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涅槃

1:2013/09/29(日) 01:51:18 ID:WLMLwkD2
こんにちは。

四禅定の四禅で不苦不楽を捨覚支にて捨て去った境地と、九次第定の想受滅=無想処と、漏尽智で一切=十八界から出離した境地とは、全て同じ涅槃(煩悩=渇愛がない状態)の境地の事で、解脱の事であり、それぞれで慧解脱、心解脱、悟りと言う 煩悩=漏を滅尽智にて滅尽したと言う事で同じ境地と言う理解で宜しいでしょうか。

宜しくおねがいします。

2:2013/09/29(日) 03:36:50 ID:WLMLwkD2
失礼しました。誤記です。

煩悩=漏を滅尽智にて滅尽したと言う事  ⇒  煩悩=漏を漏尽智にて滅尽したと言う事

3和井 恵:2013/09/29(日) 21:51:09 ID:/qZ2M5.2
そうですね。
涅槃とは、三毒(貪・瞋・痴)を滅した状態のことです。
三毒が無くなれは、渇愛を生起させるような「受」が無くなるのです。
ですから、この状態ならば、この現象世界に居ようが、他の、諸々の瞑想の境地に居ようが関係ありません。

一切 = 十八界 = 悪魔の領域(渇愛が生起し、取著による結縛が生ずる領域)なのだと、釈尊は説いています。

4:2013/09/29(日) 23:11:04 ID:WLMLwkD2
>一切 = 十八界 = 悪魔の領域(渇愛が生起し、取著による結縛が生ずる領域)なのだと、釈尊は説いています。

これは、サンユッタ・ニカーヤⅡ(悪魔との対話)の事ですね。

各修行によって解脱を果たし、涅槃を体現したなら、それでお終いだと。筏の喩えによって、もう教えには執着せずに捨て去るのですね。そして上記を踏まえた上で、今後は、生活上で感官の防護を意識する生活を送るのみだと言う理解です。感官の防護を心がける事によって、六処の内外対象への接触が抑えられると言う事です。つまりは妄執相の生起を抑えられ、仮に生起してしまった妄執相があっても瞬時に滅する事が出来ると言う事ですね。そして戯論は寂滅し、寂静が残ります。後は、熱と寿命との縁が切れるまで、一の矢を受けても二の矢は受けない生活で静かに暮らせるだろうと。

これは、私なりの釈尊の教えの理解であり、細かい所はまだまだだと思いますが・・・釈尊の教え的にその方向性は、これで間違いは無いでしょうか?

よろしくお願いします。

5和井 恵:2013/09/30(月) 05:45:17 ID:/qZ2M5.2
釈尊の教えは、その方向性で間違いありません。

正しく理解できていると思いますよ。

6:2013/09/30(月) 11:25:33 ID:WLMLwkD2
>正しく理解できていると思いますよ。

和井さんにこう表現していただけると、何だか嬉しいですね。
一旦は、訳も分からず大乗の空に流されましたが、ようやく源流にたどり着けた思いです。

「世尊よ、わたしはあなたの前から姿を消してみせよう。」
「梵天よ、もしできるなら、あなたはわたしの前から姿を消してみせなさい。」
しかし比丘達よ、梵天バカは、『わたしは沙門ゴータマの前から姿を消してみせよう。』と言いながら、わたしの前から姿を消す事ができなかった。
比丘達よ、このように言われて、わたしは梵天バカに次のように言った。
「梵天よ、わたしがあなたの前から姿を消してみせよう。」(梵天招待経)

なるほどなぁと思います。

有難う御座いました。

7:2013/10/07(月) 12:19:36 ID:x0SqdRKg
涅槃は、貪・愼・痴の滅尽された境地ですので、この境地に至ると言う事は、当然それに対応する受は滅尽されています。そしてその受が滅尽されていれば、当然、執着も消滅している事から、迷いの生存の世界も滅尽されており、つまりは、老死も滅尽されていますね。これが不死を得ると言う事であり、迷いの生存が滅した処に死はないと言う事ですね。

1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

そして無明が滅尽されていると言う事は、続く無明ゆえの行も滅しており、妄執のない寂静なのですね。そしてその寂静の境地を、新たな対象として想起(妄執相の生起)させないと言う理解です。

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。

ここで言う「悪魔の繋縛」とは、十結の事ですね。

184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

1146 (師ブッダが現れていった)「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

人は、信仰により激流を渡り、漏尽智等の智慧により清らかになりますが、その激流を渡りきったのであれば、その信仰をも捨てなさいよと言う最後の釈尊の教えなのですね。そうすれば、十結を断じた「死の領域の彼岸」=涅槃に至っているだろうと。これが、有余依涅槃ですね。

間違い等ありましたら、ご指摘をお願いします。(上記引用は全てスッタニパーダです)

8和井 恵:2013/10/09(水) 23:45:13 ID:/qZ2M5.2
> 涅槃は、貪・愼・痴の滅尽された境地ですので、この境地に至ると言う事は、当然それに対応する受は滅尽されています。

涅槃の定義の中で、最も重要な定義は「渇愛の滅尽」です。
これをベースにして「貪・愼・痴の滅尽」とも言い表わすことができるのです。
何故ならば、〈 受 → 渇愛 〉という十二支縁起に沿って、
「受(三受)」に付随する「貪・愼・痴」が滅することによって、「渇愛」が滅することが確定するからです。

「四聖諦」や「十二支縁起」などを正しく理解するための、最も大切なキーワードは「渇愛(の滅尽)」です。

ですから、この基本を外していなければ、上記の理解でOKですが、
それでは、次の質問には、時さんは、どのような説明(答え)をされますか?

  「受の滅尽」とは、どのようなこと(状態)を指しているのでしょうか?

── おそらく、この点についての理解が、さらに問われるのではないでしょうか。


> そしてその受が滅尽されていれば、当然、執着も消滅している事から、迷いの生存の世界も滅尽されており、つまりは、老死も滅尽されていますね。
> これが不死を得ると言う事であり、迷いの生存が滅した処に死はないと言う事ですね。

これは、その通りです。
迷いの生存が滅した処、つまり、輪廻の「再生( 取著 → 有 → 生 )」が無ければ、「老死」も無いので、死が無い、つまり不死なのです。
現在のこの身(色・受・想・行・識)が、不老不死になる(老いたりせず、死ななくなる)わけではありません。
成道してからの釈尊も、経典に記されているように、病にも侵され、死に至りました。


> 1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、── これが洲(避難所)にほかならない。
> それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
>
> そして無明が滅尽されていると言う事は、続く無明ゆえの行も滅しており、妄執のない寂静なのですね。
> そしてその寂静の境地を、新たな対象として想起(妄執相の生起)させないと言う理解です。

これは、特に〈 無明 → 行 〉を考えなくても大丈夫です。
つまりこれは、〈 識 ⇔ 名色 〉を起点とする「十支縁起」の捉え方をしているのです。

 ※ちなみに、「妄執想〈別名・戯論:パパランチャ〉」は、名色〈特に名〉を指しますし、
  これは、別の表現をすれば「識の四識住〈想を中心とした色・受・行の四取蘊〉」を指しているのです。


> 733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。
>
> ここで言う「悪魔の繋縛」とは、十結の事ですね。

「十結」は、四向四果と関連して語られる「繋縛」ですので、
この場合は、特に「「十結」と限定する必要は無いように思えます。
〈 悪魔の繋縛 = 渇愛 〉で良いと思います。


> 184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、知慧によって全く清らかとなる。」
>
> 1146 (師ブッダが現れていった)「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
>    そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
>
> 人は、信仰により激流を渡り、漏尽智等の智慧により清らかになりますが、
> その激流を渡りきったのであれば、その信仰をも捨てなさいよと言う最後の釈尊の教えなのですね。
> そうすれば、十結を断じた「死の領域の彼岸」=涅槃に至っているだろうと。これが、有余依涅槃ですね。

釈尊が、「筏の喩え」を使って、
最後には「正し教え」さえも全て捨て去りなさい、と教えているのは、
釈尊の教えの根本が「渇愛の滅」にあるからなのです。
つまり、執着の対象となるものは、間違っているものも、正しいものも関係ありません。
間違っているから執着する、正しいから執着しないわけではないのですね。
ですから、〈 全て を 捨てる 〉のです。

── 最後にはね。

9:2013/10/10(木) 02:28:34 ID:x0SqdRKg
>涅槃の定義の中で、最も重要な定義は「渇愛の滅尽」です。
>これをベースにして「貪・愼・痴の滅尽」とも言い表わすことができるのです。

今回、涅槃の定義としては「相応部経典 43 34 涅槃」を基準にしましたが、実践では「渇愛の滅尽」でしょうね。

>「受(三受)」に付随する「貪・愼・痴」が滅することによって、「渇愛」が滅することが確定するからです。

「受」を滅尽することで(付随する)無明が滅尽されますので、「受」の滅尽が「渇愛」の滅尽につながります。

>  「受の滅尽」とは、どのようなこと(状態)を指しているのでしょうか?

受の滅尽とは、渇愛を生起させ、新たな妄執相を生起させる原因である「苦・楽・不苦不楽」の三受の滅尽と言う理解です。
同時に一切の苦の滅尽に繋がり、これは四禅定のマスターであり、八正道の完成形であり、渇愛の滅尽であり、慧の解脱、出離、出世間、涅槃の境地に繋がると言う理解です。なぜなら、三受は三毒に対応していますので、四禅定で三受を滅尽すれば三毒(無明)が滅尽できると言う理解ですので、受が滅尽できれば、それに付随する無明は滅尽できています。・・・感覚的には、生を歓喜せず、死を恐怖せず、何も望まないことも望まず、と言う感覚です。しかしそれでも日常において、六処が対象と接触して何がしかを感受してしまうのですが、最初の感受をした瞬間にその感官を防護した状態にします。これは名色を破壊しますので、これが出来れば六処が滅しますので、それ以降の「触→受→愛→取→有→生→老死」は滅尽します。結果として六処が対象と接触しても苦は生起しない状態です。

四聖諦では、苦の原因は渇愛(集)であり、苦からの出離・解脱(烕)の方法は八正道(道)ですね。そして、八正道の完成形が正定(四禅定)のマスターで、慧の解脱だと言う理解です。

十二縁起では、識と名色の相互関係の破壊により妄執相を滅尽し、受を四禅定で滅尽すれば渇愛も消滅すると言う理解です。

>── おそらく、この点についての理解が、さらに問われるのではないでしょうか。

はい。現在、このような理解ですが、理解不足等ありましたら教えていただければ幸いです。

>これは、特に〈 無明 → 行 〉を考えなくても大丈夫です。
>つまりこれは、〈 識 ⇔ 名色 〉を起点とする「十支縁起」の捉え方をしているのです。

はい。理解しました。

>「十結」は、四向四果と関連して語られる「繋縛」ですので、
>この場合は、特に「「十結」と限定する必要は無いように思えます。
>〈 悪魔の繋縛 = 渇愛 〉で良いと思います。

理解しました。実は、これを書いた時に瞬間ですが、四向四果が頭をよぎりました。

> 釈尊が、「筏の喩え」を使って、
> 最後には「正し教え」さえも全て捨て去りなさい、と教えているのは、
> 釈尊の教えの根本が「渇愛の滅」にあるからなのです。
> つまり、執着の対象となるものは、間違っているものも、正しいものも関係ありません。
> 間違っているから執着する、正しいから執着しないわけではないのですね。
> ですから、〈 全て を 捨てる 〉のです。

釈尊の教えを知り、それに没頭し、少しずつ理解が深まり、少しずつマスターできて行き、そしてこれが完璧な教えだと言う誤った見解を持ち、釈尊に執着し・・・それに気付かないまま悪魔の領域で一生を送ると言う愚行にはならないようにしたいと考えています。

> ── 最後にはね。

はい。最後にはです。

10:2013/10/10(木) 03:33:11 ID:x0SqdRKg
失礼しました 追記です。

「最初の感受をした瞬間にその感官を防護した状態にします。」と書きましたが、六処は常に対象に接触していますので、常に感官の防護をした状態を意識していなくても防護できていますが、時として、防護できておらず、まともに感受している事を認識した瞬間に、その都度、防護を意識すると言う意味合いです。

11和井 恵:2013/10/10(木) 04:57:24 ID:/qZ2M5.2

「妄執想の滅尽に到るにふさわしい実践」につての説明や、「戒〈パーティモッガ〉の防護による実践」、そして
「感官の防護による実践」などの、具体的な実践が何であるか ── ということに対するヒントは、
長部経典21経「帝釈天問経」の中で語られていますので、それを参考にすると解り易いでしょう。
〈 いずれgooブログの方で解説する予定です。〉

 ※上記の、諸々の実践を理解する上で、さらに参考になるのは、中部経典の19経「二種考経」や20経「考相経」などになります。

これらを参考にすれば、時さんならば、自力で答えを見つけることが出来ると思いますよ。

12:2013/10/10(木) 06:09:45 ID:x0SqdRKg
中部経典の19経「二種考経」と20経「考相経」は「原始仏典・和訳&解説@和井恵流」でご紹介して頂いていますね。確か、有尋有伺等の為のご説明だったと記憶していますので、もう一度、内容を再確認しますね。

私は、仏典を一冊も持っていません。ネット上で仏典の訳を書かれているものを集めて整理して理解しています。ですので、長部経典21経「帝釈天問経」の訳文が、ありますかどうですか。無ければ、それはそれで問題では有りませんが、一度、内容を読んで見たいですね。

>〈 いずれgooブログの方で解説する予定です。〉

その時になるまで、静かに待つ事にしましょう。

又、何か有りましたら投稿させて頂きたいと思います。その時には、宜しくお願いします。

有難う御座いました。

13:2013/10/11(金) 11:53:02 ID:x0SqdRKg
>「受の滅尽」とは、どのようなこと(状態)を指しているのでしょうか?

奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。

妄想あれば尋生起し、尋あれば欲生起す。欲あれば愛憎生起し、愛憎あれば嫉妬生起す。

つまりは、無我です。

14和井 恵:2013/10/12(土) 03:10:34 ID:/qZ2M5.2

> 奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。

これは、何処からの引用なのかしら?
大乗仏教的なニュアンスが文面から伺えますね。


> 妄想あれば尋生起し、尋あれば欲生起す。欲あれば愛憎生起し、愛憎あれば嫉妬生起す。

  比丘たちよ、色界によって色想が生じ、色想によって色思惟が生じ、色思惟によって色触が生じ、
  色触によって色触から生じる受が生じ、色触から生じる受によって色欲が生じ、
  色欲によって色熱(色貪)が生じ、色熱によって色求が生じ、色求によって色得が生じる。

  ( 相応部経典 界相応 14.09. 触、その1 )

色界(六外処) → 色想 → 色思惟 → 色触 → 色触から生じる受 → …  

ちゃんと、上記のプロセスに沿っていますね。
ただ、所々、省略されてしまっているのが、とても残念です。

15和井 恵:2013/10/12(土) 03:14:37 ID:/qZ2M5.2

> つまりは、無我です。

「我」とは、五取蘊 を指します。
そして、「無我」とは、五蘊 を指しているのです。

つまり、渇愛が無くなり、取著が滅してしまえば、五取蘊は、元の、ただの五蘊に戻るのです。

  バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
  バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、
  見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
  聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
  思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
  識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
  バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。

  ( 小部経典 ウダーナ 1.10 バーヒヤの経 → http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/f4b085b489234df831c8f027eafc7d9a )

16:2013/10/12(土) 08:26:50 ID:x0SqdRKg
> これは、何処からの引用なのかしら?
> 大乗仏教的なニュアンスが文面から伺えますね。

インターネット上から集めたものの一つですが、仏典に書かれていると言うことでしたが、その仏典の出所は不明です。
恐らくは大乗のものと思います。

> つまり、渇愛が無くなり、取著が滅してしまえば、五取蘊は、元の、ただの五蘊に戻るのです。

「つまりは、無我です。」と言う見解。・・・愚かな答えですね。

「事は起こり続け、行為は行われるが、そこに行為者はいない。」と言う言葉が頭を過ぎります。

17:2013/10/15(火) 13:35:47 ID:x0SqdRKg
一切の生起したものは何であれ滅します。よって答えはありません。なぜなら、問い自体を問うものがいないからです。教えにより清らかになるともならないとも説きません。つまりは、答を求めるものはもういません。

18:2013/11/19(火) 12:29:29 ID:wfU.Go.c0
彼のこの解脱は、真実の上に立脚し、不動である。というのは、比丘よ、虚妄なるものは虚偽であり、虚妄ならざるものニルヴァーナは、真実だからである。それゆえに、そのように体得した比丘は、この最上の『真実というよりどころ』を身に付けた者となる。というのは、比丘よ、最上の聖なる真実とは、すなわち、虚妄ならざるものニルヴァーナだからである。(中部第140経界分別経)

妄執想にて棒を持ち、見取により論争が絶えず、人は皆、平穏を求める故に苦しみを生み出し続けている一切皆苦の有情の世界・・・虚妄なるものが虚偽ならば、真実は虚妄ではない「ニルヴァーナ」となります。

2500年前に釈尊がこのような事に気づき、周りに説き、そしてその周りの存在達が文字に残してくれたたものです。。。今、釈尊が、サーリープッタが、マハーモッガラーナが・・何やら微笑んでいます。

涅槃は不可見、無辺にして、一切よりの渡し場あり。ここに、水と地、火、風は堅住しない。ここに、長と短と、細・粗、浄・不浄は。ここに、名と色とは、余すところなく滅尽する。識の滅によって、ここにこれが滅尽する。(長部11経ケーヴァッタ経)


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