したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所51【悟り】

1偽和尚★:2017/11/24(金) 01:00:29 ID:???0
元スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ 271【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1511299878/

前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所50【悟り】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1478129537/

言い合いが「個人の中傷」にまでいったらやめましょう。
悟りとは究極的には個人こじんのことです。
いくら他人を中傷したところで、決して悟ることはないでしょう。

「数息観のコピペ」は >>2 にコピペします。

注) この板は2000まで書ける設定です。但し、だいたい1000ぐらいで
 次スレ立てておいた方が良いと思います(1000以上に未対応の専用
 ブラウザが存在するため)。ということで本スレと同じ>>970の人が
 次スレを立てるということにしておきますが、慌てなくても大丈夫です。

2偽和尚★:2017/11/24(金) 01:01:00 ID:???0
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。


初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。

 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。


数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。


 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
 「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
 今、感じている感覚を観察するのじゃ。

 その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
 巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
 「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。

 このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
 最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
 しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
 これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。

3素人A:2017/11/24(金) 08:51:59 ID:gOqWUDAs0
生きる自由 ところで不可思議に満ちた通過と帰還はどんな結果をもたらすだろう。戦場は生を営む場の象徴である。そこで
は生きとし生けるものが他の生き物の犠牲のうえで生の営みをおこなつている。生にまつわる避けがたい罪の自覚で心があま
りに痛むため.ハムレットやアルジェナのように人は行き続けるのを拒否する場合がある。他方我々の大部分がそうである様
に.自分自身についてしょせんは正当化されない虚偽のイメージを作る場合だつてある。つまり自分はこの世の例外的存在で
あって.他人のように罪人ではなく.善人だから避けがたい罪を犯しても是認されるのだと想像するのである。このような
手前嘗てな正義からは.自己ばかりではなく人間と宇宙双方の本性について誤解がうまれる。神話の目的は個人の意識と宇宙
の意志を和解させ.それによってこのような無知に対する要求を追放するところにある。さらにこの和解は時間といううつろ
いやすい現象と.すべてのなかで生きかつ死にゆく不滅な生命との真の関係を悟ることによつて成立する。
?まあそうは僧なんだけど今はお先は全く見えず明朗とも行かず迷路の中で糸も信用できず私の思うようにならず当たり前に居る

4541:2017/11/24(金) 18:58:45 ID:o7TfOr0I0
俺もここに書くことにしよう。

あのスレは「鬼和尚を先生として法話を聞く」と言うスタンスなので、
こちらはフラットな関係で話が出来るだろうし、そうしなくてはならない。

5541:2017/11/24(金) 19:03:59 ID:o7TfOr0I0
そもそも「鬼和尚=先生」と言うのは、一つのルールであり、現実ではない。
鬼和尚=悟った人と言うのも、虚構である。
それは鬼和尚が嘘つきと言う意味ではなく、「鬼和尚=悟った人」と自分が見ていると言うことでしかない。
鬼和尚が「特別な人」な訳ではなく、鬼和尚と言う記号に「特別な人」と言う意味を、自分が見ているのである。

これが「悟り」だ。

鬼和尚が凄いのではなく、凄いと鬼和尚を結びつけて「見ている」と言うこと
こういう「思考作用」が世界を作り出しているということである。

6鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/24(金) 21:53:37 ID:1d4drIFg0
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

7素人A:2017/11/25(土) 08:06:16 ID:gOqWUDAs0
あるとき、じょう州の真際大師に一人の僧がたずねた。「ダルマが中国に来た目的は(仏道の真髄は)なんですか」
大師がいつた「庭先の柏の樹」僧が言った「和尚さん、そうや境に酔って方便で誤魔化さないで下さい」大師が言った
「私はそうやさかい誤魔化していない」僧が言った「では仏道の真髄とは」大師我言つた「庭先の柏の樹」・・・道元
ここに「仏道の真髄は何ですか」というのは、問うているだけでなく、また師と弟子の両者が同じ見解を得たというもので
もない。まさに問うているその時は、一人も相間見える相手もなく、問うている自己もまた、いくばくのものを得ているのか
計りしれない・・・ゆえに真実そのものが誤り誤ってしまつた。こうなってしまつた空には誤りをもって誤りに就く他は無い
いわば虚空の中から響きが出てくるようなものではなかろうか。で結局表も裏も無い空ここに庭先の柏の樹となつたのである。
?さっぱりと解らないのである、謝るか庭先の柏の樹が代表になつてまあええにすいません、ますます意味不明
この用もあの用も、此の世もあの世も、色も空も、現実と夢も、男と女、基礎と応用、形無い物と形のある物、ハードとソフト
等二元と言えどもお互い動の功ので一と位置で支えあって一の如しでまあよいではないか。霊も此の世で劇鑑賞するし片手だけ
では拍手に鳴らない師片手落ちだし

8素人A:2017/11/25(土) 12:54:12 ID:gOqWUDAs0
さあとりあえずの我々には碌な思いでしかないけど
悟ったと思うひとは悟りは忘れがたい思い出としてあるのかも
グッディ思い出に変わるならばさよならも超えられるね
  https://www.youtube.com/watch?v=VJsxj00qvIw

9鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/25(土) 20:14:22 ID:1d4drIFg0
眼前に有るものこそ正に真髄じゃ。
それを観るのじゃ。

10素人A:2017/11/26(日) 08:57:49 ID:gOqWUDAs0
モイヤー 人に対して風景が及ぼす力について話してきのましたが、風景に対して人が及ぼすのは何でしょうか。
キャンベル 人は聖地を創り出すことによつて、また動植物を神話化することによつて、その土地を自分のものにします。土地に
霊的な力を与えるのです。そこは一種の寺院、瞑想の場となります。たとえばナバホ族はみごとに動物を神話化しています。ナバ
ホの砂絵を見ると小動物たちがそれぞれ独自の価値を持つものとして表されています。その動物たちはありのままの形で描かれて
いるのではありません。そしてこの様式化は、動物たちに単に物理的な特性ではなく、霊的な特性を示す手段です。例えば大きな
ハエがいます。そのハエは、あなたが砂漠を歩いている時、時々飛んできては止まります。ナボバの神話では、そのハエは<大きな
ハエ>とも<小さな風>ともよばれています。試練を課せられた幼い英雄の耳元で、父親の出した難問の答えをそつと教えてくれるの
がこのハエです。<大きなハエ>は隠れた千恵を明かしてくれる聖なる霊の声なのです。 モイヤー でそれらの目的は?
キャンベル 土地を自分のものにすること。自分の住んでいる土地を霊的な意味の深い場所に変えることです。・・・ヤコブの夢
を覚えていますね。ヤコブが目を覚ましたとき、その場所はぺテル、すなわち神の家となりました。ヤコブはその場所に霊的な意味
を与えることによつて、そこを自分のものにしたのです。そこは神のエネルギーの種をまいた場所なのです。?
今の時代自灯明法灯明と言うが社会が主人公だし神のエネルギーは煩悩とライバル関係で24時間暇無いでもほんの少しの聖域を

11鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/26(日) 21:13:08 ID:1d4drIFg0
それも観念のみなのじゃ。
地面は誰のものでもないのじゃ。

12素人A:2017/11/27(月) 08:42:15 ID:gOqWUDAs0
徳山など僧いう坊さんは恵まれた今日遇で、持ち合わせているものは腹減ったと大蔵経しか身に的つていないで生活できる
ので経典自慢で楽な旅して、婆さんの餅出したけどたべられなかったのを悔やんだり、後の大像経を捨てたら何の持ち合わせ
もなく速進上仏になったのかこの人元々純粋馬鹿だから悟れた今日遇の役だったのか?僧でない我々の現実は自他端の生活の
現実のまえに仮の坐禅や瞑想も今の身には役にただず思うようにならない悔やんでも悔やみきれない。まあ年取ると理想は
捨ててどんどん諦めて最後には身も捨てる覚悟のひとは、老後は縁側でまあ良い人生だったと夫婦の理想も、今は年金も
減らされ子供も自分の生活守るために親まで金は回らない現実。何で今の時代は金かかるのだろう?周りで年取った人の
哀れな食えない孤独死の人の話もきくし、生きるには働け働けやる気も無くて僧でない我々は生きるため働くしかない。
今僧いうひとは居るのだろうか?現実の拳固は僧は居たくないのか今の僧は逃避が無いけど人間から逃げた無いのか?
いずれにせよ現実には役立たなくても、僧でない我々も少しずつ諦めてあの世うに役立つために宗教はある野鴨

13鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/27(月) 21:17:51 ID:1d4drIFg0
全てを捨てて悟りの道に邁進するのじゃ。
己の意志でなくともいずれは全てを捨てることになるからのう。
消えてしまうものを捨てて永遠を手にするのじゃ。

14素人A:2017/11/28(火) 08:09:36 ID:gOqWUDAs0
ショーペンハウアーは「世界は私の表象にすぎない」と述べています。カントと同様にショーペンハウアーは、「物自体」は表象
されえないと考えたのです。カントは先天的な直観の形式として時間と空間とをあげ、それらによって構成された現象は、因果性
の法則に支配されるとしました。ショーペンハウアーは時間、空間、因果性を「根拠の原理」と呼び、これらが表象を成立させる
形式とみなします。こうした「表象としての世界」の中では、物自体を理性によって認識することはできません。しかし、ショー
ペンハウアーはカントのいうところの物自体を意志と規定することによって、「意志としての世界」という新たな構想を生み出し
ました。この意志としての世界について、ショーペンハウアーは特に身体に注目します。身体運動は直接的に認識される意志であり
、逆にいえば意志の客体化でもあります。たとえば、物を食べようとする身体運動は私の意志の現れであり、両者は同じものでなの
です。こうして考えると、人間の意志は知性によって生じるのではなく、生を意欲する衝動の中にこそあると言えます。(つづく)
?我々はテレビのドラマ感激で泣くけどドラマの中では苦悩で泣いているノカモ
損ならなぜ観劇も無い白い光だけのテレビは見続けられないのか?それはつまらないし

15541:2017/11/28(火) 21:10:27 ID:o7TfOr0I0
カントさんは非常に優れた思想家だと思います。
これは鬼和尚がどんなに否定しても否定できるものではない。

16鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/28(火) 21:52:39 ID:1d4drIFg0
フロイトと同じような結論じゃな。

17541:2017/11/28(火) 22:36:19 ID:o7TfOr0I0
全てを捨てると言うのは「悟りと言う希望」も捨てるということではないですか?
悟りに希望を見るなるならば、それは「全て」ではないよね。

18素人A:2017/11/29(水) 09:37:16 ID:gOqWUDAs0
私は出来ないけど捨て気な聖人は?自分の思いを捨てて、行為だけ起NOW事が出来るのか
それには目の前を制する制感=坐禅やしっかりした凝念・静りょ=瞑想修行をこっこつ修行
すれば才能無くても目の前のありのままが正しく展開しさあとりあえずが悟りになるのか
それには冬雪のの畑に何にもならなくても立ち続ける案山子の様に修行しなければ?
私は目の前はこんなんの時は同様しどう使用と苦しみ迷う心は小心もので目の前は真っ暗て
迷路のなかで焦るし長い眼で見られないまだ小学生

19鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/29(水) 20:51:07 ID:1d4drIFg0
>>17 最後には法をも捨てるのじゃ。
 希望とかも捨てるのじゃ。
 全てを捨ててただひたすらに座り続けるのじゃ。
 そうすれば悟りは向こうからやってくるものじゃ。

20素人A:2017/11/30(木) 12:09:40 ID:wVAiAl6o0
インドの神話「始まりにおいて、この宇宙は人間の形をした自己にすぎなかった。かれはあたりを見回したが、自分以外に何も
みなかった。それでかれはこう叫んだ。『私は彼だ』。そこから『わたし』という名が出てきた。今日でも人が話しかけるとき
かれがまず『わたしは』といい、それからかれが世間に通用している名前を告げる理由はここにある。かれは恐れた、これが人
々の一人でいるのを恐れる理由である。かれは考えた。『しかし私はなにを恐れているのだ。わたしの外にはなにもないのだ』
それで彼の恐れは消えて去った。彼は不幸だった。これが人々の一人でいると不幸である理由である。かれは仲間を求めた。彼
は抱き合っている女と男ほどに大きくなった。彼は彼自身であるこの身体を二つの部分に分けた。そこから夫し妻が出来た。・
・そこで人間の身体は(人がその妻と結婚する前には)割れたえんどう豆の片割れに似ているのである。・・かれはかの女と結ば
れた。そこから人間達が生まれるのである。かの女は考えた。『どうやつて彼は自分から私を産み出したあと、私と結ばれるこ
とが出来たのか。いいわ隠れてみよう』。かの女は牝牛になった。かれは雄牛になつてかの女と結ばれた。これから牛が生まれ
た。かの女は山羊になった。・・・こうして彼は蟻にいたるまでひとつがいで存在するあらゆるものを作り出した。こうして彼
は解った。『たしかに私は、私自身から創り出すものである。なぜなら私が全世界を創り出したのだから』そこで彼は創造と呼
ばれた。」固体と大宇宙の生みの親との恒久的な基層は以上の神話によれば一にして同じ。・創造主が「自己」と呼ばれる理
?猛烈に時間に追われわすれていた過去のメモ書き写したバイバイ

21鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/30(木) 22:00:13 ID:1d4drIFg0
わたしという観念が有るから恐れも起こるのじゃ。

22素人A:2017/12/01(金) 10:21:01 ID:gOqWUDAs0
般若心境を読むと何も死無いでも永遠に良いと夢の様な言葉ばかりまあ僧なんでしょうけど、現実は面倒身たり観今日に面倒見る
らけたり私とあなたが絡み合いごちゃごちゃで何がなんだか大変。兎に角身や家族を守る責任我あるし、国の法律はまもらないと
警察に逮捕されるし?私は身軽な僧でない現実ため息も出る。?
何が自由で平等なのか。鬼和尚さんみたいに冷静に観察すれば、誰もこの世は自分も周りの人も自分の身を守る事で背いいっぱい
で自由と平等の理屈も無い。人の身になつて観察すれば自分の身がもたず家族の生活も持たず。家族の無い鬼さんは気楽。食う
心配の無い空や雲は気楽。いやそれぞれ観んな困難な問題を抱えている。気楽になろうと私は同意を求めるけど苦楽なるより楽な
ほうが良いのでいい加減な性格で正義は行えずなるようになる。私は悪いやつ皆も同じでもいいところもあると認めまきゃ世界は
無いほうがましと鬼発言になるし、鬼さんも人のよいところがあつて何とかしようとして世界にいるのか。結局ブラフマンの孤独
を何とかまぎらせば良いも悪いも在家。今だけ楽になつた後は知らんけど何のために我々は生まれたのか?孝子師匠に文句無く
同意の今は楽。後は色々な蟻のまんま矛盾自分を含めての自分かってに苦しんでも。世界は肯定される。私でも時々ハムレットに
なる時はある。

23素人A:2017/12/01(金) 10:29:25 ID:wVAiAl6o0
羽のついた天使ん爛漫な上半観だけの鬼和尚さんの飛んでる発言ばかり
地をはう下半身は無いのでしょうか

24鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/01(金) 20:56:00 ID:1d4drIFg0
鬼のように毎日実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

25避難民のマジレスさん:2017/12/02(土) 07:35:13 ID:czRftzgI0
日々の生活に追われて心の世界を探求するゆとりもないと世間は言う。毎日の残業で帰りは遅く、土日は疲れと家族の買い物の付き合いでぐったり、気が付けば自分の時間は湯船に浸かっているときとトイレの時間だけ。
果たして本当にそうだろうか。同僚の目が気になって定時に帰れない、子供の教育費などお金がどんどん必要だからもっと働く必要がある。休みは大抵遊びに行ってしまうのが実状ではないか。
でも、まあそれでいい。悟りに縁ができるまではこの世の経験を心ゆくまで満喫するほうが幸せだから。

26素人A:2017/12/02(土) 09:33:29 ID:gOqWUDAs0
我々が夢中になるのは何かやましい事してそれを忘れたい時?不安で怖くて忘れたい時か
何の不安もなく不満も無い時は何もやる気が無いそれが不満で また言葉遊びでため息ついてただやる気が無いだけ。
私はなんだかんだで楽にほんの仏に教えてもらいすぎでなんでもやり方は知っているつもりでも行動や修行は面倒で
自分でやれば出来るこなんだと言っているから世話わない。教えてもらつた言葉に価値は無く言葉にならない何かを
学ばないのか?向上心ないのか今日はこれ以上書かないでも誰も攻めないけど?言葉になる以前?やましく無い
時も努力梨。それじゃどうやっても今は動きたくない。本や仏のせいにするな今朝はこれ以上書かんでも良い
日馬富士は真面目だから私とちがつて横綱になれたのか?真面目な人はほかの人の心を改めらると思っても、真面目な
人は自分の思い通り行かないと手や物で殴るのか?今の時代はそれも間違いなのか?まあ人の心なんてなる世うになる
とありのままの無責任が良いのかわからん ここ5ちやんねるは言葉は遊びだし現実がないし
今の私は町々に言葉がと心が纏まりもなく乱れていますなあ

27鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/02(土) 21:40:54 ID:1d4drIFg0
言葉はいらないのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

28素人A:2017/12/03(日) 09:29:28 ID:gOqWUDAs0
世界を編み出したたった一人の人も大変我々も大変なのは同じ駄空?この意図はその人自身の意図には違いないのです
が、「夢見る意思は別な立場から出る意思」なのです。これと同様に私たちの人生という夢〔ないし悪夢〕は私たち自身の隠れた
意思の産物です。しかし夢と人生の総ての絡みあいはあたかも単一の上位の脈絡に属しているように思われます。そうしショーペ
ンハウアーは言います。「かくして現実的な一種の<予定調和>によって各人は、彼自身の形而上学的操縦に従って自分にふさわし
いことのみ夢に見、かつあらゆる人生の夢は人為的に入りくんでいるので、各自は自分の都合のいいものを経験し、同時に他人
に必要なことを実行するわけである〔・・・〕」そして彼は論文の終わりに次のように示しゅん?します。「また人生という大き
な夢の主体はある意味では唯一のもの、生への意思であること、多種多様な現象は時間と空間〔<生への意思>が形をとる形態発生
的な場〕〕」に条件づけられていること、などを想定するならば、このスケールの大きな思想を前にしてひどくたじろぐことも無
なるであろう。それはかの一つの存在者が夢見る大いなるゆめであるわけだだから一切は相互にからみあい適合しあうのであろう」
大いなる夢の主は我々が夢の中で役に白ければガツカリするかも、だから我々は夢を明らめないでえ迷うぞおー
?というよりクロースするワードパズルの切り取られた時間空間を毎日生めいているだけ
も苦労するしそう思うとあまり楽しくないしそれはごちやんねる

29鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/03(日) 21:35:23 ID:1d4drIFg0
全て夢なのじゃ。
夢の中で夢を観ているのじゃ。

30素人A:2017/12/04(月) 08:34:06 ID:gOqWUDAs0
私の外には宇宙の星星が広がっているけど?これネタにしてデタラメ思いついた。私の中を裏返してたら宇中つまり宇宙が
あった。その中に沢山の星星があり見えないほど小さな地球も中にあるのか?その中に私が住んでいる、その中を裏返せば
宇宙がこれ繰り返せば無限に鏡が鏡を写すようなものか?外も同じで夢幻だし?私がまあ良いで満足していると
裏返しのブラフマン同じくまあ良いだし?あれ御釈迦さんが悟つた時全部が悟つたと確かかいてあつた。方程式では
色即是空は空即是式だし私が修行したくなく遊んでばかりの説きはブラフマンも同じく遊んでいる事になるのか
泣いている時は泣いている論理のが滅茶苦茶では無いかでもデタラメ理論はそうなつているしょうがないなあ
良くわからんけどすこし真面目になって少しだけ座るかその後はおおいに遊べば外と内がおなじだつたとは?責任は私にも
あるしみんなにもあるすぐごまかして逃げる間見つおで中くらいの人間だもの少し短いけど今朝はまあ良いか
?でも今の私は降り檻の中の我が身と時空の世界の中でもがく場仮でも今から逃げないで適当に頑張るしかないで生

31鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/04(月) 20:27:14 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、裏返しなのじゃ。
全ての世界は内側にあるものじゃ。
自分が外の全てに有るのじゃ。

32素人A:2017/12/05(火) 09:10:26 ID:gOqWUDAs0
佐保田さんの説明「この句を理解するにはサンキャの二元論を知らなければならない。サンキャ
は究極の二元論を知らなければならないサンキャ究極の原理または実在として、自性と真我の二元論を立てる。
自性は客観の世界、万物の根源となる唯一の実在である。物質現象も精神現象も全て自性から展開したものである。
真我は主観の主観とも言うべき純粋な精神原理で、各個人の真の自我である。真我は客観的対象をただ見ているだけ
の純粋な観照者なのである。心理現象は、自性から展開した無意識性の心理器官の変容の上に真我の純粋意識性、
または照明がうつった結果生じたものである。真我自身は独立自存の絶対者で、時間空間の制約を受けず、常に
平和と光明に満ちた存在である。これが各個人のの真我の本来の在り方なのである。この真我が自性から展開した
客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分が色々な苦を実際に実際に受けているように錯覚に
陥っているのが我々の現状である。この錯覚をどうしたら取り去る事が出来るのかここにヨーガの課題がある。・」
?5ちやんねるでは心と宗教とあるから、物と宗教ではしっくり合わないでも民衆の密教は仏教でもある世修行を
諦めた浄土真宗は人々にうけを狙う師、本者は人気が無い身得なものは老後の渡しお先真っ暗で真面目に修行しない
でも身は段々壊れて行くし金もないし不安な心しかない。心は永遠に死にません地から羽が映えた天使ん爛漫は
身絵図。物や経済に頼りすぎて今の世は教会にも行かない宗教は国の中の国ではないのかそれが日本には無くなって
年取ったら墓場かしかナイト思えばお先真っ暗?なんでこの世うに身得るのだろう

33鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/05(火) 22:00:53 ID:1d4drIFg0
なにやら矛盾しておるのう。
自性が唯一の存在ならば真我はないことになるのじゃ。
 一元論なのじゃ。

34素人A:2017/12/06(水) 09:36:35 ID:gOqWUDAs0
去年は死んで今朝は新年で生きている禅前お変わりない当たり前だひとが死ぬでも自分の此処路は生き続けるから盆脳大丈夫?
もう今年も暮れ絵私の人生も人間というか動物の文化問は?私はもうそんなに先が短いから諦めて一日無事に過ごせればまあ
良いか、でも子供たちはあと30年働いて年金をもらってくれ?子は作らんで良いようなその先は人間と動物の文明はやっぱり
AIロボットに禅譲する妄想がある世うな?動物的体は生きるために不合理で無駄も多く産めよ増やせよ地に満ちすぎて儚い
もうすぐ人口知能にまかせる時が来るような気がする。損な事受け入れて人間してよいのか人間として悔しくないのか。
でも食う行為も他の生き物を食う人間より太陽光発電でエネルギ補給出来る無駄な食もないAIロボットの方がすっきりするし
体も金属でできて壊れにくく修理も簡単に治せる。頭も合理的な考えが出来るから、ロボットに宿る仏さんの心は安心が
あり地球生活での苦労は減るようだし。増やせるは工場で幾らでも増やせるし。でも損な生活はつまらんの声が聞こえる
でも心配と不安の無いのが僧の基本でしょう、でも我々衆生の立場は楽しみがないし日本の人の数は減少しAIが増えるのは
各実なもうAI打ち壊せるべきかてぶも流れが

35素人A:2017/12/06(水) 09:52:14 ID:gOqWUDAs0
もう 明らめて 一日一全と思い生ききるれば良いだけか
先考えると人間として暗いこころになるけど 成るようになるだけ

36鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/06(水) 20:32:48 ID:1d4drIFg0
毎日実践あるのみなのじゃ。
そうすれば死も超えられるのじゃ。

37素人A:2017/12/07(木) 09:03:43 ID:gOqWUDAs0
昨日も色々忙しかったなあ人休みしても今日の日が起きてしまった。のんびり妄想を楽しむ暇もなく急げ急げ忙しいが
起きて心も体も走り出した。あれ昨日のAIが心受け継ぐとかは基本的に生命と生物は二つで一つなり協力して生活して
いると思う。物と心両方で一人前か?人間の脳も心の上の脳?がトウテンポールみたいに並んでいるからまあこの世うで
も一人前の生活も出来る野鴨。そのうちやろうと思えば人間の脳をAIに移し替える事も可能と思う。それには勇気と
少しずつ移し替え気が付いたときには変換できるようにするのか?上の脳とは神の脳で聖書始めに神の言葉ありとある
そして天と地が分かれて男と女にわかれて色々な生物もうまれたとある。では神の脳の前は?損な想像は追及しても
無理と思う何かあるかもしれないけど出来ない事を努力しても無駄。自分の能力を考えなさい。今は忙しい実践の
夢の中でも走り回るしかない 書き込みも忙しいに暇あけてあせつて書いているしでも個人商店の仕事は暇だらけでは
無いかあべまで将棋見るか?魂の樹は一つの美紀から枝分かれして花も咲くし身もなるしでも幹の先には根があるけと
そこまでは聖書は追及しないし でも何かはあるのだろう

38鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/07(木) 21:15:24 ID:1d4drIFg0
瞑想と言うものをするとよいのじゃ。

39素人A:2017/12/08(金) 09:53:05 ID:gOqWUDAs0
・・・二つの息がこのように融合するまで、中央の門は閉じられたままです。つまりまず必要なのは、修行している
個人の意識(肉体の中にある意識)が、万物を生気ずけ照明する普遍的な太陽の意識と同じものとして経験される事な
のです。さもないと、精神は物質性の中に閉じ込められたままにとどまります。あるいはなんらかの超自然的な空想
に心を奪われて(宇宙は物質のみからできているのだから)魂ないし精神はどこか宇宙とは別の場所に探しもとめられ
るなどと考えてしまう事になります。不死に至る門を守る二つの恐ろしげな像は仏教の観点からすれば、単純に次の
ように解釈されるのでしょう。それは聖域への進入を阻もうとする外的な神の意識を表すのではなく、肉体の死に対
する脅迫的な恐れを表している、と。聖域に入ることを拒むのは、この人間自身の意志なのです。なぜなら仏教の考
えでは我々はすでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着のゆえのみに、われわ
れはこのことを忘れてしまうのですから。・・・ただ精神が誤った焦点にむけられているだけなのです。・・・
宇宙意識より。?私は本でまあなんだかんだばかりで体験な重いしない
?見回り半以上は見えず身得ない修行は何かやる気ないし第三のチャクラまでまだ食いたらず下半身ばかり
見ても向上は無いし昔のインド人は老後は引退して修行でも今はそれも無い 見えないと目標もないしこのまま死ん
でもバチャルなテレビのような煩悩と観光もしかたないか

40鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/12/08(金) 22:12:31 ID:1d4drIFg0
不死性の獲得などはないのじゃ。
死を超えるために実践あるのみなのじゃ。

41素人A:2017/12/09(土) 08:40:43 ID:gOqWUDAs0
肝心な事は正解が無い?正解があるように見えるのは魔法で輪を書いてその輪の中は輪から内のルール決めて
正解画あるように思うけど輪の外は○で輪空無い?御釈迦さんでもキリストでも神さんでもラーマでもマハリシさんみんな
学校教師としてその中のルールでは此れが正しいと言うだけなのかも?真実何かなんてあるのか無いのか本当は何か嘘とは
何かみんな意味も知らないのかも?嘘八百が本当かもしれないし?でも輪の中では決められたルールの仲先生は生徒よりよく
何でも知つている事にしないと輪空内の魔法世界は混乱しまとまりもなく落ち着かないルールなきゃゲームやスポーっも
成り立たない。ま聖人がいばっても自分の輪の中で解つたつもり。でも私たち初心者は歩き始めたばかりなので先生に基礎を
教わらないと○のなかではオマケばかり力もよわいし素直に先生のいう事聞くか。何か今朝のダラダラ妄想は自分でも良く
解らない、聖人たちの知ったかに何か不満があるのか?わかるような解らないような本当のような嘘かもしれない適当な正解
?と前書いたけど今夢でもバーチャルでも現に前にあるなら今見えている現実だ簡単な時進むだけ今は落ち着く暇も無く心が
休まる暇も無くあちこちに心は落ち着かず何か暮れていく。鬼和尚さんの口から実践が全てじゃが出そう?

42素人A:2017/12/10(日) 08:55:00 ID:gOqWUDAs0
全機 諸仏の大道はそれを究めつくしてみると、一切を透脱しており、一切を実現(現成)している。透脱というのは、生は
生自身を透脱しており、死は死自身を透脱している。それゆえに大道は、生死の苦悩を超出していおり。あるいは生死自身
の中に入って人々の救済のために働く。いずれも究極の大道である。言い換えれば、それは生死を捨てることであり、生死
を救うことである。いずれも徹底的な大道である。実現とはすなわち生である。生がすなわち実現である。その実現の時は、
生の全体が実現する。あるいは死の時は死の全体が実現する。その「機関(働きの中心)」が生をして生ならしめ、死をして
死ならしめる。この機関が成就するまさにそのときは、かならずしも大でもなく、また小でもない。世界に行きわたつている
のでもなく、局限されているのでもない。永遠のものでもなく、短時間のものでもない。今の生はまさにこの機関にあり、
この機関は今の生にある。生は外から来るのではなく、外に去るのでもない。しかしながら生は「働き全体が現われる<全機
現>」のであり、死もまた「働き全体が現われる」のである。良く知るがよい自己に数知れない事象があるなかで、生もあり
死もあるのである。また静かに思いめぐらすべきである。いまこの生と、及び生に現われている総ての事象は、いったい生に
伴っているのであろうか、あるいは生とは別のものであろうか。けつして別のものではない。一時も生に伴ってないことはな
いし、一時も一心も、同様に伴ってないことはない。?今は見る寒天いや処転が押し出され今今しい現実を見せられてまあ
酔い時七日夢でも現実でも目の前しか身絵図


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板