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鬼和尚の仏教購読会 別館

102避難民のマジレスさん:2018/12/01(土) 07:50:33 ID:LC3de7YgO
>>100
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第二話 燃えあがる茂み(つづき)
 より抜粋

あなたは自分がどこにいるのか言うことができない
--- ”場所”そのものが消え失せている---その空間を正確には指し示せない。
あなたはどこにもいないか、あるいは至るところにいるか、ありうるのはこの
いずれかだ。どちらも同じことを意味している。
「人は至るところにいる」と言うことを選んだ小数の者たちがいる
--- ヴェーダーンタ学派は「深い瞑想のなかで人は至るところにいる
--- アハム・ブラフマースミ、我は神なり」と言うことを選んだ。
「神」とは、至るところにいる者、全存在にゆきわたっている者という意味だ。
あなたは空間そのものになる。
「私はつねに在った、永遠に在る」とは、あなたが時間のなかに遍満している
という意味だ。 これがそれを表現するひとつの方法、肯定的な方法だ。
仏教は別の方法、否定的な表現を選んだ。
仏陀はこう言う---深い瞑想のなかでは、あなたはどこにも存在していない。
空間はすべて消えている。そして時間も存在せず、あなたは時間のない状態 に
ある。
時間も空間もないとしたら、あなたはどうして存在できるだろう?
人間は時間と空間が交わる地点においてのみ存在する。
時間の線と空間の線が交わると、その交点に自我エゴが立ち現れる。
この二つの線を取り去れば、自我という点は消えてしまう。
それは二本の線の交差にすぎない。 それは誤った観念だった。
だから仏陀は「誰も存在していない」と言う。
深い瞑想のなかでは、時間が消え、空間が消え、そしてあなたが消える。
いっさいのものが消え失せ、そこには<無>、シューニャ、ゼロのみがある。
これは同じことを否定的な仕方で語ったものだ。
肯定的な表現を選ぶなら、「私は神だ」と言うこともできる
--- それにはそれなりの危険があり、また独自の美しさもある。
あるいは否定的な表現、アナッター、無我、<無>、にゃはんニルヴァーナ を
選ぶこともできる。これにも独自の美しさがあり、またそれなりの危険もある 。
<無>というまさにその観念が人々の意欲をそいでしまう
---危ないのはそこだ。 <無>でありたいと誰が望むだろう?
四十年にわたる伝道生活において、仏陀は何度も何度も尋ねられた。
「なぜ人は<無>であろうとしなければならないのですか? それは死、究極の
死ではないですか?」すると仏陀は言う。
「その通りだ。それは究極の死だ。だが、それは美しいものだ」
質問者が尋ねる 「ですが、それは誰にとって美しいのですか?
だって誰もいないはずでしょう?」
すると仏陀は言う。 「ただ美しさだけが、至上の幸福だけがあって、それを体
験する者はいない」 人間の心マインドがこう言うのも無理はない。 「でも、自
分がそこにいないのなら、何もならないじゃないか・・・。 それがとても美し
いというのはすばらしいけど、自分がいなければ、美しかろうとなかろうと何
の違いもないじゃないか。 どうして自分を無くさなければならないのだろう?
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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