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詩・歌・管・弦 part 2
1
:
千手★
:2007/07/20(金) 23:01:14
「詩・歌・管・弦 part 2」を作ります。やはりわたしたちの思考はこのまわりをまわっている。
2
:
千手★
:2007/07/20(金) 23:19:33
はじめにさっきふと手にしたノヴァリスの『青い花』から、巻頭の「献詩」の一部。
きみがためにこそ高き藝術(たくみ)にこの身を捧げ得るなれ
その故は、愛(は)しき君よ、きみはミューズの神となり
わが詩(うた)の聲なき守り神たらむとしたまへばぞ
(小牧健夫訳)
Ich darf für Dich der edlen Kunst mich weihn;
Denn Du, Geliebte, willst die Muse werden,
Und stiller Schutzgeist meiner Doichtung sein.
「きみ」がわたしの詩作の守り神たらんとしてくれている(と感じ)
それゆえわたしは高貴な藝術のわざにみずからを捧げることをなしうるのだ、という論理。
ロマン主義(ドイツ)のもっとも典型的な思想が
ここに述べられているのではないでしょうか?
3
:
千手★
:2007/07/20(金) 23:25:58
>>2
修正
Doichtung→Dichtung
もっとも典型的な思想:その最も純粋な表明がここに読み取れるのではないでしょうか。
4
:
E嬢★
:2007/07/20(金) 23:35:43
ステキな詩ですね。
今日はちょうど、ロマン主義について勉強しなければならないと、思っていたのです。
スペイン語で、ロマン主義についてオクタビオ・パスの文章を翻訳していたのですが、
ちっとも意味が理解できないまま、スペイン語の授業は終わってしまいました。
とても残念な気分だったのですが、この詩から、ロマン主義について考えてみたいです。
5
:
千手★
:2007/07/21(土) 11:32:59
恋人(Geliebte)が自分の詩作の守り神・守護霊(Schutzgeist)になってくれる(と信じる)という関係。
これと「をなり神」のことと。
近々ちょっと触れてみようと思っています。
6
:
千手★
:2007/07/22(日) 19:16:32
どこに住みたいと聞かれれば
どこに住みたいと聞かれれば、
東北に と答えるだろう。
郡山か、花巻か、盛岡か。
いっそ弘前・岩木と言うかもしれない。
郡山にさえ 友は少ない
どうしたら友を作れるだろう。
多くの友が死んだ
須田秀幸夫人、
渡辺俊明、
瀬谷重治、
長野隆。
専務理事。
名倉英三郎先生ももう御存命でないかもしれない。
わたしを支えてくれた人たち……。
郡山に赴任して、
すぐに名勝を訪ね歩いた
そして
日和田から、何とか片平村に出て
山ノ井にたどり着いた。
その井戸は暗く、
そこへゆく道も暗かった。
田舎道のその奥。
だがやがて片平には工業団地ができた。
山ノ井へは二度とゆくことがなかった。
村のいくつが滅びただろう。
ふたたび郡山に住むことがあったら
山ノ井を再び訪れるだろうか。
妻と住めば訪ねるだろう。
だがそもそも住むことがあるのか?
だれがその機会を与えれくれるだろう。
反歌
浅香山山ノ井の道暗かりき片平・河内(かうづ)みずかなりなむ
7
:
千手★
:2007/07/26(木) 17:50:33
「直観音楽」スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8350/1183393192/
から移動してきました。
「間」についての議論、こちらでつづけましょう。
「間」を創る行為は何か。それはpunktierenと言えるのではないか。
音楽的な「間」の問題も同じ概念で考えることが出来るのではないか。
これがわたしの出発点です。
シュトックハウゼンの「正しい長さ」をヒントにし、導きの糸にしますが、必ずしもそれだけを扱いたいわけではないです。
「間」について考えようとする方、ぜひ発言して下さい。
8
:
千手★
:2007/07/26(木) 18:40:18
第二音も点から始まるが、線分になってゆく。
punktierenからその自音の生命の明示というようなこと、線分化が続く。
リズムはそこにどうかかわるか?
9
:
Pentatonics★
:2007/07/26(木) 23:28:20
線分ですか・・・
私の演奏中の実感では、「線分」といった両端が定められた静的な感じはないですね。
音を出しているただなかにいるときは、最初の打撃ももう霞の向こうだし、音が閉じられる瞬間も予期の向こう側にあるような気がします。
ある時確かに始まったものであるのに、両端の開いた無限直線上にいるような感じがしています。
今いるところと音の開始点との距離を測る術もないような気がしています。
それを感じようとするなら、流れていくものの速さから感じるほかないように思います。
リズムとは何なのでしょうか。
よくわかりませんが、拍動によって「単位時間」を与え、時間を「処理」することを可能にするもののような気がします。
ある客観化のような過程と関わっている?
没入だけでなく、なんらかの地平をもたらしてくれるような・・・。
10
:
E嬢★
:2007/07/27(金) 00:51:43
たとえば、電子ピアノ(?)だと、音は自動的にフェイドアウトします。
三味線の音も余韻という部分で、フェイドアウトに似ていると思います。
なんで、こんなことを書いたのですが、
>punktierenからその自音の生命の明示というようなこと、線分化が続く。
という、千手さんの意見に対してなのですが、
ぜんじろう先生(ダンボール空砲とかの科学実験の先生)が、
TVで「ソ」の音だけロウソクの火が消せるという実験をしていました。
「ソ」の音の、ロウソクを消すという行為が、punktierenであって、
火を消してしまったあとの音は、線分化が続くというよりも、
役目が終わってしまった・・・みたいな感じでした。
11
:
千手★
:2007/07/27(金) 05:20:31
>>9
>ある時確かに始まったものであるのに、両端の開いた無限直線上にいるような感じがしています。
これはとてもよくわかるのですが、
まだ、第二音とその次の瞬間のことしか言っていないのです。どういう場所から発せられた第二音なのか。
それをアンサンブルの中で明示するということが、第二音そのものに要求されると思います。
「線分」という語が両端の閉じた部分を意味するように解されやすいので、「線分化」と言おうとしているのですが
「線化」と言った方が、より的確かも知れません。「半直線化」というほど発端が端的でなくなるのもその通りでしょう。
線化によって第二音の発端が端的(点的)でなくなり、場所、生命の継続的明示の役を果たしてゆく。
「リズム」は音の生命の源そのものの意味で使っています。
12
:
千手★
:2007/07/27(金) 05:26:40
>>10
第二音を単音化ということが了解されている場合の話です。
自音で場所と生命を表示するということが要求されている場合、と言えるかもしれません。
また(よく知らないのですが)能の囃子方のように、アンサンブルが一つの命を支えて行く、という形式とも
異なる場合のことです。
13
:
千手★
:2007/07/27(金) 05:28:48
>>12
訂正
「第二音を単音化ということが了解されている場合の話です。」
↓
「第二音を単音化しないということが了解されている場合の話です。」
14
:
E嬢★
:2007/07/27(金) 23:08:21
>>12
この場合の「単音」について、すこし整理をしたいのですが、
三味線の場合、弾く音は「単音」と言います。
「ひとつの単体としての音」と考えていいでしょうか。それとも、違うのでしょうか。
>第二音を単音化しないということが了解されている場合の話です。
の部分が、どうも整理ができないのです。
第二音が単音化しないということは、
第一音も単音化しないということになるのではないでしょうか?
15
:
千手★
:2007/07/28(土) 15:16:04
第一音はだれの出したどんな音でもいいのです。ある一点に着目しうるなら。
お好みなら、蛙飛び込む水の音でも。
「間」を作ること。その話だけしています。そして「間」の質はどう考えられるかということ、それだけ。
16
:
E嬢★
:2007/07/28(土) 23:44:44
「間」・・・「質的多様性」?
17
:
千手★
:2007/07/29(日) 15:41:46
>>16
>「間」・・・「質的多様性」?
もう少し詳しくお願いします。
18
:
E嬢★
:2007/07/30(月) 00:22:08
いま、篠原先生の、『ベルクソン−〈あいだ〉哲学の視点から−』を読んでいるのですが、
p.23に「持続性とは」のくだりがあります。
そのなかで、ベルクソンは〈量的多様性〉と〈質的多様性〉という二種類の多様性を区別し、
〈真の時間としての持続〉とは、「異質的で相互に浸透し合う」ものだとしています。
「間」の性質として、「異質的」なのか、どうか。
「間」は何と「相互に浸透し合うのか」と考えたとき、最後に”?”がついたのです。
19
:
E嬢★
:2007/07/30(月) 00:22:41
いま、篠原先生の、『ベルクソン−〈あいだ〉哲学の視点から−』を読んでいるのですが、
p.23に「持続性とは」のくだりがあります。
そのなかで、ベルクソンは〈量的多様性〉と〈質的多様性〉という二種類の多様性を区別し、
〈真の時間としての持続〉とは、「異質的で相互に浸透し合う」ものだとしています。
「間」の性質として、「異質的」なのか、どうか。
「間」は何と「相互に浸透し合うのか」と考えたとき、最後に”?”がついたのです。
20
:
E嬢★
:2007/07/30(月) 00:24:04
すみません、失敗して2つも書き込んでしまいました。
21
:
千手★
:2007/07/31(火) 11:28:24
>>19
何と何が、そしてどこまで、どういう原理によって、浸透し合うのか。
ケージがあなたまかせにするのに対して、
シュトックハウゼンはここに能動的に、リズムという原理を持ち込むように思います。
22
:
E嬢★
:2007/07/31(火) 15:07:28
「間」には、音があるのでしょうか。
いまひとつ、千手さんとのあいだに、違和感があるように感じます。
「音のない音」、休止符についてなのか、
「音のある間」、音符についてなのでしょうか?
「音のある間」で考えると、
>>21
シュトックハウゼンはここに能動的に、リズムという原理を持ち込むように思います
によって、次の音との相互関係が生まれてくるのですが、
「音のない音」で考えると、
「間」自体が、みずから活動をし、他に依存しないとなると、
私の頭のなかでは、このような解釈を起こしています。
23
:
千手★
:2007/07/31(火) 19:06:32
>>22
>何と何が、そしてどこまで、どういう原理によって、浸透し合うのか。
まずはこのことを教えて下さい。
24
:
E嬢★
:2007/08/01(水) 00:44:50
わたしの中で、「音」がなければ「間」が存在できないと考えます。
それは、「音」の途切れた部分に「間」が生じると考えるからです。
「間」は、「音」と「音」がつながるあいだに存在することが可能であり、
「音」が途切れることによって、「間」は派生もしなければ、存在もできないからです。
そのつぎに、「間」の深さという問題が生じます。
「間」の深さというのは、わたしの造語に近いと思うのですが、
「音」が途切れて、次につながる「音」までの時間のことを言います。
そのとき、短い「間」というのは、見失われがちな存在です。
長い「間」ほど、「音」の存在価値を高め、「間」を意識させると考えます。
しかし、それはそこで音楽が途切れるような「間」ではなく、
つぎの「音」につなげるためのステップであり、展開を促進する為のものです。
次の「音」への展開を失った場合、音楽は止まります。
次への「音」のために「間」が存在している場合、
「音」と「間」は浸透し合うことによって、一つの音楽を成立させることができると考えます。
それは、音楽というひとつの作品のなかで派生する「間」が、
〈くさび〉のように、音楽の中に存在していき、フレーズを形成していきます。
これが、いまのわたしの「間」に関する見解です。
25
:
千手★
:2007/08/01(水) 02:05:45
>>24
>次の「音」への展開を失った場合、音楽は止まります。
>次への「音」のために「間」が存在している場合、
>「音」と「間」は浸透し合うことによって、一つの音楽を成立させることができると考えます。
楽譜通りの自動演奏でも音楽が成立する、ということをいう論理ですか?
むしろ「内発性」を深く導くものの探求が必要なのではないでしょうか。
punktierenなしで次の音や「間」が存在するなら、自動演奏でしょう。
短い「間」のことは重要なポイントだと思います。迅速さ。
26
:
E嬢★
:2007/08/01(水) 11:22:49
>>25
>楽譜通りの自動演奏でも音楽が成立する
楽譜が存在することに、絶対的な価値はないと考えます。
それは、楽譜による視覚的な音楽、もしくは楽曲の把握は可能であっても、
楽譜は記号から進化することができないからです。
「音」も「間」も、楽譜とは違い、一回ポッキリという点で、価値が生じるのではないでしょうか。
すると、演奏をする行為において、「楽譜通りの自動演奏」ではないはずです。
27
:
E嬢★
:2007/08/01(水) 11:32:18
楽譜が存在する場合、punktierenの行為は、
必ずしも、作曲者だけに与えられた特権ではないと考えます。
「音」が発せられてから、「音」の存在可能な時間が、瞬時的なものだとすると、
「間」は常に生じることのキッカケがあるからです。
この「間」の発生を抑えることは、演奏者が意識しなければならない
punktierenの活動につながると思います。
「内発性」は、劇場演奏、ライブなどの、生演奏の状態が必要だと考えます。
28
:
毛蟹★
:2007/08/01(水) 13:55:47
物理現象としての「間」を千手さんから再定義して頂いた上で分析、議論をなさるほうがいいのではないでしょうか。「音の持続の長さ」としての「間」と「ある音と次の音の『間』」が明確に区別されて議論されていないように見受けられます。
29
:
千手★
:2007/08/02(木) 02:45:01
>>28
ご意見有り難うございます。
>「音の持続の長さ」としての「間」と「ある音と次の音の『間』」が明確に区別されて議論されていないように見受けられます。
わたしとしては
>「音の持続の長さ」としての「間」
というものは、少なくとも第一音に関しては、まったく念頭にありませんでした。
しかし、おそらく、第一音と第二音のからめ方にもリズム的、質的な問題が絡むし、
その質の継続・表示は第二音の持続において存続を確保し、表示を明確にするというところもあるでしょう。
第二音として語るべきことは、まずは質の持続の問題に違いありません。
E嬢が上げている篠原さんの論を読んでいないので、誤解が多くなっているかもしれません。
近々入手して読むつもりです。
E嬢さん、まずは引用したところのページ数をおしえて下さい。
30
:
千手★
:2007/08/02(木) 03:00:46
>>27
>「間」は常に生じることのキッカケがあるからです。
>この「間」の発生を抑えることは、演奏者が意識しなければならない
>punktierenの活動につながると思います。
「抑える」は「押さえる」の誤りですか?
わたしがpunktierenで示そうとした音楽行為はだいたい理解していただけた気がします。
「自動演奏」は、punktierenが存在しない擬似音楽として言ってみたものです。
しかしシュトックハウゼンの『国歌』のようなテープ音楽が存在してみると、もう少し違った概念構成が必要なのかもしれないと思います。
既存のテープに対しても、足し算が可能なのかもしれない、ということです。
スキを見つけて、アーティキュレーションをより鋭くする、というような追加行為の可能性です。
その場合も、punktierenによって、追加的音楽行為が成立するのでしょう。
punktierenそのものの鋭さ、という概念も必要になりそうです。
31
:
千手★
:2007/08/02(木) 03:05:35
>>30
シュトックハウゼンの『短波』や直観音楽を<u>聴く</u>、という行為も、
>スキを見つけて、アーティキュレーションをより鋭くする、というような追加行為の可能性
をみずから探求し、試みることではないでしょうか。
32
:
E嬢★
:2007/08/02(木) 11:33:25
>>29
篠原資明著 『ベルクソン−〈あいだ〉の哲学の視点から−』
岩波新書(新赤版1040) 2006.10.20
p.23 「持続とは」 の中から、『質的多様性』の言葉をお借りしています。
33
:
千手★
:2007/08/04(土) 23:31:58
篠原さんの『ベルグソン』手に入れませた。
雄大な構想、いいですね。もう少し読んでみます。
34
:
E嬢★
:2007/08/04(土) 23:57:42
高速で読み込みたいのですが、まだ54ページ・・・
わたしにとっては、難解で、撃沈しそうです。
千手さんに遅れないよう、頑張って読みきります。
35
:
千手★
:2007/08/05(日) 00:08:59
篠原、上掲書、一応23頁まで読みました。
ちょっとよく理解できないのは、「無からの創造」を註釈して
「そこのは、存在そのものを無へ贈与するというかたちでの一方通行しかありえない」
というところです。無が何かの贈与を受け付けるということがありうるのか、という疑問です。
単に議論の形を分類しているというのなら分かります。しかしわたしには「無に存在を贈与する」ということが
そもそも理解できない。無が何かを受け付けるのか??
36
:
千手★
:2007/08/05(日) 00:10:37
>>35
上のはp.15についてです。
37
:
千手★
:2007/08/05(日) 00:23:11
p.23に関しては、浸透のしあいとして時が流れるということはわかる気がします。
しかしそこに「質的多様性」が出てくるとよくわからなくなる。「純粋持続とは、
明確な輪郭もなく、……、融合し合い、浸透し合う質的変化の継起でしかありえないであろう」(p.24)
ということわかります。そかしこのことは「間(ma)」とどう関係するのでしょうか?
こうした純粋持続において「間」はどう定義されうるのでしょう? あるいは、
純粋持続において「間」はどのように構成されうるのか?
punktierenによる概念構成に役立つものがそこから汲み出せるでしょうか?
何かは汲み出せそうですが、それは持続とリズム的差異を総合することによってだと思います。
38
:
E嬢★
:2007/08/05(日) 00:31:43
>>35
>「無に存在を贈与する」ということがそもそも理解できない。
無が何かを受け付けるのか??
千手さんがいうpunktierenの行為につながるのではないでしょうか。
音のない空間=無に「音」という存在を与えること。
そこから、無は「音」の存在を受け付け、音楽が始まると思います。
第一音の使命が、無に存在を与えることであるのなら、
それは、音でも、色でも、言葉でも、punktierenの行為が、
「贈与する」につながるのではないでしょうか?
39
:
E嬢★
:2007/08/05(日) 00:42:44
>>37
ここは、千手さんとまだ整理されていない部分なのですが、
わたしの考える「間」が、音のない音の部分としてとらえる時、
「間」はリズムに書き表せない技巧的表現の空間とします。
ひとつの音楽が純粋に持続させていくには、「間」は表現を与えると考えるからです。
音に対して間は、融合し、浸透しなければ、音楽を持続させることができず、
また、間の存在がなくては、音は自然消滅し、音楽を持続することができないと考えるからです。
この場合、「質的多様性」は、
芸術的に豊かな表現を行うために「間」は多様化されるのではないかと考えたからです。
40
:
千手★
:2007/08/05(日) 00:53:12
>>38
私の述べ方が悪かったのですが、第一音はすでに存在するのです。
そしてまだ言っていないのですが、第二音によって第一音との「間」が形成され、
第二音が自己表示するリズムの中に第一音が組み込まれるのです。
>>35
の引用少し間違ってましたね。「そこのは」→「そこには」。
第二音が第一音に対する贈与だというのならその通りだと思います。
リズムによる異質性の贈与であり、異質なリズムの贈与であり、
それは同時に浸透でもあると言えるでしょう。
でもそれは無に存在を与えるというようなことでしょうか?
そうではないだろうし、そうではないからこそベルグソンと何らかの親近性があるのでしょう。
41
:
千手★
:2007/08/05(日) 01:00:25
継続+異質の湧出=持続
という風にp.26の論は読めますが。
キリスト教的な神による創造行為の説明であるp.15の論議を
持続に近づけて解釈しようとするのは、議論が混乱するだけなので、止めた方がいいと思います。
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