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五蓋と十結、四禅定と四向四果の関係について
1
:
サトミ (タカハシ サトミ)
:2012/11/28(水) 16:55:41 ID:???
いつも目から鱗がおちるような素晴らしい解説をありがとうございます。以前に十結と四向四果の関係についてのスレッドがありましたが、五蓋と十結の関係、また十結と四向四果、四禅定との関係はいかがでしょうか。推定でもかまいませんので、是非ご意見があれば教えて下さい。あと、もう一つ。最近の記事で、五蓋を滅して初禅の段階で、苦受がなくなる、という話がありました。そうなると、その段階で個人の当座の苦しみからの脱却だけを志向する平凡な修行者はそれ以上進歩しなくなるのではないか、と思いました。その時に、大乗的思想や菩提心を培っておくと、ある程度までは修行の向上に役立つような気がします。しかし、それとて、渇愛の中の有愛(生存渇愛)に簡単にからめとられてしまいそうで、ある段階で択法覚支で、筏の教えとして捨て去らなければならない段階がくるような気がします。これについても、もしご意見があれば教えて下さい。よろしくお願いいたします。
2
:
特明@討論希望
:2013/01/06(日) 22:21:46 ID:dKCMkXR6
サトミさま、こんにちは。
この掲示板を利用する人が、誰もいない状態がずっと続いていたために、質問の有無をチェックすることを忘れてしまっていました。
そのために、質問のご返事が遅れてしまったことを、深くお詫びいたします。怠慢 でしたね…
> 五蓋と十結の関係、また十結と四向四果、四禅定との関係はいかがでしょうか?
五蓋 ( 貪欲蓋・瞋恚蓋・惛沈睡眠蓋・掉悔蓋・疑蓋 ) ── これらは、そのほとんどが 五下分結 と対応しています。
有身見 ・禁戒取・疑、の 「 三結 」 は、最後の疑蓋 ( 根本煩悩としての痴 ) として包摂することが出来てしまいますし、
欲貪・瞋恚 の二つは、それぞれ 貪欲蓋・瞋恚蓋 として そのまま 対応 しているので、「 五蓋 」 の 中に 「 五下分結 」 は 含まれているのです。
さらに 五蓋 には 瞑想 を 妨げて 覚知 に 蓋 ( ふた ) をしてしまう モノ ── という 意味 があるので、
「 掉悔蓋 ( 浮ついた状態 ) 」 と 「 惛沈睡眠蓋 ( 沈鬱な・眠りに落ちた状態 ) 」 の 二つの 心のバランス を 崩す働き が 加えられているのです。
この 五蓋 を 完全に滅すること が 出来たならば、 ── その人は 「 不還果 」 を得た人 になるのです。
比丘たちよ、まさに、このように、聖なる弟子には 塵を遠ざけ、垢を離れる 法眼 が生じた ことから、
比丘たちよ、見ることの生起と共に、 聖なる弟子には三結、すなわち、有身見・疑・戒禁取が断じられる。
さらに、また、二法である貪と瞋から脱する。
彼は欲望の対象から、まさに離れて、不善法から離れて、有尋であり、有伺であり、遠離 から生ずる喜楽を有する 初禅 を成就して住する。
比丘たちよ、その時がくれば、聖なる弟子は死ぬであろう。
〔 しかし 〕 結と結ばれている聖なる弟子が、再び、この世界 ( 欲界 ) に戻って来るようなその結は存在しない。
( 増支部経典 Lonaphara-vagga AN 31, p 242 . 20 - 29 )
しかし、五蓋の滅 が まだ 不完全な場合でも、とりあえず 初禅 までを 達成 しているのならば、「 一来果 」 は 得ている と言えるでしょう。
つまり、── その人は 「 苦しみ に のたうち回らなくなる ( = 苦受 の 転変 が起きる ) 」 のです。
三結 を 断じた 「 預流果 」 と、欲貪 と 瞋恚 の二つが さらに 「 薄くなった 」 とされる 「 一来果 」とでは、どこがどう違うのか … と言えば、
一時的な 貪 や 瞋 は 生起しても、その場限り で すぐに 消える ので、その行為 が ストレス として 心 に 蓄積されること が なくなってしまう のです。
ですから 「 一来果 」 を得ると、その人は 「 ストレス解消 」 を する必要 が なくなる ので、「 癒し 」 などにも 特に 興味 を 示さなくなります。
( つづきます )
3
:
和井 恵
:2013/01/06(日) 22:25:41 ID:dKCMkXR6
う〜ん、「 和井 恵 」 と 名前 を 記入したはずなのに、上記のコメントが、何故か 「 匿名 」 に なってしまっている …
> あと、もう一つ。
> 最近の記事で、五蓋を滅して初禅の段階で、苦受がなくなる、という話がありました。
そうですね。
これは単に 経典からの引用 というだけではなく、私自身の 体験 も 踏まえた上で 説明 をしているのです。
( まぁ、だから @和井恵流 と 銘打っている わけなのですけどね … )
> そうなると、その段階で個人の当座の苦しみからの脱却だけを志向する平凡な修行者はそれ以上進歩しなくなるのではないか、と思いました。
── 確かに、そうなってしまう かも 知れませんね。
でも、その人が、苦しみ ( 「 憂い 」 という 心の苦しみ ) から 解放される 「 だけ 」 でも、修行 をする 価値 は 十分あるのではないでしょうか。
> その時に、大乗的思想や菩提心を培っておくと、ある程度までは修行の向上に役立つような気がします。
ええと、大乗思想 や 菩提心 などは、釈尊の教え とは、ちょっと ベクトル ( 方向性 ) が 異なる … のですね。
釈尊の教えは、「 苦の滅尽 ( 輪廻からの解脱 ) 」 と そのまま ストレート に結びつく 教え なのですが、
大乗思想、── 特に 菩薩の誓願 などが絡んでくると、「 一番最後に涅槃に入る 」 ことを 目的 としますから、釈尊の教えは 「 適さない 」 のです。
むしろ、「 わざと輪廻し続ける 」 ための モチベーション を 保ち続けるための 「 教え 」 としての側面を、大乗思想は 持っているように見えるのです。
> しかし、それとて、渇愛の中の有愛(生存渇愛)に簡単にからめとられてしまいそうで、
> ある段階で択法覚支で、筏の教えとして捨て去らなければならない段階がくるような気がします。
「 涅槃に入る ( 現世涅槃 と 死後の涅槃 の 両方を含みます ) 」ことを目的としているのならば、
大乗の教えや菩提心などは、ある段階 ── というよりも、最初から捨ててしまって、釈尊の教え そのものを 修行した方が、結果が出るのが早いと思います。
4
:
サトミ (タカハシ サトミ)
:2013/01/10(木) 16:03:06 ID:54aMeA1Y
大変参考になりました。ありがとうございました。
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