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涅槃
8
:
和井 恵
:2013/10/09(水) 23:45:13 ID:/qZ2M5.2
> 涅槃は、貪・愼・痴の滅尽された境地ですので、この境地に至ると言う事は、当然それに対応する受は滅尽されています。
涅槃の定義の中で、最も重要な定義は「渇愛の滅尽」です。
これをベースにして「貪・愼・痴の滅尽」とも言い表わすことができるのです。
何故ならば、〈 受 → 渇愛 〉という十二支縁起に沿って、
「受(三受)」に付随する「貪・愼・痴」が滅することによって、「渇愛」が滅することが確定するからです。
「四聖諦」や「十二支縁起」などを正しく理解するための、最も大切なキーワードは「渇愛(の滅尽)」です。
ですから、この基本を外していなければ、上記の理解でOKですが、
それでは、次の質問には、時さんは、どのような説明(答え)をされますか?
「受の滅尽」とは、どのようなこと(状態)を指しているのでしょうか?
── おそらく、この点についての理解が、さらに問われるのではないでしょうか。
> そしてその受が滅尽されていれば、当然、執着も消滅している事から、迷いの生存の世界も滅尽されており、つまりは、老死も滅尽されていますね。
> これが不死を得ると言う事であり、迷いの生存が滅した処に死はないと言う事ですね。
これは、その通りです。
迷いの生存が滅した処、つまり、輪廻の「再生( 取著 → 有 → 生 )」が無ければ、「老死」も無いので、死が無い、つまり不死なのです。
現在のこの身(色・受・想・行・識)が、不老不死になる(老いたりせず、死ななくなる)わけではありません。
成道してからの釈尊も、経典に記されているように、病にも侵され、死に至りました。
> 1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、── これが洲(避難所)にほかならない。
> それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
>
> そして無明が滅尽されていると言う事は、続く無明ゆえの行も滅しており、妄執のない寂静なのですね。
> そしてその寂静の境地を、新たな対象として想起(妄執相の生起)させないと言う理解です。
これは、特に〈 無明 → 行 〉を考えなくても大丈夫です。
つまりこれは、〈 識 ⇔ 名色 〉を起点とする「十支縁起」の捉え方をしているのです。
※ちなみに、「妄執想〈別名・戯論:パパランチャ〉」は、名色〈特に名〉を指しますし、
これは、別の表現をすれば「識の四識住〈想を中心とした色・受・行の四取蘊〉」を指しているのです。
> 733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。
>
> ここで言う「悪魔の繋縛」とは、十結の事ですね。
「十結」は、四向四果と関連して語られる「繋縛」ですので、
この場合は、特に「「十結」と限定する必要は無いように思えます。
〈 悪魔の繋縛 = 渇愛 〉で良いと思います。
> 184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、知慧によって全く清らかとなる。」
>
> 1146 (師ブッダが現れていった)「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
> そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
>
> 人は、信仰により激流を渡り、漏尽智等の智慧により清らかになりますが、
> その激流を渡りきったのであれば、その信仰をも捨てなさいよと言う最後の釈尊の教えなのですね。
> そうすれば、十結を断じた「死の領域の彼岸」=涅槃に至っているだろうと。これが、有余依涅槃ですね。
釈尊が、「筏の喩え」を使って、
最後には「正し教え」さえも全て捨て去りなさい、と教えているのは、
釈尊の教えの根本が「渇愛の滅」にあるからなのです。
つまり、執着の対象となるものは、間違っているものも、正しいものも関係ありません。
間違っているから執着する、正しいから執着しないわけではないのですね。
ですから、〈 全て を 捨てる 〉のです。
── 最後にはね。
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