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金剛般若経を読んで実践する

117避難民のマジレスさん:2024/05/24(金) 12:40:32 ID:7.d4g2Iw0
0094鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/13(木) 23:53:17.99 ID:zH9ccZo+

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師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜかというと、スブーティよ、かつてわたしがある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切無かったからだ。
 それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。」

「スブーティよ、また過去を振り返ってみると、わたしは五百の生涯のあいだ、忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。」

***

お釈迦様は須菩提長老に六波羅蜜の最初の忍辱波羅蜜は、忍辱波羅蜜ではないと、説いたのじゃ。
 なぜならば前世に忍辱仙人だったときに、悪王に体をばらばらにきられたが、何も思わなかったというのじゃ。
 それは自己認識の四つの観念がなかったからだというのじゃ。

 もしそれがあれば怒っていたが、無いから怒りも何も無かったというのじゃ。
 それが忍辱波羅蜜、即ち忍耐の完成の行だったというのじゃ。

 それ故に六波羅蜜の中の忍辱波羅蜜とは、忍辱波羅蜜ではないというのじゃ。
 そうであるから忍辱波羅蜜であるというのじゃ。
 自己認識の四つの観念がないとき、忍辱、忍耐は最高の完成をみるのじゃ。
 
 しかし、それはもはや自分という観念が無いから、もはや自分の忍耐の完成ではないのじゃ。
 そこには忍耐する何者もいないからなのじゃ。
 忍耐する者が居らず、忍耐がない時、忍耐の行は完成するのじゃ。
 
 それが金剛般若経による忍耐の完成なのじゃ。
 大乗経典の般若経典ではこのように、般若波羅蜜によって他の波羅蜜は真の完成を遂げるというのじゃ。


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