 明快に説かれてあります。

 私共一切衆生の命こそが、南無妙法蓮華経だ!!

 寛師はここを迷ったのです。
 習い損ないと呼ぶ所以です。

140沖浦克治:2013/06/26(水) 07:32:06 ID:lHNUoBrE0
富士ボーで、愚かな論争が続いていますね。

 法華講の方、自称創価学会員の方、双方ともに御書が読めません。 
 更には、法華講員の方が、創価学会の開祖戸田先生のご指導が読めないのは仕方ないですが、自称創価の方が全く読めない。
 似非創価である所以です。

 口決相承について、極めて低レベルの議論がなされています。
 
 『此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、』
 (三大秘法禀承事)

 同じ事を戸田先生が御書講義で述べられておられます。

 『この時私も大聖人と一緒にいたんです。
 貴方方もいたんですよ。
 いなかったら、冗談じゃない。
 ここで戸田の講義なんか聞いていません。』(趣意)

 音源を持っております。
 私共は、久遠で大聖人、戸田先生、と共に口決相承を受けています。
 今更、誰が受けたの受けないの?
 アホらしい!

141けんじ ◆BDu0.rUntI:2013/07/28(日) 16:37:33 ID:1kMhMBfY0
どなたか、唯授一人の血脈について教えて頂けませんか。

142沖浦 克治:2013/07/28(日) 16:45:31 ID:lHNUoBrE0
 けんじさん、今日は

 そういうものはございません。
 創価学会は大聖人から興師への唯授一人の血脈は認めておりますが、あれは暫くの間の方便でしょう。
 唯授一人で本当に仏法が伝わるなら、極端な密教になります。

 それは仏法ではありません。
 御書には、一切衆生は等しく唯我一人の当体だとあります。
 
 『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
 (船守弥三郎許御書)

 ですので、師から一人だけの弟子に仏法の極意が伝わると言う思想は、邪義です。

143けんじ:2013/07/29(月) 01:55:54 ID:bDkxg.jAO
沖浦さん、今晩は

御書で、「本尊並びに血脈の大事は唯授一人の血脈なり」と有りますが、これは後世の人が付け加えたものだそうですね。

本来の仏法に反する思想なんですね。

144沖浦克治:2013/07/29(月) 06:58:56 ID:lHNUoBrE0
けんじさん、おはようございます。

 富士宗学要集で、堀上人がその部分は後世の偽作だとお認めです。

 又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし秘すべし、伝ふべし。
 法華本門宗血脈相承畢ぬ 
 弘安五〈太歳壬午〉十月十一日  日蓮花押

 編者の曰く日時上人(本山五世)日辰上人(要山永禄三年写)日我上人房山元亀三年比)等古写本(巻頭に其各写真を掲く)によってこれを写し一校を加へ後可と見ゆるぶんには一線を引く、而して各本について識の明らかなるは辰師本(日尊自筆の本にて写すとあり)とす、以下の無数の写本ありと云へども多くは三本を出でざれば校正用に足らざるなり。

145沖浦克治:2013/07/29(月) 07:05:45 ID:lHNUoBrE0
 唯授一人は産湯相承事にもありますが、これは所詮は興師の昨ですので、全ての大聖人門下にはどう言う影響もありません。
 大石寺近辺の脆弱な内部規定に過ぎないのです。

 後世の誰かが、それを知っていてごまかしに最後に日付と大聖人のご署名を偽作しています。
 堀さんがあっさりと、それを偽作だとして公開されました。

 聖人の言く、此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決唯授一人の秘伝なり、神妙神妙とのたまいて留め畢ぬ。
 弘安五年可壬午十月八日       日蓮在御判

 
 編者曰く房州妙本寺日山我師門下写本等に依つて之を写し一校を加へ延書となす、書末年月御名判に二線を引きたる一行は後人の偽托なるが故なり。

146沖浦克治:2013/07/29(月) 07:07:47 ID:lHNUoBrE0
 唯授一人なんて、仏法にある道理がありません。

 私がそう書くと、

 沖浦は興師を否定する!!

 などと浮かれ騒ぐ人がいますが、愚かですね。
 少しでも仏法を理解するなら、そう言う思想は出て来ません。
 私が云々ではなく、仏法にはそう言う考え方がありません。

147けんじ:2013/07/29(月) 19:24:07 ID:bDkxg.jAO
学会の御本尊様に授与書きがどうこうだから、と言う人もいますが、この点についてどなたか

148X-PRO-Z:2013/07/29(月) 19:39:17 ID:???0
よその 宗派のことです

149太ちゃん:2013/07/30(火) 00:41:10 ID:???0
>>147

授与書き?

なにそれ?(爆)

宗門の板曼荼羅には「授与書き」なんてありましたっけ??

「字」には書いた人によって「微妙な違い」が出るものです。『あ』と書いた文字の他に『い』と付け加えても『あ』と書いた字は『あ』のまま変わるわけではありません(当然ですが)。

曼荼羅を書いた人の『生命』を我々が共鳴する効果のためのものを、「授与書き」などあっても無くとも曼荼羅の字が変わるわけではないですよ。

つまり「あっても無くともどっちでもいいもの」=「無意味なもの」なんですよf^^;

『授与書き』がどういうものか知らないけれど、もし曼荼羅に直接書いてるなら『誹法』にならんのか?f--;

150立ち上がろう ◆TJ9qoWuqvA:2013/08/14(水) 20:07:41 ID:DSsw2N8U0
人は生まれながらにして様々な差別がありますが、このことについて仏法ではどのように説かれているのでしょうか?
顔立ちの端正な方は、過去世で仏道修行に真剣に取り組んだ人と説かれていると聞いたのですが。

151立ち上がろう ◆TJ9qoWuqvA:2013/08/14(水) 20:09:48 ID:DSsw2N8U0
きちんと仏道修行にはげみ、道徳的に良い行いをした人が来世での幸せが約束されると思って良いのでしょうか?
生まれる時期、国、家庭などはどのように決まるのでしょうか?気になります。

152立ち上がろう ◆TJ9qoWuqvA:2013/08/14(水) 20:12:04 ID:DSsw2N8U0
>「授与書き」などあっても無くとも曼荼羅の字が変わるわけではないですよ。
これはそのとおりですね。宗門がかつて学会に下付していたご本尊様にも授与書きはありませんでした。

153立ち上がろう:2013/08/14(水) 20:17:51 ID:DSsw2N8U0
来世に悲惨な状態で生まれたらと思うと怖いですね。

154大いなる人間 ◆ihElqIETAs:2013/08/17(土) 17:17:36 ID:s7GC9YSk0
善根についてお伺いしたいのですが、どなたかよろしくお願いします。

155大いなる人間 ◆ihElqIETAs:2013/08/17(土) 20:30:31 ID:s7GC9YSk0
慈悲と愛の違いをどなたか教えていただけませんか?

156けんじ:2013/08/20(火) 00:34:46 ID:bDkxg.jAO
自分の周りに集まる人というのは、自分に似た人が集まると聞いたのですが、やはりそうなのですかね。

157けんじ:2013/08/20(火) 22:29:17 ID:bDkxg.jAO
先生はここ数年、同時中継に出られない。今後は出られないのでしょうかね。


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