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【実践が】修行するスレ【肝心なのじゃ】

67蓮恵:2018/11/28(水) 20:47:13 ID:mcxPUZkg0
円覚経に雲はやければ月はこび、船ゆけば岸うつると説きたまえるはこの意(こころ)なり。

雲のゆく事はやければ、月のうつりはこぶがごとく、舟の行くこと速やかなれば、岸も山もうつるに似たり。

これ山うつりうごくにはあらず、我のりたる舟の行く故なり。

わが心の雲はやき故に真如の月はこぶと見る。

諸法は本より実相にして常におのずから寂滅の相なれども、三世にうつりかわると見、 四時のとどまらざるしなを見るは、みな行蘊のまよいなり。

???
認識される全ての物は、もとより寂滅??

68蓮恵:2018/11/28(水) 20:52:28 ID:mcxPUZkg0
一切もろもろの衆生は、この万法の諸相にまどいて、目に見てはむさぼり、耳にききてはあらそい、鼻にかぎ、舌にあじわい、身にふれて、そのものごとに、貪着して、さらにこの万法の、夢幻泡影のごとく、鏡象水月のごとくにして、幻化虚妄なる事を知らず。


胎卵湿化の四生をうけ、生住異滅の四相にうつされ、五欲の境界に着して、六根の罪業をつくり、千生万劫、地獄餓鬼のほのおに身をこがし、生々世々、畜生修羅のくるしみにしずみ、あるいは人間に生ずれども、四大和合の色身を、我とおもい、六塵虚妄の縁影を、心として、生老病死念々におかし、春夏秋冬時々にうつり、みどりの髪たちまち白く、花のかんばせついにしぼみて、朝の露と消え、夕の煙とのぼる。


かかる無常転変の浮世、電光石火のわが身、しばらくもとどまることあたわず。

刹那もしずかなる事なくして、水の時々にながるるがごとく、ともし火の念々消ゆるに似たり。

これまさしく行蘊のすがたなり。

しかるに衆生の三界に流転するは、万法の幻化を知らずして、その夢幻の六塵に貪着して、十悪五逆の幻業をつくるゆえに、地獄餓鬼の幻果を受く。


わが身本より幻なれば、その心もまた幻なり。

その心すでに幻なれば、その煩悩もなまた幻なり。

煩悩本より幻なるゆえに、その悪業もみな幻なり。


悪業ことごとくげ幻なれば、三途の苦果もこれ幻なり。

三途すでに幻なれば、人間天上もまた幻なり。


三界の生死幻なれば、四生の因果も、ことごとく幻にして、一大法界のその中に、幻にあらざるものある事なし。

衆生幻業をつくりて、幻苦を受くるゆえに、諸仏幻慈をたれて幻法を説き、幻苦を救って、幻楽を与う。

これを涅槃の大楽という。


この大楽を受くる事は、その幻法を知るゆえなり。

衆生は幻法に迷うゆえに、幻業によりて幻苦を受く。

諸仏は幻法をさとるゆえに、幻苦を脱して、幻楽となす。


幻法にまよう衆生は、夢幻の生滅にばかされて、生死無常の行苦を受けて、行蘊の遷流となす。


幻法をさとる諸仏は、夢幻の生死を涅槃となして、行苦を滅して常楽にのぼる。


いかんしてか生滅の行苦をもって涅槃の常楽となすとならば、これ別に造作にあずかるにあらず。

ただ万法の遷流、生死の法を徹底夢幻と知ればなり。



【五の二十】


このゆえに円覚にいわく、幻と知ればすなわち離る。

方便をなさず、幻をはなるればすなわち覚なり。

また漸次なしと。


そのゆえいかんとなれば、三界万法すでにこれ幻なるゆえに、幻は本より生ずることなし。

すでに生ぜぬ万法なれば、いずれの時か滅する事あらん。

すでに生滅去来にあずからず、あに不生不滅の涅槃にあらずや。

すでに不生不滅の体なれば、何ぞ是非得失の沙汰あらん。


本より生死なきゆえに、涅槃というも仮の名なり。

生死にも涅槃にもあらざれば、煩悩菩提のわかちもなく、衆生諸仏のへだてもなし。


生死のわずらいは煩悩なり。

煩悩なきがゆえに菩提もなし。

煩悩もなく生死もなければ、何をか衆生と名づくべき。


衆生のさとりたるを諸仏という、本より衆生にあらざるゆえに、いまさとりて、諸仏というべき事もなし。

されば悟という事は、かくのごとく人々の、本より迷わずして、ただ本のすがたなることをたしかに見つくるをいうなり。

円覚経に始知衆生本来仏と、説かれたるこの意(こころ)なり。

本来成仏とは、本より仏という意なり。

本より衆生にあらざる故に、仏というべきようもなけれども、本より迷いの衆生にあらざることを、しいて仏と名づけたり。

このゆえに生死もなく、涅槃もなしといえども、凡夫のはかりがたき、奇妙のさとりの体、なしという事にはあらず。

69蓮恵:2018/11/28(水) 20:54:38 ID:mcxPUZkg0
円覚経に、いまだ輪廻をいでずして、円覚を弁ずれば、かの円覚もまた、輪廻に帰すといえり。

この意(こころ)はいまだその心さとらずして、その分別の心をもって、かのさとりの円覚の体を弁別し、思量すれば、かの円覚もまた輪廻となるという意なり。

真実にさとりの体にかなわんと思わば、一切の知解情識をすてて是非邪正に心をとめず、銀山鉄壁にさし向かうがごとくにして真実堅固の志をおこし、一則の話頭を提撕して、前後左右をかえりみず、寝食寒暑を忘れて、疑い来り、疑い去らば、時節因縁到来して、忽然として曠劫以来の無明の漆桶を打破せんとき、はじめて長夜の夢さめて、掌(たなごころ)を打て呵々大笑して、本来の面目をあらわし本地の風光をあきらめ、千生万劫の本意をとぐべし。

ただ大真実の心をおこさずんばこの無明をやぶりがたし。

70蓮恵:2018/11/29(木) 08:51:18 ID:wH2dj8Oo0
諸法従本来 常自寂滅相
諸法は本より来 常に自ら寂滅の相なり

世界が意味から離れるのか、
意味から世界が離れるのか

71蓮恵:2018/11/29(木) 16:33:25 ID:IHq1KMvM0
自分がそこにいるということは、
そこにいる自分を認識したのではない

本来無我なる見聞覚知というものが、
自分という観念を認識の対象としたのである

主体なき見聞覚知が我という観念にぶつかったのである

我という観念にぶつかる前の、見聞覚知はどのような色をしているのだろうか

72蓮恵:2018/12/06(木) 18:37:51 ID:IHq1KMvM0
求めなければそこが終点なのだ
動けば動くことが根底である
止まれば止まることが根底である

見聞覚知は根底である

73避難民のマジレスさん:2018/12/23(日) 13:06:03 ID:nQuOo6Uo0
人がいるのではなく、世界があるのではなく
主体があるのではなく、対象があるのではなく、
只、今があるだけ

74避難民のマジレスさん:2019/01/03(木) 20:58:11 ID:4lEhioOQ0
分別というものを休んでみれば良いのではないのだろうか
分けて考えるのを止める

認識したものを分別するのは迷いである

75蓮恵:2019/01/22(火) 23:27:36 ID:wCfwUKq.0
そのままがそのままである
色眼鏡をつけていればそのことに気が付かない

76蓮恵:2019/01/23(水) 23:02:41 ID:wCfwUKq.0
色眼鏡をはずすだけで良い

77蓮恵:2019/02/08(金) 00:59:53 ID:wCfwUKq.0
物をみるとき、自分の見解を持ち込まなければ、目に何の曇りがなければ

78蓮恵:2019/02/12(火) 19:27:06 ID:wCfwUKq.0
差を作らなければ
全てが円くおさまる

79蓮恵:2019/03/16(土) 13:59:39 ID:wCfwUKq.0
頭を使って思考を認知すると思考に振り回されるが、
呼吸とともに思考を認知すれば思考から離れられるのでは

呼吸を無理に整える必要はないが
呼吸を無視するべきではない

80蓮恵:2019/03/18(月) 22:00:29 ID:wCfwUKq.0
引用
肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。

 そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。

 実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
 人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
 それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。

 例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということも
ないじゃろう。

 自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
 自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。

 瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
 自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
 自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
 境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。

 そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
 自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。

 更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
 天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
 膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。

81蓮恵:2019/03/26(火) 17:36:02 ID:n2etsBCM0
物を動かさそうとしたとき、
対象が生じる

作為したときに、働きかける対象と
動きかたのイメージが生じる

82蓮恵:2019/03/26(火) 19:46:42 ID:1OLZ8miA0
己を守る対象と見るゆえに、己が生じる

83蓮恵:2019/04/18(木) 18:48:18 ID:YQgnoBzQ0
何者にもなりたくなかったのだと観察した

84蓮恵:2019/04/18(木) 18:57:17 ID:YQgnoBzQ0
人は己に向き合わなければならないと
感じた

85蓮恵:2019/04/22(月) 20:03:02 ID:z4mODpew0
私は勘違いしていたようである
己の人生と呼ばれるモノが存在するのではない
己の人生が存在するという解釈が存在する

86蓮恵:2019/04/30(火) 07:43:29 ID:h2jVs.sQ0
所有の意識の奥には混乱、恐怖、焦りがある

87蓮恵:2019/05/02(木) 20:11:58 ID:2hhAA/.U0
己の人生を誰かに見せようとしているのではないのだろうか
誰かを納得させるような生き方をしようという自己監視
そのような意識があるのでないか

88蓮恵:2019/05/10(金) 01:48:41 ID:wCfwUKq.0
向かうところなく、
求めることもなく、
対するところなく

悟りと迷いをくべつすることなく

89蓮恵:2019/05/23(木) 08:15:06 ID:8a.0p5BI0
正しい見方もなければ、間違った見方もない
修行とは何かを目指すことではなく、
教えとは何かに向かわせることではない
大道というものから、もとから離れたものではない
だが向かうところがあれば、気づかない

90蓮恵:2019/06/25(火) 21:05:06 ID:kIZ.CUOQ0
人が功績を残したり、能力を高めようと意図するのは己の居場所を求めるためである

91蓮恵:2019/07/06(土) 23:12:24 ID:wCfwUKq.0
幸せな生活を送る人の、
幸福を志向する裏側には悲しみがある

幸せに浸っても悲しみの根が絶えたわけではない

92蓮恵:2019/07/26(金) 12:53:12 ID:G2YtzHek0
諸法従本来 常自寂滅相

93蓮恵:2019/07/27(土) 12:21:39 ID:YiLWTEl20
個体という観念、
個というものは、物の識別の様式の一つに過ぎなかった
過去も未来もなく、
ただ六識の働くままの今がある

94蓮恵:2019/08/13(火) 00:40:36 ID:wCfwUKq.0
荘子は生を混沌と読んだ

勝手に起きていることを、自己に結びつける解釈

これが認識なのか

95蓮恵:2019/08/16(金) 18:37:07 ID:NFswMh1g0
得失の概念が時間という観念を生むのではないか

96蓮恵:2019/08/18(日) 12:57:00 ID:ge.qEPnA0
観念のない心は不動なのです

97蓮恵:2019/09/01(日) 18:04:09 ID:X3Jigpyg0
修行とは徹底した正直であることではなかろうか

ただし正直とは人の作為で作られるものではない

98蓮恵:2019/09/01(日) 21:56:59 ID:wCfwUKq.0
価値観とは架空のものです

99蓮恵:2020/09/16(水) 11:07:39 ID:kTKIx6Fo0
再開する

100蓮恵:2020/09/24(木) 19:24:05 ID:B/XSAflQ0
忘れてもいいじゃないか
省みる心を常に持ち続ける必要もない

101蓮恵:2020/09/29(火) 17:49:30 ID:2Nug0P5g0
そこにいて、いない人間になる


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