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本迹に関して対話するスレッド

1沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/10(月) 09:52:02 ID:AJ3hr85o0
 最近、私の問いかけにより、本迹論議が起きています。
 未だに論調が幼い感が否めません。
 このままでは世間様に学会員の教学と対話のレベルが疑われてしまうでしょう。

 いい機会ですのでスレッドを立てました。

 誹謗中傷は禁止。
 決め付けは駄目。

 戸田先生の仰せです。

 『御書を読むのに、これは絶対こう言う意味だ。はいけない。
 御本仏様のお書きになられたものを私共が決め付けることは謗法です。ここはこう拝せる。
 これが正しい読み方である。』(趣意)

 この点は守っていただきます。
 それと、御書や先生の指導、世間の学説などを引用する際、このスレでは趣意結構です。
 一字一句にこだわる方は他所でおやりください。

 では、皆様方のご意見をどうぞ。

2沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 07:17:08 ID:AJ3hr85o0
 一日おいても誰もお見えじゃない。

 フ〜〜〜ン??

 あの大騒ぎって一体なんだったんでしょう??
 もくれんさんなんか、どこに雲隠れしたんでしょうね〜〜??

 口先だけなんでしょうな。
 天城さんはどこにいますか??
 
 やまいぬさんも遠慮しないでどうぞ。
 貴方方が書き込まないと何一つ始まりませんよ。

 発言責任はちゃんととりましょうね。

 待ってます。

3沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 09:45:17 ID:AJ3hr85o0
 先ほど若鷹を覗きました。

 やまいぬさん、もくれんさんはここに参加のご意思がないとのことです。
 私はあの板で法門のことを語る気にはなりません。

 ですのでここテーマは私共だけでやりましょう。
 ただ一つだけ言えることは、天城さんが卑怯者だったと言うことです。
 自分出日を付けてあとは知らん顔。
 そして、勝った勝ったの大本営。
 回りも持ち上げて右往左往。
 とても法門の大事を語れる雰囲気ではないですね。
 天城さん、反省するべきですよ。

 では、また、このテーマで何なりと書き込んで下さいません。

4沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 11:50:49 ID:AJ3hr85o0
 私の本迹に関する考え方を申します。

 本迹を優劣と同一視してはいけないと思います。
 本迹は立場の相違だと捉えた方が適切であると思っています。
 絶対的な真理で本迹を判断は致しません。
 カントの価値論の
 真善美を、牧口先生は、利美善になさいました。

 真理は認識の対象であるから価値の根本からはずされたのです。

 絶対的な法の優劣はこれと同様です。
 たとえば、爾前経の機根の衆生に法華経をといても無駄です。
 法の絶対的な高さからですと、自行化他のお題目を説けばいいですね。
 ところが釈迦も天台も伝教も、お題目は広めなかった。
 衆生の機根の故です。
 この場合、衆生が悟りやすい法、実践しやすい法が本です。
 お題目は迹ですね。
 この衆生はそう言う衆生です。
 法の絶対的な優劣では迹のお題目が勝ります。

 これで分かるように、仏法は人のための法です。
 法のための人ではありません。
 ですから衆生が本、そのための法が迹。
 衆生によって説く法を変えるわけですね。
 これが当然だと思います。

5沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 11:53:55 ID:AJ3hr85o0
 これから先生や戸田先生のご指導を引用いたします。
 趣意で行いますが、ご不満の方は私が音源を持っております。
 どうぞご自分で私の家に来てお調べ下さい。
 その程度の努力は必要です。
 私は自分の音源と場所を提供いたします。 
 どなたでもどうぞ。

 趣意がお気に召さない方は、他所でおやり下さいませ。
 邪魔は致しません。

6:2008/11/11(火) 20:33:35 ID:GzTbFjgs0
本迹については、シビックさんと対話するつもりでいましたから、ずっと考えています。
(シビックさんお元気ですか?)

ここに、牧口先生の価値論がでてきて、なるほど〜っと思い始めています。

「新・人間革命」第8巻P148で本迹の具体例が出ています。
その最初に、『たとえば、眠っている時は「迹」、起きている時は「本」。』とありますが
私にはそれが分かるようで、分からないでいました(というか・・「います」)
これも、価値論を前提にすれば、眠っている時は価値を創造しているとは言えませんから
「迹」でいいわけですね!?

沖浦さんが言われる「本迹」は『優劣』ではないという点は、『勝劣』の立て分けとは違うのかなど
もう少し勉強していきたいと思っています。
まだまだ、私には言及する力はないと自覚しています。

7沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 20:57:18 ID:AJ3hr85o0
 梅さん

 本迹と、勝劣を同じで論じると駄目なんです。
 勝劣はある意味では絶対的な優劣なんです。
 本迹は現実主義なんです。

 学生で学ぶ時は本、遊んでいると迹。
 でも、遊んでいる時劣るとは限らないのです。
 この場合本迹がそのまま優劣じゃないですね。

 日蓮正宗は曼荼羅を絶対として信徒を支配してきた宗派です。
 ですから、曼荼羅が本で勝なんです。
 信徒は人間ですから、迹で劣なんです。

 何が何でもこうしておかないと、曼荼羅を取り仕切りする出家の優位が保てません。
 少し考えると分かりますが、出家に飯食わしているものは在家でしょう。
 じゃ、本は在家じゃないですか。

 曼荼羅は人の信心のためでしょう。
 じゃ人が本で曼荼羅が迹です。

 信心しないと仏になれない、その信心のためには曼荼羅本尊が必要です。
 最初に衆生の成仏と言う大目的があって、仏法は全てがその大目的にしたがって顕われます。
 
 『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』
 (新尼御前御返事)

 法が絶対で本なら、衆生の機根なんか気にするもんですか。
 サッサと法を説いて、悟れない奴は捨てておけ。
 こうりますよ。
 でもそうじゃないと大聖人様が仰せでしょう。
 
 疑うことないですね。 
 曼荼羅が本は、日蓮正宗の邪義です。

 人のための宗教なら、人が本、教えが迹。
 当然の道理だと思いますよ。

8沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 21:18:23 ID:AJ3hr85o0
 参考資料です

法華経の智慧 〜二十一世紀の宗教を語る 第五巻 (池田大作著/聖教新聞社 1999.9/20刊)
如来神力品① 地涌の菩薩への「付嘱」―― 広宣流布への荘厳な儀式
全民衆よ!汝自身の尊貴さに目覚めよ!

 「凡夫こそ本仏」の大宣言 (P171〜)
斉藤(斉藤克司教学部長・副会長) 考えてみれば寿量品で否定された「始成正覚」という考え方には、きわめて危険な要素があったのではないでしょうか。
 つまり釈尊が伽耶城近くの菩提樹の下で「始めて」悟った ――この始成正覚の「前は凡夫」「後は仏」と考えてしまうと、「人間・釈尊」が見えにくくなります。
 実際のところは「人間として」真剣に正しき道を求めたからこそ「わが仏界」に目覚めた。そうやって目覚めたからこそ、「人間として」最高の生き方ができた。
 つまり「人間・釈尊」として一貫しているわけです。この一貫性を「始成正覚」は切断してしまう危うさがある気がします。

遠藤(遠藤孝紀副教学部長・墨田区副区長) 始成正覚以後は「人間を越えた」何か特殊な存在になった、そんな錯覚に陥りやすいですね。
 釈尊という人格を、目の当たりにできた 釈尊在世の衆生はいいとして、釈尊滅後の人には、どうしてもそう思われがちだと思います。

須田(須田晴夫副教学部長・墨田区副区長) そこから釈尊を神格化したり、自分達は「凡夫でしかない」と卑下してしまった。これは謙虚なようで、じつは傲慢の裏返しですね。
 「人間(凡夫)」の尊貴さを知りもしないのに、知ったつもりで人間不信になっているわけですから。

名誉会長(池田大作創価学会名誉会長)  「凡夫でしかない」 ―― そういう言い方は、とんでもない間違いです。
 そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
 この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
 然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』 (全集P1358)   
 『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』 (全集P1359)  
 まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。 
“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。 
 仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
 どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、
 実は凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない ――こんな宣言は他にありません。
 まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
 歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。
 そう言えるのではないだろうか。

9沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 21:25:54 ID:AJ3hr85o0
 日蓮正宗はレス8の池田先生のご指導に激しく反発致しました。
 多くの破折論文をあちらこちらに掲載し、必死で反論しています。

 天城さんがこの行為を現在ネットでおやりです。
 あの方、日蓮正宗のかたなんでしょうか?
 少なくとも、この池田先生のご指導とは正反対の方です。
 最近、あの人や河内さん、江戸門さんなどは宗門の方だと思えてなりませんね。

10沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/12(水) 08:14:29 ID:AJ3hr85o0
 『法華経に云く「此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり是の如き人は諸仏の歎めたもう所なり、』
 (守護国家論)

 ご本尊様に祈って、歓喜するのは祈る本人です。
 我即ち歓喜す。です。
 祈れば分かりますが、喜びは自分の命の中から沸き出てきます。
 曼荼羅から伝わって来ません。
 命の中からなんですよ。
 湧現と言います。
 これが仏法の内道たる所以です。
 祈ってない人にはわかりません。

 曼荼羅が本。
 これはね、祈りを体験してない人です。
 御書にあります。
 伝教は何もなしで悟った。
 命に湧現したんですよ。

 『賢人と申すはよき師より伝へたる人聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり、仏滅後月氏漢土日本国に二人の聖人あり所謂天台伝教の二人なり、此の二人をば聖人とも云うべし又賢人とも云うべし、天台大師は南岳に伝えたり是は賢人なり、道場にして自解仏乗し給いぬ又聖人なり、伝教大師は道邃行満に止観と円頓の大戒を伝へたりこれは賢人なり、入唐已前に日本国にして真言止観の二宗を師なくしてさとり極め、』
 (妙密上人御消息)

 ほらね、曼荼羅出てきません。
 師の存在が助縁か、自ら悟るか、どっちかです。
 第一、伝教は曼荼羅ありません。
 拝んでませんよ。
 所詮、仏法は人から人です。
 曼荼羅から人じゃありません。
 では曼荼羅はなぜか?
 道具ですよ、悟るための武器です。
 使うのは人。
 ピアノ弾きのピアノと同じです。
 武士の刀です。
 使う人が弱いと駄目ですね。

 『但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給』
 (経王殿御返事)

 この様に、大聖人様がご自身の顕されたお曼荼羅を武士の刀だ。と、明言されておられます。
 これじゃ困る人種がいるんです。
 日蓮正宗にいる出家って奴らなんですよ。
 アレらは、何が何でも曼荼羅が神秘で摩訶不思議にしておかないと、信徒支配が出来ないんです。
 俺たちゃこれほどありがたいんだぞ。
 後ろに曼荼羅控えてる。
 この類です。

 曼荼羅本の方。
 いい加減に日蓮正宗辞めたら如何?

11蘭太郎:2008/11/13(木) 06:23:11 ID:obDPCy620
>『但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給』
 (経王殿御返事)
> この様に、大聖人様がご自身の顕されたお曼荼羅を武士の刀だ。と、明言されておられます。



明言などされていないよ。『つるぎなんども』とされ、譬へて剣と申されたんだよ。だから
この様に、大聖人様がご自身の顕されたお曼荼羅を譬へて言えば武士が刀を随身する様に、私達は御本尊に信をとるべきです。 と言えば正解。

ま、竹刀振り回していっぱしの剣豪気取りで居るようじゃあ、御書解釈もこの程度か。(嗤)

あ、 分かるよね、竹刀の意味。(嗤)

で、本迹には勝劣が無いとは如何。
貴方、一致派の人ですか?。「人本仏迹論」なる貴方のお説では貴方が本で大聖人様は迹となり、これじゃ余りに‥‥てんで 勝劣を無くしたのかな?。(嗤)
「所詮、祈りです」なんてさ、まともな事も言えるんだから、もう少しお勉強しようね。(大嗤)


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